忘れ得ぬ日々
堀 州 記紀
プ凝霞ーグ
髄か︑昭和二十年の四月五日だったと記憶しています︒
最大級の恩師金澤直人先生と言う立派なお方に︑私が温ね
得る機会に恵まれましたのは!︒あれから︑もう四十
年近くにもなりますが︑私から拝する限り先生は当時とち
っとも変っちゃおられません︒私は︑先生のそうした常に
新鮮で柔軟な若さと︑奥の深い思慮分別に魅了され.それ
はもう先生の全人格に傾慕万年し︑今日に至っているので
・ございます︒
チョーク一本片手愛護って
茨城大学は︑昭和二十四年度に開学したのですが︑金澤
先生は︑主として土浦教場の方におられまして︑本部へは
二十六年度にお出でになりました︒久方ぶりに先生の講義
が⁝⁝⁝と思っただけで親しみと喜びの感情が込み上げて
まいりました︒
教官室から庭を通って兵舎の教室へとやや足早に先生は
歩みます︒お顔は幾分下向き加減です︒長いオールバック
の髪の解れ毛が柔かく揺れています︒目にでも入らなけれ
ばよいのですが︒御本人はあまり気にはしない御様子です︒ 左手だけが肘の部分から前方に伸びた形で.掌に何か入っています︒愛玩用とでも言いたげに未だ角のしっかりした真新しいチョークを一本持っているのです︒チョ;クは掌の中で小動物のように動いています︒その動きと歩調とは同次元の中において何か高度な思考を引き出しているかのようにも見えるのです︒その他には一切何もお持ちにならない︒黒い短靴の踵に多少力の入る気配などして教室に現れる︒教壇の訊の前に立ち︑下向き加減のままピョコンと自ら先に頭を下げる︒その時︑下った髪の毛は首を小早に
一振りしたかと思うと元に戻っている︒しばし沈黙の後︑
先生の目の位置が天井と思しき一点にぴたりと止まる︒上
目遣いの形になるので白目がちになる︒永戸ッポにしては
珍しい程.正しい発音と抑揚は流石に書語学者である︒歌
舞伎の解説のような雰囲気を漂わせる感じの音声で︑酔い
痺れるまでの講義の幕開けとなるのです︒ ︵中略︑講義の
内容は別記ノートに記載し保存してあるが︑紙面の都合で
割愛する︶ ﹁では.今日は︑これまで︒﹂が︑講義の終り
の言葉である︒その時には.もう先生御自身の御辞儀は終
っている︒変り飴玉ぐらいになった丸いチョークを掌の中
でくるくる回し乍ら.来る時と同じようにして教官室へと
戻って行かれます︒私たちは︑講義の余韻を静かに味わい
つつ先生の後ろ姿を窓辺から追い続けるのです︒
あのチョークの引出す講義が︑魔術のようでならない︒
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余暇の善用鉄の髭剃り
金澤先生を語る時︑先生のお母様を抜きにすることはで
きないのです︒先生がお生れになってから︑今年六月の永
久の別れまで︑学生時代の四年間を除いては︑片時も離れ
離れの生活はありませんでした︒殊に︑土浦から水戸の堀
原に住まわれました頃は︑お母様はお元気そのものでござ
いました︒一日置き位にお邪魔していた私達に︑吾が子の
ような持て成しをして下さいました︒ ﹁ナオト﹂﹁ナオト﹂
を連発して菓子などをすすめられました︒いっとき御一緒
に四方山話に興じられますと何時の間にか隣室に去られる
のです︒当時独身であられた先生は︑お母様の前ではそれ
はもう紅顔の美少年といった感じでございました︒
しかし︑私達にとっては︑先生は偉大な存在だったので
す︒世間話に学問の話がちょっぴり混じった五自飯のよう
な話を︑ ﹁うん︑うん︒﹂と何でも聞いて下さるのです︒ほ
んとに聞き上手な先生なのです︒
曇る時︑私達の話を聞き乍ら︑抽き出しの中から一丁の
鋏を取り出し.顔に当て動かしているのです︒その間も.
﹁うん︑うん︒しは続いているのです︒﹁どうしたのですか︒﹂
﹁うん︑ちょっと︑剃っているんだけどね︒﹂﹁髭をですか︒
鋏でですか︒﹂﹁慣れると結構便利でね︒﹂刈るとか切るので
はなく︑完全に剃っているのです︒ドイツ製の左右移動型
電機カミソリの原型を手動で行っている感じである︒在宅 での読書の時などこの手動方式をやるのだそうです︒先生は特技というか持ち味というか︑そうした器用な一面をお持ちになっておられるのです︒ その幾つかを模倣してみたが私には総てが失敗だった︒ 箪鑑論文提出第㎝号 大学を卒業するために所謂﹁卒業論文﹂を早めることは言わば宿命的苦行である︒四年間の学習の集大成としての己れの専攻科目とか専門的研究分野の中から的を絞って主題を決定し.実験データ及び文献などを立証材料として論を起し.起承転結乃至は序破急の感じで原稿用紙の枡目を埋めていく一律=代の難事業であると当時は思った︒従って.如何に効率よく仕上げるかにまつわる工夫の方が内容描写より骨を折ることになる︒例えば︑どの先生に付けば好都合かなどの詮索である︒が︑茨城大学の場合教授陣容が整っていたのでそれは無用であった︒しかし︑結果的に私は金澤先生の御指導を頂くことになり.しかもその年は私一人ということで文字通り.金澤先生への論文提出者第
一号ということになったのです︒私は国語教育における話
しことばの研究を心掛けていましたので﹁戯曲論﹂という
変った論文を纒めるのに︑金澤先生には随分と御迷惑をお
掛けしてしまいました︒未完成の﹁完成論文﹂はそうして
出来上り︑今でもその頃の事が役立っているのです︒
先生の書斎にある﹁第一号﹂には三十年来会ってない︒
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