Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤 短期 大 學佛教 論 集 第
3
號1997
年10
月 (19
)依 他
起
性
,雑 染
,清 浄
池
田
道
浩
1
は じめ に有
史以来
思 想 ・宗教
・文学
とい っ た人 間の あ らゆ る 自 己表 現の 営み に お い て, 何 らか の テー ゼ が一貫
して継続 的
に主
張され続
けた という
こ とが も し存
在す るな らば, そ れ は ほ とん ど希
有
な出来事
では ない か と筆者
は考
えてい る。 一 人の 人 間 が 手 を替 え品 を替 え, 自分 自身の 見解 を繰 り返 し表明するこ とは珍 しくはない 。 しかし
, 人 間 を超 えた歴
史の中
で は, た とえ 同 一の 言葉
や 用語
が使
用 されて い て も,時
がたつ につ れて, 残 念 なが らその 内容
は大 き く異 なるこ との 方が多
い よう
に思わ れ るの である。三性 説は
瑜
伽行
派の代 表的思想
の一つ である。 こ の 三性 説 という見解
も瑜伽行 派の 歴史
に おい て は必ず
し も一貫 して継承
され て お らず
,変化 を遂
げて い るの で は ない か という
のが筆
者の基本的見解
であ
る。本 稿は, 三性 説の構 造 的 変化につ い て,
雑染
と清 浄 という
観 点か ら若 干考察
を行う
もの である。II
問題の 所 在以下 の 二 つ は い
ず
れ も,雑
染 と清 浄 とが獲得
さ れ る こ とを根 拠に依 他 起 性の存
在
を論証
し よう
とす
る記
述である。は 『
中
辺分別論
』,は 『顕 揚
聖
教 論 』 であ
る。artha −satvatma ・vijfiapti ・
pratibhasam
prajayate
/vijfianapa nasti casyftrthas
tad
−abhavattad
apy asat //1
,3
abhutaparikalpatva 叩 siddham asya
bhavaty
atah/
natatha
sarvvatha ’bhav
議t
/(
20
) 依 他 起 性, 雑染, 清 浄(
池田)yasman
natatha
’syabhavo
yath
亘pratibhasa
utpadyate /na ca sarvvathabhavo
bhranti
・matrasy6tptidat /kim
−artha卑
punas
tasyabhava
eva ne $yate
/yas
−mat /
tat
・k
爭ayan muktir
iSyate
//1
,4
anyatha na
bandho
na mok 爭ahprasidhyed
iti
sa卑kle
§a−vyavadanapavada −do
§a覃syat /(Madhya
’ntavibhtrga −bha
$ya
,N
agao ed .pp
.18
−
19
)対象と して有情と して我 と して識 別 と して顕現 した識が生 じ る。 しか し, そ
れ
(
識)
の[
四つ の]
対象は存 在 しない 。 それ (四つ の 対 象)が存在 しない か ら そ れ (識)も存在 しない 。 (1
,3
)そ れ故に, そ れ (識 )が虚妄分別で あ るこ と が成立す る。 なぜ な ら,
[
識 は]その ま ま であるの で はな く, まっ た く存在 し ない の で もない か らで ある。
なぜ な ら, そ れ (識)は顕現 し て い るその 通 りに は存 在 し ない か らで あ る。 ま た, (識 は)まっ た く存在し ない わけで はな く, 単な る迷 乱だけは生 じて い るか らで あ る。 では なぜ 「 それは存在 しない に他な ら ない 」 と認め ない の か。 な ぜ な ら,
そ れ
(
識)の 滅に よっ て解 脱が あ ると認め られ る。 (1
,4
) そうで ない な ら, 束縛 も無 く, 解脱 も成立 し ない で あ ろう。 即 ち, 雑 染 と清浄と を損減 する過失 となる であ ろう。 1)
prajfiapteh
sanimittatvad anyathadvayana
§atah /samkle §asy6palabdhe § ca
paratantrfistita
mata //(『顕 揚 聖 教 論 』 「成 無 生 品」 第十偈2 ))
仮設は因相 を もつ か ら, こ れ と異なっ て は二 3)が 無 い か ら , 雑染が得 ら れ るか ら, 依 他起 は存 在する と 認 め られる。
『中辺 分 別 論 』 と
『顕 揚聖
教
論』 とを比 較 す る とに は 「清浄」 の 言葉は な い が, こ こ で はあ ま り問題で は な い と思われ る。 なぜ な ら同 じく無
着
4)の 『摂大
乗 論』II
,25
に も同様
の 議 論があ
り, そこ で は 「清 浄 」 の 言 葉 も使わ れ てい るか らで ある。 も し, 顕 現 して い る通 りに存在 しない とする な ら, 依他起性は あ らゆ る場合 に存 在 しない とい うこ とに どう してな らない の か。 そ れ(
依 他起 性)が存在 しない な ら ば, 円 成 実 性は存在せ ず, 一切 が存在しない こ とに なっ て しま う 。 ど うして その よ うに な らない のか とい え ば, 依他起 性 と円成 実 性 とが 存在 しない こ と になれ ば,雑
一241
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
依 他 起 性, 雑染, 清 浄
(
池 田)
染 と清 浄 とが 存 在 し ない とい う過 失 になっ て し まうか らである 。 (21
) し か し, 雑染 と清浄 と は把 握 さ れ る。 そ れ故に, 一切 が存 在 しない の ではない 。 こ の こ とに つ い て 偈 が あ る。 依 他 起 と円成 実 と が あ らゆ る場 合 に存在 し ない の な ら ば, 雑染 と清 浄 もい か な る場 合に も存 在 しない こ と に な る5) 。
こ の
と
の
記述
は両方
とも依他起
性の 存 在 を論
証 しよう
と して い るの だ が, 私見に よれ ば, この 二つ の 記述 の 内容は大 き く異 なっ て い る と思われるの で あ る6) 。III
三 性 説の 構 造 三性 説の構 造 を判 断す る場 合, 何 よ り も重 要 なの は依 他 起 性 と円成 実 性 との 関 係で はない か と筆 者は考 える。 つ ま り 「依他
起性が どの よう
な状態の と きが円成 実 性 なの か」 という
点 を考察 す
べ きだ と思
わ れる。こ の 二つ の 記 述に は依
他
起 性 と円成実
性 との関係
につ い て 以 下の よう
な相 違が ある と筆者
は考 える。で は虚 妄 分 別の 消 滅が
解
脱である と述べ られ てい る。 『中
辺 分別
論』 で は依他
起 性は虚妄
分別
と規 定さ れ るこ とは周 知の とお りである7) 。 そ して勝義
におい て依 他 起性
は存在 し ない と述べ られ てい るの であるか ら,の三性 説は 「 依 他 起 世
俗有
説」 e), 即 ち 「依 他 起 消 滅 型 」 という
構 造 をとっ てい る と判 断される。 図示す れば以 下の よ うに なる であろ う。一
tg
・il
・i
攤
・圃
一1
空性 また, 三性 説の 用 語に置 き換 え れば以下 の よう
に な るで あろ う。世
俗
i
臟
壓
L
l
円成実
性 一240
一(
22
) 依 他起 性, 雑 染, 清 浄 (池田) 一方 ,の 『顕 揚聖 教 論 』 で あるが, 注 釈 部分 に は 三性 説 を規 定 する記述 は あ る もの の 1°), 偈の部 分に は三性 説 をは っ き りと規
定 す
る個所
は ない よう
に思
われ る。 こ こ では以下の 『摂 大 乗 論』 の 三性 説の 規 定 を参 照 した い 。 知 られ るべ き特 質は どの よ うに理解 すべ きか 。 それは簡単に い えば 三 種 類で あ り, 依他起の 特 質 と遍計所執の 特質と円 成 実の 特質 と で ある。その う ち, 依 他 起の 特質 とは何か 。 お よ そ何で あれ, ア ー ラヤ 識 を種 子 とし虚 妄 分 別に よっ て包括 され る識別 で ある。 [中略]こ れ らの 識別に よっ て 一切 の 界 と趣 と 生 と雑染 と が包 括 さ れ, 依他起 の 特質で ある虚 妄 分 別が 示 され る。これ らの 識 別の 唯識 性 は虚妄分 別によっ て包括 さ れ, お よそ何で あれ存 在 しない 迷妄の 対象が顕 現 す る基体であるもの , こ の こ と が依他 起の 特質なの であ る。
その うち, 遍計所 執の特質と は何か 。お よそ何 で あれ, 対象が 存在せ ず, ただ 識 別の み で ある に もか か わ らず, 対象 と して 顕 現 す るこ とで ある。 その うち, 円成実の 特質 とは何か。 お よそ何であれ, その 依他起の 特 質に お い て その 対象の 特質 (= 遍計所 執 性)が ま っ た く存 在 しない こ とであ る。 ( 『摂 大 乗論 』
II
,1
−4
)11〕ここ に は 『菩薩地 』 「真 実 義 品」 以 来の実 在 論 的な 「依
他
起勝義 有
説」 ’2), つ ま り「依他
起存
続 型」の 三性 説が 述べ られてい るこ とが 理解
される13》。 これ を図示す
れば以
下の よう
に なる であろう
。 遍計
所 執 性依他
起 性 世俗i
勝
義
?
T 円成 実性(
依 他 起 性)
さらに,
雑
染 と清浄 とを三性 説に配 当すれ ば,と
との相 違は より
鮮
明 であ る。では,依
他起
性で ある虚
妄分別
が存在す
る ときに雑
染が得 ら礼 虚 妄 分別
が 存在 しな
い ときに清
浄が得 られ る。 つ ま り,雑 染
な依他起性
が滅 す
る ときに清浄
が得
られ る と説かれてい る。しか し,
では, 依
他
起 性に遍計所 執性
が仮
設 さ れ てい る ときに雑 染
が得
ら礼
依他
起性に遍計
所 執 性が存 在 しない ときに清
浄が得
られる。 こ こ では,遍計所執 性
一239
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
依 他 起 性, 雑 染, 清浄
(
池田)
(
23
) が雑
染であ り, その 遍計所
執性が存
在 しない と きに清 浄が得 られるの である。表
に まとめれば以 下の よう
に なるであ
ろう
。『
中
辺 分別
論 』『聖 揚聖
教論
』鯲
依他
起 性の 存在 依他
起 性に おける遍計 所 執 性の存
在 清 浄 依他
起 性の 滅 依他
起性における遍計所執性
の 滅この よ うに, ある。 こ の 二 つ の 文献の 三性説は大 き く異 なっ て い る と
考
えら れ るの でIV
「依 他 起 世 俗
有
説」= 「依 他起消 滅 型 」 とは何か先
の記
述だけで 「依 他 起世
俗有
説」 とか 「依他
起 消 滅 型」 など と断定 する筆者
の見
解は やや 唐 突か も しれ ない 。 しか し,す
で に学会
に は 「瑜 伽 行派 で は一貫
して 依他
起性の 消 滅,依他
起 性の除遣
が説
かれた」とす
る阿理生 氏の 所 説 14) や, い わゆ る弥 勒論 書につ い て, そこ に 説 か れ る 三性 説の 内容に よっ て偈
の作者
と編纂
者 と 注釈者
とを区別
しよう
とす
る菅 原泰 典 氏の所
説15}が存 在 してい る 。筆老
自身
も「勝義
に おい て は依他
起性
は存
在せず
円 成 実性の み が存在 す
る」 とす
る チベ ッ ト仏 教 チョ ナン派
(
Jo
nangpa
)
の トゥ ル プパ(
Dol
bu
pa
Shes
rabrgyal mtshan ,
1292
−1361
)
の 見解
を紹介 した こ と が ある16〕 。 こ の 厂 依他
起性の滅・ 非 存 在」という
説の有効性
はい まも
っ て確
定 した とはい い が たい が, 瑜 伽行 派の 三 性 説の 歴 史 を考察す
る際
に は極め て重要で は ない か と筆
者は考
える。三
性説
の依他 起
性や 円成 実 性 を議 論す る と き, 抽象 的
な用語
だ け が飛び交い, そ の 厂依他起性
」 「円成
実 性」 という
言葉が具体 的
に何 を意味 して い るか が忘 れられ る場
合が あ る。 依他
起性に つ い て言
えば, かつ て 厂認 識の 基 体 」と して外
界に実在 して い た依 他 起 性が, 唯識説
の導
入に よっ て 「認 識の基 体 」だけで はな く「認 識主
体」の意
味を
も付
加される という
質 的変 化の た め, 必然的
に 「 虚 妄な認 識主
体の 消 滅」 という結末
に なっ たの ではない か と筆者
は想像
してい る。V
雑染
か ら清 浄へ の論
理構造
確か に, こ の 二 つ の記述
が示す
三性 説は 異 なっ てい るが, しか し 一方で , 雑 染か ら清浄
へ向
かう
こ とを 目的
とす
るこ の 二つ の 記 述の 「論
理構 造
」 自体
は まっ た く同 一238
一(
24
) 依 他 起 性, 雑 染, 清浄 (池 田) 一 だ と筆者
に は思われる 。その 「論理
構 造
」と は, まず何 らかの 基体[
A
]
が存在 し, その 基体に その 基体 と は別 な もの[
B
]
が存
在 す る状 態 を雑 染 とい い,ま
の 基体[
A
]
に その基体
と は別
の もの[
B
]
が存
在 しない 状態
を清 浄 という
, というも
の である。 つ まD
, 基体[
A
]
だ けが清
浄であ り, 非 基体 [
B
]
は雑
染 なの で ある。 これ を表に ま とめ れ ば以 下の よう
に な る であろ う。『
中
辺 分 別 論』『聖 揚 聖
教
論』雑
染非
基体
[
B
]
依他
起 性 遍 計 所執性
清 浄 基体 [
A
]
空性依他
起性17〕こ の よ うに, 基 体
[
A
]
と非
基体
[
B
]
と が具 体 的に何 を指 すか は異 なる もの の,雑
染か ら清
浄に向か う論理 は まっ た く同一 で は ない か と思
わ れ る。VI
結論
本 稿の
考察
は次の よう
に まとめ られ る。『中辺 分 別論 』 と 『聖 揚 聖教 論』 と に おい て, 雑 染か ら清 浄へ 移
行す
る論
理構 造
は同一 で ある が, そこ に示され る三性説
の 構 造は大 き く異なっ て い る。(
1997
年7
月10
日)
註1
)長 尾 雅 人博士 に よる和 訳 『大乗 仏典15
, 世親論 集』pp
.221
−224
参 照 。こ の個所は後に触 れ る 「依他起性の 滅 」 を説 くもの であるこ と は, 阿理生 「瑜伽行
派の 仏 道体 系の 基軸をめ ぐっ て (
1
)」 『日本 仏教 学会年報』54
,1989
,p
,33
参 照。2
)こ の 偈はBhaviveka
に よっ てMadhyamahahrdayakan
’ha
−,V
,k
.6
と して 引 用 さ れる。
Skt
.はChr
.Lindtner
,Bhavya
’s
Madyamakahrdaya
(Pariccheda
Five
)Yogacaratattvavini
§cayavatara ,The
Adyar
Libra2
」,
Bulletin
, voL
59
,1995
,p
.57
, 漢訳『顕揚 聖教論
』 は 厂仮 有 所 依 因
若 異壊二 性
雑 染 可 得 故
当知 依 他有」
大正
31
, p .558c25
,Tib
.訳はbtags
pa rgyu mtshanbcas
phyir
dang//
gzhandu
gnyis
po
medphyir
dang
//kun
nas nyon mongsdmigs
pa
’
i
phyir
//gzhan
dbang
yod
pa
nyiddu
’dod
〃 ,山口益 『仏 教 に お ける無 と有 との 対論 』
1941
年, repr .1975
年, 巻 末 チ ベ ッ ト訳校訂テ キス ト
p
.4
翻 訳は同 本 pp .136
−137
,Prain
− diPradiPa,D
. ed . 一237
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
依 他 起 性, 雑 染, 清浄 (池田) (
25
)No
.3853
,
Tsha
,242b7
・243al
,P
. ed.No
.5253
,Tsha
,304b2
−
3
,安 井広 済
『中観 思想
の 研 究』
1961
年,p
,319
.Bhaviveka
の 名称 につ い ては江 島恵教 「Bhavaviveka
/Bhavya
/Bhaviveka
」『印仏研 』
38
・2
,1990
年,pp
.846
・838
参照。3
)こ の 「二」 が何 を意 味 して い るの か, 筆 者に は わ か ら ない。こ の 偈に対する 注 釈は 「論 日, 不 応 宣 説 諸 法 唯 是 仮 有 。何以 故 。仮法 必有所 依 因 故, 非 無実物仮法 成立。 若異此 者, 無 実物 故仮亦 是 無, 即 応破壊二法。 二 法壊 故,
雑
染 之法応不可 得。 由雑染 法 現 可得 故, 当知 必 有依 他 起 自性。 」竹 村 牧 男 厂依他起 性の 存 在 論 的 性 格にっ い て一 その 有 ・無 と仮 ・実」 『南 都 仏 教』
35
,1975
年,p
.14
, 上 段, 及 び, 同 『唯 識三 性 説の 研 究 』1995
年, pp .339
−340
に も 検 討 さ れ るもの の 明確 に は さ れ てい ない。P
短 腕砂鵤4
吻 に は 説明 はない が, そ のtika
で は 厂雑 染 と清浄 」 と解釈 されて いる。
Praiha
−Pradipa
,D
.Tsha
,242b7
・243al
,P
.Tsha
,304b2
−3
,P
名吻
薙砂箔α4
躍》α一顕肱 ,D
.ed .
No
.3859
,Za
,278b5
−6
,P
. ed .No
.5259
,Za
,330b8
−
331al
,
安
井 前掲 本,p
.320
.乃 π物 肱 茲 で は 「遍計所執 性 と円成 実性との 二つ 」 と解釈 さ れて い る。
D
, ed .No
.3856
,Dza
,202a3
,P
. ed .No
.3856
,Dza
,222a6
.Tarkaiva
−
la
一で は この 偈 を心心所 と結 び 付 け て 解 釈 して い る、 前 掲 山 ロ 本,pp
.136
−137
参 照。 た だ し,Tarha
一 ノ罐 彪 とMadhyamaleahrdayaha
−riha
’の 三 性 説 に 関 す る思 想 的 落差に つ い ては
拙 稿「.
8
加 θ α3遡 ん短 〃’鹹 皰 を 引 用 す るBhaviveka
の 意 図」 『曹 洞 宗研 究員 紀要』26
,1995
年,pp
.(1
)・(18
)参 照の こ と。4
)『顕 揚 聖 教 論 』の 作者につ い て は, 偈 を無着, 注釈を世親 とする説が 宇 井伯寿 博士 に よっ て 提出されて い る。 宇井伯 寿 「三無 性 論 の研 究」 『印哲研』第六,1930
年, repr .1965
年,pp
.293
・294
,結城令 聞 『世親 唯 識の研 究』上 巻,1956
年, repr .1986
年,pp
.49
・60
。 一方 , 偈 と注 釈 ともに無 着 とす る説 も ある。 向井 亮 「 『顕揚聖教論 』と『瑜 伽 師 地 論s」『仏 教 学 』
8
,1979
年 ,pp
.52
−59
参 照 。5
)長尾雅入 『摂 大乗 論 』 巻末テ キス ト,II
,25
,和訳 はpp
.339
−360
.6
)
竹村牧男 「依他起性の 存在 論 的性格につ い て一 その 有・無と仮・実一」 『南都仏教』35
,1975
年 ,pp
.12
−15
,同 『唯 識三性 説の研究 』1995
年,pp
.337
−342
に もこ の三 っ の 記 述に関する考察
が存在 す る が, 三つ の 記述 は同列に扱わ れて い る よ うに思われ る。7
)kalpitab
paratantraS
caparini
$panna eva ca /arthad abhtttakalp 亘c ca
dvay
夐bhavac
cade
§itah
//(福α翊
y
砌 瓰加6
α.6
伽 π,1
,5
,Nagao
ed .p
.19
)「妄 想 された もの , 他に依 る もの , 完成さ れ た もの が 説かれたの は, 対象である か ら, 虚 妄な分 別で あ るか ら, 二 が存 在 し ない か らで ある。」
8
)「依他 起世俗 有説 」 「依他 起勝 義有 説」 とい う用語は筆者が 暫定的に使用 し て い る 一236
一(
26
) 依他起 性, 雑染, 清 浄 (池田〉 もの で ある。 拙稿 「依 他起 性 は実 在 す る か」 「駒 沢 大学仏 教 学 部論集』27
,1996
年,pp
.(47
)一(59
)参照 の こ と。9
)こ の 図は前 掲 拙 稿 の 「依 他 起 世 俗 有 説 」 の 図 とは 異 なっ て い る。 筆者の 図は, 唯 識 説 を前提に し ない 「基体で あ る依他起 性に対し て 遍計所執性が仮 説さ れ る」 とい う実在 論 的 な三性 説の 構 造 を示す ときに は少 なか ら ず有 効で あ ろう思わ れ る (後に 示 す 『菩 薩地 』 「真 実義品」 の 図 を参 照の こ と)。 しか し, 唯 識 説 と結びつ い た 三性 説 を表 現する場合に は, は た して 「 虚妄分別 とい う依他起性 を基体 として, そ こに 遍計所執 性が仮 説さ れ る」 という
構図は あ りえ るの か という
疑 問が生 じて くる。 外 界 実在論の場 合には依他起 性は 厂認識の 基体 とな る何 らか の事物 」 であっ たの であ る が, 唯 識説にな る と, 依他 起性 は虚妄分別 とい う 「認 識主 体」 を も含 む もの に な っ て し まい, 単純に 「基 体 」 とはい えな くなっ て しま うの で は ない か と考 えてい る。 試 行 錯 誤の 最 中で ある。 こ の 『中辺 分 別 論 」 の 三性 説は以 下の ように も考え ら れる。 対 象 虚 妄 分 別 世 俗i
勝義
十
1
空 性10
)
『顕揚 聖教
論 」 大正31
,p
.507b
,557b
.竹村牧 男 『唯識三性説 の 研 究』p
.78
−79
に扱 わ れ てい る。11
) 長 尾 雅 人 『摂大 乗 論 」 巻末テ キス ト,II
,1
・4
,和訳 は pp .272
−283
.12
)三性 説の 構造 を最 も明確に, しか も素直に表現 して い るの は 『菩薩地 』「真 実義品」の い わ ゆる 「空性の定型句」 だ と思 わ れ る。 「真実義品 」 の vastu が 三性 説の依 他起 性に該 当するこ と は論証 する まで もない であ ろう。 厂 更にまた, どの よ うに 空性 は正 し く理 解されるの か。 そこ [
A
]にそ れ [B
]が 存在 しない な ち , そ れ
[
A
]
は そ れ[B ]
に っ い て 空で ある と 正 し く観 察 し, 更に そこ に余れ る もの
[
C
]
が あ れば, そ れはこ こ に 存在 する と如実に知る。 こ の こ とが如実で あ り不 倒 顛 な 空 性に 入 るこ とだ と言わ れ る。 例えば そ れ は, 既に 説かれた よ うな, 色等 と名付け ら れ る事 物 (vastu ) [A
]に は, 「色 で ある」 云々 とい う仮 設さ れ た 言一
ユ
は存在 しない 。 そ れ 故に , その 色等 と名 付 け ちれ る事 物[
A
]
は, その 「色 で あ る」 云々 とい う仮設 さ れ た言葉を本 質 とする 一235
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 依 他 起 性, 雑 染, 清 浄 (池 田) (
27
) こ と[
B
]
につ い て空で あ る。 更に, その 色等と名
付け ら れ る事物に お い て 余 れ るもQ
±[
S2C
ユ
とは何 か 。 す なわ ち, まさに その 「色で ある 」 云々 とい う仮 設された 言 葉の一
で ある。 そ して, その 二 つ , すなわ ち, 「 た だ事 物の み が存在 してい るこ と」 と 「た だ事 物の みに 対 して た だ仮 設の み があるこ と」とを 如実に 知 る。 (
Bodhisattvabhu
’mi ,Dutt
ed.p
.32
,11
.12
−19
,Wogihara
ed.p
.47
,1
.16
−p
.48
,1
.2
)」 こ の記 述 を図 示すれば 以 下の ようにな る と思 われ る。prajhapti
[B
]
vastu [A
] 世 俗1
勝 義
?
l
i
vastu
[
A
=C
]
13
)
確か に記 述 だけか ら言え ば 『摂大乗 論』 と 「真実義品ll との 三 性 説の 構 造は似通 っ て い る。 しか し , 『摂 大 乗 論 』で は唯 識 説が採用 さ れ依 他 起 性は質的に変貌 し てい る た め, 外界実在 論を説 く 「真 実義品 」 の 論理 をその ま ま使用する とその論 理 は破綻 す る場 合が あ る。 拙 稿 「三 性 説の 構造 的 変 化 (
2
)」 『曹 洞 宗 研 究 貝 紀 要』27
,1996
年,pp
.(47
)・(62
)参 照 。14
) 阿理 生「瑜 伽 行 派の仏 道 体 系の 基 軸 を め ぐっ て (1
)」 『日本仏 教学 会年 報』54
,1989
年,pp
.29
−42
, 「同 (2
) 」 『伊原 照蓮古希 記念 論 文集』1991
年,pp
.227
−250
参 照 。 筆者は 氏の 論 旨展開に は全面的に 賛同する わ けで はない が , 「依 他 起 性の 消 滅 」とい う
発想は極め て優れ た もの だ と思わ れ る。 氏の所 説の 問 題 点につ い て は拙 稿 「三 性 説
の 構 造 的 変 化 (
1
)」 『駒 沢 大 学 大学院 仏 教 学 研 究 会 年 報』1996
年 , pp .(1
)・(15
)15
)菅原 泰 典 「初 期 唯 識 思 想に於 ける 三 性 説の 展 開 (1
)」 『東北印度学宗 教 学会論集』10
,1983
年,pp
.128
−130
洞 「弥 勒 の 原 意 と世親の 改 変」『印仏研』33
−1
,1984
年, (66
)一(68
) , 同厂初 期 唯 識 思 想 に於 ける三 性 説の 展開 (2
)−Mala
−tattva
に関し て 一」『東北印度学宗教 学 会 論集』
11
,1984
年,pp
.164
・165
,同 「 初 期 唯 識 思 想に於 け る三 性 説の 展開」『文化 』
60
−1
・2
,1985
年,pp
.37
−60
. 氏の 一連の 論 文 は 三性 説 を研 究 す る と き恐 ら く最 も重 要 な もの の 一つ で あ る。16
)前 掲拙稿 「依 他 起 性は実 在 す るか 」 『駒沢大学仏教学部論 集』27
,1996
年,pp
. (47
)一{59
)参照の こ と。 一234
一(