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智山學報 第59 - 020島村 大心「『釈摩訶衍論』における真如熏習の意味」

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(1)

NII-Electronic Library Service

釈 摩 訶 衍 論

真如熏

島 村  大  

 

O

 悟

り・

真如

らきが ない こ は、 イン ド

大乗

で は

広 く認

め られてい るが、

近年

、 〈中国仏

教学

で は用らきが

と さ れて

た よ

る。 この 場 合検 討さ るべ ーマ は 「真 如 随縁 真 如 熏 習 、 前 者につ い て は 既 に

島村

v に お い て、 元

は中

仏 教

で も 〈

真如

には用 らきが な い 〉と さ れて い た こ と を論証 した。 後 者 につ い ては 「真 如 熏習 の

   

主 と して

法蔵

に よる 理

」(以下 、『拙 論』 と略 称)と して

発 表

し た (『印仏 研』 第

58

巻 第

2

号 及び 『豊 山教 学大 会紀 要

38

号 平成

22

3

月)

本稿

後者

に関 して 、

に 『

釈 摩

論』(以 下 『)の記 述

、 そこ で の

習 主

及び

対象

と され る

真如

無為

法界

・一心〉

意 味 を以下 に解 明

る。 こ こで

結論

取 して述べ てお けば、 そ こ で の 〈

真如

無為

法界

・一 心 〉等の意 味 も、 『拙 論』 で解 明 した もの と同 じく、 染 浄二分 よ りなる 二 分依 他 性 ・如 来 蔵(島村

d

、 r に詳説。 以 下こ の 二者を意味する もの と して、単に如 来蔵 と記す)の こ とで ある。 具体 的に は、 熏 習主体(以 下 「能」 −

r

』 で は専らこ れ を論じ た)として の 意 味は 、に 『拙 論 で明 らかに した よ うに 、 〈聞 熏 習 による ・

己の

自性清浄

心へ

確信

基づい た ・

染浄

如来蔵

の もつ エ ネル ギー〉(一『信論 の 「)の こ あ り熏 習 対 象 以 下と し

味は、 〈

如 来蔵

心〉

1

.『起 信 論染 浄熏 習 に お け る真 如熏 習意 味

 

釈 論

32

633b23

以 下頁 数 、 『起信 論』 の 「染 浄 熏習」

32

578a14

以下 (以 下頁 数の み)を 「

相 生

斷絶義

と し引 用

99

) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(2)

智 山学報第五 十九輯 する。

1

1

、 『

釈論

』 の

注釈対象

る 『

起信論

』 の記

検討

する。

 

信論

染浄

  浄法

真 如

 

染 因 = 無 明 、

 

妄 心 =

識 、

  妄境界

= 六塵

578a15

17

)間 相互熏 習〉を 、 〈染 法 熏習の

3

段階 〉と 〈浄

習の

2 種

〉と して説 くが 、後 者につ い て は 『拙 論 詳 述 した1の で 、 こ こ で は前 者 を簡 単 に検 討 す る。 この 『起 信 論』 の 記 述 に言 及 して、 『

論』 (

633c3

4

)は次の 三

階と して述べ     第一段階一   無明が、  真如 (=浄法)を熏 習→   妄心 (; 業識)の 出現    第二段 階の  妄心 (;業識)が 、  無明 に熏習→   妄 境 出 現

  

第三段 階一 その  妄境界が、  妄 心 (=業識)に熏習→ 一切身心等苦を受く

 

これ らの

本稿

の テーマ の 「

真如

」 に関わる ものは第一段 階である。 こ の

階で 、

  無

明が

  真如

( = 浄

)を熏 習 する〉と、常 識 的には 「

真如

浄 法には染はない の に」

578al9

、 〈

何故

、 染

相 (

が出

現す

る必

が ある。 『起

信論

』 は その理

直接 的

には

か ない が、

筆者

は こ の

  〈

と しての

真如

浄法

)〉を、

染浄

二 分 よ り

( = 中性の こ と と理 、 その 内の染分か ら妄心 が 出現 する( = 正確 には 、 染

よ りなる

来 蔵の全 体が染へ 転 換 す島村

d

r 参 照)考 え 。 ま た、 『釈 論』 は これ と共に 「能」 の 真 如に も言 及 す るの で 、 こ こ で は

先ず

こ の 厂

真如

検討

れば、 その

意味

も 『拙 論』 で解 明 した ・如 来蔵の こ と と

えられ る。 その 理

は以 下の通 り。

 

〈真 如

A1

(この 記 号につ い て は島村

b

)に は用 らきが ない 〉こ とは、 広 く 大 乗 仏 教が 主 張 してお り、『起 信 論 自身主 張もある。 一 心 真 如 は ・ ・

変異

る こ とはない

576al2

。 1 結 論だけ述べ れ ば,〈真如 熏 習と は,  如 来 蔵による一心へ の熏 習 (=内 熏)と  応 身報 身二身に   よ る行者へ の 習 (=外 熏)を 意味し, 前 者  も最 終的には,  応身報 身二 身に よる行 者へ の熏   習に よっ て,行 者が自身の自性 清 浄 心を確 信 する 「信」 に依 拠 する,とする. (

100

(3)

NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶衍 論 にお ける真如 熏習の意味 (島村)

 

この こ と は現

学者

法蔵

・『釈 論 も認め て い る1。

 

紛 らわ しい こ とに

来蔵 を 「

自性 清 浄 心法性 記述 する こ と は如 来蔵

経 典に共通 してい る。

 

真 如

、 『起

信 論

』 の

合で も

来蔵 を意 味

るこ とは、『起 信

自身

が 「

真如

は 内に

生 を

じて

厭求令

しむ」

578b8

と 『勝

経』の

来蔵

に関 する記述を

用 して い る こ と か ら

らかで

る。 一

拙論

 

真如

つ い て は以下 のよ

に 『

釈論

』 の

各所

検討

さ れてい

1

2

釈論

』 の

  筆 者の か かる理解の是 非 を決 定 する た めに、 次 に本 稿の テ ー ・ 『起 信 論』 の染 浄 熏 習 32 −578al4 以関 す ・『

釈論

』 の 検 討 すれ ば以下の 通 りであっ て、 こ こ で も結 論 を先 取 すれ ば、   そ こ で の真

如 tathata

は用 ら

を もたず、

 

真如

」(及び同種の 記 述)と

述さ れ る もの は染 浄二 如 来 蔵を意 味 して い る、 と筆 者は考える。

 

釈 論 は こ染 浄 熏 習 を全 体 = 通論)と個 別 立場(一 個 別論) の 二 つ

明 す

634b20

匯論 

に掛か る説 明(第二 門 「名 略示 通釈 熏 習

  

一の観 点(第二 門 「立名略 示門」)

 

釈論 、 「能」の

如につ い て

 

「一

= 自性 清 浄

本 覚

藏 智

634c12

3

)・三

(= 無明 ・

識 ・

境 界

634c14

−−

5

如 是

能 く熏

634c15

6

り、

い て 1 「真 如に属 性や作 用 を説 くことは出 来ない 」 平川 211,「生 滅の 中の 本 覚 真 如(コ如 来 蔵を指   す ;筆 者 )なるが 故に熏の義 有 り,真 如 門の 中には即 ち 此の義 (躍 熏の 用らき)無 し 」(= 『義 記   に よ る 「染 浄 熏習 にる注 釈」 大正 270b12〜4.詳 し く は 近 く 高 野 山 出 版 社 よ り発刊する   『』 現 代 語 訳参照.『釈 論 真 如門 を 十側 面 か ら説 明 す不 動 門   同604a24に 「作 業れ た る がに 」 と記 す 等箇 所巻 595c , 第四巻623c)で同 趣旨を   記 述 する一 r拙 論』 及び島村u352 頁  ,343頁  ,参照 ). (

101

) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(4)

智山学報第五九輯

 

「一

に は

皆悉

く熏 習 之

634c17

8

記す

。 こ の

 

「 一 切の

染 法

」 に、 直

に記述 された 「

( 一 自性 清浄 本覚藏 智)」 が

まれ るか

か は、 こ こ で の 記 述か らは不 明

で あ るが、 文 脈か ら は含め られ る と読む こ と は可 能であ り、逆にそれ を真 如

Al

と理 解 した の で は、 『釈 論』 自身の主張である ・無 作 用 真 如

A1

、 に熏 習 作用 」 をみ とめ る とい う矛 盾 (前 頁注

1

参 照)に陥る こ とになる。 従 っ て 、 こ こで の

 

」 は、

そ れ が

概念化

し た 「

浄法

」 a2 =

染法

B

(一俗 諦 個 物は当然の こ となが ら用らきがある)である と理解 すべ である。

    第

二 の観 点 (第三 門 「通釈熏 習

 

この こ と は 、こ こ で の 説 明 におい て一層明

になる。 即ち 『起 信 論』 の 「真 如 淨法 一仏眼 に現 し 事 態 て は染 無き (= 染 も真如 ・浄 と なっ てい る一第二真理命題 島村 d 附

照)も、但、〔未 覚 者が コ無明 を以て [所 熏の真如に ]熏習する ときは らに則 ち染相有り。 無明 ・染法に も實に は (一覚 者に実現して い る無明明 ・空な る事態におい て は )淨業無 きも、 但、 [未覚者が 能熏の]真如を以 て熏習する ときは、 故ら に則ち淨用有り」

578al9

21

との記 述は 「 真 如 言 及 した もの で 、 『釈論』 は、 これ を 「

如是

、 染 と

( =

真如)

とは

、 是れ假 立 な

非ず

非ず

是れ

幻化

な り。

の自性 無 し」

635a6

7

説明

して

熏習

の 「

と して の

真如

は、 両

ともに 「假 立 ・

幻化

に記 述 してい る。 思 うに、

覚者

現 してい る

真如

Al

と は 〈

と し て、

相 ・一相と して顕 現 してい る

事態

〉( = 空)なの で あ っ て (島村 L)、 こ れ に対 し、 〈真如 と染が分 離 され 、両 者が対立 する もの と して理 解 され て い る〉と こ ろの

は、 概 念 と して の 俗 諦の

如 a2 なの で あるか らで ある。 こ こ で は、

の こ とが 分 か る。

  

第一 にこ こ に記 述 されてい る ・「

真如

立 ・

幻化

一 用 らきを

  

もつ 俗 諦)る か ら 、 これ を無 明が熏 習

れば染 相が生

る こと。 (

102

(5)

NII-Electronic Library Service       『釈 摩訶衍 論 に お ける真如 熏習の意 味 (島村 )

二 に 「無 明 ・染

に も

には (一

者に実 現 して る無 明即 明 ・

な る

態 にお い

淨業

= 〈無 明即 明 ・空 な

態 ・「能 の 真 如

tathata

には用ら きが無い と明言さ れて い る こ と。 第三 に 「未 覚者 真如 を以熏 習 す と き は

らに則ち淨 用 有 り」 との 記 述の 「[未 覚 者の]真 如」 とは tathata で は な く、  染 浄 二

如 来蔵

の こ と、

 

体 的

に は 『

拙論

』 に

述 した

聞熏習

によ る

己の

自性清浄

心へ の

確信

に基づい た ・

染浄

如来蔵

の もつ エ ネル ギー〉(= 『

起信論

』 の

内熏

)の こと 、 と

考 え

れ ば、

全体

が理

で きる こ と。

  

 

この こ とは、更に第四 門 「分剖 散

に おい て 、次の

 

 

点か ら説か れ る。

 

第一の観 点(「黒 品相熏有力總答門))

 

こ こで の 『

釈論

ち 『起

信論

』 の

述   [「真 如法る を 以っ て の故に無明有り1 (= 無明 は真如を根拠とする)

578a22

を、 『釈 論』 は 「真 如 之性は ・ ・障礙 (一 染)及無 障礙 (= 浄) 中に於

めに歸依 (= 依 処)と作っ て、

礙 無 きが

635a25

27

とし、

い て 「

無明

は 自

已 れ ば、

氣力殊

勝に して

功 能 自在

な れ ば、

く[「所」 の]

真如

じ妄法と作さ しむ」

635a28

9

と解 釈す る。 こ の 理解 には 、 通論

 

第二 の観 点の 厂通 釈 熏習」 が文

通 り 「通 釈」 なの だ か ら、 そ こで の 〈「」 の

真如

も假 立

幻 化

俗 諦

a2

解釈

が こ こ にも

用さ れ る

で あ り、

っ てこ こで の 「

真如

」 も

俗諦

a2 で 、 しか も上記の よ

に、 〈

明の

拠であ り、 染 と浄の 両 者の

処1 で もある〉 (= 『不増不減経』 で は如来蔵を指す) だか ら 、 こ こで の 厂

」 の

真如

俗諦

1 平川 215はこ の意 味を単に 「無 明 ・・独 存 する こ は で きず真 如依 存存 在る 」   と してい る だ けで,そ れ 以 上の踏み込ん だ解 釈までは示 してい ない .       (

103

) N工工一Eleottomo  Llbrary  

(6)

  智 山学報 第五十九輯 なる ・ 染 浄二 分 如 来蔵

B

>と理 解 する こ とは可

  第

二 の観 点 (「相熏有力問總の 「始 覚 自然 熏))

 

信 論 の  

1

真如法有る を 以 て の 、 能 く無明に熏習 す。」

578b7

を 『釈 論 こ こ に引 用 い るが、 この 「

」 の

真如法

も上

と同

」 と理

され、 その

意 味

につ い て は、 『

拙論

』 に

述 した よ

に、    「如 来蔵に よ る熏 習」 とは、『起信 論』 自体の 説明で は 〈聞熏習 に よ る自己の 自性    清 浄心へ 確信づ い ・染 浄如来 蔵 無 明熏習 す    る こ と〉(=『起 信論』 の内熏 と理解さ れるが、 『釈 論』 自身は、 これ を 「無始 自然熏」

635c

と規 定 して、 「

十種

真智

及び十

如實

とが有る を以て の

に、 能 く十

の枝 末無 明を熏 じ、 一 法界 心有 を以て の 、 能 く根 本 無明 を

習 する が

に、 是れ を本 地 と名つ く」

636al

2

と記 すの み で 、 この 「如

(= 真 如) 」 が如 来 蔵 を意 味す るこ とを覗わせ る直

接 的

記述 はこ こ には ない 。 『

信 論』

自身

に前 記の記 述が有る か らであ ろ う。 一 方、 「

無始 自

然 熏」 に続 く・修 力に よ る 「始 有

635c

で は 、

r

信論

』 の  

1

真 如法が有るを以て の故に、能 く無明 を熏 習す。」

578b7

の 意

を 『

釈論

は、 「

十信

未得

本熏

習之力 ( =

然 熏一早川 103)を以 っ て の

に、 則 ち、 自心の 中に生死

い 、 涅盤の樂 を

む」

636a5

−−

7

の こ と と

述 して、 『

勝鬘経

』 を

用 して ( 一 自心 生死 苦 を厭、涅盤 樂を求む)、 こ の 「能」 と して の

真 如

が如 来 蔵である こ とを示 唆 して い る。 続い て 『釈 論 に は 1 『滅経如 来 蔵 未 来 際 平等 恒有 法 者即 是切 諸法 根 本 16467c も 同 趣一   島村 r参照.       (

104

(7)

NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶 衍論 における真如熏 習の 意味 (島村) 「 力 (一 聞に基づ く

来蔵 力 )を以 っ ての 故 に即 ち真 如 性 を熏 習

636a7

とあるが、 こ の 「

」 た る

如性

は染 浄二分の

如来蔵

の淨 分の こと と理解 さ れる。     尚今は傍 論で あるが、これに続 く 「久遠 自 り熏 習 するが 故に、解 脱道 (= 仏 果 )を發 して、無     明は頓に斷 ず」636a12〜3との記述1は、く聞 熏 習が久 遠で ある こ と)、即 ち r法 華 経』 と同     じく<報 身応 身仏が久遠 成 仏してい る こと〉を前 提に し てい る点が注目 さ れ る。

  第

三 の観 点(「白品相 熏有力歸 總作別散 説))

 

起 信 論』 の妄 染 熏 習 門 意 識 (= 業 識 )に よる熏 」(

1

1

二段階) を 『

』 は

説明

して

本 覺智 分を 以 意 識 無 明 癡分 を熏 、 生死 の

を厭 い 涅 盤樂 を 欣漸 漸

636a24

bl

とこ こ で も 『

を引用 い る (一 「涅盤の樂 を欣い 」)の で 、 『拙 論』 に

い た よ

に、 「

」 の

( 一 悟 り・ 真 如)なる 「本覺 の智 分 」 は 上

記  第

二 の観

の こ とであることが分 かる。 続 く 『起信 論』 の 「

妄染熏

習 門」 の

那 識 よ る

1

1

段 階

釈論

明 して、 「

清 淨

を以っ て

汚 分を熏じて、 無上

提 道に證 入 する が

に、

菩 薩

が 無 明 を斷 ずる に

し きを以っ て の

に 」

636b6

7

る が 、 』 これ は 『

信論

諸菩

發 心

に し 涅盤 くが故 に 」

578bl8

の こ と と

636b8

か ら、 こ こ の 「

」 たる 「

浄 ・ 」 は 『

信論

』 の

諸菩

發心 相 当 具体 的に は拙 論

1 『起 信 論 の 「種 種方 便起隨 順 行 不 取 不 念.乃 至久遠熏 習 力故 無 明則 滅.以無 明 滅故 心 無 有起」   578bユ1〜3に相 当.        (

105

) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(8)

 智 山学報第五十九輯 した 〈

聞熏習

に よる 自己の 自性 清 浄 心

基づ い た ・染 浄二 如 来

の ・エ ネギ ー

= 「内熏の こ と とい っ て 良い であろう。   第四 の観 点〔「白品相熏有 力歸總作 別散説 門)の 「浄耄去熏 習 門

 

拙 論 詳 説 信論』 の

体 相 熏 習 と用

578b19

20

 

釈 論』 は

身 自

習 (

内熏

)と

応化 常恒熏 習 (

外熏)

636bl4

5

換 言

し 、 こ の 「

法 身

本 覚

性 智

636bl5

と し、応 化」 を 「如 是 本

636b18

9

え るが

 

こ の 内の 「 と し の 「本 覚 性 智」 は、『拙 論』 に詳 述 した もの と全 同 で あっ て、 染 浄二分の

来 蔵、

体 的には く聞 熏 習に よる

己の

自性清 浄

心 へ

確 信

基 づ い た ・染浄二

来 蔵の ・エ ネル ギー)(= 内 熏)の こ とで

る。

   第

五 の

観点

(「

説 開通 門」 の總標軌則決定一 譬喩説 火喩))

 

釈論

』 は本 覺 般

は ・ ・

染法

熏習

て盡 滅に至ら し む が故な り。 [染

本覺

般 若の]熏を

けて 匚

廻に]流

轉す

る が故 に」

638b4

5

と記 述 する。 こ の 「

本覺 般若

」 は 「

」 の

本覚

であるが、 その

意味

は、 『

論』 が続い て 「無 明藏 中

隱 沒す

6

とあるか ら染 浄二

如来蔵

の こ とであるこ とが分かる。

 

この こ とは次の こ とか ら も

か め られ る

  

  「

總標 軌則 決定

開 合 説 の 「縁 闕單 因

無 力

で、 この 「

覺 般

  

」 が 「

藏 中

如來

638b28

と換 言 されて い る こ と

  

  

先の 記 述は、『起信 論』 の

習 す

力有

る と雖 も

し諸

  

菩薩 ・善 知識 等に遇て之を 以て縁 と な さずんば、

く自ら煩

を斷 じて       (106)

(9)

NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶衍 論 における真如熏 習の味 (島村)

  

に入る こ と則 ち是の

きが

な り一雖 有正 因熏習 之力。若不 遇諸 佛菩 薩

  

善知識等以 之為縁、 能自斷煩惱入涅 槃 者。 則 無 是 處 故 」

578c6

8

との記 述に

相 当

  

る とされ る

638cl

−・

3

か ら、 こ の 「正

因熏

習 之

真如

用 ・

  

真 如の内 熏一平 川226.r拙論』 参 照)も 「本覺 般

染 浄

如来

蔵)の    こ と であると、『釈論』 は解釈 してい る こ とが分か る。

   

同 「

因闕單

無力 門

、 「

心 中

本覺

なる

佛性 無 け

れ ば、

  終

得ず

638c6

7

と され、 こ こ で は 「

覺 なる

性」 と換 言 さ

  

れてい る。 こ れ は、 『起

信論

』 の

続 く

しは

外縁

力有

る と雖 も、 而

  

か も

淨法

に して

熏習力

んば、 亦、

究竟

して生死の 苦 を    厭い 涅槃 を樂 求 する こ と能わ ざ らん一若 雖 有 外 縁之力。 而 内 淨 法未 有 熏 習 力者。

  

亦不能究竟厭生 死苦樂求涅槃 」

578c8

・−

10

るとされてお り、 こ

  

こ では 『勝 鬘経 引用 さ れい る か ら、 上記 『

拙論

』 で

検討

した よ

  

に 「

覺 なる佛

」 は染

二 分の

如来蔵

意味

であるこ とが

か め ら れ    る。

  

  同 「因縁 具 足 圓成 門 、 「内の 中に本 覺

之佛

り。

の中に

修行

  

之 功

具す

れば、 ・ ・萬 徳 之 果 を

滿

し三智

行 し四徳

べ 開 く ( =

  

638c11

−−

3

述 さ れ、 こ こで は 「

本覺般 若

」が 「

本覺

性」

  

換言

され、 これは 『起

信論

』 の 「

とを

足せ ば、

所謂

  

熏習

力有 り

諸佛

菩薩等

  能

厭苦

之心 を

こ し、

涅槃有

るを

じて

善根

習せ ん。

善根

修す

  

るこ と成

熟す

るを以て の

に、

諸佛

菩薩

利喜

し、

  

乃ち

く進みて

涅槃

の 道に

趣向

せ ん 一 若因 縁 具 足 者。 所 謂自有熏習之力。 又 為諸    佛菩薩等 慈悲 願護 故。 能起厭 苦之 心。 信 有 涅槃修 習 善根。 以修 善 根 成 熟 故。 則 値 諸 佛菩 薩示

  

教 利 喜。 乃能 進 趣。 向 涅 槃 道 」

578clO

14

に相 当 する と さ れ こ こで も 『勝

  鬘経

』 が

引用

されて い る か ら、 『

拙論

』 で

検討

した よ

に 「

本覺

なる

  

性」= 「自

有熏習

」(真如の熏習力が力を 現 し てい る こ と川 229)は

染浄

  

如 来 蔵

で あ るこ とが

か め られ る。

 

第六の 観 点 (「擧縁 廣説 開通 相 散示

638c18

107

) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(10)

 智山学報第五 十 九輯

F

『」 

639b26

 

こ こ で は、 『

起信論

』 を

引用

し 一

部用語

換言す

るだ

で、 『釈 論』

自身

見解

は全 く示されてい い 。 即 ち 『起信 論』 の

   

〈「用 熏習 578c15 − 「大 悲 熏 習

578c21

− 「自然 熏 習

578c27

> に相 当 す     もの と して

 

r

論』 は 「

慈悲

639a26

と換 言 し、 『起信 論』 の     「 、 法 力(一 「能」)に依るの み に して、 自然 に修行し、 真如(= 「所」)に熏習

  

して、 無明 を滅す 一唯 依 法 力 、 自然 修 行。 熏 習 真 如、 滅無明 」

579a6

の 「唯依法力( =

  

[「る ]真 如のカー平 川 236)」

 

を 『

論』 は

 

唯本熏力

639b22

え、 『

起信論

』 の こ こ の 「

熏習真如

」 を 『

釈論

』 は 「

増長真如 (

= 「

」 なる

如 )」

639b23

と言い

えてい る だ け で あ る が、 第四 門 「分 剖 散 説 門」 全体の記 述か ら判 断 すれ ば、 こ れ らの 「

」 の

真如

も染 浄二分の 如 来蔵の こ と と解

すべ き である と

えられ る。

 

以 上で

1

2

釈 論 ・ 『起 信

』 の

染 浄熏 習

578al4

以下 に

する ・

解釈

検討

た 。

に、 これ以

の ・『

釈論

及 す

真如

熏 習」 を検 討 する。

2

.「

染浄熏

の記 述に お ける真如 熏 習の意

 

こ こで は、

1

2

起 信 論』 の染 浄

る ・

』 の記 述以外 に、 『

釈論

』 が

無明

真如

法 界心

習 す

熏習 対

である ・

真如等

意味

る。 結 論 を

先取

すれ ば、 こ こ で、 以 下の九

に分類さ れた真 如 等 も、全て染 浄二 よ りな る二

分依

他 性 ・如 来

      (

108

(11)

NII-Electronic Library Service 『摩訶』 にお ける真 如熏習の意 味 (島村) の の染 分の意 味であると考え られる。

 

 

釈論 は 、第二巻 後 半の 記述で、 無 明の

習 対 象 と して五

種類

挙げ

る。

ち 一

法界

心と 四

無為

(真如 無為・本覚無為 ・始 覚 無 為 ・虚 空無 為)である (こ この

能熏

所熏

表す

真妄和合

の阿

耶 識の下転 門に相

する

610a

)。

  

  先 ずこ こ での 「所」 なる一

検討

する。 一

法界

有為

  

と無

の 二種の 側 面がある と され るが 、 こ こ に云 う有為 自

と は、

  

界 心が

有為法

止 と な る

面 (= 有

為法

基 盤 ・能 為 有 為 法 而作 依 止

  

610b7

で あ り、 無

とは無

法の 依 止 となる側 面 (能 為 無 為 法 而 作 依 止

  

610b8)で ある。 『

釈論

』 におい て、

無 明

熏習対象

るの は、 この

  

の 有

自在 (= 有 為 法 基盤)であ て 、 も う 一 側 面

無為 自在

  

(=

無為法

真如

基 盤 )を熏 習

る こ とは出来な と され る (= 淨 分 ・

   真如

Al

と は く諸法の あ り方〉とい う極 端な抽

概 念であるか ら一 島村 g 付

  

属 資 料一 不

と さ れ、

象に は な ら ない の で あ る)。 以 上の こと か ら、

  

自在 と無為 自在の 二種の側 面を

つ 「 な る一

界心 と は、 染 浄

  

な る

来蔵を意

してい る こ とが わ かる。 つ まり、

明は

染 浄

  

な る

来 蔵の内の染 分 を

習 するの である。   次に第二 の熏 習 対 象で ある 四無 為(真 如無為・本覚無 為 ・始覚 無為 ・虚 空 無為)を検 討 する (こ れ は難 解であっ て、筆 者は充 分な 理解に至っ てい ない の で、 以 下に 当 面の暫 定 的 な理 解を示 す。諸 賢の教 示を請 う)。 先 ず 注 目すべ き は [無 明の熏 習 に

応 して

発現す

る]・四

無為

真如

(残 りの 本 覚 無 為始 覚無 為 ・ 虚空無為につ い て も同様である か ら、 以 下 こ れ を代表さ せて 述べ る〉の ・

ら き を 「

 

  「 ら き

応 す

無 明 用 らと し 、 無明 は  「 四無為熏 習

 

  「」 の 対 応 す ら き と し 、 無 明は熏習出来ない と (

109

) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(12)

智 山学報第五十九輯    し て い る点で ある (「根 本 無 明初 (署 通)作 用依 り能 く熏 事 を作 す 。 後 (一別 )     の作 用に非 ず」 6ユOb8〜9)。

   

」 の

無為

真 如

A1

に は 用 ら き が ない こと は 、

乗 仏

  A1

特 色であるが (島村

L

)、 『

合 も同

1 で 。 そ れ

  

こ こ の

真如

無為

◎ 〈

」 の

対応

無明

」 の

  

四無

習で き ない と して い る こ と は、 [

明 の

習に

立する]

  

真如

の 「別」 の用 ら き〉に は、 〈用ら きが ない 〉との

味で あっ て 、 こ

  

こ の く

如 ・

無為

〉は〈概

と して の 浄 ・

真如

a2>の

味と見て よい

  

真 如

無為

  〈

」 の

ら き〉に

場合

は、

無 明

  

の 四無

習で きる と し、 「能 く彼= 四無為)を引い て、 自體 に合 して相い 捨 離せ ず して、 [現

象界

と して、無 明は四無

と]倶行 し

轉 す」(

610b24

・−

25

) とあるか ら、『釈 論 は 〈無 明の 熏 習対

である四無 為 (真如無為 ・本覚 無為 ・始 覚 無為 ・虚空 無為)

を 、 〈

と浄 と か ら成る もの 〉と規

して い るこ と にな り こ れ は

りも直 さず、

染浄

二分よ り

如来蔵

意味

し、

熏習

結果

無 明と合 し・倶行 ・

轉 する も は 、 その

如来

蔵の

の 染分と

えら れる。

 

釈 論』 は

で、 阿梨

識 を十

類 して説 明する が、 その

ちの

四 「染 浄 本

阿梨 耶識 説 明 し 、 「不 守 自性 陀羅 尼=これ は 以 下の解 明に より判 明 するの だ が、 染浄二分 よ り な る如 来 蔵の内の ・全体が染 分と なる可能 体とし て の 「 の こ亦 復 、 如 是。 能 く 一切 無 量 無 邊 煩 惱 染 法 鬼 神 衆 (= 煩 悩 染 法 ・無 明)の熏 を

けて 、 相 1 無 為寂 滅 智」 を 「一切の動 ・作 業 を遠 離す」 大正 32−595c と し,真 如 門を十の 側 面か ら説 明   するうちの四 「 604a作 業る がに 」 し て無 明   五 「空 な る= 真如,島村g参照 )を 「體と用が無く則 ち 空な り.譬 え ば兔 角の無 きが如   し」同 6Z3cと記 述 す る,                 (

110

(13)

NII-Electronic Library Service 『摩 訶衍論』 に真如 熏 習 意 味 (島村)捨 離せず して倶に轉 ずる が故に」

612c20

−−

22

と記 し、 こ の意 味は 『起信 論』 の

  

自性 清 淨心因 り 動ず き、心 無 明と は形 相無 い 捨   離せず一自性 清 淨 心。因無 明風 動。心 與 無明。倶無形 相 不 相 捨離576cl3〜15」 の こ と とする

612c25

−−

6

.。 即 ち、こ の 「不守自性 陀羅尼 智」 は、『起 信論』 の 「所」 なる 「自性 清 淨心」 に 相 当し、そ れ は 「無 明 て 」 、無 明と互 れ な と さ れ 、 又、「隨他

612c8

、 「隨 轉覺智」

612c23

とも換 言さ れる。 この こ と か ら分 かる と お り、無 明の熏習対象なる四 「染浄本覚阿 梨耶 識 起信 論』 の 「自性 清 淨= 如来 蔵) こ と あ り 、 「不守 自性」 と は〈その染 浄二 分 の 如 来蔵の 内の 淨分 (= 自性)を守 ら な ・保 持し な こ と あ り 、 〈染 浄二 分の 内の他[性]= 染分〉に隨 っ て、 〈現 象界として 、縁 起 し転 ずる心 (= 智)〉あ るこ とが わ か る。 従っ て、 こ の第四 「染 浄本覚 阿梨耶識」・「自性清 淨心」 と は染浄二 分の如 来蔵の こ と と理解さ れる。

 

釈 論』 は 巻 冒 、 二

の 真 如 (清浄真如と染 浄真 如)

614a

を説 明 する。

  

  その 内の 染 浄

真如

につ き、 『

論』 は 「

て 染

淨真如

為す

や。 二

淨覺 (染浄始 覚と染 浄 本覚)の 所證 の

真如

は、 熏 を離れず 一云 何 名 為 染 淨 真 如 。 二種 染淨 覺 所 證真如。 不離 熏 故」

614a3

と記 述 する。 この 「染 浄

真 如

」 は拙 論 「『釈 論』 の 四覚 ・二真 如 ・二 虚 空 につ い て 」r豊 山 教 学 大会 紀 要』第36号 で

しく

論証

した よ

に、 厂

」 な る染 浄二 分 の

来蔵の こ とで、 〈「

所証

真如

」が 「

を離れ ない 」〉と は、

染浄

如 来蔵

染分

無明

熏習

ける こ と〉で ある こ とが (111) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(14)

智 山学報第五十 九輯 わ か る。  

、 こ れ と

せ て 以下 の ・無 明 熏 習

な る

真如

、 「

本覺」(ニ「づけて染 淨 本 覺と為 すや。自性 淨心は無 明の熏を受 けて生 死に 流 轉 して 絶無きが故 に一云 何 名為染 淨 本 覺。自性 淨 心受 無明熏。 流 轉生死 無 斷 絶 故」 6ユ3c21)、 「染

始 覺」( 一 「云何が名づ けて染淨 始 覺と為すや。始 覺の 般 若は無 明の 熏を 受 けて離る る こと 能 わ ざる が故に一云何 名 為 染 淨 始 覺。 始 覺 般 若 受 無 明 熏 不 能 離故」 613・25) 及び 「清 淨

覺の

自性 (= 清 浄)を 守 らざるが

に、

く染 熏 を受 く一清 淨 始 覺智 不 守 自 性 故 而 能受 染 熏 故 名 染 淨 覺」 614b27、 「清 淨

始覺 (

浄二分 依他 性 )は[その 淨分の

観点

か ら

えばコ惑 時は無い と雖 も、 [

染分

点か ら言 えばコ自性 ( = 清 浄)を

らざる が故に 、能 く染 熏 を

けて 隨縁 ・流

轉す

一清淨始 覺 雖無 惑 時。 而不守 自性 故。 能 受染熏隨 縁 流 轉 以 此義 故。 是 故 名 為 染 淨 始 覺」614b29 〜614・1、 「清

淨真

如の 理 は、

性 ( =

清浄

)を

らざる が

に、 能 く染熏を

く 一清 淨 真如

 

守 自

 

而 能 受 染 熏

 

名 染 淨 真 如」614・20 「虚 空の 性は、 自性 (= 清 浄 分 )を守 らざる が故に、能 く染

く一清淨虚 空 理 不守 自性 故 而 能 受 染 熏 名 染 淨虚 空」615a14、 「清

虚 空 は 十徳を具 足 す。

、 〔その

分の 観 点か ら言え ば ]無染 相、 亦た無 淨相 な

り(

平等

無 相 なる空の 公 理 )

か も虚空

は [その染 分の

観 点

か ら

え ば]

自性

(= 清 浄 )を守らざる が

に 、

染熏

けて 隨 縁 ・流 轉 す一 清 淨 虚 空具足 十徳。 亦 無染相亦 無淨相。 而虚 空 性不守 自性 故。 能 受 染 熏 隨縁流轉。 是 故 名 為 染 淨 虚 空」 615a16、 「本覺

般 若

が 自性 ( 一清 浄) ら ざ

く染

けて

の 諸染

を して

止 するを

しむれ ば即 ち、是れ本覺 離

一本 覺 般 若 不 守 自性 故。 善受染 熏彼諸染 法令 得 住 止。即 是 本 覺 離 性之義」615c27、       い  ま 「

般 若

自性

= 清 浄)を守らざる が

に 、 諸 染

に依っ て如 今 方に

こっ て

の染

(= 染熏 習 )を被るは即 ち、 是れ 「

始覺離性

之 義」 な り 一始覺 般 若 不 守 自性 故 。 依諸 染法 如 今方起 被 彼 染 誑。 即 是 始 覺 離 性之義」 615c29〜616a1)

述さ れ る意 味は全て、 熏習 対 象が染 浄二分の 如 来 蔵の 染 分の

意味

である こ と を、 『拙

』 に おい て詳 述 した。 (

112

(15)

NII-Electronic Library Service       『釈 縻訶 衍論 に お 真如熏 習 意味 (島村)

  

釈 論

616c2

で、 〈染におい て は 生住 異 滅の相が 一 時 に

倶有

され るこ と〉を、

の よ

に説 明する。 「

根本無 明

心 を

熏ず

な り。 此 の

の中に

い ては [

染浄

如来蔵

の全

となっ て しまい]具 さに [現

界の 個 物の]四相 (= 生住 異 滅 相)を起 す 。 [この

態は]、 一

切諸法

真 實 之性 (真如 )は [一切 法 に]周遍 して い るこ と(= 〈

如 と は一切

の 真 実が仏へ 顕 現 て い こ と〉

存在論

述)を不

な る ・

態コであっ て

於恒沙

煩惱

立 して

 

染浄

二分の

如来

淨分

で ある]

自性 淨

心を

隱覆

して し まい 、 [本

如 世 界に 早川 47] 還 原

る 日が

い 一此中一時 當 何 時 耶。 根 本無 明 熏真 心 時。 於 此 時 中具 起四相。 不 知不覺 一 切 諸 法 真 實 之性 周 遍。 建立過 於 恒 沙無 量 煩 惱。 而能 隱 覆 自性淨 心 還 原 無 日」

616c2

従っ て、 こ こ で の ・無明の

対象

である 「所」 なる

心は 、染 浄二分の 如 来蔵の 染分であ る。

   

続 い て 『釈 論 同所大 無 明住 地= 根 本無 明)が 、 [染

覺を

ずる時の 中に

 

三種の 細 相 (一獨 力 業 相 ・獨

隨相 ・倶

動 相)を生ずる。 故 に名づ けて生相 と

す 一 大無 明 住 地 熏本覺時中 生 三種 細相 故 名 為生相」

616c8

と、 記 す。 こ この 三

の細 相(一 獨力業相 ・獨 力 隨相 ・倶合 動 相)は

真 如

で は な く俗 諦 ・現 象界で あるか ら、 こ この

習対 象と しての 「 なる 〈[染 浄]本 覺〉は、 染浄二分の

如来蔵

分である と理解 さ れる (続 く 「論 じて 曰 く、

根本無

明が [

染浄

覺 を熏 ず る時に 三種の相 を生 ず

616c10

も同

 

 

釈 論 顕 示 鏖 細 所 依 門

633a

、 現 識( 一 境界 と し顕 れ た 識 )の 因と して 、『楞伽 經

16

483a

引用 、 (

ll3

) N工工一Eleotronlo  Llbrary  

(16)

智 山学報 第五 十九輯 「不 思

議熏

=無 明によ る熏 習)

び [その

熏習

対象

と して の]

議變

は、

れ現

な り」

633a

と記 す。 こ の 「不 思

議變

」 を国訳 一 切

経 136

33

の よ

に 「

染浄本覚

」 と 理 解 すれ ば、 これ は、 『拙 論』 に

述 した ように、 [所]な る

染 浄

二分の

如来

蔵の 意 味る。   『釈論』 第六巻は、 『

信 論』 の 「

体大

」 に関する 平川 250    「心 性に し て 不な れ ば即 ち是大 智慧 光明の義 なるをもっ て の故 な り一心性不起    即 是 大 智 慧 光 明義 故」

579a28

9

注釈

して、

根本無

明に よる 「一心 之

熏 習642b9

く。 「

所謂

根本無 明

は一心 之海 を

習 して、 業 等の種 種の 諸 識を發 起 して、

般若

實智

隱覆

し、

愚癡

之 闇 を増 長 す。

ち是れ不 覺 無 明之界 量な れ ば明は之 を以っ て對 と為 す。 一 心 之

寂滅無

起な れ ば、

ち是れ

本覺

惠明之

立の 徳なるが故に 、建 立 し顯 示 す一所 謂根 本 無 明 熏 習一心之海. 發 起業 等 種種 諸 識。隱 覆 般 若實智 之 明。増 長 愚 癡迷 亂 之闇。 即 是 不覺 無明 之界量明以 之為 對。 一 心 之性寂滅無起。 即是本 覺惠 明 之安立 徳故。建 立 顯 示」

642b9

13

 

ま り根 本 無 明が 「一心 之

習 すれ ば 諸 識 業識 一生 滅 心、 転識 =妄 識 、現 識= 境 と し現わ れ た 識 )= 現

界 ・俗 諦が 出現 し 、 「 一 」 が [

根 本無

明に よっ て

熏 習

され

に独 存であれ ば、] 「寂 滅 無起」( = 悟 り ・真 如) (= 「心性不起即是大 智慧 光 明義)で ある 、 とする。 この 記 述 か ら明 らかなよう にこの

所熏

の 「一心」 は、

中性

の 一心〉=染 浄如来を意 味

い て 『釈 論』 は、 『起 信論』 の  

1

動 有れ ばの識 知に非 ず一若心有動非真識知」

579bl

2

を注釈 して、 上記と同 一

」 によ る 「所」 なる 「心性」 「

熏 習 と し

の よ

記述す

る。 (114)

(17)

NII-Electronic Library Service 『釈摩 訶衍論 にお ける真如 熏習の 意味 (島村) 「所 謂

動 轉

相有

ち是れ無 明

習の

な り。 虚 妄 の轉なるは、 明が 之 を以 っ て對と為 す。 心性は

靜に して喧

るこ と 無 く、 正

に して

倒 之解の 有る こ と無 し。 即 ち是れ

智之照な り。 道理 に隨順 して

無倒

をもっ て

立 し顯 示 す一所 謂 若 心 有 動 轉相。 即 是 無 明 熏 習 氣 故。 虚 妄 轉明 以 之為 對。 心性 寂 靜無有喧動。 正直無有 顛倒之 解。 即是實智 之 照。 隨 順道理無 倒建立顯 示」

642b22

26

 

起信論

』 の

か れ こ ろ の

 

1

無 漏 行に よ る不 思 議熏

579b29

を 『釈 論 解 釈 、 報 身 ・応 身の 区別 を説 明する が

644a9

−−

11

、 この 二 つ の 「」 は下記の 通 り起 信論 自身が 「真 如如 来蔵」 に よ る熏 習 と して説 明 してい るの で 『

論』 はこれに は言 及 しない 。 『起信 論』 の解釈 と し 、 「無漏 行に よる熏」 は〈始 覚修行 ・波 羅蜜 等の行の 力 に よ る 内熏〉平川 264,265 と さ れ る か ら、 前記 『拙論』 に詳述 し た く如 来蔵に よ る 熏 習 〉(; 聞 熏 習に よ る自己の 自性 清 浄心へ の確信 に基づい た ・染浄二分の 如来蔵 の ・エ ル ギーに よ る熏)の こ とで ある。 「不思議 熏」 は 〈真如 ・本覚の熏 習〉平 川 263,・265とさ れ るか ら、 前記 『拙論』 に詳 述した〈報 身 ・応 身から の聞熏習〉( = 外 熏)の こ とでる。

 

釈論

、 『

起信論

』 の 「

信成就

發 心」 にお ける下

記記

述    「熏 習善 根力1 、 (・・信 業果 報 能起十 善。 厭生死苦 欲 求無上菩提。   得値諸 佛親承 供養修行信心)」

580b20

を 「自然本 有 熏 習 門 規 定 1 こ の 「熏 習 善根 力 を平川 300は 「熏 習と善 根 力」 と読む.『釈 論』 国 (一)203は 「生善根,   常 恒に熏 習」 の 「衆生善 根」を熏 習対 象と して読む.『釈 論は そ直 前本 覺 藏   て」 と記 すから,熏 習対 象と して読ん でい る こと が分かる. (115 N工工一Eleotronlo  Llbrary  

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