NII-Electronic Library Service
『
釈 摩 訶 衍 論
』
に
お
け
る
真如熏
習
の
意
味
島 村 大
心
O
.序
悟
り・真如
に用
らきが ない こ とは、 イン ド大乗
仏教
で は広 く認
め られてい るが、近年
、 〈中国仏教学
で は用らきが有
る〉
と さ れて来
た よう
であ
る。 この 場 合検 討さ るべ きテーマ は 「真 如 随縁」 と 「真 如 熏 習」 で あるが 、 前 者につ い て は 既 に島村
v に お い て、 元来
は中国
仏 教学
で も 〈真如
には用 らきが な い 〉と さ れて い た こ と を論証 した。 後 者 につ い ては 「真 如 熏習 の真
意主 と して
法蔵
に よる 理解
」(以下 、『拙 論』 と略 称)と して発 表
し た (『印仏 研』 第58
巻 第2
号 及び 『豊 山教 学大 会紀 要』 第38
号 平成22
年3
月) 。本稿
は後者
に関 して 、特
に 『釈 摩
訶衍
論』(以 下 『釈論』)の記 述に限定
して論 じて 、 そこ で の熏
習 主体
及び熏
習対象
と され るく
真如
・無為
・法界
・一心〉等
の意 味 を以下 に解 明す
る。 こ こで結論
を先
取 して述べ てお けば、 そ こ で の 〈真如
・無為
・法界
・一 心 〉等の意 味 も、 『拙 論』 で解 明 した もの と同 じく、 染 浄二分 よ りなる 二 分依 他 性 ・如 来 蔵(島村d
、 r に詳説。 以 下こ の 二者を意味する もの と して、単に如 来蔵 と記す)の こ とで ある。 具体 的に は、 熏 習主体(以 下 「能」 −r
拙論 』 で は専らこ れ を論じ た)として の 意 味は 、既に 『拙 論』 で明 らかに した よ うに 、 〈聞 熏 習 による ・自
己の自性清浄
心へ の確信
に基づい た ・染浄
二分
の如来蔵
の もつ エ ネル ギー〉(一『起信論』 の 「内熏」)の こ とであ り、熏 習 対 象 (以 下 「所」)と して の意
味は、 〈如 来蔵
・衆
生心〉の こ とで ある 。1
.『起 信 論』の 「染 浄熏 習」 に お け る真 如熏 習の意 味『釈 論』 は大正
32
−633b23
(以 下頁 数のみ)以下で 、 『起信 論』 の 「染 浄 熏習」大
正32
−578a14
以下 (以 下頁 数の み)を 「染淨
相熏
相 生不斷絶義
」 と して引 用 (99
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報第五 十九輯 する。
1
・1
先ず
、 『釈論
』 の注釈対象
であ
る 『起信論
』 の記述
を検討
する。『起
信論
』 は〈
染浄
の 四法
(浄法
=真 如
、染 因 = 無 明 、
妄 心 =
業
識 、妄境界
= 六塵578a15
〜17
)間の 相互熏 習〉を 、 〈染 法 熏習の3
段階 〉と 〈浄法
熏
習の2 種
〉と して説 くが 、後 者につ い て は 『拙 論』 に詳 述 した1の で 、 こ こ で は前 者 を簡 単 に検 討 す る。 この 『起 信 論』 の 記 述 に言 及 して、 『釈
論』 (633c3
〜4
)は次の 三段
階と して述べ る。 第一段階一 無明が、 真如 (=浄法)を熏 習→ 妄心 (; 業識)の 出現 第二段 階一 その 妄心 (;業識)が 、 無明 に熏習→ 妄 境界の 出 現第三段 階一 その 妄境界が、 妄 心 (=業識)に熏習→ 一切の身心等の苦を受く
これ らの
内
、本稿
の テーマ の 「真如
」 に関わる ものは第一段 階である。 こ の第
一段
階で 、〈
無
明が真如
( = 浄法
)を熏 習 する〉と、常 識 的には 「真如
浄 法には染はない の に」578al9
、 〈何故
、 染相 (
=妄
心)
が出現す
るの か〉
を解
明す
る必要
が ある。 『起信論
』 は その理由
を直接 的
には説
か ない が、筆者
は こ の〈
「所
」 と しての真如
(一浄法
)〉を、染浄
二 分 よ り成
る如
来蔵
( = 中性の 一心)の こ と と理解 して 、 その 内の染分か ら妄心 が 出現 する( = 正確 には 、 染浄
二 分よ りなる如
来 蔵の全 体が染へ 転 換 する一 島村d
、r 参 照)と考 える 。 ま た、 『釈 論』 は これ と共に 「能」 の 真 如に も言 及 す るの で 、 こ こ で は先ず
こ の 厂能
」 の真如
を検討
すれば、 その意味
も 『拙 論』 で解 明 した ・如 来蔵の こ と と考
えられ る。 その 理由
は以 下の通 り。〈真 如
A1
(この 記 号につ い て は島村b
)に は用 らきが ない 〉こ とは、 広 く 大 乗 仏 教が 主 張 してお り、『起 信 論』 自身の 主 張で もある。 一 「心 真 如 と は ・ ・変異
が有
る こ とはない 」576al2
。 1 結 論だけ述べ れ ば,〈真如 熏 習と は, 如 来 蔵による一心へ の熏 習 (=内 熏)と 応 身報 身二身に よ る行者へ の 熏習 (=外 熏)を 意味し, 前 者 も最 終的には, 応身報 身二 身に よる行 者へ の熏 習に よっ て,行 者が自身の自性 清 浄 心を確 信 する 「信」 に依 拠 する,とする. (100
)NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶衍 論』 にお ける真如 熏習の意味 (島村)
この こ と は現
代
の学者
・法蔵
・『釈 論』 も認め て い る1。紛 らわ しい こ とに
如
来蔵 を 「真
如 ・自性 清 浄 心 ・法性」 等と記述 する こ と は如 来蔵系
経 典に共通 してい る。「
能
」の真 如
が 、 『起信 論
』 の場
合で も如
来蔵 を意 味す
るこ とは、『起 信論
』自身
が 「真如
は 内に衆
生 を熏
じて厭求令
しむ」578b8
と 『勝鬘
経』の如
来蔵
に関 する記述を引
用 して い る こ と か ら明
らかであ
る。 一 『拙論
』参
照「
所
」 の真如
につ い て は以下 のよう
に 『釈論
』 の各所
で検討
さ れてい る。1
・2
『釈論
』 の 記述
筆 者の か かる理解の是 非 を決 定 する た めに、 次 に本 稿の テ ーマ で ある ・ 『起 信 論』 の 「染 浄 熏 習」(大正 32 −578al4 以下)に関 する ・『釈論
』 の 記述 、 を 検 討 すれ ば以下の 通 りであっ て、 こ こ で も結 論 を先 取 すれ ば、 そ こ で の真如 tathata
は用 らき
を もたず、「
真如
」(及び同種の 記 述)と記
述さ れ る もの は染 浄二 分の 如 来 蔵を意 味 して い る、 と筆 者は考える。『釈 論』 は この 「染 浄 熏 習」 を全 体の 立場(= 通論)と個 別の 立場(一 個 別論) の 二 つ に分けて
説
明 する634b20
。匯論
全体
に掛か る説 明(第二 門 「立名 略示門」 と第三門 「通釈 熏 習門」)第
一の観 点(第二 門 「立名略 示門」)『釈論』 は 、 「能」の
真
如につ い て「一
真
(= 自性 清 浄本 覚
藏 智634c12
〜3
)・三妄
(= 無明 ・業
識 ・境 界
634c14
−−5
)の如 是の四法
は能 く熏事
を作
す 」634c15
〜6
と有
り、続
い て 1 「真 如に属 性や作 用 を説 くことは出 来ない 」 平川 211,「生 滅門の 中の 本 覚 真 如(コ如 来 蔵を指 す ;筆 者 )なるが 故に熏の義 有 り,真 如 門の 中には即 ち 此の義 (躍 熏の 用らき)無 し 」(= 『義 記』 に よ る 「染 浄 熏習 に対する注 釈」 大正 270b12〜4.詳 し く は 近 く 高 野 山 出 版 社 よ り発刊する 『義記』 現 代 語 訳参照.『釈 論』 は,真 如門 を 十の側 面 か ら説 明 するうちの第四 「不起不 動 門」 同604a24に 「作 業を離れ た る が故に 」 と記 す 等三箇 所(第一巻 595c , 第四巻623c)で同 趣旨を 記 述 する一 r拙 論』 及び島村u352 頁 ,343頁 ,参照 ). (101
) N工工一Eleotronlo Llbrary智山学報第五十九輯
「一切の染
法
に は皆悉
く熏 習 之事
有
るが故
に」634c17
−8
と記す
。 こ の「 一 切の
染 法
」 に、 直前
に記述 された 「真
( 一 自性 清浄 本覚藏 智)」 が含
まれ るか否
か は、 こ こ で の 記 述か らは不 明確
で あ るが、 文 脈か ら は含め られ る と読む こ と は可 能であ り、逆にそれ を真 如Al
と理 解 した の で は、 『釈 論』 自身の主張である ・無 作 用の 真 如A1
、 に熏 習 「作用 」 をみ とめ る とい う矛 盾 (前 頁注1
参 照)に陥る こ とになる。 従 っ て 、 こ こで の厂
真
」 は、<
そ れ が概念化
し た 「浄法
」 a2 =染法
B
>
(一俗 諦の 個 物には当然の こ となが ら用らきがある)である と理解 すべ きである。第
二 の観 点 (第三 門 「通釈熏 習門」)この こ と は 、こ こ で の 説 明 におい て一層明
確
になる。 即ち 『起 信 論』 の 「真 如 淨法は實には (一仏眼 に実現 して いる事 態と して は)染 無き (= 染 も真如 ・浄 と なっ てい る一第二真理命題 島村 d 附参
照)も、但、〔未 覚 者が コ無明 を以て [所 熏の真如に ]熏習する ときは、 故らに則 ち染相有り。 無明 ・染法に も實に は (一覚 者に実現して い る無明即明 ・空な る事態におい て は )淨業無 きも、 但、 [未覚者が 能熏の]真如を以 て熏習する ときは、 故ら に則ち淨用有り」578al9
〜21
との記 述は 「能 と所」 の真 如 に言 及 した もの であるが 、 『釈論』 は、 これ を 「如是
、 染 と淨
( =真如)
とは但
、 是れ假 立 なり
。染
は實
の染
に非ず
。淨
は實
の淨
に非ず
。皆
是れ幻化
な り。實
の自性 無 し」635a6
〜7
と説明
して熏習
の 「能
と所
」 と して の真如
は、 両者
ともに 「假 立 ・幻化
」 と 明確
に記 述 してい る。 思 うに、覚者
に実
現 してい る真如
Al
と は 〈染
も浄
と し て、無
相 ・一相と して顕 現 してい る事態
〉( = 空)なの で あ っ て (島村 L)、 こ れ に対 し、 〈真如 と染が分 離 され 、両 者が対立 する もの と して理 解 され て い る〉と こ ろの真
如は、 概 念 と して の 俗 諦の真
如 a2 なの で あるか らで ある。 こ こ で は、次
の こ とが 分 か る。第一 にこ こ に記 述 されてい る ・「所」 の
真如
も 「假立 ・幻化
」(一 用 らきをもつ 俗 諦)で ある か ら 、 これ を無 明が熏 習
す
れば染 相が生ず
る こと。 (102
)NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶衍 論』 に お ける真如 熏習の意 味 (島村 )
第
二 に 「無 明 ・染法
に も實
には (一覚
者に実 現 してい る無 明即 明 ・空
な る事
態 にお い て は)淨業
無 し」= 〈無 明即 明 ・空 なる事
態 ・「能」 の 真 如tathata
には用ら きが無い 〉と明言さ れて い る こ と。 第三 に 「[未 覚者が 「能」 のコ真如 を以て熏 習 する と き は 、故
らに則ち淨 用 有 り」 との 記 述の 「[未 覚 者の]真 如」 とは tathata で は な く、 染 浄 二 分の如 来蔵
の こ と、具
体 的
に は 『拙論
』 に詳
述 した〈
聞熏習
によ る自
己の自性清浄
心へ の確信
に基づい た ・染浄
二分
の如来蔵
の もつ エ ネル ギー〉(= 『起信論
』 の云う
「内熏
」)の こと 、 と考 え
れ ば、全体
が理解
で きる こ と。論
この こ とは、更に第四 門 「分剖 散
説
門」 に おい て 、次の〜
の
観
点か ら説か れ る。第一の観 点(「黒 品相熏有力門」(總問總答顯宗門))
こ こで の 『
釈論
』の記
述は次
の 通り
。即
ち 『起信論
』 の記
述 [「真 如法に依る を 以っ て の故に無明有り1 (= 無明 は真如を根拠とする)」578a22
を、 『釈 論』 は 「真 如 之性は ・ ・障礙 (一 染)及無 障礙 (= 浄)の 中に於い て 、為
めに歸依 (= 依 処)と作っ て、所
礙 無 きが故
なり
」635a25
〜27
とし、続
い て 「無明
は 自所
を得
已 れ ば、氣力殊
勝に して功 能 自在
な れ ば、能
く[「所」 の]真如
を熏
じ妄法と作さ しむ」635a28
〜9
と解 釈す る。 こ の 理解 には 、 通論第二 の観 点の 厂通 釈 熏習」 が文
字
通 り 「通 釈」 なの だ か ら、 そ こで の 〈「所」 の真如
も假 立 ・幻 化
・俗 諦
a2>とする解釈
が こ こ にも適
用さ れ る筈
で あ り、従
っ てこ こで の 「真如
」 も俗諦
a2 で 、 しか も上記の よう
に、 〈無
明の根
拠であ り、 染 と浄の 両 者の依
処1 で もある〉 (= 『不増不減経』 で は如来蔵を指す)の だか ら 、 こ こで の 厂所
」 の真如
をく
俗諦
1 平川 215はこ の意 味を単に 「無 明は ・・独 存 する こ とは で きず,真 如に依 存して存 在しうる 」 と してい る だ けで,そ れ 以 上の踏み込ん だ解 釈までは示 してい ない . (103
) N工工一Eleottomo Llbrary智 山学報 第五十九輯 なる ・ 染 浄二 分の 如 来蔵
B
>と理 解 する こ とは可能
であろう
。第
二 の観 点 (「白品相熏有力門」(總問總答顯宗門の 「始 覚 自然 熏」))『
起
信 論』 の1
「真如法有る を 以 っ て の故に 、 能 く無明に熏習 す。」578b7
を 『釈 論』 は こ こ に引 用 して い るが、 この 「能
」 の真如法
も上記
と同様
「如
来蔵
」 と理解
され、 その意 味
につ い て は、 『拙論
』 に詳
述 した よう
に、 「如 来蔵に よ る熏 習」 とは、『起信 論』 自体の 説明で は 〈聞熏習 に よ る自己の 自性 清 浄心へ の確信に基づ い た ・染 浄二分の如来 蔵の もつ エ ネル ギーが無 明を熏習 す る こ と〉(=『起 信論』 の 「内熏」) と理解さ れるが、 『釈 論』 自身は、 これ を 「無始 自然熏」635c
と規 定 して、 「十種
の本
覺の真智
及び十種
の如實
法界
とが有る を以て の故
に、 能 く十種
の枝 末無 明を熏 じ、 一種の 法界 心有 る を以て の に故 、 能 く根 本 無明 を熏
習 する が故
に、 是れ を本 地 と名つ く」636al
〜2
と記 すの み で 、 この 「如實
法界
(= 真 如) 」 が如 来 蔵 を意 味す るこ とを覗わせ る直接 的
記述 はこ こ には ない 。 『起
信 論』自身
に前 記の記 述が有る か らであ ろ う。 一 方、 「無始 自
然 熏」 に続 く・修 力に よ る 「始 有建
立熏
」635c
で は 、r
起信論
』 の1
「真 如法が有るを以て の故に、能 く無明 を熏 習す。」578b7
の 意味
を 『釈論
』 は、 「十信
之位
を未得
と雖 も 、本熏
習之力 ( =無
始自
然 熏一早川 103)を以 っ て の故
に、 則 ち、 自心の 中に生死苦
を厭
い 、 涅盤の樂 を求
む」636a5
−−7
の こ と と記
述 して、 『勝鬘経
』 を引
用 して ( 一 「自心の 中に生死 苦 を厭い、涅盤の 樂を求む」)、 こ の 「能」 と して の真 如
が如 来 蔵である こ とを示 唆 して い る。 続い て 『釈 論』 に は 1 『不増不滅経』の 「如 来 蔵 未 来 際 平等 恒及有 法 者,即 是一切 諸法 根 本」大正 16−467c も 同 趣旨一 島村 r参照. (104
)NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶 衍論』 における真如熏 習の 意味 (島村) 「此 の力 (一 聞に基づ く
如
来蔵の 力 )を以 っ ての 故 に即 ち真 如 性 を熏 習す
」636a7
とあるが、 こ の 「所
」 た る真
如性
は染 浄二分の如来蔵
の淨 分の こと と理解 さ れる。 尚今は傍 論で あるが、これに続 く 「久遠 自 り熏 習 するが 故に、解 脱道 (= 仏 果 )を發 して、無 明は頓に斷 ず」636a12〜3との記述1は、く聞 熏 習が久 遠で ある こ と)、即 ち r法 華 経』 と同 じく<報 身応 身仏が久遠 成 仏してい る こと〉を前 提に し てい る点が注目 さ れ る。第
三 の観 点(「白品相 熏有力門」(歸 總作別散 説門))『起 信 論』 の 「妄 染 熏 習 門」 の 「意 識 (= 業 識 )に よる熏 」(
1
・1
の第二段階) を 『釈論
』 は説明
して 「意
識 の中の本 覺の智 分を 以 っ て、意 識の 中の 無 明 癡分 を熏 じて 、 生死 の苦
を厭 い 涅 盤 の 樂 を 欣い 、漸 漸 に轉
勝 して佛
道 に向
かう
が故
に」636a24
〜bl
とこ こ で も 『勝鬘
経』 を引用 してい る (一 「生死の苦を厭い 涅盤の樂 を欣い 」)の で 、 『拙 論』 に説
い た よう
に、 「能
」 の智
( 一 悟 り・ 真 如)なる 「本覺 の智 分 」 は 上記 第
二 の観点
の如
来蔵
の こ とであることが分 かる。 続 く 『起信 論』 の 「妄染熏
習 門」 の 「十一末
那 識に よ る熏」(1
・1
の 第二 段 階 ?)を 『釈論
』 は説
明 して、 「清 淨
分 を以っ て染
汚 分を熏じて、 無上菩
提 道に證 入 する が故
に、菩 薩
が 無 明 を斷 ずる に等
し きを以っ て の故
に 」636b6
〜7
とす
る が 、 』 これ は 『起信論
』 の 「諸菩
薩の 發 心は勇
猛に して速か に涅盤に趣 くが故 に 」578bl8
の こ と とす
る636b8
か ら、 こ こ の 「能
」 たる 「清
浄 ・分 」 は 『起信論
』 の上記 「諸菩
薩の發心」 に相 当 し、 具体 的に は 『拙 論』 に詳
述 1 『起 信 論』 の 「種 種方 便起隨 順 行 不 取 不 念.乃 至久遠熏 習 力故 無 明則 滅.以無 明 滅故 心 無 有起」 578bユ1〜3に相 当. (105
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報第五十九輯 した 〈
聞熏習
に よる 自己の 自性 清 浄 心へ の確
信に基づ い た ・染 浄二 分の 如 来蔵
の ・エ ネルギ ー〉
(= 「内熏」)の こ と とい っ て 良い であろう。 第四 の観 点〔「白品相熏有 力門」(歸總作 別散説 門)の 「浄耄去熏 習 門」)『拙 論』 に詳 説 した 『起信論』 の 「
自
体 相 熏 習 と用熏
習」578b19
〜20
を、『釈 論』 は 「法
身 自
然熏
習 (=内熏
)と応化 常恒熏 習 (
一外熏)
」636bl4
〜5
と換 言
し 、 こ の 「法 身
」 を 「本 覚
性 智」636bl5
と し、「応 化」 を 「如 是 本覚
」636b18
−9
と言い換 え るがこ の 内の 「能」 と して の 「本 覚 性 智」 は、『拙 論』 に詳 述 した もの と全 同 で あっ て、 染 浄二分の
如
来 蔵、具
体 的には く聞 熏 習に よる自
己の自性清 浄
心 へ の確 信
に基 づ い た ・染浄二分の如
来 蔵の ・エ ネル ギー)(= 内 熏)の こ とであ
る。第
五 の観点
(「舉縁廣
説 開通 門」 の 「總標軌則決定門」(一 譬喩説の 火喩))『
釈論
』 は 「本 覺 般若
は ・ ・染法
を熏習
して盡 滅に至ら し む が故な り。 [染法
は本覺
般 若の]熏を受
けて 匚輪
廻に]流轉す
る が故 に」638b4
〜5
と記 述 する。 こ の 「本覺 般若
」 は 「能
」 の本覚
であるが、 その意味
は、 『釈
論』 が続い て 「無 明藏 中に密
かに隱 沒す」 同6
とあるか ら染 浄二 分の如来蔵
の こ とであるこ とが分かる。この こ とは次の こ とか ら も
確
か め られ る「
總標 軌則 決定
門」(開 合 説 の 「縁 闕單 因無 力
門」)
で、 この 「本
覺 般若
」 が 「無
明藏 中
の如來
之性
」638b28
と換 言 されて い る こ と尚
、先の 記 述は、『起信 論』 の 「正 因に
熏
習 する力有
る と雖 も、若
し諸佛
・菩薩 ・善 知識 等に遇て之を 以て縁 と な さずんば、
能
く自ら煩腦
を斷 じて (106)NII-Electronic Library Service 『釈 摩訶衍 論』 における真如熏 習の意味 (島村)
涅
槃
に入る こ と則 ち是の處
無
きが故
な り一雖 有正 因熏習 之力。若不 遇諸 佛菩 薩善知識等以 之為縁、 能自斷煩惱入涅 槃 者。 則 無 是 處 故 」
578c6
〜8
との記 述に相 当
する とされ る
638cl
−・3
か ら、 こ の 「正因熏
習 之力
」(
=真如
浄法
の作
用 ・真 如の内 熏一平 川226.r拙論』 参 照)も 「本覺 般
若
」(一染 浄二分の如来
蔵)の こ と であると、『釈論』 は解釈 してい る こ とが分か る。同 「
因闕單
縁無力 門
」 に 、 「衆
生心 中
に若
し本覺
なる佛性 無 け
れ ば、終
に佛
を得ず
」638c6
〜7
と され、 こ こ で は 「本
覺 なる佛
性」 と換 言 されてい る。 こ れ は、 『起
信論
』 の続 く
「若
しは外縁
之力有
る と雖 も、 而か も
内
の淨法
に して未
だ熏習力
が有
らず
んば、 亦、究竟
して生死の 苦 を 厭い 涅槃 を樂 求 する こ と能わ ざ らん一若 雖 有 外 縁之力。 而 内 淨 法未 有 熏 習 力者。亦不能究竟厭生 死苦樂求涅槃 」
578c8
・−10
の記
述に相
当す
るとされてお り、 ここ では 『勝 鬘経』 が引用 さ れてい る か ら、 上記 『
拙論
』 で検討
した よう
に 「
本
覺 なる佛性
」 は染浄
二 分の如来蔵
の意味
であるこ とが確
か め ら れ る。同 「因縁 具 足 圓成 門」 に 、 「内の 中に本 覺
之佛
性有
り。外
の中に修行
之 功
能
を具す
れば、 ・ ・萬 徳 之 果 を滿
し三智倶
行 し四徳雙
べ 開 く ( =悟
る
)
」638c11
−−3
と記
述 さ れ、 こ こで は 「本覺般 若
」が 「本覺
之佛
性」と
換言
され、 これは 『起信論
』 の 「若
し因
・縁
とを具
足せ ば、所謂
る自
に
熏習
之力有 り
。又
、諸佛
・菩薩等
が慈悲
の為
に願護
せ らる るが故
に 、能
く厭苦
之心 を起
こ し、涅槃有
るを信
じて善根
を修
習せ ん。善根
を修す
るこ と成
熟す
るを以て の故
に、則
ち諸佛
・菩薩
の示
教 に値
い 、利喜
し、乃ち
能
く進みて涅槃
の 道に趣向
せ ん 一 若因 縁 具 足 者。 所 謂自有熏習之力。 又 為諸 佛菩薩等 慈悲 願護 故。 能起厭 苦之 心。 信 有 涅槃修 習 善根。 以修 善 根 成 熟 故。 則 値 諸 佛菩 薩示教 利 喜。 乃能 進 趣。 向 涅 槃 道 」
578clO
〜14
に相 当 する と さ れ、 こ こで も 『勝鬘経
』 が引用
されて い る か ら、 『拙論
』 で検討
した よう
に 「本覺
なる佛
性」= 「自
有熏習
之力
」(真如の熏習力が力を 現 し てい る こ と平川 229)は染浄
二分
の 如 来 蔵の 意
味
で あ るこ とが確
か め られ る。第六の 観 点 (「擧縁 廣説 開通門」 の 「縁相 散示生解門」
638c18
及び第五 「盡不盡別 (107
) N工工一Eleotronlo Llbrary智山学報第五 十 九輯
F
『」639b26
)こ こ で は、 『
起信論
』 を引用
し 一部用語
を換言す
るだけ
で、 『釈 論』自身
の見解
は全 く示されてい ない 。 即 ち 『起信 論』 の〈「用 熏習」 578c15 − 「大 悲 熏 習」
578c21
− 「自然 熏 習」578c27
> に相 当 する もの と してr
釈
論』 は 「慈悲
願力
の縁」639a26
と換 言 し、 『起信 論』 の 「唯だ 、 法 力(一 「能」)に依るの み に して、 自然 に修行し、 真如(= 「所」)に熏習して、 無明 を滅す 一唯 依 法 力 、 自然 修 行。 熏 習 真 如、 滅無明 」
579a6
の 「唯依法力( =[「能」なる ]真 如のカー平 川 236)」
を 『
釈
論』 は「
唯本熏力
」639b22
と言
い換
え、 『起信論
』 の こ こ の 「熏習真如
」 を 『釈論
』 は 「増長真如 (
= 「所
」 なる真
如 )」639b23
と言い換
えてい る だ け で あ る が、 第四 門 「分 剖 散 説 門」 全体の記 述か ら判 断 すれ ば、 こ れ らの 「能
・所
」 の真如
も染 浄二分の 如 来蔵の こ と と解釈
すべ き である と考
えられ る。以 上で
1
・2
『釈 論』 に よる ・ 『起 信論
』 の 「染 浄熏 習
」578al4
以下 に対
する ・解釈
の検討
が了
っ た 。次
に、 これ以外
の ・『釈論
』 が言
及 する 「真如
熏 習」 を検 討 する。2
.「染浄熏
習」 以外の記 述に お ける真如 熏 習の意味
こ こで は、
1
・2
『起 信 論』 の 「染 浄熏
習」 に関す
る ・『釈
論』 の記 述以外 に、 『釈論
』 が〈
無明
が真如
・無為
・法 界心等
を熏
習 する〉
と記
述す
る場
合の 、 熏習 対象
である ・真如等
の意味
を解
明す
る。 結 論 を先取
すれ ば、 こ こ で、 以 下の九種
に分類さ れた真 如 等 も、全て染 浄二 分 よ りな る二分依
他 性 ・如 来蔵
(108
)NII-Electronic Library Service 『釈摩訶衍論』 にお ける真 如熏習の意 味 (島村) の 内の染 分の意 味であると考え られる。
『釈論』 は 、第二巻 後 半の 記述で、 無 明の
熏
習 対 象 と して五種類
を挙げ
る。即
ち 一法界
心と 四無為
(真如 無為・本覚無為 ・始 覚 無 為 ・虚 空無 為)である (こ この記
述は能熏
と所熏
を表す
・真妄和合
の阿梨
耶 識の下転 門に相当
する610a
)。先 ずこ こ での 「所」 なる一
法
界心
を検討
する。 一法界
心に は有為
自在
と無
為
自在
の 二種の 側 面がある と され るが 、 こ こ に云 う有為 自在
と は、一
法
界 心が有為法
の依
止 と な る側
面 (= 有為法
の 基 盤 ・能 為 有 為 法 而作 依 止610b7
)
で あ り、 無為
自在
とは無為
法の 依 止 となる側 面 (能 為 無 為 法 而 作 依 止610b8)で ある。 『
釈論
』 におい て、無 明
が熏習対象
とす
るの は、 このう
ちの 有
為
自在 (= 有 為 法の 基盤)であっ て 、 も う 一 つ の側 面で ある無為 自在
(=
無為法
・真如
の基 盤 )を熏 習す
る こ とは出来ない と され る (= 淨 分 ・真如
Al
と は く諸法の あ り方〉とい う極 端な抽象
概 念であるか ら一 島村 g 付属 資 料一 不
動
と さ れ、熏
習対
象に は な ら ない の で あ る)。 以 上の こと か ら、有
為
自在 と無為 自在の 二種の側 面を持
つ 「所」 な る一法
界心 と は、 染 浄二
分
より
な る如
来蔵を意味
してい る こ とが わ かる。 つ まり、無
明は染 浄
二
分
より
な る如
来 蔵の内の染 分 を熏
習 するの である。 次に第二 の熏 習 対 象で ある 四無 為(真 如無為・本覚無 為 ・始覚 無為 ・虚 空 無為)を検 討 する (こ れ は難 解であっ て、筆 者は充 分な 理解に至っ てい ない の で、 以 下に 当 面の暫 定 的 な理 解を示 す。諸 賢の教 示を請 う)。 先 ず 注 目すべ き は [無 明の熏 習 に対
応 して発現す
る]・四無為
のう
ちの真如
無為
(残 りの 本 覚 無 為 ・始 覚無 為 ・ 虚空無為につ い て も同様である か ら、 以 下 こ れ を代表さ せて 述べ る〉の ・用
ら き を 「通」 と 「別
」 の二種 として 述べ 、「通」 の 用 ら きに
対
応 する場合
の無 明の 用 らきと して は 、 無明 は 「所」 なる四無為を熏 習で きるが 、「別」 の 用らきに対 応 する用 ら き と しては 、 無 明は熏習出来ない と (
109
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報第五十九輯 し て い る点で ある (「根 本 無 明は初 (署 通)の作 用に依 りて能 く熏 事 を作 す 。 後 (一別 ) の作 用に非 ず」 6ユOb8〜9)。
「
能
」 の無為
・真 如
A1
に は 用 ら き が ない こと は 、大
乗 仏教
の真
如
A1
の 特 色であるが (島村L
)、 『釈論
』 の場
合 も同様
1 で ある 。 そ れ故
、こ こ の
真如
・無為
の◎ 〈
「別
」 の用
らき〉
に対応
して、〈
無明
は 「所
」 の四無
為
を熏
習で き ない 〉と して い る こ と は、 [無
明 の熏
習に対
立する]〈
真如
の 「別」 の用 ら き〉に は、 〈用ら きが ない 〉との意
味で あっ て 、 ここ の く
真
如 ・無為
〉は〈概念
と して の 浄 ・真如
a2>の意
味と見て よい 。一
方
、真 如
・無為
の〈
「通
」 の用
ら き〉に対
応す
る場合
は、無 明
は「
所
」 の 四無為
を熏
習で きる と し、 「能 く彼の法(= 四無為)を引い て、 自體 に合 して相い 捨 離せ ず して、 [現象界
と して、無 明は四無為
と]倶行 し倶
轉 す」(610b24
・−25
) とあるか ら、『釈 論』 は 〈無 明の 熏 習対象
である四無 為 (真如無為 ・本覚 無為 ・始 覚 無為 ・虚空 無為)〉
を 、 〈染
と浄 と か ら成る もの 〉と規定
して い るこ と にな り、 こ れ は取
りも直 さず、染浄
二分よ り成
る如来蔵
を意味
し、熏習
の結果
無 明と合 し・倶行 ・倶
轉 する もの は 、 その如来
蔵の内
の 染分と考
えら れる。『釈 論』 は第二 巻
末
尾で、 阿梨耶
識 を十種
に分
類 して説 明する が、 そのう
ちの第
四 「染 浄 本覚
阿梨 耶識」 を説 明 して 、 「不 守 自性 [陀羅 尼]智(=これ は 以 下の解 明に より判 明 するの だ が、 染浄二分 よ り な る如 来 蔵の内の ・全体が染 分と なる可能 体とし て の 「所」 なる智の こと)も亦 復 、 如 是。 能 く 一切 無 量 無 邊の 煩 惱 染 法な る鬼 神 衆 (= 煩 悩 染 法 ・無 明)の熏 を受
けて 、 相 1 「無 為寂 滅 智」 を 「一切の起動 ・作 業 を遠 離す」 大正 32−595c と し,真 如 門を十の 側 面か ら説 明 するうちの第四 「不起不動門」 同604aを 「作 業を離れたる が故に 」 と,そし て 「六無 明」の第 五 「空 な る無明」(= 真如,島村g参照 )を 「體と用が無く則 ち 空な り.譬 え ば兔 角の無 きが如 し」同 6Z3cと記 述 す る, (110
)NII-Electronic Library Service 『釈摩 訶衍論』 における真如 熏 習の 意 味 (島村) い 捨 離せず して倶に轉 ずる が故に」
612c20
−−22
と記 し、 こ の意 味は 『起信 論』 の「自性 清 淨心も無明の風に因 りて 動ずる とき、心 と無 明と は倶に形 相無 く相い 捨 離せず一自性 清 淨 心。因無 明風 動。心 與 無明。倶無形 相 不 相 捨離576cl3〜15」 の こ と とする
612c25
−−6
.。 即 ち、こ の 「不守自性 陀羅尼 智」 は、『起 信論』 の 「所」 なる 「自性 清 淨心」 に 相 当し、そ れ は 「無 明の風に よっ て 」 「動 じ、無 明と互い に離れ ない」 と さ れ 、 又、「隨他縁起陀羅尼智」612c8
、 「隨 轉覺智」612c23
とも換 言さ れる。 この こ と か ら分 かる と お り、無 明の熏習対象なる第四 「染浄本覚阿 梨耶 識」 とは、『起信 論』 の 「自性 清 淨心」(= 如来 蔵)の こ とで あ り 、 「不守 自性」 と は〈その染 浄二 分 の 如 来蔵の 内の 淨分 (= 自性)を守 ら ない ・保 持し ない こ と〉で あ り 、 〈染 浄二 分の 内の他[性]= 染分〉に隨 っ て、 〈現 象界として 、縁 起 し転 ずる心 (= 智)〉であ るこ とが わ か る。 従っ て、 こ の第四 「染 浄本覚 阿梨耶識」・「自性清 淨心」 と は染浄二 分の如 来蔵の こ と と理解さ れる。『釈 論』 は第三 巻 冒頭 で 、 二
種
の 真 如 (清浄真如と染 浄真 如)614a
を説 明 する。その 内の 染 浄
真如
につ き、 『釈
論』 は 「云何
が名
づ けて 染淨真如
と為す
や。 二種
の染
淨覺 (染浄始 覚と染 浄 本覚)の 所證 の真如
は、 熏 を離れず 一云 何 名 為 染 淨 真 如 。 二種 染淨 覺 所 證真如。 不離 熏 故」614a3
と記 述 する。 この 「染 浄真 如
」 は拙 論 「『釈 論』 の 四覚 ・二真 如 ・二 虚 空 につ い て 」r豊 山 教 学 大会 紀 要』第36号 で詳
しく論証
した よう
に、 厂所
」 な る染 浄二 分 の如
来蔵の こ とで、 〈「所証
の真如
」が 「熏
を離れ ない 」〉と は、〈
染浄
二分
の如 来蔵
の 内の 染分が無明
の熏習
を受
ける こ と〉で ある こ とが (111) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報第五十 九輯 わ か る。
尚
、 こ れ と併
せ て 以下 の ・無 明の 熏 習を受
ける 「所」 な る真如
が 、 「染淨
本覺」(ニ「云何が名づけて染 淨 本 覺と為 すや。自性 淨心は無 明の熏を受 けて生 死に 流 轉 して 斷絶無きが故 に一云 何 名為染 淨 本 覺。自性 淨 心受 無明熏。 流 轉生死 無 斷 絶 故」 6ユ3c21)、 「染淨
始 覺」( 一 「云何が名づ けて染淨 始 覺と為すや。始 覺の 般 若は無 明の 熏を 受 けて離る る こと 能 わ ざる が故に一云何 名 為 染 淨 始 覺。 始 覺 般 若 受 無 明 熏 不 能 離故」 613・25)、 及び、 「清 淨始
覺の智
が、 自性 (= 清 浄)を 守 らざるが故
に、能
く染 熏 を受 く一清 淨 始 覺智 不 守 自 性 故 而 能受 染 熏 故 名 染 淨 覺」 614b27、 「清 淨始覺 (
一染
浄二分 依他 性 )は[その 淨分の観点
か ら言
えばコ惑 時は無い と雖 も、 [染分
の観
点か ら言 えばコ自性 ( = 清 浄)を守
らざる が故に 、能 く染 熏 を受
けて 隨縁 ・流轉す
一清淨始 覺 雖無 惑 時。 而不守 自性 故。 能 受染熏隨 縁 流 轉 以 此義 故。 是 故 名 為 染 淨 始 覺」614b29 〜614・1、 「清淨真
如の 理 は、自
性 ( =清浄
)を守
らざる が故
に、 能 く染熏を受
く 一清 淨 真如理不守 自性故
而 能 受 染 熏
名 染 淨 真 如」614・20、 「虚 空の 性は、 自性 (= 清 浄 分 )を守 らざる が故に、能 く染
熏
を受
く一清淨虚 空 理 不守 自性 故 而 能 受 染 熏 名 染 淨虚 空」615a14、 「清淨
虚 空 は 十徳を具 足 す。亦
、 〔その淨
分の 観 点か ら言え ば ]無染 相、 亦た無 淨相 なり(
平等
無 相 なる空の 公 理 )。而
か も虚空性
は [その染 分の観 点
か ら言
え ば]自性
(= 清 浄 )を守らざる が故
に 、能
く染熏
を受
けて 隨 縁 ・流 轉 す一 清 淨 虚 空具足 十徳。 亦 無染相亦 無淨相。 而虚 空 性不守 自性 故。 能 受 染 熏 隨縁流轉。 是 故 名 為 染 淨 虚 空」 615a16、 「本覺般 若
が 自性 ( 一清 浄)を守 ら ざるが故 に 、善
く染熏
を受
けて彼
の 諸染法
を して住
止 するを得
しむれ ば即 ち、是れ本覺 離性
之義
なり
一本 覺 般 若 不 守 自性 故。 善受染 熏彼諸染 法令 得 住 止。即 是 本 覺 離 性之義」615c27、 い ま 「始
覺般 若
が自性
(= 清 浄)を守らざる が故
に 、 諸 染法
に依っ て如 今 方に起
こっ て彼
の染誑
(= 染熏 習 )を被るは即 ち、 是れ 「始覺離性
之 義」 な り 一始覺 般 若 不 守 自性 故 。 依諸 染法 如 今方起 被 彼 染 誑。 即 是 始 覺 離 性之義」 615c29〜616a1)等
と記
述さ れ る意 味は全て、 熏習 対 象が染 浄二分の 如 来 蔵の 染 分の意味
である こ と を、 『拙論
』 に おい て詳 述 した。 (112
)NII-Electronic Library Service 『釈 縻訶 衍論』 に お ける真如熏 習の 意味 (島村)
『釈 論』 は
第
三 巻中
程616c2
で、 〈染におい て は 生住 異 滅の相が 一 時 に倶有
され るこ と〉を、次
の よう
に説 明する。 「此の 中の 一時は何れの時
に當
る耶
。根本無 明
が真
心 を熏ず
る時
な り。 此 の時
の中に於
い ては [染浄
二分
の如来蔵
の全体
が染
となっ て しまい]具 さに [現象
界の 個 物の]四相 (= 生住 異 滅の 相)を起 す 。 [この事
態は]、 一切諸法
の 真 實 之性 (一真如 )は [一切 法 に]周遍 して い るこ と(= 〈真
如 と は一切法
の 真 実が仏へ 顕 現 して い るこ と〉の存在論
的記
述)を不知
不覺
[な る ・不覚
の事
態コであっ て 、 過於恒沙
の無
量煩惱
を建
立 して、能
く[
染浄
二分の如来
蔵
の淨分
で ある]自性 淨
心を隱覆
して し まい 、 [本来
の真
如 世 界に 早川 47] 還 原す
る 日が無
い 一此中一時 當 何 時 耶。 根 本無 明 熏真 心 時。 於 此 時 中具 起四相。 不 知不覺 一 切 諸 法 真 實 之性 周 遍。 建立過 於 恒 沙無 量 煩 惱。 而能 隱 覆 自性淨 心 還 原 無 日」616c2
従っ て、 こ こ で の ・無明の熏
習対象
である 「所」 なる真
心は 、染 浄二分の 如 来蔵の 染分であ る。続 い て 『釈 論』 は同所に、 「大 無 明住 地(= 根 本無 明)が 、 [染
浄
]本
覺を熏
ずる時の 中に三種の 細 相 (一獨 力 業 相 ・獨
力
隨相 ・倶合
動 相)を生ずる。 故 に名づ けて生相 と為
す 一 大無 明 住 地 熏本覺時中 生 三種 細相 故 名 為生相」616c8
と、 記 す。 こ この 三種
の細 相(一 獨力業相 ・獨 力 隨相 ・倶合 動 相)は真 如
で は な く俗 諦 ・現 象界で あるか ら、 こ この熏
習対 象と しての 「所」 なる 〈[染 浄]本 覺〉は、 染浄二分の如来蔵
の内
の染
分である と理解 さ れる (続 く 「論 じて 曰 く、根本無
明が [染浄
]本
覺 を熏 ず る時に 三種の相 を生 ず」616c10
も同じ)
。『釈 論』 は第五巻 「顕 示 鏖 細 所 依 門」
633a
で 、 現 識( 一 境界 と して顕 れ た 識 )の 因と して 、『楞伽 經』大
正16
−483a
を引用して 、 (ll3
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報 第五 十九輯 「不 思
議熏
(=無 明によ る熏 習)及
び [その熏習
の対象
と して の]不
思議變
は、是
れ現識
の因
な り」633a
と記 す。 こ の 「不 思議變
」 を国訳 一 切経 136
注33
の よう
に 「染浄本覚
」 と 理 解 すれ ば、 これ は、 『拙 論』 に詳
述 した ように、 [所]な る染 浄
二分の如来
蔵の 意 味で ある。 『釈論』 第六巻は、 『起
信 論』 の 「体大
・相大
」 に関する 平川 250 「心 性に し て 不起な れ ば即 ち是れ大 智慧 光明の義 なるをもっ て の故 な り一心性不起 即 是 大 智 慧 光 明義 故」579a28
−9
を注釈
して、根本無
明に よる 「一心 之海
」熏 習642b9
として以下 の よう
に説 く。 「所謂
る根本無 明
は一心 之海 を熏
習 して、 業 等の種 種の 諸 識を發 起 して、般若
の實智
之明
を隱覆
し、愚癡
迷亂
之 闇 を増 長 す。即
ち是れ不 覺 無 明之界 量な れ ば明は之 を以っ て對 と為 す。 一 心 之性
が寂滅無
起な れ ば、即
ち是れ本覺
惠明之安
立の 徳なるが故に 、建 立 し顯 示 す一所 謂根 本 無 明 熏 習一心之海. 發 起業 等 種種 諸 識。隱 覆 般 若實智 之 明。増 長 愚 癡迷 亂 之闇。 即 是 不覺 無明 之界量明以 之為 對。 一 心 之性寂滅無起。 即是本 覺惠 明 之安立 徳故。建 立 顯 示」642b9
−13
つ ま り、根 本 無 明が 「一心 之
海
」 を熏
習 すれ ば、 諸 識 (業識 一生 滅 心、 転識 =妄 識 、現 識= 境 と して現わ れ た 識 )= 現象
界 ・俗 諦が 出現 し 、 「 一心の 性 」 が [根 本無
明に よっ て熏 習
されず
に独 存であれ ば、] 「寂 滅 無起」( = 悟 り ・真 如) (= 「心性不起即是大 智慧 光 明義」)で ある 、 とする。 この 記 述 か ら明 らかなよう にこの所熏
の 「一心」 は、〈
中性
の 一心〉(=染 浄二分の如来蔵)を意 味 して い る 。続
い て 『釈 論』 は、 『起 信論』 の1
「若 し心に動 有れ ば真の識 知に非 ず一若心有動非真識知」579bl
−2
を注釈 して、 上記と同 一事
態を 「無明熏
習の氣
」 によ る 「所」 なる 「心性」 「實
智」 の 熏 習 と して次
の よう
に記述す
る。 (114)NII-Electronic Library Service 『釈摩 訶衍論』 にお ける真如 熏習の 意味 (島村) 「所 謂る