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『宗教研究』145号

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(1)

――目次――

1,

聖トマスにおける恩寵と自由意志について:スンマ・テオロギカを中心に, 印具徹, The Question of

“Grance and Freewill” as seen in S. Th. of St. Thomas, T

ōru INGU, pp.1-18.

2,

宗教民族学の対象、目的及び方法, 棚瀬襄爾, Object, Aim and Method of Ethnology of Religion, Jōji

TANASE, pp.19-42.

3,

僧伽における制裁の問題, On the Disciplinary Punishment Practised in Early Buddhist Samgha, Akira

HIRAKAWA, pp.43-67.

4,

ヨアヒム・ワッハ教授を悼む, 平井直房, The Contributions of Prof. J. Wach, Naohusa HIRAI, pp.68-73.

書評

5,

宮本正尊氏編『大乗仏教の成立史的研究』、宮本正尊教授還暦記念論文集『印度学仏教学論集』, 春

日井真也, Shin’ya KASUGAI, pp.74-75.

6,

福田堯頴著『天台概学論』, 塩入亮忠, Ryōtyū SHIOIRI, pp.75-76.

(2)

な 、﹁堕落せるもの

と天 ぅ こと、即ち 、

ぐ つて、 聖 トマスに於ける﹁恩寵と自由意志﹂ ほ ついて論じたいと ほ う 。 珪 r, 一の・ドゴ・ 宝|コ :,のめ・ p.H

め れⅠ トあ 0 青田 6 コの ダひ Ⅱ 呂 0 口軽の 由 由由 0 ︵ 号由 由由︶ 8 コ のぁ円 のサ がⅠⅠ 曲圧 ︶。 把 トマスに於ける 息億と 自由宏志 は ついて ⅠⅠⅠ︶ よ ると、人間に 於げ て 仕舞ったのではな ︵ 4 ︶ ﹁病める意志﹂をも 序

ぃ 。彼は、﹁原罪﹂

﹁ 仔 ぎが︶ い の︶を喪失し

だ 最初の義の状態の

意志について

|スシ

マ・

オロギ

を中心に

臣ト

(3)

与えられる、 或超自 ︵ 90 ︶

る 。即ち、﹁不義﹂ な

す 様に 、 神の働ぎと ある。では、 聖

トマ

にょ れば、﹁神に ょ

変えられることで

2

の・ロゴ・㌃

0.

㏄の,

u.

3

づオ

・ ワ

1.

Ⅱ Hpo

の・㏄の・

P

po O

ペヰ ㏄ロロ

リ 目の

傾向をも

ている。

4

の・

ドオ

・ お

1.

Ⅱ︵ p 。・の・㏄

0.

ヂ円

音ダ㏄

5

すで

︵ ロ p 。・の

、 ㏄の・

6

杯り ・ドイツ・で

出で。・の・レト

A.

コ 屈の・

E

0 Ⅰ

0

サドのが

コ由

0

ⅡのⅠ㏄Ⅱ㏄

圧ロ 。由の日㏄Ⅱ

笘仔卒の

・﹂

の 億曲由佳

弓の

0

の曲

︶ 臣

一 146

(4)

完成﹂︵での音 田 0 ︶ さ

恩寵﹂に よ る移行で

0 げコ の︶である。つま

神の御娘 に ﹁適せし 一 一 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について

形相の如く

魂の申

されるのである。 た る 人間の魂の申に﹁注ぎ込まれ ために要求されるところの、 か かくして、 ゼ一 ベルグも主張す 格 的な神の働 き ﹂に重点をおく 観を展開しているので、ある。︵ 6 ︶ 聖 トマスに於ける﹁恩寵﹂は さに、﹁人間に 、 神によって 与 ︵ 8 ︶ es のの コ宙 P が三日リ 0 ︶ところの、 いなら存在し得ないところの﹁ 形 「 え ょ る

のた

相 あ ら か り 様

策案

も に - 体 の 白 勺 寧 望 も な ろ ア の 贈 アこ 物 」 ? レ 「 セ

従も

「 さ ス 忘 恩

て ・ 、 で、 の

恵違

注 あ あ か あ 愛 み っ 入 っ る か っ 」 め て , 一 た 考 「

とるてや

思 、 「 「

実、

体 何 (

%

ぐ 、﹁不義﹂なる人間の義化の ︵ くリり - ︶に体ならない。 聖 トマスは 、 、 少なくとも存在的には、﹁ 人 の 重点を置 き 乍ら 、 自らの恩寵 ︵ 7 レ ではなく、それは実体的に 、ま 中に存・在する﹂︵ セら 倖の円︵ ぎ も 質料に於て配置されるのでな に、 罪に よ り 、 崩れて 傷ぎ 病む

(5)

3@ 2 桂 1 9 日プリ

Hp 。・の・ H ︶の・ ど の

︶目の曲互いの・﹂

云 う ことな しには考へられない事を主強している。 同上 紳づ田 HplHHp 。 ,の ・ 甘 0. ダレ

興 えられた 贈物・ 一

弩 特に恩 寵 として重視している。

0. ダ 妨のⅠ 執 いビコ ・年1目お・の・ HH ひ ・ P の

の す 織田圃 右 の ・ づす ・ マ 1目: ,の ・︶ Ho,u. ︶・ u 隼 ︶ 住び,

﹁︵ ヨの ︵ , のの 由 e ︵田ドヨヨ 三 ︵ P p は いし 宙由 0 コジ 毎毎 寸 コ / ㍉の ヨロ のの︶ 0

コ 。旺ののが岸の帥 ヰ 0. 仁圧 オリ ヰ Ⅱ申せ四件 0% 半 ︵︵ ロ ・ トト ㏄ 笘 ・ め ︶・﹂ 折り戸ぢ 11. ⅠⅠ p 。・ 0. 目 0, ダト い いリ ゴ ・ 玉| Ⅱ 目り 。・の・ぃ目 N. ど め

のづ 0 の ロ ︵ a. ﹂ の ・ 円ゴ ・ コ M. の・のの, p.g p 年 ︶

井ソ 0 円 フ ののののの 8 ヌヲ巾は ︵ 田口Ⅰ づ ︶ コ の曲・﹂ ︵ M ︶

︶に体ならないのである﹂ 篆

にあずからせる恵み

(6)

を見出さねばならない。 五 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について

のの

ⅠのⅡ

め 0

岸の侍

い け

つ宮の

隼 0

の ︵︵

卜ヨコ

ノ田

岸 Ⅱがの

1

田づ

キ ト,

㌧ーⅠ︵

p 。・の・

ト ︶の・

用 がの︶の

コ の

- :::﹂

㎎の

ビォ

・︵

・ パの

・の

0.

︶・

H コ、の

一 " 一

恩寵﹂︵

﹁ 曲

まが

だ一義的に、これに

たことは事実であ

つまり、

@ 成

Ⅱ ま

り、現在に於て

たと云えるの

てあ

だか。これは、最初

﹁神の相似

︵の・

ヨ丁

必然的に

一レ

日ヂお

(7)

まり、原理的 ︵ 6 ︶

れると云って

だ一 ・義一と ︵ ヶ 1 ︶

る 。人間は 、 を 与えられるわけである。 甘曲 1 、の。。す め 。 M ハ ・ ロ ・の・目時・ -0 ・ N め のべ 已円 2 口のせの ユ守年の ・ 淫 ・ ヂ 三 % の

すま

のであ

レ 刊には、

の巴 日田口 ヨ ︶

の 生命﹂

よって コ水

上 、人間

︶とを 否 """" /'@ Ⅰ

寵しによって 、初 めて完成されると三振するのである。つまり、 汀目日 が手 ぎぎ 日中

存在的に聖化された ︵日のま 目ヨ ︶ と 一本, フ

、罪人の中へ注がれ ︵ アサノ ︵ く し︶ る ﹂。かくして、恩寵

と 云えよ う 。もつと no 口内 qEo ︶との別が

﹂は、あくまで、 た Ⅰ 50

(8)

ものとしての、誤れる﹁ 賎宥 ﹂︵ ぎ汁俺 の 耳ざ ︶ の 思想へと逸脱し、 15 七 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について

理解されたとは云えな

だろう。

しく歪められ、

ての思想は、いつし

論理の徽

さと周到︵Ⅰ︶

あると

見徴

して仕舞

論じたが、この

・ - 一

とが出来る と 云 う のでは決してない。

4 ののめすのⅠ鯉口・のⅠ 目、ダ n. ダ 悌の目 5 の・ づオ ・で 11. Ⅱ︵ p 。・ 0. ぃ 0 やヂ の

お Ⅱ ロのヨゆ Ⅱ︶︵・ 0 Ⅱ ヰ ・ 由 神曲 ま 三日のの 由 ︵が・ 銅 ︶・﹂ 6 の ,円ゴ ・ づ| Ⅰで。 ,の ・︶ P&. 館も

旦日。がⅡ甜の店 曲ヰ Ⅰ コサ亡ざ由 Ⅱ・ し

由 0 い 0 口 ㏄Ⅱ 目 。 し のみ 七 Ⅰある。︵ 凹ドプ で 11. Ⅰ︵ p 。・の・ト ド A. ヂ 9 ︶

(9)

一| 一五二一︶が 、 壮麗な 聖ペテ Ⅱ礼拝 ﹂、全体的に、教会 大司教アルブレヒト ノ天 して仕舞ったのであ 物語っていると云え の 責任ではない。 だ

の ﹁意志の正しさ・﹂ 的 優越さの故に 、か こ白Ⅴではない︵ 勺 3 ︶にして 理 的に余りにも優れ 念 のみをめぐって 、

な 意味をもつていた ていたと云えるので ていた時代にあって 外的形式的且 つ 物的

鑑 C が主張されるに 至るのてある。

(10)

九 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について Ⅰ 5

すであろうことも、 四

的に﹁教会の学﹂ 当然であった。しか ﹂ そ 、中世末期に 於 ﹁業に よ る 成聖 ﹂であったのである。 考えられる思想は、世俗的民衆には歓迎され たのである。そこ 、教会に敵対してで て 、﹁改革﹂︵レフ ︵ 4 ︶ し ﹂であった。 慈 ・ ト ・ せ ・ 叫り巴 下ゅ のガ @ Ⅰのす㍉ ヴロ の ゴ ・︶ ゆ ㏄ N. のの㏄㏄ 2 目 0 す ㏄ココロ ワ の ヰ ze 目 W ︵Ⅰ 肚 Ⅱ 0 1ト白目の︶ 0 Ⅰ せ 0 片 ドア け ㊦ す ふの由が下の オけ Ⅱの す, Ⅰ・㏄ 肚 0 ︶ ねばならない,

管ニ

につちなると考える事は誤謬である。 4 バルト 著 裏方 訳 スム ﹂㎡

(11)

一 O

。かくて、 聖 トマス

、それが論じられる

︶を通して、 そ

必要があった。 面 し

っ たのである。我々

にするため、今一度

始めたい。

のが、 | ﹃・病める

超自然的には死せる ︵ⅠⅠ︶

しての自由意志だ け

である。勿論、全 堕

く 少数の人の極ぬ て

時日を必要とし 乍

人間の意志も 、|た

、 叉 必ずしも純粋に

でなく、 文 ﹁純粋に﹂

、それは﹁否﹂と 答

巳 ︶が絶対的に必要 154

(12)

php の リ / の ︶

ある。

いたと

えられた

を 忘れて 硅 1 ぴドプ ・㌃の・㏄ ダ 9 ㏄ 垂 トマスに於ける恩寵と自由意志について が 与えられ 考える ベき

後に於て

はならな

努力すると き 、﹁ 義 ︵ 7 ︶

り 、人間が罪から 立 0 玉 帳 なおしすすめて云えば、人間は 、

自由意志、即ち、日神から 先行すると 恩寵の助 け 表 3 様に なしに、 理解すべぎでは それ自身に ょっ ︵ くり ︶ ない﹂と - 論じている。 て 罪から再び立ち上 色 ﹂とは つ まり、 聖 トマスは 、 ︵ 二し ︶ 出来ない・ 一こ ﹁人間は、如何なる とを主張しているの 方法によっても, である。更に 、こ

起が 、恩寵の照明に

、かくの如く解せ

︵ 4

ているが、これは、 節 に対する 聖 トマス し 給はん﹂

Ⅹの 仁 Ⅱ抽の曲 ユ 55

(13)

くまで一存在﹂的に

一義認﹂に於て変化するのは、人間でなく、 寧 ろ 神であると云 うこ

、人間に内在するの 二一 l 2 の・ドず・ り 0. 寮 ・ チ ゲ 臣 ・ め

ヨ n 二リ 戸の千 コあ山ョ 0 せの曲伸二Ⅱ 0 日︶ けく の神口Ⅱいしのの﹂ 3 9 口 下 ・ロ付 1 。 角い P O. の ロソじザ Ⅱ

ヱ 。局の︵戸田が 宙曲の ・﹂

|ヌスと 論争 す

志を強く 主 張 した。 5 の・ビオ・Ⅰ 曲 。 1 Ⅰが n. の・のⅡ パ ・の・ ぺ ・ 曲 Ⅰ 卍

笘づ 0cc 曲庄の 官お

c す︵日程 2 日計 po 弓ヨ隅注奉の ・﹂ 6 の・ 円 F. ロローⅠ㏄の・の・のⅡⅩ, p. Ⅱ

㏄ ヰ 0 Ⅰの㍉ののⅡⅠのロヨ組目のい 目 Ⅹ ゴ ∼ i0 ㏄Ⅱ 曲ヱ がの・﹂ 7 の・ロゴ・︵ 笘 1. 角がの・の・ ぃ 。 稗 a. Ⅰ

の 二円 注忘の ︶仁の曲 力 0 ロ ロヱ の・﹂ 五

れによって﹁存在﹂ 156

(14)

力 め 恩寵﹂︵ 拍 ﹁ 曲 ︵ 守

︵ 0 ロ耳レコがのコリ曲目Ⅱ笘の︶

ないのであって 、も ︵ 3 ノ

かりでなく、既に与

成 聖の恩寵﹂と同時

0 月恩寵﹂のみによ

て 、一成聖の恩寵 一

は 、そのことによ つ

性は 、前述せる 如

目ノ コ ア 。Ⅱ神曲一のノー アしよ り 、その可能性は喪失するのである。而して、

神との交りの - 断絶に

た 後も、いよいよ 神

続 け ねばならないの

りから逃れることは、 57 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について 二 一一

に ・変化させられる

わ げではなく、従 っ して、﹁ 義 ﹂とされる 云 う ことが出来る。

(15)

された臨時の馬の如ぎものが、 ﹁助力の恩寵﹂であるなどと考えるべ

りに其の荷物が重す

の ∼ ヰ ・ ツ円曲ドコ の , い の 。 脂

増補された。 2 % ㍉の由りのの 荏も が へ ま Q Ⅰが︵ i0 年ドペトコリ のコリヰ目㍉ りの

︶田笠 の n@ ハリ ・ レ ︶ A. の n@

@ の ・㏄ ヂ もき切りの・のめ ゲめ n, ︶

切曲 Ⅰ い 4 の・ 円 F. ロ 。 1. Ⅰ p 。 o.H ︶ p.p. ㏄

由井の 口ノ 0 コ ひ 0 曲 仁 ㏄笘の︶ コセ ︶Ⅱ 田 仁井 e@l. ﹂

・ せ 0 ︶ 口 コ ︵ O HH. づ卜め ㏄

R の・ り脂い巾 ︶ HH. の・㏄の㏄ 0

田づ のの。四件 二ヨコノ 。Ⅱ庄がごの・﹂ Ⅰ 、 / ・

の 恩寵﹂︵ 抽 S ま曲

の ﹁助力の恩寵﹂を 非

に 於ても、本質的に ︵ ムリ ︶ は 消滅せざるを得ないのである。

一四

1%

から来るのであ

(16)

寵 によって。始めて

論じたことによって

の、 云わば、﹁充足

て 、﹁ 成 聖の恩寵﹂

のである。而して、

根底に常に見出され

われるべ き ものであ

恩寵である。それ ︵ コ Ⅰ︶

つて、前者は、人間

﹂ へ持 来らす恩寵で

な神の働ぎなのであ

象 化する 恐 力もある

と 思 う 。誠に、それ

易 に捨て去り得ない ものである。

能 的に行為の主体 寵 であった。しかる

とたび人間の魂の中 一五 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について 159

(17)

相違している。

場ムロ

が考えられ

るが、全堕落 説 をと -. Ⅰ l ︶

自由意志を主張しな 一 Ⅰ 、ノ そのため、先に述べ

、彼自身の思想でお -

あるとする見解も ︵ 4 ︶ 、

日ザせ o ㌃ HH. づ ・ 肚め Ⅰ 2 の 円プ Ⅰ @ の ・の㎏ ダ Ⅵ W りで 11. ⅡⅠ p 。・ 0, ︶ 0 ゅ 拝の 幅 Ⅱ 曲侍朴ヒヲづ Ⅰのので ゅ ⅡのⅡの・ | ﹂ W 而 Ⅰ㏄Ⅰ ロコヒヨ し 6 ロ︶コ田 0q ︶二の コノ 。 づ 0 コ 血あ ・﹂

のの コ宙 二ロ二ロ 0 卸 が目 ︵の ヨひ 昌ド円が ヰ u 甘リ ヴ ∼︵ Eu 午 ﹂ ︶の N. 参照

、その生涯及び思想﹂ ワ ㌍参照。 七

﹁助力の恩寵﹂が 必要であることを主張したが、そこに﹁恩寵﹂

題 が存・在することを

(18)

一七 聖 トマスに於ける恩寵と自由意志について

て ﹁ェ %1 ス ﹂とな

というよりも、寧ろ ︵ 6 ︶

﹁信仰の行為は 、 愛によって完成され、形成さ れる。 一 との、 聖 トマ

﹁ 愛 ﹂が 、聖 トマスの神学の中心問題であると いうことは、トマス

ていると云えないこ

の 遊離は、歴史が実 れた人間は、﹁ 愛 ﹂の主体と、可能性に於て 、 調 ﹂が問題なのである。 の 恩寵﹂が必要である。即ち、依然として、 も 、 又 生じた後にも、恩寵と自由意志との される。しかし、彼が、 恩寵と自由意志との﹁ 協 ﹁協調﹂が必要であるこ ︵ 5 ︶

﹂乃至﹁常住の恩寵﹂

自由意志と﹁助力の

マスの 一 協調﹂論に

の らヲト Ⅰ 持が 由 。が︵︶Ⅱ︵Ⅰ︶ 曲 ︶︵ 0 4 ︶

身によって﹁ よぎ業

曲阜 在 ︵ ぎ

目し

乱 ︶

、即

︵叶う︶

一 とされることを、 ︵ 2 ノ

て 前者の場合に 於

(19)

して、救いから﹁ 愛 ﹂

E l 拙著、﹁ アソ セルムス研究﹂参照 2 の・ ドオ ・ⅠーⅡ お 。・の・ レい の, w. Ⅰ

て 起り 56

何 % を 二 つ

のあることを、示している。 3 %@ づす ㌧ー ロロ p 。 、の ・ ロ MH. ヂ ㏄

の Ⅰ P 由 。 円り 8

Ⅱ 田 。くの神の圧

やの 円卸 ㌧の | ﹂ 4 の・ ロオ ・ づ 1ロ で 。 、の ・ ドぃひ 、 p. ㏄㏄ 隼 ㏄ 5 什甲 ・ ドオ ・リーⅠ マ 。・の・︶ 0 ゅ ・ p. 轄

のぺト の ヨ の㍉ドド 0. 日 u 一一一一・ トゼ侍 ︵Ⅰ目の叶 珪ヨ 0- の 庁 ︵ ひ @ ・ m 一︶・﹂ 6 の・ロオⅠ︵ 拍 11. Ⅰ︵ p 。・の・ 呉ヂの

Ⅱのが 目 Ⅰの田の日付 0 ヰ仁のめⅠ つ卜 せ け Ⅱ め 9 曲阜Ⅰの︵ 片 0 Ⅰ ヨの ヰ臣 q. ﹂ ア 北森義茂﹁マルティ ソ ・ルタ 一 ﹂、 簗 三項参照 八 162

(20)

が ,

る 。

者は

いる

、目 にすべぎは明確にしたいと思 う のである。

せる

二%

学を おぎたいと思 う 。

Ⅰ の 一九 宗教民族学の対象、 百 的及び方法 精敏に取扱われ 然し 故 博士の 更に古く・大正 の間、人類 諸科 。そこで本稿 て 的及び方法に 介

するのであつ

ことを拒否する ン円 ・ メ ・

囹干

広義に使用して がパリに民族学

方法

一 %

163

(21)

人類学上の地位の如 き られたにすぎ ぬとヒ舌 ︵ りイソ は 民族集団であり、

見た人種の種類即ち

して民族学と言 ≦。 , へ

でもあるので、従 っ 宗教人類学と言って ︵ 3 ノ ある。

人類学を意味して ︵ ア Ⅰ︶ れる学問となる。 ︵ 5 勿 ︶ ギ ーを人間の学とし ︵ 几リ ︶

ヱ ールデに近いもの

有機的側面を分ち 、 を 大別す , 0 。

の 訣別が十分にな に 特殊に用いられる

う に宗教民族学を広 義 に使用して題名に用いたのである。 雙

(22)

一一一 宗教民族学の対象、目的及び方法

在り

H. 丙 ・没日ぎ 臣 。 レ ゴ目キ乙 Rmpq の O* レコ ︵ デ ︵ 0 寸 ハ % 。 臣 ,︵ 0 べツ のも 寓 ・日の切 い ・ づ ・ &w ゆ ・ ㈲宇野口 空 、宗教の史実と理論、昭 六 、六六頁 大セ ー 六九頁 同 ㈲拙著、文化人類学、昭二十五、五頁

的の局 毛 ㏄ ぺヰ ︶・ レ ゆめの目の圭

のせが コ之 e 隼のⅡ︶曲目ロのの ゴ ・ 田コ Ⅰ∼の @ い ゆめ 0. 一宗教民族学の対象

今の未開宗教がそ

によって明確に指摘 ︵ 2 Ⅰ︶

意味する。この両者

する立場はあり 得

文化乃至先史宗教を

存 未開宗教に限るの ︵Ⅰ 9 ︶ は 妥当なことである。 とを 如 ・何にして区別するかについてである。

然 民族は文化民族

堅豆

の 用語も用い

ほ ブロスレ・ い ︵ 0 のも

ような方法もある

(23)

一一一一

ぅ 。﹂は文字の有

、 ﹁ せ ︶ 0q シュミット

蛮田づ由 ㏄の、半開

の 動植物に依存して

なければならぬ状態

生活がはじめられ、

と 肉の供給を受けて

属器 時代に進んでい

ゑび 宗教を来るべき

合せる役割を果 した 開の段階にあるものが未開民族なのである。 ︵とそれ以前の無

含ましめるのは相対

は 高級文化民族とめ 方

あり、住居もある 種

化 C ﹁ ガ三 ︵ Eq とも 呼

る 程度前進した民族 ㏄

(24)

り 、中級文化民族は 形 させ、金属の加工

加し 、これを定着せ

でそのまま伝承され

り 、従来のあらゆる

解消した段階である

れぬが、これを最も 者 もこの標準を重要

族 と文化民族とを

示し ぅ るのである。

民族は文化の単純 援 ・目色 ぃ目 0 圭綜 ㌃ は

由 ・の で の目角であ っ

る よ う に、社会もま

意味し、異質は複雑 例えばナデールの

いて、どの標準によ Ⅰ一一一一 宗教民族学の対象、目的及び方法 Ⅰ 67

(25)

更にここで合せて指摘しておくべ

も未開民族を対象とするとの見解に対し

者は既に大部分未開社会の研究に限定す

研究に対象領域を限定している、マリ、

法 によって規定されるにして

である。アメリカの人類学 ︵Ⅱ︶ 俗 社会にとどまらず、都市の にも、, 荷 未だ誰もが未開民族

ンら ・ オ ・ オが隼 臼田 由 T い ︵ 0 名目、 的な概念であるとし 同様に

ヴァンス・ 用いられる時、時間

不幸な採用なのだ 時 、人口、地域、 及 能の特殊化の小をあ ば 十分であろうとし を 研究する理由とし 休符合する点もある

民族をこれと指示しない点に特色を特

るまい。筆者はこ ねばならぬものと考えるのである。 168

(26)

法を離れては理解し

得ないと思われる。

ゴコむ ︶ 0 ㎎ せ ・ トの のの・Ⅹ

、づ ・ ひ e 田の

㈲宇野口

空 、宗教民族学、旧版

四| 五頁

けの 曲 0 コ

㈲宇野口

空 、宗教の史実と理論、七二ー三頁

169 ま な と た ら を 人

ぬ複

為雑

単 に な は

外在

も な 会 は ら に や め ぬ 未 の て 開 で は 人 あ め に っ 得 め て る み 、 為

し 対 現 て

象在

い な 未 る

未開

開民

社旗

述 会 は す に 急 る 限湧億 こ ら に と ね 変 は ば 化 正 な し し ら っ く ね っ な 理 あ い 論 る と 的 か

い は 出

な げ い 速 と ゲこ

言研

行先 ) し ナ て デ お Ⅰ か か れ も ば ここで研究したこ

然し未開社会が研究・

(27)

︶ 母 二の ロ ・ⅩⅩ・︶の 肚へ 、Ⅰ㏄のめ

のせ・ い の白の・ づ ・ の

︶ ,づ口 ・Ⅰ ヰ ㈹拙著、文化人類学、二四 | 二六頁

0 田の

Ⅱ ま Ⅱ 0 山眉 降 io コ 二 宗教民族学の目的 ㈱之が 色 e ∼。 0 つま ・ づ ・ べ ㈹甘くり目の J ㌧Ⅱ ぢのゴひ Ⅰ 隼 @ 0 Ⅰ・ 缶ヰ Ⅰ・ ト 。

プ ・ づ ・の・円くリコの l ㌧ ユ ︵の / ㏄︵ 曲 @0 口 ・ 宙ヰで ,田田

的にも、この学問

ものは理論的には 人

我々の問わねばなら ぬ 問題は宗教民族学の目的である。

別科学なのであろ 5, か 。

言い難い。﹁宗教

究を任務とし、原始 ︵ⅠⅠ︶

明 的な厳密な意味の

事実の意義や起源を 一一Ⅰ 、ノ 17O

(28)

属 族 と お 究 め い 法 数 厳 の い る す ¥・ も ら は 得 る 克 則 ま 密 間

Ⅴ㌻ 4

して

@

( ) 3 明ら る が か れ 、 る こ も 科 で な に こ あ 字 い 且 か

主帥説明であ

の 学問に同調 難いように見える。

表現を説明す

宗教民族学の知識を過大祖することはさげな げればならぬ

い 反感が学者

て 、一方では

つて高等な 宗 ︵ ノ廿 ︶

・ある程度は 学 であることを示しておられる。

史の用語を用

して対立せし

ころ実際の研

であるとして ︵く しり

確 でないが、

従って宗教 員

っ て - は 両者に ものとなっているのである。︵ 6 ︶ 巴セ 宗教民族学の対象、目的及び方法 :171

(29)

降 、グンブリ

は 一九① 八、リ

が 一般化してこ

陸風の民族学 と ヂで 0 名 殆ん ヱヴ アンスープリテ 二八

今では人類学的研

、法則科学的なもの ︵ 7 ︶

究を否定しょうとす

るのであるから、 こ

考察するところがな

︵人類学者の間で行われている。

次の如くに述べて

究 である人類学と言

している。大陸にお

る 時、彼等は心の申

が 社会人類学と呼ぶ

し 、社会学との関係に Ⅰ 7% に

(30)

+ は

民族学と社会人類

、物質文化、文化の 学問であるに対して、

利 における文化の研 究を意味したのである。︵ ︶Ⅰ 0

学 であるとしたと

過去におげる彼等の

全人類学は、一般に

度 間の関係を研究す

も 、歴史的社会にっ

取っては、人種

に 取っては現在にお

はするが、これを著しく過少評価する。 日く 。 伝播主義者は進化

続 をふんでいない。

体は生理学の法則に

史的研究と自然科学

は 混乱を結果するの 宗教民族学の対象、目的及び方法 二九 Ⅰ 73

(31)

O

あるとしているのである。︵

︶立 2

︵Ⅱ リ

ティス教授の用語を

︵Ⅱ︶

、マリノウスキーであ

レディク

チブ

な学問

、歴史とか歴史的と

関心を払わぬと難じ

ネ ファーロ・

ハり

Ⅰ由のす

文化史学的研究は

解するとすれば、

よへ レ ム

@ Ⅰ

︵ W

傾向は

ヱヴ

アン

︵㎎︶

アメリカの人類学者は殊に尖端的な英国的、

就中オクスフォ

一ド

︵㏄︶

化の両者を中心をす

民族学を整理せんと

へぎ

ものがあると言わねばならない。

174

(32)

して 異る 把握を要求する ばれているものは、残され 高級文化において行われたと ども史学が文献に ょ ったのは れは文字以前にも及ぶのであ り 、宗教民族学なのである。 化の研究としては、資料の性 文献史の欠を補わんとするの 文化の残存と見てこれを資料 有無を以てせらるべ き ものな 特定の時間と空間︵勿論 された一回 起 的なものであっ れを資料 学 とする学者もあ 崩 し ぅ るけれども、歴史科学 るのであり、独自の方法によ る 。それはまさに宗教史の一翼であろう。 る 学者は一二に止まらぬ。 で、主力をそそぐ点は後代の 宗教民族学の対象、目的及び方法 ソ ー セイ の ピ よ下紐仁お申せのは宗教史 文明宗教であるとするのや、 ム一アの ・ 一一一一 に 相違ない。 た 文献記録に 塞 いて歴史建設を行わんと 見られるから、文献を基礎とする歴史は これを研究の手段とし、方法としたの る 。この場面を明らかにせんとする 歩 く 勿論この場面には先史考古学も重要な役 貧土便益が歩いために現存未開民族を取 であるから、この学問の対象は未開民族 とするのである。そしてこの目的による のである。 時間については民族学においては特殊の ても材料として極めて重要でもある。 る 。民族誌は勿論資料と見てよいし、 宗 としての宗教民族学それ自体はもはや 単 って独自の目的を追及しているのであ 175

(33)

一一一一一 76 は異 るものが要求 せ

としては取扱い得な 、原始宗教のみは

取扱いに比すれば 除

ら ばそれは広義の宗

ぎるとしてこれを 不

設の目的と方法を以

観念と儀礼の強大な に マイナスとなることをも慮るのである。

必要とするのであ

未開社会に限る必要 限界を実践上は づし れてはならない。 従 は 未分化と分化の標準に ょ るのが妥当である。

るが、然し彼等に ヰは さに一種の宗教学 であると見なければならない。

(34)

佳 ①宇野、宗教の史実と理論、六 セ頁 ㈲ 同 モ 三頁等

1 ㏄の・ ト のの |ノ Ⅰ め 四九1玉 0 頁 ㈲宇野、宗教民族学、 七頁 ㈲ 同 第二章二

の 円い 0 コ田 0 0 侍オの Ⅱ し抜執 宮田 幼 、︶の トプ 民族学研究一四 ノ一 参照

づ ・㏄ ㈲ 目ぃ 0 づ ・ Q アづ ・ ひ

のロら ce い の 00. トゆ 印の・ つつ,ト 切ヰ ㈹ 目 づめ臣の l% 吋岸 0 ゴの 目色 @o づ ・ n 洋 ・ せ口 ・ 肚 @ の ㈹ 崔 ・ "0 つ 0wn. づロし 下色

コ田 0 ドい ni の コ c の - 目の の ト

ワ 3 % ミコ 0 荻 ㈹旨が︶∼ コ 0 毛の蚕 "0 つま ・ つつ ・ NO,N の h :寒の︵の

岸 の 毛

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ついコ の l ㌧ 吋 ざわ ゴ のⅡ 隼 @o づ ・ 0%. Ⅰ・ m. 肚 0, 卜の

巨 ・ 下 ・ H 目 ・ H 繍ト

づロ ・のの l ︶ 0 の

甲づ ・

ハ旨

008@ 甲 % 分 0 ㍉Ⅱ 0 ︵わの毘のざ口の・ ゲワせ

、昭 Ⅰ ハ 宗教民族学の対象、目的 及ぴ 方法 一一一一一一 17 ア

(35)

三四 三 宗教民族学の古法の若干

対象規定を異にす

れる。 大 ぎく配列 す

日 の 由ゴ 0 宰を取るに 対

諸科学において古く

学的目的の為には 外

的とする民族学者は

主義者等は社会制度 フ ーブラウンとマリ

為に、件件法は彼等

その目的を達成しょ Af, としているのてある。

いたものであり、

抹 していた。然しこ

1 の一九一四から 四

色の Ⅱの、﹁西太平洋の

受容 し 、社会的事実

し 、後者が学問体系 176

(36)

ける諸文化項目の内的構造について 進化主義者は文化の可分性を広範 切断するのは勿論、一文化項目中の 似 現象を一括して、これを西洋人の た 。これに対して文化圏 説は 真向か な 世界文化史を形成したのである。 広汎に認める立場との対立がある。 れているであろうか。文化圏 と 言 う 宗教民族学の対象、 且 的及び

-

である。 歯に 是認し、一文化体系乃至文化統合中にお 諸文化要素をすら切断して、これを思 う がま 眼から見て価値の高低に排列し、これによ つ ら 反対し、特に時間の先後の決定には客観的

吾一口

ぅ までもなく更に両者の奥には文化の独立 けれども一文化 田 乃至一文化領域にふくまれ のは、 質 規準によって伝播関係が認められた 方法 げる﹂ つ ま駆使し て時間の 方法を挟 発明を広 る諸文化 文化項目 の 文化項目を た。 nn2. 。 ち 比較 先後をも決定 用して、これ 汎に認める五 項目間の関係 が、 重 規準に 三五 よ は

場に

し 法 文

つ如

て伺、

とよたに

つのよ

化 母 増 知

に伝てで

播壮

っ胎

て か せ ら を 太 っ 頽 ら Ⅰ 79 進化主義的民族学の方法については暫くお き、 歴史建設を強力に推進した油塊 の ︵ 5 レ

たことがあるから今は繰返さない。 ︵ⅠⅠ︶ る 点に相異が認められるが、共に内 ︶。就中マリノウスキ一のトロブリ ︵ 2 と せられ、マリノウスキー自身も﹂ 内探 的 研究は社会人類学者の訓練 と く 要求せられている。 科学としての社会人類学の夫々の う に一応は配列せられるし、その 考へられるので、その点についてだ 方法について解説する意図も持た 上に夫々の方法論が洗練せられる け記し 度 いと思 う

文化圏 説は ついてま

考えたい, 仝問題にし 度 い点は一文化圏にお 神法 によ る研究を行い、それによ アンド調査は

後に幾 撞 かの方大 九二四ロンドン大学において講義 して必須であることを強調してい

(37)

一一一Ⅰ 、ノ

過ぎないのだと思わ

化主義者の如く 、一

認めているの み であ

ろ 、シュミットにし

のではないようであ ︵ 6 レ る 。

は 形式的となり、

場合にも文化の機能

て一文化圏に入れる

の 実態を理解し得るのではあるまいか。

できない。我々は

ねたチャプ ル Ⅱ・ ロ ・

の必要がある。︵ 7 ︶

キーは 一 西太平洋

﹁珊瑚島の農園と ︵ 8 ︶

チャー ド は﹁ ァザン

亘る 現地調査に基 い

しめる方法に よ る 詫 Ⅰ㏄

(38)

理ゃ 哲学や社会制度 ラ一 ヂャー ザヤジラ エヴァ

ス目

・ 之 ・の qp 口才器の一雨印度のクール グ 族における宗教と 以て任ずる一宗教的 ン、フ オーティス 、 宗教を取扱った一典 ものであるかは両者

い 臣のの﹁ 北 ボル 不 ︵Ⅱ︶ 研究である。機能と 明らかにしなかった 教が 一般文化や社会

な方法論について 老 理論の発達と共に 宗 察しなければならない。 。なぜならば歴史科 リ ブ ーブラウンは 法

,ハ 0 社会生活現象、 三七 宗教民族学の対象、目的及び方法 Ⅰ 8l

(39)

三八

属せしめんと試み

しかない。検討す。 へ

然 科学の方法によ % る

よって考えられる 社 ︵Ⅱ︶ 解 である。

ふれ ずとも、 荷多

がこれであると思わ れるが、ここでは触れ得ない。

によって到達され

明らかにしたし、 又

事実であろう。そこ

5 が 、 然し個別から出発して全体に及ぶ科学的 方法として見れば、・ 各

は 社会学者と異 り、

ノ ウスキーのトロブ

ザ ンデ 族と トロプリ ︵㎎︶

ならぬ比較である。 182

(40)

が 文化研究において % 態的 類似に従って

配列して進化図式を 。コム ム の・ ト ・の 0 日ヨの

消した。民族学特に 調査は比較に基礎を

る , 0 2 。 ︶

マリノウスキー

して語ることがで き

傾 同を誤解したもの

代行せしめ得るに 至

を 用 い 得る可能性も

的 似而非生理学は 、

単に形態の比較に

な 比較でなく、実質 学者としてはファー 三九 宗教民族学の対象、目的及び方法 正 ㏄

(41)

の 必要上要求した して語り得るものと 口 O

数の学者を挙げる ︵ 羽 ︶ とができると思 う 。

天文学、地質学等

なるまい。近頃 コ

だ 十分に世人の検

あるが、抑々実験

ぅが 、この実験の

実 として存在する

ば 、人工に代 ぅる 文化の科学者の為

要 であることは ヒ 二白 代用であることを指摘しておぎ 度い 。 出された一般的な

密 に行 う ことによ て 法則に到達することができよう。 つ も @ ほ ほ

撞木

と 討 口 実 こ ス 184

(42)

四一 185 宗教民族学の対象、目的及び方法 思

珪弗

00

㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹

(9)(8)(7)(6)(5)

)(3)(2)(1)

る 。

o

0 ド目 ㍉ 卜 目 |

c

二八、

% 安 P 曲 5 、

) P 一 十 お一 頁 等

目ゆ

(43)

㏄ 四二 0 缶・ サせわ ・ づ ・のⅠ お 目の の Ⅱ︶ , ︶ ゆ切 p. Ⅰ・︶㏄ N.

㌧・三ゴ 田 on ガ

Ⅱ ひ ︶ ums ぎ

0%0

oh の ジレト ︵ 甘 ︵の・ ヴ片ドコ 目ののませ こ ︶のの か 1 の り

目ヰ す Ⅱ 0 づ巾 ︶ 0 ㏄ せ,ド のの 0. つつ ・ ト肚 ㎏ ド

りふ 荊得 なかつ

民族学は民族学の 一

起された問題の検討

とに触れ得たにすぎない。

めらるべ き だと 言

組織及び法則の為の

らぬと思 う 。

(44)

し い 遍 あ あ 士 類 お こ 点 要 る る 成 す か 先 れ が 当 ほ ろ ね ず こ が

いる題のをしくての

戒が

抱か

放学制

範 ぎ し

伽改祇

律 の で に 、 比 の め と の 意 あ 無 そ 正 宗 て な 集 義 る 余 れ に 教 断 る 女 ま 。 件 を な 的 る も が で 人 の 実 ら 性 ま の 普 も は 尊 践 ぅ 格 で は 逓 送 や 信 す と が も 妥 遠 や な ろ 思 、 見 な 成 当 な と 抱 こ ふ 失 い 員 性 も も い と 人 な こ の を の す て に は は と 自 持 と る ゐ 真 、 れ で 発 つ し と た 理 そ 易 あ 郎 で て 律 こ が れ い る な ゐ 否 の と 存 を か が 精

苦 去 に 戒 こ の あ の で か ら 規 律 と 上 る 運 あ は 5

代そ

な で 。 営 る 別 と 生 の 認、 僧 律 は こ 途 す 活 も め 伽 の と と に る に の て に 所 か を

べ か な 普 で で 五 に て

であるか、そして

問題を考へてみた

僧伽

ける制裁の問題

Ⅰ 87

(45)

四四 ぎであり、少くとも原始仏教時代の比丘 達が、

とは否定できない。

塞 いてめたのであ

ら ﹁ 四 不壊 浄 ﹂の 田 一万

てゐるとしても、 そ

の 自発的な修行応に

即ち比丘は僧伽内の

このことが律の波 羅 第一条 婬学処に、

に ﹁捨戒﹂と訳す を 示さずして、 実 にして、共に住すべからざるものなり。

が 波羅夷罪の罰であ

巴せ笘み Ⅰが コ盤由ガ が田 せ笛 ﹂

波羅夷ではないわば

去ることであり、 比 丘 たることを罷めることになるからである。 八 -- ︶

。法を拾っ。比丘 僧

居家法を受く。 我れ Ⅰ 88.

(46)

非沙門非釈子と作

。この

より明らか

我れ

仏を拾

﹂と

となる﹂と

云ふ天

︵四︶

自棄

で成

体を失ふか

とは、根本有部

律に

思ひ、一哉

仏を捨

至らない状態を云

である。これで見る

である。何人の許

れる僧伽には、

﹂に関係する僧伽

侶仰

における制裁の問題

四五

-189

(47)

四 ょハ

される僧伽が現前借 ま、見 Ⅰ

してお き 、その中に

ないが、最下限は四

規則を適用して事を 行って行かねばならない。

口僧 ︶しもにレ上ネⅠ 、そ

掲膣一 Fp 日日のと 呼

もこれを守らねばな

れを決定すれば、 僧

かかる方法で僧伽の

に 次いで重い刑罰で ある。これより重い罪はない。

決定する 掲磨 であ

、その時自動的に比

僧伽は関係しないか

は 罪を認めても 俄悔

何 はない者を摘発し

る瓶層 である。これ 1 ㏄

(48)

ある。その条文によると、 何れの比丘 と唯 ども、次の如 者に障 擬 とならず。斯くの如 次の如く忠吉さるべし。﹁ 長 なり。実に世尊によりては、 と説 ぎた ま へり。それに耽る 信仰における制裁の間 橿 ぎ 説を作 す 比丘は 、 く我 れは世尊所説の 老 よ 、この如く説く その如く説かれず。 者に 払 わず 障擬 とな 即ち﹁世尊によりて 障 通 法を了解す﹂と、かく 説 勿れ、世尊を誇 排 する 勿 友ょ 、無数の方法に よ り るなり﹂と。この如く 諸 法 なりと説かれたる法も、これを 行 ふ くならばこの比丘は、諸比丘によりて ね 、世尊を誹 諾 するは宜しからざれば 、世尊は障適法 は障 擬きなすものなり 比丘によりて忠告されつつも、彼の比 91 Ⅰ 口七

しその 比

伏するの

執行する

比丘が 、

制 力の 発

に 課して

放 これは

を 中心と の 意味を考へてみたい。

で 禁止

の 三種が ︵七︶

﹁悪見 違 諫 あ さ し 前 、 現 そ 謁 で 丘 学 る れ て 三 弦 と の 磨 ・あ の 処 。 て 、 者 制 は 折 て る 行 」 律 , ゐ 制 と カ

言伏

あ 。 為 て ・ - る 裁 異 に ひ に る 以 が

(49)

四八 92 へし 。若し三度 れば 波逸提 なり。 遺法とは修行の妨げ いとする説の外に 、 を法 と説 き 、 非律と る 。 正 によりて﹂ 諫吉 した比丘 達 がその 比 の ,席上で 諫吉 ながせ 磨が用みられる。 即 を 捨てしむる為に 諫 として上記の条文 の 意見を邪説なりと が 審議するには セ種 種 であって、この時 れば、僧伽は上記の 由羅 罪で済むが、三課 説かれてるるのみで

(50)

て波逸提が 成立する

が 見られる。 波羅提

一 ・諸比丘﹂となって 時期には、まだ僧伽 かしこの点に関して は 今は詳説を避けた い 。

僧伽の三課にも 屈 かかる場合に仏陀な 説を 、そのまま僧伽 わ げである。 そお が のである。 婬 徹法 は障 遺法で らその因縁 趙 とし 仏陀に呵責されても 僧 伽における制裁の問題 口元 Ⅰ 93

に 諸比丘の蟄 ロと、 るわけである。この

ず 始めにその比丘の 時に僧伽で三課せよ

(51)

五 O

阿梨托 経にも、大体

を 捨てなかつたと 云

い 。後世次第に仏陀

ても、仏陀の在世に

﹂とも起り得たと思は

し 仏陀の - 在世にかか

悪見遠謀 学処一は、

を 母胎として成 ヱし て き たものではないかと考へられるのてある。 一

諫学処 ﹂である。 これは、

に 忠告せしめた

語る勿れ。 苦 れ

比丘は比丘 達に

にこそな せ 。 尊

の ・如くにして 世

丘は 諸比丘に ょ 194

(52)

者 よりもその罪を重しとしたのであらう。

釈から

する作法 減悔 すれば、そこで直ちに 撰 悔は受理され、 , ﹂れに ょっ

るのでは に 発露 せ

摩那睡を

期間比丘 、その 為 五一 倍仰 における制裁の問題

理解する

である。 放 て罪は浄め なく、更に ず、 若 千日 なすのであ としての種 に目下 別住 この比丘は諸比丘により れば善し 、 若し捨てざれば も内容は同じである。この条文 を 禁じた規則である。﹁説戒に なるべ き ものである。﹁諸比丘 ず 諸比丘に よ る 諫昔 がなされ、 る 。そして - これでも捨てない 場 のは僧残罪であり、罪に相違が は 、僧伽としては絶対に排除し 、それを捨てしめる為に三度まで 諫告 僧伽 婆戸沙 なり。 は 、他人の諫 昔 を麦げないこと、即ち 含まれる 学処 ﹂とは、半月半月の布薩 によりて。 一 とは、前述の﹁悪見 違諫学 それでも不愛 諫 語を捨てない時には 僧 今 に僧残業が成 ヱ するのである。邪見 ある理由については・何等の説明もない なければならないから、邪説を唱へる

(53)

五二

目 に実行すれば、 僧

僧伽でなくて - は、行 ふことが許されない。

しないのであるか

僧伽は僧伽の秩序を

ないわばである。

同じである。間 陀

口等 のものなり。法は

昌己の王八であった

五達を軽侮 し 、その

に 際して、五口が し

あらう。阿難が仏陀 ︵一丁Ⅰ︶ れの場合にも コ ー サ

壇 を言 ひ 渡されたこ

実、が 母胎となって 、

悪性遠謀 学 処は律の

する。故に条文中に

本文に編纂されてゐ 196

(54)

19 五三 信仰における制裁の問題

如律掲磨

にして、

たのであらう。 四

めても 俄 惇生日 ん

、かかる比丘が如何

在 の 律 藏は後世の改 ︵一山ハノ

広律 に共通的に認め ︵一 し千 @ ︶

な 行 ひ 、僧伽 と 下夫

す 0 幅曲 ㍉∼の の宙 - 抽オ 0 ロの・﹂ あり、一緒に住して

を 四分は﹁小捻悪見

誹 契経木 拾挙謁磨 ﹂ てある。

を 例として述べて

る 。それに よ ると、

ぬ たる後、罪を与ふ

作し覚りて応に罪を の手続が必要であ

(55)

す、 難じて 作す 。憶念せしめて、 有 実なる には、 必 らず現前︵本人の面前︶で 行 ば れ 俊士 掲磨 、 挙罪謁磨 、下意 謁 磨を作し てゐる者になした 謁 磨は無効である。この は 、被告が故意に裁判を忌避すれば裁判は いことが前提となって ぬ たのである。第二 る 。﹁ 汝 これを作したりやⅠ と 貸間し 、 ﹁ のに無理に掲 磨を作 すことはしない。本人 拒否したり、或いは虚偽の陳述をなすこと 実を追求することに僧伽生活の生命があ あることが、比丘 達 全体に徹底して ぬ たか とが、この規定に示されてゐるわけである 、本人に知らしめることである。これは して罪を受けることが意味されてゐる。 ないことを見極めて、然る後に掲 磨 をなす がなされる。これは 謁磨 てあるから、 不能者は﹁年秋﹂︵権利の委任︶ し、 然らざ 丘を除外して事を沃 定 してしまふそうなこ 五四 を 、承認せしめ、現前せる ばならない。欠席裁判は許 此れ皆 不如法の謁 磨 にし 規則は被 挙 比丘︵ 被 仝 口 ︶に 充 不可能になるが、仏教の僧 に ﹁憶念せしめる﹂とは、 我 れまさしくこれを作した の 自発的承認が裁判を作 す は 考へられてゐないのであ るのであり、 構 って虚偽を らである。故に破古の座に 。次に第三の﹁罪を与ふ﹂ 誤解や無知の為に罪に陥る 悪見本 拾掲 磨の場合には、 のである。 勿論現前僧伽の﹁・和合一が る 比丘はすべて出席して ゐ とを防ぐ意味であり、同時 Ⅰ 98

(56)

へる為である。同時に 又か ある。悪見本槍 謁 磨の自は

謁を行って、 阿梨旺を僧 なければ 謁 磨を結し、ここ 丘と 小兵 往 になる・義務を負 て 、 被拳 比丘 と 共住しては ことになる。

は 合するが細かな点に 制裁と同じであるとされて を宙 んで ぬ る。 即 ・ちそれは

比丘尼 教 誠の選を受 ソ、べ

, べからず。 7 他の相似の 人を呵すべからず。Ⅱ清浄 すべからず。 巧 許可を求む ︵三一一︶ の 十八事である。四分律に まれてゐるが、 向 この外に ︵一一五︶ ︵二七 % ︶ 随順して五事を行ずべきな 僧伽における制裁の問題 ついては 諸 律の間に一致は認められない。 ぬ る。この点は他律においても同様であ ﹁工人に具足戒を授くべからず。 2 人に からず。 5 選ばれるも比丘尼を教 試 すべか 罪を犯すべからず。 8 北 より悪しき罪を犯 比丘の布薩を妨ぐべからず。 桟自 悉を妨ぐ へ からず。㎎罪を難ずべからず。 U 罪を憶 は 五事ずっ纏めて セ 種を挙げ、ム月計三十五 ︵一一四︶ 日常生活の心得等も列挙されてゐる。五分 ぬ る。以上の三律は大体 パ一リ 律にム口 す り ﹂として、比丘 事 、比丘尼 事 、春屋事・ 五五 くしてなされた僧伽の決定には、全員が責 、和合僧の席上で、一人の比丘が立つて、 伽と 小兵 往 ならしむべし﹂と議題を提案す に 悪見 本捨謁 磨が成立するのである。この ふことになる。この禁を破って 被挙 比丘に ならないと 云ふ 律に触れ、 波逸提に 堕する 199

(57)

むことが許されて

見なくてはならな

比丘

との交際が

五が出席しなくと

出席することは

- な示

機会を与へんが為で

をよ

く守り、随順行

はるな

こ為い

味得あ

てで

にこ

るる。

大翔

体磨

れ に 。 で 通 る 比 と 諸 に 事 中には他律と合する項目 にも見られ、四分と僧祇 戒を授けたり、俊士を与 である。異端説を説く者 謁 磨 る遮 すべからず﹂ 以 持ってゐる。故にこれを 随を妨ぐべからず一等 は 許されない。 必 らず 繊悔 比丘はこれを 遮 すること 他 比丘の罪を挙げる種々 等 が許さかないのである。 五山

も 多いが、しかし余分の項目もある。 とには更に余分のものがあるわけであ へたり︵指導をすること︶、 沙 禰を蓄へ にこれが禁止されるのは当然である。 下は、僧伽の会議に発言を禁ずる意味 失 ふことは、僧伽の正式の構成員とし

他 比丘の罪を指摘することを禁ずる して清浄になって出席しなければなら ができる。 自洛 を速する、罪を指摘す なる現人ロ を云 ふめてあり、この比丘に 2 ㏄

(58)

を 云ってみ る 。 即

へし 。若し来りて 塔

住することを禁じて

共にせず。法を共に

欲せば 便ち 坐せ 、と

もその屍を供養する

あるが、しかし僧祇

一方には当時大乗 仏

らの排除を主張して ぬ ることは、一考すべ き 事柄である。 五

へた。そして悪性

れは 内 ・ 谷 的には上記 ︵一一九︶

ると 一 然らば比丘 達 ︵ 一 - 一八︶︶

れてゐる、四分律で ︵一一一一一一︶ ︵ 亡 一一 ︵一一一一

磨 ﹂、五分 律も ﹁ 不

順序は何れの律蔵 で 五セ 信仰における制裁の問題 201

(59)

外 ら よ

からず。 道に奉仕 ず 。乾固 り 立つべ からず。 38 し 一 十 26 比丘 と比 , べから 屋内の非 。 菊精 ・ 含 相 倶に 語 も 大体同じである。 下見 罪掲 磨も悪見本 拾 ︵一一 市凸 一︶ る 。即ち パ一リ 律によれ 憶念せしめたる後、罪を し、 次いで三堀 磨 をなし ね 、僧伽 と 小兵 往 ならし 小兵住の条件は諸 律の 他 の律蔵では、小兵住の 多くの条件を出してゐる へ からず。 4 比丘尼 教誠 李罪叛膳を 受けたる罪を 9% 磨を遮 すべからず。 ㎎臥具の設 け 、Ⅱ洗足 水 五八 じであり、障って 鵜 磨の仕方も大略同じであ を難 ずべし。難じたる後、憶念せしむべし。 で、一人の比丘が立って不見 罪謁 磨の白をな 成立すれば、その比丘は種々 な 資格が停止さ められるのである。 ハ通点が認められる。ただ バ一リ 律を除いて 一リ 律のみは悪見下槍 掲 磨の場合よりも更に 。 2 人に依止を与ふべからず。 3 秒禰を蓄ふ 試 すべからず。 6 僧伽より罪を見ざるにょり 8 それよりも悪しき罪を犯すべからず。 、 花迎逆 、はムロ 掌、 Ⅱ恭敬、 F 坐具の設 け 、 洗 背を受くべからず。 援 清浄比丘を壊 戒 なり 202

(60)

せ しむべからず。 弗

は 、悪見本槍 謁磨の 座 に着くべ き 制裁で

条件は、小兵 住と他

らないと 云 ふこと 以上の如くパーリ律では不見 罪鵜 雙の制裁は 、 悪見 本捨謁 磨の制裁

三十五事を何れの 掲 は 悪見 本拾鵜膳 には十八事を出すのみである。

なった。これは 浬

てゐる点が見られ

しかけるべからず、

しないが、しかし 共

趣旨を・律のヱ場から

上 の如 き 形で 損 席さ

限り、自己の行為を

分 に果し得るのであ

伽の成員全体を制約

のであるが、しかし 五九 僧伽における制裁の問題 203

(61)

あるから今は省略する。

説を説くことと、

解釈に関して見解の

と 駕しり合ふであら

あらう。かかる場合

ふ より方法はない。

体 が二 派 に分れて 柑

由 P ︶の危険を冒すこ

っ たり、罪なき者が

へぎ こと、並びに 僧

げである。

・︶

律の規範の権威を維持す

はなければならない。

てゐる。これは不見

と異つて、自己の犯

これも

挙罪掲贈

の一種であり、本質的には

ると見てよい。これも何れの

蔵も開院

を例

︵一一一七︶

︵三九︶

︵ 四

0

︵四一

畢 べ と 下 し た 罪を認めるが、しか ・ 見罪謁磨と 同じもので して説明してゐる。 パ し ﹂と規定してゐる。 ネ能 作挙謁磨一と 訳し 六 O ㏄ 2 る 根源となってゐると 云

(62)

ユ " ㌧ ノ,

の 制裁 謁 磨を説い 田 ㏄卍ト︵ ゴトト円ソ Ⅱせ い卜み ・﹁ 駆

ヰガ・の四海 磨 であ

為を禁ずる 謁磨 であ

ることを命ずる 謁磨

の 土地︵精 舎 ︶から 益を計った比丘に課 、しかし 挙罪掲媛の

て諫 古さおても 背き

ある。しかるに此等

やめよと 掲磨 をなす

が 信者に謝罪するこ の 意味であり、依 正

者に謝罪すること

考へ難い。

ぅ 。それをど うす

なれば、邪見を拾 て 05 棺仰 における制裁の問題 山 八一

(63)

Ⅱ ノ へ 一一

して、制裁 て ゐない。 者の不利益 れを不見 罪

0% 酒 にも 。即ち パ| た 者がその

られれば、

はれる。 そ 、それを 学 補ってゐる点も注目される。 れてゐる

来話 謁磨 ﹂

折伏 謁磨 、

磨を説いて みが他律の

ずる 謁磨で 服 徒しない 者 あ 折 ゐ 2 は が り 伏 る

数以

し あ 、 鵜 。

鞍上

か つ 梵 押 こ、 犯 の る 処 し 直 謁 り 挙 鵜 を 即 を と て ち 膳 待 罪 磨 な ち 加

(64)

信仰における制裁の問題 20 ア

て 方の方が合理的

ハ一 リ 、四分、五

に 関係があるであ

ることが て き る 。

せしめて、波羅 提

のでヱ入って論ず ことは避けたい。

こ生 @,

く 力 女 @.

巻 三六

は @

同、

を拮

一、

す る

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