• 検索結果がありません。

龍谷大學論集 474/475 - 009田中龍山「ソクラテスのダイモニオンについて(一) : 神霊に憑かれた哲学者」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "龍谷大學論集 474/475 - 009田中龍山「ソクラテスのダイモニオンについて(一) : 神霊に憑かれた哲学者」"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ソクラテスのダイモニオンについて

││神霊に濃かれた哲学者││

/園、、 、~

序章

ガラクシドロスの問い

プルタルコスの著作﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄は、その表題のとおり、ソクラテスのダイモニオン が主題のひとつとして論じられている。プルタルコスの生存年代は紀元後四六/四七

l

一 二

O

年頃と推定され、こ の著作の執筆時期が彼の晩年であろうと推測されていることからすると、ソクラテスの死後、およそ五百年以上た った時期にもなお、ソクラテスのダイモニオンは論じるに値すべき事柄とみなされていたようである。ダイモニオ ン と は 、 ﹁ ダ イ モ

1

ンのようなもの﹂、あるいは﹁ダイモ

l

ンの合図﹂のことである。そしてそのダイモ

l

ン と は 、 日本語では寸神霊﹂、あるいは﹁神格﹂と訳され、当時のギリシアでは、 れに匹敵するものとして、信仰の対象であっ九。さしあたり、このように理解していいだろう。つまり、﹁ソクラ かの有名な、ソクラテスの行為に関与したとされる、神の声のようなものなのである。 一 般 に ﹁ 神 L と同等のもの、あるいはそ テスのダイモニオン﹂とは、 では、どういう点で論じるに値すべきものだったのか、それはすぐに明らかとなる。 このプルタルコスの著作は対話篇形式で書かれている。そして、プルタルコスがその対話の舞台として設定した ソクラテスのダイモニオンについて(一)(田中) -219一

(2)

ソクラテスの死後二十年、場所はテパイの老シミアス邸である。シミアスとは、プラトンの対話篇﹃パイド ン﹄でソクラテスの対話相手を務めたあの人物であ&。﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄の作品としての構 成はじつに秀逸であって、プルタルコスはまさにその﹃パイドン﹄をひな型としたのではないかと、推測されるほ どであも。紀元前三七九年、スパルタの侵攻によりテパイは寡頭派に占拠され、民主派の政治家たちはアテナイへ と追放されていた。その追放者たちが、テパイに残っている民主派に導かれ帰国し、ともにテパイを寡頭派から解 放する企ての顛末がこの対話篇の縦軸となっている。そのなかで、表題となっているソクラテスのダイモニオンの 問題、さらには哲学的ないくつかの間題が、横軸となって議論されているのである。ダイモニオンや占いは、テパ イ解放の企てにそのつど不安感や安心感を与える要因として組み込まれている。そして、ダイモニオンがまず最初 に議論の主題となるのは、ダイモニオンの怒りを恐れているスパルタ人、また、ダイモニオンの知らせを待ってみ ずからの行動を決しようとするイタリアからの客人、そういった人たちのすがたが語られた時である。ひとりの人 物が、そのようにダイモニオンを恐れ、あるいはそれを信頼して行動を起こすことに対して異議を申し立てた。少 し長くなるが、すべて引用しておこう。 の は 、 ﹁いったい何ということでしょう。やはり、空言や迷信(ダイモ

l

ンへの恐れ)から影響を受けない人を見つ けるのは一仕事なのです。じっさい、ある人たちは、みずからすすんでというわけではありませんが、経験の それらの感情に捕らえられています。また、神漏出り的な人や、ある種の変わり者と思わ れている人のように、知性に現われるものよりも夢や幻影ゃそういう類いのものを優先させて、自分たちの行 ないを神的なことであるかのように言う人たちもいるのです。たしかに、政治に従事している人たちゃ、自分 勝手で放縦な群集相手に生きざるをえない人たちには、きっとそれらは役に立たなくはないでしょう。ちょう なきゃ軟弱さゆえに、 -220一 龍谷大学論集

(3)

ど馬につける衡のように、迷信(ダイモ

l

ンへの恐れ)を利用して、大衆を適切なことへと引き寄せ、方向を そういった態度は形をなさないだけでなく、哲学が公言 つまり、哲学は善いものも有益なものもすべて議論(ロゴ ス)によって教えると公言しながら、行為の原理に関しては、議論をさげすむかのように神々に場を譲り、そ して哲学が尊重されるゆえんであるところの論証さえもないがしろにし、神託や夢のお告げに屈服しているか きわめて愚かな人が、すぐれた人に劣るこ 変えさせるのです。しかしながら、哲学にとっては、 していることと矛盾するようにも思われるのです。 らです。じっさい、神託や夢のお告げにもとづくことにおいては、 となく事を成し遂げることがしばしばあります。 ですからシミアス、あなた方の友人ソクラテスは、 より哲学 にふさわしい教育や議論の形を身につげていたとわたしには思われるのです。彼は、素朴さや率直さを自由人 そしてとくに真理を愛することを好み、 ものとしてソフィストたちのほうへと追いやったのです﹂ その一方で、空言を哲学の煙のような にふさわしいものとして好み、 この発言主は、ガラクシドロスという名のテパイ民主派のひとりであり、そしておそらく歴史的人物であると思 われ弘。だが、ほぽ無名の人物と言ってもいい。ひょっとすると、プルタルコスは、そういう人物に語らせること によって、ここで語られている内容が、当時ごく一般的で素朴な問いとして人々に広がっていた、と言わんとして いるのかもしれない。それはともかく、語られていることはきわめて重要である。端的に言えば、﹁ダイモニオン (神霊のようなもの)に従って行動すること﹂と、哲学の立場である﹁ロゴス(理性・議論)に従って行動するこ と﹂とは相容れないのではないか、という聞いである。そしてその問いは、引用からも明らかなように、ソクラテ スに向けられているのである。じっさい、今日わたしたちに伝えられているいくつかの書物によると、ソクラテス は一方で、ダイモニオンによってみずからの行為を決し、他方、理性的であること、議論を重んじることを主張し ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) n r “ η , “

(4)

ている。そのすがたは、寸神霊に葱かれた哲学者﹂とも言うべき二面性を感じさせるものである。ガラクシドロス が問うたのはまさにその点であった。わたしは、それらの関係をただす問いを、彼の名にちなんで、寸ガラクシド ロスの問い﹂と呼びたい。﹁哲学は善いものも有益なものもすべて議論(ロゴス)によって教えると公言しながら、 行為の原理に関しては、議論をさげすむかのように神々に場を譲り、そして哲学が尊重されるゆえんであるところ の論証さえもないがしろにし、神託や夢のお告げに屈服している﹂。ガラクシドロスのこの言葉は、哲学の根幹を ゆるがす本質的な間いであると言えるだろう。 きて、この﹁ガラクシドロスの聞い﹂は、プルタルコスの著作年代からすると、ソクラテスの死後五百年以上た ソクラテスの死後二十年である。おそらくその当時すでに、 って発せられたものである。だが、その設定場面は、 事柄としては問題になっていたと考えることができるであろう。あるいは、 まさしくソクラテス自身が生きていた ときにも、問われていたのかもしれない。さらにそれだけでなく、このわたしたちが生きる現代においても、 り、ソクラテスの死後すでに二千四百年をすぎたいま現在も、寸道徳的行為の自律

(

B

o

g

-M

E

Z

ロ 。 自 主 L の問題と して、熱く議論されている問いなのであ&。 そこでわたしは、以下の手順で、寸ガラクシドロスの聞い﹂をめぐる歴史的な議論をおいながら、 それぞれにお いてどのような回答が与えられてきたのかを明らかにし、最終的に、プルタルコスの﹃ソクラテスのダイモニオン について﹄において与えられている回答を、ひとつの終局的なものとして示したい。 第一章 第二章 第三章 奇人ソクラテス││﹁ソクラテスの訴状 L 、アリストパネス プラトンの報告 1l-﹃ソクラテスの弁明﹄および諸対話篇の考察 ダイモ

1

ン伝説 の考察 雲 ワ u n r “ 内 f “ 龍谷大学論集 つ ま

(5)

第四章 第五章 第六章 終章 三 ー 一 人聞の守護者としてのダイモ

1

ン││﹃パイドン﹄からの遡及 神とダイモ1ン││﹃パイドロス﹄から﹃ポリテイコス﹄へ 神と人間との媒介者としてのダイモ

1

ン││﹃饗宴﹄からの遡及 魂の一部としてのダイモ

1

ン││源流としての﹃ティマイオス﹄ 一 一 一 │ 二 一 一 一 │ 三 三ー四 クセノポンの報告││﹃ソクラテスの思い出﹄﹃ソクラテスの弁明﹄の考察 ダイモニオン伝説││擬プラトン﹃テアゲス﹄、擬ソクラテス﹃書簡集﹄、キケロ﹃占いについて﹄ 考 察 /、 プルタルコスの回答││﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄ ダイモニオン議論第一幕(九│一一一節)の考察 ダイモニオン議論第二幕(二O│二四節)の考察 ソクラテス││神霊に愚かれた哲学者 の考察 六 かつ現代的な聞いに、歴史的な考察でもってささやかな寄与をなそう、 と い う つまり、哲学にとって本質的で、 のが本論の意図である。

第一章

奇人ソクラテス││﹁ソクラテスの訴状﹂、

アリストパネス

﹃ 雲 ﹄ さて、先の寸ガラクシドロスの聞い﹂に対して、プルタルコス﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄ の当該個 所では、テオクリトスという名の人物が、あたかもソクラテスのダイモニオンを空言とみなしているかのように見 えるガラクシドロスに対して、ただちに次のような反応を示した。 の ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中)

。 、

u n z “ 。 λ M

(6)

﹁何ということを言うのですか、ガラクシドロス。 メレトスはあなたをも説き伏せて、 ソクラテスが神々に関 することを軽視していると思い込ませたのでしょうか。というのも、 相手にソクラテスを告訴したのですから L そ の こ と で メ レ ト ス は 、 アテナイ人たち このように語るテオクリトスは、テパイの占い師であり、プルタルコスの著作のなかでは、事の吉凶を占ったり、 また神に犠牲をささげたりするなどして、企てに深く参与している立場にある。いわば、当時の信何の立場に立ち ながら、なおかつソクラテスに信頼を寄せていた人物である。彼のこの発言は、ソクラテスが﹁神々に関すること を軽視する﹂という理由でメレトスに訴えられ、処刑されたことへの強い反感を示すものであって、﹁ガラクシド ロスの聞い﹂も、信仰者であるテオクリトスには、メレトスの立場に通じるような、ある種の違和感をもって受け 止められたことが見てとれる。この発言を受けて、ガラクシドロスは、けっしてそうは言つてはいないが、やはり (理性・議論)の立場に立って哲学をしていたはずではないか、そのように繰り返し言う。す るとテオクリトスは、ここで明確に、ソクラテスのダイモニオンに言及しこう述べたのである。 ソクラテスはロゴス ( 叫

v

b

t

F

走 。 足 。 電 叫 VMe

g

e

q

)

は偽りなのでしょう か。それともわたしたちは何と言えばいいのでしょう断﹂ で は 、 ど う で し ょ う 。 ソクラテスのダイモニオン や は り 、 ソクラテスのダイモニオンをどのように理解すべきか、このことがまさに問題であったのだ。

*

では、プルタルコスの著作を少し離れて、先のテオクリトスの発言にあったメレトスという人物の書いた訴状を -224-龍谷大学論集

(7)

ソクラテスはダイモニオンをめぐって訴えられることになったのだが、訴えた側 の言い分、あるいは訴えた側から見たソクラテス像というものを、まず描き出したいと思う。 見てみることにしよう。そして、 ソクラテスの訴状に関しては、プラトンの﹃ソクラテスの弁明﹄やクセノポンの﹃ソクラテスの思い出﹄などで も取り上げられている納、ここでは、メトロオンの公文書保管所に保存されていたと伝えられるものを手掛かりと したい。それは次のようなものである。 ﹁ピットス区の人メレトスの子メレトスは、 アロペケ区の人ソクラテスを次のごとく告訴し、宣誓をしたうえ で口述する。ソクラテスは、国家の認める神々を認めないで、他の新奇なダイモニオンを導入する

( h a

も Q という罪を犯している。また、青年たちを堕落させるという罪も犯して 民 ﹃ WHhHh 刷 、 内 町 民 ﹃ Q h h H S H h h H 向 h q q u 、 。 同 u h h 向旬。 q) いる。よって死刑を求刑する﹂ この訴状によると、﹁国家の認める神々を認めないで、他の新奇なダイモニオンを導入するという罪を犯してい る L と記されているように、 ま さ し く 、 ソクラテスはダイモニオンが理由で訴えられたのである。もちろん、 ラテスはこれに対して弁明を行ない、 そのソクラテスのすがたを、プラトンやクセノポンは書物として残そうとし た。それらに伝えられる弁明はのちに詳細に検討するが、 たとえばプラトンも、ダイモニオンについてソクラテス 自身が語ったことが原因となって、 ソクラテスが訴えられたということは事実として認めている。﹃エウテュプロ ン﹄という対話篇のなかで、プラトンは、 ソクラテスとエウテュプロンとのあいだでの、次のようなやり取りを描 い て い る 。 ソ ク ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(問中) p h u n , “ 。 L

(8)

ソクラテス﹁それが驚くことに、ただそう一吉われただげでは、なんとも奇妙なことなのだよ。 スはわたしが神々の創作者であるというのだ。そして、わたしのことを新奇な神々を創作して、古来の神々 を認めない者とみなして、まさにこれらのことゆえに告訴した、とこう主張するのだ﹂ つ ま り 、 メ レ ト エウテュプロン﹁わかりました、 ソクラテス。それはきっとあなたが、自分にはしばしばダイモニオンが現わ とおっしゃるからですよ﹂ れ る

( q e

E

S

q

q

Q

S

v

h

R

m

E

s

a

u

k

志 向

q F

h )

プラトンの著作﹃エウテュプロン﹄は、﹁敬度さとは何か﹂を主題として、ソクラテスと宗教家エウテュプロ拘 が議論を交える対話篇である。ここでの二人の対話からは、メレトスが訴状で述べたようなことは、単にメレトス 個人の考えによるものではなく、やはりある程度、当時の人々に知れ渡っていたものであることが読み取れるであ ろう。﹁自分にはしばしばダイモニオンが現われる﹂。どうもこのように、ソクラテスは自分で語っていたようなの である。それがメレトスのみならず当時の人たちには、訴状に語られているように、﹁新奇なダイモニオン﹂と映 っ た の で あ ろ う 。 ところで、先の訴状によると、ソクラテスは、このダイモニオンに関することと、もうひとつ、﹁青年たちを堕 落させるという罪も犯している﹂という罪状でも訴えられている。これら二つの罪状がどのように関係しているの か、つまり、寸他の新奇なダイモニオンを導入する﹂ことが原因で、﹁青年たちを堕落させる﹂ことになったのか、 あるいはそれら二つはそれぞれ独立したものなのか、この点についてはまた後ほど議論されねばならない。けれど も、それはいずれであるにしても、ソクラテスは、この訴状を提出した当人以上に、メレトスにこのような訴状を 書かせるにいたった人たちを、また、その人たちによる大衆への影響を、恐れていたようなのである。プラトンは ソクラテスに次のように語らせている。 ﹃ ソ ク ラ テ ス の 弁 明 ﹄ の な か で 、 -226一 龍谷大学論集

(9)

わたしについてなされた、 とうぜんの権利として、わたしに弁明が許されるのは、アテナイの皆さん、 いつわりの最初の告訴と、その最初の告訴人たちに対してでなければならない。そ ﹁さて、それでは、まず最初に、 して、そのあとでなされた告訴と、 そのようなあとからの告訴人たちを相手にするのは、それから後というこ とになる。そのわけは、わたしをあなたがたに向かって訴えている者は、多数いるのでして、 かれらはすでに は そ の 連 中 を 、 しかもやっぱり何ひとつ本当のことは言わないで、 アニュトス一派の人たちよりももっと恐れているのです﹂ そうしているのです。わたし 早くから、多年にわたって、 メレトスなどを使ってソクラテスを訴えさせた、いわば黒幕的な存在ある。しかし、ソクラテ かれよりも、﹁その噂をまき散らした連刷﹂のほうを、﹁最初の告訴人﹂と呼び、まるで欠席裁判にかけられ たかのようだとして、よりいっそう恐れるべき存在とみなしているのである。というのは、彼らは対話することの ア ニ ュ ト ス と は 、 ス は 、 できない無記名な相手だからである。そのことを、 ソクラテスはこのように言 hつ 。 寸そして、何とも言いようのない、 その連中の名前さえも、 それを知ることができないということです﹂ ちょうどひとり、ある喜 いちばん困ったことは、 劇作家がいるということを除いては、 で は 、 そのようなソクラテス像を、 つまり、訴状で訴えられたようなソクラテス像を形成した﹁最初の告訴人﹂ と は 誰 な の か 。 ソクラテスの言うように、 そのすべての名前を特定することなどできないであろう。し お そ ら く 、 か し 、 それでも彼は、﹁ある喜劇作家 L に触れている。そしてそれは間違いなく、数段落後に名前の出てくるアリ ストパネスのことを指している。そこで次に、 アリストパネスの作品﹃雲﹄ に描かれているソクラテスを見てみる ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) ヴ d n L 内 , u

(10)

こ と に し よ う 。

*

アリストパネスは、紀元前五世紀後半から四世紀初頭にかけてアテナイで活躍した有名な喜劇作家である。そし て、ソクラテスを登場人物のひとりに仕立てた﹃雲﹄をディオニシア祭で上演したのは、前四二三年のことである。 ソクラテスが四十代後半、プラトンはまだ幼少四歳そこそこにあたる。﹃雲﹄は、当時アテナイで影響 す な わ ち 、 力を持ちつつあったソフィストたちへの批判が、そのモティ

l

フであると言われている。ソフィストたちは、人間 中心的なものの見方をし、伝統的な価値観を脅かす存在とみなされ、アリストパネスは、ソクラテスをまさにそう いった人物のひとりとして描いているのである。また、もうひとつのモティ 1 フとして、古くからもっと具体的に、 ﹁アリストパネスが﹃雲﹄を書いたのは、アニュトスとメレトスにそそのかされたためであふ﹂といったことがま ことしやかに語られでもいたのである。 さて、喜劇﹃雲一﹄において主役を務めるのは、地方の裕福な地主ストレプシアデスである。彼は、放蕩息子ペイ ディピデスを言論に長けた人物にしようともくろみーーもっともそれは借金取りから逃れる言論であるが││、ソ クラテスの﹁思案所﹂なるところに息子を弟子に出そうとするがうまくいかず、ついには自分自身が入門しソクラ テスと対話を交わすことになる。それに先立つ場面で、ソクラテスという人物をめぐって、ストレプシアデス親子 のあいだで次のような会話がなされる。 ストレプシアデス﹁あれが優秀な頭脳が集う思案所なのだ。あそこには、天は火消し蓋であると説明しわたし たちを納得させているひとたちがいる。その火消し蓋がわたしたちに覆いかぶさり、わたしたち人聞は炭で お金さえ払えば、正しいことであろうと正しくないことであろうと、議 あると言うのだ。そのひとたちは、 - 228一 龍谷大学論集

(11)

論に勝てる方法を教えてくれるのだ﹂ ペイディピデス寸いったい何者なのでしょうか﹂ ストレプシアデス﹁名前は正確には分からないが、思索に没頭している立派な人たちだ﹂ ペイディピデス﹁なんと、救いようのない連中だ。わかりましたよ、お父さんが言うのは、あのほら吹きの、 青白い顔をして、履物もはかないでいる連中のことでしょう。悪しきダイモ

l

ンに輝かれているソクラテス 側

ω

カイレポン一味といった﹂

(

e

M

e

s q )

や 、 他の人たちによって伝えられるソクラテスとはあまりに異なるが、 で描かれているソクラテス像 ひ と ま ず ﹃ 雲 ﹄ を追うことにする。まず注目すべきは、﹁悪しきダイモ

l

ンに愚かれているソクラテス

Z

M

R

R

5

9

豆 、

e

刷 、

M

e

s q )

﹂ という個所であろう。それが、息子ペイディペデスの口から語られていることも注意しておく必要があるかもしれ よりそういった知識に乏しいはずの人物にも、ソクラテスがダイモ

l

ンと関連づけられて語られて いる、というアリストパネスの設定にである。そして、その﹁悪しきダイモ

l

ン に 混 拙 か れ て い る ﹂ ソ ク ラ テ ス の 行 戸 h h E O +匂し つ ま り 、 ひとつは、﹁天は火消し蓋である﹂という言葉に見られるように、 や﹁地下のこと﹂について珍奇なことを論じることであり、もうひとつは、﹁お金さえ払えば、正しいことであろ うと正しくないことであろうと、議論に勝てる方法を教えてくれる﹂ことなのである。これらふたつの、ソクラテ スのロゴス(議論)に関する営みを、もう少しだけ﹃雲﹄のなかから見ておくことにしよう。 最初に、前者については、かなり有名な次のようなソクラテスとストレプシアデスとのやりとりがある。 ないとされているのは、 いわゆる寸天上のこと L (簡の中に入って用られているソクラテスに向かって) ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) -229一

(12)

ストレプシアデス﹁あなたは何をしているのか、 お願いです、わたしにまず教えてください﹂ ソクラテス﹁空気を踏み、思いを太陽の周りに馳せているのだ﹂ ストレプシアデス﹁用り篭のうえで、神々を見下ろし、思案しているわげですか。地上ではそうはいかないか ら で す ね ﹂ ソクラテス﹁そうだ。天上のことは、思念を高く吊り上げ、思索を思索そのものと同じ空気に混ぜねば、正し い知として発見することはできないのだ。地上で下から上を眺めていたなら、わたしの発見は決してなかっ た だ ろ う ﹂ ソクラテスはなんと、ー天上のこと﹂の探求のためには、自分の思索を天と同質化させる必要があるとして、舞 台高くに簡で用るされているのである。 また、後者については、ストレプシアデスは息子ペイディピデスに次のように語っている。 ストレプシアデス﹁あの人たちのところには、二種類の議論(ロゴス)があると言われている。何か分からな いが、優れた議論と劣った議論だ。そしてこのふたつの議論のうち、劣った議論が、不正を主張する立場な のだげれども、議論のうえでは勝つというの尚 L ここで言われている﹁優れた議論﹂とは、白を白、黒を黒と論じる議論であり、寸劣った議論﹂とは、白を黒、 黒を白と論じる議論のことである。後者はすぐさま寸不正義の議論﹂と言い換えられる。そして、その﹁劣った議 論 L のほうをソクラテスから教えてもらおうとして、 ストレプシアデスはソクラテスとのあいだで、次のような会 -230一 簡谷大学論集

(13)

話 を す る の で あ る 。 ストレプシアデス﹁それより、わたしに伝授してください。あなたのもっているふたつの議論のうち、借金を お礼に関しては、わたしのできることはなんでもすると、神々に誓 まったく返さないですむほうの議論を。 い ま ず か ら ﹂ ソクラテス﹁どのような神にあなたは誓うのかね。何しろ、われわれのところでは神々は適用しないのだ﹂ ストレプシアデス寸では、何が適用するのですか。 ひょっとすると、ピュザンテイオンと同じように、鉄の銭 で し ょ う か ﹂ ソクラテス寸あなたは、神々に関することを、それが本当はどのようなものであるか、はっきりと知りたいの か ね ﹂ ストレプシアデス﹁もちろんです、もしそれが可能であるなら﹂ ソクラテス﹁われわれのダイモ

1

ンである

( S H

A

-合 向

吋 伸

h H h q h

q hゼ)雲の女神と、議論を交わすことも 望 ん で い る の か ね ﹂ ストレプシアデス﹁そのとおりで九﹂ ソクラテス自身の口から﹁われわれのダイモ

l

ン﹂という言葉が語られている。それは、この劇では 実体として﹁雲の女神 L を指すのだが、そのダイモ

l

ンをソクラテスは、﹁われわれのところでは神々は適用しな い﹂と述べ、当時の一般的なしきたりであった﹁神に誓う﹂ことを無用と退砂たうえで、語っているのである。し かも、﹁借金をまったく返さないですむ L ような議論(ロゴス)を教えようという場面なのである。 こ こ で は 、 ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) -231一

(14)

ω

ソクラテスは﹁恐ろしの雲の女神よ﹂とダイモ

l

ンを勧請し、その雲によるコーラス がすがたを見せず声だけで現われる。ソクラテスは、﹁雲の女神﹂というものは、ちょうど空に浮かぶ雲がそうで あるように、あらゆるものにすがたを変えて現われることができると説明する。そして、そのダイモ

l

ン に よ る コ おおいに驚いて、次のような会話をソクラテスと交わすのである。 舞台上はさらにすすんで、 ーラスの声を聞いたストレプシアデスは、 ストレプシアデス﹁おお大地よ、この御声は、なんと神聖で、なんと厳かで不可思議なものであろう﹂ ソクラテス﹁それはそのはず、この方々だけが神なのであって、これ以外のものはすべて戯言にすぎないから a v , . dJ ﹂ ストレプシアデス寸ではどうなのでしょう。大地にかけて、 オリュンポスにおいでのゼウスは神ではなかった の で す ね ﹂

ω

ソクラテス﹁ゼウスとは何者だね。愚かなことを言つてはならない。ゼウスなど存在しないのだ﹂ まさにここでのソクラテス、すなわち

J

﹄ウスは存在しない L と語り、﹁雲の女神﹂なるダイモ 1 ンだげを神と みなしているソクラテスは、先の、﹁国家の認める神々を認めないで、他の新奇なダイモニオンを導入する﹂とい う罪状を地でいくソクラテスである。そしてまた、借金取りから逃れるための弱論強弁を教えるソクラテスは、も う一方の罪状﹁青年たちを堕落させるという罪も犯しているしソクラテスと言えるであろう。﹃雲﹄の舞台では、 じっさいにソクラテスにそのような知恵を授けられたストレプシアデスは、その知恵をさっそく息子ペイディペデ スに誇示しようとする。だが、息子の反応はこうであった。 。 , u q 毛 υ 向 ' u 龍谷大学論集

(15)

ペ イ デ ィ ピ デ ス ﹁ あ あ 、 どうしたものか。おやじは気が狂っている。裁判所へ連れて行って、狂気の認定をし 倒 おやじの気が変になっていることを話しておくほうがいいだろうか﹂ てもらおうか、それとも棺桶屋に、 また、父ストレプシアデスも、最後は自分の行ないの奇妙さを振り返りながらこう述べたのである。 ストレプシアデス﹁ああ、狂気の沙汰であった。 い ま に し て 思 え ば 、 四 クラテスのせいで、神々さえもお払い箱にしたのだから L わたしは本当に気が狂っていたのだ。ソ こ の 言 葉 の あ と 、 ストレプシアデスはソクラテスの﹁思案所﹂に火を放ち、喜劇は幕を下ろすこととなる。 に登場させるのは、﹁奇人ソクラテス﹂に他ならない。伝統的な神の存 志 A由 主 ﹁ し ノ ¥ 、 アリストパネスが喜劇﹃雲﹄ 在を否定しては、﹁雲の女神﹂なるダイモ

l

ンを、それこそ神であると語る。また、わけのわからないことを自然 探求と称して行ない、対話相手に弱論強弁を教え込む。そういうソクラテスである。 (議論)の面でも、ソクラテスは奇人として描き出されているのである。 つまり、ダイモニオンの面で も ロ ゴ ス も ち ろ ん 、 わたしはこのソクラテス像を全面的に受け入れるのではない。というのは、プラトンの﹃ソクラテス の弁明﹄に立ち返るならば、 そこでのソクラテスは、﹃雲﹄で自分のことがこのように演出されているのを知った うえで、次のように語っているからである。 ﹁ い わ く 、 ソクラテスは犯罪者である。彼は天上のことや地下のことを探求し、劣った議論を強弁するなど、 かっこの同じことを、他人にも教えている、というのが、まあ、それです。 いらざるふるまいをなし、 つ ま り ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(問中) 内 べ u q a n , “

(16)

これは、あなたたちがまた直接に、アリストパネスの喜劇の舞台で、見られたことなのです。そこでは、ひと りのソクラテスという人物が、からくりによって運ばれながら、空気を踏んでいるのだと見得をきったり、そ の他いろいろわけのわからない、おしゃべりをするのですが、それらについては、大にも小にも、まるっきり

ω

わたしは、理解がつかないのです﹂ アリストパネス﹃雲﹄に描かれている寸奇人ソクラテス L の行状に関して、プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄ クラテスは、﹁大にも小にも、まるっきりわたしは、理解がつかないのです﹂と語るのである。もちろん、まず言 えることは、あくまでも喜劇の創作であって、それをそのまま事実とみなすなどということはありえない。おもし ろおかしく誇張される、あるいは創作される、というのはありそうなことである。その創作が、うまくいかなかっ それとも不十分だったからなのかは分からないが、アリストパネスの﹃雲﹄は、その年のディオニ

ω

ユシア祭では、参加三人中最下位であったと伝えられる。しかしながらその一方、ソクラテスが喜劇に取り上げる に値する人物、つまり喜劇的な人物であったということも、疑いえないように思われる。じっさい、ディオゲネ

ω

ス・ラエルテスィオスの証言を信用するならば、アメイプシアスという喜劇作家も、ソクラテスを喜劇の登場人物 に選んでいるのである。だが、アリストパネスの演出を一通り見渡し、それに対するプラトンの批判を垣間見ただ いずれのソクラテス像が正しいのか判定するのはあまりに早急であり、また、公正なやり方とは たからなのか、 けのこの時点で、 言えないだろう。そこで次に、 ソクラテスについて、誰よりも多くのことをわたしたちに伝えているプラトンの作 品 か ら 、 そこで描かれているソクラテスのすがたを、 とりわけダイモニオンに関連するものを見ていきたいと思う。 -234ー の ソ 龍谷大学論集

(17)

第二章

プラトンの報告││﹃ソクラテスの弁明﹄

および諸対話篇の考察

プ ラ ト ン は 、 ソクラテスのダイモニオンについて、 いくつかの対話篇でソクラテス自身の口から語らせている。 では、﹁国家が認める神々を認めず、新奇なダイモニオンを導入する﹂というメレトスの罪状に対して、また、大 衆に植えつりられていたソクラテス像に対して、プラトンの伝えるソクラテスはどのような弁明を語っているので あろうか。この章では、この点に注目しながらプラトンの報告を追い、それを明らかにした後、﹁ガラクシドロス ω の 問 い L と照らし合わせてみたい。 ま ず 、 そもそもソクラテスのダイモニオンとは何なのか、 それをいくつかの発言から明らかにしておこう。 ﹁わたしがまさに川を渡って向こうへ行こうとしていたときに、 よき友よ、ダイモニオンが、 いつもわたしを お と ず れ る あ の し る し が 、 現 わ れ た の だ ( 叶 uh 可 Q h h H S で ha 刷 、 叫 向 H h H W 叶 ぴ 向 -h e も v 叶 q M 司 、 H h N S

官 、 。

h u 、h て 刷 、 向 q m w h H h h

5

8

)

。それはいつでも、何かしようとするときにわたしをひきとめるのだ ( 除 向 一 W A ﹃ h h h 向

E L

F

-e

旬 、 h

S

E

)

。そして、そこからある声(ロミも

e

S

とが聞こえて、わたしがなんと、神聖なものに対 して罪を犯しているから、その罪を清めるまではここを立ち去ることはならないと、こうわたしに命じたよう に思え

h

﹂ 札 詞 - h q N 向 h 0> これは対話篇﹃パイドロス﹄ のなかでのソクラテスの発言である。その場面はこうである。

(

)

エ ロ

1

と は 何かをめぐって、 アテナイの城壁近くを流れるイリソス川のほとりで、 ソクラテスとパイドロスが対話をしていた。 その地は、神の子であるニュンフ が住まう聖なる場所である。﹃パイドロス﹄は、プラトンの中期の作品 ( 妖 精 ) 除 、= ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) -235一

(18)

と考えられているが、ダイモニオンについてソクラテスが言及するその場面は、みごとに整えられていると言って いい。主題であるエロ

l

ス(恋の女神)もまた、後に明らかとなるが、神と人間の中間者としてのダイモ

l

ン な の である。そのような場面で、時の有名な弁論家リュシアスの﹁ひとは自分を恋している人よりも恋していない人に 身をまかせねばならない﹂という主張をもとに、 していない人の思慮深さを賞賛し、 (恋)を過度な欲求と定義したあと、恋 ひとまず話を終える。そうして、その場を離れイリソス川を渡って向こうへ行 ソ ク ラ テ ス は 、 エ ロ

l

こうとしたとき、﹁ダイモ

l

ン の し る し 、 いつもわたしをおとずれるあのしるしが、現われた﹂と、 ソクラテスは 語ったのである。ここで﹁神聖なものに対して罪を犯している﹂とソクラテスが言うのは、女神エロ

l

スをそのよ うに非難したことを指す。 このソクラテスの発言には、注目すべき点がじつに多く含まれていると思われる。そのなかで、 まず、ダイモニ オ ン に つ い て 、 ソクラテスが寸いつものしるし

( 乱

R

e

s

q

q

也 、 向 刊 号 ) L と語っている点と、 そのしるしが寸何ら かの声(ロミも

e

でを)﹂として現われる点を、ダイモニオンの特徴として挙げておこう。そしてさらに、その声 が命じることについて、つまり﹁それはいつでも、何かしようとするときにわたしをひきとめる

( h

r w

段 、 向 郎 良 q N 2 。 九 時 で な 立 L F e N も 除 、 司

a z )

L

という部分にも注目しなければならない。 いま挙げた点はいずれも、﹃ソクラテスの弁 明﹄の、次のソクラテスの発言とも重なるのである。 れ が 現 わ れ る 時 は 、 一 種 の 声 ( も

e

て も

a q )

となってあらわれるのです。そ わたしが何かをしようとしているときに、それをわたしにさしとめるのでして、 コ﹂れはわたしには、子供の時から始まったもので、 い つ で も 、 それをせよとすすめることは、どんな場合にもありません

S

a

a

一 刷 、 立

S

-R

P

R

昨 向

N

h

s

s

§

h

祖 母

h

E

き が

8

0

h

h

L

Z

e

H

円 、

h

Z

a

h

F

M

§

h

H

g

h

k

w

o

o

s

-a

・)。そしてまさにこのものが、わたしに対して、国家のことをするの p h v q t u n , u 龍谷大学論集

(19)

に反対しているわけなのです。そしてそれが反対するのというのは、わたしには十分うなずけることだと思わ れるので九 L 以上の乙とから、 ソクラテスが言うところによると、 どうやらソクラテスには、子供のころから、何かをしよう としたときにはしばしば、ダイモ

l

ンのしるしが声となって聞こえたようである。しかもその声は、禁止だけを命 じるものであったとソクラテスは言う。そしてそのことをソクラテスは、寸わたしから、あなたたちはたびたびそ 倒 の話を聞かれたでしょう L とみずから言うように、人に隠すことなく語っていたようなのである。もしそうだとす ると、これらの話をソクラテスから聞いた人たちは、どのような印象をいだいたであろうか。このような声が普通 の人の耳には聞こえるものではない、あくまでもソクラテスに固有のものであることを、 ソクラテスは﹃国家﹄ なかで、次のように語っている。 ﹁しかしわれわれのもののことは挙げる値打ちはあるまい。それはダイモ

1

ンのしるしのことだがね。という のは、これまで人々のうちのほとんど誰にもそれは現われたことはないのだか何﹂ ﹁これまで人々のうちのほとんど誰にもそれは現われたことはない﹂そのようなダイモニオンについて語るソク ラテスは、何か寸新奇な﹂ものを導入する人物と、人々の目には映ったであろう。乙のプラトンの報告はむしろ、 寸国家の認める神々を認めないで、他の新奇なダイモニオンを導入する﹂という罪状を裏付けるものとしても、理 解されるかもしれない。しかしながら、もちろんプラトンはそうは考えていなかった。そこで、﹃ソクラテスの弁 明﹄のなかで、この罪状に対するソクラテスの弁明が語られている個所を取り上げてみることにしよう。 の ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) n, . n宅 u n κ “

(20)

*

ま ず 、 ソクラテスは最初に、訴状で示されたふたつの罪状の関係をメレトスに問い、このように述べる。 ﹁メレトス、あなたはわたしが、青年を腐敗させていると主張しているのだが、 それはどういうやり方をして、 と き ロ う の か ね 。 むろんそれは、あなたの出した訴状からいえば、国家の認める神々を認めるなといって、 い や 、 他の新奇なダイモニオン

( h a

も Q b A 可 号 、 SEQRQEh 悼)を教えているからだ、ということになる。つまり、 ω たしはこういうことを教えることによって、腐敗させているというのがあなたの言い分ではないか﹂ これを聞いたメレトスは、寸それこそわたしが言おうとしていることだ﹂と答えた。 つまり、﹁国家の認める神々 を認めないで、他の新奇なダイモニオンを導入する﹂という罪状が原因となって、﹁青年たちを腐敗させる﹂とい うもう一方の罪状が帰結する、このように理解されていたのである。そうなると当然、ソクラテスにとっては、前 者への弁明がここではより重要なものになる。しかし、乙のあとのソクラテスの議論の運びは、容易には納得でき かねる展開を示す。それは、 ソクラテスが﹁新奇なダイモニオンを導入する﹂という部分にではなく、﹁国家の認 める神々を認めない﹂という部分に力点を置き、 さらに﹁そもそも神を認めない L という主張へと誘導し、議論を 進めている点においてである。 ソクラテスは次のようにメレトスに問う。 ﹁あなたの言おうとしているのは、ある種の神々は、 その存在を認めるように、 わたしも教え、またしたがっ て、わたし自身の神々の存在を信じているのであって、純然たる神の否定者ではないから、またその点では、 しかし国家の認める神々は、これを認めないで、ほかの神々を信じているか 罪を犯してはいないのであるが、 -238-わ 龍谷大学論集

(21)

ら、そのつまり異神を信じている点が、あなたのわたしに対して、罪を鳴らす点なのであろうか。それともま た、あなたの主張では、ぜんぜんわたしは、自分でも神々を認めていないし、また他の人たちにもそう教えて 回 いるというのだろうか﹂ このいささか回りくどい言い方は意図的なものなのであろうか。 ソ ク ラ テ ス は 、 ふたつの選択肢をあげて、 うちの一方を答えきせようとするのであるが、前者は聞いている者にとっては論点が分かりづらく、それと比べて メレトスは、それに惑わされたからなのかもしれない。 後者はたいへんすっきりしたものとなっている。そして、 すんなりと後者を選択し、こう答えてしまう。 ﹁ そ う だ 、 閉 それをわたしは言うのだ。ぜんぜんあなたは神を認めていない﹂ メレトスがこのように述べたことによって、ソクラテスの弁明は容易なものとなると同時に、もっとも肝心な点 団 に関しては不問にされることになる。というのも、極端なことを言えば、何であれ、すなわち異神であれ、その存 在を認めていることを示せば、このメレトスの主張に対しては、論駁が成功することになるからである。ソクラテ スが導いた議論はこうである。

( 1

)

ソクラテスはダイモニオン ( ダ イ モ 1 ンに関するもの、ダイモ

l

ンのしるし)を認めている。(メレトス の主張)

( 2

)

ダイモ

l

ンに関するものの存在を認めているものは、ダイモ

l

ンの存在を認めている。 われわれは神、もしくは神の子と考えている。

( 3

)

ダイモ

l

ン を 、 そ の ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) -239一

(22)

(

4

)

し た が っ て 、 ソクラテスは神を認めている。 ソクラテスは、論点

(

3

)

(

4

)

については、次のように述べている。 ﹁また他方、ダイモ 1 ンというものが、神の傍系の子供であって、 うな女性から生まれてきたものであるとするならば、神の子の存在は信じるげれども、神は信じないなどとい う者が、世に誰かあるだろう内 L ニユンフその他の、言い伝えられているよ J3-7 ﹂ 、 ふ ム 1 L 4 u ' v ソ ク ラ テ ス は 、 メレトスの先の主張に対しては論駁したと言える。けれどもその論駁によって、 ラテスは、あたかも﹁国家の認める神々を認めないで、他の新奇なダイモニオンを導入する﹂という罪状に関する また、そこから帰結する﹁青年たちを腐敗させる﹂というもう一方の罪状に関する論駁をも成し遂げたか 論 駁 を 、 のように、寸しかし、もうたくさんでしよう、 アテナイの皆さん、なぜなら、 わたしがメレトスの訴えている事柄 いま言われたことでたくさんだとわたしは思います L と言うので に関して、多くの弁明を必要としないのでして、 ある。しかしながら、﹁新奇なダイモニオンを導入する﹂という部分に関してはどうであろうか。 先の議論を展開するとき、論点の ソ ク ラ テ ス は 、

(

l

)

か ら

( 2

)

へ移行するさいに、﹁それが新しいものか、古いものかという ことは、次のことにして、 わたしがダイモ

l

ンのたぐいを認めているの そのことが宣誓されている﹂と述べ、肝心の論点を素通りしてい とにかく、あなたの言うところによれば、 は間違いないわけで、あなたの訴状のなかにも、 るのである。おそらく、これらのやり取りから見てとれるように、論点

( 3

)

で言われているような、ダイモ

l

ン の 存 在 、 ま た 、 それへの信何というのは、 おそらく一般的なものであったと思われる。そうであるならなおさら、 ﹁ 新 奇 な L と い う 部 分 こ そ 、 ソクラテスは弁明しなければならなかったのではないか。なぜ、 そうしなかったのか、 -240一 龍谷大学論集 ソ ク

(23)

ω

これはひとつの謎である。ともあれ、ダイモ

l

ンは、﹁言い伝えられているような(どて。哩詰乙女性から生まれ た﹂とも言われている。どうやらプラトンの時代に、ダイモ

l

ンにまつわる伝説がすでに存在していたようである。 はたして、どのようなダイモ

l

ン伝説が語られていたのであろうか。これは問うに値する問題である。なぜなら、 それを明らかにしないかぎり、 ソクラテスのダイモニオンが﹁新奇な﹂ものかどうか、判断することはできないか らである。新たな課題が見えてきたのであるが、 それに移る前に、ダイモニオンと、 ソクラテスの哲学の立場との 関係を見てみよう。 つまり、﹁ガラクシドロスの聞い﹂を、プラトンの著作のなかで考えてみたい。

*

プラトンの対話篇のなかで、ソクラテスのロゴス(理性・議論)の立場を端的に表すものとしてしばしば取り上 げられるのは、監獄のなかで亡命を勧める友人クリトンに向かって語った次の発言である。 ﹁だから、あなたの言うようなことを、なすべきか否か、わたしたちは調べてみなければならない。というの は、わたしという人聞は、自分でよく調べてみて、これが最上であるということが明らかになった言論(ロゴ ス)以外には、他の何ものにも従わないような人間なのであって、これはいまに始まったことではなくて、い つもそうなのだ。だから、 いままでわたしが言っていた言論(ロゴス)を、わたしがこういうめぐりあわせに なったからといって、 いまさら放棄することはできないのだ。むしろそれらは、わたしにとっては、ほとんど 前と変わらないものに見えるのであって、わたしはそこで言われている言論に対して、 ちょうど前に払ってい たのとおなじ敬意を払い、これと同じものとして尊重しているのだ。だから、もしわれわれが、これまで言わ あ れ な た た 乙 に と 譲 以 歩 上 し に な 、 い も だ っ ろ と う

ω

す 」 ぐ れ た と を いまこの場で言うことができなければ、 いいかね、わたしは決して ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) ー-241ー

(24)

対話篇﹃クリトン﹄ で語られている、この﹁ロゴスに従う﹂あるいは﹁ロゴスを尊重する﹂ソクラテスは、わた したちにはなじみのソクラテスである。 つまり、知を愛し求めることを死の瞬間までつづけ、また、友人にもそれ を勧めるという、﹁理性の人ソクラテス﹂である。じっさいに、 ソクラテスはこの発言の後、議論によってクリト ン た ち を 説 き 伏 せ 、 みずからの立場を貫き通した。 ソクラテスは、亡命ではなく死を選びとったのだ。このソクラ テスの決断は、﹁ロゴスに従う L ソクラテスの象徴的な場面として後々も理解されたのであろう。最初に引用した のなかでも、取り上げられている。しかもそこでは、﹁ダ プルタルコスの﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄ イモニオンに従うのではなく﹂という、文脈のなかで語られているのである。 ﹁最後には、仲間たちがソクラテスの身の保全と逃亡のため熱心に準備を整え、工夫をこらしたにもかかわら ず、ソクラテスは、懇願する人たちに譲歩することもなく、近づいてくる死に屈することもなかったのである。 彼は恐れに対しては、揺らぐことのない理性の判断(ロギスモス)を用いて対抗したのだ。ソクラテスは、辻 占ゃくしゃみによってその時々に考えを変えるような人物ではない。むしろ、もっと偉大な指揮者や原理によ ってすぐれたことへと導かれる人物なのである﹂ この発言は、ガラクシドロスの父ポリュムニスによるものである。そして、後ほど明らかにするが、ここで﹁辻 占ゃくしゃみ﹂と言われているのが、じつはダイモニオンを榔撤して語られたものなのである。このように﹁ロゴ スに従う﹂ことを行動で示したソクラテスのすがたと、ダイモニオンを行動の原理にしているすがたとは、やはり ガラクシドロスが指摘したように、寸矛盾する L ようにも見えるのである。 しかしながら、じつはプラトンによって、﹁ダイモニオンに従う L ことと﹁ロゴスに従う L こととの両立可能性 -242一 龍谷大学論集

(25)

が、巧みに用意されていた。結論から言うと、ゴタイモニオンに従う﹂ことをしながら、 ソクラテスの行為は、二 つの局面で、﹁ロゴスに従う﹂ことが可能なのである。そのことは、これまでに引用してきたソクラテスの発言の なかにすでに語られている。すなわち、先に注目点の一つとして挙げた、﹁禁止の命令 L としてのダイモニオン、 という点のなかにである。確認しておくと、﹃パイドロス﹄においては、﹁それはいつでも、何かしようとするとき にわたしをひきとめる ( h Z N A 可 h h h h h H R q N 向h O 九 時 官 、 h L Z e H 円 も お 叶

a

E

)

﹂と言われていた。﹃ソクラテスの弁明﹄で わたしが何かをしようとしているときに、それをわたしにさしとめるので は 、 寸 そ れ が 現 わ れ る 時 は 、 い つ で も 、 して、それをなせとすすめることは、どんな場合にもないのです(島町刊号 S§h 尚 史 、 向

g

尽 き

O E よ h h L Z e さ ら ‘

3

2

F

告 。

§ h 肖 向 h

g

a

・ ) ﹂ と 語 ら れ て い た の で あ る 。 まず、ひとつの局面は、ダイモニオンの合図に先立って、そこにソクラテス自身による行為への決定がすでにあ っ た 、 という点である。それは、 おのおのの発言でいみじくも同じ言葉で語られている。ダイモニオンは、 ソ ク ラ テスが寸行なおうとしていたそのこと へと向けられたものなのである。しかも、﹁行 (。九昭電 R h 押 し 戸 e H 円 、 h 悼 叶 叶 而 h H ) ﹂ 為(さら吋叶向ミ)﹂と言われていることは重要であろう。つまり単なる﹁欲求 L に対して、ダイモニオンがしるしを 与えるのではないのである。たとえば﹃国家﹄第四巻で語られる﹁行為﹂を思い出してみよう。そこでは、魂の内 的な葛藤をへて、その理性的部分の導きのもとにある状態が﹁正しさ L と定義され、﹁まさしくそのうえで行為す 仰 る ( 急 号 除 、 刊 誌 宅 一 言 ぜ ) ﹂ と 言 わ れ て い た 。 スによる判断があったのである。 つまり、﹁ソクラテスが行なおうとすること﹂に先立って、すでにロゴ つやついて、もうひとつの局面を明らかにするために、今度は、 それらの発言のつづきをそれぞれ思い起こしてお きたい。まず﹃パイドロス﹄ そこからある声が聞こえて、わたしがなんと、神聖なものに対して で は 、 ﹁ そ し て 、 罪を犯しているから、 その罪を清めるまではここを立ち去ることはならぬと、こうわたしに命じたように思えた L 、 ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) -243一

(26)

このようにソクラテスは言う。しかしながら、ダイモ

l

ンの合図は、単なる﹁しるし﹂であり、具体的にこのよう な内容を命じたわけではない。むしろ、ダイモニオンのしるしをきっかけとして、 えて得た結果であろう。それは、ソクラテス自身がロゴス ソクラテスが、禁止の理由を考 ( 理 性 ・ 議 論 ) によって得たものと言っていいはずであ る。また、﹃ソクラテスの弁明﹄ の該当箇所では、ダイモニオンは、国政に参加しようとしたソクラテスに禁止の 命令として現われた。先の発言につづげてソクラテスは、寸そしてまさにこのものが、 わたしに対して、国家のこ とをするのに反対しているわけなのです。そしてそれが反対するのというのは、わたしには十分うなずけることだ と思われる﹂と語っていた。 つまり、ここでも、なぜそれをやめるべきなのかに関して、 ソクラテスはみずからの ロ ゴ ス ( 理 性 ・ 議 論 ) によって納得したのである。したがって、 ふたつめの局面をしめしているいずれの対話篇の 場面でも、ダイモニオンはソクラテスにロゴスを働かせることのきっかけとして作用していた、このように考える ことができるであろう。 の別の個所からも裏付けられる。それは、今度は反対に、ダイモニ オンが生じなかった場合のことである。その日、ソクラテスが裁判に向かい家を出ょうとしたときも、法廷に入ろ また、この点はさらに﹃ソクラテスの弁明﹄ うとしたときも、弁論で何かを言おうとしたときも、ダイモニオンは生じなかった。そのことをソクラテスは次の よ う に 言 ロ う 。 ﹁妙なことが生じたのです。というのは、わたしにいつも起こる例のダイモニオンのお告げ

f

Q

a N

却 や

g

w

A E

至。足。ゼ)というものは、これまでの全生涯を通じて、いつもたいへん数繁く現われて、ごくささいなこと についても、わたしの行なおうとしていることが、正しくない場合には、反対したものなのです。ところが今 度、わたしの身に起こったことは、あなたたちも親しく見て、知っておられる通りのことでして、これこそ災 -244-龍谷大学論集

(27)

一般にそう認められていることなのです。ところ が、そのわたしに対して、朝、家を出る時にも、神の例の合図は、反対しなかったのです

SE

モ ロ ら ま 同 開

-g

m

p

。 叫 v q q お 。 モ ) 。 : : : : ・ そ れ な ら 何 が 原 因 な の で し ょ う か ﹂ 悪の最大なるものと、人が考えるかもしれないことですし、 ソクラテスは﹁妙なことが生じた﹂と述べているが、 それはここでは、﹁ダイモニオンが生じなかったというこ とが生じた﹂という意味である。ダイモニオンは何らかの行為への禁止の命令として現われるが、逆に言うと、ダ イモニオンが現われないということはその行為への容認を意味するのである。けっしてダイモニオンは、﹁何かを なせ﹂と積極的に何かを指示することはないが、現われないというかたちで、何かしようとしているそのことを容 認することはあるのである。そのことは、 ソクラテス自身、明確に次のように語っている通りである。 ﹁そういうひとりにリュシマコスの子アリステイデスがあり、 その他非常に多くの者がある。この連中には、 もし彼らがもう一度やってきて、わたしに一緒になってくれと願って、あきれるようなことまでして見せる場 合、わたしにいつも現われる例のダイモニオンが、そのある者とは一緒になることを妨げ、他のある者とは一 緒になることを許す(守

E

h

q

E

C

乱 世 、 ミ 宅 金 向 忘 司 、 。

h

h

E

室 内 山 足 。 で

h

E

8

5

L

H

M

R

S

E

E

S

-E

E

h

q

b

h

W

岨 ) 。 そ して後者は再び進歩す何﹂ これは﹃テアイテトス﹄という後期対話篇のなかでのソクラテスの発言である。ソクラテスに近づいてきて彼と 側 アリステイデスをはじめとしてたくさんいた。そのさいに、人に応じてダイモニオン 一緒になろうとする人物が、 がソクラテス自身に現われたり、あるいは現われなかった。それぞれの場合をソクラテスは、上のように述べたの 叫

ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) p h u a 告 ヮ “

(28)

である。そこでは、ダイモニオンが﹁妨げる ( 号

S M

m e

- 6

2 )

﹂あるいは﹁許す ( h w ) しという言い方がされている の で あ る 。 では、もう一度、先の﹃ソクラテスの弁明﹄ の場面に戻ろう。裁判の当日、裁判所に向かうときも、弁明をする ソクラテスが行なおうとしていることを、ダイモニ と き も 、 ソクラテスにダイモニオンが生じなかった。

つ 古

4 F n

ノ 、 オンは寸許し﹂たのだ。その許しを受けて、 ソクラテスはやはりここでも、寸それなら何が原因なのでしょうか L と問うているのである。そして、 そこでソクラテスが行なったロゴス は、きわめて容易に理解でき ( 理 性 ・ 議 論 ) る。それはこうである。 -これまで、わたしの行なおうとしていることが、 正しくない場合には、ダイモニオンはいつも反対した。 -し か る に 、 いまダイモニオンは反対しない。 -し た が っ て 、 いまわたしが行なおうとしていることは正しい。 ソクラテスはこの場合も、ダイモニオンに従いながら、同時にロゴスにも従って行為したのである。 ソクラテスのダイモニオンを、﹁ある特定の行為に対して禁止を命じるもの﹂とす ることによって、﹁ダイモニオンに従う L ことと﹁ロゴスに従う L こととの両立を可能にしたように思えるのであ 以上のように、プラトンは、 る 。 こ こ で 、 ソクラテスにダイモニオンが発現する、あるいはしない場面を定式化してみよう。

(

1

)

ソクラテスがロゴスによって判断し、ある何かを行なおうとする。

( 2

)

そこに、ダイモニオンが現われる、あるいは現われない。

(

3

)

ソ ク ラ テ ス は 、 さらにみずからのロゴスによってその理由を考察する。

(

4

)

そしてソクラテスは、行為を行なう、あるいは行なわない。 -246-龍谷大学論集

(29)

ソクラテスのひとつの行為をこのように分節した場合、結果として行なわれる (あるいは行なわれない)彼の行為 はひとつのもの であるが、そこには、 ロゴスに従う局面

(

1

)

(

3

)

と、ダイモニオンに従う局面

( 2

)

( 4

)

ともに共存しているのである。そのソクラテスの行為は、 ロゴスに従うとともに、ダイモニオンに従うものである、 と言えるのではないだろうか。 わたしは、結論のひとつを先取りして述べるなら、このようなかたちでソクラテスの行為のなかにダイモニオン への回答であると考えている。というのは、 を位置づけたのは、著者プラトン自身による﹁ガラクシドロスの聞い﹂ 後に考察するが、プラトンと同時代の著作家クセノポンはソクラテスのダイモニオンについて、異なった報告をし いくつかの後代の作品がソクラテスのダイモニオンに言及するさいにも、プラトンと同様のもの て お り 、 そ の 他 、 は見いだせないからである。そこにわたしは、プラトン独自の視点から見たソクラテスの弁明があるのではないか と考えるのである。 一方で、ダイモニオンなるものを語り、それがゆえに﹁奇人ソクラテス﹂という印象を多くの ついには告訴のうえ処刑されてしまったという事実を、プラトンは引き受けざるを得なかった。 その一方、知を愛し求め、そのさいには理性的であることを重視し、つねにいろんなひとたちと議論をする、﹁ロ に、プラトンは師事してきた。それらの整合的解釈のひとつの道として、プラトンはこのよ ひ と た ち に 与 え 、 ゴスの人ソクラテス L うなダイモニオンのあり方を描き出したのではないだろうか。もちろん、このことを主張するためには、 まだ多く の考察が必要である。 陸

ω

N

m

町 内 回 白 巴 同 同 r F -F -a W H M

恒 三

o r 司 ・ ω4( 昨 日 ロ ∞ ・

σ

N a

・ 己 a m o -Y ) 河 町 ﹃ 狩 帆

SSH

h s

a s

h b

夜間骨

3 .

?

円 リ 回 目

σ

ユ 門 日 開 門 一

P

E

S

-匂 ・ 口 ∞ ・ J ・プルクハルト(新井靖一訳)﹃ギリシア文化史﹄第二巻、筑摩書房、一九九二年、九六頁参照。それらの関係につ い て は 、 第 三 章 で 考 察 す る 。 カ宝 ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) 勾 t a a a q L

(30)

ω

テパイ出身の人物で、彼の哲学に関する能力はソクラテスにも高く評価されていた。プラトン﹃パイドロス﹄三四二 B 参 照 。

ω

u

o

F

R

M

J

司 ・ 回

- h

w

田 口 雪 国

o

p

-h u

e b

3 F

J M

h H

N R

4 0

-・ ︿ 戸

o u

O

E

P

o

o

S

L

u

g

-g

N

ω

プルタルコス﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄五七九 F │ 五 八

O

B

。 回クセノポン﹃ギリシア史﹄第三巻第五章一でも登場する。

88

- H

J R

ω o

n g

g

自 己 盟 三 宮

ω

m m ・

-J

a

w

ω

E

F

Z

-U

-a

-p

h

s

雷 、

h r .

-叫 ま 九 則 合 湾 同 窓 堂 。 一 潟 、

H u

s s

-町 問 、

h N S h

h

H

N

S

S

守 門 誌 号 、 注

e

-怠 も 守 ・ 同 ︼

- H

N O

B

-的プルタルコス﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄五八

OB│C

。 附 同 五 八

Oc

ω

プラトンやクセノポンによって語られるものは、寸そのようなもの﹂あるいは寸だいたい﹂として語られているよう に、これとはそれぞれ微妙に異なる。プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄二四

B│C

、クセノポン﹃ソクラテスの思い出﹄ 第 一 巻 第 一 章 一 参 照 。 側ディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列伝﹄第二巻四

O

ω

プラトン﹃エウテュプロン﹄三

B

l

六 。

ω

宗教家といっても、狂信的な人物とみなされていたようであり、プラトンの著作のなかでも、エウテュプロンみずか らが、自分のことを人々は﹁狂気あっかいし噌笑している L ( 四 C 二 ) と 述 べ て い る 。 側プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄一八 A 八

B

四 。

ω

同一八

C

一 。

ω

同一八 C 八 │ D 二 。 側﹃古伝概要﹄五。アイリアノス﹃ギリシア奇談集﹄第二巻三、ディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列 伝﹄第二巻三八参照。しかし、今日では﹁根も葉もない作り話﹂と認定されている。橋本隆夫訳﹃ギリシア喜劇全集

I

﹄岩波書底、二

O

O

八年、三二

O

頁 参 照 。 仰ソクラテスの仲間であり、デルポイへ赴いて、あの有名な﹁ソクラテス以上の知者はいない﹂という神託を確認した 人物である。プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄二

OE│

一 二

A 参 照 。 -248一 龍谷大学論集

(31)

MW アリストパネス﹃雲﹄九五│一

O

四 。 側 同 二 二 四

l

二 三 二 。 側同一一一一ー一一五。 削 同 二 六 。 仰同二四三│二五六。 仰向二六五。 帥同三六四│三六七。 倒同八四四│八四六。 側 同 一 四 七 六 一 四 七 七 。 間プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄一九 B 四 │ C 五 。 側高津春繁他訳﹃ギリシア喜劇 I ﹄筑摩文庫、一九八六年、五三三頁参照。 側ディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列伝﹄第二巻二八参照。 側この論文では、ダイモニオン解釈の、プルタルコスに至るまでの歴史的な流れを追うことを主眼としたため、プラト ンの著作内部での変遷には触れていない。基本的に、プラトンにおけるダイモニオン解釈は一貫したものと考えている が、詳細な検討については、稿をあらため論じる予定である。 倒プラトン﹃パイドロス﹄二四二 B 八 I C 一 。 倒プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄三一 D 一 │ 六 。 側同三一C七│八。 倒プラトン﹃国家﹄四九六C三│五。 倒プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄二六 B 二六。 仰 向 二 六 C 一 六 。 間同二六C七。 側ソクラテスの寸わなしと多くの論者が指摘している。 側プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄二七 D 六 │ 一

O

。 ソクラテスのダイモニオンについて(ー)(田中) ハ ud 凋 仏 企 つ 臼

(32)

仰 向 二 八 A 二 │ 因 。 仙同二七C六│八。 側この謎に関するひとつの解釈は、終章で示される。 倒プラトン﹃クリトン﹄四六B三C三。 制プルタルコス﹃ソクラテスのダイモニオンについて﹄五八一C│D。 倒プラトン﹃国家﹄四四三 E 二 。 側プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄四

OA

三 │ B 一 、 B 六 。 附プラトン﹃テアイテトス﹄一五一 A 一五。 側このアリステイデスは、リュシマコスの子であり、かの有名な政治家であって軍人としても名をはせたアリステイデ スは、リュシマコスの父にあたる。 キーワード ギ リ シ ア 哲 学 、 ソクラテス、理性、知と信 -250一 龍谷大学論集

参照

関連したドキュメント

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

(2)特定死因を除去した場合の平均余命の延び

児童について一緒に考えることが解決への糸口 になるのではないか。④保護者への対応も難し

、「新たに特例輸入者となつた者については」とあるのは「新たに申告納税

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

当事者の一方である企業者の手になる場合においては,古くから一般に承と