感染症研究の今後の在り方に関する検討会
報告書
平成28年7月
目 次
はじめに ··· 1
Ⅰ 検討の経緯と現状の取組等について ··· 2
1 検討の経緯··· 2
2 感染症研究の取組··· 4
Ⅱ「大学等における感染症・免疫研究の推進について」
(平成 12 年 12 月学術審議会)を振り返って ··· 12
Ⅲ 感染症研究の在り方を検討するに当たって ··· 18
1 高病原性の病原体に係る研究体制··· 18
2 感染症治療薬やワクチンの開発··· 23
3 感染症研究に係る人材育成··· 29
Ⅳ 新たな感染症研究の在り方について ··· 34
1 新規プログラムの目的・役割··· 34
2 新規プログラムの基本的コンセプト··· 35
3 具体的な研究等の内容··· 40
あとがき ··· 49
参考資料:感染症研究の今後の在り方に関する検討会の設置要綱
1
はじめに
近年、グローバル化の進展等に伴い、国境を越えて感染が拡散するケースが増 加してきており、鳥インフルエンザ、重症急性呼吸器症候群(SARS)、中東呼吸 器症候群(MERS)、エボラ出血熱などの流行が国際的な大きな脅威となった。我 が国でも、平成 26 年夏には 70 年ぶりにデング熱の国内流行が確認された。さら に、中南米を中心に大流行し、妊娠時の感染による小頭症児の発生等が国際的に 問題となっているジカウイルス感染症も、我が国においても輸入事例が報告され ている。このような状況の中、国内対策を強化するとともに、国際協力による感 染症制御に向けた取組を進めることが急務となっている。平成 27 年9月には、 内閣総理大臣が主宰する「国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議」が設置 され、本年2月に「国際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画」が、 4月には「薬剤耐性(AMR)対策アクションプラン」が策定され、これらの中で、 感染症対策の根幹を支える感染症研究や感染症人材育成を更に強化すべきとの 指摘がなされている。本年 5 月に開催された伊勢志摩サミットにおいても、感染 症対策に対する国際的枠組みの強化等が取り上げられている。 大学等における感染症研究は、長年、科学研究費助成事業等により推進されて きた。また、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)において、各省連 携の重点プロジェクトの1つである「新興・再興感染症制御プロジェクト」によ り、文部科学省及び厚生労働省の事業が連携して、治療薬・診断薬・ワクチンの 開発等が実施されている。 また、エボラ出血熱など高病原性ウイルスによる重篤な感染症への対策が国際 的に大きな課題になる中、我が国には現時点でこれら病原性の高い病原体を扱う 研究や人材育成を行うことができる BSL4 施設が整備されておらず、国民の安全 を確保するためにも BSL4 施設を中核とした感染症研究拠点の形成が求められて いる。 以上のように、感染症研究の強化が必要とされる中、本検討会では、感染症研 究等のこれまでの取組を振り返り、また、感染症研究を取り巻く動向等を分析し、 課題を整理した上で、今後の具体的な方向性について、専門家の間で議論を行い、 本報告を取りまとめたものである。2
Ⅰ 検討の経緯と現状の取組等について
本章では、感染症研究の今後の在り方を検討するに至った経緯、そして今後の 方針を検討するに当たって必要となる現状分析として、政府における感染症研究 等の事業の取組について述べる。1 検討の経緯
かつて我が国の死因の1位であった感染症は、衛生環境の改善、抗菌薬やワク チン開発等により、罹患者や死者は大幅に減少し、1970 年代ごろには、感染症は 撲滅可能な疾患であると楽観的な見通しが主流となっていた。 しかし、現在でも、世界中で三大感染症(エイズ、結核、マラリア)の死者は 年間 300 万人を越え、さらに新たにエボラ出血熱、SARS、MERS、デング熱、ジカ ウイルス感染症をはじめとした感染症が世界的に猛威をふるい(図1参照)、ま た、これまでに開発されてきた多種多様な抗菌薬に耐性を持った薬剤耐性(AMR) 微生物の脅威も世界的に拡大している状況にある。 図1 世界中で脅威をもたらしてきた感染症の例(高田礼人教授提供)3 近年、ヒトや物質の往来が地球規模で盛んになる中で、我が国に目を向けてみ ると、訪日外国人が特に増加傾向にあり、平成 26 年には 1300 万人を越え過去最 高を記録し、また平成 32 年に東京オリンピック・パラリンピックが控えている ことに鑑みると、国家の危機管理・安全保障からも感染症対策は喫緊の課題とな っている。 地球規模で猛威をふるう感染症に対する方策としては、2015 年6月のG7エル マウサミットでの首脳宣言「将来起き得る感染症との闘いのための協調」が盛り 込まれた他、同年9月の国連開発サミットで採択された「持続可能な開発のため の 2030 アジェンダ」(SDGs)において、2030 年までの感染症対策への目標が定め られる等、様々な議論が行われている。また、薬剤耐性(AMR)については、2015 年5月の WHO 総会において、AMR の世界行動計画(グローバルアクションプラン) が採択され、同年6月のG7エルマウサミットで AMR 対策を推進することで一致 し、本年5月の伊勢志摩サミットにおいてその取組を強化する方針が打ち出され、 その国際的な枠組みについて議論が行われた。 こうした国際的動向等も踏まえ、我が国として国際協力・国内対策の更なる強 化を図るために「国際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画」(平 成 28 年2月9日国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議決定)、「薬剤耐性 (AMR)対策アクションプラン」(平成 28 年4月5日国際的に脅威となる感染症 対策関係閣僚会議決定)が策定された。両計画においては、感染症研究や感染症 分野の人材育成を更に強化すべきとの指摘がなされている。 本検討会では、こうした状況を踏まえ、感染症対策の根幹を支える感染症研究 の現状の取組を分析した上で、課題を整理し、今後必要な取組を検討することと した。
4
2 感染症研究の取組
感染症研究を巡っては、我が国は初期には北里柴三郎、野口英世、志賀潔など の著名な研究者を多く輩出し、世界をリードしてきた。その後、抗菌薬やワクチ ン開発等の進展や公衆衛生の改善に伴い、各種伝染性疾患を中心とした感染症の 患者が大幅に減少し、そのことが感染症研究、とりわけ基礎研究に取り組む研究 者の減少の大きな要因となっている。そのような中で、昨年 12 月に大村智北里 大学特別栄誉教授がオンコセルカ症及びリンパ系フィラリア症の治療薬のシー ズとなる物質の発見等の功績によりノーベル賞を受賞されたことは、我が国の感 染症研究の潜在的なレベルの高さを示すものである。 地球規模で見れば死因の多くを未だ感染症が占める一方で、我が国においては、 患者数は相当数いるものの、全人口比からするとその割合は低いということもあ り、神経科学や再生医学、がん研究等の分野に人材が偏在し、それに伴い感染症 研究の予算規模も他と比較すると少ないのが現状である。そうした背景の中で、 国として推進してきた感染症研究等の事業を振り返ることとした。ついては、ま ず政府全体として、感染症研究をどのように位置づけて推進してきたのかを概観 した上で、各事業の取組について述べる。 平成 10 年に制定された「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関す る法律(平成 10 年法律第 114 号)」(以下「感染症法」という。)において、国の 責務として感染症に関する研究の推進を図ることが規定されており、後述する 様々な研究事業により感染症研究の推進が図られてきた。 平成 26 年5月には、健康長寿社会の実現に向けて、医療分野の研究開発に関 し、基礎的な研究開発から実用化のための研究開発まで一貫した研究開発の推進 などを目的とした健康・医療戦略推進法が成立し、同年6月に設置された内閣総 理大臣を本部長とする健康・医療戦略推進本部のもとで、各省が連携し、医療分 野の研究開発を政府一体で推進することとされた。この背景の一つには、科学技 術全般でみると我が国の基礎研究や関連技術力は国際的に産業競争力を保持し ているものの、医薬品、医療機器の貿易赤字は拡大する一方であることから、医 療分野の研究開発を加速化し、我が国発の革新的な創薬や医療機器開発を実現し、 国の経済成長に貢献することが期待されているという経緯がある。 平成 26 年7月には、健康・医療戦略推進本部において、重点化すべき研究分 野としての9つの各省連携プロジェクトが選定された。この9プロジェクトのう5 図2 平成 28 年度新興・再興感染症制御プロジェクトの概要 ちの1つが感染症に係る研究プロジェクトであり、「新興・再興感染症制御プロ ジェクト」として文部科学省及び厚生労働省の連携による革新的医薬品等の創出 と感染症対策の強化を図る取組が推進されている。文部科学省が所管する「感染 症研究国際展開戦略プログラム」及び厚生労働省が所管する「新興・再興感染症 に対する革新的医薬品等開発推進研究事業」が本プロジェクトを構成する重要施 策として位置づけられている(図2参照)。 平成 27 年4月には、医療分野研究開発推進計画に基づき、医療分野の研究開 発及びその環境の整備の実施や助成等の業務を実施することを目的として、国立 研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)が設立され、以後、AMED において、 9つの各省連携プロジェクトに係る事業が執行されている。次に、これまで及び 現在取り組まれている主な感染症や微生物に関連する研究事業等について概観 する。
6 図3 感染症研究国際展開戦略プログラム(J-GRID)の概要 ○感染症研究国際展開戦略プログラム(J-GRID)【文部科学省】 アジア・アフリカの海外拠点において、相手国機関と協力し、現地で蔓延する 感染症の病原体に対する疫学研究、診断治療薬等の研究を推進し、感染制御に向 けた予防や診断治療に資する新しい技術の開発、高度専門人材の育成を図る事業 である(図3参照)。 本事業は第1期(平成17~21年度)、第2期(平成22~26年度)を経て、現在 は第3期(平成27~31年度予定)の2年目である。第2期までに、アジア・アフ リカの8カ国に拠点を設置して、感染症対策に資する研究開発を推進し、基礎的 知見の集積、人材育成等を図ってきた。そして、第3期では、これまで整備した 海外拠点を活用し、引き続き研究開発を推進しているが、研究対象としては、我 が国への侵入リスクや疾患の重篤度などを考慮した国内ニーズに基づく感染症
7 として、主な研究対象にインフルエンザ、デング熱、薬剤耐性菌、下痢症感染症 を設定し、その他、結核、エイズ、小児重症肺炎、チクングニア熱を対象として いる。現在は9カ国9つの拠点において、疫学研究や診断治療薬等の基礎的研究 の推進を行っている。加えて海外拠点を国内の大学や研究機関に開かれた研究拠 点とし、国内の研究機関との共同研究、共通課題ごとの拠点間の連携を推進する とともに、高度専門人材の育成を図るため、国立感染症研究所等との連携し、研 修の機会を、国内の若手の感染症研究者等に提供している。 日本には存在しない感染症が蔓延している現地で患者に直接接することがで きるため、人材育成の面から成功している事業であるものの、全国の大学や研究 機関に開かれた研究拠点として十分に活用されていないとの指摘もある。この点 については、本事業が、拠点設置国の関係機関との長年の努力により構築されて きた信頼関係に基づく取組であるため、拠点設置国の政治状況や、海外拠点設置 施設の運営状況等によっては、活動への制限が生じうることも十分配慮しながら、 開かれた研究拠点にしていくことが必要である。 ○新興・再興感染症に対する革新的医薬品等開発推進研究事業【厚生労働省】 従来は、厚生労働科学研究費補助金の「新興・再興感染症研究事業」として実 施されてきた感染症に係る政策研究は、平成 27 年度からは、厚生労働省が直接 執行する感染症政策推進に資する研究(新興・再興感染症及び予防接種政策推進 研究事業)と、AMED が執行する医薬品等の開発に資する研究(新興・再興感染 症に対する革新的医薬品等開発推進研究事業)の2事業に分割された。 後者の「新興・再興感染症に対する革新的医薬品等開発推進研究事業」は、 J-GRID とも連携し、感染症対策に不可欠な研究を推進することにより、サーベ イランス等の感染症対策に関する基盤研究の強化につなげるとともに、その成果 をより効率的・効果的に治療薬・診断薬・ワクチン開発等につなげることを目的 とした研究事業である(図4参照)。 前記の AMED による新興・再興感染症制御プロジェクトの他にも、以下のよう なプログラムにおいて感染症に関する研究、人材育成、研究基盤の強化が図られ ている。
8 図4 新興・再興感染症に対する革新的医薬品等開発推進研究事の概要 地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム(SATREPS)【文部科学省】 科学技術の競争的研究資金と政府開発援助(ODA)との連携により、開発途 上国のニーズに基づき、感染症を含む地球規模課題の解決に向けた、社会実装 を目指す国際共同研究を推進している。J-GRID 同様に海外機関との信頼関係構 築が必須であるが、研究課題は主に相手国ニーズに基づくものであり、科学技 術的外交としての側面を帯びた事業である。 科学研究費助成事業【文部科学省・日本学術振興会】 科学研究費助成事業は、人文学・社会科学から自然科学まで全ての分野にわ たり、基礎から応用までのあらゆる「学術研究」(研究者の自由な発想に基づく
9 研究)を対象とする我が国唯一の競争的研究資金であり、感染症に関する研究 に対しても助成された実績がある。例えば、平成 13~17 年度の特定領域研究(感 染の成立と宿主応答の分子基盤 研究代表者:永井美之)、平成 18~22 年度の 特定領域研究(感染現象のマトリックス 研究代表者:野本明男)、平成 24~ 28 年度の新学術領域研究(ウイルス感染現象における宿主細胞コンピテンシー の分子基盤 領域代表者:永田恭介)などが挙げられる。 革新的先端研究開発支援事業(AMED-CREST、PRIME)【文部科学省】 本事業は、革新的な医薬品や医療機器、医療技術等を創出することを目的に、 客観的根拠に基づき国が定めた研究開発目標の下、組織の枠を超えた時限的な 研究開発体制を構築し、画期的シーズの創出・育成に向けた先端的研究開発を 推進するとともに、有望な成果について研究を加速・深化させることを目的と している。従来、科学技術振興機構(JST)において執行されてきた戦略的創 造研究推進事業(新技術シーズ創出)のうち、医療分野の研究課題を AMED に 移管し、平成 27 年度から開始された事業である。微生物学研究に関するもの としては、近年社会的にもニーズが高い微生物叢に着目した、研究開発領域「微 生物叢と宿主の相互作用・共生の理解と、それに基づく疾患発症のメカニズム 解明」(平成 28~33 年度、研究開発総括:笹川千尋)が平成 28 年度に開始さ れた。 平成 26 年度以前は、科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業において、 インフルエンザ等の研究を推進してきた例がある。 研究拠点形成費等補助金【文部科学省】 本事業は研究開発ではなく、人材育成を目的とする事業である。大学に教育 研究拠点を形成し、世界をリードする人材育成を図ることに目的に開始された 21 世紀 COE プログラム(平成 14~20 年度:各拠点の事業期間は5年)では、 北海道大学(人獣共通感染症制圧のための研究開発 拠点リーダー:高島郁夫)、 大阪大学(感染症学・免疫学融合プログラム 拠点リーダー:審良静男)、長 崎大学(熱帯病・新興再興感染症の地球規模制御戦略拠点 拠点リーダー:青 木克己)、北里大学(天然素材による抗感染症薬の創製と基盤研究:大村智) が、感染症の人材育成を図った。 その後継事業としてグローバル COE プログラム(平成 19~25 年度:各拠点
10 の事業期間は5年)が開始され、北海道大学(人獣共通感染症国際共同教育研 究拠点の創成 拠点リーダー:喜田宏)、長崎大学(熱帯病・新興感染症の地 球規模統合制御戦略 拠点リーダー:平山謙二)において、国際的に卓越した 研究基盤の下で人材育成が図られた。 最先端研究開発戦略的強化費補助金【文部科学省】 平成 22~24 年度に、国内外の若手研究者を惹きつける研究基盤の整備を強 化・加速することを目的に設置された補助金である。感染症関係では、新興・ 再興感染症の克服に向けた研究環境整備を通して、北海道大学、東京大学、大 阪大学、長崎大学が連携体制の構築に取り組みつつ、感染症対策技術の開発を 加速した。 このように感染症に関する研究、人材育成、研究基盤等の強化を図るため、 様々な事業が実施されてきた(図5参照)。それぞれの事業は、感染症分野に 特化したものだけでなく、科学技術外交、学術研究の推進、教育研究拠点の形 成等、事業の主旨や性格は多様であるものの、学会活動等を通じて研究成果の 共有が図られるなど、研究者コミュニティにおいて相互に有機的に連携しなが ら、我が国の感染症研究の全体的な底上げに寄与してきた。
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Ⅱ 「大学等における感染症・免疫研究の推進について」(平成 12 年
12 月学術審議会)を振り返って
平成 12 年当時、学術審議会特定研究領域推進分科会バイオサイエンス部会に感 染症・免疫研究推進小委員会(主査:岸本忠三 大阪大学長(当時))が設置され、 感染症及び免疫学分野の第一人者の参画により、両分野の連携による研究推進の必 要性や課題等について審議が行われ、平成 12 年 12 月には「大学等における感染症・ 免疫研究の推進について(意見の取りまとめ)」と題する報告書(以下「平成 12 年 審議会報告」という。)が取りまとめられた。 平成 12 年審議会報告を踏まえ、平成 13 年度から5か年で科学研究費補助金特定 領域研究「感染の成立と宿主応答の分子基盤(研究代表者:永井美之)」(以下「永 井特定研究」という。)が開始され、永井特定研究を引き継ぐ形で、平成18年度 から5か年で「感染現象のマトリックス(研究代表者:野本明男)」(以下「野本特 定研究」という。)が実施された。永井特定研究及び野本特定研究では、微生物学 と免疫学の融合を理念として、感染とそれに対する宿主応答メカニズムの解明、と いう目的に向けて、微生物学と免疫学を専門とする研究者が一体となって統合的な 研究が進められ、自然免疫など、優れた業績が多数生み出された。また、国際フォ ーラム、若手フォーラムを開催するなど、分野間の交流や若手育成も重視され、感 染症研究の再活性化と人材育成に大きく貢献した事業であったと評価できる。 平成 12 年に学術審議会で感染症が取り上げられた社会的背景としては、新興・ 再興感染症が新たな脅威として認識されたことや院内感染が社会問題化したこと が経緯の一つであるが、この 15 年間で、重篤な人獣共通感染症の地政学的リスク の高まりや、地球規模での薬剤耐性(AMR)の深刻化など、感染症に対する社会的 関心や感染症対策の必要性は一層高まっている。また、ライフサイエンス研究はこ の 15 年間で飛躍的に発展を遂げている。一方で、科学研究に関する財政基盤をみ ると、平成 12 年審議会報告が取りまとめられたのは、国立大学の法人化が議論さ れていた時期であったが、その後の 15 年間、国の財政は一層厳しさを増し、国立 大学法人化後運営費交付金は年々縮減されるなど、大学等における研究環境は総じ て厳しくなっている状況にある。 このように、永井特定研究のきっかけとなった平成 12 年審議会報告が取りまと められてから 15 年が経過し、新たな新興感染症の発生、周辺領域の科学研究の進 展、社会経済情勢の変化など、感染症研究を取り巻く環境は大きく変化していると13 考えられるが、現時点から当時の報告書を振り返り、この報告書で示された現状認 識は現在でも当てはまるかどうか、また、報告書で課題として挙げられた事項がそ の後どの程度改善されたか、改善されなかったとすればどこに問題があったのか、 を検証することにより、今後の感染症研究の在り方を検討する上で、重要な知見が 得られるものと考えられる。 このような観点から、本検討会では、以下のとおり、平成 12 年審議会報告のレ ビューを行った。なお、イタリック体の表記は、平成 12 年審議会報告からの引用 であることを示すものである。
(1)感染症研究の意義等について
平成 12 年審議会報告は、①感染症研究(細菌学、ウイルス学、寄生虫学)と免疫学は 相互に深い関係を持ちながら発展してきた、②これらの分野は、トランスレーショナルリ サーチに結び付く分野であり、多様な生命現象の解明に大きな影響を及ぼす分野である という観点から重要である、という基本認識にたっており、これらは現在も妥当な考え方 である。 平成 12 年審議会報告は、全体を通じて、感染症研究は各論的研究が中心で、他 の研究分野と比較して「遅れている」という認識が強く示されつつ、 ・「感染症研究は、かつて現象論・経験論であった伝染病学から、現在の生命科学 研究の潮流ともいえる「分子基盤」にのった新しい学問に発展し、さらに今後、 宿主-寄生体間の関係を越えて、集団レベルへの拡がり、地球規模の生態系との 関連を追求する高次複雑系の学問として発展しうる可能性を秘めており、バイオ サイエンス分野の未開拓地といえる。現在は、その新しい感染症学の夜明けであ る。」 と記載されている。この 15 年間、我が国の感染症研究は、関連領域研究の最新の研究 成果を取り入れながら、進展してきた。これは、永井特定研究や、それを継承した野本特 定研究に依るところが大きいと言える。報告書では、「現在は、新しい感染症学の夜明 けである」と謳われているが、その夜が明けて、全般的には、報告書に記された方 向で研究が進展してきたと評価できる。ただし、現在でも研究者の層の薄さ及び研究 内容の多様性の不足は否めず、その点での改善、特に分野間を横断した感染症研究組 織の構築が強く望まれる。 感染症研究の重要性等について、平成 12 年審議会報告では、14 ・「感染現象の生物学的理解」と「疾病として成立した感染症の克服」という二大命題のも と感染症研究を強力に推進していくことが我が国の使命である ・とりわけ、「感染現象の生物学」は、高次生体制御科学として他のバイオサイエンス分 野へも波及効果のある研究となりうる可能性を秘めている ・ホスト側の解析を行う免疫学の発展と相まって、科学的な感染症の克服を目指すこと が可能となりまた重要である といった認識が示されているが、この認識の妥当性は、15 年前も現在も変わらない。
(2)我が国における感染症研究の推移、現状、問題点について
平成 12 年審議会報告では、感染症研究は、「かつて近代医学形成の中核」であり、 「現代細胞生物学の推進者」でもあったにも関わらず、我が国において感染症研究 が衰退した理由として、 ・「我が国において感染症研究への分子生物学的あるいはゲノム解析の手法の導入 が遅れたことや、各病原体についての各論的研究に片寄り、生命科学にインパク トを与える統一概念の構築が少なかったことにも由来している」 と指摘しているが、その指摘の妥当性については疑問が残る。 むしろ、感染症が抗菌薬やワクチンで克服され医学的に問題ではないと認識されるよ うになったことが衰退の大きな理由であると考えられる。もちろんこの認識が誤りであっ たことは明白であるが。現時点でも、免疫学や再生医学のように臨床医学と関連が深い 分野に人材が偏在している。例えば医学部の場合、生化学のように医学部以外からも 人材供給がある分野を除けば、感染症に限らず基礎医学全般にわたり、教育や教育を 行う人材が枯渇している。 平成 12 年審議会報告には「人獣共通感染症」の記載がなく、15 年前にはあまり 認識されていなかったことが分かるが、現在ではこれが非常に重要な分野になっており、 動物や植物の感染症も含む広い視野での感染症研究を考慮することが必要である。 平成 12 年審議会報告では、感染症研究の推進の在り方について、 ・「感染現象の生物学を通じて、その中から普遍的原理を編み出すような研究を推進す る。すなわち、従来の感染症研究は、個々の感染性因子の研究に終始し、相互の交 流が少なく、各論的研究にとどまりがちであったことを反省材料とし、個々の感染性因 子の生物学的研究を極めつつも、それら全体を通して普遍的に存在するような基本的 原理の探究のための研究を推進する。」15 と記載され、各論的研究ではなく、基本的原理の探求ということが殊更強調されて いる。もちろん、サイエンス一般にインパクトを与えるような共通原理を探す研究 は重要であるが、それぞれの病原体に特有の問題もあるので、感染症の克服という 観点からは、基本的原理の探求と各論的研究のバランスを取ることが求められる。 臨床研究と基礎研究の関係について、平成 12 年学術会議報告書では、 ・「今後、我が国に求められているのは、基礎的研究の推進継続とともに、臨床研究の重 点化と、基礎的研究と臨床研究の間の乖離を埋める新たな領域の創出を通じて、感 染現象のサイエンスを推進し、またそれが可能な人材育成と研究基盤支援を充実さ せることである。」 と現在でも重要な指摘がなされており、今後も、臨床感染症学と基礎感染症学の融合を 図る努力が必要である。最先端の研究を臨床医が理解できることが重要であり、臨床感 染症学を専門として目指す者にも基礎研究のトレーニングを提供し、physician scientist の育成に努めることが考えられる。
(3)推進すべき研究領域・分野について
推進すべき研究領域・分野として、平成 12 年審議会報告では、 ・「エイズ、マラリア、結核がまずあげられるが、それに限ることなく、種々薬剤耐性細菌 感染症、プリオン病、HTLV-I、肝炎ウイルス、リーシュマニア症、エキノコッカス症な ど重要かつ特色のある感染性因子を適宜取り込みつつ、研究を推進することが求め られる」 と指摘されている。ここで例示された病原体は、15 年前の当時の社会的関心が反映さ れたものと考えられるが、当時は、NTDs(顧みられない熱帯病)があまり認識されていな かったことが見て取れる。いずれにしても、研究すべき病原体や内容を特定することの 必要性については疑問がある。十数年前の SARS の出現のように、問題となる感染症は 予測困難である。課題を指定したトップダウンの研究のみからは、創造的な成果は得ら れにくいことにも留意が必要である。感染症研究としては、研究者及び内容において層 を厚くすることが重要であり、幅広い病原体について研究者の自由な発想を生かして研 究が推進できるよう考慮することが必要である。 ウイルス疾患の理解と克服について、平成 12 年審議会報告では、 ・「ライフサイクルや複製機序、宿主との個体レベルでの関わり合いを分子的基盤に立っ て研究し、病原性発現機序を解明することが必須である。このためには、「感染の成立 に関与する分子群の同定などについての基礎研究」、「宿主に侵入後のゲノム発現、16 複製、宿主因子との相互作用及び感染細胞内での病原性発現の解析」、「動物実験 系を用いた抗ウイルス免疫に関わるメカニズムの解析」、さらに「持続感染と潜伏感染 のメカニズム解明」と、「新しい発想に基づく抗ウイルス剤や発症予防ワクチン開発」及 び「免疫制御による感染症の征圧研究」等を推進する必要がある。」 と要約されており、現時点でも病原ウイルス研究に求められることが網羅されている。 なお、マラリアについては、基礎研究から応用研究まで、我が国から分野をリード する成果が出ているが、これは永井特定研究よりも前に実施された特定領域研究「マラ リア制圧の分子論的展開(研究代表者:小島荘明)」による所が大きいと考えられる。こ れはマラリア研究者のみならず、創薬のための合成化学、また免疫学者などが参加し、 オールジャパンの多様な分野の研究者が一堂に会する事の重要性を示す好例である。 唯一の多細胞生物である寄生虫感染症及び感染症媒介節足動物の研究については、 平成 12 年審議会報告では、「バイオサイエンスの視点からは非常に遅れた分野である」 と指摘されているが、例えば、ボルバキアが糸状虫だけではなくマラリアの感染にも大き く関与していることが明らかとなるなど、この分野は15年間で大きく発展した。 結核については、日本において有用性の高い治療薬が開発されるなどの成果も出て いるが、ハンセン病も含め、基礎研究及び臨床の双方において若手の参入が少ないの で、将来のための人材確保が課題となっている。 我が国が遅れている分野については、研究の推進が図られるような工夫が必要で ある。例えば、平成 12 年審議会報告でも言及されているように、感染症制圧モデ ルや流行予測モデルの開発を目的として、フィールドにおけるデータ蓄積とモデル の開発を互いにフィードバックさせ、感染症を生態学的側面から理解することが重 要である。数理生物学的アプローチによる感染症研究は、現在でも全般的には欧米 と比して遅れているが、例えば、大気海洋結合モデルを活用したマラリアの流行予 測など、異分野が融合した形で優れた成果も出ているので、引き続き当該分野の研 究を推進することが重要である。 平成 12 年審議会報告では、免疫学研究者の感染症研究への参入、感染症と関連が 深い自然免疫や粘膜免疫の研究の推進が必要であるとされているが、これらは今後も 強く望まれる。また、欧米に比べて遅れていた構造生物学の感染症学、免疫学への応 用はターゲットタンパク、創薬プラットフォームなどの文部科学省によるサポートにより状 況は改善されつつあるが、今後も大いに進められるべきである。特に感染症研究と構造 生物学の両分野を進めることのできる研究者が少なく、その育成が必須である。
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(4)社会との関わり
平成 12 年学術会議報告書において、インターネット等による研究成果の常時閲覧な ど、研究成果の公開・積極的発信などの必要性が指摘されているが、本報告書の方向 で対応が進められており、今後も同様に進められるべきである。 関係府省等の研究機関との連携については、JICA との連携で進められている SATREPS や、パートナーシップを全面的に推進している GHIT(グローバルヘルス技術振 興基金:Global Health Innovative Technology Fund)などは、国際社会への発信という点 では大きい進展であり、平成 12 年学術会議報告書の期待した方向で進んでいる。 国際交流・協力と国際貢献についても、おおむね、平成 12 年学術会議報告書の 方向で進んでおり、さらなる推進が望まれる。エボラ出血熱の例からも明らかなように、 感染症に国境はない。この点で途上国における研究は重要であり、熱帯医学から始まっ たこの分野の研究は国際保健学へと発展し、そして地球規模の課題を考える「グローバ ルヘルス」や「ワンヘルス」へと進化している。この状況に我が国の研究者が貢献し、リ ードしていくためには基礎から臨床研究までの密接な連携と、政策や経済的効果の評価、 知財の在り方などをも含む学際的な感染症研究コンソーシアムの構築が必要と考えられ る。18
Ⅲ 感染症研究の在り方を検討するに当たって
本章では、今後の感染症研究の在り方を検討するに当たって、感染症研究を取 り巻く課題として、1.高病原性の病原体に係る研究体制、2.感染症治療薬や ワクチンの開発、3.感染症研究に係る人材育成の3点について、現状と課題を 概観する。1 高病原性の病原体に係る研究体制
2014 年に西アフリカで感染が拡大したエボラ出血熱は、世界中に大きな衝撃と 不安を与えた。我が国も例外ではなく、グローバル化した現代社会においては、 エボラウイルス等の高病原性ウイルスが国内に侵入するリスクはさらに高まる と予想され、国内対策を一層強化することが必要となった。エボラウイルスのよ うに、感染すれば有効な治療法がなく特に致死率が高い病原体は「リスクグルー プ4」と分類されており、「バイオセーフティレベル4(BSL4)」に相当する高度 な安全設備を備えた実験施設(BSL4 施設)において扱う必要がある。なお、本報 告書では、以下、BSL4 の実験施設を「BSL4 施設」、BSL4 施設で取り扱うことが必 要な高病原性の病原体を「BSL4 病原体」、BSL4 病原体の中でもウイルスを指すと きは「BSL4 ウイルス」という表現を使用することとする。 我が国では、昭和 56 年に国立感染症研究所村山庁舎に BSL4 施設が建設された が、平成 27 年8月に感染症法に基づく特定一種病原体等所持施設としての指定 がなされるまで、BSL4 施設としての稼働ができないという状態が続いていた1。 このような中、一部の日本人研究者が、海外の BSL4 施設を利用して、外国人 研究者との共同研究などの形で、BSL4 病原体に係る研究を実施し優れた成果が得 られているが、国内に BSL4 施設が整備されていないことによるデメリットが大 きいことも感染症の研究者の間で認識されてきた(表1参照)。このため、国内 における BSL4 施設の必要性について、議論がなされるようになり、例えば、内 閣府科学技術振興調整費(平成 18~20 年度)「BSL-4 施設を必要とする新興感染 症対策に関する調査研究」が実施され、BSL4 施設基盤整備の方向性の検討に資す 1 国立感染症研究所村山庁舎の BSL4 施設は、厚生労働省と地元武蔵村山市との協議を経て、昨年8月には感 染症法に基づく特定一種病原体等所持施設として厚生労働大臣により指定された。これにより、同施設にお いて BSL4 病原体を扱うことが可能となったが、厚生労働大臣と武蔵村山市長との間での確認事項として、 施設の使用は、感染者の生命を守るために必要な診断や治療等に関する業務に特化することとされている。19 表 1 日本に学術用の BSL4 施設がないことによるデメリット る研究が行われ、報告書では、「BSL-4 施設は国内に必要な施設であり新たな BSL-4 施設を用いた基礎研究が推進されるべきである」という見解が示されている。 また、日本学術会議では、平成 24 年からデュアルユース問題及び BSL4 施設に ついて検討が進められ、平成 26 年3月には、基礎生物学委員会・統合生物学委 員会・農学委員会・臨床医学委員会合同総合微生物科学分科会(委員長:笹川千 尋)による審議を踏まえ、提言「我が国のバイオセーフティレベル4(BSL-4) 施設の必要性について」が取りまとめられている。本提言においては、「我が国 が感染症研究の分野で今後も高い研究水準を維持し、国際貢献を継続するには、 国内の BSL-4 施設の整備と当該研究の強化は最重要課題の一つである」と指摘し た上で、「いつ侵入してきてもおかしくない、あるいは、人為的にバイオテロと して使われるかもしれない BSL-4 病原体から国民の生命の安全を担保するために は、危機管理の観点からも早急に BSL-4 施設を整備する必要がある」と述べられ ている。 このように、BSL4 施設の必要性の議論がなされる中で、平成 25 年には、長崎
20 大学をはじめとする 10 大学等により拠点合同運営委員会が設置され、長崎大学 を設置候補として、一種病原体研究のトップレベルの拠点形成及び感染症分野で の世界をリードする人材の育成を目的とする BSL4 施設を中核とした感染症研究 拠点を整備する構想が練られた。この構想は、平成 26 年2月には日本学術会議 マスタープラン 2014 に、同年8月には、文部科学省科学技術・学術審議会によ り策定されたロードマップ 2014 に盛り込まれた。平成 27 年6月には、長崎県、 長崎市、長崎大学により、感染症研究拠点の整備に関する基本協定が締結された。 同年8月からは、基本協定に基づき、県、市、大学の3者による連絡協議会が開 催され、施設設置に当たっての課題の明確化等について協議が続けられている。 本年2月に国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議により策定された「国 際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画」においては、「国内の大 学等の研究機関における感染症に係る基礎研究能力の向上及び危険性の高い病 原体等の取扱いに精通した人材の育成・確保等を図るため、病原体解析、動物実 験、治療法・ワクチン開発等の研究開発が可能な最新の設備を備え、安全性の確 保に最大限配慮した BSL4 施設を中核とした感染症研究拠点の形成について、長 崎大学の検討・調整状況等も踏まえつつ、必要な支援を行うなど、我が国におけ る感染症研究機能の強化を図る。」こととされている。 BSL4 施設が整備されれば、そこで取扱う BSL4 病原体に関する基礎・基盤研究、 医療開発研究、疫学研究、人材育成など様々な研究等が可能となる。また、様々 な病原性を有する病原体が存在する中で、各種病原体をピラミッド構造で整理し た場合(図6参照)、BSL4 病原体は頂点に位置するものとであり、BSL4 病原体を 扱うことができる体制を整備することは、BSL4 病原体に係る研究にとどまらず、 図6 BSL4 病原体に係る研究・人材育成の波及効果
21 図7 BSL4 施設を活用して実施が予定される研究等と期待される成果 感染症研究全体にとって、技術的にも人材育成の点でも大きな波及効果を有する ことが期待できるものである。 国民の生命・健康の保護や、国家の危機管理・安全保障のため、さらには、日 本の科学技術の発展や国際社会への貢献などの観点から、速やかに国内に安全性 の確保に最大限配慮した BSL-4 施設を整備することが必要であることは繰り返す までもなく(図7参照)、本検討会としては長崎大学の取組や国による支援に強 く期待しているところである。 BSL-4 施設整備の要件や留意事項等については、日本学術会議提言で提示され ている通りであるが、ここでは、①安全確保、②施設の立地、③地域との共生、 ④経費の確保、⑤人材の確保の5点について付記する。 まず、安全確保については、地域住民の安全・安心を最優先とし、厳格な安全
22 管理の下に施設運営ができるよう、ハード面、ソフト面の両方で万全の措置を講 じる必要がある。とりわけ、針刺し等の暴露や病原体の紛失などの事故が発生す れば、具体的な健康被害が生じなくても、地域住民との信頼関係が瓦解しかねな いことから、従事者に対しては、通常の実験室以上に徹底した研修や適性審査等 を実施することが重要である。また、施設関係者による盗取や不審者による侵入 等を防止するセキュリティ体制については、諸外国の例を参考にしつつ、警察な どとも十分に相談し、徹底した管理体制を構築する必要がある。 施設の立地については、BSL4 施設を利用して優れた成果をあげるためには、 BSL4 施設が単体で存在して事足りるものではなく、人(幅広い関連領域の研究者、 施設設備の保守・修理業者など)や物(各種領域の先端研究機器や実験器具、イ ンフラ基盤)、医療資源が揃っている研究機関や病院の集積する区域に設置する ことが重要である。現に、諸外国の BSL4 施設の多くが、市街地所在の研究機関 内に設置されている。 地域との共生については、BSL4 施設の建設と運営には、地元自治体及び近隣の 地域住民との信頼関係の構築が不可欠である。施設を整備することに不安を感じ る地域住民等に真摯に対応し、施設整備の意義や安全確保策等について丁寧に説 明するとともに、可能な限り情報開示に努め、十分な理解を得て整備を進めるこ とが重要である。施設の建設と運営に当たっては、様々な立場の地域住民を委員 に加えた協議会を定期的に開催することなどにより、住民の意見を反映すること も重要である。BSL4 施設を設置する研究機関には、地域住民にとっても誇りとな るような研究拠点として地域とともに発展していくことが期待される。 経費の確保については、安全確保を徹底した上で、必要な機能を備えた施設を 建設し、運営するための経費を、国が継続的かつ確実に支援することが重要であ る。また、産学連携による BSL4 病原体に係るワクチンや治療薬の開発等に向け、 製薬企業との共同研究を進めていく場合には、安定的な維持管理費の確保の観点 から、施設利用者から一定規模の施設利用料の負担を求めることを検討する必要 がある。 人材の確保については、BSL4 施設の維持管理を担うエンジニア、バイオセーフ ティ等を担当する専門スタッフ及び施設内で研究に従事できる研究者の層を厚 くすることが必要である。BSL4 施設が整備されるまでの間に、維持管理の専門ス タッフ及び BSL4 病原体を用いた研究への従事を希望する若手研究者を海外の BSL4 施設に計画的に派遣して、研修を行う仕組みを検討することも一案であろう。
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2 感染症治療薬やワクチンの開発
1928 年にアレクサンダー・フレミングが、培地に偶然侵入したアオカビの集落 周囲に黄色ブドウ球菌の発育阻止帯を見出し、この現象からペニシリンが発見さ れてから、抗菌薬療法の歴史が始まった。以後、各種の抗菌薬が開発され、臨床 に応用されるとともに、医学領域のみならず、獣医学、農学、水産学など幅広い 領域で活用されてきた。さらに、各種のワクチンも使用可能となり衛生環境の改 善も伴って、先進諸国では、1940 年代に世界的に死因の上位を占めていた肺炎や 結核、消化管感染症などが激減し、感染症はすでに制圧されたかのような認識が 広がった。 しかしながら、現在でも世界的にみると、各種の感染症が未だに死因の上位を 占めており、特に発展途上国などでは、感染症が主要疾患の地位を占めている状 況にある。 先進国においても、新興・再興感染症の脅威が高まるとともに、薬剤耐性菌の 出現と蔓延が深刻化しつつある中で、抗菌薬をはじめとする感染症治療薬や、ワ クチンの開発を推進することが課題となっており、ここでは、薬剤耐性菌対策や ワクチン開発の動向や課題等について触れる。 (1) 薬剤耐性菌問題と新規抗菌薬開発の必要性 我が国においては、多剤耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)が 1980 年代から医療機 関で分離頻度が増大するとともに、2000 年代以降は多剤耐性緑膿菌や ESBL 産生 菌の分離例が急増しつつある。海外でも国や地域によって、市中感染型 MRSA、多 剤耐性アシネトバクター、カルバペネム耐性腸内細菌科細菌(CRE)など様々な 薬剤耐性菌の増加が問題となっており、米国疾患予防管理センター(CDC)では CRE を「悪魔の細菌」と呼称して警告を発している。 途上国では、マラリアの特効薬として知られるアーテスネート製剤に耐性を持 つマラリア原虫(寄生虫)の出現、多剤耐性結核(抗酸菌)の拡大など、一般細 菌による感染症以外においても薬剤耐性が問題となっている。動物用抗菌性物質 の薬剤耐性への影響も課題となっている。動物用抗菌性物質としては、疾病の治 療を目的とした動物用抗菌薬や、飼料中の栄養成分の有効利用を目的とした抗菌 性飼料添加物が使用されているが、動物における薬剤耐性菌は動物への治療効果24 を減弱させるほか、薬剤耐性菌が畜産物等を介してヒトに伝播し、感染症を引き 起こした場合に、抗菌薬による治療効果が十分に得られない可能性も指摘されて いる。 こうした事実から、ヒト、動物といった垣根を超えた世界規模での取組(ワン ヘルス・アプローチ)が必要であるという認識が共有されるようになり、世界保 健機関(WHO)は、2011年、世界保健デーで薬剤耐性を取り上げ、世界的な取組を 推進する必要性を国際社会に訴えた。2013年には主要8カ国首脳会議(G8)各国 の学術会議の合議体、Gサイエンス学術会議が薬剤耐性の脅威に関する共同声明 を発表した。2015年5月の世界保健総会では、「薬剤耐性(AMR)に関するグロー バル・アクション・プラン」が採択され、加盟各国に2年以内の自国の行動計画 の策定を求めた。こうした国際的動向等も踏まえ、我が国でも「薬剤耐性(AMR) 対策アクションプラン」(平成28年4月5日国際的に脅威となる感染症対策関係 閣僚会議決定)が策定された。2015年6月のG7ドイツ・エルマウサミットでは、 AMRが主要課題の一つとして扱われAMR対策を推進することで一致し、本年5月の 伊勢志摩サミットにおいてもその取組を強化する方針が打ち出されている。 「薬剤耐性(AMR)対策アクションプラン」において指摘されているとおり、 AMR対策としては、様々な分野の取組を戦略的に講じることが求められているが、 以下において、新規治療薬開発に当たっての課題について述べる。 かつて我が国は、世界標準の抗菌薬を多数創出するなど、感染症治療を牽引し、 世界に大きく貢献してきた輝かしい歴史がある。しかしながら、いくつかの理由 により、近年、我が国では抗菌薬開発が停滞している状況にある。理由のひとつ として抗菌薬の新規標的候補を見出すことが困難となっており、製薬企業におい て抗菌薬開発のシーズやパイプラインが枯渇傾向にあることがあげられる。また、 抗菌薬に限らず新薬の開発には多額のコストがかかるにも関わらず、慢性疾患薬 と比べると抗菌薬の投与期間は短く、企業にとって開発費用に見合った利益確保 が困難という事情がある。抗菌活性の強い抗菌薬を開発すれば、投与期間がます ます短縮するという現実、あるいは、AMR対策として抗菌薬の更なる使用量軽減 が数値目標として盛り込まれる中で、抗菌薬開発のインセンティブを失い、この 分野から撤退する企業も増えている。 これまで我が国では、企業内での新規候補の探索から最終的な抗菌薬の開発ま で、自社内で完結する形で抗菌薬の創薬が行われてきた。優れた抗菌薬を開発し てきた各企業内には、天然物化合物や合成化合物のライブラリーや誘導体展開の
25 (参考)新規抗菌薬創薬への取組
新規抗菌薬開発のための方法論について振り返ると、1970年代までは天然化合 物やwhole cell assayスクリーニングにより新規ターゲットに対する新規化 合物を開発することが主流であった。それ以降2000年代前半までは、これらの化 合物をリードとして化学修飾によって多くの新規化合物(例えば、セファロスポ リン、キノロン、マクロライド)が開発された。現在は、耐性を克服する併用療 法が研究されているが、βラクタマーゼ阻害剤や排出ポンプ阻害剤のように耐性 機構を阻害する薬剤、薬剤耐性解除剤(Antibiotic resistance breaker)、抗菌 作用を高める薬剤などの開発が目指されている。また、新規トポイソメラーゼ阻 害薬のように、既知のターゲットに対し新たな作用機序や結合領域を探索して新 薬を開発する研究も行われており、キノロン耐性DNA gyraseを標的とする薬剤で あるNybomycinは日本人研究者が発見している。 神経系薬剤や抗リウマチ薬などの開発では、合成化合物ライブラリーを用いた ハイスルプットスクリーニング(HTS)が有効であるが、抗菌薬についてはHTSで はヒット化合物が出にくいことから、現在は天然物化合物の探索に回帰する傾向 もある。 近年、様々な感染症研究の基盤となる新しい技術やアッセイ系が開発されると ともに、新たな作用機序の薬剤の探索も進められている。例えば、これまで培養 できなかった土壌細菌がiChip(Isolation Chip)等の方法で可能となり、有望 なシーズが生まれている。例えば、抗MRSA薬として開発されたテキソバクチンは これまで培養できなかった土壌細菌をiChipの手法を用いて培養して発見された 新規抗菌薬である。また、海洋微生物、海洋産物からの新規化合物探索も行われ ている。 日本人研究者が発見したLysocin Eは、カイコ幼虫を用いる新規のスクリーニ ング法により、沖縄県の土壌から見つかった細菌から得られた新規抗生物質であ る。既存の抗菌薬が殺菌作用を発揮するまでに投与後30分程度要するのに対し、 Lysocin Eは1分で99.99%の殺菌作用を示し、新規抗菌薬の探索にカイコ幼虫を 用いるスクリーニング法の有用性が確認されている。
26 ノウハウをはじめ抗菌薬開発に係る様々な技術や資源・知識が社内で蓄積されて いると考えられるが、抗菌薬開発から企業が撤退するときに、これらの貴重なリ ソースが継承されず消滅してしまうことも危惧されている。 一方、我が国のアカデミアは、病原体の基礎生物学的研究で世界的に優れた成 果をあげている研究室が多数存在するものの、これまで大学等での研究では必ず しも創薬を目指した出口指向が強くなく、創薬に資する研究は積極的には推進さ れてこなかったといえる。 しかしながら、薬剤耐性菌が蔓延する中で企業も開発のインセンティブを低下 させている危機的状況の中で、アカデミア(学)と製薬企業(産)が連携して、 それぞれの強みを活かして、従来の抗菌薬とは作用機序等が異なる革新的な新規 薬剤の開発に向けた取組の推進が期待されている。例えば、従来の抗菌薬は菌を 殺すことが重視されてきたが、今後は、耐性化が生じないよう、菌を殺すことな く、病原性メカニズムなどを標的とした抗菌薬の開発を急ぐ必要がある。また、 従来の抗菌薬(低分子化合物)とは異なるアプローチにより、薬剤耐性菌を対象 とした抗体医薬品やワクチンの開発に向けた探索研究の推進も期待される。 (2) ワクチン開発 ワクチンは、感染症対策の重要な手法であり、また、その根拠となるウイルス 学、細菌学など微生物学、宿主の反応を研究する免疫学、病理学、薬剤として研 究を進める薬学、適切な動物モデルを開発する獣医学、そしてその効果、有用性 について最終的に判断を下す統計学、疫学、臨床医学などを網羅した統合的医学 研究の極致であるとも言える。 米国疾病管理予防センター(CDC)では 25 の感染症を Vaccine Preventable Diseases (VPD)と位置付け、ワクチンを感染症コントロールの基盤として位置付 けている(表2参照)。 一方で、アカデミアで研究室レベルのワクチンのシーズとしての研究がなされ てもその成果が実際にワクチンとして上市されるまでには多くの時間と莫大な 費用がかかる。実際には年余にわたる臨床実験と臨床実験に入る前の非臨床実験 (最適な抗原の検索、デリバリー、接種経路、動物モデル開発など)が必要であ る。このギャップ(谷間)を埋めるためには産学官の連携が必須である。
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表2 Vaccine Preventable Diseases (VPD)25 疾患 米国疾病管理予防センター(CDC)より
表3 ワクチン開発を優先すべきとされた 17 疾患
The Foundation for Vaccine Research Working group updated January 28, 2016 より
本年5月には、米国国立科学アカデミーにおいて、アカデミア、行政、企業の それぞれの立場からワクチン対策を主導する世界中の第一人者が参集し、産学官 の連携によるワクチン開発の在り方を協議する非公式の会合が開催された。そこ ではこれから優先的に開発に取り組むべき疾患ワクチンとしてジカ熱ワクチン など 17 疾患のワクチンが提示された(表3参照)。そして、このギャップを埋め るための国際基金 Foundation for Vaccine Research の設立が謳われた。
我が国のワクチンに開発については、かつては、無細胞型百日咳ワクチンや水 痘ワクチン、日本脳炎ワクチンなどが国内で開発され海外でも普及するなど、活 発に研究開発が推進された時代があったが、
28 ① 米国などでは、ワクチンで予防可能な疾患はワクチンで予防するとの考え方 が定着しているのに対し、我が国では、早期診断や抗菌薬の開発等により感 染症の制圧が可能と考えられてきたこと、 ② 欧米では、メガファーマが豊富な研究開発資金を投入し、先端的な技術など を駆使してワクチン開発を進めてきたのに対し、我が国では、ワクチンを製 造する事業者は企業規模が小さく、研究開発に強力に取り組むことが困難で あったこと などから、長らくワクチン開発は低調であった。 このような中、予防接種基本計画(平成 26 年4月厚生労働大臣告示)におい ては、医療ニーズ及び疾病負荷等を踏まえ、開発優先度の高いワクチンとして、 ①麻疹・風疹混合(MR)ワクチンを含む混合ワクチン、②DPT-IPV ワクチンを含 む混合ワクチン、③経鼻投与ワクチン等の改良されたインフルエンザワクチン、 ④ノロウイルスワクチン、⑤RS ウイルスワクチン、⑥帯状疱疹ワクチンの6ワク チンが選定され、厚生労働省においては、これらの6ワクチンについて、開発要 請を行う等の取り組みが実施されている。 予防接種基本計画に位置付けられた上記6ワクチン以外にも、いくつかの国内 の研究チームが、現在有効なワクチンが存在しない感染症、またはさらなる有効 性の向上が求められる感染症を対象としたワクチン開発やアジュバントの開発 に取り組んでいる。このような、他の研究事業等におけるワクチン開発状況等を 把握した上で、役割分担に留意しつつ、新たな視点でアカデミア研究者がワクチ ン開発に向けた基礎的研究を推進することが期待される。 例えば、クロストリジウム・デフィシル、黄色ブドウ球菌、肺炎球菌、結核、 淋菌など薬剤耐性が問題となっている細菌等を対象としたワクチンが開発され れば、薬剤耐性菌問題の解決に当たって大きな糸口になりうるとの指摘がある。 ただし、ワクチン開発は通常の化合物創薬と比べてもはるかに難易度が高く、 基礎の探索研究の段階で一定の成果が得られても、その先の臨床応用に向けて研 究を進める段階のハードルが極めて高いという現実を直視することも重要であ る。いずれにしても、アカデミア研究者がワクチンに関する研究を行う場合には、 研究のトレンドを追うのではなく、また、現時点では必ずしも社会的に注目され ていない潜在的な感染症にも着目し、先駆的な研究を行うことが重要である。
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3 感染症研究に係る人材育成
様々な新興・再興感染症の流行、薬剤耐性や院内感染等、予測不能な脅威にさ らされている中で、感染症に係る新たな知を持続的に創出するためには、大学等 の教育、研究機関とそれを取り巻く研究環境を整備することにより、世界をリー ドする科学的知見の創出の推進を図るとともに、次世代を担う優秀な若手研究者 の養成を推進することが重要である。 本節では、(1)医学部の微生物学関連教室の現状と課題、(2)多様なバック グランドの研究者確保の必要性、(3)若手研究者の育成、の3点について述べ る。 (1) 医学部の微生物学関連教室の現状と課題 我が国における感染症研究は、国立感染症研究所及び大学附置研究所(例えば、 北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター、東京大学医科学研究所、京都大学 ウイルス研究所、大阪大学微生物病研究所、長崎大学熱帯医学研究所)などにお いて、(後に触れる大学の学部担当教室との対比において)比較的安定的に研究 資金が投入され、国際的にも優れた研究成果が生み出されるとともに、優秀な人 材も確保されてきた。 また、臨床の領域では、インフェクションコントロールドクター(ICD)の重 要性などの認識が高まる中で感染症専門医を志す若手医師は年々増加傾向にあ る。一方で、基礎系教室の多くは、研究資金の確保に苦労している上に、教員は 研究活動や学部学生に対する教育に加え様々な日々の業務で疲弊している状況 にある。とりわけ感染症・微生物領域については、かつては、ウイルス学、細菌 学、寄生虫学(医動物学)など複数の基礎研究室が存在する大学もあったが、昨 今、他の分野の研究室に転換し微生物学関連の教室数が削減されたり、教室名は 変わらなくても必ずしも微生物学が専門ではない教員が配置されている大学が 増加している状況にある。結果として、学部学生に対し、感染症・微生物学に興 味を抱かせる教育が提供できず、当該分野の研究者を目指す者が減少し、人材の 枯渇により益々微生物学関連の研究が衰退する、という負のスパイラルに陥って いる。 この点については、他の分野の研究者の視点からは、時代とともに、研究のト レンドは変化し中心的学問領域は変遷するので、若い研究者が微生物学よりも神30 経科学や分子生物学、ゲノム科学などの領域に関心を示すのは必然であるという 見方、あるいは、感染症・微生物学の研究者が、学生に対し、当該分野の面白さ を伝える教育を提供できていない、あるいは学生が魅力を感じる研究業績を十分 に生み出せていないことが当該分野の衰退の一因ではないか、といった指摘も存 在する。 しかしながら、感染症・微生物学領域は、国民の生命と安全を守るための国家 の危機管理としての側面が強く、例えば新興感染症による重大なアウトブレイク が発生した場合にも迅速に解決策が講じられるようにするためには、微生物学を 理解した感染症専門医を持続的に育成することが不可欠であることに鑑み、微生 物学関連の学部担当教室の研究基盤を強化することにより、微生物学に関心を持 つ医学生を増やし、将来の感染症研究者を確実に養成できるような仕組みを考え ることが必要である。 (2) 多様なバックグランドの研究者の確保 近年、世界中で新たな感染症が次々と報告されているが、その多くが人獣共通 感染症である。人獣共通感染症の病原体は、元々は野生動物と共存していた微生 物であるが、人の活動領域の拡大と著しい地球環境の変化等によって自然界と人 間社会の境界が消失し、人の世界に入り込んだものである。医学部における人獣 共通感染症の研究は、人の世界に入り込んだ後に定着してしまった人に対する病 原体を主な対象としているが、人獣共通感染症から人の健康を守るためには、自 然界から人の世界に偶発的に入り込んでいるがまだ定着していない病原体や、ま だ人の世界に入り込んでいないものの人に脅威を与える可能性のある微生物に ついて理解を深めることが求められている。 従って、人獣共通感染症対策確立のためには、獣医学領域の感染症研究を同時 に推進することが重要である。また、人の感染症の研究には、必ずしも実際の病 態と一致しない動物モデルを使う必要があるが、獣医学領域の感染症研究の場合 には、その病原体の自然宿主動物を使って感染実験ができるという利点がある。 すなわち、感染症病態における本来の宿主・病原体の攻防を直接解析することが 可能という点でも、獣医学領域の感染症研究の重要性は高く、人の感染症の理解 にも貢献する可能性が高い。 人に感染する微生物だけでなく、人以外の哺乳類や鳥類に感染する微生物、魚
31 類、節足動物、植物に感染する微生物、細菌に感染する微生物などを対象とした 研究から、生物学上重要な原理が発見されることもあり、医学、歯学、獣医学、 薬学、農学などの学問分野のみならず、昆虫や植物など様々な領域で微生物を扱 う研究者の連携及びコミュニティ拡大によって、様々な生物に感染する微生物に 関する研究を幅広く推進する必要がある。またこれは、将来感染症研究分野を担 う人材の育成という観点からも重要である。 薬学領域の感染症研究は、天然物創薬、合成化学創薬、微生物科学などが基盤 として不可欠であることは言うまでもなく、革新的な作用機序の創薬の実現に当 たって、医学など他の研究領域とは異なった視点での貢献が可能である。従来培 ってきた薬学独自の創薬研究をさらに推進するとともに、他分野との共同創薬研 究プロジェクトの実現により、新規性の高い価値ある成果が生まれることが期待 される。また、近年、薬剤耐性菌対策として、Antimicrobial Stewardship (AMS) が注目される中で、感染症治療に従事する臨床薬剤師の養成を急ぐ必要がある。 医療現場での育成とともに、薬学教育の充実も重要であるが、薬学領域では、感 染症に精通した教員が不足しており、当該分野の人材の育成も重要な課題である。 さらに、感染症研究の全体的なレベル向上のためには、免疫学や分子生物学な ど微生物学以外の生命科学、さらには工学、情報科学など幅広い領域のテクノロ ジーや人材を動員することが求められており、多様な領域の研究者が参入し、相 互に交流しながら、分野横断的に創造的な感染症研究が展開できるような仕組み が期待される。 (3) 若手研究者の育成 感染症・微生物領域に限らないが、真に革新的な科学的知見は、しばしば出身 学部とは無関係に20代、30代の若手研究者から生み出されている。優秀な若手研 究者は、従来の発想にとらわれることなく、独創的に解決策を考え、新しい領域 を切り開くイノベーターである。次世代のリーダーに成り得る優秀な若手研究者 が、短期的な研究成果を出すことに追われることなく、創意工夫をしながら主体 的に研究を行うことができる安定した研究環境の整備が求められている。 最近の若手研究者について懸念されることは、感染症・微生物領域のバックグ ランドを持ち、高度な先端技術に精通し、病原体を分子レベルで解析することに 長けていても、生きた病原体を丸ごと使用した経験が不足していたり、感染現象