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自由になることと自由への導き : スピノザ『エチカ』における自由論の射程についての一考察 利用統計を見る

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(1)

自由になることと自由への導き : スピノザ『エチ

カ』における自由論の射程についての一考察

著者

大野 岳史

雑誌名

白山哲学 : 東洋大学文学部紀要 哲学科篇

50

ページ

69-91

発行年

2016-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007934/

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  十七世紀オランダのユダヤ人であるスピノザは、哲学的主著である﹃エチカ﹄で﹁自由に達する方法ないし道程に つ い て の 倫 理 学 ﹂ を 構 想 し、 ﹁ 精 神 の 自 由 な い し 自 由 と は 何 で あ る か を 示 す ﹂ こ と を 目 指 し て い る︵ cf. E5Praef ︶。 と こ ろ が﹃ エ チ カ ﹄ の 最 後 で は、 こ の 自 由 の 獲 得 が﹁ 稀 で あ り か つ 困 難 で あ る ﹂︵ E5P42S ︶ と さ れ、 自 ら の 力 で は 自 由 を獲得できない多くの人々がいることを示唆している。それではスピノザの倫理学は、自らの力では自由になること ができない多くの人々に対して、自由への道を閉ざしてしまっているのだろうか。   も し こ の よ う に 問 わ れ た の で あ れ ば、 ︿ 閉 ざ し て い る と は か ぎ ら な い ﹀ と 言 え る。 例 え ば、 ス ー ザ ン・ ジ ェ イ ム ズ は﹃エチカ﹄第四部定理七一から定理七三をもとに、自らの力では自由を獲得できない人々は﹁正しい法を考案する ことで彼らの政治的な自由を増大することができ、広義の自由は、スピノザが自由な人間の一人のように描いている ある特有の共同体によって育まれう る (( ( ﹂と解釈する。これらの定理では自由な人々が相互に感謝し合うこと ︵ E4P71 ︶、

ザ『

ける自由論の射程についての一考察

 

 

 

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自 由 な 人 々 は 欺 瞞 に 満 ち た 行 為 を し な い こ と︵ E4P72 ︶、 そ し て 理 性 に 導 か れ る 人 間 は 共 同 の 決 定 に 従 っ て 生 活 す る 国 家 に お い て い っ そ う 自 由 で あ る こ と︵ E4P73 ︶ が 証 明 さ れ る。 ま た ス ピ ノ ザ は﹁ 自 由 な 人 間 す な わ ち 理 性 の 指 図 の み に 従 っ て 生 き る 人 ﹂︵ E4P67D ︶ と 語 っ て い る た め、 こ こ で﹁ 理 性 に 導 か れ る 人 間 ﹂ と は 自 由 な 人 間 に 他 な ら な い。 つまり定理七一から定理七三では、自らの力では自由を獲得できない人々が明示されるわけではな い (( ( 。つまり第四部 定理七一から七三までだけでは、自らの力で自由を獲得できない人々の自由について語ることは難しい。   これに対して、自らの力で自由を獲得できない人々が自由に到達する物語が﹃エチカ﹄第四部定理六八備考に見ら れる。そこでは、族長による人々の失われた自由の回復について語られている。つまり自らの力で自由に到達できず と も、 他 人 の 援 助 に よ っ て 自 由 と な る 可 能 性 が 残 さ れ て い る。 本 稿 で は、 ﹃ エ チ カ ﹄ 定 理 六 八 備 考 を 主 軸 に、 自 身 の 力で自由を獲得できない人々の自由について、 ﹃エチカ﹄に基づいてどれだけ理論化できるのかを見ていく。   そのために、まず第四部定理六八を概観することで備考が何を補足しているのかを確認し、その上でその備考で記 される﹁最初の人間の物語﹂を見ていく。この物語の中で、族長は﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂に導かれて 他の人々の自由を回復する。そのため、この﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂が自由の回復においてどのような 役 割 を 担 っ て い る の か を 確 認 す る 必 要 が あ る。 そ の 中 で、 ﹁ キ リ ス ト の 霊、 す な わ ち 神 の 観 念 ﹂ が 認 識 と 感 情 の 面 か ら明らかになり、族長が抱いている感情はどのようなものか、そしてなぜ族長が他の人々を援助するのかが明らかに な る。 と こ ろ で、 ﹁ 最 初 の 人 間 の 物 語 ﹂ は 聖 書 に 記 さ れ て い る た め、 こ の 問 題 が 神 学 の 問 題 で あ る 可 能 性 が あ る。 ス ピ ノ ザ は﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ で 神 学 と 哲 学 と を 分 離 す る た め、 ﹃ エ チ カ ﹄ で﹁ 最 初 の 人 間 の 物 語 ﹂ に つ い て 詳 細 に 語 る 妥 当性を提示しなければならない。以上の考察によって、スピノザ﹃エチカ﹄では主題化されない自らの力では自由を 獲得できない多くの人々が自由となる可能性について、 ﹃エチカ﹄に基づいて明らかにする。

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  第四部定理六八における自由と善悪の認識   第四部定理六八備考での補足がどのようなことに対して行われているのかを明確にするため、この定理とその証明 で何が語られているのかを確認しよう。 ﹁ も し 人 々 が 自 由 な も の と し て 生 ま れ た と し た ら、 彼 ら は 自 由 で あ る 間 は い か な る 善 悪 の 概 念 も 形 成 し な かったであろう。 ﹂︵ E4P68 ︶ ﹁ 私 は 理 性 の み に 導 か れ る 人 を 自 由 で あ る と 言 っ た。 こ う し て、 自 由 な も の と し て 生 ま れ か つ 自 由 な も の にとどまる人は充全な観念しかもたないことになる。またそれゆえに、何ら悪の概念をもたない︵この部 の 定 理 六 四 系 に よ り ︶。 し た が っ て 善 の 概 念 を も も た な い︵ 善 と 悪 と は 相 関 的 な も の で あ る か ら ︶。 ﹂ ︵ E4P68D ︶ この定理は、自由であることから当該の人々が善悪を認識しないことを導出するものだが、証明で示されているよう に﹁理性のみに導かれる人が自由である﹂ため、出発点が理性のみに導かれることへと変更され、善悪を認識しない ことの証明へと向かっている。ところで、スピノザは認識を﹁想像﹂ 、﹁理性﹂ 、﹁直観知﹂という三種の観念形成に別 け ︵ E2P40S2 ︶、 これらのうち想像のみが誤謬の原因であると考える ︵ E2P41 ︶。つまり理性と直観知による観念形成は、 真なる観念の形成でなければならない。そしてスピノザにとって真なる観念とは充全な観念であり、したがって理性 のみに導かれる人は﹁充全な観念しかもたない﹂と言える。以上が証明の前半部分であり、後半部分では第四部定理

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六四系に基づき、充全な観念を持たない人々が善悪を認識しないことを直接帰結している。したがって充全な観念と 善悪︵の概念︶との関連を明らかにしなければならない。   スピノザにおける善悪の認識に関しては感情論において語られている。つまり、善悪の認識は喜びの感情と悲しみ の 感 情 に 他 な ら な い︵ E4P8 ︶。 正 確 に は、 私 た ち を 喜 ば せ る も の、 言 い 換 え れ ば 活 動 能 力 を 増 大 さ せ る も の を 私 た ち は 善 と 呼 び、 悲 し ま せ る も の、 言 い 換 え れ ば 活 動 能 力 を 阻 害 す る も の を 悪 と 呼 ぶ︵ E4P8D ︶。 し た が っ て 人 々 は 喜 び をもたらすものに出会ったときに善を認識し、悲しませるものに出会ったときに悪を認識する。また精神の能動は充 全 な 観 念 に 由 来 し、 反 対 に 精 神 の 受 動 は 非 充 全 な 観 念 に 由 来 す る た め︵ E3P3 ︶、 精 神 の 受 動 で あ る 悲 し み は 非 充 全 な 観 念 に 依 拠 し て い る。 以 上 の こ と か ら、 第 四 部 定 理 六 四 で は 悪 の 認 識 が 非 充 全 な 認 識 で あ る こ と が 帰 結 さ れ る ︵ E4P64 ︶。 こ の 証 明 で は 明 示 さ れ て い な い が、 喜 び と 悲 し み が 相 関 的 な も の で あ る の と 同 様 に 善 悪 の 認 識 も 相 関 的 な ものであり、一方なしに他方が成立しえないことは明らかである。   以 上 の よ う な 定 理 六 四 の 論 証 だ け で、 自 由 な 人 々 が 善 悪 の 認 識 を も た な い こ と を 帰 結 す る た め に は 十 分 で あ ろ う。 し か し、 ス ピ ノ ザ は 定 理 六 八 証 明 で 定 理 六 四 系 を も 参 照 し て い る。 こ れ は、 人 々 が﹁ 自 由 で あ る 間 は quamdiu liberi essent ﹂ と い う こ と を 含 め て 説 明 す る た め で あ ろ う。 つ ま り、 ス ピ ノ ザ は 理 性 と 何 ら か の 感 情 と に 導 か れ て 行 為 す る 場 合 や、 あ る 時 は 理 性 の み に 従 い 別 の 時 に は 感 情 に 従 っ て し ま う と い う 可 能 性 を 考 え て い た と 思 わ れ る。 ﹁ 自 由 で あ る 間 は ﹂、 あ る い は﹁ 理 性 の み に sola ratione ﹂ 導 か れ る と い う 条 件 下 で な け れ ば、 善 悪 の 認 識 を も た な い と 断 定 す る ことはできない。このことは、善悪の認識をもっているときには、既にその人は自由を失っている、あるいは理性以 外 の も の に 動 か さ れ て い る と い う こ と を 意 味 す る よ う に 思 わ れ る。 ス ピ ノ ザ に と っ て 基 本 的 な 感 情 は 喜 び laetitia ・ 悲 しみ tistitia ・ 欲求 cupiditas であり︵ E3P11S ︶、 他の感情はこれらによって説明される。したがって、 喜びや悲しみといっ

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た感情によって人間が容易く自由を失ってしまうことは明らかである。   族長による自由の回復   スピノザによれば、 定理六八の仮定、 つまり﹁人々が自由なものとして生まれた﹂ことは誤りである。というのも、 人間は ﹁自身がその充全な原因であるような変化のみを受けるということは不可能である﹂ ︵ E4P4 ︶ からだ。したがっ て 人 間 は﹁ 必 然 的 に 常 に 受 動 に 隷 属 す る ﹂︵ E4P4C ︶ た め、 善 悪 を 認 識 し な い 人 間 と い う 想 定 は 反 事 実 的 で あ り、 こ のことを表示する物語としてモーセによって残された﹁最初の人間の物語

primi hominis historia

﹂が提示される。 ﹁ 神 は 自 由 な 人 間 に 対 し て 善 悪 の 認 識 の 木 の 実 を 食 す こ と を 禁 じ、 そ し て そ の 人 間 は そ れ を 食 す と、 直 ち に生きることを欲するよりも、むしろ死を恐れるようになった。次にその人間は自らの本性とまったく適 合している女性を発見すると、自分にとってその女性よりも有用なものは自然のうちに何もないと認識し た。ところが、その人間は自身が獣と類似していると考えた後には、直ちにそれら獣の感情を模倣し始め ︵ 第 三 部 定 理 二 七 を 見 よ ︶、 つ ま り は 自 ら の 自 由 を 失 い は じ め た。 こ の 自 由 を、 族 長 た ち は キ リ ス ト の 霊、 すなわち神の観念に導かれて回復した。人間が自由であること、そして︵この部の定理三七により︶人間 が 自 身 に 欲 求 す る 善 を 他 の 人 び と の た め に も 欲 求 す る こ と は、 こ の 神 の 観 念 に の み 依 拠 し て い る。 ﹂ ︵ E4P68S ︶   ここで﹁神は自由な人間に、善悪の認識の木の実を食することを禁じた﹂とあるため、最初の人間が生まれながら

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に自由であったことは確かであ る (( ( 。この最初の人間が善悪の認識の木の実を食したことがきっかけで自由は失われる の だ が、 ﹁ 自 由 を 失 い は じ め た ﹂ と 記 述 さ れ る ま で に 三 つ の 過 程 を 経 て い る。 第 一 に 感 情 が 生 き る こ と へ の 欲 望 か ら 死への恐怖に移行したこと、次に自らの本性と適合した女性の有用性に気付くこ と (( ( 、そして最後に獣の感情の模 倣 (( ( で あ る。 恐 怖 は﹁ 疑 わ し い も の の 想 像 か ら 生 じ る 不 確 か な 悲 し み ﹂︵ E3P18S2 ︶ で あ り、 こ の 受 動 感 情 が 悪 の 認 識 で 或 ることは前節から明らかである。また第四部定義一、定義二によれば、善は﹁我々にとって有用であると我々が確知 す る も の ﹂、 悪 は﹁ 何 ら か の 善 を 我 々 が 所 有 す る の を 妨 げ る と 確 知 す る も の ﹂ で あ る。 し た が っ て、 善 悪 を 認 識 す る ということは、 自分にとって何が有用で何が有用であることを妨げるのかを認識することに他ならない。人間︵男性︶ は人間の女性の有用性に気付くのだが、このことは彼が善の認識を活用したということに他ならない。このようにし て人間は善の認識︵女性の有用性︶と悪の認識︵死への恐怖︶とを獲得するのだが、それだけには留まらない。人間 は 獣 の 感 情 を 模 倣 す る こ と で 受 動 に 隷 属 す る よ う に な り、 自 由 を 喪 失 し た (( ( 。 こ う し て、 ﹁ 最 初 の 人 間 ﹂ を 例 外 と 認 め る こ と は で き る と し て も、 ﹁ 人 々 は 自 由 な も の と し て 生 ま れ た ﹂ と い う 仮 説 は 誤 り で あ る こ と が 明 ら か に な る。 ス ピ ノザは﹁最初の人間の物語﹂を自由の喪失の物語として捉えている。   「キリストの霊、すなわち神の観念」   失われた自由は族長たちによって取り戻されるのだが、ここでは具体的にどのようにして自由の回復が果されたの かは記述されていない。明らかなことは、自由の回復は﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂という導きによって果 た さ れ た こ と だ。 ﹁ キ リ ス ト の 霊、 す な わ ち 神 の 観 念 ﹂ と は い か な る も の か、 そ し て 自 由 の 回 復 に お い て ど の よ う な 役割を担っているのか。これらの問題を考究しなければならないだろう。

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三─一   無限知性としての神の観念   まずはマシュレによる﹁神の観念﹂という表現に着目した解釈を見てみよう。マシュレによれば、神の観念︵=キ リストの霊︶は神の無限知性である。そしてマシュレは、 ﹃エチカ﹄第二部定理三二により、 ﹁すべての観念は神に関 係するかぎりにおいて真である﹂ 、言いかえれば、 ﹁神において在るすべての観念はその観念されたものとまったく一 致する﹂ため、神の観念において在るものはすべて真であると帰結す る (( ( 。スピノザが第四部定理六八備考で提示して いない第二部定理三二を挙げることで、神の観念による導きと真理認識がつなげられることになる。つまり族長たち は 真 理 認 識 に 到 達 し、 真 理 に 基 づ い て 判 断 し 人 々 を 導 い た、 と い う こ と に な る だ ろ う。 も ち ろ ん 族 長 た ち 以 外 に も、 真理認識に到達した人々であれば、失われた自由を回復できると言えよう。マシュレは指摘していないが、スピノザ において無限知性とは思惟属性の直接無限様態であ る (( ( 。スピノザにおける無限様態は、それぞれの属性︵神の本質を 構 成 す る も の ︶ か ら 直 接 的 に 生 じ た﹁ 直 接 無 限 様 態 ﹂ と、 そ れ を 媒 介 と し て 生 じ る﹁ 間 接 無 限 様 態 ﹂ に 大 別 さ れ る。 有限様態が直接無限様態から生じるか、あるいは間接無限様態から生じるのかについては解釈の余地があるが、どち らにせよ、思惟属性の有限様態である個々の観念は、すべて無限知性を何らかの仕方で媒介として生じる。したがっ て、どの人間の有する観念であっても、無限知性を媒介として生じていることになる。実際、スピノザは﹁人間精神 は神の無限知性の一部分である﹂ ︵ E2P11C ︶と考えている。   マシュレは ﹁神の観念 idea Dei ﹂ を神の認識作用として、 あるいは神の有する観念として捉えた。これに対して、 ﹁神 の観念﹂を人間が有する神に関する認識、つまり人間の有する神とは何かについての観念であると解釈することもで きよう。この場合でも、族長たちは真理認識にいたっていると考えることができる。しかしながら、マシュレの解釈 に お い て 真 理 認 識 の 対 象 が 何 で あ る か は 明 ら か に さ れ て い な い が、 ﹁ 神 の 観 念 ﹂ を 人 間 の 有 す る 観 念 で あ る と 解 釈 し

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た 場 合 に は、 真 理 認 識 の 対 象 は﹁ 神 ﹂ に 限 定 さ れ る こ と と な る。 ど ち ら の 解 釈 が よ り 整 合 的 か を 明 ら か に す る た め、 第四部定理六八備考における﹁神の観念﹂の参照箇所として挙げられている第四部定理三七を確認しよう。 ﹁ 徳 に 従 う 各 人 は、 自 身 の た め に 欲 す る 善 を 他 の 人 々 の た め に も 欲 求 す る で あ ろ う。 そ し て 彼 の 有 す る 神 の認識がよりいっそう大きくなれば、それに応じてよりいっそうこれを求めるであろう。 ﹂︵ E4P37 ︶   ス ピ ノ ザ に と っ て﹁ 神 の 認 識 cognitio Dei ﹂ と﹁ 神 の 観 念 ﹂ が 換 言 可 能 で あ り、 こ こ で の 神 の 観 念 が 人 間 の 所 有 し ているものであることは明らかである。マシュレは﹁無限知性﹂を人間の有するものとして語っているのかもしれな い。しかしながら、前述の通り、人間精神は﹁無限知性の一部﹂に過ぎないため、族長たちの有する神の観念を﹁無 限 知 性 ﹂ と 呼 ぶ こ と は で き な い。 あ る い は 人 間 精 神 は 直 接 無 限 様 態 そ の も の で は あ り え な い た め、 ﹁ 神 の 観 念 ﹂ が 族 長の所有するものだとしたら、それは無限知性ではないのである。   マシュレの解釈は誤解を与えかねないものではあるが、 ﹁神の観念﹂の所有が真理認識への到達を意味することは、 お そ ら く 間 違 っ て い な い。 と い う の も、 ﹃ エ チ カ ﹄ に お い て 真 に 有 徳 的 で あ る と い う こ と は 理 性 の 導 き に し た が っ て 行 動 す る こ と で あ る か ら だ︵ cf. E4P289 ︶。 ま た﹁ キ リ ス ト の 霊 ﹂ と い う 表 現 も、 ﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ を 参 照 す る な ら ば、 真理認識との関わりを思い起こさせる。というのも﹃神学政治論﹄によれば、 キリストだけが啓示を﹁真に知覚した、 言いかえれば知解した﹂のであって、人は﹁キリストの精神によって神の法を永遠の真理として知覚する﹂からであ る︵ cf. TTP4, G. III, 63-64 ︶。

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三─二   能動感情による自由   ﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂についての解釈は、必ずしも真理認識だけにかかわるのではなく、 ﹁最初の人 間の物語﹂が感情の獲得による自由の喪失とその回復を語っているように、人間の感情との関係で考究することもで き る。 多 種 多 様 な 感 情 の 中 か ら、 河 井 は﹁ 勇 気 animositas ﹂ や﹁ 寛 仁 gener ositas ﹂ を﹁ キ リ ス ト の 霊 ﹂ と 結 び つ け、 次のように解釈している。 ﹁ 能 動 感 情 を 伴 う 自 由 の 現 実 化 と し て の 勇 気 と 寛 仁 は、 ス ピ ノ ザ に と っ て は、 理 性 の 言 葉 に 翻 訳 さ れ た 魂 の 救 済 と 隣 人 愛 で な か っ た か。 こ の 備 考 の 説 明 に よ れ ば、 ﹁ キ リ ス ト の 霊 ﹂ は、 動 物 の 感 情 を 模 倣 す る こ とを戒め、人間にとって、言うならば、人間本性を映し出す真の鏡の役割を演じるもの、とみなされてい る。 そ の 意 味 で 言 え ば、 ︽ 感 情 の 模 倣 ︾ は、 他 者 と い う 鏡 に 映 じ た 不 完 全 な 自 己 の 姿 で あ る と 言 う こ と も で き る。 ス ピ ノ ザ が、 勇 気 と 寛 仁 を、 ︽ 自 由 の 現 実 化 ︾ と 見 る 所 以 は、 両 倫 理 的 価 値 に よ っ て、 自 己 自 身 と自他の関係が、本来的なかたちで維持できると考えたからであ る (( ( 。﹂ ここで河井は神の観念︵=キリストの霊︶を認識することを﹁人間本性を映し出す真の鏡﹂を見ることに喩え、感情 の模倣を﹁他者という鏡に映じた不完全な自己の姿﹂を見ることに喩えている。神は人間が存在することの原因であ り、 その本性から人間が生じているのだからこそ、 ﹁人間本性を映し出す真の鏡﹂と言えよう。自分と同じく、 他者︵他 人や獣︶も神の本性から生じるとはいえ、人間は他人や獣に由来するわけではない。自分と他者とが同じものに由来 するため、一方が他方の鏡となった場合、何らかの類似したものが映る可能性はある。しかし、神の観念に比べれば

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﹁他者という鏡﹂に映るものは不完全である。   ﹁ 能 動 感 情 ﹂ と は、 ス ピ ノ ザ が﹃ エ チ カ ﹄ で﹁ 働 き を な す 限 り に お け る 精 神 に 関 係 す る 感 情 ﹂ と 表 現 し て い る も の で あ り、 こ れ に は 喜 び と 欲 望 し か な い︵ E3P59 ︶。 そ し て 精 神 は 能 動 感 情 を 抱 い て い る 場 合、 充 全 に 認 識 し て い る、 あるいは充全な観念を有している︵ E3P58D ︶。こうした人間が自由であることは前述から明らかであり、 スピノザは こうしたことに﹁精神の強さ for titudo ﹂が存すると考え、 能動感情に関して第三部定理五九備考で説明を加えている。 スピノザによれば、充全な認識を有する精神の活動︵=能動感情を伴う自由の現実化︶は、勇気に属するものと寛仁 に 属 す る も の に 分 け ら れ る。 勇 気 は﹁ 各 人 が 理 性 の 指 図 だ け か ら 自 己 の 存 在 を 維 持 す る こ と に 努 め る 欲 望 ﹂ で あ り、 寛 仁 は﹁ 各 人 が 理 性 の 指 図 だ け か ら 他 の 人 々 を 援 助 し、 ま た 自 己 と 友 情 で 結 ぼ う と 努 め る 欲 望 ﹂ で あ る︵ E3P59S ︶。 言い換えれば、勇気は理性的に自己自身との関係を維持し、寛仁は理性的な仕方で自他関係を維持しようとする欲望 である。そして河井の解釈に従うのであれば、勇気という欲望が目指すのは自身の魂の救済であり、寛仁という欲望 が目指すのは隣人愛である、ということになる。この二つがスピノザの倫理学で目指されており、このような自己あ るいは他者との向き合い方が、人間にとって本来的な︵本性的な︶あり方であろう。スピノザが勇気と寛仁に属する も の が も っ と も 重 要 で あ る と 看 做 し て い る こ と か ら︵ E5P41 ︶、 こ れ ら が ス ピ ノ ザ の 倫 理 学 に と っ て 肝 要 で あ る こ と は確かである。そしてスピノザが﹃エチカ﹄第四部で﹁真の自由﹂について示したことは、すべて勇気と寛仁に帰せ られる︵ E4P73S ︶。このようにして、勇気と寛仁とが自由を実現することが確認される。   おそらく、 このときに族長が他の人々の自由を回復しているときに抱いている感情は﹁寛仁﹂である。というのも、 勇 気 は 自 身 の 存 在 の 維 持 に 関 す る も の に 過 ぎ ず、 そ れ だ け で は 他 人 を 必 要 と し な い が、 寛 仁 は﹁ 他 の 人 々 を 援 助 し、 また自己と友情で結ぼうと努める欲望﹂であるからだ。

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三─三   「キリストの霊」と自由   河井は﹁キリストの霊﹂を自由の実現と結びつけているのだが、 このことはどのように論拠を提示できるだろうか。 つまり、 ﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂による導きがなぜ自由に行き着くのか、確認しなければならない。 ﹃エ チカ﹄においてキリストに言及している箇所は、第四部定理六八備考のみである。これに対して﹃神学政治論﹄では たびたびキリストが取り上げられている。そのほとんどが、歴史上の人物としてのイエス・キリストについて記述し ている箇所である。例えば第一二章では、旧約聖書と新約聖書がともに神の言葉であり、神の法であり、普遍的宗教 を語るものでありながらも、旧約聖書と新約聖書に分けられるのは何故かを、キリスト到来以前と到来以後の差異を 通して語っている。そしてキリスト到来の前後の差異とは、旧約聖書の時代には、預言者たちは聖書が教える真の宗 教を祖国の法として説き、キリストの到来後は、使徒たちが普遍的な法として説いた、ということにある。つまりイ エス・キリストの到来によって、ユダヤ人の理解力にのみ適応した仕方ではなく、全人類に適応した仕方で真の宗教 が 伝 え ら れ る よ う に な っ た の だ。 そ し て 聖 書 の 普 遍 的 な 教 え と は﹁ ︵ 神 へ の ︶ 服 従 ﹂ で あ り、 そ の た め に 実 行 す べ き ことが﹁隣人愛﹂である。   これだけでは、 ﹁キリストの霊﹂が自由の実現に結びつく根拠を提示したことにはならないだろう。 ﹁キリストの霊﹂ という表現によって、 歴史上の人物としてのイエス ・ キリストとは別の意味合いがあるように思われる。実際、 マシュ レ は﹁ キ リ ス ト の 霊 ﹂ に つ い て﹁ こ の い さ さ か 凝 っ た 表 現 を 用 い る こ と で、 ス ピ ノ ザ は お そ ら く、 キ リ ス ト の 啓 示 message du Christ か ら 人 格 的 な 特 徴 を 取 り 去 り、 こ の 作 り 上 げ ら れ た 形 式 そ の も の に お い て、 キ リ ス ト の 啓 示 に 集 団的な意味を付与し た ((1 ( ﹂と注記している。族長がイエス・キリストになったということは不条理であり、ここで﹁キ リストの霊﹂とは、いわば福音書などに見られるイエス ・ キリストの教えを意味すると解釈されている。この教えは、

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イエス個人の所有物のように捉えるべきではなく、ある人がイエスと同じように考えるのであれば、その人もキリス トの霊をもつことになる。   そ こ で 一 旦 歴 史 上 の 人 物 と し て の イ エ ス・ キ リ ス ト か ら 離 れ、 ﹁ キ リ ス ト の 霊 ﹂ を 有 す る 人 間 に つ い て の 記 述 に 着 目してみよう。 ﹃神学政治論﹄第五章では、 ﹁キリストの霊﹂を有する人間は、 ﹁聖書の物語をまったく知らなくとも、 有 益 な 見 解 と 生 き る こ と の 真 な る あ り 方 vera ratio vivendi を 有 す る ﹂ と さ れ る。 そ し て こ う し た 人 間 に 対 し て、 ス ピ ノザは﹁絶対的に幸福である﹂と断言している︵ cf. TTP5, G. III, 194 ︶。ここで明らかなことは、おそらく﹁最初の人 間の物語﹂ を含め、 聖書が教えることは聖書を読まなければ獲得できないわけではないということである。そして ﹁キ リストの霊﹂は、 ﹃エチカ﹄では人間の自由に、 ﹃神学政治論﹄では人間の幸福に関連付けられている。また﹃エチカ﹄ では、 人間の幸福は精神の自由に存すると言える。実際、 ﹁徳の基礎は自身に固有の存在を維持しようとするコナトゥ ス そ の も の で あ り、 ま た 幸 福 は 人 間 が 自 己 の 存 在 を 維 持 し う る こ と に 存 す る ﹂︵ E4P18S ︶ と 規 定 さ れ、 ﹁ 真 に 有 徳 的 に働くとは、私たちにおいては、理性の導きに従って行動し、生活し、自身の存在を維持する︵この三つは同じこと を意味する︶ こと﹂ ︵ E4P24 ︶ であると証明される。そして前述のように、 理性のみに導かれることこそが自由である。 こうして、 自由、 理性の導き、 自己保存のコナトゥス、 徳、 そして幸福が連続しているのである。以上のことから、 ﹃エ チカ﹄と﹃神学政治論﹄における﹁キリストの霊﹂をもつ人間︵族長︶は同じである、あるいは類似しており、彼ら において自由が実現していることは明らかである。 三─四   自由の二つの側面   以上のような﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂についての解釈は、概ね二通りの観点から語ることができると

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思われる。一つは、 ﹃エチカ﹄第四部の文脈に倣い、 ﹁キリストの霊﹂を受動感情から脱却させ自由へと導くもの、あ る い は 獣 の 感 情 の 模 倣 か ら 解 放 し、 理 性 の 導 き の み に 従 う よ う 向 か わ せ る も の と し て 捉 え る 観 点 で あ る。 他 方、 ﹃ エ チカ﹄第二部における真なる観念の議論と結びつけ、自由の獲得としての真理認識を見出す観点がある。感情に焦点 を当てるか、 真理認識に焦点を当てるのかの相違である。おそらくこれら二つの観点は一つに合わせることができる。 例 え ば、 ア ピ ュ ー ン は﹁ 悪 に 打 ち 勝 つ た め に は、 ま ず 獣 と し て で は な く 人 間 と し て 生 き な け れ ば な ら ず、 法 に 従 い、 それから愛に、そして最後には真なる認識に到達しなければならな い ((( ( ﹂と語る。このように、アピューンは自由の回 復を法に対する従順さ、愛、そして真理認識という三つの要素によって成し遂げられると考えている。おそらく、法 に対する従順さは、族長たちが掟あるいは法を制定することで人々を自由へと導いたと解釈しているのだろう。また 愛については、スピノザにとって聖書が教えることは服従であり、隣人愛によって実行されるということが考えられ ていると思われる。したがって、アピューンは﹃神学政治論﹄の議論がここに内包されていると捉えている。   し か し、 自 由 に お い て 理 性 の み に 従 う こ と と 能 動 感 情 と が 統 一 さ れ て い る こ と は、 ﹃ エ チ カ ﹄ の 倫 理 学 に よ っ て 説 明することができる。理性に従うということは能動感情によって実行されるため、自由の回復とは、受動感情から能 動感情への移行、言い換えれば、非充全的な観念にとらわれている状態から充全な観念を獲得した状態への移行であ る。感情と認識とは相反するものであるかのように思われるが、スピノザ哲学において能動感情と真理認識とは一致 し、このことは人間精神の自由においても肯定されなければならないのだ。 三─五   理性的な生への誘い   ﹁キリストの霊、すなわち神の観念﹂とは、 ﹁最初の人間の物語﹂において自由の回復をもたらす族長がもつもので

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あ り、 人 間 精 神 の 自 由 の 起 源 と も 言 え る。 こ こ ま で 展 開 し て き た こ と は、 ﹁ キ リ ス ト の 霊、 す な わ ち 神 の 観 念 ﹂ が 自 由の起源であるということに留まり、それを有する族長たちがどのようにして人々の自由を回復したのかは、いまだ 不明確である。しかし族長たちが他の人々のために善を欲していたことは明らかであり、前述のように、このことは ﹁ 神 の 観 念 ﹂ に 関 す る 参 照 箇 所 で あ っ た 第 四 部 定 理 三 七 で 証 明 さ れ て い た。 そ れ で は な ぜ﹁ 他 の 人 々 の た め に reliquis hominibus ﹂ 善 を 欲 す る よ う に な る の か。 こ の 定 理 に 対 し て な さ れ る 二 つ の 証 明 の 中 で、 ﹁ 他 の 人 々 の た め に ﹂ と い うことがどのように導出されるのかを見ていこう。 ﹁ 人 々 は 理 性 の 導 き に 従 っ て 生 き る か ぎ り、 人 間 に と っ て も っ と も 有 用 で あ る︵ こ の 部 の 定 理 三 五 系 に よ り︶ 。さらにそのため︵この部の定理一九により︶ 、私たちは理性の導きに従う場合、必然的に、人々が理 性の導きに従って生きるよう仕向けることに努める。しかし理性の指図に従って生きる各人、言いかえれ ば︵ こ の 部 の 定 理 二 四 に よ り ︶、 徳 に 従 う 各 人 が 自 身 の た め に 欲 求 す る 善 と は、 知 解 す る こ と で あ る︵ こ の部の定理二六により︶ 。それゆえ、 徳に従う各人は自身のために欲求する善を他の人々のためにも欲する。 ⋮﹂ ﹁ 人 間 は、 自 身 の た め に 欲 求 し ま た 愛 す る 善 を、 も し 他 の 人 々 も 愛 す る の を 見 た と し た ら、 い っ そ う 強 固 にその善を愛するだろう︵第三部定理三一により︶ 。さらにそのため、 ︵同定理系により︶他の人々も同じ 善を愛するように努めるだろう。またこの善は︵前定理により︶すべての人々にとって共通であり、すべ ての人がそれを楽しみうるため、それゆえ︵同じ根拠により︶すべての人々が同じものを楽しむよう努め

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るだろう。⋮﹂ ︵ E4P37D ︶   おそらく容易に理解できるのは第二の証明だろう。人間はあらかじめ他人に対して何らかの感情を抱いていず、そ の 他 人 が 自 身 と 似 て い る と し た ら、 そ の 他 人 の 感 情 を 模 倣 す る︵ E3P27 ︶。 し た が っ て、 自 身 が 欲 求 し 愛 し て い る も のを他の人々も欲求し愛しているのを想像した場合、自身の欲求と愛は他人のそれの模倣によっていっそう強固なも のとなる。しかし自身が愛するものを或る人が嫌っている、あるいは自身が憎むものを或る人が愛しているのを想像 した場合には、心の動揺 animi fluctuatio を被る︵ E3P31 ︶。当然、人間は心の動揺を避け、自身がいっそう喜ぶことを 想 像 す る よ う に 努 力 す る た め︵ E3P29 ︶、 他 の 人 々 も 自 身 と 同 じ 感 情 を も つ よ う 努 め る。 こ こ で は 他 人 も 自 身 と 同 じ ように欲求し愛するよう努める。第三部定理三一とその系では逆の感情、つまり憎しみの感情が強固になる場合も記 されているが、ここでこの場合を考える必要はない。というのも、第四部定理三七証明における﹁人間﹂は、理性の 導きに従って生きるかぎりでの人間であるからだ。実際、前定理︵第三部定理三六︶では﹁徳に従う人々の最高善は すべての人々に共通であり、すべての人々が等しく楽しむことができる﹂ことが証明され、スピノザはこの定理をこ こで参照している。この最高善は﹁知解すること﹂ 、とりわけ神の観念をもつことに存する。したがって、 ﹁キリスト の霊、すなわち神の観念﹂を有する族長たちは、他の人々もそれをもつように促し、そうして他の人々が自由を回復 することになる。この他の人々の自由の回復は、族長たちに最高善を楽しむことの模倣をもたらし、族長たちの喜び をいっそう強固なものとする。   こ れ に 対 し て、 第 一 の 証 明 で は、 何 が﹁ 他 の 人 々 の た め に も 欲 す る ﹂ こ と に 直 結 す る の か、 不 明 瞭 か も し れ な い。 注 目 す べ き は 直 前 の 箇 所 で は な く、 ﹁ 人 々 は 理 性 の 導 き に 従 っ て 生 き る か ぎ り、 人 間 に と っ て も っ と も 有 益 で あ る ﹂、

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そしてそれゆえに﹁人々が理性の導きに従って生きるよう仕向けることに努める﹂ということにある。スピノザによ れば、人間にとって自身の本性と適合するものこそ有用なものである。そして理性の導きに従って生きることこそ自 身の本性の法則に真に従って行動していることになり、この場合に他の人々の本性と適合する。つまり理性の導きに 従って生きるかぎりでの人間は、 どのような人間の本性とも適合し、 有用であると言えるの だ ((1 ( 。したがって、 他の人々 が理性の導きに従って生きることは、自身にとって有用なことであり、そのように仕向けることに努めるにいたる。   以上のことから、族長たちが何故﹁他の人々のためにも﹂善を欲するのか、あるいは何故他の人々に対して﹁理性 の導きに従って生きる﹂ことを勧めるのかが明らかになった。やや極端かもしれないが、彼らは他の人々に同じよう な仕方で生きることを欲したと言えよう。そして前述のように、その生き方は﹃神学政治論﹄第五章で﹁生きること の真なるあり方﹂と表現されていた。キリストの霊を有する者の生き方に対するこの表現と、ほぼ同じ表現が﹃エチ カ ﹄ 第 四 部 附 録 に 見 ら れ る。 そ こ で は、 第 四 部 で 語 ら れ て い る﹁ 生 き る こ と の 正 し い あ り 方 recta ratio vivendi ﹂ の 総 括 が、 主 要 項 目 の 列 挙 と い う 仕 方 で 行 わ れ て い る︵ E4A ︶。 ス ピ ノ ザ は﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ 第 一 六 章 で﹁ 生 き る こ と の 真 なるあり方﹂ を ﹁徳の習慣を獲得すること﹂ と結びつけているため ︵ TTP16, G.III, 190 ︶、﹁生きることの真なるあり方﹂ の 具 体 的 な 内 容 が﹃ エ チ カ ﹄ 第 四 部 附 録 に 記 さ れ て い る と 言 え る ((1 ( 。 そ し て こ こ で は﹁ 理 性 的 な 生 vita rationali ﹂ と い う表現が散見される。族長たちは、獣︵がもつと仮想される︶の感情を模倣し受動的な感情に基づく生に陥った人々 を理性的な生へと導いた。このことを﹁自由﹂という観点から言い換えれば、善悪の認識をもつことによる動物の感 情の模倣が自由の喪失であり、理性的な生の獲得が自由の回復に他ならない。族長たちは理性的な生を獲得した人々 に よ る 共 同 体 を 目 指 し た こ と に な る。 実 際、 ﹁ 理 性 に 導 か れ る 人 間 は、 自 身 に の み 服 従 す る 孤 独 に お い て よ り、 共 同 の 決 定 に 基 づ き 生 き る 国 家 に お い て、 い っ そ う 自 由 で あ る ﹂︵ E4P73 ︶ た め、 理 性 に 導 か れ て 自 身 の 存 在 を 維 持 し よ

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うと欲する人間は、共同体を望むのである。   族長による自由の回復は神学の問題か   族長による自由の回復は備考で補足的に語られていることに過ぎず、 ﹃エチカ﹄で主題的に論じられることはなく、 また聖書における﹁最初の人間の物語﹂に基づいて語られているため、スピノザはこのことを宗教の問題としている 可能性が残される。この場合、スピノザにおいて哲学と宗教の分離が強調さているため、他のものによる自由の回復 ︵ 獲 得 ︶ は﹃ エ チ カ ﹄ で 主 題 化 す べ き で は な い と い う こ と に な り う る。 次 の 二 つ の 観 点 を 確 認 し て お こ う。 一 つ は、 ス ピ ノ ザ に お い て 哲 学 と 神 学 は ど の よ う な 領 域 を も つ の か。 も う 一 つ は、 ﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ に お け る 自 由 と﹃ エ チ カ ﹄ における自由が同じことであるのか、である。これらの検討から、本稿の射程を厳密なものにすることができよう。 ス ピ ノ ザ は﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ で 哲 学 と 神 学 の 分 離 を 提 唱 し、 そ の 相 違 を﹁ 哲 学 は 真 理 だ け に 照 準 を 定 め、 他 方 神 学 は、 既 に 私 た ち が 十 分 示 し て き た よ う に、 服 従 と 敬 虔 だ け に 照 準 を 定 め て い る ﹂、 そ し て ま た﹁ 哲 学 は さ ま ざ ま な 共 通 概 念を基礎とし、また自然だけに導かれなければならない。対して、信仰は歴史と言語を基礎とし、聖書と啓示のみに 据えられなければならない﹂と説明する︵ TTP14, G.III, 179 ︶。つまり哲学と神学の分離は、二つの相違によって成立 している。第一に目的の相違、つまり哲学が真理探究を目的とし、神学が服従と敬虔を教えることを目的とすること に基づく。第二に前提と手段の相違、つまり哲学は共通概念を前提として理性的な論証を試みるが、神学は歴史・言 語を前提とし、聖書と啓示を通して伝える。   ところで、スピノザは﹃神学政治論﹄序文で、自身が祖国オランダで享受している自由に関して、国家においてそ れ が 認 め ら れ て い た と し て も、 そ の 国 家 の 平 和 を 損 な う こ と は な い と 主 張 す る︵ TTPPraef, G.III, 7 ︶ こ の 主 張 を 明

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らかにすることが﹃神学政治論﹄の目論みの一つであり、したがって神学は自由を語るものだと言えよう。この場合 の 自 由 と は、 ﹁ 哲 学 を す る 自 由 liber tas philosophandi ﹂ で あ り、 こ れ は﹁ 考 え る 自 由 liber tas sentiendi ﹂ と﹁ 各 人 が 考 えたことを言う自由﹂である︵ TTP16, G.III, 189 ︶。この自由は﹃エチカ﹄で示される精神の自由と同じものであると 考 え る こ と が で き る。 と い う の も、 ス ピ ノ ザ は﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ 第 一 六 章 で、 ﹁ す っ か り 心 か ら、 理 性 の 指 図 か ら 生 き る こ と だ け が 自 由 で あ る ﹂︵ TTP16, G. III, 194 ︶ と 主 張 す る か ら で あ る。 つ ま り、 ﹃ エ チ カ ﹄ と﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ に お い て問題とされる自由は、どちらも精神の導きに従って生きるということに他ならない。   しかしこのことは、スピノザにおける哲学と神学の目的が同じであることを意味しない。確かに、哲学はこの自由 について﹁論証する﹂ことを目的とし、神学はこうした自由へと聖書や啓示を通して教え導くことを目的としている と考えるのであれば、理性は越権を犯しているかのように見える。しかし哲学は必ずしも聖書や啓示の教えに論拠を 提示しようとしているわけではなく、理性によって論証できる範囲で語るのであれば、神学の目的に口をはさむこと にはならないだろう。実際、スピノザにおける神学は﹁生に関する指図や教えに着目するならば、理性と適合し、ま た そ の 意 図 と 目 的 に 着 目 す る な ら ば、 理 性 に 関 す る も の と 反 す る も の は 何 も な い ﹂︵ TTP15, G. III, 185 ︶。 理 性 の 導 き によって獲得される生と、聖書や啓示が教える生は合致する、ということになる。またスピノザにおける哲学と神学 の分離は、理性は﹁人々がものごとについての知性認識なしにただ服従だけで幸福になれる﹂ことを決定できず、神 学 は﹁ 服 従 以 外 は 命 じ な い ﹂︵ TTP15, G. III, 184 ︶ と い う 仕 方 で も 表 わ さ れ る。 も ち ろ ん こ こ で の﹁ 服 従 ﹂ は 神 に 対 する服従であり、この服従だけによって人々は自由を獲得しうるのだが、その哲学的根拠を示すことはできないので ある。自らの力で自由を獲得する人であっても、それができず聖書や啓示にただ服従するだけの人であっても、理性 的な生を実践する人々は同様に自由であると言え る ((1 ( 。

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  以上のことから、スピノザが退けようとする哲学的根拠は、聖書や啓示に従うことがそのまま理性的な生に結びつ くことについてのものである。したがって、理性的な生が自由な生であること、理性的な生の具体的な内容、そして どのようにして人々を導きうるのかということについて、スピノザは理性的に思案し実践することを認めている。他 のものによる自由の獲得︵回復︶について、哲学はかなり語ることができると言えよう。聖書や啓示の教えに根拠を 提示することを思索の対象から除外し、理性的に思索するのであれば、自らの力で自由を獲得できない人々に対する 導きに哲学的論拠を与えることができる。実際、人々を自由にすることを目的としてつくられるものとして国家を挙 げ て お り、 そ の 国 家 に お い て 人 間 は 獣 で は な く、 理 性 的 な も の と な る よ う 仕 向 け ら れ て い る︵ cf. TTP20, G. III, 240-241 ︶。 こ う し た こ と は、 ﹃ エ チ カ ﹄ 第 四 部 定 理 六 八 備 考 で 語 ら れ る、 最 初 の 人 間 が 自 由 を 喪 失 し、 族 長 た ち が 獣 の 模 倣 を す る 人 々 を 自 由 に す る 物 語、 つ ま り 理 性 の 導 き に 従 う 生 き 方 へ と 導 い て い る 物 語 と 重 ね 合 わ せ る こ と が で き る。 本稿の序文で見た﹃エチカ﹄第四部定理七一から定理七三では自由な人々が共同体を形成しいっそう自由になること が語られていたが、理性に導かれる人々がそうではない人々を理性的な生き方へと誘う理論も、スピノザ哲学におい て展開可能なのである。 結論   実 の と こ ろ、 ﹃ エ チ カ ﹄ 第 四 部 定 理 六 八 備 考 の﹁ 最 初 の 人 間 の 物 語 ﹂ で 自 由 の 回 復 を に な っ た 族 長 た ち は、 充 全 な 認 識 を 独 力 で 行 っ て い た か は 分 か ら な い ((1 ( 。 と い う の も、 族 長 た ち は﹁ キ リ ス ト の 霊、 す な わ ち 神 の 観 念 に 導 か れ て ﹂ 自由を回復したのであって、彼らが﹁キリストの霊、すなわち神の観念をもっていた﹂とは言われていないからであ る。しかしながら、おそらく理性的な生き方を実践していた、あるいは少なくとも﹁キリストの霊、すなわち神の観

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念﹂ によって理性的な生き方に導かれていたことは明らかである。 つまり彼らは自由な人であった。 そして彼らが人々 の自由を回復しようとする原動力となった感情は、寛仁である。もし寛仁に触発されることなく、ただ単に感情の模 倣によっていっそう喜びを得ようとしたのであれば、相互に憎しみ合う状況が生まれる可能性がある。実際、人間が 他の人々に自身と同じ感情を抱かせようと努めることを示している第三部定理三一系に対して、スピノザはその備考 で次のように補足している。 ﹁ 各 人 が 自 身 の 愛 す る も の あ る い は 自 身 が 憎 む も の を 認 め る よ う に 仕 向 け る コ ナ ト ゥ ス は、 実 の と こ ろ 名 誉 欲 で あ る︵ こ の 部 の 定 理 二 九 備 考 を 見 よ ︶。 そ れ ゆ え、 各 人 は 本 性 上、 他 の 人 々 が 自 身 の 意 向 に そ っ て 生きるように欲求することが分かる。さらに、すべての人が等しく欲求するため、等しく障害となり、ま た す べ て の 人 が す べ て の 人 か ら 賞 賛 さ れ 愛 さ れ る こ と を 欲 す る た め、 相 互 に 憎 し み を 抱 く こ と と な る。 ﹂ ︵ E3P31CS ︶ この備考で語られていることは、第四部定理三七で示された、すべての人間が共通の本性に従って共通の善を愛する ということとは明らかに異なる。それでは他の人々を自身の意向にそって生きるよう欲求するとき、第三部定理三一 備考に記された結果と第四部定理三七に記された結果の分岐点は何であろうか。スピノザによれば、どのような人間 が他の人々を自身の意向に沿って生きるよう促すのか、ということが分岐点である。単に感情のみからそのように努 め本能のみから行動する人々は、他の人々に憎まれ、唯一人しか獲得できないであろう最高善を他人も欲するのでは ないかと精神の安定を欠く。反対に理性によって人々を導こうとする人々は、本能からではなく、丁重にそして親切

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に 行 動 し、 精 神 も 安 定 し て い る︵ cf. E4P37S1 ︶。 ス ピ ノ ザ が 以 上 の こ と を 直 接 的 に 寛 仁 と 結 び 付 け て い る わ け で は な いが、族長たちが理性によって人々を導こうとしており、自由な人間の有する能動感情のうち、寛仁こそが他の人々 を援助しようとするものであることは先に示した通りである。   本稿では、 他の人々を自由へと導くときに何が用いられるのかについて、 それほど多くは明らかにしていない。 ﹃神 学 政 治 論 ﹄ で は 国 家 が 人 々 を 自 由 に す る も の と し て 挙 げ ら れ て い た。 そ し て 聖 書 や 啓 示 な ど、 神 学 に 属 す る も の も、 神への服従を教え、それによって人々を自由へと導くことは明らかとなっている。それでは﹃エチカ﹄において、自 身の力で自由を獲得できない人々が具体的に何によって自由になるのかは明らかになっているのだろうか。 おそらく、 それは第四部附録で語られる﹁生きることの正しいあり方﹂であろう。つまり、彼らは彼ら自身の理性によって自由 になるのではない。他人の理性に導かれてか、あるいは他人の理性に基づいて提示された何ものかで自由となり、こ のとき彼らのあり方はスピノザが語る﹁生きることの正しいあり方﹂と何らかの仕方で一致するであろう。自由な人 間は理性のみに導かれた人間に他ならないが、他のものによって自由となった人々に関しては﹁理性に導かれて﹂と いうことは直接的な表現ではない。   自らの理性で自由になれない人は、 別の理性、 あるいは理性から導き出される生のあり方によって導かれることで、 自由になることができる。そして族長のように他の人々を自由にする人間が、なぜ他の人々を援助するのかというこ とも、理性に由来する。確かに、 ﹃エチカ﹄の末尾で自由の獲得が﹁稀でありかつ困難である﹂と語られているため、 ﹃ エ チ カ ﹄ は 自 身 の 理 性 に よ っ て 自 由 に な る 人 間 の 倫 理 を 示 し て い る と 言 え る。 し か し な が ら、 人 間 が 自 由 に な る こ とと或る人が他人を自由へと導くことは同根源的であり、自由への道程は異なるとはいえ、すべての人間が最高善を 愛する可能性も、 ﹃エチカ﹄に基づいて示されているのである。

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凡例   スピノザのテクストからの引用は Studia Spinozana の略記法に従う。 ︵ 1 ︶  Susan James, 'Fr eedom, Slaver y, and the Passions',

The Cambridge Companion to Spinoza's

Ethics, ed. Olli Koistinen, Cambridge

University Pr ess, 2009, p.239 ︵ 2 ︶  ﹃ エ チ カ ﹄ に お け る 自 由 と は 異 な る﹁ 政 治 的 な 自 由 ﹂、 つ ま り﹁ 広 義 の 自 由 ﹂ に つ い て、 明 確 な 記 述 が あ る わ け で も な い。 た だ し 第 四部定理三七備考二では、 感情を制御できない理性ではなく、 刑罰による示威が法に必要であることが記されており、 ここで﹁自由﹂ が主題化されているわけではないが、このような法によって確保される自由を﹁広義の自由﹂と看做すことはできるだろう。 ︵ 3 ︶  マ シ ュ レ は 善 悪 を 認 識 す る 木 の 実 を 食 す こ と を 禁 ず る こ と を、 ﹁ 無 知 と い う 生 来 の 状 態 に 留 ま る よ う 命 じ る ﹂︵ Pier re Macher ey , Indr

oduction à l’Ethique de Spinoza -La quatrième par

tie, PUF , 1997, p.392 ︶と言い換えている。 ︵ 4 ︶  ス ピ ノ ザ に よ る 女 性 観 は﹃ 政 治 論 ﹄ 第 一 一 章 第 四 節 で 明 示 さ れ て い る。 す な わ ち、 ス ピ ノ ザ は 女 性 を﹁ 本 性 上 男 性 と 等 し い 権 利 を もたず、むしろ必然的に男性より劣る﹂ ︵ TP11, G. IV , 90 ︶と評価している。 ︵ 5 ︶  人 間 が 動 物 の 感 情 を 模 倣 し た 根 拠 と し て 第 三 部 定 理 二 七 が 挙 げ ら れ て い る。 そ こ で は、 自 分 と 類 似 し て い る も の に 対 し て 何 ら か の 感情に刺激されることを想像した場合、 類似した感情に刺激されることが証明されている。ただし、 ﹁類似しているもの﹂に対して何 らかの感情︵思い︶を抱いていない場合に限定されている。つまり、 獣と同じ感情を抱くとしても、 予め恐怖の対象となっていたり、 歓 喜 の 対 象 と な っ て い た り す る 場 合 に は、 獣 の 感 情 を 模 倣 す る こ と は な い、 あ る い は あ ま り 影 響 さ れ な い。 ま た、 こ こ で は︿ 自 分 と 類 似 し て い る も の に 対 し て 何 ら か の 感 情 に 刺 激 さ れ る こ と を 想 像 し た 場 合 ﹀ で あ る こ と に 注 意 し な け れ ば な ら な い。 つ ま り、 実 際 に 獣が何らかの感情に刺激されている必要はなく、人間がそのように﹁想像する﹂だけで、感情を模倣するようになるのである。 ︵ 6 ︶  ﹁自由を失いはじめた﹂とされるのは獣の感情を模倣しはじめることと併記されているため、 獣︵がもつと仮想される︶情念をもつ こ と が、 自 由 の 喪 失 の 直 接 的 原 因 と 思 わ れ る か も し れ な い。 し か し 悪 の 認 識 は 非 充 全 的 な 認 識 で あ る た め、 悪 の 認 識 と 自 由 が 両 立 し な い こ と は 第 四 部 定 理 六 八 証 明 を 詳 細 に 見 れ ば 明 ら か で あ る。 し た が っ て、 定 理 六 八 備 考 で 記 さ れ て い る 自 由 の 喪 失 ま で の 過 程 は、

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最 初 の 人 間 が 善 悪 の 認 識 を 獲 得 し た 結 果 ど の よ う な 状 態 に 陥 っ た の か を 表 示 し て い る に 過 ぎ ず、 三 つ の 過 程 全 体 が﹁ 自 由 の 喪 失 の は じまり﹂であると考えるべきである。 ︵ 7 ︶  Cf. Pier re Macher ey , Indr

oduction à l’Ethique de Spinoza -La quatrième par

tie., PUF , 1997, p.395 ︵ 8 ︶  Cf. Ep64, G. IV , 278 ︵ 9 ︶  河井徳治﹃スピノザ哲学論攷﹄創文社、一九九四年、二一九頁 ︵ 10︶   Pier re Macher ey , Indr

oduction à l’Ethique de Spinoza -La quatrième par

tie, PUF , 1997, p.395 n.1 ︵ 11︶   Spinoza, Ethique,

traduction et notes par Charles Appuhn, Gar

nier-Frèr e, 1965, p.374 ︵ 12︶   デラ ・ ロッカは、 ﹁あなたと私が本性において一致するかぎりで、 私たちは同じ本性をもち、 あなたの本性は私の本性である﹂ ︵ Michael Della Rocca, Spinoza, Routlege, 2008, p.194 ︶ と す る。 し か し こ こ で ス ピ ノ ザ が 主 張 し て い る こ と は、 あ ら ゆ る 人 間 の 本 性 が 一 つ の も の に な る 可 能 性 で は な く、 人 間 が 理 性 的 で あ る と い う 点 で の 一 致 に 過 ぎ な い。 こ の 後 デ ラ・ ロ ッ カ が 自 由 の 度 合 い に 話 を 進 め て い る ように、 本性が一致したとしても、 それぞれの人間において理性的である度合いは異なりうるため、 ﹁あなたの本性は私の本性である﹂ という理解はできないだろう。 ︵ 13︶   ﹃ エ チ カ ﹄ 第 五 部 定 理 一 〇 備 考 で も、 ﹁ 生 き る こ と の 正 し い あ り 方 ﹂ が 記 さ れ て お り、 ス ト ア 派 と 関 連 が 注 目 さ れ て い る︵ Justin Steinber g, 'Following a Recta Ratio V

ivendi: The Pratical Utility of

Spinoza ʼs Dictates of Reason ʼ, Essays on Spinoza ʼs Ethical Theor y, ed.

Matthew J. Kisner and Andr

ew Y oupa, Oxfor d University Pr ess, 2014, pp.189-190 ︶。 ︵ 14︶   同 じ こ と は、 ﹁ 敬 虔 な 行 い は 理 由 が 何 で あ ろ う と 敬 虔 で あ る ﹂︵ 上 野 修﹃ ス ピ ノ ザ﹃ 神 学 政 治 論 ﹄ を 読 む ﹄ ち く ま 学 芸 文 庫、 二〇一四年、六一頁︶などと表現することもできる。 ︵ 15︶   預 言 者 は 預 言 に よ っ て 人 々 を 導 く が、 モ ー セ も 含 め、 預 言 者 た ち は 自 身 の 想 像 作 用 に よ っ て 預 言 を 捉 え て い る た め、 彼 ら の 導 き は 彼らの理性によるものではない。

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