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南船北馬集 : 第十二編 利用統計を見る

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(1)

南船北馬集 : 第十二編

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

14

ページ

367-480

発行年

1998-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002958/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

南讐馬素蕊

  附録 日本全國講演開會地総計表

(3)

1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   188×127㎜ 3.ページ   総数:126   目次:〔2〕   本文:89   付録(日本全国講演開会地総計   表):35 下鐵   轟   灘 .\ン藩 馨 繋 薮灘饗幾繊篠纏藁纏寿馨淀叢・灘轟驚墓陥摺 竺徽. 懸⋮饗鷲懲護       慈・冶蓬魂毒麹欝麹跡按藩墾饗 ち、M懸薬漸、ン籔        蟹“叢獅纏慈懇齢糠の髭震       み

馨     鑛雛懸鱗雛瓢灘欝講

  箔傷茎塁猶∨   \  ,︹        W   戸       黙   皿      ぴ 酷素 轟 巣     ・ 第鎌二、繕      ,

灘 ・ ・灘鶉井鍛懸藷、.

 :懲整瀟答麓馨日誌灘・.ぷば  ・

曇  難製縫鰻驚羅.嘉雛.肖講

(巻頭) 4.刊行年月日   底本:初版 大正5年6月29日 5.発行所   国民道徳普及会

(4)

信越三州一部巡講日誌

南船北馬集 第十二編  大正四年九月、郷里において両親の法要を営まんと欲し、帰郷を約しおきたれば、その往復途中、講演の依頼 を受け、約二週間の巡講をなす。  九月二十九日 晴れ。朝七時、上野発。午時、長野県小諸に着駅。これより軽便に転乗し、中込駅に降車し、 更に腕車を走らすこと約一里にして、南佐久郡臼田町︿現在長野県南佐久郡臼田町﹀小学校に至り講演をなす。開会時 間すこぶる精確なり。当地には余の明治三十七年に設立せし修身教会の旨趣に基づきて開設せる佐久修身談話会 あり。発会以来、十年間継続して今日に至るという。今回の開会はその会の発起にかかる。もし幹部の人を挙ぐ れば、中学校長与良熊太郎氏、医師中島誠氏、小学校長佐々木勝実氏、蕃松院住職西田霊苗氏、弥勒寺住職足立 信順氏、青沼村長日向治之助氏︵以上三氏は東洋大学出身︶等なりとす。余は今より二十年前、哲学館拡張のた めに本郡を一周せしことあり。その当時の山河の形勢は、今なお脳裏に印象をとどむ。昨今、蚕期すでに過ぎて、 穫稲期いまだきたらず、稲田一面深黄を浮かぶ。その間に桑葉の衰うるあり、蕎花のむらがるありて、晩秋の光 景を現ず。宿所豊庫旅館の浴室は庭内にレールを敷き、左右に移動し得る装置を有する新意象なり。よろしく自 動浴室と名付くべし。  三十日 曇りのち雨。午前中、南佐久を発して、午後四時、越後の郷里すなわち来迎寺村に着す。  十月一日 晴れ。早朝、来迎寺より随行黒田忠恕氏とともに軽便に駕し、小千谷町より腕車をとり、車行十一 367

(5)

里にして南魚沼郡塩沢町︿現在新潟県南魚沼郡塩沢町﹀に着す。ときに午後一時なり。来迎寺よりここに至る道程は十 四里ありとす。午後二時、開会。主催は町教育会、会場は小学校、発起は会長井口隆氏、僧侶石井経宗氏、郵便 局長会田駒三郎氏等なり。しかして休憩所は井口旅館なり。本町は従来、薄荷円の製造をもって世に知られしも、 近年、宝丹、仁丹等に圧せられて、その業大いに衰えたりという。これより六里をさかのぼれば、旧三国街道の 二居、浅貝の山駅に達すべし。今は三国村と称す。山高く谷深く、気候寒冷にて米穀を生ぜずといえども、昔時 は人馬の来往、昼夜たゆることなく、客舎軒を比べおりたりしに、信越線開通以来、旅客ほとんど皆無のありさ まにて、人口は年を追って減じ、現今の戸数五十三戸、その所有の地価総じて二千円、実に寂真たる寒村となれ り。しかして村長の年給に至りては全国無類にして、年額四百八十円、もしこれを戸数に割り渡さば、一戸九円 以上を支出せざるをえざる割合なりという。当夜、暗をつきて車をめぐらすこと約一里、郡役所所在地たる六日 町︿現在新潟県南魚沼郡六日町﹀に至りて開会す。会場は小学校、発起は極楽寺岡部岩雄氏、弘長寺小林了海氏、万歳 寺広島教信氏、小倉町長、小島校長、今成青年会長等にして、宿所は恵比須屋旅館なり。余のここにきたるは二 十年目に当たる。更にさかのぼりて三十五、六年前には、東京より帰郷の途次、必ずこの地に一泊して翌朝の便 船に駕せしことあり。魚野川を隔てて鶏冠山、金城山を望めば、なんとなく懐旧の感を誘起す。塩沢、六日町と もに、開会時間は極めて正確なり。  二日 曇り。午後、六日町を発して行くこと五里、北魚沼郡小出町︿現在新潟県北魚沼郡小出町﹀に至り、正円寺に て夜会を開く。発起は町長西山弥一郎氏、警察署長沢田喜惣治氏、校長五十嵐篤一氏なり。宿所川善旅館は軒下 に清流を抱き、左右に両橋を控え、やや風致よし。この日の途上、八海山の雲間に魏立せるを望みて一吟す。 368

(6)

南船北馬集 第十二編   八海破雲峰頂高、魚川経雨水酒々、秋晴南沼郡中路、一望山河気象豪、   ︵八海山は雲を破って高くいただきがそびえ、魚野川は雨後の水をあつめてとうとうと流れる。秋晴れの南   魚沼郡の道を行き、一望すれば山河ともに風気、形象は豪気である。︶  魚川とは南北魚沼を貫流せる魚野川をいう。他県には防風林、防砂林あるも、魚沼郡内のごとく頽雪防止林あ るを見ず。今日の途上にもこの防止林あり。  十月三日︵日曜︶ 晴れ。朝、親戚関係ある伊倉長三氏来訪あり。これより腕車を駆り、半里強なる堀之内村︿現 在新潟県北魚沼郡堀之内町﹀に至り、小学校にて開演す。発起は森山汎愛氏、八木純吉氏、米山喜一氏にして、休憩 所は渡辺旅館なり。旅館の宿料表を見るに、一等一円、二等八十銭、三等六十銭と記す。当地にも親戚関係の宮 祐吉氏あり。日まさに暮れんとするとき車をめぐらし、約二里を隔つる藪神村︿現在新潟県北魚沼郡広神村﹀有志家山 本丑太郎氏宅にて休憩し、小学校にて開演す。村教育会長星野正斎氏、校長金沢米治氏の発起なり。演説後、更 に十余丁を隔つる広瀬村︿現在新潟県北魚沼郡広神村﹀字並柳関矢孫一氏の宅に至り宿泊す。同家は郡内屈指の素封 家にしてかつ旧家なり。先代関矢橘太郎氏は四十年前の親友なりしも、今は隔世の人となれり。また、本村の資 産家酒井文吉氏も同じく旧友なりしも、これまた昨秋、不帰の客となれり。よって所感一首を賦す。   破水源頭再洗塵、江山独与我行親、談余偶及旧知事、多作幽冥界裏人、   ︵破間川の源のあたりにふたたび訪ねて俗塵を洗い流す。江山のみがわが旅を親しく迎えてくれる。談話の   うちにたまたま旧知のことどもにおよべば、多くは幽冥境を異にした人々となっていた。︶  破川とは破間川をいう。その川は水の清きと、所産の香魚の味美なるとをもって名あり。 369

(7)

 四日 快晴。午前、広瀬村字下条小学校において講演をなす。村長佐藤又一郎氏、校長目黒市郎氏の発起にか かる。しかして親戚にしてかつ旧友なる専明寺住職松木行賢氏がその主動者にして、関矢孫一氏、酒井俊一氏そ の助力者なり。午後、広瀬渓頭にさかのぼること二里、須原村︿現在新潟県北魚沼郡守門村﹀普門院に至りて開演す。 村長武本高忠氏、校長高橋勇吉氏、農佐藤熊一郎氏等の発起なり。この地には発電所あれば、村内電灯を用う。 黄昏、更に車をめぐらして専明寺︹広瀬村︺に入宿し、当夜、松木氏の設置せる母之会のために一場の談話をなす。  五日 晴れ。この地方の寒暖は朝気︹華氏︺六十五、六度、日中︹華氏︺七十四、五度、本年は平年よりも温暖な りという。穫稲期すでにきたりて、二、三分どおりを刈り終わる。聞くところによるに、この地方の迷信の一と して、菅笠の表に大道寺孫九郎と書するあり、これ雷よけのマジナイなりという。むかし、大道寺孫九郎は剛勇 無双なりし故ならんとの説あり。郡内の名物の一種と数えらるるは、舞茸︹まいたけ︺と名付くるきのこなり。こ れを刈羽郡にては躍茸︹おどりたけ︺というはおもしろし。午前中に広瀬村を発し、車行四里、川口村︿現在新潟県 北魚沼郡川口町﹀小学校に移りて開演す。校舎は明治九年の建築にして老朽の色あるも、軒前に長江を一鰍するを得 て、眺望じつに絶佳なり。発起は校長大森九郎次氏、村教育会長中林杳氏にして、宿所は資産家古田島要治郎氏 の宅なりとす。その邸も岩頭断崖の上にありて、臨川の好位置を占む。居宅は庭園とともに目下、改築工事中な り。松木行賢氏は余を送りきたり、ここにて相別る。  六日 晴れ。車行二里、小千谷より軽便に駕し、正午十二時、来迎寺駅発、姫路直行車に投ず。越後地は穫稲 いまだ半ばに達せざるも、富山県はすでに全部終了せり。当夜十一時半、越前国福井市く現在福井県福井市∨に着し、 ただちに佐佳枝下町慶福寺に入る。随行松尾徹外氏は余にさきだちてここにあり。住職恵美龍円氏は数十年来の 370

(8)

南船北馬集 第十二編 相識なり。今より十四年前、福井県下周遊の際にも、ここに止宿せしことあり。門庭、堂宇ともに清美にしてか つ閑雅なり。当市滞在中は毎夕その宅に宿し、同氏の厚意をになうことすくなからず。  七日 曇りのち雨。午後、本派本願寺の経営にかかる北陸中学校、および県立高等女学校において講話をなす。 中学校長は楠法龍氏、教頭は関恵秀氏なり。つぎに、女学校長は南浮智成氏、教頭は柴原砂次郎氏︵哲学館出身︶ なり。夜に入りて、春山小学校に至り更に談話をなす。校長は松原富氏なり。  八日 風雨。螺雨数回きたる。午前、市立商業学校︵校長加地吉彦氏︶、午後、赤十字社︵主事中沢弘恭氏︶に おいて講演をなし、更に大谷派別院に移りて講話をなす。その主催は一心会にして、恵美氏の外に原厳修氏、横 山晋氏の発起なり。夜に入りて、順化小学校︵校長北川倹治氏︶に至り談話をなす。この日、県庁理事官湯沢三 千雄氏来訪あり。  九日 晴雨不定。朝、福井市を発し、武生にて換車して今立郡粟田部村︿現在福井県今立郡今立町﹀に至る。里程 五里あり。越前毎日新聞社長谷口聞電氏︵哲学館大学出身︶同行す。午後開演。会場は了慶寺、発起は正弥浄教 氏、横山善右衛門氏、角与太郎氏、道正治郎兵衛氏、法幸治郎三郎氏等、宿所は富田治郎右衛門氏宅なり。当夜、 わずかに十町を隔つる岡本村︿現在福井県今立郡今立町﹀細井藤右衛門氏宅に至りて講話をなす。同家養子細井重作 氏は哲学館大学出身なり。再び粟田部へ帰りて講話をなす。この地方は奉書紙、鳥之子紙の本場なり。  十月十日︵日曜︶ 晴れ。午前に粟田部を発し、福井市を経て坂井郡金津町︿現在福井県坂井郡金津町﹀に至る。福 井をへだつる約六里、会場および宿寺は永宮寺なり。住職太子堂了諦氏の発起にかかる。この寺は聖徳太子に縁 故ありとて、姓を太子堂という。よって太子の賛を賦す。 371

(9)

  東洋将尽処、仏日照乾坤、光沢今尚浴、上宮太子恩、   ︵東洋の地のまさに尽き果てるところ、仏の光は天地を照らす。光沢には今もなお浴して、聖徳太子の恩沢   は深い。︶  更に夜会を開く。  十一日 晴れ。午前中、再び福井市に帰り、県立中学校に至りて講話をなす。校長は大島英助氏なり。午後、 本派別院において開催せる仏教青年大会に移りて講演をなす。原厳脩氏その幹部たり。当日は県知事佐藤孝三郎 氏、市長山品捨録氏、および警察署長の演説あり。別院輪番は野崎流天氏なり。この夕は織物検査所において、 仏教顕正会のために開演す。山品市長その会長たり。  十二日 晴雨不定。朝、県立農林学校にて講話をなす。校長は出田新氏、首席は太野悦太郎氏なり。これより 汽車に駕して三国町︿現在福井県坂井郡三国町﹀に移り、昼夜両度講演をなす。会場は智教寺、発起は木津祐斯氏、 花園将氏、柳村柳村氏なり。姓と名と同一文字なるは他にその類なかるべし。室吉旅館に一休して、即夜帰京の 途に就く。本町をへだつること一里の所に芦原温泉あり。近来大いに発展し、温泉客舎数戸あるうち、紅屋をも って第一とすという。  越前は穫稲期に入るも、いまだ三分の一を刈尽するに至らず。ただし当国は真宗最盛の地にして、昨今各戸報 恩講の仏事を営むためにすこぶる多忙を極む。ここに仏教の盛況を一言せんに、檀家は寺院の子弟の修学費、女 子の結婚費までを負担し、しかのみならず住職の負債までを引き受けて弁償すという。実に寺院万歳、僧侶めで たしの地というべし。また、民家にては室内を寺式に設置し、仏檀を正面に置き、他室はその前に長く張り出し、 372

(10)

南船北馬集 第十二編 多数の人を集合し得るようになりおれり。これ民家にてかわりがわり談僧を招き、法座を開くためなり。一年中 農繁期を除くの外は、各部落において毎夜説教ありという。寺院の説教よりも民家の説教の盛んなるは越前の特 色なり。故に他県よりたえず説教僧が入りきたる由。かく今日は仏教依然として隆んなるも、この勢いを幾年の 後まで継続し得るやは大いに考慮するを要し、かつ僧家は今より深く警戒するところあるを要するなり。  十三日 晴れ。昨夜十二時半、福井を発し、今朝六時半、京都に着す。御大典の予参をなすためなり。ときに 私用ありて大阪へ往復し、当夕八時京都発にて十四日午前八時帰京す。車中に越前再遊の七絶一首を浮かぶ。   再転法輪入越南、九龍川上覚秋酷、講余幸有香魚好、併得雲丹酒自耽、   ︵再び仏法を説きつつ越前の南部に入れば、九頭龍川のほとりでは秋もたけなわの思いがした。講演の余暇   には香魚の美味もあり、それとともに雲丹を得て酒をおのずからたのしんだのであった。︶  帰京後、二十三日と二十四日両日をトして、哲学堂内設置中の御大典紀念図書館の披露をなすことに定め、各 所へ左のごとき案内状を発す。︹以下、原文のまま︺   ︵前文略之︶去る明治三十九年拙者神経衰弱の為に自ら哲学館を隠退し私産を挙げて之に寄附し財団法人を   組織せしより療養芳日本全国各郡各郷を巡遊して国民道徳の普及を計らんと欲するに当り之と同時に東京市   外に学生青年等の精神修養的公園を設置せんと欲し豊多摩郡野方村字江古田の地内に哲学堂を建設すること   に定め爾来十年間苦心経営独力拮据の結果幸に四聖堂六賢台三学亭宇宙館皇国殿唯物園唯心庭等を併置し又   御大典紀念として着手せる図書館及陳列所も略落成候に付本月二十三日及二十四日午後一時より五時までの   間に朝野紳士の御来堂を乞ひ堂内御一覧を願ひ度弦に御案内申上候何分市街と懸隔せる地なれば何等の御饗 373

(11)

応は出来兼候へ共粗茶だけ差上申度候間当日郊外御散策又は御出駕の御序に御立寄被下候はゴ大幸此事に候       74 哲学堂の位置は新宿駅より一里、目白駅より二十三丁、中野駅︵又は柏木駅︶より十八丁、新井薬師より十 3 丁有之候 本堂は七八分通り出来上り候に付今後は時々日曜講演又は講習会を開催致心得に候然し全部完成までには尚  ほ数年を要すべく其間に図書館陳列所を充実する外に三祖苑史膜を増設し更に進んで庭外に学生監督所も設  置致度心算に候而して他日愈々完成の上は決して之を子孫に譲与するの念慮なく全部を挙げて国家社会に貢  献する微衷なればツマリ拙者の死後之を遺物として世間へ進呈し以て国恩世恩に報謝する心得に候此段御記 憶願度候 そのとき余の来賓に対する挨拶は左のごとし。︹以下、原文のまま︺  今日は斯る僻陳へ御柾駕被下、御立寄の栄を辱うせるは誠に有難く衷心より深く感謝する所であります、折  角の御光臨に対し、何等の御饗応も出来兼、汗顔の至りなれども、柳か粗末の茶とビール丈備置たれば、御  適意に召上り下されたい、何分礼を知らざる野人の事なれば、御待遇上種々失敬の点も多かるべきも、御宏  量を以て御許容あらんことを祈ります、庭内は大半落成とは申しながら、未だ完備せざる所多きも、各所御  高覧を賜はり度、此に道順を申上げて置きませう、   四聖堂ー←理想橋、理外門︵開扉則扉作屋︶読書堂絶対城、聖哲碑、大観台ー論理関帰納場、演繹観、一名傘   亭ー←唯心庭先天泉、心字池、鬼灯、主観亭等ー←独断峡、学界津。二元衝、造化澗、経由唯物園自然井、後   天沼︵扇状沼︶、原子橋︵扇骨橋︶、狸灯、神秘洞、物字壇、客観盧等ー三祖苑設計中ー感覚轡、経験坂、筆塚、

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南船北馬集 第十二編

  経由六賢台ー←鬼神窟随意休憩ー←万象庫内地旅行記念物陳列所ー三学亭ー宇宙館、皇国殿

  休憩  追て今後の継続事業は、御大典紀念図書館の内容を充実する外に、時々講話又は講習会を開きて、青年学生  を指導し、猶ほ進て庭外に監督所を設けて、自ら学生監督の任に当りたいと思ひます、今日世間の学生を見  渡すに、各学校に於て斐然として章を成すも、之を裁する所以を知らざるもの多き様なれば、不肖ながら老  後の残生は専ら之を学生監督指導の任にあてはめ、国恩の万一に報いたい志望であります、斯くして本堂を  完成し、且つ維持法を確立したる上は、固より子孫に譲与するの念などは毛頭も之れなく、全く国家に貢献  する本意なれば、他日永眠に就く場合には、全部を挙げて財団法人にする欺、若くは政府に献納する決心な  ること、併せて御承知下されんことを願上ます、 その後、各新聞にて紹介を得たるも、﹃万朝報﹄の記事最も簡明なれば、左に転載す、︹以下、原文のまま︺  豊多摩郡野方村大字江古田の和田義盛遺跡和田山へ、文学博士井上円了氏が経営中の精神修養的公園及び哲  学堂の建設落成の域に達したので今廿四日朝野の人々を招き一覧せしめる、博士は最初哲学館の移転地とし  て購入し、同館が東洋大学の認可を受くるに及んで記念として孔子、釈迦、墳克刺、韓図を奉崇せる四聖堂  を此処に建立した、其後大学は移転しない事となり、次で博士は病の為め私材十余万円を大学へ寄附して退  穏すると共に此地全部を引受けて理想的庭園を開き市郡の青年学生等の精神修養場たらしめんと計画し大活  動で全国を周遊し、講演に揮毫に得た報酬を投じて、更らに東洋三国の賢哲を奉崇せる六賢台、神儒仏の碩  学を奉崇せる三学亭を創建したのだ、之れ等を総称して哲学堂と呼ぶのである、設計は皆意を用ひ、各所の 375

(13)

  名称は悉く哲学に因んだ語を適用してある、庭園は丘上と丘下に別れ、丘下に左右両翼があつて、右翼に物   字園を左翼に心字庭を設く、之れは唯物論と唯心論とを表示したもので、唯心庭には意識駅、直覚径其他十   二の名所がある、巡覧するには常識門を潜つて働饅庵で休憩した上、四聖堂より六賢台へ登り、右折して筆   塚を過ぎ経験坂を降つて唯物園に適遙し、水流に沿うて唯心庭へ至り論理境を経て四聖堂へ返へり、最終に   三学亭へ登るが順である、園内には図書館、博物館もある、博士の死後は是等総べてを政府へ献納するか公   共団体へ寄与する積りだそうな、因に毎日朝八時より晩五時まで、一般公衆の観覧を許す、︵以上新聞記事︶  本年六月以来一日の休暇も取れざれば、心身を休養せんと欲し、十月二十七日より箱根小湧谷三河屋に入浴す ること一週日に及ぶ。函山漫吟一首あり。   昨雨函山鎮路塵、秋晴今日暖如春、霜風未染林轡色、只与白雲流水親、   ︵昨日の雨で箱根の山路の塵もしずまり、秋晴れのきょうは春のような暖かさとなった。霜をふくんだ風は   まだ林や山の色を染めるにいたらず、ただ白雲流水とともにしたしみいつくしむのである。︶  今秋は暖気のためにいまだ紅葉期に入らず。また客中、御大典奉祝の予吟をなす。   摺紳雲集洛陽宮、盛典如斯前後空、四海八轡帰聖徳、千門万戸仰仁風、謳歌声濠山河震、旭日旗連天地紅、   草葬微臣将献寿、吾皇宝詐永無窮、   ︵高貴なる人々が京師に雲のごとくつどう。御大典はかくのごとく空前絶後の盛典である。海内と八州のす   べてがご聖徳に帰依し、幾千幾万の人々はそのこ仁慈を仰ぐ。ほめたたえる歌声はみなぎりて山河をも震わ   すほどであり、旭日旗は天地をあかくいうどるほどに連なる。民間のとるに足りぬ臣下︹私︺は帝のご長寿を 376

(14)

 祝福せんとする。わが皇室、天子の位は永遠に窮まりないのである。︶ 御大典当日︵十一月十日︶は哲学堂に謹慎して祝意を表し奉る。 南船北馬集 第十二編 信越三州一部開会一覧表  県 長野県 新潟県 同 同 同 同 同 同 同 同 同 福井県  郡 南佐久郡 南魚沼郡 同 北魚沼郡 同 同 同 同 同 同 同 福井市  町村 臼田町 六日町 塩沢町 小出町 堀之内村 藪神村 広瀬村 同 須原村 川口村 同  会場 小学校 小学校 小学校 寺院 小学校 小学校 小学校 寺院 寺院 小学校 同前 私立中学校

一一

席席席席席席席席席席席席数

ニー二二ニー二二二席

 聴衆 七百五十人 一千人 七百五十人 八百人 四百人 四百五十人 三百五十人 四百五十人 三百人 三百五十人 四百五十人 五百人  主催 佐久修身談話会 寺院有志 町教育会 教育会連合 村教育会 村教育会 村教育会 母之会 村教育会 教育会および婦人会 軍人分会および青年会 北陸中学校友会 377

(15)

同同同同同同同同同同同同同同同

合計  同  同  同  同  同  同  同  同  同  同  今立郡  同  坂井郡  同  同 三県、一市、 演題類別  粟田部村  岡本村  三国町  同  金津町 五郡、十三町村 高等女学校 小学校 商業学校 赤十字社 大谷派別院 小学校 県立中学校 本派別院 織物検査所 農林学校 寺院 民家 寺院 同前 寺院 ︵六町、

四一一一三一一一一ニー一一ニー

席席席席席席席席席席席席席席席

六百人 三百五十人 三百人 百五十人 五百五十人 六百人 六百五十人 一千人 百五十人 三百五十人 四百人 二百五十人 五百人 五百人 八百人 七村︶、二十七カ所、     校長     春山教育会     同校     看護婦人会、愛国婦人会     一心会     順化教育会     同校講演部     仏教青年会     顕正会     農友会     仏教青年会     有志者     仏教婦人会     町青年会     上宮教会 四十二席、聴衆一万三千八百人 378

(16)

詔勅修身 妖怪迷信 哲学宗教 教  育 実  業

雑 

題 二十二席

 三席

 十席

 三席

 二席

 二席

南船北馬集 第十二編 379

(17)

栃木県東北部巡講日誌

380  大正四年十二月一日 晴れ。朝七時、上野発にて随行松尾徹外氏とともに栃木県に向かい、小山および下館に て両度換車し、芳賀郡真岡町に停車する際、郡長中津川秀太氏、車中へ来訪せらる。午前十一時、益子町︿現在栃 木県芳賀郡益子町﹀に着し、午後、小学校にて開演す。この日、風寒くして野外田間に薄氷を見る。郡視学宮本勇氏 ここに出張せらる。主催は町青年会にして、発起者は町長平野良知氏、助役小熊浜吉氏、同鯉淵次儀氏、青年会 長篠崎忠亮氏︵校長︶、副会長豊田甲之助氏等十一名なり。しかして宿所は岡田屋旅館とす。当町の物産は陶器に して、一年の産額十万円以上と算せらる。しかるに市中を一過するも、一戸として陶器を陳列せる大店なく、人 をして陶器町たるを知らざらしむるはすこぶる奇なり。いわゆる良質は深く蔵するの意か。これ能州輪島が日本 一の漆器製産地なるにかかわらず、その市中に漆器を開店せる家なきと同一般なり。また、本町には灸点をもっ て有名なる寺あり。その名を鶏足寺という。毎月旧暦の十七日、二十七日を灸日と定むるに、当日は数百名の病 者遠近より群来し、門前市をなす由。一時その日を新暦に定めたるも、病客更にきたらず、よってたちまち旧に 復したりと聞く。人これを評して、灸は旧と音相通ずるにより、旧を用うるが当然なりという。  二日 快晴。暁寒︹華氏︺三十八度、瓶水氷を結び、厳冬に入るの思いをなす。この日、東京にては御大典の大 観兵式あり。車行一里余にして田野村く現在栃木県芳賀郡益子町vに至り、昼間、小学校、夜間、妙伝寺において両 度開会す。宿所もまた妙伝寺なり。同寺は真宗本派にして、住職毛利定寿氏は今回の主催とす。村長柳務氏も助

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南船北馬集 第十二編 力あり。本村は純然たる農村なり。  三日 晴れ。田野を発し、益子を経て七井村く現在栃木県芳賀郡益子町v小学校に至りて開演す。行程約二里、校 前の旅館田中屋に少憩せるに、宿料上等七十五銭、中等五十銭、下等三十五銭の掲示あり。なお聞くところによ るに、酒一升上等五十銭という。物価低廉の地なるを知るに足る。田地の収穫は一反につき二石ないし三石以上、 しかして売価一反二百円ないし三百円という。これまた安価なりとす。当地発起は村長小滝為吉氏、校長石塚幸 八氏等にして、宿所は県会議員佐藤俊明氏新築邸宅の楼上なり。軒前の風光、四時春のごとくすこぶる佳なるに より、春明楼と命名す。当地は真岡鉄道の終点なり。従来、宇都宮と笠間との中央に位せる小駅にして、いずれ へも六里を隔つ。浄土宗の一本山なる大沢山円通寺は本村にあり。  四日 晴れ。ただし風寒し。七井より車行二里にして小貝村︿現在栃木県芳賀郡市貝町﹀字文谷に至る。この日、 途上吟一首を得たり。   東毛暖野路漫漫、木落草枯眼界寛、車上行看冬已満、晃山雪色射人寒、   ︵東毛の広々とした野をゆく道はながながとつづき、木の葉も落ち、草も枯れはて、視界もひろがる。車上   に行きゆきてみれば、冬はすでに満ちあふれ、日光山の雪の色は人を射すくめるようにさむざむとしている。︶  日光の三山ともに雪をいただきて鼎立せる状を望見するは大いに壮快を覚ゆ。会場兼宿所たる光賢寺は真宗大 谷派なり。住職加藤線正氏は発起者として大いに尽力あり。その他、郡書記水野錯太郎氏︵臨時村長︶、医師桜井 平造氏、教員邦井国松氏、有志家小峯房吉、関沢秀雄、佐藤保平、吉住縫治、大久保均の五氏等の発起にかかる。 この地方はタバコの産地にして、馬背に載せて続々タバコを運出するを見る。 381

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 十二月五日︵日曜︶ 快晴。朝寒︹華氏︺三十七度。暁霜雪のごとし。車上寒気靴に徹し、指頭痛みを感ず。東京 よりも寒気平均五、六度強きを覚ゆ。文谷を発し林轡の間を上下して那須郡に入り、烏山町を経て那珂村︿現在栃 木県那須郡小川町﹀小学校に至る。行程六里余、途上麦田多し。郡視学橋本新太郎氏ここにありて迎えらる。午後開 会。村教育会の主催にして、村長青柳与平氏、校長市村隆氏の発起にかかる。本村は那珂川に面し、平原に鋸し、 新開地の趣あるも四通八達の便を有す。  六日 穏晴春のごとし。霜気をおかして客舎を発し、那珂川の仮橋を渡り、漢山の間に入ること一里余にして 馬頭町︿現在栃木県那須郡馬頭町﹀に至る。この地方は養蚕に適すという。更に小漢の間に入り行くこと半里にして 矢又小学校に至り、午前より午後にまたがりて開演す。主催は郡通俗教育会にして、発起は町長大森鉄之助氏、 助役藤田庄之助氏、馬頭校長笠井捨松氏、矢又校長和田勇氏等なり。演説後、更に車をめぐらして馬頭町に至り、 倶楽部兼劇場において夜会を開く。主催は町教育会にして、発起は前のごとし。しかして宿所は川崎旅館なり。 その後楼は二箇の土蔵を土台石に代用して建設したる新案の建築なれば専売特許の価あり。当町は前後に天然の 山屏風をめぐらし、寒風を防止せるために比較的温暖なりという。今夕の寒暖︹華氏︺五十八度。  七日 晴れ、ただし風あり。漢間にさかのぼること二里、大内村︿現在栃木県那須郡馬頭町﹀谷川小学校に至りて 開演す。この大字より茨城県国界まで半里、大子町まで三里ありて、馬頭より大子に出ずる駅道に当たり、毎日 馬車の往復あり。村内第一の物産はタバコとす。開会発起は村長岡田政之氏、教員高橋鹿之助氏等九名、および 谷川小学校同窓会なり。講演後、車をめぐらして馬頭町川崎屋に帰る。途中、寒風砂をまき面をつききたる。  八日 快晴。馬頭を発し、那珂川を渡船して七合村︿現在栃木県那須郡烏山町・小川町﹀字白久に至る。行程一里余。 382

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南船北馬集 第十二編 会場は小学校代用の長泉寺なり。午前、開演す。村長佐藤茂氏、校長高橋寒二郎氏の発起にかかる。本郡に入り てより車上所見を賦したる一絶あり。   珂水源頭試客遊、漢行数里度林邸、暁霜如雪山田白、埋没麦芽青已抽、   ︵那珂川のほとりで旅客の遊びをなす。谷ぞいに行くこと数里、林や丘を経たものである。暁の霜は雪のよ   うに山や田を白々とそめているが、うもれていた麦の芽の青みがすでに地表にみえる。︶  午後、更に車を走らすこと二里、烏山町く現在栃木県那須郡烏山町v小学校に至りて開演す。発起は町長川俣英夫 氏、助役小峯関三氏、書記五味門寿氏なりとす。当夕、真宗大谷派寺院慈願寺において夜会を開く。住職那須信 英氏の主催なり。この町には川俣町長の経営にかかる私立中学あり。当地は郡内第一の商業地なるも、交通の不 便を欠点とす。宿所叶屋旅館は三層楼なり。  九日 晴れ。この日、東京市御大典奉祝会あり。朝、鳥山より渡船して境村く現在栃木県那須郡烏山町、芳賀郡茂木 町∨小学校に至る。里程約一里、茨城県に隣接す。開会は午前なり。村長佐藤金五郎氏、校長内藤六助氏の発起に かかる。本村は製紙を業とするもの多く、ことに西内紙の本場と称し、年額十万円を産出すという。午後、更に 烏山を経、向田村︿現在栃木県那須郡烏山町﹀向田小学校に移りて開演す。行程約二里。村長岡本長夫氏、区長石川 峯吉氏、教員磯博氏、郡会議員樋山勇次氏等の主催なり。宿所は有志家羽石広美氏宅にして、新築まさに成り、 用材またよし。  十日 晴れ、しかして風。向田より再び■山を経、車行約四里、丘陵の起伏せるありて、駅路高低多し。荒川 村︿現在栃木県那須郡南那須町﹀鴻野山小学校に至りて開演す。村長塩谷敏氏、校長吉成兼太郎氏等の発起なり。演説 383

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後、更に車行二里、宝積寺駅より汽車に駕し、西那須駅に降りる。日まさに暮るる。山風吹き荒み砂土を巻く。 寒気また強し。灯を照らして腕車に移り、行くこと一里余、郡内の首府たる大田原町︿現在栃木県大田原市﹀に入り、 奈良屋に宿す。この間には人車鉄道あり。本夕、郡長富田美次郎氏来訪せられ、旅館において晩餐をともにす。 奈良屋は一名美和亭と呼ぶ。奈良のハタゴヤ三輪の茶屋よりその名を取れりというはおもしろし。夜に入りて風 力更に烈を加う。聞くところによれば、本郡の名物はカラ風、雷鳴、カカー天下の三なりという。群馬県の名物 に同じ。余は今より三十七年前︵明治十二年︶、この町を一過せしことあり。その当時を回想するに、荘として夢 のごとし。ただ、街路の両側に水の流れおりたるを念頭にとどむるのみ。  十一日 穏晴。早朝、東洋大学幹事郷白巌氏の師たる則道謙氏︵洞泉院住職︶来訪あり。午前、県立中学校に 至りて講話をなす。校長は田村安太郎氏なり。その校に奉職せる人見伝蔵氏は哲学館大学の出身たり。午後、小 学校にて更に開演す。町長大橋直次郎氏、校長生沼米太郎氏、宗教家中井本儀氏の主催にして、忍精寺住職増田 大忠氏、有志家石和田幸太郎氏等助力せらる。この学校の天井に妖怪の形を印せる跡あれば、怪しみてなにもの の所為かとたずねたるに、生徒が雑巾がけをなしたる際に、おもしろ半分にその雑巾を上へ投げて印せしめし跡 なりという。他府県の某学校にこれに類したる跡ありて、妖怪騒ぎを引き起こせしことあるが、その正体この事 実によりて説明し得べし。当夕、宿所において郡長、町長等十七名の諸氏と会食す。本郡は東西約八里、南北十 六里半、面積九十三方里、人口十五万人、町村三十一個、学校百三十校を有する大郡なり。那須村一力村の面積 が足利郡より広しという。郡内の名所としては佐久山村字福原に那須与一の碑あり。湯津上村に日本三大古碑中 の第一と称せらるる国造の碑あり。ともに大田原より二里内外の地点に存立す。しかして那須の殺生石は十余里 384

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南船北馬集 第十二編 を隔つ。もし大田原の名物いかんを問えば、納豆とカラ風なりという。また、郡内の宗教としては曹洞禅最も多 し。各町村の開会は橋本郡視学の周到なる注意になり、時間すこぶる精確なりしは、他の模範とするに足る。  十二月十二日︵日曜︶ 快晴。朝寒︹華氏︺三十六度。午前、美和の茶屋を発し、馬車にて西那須に至る。中間に 乃木神社の新たに設立せられしを見る。その地は狩野村に属す。これより汽車によりて黒磯町︿現在栃木県黒磯市﹀ に移り、小学校にて開演す。この辺りは一体にもと那須野の原にして、荒野海のごとくなりしが、今は耕地横縦 に連なる。黒磯のごときは全く各県の移住民より成れる新開町なり。街路の幅九問、小学校の敷地約一万坪を有 するは、新開地たるを証するに足る。物産はタバコと薪炭を主要なるものとす。本町より那須湯本温泉まで四里、 板室温泉まで六里なりという。開会主催は町長山口兵吉氏、校長菊池慶吉氏なりとし、宿所は駅前の姻草屋旅館 なりとす。余は昨年十月下旬、福島行の途上ここに一泊せしが、その後間もなく全焼せし由なるも、今は新築全 く成る。その向かい側に湯本温泉旅館小松屋支店あり。  十三日 快晴。再び汽車により黒田原駅に着するに、駅前の松林の間に炭俵積みて山を成す。一目して薪炭の 産地たるを知る。もしその価を聞けば、炭一俵︵五貫目入り︶売価普通三十銭、最上等四十銭なりという。更に 腕車にて行くこと一里余にして芦野町︿現在栃木県那須郡那須町﹀に入る。地勢高低多く、道路佳ならず。当町は昔 時奥羽街道に当たり、旅客多く休泊せしも、国道の変更と鉄路の懸隔とにより、全く農村に化し去れり。余は明 治十二年この駅に一泊して、翌朝白川に入りたるを記憶す。会場建中寺は清閑なる禅寺なり。鈴木智道氏これに 住す。発起は町長加藤信太郎氏、校長阿美重知氏、学務委員渡辺彦兵衛氏等にして、宿所は丁子屋旅館なり。  十四日 晴れ、かつ風。朝、芦野より黒田原を経、鉄路によりて西那須駅に降車す。那須郡九日間の開会も滞 385

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りなく終了し、その間案内の労をとられたる橋本郡視学にここに至りて別れを告げ、かつその厚意を謝す。とき に塩谷郡視学臼井友四郎氏の迎えらるるに会し、ともに馬車に同乗して塩原村︿現在栃木県那須郡塩原町﹀に向かう。 天ようやく曇り、風ようやく寒し。福渡旅館満寿屋に着せしときは午後一時を報ず。西那須駅より道程約六里、 会場小学校は門前にあり。郡長岩田亀松氏もここに出張せらる。演説後、烈風雪を吹ききたり、寒気膚を裂かん とす。宿所に帰りて一浴の後、数名の発起諸氏とともに杯を交ゆること両三回、満身たちまち回春を起こす。主 人臼井吉左衛門氏は村長にしてかつ発起人なるが、客に酒をすすむること最も巧みなり。その他の発起者は学務 委員池田鋸橘氏、下塩原校長小林浩三郎氏、上︹塩原︺校長高瀬趣氏、妙雲寺住職平元徳宗氏等とす。  十五日 雪のち晴れ。夜来の積雪約二寸に及び、暁窓一面に銀世界を現ず。余の塩原に浴詠することここに数 回なりしも、雪景に接触せるは今回をもって初回とす。よって一句をとどむ。   春もよし夏はなほよし秋もよし、冬も亦よし塩原の里、  午前十時、馬車にて雪途をうがち、箒根︹村︺︿現在栃木県那須郡塩原町﹀関谷小学校に至る。この間二里半の途上、 両崖の林頭に玉屑を点綴せる光景は、実に吟賞するに余りあり。よって一詠す。   山風醸雪昼冥濠、入夜泉楼客亦空、暁起開窓天地白、塩渓無処不玲瀧、    ︵山から吹きおろす風は雪をもたらして、昼もなおうす暗く、夜に入って温泉旅館の客もまた少ない。朝早   く起きて窓をあけて見れば、天も地も白く、塩原の谷は玉のように美しいところなのである。︶  馬車中に炬燵の設備あるはすこぶる新意象なり。先年、山口県岩国の錦川において船中に炬燵の設備あるを見 たりしが、塩原の馬車と好一対というべし。箒根開会主催は村長印南東氏、校長江連初太郎氏等なり。この校庭 386

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南船北馬集 第十二編 内に駐躍紀念碑あり。その文を一読するに、今上天皇陛下には皇太子殿下の当時三十回駐躍したまいし学校なる を知る。けだし全国無類ならん。演説後、軌道に駕し軽便に乗じて、再び那須郡西那須野村く現在栃木県那須郡西那 須野町v駅前の大和屋旅館に入る。行程三里のところを約三十分間にて達せり。今夕は臨時︹に︺本村長田島弥三郎 氏、僧侶丘誓成氏、校長下司新四郎氏等の依頼に応じて、倶楽部において演説をなす。大田原より郡長は郡視学 を伴いて出席せらる。当村はもと故三島︹通庸︺県知事の力によりて設立せる新開村なり。村内に三島神社あり。  十六日。西那須より鉄路により矢板駅に降車し、更に車行一里、塩谷郡泉村︿現在栃木県矢板市﹀小学校に至りて 開演す。村長石下仙平氏、校長高橋吉一氏等の発起にかかる。県視学矢板大安氏ここに出張あり。演説後、車を めぐらし、矢板町住吉屋本店に帰宿す。本町もまた、三十七年前一泊せし余の旧跡なり。今は昔日の寒村なりし に反して郡内の首都となる。  十七日 晴れ。暁気室内︹華氏︺三十四度。午後、矢板︿現在栃木県矢板市﹀小学校にて開演す。主催は学校組合会 にして、町長小野崎吉一郎氏、校長福富準四郎氏、有志家君島与一郎氏等の発起にかかる。当夕、岩田郡長をは じめとし、課長加藤国松氏、同高田彦四郎氏等と会食す。聞くところによるに、矢板町は宇都宮へも九里、日光 へも九里、宇都宮と日光との間もまた九里なれば、まさしく等辺三角形をなす。かつ古来、日光のバカ九里と称 し、いずれの地よりも九里ありという由。矢板よりも九里、宇都宮よりも九里、喜連川町よりも九里、氏家町よ りも九里、今市よりも九里ありとす。今市より日光は里程二里なるも、その間に七里と名付くる村落ありて、こ れを一過するにより九里と唱えきたるとは滑稽なり。  十八日 晴れ。矢板より汽車に乗じ氏家駅に降車し、更に人車鉄道に移り、走ること約二里にして喜連川町く現 387

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在栃木県塩谷郡喜連川町﹀に入る。当町は大田原と同じく旧城下にして、もと奥羽街道の要駅たり。町名はむかし狐 川と書きし由。狐川と聞けば、余の研究的町村なるがごとし。会場は小学校、主催は通俗教育会ならびに各宗寺 院、発起は町長笹沼仲右衛門氏、校長伊藤齢吉氏の外に僧侶大野宋達、菊地亀乗、黒羽照栄の三氏なりとす。当 町には私立女学校二校ある由。  十二月十九日︵日曜︶ 晴れ。車行一里、熟田村︿現在栃木県塩谷郡氏家町・高根沢町﹀字狭間田小学校に至りて開演 す。発起は村長塚原貞一郎氏、校長肥後与平氏、区長坂本辰之助、高橋直吉、小野勘次郎三氏なり。休憩所に当 てられたる青木義雄氏の邸宅は、華族の別荘的構造と風致とを有す。熟田は純然たる農村にして、しかも村名の ごとく米田よく熟すとの評あり。一反の収穫平均六俵、小作料は二俵ないし二俵半なる由。演説後、車を駆るこ と一里強にして氏家町︵現在栃木県塩谷郡氏家町v駅前綿屋旅館に入宿す。  二十日 晴れ。午後、氏家町小学校において開演す。町長石井信六氏、校長斎藤兼三郎氏等の主催かつ発起に かかる。この地鬼怒川の畔にあり、鬼怒川とは名を聞くもなお恐ろしきを感ず。その実、さほどの激流にあらず。 晩食後、汽車にて宇都宮市く現在栃木県宇都宮市vに向かう。臼井郡視学には塩原以来連日案内の労をとられ、かつ 別れに臨みて腹内用の防寒品を寄せられたるを謝す。当夜、県教育会の主催にかかる通俗講話会に出演するに、 一天雲なく満月咬々、霜気稜々たり。会場は女子師範学校講堂にして、発起は県理事官新開滞観氏および県視学 村上沼一郎氏なりとす。新開理事官は県下三郡長へ紹介の労をとられたり。宿所は一等旅館白木屋本店なり。  二十一日。午後、高等女学校に至り、校友会のもとめに応じて講話をなす。現今生徒七百名以上、女学校中の 大校なり。校長伊藤裕氏はもと哲学館の出身にかかる。その縁故をもって今回は種々斡旋せられたり。首席教諭 388

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南船北馬集 第十二編 稲葉賢介氏も助力あり。宇都宮の名物は干瓢火鉢なり。伊藤氏より達磨形の大火鉢を恵まらる。これを携帯して 午後三時発に乗り込み、六時帰京す。  栃木県東北三郡の風俗、人情、言語等を一括して示さんに、土地広く原野多きために県下の北海道をもって目 せらるも、交通の便相応に開け、人口戸数も決して稀少なるにあらず。人気は概して淳朴なり。宗教の勢力弱き も茨城県よりも勝れり。迷信もはなはだしきを認めず。学校にいたりてはその数非常に多く、塩谷郡のごときは 十六力町村にして六十七校を有す。すなわち一村四校以上の割合なり。町村の負担の重さを推知するに足る。各 学校に大抵みな教員住宅を併置す。市街の道幅は一般に広く、七間ないし九間あり。風呂は多く旧式の鉄砲風呂 を用い、長州風呂、五右衛門風呂ともに行われず。旅館にては毎朝必ず茶に添うるに梅干をもってす。これ関東 式なり。農家の茶菓子は漬け物を用うるを常とす。これ九州式なり。方言としては、藁を積みて塚形をなせるも のをノーといい、刈稲を乾かすために横木に掛けたるものをオダマキといい、独木水車をバッタラともバンカラ ともいう。塩谷郡内にて聞くに、名詞の下にメを添うる癖あり。例えば蚊をカメといい、馬をウマメという類な り。これ南部や秋田のコを添うるにひとし。また、那須郡内にて聞くに、市子口寄せをワカという。多く婦人に して、人のもとめに応じて予言をなす。その中に二種ありて、弓を鳴らして祈請するものと、一種秘密の箱に向 かいて祈請するものある由。これ他府県の市子に同じ。要するに言語は東京語に近く、解しやすく通じやすし。 かつ茨城県よりもいくぶんか発音の正しき点あるを覚ゆ。語尾にダンベを付くるは全く関東式なり。  二十二日。新潟県の郷里より舎弟井上円成病気危篤の電報に接し、二十三日の急行にて郷里に向かう。信州よ       捌 り雪を見、郷里にて雪を踏む。病気も幸いに危篤を免れたるをもって、ただちに上京す。気候の不同のために風

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邪をになって帰る。  郡 芳賀郡 同 同 同 同 那須郡 同 同 同 同 同 同 同 栃木県東南三郡開会一覧  町村 益子町 田野村 同 七井村 小貝村 大田原町 同 馬頭町 同 烏山町 同 黒磯町 芦野町  会場 小学校 小学校 寺院 小学校 寺院 中学校 小学校 小学校 倶楽部 小学校 寺院 小学校 寺院

二ニーニー二ニー二ニー一二席

席席席席席席席席席席席席席数

 聴衆 五百人 三百五十人 二百五十人 五百五十人 三百五十人 四百人 六百人 四百五十人 八百人 九百五十人 二百人 三百人 三百五十人  主催 町青年会 寺院 同前 村役場 村内有志 校友会 町内有志 郡教育会 町教育会 郡教育会 寺院 町長および校長 町役場 390

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南船北馬集 第十二編 同 同 同 同 同 同 同 塩谷郡 同 同 同 同 同 同 宇都宮市 同 那珂村 大内村 七合村 境村 向田村 荒川村 西那須︹野︺村 矢板町 喜連川町 氏家町 塩原村 箒根村 泉村 熟田村 小学校 小学校 寺院 小学校 小学校 小学校 倶楽部 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 女子師範学校 高等女学校

席席席席席席席席席席席席席席席席

八百人 四百人 三百五十人 二百五十人 三百五十人 三百人 四百人 五百五十人 六百五十人 五百五十人 百五十人 二百人 三百五十人 四百人 五百人 七百五十人 村教育会 同村 同村 村教育会 同村 同村 同村 学校組合会 教育会および寺院 学校および役場 学校組合会 同村 学校組合会 学校組合会 県教育会 校友会 391

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合計 一市、三郡、

  間

 演題類別   詔勅修身   妖怪迷信   哲学宗教   教  育

 実  業

  雑  題 二十三町村︵九町、十四力村︶、二十九カ所、五十席、聴衆一万三千人、日数二十一日 二十席  六席  七席  三席  五席  九席 392

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大正四年度報告

南船北馬集 第十二編 例によりて余の本年中における事業を報告せんに、著作の方にては、  大正徒然草     全一冊  大正四年六月二十一日  妖怪研究会発行  哲学堂ひとり案内  全一冊  大正四年十二月十五日  国民道徳普及会発行  南船北馬集  第十編 二月四日発行  同十一編 十二月十八日発行 哲︹学︺堂経営の方は図書館の新築を完成し、霊明閣を創建し、陳列所を開設し、帰納場および三祖壇を築造せり。 つぎに、巡講の方は前掲の合計を再記して総計を表示すべし。  十七郡、九十五町村、百八カ所、二百一席、四万三千五百五十人︵岡山県︶  一市、九郡、六十二町村、九十カ所、百四十七席、三万七千六百十人︵秋田県︶  一市、五郡、十三町村、二十七カ所、四十二席、一万三千八百人︵信越一部︶  一市、三郡、二十三町村、二十九カ所、五十席、一万三千人︵栃木県三郡︶   総計 三市、三十四郡、百九十三町村、二百五十四カ所、四百四十席、十万七千九百六十人︵大正四年度︶ すなわち演説四百四十席を重ね、聴衆十万七千九百六十人に対して国民道徳の講話をなせしなり。 もしこれに明治三十九年より昨年末までの総計を合算すれば︵その表は第十集の巻末にあり︶、  四十六市、三百四十九郡、一千六百二十九町村、二千百四十八カ所、三千九百八十四席、百二万九千九百五 393

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  十人︵注意、この合計中には郡町村の二、三カ所重複せるものあれば他日訂正すべし︶。  すなわち明治三十九年はじめて地方巡講に取りかかりし以来、十力年間における総合計にして、二千百四十カ 所において、三千九百八十四席の演説を重ね、百二万九千九百五十人の聴衆に対して講話せしなり。      ︵付︶哲学堂会計報告 一、 茁?㈹v 金一万二千四十五円五十九銭 一、 x出合計 金八千三百十三円五銭也 差し引き 金三千七百三十二円五十四銭   以上 大正四年十二月三十一日決算 基本財産へ移す︵第一回︶ 図書館、霊明閣建築費 庭園修繕および新設費ならびに図書館陳列所器具購入費 書籍、報告、規則等印刷費 事務費、俸給、郵税および図書館披露会諸費 剰余金 394

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鎌倉遊寓記

南船北馬集 第十二編  大正五年一月元旦。朝九時、京北中学に至り、湯本︹武比古︺校長旅行中なれば、氏に代わり勅語を捧読して賀 辞を述ぶ。その日の拙吟、左のごとし。   干是丙陽支是辰、喜吾頑健遇斯春、誰疑国運従今後、如日如竜必大伸、   ︵十干はひのえ、十二支はたつの年、喜ぶべし、われ頑健にしてこの新春を迎えたるを。いまより後、国運   が太陽のごとく竜のごとく、必ずや大いにのびゆくであろうことを、だれがうたがうであろうか。︶  四日。東洋大学の新年宴会に出席し、余の境遇につきて卓上演説をなす。その要旨を括約すれば、紳士が田舎 にあれば人これを呼びて田紳という。されば学者が田舎におれば、人必ずこれを田学というべき理なり。余の今 日の境遇はそのいわゆる田学なり。これに反して常に都下に起居し、位階を帯び、官禄にはむ学者は官学という べし。官学もとよりとおとしといえども、田学また決していやしむべきにあらず。これを食物に比考するに、鯛 のサシミ、鯉のイキツクリなどは官学に類するものなり、豆腐料理のごときは田学にひとしきものなり。田学は 田楽と音相通ず。故に余は豆腐の田楽をもって自ら任ずるものなり。鯛のサシミは貴人の膳に上るも貧民の口に 入らず。しかるに豆腐の田楽は貴人にも貧民にも通じ、その調法なることは鯛の比にあらず。田学はすなわち田 楽にして余は田楽となり、学問の料理を貴賎貧富に向かいて供給するを本分とすというにあり。        95       3  年末より風邪にかかり、新年に入るも咳轍いまだ去らず。よって海岸へ転地せんと欲し、にわかに思い立ち一

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月七日より相州鎌倉に遊寓す。寓所は八幡社前角屋旅館なり。実に十四、五年ぶりにてここに遊ぶに、なんとな く今昔の間に多大の変遷ありしを認む。なかんずく鎌倉駅と江之島との間に開通せる電車と、海浜および山手の 間に群立せる別荘とは、大いに面目を改めたるを覚ゆ。ただし八幡前通りの両側に茅屋の多きは数十年のむかし に異ならず。角屋もまた茅屋旅館なり。しかれども八幡前の旅館としては角屋を第一とす。その家は頼朝時代よ り継続し、先祖より当代まで五十七代との説なり。これに次ぐものを松岡館とす。八幡と停車場との中間にあり。 また、停車場付近としては倶楽部の隣地に小町園あり。もし長谷方面に至らば鎌倉第一の大旅館三橋あり。風評 には鎌倉中にて金の最も多いのも三橋、負債の最も多いのも三橋という由。また、材木座方面にては光明寺の隣 に光明館あるも、料理の方を本位とする由なり。海に面したる所に中島館、海鴎館あるも、ともに小旅館なり。 八幡社の裏門前に丸屋旅館ありて、一時は繁昌をきたし余も先年滞留せしことあるも、今より数年前、宿客中に 首くくりせしものありて以来、人の迷信を買い、客のきたり宿するものなく、ついに廃業のやむなきに至れりと いう。角屋に隣れる三橋支店も、ある事情のために閉鎖せり。鎌倉客中の拙作数首を左に掲ぐ。   社頭懐古動吾情、廟宇与人共変更、七百年来興廃跡、只留銀杏一株栄、   ︵鎌倉八幡宮のほとりに昔をおもい、いささかわが情も動かされ、みたまやも人もともに変遷す。七百年に   及ぶ興廃の歴史の跡には、ただ一株の銀杏の木のみがのこって葉を茂らせるのである。︶   由井浜頭山角囲、光明寺対稲村崎、英雄夢跡今何在、吊古人唯拾貝帰、   ︵由比ヶ浜のあたりは山すそがかこみ、光明寺は稲村ヶ崎に対してたつ。英雄の夢の跡も今やいずこにある   であろうか。いにしえの人を弔いつつ、ただ貝を拾って帰ったのであった。︶ 396

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南船北馬集 第十二編 鎌都風物幾回遷、唯有仏身千古伝、今日俗僧堪一喝、金胎為餌釣銅銭、  ︵鎌倉の風物はいくたびかの変遷をへたが、ただ大仏は千古よりそのまま伝えらる。しかし今日の俗僧は一 喝にもたえて、金銅の胎内に入れることを材料にして銭を集めているのだ。︶  一路祠門対夕陽、鎌倉宮是護良王、暮鴉呼起当年事、未拝神壇已断腸、  ︵ひとすじの道にたつ寺門は夕日に向かい、この鎌倉宮は護良親王をまつるところである。日暮れになくか  らすの声は当時の出来事を思い起こさせて、社殿に詣でる前にすでにはらわたを断つ悲しみがわきおこる。︶  七里浜頭祖跡尋、追懐往事感殊深、無心波亦知題目、撲岸声成妙法音、  ︵七里ヶ浜のほとりに開祖日蓮の跡をたずね、すぐる当時のことどもを思えばことさらに感懐は深い。無心  にみえる打ち寄せる波もまたお題目を知るのであろうか。岸辺をうつ波音は妙法の声となるのであった。︶  海上薔然仙娯浮、旗亭連棟続祠頭、登山客是殺風景、不箕神前先入楼、  ︵海上にこんもりしげる世俗を離れたような島が浮かび、料亭が軒をつらねて江ノ島神社のあたりをめぐっ  ている。登山の客はまた無風流なことに、神前に詣でるよりさきにまず楼閣に入るのである。︶  併得房山総海寛、東瀟八景望漫々、吐煙戦艦過湾外、欲問琶湖有此観、  ︵房総の山と海の広さを望み、東方に瀟湘八景の広々とひろがるを見る。煙を吐いて戦艦が遠く湾外をよぎ  り、果たして琵琶湖にこうした風景があるであろうか。︶ また、﹁鎌倉や夏草などの夢醒めて電灯影裏に洋館を見る﹂もまた懐古の一作なり。 ついでながら、本年二月初めに東京の某二大新聞︵すなわち﹃大勢新聞﹄と﹃毎夕新聞﹄︶に掲載ありし記事に 397

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つき一言を付記せんとす。﹃大勢新聞﹄に曰く、︹以下、原文のまま︺  文学博士井上円了氏は今を距る二十有余年前東洋学を標榜して精神界の指導に志し哲学館を小石川白山に私  設して幾多教学界の人材を養成し明治三十六年組織を大学の制に改めて哲学館大学とし更に三十九年東洋大  学と改称して現に其の名誉学長たる外京北中学校京北実業学校京北幼稚園等を設けて教育界に貢献し又近年   は在京の日稀れなる位に地方を遊説して社会徳教の向上に尽痒し、傍ら府下和田山の地をトして哲学堂と称   する精神的遊園地を建設し将来は東京市に寄附せむとする等其の国家的社会的功績顕著たるに拘はらず今回   の施彰に漏れたるに就け世間奏請者の不注意を非難する者おほからむとする由なるが今其の内容顛末を探聞   するに御大典に先き立ち東京府庁及本郷区役所より博士の履歴書を徴したる事あり其際博士が洩れ聞きし所   に依れば位階勲等の施彰ある準備なりとのことにて斯くては公表後に至つて如何に拝辞せむとするも甲斐な   きしと、曾つて福沢諭吉氏は其の叙勲の噂を聞きて未前に拝辞して事なかりしも長谷川泰氏は公表後に拝辞   せしため今に藍綬褒賞の宙に迷へるの滑稽あり、されば芳々以て之れを公表前に拝辞する方事面倒ならずと   なし東洋大学に於ては予め其の筋に向け博士に施彰拝辞の意志あることを通じ更に博士自身も高田文相と相  識の間柄なれば非公式に拝辞の意志を齎らしたりとのことなるが、固より旋彰の内容は何なりしや知るべか   らずと錐も或る筋より聞く所に依れば勲三等の叙勲なりと博士は先年長谷場純孝氏の文部大臣たりし時代、  棚橋絢子女史他三四女流教育家に対し叙勲の事ありし当時も東京府聴及び本郷区役所より博士に対しても其  閲歴の取調べを為せしが其の際も同様旋彰のためなるを聞きし博士は自分は疾くに官海に志を断ちて無位無  官民間教育家を以て任じ国民道徳の向上に一生を託するものであるから位階や勲等を授かるは素志ではな 398

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南船北馬集 第十二編   い、仮りに旛彰されるとするも決して個人の私すべきことではない、金額の多寡は敢て論ぜぬから東洋大学の   為めに維持奨励の金子でも下附されるのなら有難く御受をする、故に叙勲等の事は予め拝辞するといふこと   を某の代議士を通じて長谷場文相まで漏らしたことあり、︵﹁毎夕新聞﹄の記事も大体これに同じければ略す。︶  右の記事が新聞に掲載ありしことは余は全く知らざりしが、友人よりその話を聞きて大いに恐縮したることな り。余は自らそのことを人に語りしことなきに、なにびとの口より伝わりしやを知らず。されどすでに新聞上に 公になりし以上は秘することもできず、人よりその真非につきたずねらるる向きもあれば、ここに内情を自白す ることとなす。先年明治天皇御大葬の当時、突然その筋より表彰の件につき履歴書を提出せよとのご沙汰あれば、 余はこれに対して、明治の昭代に生まれて国家の大恩をにないながら、なんらの報恩もできざるに、表彰を拝受 するなどは誠に恐れ多きことなり、ことに拙者の素志は無官、無位、無勲章にて一生を送らんとするにあれば、 ご奏上なき内にご辞退申し上げたき趣を、友人を介して文部大臣および東京府知事へ申し上げたることあり。し かるにまた昨秋、御大典前に履歴書進達の内命ありたれば、前同様の旨意にて再び友人を介し文部大臣および次 官に、もし表彰のご沙汰ならば前もってご辞退申し上げたき由拝陳せしことあり。知人中には新聞記事を読みて、 何故に辞退せしかとたずねる人もあれば、余は拙作を賦して微衷の存するところを示せしことあり。   微衷柳欲報皇恩、北馬南船席不温、無位無官吾事足、終生何敢伺権門、   ︵わずかな真心をもっていささかなりとも皇室の恩にむくいようとして、北に馬にのり、南には船にのって   席の温まる暇もなく講演の旅をつづけている。無位無官にしてわがことは十分であり、一生涯、どうして権       99       3   威ある人々の門を訪ねることがあろうか、ありはしない。︶

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 日就月将文運新、聖恩余沢及微臣、生遭昭代吾栄大、何望勲章飾老身、        oo  ︵日に月に文化の機運はいよいよ新たに起ころうとしている。天皇の恩沢の余りは数ならぬ私にも及んでい 4  る。生きてこのかがやく御代に会うは私にとって最大の栄誉であり、いったいどうして勲章を望んでこの老  いた身を飾る必要があろうか、ありはしないのだ。︶ 後日、人の誤解を招かんことを恐れ、鄙懐を漏らして知己の心友に告ぐ。

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伊勢国巡講第一回日誌

南船北馬集 第十二編  大正五年二月十一日、夜九時、東京駅発。随行は松尾徹外氏なり。  二月十二日 晴れ。ただし風寒し。朝七時半、伊勢国四日市市︿現在三重県四日市市﹀に着す。午前、市立高等女 学校にて開演す。校長藤枝好徳氏の主催なり。これより車行二十丁、午後、三重郡海蔵村︿現在三重県四日市市﹀小 学校にて開会す。本村は郡役所所在地なり。陶器万古焼の本場にして、一力年産額五万円なりと称す。発起は村 長瀬谷金治氏、校長水谷善太郎氏、学務委員鈴木富三郎氏等にして、宿所は正福寺なり。晩来寒気加わり飛雪を 見る。  二月十三日︵日曜︶ 晴れ。夜来降雪ありて暁色一面白し。数時の後みな消尽す。郡視学中山与三郎氏は先年伊 賀巡講中の旧知なるが、再び郡内巡講の案内せらる。この日東行一里、日永村︿現在三重県四日市市﹀小学校にて開 演し、旧家松岡忠四郎氏宅にて宿泊す。その宅は明治天皇前後四回御駐董の光栄をになわせられ、今なお玉座撮 存す。余、所感一首を賦す。   勢東一路叩松局、聞説幾回鳳董停、無位吾身亦多幸、隣居玉座拝余馨、   ︵伊勢の東の一路をたどり、松岡家に宿泊のへやをもとむ。聞くところではいくたびか天皇の乗り物がとめ   られたという。なんの位階もない私の身にとって幸い多いことは、玉座の隣室にいてのこりの香を拝したの   であった。︶ 401

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 更に一首を書して壁頭にとどむ。   太政維新日、鶯輿此駐留、余光長不滅、玉座照千秋、   ︵大政のあらたなる日に、天子の乗り物はここにとめられた。その栄誉は長く滅びず、玉座の輝きは千年の   後までも照らすであろう。︶  その庭内に一個二千貫の巨石あり、一柱五方形の草亭あり、また噴泉の水車を転ずるあり、人工的漂布の設備 もあり。発起は村長八島治平司氏、学務委員浅川晃氏等なり。当所の名物長餅は平らかにして細長く、その形牛 舌に似たるをもって、一名牛の舌餅という。飴餅なれどもその味濃厚ならず。  十四日 晴れ。車行約一里、追分より参宮街道に入り、河原田村︿現在三重県四日市市﹀小学校にて開演す。本村 は丘陵一面に三、四万株の柑樹を培養しつつあれば、将来は果樹村となるべしとの評なり。隣村楠村には哲学館 出身中川守邦氏の宅あれども、本人は米国に渡りて商業に従事す。発起は村長宮田岩太郎氏、助役今村民蔵氏等 にして、宿所は岡田久馬氏宅なり。  十五日 晴れ。更に車をめぐらすこと二里余、四日市を経て羽津村︿現在三重県四日市市﹀小学校にて開演す。村 長富永四郎氏、校長桑原重雄氏の発起なり。午後五時、車行二十丁、四日市常徳寺に入宿し、湊座劇場にて夜会 を開く。建築広闊清新なるも、聴衆、場にあふる。主催は窓友会、発起および尽力者は校長松田一海氏、宗教家 転法輪多珂麿氏、会員伊藤一郎、富田照文、生川次郎、川村甚一、西脇三之助諸氏なり。四日市は雅名を洒港と いう。余のここに開演するは三十六年目なり。当市の一等旅館は大正館と松茂楼なりと聞く。近作一首あり。   遙々東海五旬程、到処民謡慰旅情、伊勢与津互相待、尾張名護独依城、 402

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南船北馬集 第十二編   ︵はるばると東海五旬の道のり、いたるところで聞く民謡は旅情をなぐさむ。その文句に、伊勢は津でもつ、   津は伊勢でもつ、尾張名護︹古︺屋は城でもつとある。︶  十六日 晴れ。車行二里余、八郷村︿現在三重県四日市市﹀小学校にて開演す。幅六間、長さ十二間の講堂あり。 村長島豊太郎氏は役場勤続五十六年の久しきに及ぶ。その齢七十五歳、なお璽錬たり。親友前田慧雲氏は本村に 戸籍を有する由。校長は和田美恵次郎氏なり。主催は本村および下矢知村、下野村の連合にかかる。  十七日︵旧正月十五日︶ 晴れ。昨夕は有志家平田武氏宅に宿し、今朝その山荘に登臨す。松林の問に休亭あり。 伊勢海、知多半島を一望するを得。主人のもとめに応じて鶴雲台と命名す。これより車行一里余、富田町︿現在三 重県四日市市﹀に至る。会場は小学校、宿所は四日市屋なり。三重県に入りて以来はじめて旅館に宿す。町長橋本譲 氏、校長小出亀三郎氏等の発起にかかる。従来、当所は焼き蛤の名物をもってその名高し。しかるに今日は製網 をもって特産とす。また、海水浴場あり。霞陽館最もよしという。郡長今村真橘氏来訪せらる。哲学館出身者と して寺院に鷲崎理器氏、南部光雄氏あり、教育家としては松浦杖作氏︵中学校教員︶あり。当町には漁家多し。 漁夫ははだし、裸体の習慣あれば、湯屋にて、はだしもしくは裸体にてきたるものは入浴を禁ずとの掲示ありと 聞く。  十八日 晴れ。今朝、当地にある第二中学校において講演をなす。校長は田村左衛士氏、首席教諭は宮沢林平 氏なり。これより車行二十町にして川越村︿現在三重県三重郡川越町﹀に移る。本村は飴およびもやしの産地にして、 年額二十万円と称す。一村の空気なんとなく甘味を帯ぶるがごとく感ず。会場および宿所の光輪寺はすこぶる富 裕の寺院にして、諸事完備せり。住職横瀬善俊氏は不在なり。発起は村長寺本由松氏、校長伊藤重平氏等とす。 403

参照

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項目 浮間 赤羽⻄ 赤羽東 王子⻄ 王子東 滝野川⻄ 滝野川東 指標②ー2 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 減少. ランク 点数 浮間 赤羽⻄

代表研究者 小川 莞生 共同研究者 岡本 将駒、深津 雪葉、村上

※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.

善良ノ注意ヲ以テ管理スルトキハ空シク消尽 原告ノ生活資料トシテ敢テ寡少ニアラス荀モ