明治三十九年
王治本の
尾張
・
伊勢
・
越前
・
三河における
足跡と文藝交流(下)
柴
田
清
継
全体の目次 はじめに 一、名古屋滞在中の事ども 二、津における詩文交流 ㈠聴潮館での招待宴、馬場城南訪問、聴潮館での聯句等 ㈡結城神社、阿漕浦行 ㈢千載社での唱酬、田端鑑海との交流 ㈣王治本への送別 三、松阪移動後の事ども ㈠佩蘭吟社四月例会への参加 ㈡山田での招待会 ㈢その他 四、伊勢におけるその他の事柄 (以上、前号) 五、尾張弥富滞在中の事ども ㈠すでに判明している事柄 ㈡藍亭(服部担風邸)訪問、その他 ㈢佩蘭吟社六月例会 ①聯句 ②散会後、聚芳館での分韻の作 六、越前滞在中の事ども 七、再び名古屋へ 八、豊橋での詩文交流 おわりに (以上、本号) 五、尾張弥富滞在中の事ども 六 月 二 日 の『 伊 勢 』 に「 清 儒 王 漆 園 翁 」 と の 見 出 し の 下、 「 過 般 来 松 坂 町 に 滞 杖 中 な り し が 明 三 日 出 発 ● 身 田 村 に 立 寄 り 一 泊 の 上 愛 知 ● 弥 富 に 向 ふ 筈 な り と 」 と い う 記 事 が 載 っ て い る。 「 ● 身 田 村 」 は 現 在 津 市 に 属 す る 一 身 田 村 と 思 わ れ る が、 こ こ に 一 泊 し た 目 的 は 不 明 で あ る。 と も あ れ、 六 月 の 初 め に は 王 治 本 は 尾 張 西 端 の 弥 富 へ と 移 動 し た。 す で に 三 か 月 前 に 申 し 入 れ て お い た 服 部 担 風 と の 面 会 が実現することになるのである。 ㈠すでに判明している事柄 弥 富 に お け る 王 治 本 の 活 動 に つ い て は、 本 稿( 上 ) 冒 頭 に 述 べ た 一 九 六 〇 年 代 後 半 に さ ね と う 氏 に よ っ て な さ れ た 調 査 や、 冨 長 蝶 如 の『 服 部 担 風 先 生 雑 記 』 の 記 載 等 に よ り、 す で に あ る 程 度 明 ら か に なっている。それらをまず紹介しておこう。 担 風 の 弟 子 で あ っ た 冨 長 蝶 如 ( 一 八 九 五 ~ 一 九 八 八 ) に よ れ ば、 三 十 九 年 の 旧 暦 五 月 ( 陽 暦 で は 六 月 二 十 二 日 か ら 七 月 二 十 日 の 間 ) に 王 治本が弥富にやってきて、 駅前の旅館、 聚芳館に滞留していた。 「たぶ ん 先 生 を た よ っ て き た の で あ ろ う し、 先 生 も 招 い た の で あ ろ う 」。 そ の 時 に、 王 治 本 の 筆 に 成 る「 祭 花 庵 」 の 大 額 と「 藍 亭 記 」 の 文 が で き た。 「 藍 亭 記 」 は 小 楷 で 端 正 に 書 か れ、 担 風 の 書 斎 で あ る 藍 亭 の楣間に久しく掲げてあったが、 昭和三十四年の伊勢湾台風のため、 行 方 が 分 か ら な く な っ た。 王 治 本 が「 額 を か い た の 」 は「 丙 午 の 五 月 五 日 で あ 」 っ た 1 。 筆 者 按 ず る に、 こ の「 五 月 五 日 」 は 陰 暦 と 見 ら れ、 陽 暦 の 六 月 二 十 六 日 に 当 た る。 さ ね と う 氏 が 稲 葉 昭 二 氏 か ら 提 供 さ れ た 資 料 の 中 に は、 「 藍 亭 記 」 に つ い て 相 談 す る 内 容 の、 王 治 本 の 六 月 八 日 付 と 九 日 付 の 書 簡 も あ っ た と い う。 こ れ ら の 日 付 は 陽 暦 に よ る も の に 相 違 な く、 で あ れ ば、 弥 富 到 着 後 早 々 に 担 風 か ら 「藍亭記」の執筆依頼があったことになる。 さ ね と う 氏 が 稲 葉 氏 か ら 提 供 を 受 け た 資 料 の 中 に は、 聚 芳 館 の 奥 座 敷 に か か っ て い る「 聚 芳 館 」 と い う 扁 額 の 写 真 も あ り、 そ の 識 語 には、 「丙午夏五 2 為聚芳館主人雅属、 園主人王治本時年七十有二」 とあったという。そのほか、 聚芳館のことを詠んだ七絶二首の書幅、 担風の画に治本が「幽草奇花」と題した画幅などもあったという。 さ ね と う 氏 は 一 九 六 八 年 の 十 月 に は 稲 葉 氏 と 共 に 弥 富 に 実 地 調 査 に 出 か け、 当 時 ウ ナ ギ 屋 に 転 業 し て い た 聚 芳 館 の 主 人 で、 王 治 本 宿 泊 時 十 一 歳 だ っ た 伊 藤 喜 三 郎 氏 ( 一 八 九 六 ~?) に 取 材 し て い る。 そ の際の伊藤氏の応答によると、 王治本は「支那人の服装で髪がなが」 く、 「 日 本 語 は よ く し ゃ べ ら 」 ず、 「 ち ょ っ と ま る っ こ い、 柔 和 な、 童顔」で、 丈は「たかい方」で、 「中根霞城という篆刻師がついてい」 て、 「 王 治 本 と 担 風 先 生 と 中 根 さ ん と、 よ く 三 人 で で か け て 」 い た。 聚 芳 館 の 裏 に は か つ て 大 き な 藤 棚 が あ っ た。 さ ね と う 氏 は、 王 治 本 が 詩 の 中 で「 一 架 の 紫 藤 棚 下 に 坐 れ ば、 緑 陰、 院 に 満 ち て、 夏 も 涼 を 生 ず 」 と 詠 ん で い る の が そ の 藤 だ と 書 い て い る が、 こ れ は 上 述 の 聚芳館のことを咏んだ七言絶句二首中の句であろう。 な お、 蝶 如 は、 担 風 が 交 わ っ た 中 国 人 に は、 ほ か に 阮 舜 琴 3 が い るが、 こ の 舜 琴 は、 「 き わ め て 善 い 人 柄 で あ っ た 」 と、 先 生 は 評 し て い る。 そ れ に 引 き か え、 王 漆 園 の 方 は、 「 少 し ず る く て、 舜 琴 に く ら べ る と、 人 が わ る か っ た。 」 と 評 し て い る。 ( 中 略 ) 彼 は 世 俗 の 才 も 多 分 に あ っ て、 抜 け 目 の な い 人 物 で あ っ た こ と は、 先生が少し漏している。 と回想している。 す で に 判 明 し て い る の は、 以 上 の よ う な 事 柄 で あ る。 行 方 不 明 に な っ た と さ れ る「 藍 亭 記 」 は、 実 は そ の 全 文 が 当 時 の『 扶 桑 』 に 掲 載されているので、後で紹介することにしたい。 ㈡藍亭(服部担風邸)訪問、その他 以 下、 本 項 で は 筆 者 が 発 見 し た 新 聞 資 料 等 に 基 づ き、 王 治 本 の 弥 富滞在中の活動につき、いくつかの新たな情報を提供したい。 ① 六 月 十 二 日 の『 扶 桑 』 に「 丙 午 仲 夏、 自 鶴 城 来 鯏 浦、 偕 鑑 海 吟 侶 過 訪 担 風 詞 宗、 蒙 臥 山・ 晴 濤・ 雅 堂 諸 君 亦 復 来 会、 置 酒 聯 吟、 予 拈 得 横 字 率 成 一 律、 録 請 詞 宗 敲 正、 並 似 同 吟 諸 友 」 と い う 長 い 題 を 持 つ 王 治 本 の 七 律 と、 こ れ に 対 す る 藍 亭 主 人 ( 担 風 ) の 評 が 掲 載 さ れ て い る。 題 の 大 意 は「 丙 午、 す な わ ち 明 治 三 十 九 年 の、 陽 暦 で 言 え ば 六 月 ご ろ、 鶴 城 か ら 鯏 うぐい 浦 うら に や っ て 来 て、 田 端 鑑 海 と と も に 担 風
を 訪 問 し た と こ ろ、 西 塚 臥 山・ 立 松 晴 濤 4 ・ 辻 雅 堂 の 諸 氏 も 来 合 わ せたので、 置酒して聯吟することになった。私は横の字を引き当て、 草 卒 に 一 律 を 作 っ て 」 云 々 と い う こ と で あ る。 鶴 城 は 西 尾 の こ と か と 思 わ れ る。 も っ と も、 伊 勢 の 津 か ら 尾 張 西 端 の 弥 富 を 目 指 し た 王 治本がわざわざ三河の西尾まで足を延ばした事情は不明である。 さて、詩句は次のとおりである。 藍亭可号擁書城 藍亭は擁書城 〔蔵書の豊かな所〕 と号す可し 経案琴牀左右横 経案 琴牀 左右に横たわる 凍雪枝頭工画意 凍雪枝頭 画意 工 たくみ に 落花声裡絵詩情 落花声裡 詩情を 絵 えが く 前身定是金光仏 前身は定めし是れ金光仏なりしならん 夙慧渾同玉帯生 夙 慧 渾 て 同 じ 玉 帯 生 〔 宋 の 文 天 祥 の こ と 〕 に 我亦有縁邀一識 我も亦 縁有り 邀えられて 一たび識り 佩蘭吟社結吟盟 佩蘭吟社に吟盟を結びたり 担 風 は 評 の 中 で、 華 の 字 を 引 き 当 て て 詠 ん だ 自 作、 先 韻 を 引 き 当 て た 晴 濤 の 作、 光 字 を 引 き 当 て た 雅 堂 の 作 を 紹 介 し、 「 鑑 海・ 臥 山 諸 子 」 に つ い て は「 詩 未 就、 応 期 他 日 追 録 」 と し て い る。 こ こ で は 資料の文字の鮮明な晴濤の作を引くことにしよう。 藍亭文字飲 藍亭 文字の飲 〔詩酒の会〕 歓聚玉壺前 歓び聚まる 玉壺の前 談熟披襟後 談 熟するは 襟を披く後 交深傾葢先 交わり深まるは 葢 かさ を傾くるより先 高風猶拝石 5 高風 猶お石を拝し 旧雨也参禅 旧雨 〔旧友〕 もまた禅に参ず 題壁留鴻爪 壁に題して 鴻爪を留むれば 儘堪千古伝 儘 すべ て 千古 伝うるに堪えたり 他 日 の 追 録 を 期 さ れ た 鑑 海 と 臥 山 の 作 は、 そ れ ぞ れ 六 月 十 九 日 の 『扶桑』所載の鑑海作「藍亭雅集分得文韵、 奉呈主人、 同●園 ・ 晴濤 ・ 雅 堂・ 臥 山 諸 賢 賦 」 及 び「 又 得 絶 句 二 首 」6 、 七 月 四 日 の『 扶 桑 』 所 載 の「 藍 亭 雅 集 分 得 蒸 韵 奉 呈 主 人、 同 王 園・ 鑑 海・ 晴 濤・ 雅 堂 諸 君賦」 7 が、それらであろうと思われる。 ②「 藍 亭 記 」 は 六 月 二 十 八 日 の『 扶 桑 』 に 掲 載 さ れ た。 担 風 研 究 の 資 料 と し て も 貴 重 な も の と 思 わ れ る の で、 こ こ に 全 文 を 転 載 し、 筆 者 の 解 釈 と 若 干 の 卑 見 を 添 え る こ と に し た い。 な お、 転 載 に 当 た り、適宜原文の句点の多くを読点に改め、かつ「」 ・『』を加えた。 藍亭記 漆園 王治本 〔清人〕 尾 張 詩 派、 肇 自 茉 莉 巷、 踵 而 起 者、 則 属 藍 亭、 数 十 年 間、 後 光 輝 映。 洵 可 謂 得 江 山 之 助 者 矣。 余 東 遊 卅 餘 年、 茉 莉 詩 巷、 曾 聯 吟 契、 而 藍 亭 則 未 獲 一 識 也。 頃 者 游 次 鯏 浦、 得 以 一 訪、 置 酒 論 詩、 歓 若 旧 好。 談 次、 属 余 記 其 亭。 余 諾 之、 而 未 審 其 義、 既 而 得一説焉。夫藍、 染草也。蓼藍 ・ 大藍 ・ 槐藍三者、 皆可染作澱色。 故 曰「 青 出 於 藍、 而 勝 於 藍 」。 以 藍 染 物、 一 如 以 学 染 人。 故 学 者 以 弟 勝 於 師、 亦 曰「 青 勝 於 藍 」。 余 度 藍 亭 命 意、 固 深 望 及 門 之 青 出、 而 甘 自 居 於 藍 也、 故 以 藍 名 亭 云。 居 士 曰、 「 先 生 之 論 則 善 矣。 然 要 非 吾 本 意 也。 吾 甞 閲 竹 林 詩 評 云、 『 謝 朓 詩、 如 西
山 清 暁、 霏 嵐 翕 黛 中、 時 有 爽 気 』、 心 窃 慕 之、 乃 摘 以 名 亭 」。 余 曰、 「 是 竹 林 借 山 景 以 評 詩、 居 士 即 詩 景 以 名 亭、 皆 取 喩 於 景 也。 余請即斯亭之景言之。窓臨多度之峰、 藍煙鎖樹、 村繞岐蘇之水、 藍 縐 漾 波。 宅 近 慈 藍、 時 堪 聴 講、 硯 磨 藍 石、 適 足 臨 池。 或 裁 藍 紙 以 画 梅、 或 借 精 藍 以 結 社。 祭 花 龕 外、 鋤 栽 皆 藍 玉 之 姿、 暁 雨 榭 中、 来 往 尽 藍 衫 之 客。 読 到 観 蓮 百 詠、 描 摹 藍 葉 紅 葩、 裁 成 編 景四題、 想像山藍水碧。斯亭也、 斯景也、 即景名亭、 非不妙矣。 然 此 特 一 時 之 寓 意 耳、 而 要 不 若 余 之 所 云 為 真 切 也。 試 観 茉 莉 詩 伝、 近 来 桃 李 秀 出、 多 有 勝 藍 之 誉。 倘 茉 莉 髯 翁 猶 在 当 不 以 余 言 為 謬 也 乎 」。 居 士 曰。 「 先 生 之 論、 吾 雖 不 敏、 益 当 自 勉、 幷 以 是 勉諸子。請即書此以為斯亭記」 。8 こ の 文 章 は、 担 風 が 評 の 中 で「 尺 幅 中 転 変 不 窮。 真 有 生 龍 活 虎 之 状 ( 下 略 ) 」 〔 尺 幅 の 中 転 変 し て 窮 ま ら ず。 真 に 生 龍 活 虎 の 状 有 り 〕 と 述 べ て い る よ う に、 悪 く 言 え ば、 紆 余 曲 折 が 多 く 分 か り に く い が、 大 意 を ま と め れ ば 次 の よ う に な る だ ろ う。 す な わ ち、 尾 張 詩 派 は、 森 春 濤 と そ の 一 門 か ら 始 ま り、 次 い で 起 こ っ た の が 服 部 担 風 と そ の 一 門 で、 こ れ ま で 数 十 年 間、 後 光 が さ す ほ ど に 輝 き 栄 え て き た。 ま こ と に 山 水 の 風 景 の 助 け を 得 た も の と 言 え る。 私 は 日 本 に 来 て か ら 三十餘年になり、 森春濤の一門とは漢詩の唱酬をしたことがあるが、 服 部 担 風 に は ま だ 一 面 識 も 得 て い な か っ た。 さ き ご ろ 鯏 浦 ま で 足 を 延 ば し て、 訪 問 す る 機 会 を 得 た の で、 置 酒 し て 詩 を 論 じ 合 い、 打 ち 解 け て 旧 知 の よ う な 間 柄 に な っ た 9 。 語 ら う う ち に、 担 風 か ら こ の 亭 に つ い て 記 し た 文 章 を 所 望 さ れ た。 承 諾 し た も の の、 命 名 の 意 味 ( な ぜ 藍 な の か ) が よ く 分 か ら な か っ た が、 や が て 次 の よ う な 理 由 付 けが頭に浮かんだ。 すなわち、 藍は、 染料として使う草である。 蓼藍 ・ 大 藍・ 槐 藍、 い ず れ も 藍 色 を 染 め 出 す こ と が で き る。 「 青 は 藍 よ り 出 で て、 藍 に 勝 る 」 と 言 わ れ る 所 以 で あ る。 藍 に よ り 物 を 染 め る の は、 学 に よ り 人 を 染 め る の に よ く 似 て い る。 だ か ら、 学 問 に お い て も、 弟 子 が 師 に 勝 まさ っ た 場 合、 「 青 藍 に 勝 る 」 と 言 う の だ。 こ の よ う な こ と か ら、 私 は 藍 亭 と い う 命 名 は、 担 風 が 自 分 自 身 は「 藍 」 の 位 置 に 甘 ん じ つ つ、 「 青 」、 す な わ ち 自 分 に 勝 る 弟 子 が 現 れ る こ と を 熱 望 す る 気 持 ち を 寓 し た も の で あ ろ う と 推 し 測 っ た。 す る と 担 風 が 言 う こ と に は、 「 結 構 な 論 を お 立 て に な っ た が、 煎 じ 詰 め る と 我 が 本 意 か ら 外 れ て い る。 私 は か つ て『 竹 林 詩 評 』 に『 謝 朓 の 詩 は、 西 山 の 清 暁、 霏 嵐 ママ 翕 黛 の 中、 時 に 爽 気 有 る が 如 し 』 と あ る の を 目 に し て 以 来、 こ の よ う な 風 景 に あ こ が れ る よ う に な っ た の で、 そ こ か ら 「藍」 の字を取って亭に名づけたのだ」 と。これに対し、 私はこう言っ た。 「 竹 林 が 山 の 景 色 を 借 り て 詩 を 評 し た の に 対 し、 貴 君 は 詩 の 描 き 出 す 景 色 に 即 し て 亭 に 名 づ け ら れ た と い う わ け だ。 ど ち ら も 景 色 を 喩 と し て い る。 そ れ な ら ば、 私 は こ の 亭 の 景 色 に 即 し て 言 葉 を 並 べ て み よ う。 ( 中 略 ) 以 上 の よ う に 言 葉 を 並 べ る こ と が 可 能 な の だ か ら、 景色に即して亭に名づけるのは、 もちろん結構なことではある。 し か し な が ら、 こ の よ う な 趣 旨 で の 命 名 は 一 時 の 寓 意 に 過 ぎ な い も の で、 つ ま る と こ ろ、 そ れ よ り も 私 が 先 に 述 べ た 事 柄 の 方 が、 実 が こもっていて確かである。 試みに森春濤の一門の詩集を見てみると、 近 来 優 秀 な 弟 子 が 輩 出 し て お り、 出 藍 の 誉 れ を 多 く 見 か け る。 春 濤 翁 が ご 在 世 な ら、 ま さ か 私 の 言 葉 を 誤 り と は な さ る ま い 」。 す る と、 担 風 が 言 う こ と に は、 「 私 は 不 敏 で は あ る が、 先 生 の お 言 葉 を も と に 益 々 自 ら 勉 め、 同 時 に 先 生 の お 言 葉 で 弟 子 た ち を 励 ま す こ と に し
た い。 で は、 早 速 そ の よ う な 趣 旨 の こ と を 書 き 記 し て、 こ の 亭 の 記 としてください」と。 以 上 の 筆 写 の 解 釈 に 大 過 な し と す れ ば、 王 治 本 は「 藍 亭 」 に 新 た な 意 味 を 込 め 直 す こ と に よ り、 尾 張 詩 派 の 先 輩 格 で あ る 森 春 濤 の 一 門 に 負 け ぬ 一 派 を 維 持・ 発 展 さ せ て い っ て ほ し い と い う 期 待 を 表 明 したものであると言うことができるだろう 10。 ③ 次 に、 六 月 十 八 日 と 翌 十 九 日 の『 扶 桑 』 所 載 の、 担 風 と 王 治 本 二 人 の「 古 園 」 訪 問 の 際 の 作 に つ い て 述 べ る こ と に し よ う。 十 八 日 所 載 の も の は、 王 の「 訪 古 園 坐 間 藍 亭 居 士 有 詩、 次 韵 請 政 」 と 題 し、 「 古 即 徳 川 源 戴 公 手 栽 」 と い う 自 注 の 附 さ れ た 七 絶 と、 こ れに対する担風の、 丙 午 六 月 十 三 日 陪 王 漆 園 先 生 過 訪 古 園。 席 間 予 賦 一 詩、 曰、 「 奕 葉 門 望 継 祖 先、 前 藩 事 蹟 至 今 伝。 手 栽 別 有 将 軍 樹、 蓊 鬱 清 陰 二 百 年 」。 而 先 生 高 和 立 就。 植 旨 渾 厚、 雅 興 11園 主 家 風 相 称、 但 予 原 唱、 蕪 雑 倍 常、 慚 甚 慚 甚。 〔 丙 午 六 月 十 三 日 王 漆 園 先 生 に 陪 し 古 園 を 過 訪 す。 席 間 予 一 詩 を 賦 し て 曰 く、 「 奕 葉 門 望 祖 先を継ぎ、 前藩の事蹟 今に至るまで伝わる。手栽 別に将軍の樹有り、 蓊 鬱 た る 清 陰 二 百 年 」 と。 而 し て 先 生 の 高 和 立 ち ど こ ろ に 就 る。 植 旨 渾 厚、 雅 興 園 主 の 家 風 相 称 う。 但 だ 予 の 原 唱 は、 蕪 雑 な る こ と 常 に倍し、慚ずること甚だし、慚ずること甚だし。 〕 と い う 識 語 で あ る。 徳 川 源 戴 公 と は、 賢 隆 院 恩 誉 慈 性 源 戴 大 居 士 と いう戒名を与えられた、 尾張徳川家の第八代藩主、 徳川宗勝 (一七〇五 ~六一) のことである。 実 は マ イ ク ロ フ ィ ル ム 資 料 の「 」 の 字 の 部 分 が 不 鮮 明 だ っ た た め、 愛知県図書館のサービス課に調査を依頼したところ、 同課人文 ・ 地 域 グ ル ー プ の 荻 田 氏 が、 「 椎 」 の 異 体 字 で あ る、 こ の 字 と 推 定 し て く だ さ り、 加 え て 関 連 資 料 も 教 示 し て く だ さ っ た。 そ の 資 料 に よ る と、 藍 亭 か ら や や 離 れ て は い る が、 同 じ 弥 富 市 内 の 荷 之 上 字 石 仏 に あ り、 一 九 七 四 年 に 重 要 文 化 財 に 指 定 さ れ た 服 部 家 住 宅 の「 庭 に あ る 古 株 は、 宗 勝 公、 幼 少 の 時 の お 手 植 の 椎 と 伝 え て い る 」 と い う 12。 ま た、 同 じ く 荻 田 氏 に 教 示 し て い た だ い た 岡 田 啓・ 野 口 道 直 撰『 尾 張 名 所 図 会 』 前 編 巻 七「 赤 星 名 神 社 」 の 条 13の 記 載 に よ る と、 服 部 家 は「 故 あ る 旧 家 に し て、 毎 年 六 月 の 祭 事 を つ か さ ど 」 っ て い た と さ れ、 そ の 祭 事 と は「 六 月 朔 つい 日 たち 、 市 いち 腋 え 輪 中 の う ち、 祭 に 出 づ る 者 参 詣 し、 同 おなじき 七 日 に 人 形 を 作 り、 ( 中 略 ) 車 だん 楽 じり に 乗 る 児 ちご ・ 笛・ 太 鼓、 及 び 囃 子 の 稽 古 を な す。 同 十 四 日 午 うまのこく 刻 、 当 社 へ 打 寄 り、 試 し 楽 がく あ り。 こ の 日 児 ど も へ、 柏 の 葉 に 肴 を 盛 り て 飯 を 出 す 」 と い う よ う な も の で あ っ た と さ れ て い る。 『 尾 張 名 所 図 会 』 は、 明 治 三 十 九 年 か ら 七 十 年 近 く 前 の 天 保 九 ( 一 八 三 八 ) 年 か ら 約 三 年 を か け て 執 筆 さ れ た も の で あ る が、 担 風 が 六 月 十 三 日 に 王 治 本 を 服 部 家 住 宅 へ 案 内 し た の は、 当 時 な お こ の 祭 事 が、 陰・ 陽 暦 の 違 い が あ る と は い え、 六月の同じ期間に何らかの形で行われていたからかもしれない 14。 六月十九日の『扶桑』所載の担風の作も挙げておこう。 古 園席上観来国光所造宝刀、率賦呈主人公 担風 服部轍 君家宝剣勝 于 ママ 将 君が家の宝剣は于 15将に勝る 鍛者其誰来国光 鍛えし者は其れ誰ぞ 来国光 〔鎌倉末期から
南北朝にかけての刀工〕 なり 有客脱 鞴 ママ 揮作勢 客 の 鞴 さや よ り 脱 し て 揮 い て 勢 を 作 す も の 有 り 15 坐中六月凛吹霜 坐中 六月 凛として霜を吹く 刀を鞘から抜いて、さっと振ってみせたのは王治本だったか。 ㈢佩蘭吟社六月例会 以 下、 王 治 本 の 弥 富 到 着 後 の そ の 他 の 活 動 の 様 子 を 描 き 出 し て み ることにしたい。 ① 聯 句 ま ず、 六 月 二 十 日 の『 伊 勢 』 の「 佩 蘭 雅 集 」 と い う 見 出 しを持つ記事を引用することにしよう。 去 る 十 七 日 佩 蘭 吟 社 月 つきなみ 次 例 集 を 九 華 阿 誰 児 楼 に 開 く 此 日 尾 張 弥 富 駅 聚 芳 館 留 滞 中 の 清 国 老 儒 王 漆 園 翁 も 亦 臨 筵 し 来 会 の 同 人 十 二 名 の 多 き に 及 ぶ 席 上 例 に 依 り 服 部 担 風 氏 の 清 廾 四 家 中 の 銭 蒙 叟「 席 間 観 李 素 心 孫 七 歳 童 子 草 書 歌 うた 」 の 七 古 一 篇 を 講 せ ら る 次 で 聯 句 及 分 韻 等 あ り 詩 徴 酒 逐 興 極 め て 王 さかん な り き 今 栢 梁 体 の 聯 句を左に録す 17。 こ の 六 月 十 七 日 の 例 集 で で き あ が っ た 聯 句 は 次 の よ う な も の で あった。 江湖不道知音希 江湖 道 た えず 知音 希なるに 服部担風 誰児楼頭謝塵機 誰児楼頭 塵機 〔俗縁〕 を謝す 三枝此君 夏木千章四合囲 18 夏木 千章 四合囲 山田朶雲 翠嵐颯与白雲飛 翠嵐 颯として白雲と飛ぶ 明野唫雨 廟前来敲酒家扉 廟前 来り敲く 酒家の扉 辻 雅堂 簾波畳風涼滴衣 簾波 〔簾の影の揺らめき〕 畳風 涼 衣に滴る 西田耕雨 此酬知涙為誰揮 此の酬い 知るや 涙 誰が為に揮うかを 立松晴濤 衝吻新詩祇珠璣 吻を衝く新詩 祇 まさ に珠璣 田端鑑海 佩蘭践約人不違 蘭を佩び 約を践みて 人 違わず 西塚臥山 子規叫●吾未帰 19 西田香訥 寧波詩客其吟幃 寧波の詩客 其れ幃 〔香袋〕 を吟ぜよ 平野鯨山 長亭亭外柳依依 長亭 亭外 柳 依依たり 王 漆園 こ の 聯 句 を 構 成 し た の は、 み な 佩 蘭 吟 社 の 社 友 と い う こ と に な る わ け だ が、 こ こ で 新 た に 出 て き た 人 物 に つ い て 紹 介 し よ う。 山 田 朶 雲 (?~ 一 九 四 四 ) は、 担 風 が 講 師 ま た は 顧 問 を 務 め て い た 名 古 屋 の
含 笑 吟 社 の『 含 笑 吟 社 同 人 集 乙 丑 』 ( 一 九 二 五 年 ) に「 朶 雲 山 田 政 次 郎 」 と あ り、 『 含 笑 吟 社 同 人 集 甲 子 』 ( 一 九 二 四 年 ) の「 含 笑 吟社列名」では、 その住所が「尾張国中島郡平和村」となっている。 尾 張 平 和 は 現 在 の 一 宮 市 か。 『 担 風 詩 集 』 巻 七 所 収 の 昭 和 十 九 年 の 作に 「挽山田朶雲 〔三月二日〕 」と題するものがあり、 「禅榻同参旬日前、 詎期弾指隔重泉。師生旧誼誰相似、 詩酒追随五十年」と詠まれ、 「朶 雲 問 詩 於 予、 幾 乎 五 十 年 矣 」 と の 注 が 付 け て あ る 20か ら、 こ れ に よ り そ の 没 年 が 知 ら れ る と と も に、 長 く 担 風 に 師 事 し た 人 で あ っ た こ と が 分 か る。 西 田 耕 雨 は『 大 正 三 重 雅 人 史 』 で 桑 名 郡 の 人 物 と さ れ ている (十二頁) 。三十九年九月十七日の 『扶桑』 に「耕雨 西田源蔵」 として、 その作品が載る人物かもしれない 21。平野鯨山 (一八五三? ~ 一 九 一 一 ) は、 「 名 は 直 賢 」、 「 嘉 永 十 ママ 六 年 十 月 十 五 日 を 以 て、 多 度 神 社 祠 官 の 家 に 生 」 ま れ、 「 明 治 六 年 初 め て 神 職 に 就 き し よ り、 仝 四 十 四 年 易 簀 に 至 る ま で、 殆 ん ど 四 十 年 の 久 し き、 専 心 其 の 職 を 奉 じ、 県 下 神 職 の 長 老 と し て 称 せ ら 」 れ た。 「 殊 に 文 事 を 嗜 み 」、 「 詩 を 森 槐 南・ 岩 渓 裳 川・ 服 部 担 風 に 訂 し、 甞 て 桑 北 吟 社 を 起 し て、 其 の 牛 耳 を 執 」 っ た と い う 22。 西 田 香 訥 は、 『 扶 桑 』 三 十 九 年 九 月 十 七 日 に「 香 汭 西 田 平 蔵 」 と し て 作 品 が 載 っ て い る 人 物 か も し れ ない。三枝此君は不明。 ② 散 会 後、 聚 芳 館 で の 分 韻 の 作 例 会 が お 開 き に な っ た 後、 王・ 担 風・ 鑑 海・ 晴 濤 の 四 人 は 弥 富 に 引 き 返 し、 鶯 歌 蝶 舞 楼 ( 王 治 本 が 宿 泊 し て い た 聚 芳 館 を こ う 称 し た と 考 え ら れ る ) で、 「 打 ち 上 げ 慰 労 会 」 の よ う な も の を 催 し た。 そ の と き 詠 ま れ た 諸 作 品 が『 扶 桑 』 と『 伊 勢 』 に 掲 載 さ れ て い る が、 そ れ ら を 整 理 す る と、 二 つ の タ イ プ に 分 け ら れ る。 一 つ は「 鶯 歌 蝶 舞 」 の 四 字 中 の 一 字 を 韻 字 と す る 長 編 の 作、 も う 一 つ は こ の 四 字 の 各 一 字 を 韻 字 と す る 香 奩 体 の 七 絶 四 首 で ある。それらの作品群のうちのいくつかを紹介しよう。 ま ず、 六 月 二 十 四 日 の『 扶 桑 』 と 六 月 二 十 五 日 の『 伊 勢 』 所 載 の 前 者 の タ イ プ の 王 治 本 の 作 で あ る。 『 扶 桑 』 に よ っ て 示 し、 異 同 の ある個所は注記することにする。 鶯歌蝶舞楼酒間分韻得蝶、走筆成十七韻、与藍亭・鑑海・ 晴濤諸君同賦 王漆園 蘭盟約期訂会集 蘭盟 期を約して 会集を訂び 暁来便着遊山屣 暁来 〔明け方〕 便ち着く 遊山屣 三五良朋導我行 三五の良朋 我を導きて行かしめ 携手同登愛宕峡 手を携えて同に登る 愛宕峡 愛宕峡上我曾来 愛宕峡上 我 曾て来りぬ 呑景楼前樹 匼 匝 呑景楼前 樹 匼 あんそ う 匝 〔重なりめぐる様〕 たり 佩蘭社友十餘人 佩蘭社友 十餘人 翩翩裙屐皆詩俠 翩翩たる裙屐 皆 詩俠 蘭亭雅集有少年 蘭亭の雅集に少年有り 蓮社聯盟属老衲 蓮社の聯盟は老衲なり 此会執耳推藍亭 此の会 耳を執るは 藍亭を推す 倚馬萬言才敏捷 馬に倚りて萬言 〔たちどころに文章を作る〕 才 敏捷なり 開巻説詩既諄詳 巻を開きて詩を説く 既に諄詳 執筆評句亦工洽 筆を執りて句を評するも 亦 工洽 嗟我老去筆無花 ああ我は老い去りて 筆に花無く 覓句閒憑画欄立 句を覓めて閒に画欄に憑りて立てり
白戦酣時寸鉄無 白戦 酣なる時 寸鉄も無く 再接再属相酬答 再接 再属 相酬答す 酒闌日暮同帰来 酒 闌 な る う ち 日 暮 れ て 同 に 帰 り 来 り 復向旅亭呼肴 榼 復た旅亭に 向 おい て 肴 榼 を呼ぶ 傾倒蒲萄酒一瓶 傾倒 〔傾ける〕 す 蒲萄酒一瓶 紅暈纔退復添頰 紅暈 纔かに退くや 復た頰に添う 諸君情興太清狂 諸君 情興 太だ清狂に 重振旗皷焼紅蠟 重ねて旗皷を振い 紅蠟を焼く 我興亦豪未肯降 23 我も興 亦 豪にして 未だ降るを肯ぜず 撿取険韻韻重畳 険韻を撿び取りて 韻 重ねて 畳 かさ ぬ 率爾写出一長篇 率爾として写き出だす 一長篇 不難排盪難妥貼 排盪 〔排除〕 し難からず 妥貼し難し 闘険窃願効昌黎 険を闘わす 〔険韻を競う〕 窃かに願わくは 昌黎 〔韓愈のこと〕 に効わんことを 雕績総覚 媿 劉勰 雕績 総 つい に覚ゆ 劉勰 〔『文心雕龍』の著者〕 に 媿 ずるを 酔中得句不自知 酔中 句を得たるも 自らは知らず 醺醺一夢化荘蝶 醺醺たる一夢 荘蝶 〔幻〕 に化す 次 に 六 月 二 十 五 日 の『 扶 桑 』 と 七 月 七 日 の『 伊 勢 』 所 載 の 同 タ イ プの担風の作を挙げよう。 聚芳館酒間分得舞字走筆賦二十四韻、呈王漆園先生請政、 併似鑑海・晴濤二子 担風 服部轍 (中略) 誰児楼在城山巓 誰児楼は 城山の巓に在り 風光冲澹近端午 風光 冲澹にして 端午 〔陽暦では六月 二十六日〕 に近し 鳥巾白袷人十餘 鳥巾 白袷 人 十餘 孰是賓客孰是主 孰か是れ賓客にして 孰か是れ主ならん 推襟送抱偕聯歓 襟 を 推 し 抱 を 送 り 〔 誠 意 を も っ て 相 手 に 接 す る 〕 て 偕に聯歓す 把臂不問旧今雨 臂を把り 〔手に手を取る〕 て 問わず 旧今 雨 〔交友の新旧〕 漆園先生今碩儒 漆園先生は今の碩儒 騒●斉仰霊光魯 24 騒● 斉しく仰ぐ 霊光魯 恵然命駕臨此筵 恵然として駕を命じて 此の筵に臨む 儼似山斗横天宇 儼も似たり 山斗の天宇に横たわるに 情深醞醸気吹蘭 情深く 醞醸して 気 蘭を吹き 如僊鬚眉自清古 僊の如き鬚眉 自ら清古なり 玉 斝 在手笑且談 玉 斝 〔酒杯〕 手に在り 笑い且つ談じ 不嫌我徒臭猶乳 嫌わず 我が徒の臭い猶お乳くさきを 劈牋 䰗 韻総従容 牋を劈き 韻を 䰗 る 総て従容たり 親炙誰不傾肺腑 親炙せば 誰か肺腑を傾けざらん 萬言咳唾咸瓊瑤 萬言の咳唾 咸 瓊瑤 臨風高唱朗音吐 風に臨みて高唱すれば 音吐 朗 あき らかなり 七歩八叉宛良儔 七歩八叉 〔詩才に恵まれた人〕 も 宛も良儔 のごとく 読者怦怦快先睹 25 読む者 怦怦 〔ドキドキ〕 として 快 と く先ず 睹る
酒酣興王日既晡 酒 酣に 興 王 さかん にして 日既に晡れたり 松雲入座衣袂凉 松雲 座に入りて 衣袂 凉しく 帆影杳渺七里浦 帆 影 杳 渺 た り 七 里 浦 〔 桑 名 の 七 里 渡 の こ と 〕 挙目江山信美哉 目を挙ぐれば 江山 信に美しきかな 先生遮莫感非土 先生 土 〔古里〕 に非ずと感ずるなかれ 枉約後会促帰轅 枉げて後会を約して帰轅を促し 颷 車一輾水之滸 颷 車 〔 風 に 乗 っ て 進 む 伝 説 上 の 神 車 〕 一 た び 輾 めぐ る 水の滸 〔弥富のことか〕 聚芳館裡又倒樽 聚芳館裡 又 樽を 倒 かたむ く 餘豪不似穿縞弩 餘豪 縞を穿つ弩にも似ず 筆陣酒軍勢重張 筆陣 酒軍 勢い重ねて張れば 香魚斫鱠銀絲縷 香魚 斫鱠 銀絲縷 松生田子迭闘才 松生 〔立松〕 田子 〔田端〕 迭に才を 闘 きそ う 詞藻流麗追徐庾 詞藻 流麗にして 徐庾 〔南朝陳の徐陵と北 周の庾信〕 を追う 先生文章世所無 先生の文章は世に無き所 酔中也按倚声譜 酔中にてもまた倚声譜に 按 よ る (中略) 人生七十今殊稀 人生 七十 今 殊に稀なり 况乃風範継李杜 况や乃ち風範 李杜を継ぐをや 慚吾腹笥 枵 然虚 慚ず 吾が腹笥 26 枵 然として虚しく 有時雷鳴終瓦釜 雷鳴する時有るも 終に瓦釜なるを 27 (下略) 鑑 海 に も 七 月 二 十 一 日 の『 扶 桑 』 と 同 月 二 十 四 日 の『 伊 勢 』 所 載 の 同 タ イ プ の 作 ―「 聚 芳 館 雅 集 分 得 歌 字、 賦 長 篇 奉 呈 漆 園・ 担 風・ 晴濤諸家」―があるが、省略することにする。 次 に 六 月 二 十 六 日 の『 扶 桑 』 所 載 の 担 風 の 後 者 の タ イ プ の 作 を 挙 げよう。 用鶯歌蝶舞四字為韵、限香奩体 藍亭 服部轍 驚鴻昨夜記軽盈 驚鴻 〔美人〕 昨夜 記 き す 軽盈〔 すんなり して軽やか〕 なりしを 紅豆拈来空復情 紅豆 〔相思樹の実〕 拈み来るも 空しく情を 復するのみ 最叵平分唯恨字 最も平分し 叵 がた きは 唯 恨の字 同憐燕燕与鶯鶯 同に憐れまん 燕燕と鶯鶯と 不耐水天閒話多 耐えず 水天 閒話 多きに 花明玉艶奈儂何 花のごと明らかに 玉のごと 艶 なまめか しき 儂を 奈何せん 黄河遠上君休説 黄河 遠く上る 君 説く休かれ 買断旗亭画壁歌 旗亭 壁に画 〔印をつける〕 する歌を買断 〔独占〕 せしを 豪懐不 减 黄衫俠 豪懐 减 ぜず 黄衫の俠に 被酒焼残幾枝蠟 酒に 被 あた り 焼残せる 幾枝の蠟か 画到梅花憶淡粧 画きて梅花に到れば 淡粧を憶う 夢魂欲駕羅浮蝶 夢魂 駕せんと欲す 羅浮の蝶
綺夢重尋軟香土 綺夢 重ねて尋ぬ 軟香土 傷心又記江南路 傷心 又 記 き す 江南の路 笑吾匹似趙雪 28崧 笑う 吾 趙雪崧のごとく 過少年時買歌舞 少年を過ごせる時 歌舞を買いしを 第 一 首 の「 燕 燕 鶯 鶯 」 は、 『 漢 語 大 詞 典 』 で「 比 喩 嬌 妻 美 妾 或 年 軽 女 子 」 と 釈 さ れ て い る 言 葉 で あ る 29が、 こ の 詩 に は「 年 軽 女 子 」 〔 若 い 女 性 〕 の 意 味 が 当 て は ま る だ ろ う。 第 二 首 の 起 句 は 李 商 隠 の 詩 題「 水 天 閑 話 旧 事 」 を 踏 ま え て い る。 難 解 な 李 商 隠 の 詩 で あ る か ら、 こ れ を 担 風 が ど の よ う に 解 釈 し て い た か は 不 明 で あ る が、 艶 情 を 述 べ た 詩 と 解 し て い た こ と は、 た ぶ ん 間 違 い な い だ ろ う 30。 同 じ く 第 二 首 の 後 半 は、 唐 の 薛 用 弱 の『 集 異 記 』 所 載 の い わ ゆ る「 旗 亭 画 壁 」 の 故 事 31を 踏 ま え る。 第 三 首 の「 黄 衫 俠 」 は、 唐 の 蔣 防 の 伝 奇 小 説「 霍 小 玉 伝 」 で 無 理 や り 李 益 と 霍 小 玉 と を 再 び 引 き 合 わ せ よ うとした 「黄衫丈夫」 を指しているだろう。同じく第三首の転句は、 「 南 朝 宋 の 寿 陽 公 主 が 人 日 ( 陰 暦 正 月 七 日 ) 、 含 章 殿 の 檐 下 で 横 に な っ ていたところ、 梅の花がその額に落ちて、 花弁が五枚の花となった。 以 後、 額 に 梅 花 を 貼 る 梅 花 粧 が 流 行 し た 」 と い う 故 事( 『 太 平 御 覧 』 巻九七〇所引 『宋書』 ) を踏まえている。同じく結句は、 隋の開皇年間、 羅 浮 に 遣 わ さ れ た 趙 師 雄 が 仙 女 に 出 会 っ た が、 夢 か ら 覚 め る と 大 き な梅の木の下で寝ていただけだったという故事 (旧題柳宗元 『龍城録』 ) を踏まえているようである。第四首起句の 「軟香土」 は、 蘇軾が使っ た「 軟 紅 香 土 」 ( 都 市 の 繁 華 の 形 容 ) の 語 32を 縮 め た も の と 見 ら れ る。 第 四 首 の 承 句 は、 宋 の 姚 寛 の「 夢 中 不 記 江 南 路、 玉 釵 翠 鬢 驚 春 去 」 で始まる詞 「菩薩蛮」 を踏まえているように思われる。第四首には、 担 風 の「 趙 甌 北 詩 云 博 得 黄 金 買 歌 舞 可 憐 己 ママ 過 少 年 時 〔 黄 金 を 博 し て 歌 舞 を 買 う も、 憐 れ む 可 し 己 すで に 少 年 の 時 を 過 ぎ た り 〕 」 33と の 自 注 が 付 さ れ て い る が、 こ れ は 後 半 の 詩 意 の 説 明 の た め で あ る。 以 上、 各 首 の 中 の 意 味 の 脈 絡 は 如 何 と な れ ば、 不 分 明 と 言 わ ざ る を 得 な い 面 も あ る も の の、 香 奩 体 と い う 制 約 に ぴ っ た り と か な っ た 詩 語・ 詩 想 を 密 に ちりばめたその技量は、見事と言うしかない。 次 に 七 月 二 十 六 日 の『 伊 勢 』 所 載 の 晴 濤 の 後 者 の タ イ プ の 作 を 挙 げよう。 聚芳館題壁以鶯歌蝶舞四字為韻礎、同漆園・担風・鑑海諸 先輩賦、限香奩体 晴濤 立松英 酒如潮処気横生 酒 潮の如き処 気 横生し 豪竹哀絲聊復情 豪竹 〔悲しげな糸の音〕 哀絲 〔大きな笛〕 聊か情を復す 舞態驚鴻粧堕馬 舞態 驚鴻 堕馬 〔女性の髻が一方に偏った 髪型〕 を粧い 珠喉一串抵歌鶯 珠喉 一串 歌鶯に抵る 薄命休言不如妾 薄命 言う休かれ 妾に如かずと 流鶯誤触美人箑 流鶯 誤りて触る 美人の 箑 おうぎ 可憐燈火損飛蛾 憐れむ可し 燈火 飛蛾を損ずるを 賸有蛛絲縛狂蝶 賸お蛛絲の狂蝶を縛る有り こ れ に は 玉 山 堂 主 人 ( 田 端 鑑 海 ) が 評 を 付 し、 そ の 中 で 同 タ イ プ の 自 作 を 披 露 し て も い る が、 省 略 す る。 ま た、 王 治 本 に も 六 月
二 十 九 日 の『 扶 桑 』 所 載 の「 鶯 歌 蝶 舞 四 字、 限 香 奩 体、 毎 字 一 首、 同藍亭居士賦」と題する同タイプの作があるが、省略する。 七 月 四 日 の『 扶 桑 』 に「 丙 午 古 端 陽 節 聚 舘 マ 芳 マ 席 上 聯 句 」 と 題 す る 藍 亭・ 漆 園 の 聯 句 が 掲 載 さ れ て い る。 明 治 丙 午 年 の 端 陽 節 は 陽 暦 の 六 月 二 十 六 日 に 当 た る。 少 な く と も こ の 時 ま で は 王 治 本 が 弥 富 に い たことが知られる。 六、越前滞在中の事ども そ の 後、 王 治 本 は 越 前 福 井 へ 赴 い た。 そ の 時 期 は、 後 述 の 王 が 福 井 か ら 西 湖 女 史 に 送 っ た と 見 ら れ る 作 品 が 七 月 十 二 日 の『 扶 桑 』 に 掲 載 さ れ て い る こ と か ら し て、 古 端 陽 節 直 後、 六 月 末 か ら 七 月 初 め にかけてであっただろうと思われる。 福 井 へ 赴 く 王 治 本 を 送 別 す る 担 風 の 次 の よ う な 作 が、 八 月 二 日 の 『伊勢』文苑に載っている (『扶桑』も同日) 。 送王漆園翁赴福井二首 担風 服部轍 有縁重訂佩蘭盟 縁有りて 重ねて訂ぶ 佩蘭の盟 杜宇啼時又餞行 杜宇 〔ホトトギス〕 啼く時 又 行を餞す (四句省略) 恰好憑君労寄語 恰も好し 君に憑みて 語を寄するを労せ しめん 蘋園太守旧知名 蘋園太守は 旧 知名 夜闌飲別旧詞盟 夜 闌にして 飲して別る 旧詞盟 不碍離歌一再行 碍げず 離歌 一再 行わるるを 釧動花飛留話柄 釧 動き 花 飛ぶを 話柄に留め 珠光剣気入心声 珠光 剣気 心声に入る 何時風雨重聯榻 何れの時か 風雨 重ねて榻を聯ねん 明日関河先計程 明日 関河 先ず程を計れ 聞説福城煙月好 聞 きくなら 説く 福城は 煙月 好しと 筝楼笛榭遍題名 34 筝楼 笛榭 遍く名を題せよ 第 一 首 末 句 の「 蘋 園 」 と は、 当 時 福 井 県 知 事 を 務 め て い た 阪 本 釧 之 助 ( 一 八 五 七 ~ 一 九 三 六 ) の 号 で あ る ( 別 号 三 橋 ) 。 蘋 園 は 尾 張 藩 士 永 井 匡 威 の 三 男 で、 王 治 本 が 親 し く し て い た 永 井 禾 原 ( 一 八 五 二 ~ 一 九 一 三 ) の 実 弟 で あ る。 第 二 首 の 頷 聯 は 銭 謙 益 の「 金 陵 雑 題 絶 句 二 十 五 首 継 乙 未 春 留 題 之 作 」 其 の 三 の「 釧 動 花 飛 戒 未 賖 」 の 句 と、 呉嵩梁 (号蘭雪。一七六六~一八三四) の 『香蘇館詩集』 に対する洪亮 吉 (字稚存。一七四六~一八〇九) の評跋の「詩必有珠光剣気、 始信其 不可磨滅。蘭雪詩珠光七分、 剣気三分 (下略) 〔詩は必ず珠光剣気有りて、 始 め て 磨 滅 す 可 か ら ざ る を 信 ず。 蘭 雪 の 詩 は 珠 光 七 分、 剣 気 三 分 〕 」 の 一 節 を 踏 ま え て い る だ ろ う。 こ の よ う な 詩 論 が 二 人 の 話 題 に な っ て い た ことを反映した表現と見ていいだろう 35。 こ れ ら 二 首 の 後 に、 『 扶 桑 』 で は 評 者「 蓮 舫 主 人 」 36が 次 の よ う な 王治本の「和作」を「併録」している。 越北雲山訪旧盟 越北の雲山 旧盟を訪ねんとし 春風有約已遅行 春風 約有りしも 已に行に遅れたり 秖 憐萍水空留迹 秖 憐れむ 萍水 空しく迹を留むるを 却喜梅霖乍断声 却って喜ぶ 梅霖 乍ち声を断つを
鯏浦愁添三歳感 鯏浦 愁い 添えたり 三歳の感 駅車電逐一朝程 駅車 電のごと逐う 一朝の程 天涯飄泊成何事 天涯 飄泊して何事をか成せる 詩酒塲中浪得名 詩酒塲中 浪 いたず らに名を得たるのみ 最難消遣是詩盟 最も消遣し難きは是れ詩盟 〔詩人の盟会〕 一曲陽関賦短行 一曲の陽関 短行 〔短篇の詩文〕 を賦す 裊繞多情唯柳色 裊繞として情多きは 唯 柳色 纏綿不断有琴声 纏綿として断たざるは 琴声有り 空中樹影連燈影 空中の樹影 燈影に連なる 此去山程又水程 此れより山程 又 水程 試問尊前歌舞女 試みに問わん 尊前 歌舞する女 紅箋我欲記花名 紅箋 我 花名 〔いわゆる源氏名〕 を記せん と欲す 同 日 の『 扶 桑 』 に は、 右 の 第 一 首 に 再 度 畳 韻 し た 王 治 本 の 次 の よ うな作も掲載されている。 再畳盟韻、録請藍亭居士敲正、 幷 似鑑海・晴濤二吟友 漆園 王治本 〔在福井〕 多情自古属吟盟 多情は古より吟盟に属す 高唱踏歌送我行 高唱 踏歌して 我が行くを送る (中略) 凝眸越嶺雲千畳 眸 を 凝 ら せ ば 越 嶺 〔 越 前 の 山 々 〕 雲 千 畳 回首蘇川路幾程 首を回らせば 蘇川 〔木曾川〕 路 幾程 昨夜飛魂相把晤 昨 夜 飛 魂 相 把 晤 〔 顔 を 合 わ せ 握 手 す る 〕 し 与君携手訪天名 君と手を携え 天名を訪ねたり こ の 詩 に 王 治 本 は「 昨 夜 夢 中、 与 君 同 訪 鑑 海、 未 知 君 亦 同 夢 否、 天 名 村 名 」 と の 自 注 を 付 し て い る。 数 か 月 前、 鑑 海 の 山 房 を 訪 問 し た時のこと 37を思い出しているのである。 七 月 二 十 三 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に は 西 湖 女 史 の「 寄 懐 王 漆 園 先 生 二 首」が、 また、 二十七日には、 これに次韻した晴濤の「用漆園先生 ・ 西 湖 内 子 子 ママ 唱 和 韻、 寄 懐 王 先 生 在 福 井、 幷 兼 送 別 意 」 が、 そ れ ぞ れ 掲 載 さ れ て い る。 こ の 二 つ の 詩 題 を 突 き 合 わ せ れ ば、 西 湖 女 史 は 晴 濤 の 妻 で あ っ た こ と が 分 か る が、 さ ら に 七 月 三 十 日 の 同 紙「 文 苑 」 所載の彼女の作に 「寄懐担風家兄」 と題するものがあることにより、 彼女がまた担風の妹でもあったことが知られる 38。 ここで、西湖女史の作の第二首を引いておくことにしよう。 寄懐王漆園先生二首 (其の二) 西湖女史 倦繡時憑榻 繡に倦む時 榻に憑れば 緑陰凉満庭 緑陰 凉 庭に満つ 看松想高格 松を看て 高格 〔高い人格〕 を想い 対鶴憶遐齢 鶴に対して 遐齢 〔高齢〕 を憶う 山影簾前落 山影 簾前に落ち 泉声枕上聴 泉声 枕上に聴く 凝眸雲樹杳 眸を凝らせば 雲樹 杳かに 詩夢到旗亭 詩夢 旗亭に到る
第 一 首 は「 知、 随、 枝、 思、 移 」 を 韻 字 と す る 作 で あ る が、 こ れ に 次 韻 し た「 西 湖 女 史 為 藍 亭 居 士 令 妹、 晴 濤 詞 契 淑 配 也、 昨 由 藍 亭 居士簡示贈詩一律、 披誦再四、 覚半神秀逸、 洵不 减 班姫団扇詠 39也、 次 韵 奉 答、 録 博 女 史 一 粲、 幷 似 晴 濤 詞 契 」 と 題 す る 王 治 本 の 作 品 が 七月十二日の『扶桑』に載っている。 と こ ろ で、 王 治 本 が 福 井 へ 行 っ た 目 的 は 何 だ っ た の か と い う こ と になるが、 それを考えるうえで手掛かりになりそうなものの一つは、 上 引 の 担 風 の 送 別 詩 に 対 す る 彼 の 和 作 第 一 首 の 首 聯 の 詩 句 で あ ろ う。 す な わ ち、 「 越 北 」 の「 旧 盟 」 を 春 の う ち に 訪 れ る 約 束 を し て い た の で あ る。 実 は 彼 は 前 三 十 八 年 の 十 二 月 に も、 当 時 滞 在 中 だ っ た 金 沢 を 離 れ、 福 井 を 訪 れ て い る 40。 こ の 時 の 彼 の 福 井 滞 在 中 の 活 動 を 窺 う こ と の で き る 資 料 と し て 筆 者 が 入 手 し て い る も の は 二 種 だ け で、 そ の 一 つ は、 福 井 県 立 図 書 館 所 蔵 の 山 本 小 坡 ( 翼 ) な る 人 物 の『 小 坡 唫 稿 』 と 題 さ れ た 詩 の 稿 本 で あ る。 こ の 稿 本 に 小 坡 が 三 秀 園 (福井藩家老邸宅跡) などで王治本 ・ 阪本蘋園 ・ 土 は 生 ぶ 笙東 (一八六四 ~一九四三) らと唱和した作品が記されている。土生は、 彰がその名、 福 井 新 聞 主 筆 を 務 め て い た 人 物 で あ る。 王 治 本 の 約 束 と は、 越 前 在 住のこれらの人たちとの約束であっただろうか。 も う 一 つ の 資 料 は、 東 京 市 麴 町 区 下 二 番 町 四 十 六 番 地 土 肥 方 を 連 絡 先 ま た は 本 部 と す る 武 生 郷 友 会 所 発 行 の『 武 生 郷 友 会 誌 』 41第 弐 拾 七 号 ( 三 十 九 年 十 二 月 ) に 収 載 さ れ て い る 松 村 半 川 の『 丙 午 前 集 』 で あ る。 そ の 中 に、 王 治 本 と の 交 流 の 跡 を 示 す 作 品 ― 七 絶「 丙 午 盛 暑訪 園王治本先生于古名荘旅舘、 席上次笙東詩臺顔 42」、 七律「 園 王 治 本 先 生 見 寄、 次 韻 却 呈 」、 七 絶「 寄 懐 園 王 治 本 先 生 在 横 濱、 併 謝 来 遊 中 不 興、 用 三 峰 閣 詩 韻 」 ― が あ る。 同 誌 巻 末 の 会 員 名 簿 に よ る と、 松 村 半 川 ( 一 八 六 一 ~?) は 茂 隆 が そ の 名 で、 「 武 生 町 医 」。 三 十 六 年 三 月 発 行 の『 百 花 欄 』 三 集 に そ の 作 が 載 り、 巻 末 の「 作 家 姓 氏 」 に「 半 川 散 史 松 村 茂 隆 号 清 廉 居 士 木 公 楼 主 人 文 久 元 年 八 月 廿 五 日 生 越 前 人 南 条 郡 武 生 町 旭 住 」 と あ る。 第 一 作 の 題 に は 「 笙 東 」 の 名 も 見 え る。 第 一 作 は 起 句 が「 佳 賓 載 筆 入 笙 城 」 と な っ て い る が、 「 笙 城 」 は 敦 賀 の 雅 称 で あ る。 以 上 の 断 片 的 な 事 柄 を つ な ぎ 合 わ せ て 想 像 を た く ま し く す れ ば、 王 治 本 は 越 前 滞 在 中、 福 井 市 の み で な く、 少 な く と も 武 生・ 敦 賀 ま で 足 を 延 ば し、 松 村 半 川、 土生笙東らと詩文交流をしたのではないかと思われる。 七、再び名古屋へ 王 治 本 は ま も な く 名 古 屋 に 戻 っ て き た。 そ の 時 期 は、 後 述 す る 豊 橋 で の 王 治 本 と の 会 合 を 詠 ん だ 戸 田 忠 正 の 詩 の 題 に 八 月 十 七 日 と い う 日 付 が 含 ま れ て い る こ と か ら 見 て、 そ れ よ り 少 し さ か の ぼ っ て、 遅 く と も 八 月 十 日 前 後 で は な か っ た か と 思 わ れ る。 こ の 時、 王 治 本 が 主 催 し て 名 古 屋 の 料 亭 で「 群 賢 と 会 」 し た 時 の 諸 作 品 が、 九 月 三 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に 掲 載 さ れ て い る。 含 笑 吟 社 の 同 人 た ち に 呼 び か け て 催 し た 会 の よ う に 思 わ れ る。 王 治 本 の 二 首 と 吉 田 雋 石 の 作 を 挙 げよう。 傍花随柳酒楼席上分韻 王漆園 未敢擬遊仙 未だ敢えて遊仙に擬せざるも 行踪去復旋 行踪 去きて復た 旋 かえ りぬ 随身携硯匣 身に随えて硯匣を携え 到処蔽吟筵 到る処 吟筵を 蔽 ひら く
蟬語新凉夜 蟬語 新たに凉しき夜 荷香薄暮天 荷香 薄暮の天 柳城名勝地 柳城 〔名古屋のこと〕 は名勝の地 置会酒群賢 43 置酒して群賢と会す 又 同 傍花随柳蔽瓊筵 傍花随柳 瓊筵を蔽く 無限離愁一短篇 無限の離愁 一短篇 老樹有声燈有影 老樹に声有り 燈に影有り 新凉如水酒如泉 新凉 〔秋冷〕 は水の如く 酒は泉の如し 碧雲楼外秋聞笛 碧雲楼外 秋 笛を聞き 紅藕池中夜放船 紅藕池中 夜 船を放つ 明日分襟相別去 明日 襟を分かちて 相別れ去らば 重逢不識在何年 重 ね て 逢 う は 識 ら ず 何 れ の 年 に か 在 ら ん 同 吉田 雋石 紅楼留客帯微酡 紅楼 客を留めて 微酡を帯び〔 ほろ酔い 状態になる〕 唱到離歌漾酒波 唱いて離歌に到れば 酒波 漾う 嫋嫋西風凉満地 嫋嫋たる西風 凉 地に満ち 秋声更比雨声多 秋声 更に雨声より多し そ の 他、 長 白 雲、 広 岡 琴 雨、 中 島 樟 南 の 作 品 が 掲 載 さ れ て い る。 二 十 年 近 く 後 の 資 料 に な る が、 『 含 笑 吟 社 同 人 集 甲 子 』 ( 大 正 十 三 年 ) 含 笑 吟 社 列 名 に よ れ ば、 吉 田 雋 石 は、 そ の 名 が 初 造、 尾 張 国 東 春 日 井郡守山町二十軒家在住、 広岡琴雨 (一八七三~?) は、 その名が崇、 名 古 屋 市 東 区 白 壁 町 二 丁 目 在 住、 中 島 樟 南 ( 一 八 七 六 ~?) 44は、 そ の 名 が 中 島 清 一、 名 古 屋 市 在 住 で あ る。 長 白 雲 は 長 谷 部 白 雲 の こ と だろう 45。 八、豊橋での詩文交流 王 治 本 の 豊 橋 滞 在 は さ ほ ど 長 く は な か っ た は ず だ が、 幸 い、 彼 が こ の 地 で 唱 和 し た 漢 詩 の 資 料 は、 豊 橋 発 行 の 地 方 紙『 新 朝 報 』 所 載 の 作 品 を 中 心 に、 印 刷 の 鮮 明 な も の が 比 較 的 多 く 得 ら れ る。 そ れ ら の作品を整理して、紹介することにしたい。 ま ず、 八 月 二 十 一 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に「 漆 静 唱 和 」 と 銘 打 ち 掲 載 さ れ て い る、 酔 翁 亭 で の 唱 和 の 諸 作 品 で あ る。 「 静 」 と は、 幕 末 水戸藩家老で尊王志士として活躍した戸田忠太夫、 諱は忠敬の孫で、 堤 正 斎 に 学 ん だ 英 才 の 一 人 46、 戸 田 忠 正 ( 一 八 五 八 ~ 一 九 二 八 ) の こ と で あ る。 字 は 徳 文、 初 号 は 有 終 斎、 後 に 静 学 と 改 め た。 十 三 年、 愛 媛 県 警 部、 十 五 年、 判 事 補 か ら 判 事 に 昇 任、 各 地 の 裁 判 所 に 転 任 し、 三十一年以来、 豊橋で勤務していた 47。三十七年発行の 『百花欄』 十 二 集 臨 時 増 刊 所 載「 花 欄 千 家 」 で は「 豊 橋 区 裁 判 所 長 」 と な っ て いる。皮切りの一首を挙げよう。 静学仁兄招飲酔翁榭、酒間即景 漆園 王治本 橋燈一点 蘸 波紅 橋燈 一点 波に 蘸 りて紅に 砕影如鱗蕩漾中 砕影 鱗の如く 中に蕩漾す 明月不来凉不動 明月 来らず 凉 動かず 詩人把酒倚欄東 詩人 酒を把りて 欄東に倚る
東韻のこの詩に静学が次韻したのが、次に掲げる作である。 次韵 静学 戸田忠正 夜泊蓬窓孤燭紅 夜 泊すれば 蓬窓 孤燭 紅に 那辺吹笛水声中 那辺 〔どこ〕 の吹笛か 水声の中 同文友会酔翁榭 同文の友 会す 酔翁榭 娥影恨無来檻東 娥影 〔月光〕 恨むらくは 檻東に来る無し 実 は、 九 月 二 十 八 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に「 丙 午 八 月 十 七 夕 豊 橋 酔 翁 水 榭 酒 間 即 景、 同 漆 園 老 人 賦、 次 韻 」 と い う 題 で 掲 載 さ れ て い る 静 学の作二首の第一首がこれと同一であり 48、この題により、 この「漆 静」面会の日にちが知られるのである。 八 月 二 十 一 日 の「 漆 静 唱 和 」 に は、 静 学 の 元 韻 の 七 律「 丙 午 春 日 偶拈」と、これに次韻した王治本の次の作も掲載されている。 さ て、 八 月 二 十 四 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に は「 漆 静 唱 和( 承 前 )」 と し て、 静 学・ 王、 そ れ ぞ れ の 東 韻 の 作 の 重 畳 し た も の と、 静 学 の 元 韻 の 作 の 重 畳 し た も の と が 載 っ て い る 49。 静 学 の 元 韻 の 作 の み 掲 げることにする。 畳元韻再示漆園翁 静学々人 遊踪無処不消魂 遊踪 処として消魂せざるは無きも 印得東西雪爪痕 印し得たり 東西 雪爪の痕 何日帝都尋旧約 何れの日か 帝都に 旧約を尋ね 夢香洲畔酔江村 夢香洲 〔東京の向島〕 畔 江村に酔わん 上 記 の 諸 作 と は 別 の 日 の こ と と 思 わ れ る が、 八 月 二 十 五 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に は、 王 が 静 学 宅 を 訪 れ、 覃 韻 の「 感 懐 」 と 題 す る 作 を 示 さ れ て、 こ れ に 和 し て 詠 ん だ「 丙 午 夏 遊 次 豊 橋、 過 訪 静 学 戸 田 詞 宗、 談次出示感懐覃韵佳作、 索和、 率成一律、 録呈吟壇、 敬求敲政」 詩 50と、 こ れ ま た 別 の 日 の 作 で あ る 可 能 性 が あ る が、 「 園、 喧、 痕、 村、 尊 」 を 韻 字 と す る 七 律「 丙 午 初 秋 辱 承 招 飲 百 華 園、 酒 間 与 静 学 外 翰・ 松 荷 上 人 同 賦。 余 率 成 一 律 録 此、 㠯 博 愛 古 飼 51兄 大 雅 一 粲、 併 希 玉 和 」、 「 園、 喧、 尊 」 を 韻 字 と す る 七 絶「 百 花 園 更 科 水 榭 雅 集 即 景 」 及 び そ の「 一 畳 韵 」「 二 畳 韵 」「 三 畳 韵 」 の 作、 す な わ ち 百 華 (花) 園に招かれた時の作の、計五首が載っている。 こ こ で は 後 者 の 作 品 系 列 の 唱 和 の 様 子 を 見 て い く こ と に し た い が、 ま ず そ の 場 所 と、 新 た に 加 わ っ た 人 物 に つ い て 簡 単 に 触 れ て お こ う。 百 花 園 と は、 豊 川 に 臨 み 四 季 折 々 の 風 情 を 見 せ る 花 畑 と、 そ の 一 画 に 建 つ 料 亭 を 合 わ せ た 名 称 で、 そ の 名 が 高 め ら れ た の は、 渡 辺 崋 山 の 第 二 子 の 渡 辺 小 華 ( 一 八 三 五 ~ 八 七 ) が 明 治 十 年 に 豊 橋 の 吉 田 神 社 境 内 に 居 を 構 え た こ ろ で あ っ た と い う 52。 人 物 の 方 は 佐 藤 又 八 編『 東 参 故 人 百 家 詩 存 』 の 説 明 に 徴 す る こ と に す る。 松 荷 上 人 ( 一 八 四 四 ~ 一 九 二 三 ) と は、 名 が 義 堅、 仙 寿 山 房 と 号 し、 豊 橋 市 東 田 町 の 全 久 院 の 主 僧 で あ っ た 武 田 松 荷 の こ と、 愛 古 詞 兄 と は、 「 旧 豊 橋 藩 士 荊 山 ノ 男 」 で、 「 父 ノ 薫 陶 ニ ヨ リ 詩 書 ヲ 能 ク シ 明 治 ノ 初 メ 十 七 六 区 戸 長 ヨ リ 渥 美 郡 書 記 ト シ テ 永 ク 公 職 ヲ 奉 」 じ た 金 子 鼎 かなえ の こ とである 53。 八 月 二 十 六 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に は、 上 記 の 王 の 七 絶 に 次 韻 し た 静学の計四首が載っている。うち、三首を挙げよう。
百花園更科水榭雅集、次漆園王先生韵 静学 戸田忠正 来会臨江深翠園 来り会す 江に臨む 深翠園 酒詩徴逐避時喧 酒詩 徴逐して 時の喧しきを避く 堪嗤利走名奔事 嗤うに堪えたり 利に走り名に奔る事 俗士不知詞客尊 54 俗士は知らず 詞客の尊きを 二畳韵 仝人 詞章婉絶圧随園 詞章の婉絶なる 随園 〔袁枚のこと〕 を圧す 衆口伝声湖海喧 衆口 声を伝えて 湖海 喧し 名土 55黄泉今不見 名土 黄泉 今は見えず 当年夢影付青尊 当年の夢影 青尊に付せん こ の 詩 に は 作 者 の「 名 士 謂 渡 辺 小 華 翁。 々 曾 住 百 花 園、 廿 年 前 漆 園 翁 過 訪 云。 故 及 」 と の 自 注 が あ る。 「 廿 年 前 」 と あ る が、 王 治 本 が 百 花 園 を 訪 れ た の は、 二 十 四 年 前 の 明 治 十 五 年 六 月 の こ と で あ っ た 56。 三畳韵 仝人 百花落後酔凉園 百花 落ちし後 凉園に酔う 蟬語水声徹耳喧 蟬語 水声 耳に徹して喧し 何必人間羨青紫 何ぞ必ずしも人間 青紫 〔高位高官のたとえ〕 を羨まん 従来文士布衣尊 従来 文士は 布衣 尊し 八 月 二 十 八 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に は、 金 子 愛 古 が 上 記 の 王 の 七 律 に 次 韻 し た 作 一 首 と、 上 記 の 王 の 七 絶 に 次 韻 し た 作 二 首 と が 載 っ て いる。それらを挙げよう。 丙午初秋招待漆園老先生於有百花園、用慰覊愁。時静学・ 松荷二友来会、 飲先生、 即席賦一律見贈、 恭次芳韵以謝之。 愛古 金子鼎 招待先生酌小園 先生を招待して 小園に酌む 蓊蓊老樹早蟬 57喧 蓊蓊 〔盛んに茂る様〕 たる老樹 早蟬 喧し 詩題粉壁留新句 詩 粉壁に題して 新句を留め 酒漬吟襟認旧痕 酒 吟襟に漬きたれば 旧痕を認む 一味凉風流水岸 一味の凉風 水岸に流れ 半竿残照隔山村 半竿の残照 山村を隔つ 此遊尽日多遺憾 此の遊 尽日 遺憾 多し 聊解覊愁訖緑尊 聊か覊愁を解きて 緑尊を 訖 お えん 百花園更科水榭雅集即景畳韵 愛古 金子鼎 緑樹陰々避暑園 緑樹 陰々たり 避暑園 凉風渡岸水声喧 凉風 岸を渡り 水声 喧し 不知炎熱襲来処 炎熱の襲い来る処を知らざるも 静養吟情各自尊 静かに吟情を養わば 各自 尊し 二畳韵 仝人 風流雅会百花園 風流なる雅会 百花園 樹々蟬声倒 58午喧 樹々の蟬声 午 まひる に 倒 いた りて喧し 炎熱不知去何処 炎熱は知らず 何れの処にか去りぬる
興来重酌酒清尊 興 来 り て 重 ね て 酌 む 酒 清 き 尊 たる 〔 清 酒 の こ と 〕 一 方、 八 月 二 十 九 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に は、 上 記 の 王 の 七 絶 に 次 韻した武田松荷の作二首と王治本自身の作一首、 及び「百花園即事」 と 題 す る 愛 古 と 松 荷 の 各 一 首 が 載 っ て い る。 そ れ ら を 挙 げ る こ と に しよう。 同席上畳韵 松荷 武田義堅 遠越波濤離故園 遠く波濤を越えて 故園を離れ 偶遊豊水棹声喧 偶 た ま 豊 水 〔 豊 川 の こ と 〕 に 遊 べ ば 棹 声 喧 し 営々塵務非吾事 営々たる塵務は 吾が事に非ず 咲坐凉臺倒酒尊 咲 わら いて凉臺に坐りて 酒尊を 倒 かたむ く 二畳韵 仝人 禅房朝去到花園 禅房 朝に去りて 花園に到れば 清話吟声入耳喧 清話 吟声 耳に入りて喧し 半日風流豊水畔 半日の風流 豊水の畔 飛杯探匀対師尊 杯を飛ばし 匀を探りて 師尊 〔先生〕 に対す 四畳韵 漆園王治本 罸令何須金谷園 罸令 何ぞ金谷園を須いん 59 風流韵事脱塵喧 風流韵事 塵喧 〔俗世間〕 を脱す 天涯今日重知已 60 天涯 今日 知已 重 くわ わる 相約論文倒一尊 相約し文を論じて 一尊を倒けん 百花園即事 愛古金子鼎 樹々千章蟬萬声 樹々 千章 蟬 萬声 江光満面入窓明 江光 面に満ち 窓に入りて明らかなり 水流迂曲山容遠 水流 迂曲して 山容 遠く 一望百花園裏晴 一望すれば 百花園裏 晴れたり 同 松荷 武田義堅 一葉梧桐揺落秋 一葉の梧桐 揺落する秋 豊橋々畔作優游 豊橋々畔 優游を作す 吟哦賡和風流宴 吟哦 賡和 風流の宴 日入西山尚未休 日 西山に入るも 尚お未だ 休 や まず 当 時 の 豊 橋 で の 交 流 の 跡 を 示 す も の と し て、 最 後 に、 八 月 三 十 日 の『新朝報』文苑に載る四人の聯句を挙げよう。 百花園紗羅姊娜 61亭雅集柏梁体 古名園迎老詞人〔静学〕 古名園に老詞人を迎う 吐出聯珠句々新 〔松荷〕 聯 珠 を 吐 き 出 だ し て 句 々 新 た な り 清興覓得酔餘身〔愛古〕 清興 覓め得たり 酔餘の身 旗亭恰好水之濱〔漆園〕 旗亭 恰も好し 水の濱 吟声也和水声頻〔静学〕 吟声も水声に和して頻りに 不覚半日酔佳賓〔松荷〕 覚えず 半日 佳賓に酔う 凉風颯々動青蘋〔愛古〕 凉風 颯々として 青蘋を動かし 狂歌反被俗人瞋〔漆園〕 狂歌 反って俗人に瞋らる
おわりに 九 月 二 十 一 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に、 王 治 本 の 七 律 二 首 が 掲 載 さ れ て い る。 そ の 一 つ は、 「 乞 巧 節 一 夕 湖 心 亭 宴、 次 董 綬 62経 秋 曹 韻、 与 永 井 禾 原・ 岩 渓 裳 川 同 賦 」 と 題 す る も の で、 東 京 上 野 の 湖 心 亭 で 董 綬 経・ 永 井 禾 原・ 岩 渓 裳 川 ( 一 八 五 二 ~ 一 九 四 三 ) と 交 流 し た 詩 宴 で の 作 で あ る が、 「 乞 巧 節 」 と い う 語 か ら、 こ の 年 の 陰 暦 七 月 七 日、 す な わ ち 陽 暦 の 八 月 二 十 六 日 ま で に 王 治 本 が 東 京 に 帰 っ て い た こ と を知ることができる 63。 もう一つは、 「寄懐勢羽尾三諸友」 と題するもので、 「勢羽尾三」 は、 今 回 の 旅 で 彼 が 通 過 し た 伊 勢・ 越 前・ 尾 張・ 三 河 を 指 す 語 と 考 え ら れ 64、 そ れ ぞ れ の 地 で 交 流 し た 相 手 に こ の 詩 を 送 っ た こ と が 考 え ら れ る。 残 念 な が ら、 不 鮮 明 な 個 所 が 多 い た め、 初 め の 二 句 と 末 句 の み示すことにする。 相逢恨短別偏長 相逢うは 短きを恨み 別れのみ偏に長し 回首天涯各一方 首を回らせば 天涯 各おの一方 (五句略) 不堪秋雨泣寒 螿 堪 え ず 秋 雨 寒 螿 〔 ツ ク ツ ク ボ ウ シ 〕 泣 く に こ れ に 次 韻 し た 豊 橋 の 三 人 の 作 が 九 月 二 十 一 日 の『 新 朝 報 』 文 苑 に載っているので、そのうち静学と松荷の作を挙げよう。 次王漆園見寄韵、代簡答此 静学 戸田忠正 碧雲紅豆抽愁長 碧 雲 〔 遠 方 の た と え 〕 の 紅 豆 愁 い を 抽 い て 長 く 千里相思天一方 千里 相思う 天の一方 梦破月残風暁底 梦 ゆめ 破 れ 月 残 ざん す 風 暁 〔 風 の あ る 早 朝 〕 の 底 心馳山美水明郷 心は馳す 山美しく水明らかなる郷 游蹤随処新盟就 游蹤 随処 新盟 就らん 邂逅何辺旧約償 何れの辺りにか邂逅して 旧約をば償わん 南浦昨従送帰舫 南浦 65 昨 このまえ 帰舫を送りしより 苦吟日夕伴寒 螿 66 苦吟 日夕 寒 螿 に伴う 次韵王治本老詩伯見寄詩却寄 松荷 武田義堅 詩話禅談日不長 詩話 禅談してより 日 長からざるも 江東渭北異遊方 江東 渭北 遊方を異にす 羨君花月吟他土 羨む 君 花月 他土に吟ずるを 憐我晨昏酌故郷 憐れむ 我 晨昏 故郷に酌むを 燕子旧巣空有跡 燕子の旧巣 空しく跡有るのみ 鴈書新韵欲相償 鴈書の新韵 相償わんと欲す 秋風万里白雲起 秋風 万里 白雲 起ち 夜々閑聞喞々 螿 夜々 閑に聞く 喞々たる 螿 最 後 に、 王 治 本 が 弥 富 を 去 っ た 二 十 二 年 後 に 服 部 担 風 が 詠 ん だ 詩 67も挙げておこう。 十月念一日佩蘭雅集、次壁間所掲王漆園詩韻 昔年春夢記尋芳 昔年 春夢 芳を尋ね 〔美しい景色をめでる〕 しを 記 き す 今日秋風籬菊香 今日 秋風 籬菊 香し 笑我已過周甲子 笑え 我 已に周甲子 〔還暦〕 を過ぐるも
詩成懶復費雌黄 詩 成りて 懶く復た雌黄 〔 書き改めること〕 を費やすを 影事茫茫属頓揚 影 事 〔 幻 影 の よ う に は か な い 事 物 〕 茫 茫 た る は 頓 揚 〔 明 代 の 金 陵 の 名 妓 、 頓 文 と 楊 玉 香 〕 に し て 尊 前 慣 唱 杜 韋 娘 尊 前 唱 うた う に 慣 れ た る は 杜 韋 娘 〔 唐 代 の 歌 妓 〕 因賡題壁故人句 壁に題せる故人の句に賡するに因り 憶殺当年翰墨場 憶殺す 当年の翰墨場 す で に 還 暦 を 越 え た 担 風 が、 王 治 本 の 残 し た 詩 に た ま た ま 次 韻 し た こ と に よ り、 己 おの が 壮 年 時 代 の、 王 治 本 を 迎 え 歌 妓 も 交 え て の 華 や か で 楽 し か っ た 詩 宴 の 思 い 出 が ま ざ ま ざ と 脳 裏 に よ み が え り、 感 慨 に浸っているのである。 (しばた・きよつぐ 本学教授) 注 1 『服部担風先生雑記』上、九十七~九十八頁。 2 明治丙午年の 「夏五」 は陽暦の六月二十二日から七月二十日の間に当たる。 3 陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』 (浙江古籍出版社、二〇〇五年) によれば、阮舜琴は同治・光緒間の、浙江慈渓の人。初名は鰻昌で、舜琴 はその字。貢生。何度も省試を受けたが合格せず、その後、日本へ出かけ たという (三二四頁) 。王治本と同郷であるが、 その具体的な関係は不明。 『伊 勢』を調査してみると、四十一年の五月ごろ伊勢に滞在していたらしく思 われ、 担風の 『養痾詩紀』 (四十一年) に舜琴の題詩がある。蝶如によれば、 舜 琴 は 四 十 一 年 の 春、 担 風 を 弥 富 に 訪 ね た と い う( 『 服 部 担 風 先 生 雑 記 』、 二三七頁) 。 4 本稿(上)では立松晴濤の生年を記さなかったが、 その後、 判明したので、 補 っ て お く。 一 八 七 五( 明 治 八 ) 年 生 ま れ で あ る。 『 百 花 欄 』 十 二 集 臨 時 増刊(三十七年)所載「花欄千家」による。 5 礼服を着けて巨石を拝した宋の米芾の故事( 『宋書』本伝)を踏まえるか。 6 いずれも六月二十四日の『伊勢』にも載り、前者は『伊勢』では「藍亭雅 集分得雲字、奉呈主人与漆園翁、曁晴濤・雅堂・臥山諸子同賦」に作る。 7 この作品は 『臥山詩鈔』 巻一にも収録されている。但し題の 「諸君」 を 「諸 賢」に作り、詩句にも若干の異同がある。 8 「茉莉巷」森春濤が東京で吟社を開いた下谷摩利支天横町(現台東区上野) のこと。 「藍亭」服部担風とその一門のこと。 「及門」門下生。 「竹林詩評」 詩話の一種。撰者不詳。 「謝朓」 南北朝南斉の詩人。 「霏嵐」 の 「嵐」 を 『説 郛 一 百 二 十 』 八 十 所 収 の『 竹 林 詩 評 』 で は「 藍 」 に 作 る。 『 扶 桑 』 の 誤 り で あ る 可 能 性 が 高 い。 「 多 度 之 峰 」 三 重 県 北 部 の 多 度 山。 「 岐 蘇 之 水 」 木曾川。 「慈藍」 未詳。 「観蓮百詠」 三十三年刊の担風の詩集 『江西観蓮集』 のこと。 「茉莉髯翁」森春濤のこと。 9 王治本と服部担風及びその門下生たちとの最初の出会いは、実際はこの年 の 四 月 十 五 日 に 桑 名 の 愛 宕 楼 で 開 か れ た 佩 蘭 吟 社 の 例 会 に お い て で あ る。 本稿(上)四十一~四十三頁。 10 実は、 冨長蝶如が、 始終藍亭に出入していたころの記憶に基づき、 「藍亭記」 の 大 意 を「 漆 園 が、 こ の 記 文 の は じ め に、 『 茉 莉 巷 凹 処 』 の 森 春 濤 を か つ ぎ出しているのは、著想としてはいかにも自然なことである。春濤が、尾 張の人であるし、彼が東京に在って『新文詩』を刊行しつつ、詩壇の気運 を一時左右したのは、当然無視さるべきでない。その気運に乗じて多くの 詩人が出てきたのだが、 先生もその一人の、 しかも重要なる一人であった。 漆園は、ここから筆をつけて、あの『出藍』という語をうまく活用してい る。 尾 張 人 で あ る 先 生 の、 そ の 才 や 学、 春 濤 の 流 派 を ひ く も の の う ち で、