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明治期高知における日中文人の交流 ―旅の詩人王治本を中心として―

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明治期高知における日中文人の交流

1旅の詩人王治本を中心としてー

本稿は明治期に高知で繰り広げられた清国文人と地元の文人たちとの詩文交流に関する研究成果報告の第二篇である。第一 (]) では明治十八年(以下、特に必要のない場合、﹁明治、一の年号は省略する)に高知を訪れた胡鉄柚1を取り上げたが、今回は翌 十九年の来訪者王治本(号黍園。一八三五S 一九0八)を取り上げる。ところで、胡絵の場合もそうであったが、王治本と との詩1立:^父流は、み女が高知をヨミつた後も、郵イU!勧1 の手上受にょり十年聞も剤米歉1した。そして、この別後の交流に も、取り上げるに値する事項は少なくない。そこで、研究成果蛾告を二っに分かち、本稿では王治本の高知滞在中の交流のみ に絞り、その様相を明らかにしていくこととしたい。 なお、本来なら、現在その存在覇明しているすべての作品を取り上げて、ソ絵・分額等、その唱和のありさまの全容を説 明すべきところであるが、それではゆうに一冊の大部な書籍に匹敵するほどの字数を費やさなくてはならなくなる。そこで、 やむなく器乢に加わった人たちの作品を最低一篇は必ず取り上げる﹂ことを原則として、少しでも一需裂子が具体的に理 田

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(2)

解していただけるよう配慮しつつ作品を袈、書き下し文を付して紹介していくことにする。 今回の主な資夕なるのは、王治本が高知を航れた翌年の二十年三月に出版された、渕東黍園王治本評閲・東都櫟窓林信編 (2) 輯上局城逸斎宮地浩校訂﹃高城唱玉集﹄ノ編輯兼発行人は林信、ノである。この詩集は王治本の高知滞在中及び高知を獣れた後 数か月問に彼と高知の文人たちが唱酬した作品を、ほぼ作詩の順序に沿って編集したもので、計二百十篇が収録されている。 本稿では叙述の便宜上、その作品の各々にゴチック体一製字の通し番号を付して言及することとする。また、署同城唱玉集﹄ のほかに、高知の地元新聞やその他の資料もあり、必要に応じ適宜言及・引用することとする。なお、署同城唱玉集﹄の巻頭 ﹁王治本評閲﹂とのみ記されているが、{際は相当数の作品に対して三浦一竿(一八三四S 一九00)と田中璞堂(一八 こι 三一 S 一九0八)、特に三浦一竿の評も付されている。ただ、評の大半は儀礼的な賛辞程度のものなので、その内容について は本稿では触れない。 高知尋人田中璞堂が既に十三ないし十四年ごろに東京で王治本と知り合っていた形跡のあることは前稿で竺たが、王治 ママ 本が高知にやって来たのは十九年の四月上旬か中句であったと見られる。王治本自身が霄同城唱玉集﹄の序において﹁於丙戍 三月初、游次高城﹂と述ベているからである。彼のみでなく、当時Π本を訪れた清国文人は特別な場合を除き、みな年月日を 清暦、すなわち陰暦で記している。﹁丙戌三月﹂は陽暦の十九年四月四日から五月三日までに当たるが、その初めとなれば、 上旬の四月十三日ごろまでと見るのが妥当であろう。後で見る一 S六が高知の地元紙﹃弥生新聞﹄にも掲載されており、その 掲載日が十九年四月十六日であるのも、この見方の裏付けとなる。彼が高知を去ったのは、これも彼の序にょれば、﹁五月中旬﹂ で、陽暦の六月十二日から二十一日の間ということになる。さらに、璞堂の一六九﹁梅雨中送玉繊女史﹂詩が﹃高知日報﹄(﹃弥

一王治本の高知滞在期間と唱酬作品数の実際

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-48-生新聞﹄がこの年五月七H改題)六河十七日号に載っていることから、この日以前に絞ることができる。玉識女史については、 後でまた触れるが、この当時王治本が同伴していた女流日本画家で、この後もしばらく共に旅を読けた相手である0 王治本の滞在中の二か月間、彼と高知の文人たちとがどれくらい昇を唱酬したのかと言えぱ、やはり彼自身が序の中で次 のように竺ている。 閲時両月、乍無長短各体六十餘篇。甚荏同声相応、更唱迭和、一瓢川錦浦・田中璞堂・三浦一竿諸君、皆南器宗、足 以匡余歪者、亦正不浅。所吟多者五六十首、或二三卜首、少者各一二首、合為一集、共得各体邑百数十首、名日高城 唱玉集。 この序は﹁丙戌夏五月﹂、すなわち条高知を雛れ際にしたためたものである。ここで、﹃﹂局城唱玉集﹄の所'全本では なく、彼四局知滞在中までに詠まれた百七十一券みを対象として計算してみると、彼の作品の掲載数は四十二篇のみである0 また、日本人側で掲載作品数の最も多いのは三浦一竿で、三十九一毛ある。この四十二と六十餘、三十九と五L、トのヒ冬をも とにして推測してみると、{際は二百五、六十篇ぐらいの作品が唱酬された可北佳もある。 では、以下、一荒の様子をできるだけ時系列で見ていくことにしたいが、日にちが明記されている乍品はほんのっずかしか ない。四三は誓﹁四月Ξ十日﹂の栗あり、また、この作品を含んでΞ九から四Ξまでは同じ日、同じ昜万で詠まれたもの である。したがって、とりあえず四三以前はすべて四月中に詠まれた作品と見ていいだろう。

二王治本と高知の文人たちとの詩文交流

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-49-①延命軒にて

そのうちの筆頭の作品群は、上述のとおり、四月四日から十三日ごろまでの問に詠まれたと見られる一からナまでで、田中 璞堂・三浦一竿の兄弟と日本画家の別役春田(一八五五S 一九一 9 が王治本の宿泊する延命軒(一名招賢閣)を訪れ兪の ものである。一竿の二﹁王禽詞宗過訪、驫﹂には王治本・登・春田のΞ人が次韻している(それぞれ=1一十次一竿韻 得成三絶﹂、四﹁黍園過訪、次一竿邑五﹁呈黍園先生、次一竿君韻﹂)。ここでは春田の作品を見ておくことにしよう。 五呈黍園先生、 海上仙植入孕門 嘔鴉柔櫓湖泉源 先生游跡来何晏 老紫残紅春一園 次一竿君韻 海上の仙植

嘔鴉柔格

先生の游跡

老紫残紅

②得月楼にて

次は﹃弥生新聞﹄十九年四月二十三日号にも載っている七S九の三篇である。まず王治本が七﹁題得月楼﹂を叉、璞堂と 一竿がこれに次詣している(それぞれ八﹁次祭園得河楼詩﹂と九﹁次黍園得月黛﹂)。得月楼で詩酒を共にしたわけである が、この料亭は明治五年、宮尾登美子氏の小説で有名になった﹁陽暉楼﹂として発足したのが起源で、その後十年に西南戦争 (5︺ の雄谷干城将軍にょって﹁得月楼﹂と命名されたものと言われ、高知の有名料亭として発展し、今も存続している 春田別役儁 孕門弓市の浦戸湾北部の地名)に入り 泉源を湖る 来ること何ぞ晏き 春一園

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-50-③高知城咸臨閣にて 次は一 OS 一五が一群をなす。王治本と宮地逸斎(一八四七S 一九一八)も含めた田中三兄弟鳶知城に遊び、天守閣﹁咸 臨閣﹂に登ったときのものである。一四までの五首は﹃弥生新聞﹄十九年四月二十三日号に、一五は同五月四日号にも載って いる。まず王治本の作を挙げてみょう。 - 0遊高坂偕楽公園登咸臨閣即景同游者璞堂・一竿・逸所吾些孚黍園 と1

高閣登臨望眼畭高閣に登臨して望眼賎し

古城帆岻海南涯古城幌帆たり海南の涯

四郊遼濶山千畳四郊遼濶として山千畳

二水一需屋万家二水(高知市内を流れる江の口川と鏡川深棚して屋万家

煙柳頻呼春日鳥煙柳頻りに呼ぶ春日の鳥

甘業尚有旧時花甘業尚お有り旧時の花

噛欄丁尽芦熊朋に侍れぱ尽きず蒼だの感

はる

回首西冷客路週首を西冷に回らせば客路祭なり

﹁西冷﹂は王治本がかつて学問を弟子に授けていた杭州の西冷橋であり、見晴らしのよい所に立った作者が望郷の念を募ら せる結果になって詠んだ詩のようだが、それはさておき、この詩については触れておきたい事がある。今から四十年前、彼の 日本国内での足跡を調査中であった、さねとうけいしゅう氏に、高知の若尾忠三という人が所蔵の﹁清人王治本の書﹂の写真 を送ってきたということで、さねとう氏は﹁王治本の日本温﹂という文章の中でそれを棚字して紹介してくれているのだが、

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-51-その冴文字は、若干の字句の異同があるものの、この一 0の詩と同定することのできるものである。若尾氏所蔵尋には﹁光 緒丙戌春暮游高坂公園登咸臨閣即景若尾額層君大雅属削東黍園逸士王治本﹂との為書きがあり、若尾氏にょれば、﹁若尾額層 は私の亡実父であります。(中略)此掛物は家督を洪でおります兄が小生に讐たものであります。拙家は山内氏二代の時 (6) からの土州藩士でありました﹂という。 この王治本の詩に璞堂と一竿がそれぞれソ甑している(一四﹁次黍県園韻﹂と一五﹁次黍熨鼎﹂)。

④松鶴楼にて

その後、再び得月楼で王治本壽を賦し(一六)、一 は松鶴楼の﹁夜酌﹂において詠まれた一連の詩一八S-年五月四日号にも椴)の其二を諄ておこう。 竿がこれに次韻する(一七)ということがあったようだが、その次に

王礎っている。墜の一九﹁森鶴齢f律﹂(﹃弥生新聞﹄十九

雷声乍歌雨声収 長板橋西春満楼 江上詞人狂撃楫

天涯鴇寮縦舟

一緑脆竹弾新曲 浅酌微吟継旧游 明月入九兪入座 一儒不減武昌秋 雷声乍ち獣みて雨声収まり

長板橋西春楼に満つ

;k十 江上の詞人は狂しく揖を撃ち 天涯の覇客は漫ろに舟を維ぐ

哀絲俺竹新曲を弾き

浅酌微吟旧游を継ぐ

明月窓に入り風座に入る

﹂、稲減ぜず武昌の秋に

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-52-松鶴楼は田中三兄弟らが前年の七夕に胡鉄梅と迎夜の宴会を行った所で、原注にも﹁去秋与胡鉄梅游于此楼。故第六句及之﹂ とあるように、その事が詩の中に詠み込まれている。 次に掲げるのは、安並正晴の二一﹁壁黍園先生游松鶴楼﹂(﹃弥生新聞﹄十九年五月六日号にも掲載)である。 綺楼百尺曲江隅 桜外波光如画図 披老襟懐一疏達 飛卿詩句伺輩艘 潮生前浦舟来往 得乢長橋柳有無 1 Ⅱヒ相玉釜何牙詞く1也

阿誰先需眺琳

畍穫百尺曲江の隅

糧外の波光画図の如し 披老 1のこと)の襟纏元曠達にして 飛卿 1鷄のこと)の詩句は最も華艘(1 なり

潮峡鴇に生じて舟来往し

煙は長橋を籠めて柳有りや無しや

此の鯛詠の地に相洪しを烹

大そー 阿誰か手を先んじて驥珠を奪わん 安並正晴(?S 一九二0)は梅所と号し、﹁漢詩人、教育者。(中略)少年時代、東京に出て蒲生網亭の塾に入り勉学、帰郷 後も家に在って欝を曾。(中略)大正から昭和ヘかけて土佐一等の漢文家と誓れた﹂人物である。もう一首、親梅が去っ たあと裸として﹁誘鉄梅先生﹂詩を勢だのではないか主篇で推定した天野芳のΞ二鼎﹂(一一一と同題登。﹃弥生 新聞﹄十九年五月六日号にも掲載)も挙げておこう。 の〒

絶頂高樅枕水浜絶頂の高楼水浜に枕む

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-53-煙波潭似洞庭春 銅琶鉄板歌三畳 碧海長天月一輪 詩国豪狂推杜牧 酔郷潦倒有伶倫 東西万里休一長 唇歯相競如比鄰

煙波禪て似たり洞庭の春

銅琶鉄板歌三畳

碧海長天月一輪

詩国の一井は杜牧を推し 酔郷の潦倒は伶倫有り 東西万里遠しと言う休かれ 唇歯相競いて比鄰の如し さて、前述のとおり、王治本は玉繊女史という女性を同伴していた。この日の会で璞堂が二三︹贈黍園游伴画家玉女史二 首﹂と題する詩(﹃弥生新聞﹄十九年四月三十九日号にも掲載)を詠んでいる。管見に入った一昇のうち玉繊女史に関する最 (W) も古い記載は、﹃新潟新聞﹄十六年八月二十五日号に載る次の記事である。 玉繊女史女史は加州金沢の人にして年齢は三十七八位書画をぎ居るよしなるが去る廿一日当港ヘ着せり聞く所には目 今亀田に遊び居る清客王禽氏が肇ヘ遊歴の際風流の交を結びしもの、よしにて今回到着せしも全く同氏を尋る為めに て直に亀田ヘ赴きたりと乃ち記名微吟して日く今日相如倦遊久憐才誰是卓文君 なかなか妙味に富む記事だが、それはさておき、王治本が亀田(現在新潟市江南区に属する地域)を訪れたのは、記事掲載 (Ⅱ) の八月二十五日をそれほど湖らぬころの事だったと考えられる。同新聞十七年三河十三日号には、

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-54-同氏(王治本を指す1筆者)は明後日当港を出発し三島郡爆一崎ヘ赴かるる由にて同所より船に航して佐渡ヘ遊歴さるる 趣きなるが玉繊女史も同行せらるるといふ という畢も載っている。玉繊女史の本名は、後畢げる二八亘呈先生誤席間作﹂では﹁玉繊女史野田隆﹂となっている が、三浦一竿﹃江漁晩唱集﹄(三浦万里、四十二年)附卦十九丁では﹁横井隆号玉繊加賀人﹂となっている。なお、﹃高城唱 玉集﹄巻頭の届は彼女の筆になるものである。

⑤王治本と細川錦浦の唱認

次の二四S二六は詩人池白論郎全八七三S 一九五四)の父である細川錦浦と王治本の唱和詩三首であり、﹃弥生新聞﹄十 九年五月五日号にも載っている。錦浦の作を挙げよう。

二四贈王黍園詞宗錦浦細川潜

鵬路笥遊思不群鵬路朝遊思い群せず

芳名曾是得伝聞芳名は曾て是れ伝聞するを得たり 詩壇孰競杜工部詩地一孰か杜工部屈甫のこと)と競わん 一聿陣能追王右軍筆陣能く王右軍(王義之のこ上を追う

載月櫓声揺暖浪月を曾たる櫓声暖浪を揺らし

弄花鞭影払香雲花を弄ぶ鞭影香雲を払う

海南喜見文星聚海南"て見る文星(文才のある△の聚まるを

...

(10)

-55-天仮良縁得遇君天良縁を仮して君に遇うを得しめたり

⑥璞堂宅にて

Ω) 五河七日には﹃弥生新聞﹄が﹃高知日報﹄と改題したが、その直後の﹃高知日報﹄五月十二日号にも載っているのは、璞堂 宅謀まれた六篇の作品(二七S一Ξマである。このとき玉女史が勢だ作品を挙げておこう。 ニハ璞堂先生招飲席間作玉繊女史野田隆 春雨初晴鏡水清春雨初めて晴れて鏡水(鏡川のこと)清く 勇亨氏愈陌テ^ル相1冴{枝寸玉宇にして啼釜tをⅡ恵く われ

阿儷乍到南州地阿僕乍ち到る南州の地

無限烟波画帯無限の炯波画裏の情

もう一首、雲木東吉界央という人物が玉誓同じ學詠んだ作二九も挙げておこう。 (U) 管老花飛煙雨漾 叩門来坐暮春風 海南光景知多少 収在高人詩句中

鷲は老い花は飛びて煙雨一秀り

門を叩きて来り坐す暮春の風 海南の光景知ること多少ぞ 収めて高人詩句の中に在り 56

(11)

-⑦逸斎宅における作など 次に宮地逸斎宅で会が催された。そのときの作、三ΞSΞ八の計六篇は、票弗日報﹄十九年五月二十七日号と里十八日 号にも分かれて竺ている。逸斎の作を挙げよう。

三七招飲黍園先生・玉繊女史逸斎

柴門臨水野人家柴門水に臨む野人の家

小圃籍讐反郭小圃一琵三欠郭めなり

新句難成風景少新句成り難きは鼎歩なければなり

庭前只有繍毬花庭前只繍毬の花(てまり花)有るのみ その次が、詩題に四Ξ﹁四打三十日黍園偕璞堂・一竿過訪、寺武八4笑邑と題した錦浦の作を含む前述の三九から四四 までの一連の作品全一九S四三は﹃高知日報﹄十九年五月三十日号にも掲載)で、箟丞戸館と称する錦浦の自宅で催された 会の産物である。 ⑧残夜水明楼における作など 次は、杜甫の﹁月﹂詩の首聯にちなみ﹁残夜水明楼﹂と名付けられた一竿の肖宅で、系催された。四五から五Ξまでの九 首である。ここから後は五月以降の作と見ていいだろう。このときの王治本の詩四五が﹁再飲一竿残夜水明楼、分促甑﹂と いう誓なっているのを見ると、これより前にも一笑毛での会は曾れていた'1業ある。ここに至って初めて登場する二 人の人物昇を挙げておこう。まず林謙山の次倫である。 -57ー

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四七集飲一 故人家住荻薦湾 尭圧東角罷石追^^B 一座名材共杯酒 四囲勝白発江山 刷{助;Ⅱ涯1矣夕卞 殊老文章怒罵間 高会常時如此少

更鐘告暁蓼長

竿残夜水明楼、与黍園先生・玉繊女史・璞堂・錦浦

故人の家は住む琴冴湾

畔籬を逵り鶴関を護る

7 一座の名材杯酒を共にし 四囲の勝景江山に在り 陶公(陶淵明のこ上の綜跡は塵竣の外 一亀(殊帆のこと)の文章は奴禽馬の間 高会は常時此くの如く少なし 更鐘暁を告ぐるも還らんと言う莫かれ 林徳馨については﹁号謙山、士佐人﹂^﹃江漁晩唱集﹄附録三十九丁)という情報しか得られていない。もう一首は渡辺白鵬 の作である。 四八一竿招飲、 鏡川繞郭水溶溶 筆岫当門新ホ護 絶似江南村裏景 落花時節与君逢 白鴎・逸斎諸同人同賦、分得剛韻謙山林徳馨 始逢王黍園先生、席間分得冬韻白鵬渡辺紀

鏡川割を繞りて水汝价たり

筆岫(高知市内の笵山のこと)門に当たりて新黒仮し 絶だ似たり江南村裏の景に 落花の時節(蓉春の季節)君と洪ぬ

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-58-この詩の後半は、言うまでもなく杜甫の﹁江裏李亀年﹂詩の﹁正是江南好条、落花時節又逢君﹂の句を下敷きにした表 現である。白鴎については、明治後半期の一欝讐、ル﹃百花欄﹄第九集(三十六年九月二十五旦の作{希介の欄に﹁白鴎漁者 渡辺永綱字紀安政五年一月生土佐国高知人東京赤坂区丹後町十一番地寓﹂とある。これにょり、西暦で言えば一八五八 年生まれで、その後高知を離れたことが分かる。 次の五四と五五の二首は、五台山西篦に沿う吸江(現高知市吸江)で王治本・楢山夢香・別役春田・三浦一竿が舟遊びした ときの作である。吸江は黒ゑ庵(一六二七S 一七0五の﹁吸江誓詩並序﹂や、谷秦山(一六六三S 一七一八)の﹁吸江 十境詩﹂や河田小竜(一八二四S 一八九八)の﹁吸江図志﹂でも詠まれ描かれてきた名勝である。横山夢香(?・S 一九0 一) はここでは﹁同游者﹂として名前が出ているだけだが、名は董、医師で、﹁江戸・横浜に出て外人について洋医学および英語 を学﹂ぴ、帰郷して﹁開成館、吸江病院に英語を講じたが、のち辞し条業の医を継ぐとともに、塾を開いて医生を教えた﹂ (") 人物とい、つ。また、詩人として有名な横山業(一八五五S 一九三九)はそ呈弟である。 ⑨夕陽紅半楼における作など 次の五六から六九までの十四首は林謙山の由宅、夕陽紅半楼謀まれた作品群である。まず初島の山本弘堂の作品を挙げ ておこう。 五六紅半楼席上呈王黍園詞宗弘堂山本省

奪得与聖夢捻う僻と江f

一笑樽前共話文一笑して樽前共に文を話る

啼鳥落花春去後啼鳥落花春去るの後

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-59-夕陽楼閣忽逢君夕陽の楼閣忽ち君に洪ぬ

この詩は全篇にわたって杜甫の詩を踏まえている。前半で踏まえるのは﹁春日箆子白﹂詩、後半は四八と同じく﹁江南逢李 飽年﹂詩である。山本弘堂(?S 一九0七)について﹃高知県人名事典﹄の誘を引けば、﹁漢詩人、俳人。(中略)父は小児 科の町医祐隼、(中略)弘堂は始め父を助けて医に当たったが、安政のころ江戸に出で大沼枕山の門に一鷲をぎ、帰国後 は医業を止めこれに専念した。また俳諧をよくし蕪お別号がある。維新後南町小ツ綏教員を十余年にわたって勤めた。明治 (5︺ 如年W月器日没。乃才﹂となる。ところで、前半で﹁基希樹﹂の典故を使った弘堂の詩にも既に離別倫か栗されている が、璽は六二﹁夕陽紅半楼雅集分鵲県﹂の尾撃、より明白に別離を意識した﹁聚散して人生は元定まらず、扣壽ば席 上離杯を尽くさん﹂という陰方をしている。それは彼が自ら﹁黍鼎有道後之行。故及﹂と注するごとく、この席上で或 いはこのころまでに王治本がそろそろ高知を去り、伊予道後に行きたい旨表明していたからであった。六五倫山の詩も王治 本との別れを惜しむ内容のものとなっている。 さて、この当時、日付を記すのに、清国人が太陰暦で一貫していたのに対し、日本人は既に太陽暦に基づくようになってい 玲) たが、月を称するのに﹁孟春﹂﹁仲夏﹂等の旧称を使う場合は太陰暦に基づくという二重の形式を採っていた。次の璞堂の七 0 ﹁孟夏日偕黍園・玉繊・一竿再遊公園一臣を初めとする四首の作品群七OS七三は、孟夏がこの年は陽牙五月四日以降 であることにょり、詩題に﹁五河二日﹂と明記されている錦浦の作七七や、これまた陽暦五月二日に当たる﹁春尽前一 H﹂の 語が詩題にある璞堂の作七五を含む七四S八六の作品群よりも後次の作であると考えられる。詩に詠み込まれた季一匙からし て九五S九七の作品群の後あたりに位竺けるのが適当なように思われる。 そこで、先に七四S八六の作品群について述ベることにするが、これらも舟遊びの作である。ただ、参加者は前回よりも増 えて﹁八九人﹂となり(王治本・璞堂・錦浦・玉繊女史・謙山・白鴎・一竿・正晴)、航程も伸びて桂浜まで赴いている。

(15)

-60-八七から九0までは白鵬宅での詞籍招飲﹂、九一から九四までは雨の中、溝塑糸石宅での﹁集飲﹂、九五から九七までは尾 崎逸岳宅での﹁招飲﹂時のそれぞれ作品群である。満梨糸石については、璞堂の九二﹁医家溝淵再来招集翁﹂という詩題か ら、医師であったことが知られる程度である。一方、学古斎尾崎逸岳は﹁壬生水石門下の笈刻家で、日本画も善くした﹂人物 介) とし、つ さて、先程掲載順序を問題視した七OS七Ξの作品群はこの辺りに位竺けておくことにするが、それら緑まれた場所は 高坂城、すなわち高知城である。 お、この年の五月七日に﹃弥生新聞﹄が^高知日報、一と改題されたことを述ベたが、翌八、日の﹃高知日報﹄にはこれを祝 う璞堂と王治本の賀謎計三首が掲載されている。 九八から一0一までは﹁小松松月医伯の招飲﹂際の作である。この後の一竿の一0二と一0Ξの二篇は孤立している感じ がする。ちなみに、- 0一一﹁毓黍園﹃去秋留別東都﹄詩、即盗邑には、王治本の原詩も附されているのだが、その第一首 は一﹁地北天南曾てむ司く行き、片帆匝L川頁にして 1夏た西司モす。十年客とイーΞり児子長じ、四海人に^^ぱ皆 弟兄﹂というもので、彼が来日後、男子をもうけ、その子が育ってきたことを明一言している。彼は東京在住時の十二年の時点 で﹁お浜という日本妻とのあいだに瀛生という男の子があった﹂という。この子のことであろうか。- 0四と一 0五は それぞれ前年製禦揮毫して残していった﹁山水図﹂﹁梅地巡ヘの王治本の器である。 ⑩王治本の目に映った一竿の人となり等 次の一 0六から一一六までの一連昇は、再度あるいは三度目の一竿宅での作である。これらの中で、王治本の作一 0七は 彼の一竿との交情を知る上荏目しておく必祭あると思われるので、やや長いが、挙げておくことにしたい。

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-61-- 0七一竿置酒招飲、 南山帆特南海深 中有幽人 惰森独宿鏡水澤 焚香披古易 抱膝対長琴 超脱風塵外 独具古人心 綽綽怡怡兄与弟 出同穿履眠共衾 一竿風月伴W-半生跿踏可泉林 意気往往不屑与時合 偏与万黒馨結知音 一見如旧識 雅誼△呈品今 握手発長啼 各自訴幽襟 柴門有約重来叩 即席分得侵嶺/南山岻特南海深中有幽人 南山は飢特にして南海は深し 中に幽人有り 窯森独り宿る鏡水の海 香を焚きて古易を披き 膝を抱きて長琴に対す

風塵の外に器し

独り古人の、心を具えたり 綽綽怡怡たり兄と弟と 出づるに穿履を同にし眠るに衾を共にす 一竿の風月鵬鷺を伴い 半生の朧跡泉林に寄す 意気は往往にして時と合するを屑しとせず 偏に万里の一響と知音を結ぶ 一たび見ゆるや旧識の如く 雅誼獣昌今を合す(志を同じくする友となる) 乎を握りて長嚇を発し

各自幽襟深い思どを訴う

柴門に約有り重ねて来り叩きぬ 黍園

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-62-緑酒不碍再番諭 巴塘路 高坂蝶 勝景曾経杖展尋

暁游夜酌餓日

嚢中拾乍無多吟 冉冉春光過一月 来時紅芽今緑陰 只恐杜宇促帰去 南浦話別涙淋淋 旺嵯乎 話別母須涙淋淋 唯期此情此誼同古今 緑酒再番樹むを碍げず (2。) 巴塘の路 高坂の蝶 か0 勝景笈吐て杖履もて尋ねたり 暁游夜酌虚日無し 嚢中幾多の吟をか拾い得たる 冉冉たる春光一月過ぎ

来りし時禦す今緑陰

呈ぢくは杜宇の帰り去らんことを促し 南浦に別れを話りて涙淋淋たらんことを ああ 別れを話るも一派淋たるを須いる母し

唯だ期せん此倫此の誼古今に同じからんことを

﹁冉冉春光過一月、来時紅韮4緑陰﹂とあるから、五月中旬ごろの作と見ることができるだろう。 Σ七と二八は存斎老人奥宮暁峰の﹁招飲﹂時の作である。奥宮暁峰(一八一九S 一八九一己は否永。名は正路、(中略) 暁峰、存斎は号。(中略)明治の初め上京して教部省に入り官職についた。明治玲年帰郷して海南学校の教師となり、加年退職﹂ 父) した人物という。 王治本の一一九﹁観小桃女史画、有石有蠏、膿二絶﹂は前後の作と脈象ないが、小桃女史とは、日本画家河田小竜の娘

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-63-であろうと思われる。小桃は号で、﹁高知にて父に従て画学を学び。別役春田等と狼戸だったという。 次のΞ0から一一Ξ一までは﹁近水楼集飲﹂時の作品群であるが、一五一から一五六までの作品群よりも後次の作と見なけ ればならぬ徴証があるから、後回しにすることとし、先にΣΞ二から一五0までの作品を取り上げることにする。

⑪田辺県令ヘの王治本の器

さて、次は王治本の二Ξ二﹁詠学蝶溌獅儿ナ而﹂と一竿の次一艀Ξ西さらにその次に、孤立した感じのする逸斎の作一 Ξ五が続く。その次も明らかに聖しているが、時の高知県令田辺良顕(一八三四S 一八九七)ヘの士治本の贈詩である。こ れも長いが、挙げておくことにする。 Σ壬ハ憾害同智木令田辺旭汀 為官凶振作県目 司1,で1寺重力小目僕 民生所重食与用 ﹁ノ、主目1迴夕巳"二言山 {有袖明賢邑宰

興畢驫化民頑

我自駕海来高城 頻聞嘖嘖載道声 載道之声何粟ル コ﹂、 f {月たるは最も難し県{目たること 閣閻(平民)の器U 動もすれぱ相関わる 民生に重んずる所は食と用と 其の情を得ざれば怨杣起こる 安くにか神明にして賢なる邑宰を得て

民四聖興し民の頑を化せん

我海畢一して高城に来りしより み

頻りに聞く嘖暗εして道に竺る声

道に繋るの声は何の説う所ぞ (2) 64

(19)

-説道海邦困一得 自従田辺明府宰我邑 俊如父母保赤嬰 学有校分脩我教 医有院分衛我生 保富庶分敦其俗 課農桑分勧乃耕 一載両載三五載 溌風漸革化漸行 又道高城天甑南海南 左阿右豫山巖巖 車不能通馬不進 自来行路苦何堪

田辺明府直誌

唯豫与阿亦爾爾 Ξ県合謀興厭工

聾破雌霊道里

異霧山利工永

此功利益更倍荏 説道く海邦里口の情 田辺明府我が邑を宰りしより 僚も父母の赤嬰を保んずるが如く 学に校有りて我が教えを脩めしめ

医に院有りて我窒を曾しむ

一県を保ちて其の俗を敦くし そ

農予瓢して乃の耕を勧む

聶両載Ξ五載

溌風漸く革まり化漸く行わる

又道く一最は天独南海の南

をメEにし予象(伊予)を右にして山、リb1女峨:たり 1 車は通ずる能わず馬は進まず 自来行路苦しきこと何ぞ堪えん 田辺明府は此れを憂うる有り 唯子象と阿とも亦しかり

Ξ県謀を合して厭の工を興し

畷巌を難破して道里を通ず

於山を移すは工永を利せしのみ

此の功は利益更に倍荏 オ い

(20)

-65-衞斈躍之歌

口碑一詞良有以 吾与田辺明府曾有旧 聞之云胡不心喜 我之所喜更有在我躬

栖柚林重相逢

今日琴剣棲遅地 恰奮松歌雅化中 授我餐今適我館 少陵居罰仲宣依劉母乃相与同 乃知柔遠既能仁 益歎保民定有功

衛倫壊の歌

口碑の詞良に以有り

吾は田辺明﹂府と曾て有旧り 之を聞きて云胡ぞ心喜ばざらん 我の喜ぶ所は更に我が躬に在る有り

栖栖たる蔀跡重ねて相洪ぬ

今日琴剣もて棲遅せる地は 恰もサ鞍雅化の中に在り 我に餐を授け我を館に適わしむ 少陵の罰に居り仲宣の劉母に依る乃ち相与に伺じ 乃ち知る遠きを柔げて既に能く仁なるを 益ます歎ず民を保んじて定めし功有らんことを ああ 大都大邑は撫し易きに非ず 三異十奇豈小補ならんや 群情戸戴するは自ら真有り 衆口の歓声は強いて取り熱し 楽しむこと時雨の如く望むこと歳の如し 田辺明府は真に神父なり ママ 鳥乎 大都大邑非易撫 三異十奇豈小柿 群情戸義自有真 衆口歓声難強取 楽如時雨望如歳 田辺明府画一NX

(21)

-66-ママ 鳴呼田辺明府吉薪父 署同知県百科事典﹄の記載にょれば、もと福井藩士の田辺良顕、号旭汀は西南戦争で﹁陸軍中佐として警視隊を旨軍し戦昜 に編、戦後は内務権大書記官一保局長に進み﹂、十六年三月﹁高知県令(後の知事)に任ぜられた﹂。十八年﹁四国誓開 難案と浦戸湾改修案を県会に提出し、県会民権派の猛梨反対を受けながら実施に踏み切り、これを完成、高知県の交通と童 業開発に大きく貢献した﹂という。 王治本とは東京での内務権崟邑目、警保局長等在任中に何らかのかかわりがあったもの と考えられる。また、王治本四局知滞在にも彼の大きな助力があった模様である。そのことを表現しているのが 7支我餐今(中 略)相与同﹂の二句で、唐の杜甫が官を捨て放浪して罰の成都に移り、旧友厳武の張叺を受けて、比校的安定した生活をした こと(新旧﹃票昌本伝等)や、Ξ国魏の王条乱を避けて粥に赴き劉表に頼ったこと(﹃三黒﹄馨本伝)を典故とし て使っている。この作品は﹃田辺良顕伝﹄巻頭にも﹁田辺良器<徳賦粲政随様使者王治本書﹂としてその写真版が易載さ れている。その末尾に﹁光緒丙戌首夏月﹂と記されているから、この年の陰暦四月、すなわち陽暦の五月四日から六月一日ま での問の作とい、つことになる。 明府:は工工にネ申つぐなり ああ ⑫逸斎宅における作など 次のΞ七とΣ=八は春田招飲時の作。一一=九から一四Ξまでは逸斎宅で﹁集飲﹂したときの作で、全員が士鴫一ヒを詠んで いる。その中から、初登場の高力張洲英の作を挙げておこう。 一四二逸斎招飲、席間咏杜鵤花、分韻高力張洲英

卯穫雨湿胴脂秀如き夜雨胴脂を湿す

-67ー

(22)

不識香魂又怨誰 憐殺凄凉春去後 班班血涙漬花枝 高力張洲英は、、張洲が姓で、英が名、高力が号か。一弗の地一織﹃士陽新聞﹄十八年十月三十一日及び十九年一月九日号に ﹁十一月一日張州英先釜凹画会/但来観諸君席料入ラス,,,,稲荷新地煙月楼﹂という広告力掲載されているのか多毛になると 思われるが、詳細は未赴 識らず香魂又誰をか怨む 憐殺す凄凉として春去りし後 班班たる血涙花枝を漬す ⑬書画大会のことなど この辺りで触れておくべき事がある。それは五河二十'日に得月楼で王治本と玉繊女史をゲストとし、そ裟別の名目で開 かれた書画大会である。﹃高知県﹄十九年五月二十一日号から三十三日号まで三日続けて掲載され奈の広告にょり知られる 書画大会来ル廿三Π正午十二時ヨリ席上揮毫王黍園先生玉繊女史一荷トシテ得月楼二相佐候冏四力J需君御.中ヲ ごフ この後、﹁発起人﹂として奥宮暁崟 溝淵素石・高木暗江・吉岡竹澳 宮地逸斎・西川一発・河田小桃 徂席料五銭酒宴席ヱ御連之方ハ席料共三拾銭 田中讐呈 山本弘堂

今井'

河田蟠山・三浦一竿・尾崎逸岳・岡林豊7・渡辺白鴎・柚山夢香・小松松 日比野聖丁渡辺戟山・佐藤柳渚・細川錦浦・浅香石帆・別役春田・種田豊 ママ 橋本小湖・得月竺綵霞史女の邑十七人が名を連ねている。以上の人物 (雛 水河

(23)

-68-のうち、未登場の者に若千の説明を加えておく。、河田幡山は上述のH本画家小,竜のことで、幡山もその号の一っ。明治トニ年 ﹁隠居して家を誠り、画道や、その技術を生かした仕事などに各地ヘおもむいた﹂ ハニ九S 一八九五 0 . J : ,一; は﹁日本画家。(中略)画を橋本小饅、徳弘董斎の二人に学﹂んだ人である。佐藤柳渚はこの当時高知に滞在していた人で、 発︺ この年の十月以ル壽国ヘ芋ぢている。浅香石帆(一八三八S?)は﹁一勞医、諄渓通称、利渉、維新後勝兄と改名す る。また浅川を塗日と改姓した。(中略)縦打仮、水通町に開業、医術の八、葬=に達した才人で、詩文こ万みであった0 暴 、、壬生水石門人、く轡も有名で、轡は堕具卿の書唖Lを好み、田中馨'、浜口秋万く等とともに知られた﹂人勿という。重田豊 水(一八三二S 一八九九)は﹁画家、漆芸家。(中略)山口県(碍)に牛まれた。(中略)当時叔父に当たる条士佐鼎岡 諾村(雀市宇佐)青龍寺の住職をしていたので、これを頼っ系末の士佐に来り'鼎左川村(左川町)の鞘師重田某 宇女、に入りミして鞘師の職を糸佐いだ。維新後高知市に出て帯屋町に絵画と影^漆紘の塗師を兼業、一したという。画Ⅱ牙会乞、華、ノ ﹁書家ノ\中略)京都加茂に生まれる。(中略)明治24年ごろ香川県に来ていた蓼華に士佐の河田卜龍が声をかけ来高、高知 県庁に勤務。のち高知師範学校で約5年間習字科を担当。一中略)その後﹂尿都に帰る。一琴華は日本こおける屈旨の大家であった0 金︺ 卯歳代で没したという﹂。今井小藍(一八五九S 一九三二)は﹁日本画家。(中略) B才の折、河田小竜の門人となり、以来画 業に務めて、小竜倫弟といわれるまでになった﹂という。橋本小湖(一八五七S 一八九一)は﹁南聖小。(中略)明治4年 2月はじめて橋本小霞に画法を受け次いで徳弘董斎、河田小竜に就いて修業明治H年末におよんだ。その後壬生水石の高弟、 尾崎学古斎に纂刻の法を学んで刀技にもすぐれていた﹂という。得月楼主は松岡寅八(一八五OS 一九三二)。寅八は、西南 戦争後、落ち着きを取り戻してきた世の中で、白分の餐呂する陽暉楼(得打楼の前の名)に﹁なんとか品格をつけたい﹂と願 このことを常連の築小複に相談し、﹁文人墨客を招いて、高知では、はじめての大沓画会を催すことになった﹂という0 、、 し 以上の他の人物については、残念ながら未詐である。 と し、 つ 2f] ノ"゛ー'、

(24)

-69-⑭仁淀川での釣りなど さて、ここで再び需城唱玉集﹄に戻るが、一四四から一四七までがひとまとまりで、仁淀川ヘ釣りに行ったときの王治本 の作器である。一四四﹁仁淀川垂釣﹂に﹁深江五月有餘寒﹂とあるから、一応陽暦六月二日以後の作ということになる。一 四五﹁八田川舟中即景﹂を挙げておこう。 野肪鯉茎谷易棹

水車復百能旋

埋一重畳山環抱 舟路偏従剛底穿 これは王治本の自注にも﹁水車川中に横設し、周囲約一丈、翼を布くこと十二臣端の左右繋ぐに水桶を以てし(中略) 余此の地に於いて始めて之を見たり﹂とあるように、八田(現吾川郡いの町に属す)の辺りで舟の中から水中を見たときの 驚きを詠んだものである。一四七﹁贈池梨園﹂の池梨園は、この辺りに住んでいた人物と思われるが、未詳。 次の春田の一四八﹁招飲黍園先生及諸友、酒間分得先韻﹂は前のτ二七・一Ξ八と同時の作のようにも思われる。 野紡 水車 禦一 舟路 需一く棹ぐこと容易なり 堤有り自ら能く旋る

重畳して山環抱し

偏に闌底より穿つ ⑮天野方壺のことなど 一四九と一五0も孤立している印象を受けるが、一四九には言及しておきた 一四九天野方壺画伯過訪、賦以贈之黍園 0 し、

(25)

ーフ0-遲遁有縁客路中 海南旅心萪相同 報蕭暫女満票ヨ 磊落襟懐両袖風 呉越游綜曾屡屡 丹青妙手本空空 恍如吉備*襟福

争道天馨気雄

避遁長有り客路の中

海南の旅夢料るに相同じからメ 懇蕭たる桓女満頭の雪 磊落たる襟懐両袖の匝 呉越の游践曾て屡屡たり 丹青の妙手本空空たり 恍も吉備全"補)の徐福に逢えるが如く

道を天き争いて・甍雄たり

梶岡秀一氏の研究にょれば、文人画家天野方壷(一八二四S 一八九五?)は﹁名稲、字が黄香課が吉だったらし﹂ く 四国松山の生まれ。﹁天保九年(一八三八)、蚕十五歳の十月、遊歴の告﹂を始め、日本各地に遊んだあと、明治三年中の Ξ月ごろまでの時期に﹁中国の上海に渡り、胡公寿に師事して一年閥、南派の画を学んだ﹂。同年十一月、長崎ヘ戻った後 八年には﹁京都に居所を定めた﹂が、その後も国内で﹁出稼﹂をすることもあったという。王治本の原を﹁方壺張我邦者 数次、故第五及之﹂とあるが、現在のところ、力壺の中国遊歴は一度しか確認されていないようである。なお、梶岡氏にょれ 出務ミL一の一王毅として郷!旦の杉ミ山に刈価で匠したこともあり、十九年に杉}山で1苗いたイ乍品力ゞあるとのことであるから、 王治本の松山行は方壺の勧めにょるものだったかもしれず、さらに想像をたくましくすれぱ、方壺と同行した可能性もなくは (3) ないだろ、つ。 (3) 、

(26)

ーフ1-⑯独酔宅にて

一五一 S 一五六は築独酔招飲時の作である。次に挙げる沢村牛山の一五二の題に﹁芒哥四日﹂とあり、また、独酔の題 ﹁六河三日﹂と明記されていることから、その招飲の日が知られる。まず、その牛山の作を米乎げることにしよう。 こ 一五二芒種前四日橋本独酔招飲、始逢王黍園詞宗、分得蕪゛ 此れは是れ幽人の宅 此是幽人宅

没乢碧にして又澄めり

池流碧又澄

暹崇孤鳥過ぎ

浜張鳥過

下何玉畢1輩街

細雨一怠凝る

1島女剛をイ崔し U酌催微剛 3

一豊遠朋と会す

高一琴遠朋 Π長くして情未だ已まず 日長恬未已 一器画楼に登る 還向画楼登 牛山沢村辰 沢村牛山は署同知県人名事典﹄に沢村道朔(一八一五S 一八九0)として取り上げられている人物と見てょい。事典の誘 を引いておこう。﹁山内家侍医。名は祐辰、号は牛山。(中略)道朔は漢簣詩歌、批通一需等に通じた文化人で交友が多﹂ かった。次に独酔の作を挙げよう。 一五六六月三日招王黍園先生・玉繊女史井諸友、分中県韻独酔橋本厚

(27)

ーフ2-盤用辛燃炎用塩 ;ー'メ,災^詰ノⅡ禾一北牙 酒1心旧酉声偏能叫 1羽一昆亘3邑穂をー 池畔水如弓影曲 階前山似一讃尖 病餘万事禪堪隠 短拷唯隣白髮添 盤に辛椒を用い葵に塩を用いる 参、厨は寂告入にして畔兼ね酬し 酒は旧醇を叫むも偏に能く酔う 上 舘は芽匙!を闘わさん漫に枯む英かー トーニ}ターづトノ d)メーくⅡⅡカリ 則 1ーき巨豆頁にイーーて小^れり

病餘万事津て槐ずるに堪えたり

器円唯隣れむ白髮の添うを

⑰再幕月楼(近水楼)における作など

さて、ここで、先に後回しにした一一一0から一一Ξ一までの﹁近水楼集飲﹂時の作品群を見ることにする0 この一群を一五一 一五六の一群より後に位置づけたのは、邪とも野之竹(牛山)の作が含まれるが、後の一群に含まれる野の詩題一五 S 二に﹁始逢王枩園詞宗﹂とあるからである。さて、近水誓得珂楼の別名である。命名の由来が宋の兪文豹の一活夜示一斤収 一﹁近オく1饗台3t乍イ勺.月L一という詩句に^づいているかC)である。この乍品零羊のーコこ初めてょ旦昜する二人の人1勿の石手 を見ておこう。まず浜田石軒である。 Ξ五近水楼嘱目 清湾一

曲蔵垂楊噂何

煙外危榊坐夕陽煙外

石軒一術貞 ひた 一曲垂楊を熱す

危欄夕陽に坐す

(28)

ーフ3-罷釣漁舟去何処 数声柔櫓水一弛 浜田貞、号石軒については﹁士佐人﹂令江漁晩唱集﹄顎五十四丁)とのWしか得ることができていない。次は大井雲山 であるが、この人物については情報が得られていない。 釣りを罷めたる漁舟は何れの処にか去る 数声の柔櫓水一鞭たり

二Ξ近水楼即景雲山大井閏

倚欄把酒費吟峨欄に倚り酒を把りて吟峨を賓やせば

臨水楼台晩景多水に臨む楼台晩県多し

漁棹空横人已去漁棹空しく横たわりて人已に去り

一痕新月湧金波一痕の新列金波湧く

この後、璞堂の一五七﹁禦園南淘諸作後二首﹂があるが、これは﹃弥生新聞﹄四月二十九日号にも掲載されてぃるもので あるから、すでに少なくとも六月三日には達したこの時点に位置づけるのは、明らかに編輯者のミスであろう。ただ、﹁南海 諸作﹂とあるからには、王治本の高知での作品がある程度の数に達した後のものということにはなろう。一五八は王治本の﹁題 一籍温泉﹂。一籍温泉は現在の吾川郡いの町大内にある温泉。場所からして、一四四S 一四七と一連の作か。

⑱送別と留別

すべて 一五九以下一七六までは、いずれも詠まれた場所や日にち奪定しかたいか、王治本の一六Ξ詞田別高城﹂以外は 、

(29)

ーフ4-高知の文人たちが惜別の情を詠んだ作である。このうち、一竿の作一五九と王治本の作一六Ξを挙げることにしよう0 一五九話別 両度氷輪缺又円 聞君卜日上帰舩 落花飛架斜陽影 緑水青山細雨天 万里離情猶是夢 半生衰髭共相憐 何年把酒重聯楊

事鞭燈一酔眠

一竿

両度氷輪缺けて又円なり

聞く君日を卜して帰舩に上るを

落花飛架斜陽の影

緑水青山細雨の天

万里羅情も猶お是れ夢なり

半生四萎共に相憐れむ

何れの年か酒を把りて重ねて楊を聯ね 更に孤燈を剪り一酔して眠らん

一六三留別高城黍園

両旦鰈夢一場両月の蔀綜夢一場

禁釖梅雨過端陽漢初たる梅雨端陽(この年では場暦六月六旦を過ぐ

平生瘤抱姻暴平生瘤(病疾)として抱く姻饅の癖

到処多゛籌酒忙到る処縁多く詩酒忙し

巴水鳧鵬新結識巴水の発鴎新たに哉を結び

秦家城郭旧同郷秦家の城郭もと郷を同じくす

(30)

ーフ5-懐南声裡勧南住 奈我西游客路長 なお、一島を去った王治本は、前曾とおり、松山ヘと向かうのであるが、一銘の文人たち倫題には、一竿の一六六﹁次 弘議業里棹神戸﹂(﹃高知Π報﹄十九年七河九日号にも掲載)をはじめとして、船で糾戸ヘ引き返すことを去卵したもの 0 これは一^剛1高にも述<弌たごとく、当貼、高知は荻t通の心乏ガ即^く、隣旧舎^女力爰の松山ノ\向かう際も、田辺良呈1!県冷のJフ将もい まだ及ばず、いったん船で阪神地方ヘ戻って出画す方が便利とい、蚤情があったのではないかと想像される 懐南(器の別名)の声の裡南に住まんことを勧むるも

奈せん我が西游客路長きを

以上、明治十九年四月中旬から六月中句にかけて縛り広げられた、高知での王辻すと地元日え佃文ノとの詩文,父沈の様子を、 崎郭程度にすぎないか、再構成してみた。次稿では、王治本ガM匁を去った後もなお1介剛継続し大古好の文ノとりオι田 ^﹂一^^淋[ 0)1隶オ目を助;イ寸ιナ、さらにりく々 1高マ了は、[リーソ^伯二二十イf引一力C)Σ上寸一一イー.ー') y に力、けて,十ij、しナ県 仂周と高知の文人たちと倫文﹂、需綴相を跡付けてみる予定である。

おわりに

(31)

ーフ6-(1)柴田清継.一將海波一明治期高知における日中文人の交流1画家胡既毎を小、心として1﹂令武UΠ司文﹄寺七十︹号、-9 一乍)0 (2)溺城唱玉条﹄はその稿本か高卸小立図書館に一織されている!鄭出身の上況家U岡血大(一 LO\S 一し\二)の写曽こよ 0もの であるなお、この,.Mの湘輯を担ψヨした東都の櫟窓林信については、別後四需をテーマとする次高こお、ぐ喬Υ父することとする0 1習 1ーーーー、1 ↓一N. (4)璞堂の作一については、前掲拙稿十頁昇干言及した。 (5)士佐文雄﹃得打楼1.一(肌新W、一九七0作)に詐しい。なお、蛇足かもしれないが、この斗券﹁町月楼﹂との市名者を﹂ミ画 {鳶本小飯(一八一三S 一八七九)とする説もあるので、燮町しておく。そーは山本停﹃士仏詩史﹄(1ι三、- L二七手)、.

、一,﹂、、トLjι又学こ乏じ詩.父、で

tU可10)田こ耳父り旦寸J姿と名イづく^0

(6)さねとうけいしゅう﹃近代日小一絵史話﹄(春秋社、一九七二年)訴収、7士治本の日木漫遊﹂二010

﹂1一 1i一由^。

県.人名1十仙ど杯佳余客只会司司^島ケJ県人名11i典^^高知市民図11上、- L七一 q三、、"ΞヒL、、τ寸ヒヒ百3 r 1督 11邪寸ノ下i/ (W)于治本と玉參史に関する資料としての﹃新潟新剛﹂の存在は、田{1氏の﹁禽北条の来越(明治十ヌS卜七f) 1人婁波とΞ,、邑ト を中、心として1﹂(﹃卸雄文人研究,一第六号、二00三午)にょり知った0 (Ⅱ)さねとうけいしゆう前掲論文所救﹁王冶木日本没遊年衣﹂0 (藷)島於史発編集委冬編一高知踊史諾<.一(噺市民図京、一九\0年)三五三1 雲木東富一夕赱につぃては、^高知Π゛ーー﹄,十九年九月二b九H、十月一日、及び二日口^ラの広占こ一?、'北︾ルχ々皿1t 二ーリ.、夫り及忍g苛金" ーフフー

(32)

升ξイ告断会チ下子頁リ金t旧.^朗j、1正人ル﹂罰をニシテ尋島1努ヲ負タルコト一^テ灸垂シノ\中叱/ fザ^伯↓ブーfブ月ΣLイ古1君曲疹ノⅢ丁一日すΞ三牙田氏 東一曼県稔理/東富正衛後見束'冠英﹂とあるのガ、何らかの関係があるように感じられるが、チ、喜 (N)﹃高知県人名器<﹄四0四・四0五頁。 三九六一典。引セに中十寸山^ーテΣヨ iり]錨t1毎L一オtL言己1消末の一中皿家と士UCの詩人達1{一ι气甲南国こ文:﹄,鮮三一1ーロ^、一ブノ 八年)二0六頁。 (W)日木では一八七二(明治五)年、太陽暦の一種であるグレゴリオ暦を採用、同年十二旦日を一八七三圷一村一. Hとした。 (W)中村氏W論文三0八頁。 (玲)王治本のこ倫は﹃煕朝風邪﹄第六集(十九年一月)にも﹁将游西海賦副1江戸諸友﹂との翠゛されている (W)さねとうけいしゅう編訳﹃大河内文沓明治日中文化人の姦﹄(平凡社東洋文喪、一九六迅圷)ニニナ頁 ⑳易は、宝永年剛の成立とされる緒方否編﹃士佐1声土仏郡巻ノニ十に潮田(高会Hの旧下1上現右11叩止予河・剣

ガ丑土1[、打之口打一紬1村古五ナⅢψ汁,一11以一ぽと

とある(﹃土佐州郡志上1復刻版1﹄、士佐史雙工、一九八下年、四一九百じ中の﹁巴堤﹂がこれに当たるのではないかと思オーるな お、松野属芥が明治十一年から三十四年にかけて編纂したナ佐の史料集である﹃呰山非﹄では、右の一節をぢき、﹁南堤﹂を﹁南加﹂ "^寸驫可^二Lイカー之国史料、生頁竹^皆山集第九夕、.^第Ξ祠酉己木\ン地王県(2 .凶然.産業1箭匹一^高上1旧1V一図^凹館、一プ七1ー'年、 二三五頁)。 手NJ会Π押^ノ\才召Ui 44毛一 1二↓︼↓二^。 (22)松村巖﹁河田小竜﹂令士佐史談﹄第五拾六号、一九三六4)一Ξ畢貝。なお松村氏はこれに続けて 0羽は﹁谷、靴{彩て﹂、先 に二昂都に産科医を業と﹂していた弟の蘭太郎娘り、﹁産婆の名家安田氏に従ひ!張をぎしが。其後消息を審にせず﹂と述ベてい も一掘次、由良久牙之日キ交{^L一にょる^河夕卞同人集是一という書牧ーノ、、ーモ井釜平L^編一﹃中Π詩二文:交沈集﹄=可ヰーⅡt宗W"隼N .ー

(33)

ーフ8-北^イ]、一^00四イf、一"のあることを1旨商しておこう。こτは明リ^伯切1U1の日丈\ミ侍のル6イ国ガ、ム吏{唱"丘員k又:東こ一ナえ、に浮{こ の文き十四篇を収めたもので、もともとの出版状況は不明だが、中国でも刊行さτ、実雀愈秀氏は﹁光鸞十\甲(打治二十五乍)あこ りに重却されたもの、一を蝉兄したとのことである(向氏﹁姚文徠ものがたり﹂、﹃明治日支文化交渉﹄所又、光貝官、一九四三手)0 (器) 1鰯県百利W﹄(薪斯聞社、一九七六年) 1三貝。なお、田辺の収'ら、ては﹃田辺良兵云﹄(田辺芝噸伝町テA、編嘉心例町テ、 一九四九年)所収の三、田辺良顕年誥﹂と﹁四、田辺良顕略歴﹂がより詐しい 0 (誕)この一字は印梨不紡で、判読できず、やむなく.で尓した0 日士ヒ坐予迹[古ヲに一)いては^剛1U1出1高卜一二、十ヒ肖,<をそーそゞ才1乏ミノ照さーた、 0 (節)﹃高知県人名器<﹄一 9音。 Ⅱ旧^メ、才ヨ三1i 4U毛一^ノー、ノー、ー{。 (器)﹃薪日廿﹄寸九年九珂二十九H号に次のような広告礎っている。需別古画大会/迂二尋]楼肅'f蛋不H清回ヘ発途女サン トス佳テ牙ル十月四日同楼二於工画会相催度四方ノ諸君子新旧ノ刈ナクモ.トトニ俳ヨリ御米語ヲ犬テ咲十迺侠ミ日、.ヲご御.J、勝手 次第/佐縢物渚敬白/会幹得打楼主再拝﹂。なお、十村一Π号と伺Ξ日号の広占では、奥宮暁父レを五貞にト\名の﹁巳、1老﹂者の が列記されている。 西)﹃高亀人名器<﹄五頁。 (3。)同上三吾。 ﹂,于Ⅱーテ弓を員ム、子ミ刷面^尚女Ⅱ旧小人名Ui ^ハ糸1i1反、=ノ;、"田会Π緊1i開 S士、^ L ししヰξ、一".^π.﹂く︺三︹0 (32)一高知県人名W﹄三土1。 (給)同前二八四ページ。

ー:四十・四十一頁0

(34)

ーフ9-露)梶岡秀一﹁文人画家天野方壺傑の謡﹂(﹃霞県美術館研究勺生第三号、二00四年) (36)以上はもちろんあくま忍像に過ぎないか'治木の伊予朽に明治の大阪Nを代粘する画霖琴石(一ノ四三S 一ブニこが同行し たことは雅かなようである。陳捷氏が﹁十九世紀七、八十年代小国書画家的U本遊歴﹂と題す,哩父(関西プ学文イ交些子,育河グブ子点 C1S栃 1C1S一邪Pq届国捗字術サ討会論父条﹃日卯Ⅱ版与知識1T汁11比赤コ以後が斗弓﹄、関せブ斗文イ交沙学劃"口句北プ,.上1C

1Cンιよ

る。 (しぱた・きよつぐ丕段授) (シヨウ,カイ,オ学非"勤謡師) 宗局城唱玉集﹄では﹁明﹂に作るが、稿木に﹁朋﹂に作るのに従い、改めた。 宝弗県人名器<﹄ ^削暑出1r寸↓二、7← ノ\ -80-ノ、 ]ι! ノ"ー'、ノ"ーー'、ノーー'、 39 38 37 、、_ノ、」ーノ、、ーノ

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