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いのち
生命の輝 きの倫理学 (
1)
― そ の 1 0 の 提 題 ―
西 永
兼
康
The ethics of "brightness of life"(1)
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Kaneyasu Nishinaga
はじめに
いの ち いの ち 「生命の輝 きの倫理学1
」。拙稿の課題 はこの 「生命の輝 きの倫理学」の素描 を示す こと にある。現在 「いのち」の問題が改めて狙上 に載せ られている。所謂生命倫理の問題提 起 によるものである。そこで 「いのち」が本質的に問われ、その結果新 しい倫理学が要 請 されるに至 った。 しか しそこにおいては倫理学本来が担 うべ き 「生 きる意味」への取 り組みは後退 し、専 ら医療技術の是非 をのみ問 う議論が繰 り広げ られている。倫理学 は 倫理学であ り続けなければならない。 しか もその倫理学 とは人々に 「生 きる力」 を与 え、 いのち 「生命」の輝 きを指 し示す ものでなければならない。 さもない と倫理学 は砂上の楼 閣に 陥って しまうであろう。 いのら 以下は、「生命の輝 き」の概念 をめ ぐる 「生命の倫理」の一つの試みである。拙稿では ここに10の提題 を示 し、なおその提題 を補 うべ く、具体的問題 にも言及 した。 これをもっ いのち て、我々の 「生命の輝 きの倫理学」の端緒 としたい。 提題 1. いの ち いの ち 「生命の輝 きの倫理学」 とは、各 自に与 えられている生命 を生 き生 きと輝 かせるために、72 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) いのち 生命の問題 を対象 と した倫理学の一つの試みである。 この倫理学の対象 は医療対象の せいめい いのち 「生命」ではな く、人生の途上 にあ り輝 きを放つ 「生命」である。 いのち いのf, いのf, いのt) 「生命の輝 きの倫理学」。生命 は輝いていなければな らない。輝いていない生命は生命 いのち いU)I, の名前 に値 しない。 この生命 をいかに して輝かせ るのか。それが「生命の輝 きの倫理学」 の課題である。 それではこの 「生命」 とは何であるのか。通常 「生命」 を考察する場合、二つの側面 が考 えられ よう。 まず第一 に、生物 としての人間の側面である。つ ま り医学の対象 とな せ いめい る人間の 「生命」である。 この場合物理的にこの世 に存在 し、生命体 としての人間が生 命 を持 っている とい うことが問題 となってこよう。勿論 「生命」 を考 える場合、生物体 せ い め い としての 「生命」 は議論の大前提ではあるが、この ような医療の対象 となる 「生命」 だ けが問題 とされるのではない ことは当然のことである。ただ心臓や脳が機能 しているか いのち どうかで、人間の 「生命」が考察 され尽 くされる訳ではないのだ。た とえ生物体 として 生 きてはいて も、人生の出来事 によって もはや燃 え尽 きて しまい、「生命」の名前 に値 し いのち き L,め いのナ, いU)rノ に燃 え、なお生 き生 きと短 く 「生命」 もある。何故 な らば 「生命」 とは輝いていること いのt, によって、初めて 「生命」の名前 に値するか らである。そこで 「生命」の第二の側面 と いのTノ して考 え られるのが、人間を人間た らしめる 「生命」 その もの、つ ま り人間が生 きてい く上での 「人間の人間 らしさ」 (小原信)で ある。 ここで 「生命」 に対応す る欧米語 を考える時、興味深いことが分かる。た とえば英語 l=..l′・、.. で 「生命」と言 うとHlife■-が考 えられ よ
う。
ただこれを日
本語 に訳す時、た とえば 「生命」 とも訳す ことが出来 る し、 また 「いのち」 または 「人生」 とも訳す ことがで きようO同 せ いd)い じ言葉で英訳が可能な 「生命」 と 「人生」 とでは随分 と受け取 り方が違 って くるのだ。 せいめ い 明 らかに 「生命」とは生物学的生命 を意味 し、「人生」とはその人の生 きがいである とか、 いU)t, 人生の意味等が問題 にされるのである。すなわち 「生命」が問題 とされる時、生 きるこ との質、意味が問われて くるのだ。そ して人生の意味 を問い、その答 えを見出す時に、 いのf, その人の 「生命」 は輝 きを増す。た とえ死の床 にあって もなお輝 きを失わない。 どんな 人生の困難の中において も、希望 をもって歩 んでゆける。 どんな悩みが深 くとも、輝 い て生 きてゆける。人生の戦いの中において も、光 り輝 いてその馳せ場 を走 り抜 ける。そいのち 丙永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 73 の輝 きを求めるのが我 々の課題である。 いのち この ように して生物学的な生命 を前提 に しつつ も、人が如何 に生 き、それぞれの人生 いのち の中でその 「いのち」が どの ように して輝いてい くのか を問題 に したのが、我 々の 「生命 の輝 きの倫理学」 である。 提題
2.
いのち 「生命の輝 きの倫理学」は、「生命の倫理」 (ethicsoHife)の一つの形態 である。その故 に、医療の発展に伴 い生起 し、結果 として医療現場のア リバ イ化 に手 を貸す恐れのある 「生命倫理」 (bioethics)とは一線 を隔 している。 いのち いのち
「生命の輝 きの倫理学」 は、「生命」(life)の問題 を考察す る 「生命の倫理」の一つの 形態である。 この 「生命」 をめ ぐっての議論 は近年実 に喧 しい。所謂 「生命倫理」 の問 題提起である。 ここで まず我 々は 「生命倫理」の概要 を把握す る必要がある。 承 知 の ように、「生 命倫理」 とは、ア メ リカで1
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年代 以 降、定着 した新 しい概 念 "bioethics"の訳語である3.医療の進歩 に伴い、従来考 えられなかった治療法及び 「生 命」 にまつわる新 しい技術が開発 され、その結果様 々な問題が生 じた。た とえば臓器移 植の問題や生殖医療の問題、そ して挙句の果てにはクロー ン技術 の問題 まで提起 される に至 った。そ してその ような一連の問題群 を考察 し、その是非 を問 う学問が要請 された。 それが "bioethics"、つ まり 「生命」-"bio"の問題 を特別に取 り扱 う学問 としての 「倫 理学」-"ethics"、す なわち 「生命倫理 (学)
」なのである。 もちろんこの術語の成立課 程 を勘案す る と、語源の ラテ ン語の 「いのち」(bios)か ら派生 した この "bio"とは、 「いのち」一般 とい うよ りは、生物学的特 に医療行為の対象物 ・生物体 としての生命 と の意味が強い言葉 であ った。その言葉が 日本で も1
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年代 にす ぐに導入 され、当初 は 「バ イオエ シックス」 とカタカナ表記で用い られていたが、1
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年代 には 「生命倫理」
と呼 ばれ、以後 これに定着 し、現在に至 っているのである。 ただ 日本 における用い られ方であるが、その本来の意味である 「生命」の問題 を扱 う 倫理学の一つの分野 または学問領域 との意味ではな く、ある道徳規範 を表す言葉 になっ て しまっている。た とえばこの間題は生命倫理の観点か ら言 って正 しくないな どとい う ような典型的な言い方が されるのだ。つ ま り"bioethics"と言 って も、生命の問題 を広74 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) 範囲に考察する とい うよ りは、ただある事柄が許 されるのか、許 されないのか、その判 断基準 を行 うだけの受身の姿勢 に終始 して しまっているのである4 。 た とえば現在、生命倫理 とい う言葉か らす ぐに思い浮かべ られるのが、大学病院等で の 「生命倫理委員会」であろ う。た とえば臓器移植が よいのか、悪いのか、脳死判定 を どの ように した らよいのか、その ようなことが諮問 される機関である。現在 は臓器移植 法が制定 され、脳死判定基準が定め られ、 この ような委員会への言及は少 な くなって き た。 しか しなが らこの用法の中に、 日本 における 「生命倫理」の問題点が露呈 している と思 われる。つ ま り生命倫理学が果たす役割 とは、医療現場 の問題 に倫理学 の専 門家が 意見 を述べ るだけであ り、言 わば倫理学の専 門家の意見 を聞いた とい うそのアリバイ作 りに利用 されているにす ぎないのである。そ こには人が如何 に生 きてい くべ きか とい う 倫理学の視野が全 くに問題 されず、ただ医療行為の是非が問われるだけになって しまっ ている。 もちろんある医療行為 に対 して、その行為が重要であればある程、その行為 に 対 して倫理学の専 門家が意見 を述べ ることは必要だ し、悪 い ことではない。 しか しだか らと言 って、その行為の是非 を述べ るだけが、倫理学の使命なのではない。倫理学が人 間の生 き方 を問 う学問であるのならば、その問い を看過す ることは許 されないのだ。繰 り返すが確かに現代の所謂 「生命倫理」の問題 を軽視す ることはで きない し、 どうして も倫理学の課題 として取 り上げるべ きものであるが、医療行為の是非のみ を問題 にす る いのち のではな くて、そ こか ら一歩進み、その生命倫理の問題 をきっかけに して、生命その も のを考 え、そ して人の生 き方 をも考察す ることが求め られているのである。それ こそが 「生命の倫理」(ethicsoflife)の課題であ り、明か にbioethicsとは一線 を画するもので いのち ある。そ して 「生命の輝 きの倫理学」が 「生命倫理」 と折衝 を持つのな らば、生命倫理 が提起す るその具体的な様 々な問題 を糸口に して、その中か ら人の 「いのち」の輝 きを どの ように求めていけば よいのか を考察 し、人間の生 き方 を広 く問わなければならない のだ。 提題
3.
いのち いのち 生命 とは上よ りの賜物である。一方的に与 えられた生命 を自らの手で終わ らせることは 許 されない し、ま してや他人が「いのち」を立 ち切 ることもできない。生は最後 まで輝 き を持 っていなければならず、「生命の尊厳」は守 られねばならない。い のち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 75 生命の尊厳 とは、今あ らゆる現場 において危機 に瀕 している
。
「一方的 に与 え られた生 命 を自らの手で終 わ らせ ること」、す なわち自殺 によって、その尊厳が失われていること は論 を侯 たない。 ところで拙稿 においては、 この生命の尊厳 に関 して どうして も述べ な ければな らない ことは、現在の所謂 「妊娠 中絶」に関 してである。現在 は 「自己決定権」 いのち の名の もとに、この 「中絶」が許 される傾向 さえある。「生命の輝 きの倫理学」は、生命 の尊厳 を守 ることに寄与す る倫理学の試みである。そ うであるならば、我 々は 「妊娠 中 絶」 に対 して どう評価す るのか を明か に しなければならない。そのために、現在の 「妊 娠 中絶」 の状況 を少 しく述べ てみたい。 お よそ倫理的問題 を考察す る場合、 ひとまず国家や法か ら距離 を置かねばな らない こ とは、肝要 なことである。 なぜ な らば人が如何 に生 きるか を問 う倫理学 はあ くまで もそ の学問だけで独立 していなければならず、時 に応 じて国家や法その もの を批判す る必要 があるか らである。 しか しなが ら我々が中絶 を議論する場合 には、 まず中絶 を国家が如 何 に して捉 えているかを、知 らねばな らない。す なわち国家の中絶観が端的 に表れてい る法 を知 ることが、中絶の問題の現状 を考 えるためには、不可欠なのである。そ して中 絶 をめ ぐる法 を人が如何 に考 え、解釈す るか に、その人の中絶 に対す る考 えが端的に表 れるのである。 それならば、現在の 日本 において中絶 は法的 に如何 に規定 されているのであろ うか。 まずそのためには刑法 におけるその条文 を見 る必要がある。実 に中経 は刑法 中に規定 さ れ、中絶 を犯せ ば本来、刑法で罰せ られるべ きものなのである。刑法 は、妊婦 自らが行 う 「自己堕胎罪」 (刑法2
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条)、妊婦の同意 を得 て第三者が行 う 「同意堕胎罪」 (同2
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秦)、医者がお こなう 「業務上 同意堕胎罪」 (同2
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条)、 また妊婦 の同意 を得ず して行 う 「不同意堕胎罪」 (同2
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条) を定めてお り、た とえば自らの手で堕胎 を行 った者 には、 一年以下の懲役が、 また医者が妊婦 に依頼 された場合では、三 ケ月以上五年以下の懲役 が処せ られる。つ ま り法的には中絶は断固許 されない もの として まず規定 されているの である。 しか しなが らここで忘 れてはな らない ことがある。それはこの刑法の条文 は戦 前 に作 られた ものであるが、現在ではほ とん ど適用 されていない言わば 「死せ る法」 だ とい うことである。実は戟後す ぐの1
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(昭和2
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年 に制定 された 「優生保護法」によっ て実際上の堕胎 の運用が半ば公認化 されて きたのである5。 この法律 はその名前の通 り、 いわゆる 「優生思想」の もとに 「遺伝性」疾患 を持つ可能性が認め られる胎児の堕胎 を76 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) 国家が認めている もので、その他 それ に付随 して中絶がで きる場合 として、「強姦」に よ る妊娠 の場合、 また妊娠お よび出産が妊婦 の 「身体的又 は経済的理 由に よ り母体の健康 を著 しく害す るおそれのある」場合 を想定 している。ただ もちろん この 「優生思想」が た とえば障害者 の方 々を差別す る ものであ るこ とは、論 を侯 たない ところであ る。 この ような 「優生保護法」が戦後ず っ と保持 されて きたこと自体驚 きを禁 じえないのである が、1996 (平成8)年 に 「母体保護法」 に名称 が変更 され、いわゆる 「優生条項」が廃 棄 されたのであ る。 また政府 は1970年代 よ り中絶 の許可理 由 としての 「経済条項」撤廃 の動 きを見せていたが、杵 余 曲折 を経 て 「母体保護法」が施行 され、現在 に至 っている のであ る。 つ ま り現在 は、刑法 において中絶 は 「堕胎罪」 によって処罰の対象 になっている もの の、殆 どこの法が適用 されず に、多 くの中絶 はいわゆる親の経済的な事 由 による 「経済 条項」 によって行 われている。 もちろん現在、 どれほ ど経済的 な理 由で 「妊娠 の継続」 お よび 「分娩」が困難であるか は多い に疑問であ り、実際 にはこの法 も厳密 には適用 さ れず に、中絶が行 われているのが実情 なのであ る。そ して 日本 は 「中絶天国」 とまで邦 旅 されてお り、中絶 の実施数 はた とえば1966年 には33万件 に も上 り6、実際 にはそれ よ りも多 い と言 われている。 中絶 に対 しては二つの意見 しかない。つ ま り賛成か反対 かである。そ して両者 は現在 の法 をそれぞれ に盾 に取 り、それぞれの主張 を基礎付 け ようとしている。つ ま り両者 と も法 の精神 に適 っている と信 じてお り、そ こに議論が乱 れ飛ぶ原因があ るのだ。す なわ ち中絶 反対派 は堕胎罪 を盾 に取 り、「経済条項」を廃止 しようとし、中絶容認派 は、堕胎 罪 を廃 し、「経済条項」を守 り、た とえば手続 き上 で現在 は 「配偶者」の同意が必要であ るこ とを (配偶者等がいない場合 は必ず しも同意 は必要ではない)、変更 しようとしてい るのである。 そ して両者の意見 を基礎 づ ける論 とは何 であろ うか。前者の中絶容認論 (所謂 「プロ チ ョイス」)の一つの大 きな論拠 は 「パ ー ソン論」である。胎児 には 自意識が ないか ら人 格が ない。 よって中絶 は 「胎児殺 人」 ではな く、女性 の 「自己決定」権 か ら考 えるべ き だ とい うのである。確 か に自分 の体 の ことは 自分 で決定すべ きだ とい う論 には一面の真 理があ る。特 に女性 の側が 「差別」 され、子供 を産む道具 となって きた歴 史的経緯があ る。 まず女性 の地位 を向上 させ る必要があ り、そのための当然 の権利 と して中絶す る権
いの{, 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 77 利 を女性が持 っているとい うのだ。所謂 「リプロダクテ ィプライツ」(性 と生殖 に関す る 権利)の主張である。 それに対す る、中経反対論 (所謂 「プロライフ
」
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は、まず前者の 「線引 き論」を批判 する。つ ま りどこか ら人格 となるのか、 どこか ら中経が認め られるのか とい うその 「線 引 き」が難 しい とい うのだ。第一 に人格が ない と思 われて も、その可能性 を秘めた 「い のち」 を持つ胎児 を殺す ことは許 されない とい う訳 だ。 ただ両者の議論 はかみあっていない場合が殆 どである。何故 ならば中絶反対論 の多 く の場合、 どう して も議論が感情的になって しまい、建設的ではない。つ ま り中絶 は絶対 いのち に反対だか ら、その生命の大切 さを訴 えようとして、感情 的 になって しまう。た とえば その主張 を述べ る書物の題名は以下の通 りである。
『わた しの生命 を奪わないで』
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『私 は 許 さない』呂。それに対す る擁護す る側の書物 の題名はこうである。
『中絶 は殺人ではな い』 9『悲 しみ を裁 け ますか』 1日。 もちろん冷静 な議論 の書物 もないことはない11。ただそ れに して も全体か ら見る時 に、 どうして も感情的 な議論が支配 し、枝葉末節 な論 を戟 わ せているように思 われる。 殊、中絶 の問題 は人の 「いのち」 に関わって くる問題である。誰 も中絶 に対 して大手 を振 って賛成である ものはいない。そ してその中絶の実際的必要性 か らその正 当性 を導 きだ して も、 どこかでその論理が破綻 を来 して くるのだ。 この ような議論の中で見落 とされる視点 はないだろ うか。 どうして も中絶の是非 を問 いの ち うことに議論が集中 して しまい、そこで忘 れ られていることがあると思 う。それは「生命 の大切 さ」
「生命の尊厳」の視点である。議論 を積み重 ねる上で、この当然 の前提 である いの ち 「上 よ りの賜物」 としての生命の大切 さが忘れ去れ、議論 のための議論 とい う奇妙 なこ とになっている場合がある。そのことを確認 した上で、現時点の中絶への我 々の視点 を 3点のみ述べ、今後の課題 としたい。 いの ち いの ち ①妊娠 中絶 は安易 に行 われるべ きではない。人格へ と至 る生命 を持 った胎児の生命の輝 きを、親 といえ ども失わせ ることは許 されない。 ② 「やむを得ず」 中絶 を行 う場合 には、 とことんその状況 を考 えるべ きである。悩 むの ならば産むべ きであろう。 いのち ③ 中絶 した者の悲 しみは誰 に も分か らない12.その悲 しみ を乗 り越 えさせ る何 か を、「生命 の輝 きの倫理学」 は提供 しなければならない。78 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第20号) いのち 「生命の輝 きの倫理学」が 「いの ち」に関す る倫理学であるのな らば、中絶の問題 は決 い、■lr して避けて通ることの出来ない問題である。 この中絶 をめ ぐって実 に 「生命の輝 き」 と は何かが問われているのである。 接
尾4.
現代の生命倫理の問題提起 は、一方 において従来の倫理的価値観 を葎すものではあるが、 他方 において新 しい倫理学 を構築するためのチ ャンスとなる。 現代 の科学特 に医学の発展 に伴 った生命倫理が提起す る問題 は大 きい。前項 において は妊娠 中絶の問題 を紹介 したが、勿論その他 にも様 々な問題提起がある.その間題 は一 面 において従来の倫理的価値観 を覆す ものではある。 しか しなが ら他方 においてはその 間題 とは、新 しい倫理学 を構築す るよいチ ャンス ともなる。 ここでは生殖医療 の問題 に 絞 り、 まずその問題状況 を述べ、なお新 しい倫理学の課題 を示す こととしたい。 従来 「不妊」 と思われ、子供がで きなかったカ ップル及び個人であるが、現在様 々な 「医療行為」 によって子供がで きるようになった。排卵 を起 こさせ るための 「排卵誘発 剤」を使用 した り、男性 の精子 を注射器で子宮 に入れ 「自然 に」分娩 させ る 「人工授精」 の方法がある。夫婦間においては現代 日本 において も通常の医療行為 として広 く行われ ているが (配偶者 間人工授精)、夫婦以外 の男性 の精子 を用いることも行 われてはいる (非配偶者間人工授精)。 また誘発剤の使用 は、どうして も多胎 の可能性が高 ま り、妊娠 初期で 「減数手術」 を行 う場合があ り、 これは中絶の問題 となって くる。 また 「体外受 精」 によって子供 をもうける場合 もある。 この方法 とは体外での受精の後、 2、 3日後 にその肱 を子宮 に戻す方法で、た とえば卵管閉塞の女性 にも子供 を産む可能性が与 えら れた。そ して 日本では行 われてはいないが、体外受精 によって出来た夫婦 間の (または 特定のカ ップルの)肱 を、第三者 の子宮 に着床 させ る所謂 「借 り腹」(その女性 をホス ト マザー と言 う)や、男性 の精子 を第三者 に人工受精 させ る 「代理母」 も技術的には可能 である13。 また体外受精 においては、夫婦や カップル以外の第三者 の女性の卵子 を用いる こともで きる し14、場合 によっては同時 に第三者の精子 も用いることも可能である。つ ま りこれ らの医療 とは、明 らかに生殖課程 において、第三者の子宮 な り卵子 な り精子 な り が不可欠 となる生殖医療 なのである。いのち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 79 現在の生殖医療 とはその方法において実に様々なヴァリエーションを持つ こととなる15。 すなわち精子 ・卵子の出所、受精の場所 (体内か、体外か)、胎生の場所 (母か、ホス ト マザーか)によって様々な可能性 を持つ こととなる。そ こで問題が生 じて くる。つ ま り これらの生殖医療 によって出来た子供は、一体誰の子供 なのか とい うことである。 ひと まずその医療行為 を積極的に行 った夫婦 またはカップルが両親であるということに、妥 当性がある ことは認め られ よう。 しか しなが らここでは従来の倫理学 において 自明で あった、両親の概念が揺 らいでいる。単 に血 を分けた ものが家族 とばか りは言 えないの である。 どの ような血の分け方なのかが問題であ り、実際 アメリカでは 「借 り腹」 とし て自分の子宮 を提供 した女性がその子供の母親たる権利 を求めて裁判 も行われている16。 一体親 とは何であるのか。 また家族 とは何であるのか。それが改めて問われている と思
う。
そ して生殖医療の問題は改めて、「子供」とは何か とい うことを考えさせて くれる。そ いのち こで 「生命の輝 き」の視点か ら3点のみ述べたい。 (∋子供がで きないことがそんなに悪いことか。女性 の輝 きは子 を産むか どうかにかかっ ているのではない。 い の ち ②子供は親の道具ではない。一人の人格 を持 った、生命の輝 きをもった主体である。親 のエ ゴを振 りかざす ことは正 しいとは言えない。 ③女性の輝 きとは、「いのち」を宿す輝 きで もある。それは女性 に与 えられた聖なる個性 である。 一体、子供 とは何か、親 とは何か、「家族」 とは何 か、そ して 「いのち」 とは何 か。 こ の生殖医療 によって提起 される問いは重い。そ してこの生殖医療の問題提起 はほんの一 例である。臓器移植、終末期医療、遺伝子治療、そ して中絶の問題等 々。実 に様 々な問 題提起があるが、これ らの問題提起は、新 しい倫理学 を構築するための よき契機 となる であろう。今改めて 「いのち」が問われ、その答 えが求め られているのだ。 提題5.
いのち 「生命の輝 きの倫理学」は人に生 きる指針 を与 える 「人生論」 との折衝 を持つ。「いの いのち
ち」の問題 に取 り組みつつ、「生 きる意味」(レーゾンデー トル)を求め、「生命
」の輝 き を見出すのが、この倫理学の課題である。80 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第20号) 倫理学 は今、岐路 に立た されている。特 に新 しい医療技術 の発展 によ り、「生命倫理」 とい う新 しい学問領域が設定 されて、専 ら 「いのち」の問題 は、医療 との関わ りとい う 文脈の中で述べ られるに至 った。 しか し前述の ように 「いのち」 の問題 は医療 との文脈 せ いめい だけでは語 り得 ないのは当然のことである。そこに 「生命の倫理」 の必然性があ り、時 代 に要請 されるべ き、倫理学の緊急課題で もある。 せいめい この 「生命の倫理」 とは、学問的議論 を前提 に しつつ、実際 に生 きる指針 を与 えるこ とを目的 とす る。つ ま り従来の倫理学の中では必ず しも正当には扱 われなかった 「人生 論」とも触れ合 うものである。「人生論」とは人生の意味 を問 う論議であろうが、アカデ ミックな議論が 目的であるとい うよ りは、人々に人生 に対する智慧、生 き方の指針 を与 えることを目的 とす る。生 きる勇気 を与 えると言 って もよい。時 に喜 び、時 に悲 しむ人 間は、 ともすれば歩 むべ き道 に悩 む。その悩みの中で一条の光 を与 えるのが、世 々の人 せ いめい 生論である。そ してその ような人生論 との折衝の中で「いのち」の問題 を考えるのが「生命 の倫理」である。 いの ち 我 々の 「生命の輝 きの倫理学」も 「人生論」と折衝するものである。生 きる意味 (レー ゾンデー トル)を問いつつ、生 きる指針 を与 えるのである。人が生 きる勇気 を失 うのは、そ の生 きる意味 を見失 う時である。ある具体的な出来事 によって、 自分の存在意義が危 う くさせ られる。その時、人は 「いの ち」 を生 き生 きと輝 かせ る こ とはで きない。その 「いのち」の炎は消 えゆ くばか りである。 しか しその時その人が、なお生 きる意味 を何 らかの形で見出せ る時に、人の 「いのち」 は輝 きを増 して くる。そ して如何 に してその いのち 輝 きを増す ことがで きるのかに、「生命の輝 きの倫理学」 の課題がある17。 提題
6.
「人 はひ とりで死 ぬ」 (パスカル18).死 を忘 れた ところで、い くら生が輝 いて見 えても それは偽 りの光、あだ花 に しかすぎない。このことを打 ち忘れて時 を過ごす者は、パス カルの言 う 「気晴 らし」 を行 ってい るのである。 人は死 に定め られた存在、 しか も 「惨 め」 な存在である。 しか しなが らその惨 めな死 に至 る存在であることを、人は直視 して しまうと生 きる希望 を失 って しまう恐れがある。 その故 に生 きる希望 を失わないためには、 自らがその ような惨 めな死 に至 る存在であるいのち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 81 ことを忘れなければならない。 しか しただ忘れ ようと思 っていて も忘れ られる ものでは ない。そ こで人は忘れるようにと、気 を紛 らす必要がある。人は様 々なことに心 を寄せ、あ る者 はギ ャンブルを し、様 々な余暇 に没頭 し、また忙 しく仕事 をす る。それが フレーズ ・ パス カルの語 る 「気晴 らし」である。 パス カルはその著書 『パ ンセ』で一般 に 「神 な き人間の惨 め さ」 と題 される一連の文 章 を残 している。勿論 この 『パ ンセ』 はパス カルが書 き残 した断章 を彼 の死後編纂 され た もので、 しか もポール ・ロワイヤル版やブラ ンシュヴイソク版等、様 々な版が流布 し てお り、果た して どれがパス カル自身の意図 を正 しく汲んでいるのかは議論の分かれる ところである19。 しか しなが らパスカル 自身が確 か に 「神 な き人間の惨 め さ」と題 され る 一連の思想 を持 っていたことは疑 う余地が ない。 パスカルは語 る、「人間は、死 と不幸 と無知 とを癒す ことがで きなかったので、幸福 に なるために、それ らの ことについて考 えない ことに した20」。 どうやって考 えないで済 ま せ ようとい うのか。実 に様 々な仕事、余暇等 々によってであるとい うのだ。「個 々の仕事 を全部調べ な くとも、それはみな気 を紛 らす とい うことで まとめて しまえば十分である21」。 「どんなに悲 しみで満 ちていて も、もし人が彼 を何 か気 を紛 らす ことへの引 き込み に成功 して くれ さえす れば、そのあいだだけは幸福 になれ る ものなのである22」。パ ス カルの 「気晴 らし」 に関する描写 は実 に人間の 日常の活動全 てにわたってお り、その集中度 は 極めて高い。「部屋の中に静かに休んでい られない23」人間は徒 らに騒 ぎ、徒 らに忙 しく 立 ち働 く。人は本当は自分の惨 めなことを知 っている。知 っているが故 に慰め を求める。 それが気晴 らしではあるが、その気晴 らしこそが 「惨 め さの最大」 なのである。それ こ そが 「自分 自身 について考 えるの を妨 げ」、滅 びに廃 らせ るか らである24。 ブ ラ ンシュ ヴイソク版 は、その第二章
(
「神 なき人間の惨 め さ」
)
の最後の断章 として、非常 に印象 的な誓 えを配置 し、終 えている。
「われわれは絶壁が見 えない ようにす るために、何 か 目 をさえ ぎる もの を前方 においた後、安心 して絶壁のほ うへ走 っているのである25」。 この 「絶壁」 とは具体的には何か。それ こそが死 その ものである。人は死 と言 う絶壁 に向かってひたす ら歩 いている。 しか しその絶壁 は見 えない。なぜ ならばその 目の前 に さえ ぎる ものを置いているか らだ。それ こそ「気晴 らし」と呼ばれる様 々な ものである。娯 楽や仕事やその他の心奪われる ものによって、忙 しくして、前方の絶壁 を見 ようとは し ない。そ して安心 して前の絶壁 に向かって歩いている とい うのだ。「人はひと りで死ぬ」。82 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第20号) その こ とを打 ち忘 れた ところで、い くらこの世 で忙 しく立 ち働 いていて も、結局の とこ ろ死 とい う絶壁 を忘 れてい る以上、その生 の光 とは偽 りの光、あだ花 に しかす ぎないの だ。 いのち 「生命 の輝 き」を考察す るな らば、や は り死 を視野 に入れなければ、捉 えることがで き いのち ない。「死」を見据 え、なおかつその 「生命の輝 き」を求めていかなければな らない。そ れが我 々の課題である。 提題
7.
いのち 死 を眼前 にお くことで、今与 え られてい る生命が大切 なものに見 えて くる。死 こそ生の いのち 鏡 であ り、生命 を輝 かせ る最上のパ ー トナ ーである。 パス カルの語 る 「絶壁」 の向 う側 には実 に死が横 たわっていた。死 に向かい、その死 を見ず して歩 む人間の 「惨 め」 な姿 をパス カルは描 いている。 しか しその人間がその死 いの ち と向 き合 う時 に、今与 え られている生命 の大切 さが人には見 えて くる。その意味で死 こ いのち そ生 の鏡 であ り、生命 を輝 かせ るパー トナー とも言 えるのではないか。 ここで黒薄明の映画 「生 きる」 を思 い起 こす。主人公渡辺勘治 は 自らが 胃癌 で 自分の 命が残 り少 ない と知 るに至 る。それ まで 「ミイラ」と陰口 を叩かれ、典型 的な 「お役人」 で、事勿 れ主義一辺倒 の主人公が一変す る。その街 の人のために、水 はけの悪 い場所 に、公 園 を作 ろ うとす るのだ。様 々な困難があったに もかかわ らず、それ らを乗 り越 えてゆ き、 や っ と公園 を作 り上 げる。その ような折 、その公園で夜 、彼 は一人息 を引 き取 ってい く。そ の時 口ず さんでいたのが、かの有名 な 「ゴ ン ドラの歌」であった。「いの ち短 し恋せ よ乙 女/紅 き唇 あせ ぬ 間 に/熱 き血 潮 の冷 えぬ 間 に/明 日の月 日は ない もの を」。主 人公 に とっては まさしく 「明 日の月 日はない」 のであ った。 自らの死が眼前 にあ る。その 自ら の思 い を、乙女への歌 に事寄せ て歌 ったのが、あの感動的 な最後 の シー ンであった。 死 とい うゴールが見 えている。見 えているが故 に今生 きていることが決 して当た り前 の こ ととは感 じられな くなる。その一瞬一瞬が尊い もの に見 え、輝 きを放 って くる。 も ちろん死 を眼前 に して絶望 して しまうこ ともある。死 とい うゴールを見せ付 け られて、 生 きる希望 を失 うこともある。 しか しなが ら反対 に死が見 えて くるか らこそ、今の生が 輝 いて見 えて くることもある。その時、全 く違 った生 き方が現 れて くる。つ ま り死 こそいのら 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 83 いのち 生の鏡であ り、生命 を輝かせ る最上のパ ー トナーなのである。 死 を生命 を輝かせ る最上のパー トナー として受け入れるか、全 く拒否す るとでは全 く 残 りの人生が違 って くる。考 えてみれば現代 の医療 とは死 を拒否 しようとい うその姿勢 に貫かれているように思われる。た とえば臓器移植 の問題であるが、やは り死 を拒否す る とい う姿勢の延長線上 にあるのではないか。確 かに臓器移植 によらなければ助か らな い人は多 く、そこに臓器移植 という医療行為の正当性がある。 しか しなが らやは り指摘 しなければならないことは、延命至上主義 とも言 うべ きその姿勢の背後 には、死 を拒絶 する姿勢が横 たわっている とい うことである。 た とえば柳美里の 『命』26がある。 この書物 を有名作家の生活費稼 ぎの暴露本 と見 るか、 生命の尊 さを訴 えかける本 と見 るかで、評価 は変わって こようが、その中で一人の劇団 主宰者の死 に様が措かれている。今柳 と共 に暮 らす彼であるが、彼 は癌 で告知 も受 けて いる。 しか し彼 はその死 を徹底的に拒絶 しようとす る。そのためにあ りとあ らゆる癌治 療 を試みる。海外 にも出かけ、高い費用 を払い、国内において も民 間療法 とで言 えるよ うな治療や、 まだ臨床実験 の領域 を出ていない治療方法 にまで手 を広げ ようとす る。そ れはひとえに残 る者 (柳 とまだ幼い彼女の子供)のためにどうして も生 きなければなら ない とい う悲壮 な決意 による ものであ り、それで人 に訴 えかける ものがある。 しか し読 む側が どこか納得がいかないのは、それは冷めた 目で見 る と彼の行動 は悪 あが きで しか ない ように思 えるか らだ。確 かに生 きたい とい う気持 ちは痛い程 に分かる。その気持 ち が遺 してゆ く愛す る者 たちの為で もある故 に、その思いは一層募 る。そ して生 きたい と い うその気持 ちを否定す る権利 は第三者 にはない。 しか しなが らその彼がその死 を受 け 入れ ようとい う思いがあったのか と疑問 に持つ。そ して受 け入れた上で、安 らかに死 を 迎 える道はなかったのか とい うことである (因みに彼 は何度 も終末期医療 のホス ピスを 拒否する旨の言葉 を発 している)。 もちろんそれが彼が選んだ死 に方 (いや生 き方)であ り、それが彼の 「死 をどう生 きたか」 27であった。 しか し死 をただ拒否 して も始 まらない。 その死 を認め、受け入れた上で新 しい生が広がって くるのではないか。 この作者柳 自身 も今共 に住 む劇作家 と共 に死 を精一杯拒絶 しているように思 える。そ の故 に死 を受け入れてはいない。 しか し死 を向 き合 っている とい う意味では、パスカル の語 る 「気晴 らし」 を行 ってはいない。向 き合いつつ、受容 した くはな く、その故 に精 一杯 あがいているのか もしれない。確か にそ こには安 らぎはなかったのか もしれないが、
84 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第20号) それが彼女の生 き方、そ してその劇作家へ の愛情 とで も言 えるので はないか。そ してそ こには死 を受容 しない まで も、愛す る者 の死 を精一杯 見つめた一 人の証言がある。柳 は 語 る、「たいせつ な ものは、失いかけた ときには じめて、いか に失 ってほな らない ものだっ たか とい うことを思 い知 らされるのだ。-ほん とうはすべ てのひ との命が 日々失 われて いる とい うのに、その ことに鈍感 になっている。いや、鈍感 にな らなければ生 きていけ ないのだ。-い ま、わた しのてのひ らの隙間か ら時間の砂 が こぼれている28」。そ して な お も語 る、「日常 の一秒一秒が きらきら、きらきらと発火 し始めた29」。 ここには死 を前 に いのち して、時間が特 別 な輝 きを帯 びて きたその証言がある。それ こそ 「生命の輝 き」 その も のであ り、死が生 の最上のパ ー トナーであった証 しで もあるのだ。 いのち 死 こそ生の鏡 であ り、生命 を輝 かせ る最上 のパ ー トナーである。その死 と如何 に付 き 合 ってい くのか。受容す るのか、拒絶す るのか、無視す るのか。 このパー トナーの捉 え 方如何 に よって後の生が変 わって くるのだ。 提題
8.
いのち 生 と死 とは裏表 である。そうであるな らば 「生命の輝 きの倫理学」 とは、死 を考察対象 に据 えた死生学 としての「死の教育」と表裏一体 をなすものである。 Thanatologyとい う概念がある。勿論 これは死 の ことを考 える学 問であ るが、 これ を 字義通 り訳す と、「死学」 となろ う。 ところで上智大学 のアルフォンス・デーケ ン氏 は こ れ を 「死生学」 と訳 した。 これは実 に意味が深 い。何 かThanatologyとい うと死 の こと だけ考 えている ように思 われるか もしれないが、実際 にはそ うではない。死 を考 える と は実 に生 を考 えることである。その ことを知 る氏 は 「死学」ではな く、「死生学」と訳 さ れた3°。 この ことは実 に内容か ら言 って正 しい と考 える。 いの ち 生 と死 とは裏表である。生 を知 る とは、死 を知 る ことである。す る と 「生命の輝 き」 と言 って も、その輝 きが死 を前提 とした ものであることを知 らなければな らない。その いのち 故 に 「生命の輝 きの倫理学」 は、死 を考 える 「死生学」 と表裏一体 と言 える。そ して特 に人が死ぬ ことを教 え、その死 に備 える所謂 「死 の教育」 との折衝 は必然性 を持つ。 この 「死の教育」 の先駆 的働 きを しているのは、 このデーケ ン氏 である。彼 はその著 書 『死 とどう向 き合 うか』の中で 「死への準備教育」の必要性 を説 いている31。死ぬ ためいのち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 85 の準備 を年少時か ら青年、成人、中年 、老年 にわたって行 ってい くべ きだ とい うのがそ の主張の眼 目である
。
「死」の準備 とい うと、た とえば老齢 の方 のための ものか と言 うと そ うではない。 もちろん老齢 の方 には老齢 の方 な りの切実 な準備 の仕方 はあろ うが、そ れが幼 い時か ら続 くべ きだ とい うのであ る。 死が 「生 の最上 のパ ー トナー」であるの な らば、我 々 にその時々 に応 じた この 「死へ の準備教育」 が求め られてお り、その教育 とは死 を見つめて絶望 に陥 らせ る もので はな いの ち く、死 とい うゴールを見据 えて、なお今与 え られている 「生命」 を輝 かせ る方 向の もの いのち でなければな らない。その ような 「死 の教育」 に 「生命 の輝 きの倫理学」 は仕 えてい く のであ り、その課題 は実 に多岐 にわたっているのである32。 提題9.
医療 の現場 においてQOL
(-生活の質)が叫ばれているが、人 は まず病気 になる前 か ら 如何 に人生 において輝 いてい るのかとい う自らのQOL
(-人生の質)を考 えなければ な らない。QOL
とい う言葉が医療現場 において近年用 い られてい る。 もちろんQOL
とはq
ua
l
i
t
y
o
fl
i
f
e
の頭文字 を取 った もので、
「生活の質」と訳 されている。 た とえばあ る患者が手術 を受 け ようとす る。そ して少 しで も生活 しやすい ように配慮す る。 その ような時 に患者 のQOL
を高 めるな どと言 った りす る。要す るに どの ような豊か な生活が送 れるのか、少 しで も人間 らしい生活 を送れ るのか、その度合い を表す言葉 と して用 い られてい る。 しか しなが らただQOL
を高め る と言 って も、ただ生活が便利 になる とか、生活 しやす くなる とい うだけでは、 どうも足 りないので はないか。人が病気 になったか らと言 って、 す ぐに急 にQOL
を高めてい こうと言 って も、それは表面 だけの こ とになって しまうので はないか。病気 になってか ら初 めて生活 の質 としてのQOL
を考 えるの な らば、どう して 病気 になる前か ら人生 の質 としてのQOL
を考 えないのか に、疑 問 に持 つ。QOL
とは単 に 表面的 なことではな くて、や は り人生 の態度その ものが問題 になって くるので はないか。 い くら生活が便利 になろ うが、生活 しやす くなろ うが、 もしそれが単 に生活 の質 な どい う表面的 な ものだけに終始 してい るの な らば、それ は足 りない と言 わ ざるをえない。実 に人生がいかなる質 を持 ってい るのか、 もっ と言 うと日常 か ら人生 の意味 をどう捉 えて86 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第20号) いるのかに、本当の意味でのQOLが問われているのである。 そ してこのことを医療 の現場 に照 らし合わせ て考 えると、現場 の医療関係者 はただ単 に患者の側が どの ような生活 を送れるのか を考 えるだけでは、 まだ不充分 であ り、 どの ような人生 を過 ごすのかに至 るまで も、心 を砕 く必要があろう。 その関連で紹介 したいのは、現代 日本 にあってホス ピス33の啓蒙活動 に力 を注いでいる ^、み お 一人の医師山崎章郎氏の ことである。氏 は1990年 に 『病院で死ぬ こと』 34を著 し、一躍脚 光 を浴 び、現在 、聖 ヨハ ネ会桜町病院のホス ピス科 の部長 を務めている医師である。氏 はたびたびマス コ ミで も取 り上げ られ、多 くの著作 もあ り、ホス ピス とい う終末期医療 の分野 においては先駆的働 きを している。言わばボス ビス運動のオピニオ ンリーダーた る位置 を占めている。その氏が2000年 に桜 町病院聖 ヨハネホス ピス及び聖 ヨハ ネホス ピ スケア研究所 との連名で出版 したのが
、
『
「生」を最後 まで輝かせ るホス ピス ・ハ ン ドブ ッ ク」 35である。 この書物の特色 とは、著者名 として氏 と並 んで、氏が責任 を持つ施設の名 が連 なっていることである。ホス ピス とは、死の床 にあって少 しで も安 らかな死 を迎 え るための終末期医療施設であるが、 このハ ン ドブ ックではその有様が実 に見事 にまとめ られてお り、実際 この書物の大部分 を記 したのは、氏が責任 を持つホス ピス と研究所 の 数多 くのス タッフなのである。そのス タッフが懇切丁寧 にホス ピス とは何 かに始 ま り、 具体的な医療内容、申込方法 に至 るまで も記 している。 ところで興味深いのはその終章 にあって初めて山崎氏が記 しているその内容である。読 む側 をして、山崎氏が最後の章 だけは どうして も氏 自らが書 きたかったのだ、 と想像 させ る内容であ り、はっ きりとし た氏 の主張が表れている。その終章の題名 とは実 に、「生 きる意味は何ですか?
」である。 ホス ピスについて記 されたハ ン ドブ ックの最後の章が 「生 きる意味」 を問 う章で終 わっ ているのである。「人は何のために生 まれ、何のために死 んでい くので しょうか。そ もそ も人生 とは一体何 なので しょう。 さまざまな考 え方があるで しょうが、人生 とは生 まれ、 生 き、死 んでい くことの意味 を見つける旅 ともいえるか もしれ ませ ん。そ して、病気の ため に、不本意 なが ら自ら望んでいたような人生が送れなかった として も、その極 限の 状況のなかで、 もし、 自分の人生の意味 を見つけることがで きれば、 どの ような人生で あった として も、 この世での人生 を卒業 していけるのか もしれ ませ ん36」。 ここに氏の真 骨頂がある。ホス ピスケアとは全人に対す るケアである。その故 に身体 に対するケアに 留 まることを許 さない。「こころ」のケアにも必然的 に至 るものである。何故 ならば人間いL7)ら 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 87 は肉体のみな らず、「こころ」そ して 「魂」 を持つ存在 だか らである。それは 「いのち」 せいめい いのち には生物学的な 「生命」 と内的な 「生命」 との二面性 を持つ ことに呼応す る。 ホス ピスにおいては多 くの薬 を使 う。かつては病院内 においては忌み嫌 われていたモ ルヒネも常用 し、他の薬 も他の病院 と比較 して多用す るようである。そ して徹底的 に痛 み を取 る治療 に専念す る。そ して痛み-の不安 を取 り除 く訳であるが、氏が最後 に心 を 砕 くことは、た とえばモル ヒネの量 についての ことではない。氏 は 「生 きる意味」 を語 る。魂の痛み を語 る。その故 に魂の痛み-ス ピリチュアルペ インに触れ、それに対す る 配慮 -ス ピリチュアルケアをも提唱 されるのだ。死 を前 に しての本当の痛みは身体の痛 みではない。身体の痛みは薬 によって完全ではないに して もある程度 は取 ることがで き る。 しか し魂の痛み を取 る薬 はない。 もし 「人生の意味」 を捉 えられず、ただ死 を待つ だけであるのならば、それは最 も厳 しい痛みを感 じていることになるのだ。 生活の質 としての
QOL
は、人生の質 としてのQOL
にまで至 らなければな らない。そ し てその人生の質 としてのQOL
は、生 きる意味 を捉 えることに始 まる。その 「生 きる意味」 いの ち を探 し出すために 「生命の輝 きの倫理学」 は奉仕す るのである。 提題10. いのち 「生命の輝 きの倫理学」は、人が死 を超 えた希望 をどこに抱 くの かに、究極 の課題 を持つ。 この倫理学は死 を超 えて生が輝 くとい う意味で、ある 「宗教性」 を考察の対象 とする。 いのち 確 かに死 とは生命 を輝かせ る最上のパー トナーではある。 しか し死 とは同時 に生命の 輝 きを決定的に消 し去 る ものである。す る と死 を前 に して 「生命 の輝 きの倫理学」 は力 を失 うことになる。「生命の輝 き」をあ くまで も主張す るのな らば、その輝 きは死 を超 え た輝 きを持 たなければならない。 もしそ うでない と、「生命の輝 き」とは死 の力の前 に限 定 された もの となって しまう。その故 に 「生命の輝 きの倫理学」 とは、死 を超 えて生が 輝 くことを問題 とする。その間題 を度外視 しては、「生命の輝 き」は語れない とい う意味 で、 この倫理学 とはある宗教性 を帯びて くるのである。 ここで前提題で紹介 した山崎章郎氏の論 を紹介 したい。「生 きる意味は何 ですか?
」と 題する一文 を記 した後、「あ とが き」で この ようなことを述べ ている37。氏 は特定の信仰 を持 たないのであるが (と言 って も自身が働 くホス ピスが カ トリックとい うこともある88 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第20号) のであろうか、キ リス ト教 にあるシンパ シイーを感 じていることは明かであろ う)、「死 後の世界の存在 を信 じる」 と述べてお られる。ホス ピス病棟 にあって、その患者 は例外 な く近い将来 に死 を迎 える。 しか も所謂 インフォーム ドコンセ ン トによって患者 はその ことを知 らされている。すると患者 は一様 に 「死後の世界での再会」 を口にす るとい う のであ る。 しか もそれは 「ただの願望」 だけではな く、「何か を共通 に感 じは じめてい る」か らだ とい うのだ。「もし、死 によって身体 は滅びて しまった として も、魂 は残 り、 この世ではない世界で再び魂 と魂 との出会いが待 っているのだと考えることがで きれば-、 私たちは、死を不安や恐怖や別離の悲 しみ としてだけ捉 えな くてもよくなって くる」 と。 氏 は特定の宗教 を持 っていないのであるが、数多 くの患者 と向 き合 ってこられた。そ の関わ りとは、「生 きる意味」さえ も問いかける程の関わ りであった。その氏が患者の死 を前 に して、「死後の世界」を確信 を持 てない まで も、信 じて生 きていこうと語 っている のである。 確か に死後の世界は証明はで きない。 しか しまった くない とも証明はで きないのであ る。一体 この死後の世界 をどう捉 えた らよいのか。死 を超 える何かによらなければ、本 いの ち いの ち 当の意味で 「生命の輝 き」 を語 ることはで きないのではないか。我 々の 「生命の輝 きの 倫理学」が宗教性 を持つ所以が ここにある。
おわ りに
いのち 以上、
10の提題 を提 出 した。ただこれは我 々の 「生命の輝 きの倫理学」の輪郭 を措い たにす ぎないことは、前述の通 りである。今後、各提題 をそれぞれ展開することが求め られている。特 に生命倫理の具体的問題提起 に対す る応答 は必須であ り、また 「人生論」 への問い(
「生 きる意味」への問い)に取 り組 まなければならない。そのことを次稿への 課題 としたい。いのち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 89 (追記) 拙稿 の発表 の機会 を与 えて下 さった清水 宏子学 長 、紀要編集委員 の先生 方 、特 に編 集 担 当者 の玉城 司先生 に謝意 を述べ ます。 また私事 なが ら、拙稿 において取 り上 げた山崎章郎氏 の桜 町病 院聖 ヨハ ネホ ス ピス に て、昨年度集 中講義 の直前 に父が逝去 し、その こ とが拙稿 の 「生活 の座」 で あ った こ と を記 します。 せ いめい 著者 は本学2000年度集中講義 において 「生命の輝 きの倫理学」 と題 し、新たに開講 された 「生命の倫理」 を担当 した。拙稿における10の提題は同講義 において提出 した ものであ り、 拙稿の内容は同講義 にて発表 したものである。 小原信 『人間の人間 らしさ』、新教出版社 (新教新書212)、1984年。なお 「生命」の語の呼 び方であるが、生物体 としての 「生命」 を 「せいめい」 と呼び、「人間の人間 らしさ」 とし ての 「生命」を 「いのち」と呼ぶこととする。拙稿では前者はルビな しで、後者 をルビつ き いのち の 「生命」 と表記す ることにする。参考 :小原信 『ビューティフル ・デス ー有終の倫理 学』、中公叢書、1994年。 以下の記述は主に以下の文献 を参照 にした。土屋基志 「『bioethics』か ら 『 生命倫理学』-一 米国におけるbioethicsの成立 と日本-の導入
-
」、加藤尚武 ・加茂直樹編 『生命倫 理学 を学ぶ人のために』、世界思想社、1998年、14-27頁。なおこの加藤他編の同書 は現在 の 「生命倫理学」の議論 をコンパク トに紹介 した便利な書物であ り、この分野の必読書であ る。ただ しアメリカの議論の紹介に終始 している面は否めない。わが国におけるこの分野の 研究の層の薄 さを物語 っていると言えよう。 同書、23頁以下。 この優生思想か ら中絶の問題、特 に現代の出生前診断に関 して、その問題性 を指摘 している のは次書である。佐藤孝道 『出生前診断 いのちの品質管理への警鐘』、有斐閣選書1634、 1999年。 『厚生 白書 (平成10年版)』、厚生省監修、 ぎょうせい、1989年、65頁。 ウイスキー博士他著、菊田昇訳 『わた しの生命 を奪わないで』、燦葉出版社、1991年。 ロナル ド・レーガン、中山立訳 『私は許 さない 中絶 と国民の良心』、データハ ウス、1984 年。90 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) 9 太田典礼編 『中絶 は殺人ではない』、人間の科学社、1983年。 10 日本家族計画連盟編 『悲 しみ を裁 けますか 中絶禁止-の反論』、人間の科学社、1983年。 11 た とえば次書。 ロジャー ・ローゼ ンブラ ッ ト、 くぼたのぞみ訳 『中絶 生命 をどう考える か』、晶文社、1966年。 アメリカの議論の紹介ではあるが、中絶の論争 はアメT)カで最 も盛 んで参考 になる。 また 日本 においては、最 も骨太な論証 を示 しているのは、次書。江原由美 子編 『フェ ミニズムの主張 3 生殖技術 とジェンダー』、到草書房、1996年. また女性擁護 の立場 か らは次書。九本百合子 ・山本勝美 『産む/産 まないを悩 む とき 母体保護法時代 の いのち ・か らだ』、岩波 ブ ックレッ ト426、1997年。 12 ァル フオンス .デーケ ンは 『死 とどう向 き合 うか』の中で、アメ リカの心理学者 ドゥカの "DisenfranchisedGrief"(「公認 されていない悲嘆」)の一つ として中絶 した もの悲嘆 を挙 げている (アルフォンス ・デーケ ン 『死 とどう向 き合 うか』、NHKライブラ リー 45、1996年、 90頁以下)。非常 に興味深いテーマであ り、詳論の必要性があろう。 ユ3 現代 の用法 としては 「借 り腹」を 「代理母」に含 ませ る場合 もある。 なお拙稿執筆中の2001 年5月に長野県下の医師が 「借 り腹」による出産 を行 ったことが公 にな り、波紋が広がった (『朝 日新聞』、2001年 5月19日 [土]、朝刊、他参照)。 14 硯在 日本ではこの卵提供 について、近親者の卵子のみ を認める動 きが出ている。 15 参考 :堤治 『生殖医療のすべて』、丸善 ライブラリー 285、1999年。特 に179頁0 16 詳 しくは次善。出口願 『誕生のジェネオロジー ー 人工生殖 と自然 らしさ』、世界思想社 、 1999年。特 に 「Ⅰ テクノロジー」。 17 なお筆者は上述集中講義 において 「倫理学への10の ヒン ト」 と題 し、10の提題 を提 出 した。 いのt, これは短大の学生向けの提題ではあるが、筆者が今後 「生命の輝 きの倫理学」を展開するた めの基本的な考 えである故 に、 ここに決定稿 として記載す ることとしたい。 ① 「みんな」 ではな く 「自分」 だ (人は一人で生 きなければならない し、一人で生 きる しかない。「みん な」の中に埋没 し、他人の意見 にただ顔色 を伺 うのではない。 この 「自分」こそが主体的決 断 をもって生 きるのだ。人の生 き方 を問 う学問である倫理学 とは、一人で したたかに生 きる 主体の形成 に寄与する学問である)0 ② 「ノー トをとる機械」になるな (ノー トとは自分が 考 えるための手段 に しかす ぎない。ただ漫然 と講義 を聞 き、給麓 に板書することに心 を配 る のではな く、考 えることを突 き詰めてみ よ。そこには新 しい何かが生 まれて くる。「深考」 す ることの大事 さを思 え)。 ③ 「出会い」が全てを変 える (人は出会いによって変わる。そ れ まで見えなかった全 く新 しい世界が開かれて くるのだ。しか も人生 において大 きな出会い
いのち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 91 は多 くはない。いや本当の出会 い とはただ一回なのか もしれない。そのたった一度の出会い を経験で きる人は幸いである。 しか しその出会いを経験するためには、日々の出来事 に心 を 開 くことので きる しなやかな心、その感受性が大切である。 日々に も出会いがある。それを 感 じるか感 じないかで大 きな差がで きて くる)。 ④ 「達成感」を感 じたことのない ものは若 者ではない (若 き人の特権 とはがむ しゃらにある物事 に取 り組 むことである。 た とえその結 果が当初 の 目標 に達す ることが な くて も、取 り組 んだ とい う事実 によって、ある 「達成感」 を感 じることがで きる。達成感 を得 る とは、単 なる自己満足ではない。 自分の全精力 を注 ぎ 込んだ事 に対する聖なる報酬である)。 ⑤書いて初めて分かることがある (自分の考 えをと もか くも書 くこと。書 くことによって初めて分かることがある。言語能力 を持 った人間の最 も高貴 な知的作業 こそ、書 くことである。書 くことを恐れるな。書 くことを億劫が るな。書 くことによって、自らの考 えが深 まる,書 くことは生 きることである)。 (む 「無 くてな らぬ ものは多 くは無い」 (我々はあ ま りに も多 くの ものを求めす ぎているのか もしれない。本当 は必要ではない ものを追い求め、疲れ思い煩 い、ため息 をつ く。 しか し無 くてならぬ ものは 多 くは無い、いやただ一つだ。その 「ただ一つ」の もの を求めてい くのが、我 々の人生では ないか)o ⑦ 人は出会いによって今 までの風景が違 って見 えて くる (ある出会いを経験 した ものは、それ まで見ていた風景が全 く違 って見 えて くる。 自分が この ことを経験 しているの に、他の人は経験 していない とい う、ある優越感 さえ も感 じることがある。それは上質な映 画 を映画館 で見た後 に街中に出て行 くことに も、似 ているか もしれない)。 ⑧心燃 え立つ と は、関係性 の中での出来事である (人間は関係の中で生 きている。関係 を持 たない人間は も はや人間ではない。その関係 とは人のみな らず、様 々な もの との関係が考 えられる。心燃 え 立つ とは、その関係の中での出来事である。そ して自分が関わ りを持つ相手その人が、心 う いのち ちに燃 え立つ ものがある時、相手の生命の燃焼 に触発 されて、自らの心 も燃 え立つ ことがあ いのち る。すなわち自らの生命 を輝 かせ るためには、その者 自身が心燃 え立つ何かに触れ合 ってい なければな らない。それが出会いの素晴 らしさである)0 ㊥ 惰眠の中にある我 を目覚め させ いのち くれる何か を探せ (生命の輝 きを求めることは、いつ も目覚めていることを意味する。惰 眠 の中にある我 を、本当の 自分- と誘って くれるのだ。世の優 れた思想は、人を覚醒 させ、そ れ まで とは違 った自分 を新 たに発見 させて きた。我 を目覚め させ て くれる泉 を探せ)o 墾笹 理学の教科書 とは人間のあ らゆる事柄 だ (人がいかに生 きるのか を考察す る倫理学 を学ぶた めにはただ一冊の教科書 を棒暗記すれば よいのではない。人間のあ らゆる事柄 、事象が教科 書 とな りうる。実際 に経験 したことが生 きた教科書 となる場合 もあれば、実際の本が教科書
92 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第20号) となることもある。 また現代 に起 こった事件、共通のある関心事等 も倫理学 を考察する上で、 貴重 な教科書 とな りうる)。 18 前 田陽一 .由木康訳 『パ ンセ』、中公文庫、1973年、148頁 (ブランシュヴイソク版211番)。 19 た とえば田辺保 『パスカル パ ンセ』 (有斐閣新書、1979年、29頁以下)を参照。 20 前 田 ・由木訳 『パ ンセ』、113頁 (ブランシュヴイツク版168番)。 21 同、91頁 (同137番)。 22 同、98頁 (同139番)。 23 同、92頁 (同139番)。 2<1 同、115頁 (同171番)。 25 同、120頁 (同183番)。 26 柳美里 『命』、小学館、2000年0 27 参考: 日野原重明 『死 をどう生 きたか』、中公新書686、1983年。 ZR 柳 、同書、227頁。 29 同頁。 3O デーケ ン、前掲書、18頁0 31 同書、205頁以下。 32 デーケ ン氏 は 『死 とどう向 き合 うか』の中で 自らの 「死への準備教育」の一環 として自ら教 鞭 を取 る上智大学での講義 を紹介 している。それは登録生 に向かって 「もしあ と半年の命 し かなかったら、残 された時間をどの ように過 ごすか」 とい うテーマの小論文 を書かせた り、 自分が不治の病 にかかった として 「別れの手紙」 を書かせ るとい うものだ (同書、229頁以 下」)。著者は前述集中講義 において登録生 に 「死 に行 く時の手紙」 を演習 として記 させた。 これはたとえば病 などで余命半年 となったある具体的な人が、ある具体的な相手 に向か って 手紙 を記す もので、書 き手 と受け手 を、た とえば本人の他、兄弟 ・恋人 ・妻 ・夫 ・親 ・友人 等で 自由に選 び、そ してシチュエーシ ョンを作 りだ し、記す ものである。デーケ ン氏 はあ く まで も自分が誰かに手紙 を書 くとい うシチュエーシ ョンを想定 してお られるようだが、著者 はこの ような演習の場合、想像力が大切 と考え、あえて自由に選ばせた。以下、その報告 を 試みたい (なお 「手紙」 を引用す る問題はあろ うが、演習 とい う性格上許 される と判断 し、 登録生 にもその旨了解 を取 っている。なお原則 としてその ままの引用 しているが、一部言葉 遣い を改めた もの もある)0 まず圧倒的に多いのが 「自分」が書 き手であ り、相手が親 または友人である場合である。
いのち 西永 :生命の輝 きの倫理学 (1) 93 もちろん書 き手 を 「自分」 として も、学生 自身のことを書いているとは限 らないであろ う。 しか し実際 にその手紙 を読 む限 り、その手紙の 「自分」 とは どう考 えて も、学生 自身のこと であ り、全てが全て自分 自身のことを語 ってはいないだろうが、随所 に学生の生の姿 を想起 で きる内容である。た とえば典型的な一文。「私は、今 まであなた達 にお世話 になるばか り で、恩返 しが出来ない事が、今す ご く後悔 していることです」。そ して家族や友人- の感謝 の思い を綿 々と綴 る。普段 は決 して口にす ることはないであろう感謝の言葉や直裁 的思いを ぶつけている。読 む側がた じろ くとで も言 えるような個人的な告 白 もある。特 に恋 人への手 紙 はその傾向が一層強い。「今 は今 しかで きないことをしようと思 う。残 されたわずかな時 間で、私 にで きることは何 だろう。今 わずかな時間 しか生 きられないな ら、私は彼 を愛 しぬ いていたい