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プラグマティズムと科学・宗教 : ウィリアム・ジェイムズの真理観

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プラグマティズムと科学・宗教

ウィリアム・ジェイムズの真理観

     

プラグマティズムはアメリカ起源の哲学であり、哲学史において一定の重要性を認められてきた思考法である。し か し、 ﹁ 役 に 立 つ こ と が 真 で あ る ﹂ と い う 単 純 化 し た 形 で 理 解 さ れ が ち で あ る こ と か ら、 そ の 本 当 の 意 義 は 見 え に く くなっている。また、主な提唱者達のなかでも、プラグマティズムの定義やそれを用いる意図は必ずしも一様ではな い。 プ ラ グ マ テ ィ ズ ム の 普 及 に も っ と も 貢 献 し た ウ ィ リ ア ム・ ジ ェ イ ム ズ ︵ 1842 –1910 ︶ の 場 合、 こ れ を 宗 教 の 問 題 に 適用することにとりわけ熱心であった。 一 方、 十 九 世 紀 か ら 二 十 世 紀 初 頭 に か け て の こ の 時 期、 ﹁ 科 学 的 ﹂ な 考 え 方 は も は や 常 識 と な っ て お り、 宗 教 を 考 える際にも、科学との関係を無視することはできなかった。ジェイムズは﹃プラグマティズム ﹄ ︶1 ︵ で次のように言う。 今日ほど、はっきりと経験論者的な性向の人が多く存在したことはかつてなかった。今の子どもたちは、ほとん

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ど生まれながらに科学的だと言えるだろう。しかし、事実を尊重することによっても、すべての宗教性が私たち のうちで無力化されはしなかった。 ︵ PR 492 ︶ その上でプラグマティズムは、事実に対する忠実さと宗教的なものとの﹁両種の要求を満足させることのできるひ と つ の 哲 学 と し て ﹂ ︵ PR 500 ︶ 提 唱 さ れ る 。 こ こ に は 他 の プ ラ グ マ テ ィ ス ト と ま っ た く 異 な る 動 機 を 見 出 す こ と が で きるだろう。 ジェイムズの思想は、多くの哲学者と同様にしばしばその人生との関係で論じられるが、特異な宗教思想家の息子 として育ち、ハーヴァードで化学や医学を専攻したジェイムズにとって、宗教と科学とはどちらも人生にとって無く てはならないものであった。科学と宗教について語る論者は数多いが、その両者ともを自己のアイデンティティに関 わるほど必要とする思想家は少ない。ここにジェイムズの独自性があると言える。 したがってプラグマティズムの哲学も、ジェイムズにとっては、科学と宗教とを調和的に受け入れることができる 新しい思考法としての意義が大きかった。そして、事実ジェイムズの著作では、しばしば科学と宗教とがパラレルに 語られることになる。 しかし、科学と宗教とが同質的であるかのような見方はもちろん常識的ではない。果たしてこれは正当な議論とし て 成 り 立 っ て い る の だ ろ う か。 そ こ で 本 稿 で は、 ジ ェ イ ム ズ の 主 張 す る プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 精 細 に 読 み 解 く こ と に よって、科学と宗教とがどのような関係であり得るのかを改めて問い直してみたい。

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方法としてのプラグマティズム

プ ラ グ マ テ ィ ズ ム と い う 名 称 を 考 案 し、 こ の 考 え 方 を 最 初 に 定 式 化 し た の は チ ャ ー ル ズ・ サ ン ダ ー ス・ パ ー ス ︵ 1839 –1914 ︶ で あ る。 ジ ェ イ ム ズ は プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 拡 大 解 釈 し て 大 い に 普 及 さ せ た の だ が、 そ の 考 案 の 栄 誉 は 必 ずパースに帰していたため、ジェイムズ流のプラグマティズムにおいても、パースの初期の論 文 ︶2 ︵ に示されている基本 的な原理は、前提として共有されている。一般に﹁プラグマティズムの格率﹂と呼ばれるこの原理は、パースによれ ば以下のようなものである。 ︹ 明 晰 な 理 解 の た め に は ︺ 私 た ち が も つ 概 念 の 対 象 に つ い て、 実 際 的 な 意 義 を も つ だ ろ う と 考 え ら れ る よ う な、 いかなる効果が思い描かれるかを考察してみよ。これらの効果についての概念が、その対象についての概念のす べてである 。 ︶3 ︵ こ れ を ジ ェ イ ム ズ 流 に 言 い 換 え る と、 ﹁ あ る 対 象 に つ い て の 私 た ち の 思 考 に お い て、 完 全 な 明 晰 さ に 達 す る た め に は、 そ の 対 象 が、 考 え う る い か な る 実 際 的 な 種 類 の 効 果 を も た ら す か を 考 え て み る だ け で よ い ﹂ ︵ PR 506 ︶ 、 そ し て ﹁ ど こ に も 差 異 を 作 ら 0 0 な い 差 異 は あ り 0 0 得 な い

具 体 的 な 事 実 に お け る 差 異、 そ の 事 実 に 基 づ く 行 為 の 帰 結 に お け る 差異、そこに自身を表現しない抽象的な真理の差異はない﹂ ︵ PR 508 ︶ ということになる。 この学説が哲学史にインパクトを与えたのは、概念は行動に結びついて初めて意味を持つ、という視点を明確に提 示したことによる。この視点からすれば、例えば﹁硬い﹂という概念は﹁多くの他の物体によって傷をつけることが

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できない﹂ことを意味し、 ﹁重い﹂という概念は、 ﹁それを持ちこたえる力がない場合、落下する﹂ことを意味する 。 ︶4 ︵ つ ま り パ ー ス の 意 図 は、 概 念 の 意 味 を 明 晰 化 す る 方 法 の 提 唱 で あ っ た。 ジ ェ イ ム ズ も ま た、 ﹁ プ ラ グ マ テ ィ ッ ク な 方 法 は、 第 一 義 的 に は 形 而 上 学 的 な 論 争 を 静 め る ひ と つ の 方 法 ﹂ ︵ PR 506 ︶ だ と 言 う 。 哲 学 上 の 議 論 は 時 と し て 言 葉 の上での空論になってしまうが、プラグマティズムの原理を適用すれば、論点を整理したり、無用の議論を避けたり することができる。これがこの方法の第一義的な用法なのである。 例えばパースは、聖餐式に用いられるパンと葡萄酒が、カトリック教徒の言うように、その 実体において 0 0 0 0 0 0 文字通り キ リ ス ト の 肉 と 血 な の か、 あ る い は 比 喩 的 な 意 味 に す ぎ な い の か、 と い う 問 題 を 挙 げ る。 パ ー ス に よ れ ば、 行 動 の きっかけとなるべき感覚に捉えられるものが葡萄酒の特徴を持つ場合、それが本当は血であるというのはまったく無 意味な言説となる 。 ︶5 ︵ さて、ジェイムズもこうした﹁方法﹂を基礎としているものの、その適用範囲はパースよりもはるかに広い。元来 心 理 学 者 で あ る ジ ェ イ ム ズ は、 人 間 心 理 の 問 題 に プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 持 ち 込 も う と し た。 つ ま り、 ﹁ 帰 結 に お け る 差 異﹂をわれわれの人生や心理的な状態をも含むものとして解釈したのである。例えばジェイムズは同じ聖餐式の例を 用いて、 ﹁すでに信じている人々にのみ真剣に扱われる﹂と留保しつつも、実体が変化したことを認めるならば、 ﹁聖 餐にあずかる私たちは今や、神性のまさに実体によって養われて﹂いるのであって、実体の概念が﹁すさまじい効果 を伴って人生に入り込んでくる﹂ ︵ PR 524 ︶ としている。 また、次のような記述もある。 哲 学 の 全 機 能 は 、 世 界 に つ い て の こ の 定 式 表 現 か あ の 定 式 表 現 か の ど ち ら か が 真 で あ る 場 合 、 私 た ち の 人 生 の 特 定

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5 (林) の場面であなたがたと私とにいかなる特定の違いが生じるであろうかを見出すことであるべきである。 ︵ PR 508 ︶ こ の よ う に、 ジ ェ イ ム ズ は 個 人 的 な 0 0 0 0 人 生 の 問 題 を 射 程 に 入 れ る こ と よ っ て、 プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を さ ら に﹁ 実 際 的 ﹂ な 方 法 と し た の で あ る。 本 来 パ ー ス は﹁ プ ラ グ マ テ ィ ズ ム ﹂ の 命 名 の 語 源 と し て、 カ ン ト の 用 い た 語 か ら﹁ プ ラ ク テ ィ ッ シ ュ﹂ で は な く﹁ プ ラ グ マ テ ィ ッ シ ュ﹂ を 意 図 的 に 採 用 し、 理 論 と 実 践 と い う 意 味 で は 理 論 の レ ベ ル で 考 え た 。 ︶6 ︵ し か し ジ ェ イ ム ズ は こ の 区 別 を 乗 り 越 え、 む し ろ 完 全 に 実 践 に つ な が る も の と し て プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 捉 え た。 これはパースからすれば﹁誤解﹂であるが、この拡大解釈は方法論自体を変更したわけではない。むしろ、パースが 区別して範囲外に置いた本当に具体的な場面、例えば信仰を選ぶかどうかといった場面でこそ、プラグマティズムを 適用することに意義があるとジェイムズは見たのである。

 

プラグマティズムの真理観と科学

第一義的には概念を明晰にする﹁方法﹂であったプラグマティズムだが、それは同時に真理論としての側面を当初 から含んでいた。そしてこの側面は科学と密接な関係を持っている。 パースは様々な分野に秀でた職業科学者であり、ジェイムズもそのキャリアを生理学から始めている。このことか らも推察されるように、プラグマティズムは科学的な思考を基盤として構築されている。実際、パースは次のように 言う。 様々な人が、非常に多くの対立する見解から出発するかもしれない。しかし研究が進むにつれ、彼ら自身の外部

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にある力によって、彼らはひとつの同じ結論に導かれる⋮⋮すべての研究者が最終的に賛同するように運命づけ られた意見が、私たちが真理の語によって意味するものである 。 ︶7 ︵ この見解は一般的な科学観を思わせるものであり、パースにとってプラグマティズムは、哲学を科学的に行う方法 と考えられていると言うことが出来るだろう。 一方ジェイムズは、同じく科学を基礎としつつも、まったく別の方向に舵を切っている。ジェイムズは当時の科学 哲 学 者 た ち の﹁ 反 実 在 論 ﹂ 的 な 見 方 に 同 調 し て お り ︶8 ︵ 、﹃ プ ラ グ マ テ ィ ズ ム ﹄ で 真 理 論 と し て の プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 説 明する際には、次のような話題から語り始めている。 ︹ 科 学 の ︺ 研 究 者 た ち は、 ど の︹ 科 学 上 の ︺ 学 説 も 完 全 に 実 在 の 複 写 な の で は な く、 ど の 説 も あ る 視 点 か ら 見 て 有 用︵ useful ︶ な の で あ ろ う と い う 見 解 に な じ ん で き た ⋮⋮ そ れ ら の 諸 説 は 人 工 言 語 に す ぎ ず、 誰 か が 言 っ た よ うに、自然についての私たちの報告を書き込む、概念的速記にすぎない。 ︵ PR 511 ︶ こ の 見 解 が 大 き く パ ー ス と 異 な る ひ と つ の 特 徴 は、 ﹁ あ る 視 点 か ら 見 て 有 用 ﹂ と い う 点 で あ ろ う。 パ ー ス は、 プ ラ グマティズムの方法を用いることで、すべての人が見解を一にする集中点を遠くに展望するのだが、ジェイムズの場 合、真理が一点に収束することを必ずしも希求していない。その理由は、ジェイムズがあくまでも 個人の主観的経験 0 0 0 0 0 0 0 0 を哲学の基礎に置くからである。例えば、ジェイムズはイギリスのプラグマティスト、 F・ C・ S・シラーに同調し て、真理を﹁人為的な構成物﹂と捉える見解を提示する。

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7 (林) 私 た ち の 感 覚 を 取 り 上 げ て み る な ら、 そ れ が あ る と い う こ と 0 0 は、 疑 い な く 私 た ち の 制 御 を 越 え て い る。 し か し、 私たちがその どれに 0 0 0 注意を払い、 注目し、 私たちの結論において強調を置くかは、 私たち自身の興味に依存する。 そして、私たちが強調をここに置くかあそこに置くかによって、まったく違った真理の定式化が結果として起こ るのである。私たちは、同じ事実を異なった風に読む。 ﹁ウォータールー﹂は、同じ固定された細目から成るが、 イギリス人にとっては﹁勝利﹂を意味し、フランス人にとっては﹁敗北﹂を意味する。 ︵ PR 594 ︶ つまり、ジェイムズによれば、真理は﹁実在 である 0 0 0 のではなく、実在 についての 0 0 0 0 0 私たちの信念であるから、人間的 な 要 素 を 含 む こ と に な る ﹂ ︵ PR 596 ︶ も の で あ っ て 、 そ の 事 実 を 提 示 さ れ る 当 人 と の 関 係 、 つ ま り ﹁ 有 用 性 ﹂ に 左 右 される。すなわち、極端に言えば個人の数だけ真理があることすら許容されることになる。 しかしもちろん、真理が人によって違うというのは常識に反する。この点はどのように説明されるだろうか。この こ と に つ い て は、 ジ ェ イ ム ズ の プ ラ グ マ テ ィ ズ ム に 顕 著 に 見 ら れ る 整 合 性 0 0 0 と で も い う べ き 規 準 に 注 目 す べ き で あ ろ う。ジェイムズはシラーとデューイを代弁するかたちで次のように述べている。 私たち︹プラグマティスト︺の観念や信念における﹁真理﹂は科学において真理が意味するのと同じものを意味 する。すなわち⋮⋮ 観念は 0 0 0 、 私たちが私たちの経験の他の部分と満足な関係に入る助けになってくれる限りにお 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 いて真となる 0 0 0 0 0 0 ︵ PR 512 ︶ 。 こ れ は﹃ 信 じ る 意 志 ﹄ ︵ 以 下、 ﹃ 意 志 ﹄︶ で 表 明 さ れ て い る、 ﹁ も っ と も 真 に 近 い 科 学 的 仮 説 は ⋮⋮ も っ と も う ま く

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︿ は た ら く ︵ work ︶ ﹀ 仮 説 で あ る ﹂ ︵ WB 450 ︶ と い う 記 述 と 合 致 し て い る 。 つ ま り 、 科 学 理 論 が 相 互 に 矛 盾 し な い よ う に全体として構成されているように、すべての真理は、それが複数の見方から成っていても、相互に矛盾しないこと が要求されているのである。このことによって、ジェイムズの多元的な真理論は一定の秩序を保つことができると言 える。この点については、 ﹁有用性﹂との関係を含めて、後節で再び検討したい。 と こ ろ で、 ジ ェ イ ム ズ が 科 学 的 思 考 を 基 礎 に プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 構 想 す る に 当 た っ て、 ﹁ 検 証 ﹂ と い う こ と が 独 特 の意味合いを持つことには注意しておきたい。科学は端的に言えば仮説を検証するという方法であるが 、 ︶9 ︵ 先の引用で 見たように、ジェイムズにおいては科学の言う真理も﹁満足な関係﹂という整合性の問題として捉えられており、検 証とは確実性ではなく整合性の確認を意味する。 さらに、次の有名な一節がある。 真理の真理性は、実際のところ出来事 であり 0 0 0 、過程 である 0 0 0 。過程とはすなわち真理が自身を検証する過程、真理 の真理 化 0 ︵ veri-fication ︶ である。 ︵ PR 574 ︶ こ こ で ジ ェ イ ム ズ は 検 証 ︵ verification ︶ と い う 単 語 を あ え て﹁ 真 の ﹂ ︵ veri ︶ と﹁ ― 化 ﹂ ︵ –fication ︶ の 複 合 語 と し て 読 み、 検 証 と は 真 理 を 生 み 出 す 過 程 だ と 解 釈 し て い る。 ジ ェ イ ム ズ の プ ラ グ マ テ ィ ズ ム に よ れ ば、 仮 説 に 従 っ て 行 為 し、それが うまくはたらいている 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 状態が﹁真理という過程﹂であり、言い換えれば不断の検証がその瞬間瞬間の真理 を真理たらしめていると理解されるのである。 こ の 見 解 は、 一 見 突 飛 な も の に 見 え る か も し れ な い が、 決 し て ジ ェ イ ム ズ が 独 断 的 に 考 案 し た と い う も の で は な

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9 (林) く、むしろ科学哲学による科学についての理解からプラグマティズムを構想するなかで浮かび上がって来たものと考 えるべきであろう。 こ の よ う に、 ジ ェ イ ム ズ の プ ラ グ マ テ ィ ズ ム に よ れ ば、 真 理 は 検 証 に よ っ て 生 み 出 さ れ つ つ あ る 過 程 と 捉 え ら れ る。いわば、真理は動的かつ可塑的なものなのである。

 

プラグマティズムと宗教

ジェイムズは方法においても、真理論においても、人生や心理的問題にプラグマティズムを適用することでパース の原理を押し広げた。その場合の代表的な主題が宗教だと言うことができよう。 ジ ェ イ ム ズ は、 プ ラ グ マ テ ィ ズ ム を 紹 介 し 始 め た 当 初 か ら、 こ れ を 説 明 す る の に 唯 物 論 と 有 神 論 の 例 を 使 っ て き た 。 ︶10 ︵ その説明によれば、唯物論と有神論のプラグマティックな差異は、未来を思い描いたときに現れる。唯物論的世 界観によれば、世界は最終的に無に帰してしまう。一方、有神論は未来に希望を与えてくれる。このどちらを信じて 生きていくかは、人生をまったく異なるものにするであろう、というのである 。 ︶11 ︵ また、神学で言うところの﹁神の属性﹂についても、単なる無意味な言葉にすぎないものと、人生につながるもの とがプラグマティズムによって区別できるという。例えば神の﹁自存性﹂や﹁単一性﹂はわれわれの行動選択に何の 影 響 も も た ら さ な い。 し か し﹁ 全 知 ﹂ と﹁ 正 義 ﹂ は、 そ れ に よ っ て わ れ わ れ は 行 為 へ の 報 い を 期 待 し て 行 動 す る し、 神の﹁善﹂はわれわれの恐怖を払いのけてくれる 。 ︶12 ︵ このようにジェイムズにとっては宗教もまた、個人的かつ実際的 な事柄として把握されることになる。 ﹃ 宗 教 的 経 験 の 諸 相 ﹄ ︵ 以 下、 ﹃ 諸 相 ﹄︶ は そ の 視 点 を 全 面 的 に 展 開 し た 著 作 で あ り、 こ こ で 問 わ れ る の は 神 的 存 在 が

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何であるかではなく、人間がそれをどのように経験するかである。そうであれば、宗教の価値や真理性は当然﹁経験 的な規準﹂によって計られなければならない。 ﹃ 諸 相 ﹄ で は ま ず、 本 性 や 起 源 を 問 う﹁ 存 在 判 断 ﹂ と、 価 値 や 意 義 を 問 う﹁ 精 神 的 判 断 ﹂ と に 問 い を 区 分 す べ き で あ る こ と が 指 摘 さ れ る。 こ の 両 者 は ど ち ら も﹁ 他 方 か ら 直 接 的 に 演 繹 さ れ 得 な い ﹂ ︵ VRE 13 ︶ 判 断 で あ る か ら 、 そ れ ぞれ独立に考えられなければならない。しかし宗教については、精神的判断が独立的に扱われて来なかったとジェイ ムズは考える。 では、価値や意義といったものはどのように判断されるのか。一般に﹁私たちがある精神状態を他の状態よりも優 れ て い る と 考 え る 場 合 ﹂、 そ の 理 由 は、 ﹁ 私 た ち が そ こ に 直 接 の 喜 び を 得 る た め で あ る か、 あ る い は そ こ か ら 人 生 に と っ て 重 要 な 善 き 果 実 が も た ら さ れ る と 私 た ち が 信 じ る た め で あ る か の ど ち ら か ﹂ ︵ VRE 22 ︶ だ と ジ ェ イ ム ズ は 言 う 。 これはつまり、価値や意義というものはそもそもプラグマティックに判断されているものだという指摘である。 し た が っ て 宗 教 の 価 値 は、 そ れ が 人 生 に 与 え る 効 果 に よ っ て 評 価 さ れ る。 な ぜ な ら、 経 験 的 な 方 法 が 指 標 と す べ き、宗教生活における﹁差異﹂は、その信仰によってどのように生きるかという点にのみ表れるものだからである。 そしてさらに、プラグマティズムによれば、帰結において善い価値が導かれることは真理性に結びついていく。 宗 教 の 効 用︵ uses ︶ 、 宗 教 を 持 つ 個 人 へ の そ の 効 用、 そ の 個 人 自 身 の 世 界 へ の 効 用、 こ れ ら は 宗 教 の な か に 真 理 が あることの最高の論拠である⋮⋮真であるものとは、うまくはたらくもののことである。 ︵ VRE 411 ︶ し か し、 こ の よ う な 状 況 に お い て、 ﹁ う ま く は た ら く ﹂ と は ど う い う 状 況 を 指 す の か。 こ の こ と に つ い て、 ﹃ 意 志 ﹄

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11 (林) では次のように言われている。 もし宇宙についての宗教的仮説が適切であれば、そのときその仮説のもとにある個々人が生活の中で自由に表現 する行動的な信仰は、その仮説を検証する実験的なテストであり、またその仮説の真偽を解明することのできる 唯一の手段である。 ︵ WB 450 ︶ 先述のように、ジェイムズにとって検証は真理の真理化であるから、人が宗教を信じて生活することが、その宗教 を真理化していくことだということになる。 このように、宗教に関してはプラグマティズムが主に価値判断の基準に用いられるため、 有用性 0 0 0 が強調される傾向 にある。しかしこの有用性とは、そもそもどういう意味であろうか。

 

整合性と有用性

ジェイムズのプラグマティズムは、パースの構想した﹁行動に結びつく﹂というコンセプトを﹁有用性﹂へと発展 させることで、その適用範囲を大幅に拡大した。しかし、プラグマティズムが激しい批判を浴びることになったのも こ こ に 原 因 が あ る。 確 か に、 ﹁ 役 に 立 つ こ と が 真 で あ る ﹂ と い う 言 説 を、 こ れ だ け 取 り 出 し て 見 る な ら ば、 批 判 は もっともなことであろう。しかし先に見たように、ジェイムズは他の経験との整合性を常に検証することにも力点を 置いており、ここを強調するならむしろ科学の方法と大差がないことにもなる。つまり、プラグマティズムの正当性 と独自性は、整合性と有用性との関係をどう見るかにかかっているとも言えるのである。

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ではまず、整合性の面について見てみよう。ジェイムズは、プラグマティズムの言う﹁うまくはたらく﹂というこ とについて、次のように言う。 私たちは はたらく 0 0 0 0 であろう理論を見つけなければならない。そしてそれは極めて困難なことを意味している。と いうのも、 私たちの理論はすべての以前の真理と、 ある新しい経験とを媒介しなければならないからである。 ︹第 一に︺それは可能な限り常識や以前の信念を混乱させないでおかなければならない。そして︹第二に︺それは正 確に検証されることのできる何らかの感覚的目標物か何かへ導かなければならない。 ﹁はたらく﹂ということは、 これらの両方を意味するのである。 ︵ PR 580 –1 つ ま り、 ﹁ 以 前 の 真 理 と 新 し い 事 実 と、 そ の 両 方 と の 整 合 性 が 常 に も っ と も 命 令 的 な 要 請 ﹂ ︵ PR 581 ︶ な の で あ っ て、 整 合 性 は 有 用 性 よ り も 厳 格 な 基 準 と 考 え ら れ て い る と 言 え る。 ま た、 観 念 の 真 理 性 は、 ﹁ 同 じ く 認 め ら れ な け れ ば な ら な い 他 の 諸 々 の 真 理 と の 関 係 に ま っ た く 依 存 す る で あ ろ う ﹂ ︵ PR 519 ︶ と も さ れ て い る こ と か ら 、 他 の 理 論 や 常 識 と 調 和 し な い 仮 説 は、 そ れ が い か に 役 に 立 つ も の で あ っ て も プ ラ グ マ テ ィ ズ ム は 容 認 し な い と 言 え る の で あ る。 これはしばしば見落とされる点であろう。 それでは、ここに﹁有用性﹂はどのように関係してくるのだろうか。ジェイムズは、森の中で遭難したとき、牛の 通ったあとを見つけて﹁この先に人が住んでいる家があるにちがいない﹂と仮説を立てるケースを例に出す。 真である思考が有用なのは、その思考の対象である家が有用だからである。このように、真である観念の実際的

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13 (林) な価値は、第一義的にはその対象が私たちに対してもつ実際的な重要性に由来する。実際、対象はいつも有用で あるわけではない。別の機会には、その家に用はないかもしれないのである。 ︵ PR 575 ︶ これについては、有用である場合よりも、有用ではない場合について考えた方が理解しやすいかもしれない。つま り、そこに家があることが事実的に真であっても、そのとき実際に困っていなければ、人はその仮説を実際に確かめ ることをしないだろう。この場合、真理は 真理化されない 0 0 0 0 0 0 0 ことになる。ジェイムズの﹁検証﹂概念は、先述のように 真理を動的な過程としてのみ捉えることを要請する。したがって、検証が必要ではない場合、すなわち有用ではない 場合、真理はそこに生まれないということになる。そしてこれを逆に見れば、真理が真理化されるなら、そのときそ れは有用なのである。 も ち ろ ん、 ジ ェ イ ム ズ は 直 接 検 証 さ れ な い﹁ 真 理 ﹂ を 否 定 は し な い。 む し ろ、 ﹁ 検 証 さ れ て い な い 諸 々 の 真 理 は、 私 た ち が そ れ に よ っ て 生 き る 真 理 の 圧 倒 的 多 数 を 構 成 し て い る ﹂ ︵ PR 576 ︶ こ と を 認 め て い る 。 し か し こ の 場 合 も ﹁ 間 接 の ﹂ 検 証 は 行 わ れ て い る と い う。 こ の 場 合、 ﹁ 推 定 の 検 証 と は、 そ の 推 定 が 頓 挫 や 矛 盾 に 導 か な い こ と ﹂ ︵ PR 576 ︶ で あ り、 ﹁ ど こ か で 面 と 向 か っ て な さ れ る 直 接 の 検 証 ﹂ ︵ PR 577 ︶ を 指 し 示 す こ と に よ っ て 信 用 さ れ 通 用 す る という。したがって、この間接の検証において必要なのは整合性のみであって、有用性はここに関わっていない。 一方、人が何らかの要求から仮説を抱き、それに従う行為によって要求を満たそうとする場合、これは直接の検証 で あ り、 そ の と き 仮 説 が﹁ う ま く は た ら く ﹂ な ら ば、 そ れ は 価 値 を 求 め て そ れ を 得 る と い う 状 況 を 意 味 し て お り、 ﹁有用である﹂と同義だと考えられるのである。そして直接の﹁検証﹂が﹁真理化﹂であるならば、 ﹁有用であること が真である﹂という公式が成り立つ。ジェイムズの言う有用性は、本来この意味で捉えられるべきものなのである。

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とはいえ、ジェイムズによるプラグマティズムの拡大解釈は、基本的に人生の問題、心理的な問題への適用からな さ れ て い る た め、 有 用 性 の 議 論 は 必 ず し も 厳 密 で は な く な っ て い る。 例 え ば、 ﹁ 観 念 は、 そ れ を 信 じ る こ と が 私 た ち の 人 生 に と っ て 有 益 ︵ profitable ︶ で あ る 限 り に お い て︿ 真 ﹀ で あ る ﹂ ︵ PR 520 ︶ 、 あ る い は ﹁ プ ラ グ マ テ ィ ッ ク な 原 理 に 基 づ く 場 合、 私 た ち は 人 生 に と っ て 有 用 な 帰 結 が 流 れ 出 て く る 仮 説 な ら、 い か な る 仮 説 を も 拒 絶 す る こ と は で き な い ﹂ ︵ PR 606 ︶ と い っ た 記 述 に 関 し て は 、 し ば し ば 批 判 さ れ る 形 の プ ラ グ マ テ ィ ズ ム に 限 り な く 近 づ い て 見 え る こ と は否めない。しかしここでも、あくまでも整合性が基礎にあることを思い起こす必要がある。 ジ ェ イ ム ズ に よ れ ば、 ﹁ 私 た ち に と っ て 信 じ た 方 が よ り よ い も の は、 そ の 信 念 が 他 の 極 め て 重 要 な 利 益 と た ま た ま 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 衝 突 し な い 限 り 0 0 0 0 0 0 0 真 ﹂ ︵ PR 521 ︶ で あ る が 、 こ こ で 衝 突 す る 相 手 に つ い て は 、﹁ 私 た ち の 諸 真 理 の う ち ど の ひ と つ を と っ て も、 そ の 真 理 の 最 大 の 敵 は、 そ れ 以 外 の 私 た ち の 諸 真 理 で あ ろ う ﹂ ︵ PR 521 ︶ と 想 定 さ れ る 。 つ ま り 、 有 用 性 は 真 理の基準ではあるけれども、その条件として、他の諸真理と整合的であることが、やはり前提なのである。 ま た、 ﹃ 諸 相 ﹄ で は 宗 教 の 真 理 性 が そ の 効 用 に よ っ て 判 定 さ れ て い た わ け だ が、 そ の﹁ 宗 教 の 果 実 は、 常 識 が 判 断 し な け れ ば な ら な い ﹂ ︵ VRE 310 ︶ と い う こ と が 指 摘 さ れ て い る 。 こ こ で も 広 い 意 味 で の 整 合 性 が 前 提 と な っ て い る の である。

 

科学と宗教

科 学 と 宗 教 と の 関 係 は 今 日 様 々 に 語 ら れ て い る が、 一 般 的 な 見 方 と し て は、 ﹁ 宗 教 の 事 柄 は 科 学 的 に 証 明 が 出 来 な い﹂ので﹁信じない﹂あるいは﹁別の次元のものとして態度を切り替えて考える﹂というものが主流であろう。これ に対してジェイムズは科学と宗教とをパラレルに見ると言う特異な見解を持つ。このことを、ここまでの考察をふま

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15 (林) えて検討してみよう。 まず、ジェイムズは、比較的初期の﹃意志﹄から一貫して、宗教の語ることを﹁仮説﹂と呼ぶ。この用語がすでに 科学と宗教との境界を取り除くことを暗示していると言える。そしてまた、科学と宗教については、次のような言明 が見られる。 明らかに、科学と宗教はどちらも、それぞれそれを実際的に使える人にとって世界の宝庫を開くための真の鍵で ある。また明らかに、 どちらも網羅的ではなく、 どちらも他方と同時に利用するのに排他的ではない。 ︵ VRE 116 ︶ これを見る限り、ジェイムズにとって科学と宗教は相補的なものであり、両者は権利上同等のものと考えられてい る。 また、仮説の取り扱い方に関しては同質的でさえある。その取り扱い方とは、仮説の真偽がプラグマティズムの原 理によって判定されるということである。仮説が他の諸経験全体と整合的であること、それが実際的な場面で有用で あること、この基準は科学においても宗教においても、ある程度すでに適用されていると見ることができる。 というのも、ジェイムズ特有の徹底した経験論からすれば、科学も主観を経由した経験から成る仮説を、行為の差 異に表れる実際的結果によって検証していると言えるからである。例えば唯物論的な近代医療も、治癒という実際的 結果から構成されてきたものにほかならない。つまり科学と宗教はいずれも、事前に確実な知識がないにもかかわら ず、それが真であるかのように行為することによって、仮説を検証すなわち真理化する営みだと言えるのである。 また、ジェイムズは、 ﹃意志﹄と﹃諸相﹄において﹁宗教の科学 ︵ science of religions ︶ ﹂という構想を提案する。これ

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は宗教的命題について公平な分類や比較を行い、宗教的﹁仮説﹂を公的な議論の中で洗練させていくことを目的とし て い る ︵ VRE 408 –9 。 科 学 の 時 代 に 宗 教 を 語 る に は 、 宗 教 を 公 的 な 議 論 に 開 放 し て 、 諸 教 義 を 再 解 釈 し て い く 必 要 が ある、というのがジェイムズの立場である。 し か し、 ﹁ 宗 教 の 科 学 ﹂ と は、 宗 教 を 唯 物 論 的 な 科 学 の 世 界 観 に 組 み 込 む こ と で は な い。 本 稿 冒 頭 の 引 用 で 見 た よ うに、ジェイムズにとって科学は経験論的態度であり、事実のみを扱うことを意味する。宗教に関して言えば、神に ついて何かを語ることは科学的ではないが、少なくとも人間がいわゆる宗教的経験をするという事実自体は、非科学 的と呼ばれるものではない。 そ し て ま た、 そ う し た 経 験 か ら﹁ 仮 説 ﹂ を 導 き 出 す こ と は で き る。 そ れ は 例 え ば、 ﹁ 高 い と こ ろ か ら エ ネ ル ギ ー が 流 れ て き て︹ 私 た ち の ︺ 要 求 に 応 じ、 現 象 世 界 の 内 部 で 作 用 す る こ と に な る ﹂ ︵ VRE 428 ︶ あ る い は 、﹁ 私 た ち が 宗 教 的 経 験 に お い て 結 ば れ て い る と 感 じ る そ の︿ よ り 以 上 の も の ﹀ は、 向 こ う 側 で は 何 で あ ろ う と、 そ の こ ち ら 側 で は、 私たちの意識的生活の潜在意識的な連続である﹂ ︵ VRE 457 –8 といったものである。 こ れ ら の﹁ 仮 説 ﹂ に は、 科 学 的 な 知 見 と 衝 突 し な い よ う に 細 心 の 注 意 が 払 わ れ て い る こ と が 見 て 取 れ る こ と と 思 う。 こ れ が ジ ェ イ ム ズ に よ る﹁ 仮 説 の 洗 練 ﹂ の 試 み だ と 言 え る。 つ ま り、 ﹁ 宗 教 の 科 学 の 義 務 の ひ と つ は、 宗 教 を 他 の 諸 科 学 と の 連 絡 の う ち に 保 つ こ と ﹂ ︵ PR 457 ︶ と さ れ る よ う に 、 ジ ェ イ ム ズ の 見 解 で は 、 科 学 と 宗 教 は そ れ ぞ れ が 整合的であるだけではなく、 科学的仮説と宗教的仮説の間でも整合的 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 であることが可能かつ必要だと考えられている のである。 そもそも科学という営みが、他の知の領域に比べて圧倒的に多くの人から同意を得られる理由のひとつは、個々の 科学理論が全体として大きな整合的体系を作っていることである。それに比べて宗教には、個々の宗教、宗派を統一

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17 (林) する整合性が存在していない。つまりジェイムズが行った試みは、宗教的経験という事実を基盤にすべての宗教が整 合的にはたらく仮説を提出することであり、またその仮説は科学の体系とも整合的に相提携してはたらくことが目標 とされていたのである。 もちろんジェイムズ自身、ささやかな一歩を踏み出しただけだと考えていたし、プラグマティズムの原理に従うな ら、仮説の真偽も時々刻々と更新されていくものである。こうした真理観は、科学や宗教に絶対的確実性を期待する 人々には不満なものであろう。しかし、プラグマティズムを介した改善論的態度によってこそ、科学と宗教とは、現 段階でかけ離れた価値観のように見えていても、それぞれの実践の中で、いずれは互いに通約可能な営みとなる可能 性が期待できるとは言えないだろうか。

プラグマティズムによって、ジェイムズが科学と宗教とに提示した視点は、要約して言えば、科学的真理を相対化 し、これをも真理生成のプロセスと見ること、そして宗教的仮説には整合性を課すこと、ということになろう。こう して捉えなおすならば、科学と宗教は相補的で同質的なものとみなすことが可能となるだろう。すなわち、どちらも 現実のなかに真理を作っていくという人間本性の表れの一面なのである。 そしてこのとき、検証することは促進することである。事実、科学はそうやって進歩し、より快適で便利な世界を 作ってきた。それなら、宗教もまた、検証されることによってより善い世界を作っていけるはずである。ジェイムズ は 言 う、 ﹁ 宗 教 は、 そ の も っ と も 十 分 な 機 能 の は た ら き に お い て は、 す で に ど こ か で 与 え ら れ た 事 実 の 単 な る 照 明 で はなく、愛にように事物を薔薇色の光で見る単なる情熱でもない⋮⋮宗教はそれ以上のもの、すなわち、新しい 事実 0 0

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の要請者でもあるのである﹂ ︵ VRE 462 ︶ と。 ︵ 1︶ ジェイムズの著作については、以下のものを用いた。 The W ill to Believe , 1897 . ︵ WB ︶ W ritings 1878–1899 , The Library of America, 1992 所収。 The Varieties of Religious Experience , 1902 . ︵ VRE ︶ W ritings 1902–1910 , The Library of America, 1988 所収。 Pragmatism , 1907 . ︵ PR ︶  W ritings 1902–1910 所収。 本 稿 で は 上 記 著 作 集 の も の を テ キ ス ト に 用 い、 引 用・ 参 照 部 に は 略 号 と そ れ ぞ れ の ペ ー ジ 数 を 示 し た。 引 用 文 の 翻 訳 は 筆 者によるが、以下の邦訳を参考とした。引用中の強調は原著に従った。 ︹   ︺内は筆者による補足である。 ﹃ウィリアム・ジェイムズ著作集 2   信ずる意志﹄ 、福鎌達夫訳、日本教文社、一九六一年。 ﹃宗教的経験の諸相﹄上下、桝田啓三郎訳、岩波文庫、一九七〇年。 ﹃プラグマティズム﹄ 、桝田啓三郎訳、岩波文庫、一九五七年。 ︵ 2︶ Charles S. Peirce , “ How to Make Our Ideas Clear ”, Popular Science Monthly , V ol. 12 , pp. 286 –302 , 1878 . な お 、 引 用 の 翻 訳 に 際 しては、上山春平 ・ 山下正男 訳﹁概念を明晰にする方法﹂ ﹃世界の名著   パース ・ ジェイムズ ・ デューイ﹄ 、七六~一〇二頁、 中公バックス、一九八〇年、を参考とした。 ︵ 3︶ ibid. , p. 293 . ︵ 4︶ ibid. , pp. 294 –5 . ︵ 5︶ ibid. , p. 293 . ︵ 6︶ 浅 輪 幸 夫﹁ ︿ プ ラ グ マ テ ィ ズ ム の 守 則 ﹀ を め ぐ っ て ﹂﹃ 研 究 年 報 ﹄ 十 五 号、 十 五 ~ 三 二 頁、 学 習 院 大 学、 一 九 六 八 年、 十 八 ~二十頁参照。 ︵ 7︶ Peirce, op. cit. , p. 300 . ︵ 8︶ 当 時 の 科 学 論 と ジ ェ イ ム ズ の 科 学 観 に つ い て は 拙 論﹁ 蓋 然 性 と 可 能 性 の 科 学 論

ウ ィ リ ア ム・ ジ ェ イ ム ズ の 哲 学 と 科 学

﹂﹃大谷大学大学院研究紀要﹄二九号、八九~一一三頁、大谷大学大学院、二〇一二年、を参照されたい。 ︵ 9︶ ﹁科学は、その本質においてとりあげられる場合、ひとつの方法をのみ意味するものであり、いかなる特別な信念をも意味

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しないはずである﹂

W

illiam James, “Address of the President before the Society for Psychical Research”, 1896,

Essays in Psychical Resear ch , Harvard University Press , 1986 , p. 134 ︶。 ︵ 10︶ ジ ェ イ ム ズ が﹁ プ ラ グ マ テ ィ ズ ム ﹂ の 語 を 用 い て 積 極 的 に こ れ を 提 唱 し 始 め た の は、 一 八 九 八 年 の バ ー ク レ ー で の 講 演 “Philosophical Conceptions and Practical Results ” からである。 ︵ 11︶ “Philosophical Conceptions and Practical Results ”, W ritings 1878–1899 , pp. 1086 –8 . ︵ 12︶ ibid. pp. 1089 –90 . ︵本学大学院博士後期課程第三学年   哲学︶ ︿キーワード﹀有用性、整合性、検証

参照

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