ドゥルーズはシモンドンの議論をいかに理解し使用
したか/ ドゥルーズの忠実さと過剰さ
著者
近藤 和敬
雑誌名
鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集
巻
83
ページ
1-10
発行年
2016
別言語のタイトル
Comment G. Deleuze a-t-il compris et ulitise l
’argumentation chez G. Simondon ?/ fidelites
et exces chez Deleuz
一
ドゥルーズはシモンドンの議論を
いかに理解し使用したか
︱︱ ドゥルーズの忠実さと過剰さ ︱︱近
藤
和
敬
1.導入と概要
ジ ル ベ ー ル・ シ モ ン ド ン︵ 1 9 2 4 ︱ 1 9 8 9 ︶ の 哲 学 は 、 メ ル ロ =ポンティの現象学とカンギレムの科学認識論の影響のなかで形成され た彼特有の個体化論と技術論が、ドゥルーズやラトゥールを介して近年 の フ ラ ン ス 哲 学 に 大 き な 影 響 を 与 え て い る こ と で 知 ら れ て い る。 シ モ ンドンの哲学を科学認識論的な観点から見たなら、特に物理学︵宇宙物 理、量子物理含む︶ 、機械学、電子工学、サイバネティクス、生命科学、 認 知 科 学 に つ い て の 認 識 論 的 研 究 を 多 く 残 し て い る こ と が 注 目 さ れ る。 特にその文体は極めて認識論的なものであり、科学技術という対象につ い て の︵ 人 類 学 者 の ギ ア ー ツ 風 に 言 え ば ︶﹁ 厚 い 記 述 ﹂ の な か に、 間 欠 的に認識論的なメタ分析が挿入され、それらが一体となって著作のなか に織り込まれている。また、彼の主著﹃形態と情報の概念からみる個体 化 ﹄︵ 1 9 5 8 年 に 書 か れ た と さ れ る シ モ ン ド ン の 国 家 博 士 論 文。 こ の うちの第一部が1964年に﹃個体とその物理生物学的発生﹄としてフ ランス大学出版局より公刊された。ドゥルーズが参照するのは主にこの 版︶では、科学の歴史を扱うというよりも、 ﹁宇宙発生論﹂ ︵コスモゴニ ア ︶ 的 観 点 か ら 1 、 物 理 的 な も の、 生 物 的 な も の、 心 理 的 な も の、 集 団 的なものが、それぞれの﹁個体化﹂を通して順次構成的に発生していく ︵ つ ま り 階 層 を 創 発 し て い く ︶ 過 程 が 描 か れ る 2 。 本 稿 で 用 い る﹁ 宇 宙 発 生 論 ﹂︵ 的 ︶ と い う 語 の 意 味 の 広 が り は、 そ れ ほ ど 確 定 的 な も の で は な いが、その語が適用される範例としてプラトンの﹃ティマイオス﹄の記 述を含むようなものとして理解されたい。 現代風の言い方と比較すれば、 あ る 意 味 で は 0 0 0 0 0 0 英 語 圏 に お け る﹁ 自 然 主 義 ﹂ naturalism と い う 語 の 使 用 と 重 な る 部 分 も 少 な く な い︵ た だ し、 そ れ ら の あ い だ の 根 本 的 な 差 異 は、 ﹁宇宙霊魂﹂ ︵プシュケー・コスムー︶の議論を含むかどうかにあると思 われる 3 ︶。 1 シ モ ン ド ン の 個 体 化 論 は、 ソ ク ラ テ ス 以 前 の 自 然 哲 学 的 な 伝 統 と 宇 宙 発 生 論 的 な 神 話 の 文 脈 に お い て よ り 理 解 す る こ と が で き る の で は な い か[ 廣 川 1 9 9 7 の 付 録﹁ 自 然 に つ い て ﹂︵ 旧 版 の 二 章 に 相 当 ︶ を 参 照。 本 稿 の コ ス モ ゴ ニ ア と い う 用 語 も こ れ に よ る ]。 宇 宙 発 生 論 的 と 言 っ て も、 現 代 の 宇 宙 形 成 史 の よ う に ビ ッ ク バ ン 前 後 か ら 宇 宙 の 膨 張 と 分 裂 そ し て 熱 冷 却 に 始 ま る 過 程 を 描 く わ け で は な い。 描 か れ る の は、 あ く ま で 存 在 者 の 階 層 的 発 生 の 論 理 的 秩 序 で あ っ て、 シ モ ン ド ン は そ れ を 発 生 の 歴 史 的 秩 序 と は 厳 密に一致させていない。 2 こ れ に 対 し て ﹃ 技 術 的 対 象 の 存 在 様 態 ﹄[ Aubier , 1969 ] の ほ う で は 、 比 較 的 新 し い 技 術 的 対 象 ︵ 内 燃 機 関 、 ガ ソ リ ン エ ン ジ ン 、 デ ィ ー ゼ ル エ ン ジ ン な ど ︶ の ﹁ 絶 対 的 起 源 ﹂ と い う 節 題 の も と に 、 系 譜 学 的 研 究 が お こ な わ れ て い る [ 中 村 2 0 1 1 ]。 た だ し 、 そ の 観 点 は 歴 史 的 観 点 と い う よ り も 、 正 し く 系 譜 学 的 、 系 統 分 類 学 的 発 想 に 基 づ い て い る 。 こ の 点 に つ い て は 後 述 。 3 ﹁ 宇 宙 霊 魂 論 ﹂ と﹁ コ ス モ ゴ ニ ア ﹂︵ =﹁ コ ス モ ロ ジ ー﹂ ︶ と の 関 連 に つ い ては藤沢2014を参照されたい。近 藤 和 敬 二 シモンドンの記述においては、当の過程を統一的に見ることを可能に する ﹁トランスデュクション﹂ ﹁情報﹂ ﹁個体化﹂ ﹁内的共鳴﹂ ﹁準安定性﹂ ﹁ポ テンシャル﹂というメタ的な︵記述的な︶諸概念は、それらが実際にも ちいられることを通して、その記述を読むものの目にそのような認識論 的な諸概念として実際に浮かび上がってくる。そのようなシモンドンの 記述がもつ科学認識論の文脈における固有性は、この階層創発的な﹁宇 宙発生論﹂の視点にあると言えるだろう。シモンドンの個体化論におけ る形相︲質料図式への批判の起源︵形相︲質料図式は、根本的には形態 分類学の発想と結びつき、そこにおいて発生学的、系統学的発想はうま く機能しない︶は、この視点にあるのであって、この点を理解しなけれ ば、その批判の意味もなさないことになろう。 それに対して、逆に科学認識論がもっている、学知固有の内的生成の 線的あるいは面的な歴史を記述するという側面は、 他の科学認識論者 ︵た とえば、カヴァイエス、カンギレム、フーコー、グランジェ、シナスー ル ら ︶ の 記 述 と 比 べ て 幾 分 弱 い と 言 わ ざ る を え な い 4 。 た だ、 ﹁ 宇 宙 発 生 論 ﹂ 的 視 点 と、 学 知 固 有 の 内 的 生 成 の 視 点 を ど う や っ て 連 絡 さ せ る の か、 と い う 問 題 意 識 は、 ︵ ブ ラ ン シ ュ ヴ ィ ッ ク に お い て は い ま だ 潜 伏 的 で あ っ た が ︶、 次 世 代 の ジ ャ ン・ カ ヴ ァ イ エ ス や ア ル ベ ー ル・ ロ ト マ ン 4 ﹃ 技 術 的 対 象 の 存 在 様 態 ﹄ に お い て は、 技 術 の 系 譜 学 が 試 み ら れ る が、 そ の 視 線 の 先 に あ る の は、 技 術 に 関 す る 学 知 あ る い は そ の 理 論 的 概 念 の 歴 史 内 的 な 生 成 過 程 で は な く、 個 体 と し て の 技 術 的 対 象 そ れ 自 体 の 発 生 的 系 譜 学 に あ り、 ひ い て は こ こ で 論 じ る よ う に﹁ 宇 宙 発 生 論 的 ﹂ な 視 線 に 導 く も の で あ る よ う に 見 え る。 こ れ ら の あ い だ の 異 同 は 繊 細 な 問 題 を 含 む こ と に なるが、ここでは展開しないでおく。 の 記 述 に は す で に 垣 間 見 ら れ る 5 。 特 に カ ヴ ァ イ エ ス の 影 響 を 強 く 受 け つつ、またシモンドンに対して指導教員として強い影響を与えたジョル ジュ・カンギレムの論文1966年の﹁概念と生命﹂ ︵﹃科学史・科学哲 学 研 究 ﹄[ ヴ ラ ン 社 1 9 6 8 年 刊 ] 所 収 ︶ に も そ れ は 比 較 的 は っ き り と 見 ら れ る 6 。 し た が っ て そ の 意 味 で は、 シ モ ン ド ン の 固 有 性 は、 科 学 認 識論の研究文脈に伏してあった問題意識を、一つの方向に明確に分化さ せたことによって生じたのだとも言えるだろう。 本稿は、シモンドンの哲学それ自体を論じるのではなく、あくまでジ ル・ ド ゥ ル ー ズ に よ る シ モ ン ド ン 哲 学 の 使 用 に 問 題 を 限 定 し て 論 じ る。 それにあたって、まず本稿中頃に付された資料1に、ドゥルーズによる シモンドンへの明示的言及を列挙して配列した。最初にこの資料1から 5 カ ヴ ァ イ エ ス の 宇 宙 発 生 論 的 観 点 に つ い て は、 カ ヴ ァ イ エ ス 2 0 1 3, 40 ︱ 41を 参 照。 ロ ト マ ン に つ い て は Lautman1947 の﹃ テ ィ マ イ オ ス ﹄ へ の 言 及 お よ び Lautman1938 結 論 に お け る イ デ ア 論 を 参 照 さ れ た い。 ま た、 あ る 意 味 で は 文 脈 が 異 な る が、 ア レ ク サ ン ド ル・ コ イ レ の﹃ コ ス モ ス の 崩 壊 ︱︱ 閉 ざ さ れ た 世 界 か ら 無 限 宇 宙 へ ﹄ な ど の 仕 事 も そ の 文 脈 で と ら え る ことができる。また、 この観点にたいして、 フランスにおけるホワイトヘッ ド 哲 学 の 受 容 が 重 要 な 役 割 を 果 た し て い る こ と も 見 逃 せ な い。 若 く し て 失 わ れ た ジ ャ ン・ ニ コ の 業 績 と ジ ャ ン・ ヴ ァ ー ル に よ る ア メ リ カ 哲 学 の 紹 介 に よ っ て 1 9 3 0 年 代 に は フ ラ ン ス で ホ ワ イ ト ヘ ッ ド 哲 学 は よ く 知 ら れ て いた。 6 こ の 論 文 自 体 の 発 表 は、 1 9 5 8 年 に 書 か れ た と さ れ る シ モ ン ド ン の 博 士 論 文 よ り も 時 間 的 に 後 に な る。 た だ し、 カ ン ギ レ ム の こ の 論 文 で 暗 示 し て い る よ う に、 問 題 意 識 そ の も の は カ ヴ ァ イ エ ス の﹁ 概 念 の 哲 学 ﹂ に 由 来 す る も の で あ り、 シ モ ン ド ン が カ ン ギ レ ム に 影 響 を 与 え た か ど う か、 と い う 問題を確定することのできる根拠は今のところ見当たらない。
ドゥルーズはシモンドンの議論をいかに理解し使用したか 三 わかることを簡単に述べる。そのうえで、ドゥルーズの論じるシモンド ンとシモンドン自身の差異について論じる。最後に、より大きな視点か ら︵特に宇宙発生論的視点から︶ドゥルーズとシモンドンの共通性、あ るいはドゥルーズがシモンドンを貫いてその外に見ている忠実さと過剰 さについて論じる。
2.資料からわかること
1.シモンドンへの言及箇所を類別すると、大きく三つの部分とそれ以 外に分けられる。 I.強度的な内的共鳴システム ︵﹃個体とその物理生物的発生﹄ 20以下 つまり﹁序論﹂に相当︶ II.質料形相図式批判、煉瓦造り、木のひき割り、冶金術︵ 28 ︱ 60 つまり第一部第一章 7 ﹁形相と質料﹂に相当︶ III. 生 体 膜、 内 と 外、 脳、 位 相 幾 何︵ 2 6 0 ︱ 2 6 5 第 二 部 第 二 章第二節﹁情報と個体発生﹂特にそのなかの﹁5.トポロジーと 個体発生﹂に相当︶ IV. そ れ 以 外︵ ホ ド ロ ジ ー 空 間 批 判、 ﹃ 技 術 的 対 象 の 存 在 様 態 ﹄ 第 一 部第一章第四節﹁ある技術系統の絶対的起源﹂への参照︶ 2. type I に 属 す る シ モ ン ド ン の 強 度 的 な 内 的 共 鳴 シ ス テ ム は、 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ の 主 題 で あ っ た が、 ﹃ 意 味 の 論 理 学 ﹄ の 第 15セ リ ー 以 降、 明示的には登場しない。ちなみに、第 15セリーでは、 ﹃差異と反復﹄ で 特 異 点 の 理 論 家 と し て 登 場 す る ロ ト マ ン と 並 置 さ れ て い る が、 7 章立ては﹃形態と情報の概念からみる個体化﹄に従う。 ﹁ 膜 ﹂ に つ い て の 言 及 が 付 加 さ れ、 参 照 箇 所 も 序 論 で は な く type III に 向 け ら れ て い る︵ type I の 言 及 先 で あ る﹁ 序 論 ﹂ に は﹁ 膜 ﹂ の 議 論が存在しないことに注意されたい︶ 。 3. 第 28セ リ ー 以 降、 type III に 属 す る 表 面、 内 部 と 外 部 の 境 界、 位 相 空間、 脳という主題が明確にせりあがってくる。 これは、 ﹃シネマ2﹄ 、 ﹃哲学とは何か﹄で重要な主題として再び取り上げられる。しかし、 ﹃シネマ2﹄で同個所の参照はあるが、 ﹃哲学とは何か﹄では脳につ いて論じている箇所など、ありそうな場所は多数あるが実際には参 照されていない。 4. 表 面、 内 部 と 外 部 の 境 界 は、 そ の ま ま type II ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ に おける﹁中間的媒介﹂の議論につながる。中間的媒介の議論は、シ モンドンの質料形相図式批判と関連付けて﹃千のプラトー﹄で中心 的に論じられる。特に、 これが﹁物質の流れ﹂ 、﹁機械状系統流﹂ 、﹁冶 金術﹂ ︵﹁マイナーサイエンス﹂ ︶と関連付けられる点で、 ﹃千のプラ トー﹄では﹃差異と反復﹄とは異なる仕方で、シモンドンが前景化 されている。 5. しかも、 シモンドンをフッサールと併記していることも、 ドゥルー ズがもちいる﹁超越論的﹂という語の内実を理解するうえで重要で ある ︵﹃意味の論理学﹄ では暗に、 ﹃千のプラトー﹄ では明示的に、 ﹃フー コー﹄でも暗に︶ 。 6. ﹃ 意 味 の 論 理 学 ﹄ 第 15セ リ ー 以 前 ま で は 特 異 点 の 思 想 家 だ っ た シ モ ン ド ン だ が、 ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ で は﹁ 此 性 ﹂ と し て の 特 異 性 の 理 論 家という仕方で、 復活している。しかし、 理論的な問題としては、 ﹃千 のプラトー﹄の﹁此性﹂と関連付けられた﹁特異性﹂の議論が、ど近 藤 和 敬 四 こまで実質的に ﹃差異と反復﹄ などにおいて論じられた ﹁特異性﹂ ︵﹁特 異点﹂ ︶の議論と一致するのかということは別の問題である。 7. 鋳 造 と 変 調 と い う 主 題 は、 type II に 属 し﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ の な か にすでに表れているが、主題的には論じられていない。むしろ﹃感 覚 の 論 理 ﹄ 以 降 で 前 景 化 し、 ﹃ シ ネ マ 1﹄ 、﹃ 襞 ﹄ で 繰 り 返 し 論 じ ら れる。 8. 時 間 系 列 で み れ ば、 ﹁ 強 度 的 な 内 的 共 鳴 シ ス テ ム ﹂ ↓﹁ 膜 あ る い は 表 面 ﹂ ↓﹁ 脳︵ 大 脳 新 皮 質 ︶ = 形 而 上 学 的 表 面 ﹂ ↓﹁ 中 間 的 媒 介 ﹂ ↓﹁機械状系統流=物質の流れ﹂↓﹁鋳造と変調による対象の連続 的規定﹂と進んでいる。 9. type I で論じられる内的共鳴が生じる﹁場﹂ milie u と、 type II の﹁中 間的媒介﹂は、シモンドンにとっては同じものである。そしてこれ が、生物においては type III で論じられる﹁膜﹂あるいは﹁脳表面﹂ ということになる。 10. そ の 意 味 で は、 ド ゥ ル ー ズ の 参 照 は 一 貫 し て い る。 し か し、 ニ ュ アンスの置き所が、システム論的なところから、内在的なところへ と 移 っ て い る。 言 い か え れ ば、 原 理 的 な も の か ら、 中 間 的 な も の、 媒介的なもの、 膜、 表面的なものへと移行している。 この移行は、 ドゥ ル ー ズ が﹁ ﹃ 意 味 の 論 理 学 ﹄ イ タ リ ア 語 版 へ の 覚 え 書 き ﹂︵ ﹃ 狂 人 の 二 つ の 体 制 1 9 7 5 ︱ 1 9 8 2 ﹄ 所 収 ︶ で 書 い て い る ド ゥ ル ー ズ自身の関心の遷移 ︵﹁高所﹂ と ﹁深層﹂ の対から ﹁表面﹂ への移行︶ とおおよそ一致している。 3.ドゥルーズとの差異 シ モ ン ド ン の 議 論 そ れ 自 体 は 、 徹 底 的 に 階 層 的 で あ り 、 そ の 意 味 で は 、 ドゥルーズの議論よりも分析系科学哲学の議論にある物理主義+創発的 階 層 の 議 論 の ほ う に む し ろ 近 い と 評 価 す る こ と も で き る 8 。 最 も 基 礎 的 な 分 子 的 な も の か ら 順 に 、 大 き な 物 体 が 形 成 さ れ 、 生 物 が 形 成 さ れ 、 生 物 集 団 と 心 理 的 な も の が 形 成 さ れ て い く 。そ の 際 、常 に 下 位 の 階 層 の 余 剰︵ こ れがシモンドンのいう情報の根本である︶が異なるスケールをもつ次の 階 層 の 組 織 化 を 促 し ︵ そ の と き 、 下 位 の 階 層 の 余 剰 は 上 位 階 層 に と っ て の 問 題 と し て 現 れ る ︶、 そ れ が 次 々 と 繰 り 返 さ れ て い く 。 し た が っ て 、 シ モ ン ド ン の 議 論 そ れ 自 体 は 、 万 物 の 生 成 を 論 じ つ く す も の と な っ て い る 。 し か し、 ド ゥ ル ー ズ の 議 論 に と っ て、 こ の﹁ 階 層 性 ﹂︵ 階 梯 性 ︶ échelle s と﹁スケール﹂ ordres de grandeur の存在、より正確には線形的な ﹁ 階 層 性 ﹂ と﹁ ス ケ ー ル ﹂ の も つ 整 列 性 9 は 極 め て 不 都 合 で あ る。 ﹃ 差 異 8 た だ し、 そ れ が チ ャ ー マ ー ズ な ど の 典 型 的 な 物 理 主 義 と 異 な る の は、 ﹁ 情 報 ﹂ 概 念 が す べ て の 個 体 化 を つ な ぐ 軸 と な っ て い る 点 で あ る。 そ の 意 味 で は、 橘[2012]が論じていることは正しく、 ベルクソンの﹁スピリチュ ア リ ス ム ﹂︵ 霊 魂 論 ︶ を 介 し て、 本 稿 で 論 じ て い る﹁ 宇 宙 霊 魂 論 ﹂ を 含 む ﹁ 宇 宙 発 生 論 ﹂ へ と つ な が っ て い る と 見 る べ き か も し れ な い。 こ の 点 が 物 理 主 義 と シ モ ン ド ン の 議 論 の 本 性 的 に 相 い れ な い 点 で あ る。 ま た 階 層 性 と ス ケ ー ル の 有 無 は、 ﹁ 宇 宙 霊 魂 論 ﹂ を 認 め る か 否 か と は 独 立 で あ る。 こ れ の 展 開 で あ る 中 世 の 天 使 論 と﹁ 階 層 性 ﹂ の 本 性 上 の 結 び つ き を 想 起 す る 必 要がある。 9 ド ゥ ル ー ズ 自 身 も、 強 度 的 差 異 の シ ス テ ム で は、 齟 齬 や、 高 低 差 を 認 め て い る 以 上、 局 所 的 な 階 層 関 係 ま で を も 否 定 し て い る わ け で は な い。 局 所 的
ドゥルーズはシモンドンの議論をいかに理解し使用したか
五
近 藤 和 敬 六 と 反 復 ﹄ で、 ド ゥ ル ー ズ は 繰 り 返 し、 こ の よ う な 線 形 的 な﹁ ス ケ ー ル ﹂ と﹁階層性﹂のもつ整列性を厳しく批判しているからだ。だから、シモ ンドンの議論において﹁階層性﹂と﹁スケール﹂が線形性と整列性をも つという一点だけが、ドゥルーズの議論のうちに取り込まれるときに意 図的に退けられている。 その作業がなされているのが以下の個所である。 ﹁ 異 質 な あ る い は 齟 齬 す る 諸 セ リ ー そ れ 自 身 を 関 係 = 比 の 状 態 に 置くような二階の即自的差異、つまり暗き先触れを、わたしたちは 齟齬をきたすものと呼ぼう。関係=比の状態に置かれた差異の相対 的な大きさを決定するのは、どの事例においても差異の置き換え空 間とその偽装プロセスである。あるいくつかの事例においては︵つ まりあるいくつかのシステムにおいては︶活動状態にある差異の差 異は、 ﹃きわめて大きく﹄なる可能性があり、 別のシステムでは﹁き わめて小さく﹂なるはずだということは、たしかに周知の事実であ る 25。﹂189︵旧版邦訳頁数。一部訳を変更したところがある。 ︶ ﹁ 齟 齬 す る 諸 セ リ ー と そ れ ら の 内 的 な 共 鳴 が、 シ ス テ ム の 構 成 に おいて重要であるということについては、ジルベール・シモンドン ﹃個体と個体の物理的・生物的発生﹄ p. 20を参照されたい︵ ただし シモンドンは諸セリー間の類似の要請、あるいはそこで作動する諸 な 階 層 性 ま で も 否 定 し て し ま っ て は、 ド ゥ ル ー ズ が シ モ ン ド ン か ら 何 も 受 け 継 い で い な い と い う こ と に な る。 む し ろ ド ゥ ル ー ズ に よ る シ モ ン ド ン 哲 学 の 受 容 は、 局 所 化 さ れ、 か つ 線 形 化 さ れ え な い 階 層 性 と ス ケ ー ル に こ そ あるとも言える。 差 異 の 小 さ さ の 要 請 が 条 件 と な る と 主 張 し て い る ︶。 ﹂︵ 第 二 章 原 注 25, p.464︶ ﹁ し か し、 後 者 の 事 例 に、 類 似 を 事 前 に 要 請 す る こ と の 純 粋 な 表 現があるとみなし、この類似は、前者の事例ではただひたすらゆる んで、地球的な規模で広がるのだと考えるなら、それは間違いだろ う 。たとえば、齟齬するセリーにほぼ 似ている という必要性、振動 数は隣接している︵ωが ωと隣接している︶という必要性、要する0 に 差 異 は 小 さ い と い う 必 要 性 が 主 張 さ れ て い る。 し か し 正 確 に は、 もろもろの異なるものを連絡の状態におく作用者の同一性を前提す る場合、たとえ地球的な規模であっても﹁小さい﹂差異など存在し な い。 小 と 大 は、 わ た し た ち が す で に み た よ う に、 ︽ 同 じ ︾ も の と 似ているものとの基準に即して差異を左右する以上、その差異に対 し て は、 到 底 う ま く 適 用 さ れ る も の で は な い 。 ・・・﹂ 1 8 9︵ 下 線による強調は引用者による。 ︶ 以上のシモンドンに対するドゥルーズの批判を、 ドゥルーズ特有の ﹁プ ラ ト ニ ズ ム の 転 倒 ﹂ の 観 点 か ら 読 む こ と が で き る。 ﹁ プ ラ ト ニ ズ ム の 転 倒﹂といっても、プラトンの全否定ではないことに注意されたい。むし ろ後期プラトンが行きつく先、あるいはそれが含み持っていたものとし ての﹁プラトニズムの転倒﹂をこそドゥルーズは肯定する。同一性、類 似性だけで議論が成立することはなく、差異が、つまり︿異﹀ 10 の類が不 10 レ ヴ ィ ナ ス と の 可 能 な 比 較 の た め に は︿ 他 ﹀ と 訳 し た ほ う が 良 い か も し れ ないが、ここではプラトンの著作の翻訳の文脈に従う。
ドゥルーズはシモンドンの議論をいかに理解し使用したか 七 可 欠 で あ り、 そ れ に よ っ て、 ﹁ あ ら ぬ ﹂︵ 異 ︱ 有 ︶ が あ る と い う 議 論 を 展 開 し た の が、 後 期 プ ラ ト ン の﹃ ソ ピ ス テ ス ﹄ で あ り、 こ の﹁ あ ら ぬ ﹂ を論じるにあたって、 ﹁ある﹂ものの模倣である﹁似像﹂ ︵=エイコーン︶ から区別された、 ﹁あらぬ﹂ものの模倣としての﹁見かけだけの像﹂ ︵= パンタスマ︶が措定される。ソフィストは、この﹁見かけだけの像﹂を ﹁ 物 真 似 ﹂ に よ っ て 提 示 す る 技 術 を も つ も の と し て、 定 義 さ れ る。 そ し て、 この ﹁見かけだけの像﹂ こそが、 ドゥルーズが ﹁コピー﹂ ︵= ﹁似像﹂ ︶ から区別された ﹁シミュラクル﹂ と呼ぶものである。 ﹁階層性﹂ は、 ドゥルー ズ が﹃ ス ピ ノ ザ と 表 現 の 問 題 ﹄﹁ 第 11章 ﹂ や﹁ 内 在 性 の 浜 辺 ﹂︵ ﹃ 狂 人 の 二 つ の 体 制 1 9 8 3 ︱ 1 9 9 5 ﹄ 所 収 ︶ で 論 じ て い る よ う に 11 、 類 似 性、コピーとモデルの関係によって成立する。これに対して﹃差異と反 復﹄の論理は、徹底して﹁シミュラクル﹂の論理である以上、このよう な﹁階層性﹂をそのまま引き受けることはできない。それゆえ、シモン ドンが非常に重視した﹁スケール﹂と﹁階層性﹂そして、それらがもつ 線形性という特徴を、ドゥルーズは徹底して排除したうえで、自身の議 論に取り込んでいるのである。 ち な み に、 そ こ で 反 論 の 根 拠 と な っ て い る 小 と 大 の 批 判 に つ い て も、 後 期 プ ラ ト ン の﹃ テ ア イ テ ト ス ﹄[ 1 5 4 B ︱ 1 5 5 D ] に お け る プ ラ トン自身による批判と同型のものとみなしうる。要するに、基準がなけ れば、 大も小もないが、 基準とはそもそも﹁同一性﹂に基づくのであり、 差異がそうでない以上、大と小を、差異について適用することはできな いというものである︵プラトン自身による小と大の批判については、 [藤 11 こ の 二 つ の 参 照 は と も に モ ー リ ス・ ド ガ ン デ ィ ヤ ッ ク に よ る 新 プ ラ ト ン 主 義についての業績に関連付けられている。 澤2014130 ︱ 152]を参照されたい︶ 。 このシモンドンの議論からの﹁スケール﹂と﹁階層性﹂のもつ線形性 と 整 列 性 の 排 除 と い う 点 に つ い て は、 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ 以 降 で も 維 持 さ れ て お り、 特 に、 ﹁ リ ゾ ー ム ﹂ と﹁ 機 械 状 系 統 流 ﹂ と シ モ ン ド ン の 議 論 と の関係が明示的になる﹃千のプラトー﹄では、この前提抜きにはシモン ドンを参照する議論はまったく理解できない。しかしその一方でシモン ドンの立場からすれば、ドゥルーズが言うような﹁スケール﹂と﹁階層 性﹂が線形性と整列性をもつという条件の排除は、シモンドンの議論を 本当に無傷なものに残すのか、ということを問い返す必要がある。この 点では、ドゥルーズとシモンドンの技術論ないし個体化論は、安易に同 一視することができないのである。
4.ドゥルーズの過剰なる忠実さ
ドゥルーズの﹃千のプラトー﹄の議論は、マヌエル・デランダが印象 的 に 描 き な お し て い る よ う に[ DeLanda2000 ]、 一 つ の 現 代 的 な﹁ 宇 宙 発生論﹂として読むことができる。ただしそれはあくまで地球生物の進 化史の観点にとどまっていると指摘することはできる︵これに対してデ ランダ自身は、宇宙進化史の観点ともそれをはっきり接続させている︶ 。 そ れ が﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ ﹁ 12 戦 争 機 械 と 遊 牧 論 ﹂ で 展 開 さ れ る﹁ 機 械 状 系 統 流 ﹂ と﹁ 冶 金 術 ﹂ の 問 題 で あ る。 ﹁ 宇 宙 発 生 論 ﹂ 的 な 視 点 を 介 在 させて﹃千のプラトー﹄を読むことで理解可能になるのは、シモンドン とドゥルーズが共有する技術論の文脈が、なぜハイデガーのそれ︵技術 批判のための技術論︶と大きく異なるように見えるのか、という点であ近 藤 和 敬 八 る 。 プ ラ ト ン が か つ て 論 じ て い た よ う に 、 宇 宙 と 自 然 と 生 物 を 生 み 出 す 神 の 技 術 は 、 人 間 の 技 術 と 類 比 的 ︵ 比 例 論 的 ︶ に 理 解 さ れ る の で あ り 、 す な わ ち 人 間 の 技 術 は 、神 の ︵ つ ま り 自 然 を 生 み 出 す 自 然 の ︶ 技 術 の ﹁ 似 像 ﹂ あ る い は ﹁ 模 倣 ﹂ と し て 理 解 さ れ る 。 比 例 論 的 に は 、 人 間 的 技 術 は 、 自 然 的 技 術 の 一 部 に 過 ぎ な い 以 上 、 人 間 的 技 術 は 、 そ の 根 本 に お い て 自 然 的 技 術 を 前 提 し 、 そ れ に 従 う も の で な け れ ば な ら な い 。 シ モ ン ド ン が 描 き ド ゥ ル ー ズ が 参 照 す る ﹁ 木 の ひ き 割 り ﹂ の 例 は 、 ま さ に そ の 典 型 で あ ろ う 。 ﹁ た と え ば、 木 の ひ き 割 り と い う 操 作 が 木 の 繊 維 の 波 状 の 変 化 や 歪みといった変化に合わせて行なわれるように。他方では、形相的 本質から導かれ物質に実現される本質的諸特性に、あるときは操作 の結果として生まれ、あるときは反対に操作を可能にする、強度の 可変的情動を付け加えなければならない︱︱たとえば、木材の多孔 質の程度や弾性や抵抗力の程度。いずれにせよ、重要なのは、木に 随うことであり、質料に形相を押しつける代わりに、さまざまな操 作と木の物質性を連結しながら木そのものに随うことである︱︱法 則に服従した質料よりもノモスを持つ物質性に、質料に特性を伸し つけうる形相よりもさまざまな情動を構成する表現の物質的特徴に したがうことである。 ﹂︵ ﹃千のプラトー﹄邦訳旧版,464. ︶ ドゥルーズはシモンドンの議論から﹁スケール﹂と﹁階層性﹂が線形 性と整列性をもつという条件を取り払いながらも、 その冶金術的な側面、 つまり自然の技術と人間の技術の連続性を主題化することで、シモンド ンの意図とは異なる仕方で、宇宙発生論的な側面を取り出すことに成功 している。そして、この宇宙発生論的な議論の文脈こそが、ある意味で は、 ﹁超越論的哲学﹂ ︵つまり、超越論的経験論︶が解体再構成されるべ き場所である、ということが、二度にわたるシモンドンとフッサールの 併記によって示されていると考えられる。 ﹁なぜ機械状系統流すなわち物質の流れは本質的に金属的なのか、 あ る い は 冶 金 術 に か か わ る も の で あ る の か? と い う 問 い で あ る。 ここでもまた、ただ明確に区別された観念だけがこの問いへの答え を与え、移動生活と冶金術のあいだには特別な基本的関係︵脱領土 化︶があることを示しうる。しかしながら、フッサールやシモンド ンを引きながらわれわれが援用したもろもろの例は、金属だけでな く木や粘土に関するものであった。さらに、草や水や獣の群れの流 れも存在し、それぞれ系統流つまり運動する物質を形成するのでは ないだろうか?﹂ ︵同上, 466︶ 宇宙発生論的な文脈それ自体を超越論的なものとしてとらえる︵ここ に ド ゥ ル ー ズ の 後 期 哲 学 を﹁ 自 然 主 義 ﹂ と 呼 び う る 一 つ の 根 拠 が あ る ︶ ことで、シモンドンとフッサールをその中で癒合することがドゥルーズ の意図であろう。もしそうでないのだとしたら、シモンドンとフッサー ルの併記は、シモンドンの記述的な︵メタ的な︶諸概念を、元の意味で の超越論的哲学のカテゴリーとしていったん認めなおしたうえで、技術 的対象の個体化を現象学的に解釈しなおすということを意味することに なるのだろうか。しかし、そのような読みは、シモンドンの意図とも一 致しないだけでなく、ドゥルーズの議論ともまったく一致しない。むし
ドゥルーズはシモンドンの議論をいかに理解し使用したか 九 ろ、 宇宙発生論として ﹁超越論哲学﹂ つまりドゥルーズの用語で言う ﹁超 越論的経験論﹂ を理解するということのほうが、 ドゥルーズの意図にそっ ているのではないか。 ただし、そのように理解された﹁超越論哲学﹂つまり﹁超越論的経験 論 ﹂ に と っ て の 最 大 の 問 題 に な る の は、 ︵ ラ カ ン あ る い は ス ピ ノ ザ 的 な 意味で︶ 欠如あるいは捻じれの位置としての主体の問題 であろう。ドゥ ル ー ズ は こ の 点 を、 ﹁ 経 験 論 ﹂ と い う 彼 の き わ め て 奇 怪 な 用 語 に よ っ て 考えようとしていたのではないか。ただしこの点について、シモンドン とドゥルーズの比較から何かを論じることはおそらく不可能だろう。な ぜならシモンドンの記述のなかでは、この主体の欠如あるいは捻じれに 相当するものが存在しないとみなされることでこそ、 ﹁スケール﹂と﹁階 層性﹂が完全な線形性と整列性をもつという条件が成立可能なものとし て描かれているからだ。たとえばこのことは、個体化の過程を記述する シモンドンの位置が記述それ自体の外部にしかないことによって示され ている 12 。 ドゥルーズのシモンドンに対する批判、つまり﹁階層性﹂と﹁スケー ル﹂が線形性と整列性をもつという条件の排除は、主体の位置の捻じれ がドゥルーズにとって極めて重要な問題であったことと結びついている と考えることができる 13 。というのも、 内在から超越を作り出す ︵ドゥルー 12 た と え ば こ れ に 対 し て、 カ ン ギ レ ム の﹁ 概 念 と 生 命 ﹂ に お い て は こ の 捻 じ れ︵ 概 念 を 用 い る 私 と、 用 い ら れ る 概 念 と し て の 生 命 の 捻 じ れ ︶ が 見 ら れ る し、 同 様 の こ と を カ ヴ ァ イ エ ス の 議 論、 と く に そ の﹁ 賭 け ﹂ に つ い て の 議論に見出すこともできる。 13 加 え て シ モ ン ド ン と ホ ワ イ ト ヘ ッ ド を 比 較 す る ラ ト ゥ ー ル の 立 ち 位 置 や、 ズによるフッサール現象学への評価︶のでも、超越のうちに内在を位置 づける︵ドゥルーズによる新プラトン主義、 とくにプロクロスへの評価︶ のでも︵これらはいずれも﹁階層性﹂と﹁スケール﹂の線形性と整列性 に結びつく︶ないところにとどまることこそが、ドゥルーズにとっての 内在性の問題だからである。 ここにこそ、 ドゥルーズがシモンドンとフッ サールを併記することの背後に潜む意義があるのではないか。 文献 14 カ ヴ ァ イ エ ス, ジ ャ ン[ 2 0 1 3] ﹃ 構 造 と 生 成 II 学 知 の 理 論 と 論 理 学について﹄近藤和敬訳, 月曜社. カ ン ギ レ ム, ジ ョ ル ジ ュ[ 1 9 9 1] ﹁ 概 念 と 生 命 ﹂﹃ 科 学 史・ 科 学 哲 学 研究﹄金森修監訳, 法政大学出版局, 390 ︱ 428. 米虫正巳 [2011] ﹁個体化に立ち会うこと ︱ シモンドンと ﹁第一哲学﹂ の︵不︶可能性について ﹂﹃フランス哲学・思想研究﹄第 16号 , 日 仏哲学会, 3 ︱ 15. 橘 真 一[ 2 0 1 2] ﹁ ジ ル ベ ー ル・ シ モ ン ド ン に お け る information の 概 タ ル ド と の 対 比 も 以 上 の 文 脈 か ら 理 解 す る こ と が 可 能 で あ る だ ろ う。 ド ゥ ル ー ズ は、 ホ ワ イ ト ヘ ッ ド を 新 プ ラ ト ン 主 義 の 文 脈 に 結 び 付 け な が ら そ れ を あ え て、 ﹁ 経 験 論 ﹂ と 呼 ぶ。 そ れ に 対 し て ラ ト ゥ ー ル は、 ド ゥ ル ー ズ が 重 視 す る 主 体 の 違 和 感 を 平 板 に と ら え 過 ぎ て い る よ う に 見 え る。 ま た、 そ も そ も﹁ シ ミ ュ ラ ク ル ﹂ の 問 題 に つ い て ド ゥ ル ー ズ が 参 照 を 附 し て い る の が、 ﹃分析手帳﹄ で ﹃ソピステス﹄ を論じた精神分析家のグザヴィエ ・ オドゥ アールであることとの関連も考える必要があろう。 14 ド ゥ ル ー ズ に 関 す る も の は 引 用 し た も の 以 外 割 愛 し た。 プ ラ ト ン の 著 作 を 含めて、本文中で題名を挙げたものも一部割愛した。
近 藤 和 敬 一〇 念 に つ い て : ベ ル ク ソ ン 受 容 と い う 背 景 か ら 照 ら し た 考 察 を 中 心 に﹂ ﹃年報人間科学﹄大阪大学人間科学研究科, 99 ︱ 113. ドゥルーズ, ジル [1992] ﹃差異と反復﹄ 財津理訳, 河出書房新社. ︵旧 版︶ ドゥルーズ, ジル[1994] ﹃千のプラトー﹄宇野邦一, 小沢秋宏, 豊 崎光一, 宮林寛, 守中高明訳, 河出書房新社. 中 村 大 介[ 2 0 0 5] ﹁ 技 術 の エ ピ ス テ モ ロ ジ ー ︱︱ ジ ル ベ ー ル ・ シ モ ン ド ン の 哲 学 の 一 側 面 ﹂﹃ フ ラ ン ス 哲 学・ 思 想 研 究 ﹄ 第 10号, 日 仏 哲学会, 196 ︱ 208. 中 村 大 介[ 2 0 1 1] ﹁ シ モ ン ド ン の 技 術 論 に お け る イ マ ー ジ ュ と 構 想 力﹂ 、﹃フランス哲学・思想研究﹄第 16号, 日仏哲学会, 16 ︱ 24. 廣川洋一[1997] ﹃ソクラテス以前の哲学者たち﹄講談社. 藤 澤 令 夫[ 2 0 1 4] ﹃ プ ラ ト ン の 認 識 論 と コ ス モ ロ ジ ー ︱︱ 人 間 の 世 界解釈を省みて﹄岩波書店. ロ ー ラ ン, ス テ リ ン[ 2 0 1 1] ﹁ シ モ ン ド ン に お け る 存 在 の 問 い と し て の 個 体 発 生 ﹂﹃ Vol 05 特 集 = エ ピ ス テ モ ロ ジ ー﹄ 以 文 社, 128 ︱ 139. Cavaillès, Jean [1940] « Du collectif au pari », Revue de métaphysique et de morale 47 : 139-163. Rééditio n 1994. DeLanda, M anuel [2000] A Thousand Y
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