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中国における専制的統一国家と交通および商業の発達 : 対満植民の中国経済史的背景(二)

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(1)

紳悶紘専制的統一国家と交通および商業の発達

1対満植民の中国経済史的背景

      石

ロー

ノ、

      は し が き

 われわれは、さぎに、漢人の対満植民の中国経済史的背景を問題にして、先ず、その原因を、さしあたり清代における

農業生産力の相対的停滞と専制国家および官僚−一土地11商業資本による農民の搾取に求め緬・ところが・よく考えて見る

と専制君主的官僚国家と官僚n土地“商業資本め発達とは不可分な関係にあることがわかる。そして更にその根底を追求

して行くと、専制的統一国家の生成・発展と交通および商業の発達との密接な関係が問題となってくる。ここでは、この

問題を取扱うことを当面の目的としている。  ① 拙稿﹁清代における農業生産力の停滞と農民の搾取一対満植民の中国経済史的背景6一﹂ ︵彦根論叢第三十五号所載︶

關 専制的統一国家の成立の根拠一水の理論と民族対立の理論

 中国の歴史において、専制君主的統一国家が色々な王朝として永く支配し、 な影響を及ぼして来たことは否定出来ないであろう。    専制的統一国家と交通および商業の発達

このことが、この国の経済発達に対して重大

(2)

   専制的統一国家と交通および商業の発達      二  先ず秦︵ニニ一一二〇六bゴ・ρ︶から見ても、清朝末まで一二三〇年余、その間、三国時代︵二一一〇1二八○︶晋の分裂およ び南北朝時代︵三一七i五八○︶さらに五代︵九〇七一九六〇︶などの分裂時代約三八○年を除いて、一七四五年間は秦︵二 二一一二〇六切・O・︶ 、 諦剛漕俣︵ご〇二ゆ’O.一b.U.ご四︶ 、 後影ハ︵二五一一二一〇︶ 、 皿臼︵二六五−三一六︶、曲階園︵五噌八一i六一㎡八︶ 、 宙周︵⊥ハ一八 一九〇七︶、北宋︵九六〇1二二七︶、南宋︵=二七i一二七九︶、元︵=毛⋮一=二六八︶、明︵一三六八一=ハ四四︶、清︵一六 四四一一九一ご︶等による集権的専制君主国家が支配した。   ,

 このように地方分権的な政治の支配が永続し得ず、むしろ中央集権的な専制君主国家が永き歴史において支配的だった

ことは、西洋と異る中国社会の大きな特色とされているが、その根拠については、マックス・ウェーバー ︵竃騨図 名Φσ①吋︶ およびウィットフォーゲル︵囚餌匡b.葛ざ跳O㎎巴︶は、中国における潅概農業の支配とこれに関連する潅概治水の超地方的課 題の必然からこれを説明する。すなわち森林開墾による森林耕作︵ぐ﹃江田臼評d島叶皆目︶ が支心的だつた西洋と異り、潅概治水耕 作︵切。下心暴護繋喚け冒︶が決定的な中国においては、エジプトや小アジアにおけると同様に、これが諸大河川の流域に発 達し、この河川を水源として営まれるや、この潅概と大洪水による被害防止のための治水は超地方的課題となり、、ここに

       

全水域を包括する治水体系としての大国家が形成された根拠があるとする。かくてウィツトフ評、ーゲルは﹁ここにおいて、

あたかも一の集積された巨大経営が何千もの中小経営に勝利する如く、自己を集中化する潅概治水国家が分散せる領主に

      

勝利してこれを蟻形し、制度的にこれを・克服する﹂というている。また、森谷克巳氏は、これをうけて﹁分権的な早期封

      ③

建主義が存在したとしても、今やそれは集権的官僚的国家によって止揚される﹂ともいわれる。

 中国における集権的専制君主国家の重大な支柱は独裁君主による軍隊の独占であったが、他方において、封建領主とは

ことなって、軍隊を私有せず、従って行政手段の私有からも分離していた官僚が実際に政治を行って来た。マックス・ウ

ェーバーはこれも凡て潅慨に帰する。すなわち﹁官僚政治も臣民の賦役︵⇔詩什①塚歴9認O噂扇周O昌飾O︶も、国王の官僚政治的活動に

(3)

対する臣民の隷属も凡てみな潅概治水︵bコ覇王①窪凝︶と相関連して存在した。かくて国王がその権力を軍事的独占の意味

       ④

においても行使し得たことは、アジヤと西洋との間の国防制度︵宅。腎済生舅弼お︶における差異の基礎をなすものである﹂ という。       ・

 このように潅慨治水の超地方的課題だけから中国の集権的専制国家の必然性を説明するのに対し、森谷氏がこの理論の

       ⑤

「『

圏m﹄に於ける辺憲防衛の意義を論外としているのは問題であろう﹂といわれる。 ﹁蓋し、東洋的国家にとっては未

開乃至半開の諸外野の侵憲に対する防衛も緊切な課題をな七たからである。すなわち辺憲防衛の必要も亦集権的、官僚主

       

義を条件づけたと看倣されうる﹂というのであるが、この説は傾聴に値するといいえよう。

 なお、この点に関連して、ウィットフォーゲルの最近における見解の進展も注意しなければならない。すなわち彼は近

著﹁遼代中国社会史﹂ ︵無目跨名寒ま㈹①ξ三思昌σqO露キ望曾σQ層題ωけ。著。hO巨謬塞ω。。博Φぎ目隠。︵8刈⊥一瞬ソ一〇お︶ の一般的

序説において﹁封建的ヨーロッパの経済史ならば、政治的制度に大して考慮を払うことなしにも、これを書くことは一た

とい理想的ではないにしても−可能であろう。しかし、中国、エジプト、インドおよび古代アメリカ高度文明国などの錯

      

雑ぜる官僚的社会については、純粋な経済史︵を書くこと︶は満足すべき成果をもたらし得ない﹂と述べ、中国における

歴史的展開が﹁典型的中国王朝﹂ ︵日。℃冨ξ爵吊上∪懲器叶霧︶と﹁征服王朝﹂ e唱窒菖①ω90。護壼界︶との交替を以て特. 色づけられていることに重大な関心を示している。すなわち彼によれば、秦以後二千有余年の帝制中国 ︵冒娼巴箪。匡舜︶

       

の歴史は、右の二つの基本的範疇から見て次の如く示される。 帝制中国の歴史︵一コ引切・O.ートρ∪層一九一二︶ 一、

T型的中国王朝

専制的統一国家と交通および商業の発達

ご、征服王朝および侵憲

(4)

専制的統一国家と交通および商業の発達 H秦・漢︵一ご一一じd.ρ一b.U.二﹂.一〇︶ ◎ 魏・晋・南朝︵二ご0一五八一︶ cft) (tzs

宋晴

A 

九唐

六(

〇五

1八

二1

七九

九〇

)七

 w

㈲ 明︵一三六八一一六四四︶ 四 ⇔ 北魏およびそれに前後する五胡諸朝と北          の  斉・北周︵三八六f五五六︶ QX) (k) v一=,) 遼︵契丹族九〇七一一一二五︶ 金︵ジュルチン族一一一五一一二三四︶ 元︵モンゴル族一二〇六f一三六八︶ ㈲清︵満洲族一六一六一一九一二︶                ︹備考︺ ¢⇒⇔については、原書には、具体的でないので、田村実造氏の具体的記述に従った。  こうtて見れば、辺境諸民族の脅威が絶えず中国社会に加えられ、この対立のうちに﹁典型的中国王朝﹂と﹁征服王朝﹂

とが殆ど交互的に出現して、中国社会を支配した所に、中国が直面した厳しい歴史的現実があったので、ここにまた中国

が古代から、何故に中央集権的専制国家でなければ支配を持続し得なかったかを解く重要な鍵の一が見られるのではなか

ろうか。すなわち、若し分裂せる諸勢力が中国内部で対立して,おれば、強力な辺境民族によって征服されるし、若し辺境

民族が中国社会内で対立して弱体化すれば、征服された漢民族の顎起によって倒されてしまうのである。そしてかかる民

        族の対立と・各王朝末期の大規模な流亡農民の反乱に見らるるが如き階級対立との相互媒介の下に、各王朝が倒れ、これら

の脅威を防ぎ得る強力な中央集権的専制国家が確立された限りにおいて支配もまた持続されたと見ることが出来よう。そ

(5)

して、また、強大な外敵に対抗でぎる強力な軍隊を君主が集中的に独占していることは、専制国家の特色であるが、これ

はまた国内における地方分権的封建制度の発生を困難ならしめるし、また地方分権的な諸侯の多角的な対立のない所に、 それに乗ずる貿易南帯の独立化もまた困難であると考えられる。ここに、ヨーロッパの中世史と中国史とを区.別する重大 な根拠の一つが見られないであろうか。       “ ①嵐黄窯魯9宅艮。・。重畳σq患ほ。ぼ①=£ω︸ω.ひ合Q①置目島国88巨。臣9。著ξ寓黄芝①び。♪貯餌語聾巴ξ国●豊国目一管ρお鐸  や㎝ひ.黒正巌訳 ﹁社会経済史原論﹂ ︵昭和二年十一月︶一二三頁以下参照。黒正巌、青山秀夫訳﹁マックス・ウェバー一般社会経済  史論﹂上巻 一四五頁。これらの邦訳本ではbd毫塁ωΦ旨冨σqを治水と訳しているが、むしろ灌概に力点をおいて灌概治水と訳した方が  よいと思う。英訳では甘巨㈹鉾ごβとなっている。ウィットフォーゲル﹁東洋的社会の理論﹂森谷克巳、平野義太郎訳 ︵昭和十四年六  月︶一五頁参照。

②ウィットフォLゲル同書訳本一八頁。

③森谷克巳氏﹁アジア的国家形態とアジア的社会構成﹂アジア問題講座9︵昭和十四年九月︶一〇頁。 ④冨貴薯①ぎ♪名臣のQ冨h房σQ①。。。巨。巨ρち口⊆ρψωψ鵯㎝ゐま・英訳書︵前掲︶ゴ=二頁、黒正巌邦訳書蹟三六.頁。 ⑤.⑥ 森谷克巳氏﹁アジア的生産様式﹂支那間題辞典︵昭和十七年三月︶ 一一頁。橘僕氏も中国専制国家の形成の根拠として水利問顎  と侵遺防禦の問題をあげて.いる。同氏著﹁支那社会研究﹂三一頁。 ⑦図塑匡b名葬㎞。㈹巴きq蜀⑪昌σ90匡9,鉾曾堕霞。・8著。隔O匡ま。・。ω。・§ざ目8︵8マ=P㎝ソおお層や綜. ⑧ Hぼ塾;電.卜。戯ゐ9 ⑨田村実造氏﹁ア.メリカに於ける東洋史学研究の一動向iウ/ットフォーゲル﹁中国征服王朝理論﹂その他i史林第三三巻第一丹  ︵昭和二十五年一月︶ 八Oi八一頁。 ⑩ 爺農山﹁中国農民戦争之史的研究﹂および佐野袈裟平氏﹁支那歴史読本﹂ ︵昭和十二年一月︶ 二〇〇、一一〇八、一=○、二六〇、  二八九、二九一、三六六頁 参照。    専制的統一国家と交通および商業の発達       五

(6)

専制的統一国家と交通および商業の.発達

x

A

二 専制的統一国家の存立条件としての水運路体系の展開

 次に中国において、専制的統一国家を可能ならしめた重要な条件は、中国全土をおうている大河川の本支流ならびに湖

水と、これらを結ぶ運河などによる航運の発達およびこれに連絡する陸運交通の発達である。すなわち、このような水路

および陸路の発達は、軍事的には兵馬糧食の輸送を容易ならしめ、行政的には各地との連絡を敏速ならしめると共に、財

政的には貢米遭運に資することによって、広大な領域の統一国家を可能ならしめた一つの有力な基礎と考えられる。  かくの如く、水陸交通路の全国的発達は、専制的統一国家の形成ないし存続にとって重要な条件となるが故に、また、

後者の形成・存続は前者の全国的体系の形成ないし発達を促したこともまた当然のことであろう。そして、かかる全国的

交通路体系の展開は、また、商業したがって商品的再生産ないし貨幣経済の全国的普及発達を促して来るであろうし、後

者の発達による前者への反作用もまた当然考えられて来る。かくて統一国家の形成と交通の発達と商業したがって商品的

再生産の発展とは相互媒介的に進んだと考えて誤りないであろう。そして中国においでは、ぞの自然地理的条件からし

て、交通体系としては水運路交通が根幹的意味をもつたことも否定出来ないと考えられる。    先ず水運路について見るに、南方では、揚子江および、その麦藁たる湘水、鰭水、漢水等を初めとレて、准河、銭塘江、洞庭湖、都   陽湖等の自然水路があり、この聞を運河が連絡して、中央との交通は勿論、地方間の交通に関して重要な役割を演じた。この5ち湘水       お   は、今の湖南、広西両省界の分水嶺に源を発し、北島して豊州、一州︵湖南省長沙県︶等の都市を連ねて洞庭湖に入り、揚子江と連絡す   るが、それは同じ分水嶺から南流し︵広州に連なる桂江の上流⋮灘水とこの分水嶺において霊渠なる運河によって連絡したのである。か   くて揚子江と広州をつなぐ幹線水路が形成されるが、この添水と下平をつなぐ運河霊渠は古く泰によって開かれ、後漢の馬援も交趾征   伐にあたってこれを改修した。のち唐代の敬宗の時︵八二五一八二六︶再び修理された。次に鰭水は江西・広東両省界の大慶嶺に源を   発し、慶事、鮨種等を経て北凝し、鄙陽湖より揚子江に注ぎ、同じ大慶嶺に発して南流する聖水を通じて広州へ連絡した。ただ、この

(7)

、 水路は大慶嶺の険を陸行せねばならなかったので、繭篭の時代にほ、上述の冠水i桂江の水路が盛んに利用された。ところが唐の玄宗 の時、大慶嶺の新路が開かれて以来、この水路が便利となり、ついで宋が沐京︵開封︶に来するに及んで最南の貨物は多くこれによっ て運送されるなど、中南両地方を結ぶ重要水路となった。漢水︵漢江︶は、京職の所で揚子江と分れて西北に逸り、藁座あるいは洋州 に至り、それよ一7陸路長安に赴くのに利用されたが、中唐以後、浦河の水運が杜絶する場合が生じたので南方物資の運送上益々重要と   ①       ・ なった。  北方においては黄河とその支流の滑水、止水および衛並等の自然水路が基礎となって水運に資した。しかし黄河は、一般に舟行困難 な所が多く、殊に東南より長安へ.の水路に当る重要な地点に三門の険所があって通行に頗る難渋した。それで唐の玄宗の時に、三門の 北岸に陸路を開いて、この険所を回避する方法が講ぜられた。更に黄河は泥土を累積し、河床を高めて決壊することが幾度となく生じ        ② たので、これは水還に役立ったというよりは寧ろ氾濫のため各王朝をして治水、に奔走ぜしめたといわれることが多い。冠水は流砂によ る浅獺が多かったので、晴の文帝の開皇四年︵五八四年︶に潤水、潮水および漣水の水を引いて、滑水の南において、長安より華陰県 に至り、黄河に通ずる運河を開き、これを広通言と名付けた。これは後、唐の玄宗の天丼三年︵七四四年︶に再び修理されて広運潭と         呼ばれた。しかしこの運河は問もなく塞いでしまったので、また浅瀬に苦しみながらも泪水によった。  以上の如き南北水路を連絡したのは永済渠︵御河︶、通済渠︵沐︶、山陽漬︵刊溝︶、 江南河を含む南北大運河で、白河、黄河、准河 揚子江、銭塘江の五河と太湖、高富湖、洪沢湖︵後には独山湖、微山湖を通うた︶等の湖を連ね、その南端は杭州を経て明籍すなわ          ㊧ ち寧波府にまで及んだ。心血渠︵後に御河といわれた︶は黄河の本流より今の河爾省の武陽県において泌水に入り、衛河を通って東北 に流れ天津に至った。そして白河によって今の北京に連絡できた。したがってこの運河は北辺への唯一の水路をなすと共に黄河を横断

し雲華と書し㌦通濱渠︵沐河︶は語誌薯河陰県の常態︵永塁の始占たる鯵県の対岸︶より黄河の水を受け・東に流れ

て開封県をつらぬき、やや南方に向って豊丘県︵旧帰徳府︶を流れた。それから、安徴省の宿県、酒県を逓過し、今の洪沢湖の西南部、       ⑥ 当時の豊州において准河に入り、これを東に下って潅陰県に至った。これより南流して当時の揚州揚子県に達し、魚子江に注ぐ水路は 山陽噸といわれるもので、.汽筈く春秋時代に呉美蒼よつて開かれ、浮浮と呼ばれたが、晴の蝪箆よつ美改逼れたわけで ある。江南河は、今の江蘇省鎮江柔り起り、常州、蘇州を経て抗州に至るもので、鎮江において揚子江をへだてて山陽漬に通じ、延い         ⑧ ては通済渠に連絡した。また抗州から運河によって東南方の明州にも連つたのである。  かくて永済渠i通済渠一山陽演−江南河によって連.絡する南北大蓮河の完成.により、北は北京から、南は抗州に至るまで、舟によつ 専制的統一国家と交通力よび商業の発達 七

(8)

   専制的統一国家と交通および商業の発達      八   て通運することが出来るようになった。更にさきに述べた南方の水路たる積水i霊渠一桂江を利用すれば、広州にまでも舟行が出来た   のである。されば、当時すでに北京より広州に通ずる大水曲路が開かれていたことがわかる。   これらの運河は部分的には古くから、軍事的目的、あるいは貢米漕運の目的論から開馨されたもので、春秋時代には刊溝と鴻溝が、   漢晋時代には河渠と沐渠が、東港では公轟が開かれたが、晴の面隠に至って、永済渠、通済渠、山陽憤、江南河等を改修ないし開難し          て南北大運河の完成を見るに至ったのである。

 このように運河の開難による全国的水運路の発達は、既に述べた如く中国の統一国家の形成ないし存続と密接な関係の

あったことは、更に次に述べるところがらも明らかになって来る。すなわち、例えば素札渠の開難が北辺防備に必要な軍

      ⑩

糧輸送を目的とし、殊に蝪帝によって行われた高勾麗征伐に要する軍資の輸送を直接の目的としたといわれるし、また通

済渠は南方で収取した糧米物資の漕置に利用され、宋代においては糧米の黒部だけで年六百万石を超える有様であったと

、ゆ

   このように専制国家の存続と直接に関係のある軍事的ないし財政的な目的のための輸送と関連して大運河が造られ

しう

維持されたことは、大運河を中心とする全国的水運路体系の発達と専制国家の存続とが不可分な関係にあったことを物語

るということが出来ようQ

 ところが、金によって北中国が占領されると素焼時代に盛んに利用された通済渠は、手入れがなされず、次第に泥土の

ため不通となった。そのうえ、金の章宗の要田五年 ︵二九四︶ に黄河の河道は洪水のため変化し、今の河南省修武県よ

り東南に流れ、沐河の故道より洒水、潅水に合して海に注ぐに至ったのである。然るに元の時代になって、世祖は階以来

の運河の系統に大ぎな改変を加えた。すなわち、洒水によって馬糞より臨写︵山東︶ に至る運河を開墾して、これを会通

話と呼び、北は黒髪済渠に連絡せしめ南は黄河に接続さした。同時に北方では今の河北省昌平県にある神山の水を引いて

大都︵北京︶より通州に出で、白河を経て天津に至る運河を完成してこれを通念河と名づけた。かくて刊溝︵山陽演︶より

黄河に通じ、黄河より会通河に入り、旧年済渠および通恵河を経て大都に至る大運河が実現した。また刊溝は揚子江に通

(9)

じ、更に揚子江より江南河によって杭州に至ることが出来たので、これらの水路は清末に至るまで盛に利用されていた。

ただ元が新に開墾した運河には故障が多かったので、元は別に海運をおこし、河海道戯を併用しつつも、主として海運に

よった。ところが明の永楽帝の時代に垣通河の大改修が行われ、その後、面面も頗る便利となり、明代は勿論、清心にお

      

いても道光の中頃に至るまでは専らこれらの運河を利用した。ここにも国家の分裂が全国的運河の不通を来し、国家統一 がその開通を来すことが如実に示されている。  とも角、北京から杭州に至るこの大運河だけで千七百余算で、この運河は独山、南山、洪沢、高郵、太湖の五湖と白河、

黄河、准河、揚子江の四三につらなり、更に銭塘江および揚子江を媒介として洞庭湖、湘水、都陽湖、叢水とつらなるこ

とによって広州にまで連絡したことは既に述べた所である。このうち揚子江の本支流の航運路の延長だけで一万八千五百

   ⑬      ⑭

       五四七粁に比し約二倍に近いことを見れば、如何にご

粁に達し、 一九三五年現在の満洲を除く全中国の鉄道延長合計九、

       ⑮

れらの水路網が全国的交通の根幹となったかが窺われる。各王朝が運河の開難ないし改修にカを致し、漕運の要路に専任

       

官を設けてこれに司らしめたことを見ても、この水路交通の体系が統一国家の命脈的意義をもつたことが考えられて誤り

ないと思う。

 なお水路交通にちなんで華中におけるクリークの発達に言及しなければならない。クリークの開墾は恐らく太古に遡る

と見られるが、唐宋時代にはそれが非常に発達を遂げたと見え、この問題は盛んに論議され、これに関する周密な学問さ

        ⑰

え出来たといわれる。それは治水を兼ねた潅慨水運路として文字通り網の目の如ぎ展開を示して来たことは周知の如くで

ある。

 かくの如ぎ、沿海、大河川、湖沼、大運河、クリークなど全中国に亘る興奮網は統一国家の形成と関連して発達したこ

とは既に述べた如くであるが、それがまた商業の顕著な発達を促したこともまた見易い道理である。    専制的統一国家と交通および商業の発達      九

(10)

   専制的統一国家と交通および商業の発達      一〇

 更に水路交通の発達は又これに伴う商業の発達と関連して都市の発達を促したことも当然で、例えば、大運河に沿う通

州、天津、能州、柳城、張秋、済寧、韓荘、准陰、揚州、鎮江、常州、無錫、蘇州、嘉興、杭州等は航測と相伴う商業の

発達によって繁栄した都市である。そして張秋の如き一寒村に過ぎなかったものが、運河交通の発達と共に殿罪なる都市

と変り、運河が泥土によって閉塞すると共に、その残心をさらすのみとなり、また明の初めには運河が徐州を経由してい

た関係上、徐州は一時商業の中心地となって繁栄したが、その後、運河の経路が皇師の北方韓荘に移り、韓荘から東行し

       ⑱ たため徐州は俄かに衰微したといわれる。  なお池田静夫氏は、 ﹁北宋に於ける水運の発達﹂なる論文において全国的水路交通と都市的聚落との関係に着眼して北        

宋時代の水運の発達を詳細に研究しているが、同氏はまた別の著書﹁支那水利地理史研究﹂で華中における大運河および

クリーク網の展開と鎮ないし市なる商業都市の発達との関係を微細に亘って研究している。   それによると、例えば、鎮江から蘇州を経て呉江、嘉興より杭州に至る江南運河の上に殆ど百に近い大小の都市をあげることが出来る   という。また、清士の箆山県志には、半山橋市、南陸記念市、紅嬌市、石浦鎮、愚亭鎮、一膳鎮、角直鎮、千轍鎮、楊及磁壁、呉家橋   鎮、陳墓鎮、張浦鎮、上明田鎮、洒橋畔、領家鎮、大野鎮、皇軍鎮、謝麓鎮、度城鎮、撒馬橋鎮、国漢鎮、徐公準鎮、尊家荘市、旧沢   市、四丁馬市、周巷市とあって、計二十六個の市鎮が見える。このうち橋の名の付くものが七個、浦の名のつく奄のが二個で、其他の   都市も説明を見ればクリークに拠っていることが明かであるから、これらの都市の大部分はクリークに当って成立していることが判   ゆ   る。習熟県では蘇州から元和塘が通じ、常熟から長江までは福山塘、梅里塘、白池塘、浪澄塘等の些些に分れて通じている。このうち        め  も       へ  も       で  も  福山塘については﹁常熟城北より綿生すること三十余里、東は歌浬に運り、西は玉傷に通ず、支河七十有二を匪す。費帆商船の通州、          泰州に往来するは、実に之を以て国道となす﹂と説明しているとい5。すなわち長江対岸なる通句および泰州に通ずる大路として、こ   の塘が用いられたわけで、これ等の塘の上に、塘橋鎮、福山鎮、東塘市、西塘市、横浬鎮、莫城鎮、切匙市、筆墨鎮、梅里鎮等の市鎮        @   が成立しているのである。

 これを以て見ても、水運交通と商業と都市とは、その発達のうえにおいて、如何に相互媒介的な関係をもつていたかが

(11)

知られる。と同時に、この水運路は、水田耕作への潅概路をなして農業生産の培養路となり、また治水路ともなっている

わけである。

 かくて上述の如き水路網は中国農業の根幹的培養脈であり、その農産物の商品化を促す交通商業路であり、また政治的

に搾取した貢米の漕運路でもあり、さらに兵糧の輸送路ともなり、そしてこの体系を維持する治永体系でもある。されば、

この水路網は次に述ぶる陸上交通の発達と相懸って中国特有の専制的国家機構の形成ないし存続に対して重要な意義をも

つたことは否定出来ぬところである。  ①青山定男民﹁唐の交通と階の大運河﹂世界歴史大系5東洋中世史第二篇第三章︵昭和九年︶二三六頁。    青山民﹁宋の交通﹂ 世界歴史大系6 東洋中世史第二篇第五週差︵昭和九年十月︶ 二〇七頁以下参照。  ② 池田静夫民﹁旧支那と黄河河道の決定﹂ 東亜経済研究 第二十四巻 第六号、第一、一十五巻 第一号 所載参照。  ③青山氏﹁唐の交通と階の大運河﹂前掲書二三七頁。  ④青山氏﹁宋の交通﹂前掲書一二二頁。  ⑤青山氏﹁唐の交通と階の大運河﹂前掲書二三八頁。    加藤繁民﹁支那経済史﹂ 新経済学全集︵昭和十八年六月︶六五頁。

 ⑥青山氏右書二三七一≡二八頁、加藤氏右書六四頁。

 ⑦青山氏右書二三九頁、加藤氏右書六四−六五頁。

 ⑧加藤氏右書六五頁。       

「  ⑨ 全国経済委員会編、北支那開発株式会社業務部謂査課訳業﹁支那の水利問題﹂下巻︵昭和十四年︶ 一八三頁。乙の上、下二巻にわた   る調査研究は、昌黎李、徐世大、張含英、李儀祉、須榿、宋希尚、孫輔世、注胡槙、黄謙益、鄭諸経の十氏による技術的科学的研究で   ある。なお運河の沿革については下巻の一八三頁以降に詳しいが、なお⑮にかかげた西山栄久属の研究にも詳しい。

 ⑩青山氏﹁唐の交通と隔の大運河﹂前掲書二三九頁。       、

 ⑪ 宮崎市定氏﹁宋元の経済的状態﹂東洋文化史大系 宋元時代一四一頁。     專制的統一国家と交通および商業の発達      一一

(12)

専制的統一国家と交通および商業の発達 一二

⑫加藤繁氏前掲書六六i六七頁。

⑬ 前掲﹁支那の水利問題﹂ 下巻 二一五頁。 ⑭﹁支那聞題辞典﹂中央公論社一=一〇1二二一頁の表によって算出した。 ⑯西山栄久氏﹁支那の大運河に就て一其の成立並に沿革一﹂山口高等商業学校開校第二十周年記念講演素論丈集︵大正十五年六月︶  二二九頁以下参照。

⑯浅野好氏﹁大運河の官制考﹂満蒙十八年十二号参照。

⑰ 池田静夫氏﹁支那水利地理史研究﹂ ︵昭和十五年︶ 二一三頁。 ⑱ 前掲﹁支那の水利問題﹂ 下巻 一七九一一八○頁。 ⑲池田静夫氏﹁北宋に於ける水運の発達﹂東亜経済研究第二十三巻︵昭和十四年︶第二、三、四、五、六号、第二十四巻︵昭和十  五年︶第一号。なお、水運現象と都市的聚落との関係への着眼については、第二号 三︵一四五︶頁 以下参照。 ⑳⑳⑳ 池田静夫氏﹁支那水利地理史研究﹂四二、四三、四四頁。なお、同書 第二章 第四節クリークと都市 四〇頁以下参照。

三 専制的統一国家の存立条件としての駅伝制・陸路体系の展開

 陸上交通が著しい発達を遂げたのは、水運路交通の発達しにくい地方、とくに華北方面であったことはいうまでもない。 ﹁南船北馬﹂というのも北方中国と南方中国との交通上における右の如き特色を物語るものということが出来よう。

 尤も、水路交通の発達した地方にも首都を中心とする幹線陸路および支線の連絡陸路が相当に発達していた。いま一例

として宋代の陸路の幹線について述べると次の如くである。   先ず第一は、首都定心︵開封︶より滑州︵河南省滑県附近︶、濤州︵河北省漢陽県︶を経、黄河を渡って大名府に至り、北上して雄  州︵河北省雄県︶に至るもの、第二は滑州で第一路と分れ、相州︵河南省安陽県︶、真定府︵河北省正定県︶を経て北平軍︵河北省完  県︶に通するもの、第三は沐京より懐州︵河南省泌陽県︶、沢州︵山西省著城県︶、溢州︵山西省長治県︶等を経て太原府︵山西省陽曲   県︶に出で、代州︵山西省代県︶に達するものである。この聴路は共に北方契丹に対する防衛上の要路をなし、この方面に大軍を駐屯

(13)

O        ① せしめたので、軍資の輸送、官使の往来は頻繁を極めたといわれる。  第四は、沐京より西行し、河南府を経、華陰県︵陳西省華陰県︶で西北に転じ、同州︵陵西省大蕩県︶、坊州︵同中部県︶、延州︵同 膚施太東︶を経て保安軍︵同保安器︶に至るもの、第五はこれと華陰県で分れ、京王府︵陳西省長安県︶、溜州︵甘粛省平涼県︶を経 て鎮戎軍に通ずるもの、第六は京兆府より更に西行して筆墨︵甘三省天水県︶、蘭書︵計画省皐蘭県︶に達するものである。これらの 道路、就中第六路ほ成都灘酒と連絡して西夏吐蕃への通路をなし、軍事上、交易上の要路をなした。第七は鳳翔府︵陳西省鳳翔県︶で 第六路と分れ、興国府︵日南鄭県︶、縣州︵四川省縣陽県︶等を過ぎて蜀の成都府に至るものである。宋代蜀の物資は概して揚子江お よび運河によって水路沐京に輸送されたので、この道路の重要性は減じていたが、仁宗以後西夏との対立のため、この地方の物資を秦 幽翠興二路に輸送するようになり、更にまた神宗︵一〇六八−一〇八五在位︶以後軍馬を得んがため二条の専売を実施し、秦州附近で       ② 蜀茶と吐蕃の馬との交易を始めるに及んで盛んに利用されるようになったという。  悟入は沐京より西南詳し、但州︵河南省三韓県︶、唐州︵河南省批源県︶、裏陽月︵湖北理工陽県︶、江重富︵胡北省枝江県︶を通り、 揚子江を渡って岳州︵湖北省兵軍書︶に出で、荊湖南路を縦断して広州︵広東省蕃鴬豆︶に至るもの、第九は許州まで第八路により、 鼠壁より信安軍︵湖北省麻城県︶、漢陽軍︵湖北省漢陽県︶等を経て揚子江南岸の郡州に至り、江南鯨幕を縦断し大慶嶺を越えて広州 に出ずるもの、第十は渦輪より導爆なる南北運河に沿5て東南行し、南京応天府︵河南省教導県︶、洒州︵安徽省潤県東南︶、揚州︵江 蘇省江都県︶等を経て、真州︵江蘇省儀徴県︶に至り、揚子江を渡って潤州︵江蘇省鎮江県︶より想見に至り、更に寝違江に浴うて信 州に出で、今の福建省に入り、福州︵福建省閾侯県︶を経て泉州︵同蟹江県︶濠州︵同龍漢県︶に達するものである。この野路は沐京 と南方諸地方とを結ぶ陸路幹線をなし、ことに第十路は南宋が杭州に遷都し、泉州の外国貿易が盛んになるに及んで重要な役割を演じ た。なお、この方面では沐京より東爾重し、寿州︵安徽省寿県︶に至り、盧州︵安徽省合肥県︶を経て揚子江岸に出で、池州︵同貴池 県︶附近に赴くものが相当に利用され、また信州より洪州︵江西琴南昌県︶、衡州︵湖南省衡陽県︶に至る亀のが先の血路を結ぶもの         ③ として重んぜられた。  最後に第十一は第一路と武州において分れ、斉州︵山東省宮城県︶、常州︵同門都県︶等を経て登州に赴く道路であるが、宋代には       ぼ        登州よりも寧ろ明州︵漸江省郵県︶が東方諸国への門戸として重きをなしたので、その重要度は塾代に比して減少したのである。

かくの如く陸路が首都を中心に、水路の発達不充分な西北方のみならず、水路網の発達の著しい東南方にも拡げられて

専制的統︸国家と交通および商業の発達 一三

(14)

専制的統一国家と交通および商業の発達 、 一凹

いるのは、中国の中央集権的国家の形成、存続と密接不可分な関係がある。すなわち広大な全中国の中央集権的統治を遂

行するためには、その神経網を全国に張り、行政上、軍事⊥の伝達連絡を敏速化し立論の往来を容易ならしむことが絶対

不可欠の条件である。ところが水運路は貨物の輸送力は大きいが、敏速なる連絡については、リレー式に駅馬を走らすこ

との出来る陸路には遙かに及ばないのである。例えば朱代の官文書郵送機構たる郵鋪においては、緩急に応じて川里、馬逓、 急脚逓の三種が設けられたが、馬逓による通報は昼夜馳駆して一日行程が普通三百里︵一里は日本の約六町︶雲脚逓は昼夜        ⑤

飛署して、四百里から五百里という速さであった。こうした速さは当時の舟運によっては到底期待出来ない所である。こ

のように統一国家の維持、存続のためには、その神経系統ともいうべき伝達機構および軍官使の往来の機構を含む駅伝制

度の発達が不可欠であり、また駅伝制度は全国的道路網の発達なしには、その機能を果し得ない。ここに統一国家と駅伝

制度と全国的道路網の発達との間に密接な関連が見られる。  駅伝制度は時代によっては駅伝および郵亭ないし郵舗の制度に分れた場合もあるが、総括的に見て、もと官使の往来、官文書郵送の全 国的交通組織であり、行政上、軍事上の伝達雪雲の機構として全国的統治にとって重要な意味をもつて来たわけである。諸国においては、 駅伝制度は非常に古くから存在したが、秦より漢にかけて全国が統一されると一段と整備発達し、両漢時代には大約三十里一駅を標準 として緊設けられ、駅馬、伝馬、草隠の外、箔飲食の用意もされた・このほか官文書の営庭当る郵亭の制も行わ郷・次いで 隔より唐に至って次第に中央集権の実があがり、これと共に駅伝制度は大いに発達し、駅使の往来、官文書の伝達のほか、時には貨物 の輸送に当ることもあった。先ず首都長安を中心に大体三十里一駅の標準で全国の陸路幹線を始め、主な支線に陸駅を、南方水路の一 部に水駅を、また所々に水陸兼駅を設け、これに駅馬あるいは巨船を配し、また丹田を給して馬糧の栽培にあて、更に宿泊飲食の便を        計った。このほかに伝というものがあって、伝馬や駕車を常備し、急を要しない宮員其他の便に供した。  ところが、唐の末期の動乱と五代の分裂を経て駅伝制が大いに劣うえ、宋代に至ってやや整備したというものの、駅は六十里乃至七、 入十里に一男という有様で、唐代の比ではなくなった。ただ宋代にはこれに代って郵鋪制が発達し、首都沐京を中心として駅路はもと より、更に広範囲にわたって、大体二十五里に猿島をおき、ついで軍が興るに及んで九里毎に改められ、別に蜀に通ずる街道には斥喉

(15)

なるものが設けられた。斥喉は郵鋪の任務以外に外敵防禦も行った。郵鋪は続報︵一種の宮報︶その他の官文書の郵送を普通とした。       ⑧ この郵鋪に緩急に応じて、歩逓、馬逓、急調逓の三種のあったことは既に述べた。  元が広大な領土の国家的統一を実現するためには、その神経系統たる駅伝制度の顕著なる発達を必要とした。元代には駅伝が蒙古語 に基づいて軸赤︵量臼&といわれ、主要な道路網には少くとも馬行一日程毎に一箪靖を設け、これに要する糧食、車輌、駅馬の納入 およびその飼養等の一切の負担に任ぜしめるため附近の民戸を笹戸に編制した。太宗時代の砧戸の負担はコ旦 毎に漢車十具を置き、 姑戸一子︵十戸︶より毎年米一石を納めしむ。云々﹂ ︵元史巻百一鮎赤之条︶という。駅靖はまた軍事上の要務か、あるいは緊急を要 する場合は所在の人馬糧食を任意に徴発し、次々に他の使臣と交代して驚くべき速さで使命を伝達するためにも利用された。このほか 元代には中央および地方官司の間の文書を送達せしめる目的で急野鼠が設けられていた。駅靖の利用には符牌の所持を必要とする制度 をとって元および各興国との相互の連絡を穿ちなからしめた。符牌には金虎符・金津・銀製・海里牌・円符等があり、これらの牌には 特に﹁鋪馬聖旨﹂なる特許状の如きものが附随され、それには牌の種類に応じて幽翠利用者の享受すべき特典、例えば駅馬、車輌の貸 与、糧食の給与等が明記されて、この牌と聖旨を携帯する者は蒙古領内の如何なる地方でも附与された特典に従って駅靖を利用するこ           とが出来たのである。       ,    ⑩  次に王志瑞が元史百一巻兵志望赤の条から作成した各行省思の水陸靖赤の数と利用された交通機関の種類を示した表を援用する。 兀 赤 即 行省別 腹 裏

総軸

数赤

陸・靖数 198

数蛮

 175

牛山 上 2に

21

交通機関種類および数量

馬 12,298(陸)    266(水) 牛 瞳r 羊  狗  車  輪  船 982(陸) 200(水) 306(牛) 4,908(陸)   394(水)   500(牛) 1,069(陸)   60(牛) 950 備 考 水靖にも牛馬を要 する処あり 専制的統一国家と交通および商業の発達 一五

(16)

甘粛

6 6 o 491 149 171 650 雲 南 78 72 4 2, 345 30 24 四 川 152 48 84 986 150(陸) 76(水) 654’

陳西

81 80 1 7,629 6

湖広

173 100 73 2,535 545 70 (坐)175 (臥)30 580

江西

154 85 69 2,165 25 568 江 262 134(馬靖) 35(ll轟立占) Il(歩鮎) 82 5,123 148 1,627 逓運三、〇三二戸

遼陽

120 120

靖別  に 15狗

。 6, 515 5, 259 218 2, 621 江 河 北 南 196 106 90 3,928 192 534 217 1,512 専制的統一国家と交通および商業の発達 一六

(17)

 王志端がこの表から元代の各地の交通状態を知ることが出来ると指摘したのは傾聴に値する。・すなわち江挙行省は水陸交通の便最も 良く、甘粛は僻遠に位して交通最も不便であった。交通機闘は水路で舟を用いたのを除けば陸上では馬が最も普通であった。北方の平 原地方では多く車を利用した事より道路が極めて広潤であったことがわかる。これに反し、轄の使用の多い地方は道路の狭直な地方ま        ⑪ たは山の多い地方である。最も特異なのは遼陽の狗の使用と甘粛の羊の使用であると述べている。  駅伝制は明代にも清代にも行われたことは勿論であるが、とくに清々に至って著しい整備発展を遂げた。明清においては、郵駅の名 称が用いられたが、清代においては、これは大別して鋪逓と駅逓との形態で行われ、鋪逓は中国本土十八省に限って行われ、歩丁によ って専ら官文書の逓送に従い、駅逓は全領土に亘り、使官の謹聴、緊急な官文書の郵送に当るほか、官用貨物の輸送を行った。駅の中        ⑫ 心は京師の軽量駅で、駅馬五百匹、田夫二百五十名、車百五十輌⋮、車馬百五十匹、車夫百五十名をおくという有様であった。

 これを要するに駅伝制度は軍事上、行政上の伝達連絡と官需の護送を主とし、この点から統一国家の神経系統にも比す

べき機能を担当し、この敏速化の必要上陸路交通を中心としたが、専制国家の物資補給上の運送を担当したのは遭運制度

で、それは主として貨物運送力の大きい水運路体系に依存したのである。かくて、この二つの中央集権的な官用交通体系

が統一的専制国家の存続の基本的条件をなしたことは否定出来ない所で、これが、また、各王朝の専制国家が自己の存立

のために、この二つの官用交通体系に多大の力を注がざるを得なかった理由であるとも考えられる。      、 ① 青山定男氏﹁宋の交通﹂ 世界歴史大系6 東洋中世史 第三篇第五章二〇八頁。 ② 青山民 右書 二〇九頁。 ③④ 青山氏 右書 一=○頁。 ⑤ 青山氏  ﹁駅伝﹂ 東洋歴史大辞典 第一巻 二七一頁。

⑥青山氏﹁駅伝﹂右書二七〇頁.

⑦青山氏﹁駅伝﹂右書二七〇、二七一頁。同氏﹁漢代の駅伝と郵亭とに就いて﹂史学雑誌

  ︵八八三頁︶。

⑧青山氏﹁駅伝﹂右書二七一頁。同氏﹁宋の交通﹂前掲書一=七、二一八頁。曾我部静雄氏

専制的統一国家と交通および商業の発達 第四五編 第七号 七ノ八七 ﹁宋代の駅伝、郵鋪﹂桑原博士 一七

(18)

@@@

 専制的統一国家と交通および商業の発達 還暦記念東洋史論叢︵昭和六年一月︶ 七八九頁以下および八〇三頁以下。 有高巌氏﹁元代史﹂ 世界歴史大系7︵昭和十年目 二〇二、二〇四頁。 秋貞実造氏﹁宋元時代の東西交通﹂東洋交化史大系 宋元時代 =ニニー一三四頁。 王志瑞著、荒木敏一訳 宋元経済史︵昭和十六年十月︶’五七、五八、五九頁。 王志瑞著右書 五九頁。 台湾総督府編 清国行政法 第三巻︵大正十四年三月初版、昭和十↓年十月再版︶ 照。青山民﹁駅伝﹂前掲書二七二頁。 一入 第八章 交通 第三節 郵駅 三二七頁以下参

四水陸交通路体系の展開と都市および商業の発達

 上に述べて来たように、旧き中国において漕運制および駅伝制を中心とする水陸交通路の全国的体系を確立することが、

その専制的統一国家を存立せしめる基礎条件であったから、各王朝の専制国家は、その存立を維持するためにも、既.に述 べたような全国的な水陸交通路体系の建設・開通に努力せざるを得なかった。

 ところで、このようにして展開された水陸交通路の全国的体系は、また、民間交通の発達を促がし、更にこれを媒介と

する交易ないし商業の発展を招来したことは理の当然といわねばならな.い。民間交通が発達し、通商交易が盛んになると 交通通商の媒介点として都市が水陸交通網の各要点に発達する。水路網の発展に伴う都市の発達については既に述べたが、 同様なことは陸路網の発達にも伴うことはいうまでもない。この点については、全中国にわたって地方に分布せる店、市、

歩の如き小都市の形成および発達をば、水陸交通網との関係に着眼して研究せる周藤吉之氏の﹁宋代の郷村に於ける小都

    

市の発展﹂に教えられる所が多い。       ・

        店、市、歩の如き小都市は南北朝から階唐にわたって相当発達し、男振に至って大いに発展したといわれる。このうち、

(19)

       ③

店は街道上の小都市で、宿ないし商店が設けられたことから、この名が出たと考えられ、これは主に陸上交通の盛んな華

      ㊨

北、四川地方の街道に多く発達した。これに対し、歩は水辺の小都市で、水路が網の如く発達した華中、華南に多く見ら

      ⑤ れ市は主として水陸交通の要衝の地より起つたといわれる。  この点に関し、周藤氏は右に掲げた論文において次の如く述べている。  ﹁宋代に焚けるこれちの分布を見ると、店は華北・華中に亘って広く存在してをり、特に・華北や四川等のやうに陸上交通の盛んな地 方の街道上の要地に多く発達していた。市も中国全般に亘って存在していたが、殊に江口地方に大いに発展していた。歩は水辺の小都 市であって、水路上の要地より起つたから、華中・華蘭に多かった。これらの申、市の発達には色々な要因があり、市は主として水陸 の要衝の地より起つたが、海上貿易より発達したものや寺院の門前市より発達したものもあり、又各種の産業即ち塩物、陶器の製造等 より発展したものもあり、荘園より発達したものも多かった。これらの市では商業が盛んに行われ、市中には富商や大土地所有者も住 んでおり、叉工匠もいて工業の発達していた所もあった。かように市は勿論、店や歩も郷村に於ける商業上の要地をなしていたから、        ⑥ 商税を徴牧する場務や酒麹課を司る酒務等が設置されていることも多かった﹂という。 辱

 上述の如く専制不統一国家の形成ないし存続と関連して陸路および水路の交通網が全国的に展開して来ると苗齢交通も

盛んとなり、全国的に交易商業が発展して来る。そして交通通商の媒介事たる都市はあたかも読め目の如く発達する。そ

うなれば専制国家はここに財政的収取の触手を延ばし、右の如き交通、通商の要点に税関を設けて関税を徴収するように

なる。あたかも前述せる市、店、歩の如き都市は交通上、通商上の要地をなしていたから、ここに関税を主要な内容とす

る商税を徴する場務や酒麹課を司る酒務が設けられたこ唇は周藤氏の述べる如くである。そこで、逆に、かかる場面およ

び酒務の地方別分布および商税額から、それぞれの通商および交通の程度をうかがい知ることが出来るわけである。いま

宋代における全国の鎮、酒務、場務および商税の地方別.の統計表を援用して見ると次の如くである。 專制的統一国家と交通および商業の発達 一九

(20)

専制的統↓国家と交通および商業の発達     宋代における全国各地の鎮、 場務、酒務ならびに商税額 二〇 , 路 名  鎮  数

下半荊江江両単子河日永河曲十二十京北葡西東

都湖湖南南 南南  興北北西西東東

     漸

        東鳳       京京京京

府北面西部 翠蔓  軍西東北南西東

路路路路路路路路路面回路回路路園路府出府二

六四二五五七〇六一一一i七八四〇六六三二ニー二三

二四三三四五二四四九九八八二六二五〇二ニー

酒間数

五四二四六〇八七八〇四叉三七三四六二 二三

五葺八五〇五七六七〇七ニー四三九七七九三五

旧 商 税 園 務  数 照軍十年商務額

回数

鉄銭二、 一〇入、七四〇  六〇、四五六  三三、九二三  入門、四五四 三五一、五三四 ニレ七〇、 山ハ⊥ハ一二 一二九、二二〇 二六九、 一二五 四六六、七一八 二八七、九三四 二九〇、 山ハレ七ご一 一二 ワ〇、 四一︵︶一一 一一 鼈黶 ハ、 @十川一一山ハ 五一、〇九八 〇二、二九一 七五、 ギ皿︸丑山ハ 四三、 ご=ハニ. 六二、 七三二 六九、七七〇 ご二、〇三三 ⊥ハご一、 四山ハ八

六二五六〇七六九〇一〇一七四五七二 二二

○○〇七七八四六二三六三九六二六四九六三

五三、三九五 ⊥ハ甲五、 一⊥ハレ七 四五、五五八 九五、八一五 七二、五一一 山ハレ七、 四ア八一 九﹁○、 ○山川九 七一、 一入三 五三、四〇一 八七、四七〇 七三、四一〇 三七、四四八 山ハ一、 七九¶八 二二、三四五 二⊥ n( j、 〇一二︸五 六二、四八六 六一、七七七 五〇、 一占ハ七 七七、九八四 七八、一九九 一五、八四〇

六四五六二六六ご一五九四六三六九三 :二四

七一九五三八八四三〇八六七九二三一九ニー一一i

(21)

広広福i福利梓

南南

  建州州少卜1

西東

路路当路路路

 三四四

  一二〇

  七七

  三五   三六

  五八

一、八五五   =一三

  八七

   七

  三六

一、七一六

鉄鉄鉄

銭銭銭

   五、 鉄銭六、 一、 Z三七、九〇〇 一、二四〇、九二八  六六三、四二入   二一=、九三一   入一、六三九   四三、二八九   一ご三、五七九  〇〇五、七二四

  六四

  石入

  三七

  七〇

  二二   一〇四 一、八四三

鉄鉄弓

銭銭銭

鉄銭燃

三〇入、三二七 三六三、三七五 二四〇、九五二 二三九、三四四 ご四九、一〇〇 二二八、六一二 四一四、七五五 六二八、四九四

一八四四三

入五二八九

  一〇八 一、九九七       ⑦    ︹備考︶本表は池田静夫氏の作成になる。この表の典拠は次の如くである。     6本表の鎮は元豊九域志による。     口写表の酒務は通考 巻十七 征糀考四 擁酷の条に、 ﹁熈寧十年以前天下日嗣酒盛歳額﹂とあって、隠避を挙げたものに依る。     ㊨本表における商税および湘南の部分は、宋会心食貨商税の数字によって作成された所の加藤博士の﹁宋代商税考﹂︵史林十九の四︶      による。     なお﹁路﹂というのは、歯面の行政区劃で、その中に州が包括されていた。前代の分路図については、支那地理歴史大系第三編      の﹁支那歴史地理﹂二四二頁参照。       

 この表を作成した池田静夫氏は更に各路に所属する各州について、右の如き数字を詳細な表にして示している。そして

      

各路の重要水路と酒税ならびに鎮、家務、税務との分布関係を詳細に文献を引用して研究している。これを見れば、豊代

における全国各地の交通と商業の発達の程度が詳細にわかるが、右の表を概観することによって、当時の各地における商

業の発達の程度を相互の比較において看取することが出来る。  以⊥の考察において、われわれは、旧き中国に何故に専制的統一国家が形成され存続したかどいう根拠を探求しつつ、

かかる専制国家の存続が漕運および駅伝等の官用交通体系の確立を条件とする所から、全国的な水陸交通路体系を展開せ

   専制的統一国家と交通力よび商業の発達       ご一

(22)

    専制的統一国家と交通および商業の発達       二二

しめざるを得ないことに着眼し、ここに、また、全国的な民間交通と通商、従って商業の発達を必然的ならしめた有力な

根拠を見ることが出来た。しかし、このような旧き中国における専制的統一母家の存続と全国的商業の発達とを媒介する

水陸交通路体系.は、どこまでも、あのような中国の地勢を媒介として、歴史的に形成されたもので、それはこの自然的条 件を度外視しては考え得られないことはいうまでもなかろう。  ① 周藤吉之氏﹁宋代の郷村に於ける小都市の発展一特に店・市・歩を傾心としてi﹂ 史学雑誌 第五九編 第九号、第十号︵昭和二    十五年九月、十月︶。

 ②周藤氏右論文右第九号二五︵八○八︶頁。

 ③周藤氏右論文右第九号二七︵八﹁○︶頁および三七︵八二部門頁以下。  ④⑤ 周藤氏 右論文 右第九号 二五︵八○八︶頁。

@@@@

周藤氏 右論文 右第九号 二五、二六︵八○八、八〇九︶頁。       ︸ 池田静夫氏﹁北宋に於ける水運の発達﹂ 東亜経済研究 第二十三巻︵昭和十四年︶第二号 二一︵=ハ三︶頁以下。 池田氏右論文 二四︵一六六︶頁i四〇︵一八二︶頁。. 池田氏 右論文 東亜経済研究 第二十三巻 第二号、第三号、第四号、第五号、第六号および第二十四巻第一号にわたる彪大な論 文の全篇にわたって取扱っている。 ●

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