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再生産論理の方法論的反省

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再生産論理の方法論的反省

β は  し  が き ■

 ケネーによって経華表が構想されて以來、経濟學は、或は年生産の理論として、或は再生産表式として、叉謂ゆる近代

理論に於ても、経界循瑛及び景氣仁摩乃至経濟獲展の均衡分析として、その根底に再生産の論理を、内包しつ、、獲展し

て來たと見ることが出挙る。このように、再生産の論理は、経濟表とか、再生産表式とか、或は経濟循環として量的な均

衡分析を中心に展開し、その限りに於ては、一鷹かゴやかしい諸病を墨げて來たとい、得る。併し乍ら、この論理は、決

して維濟過程の量的規定に於ける均衡分析に止るべきでなく、身魂の諸過程及びその構造の歴史的、就會的形成及びその

攣動を理解する論理にまで披充して行く性質を含蓄しているのである。そこで我々は、再生産の論理を歴史的、就倉的形

成という立場から見直し、之を援充的に考え直す必要があると考える。更に、麗麗學が、終局に嘗ては歴史的肚會的實践

の學耽るべき要講起鑑みて再生産の論理は、か、る意味の経暗算の方法たるために、それは士﹂体的、童女的、生活的立場

に於て考え直すことによって、眞に歴史的主体の論理となり、歴史的、手甲的再形成の論理にまで籏充されねばならない

と考えられる。併し、このように再生産の論理を損凝して行く爲めには、先ずこれをもっと廣く深い存在的地盤即ち歴史

的社紅塵生痕奎生活の地盤までときほぐし、この且馬体的地盤に於て、いわば存在論的に考え直す必要に迫まられる。何故   .再生産論埋の方怯論的反省       一

      パ

(2)

   再生産論理の方法論的反省       二

なれば、再生産の論理が直接に問題となる維濟存在乃至経濟生活も人類生活の経額面であり、それはどこまでも全体とし

ての生活と深き生活的關連を有するからである。  かくして、このような立場から、再生産論理を、存在の地盤に於て、存在論的に展開せんとしたのが、嘗て,獲表した拙 稿﹁再生産論理の存在論的考察﹂ ︵紅毛科學評論第四集所掲︶である。そこでは再生産論理がいわば存在論的に問題とさ

れている。それは、我々のこの論理の籏充への試みに於て、先ず通過しなければならない第一段階であった。併し乍ら、

この様に謂わば哲學的に号笛された再生産論理を、何ら方法論的反省なくして、無限定のま∼維.奮起學たる経.濟學の方法

としてもち込むことは許されない。何故なら、色々な認識目的の下に、色々に限定されて行く維至仁學としての維濟學の

方法たるためには、その認識目的に相与しい限定を必要とするからであ、る。されば、経濟學の方法としての再生産論理を

絡局に於て問題とする我々の行論に於て、再生産論理を方法論的に反省する必要のおこって盛るのは翻然であろう。この

論文はこうした必要から書かれたものである。從ってこれは前の論文の綾篇をなすことはいうまでもない。

方法的論理としての再生産論理

 H 存在の論理と方法の論理      ,

 私は、嘗て﹁再生産論理の存在論的考察﹂なる論文に干て再生産の論理を實践的、歴史的、墜落的な生乃至生活の地盤

まで掘り下げて考えて來た。というのは再生産ということは、その中に、そこまで突き進んで考えねば徹底されない性質

の内的連關を含蓄して居り、またそこまで徹底して考えなければ、その論理を損志して行くことが出來ないと飼えたから

であるQ而して、か、る再生産の含む内的連關は生としての経濟存在の秩序であり、理法であるとい、うる。第一に、再

生産の論鐸というとき、か、る存在の秩序乃至理法を表わすものである。即ち存在の論理として考えられている。それは

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認識キ観の輩なる恣意的な構成によるものでなく、どこまでも存在自体の内的秩序乃至理法を前提として、之をより正し

く把握し、表現しうるような考え方、即ち論理に於て把握され、表現されたものである。

 存在は認識主観に亡しては、認識作用との關蓮に於て認識劃象となるのであるが、それは輩に認識事象につきるもので

はない。存在は認識作用がなければ存在しないのではない。我々にとって、こ、で問題となっているような入間的存在な

いし歴史的耽号笛存在というものは、我々自身が生活的關連に於て、從って生活實践的關連に於て含まれているような存

在であり、それは我々の學的認識心象となる以前に、生活的關蓮に於て交渉をもつているので,あり、 ﹁知る﹂ということ

を問題として見ても、それは先ず生活亡妻を媒介として知られて來るということが出遷る。從って斯様にして成立する意

識なり、實践知なりが、何よりも生活主体の存在的條件或は生活的條件、即ちその主体的及び環境的諸條件一それは歴

史的、就魯的乃至は自然的條件に制約されている・一の制約を上れないのである。

 學的認識なるものは、認識主体が存在的には先ず斯うし江生活主体であり、從って、それ自体としては、このような歴

史的、肚魯的、自然的條件の制約を免れ難きことの反省乃至漂遊に於て、一方、調象たる存在に即しつ、、他方、そのよ

り客観的な認識への要請の下に、方法乃至論狸を練りつ∼研究を進める所に成り立って行くと考えられる。學的認識に於

て﹁存在に即す﹂ということは、客観的認識への要請の下に、この要請を賃現するために、存在に内含する理法が、より

本質的に、而もより正確に把握され、表現されるような方法に從うというに外ならない。存在は認識主体にとっては、無

限の多様性と複維性をもつている。而も我々の概念的思惟は、その性格上、一面性乃至一方性を有つと共に、理想化或は

抽象化乃至は続一化の作用を甲心として進まざるを得ない。立って認識は決して存在の機械的な反映ではあり得ないので

ある。認識過程が耕讃法的に進まざるを得ないのも、根本的には、上蓮の如く渕稼たる存在の無限の多様性と認識作用の

   再生蔑論理の方法論的反省      三

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   再生産論埋の方法論的反省      四       も  も  も  も  も

右の如き性格との矛盾的劃立に原因すると考えられるのである。また存在の内的所構を追求する認識が、より本質的、よ

り根源的なものを追い、而もより統︸的、より正確な方向に進まんとするのもこのためで、我々の認識作用が選揮的であ

り、椿成的なのもこのためであるといわねばならない。存在は無隈の相互媒介的な蓮關をもち、或はその中にあるわけで

あるが、我々は、夫々の轟然目的に從って、そのより本質的、より中核的な連關を選揮.し追求し、これとの關連に於て統

一的に把握せんとするのである。我々が維霊的存在のこのように多様な相五媒介的連關の中核として再生産をとりあげる

のも、上述の如き認識についての考え方を根底としているのである。

 前に蓮べた拙稿﹁再生産論理の存在論淵叢察﹂は、生活としての沙羅存在の雑誌な相互媒介的連曲に潤て、再坐産が中

核的なものであることを明かにするためであった。これは私にとっては、今までの研究乃至思索の“慮の概括的蹄結では

あるが、へ,後の老鴬の科墨的研究の進展によって、反省し練り直して行かねばならない性質のものであって、それは決し

て現實の研究を離れて、恣意的、形式的に固定化さるべきものではない。というのは、それはどこまでも存在の論理とし

て存在に即していなければならないからであり、而も認識上の意味で、存在に即すためには、現實の科素的研究を媒介に

することが決定的に重要であるからである。       

 かくて再生産の論理というものは、存在の多様な諸賢の統一的、中核的な内的連關の理法を表わすという点に慌て存在

的であるとい、得る。と同時に、それは、前蓮の如き認識作用の反省の下に、存在の多様な蓮關をば、研究の過程に於て

      む    

﹁より本質的、より中核的ものを﹂と、内的論理的に求め、選書して行くことによって到達されたという意味で論理的な

ものであるということが出盛る。されば再生毛の論理は、論理というても存在を離れた形式論理ではなく、存在に即した

存在論的論理であるということが出來る。      風

 併しこのように経濟存在の多様な相互媒介的蓮關からその中核的なものを骨頭し構成するのも、次には、この中核的な

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ものを謂わば座標として、これとの關連の下に維濟諸事象を研究せんがためである。この経濟存在の相互媒介的連關の媒

介的中核として、我々は再生産乃至再生産的経濟循環を選畏した。そして今や現實の経世學的研究はこれと,の關蓮に於て         進められることになるQかくて我々の経卵麺的な把握方法は再生産甲南的方法︵幻⑦嶺。Ω鼻臨。口ωσ①獣①ぴ①巳①竃。些&①︶

とも呼ばるべきものである。このように再生産に關連せしめて把握する方法は、方法的論珊としての再生産論理に外なら

ない。

 それは、髄かに前述せる如く、存在の研究に簸て存在に即して探求されたという点に曾て、存在的、論理的であり、從

って存在論的であることは既に述べた。併し、それは今や繧濟的重三の把握七曜として方法論的意義を獲得する。そして

この論理が、方法的要具としてよく現實把握の使命を果しうるとすれば、それはどこまでも、右に述べたような存在の論

ψ 理であることによるものである。

 ω 理想型構成の検討を媒介として

 薪カント學派に於ては、認識は軍に認識論的にのみ考えられ、か、る認識論はいわば認識論的認識論或は先験的認識論

であるに過ぎなかった。そして斯様な認識論を前提とする方法論議は現實的な研究には何らの改訂をもたらさぬばかりか、

誤解も手傳って謂ゆる﹁方法論の泥沼﹂を呈したに過ぎなかったQ

  この点について本多謙三氏が次の如く述べているのは傾聴に値する。即ち﹁果して、歴史的・出生的華甲に就て先瞼約認識論の探究が  漸く深ぬらるるにつれて、斯學の現實的な研究者から、かような論理的基礎づけなるものが、何等斯學に實釜を齎らさす、内容に少しも  貢献する所がないという非難が識せられた。認識論家は之に答えて、認識論は経瞼科仕上の認識の可能以外の何ものをも究めるものでは  ない。寧ろこの点に認識論上里︸の正しい黒黒であるところの批判主義の長所があると言う。この意昧で経験科思者が認識論にすがって        ①  彼の撃問上の内容を豊富にしょうとするのは木に梵って魚を求むるに類するであろう。﹂と。    再生産論理の方法論的反省      五

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   再生琵論理の方法論的反省      ,       六        ②

 斯様に先験的認識論は﹁経験腐心の可能の基礎を問い、その先験的構成を究める﹂点にその課題をもつもので、そこで

は科學はあるべき姿のいわば理想的静的想定に於て問題にされているとい、得よう。これに反して、我々がこ、で問題に

しているのは、科學たる蒼黒學の研究過程であり、研究方法というもこの現實的な研究の指針となるものである。この後

の様な意味での研究方法として再生争論埋を問題とする場合、それはどこまでも存在に即して存在から抽象されたもので

なければならない。この意味で三木清氏がマックス・ウエーバーの理想型の理論の楡討に際して﹁理想型は、軍に非現實

的︵=均≦一﹁閃一噛Oげ︶なものでなく、またなんらかの寄席性を有する故に、歴史的認識の基礎となり得るのでなければならぬ

⋮⋮かくて理想型は一方思惟による構成物として論理的性質のものであると同時に、他方存在そのものに於ける存在の抽

象に基礎をおくものとして存在的性質のものでなければならぬ。それは論理的であると同時に存在的即ち存在論的性質の

      ③

ものでなければならぬ﹂と述べているのに耳を認むけねばならない。そして斯様な仕方で方法なり、弾器型なりを問題と

する認識論は前述の如き先験的認識論でなく、寧ろ存在論的な認識論でなければならない。

 爾この点に關しては、マックス・ウエーバーの理想型の構成についての見解に早して、小松堅太郎氏がなした批判も相通する所がある と思われる。       し      り  し  も       も  む  ウェーバーはその見解を﹁それ︵理想型︶は一もしくは若干の観点の一面的な高揚によって、そしてこの一面的に高調された鶴点に合        お リ       セ り するところの、此嘘にはより多く、彼慮にはより少く、虚によつでは全く無いという風に散在せる澤山な個々の現象を一の統一的な思想       ④ 形像に総括することによつτ得られる﹂と述べるが、小松氏はこれを次の如く整理する。即ち﹁理想型概念の構成は第一、或特定の観点 を予め定立すること、第二、現實態において、こ、に多くかしこに少く散在する事象の中からこの翻点に符合する事象のみを抽出し、第 三、それらをかの沼湖の下に論理的に相互に矛盾することのないように綜合し、第四、而して一の管毛的な蝉精義象を形成することによ

       フアンタジイ⑤

 つてなされる。﹂そして﹁それは云わば、構想の産物であって、現實態の輩なる模窟でも、またその共通型や準均型の形成でもない﹂ という。小松氏は今やその批判に移る。即ち﹁ここで特に問題となるのはかの特定の観点又は理念である。即ちそれが如何にして得られ ,

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るかが重要課題である。ウエーバーはこの間に答えることを拗棄しているが、それは徹底せる研究態度とは云い得ない。恐らくこの観点 なるものは彼によって一種の先験的理念として考えられたものではながろうか、先験的であ乃が故に諸事象の綜合の基本的前提となうう るであろうからである。だがそのような先験的理念が一体どのようにして科學者に番えられるのであるか、このように突きつめて考える ならば、その理念は畢寛また本質存在の反映に外ならみという結論となるべきはすであるが、彼の思考はそこまでは徹底しない♪彼の理 想型概念は一種の非現實的幽艶であり、構想の一物であるとされているからもその綜合の基本的前提たるかの麗点も現實態の本質存在の 反映とはならないわけである︵少くとも彼の論理に從うならば︶。しかしながら少くとも現實態の中からかの槻点に符合する事象を柚出 し綜合するがためには、その観点たる理念は既に何時か何庭かで現實態と接亡しτいなければならぬ、何故なら現實態と些の關聯すると       ⑥ ころのない理念がそれに符合する現實の事象をその中に綜合するということは不可能なことだからである。﹂といわれる、然らば、小松 氏が右のような観点乃至理念が現二一の本質存在の反映でなければならないという場合、この本質存在を如何に考えられているか。先ず ・本質存在もまた現實的存在であり事實であるという。たゴ現實議事實のうちに偶然的存在がありうることは論を侯たない。 ﹁このように        ⑦ 本質存在と偶然的存在とは共に事差掛存在であって、事實は存在であるが本質は革茸に過ざぬという如きものでない。﹂と明確にいわれ 次に﹁本質存在は或程度の普遍性と必然性と自同性とを有するに反し、偶然的存在はた\歴史の上に偶然に現われる﹂ということが爾者

      ⑧       ⑨

の電要な戸別であると述べる。更に本質存在は﹁偶然的事實の背後に現存する本質法則的な存在關聯である﹂ともいわれる。更に進んで それなら肚會的歴史的事象の本質存在及び本質的存在纒過の理論への反映ということ一これは、小松田に於て又存在の反映ということ       ⑩       , の意喋でもある一は如何になされるか。この点に憂し、小松氏は﹁本質存在の理論への反映は・::端的に認識聖体の眼が存在自体によ       ⑪       ・ つて制約されていることを示すものでなければならない﹂とい㌧、更に﹁吾等は事蒙についでの感性的及び知性的直観によって素材を與        ⑫ えられ、この與えられた素材について明察力ある思惟が加えられる時に、かの反映がなされるのである﹂という。このことは詳言されて 次の如く表される。即ち﹁その観点はかの本質的なる現實存在に撃って放たれた辛い直観によって與えちれるのである。而してこれ以外 に全くその方法がないのである。この直観によって與えられた一定観点に基いて現實態の諸事實を分析し絆合しつつ︾統一的な一義的な    曳      ⑬ る理想型が得られるのである。だからここでもまた理想型概念は直⋮観と推理との合作である。﹂と。    再生産論理の方法論的反省      七

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   再生産論理の方法論的反省      八  斯くて到蓬された理想型構成の見解に立脚して、小松氏はマヅクス・ウエーバーの見解を積極的に次の如く批判する。即ち﹁彼はかの一        アプリオリ 方的に高揚せらるべき観点を吾等のように直観から、換言すれば、本質存在の反映から、得來らすに、先験的契機に結びつける。だがそ れは論る意昧で假定︵一閂巻〇二戸。ωo︶であり、現實的地盤を欠き、從ってそれを根基として獲られた理想荊出概念は現量遊離的概念又は論理 の遊戯となる迂れがある。このことを予め知悉していたから、彼は殊更にそれを歴史の個別的事象に關係させながら、現實態の測定の手 段、現合着の認識根基、茸雲的事象の因果驚属のための手段的知識とするようになったのである。吾等は理想型のこのような構造を決し て心事的に誤っているものとは思わない。だが繰って思うに、次のようなディレンマに写ることは到底免れ難いところである。即ち第一、 ヒ蕊テイぜ 卜定として先瞼論埋主義的立場から構成された概念は本露華現量的であり、現實態の時潜性及び歴史性を棄絶していること、第二、 このような形式論理的に形成れさた非現實的概念手段を以てしては、それ自体矛盾に充ち時間的に生成攣動ずる飛花態の比較測定は不可 能であること、第三、もしその理論的知識が現實態の本質存在の反映として現實直観によって捉えられたものならば、それ自体既に現實 的知識であり、從って心立の現實科學の固有の知識であるから、別に殊更にそれを具体的事象の認識のための手段と解する必要がないこ        ⑭ とbこれである。マックス・ウエーバーの立場もまたかくして麦持せられ難いものとなったのである。﹂と。       も  も  カ  し  たゴ、小松島が右の如くbマックス・ウエーバーが﹁かの一方的に高揚せらるべ.き観点を吾等のように直観から、換言すれば、本質的 カ も も セ も も も 存在の反映から、得來ら噺に、先瞼的契機に結びつける﹂と言い切ることに多少の疑義が存しないわけではない。それはウエーバーの次 の表現から生するのである。  ﹁それは︵理想型︶は一つの思惟形象、即ち⋮⋮純埣に理想的な限界概念一この限界概念は、一定の現麗麗の経験的内容のうち意義 をもつ特定の構成要素を明瞭ならしめるため、その現實態が、それに依つ,で測られ、それと比較される所のものであるが一たる意義を        戸7ビ即一プ       、 、 、 、 、 もつ患惟影干である。か、る諸概念は、次の如き形象、即ちそれに於て我々が諸蓮關をば、客観的可能性の範櫨一我々の・現實態に於

、、、、、、、、、、、、、プアン名γ⑮

て方向付られ、仕込まれた所の.想像力が、それを適合的であると判饗するのであるがfを用いて構成するような形象である﹂ ︵傍 点は石田︶この原文は次の如くなっている。

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 年聾。ぎ︵ざ身艮①ロ蓬・ヤ:⋮を①匡 。。・a。鴇。︷︷窪蜜薦。ぎ¢。・艮昌一︵ξき目︵岬。震ぎ09毫雲一[3き墓互尋・巨缶。≦、貯ご一。︸”ぎ搾国葺 くoa二二坤。7戸ぎσqぴ霧仲ごE三民び。脅=莚二μち﹃鵠。司・蜜周︼無亀。雌肖。鵬2三︾隷。・島§O①口鉾署。。αq。冒霧㏄¢目し巳け︵す昌。・ざく①﹁﹂号=。7①昌毛一箆・ 孤。ド匿鴇㊦ぴq寡験。。ぎ畠¢o影写e噂ぎ演目。ぎロ三﹁夢一呑同昌葺⑦円堂昌α。①戸 5$拐く①箋〇三婆騎︵す内㌶魯。忌琴叫。ε頭並く2富αぴq一一。算¢津 ぎ霧窪碁お炉岳①§ロ①39。ロ鬼臼田マ障謡。鼻①坤oh窄巨富再。毎へ簡讐ζ・。言一$︸︾︸重出gω一¢鎚ご鼠踏=叩簿ぴ。=二〇一一叶.  この平谷的可能性ということについては又﹁我々の想像力に饗して十分に理由あるもの︵巴。・国三ぎ包三二昌。仲凶ユ。巨︶從って客観的に可 能であるものとして現れる所の義々の盗定立的知識暮して適合的なものとして誓る所の●關蓮の思至成物が問題である﹂⑯ 邑q。開蜀二号室戸9二言二刀ざ男。塁窪 揮疑︶巨く§凶奏舘Ep器b︸”紆甲αq¢炉芝20ぎ戸︼蚕糞月寒﹁岡触;け鐸コ・凶。鯖ρ帯麟三二目αq嵩。ず冒〇要田。詳戸邑ユ筥切。 ︾oど。ズ臨く琶α山門畠︽”=コ。・o話實ロ。葺三〇凪の9戸¢≦.♂。・㊦昌巴。。薗二9、^隔=鉾叶。屋。ぎぎ。コ.という風に表現されている。マックス・ウエ,バ       ⑰ 1はこの客観的可能性という思想をクリース︵㍉燭 く. ︺︿吋醐O乞︶から受縫いでいるという。クリースに於ては之は次の如く定義される。即ち ﹁はっきり限定されておらぬ事情の下に或る出商事が生來する場合、この事情の内に、その事象の青墨上安當する法則に照して、その出       ⑯ 來事が實現されるような規定が考えうる時には、これを客飾観的に可能であると穂する﹂と。またこ、に﹁重石上安蔵する法則﹂というの        は、ウエーバーが﹁経瞼的知識﹂﹁纒瞼の規則﹂﹁出來事の規則﹂などと呼んでいるものに等しく、クリースの別な表現である法則定立的       ⑲ 知識︵=。5。ぎ32ぎ︻塁≦、塞§︶というに同じである。クリースは之を事象の合則的蓮繋についての判蜥内容を皆色するといわれる。ウ        ⑳ エーバーはこの思想をそのま、受継いでいるのである。斯檬な思想的背景の下に、ウエーバーの客観的に可能であるとい・つことは、我々 の想像力に書して充分理由あると思われるということであり、それは又我々の法則定立的的知識に歯し、適合的と考えられるというに等       ⑳ しいと解される。從つτ﹁個別的事象の蓮繋に就いて客⋮観的に可能な智勇、詳しくはその要當な賜属が行れたるめには、出來事の纏験的        ⑳ 規則を知ること、法則定立的知識に基くことが必要である﹂ということになり、又﹁かくて史上の事件の意味の理解ということは、纒験        ⑬ 上安當すると考えられる法則的知識に託って事件の蓮繋を明かにする点に存する﹂ということになる。  所で、こ、での問題は、このように理想型的概念構成に決定的軍要性をもつ﹁想像力﹂ ︵[、7昌仲塁ぞ︶というものが、 ﹁現實態に於て    再生産論理の方法論的反省       九

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   再生産論理の方法論的反省      一〇 方向付けられ、仕込まれる﹂という所に、それが現品態に於ける ﹁本質存在及び本質的存在経過﹂によって﹁方向付けられ、仕込まれ る﹂という認識が含まれて居り、こ、に現篇章の本質存在が理想約概念構成へ﹁反映する﹂するという認識が含蓄されでいるのではない か、ということである。更にまた前述せる如く小松氏はマックス・ウエーバーに而ては﹁かの日方に高揚せらるべき古点を吾等のように 直⋮槻から、換言すれば本質的存在の反映から得來らすに⋮⋮﹂云々と述べているが、右に述べた所からして、ウエーバーの﹁現實態に於 て方向付られ、仕込まれる﹁想君臨﹂というものは、正に小松氏の現情態の本質存在の反映を齎らす直観を含むものではなかろうか、更 にこの﹁想傑力﹂と法則定立的知識とが同格になっている所からすれば﹁事象の合則的連繋についての判暫をなす思惟も含流でいるの ではないかという疑問の生するのも強ち無理な考えともいえないのではなかろうか。

 国 理想型の方法的機能の検討を媒介として

      ●

 斯くの如く理想型概念構成に饗する考え方を、いわば存在論的認識論の立場で老え直すならば、かくして構威された理

想型概念は、小松氏のいわれる如く、それ自体、脚立な現業科學の固有な知識であり、殊更に現實態の認識手段と解する

必要がないという見解も一幅は成り立つようである。併し謙って考えるに、このように現實科學的仕方に於て到達された

概念なり、理論なりは、存在の本質的連言乃至理法の理論的把握であると同時に、それは、それなればこそ、次のより進

んだ認識の方法乃至手段たる意義をもつことは否定することが出來ないであろう。ことに研究の麟結として剴練化された

固定的満管でなく、その考え方即ち論理としては一翼そうなのである。というのは、例えばケネーの経済表というものを

研究の鑑結として劃塚化された固定的内容とのみ見、これをノエマ的にそのま、現實把握に當てはめるということになれ

ば、現實をそれに依って歪めねばならないという無理も生するであろう。併し此の﹁維黒表の理論しの考え方即ち再生産

論理という点に想到すれば、現實の研究に干て、現貴をより本質的、より正確に把握しうるような仕方を求めて、再生産

關黒蓋に考え直して行くことが出定るであろう。即ちそれが現實科三惑研究の成果であっても、治そうである場合に於て

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方法的にはノエマとしてよりも、ノエシスとして即ち考え方乃至論理として問題なのである。これに反し、このノエマ的

圖式を以て艶書を塵屯するとき謂ゆる公式宅義という観念的、猫断的な研究態度か生ずるのである。我々はこ、に﹁あく

       ⑳

まで理想型は現實を理解し、把握する誉めの手段であって、聖慮をそれに依って矯め歪むべき栓桔や拷問台ではない﹂と

いう言葉を想起せざるを得ない。尤もこ\に理想型といわれるものを、我々の仕方に於て考え直すとき、それは現實科學

的な研究の結果到達されたものであることを拒む所か、正にか、る研究の優れた成果を媒介として洗練されて行く方法的

      も  も  も  も  も  も  ね

論理でなければならない。斯様に考えるとき、現三塁學に於ける方法的論理と現實認識との相互媒介的進展ということが

非常に重要な意義をもつて來るのである。我々は再生産論理というものをこのような警士で問題にしているのである。所

でこのような考え方に立ち、再生産論理の方法的機能を反省するにあたって、 ﹁理想型﹂の⋮機能に養する盗読に學ぶこと も無意味ではないであろう。  先ず理想型の機能についてマックス・ウエーバー自身の叙述を見よう。        も し       の   ﹁我々は抽象的経濟理論に於︵、びとが歴史的現象の﹁理念﹂ ︵h︵ぎ¢︶として示すのをつねとした所のかの綜合︵訟岩一二尾の。ロ︶の一つ の例を有つのである。それは我々に交換脛濟的融會組織、自由競孚、嚴密な合理的行爲に於ける財貨市⋮場の諸過程の理想像︵触島㊤拶︼ぴ富餌︶ を齎らす・か≧思惟形像︵二£きぎ︼回葺三︶は・疑的生活の特定の諸關係藷過程とを融訟藷温帯のそれ鼻に矛盾なき極.恥.       も  も  も  に統合する。内容的には、この思惟構成物.︵恥くO︼︼㏄け﹃一μオ一一〇昌︶は、現實態の特定の諸要素の思惟的上昇によって獲られる一のウトピuその        レロペン もの、性格︵O冨目窪霞①貯霞¢陣︵︶豆⑦巷巴。εを担うものである。この思惟構成物の・生の看官的に與えられた諸事賓への・關係は、 偏に吹の点に存する。即ち右の構想に於て抽象的に述べられた種類の身締、從って﹁市場﹂に依存せる諸過程の關蓮が、下樋態に於て、        も  し 何等かの程度に現實的であると確定され、或は推測︵く。旨≡9︶される傷合、我々は此の蓮關の特性︵満悦§茸酔︶をば、 一の理想型を手 がかりとしで︵葺①ぎ①葺宣。舞さ︶蓄︶、實用的に解明rし︵℃舜09診葺﹃07く¢葺ま07帥=三h9§︶、理解しうるようにすることが出下るという 点に存する。此の可能性は叙述にとって三値あるばかりでなく、立見的︵︸”。ξ響ぎ︸”︶にも指値がある、否、不可欠でさへある。研究の    再生産理論の方法論的反省      一一

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   再生産論理の方法論的反省       一二   、 ためには理想型的概念は鯖属三聖︵凶毎。。ぎ一5碧=﹃叶①一一︶を與えんとする。それは何ら﹁假設﹂たるものではないが、假設構成に方向を示       カ  も      も そうとするものである。それは親書的なるもの、叙述たるものではないが、叙述に一義的な表現手段を與えんとする。從ってそれは、歴 ね  し 史的に與えられた近代の交換経濟的冠會組織の﹁理念﹂であり、恰も例えば中世の﹁都市脛濟﹂の理念が﹁生成的﹂︵碧b。嗣ぎ︸[︶な概念       ⑳ として構成されたと全く同じ論理的原則によってそこに展開されたのである。﹂  そしてこの理想型の﹁生成的性格﹂については﹁例えば﹃交換﹄という概念は、よb多くの現象に共通に存在する諸特徴からなる複合       む  セ  も 体の意味に於ける閣箪な類概念である。ところでこの概念を﹃隈界効用の法則﹄と云ったようなものと關嵩せしめ、経濟的に合理的な過       へ  め し 程の概念として﹃経濟的交換﹄の概念を構成するならば、この概念は⋮⋮交換の﹃定型的﹄ ︵な冒ジ。︸戸︶な藷⋮條件に乱する判断を含む。    、b、       ・      ⑳ それは生成的性絡⋮をとる。そしてそれによって論理的意昧に於て、理想型的となる。⋮⋮﹂とウエーバーは述べている。これに基いて本 多謙三氏及び三木清氏は﹁斯く理想型的概念がいつも、それ自身の成立に乱して、意味解明に係る合理的な常並と蓮繋とを予想している       ⑳ ことをウエーバ喜ばそれが生成的性格を有するといっている﹂と述べる。  理想型の方法約機能は、右の引用文に比較的凝集して述べられているが、更に彼の﹁科學輿論文集﹂ ︵¢雷§誓ち剛室﹀=融餌け零鵠毎       ● 譲ま¢塁鼻口譲蚕話︶の各所に散在して噺片的に述べられて居り、之を明瞭に誤りなく述べることは、溶々の困難を伴うのである。そこ で以下、諸墨者の解繹なり説明なりを媒介としてこの点を述べよう。  H 歴史的因果齢属の手段としての機能  この点を明かにするためには、先ず歴史的因果腸属の論理的手順を判つきりさしておく必要がある。この手順は、第一次的には、文化 慣値關係という選擢原理に從うことである。即ちし交化現象を、一定の認識目的の下に、一定の文化儂値に關押せしめて欝欝し、この観       ⑳ 点から見て最要な因果系列の認識に蓮むわけであるが、こ、に前に述べた客観的可能興漸が第二次的手順として進められる。さればワル       ⑳ テル︵ ダ︻二費︶が、これを第二次的歴史封象の思想︵︵諭一望ぎ︹5門器誓b︹一等三。・ぎ身島言O茗審3︶と呼ぶのも尤もなことであるG青 山秀夫教授は、 ﹁客観的可能性判断は﹃事情かくかくの数輩には事態はどう纒嘉するであろうか﹄と考える思惟實瞼︵ウエーバーは之の

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       ⑳ かわりに常に ︻、霧葺塁一。とかエ。罫∋一二≦已=累炉目け蜜訟客寄ぎ嶺とかいっているという︶であb、假想的條件の下に於て事態の言過を構 想するのであるから、啓田然そ.、に法則ないし規則の知識が餐になる。.、墾.、人間の行爲夕嬢とす簾墨に舗に必警のは、 ﹃一般に人間は所與の状況に於てどう反作用するを常とするか﹄ ︵﹁科學論論文集﹂二七六頁︶ということの知識である。﹂と述べ、また        ⑫ この際﹁自分自身の生活實践や他人の行動についての知識から汲み出した吾々の法則的纏瞼知識﹂に依頼せざるを得ないと言われる。  更に面出譲教授は、この判闘に關して﹁かく一定の條件が攣化した⋮場合、粂三異った結果を花圃したであろうという可能勃購は論理上 如何なることを意味するであろうか。それは孤立化と普遍化を意落しでいる。これは留意を構成部分に分解し、その各部分を純験法則に 断てはめることが出來るようにする。即ち、その孤立せしめられた構成部分の各々から⋮;純瞼法則によれば如何なる結果が期待される        ⑳      − であろうかということを確定することを意味する﹂  次に右に述べた客観的可能判臨の要當性の問題に訂するや適合的惹起︵監萱戸舞。<窪目騒鱒。︸旨轟青山教授は之を﹁適合的連關﹂と繹し       ⑭ で居られる︶の範疇がとり器げられねばならぬ。青山教授もウエーバーに於て因果瀞属の論理的構造の問題は、その瀧會科墨方法論で中        ⑮ 心的地位を占め之に答えるものは、客翻的可能到臨と適合的蓮關の範疇であると述べている。この適合的惹起︵ないし連關︶の範疇につ        ⑱ いて岡田教授は次の如く説明される。  ﹁ウエーバーも説いているように、具体的な親察の重要封象たる事項に封して、顧る契機が因果的に電要だと認められるのは、我々の 経瞼法則に櫨つτであるとすれば、この重要性を屯張する客観的可能判國には、確實さの程度の全段階があり得るわけであり、客観的可 能判噺は︸その本質上程度の差異髪許しているのである。そこでその論理的な關係が問題となるが、それは、先ず、かの因果的要素︵我 々の判蜥はその要素の可能的な結果に向けられている︶だけが孤立して、それを協働しているすべての條件に凝立しているものと考え、 それらの帯下の中、かの要素をしてその可能酌結果を將醸せしめ得る返牒の占め憾範園と、將來せしめないだろうと考えられる條件の占       ⑰ める範園とは一体どんな關係にあるかを質して見ることを意昧するのである。⋮:我々は普遍要當的な露里を弐のように下すことが出來 る。即ち一定の状態︵訟一け=P峠下〇口︶は、それに向い合っている人聞の側に、特徴を伺じうする反鷹の互生することを、相常高い程度に於て嬉    再生産論理の方法論的反省      =一 

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   再生産論理の方法論的反省      一四 都合ならしめる︵ぎ盤毒笛碧ロ︶ものであるという風に、Tすことが出穿る。それのみならす、このような命題を公式化するときには、こ の關係に他の事情が附け加わって來ても、その大部分というものが、結局この普遍的な襲生容易の關係を攣更し得ないものだと読明され 得るようになる。我々がこの一定の二二が一定の結果の護生を好都合ならしめる程度を、一義的にだとか、或は確傘を測定するような仕 方では計ることは五胎ないが、比較法によって、即ち一定條件の下に於ける結果焚生の様式と、條件が攣化せる場合の結果叢生の檬式と を比較して見て、かの普遍的な襲生容易の關係の相量的程度を秤量することが出來る。そしτ璽生容易の關係を攣化する條件が多けれ ば、右の下生容易の程度は低く、少ければ程度は高くなり、高低の差がつくのである。我々がこの比較をファンタジーの申で、出來るだ       も  も も け多くの攣化した事情を通じて行うならば、客観的可能性の程度に指する登臨には、常に高い程度の確實さのあることが、少くとも原理      ⑱ 上考えられる。⋮⋮シエルテイング︵Lノ●く・訟07①一吟一5鱗︶によって、分析するならばbウエーバーが問題にしている、状態と反懸との關係 は、次のような型に近づくに從って釜々合則的となる。即ち、童生容易の關係を揚棄しない至心が無限に増加して、童生容易の關係を攣 更する傾きのある條件が零に近づくという風に型に近づけば近づく程﹂釜百合則的な關係となり、且、その状態ど反懸との因果的結び附 きの規則は﹃法則﹄︵︵ざ妄言︶の論理的な意味に近くなって行く。ウエーバーはこの曲筆に於て、・即身科學に於て﹃法則﹄︵即ち適合惹起 の規則︶を云観することは可能であるとしている。故に適合惹起の規則︵法則︶とは、普遍的な關聯︵前例では状態と反語との因果的結       ⑳ びつき︶を支持する條件が、それを攣漏する傾きのある條件に較べて、歎に於て、はるかに勝っているということを意味する。  かくて、ウエーバーは、歴史的観察によって統一せしめられ孤立せしめられた一團の條件と結果との緩手が、今述べた論理的な型に相 懸するときに、これを適合的惹起と名附け、これと逆に、その噌團の二戸とこの意昧で適合的でない結果を齎らした事實が、その結果の 中の歴史上霞要な成分の原因である⋮場合には、偶然的惹起︵凶=建謡ぴq①ノ圃窪塁触8ザニ晃︶と呼ぶのである。  從って、ピステル︵て二歳安︶の言うように、適合的という事が歴史の論理に於て螢む機能は、必然的︵ぎ響。ロ島凝︶という事が精密科        ⑩ 撃の論理に全て管む機能と同檬である。繭者は各々それらの論理に於ける因果律の講論を示す指籔なのである。かように、適合的惹起の 範疇は、因果的に軍要なものと、そうでないものとの判別をなすわけで、又可能判圏が悟了さの多量を持つためには、国忌この範瞬に一

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ヲ 致しなければならないのである。﹂と。  斯檬にして﹁歴史的因果麟属が行われるためには一、償値關係、二、客観的可能釧漸、を前提とすることが、ほぼ明らかになったと思 う。全く、歴史的事買の因果蹄属は、法則的知識即ち因果關係の合絵鑑の知識がなくては不可能であつで、この法則的知識によって穰成 された意昧關聯、や、詳しく言えば、我々が客⋮凱的可能の範聴を使用して構成し、且、現實によって方向すけられ現實に則して訓練され       ⑳ た我々のファンタ︾一が適合的だと劉署する構成物は、とりもなおさす、問題としている理想型の論埋的内容なのである。﹂と述べる。  口 獲見的手段として  本多謙三氏は理想型は史的因果關係の究明に封し護見的手段となるという表現をとっている。この稜見的手段としての機能は、 ﹁それ は何ら﹃假設﹄たるものではないが假設構成に方向を示そうとするものである﹂という前職引用文にも關りをもつ。マックス・ウエーバ        の  も 1自身の説明によれば﹁護展も亦埋想型として構成される。そしてこの思惟構成物︵夙。霧畳語江9同︶は、全く著しい護見的偵値を持つこ とが出來る。⋮⋮ひとは、例えば嚴密に﹁手工業的﹂に組織された阯會に於て、資本蓄積の唯一の源泉は地代でありうるという理論的成 果に到暮することが出來る。それから恐らく⋮⋮一定の純粋に簡輩な諸要素一即ち限られた土地、増大する入口敏、貴金属の流入、生 活態度の合理化1によって制約された所の、手工業的害悪形態より資本家的経濟形態への韓語の理想際を構成することが出來る。護展 の輕瞼的、歴史的輕過が、事實上、構成された経過と等しいか否かは、再見的手段としてのこの思惟構成物の助けをかりて、理想型と﹃事        ⑫ 實﹄とを比較するという仕方に於て研究さるべきであろう﹂という、そして、事二上の輕過が正しく構成された理想型約纏過に適懸しな いならば、中世肚會は、黒点で託泣に手工業翌翌會でなかったという証明が與えられることになるであろう。そしτ、更に、中世冠會の 手工業的でない購成部分の特質なり歴史的意義を一層明確に捕えようとする研究を促すことになるであろう。という意味のことを述べ、       セ  ね  し    も  も これにつゴいて、理想型的な護展の思惟構成物と歴史とは嚴密に颪別すべきこと、そして前者は屡史的糎過をその現實的な原因に計書的       ⑬ に要當に臨属せしむる手段に過ざぬことを強調する。  国 歴史的な叙蓮の︸義的表現手段として    再生琵論理の方法論的反省      一五

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   再生産論理の方法論的反省       一六  これは術語的機能︵§旨・︸︼。ぎ讐亀戸①一・﹂毎峯ご冒︶といわれるものであるQ  本多謙三氏は以上の理想璽の諸機能を総括的に次の如く述べている。 ﹁理想型が石に述べた如く、生成的性格を具え、臆説下形に展開 し得ることは、それが概念的合理的形象として、個別的事象の意義解明の客脳性・確實性を保証するに就て有用な性質で.あるが、然しこ れは理想型の一面を表示するに過ぎない。理想型は又意味解明の圖式としてのみならす、史的事象の叙述の雷魚としτ使m用せらる∼もの である。前者の用途に於てはそれの概念的性格が顯かにされたのであるが、後の適用に際しては概念との隔が明かにされねばならない。 理想型は、この意昧に於ては純粋に形式的な分類的概念だとは言い得ない。⋮⋮⋮理想型は︸段上位の概念に種差を加うる形式論理學に いわゆる定義の仕方を以て構成されるものではない。⋮⋮前述の如く概念をその生成關係に融解し、その含む成分の内、何れが文化的に 意義ありと認め得らるるかを眼目とする⋮場合には、概念内容のかかる規定は用をなさない。理想型はこれと異り、實在の意義ある要素を 極限まで持上げ、我々の活着がその意義に下して適合せる露塵關係を有するものとしτ到蔵して作上げ、客観的に可能なる性格を持つと ころの模型である。模型であるから、それは個別的事象を項目に分類するのではなく、それを一定の意轟轟繋に編入することに依って、 事件を落潮化するのである。普遍的な條項に包寂するのではなく、その特性を取上げ、籏大して見せるのである。この意味で、理想型が       ⑭ 生成的性格を有する事は、それが奇論的役目を果すという以外に、愚なる形式的概念と蔑別さるべき所以を示していることになる﹂と。  ㈱ 政策認識に於ける理想型の機能       ,  この点に配し本多氏は﹁一般にある政策を樹立するには、月指す目的理想を明確に思い浮べることが必要である。もし目的理想の内に 論理的に考えて利害相反する様な要素を見出し得るならは、それを達成する手段を一義的に決定することも困難である。現實に矛眉なき 方策が見出される爲めには、目的埋想に起しても︸義的な見地に基く論理的整合が存在しなければならない。即ち目的理想の理想型が樹 立されておらねばならない。理想型はこの⋮場合には理説的認識に於て叙述の圖式となったように目的理想を薄着化する役目を務める。ウ ェーバーは日常用いられる集合概念に存する多義を指摘して、政策的認識に察して如何に理想型的概念の有用であるかを﹃農業経濟の利 釜﹄とい義念に就て例示・・かかる翻念が・その内容として書上利害痩する幾多の毒を包含し得るかを述べている﹂とい袖

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 国 理想型のカズイステイツシユな編制とその機能  次に三木清氏は理想型相互の關係を問題にして次の如く述べている。  ﹁理想型には甚だ種々なるものがある。そこでそれら種々なる理想型相互の關係が問題になり得る。この問題は理想型をもつて箪に認 識の手段としてのみ蒸す、寧ろそれが一定の科墨にとっては認識の日的であることを認める限り、常然生じて來なければならない。且つ それは、もしウエーバーのいう理想型の﹁生成的性絡﹂ということを一層突き込んで考えるならば、極めて重要な問題となって來るであ ろう。いま例えば、資本主義、市場、償格、斎忌という如き理想型的諸概念をとってみれば、その間には明かに煎る關係が見出される。 この・關係はこの場合、先ずb理想型がさきに述べた如く歴史であると同時に理論であるところがら、ひとつの理論的若しくは論理的關係       ⑯ として問題になり得る。即ちそれらの間の理論的依存の關係の問題である。﹂と。  マックス・ウエーバーも理想型的概念の体系の構成をカズイステイUク客聖三。・巳︵の立⋮場から問題にしている。カズイステイークにつ いて青山教授はそれは﹁予め可能な場合を網量的に考えτおくことによつで、實際に旧藩の具体的事實が與えられ、それについての判蜥        ⑰ が求められた場A﹃それが如何なる種類の場合に属するかを、正確に一義的に決定し得るよう、準備することを意昧する﹂と蓮べられτ いる。  ウエーバーはその著﹁脛濟と肚會﹂︵’く一﹁梓。陰07算︷ド =︼日陰 ︵串O匡O一一エ〇一戸9酔︶に於て﹁技術上の諸島係・脛螢上の諸關係・專有髪係.市傷關係の カズイステイ雇ク﹂ ︵ζ雛三嘆二犀匹巽§7同日ぎごポぎ巳。ぎ冑旨ム書写﹀竃﹃。℃﹃ξご︼子葺島ンぎNぎご竃・噌︸二葺鵬§︶なるものを展開してい

る㌍彼がこのカズイステイークに於て企益する所は証轟濟の内面的難しの分析のために必要三座繁﹂のニプレックスを與

       ⑲ えることであるといわれる。この点に關位して青山教授が次の如く述べていることは注意しなければならない。即ち﹁所與の経濟肚會に ついで吾々は、⋮⋮若干個の観点から、これを特徴づけるのであろう。この場合、観点ないし座標系のそれぞれに於いて、所與の纒濟肚 二業定方向の直線爵叙する・今痴りにこの直線を特徴直線と呼ぶとすれば、こ註槻点の警け特徴直線が得られるがレこの頬の 特徴直線群はその内部に何ら毛織を有せぬようなものではない。財政形態上の特徴・螢働關係上の特微・市傷構造上の特徴.分業様式上    再生産論理の方法論的反省       一七

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   再生産論理の方法論的反省      一八 の特徴等々の間には、おのずから、一定の連絡があるはすであb、それぞれの特徴直線は、かくの如き下部的連絡をたもちながら、それ ぞれ、各々の座標系に於いて、一定の方向をとっているわけである。かようにして、内部的連絡を有する一組の特徴直線群としてとらえ       ⑳ られた経濟肚會の構造が、こ、に所謂﹃経濟説會の内面的構造﹄である。﹂.と。  かくてウエーバーは、 ﹁肚會南岸の内面的構造を考える場合、この考察の焦点を給付−即ち勢働ないし仕事一に置いている。集團 .の慾望充足に必要な財貨の調達のために、一面から云えば仕事が構成員に分配され、他面からいえばその仕事が結合されるわけだが、そ の檬式は一更に、如何なる生産手段︵ウエーバーの所謂養。甲覧。︻5ぎ¢〇一5﹃㌘巨盤巨葺乱︶が如何なる仕方で仕事と結合されるか、という こととも關蓮してi實に種々雑多である。いうまでもなく、この關係は種々の古点から分類され得、從ってそれぞれの観点に鷹じて多敷 の座標系が設定されるであろう。ウエーバーはこの給付編制の定型のカズイステイークを心心に、面上纒濟の丙面的構造の分析のための       @ 諸座標系を設定するが、これが先に所謂﹁技術者の諸關係・纒島上の諸幽翠・專有關係・市壌蘭閉係のカズイステイークに他ならない。﹂と。  斯様にカズイステイツシユに構成された理想型概念は、歴史的把握に憂しては、現實の歴史的實在を特徴付ける所の叙述の手段として        ㊥ の機能を果すと共に、襲見的手段としての機能をもつ点があげられる。

 以上ウエーバーの理想型の方法的機能について諸強者の研究に導かれて學んで來た厨以は、偏に、これを媒介として、

再生産論理の方法的機能を反省せんがためであった。

 前記の叙述からしても明かなように始めに述べた理想型の諸機能即ち齢隣判断の手段としての機能乃至護見的手段及び

叙述的手段としての機能も結局は最後に述べた理想型のカズイステイツシユな編制を通じて具体化する如く考えられる。

 斯様に﹁内部的連絡﹂をもつ座標系の﹁コンプレックス﹂を以て二見的に研究が准められ、叙述が進められるという点

では、我々の﹁再生産論理﹂の方法的機能についても同様のことがい、うる様である。併し、例えばウエーバーの前述せ

      ㊥

る﹁維濟の内面的構造﹂分析のためのカズイステイークの楽士を見れば、それは定型の網羅的列畢であり、如何にも方法

的手段としての﹁定型﹂が問題であることが強く見られるが、我々に於ては寧ろ理想型の内的蓮關の方に重点があり、多

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様に相互媒介的な内的連關のいわば媒介的中心として再生産を考え、この再生産を媒介として右の如き内的連關を統一的

に誓えんとする点に特色があるわけである。そして實は個々の理想型を定立して次に相互の内的連年を考えるというので

はなく、どこまでもこの﹁内的蓮關﹂との關係に於て理想型的概念の構成を進めていくと言い追いのである。

 そしてこの考え方は、始めから紘朝立存在、從って経濟的存在を多様な相互媒介的乃至相互依存的關連によって、矛盾

的統一的に構成され、それ故にまた憂廻して行くものと見、從って之を把握するためには、その導爆的媒介の統一的中心

を獲曝し、これとの風連に於て右の媒介的蓮關を把握しようとするのである。斯くして我々の再生産論理は、第一に、形

式論理ではなく存在論的な論理であること、第二に、それは理想型的意義をもつというても、これは前述せるが如く存在

論的な認識という立場に於て考え直されることを前提としてのことであること、そして、第三に、それは統一的蓮關的把

握という点に重点が置かれている所に特色をもつとい、うるであろう。そしてもともと再生産の論理がヶネーによって経

華表として構想されて以來、それはか、る課題を担って來たことは経濟學の焚展を考えれば自ら諒解される所である。

 最後に、このような再生産の論理は現實の研究の指針となると同時に錦鱗の研究に於て反省され、洗練されるので、そ

れは決して固定化された公式であってはならない。從って、それは生きた蚕食に素直に學ぶと共に、この現實の科學的研

究の優れ尤成果に學ばねばならぬのである。それはどこまでも存在の眞理に劃して謙虚でなければならない。

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⑤ 本多謙三氏﹁歴史的・肚會的学問、特に纒濟學の方法論に就いてーマックス・ウエバァを申心として一﹂思想昭和二年十月号 揚載、同氏著﹁實存哲學と唯物辮証法﹂所揚 同書 桶五九頁。 右論文、右書 一五九頁。 三木清著﹁就會科學概論﹂︵岩波講座﹁哲墨﹂︶七八一七九頁。 三舞謂菩。さ¢$雪虚誕⑦一3>戸診鐸壽遷弓’くご。・窪oo言藷冶ドβら鴇.曇ち一・ 戸出武雄諜﹁融會科學と償値判断の諸問題﹂本文 五三頁。 小松堅太郎著﹁肚會科學概論﹂ ︵昭和二十四年六月︶四二頁。 再生産論理の方法論的反省      一九

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再生産論理の方法論的反省

⑥小松氏右著

⑦③小松氏右著

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小松氏右著 小松氏右著 小松氏右著 小松氏右著 小松氏右著 小松氏右著 と鍋臭二刈。︸︶o♪ 四二一四三頁。 四五頁。 四七頁。 四〇頁。 四七1四八頁。 四八頁。 五七頁。 五七.1五八頁。 陣門●触﹃¢’鉾一⋮二・ 、 二〇        爾、戸田武雄繹﹁計 宇宙撃と償値到蜥の諸問題一には﹁斯かる概念は、現下態について熊度を決定   し訓練された我ぐの想像力が適懸的なものとして剣断ずる客⋮観的可能性の豊麗を使用して、諸三尊を講号するところの形像⋮であ   る﹂ ︵同謬書本文五七頁︶とあって我々がこ∼に問題にする点については、明瞭を欠くので敢えて原文を引用した次第である。 ⑯ 7P二.。︸δぴ”・Mrρエ・一差・右鐸書本文五五頁、やはり電撃な個所で豊本の謬とは、違うので原文を引用する。 ⑰ <鴨ピョ・,ぎぎ♪軸﹃野︵メエ・ω葛ぺ岡田謙著﹁理解肚露量﹂ ︵昭和二十四年目一九頁。本多謙三氏雨掲論文 前掲書 一七四頁。 ⑱9≦]ゆ釜”⇔げ霞き置寓’・σq昌需︹ζ。ε爲二ぎ鷹島〇屯宣爵舞菖9食一瓢αq¢︸ロ秦旨含目口§象誤①8。ロH転蕊お日G。。。。。響翼⇔.本多謙三氏   右著 一七四頁の誰文による。 ⑲<孕7r多.書。♪牌・欝ρψ箸︵・=︼・︸︾舘の凶日・本多氏右著一七〇頁。 ⑳<斡く●零量層野野ρ鉾。.本多氏右著一七〇頁。

⑳本多氏右著一七五頁。

⑳ 本多氏右著 一七四頁 く槻剛・竃.’<。冨﹂鈍鉾︵︾砕し。哩笥. ⑳ 本多氏右著 一七〇頁。      . ⑳,本多氏右著 一八二頁。 ⑳ 鷹峯甫魯㊦さ︵諭監彰葺。ぎ﹀=於簿蓉讐H≦、ジ。。。髪。夢譲崔考”エ・一℃9山筥・戸田氏謬本 五二、五三頁 誓文は必ずしも戸田氏に   よっていない。 O

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7︻・≦、OげO♪笛・鉾︵︶・皿.巳O巳・ 戸田氏謬肝本  六六頁。      、 本多氏 右著 一八四頁、三木氏前掲著 七七頁。 岡田謙著﹁理解砒會墨﹂ ︵昭和二十四年︶一八、 一九、二七頁蓼照。 毛筋三スき律長潟書手Mド冨酸。斗︾ぎ匁︵封一]﹁ご一きh母砿忌ぎ8σqぎ賦薫各戸三碧︵;港e砿・H w・岡田氏右著 ご七、二八頁。 青山秀夫著﹁マックス・ウエーバーの肚會埋論﹂五七頁。 密円山↑氏右薯一 五六士貝。 と●≦げび。♪雰鉾O.¢口唱・青山氏右著 五七頁。 岡田氏右著 二〇、二唄頁。 鑑皿自㌶。<。﹃霞・。ρ9q⇔﹂qを岡出国は適合的惹趨と署し︵岡田心志著 二四頁︶、青山氏は適合的言書と塾している︵胃山氏右著 五三頁。 青山氏右著 五二、五三頁。 岡田氏右著 二二頁以下。 と・毛巴㊦ご賢・野○.祓.団G。ら・ ヨ・≦﹁告9帥・費●︵︶・訟.bo。Gヨ ﹀●’、oロ訟。ぎ三=鱒一︶一。一。覧。。。[[。、一’一戸8江。︻ξ7韓〇二。・。一環ロ察葎ξ託置訟。=蟄。ぎρぎ⇒ン一●∼’圃告。♪屋’︿・︵﹀唇白く戸一酵融。国一包き戸[● 砿。註巴︸︶.一W・塗.=o二●3こe.︹蕊鮮 ζロ曜尾﹁鍼85邑5ジ乱。冠一言α身国忌昌︻︵ξ象と二一コ・●砿●h象。 岡田氏右著 二五頁。 ン炉≦.Oげω5隅’凧﹁︵︶・エ。鱒O一“・ 戸田氏課太丁 六﹂七頁。 邑ご貧缶噂照照。 “一口。曝・戸出鐸 六八頁。爾、青山氏前掲書 七一一七二頁及び岡田氏前掲雷 三〇頁蓼照。 本多氏前掲書  一八四一一八五頁。 ・本多氏右薯一 一八六i一八・七百ハ。 三木清著﹁融會科墨概論﹂ ︵岩波講座﹁哲墨﹂︶八○頁。 再生蓬論理の方法論的反省       一二

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再生琵論理の方法論的反省      二二 青山氏前掲書 七三頁。 !噛 怐E︵−㌻≡︺︹醐冨器︹[o門エoN一巴9︵︵旨9二二︾ 囲・﹀ぴ零一一ヨ罎≦、岸宏。︸霧津一琶β[︵8審一一馨︸5津く05ンー罫菌  判害。さ一碧。障$﹃弓①一剛︾お団一・ 訟噂8 塗 口.砿.GQ鱒 宍  詣円山円に晒右申者  七八百八。 青山氏前掲書 七八頁。 青山H氏右軸者  ・七山ハ百夙O 青山氏右著 七九頁。 青山氏右著 七四頁。 7P巧。σ︻5翌旦・67M島。・αq$。三。言ρ訟・。。一ぱ 黒正巖鐸﹁マックス・ウエーバー批會纏濟史原論﹂ 一五頁以下。 ζ。毛魯零噂菊一﹃呂。一輯跨=困乙︵耶①ロ〇一﹃︸⋮ρ詮 一・.弓臨一.一〇碧・m●︹節●弾 青山氏右奢 八○一八一頁。

二 経濟學の方法としての再生産論理の機能

・再生産の論理は、方法的論理としては、存在論的な認識論の立場から上述の如く考えられるのであるが、それが具体的

に経濟學の方法として機能を獲熱するためには、夫々の認識目的に從い、叉夫々の認識の段階に応じて、その目的實現に

劃して合理的なように限定され、方法として夫々具体化して行かねばならない。例えばケネーの経濟表とか、マルクスの

専生産表式というものほ、か、る限定によって方法として具体化された例ということが出町よう。そしてこのように認識

目的ないし認識段階に極じて、それが合目的に有効に限定され、具休化した方法的要具を構成することは、それ自体経濟

學の研究方法の重要な前進を意味するものでなければならない。  所で経至仁は、夫々認識の目的、領域乃至性格に基いて歴史、理論、政策の三つの方面をもつていることは、 一般に認

められている所である。何故に維濟學がこのような三つの方面をもつかということは存在論的には、人間的存在或は生活

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(23)

という主心的存在の老察から解明される筈である。既に蓮べたように、生はその否定的契機として死への危機を孕んで居

り、從って生は根源的には生死として矛盾的動的な構造をもつている。生は死への危機の現れとしての﹁生の窮迫﹂

(旧 「①び①旨ω口Oけ︶を克服せんがため、限りなく子爵乃至活動を惹き起す、かくて生は、生活として、實践的、行爲的であり

活動的であることを根本的特色とする。そして再生産というも根源的にはこ、に重て老えられるのである。ところが生活

の本質的特色である﹁作る﹂ということは形成することを意味するQかくて、 ﹁作る﹂ということ、實践ということを媒

介として生活的存在が歴史的に生成して行くのである。人間的存在は生成したもの︵Oo≦oao旨ωo冒︶なる構造をもたざ

るを得ない。こ、に生の歴史性の根源が見られる。他方、人聞的存在は本質的に雨注的である。從って、右の實践もこの

杜會性を媒介にし、歴史性も之を媒介とするし、逆に生の泣會性は實践性及び歴皮性を媒介とせざるを得ない。

 所で生は止まることを得す、それは寧ろ進展せんとす乙。然るに過去から作られ、形成されたものは、進展せんとする

生活にとって制約を意味する。生活は本質的に作るものなるが故、作られたもの∼制約を免れ得ない。こ、に生なる存在

の問題性がある。生の問題性は根源的には、死への危機に連なるというところにある。かくて歴史的形成ということは問

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題を孕み、矛盾を孕んで生成することを意味する。そこにまた新なる展開が考えられるのである。歴史は進展するもの

で、完結するものでないことは、こ、に根源をもつというべきであろう。

 過去から生成して來たものは、主体との蘭係に討て問題を孕み、主体に謝して解決を迫る。行爲的現在はこ、に考えら

れる。そして、また未來が當爲性として實現を迫るのもこの点に於て考えられるのである。所で人聞の生活が本直的に肚

會的であるということは、入間が生活的に杜會言容威休を形成し、これを媒介として生活を展開する。從って、歴皮とい

うもこの斜面的構成体の形成、再形成を媒介として展開し、器量もこれを媒介として進められると考えられる。

 斯檬に融禽的な人間存在が霊廟、歴史的であり實践的である所に、人間存在に証する杜會的學問が歴史的領域と實践的

   再生産論理の方法論的反省      ご三

(24)

   再生産論理の方法論的反省       二四

領域をもつて來る存在論的根源かある。されば主体存在論的立場からすれば﹁行爲的現在に向って問題を孕んで迫り來る

過去からの存在の面に於て存在認定の科學の成立を認め當爲諸書來の面に政策學を認めるのであるが、その存在たるや行

量的主体に満って問題を孕んで迫る底のものなる故それは矛盾性に減て自己を露呈する。從って斯る存在認定は最早軍な

る観照を許さゴるものであり、必ずやその存在的矛盾の實践的解決としての常爲の學を要求する。斯くて存在即智爲の立

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場に於て始めて、存在認定の學と當爲の學とが眞に統一する場面を見署すと考えられる﹂−と述べたのもこの謂であった。

 併し維濟學が六畜、理論、政策の三領域をもつということは、輩に存在論的にのみ之を明かにしうるというのには、問

題がないわけではない。なるほど存在の歴史性と實践性は存在に饗する愚問の歴史學と實践學を成立せしむる存在的根擦

であるとい、うる。併し、理論學は如何に存在の立場から説明しうるかゴ問題となる。これに糊して、存在論的立場から

答えうることは歴史的存在の法則性ということであろう。存在自体が法則性をもたぬ所に法則把握の理論科學が成立つ存

在的根擦がないということ、次に存在の實践的主体性が要求する政策は存在の法則性を媒介にすることなしには有効であ

り得ないし、またこ、に存在の法則性を媒介として目的−手段の体系に構成される政策學の要求される根擦があると老え

られること之である。更に歴史的認識も、歴皮的存在の何らかの意味での法則性が考えられるならば、この歴史法則の把

握としての理論的認識を媒介として進められるという事が當然に考えられてよいであろう。

 斯くて我々の考察は軍なろ存在論的立場から存在論的認識論の立場に推移して行くのである。そしてこの立場からのよ

り其体的な考察がこ、での中心的な課題なわけである。この立場からの考察としては、先に述べた墨的認識作用の性格と

劃練たる存在の上述の如き性格との關連を前提として進められて行かねばならないであろう。係累存在の歴史的生成面を

問題とすろ経濟史的認識は、黙思的生活様式の歴史的生威、獲展、禁転そして次への歴皮的推移を中心に進められて行く

とすれば、再生産論珊のこの方面に於ける力法的機能は次の点にありというべきであろう。即ちそれは経濟生活の中心を

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