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法と論理

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(1)

第六節

連して

第五節 第四節

ホームズ判事の標語 論理についての誤解 概念法学と論坪 詭弁と﹁形式﹂論理 文法・記号論と論理 公理論と論理 包摂と代入

推論の構成要素

第二節 第四節

第十巻一二•四号)

第二節 第二節

第一節

弁証法と論理ーーー対話的合理性に関連して

ファジー推理と論理

l l

辞学的法学に関連して

第一章 第一節

第二章

法論理の固辺

 

, ' ヽ

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 1 9 9 9 9 , 1 9 9 9 ,

 

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 , 9   9 9 9 9 9 9 9 ,  

ー 論

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9  

‑ '  

論 理 の 誤 解 を 中 心 に し た 序 説 口

法と論理

.  方法論

第九節

二つの演繹

E

~ 寸

三二九

1 4 ‑ ‑3•4--- 8 1 5  

(香法

' 9 5 )

(2)

戦後における•これら法思想からの転向は、より明確に は論哩的統一でもなく︑また倫罪的統一でもなく︑それはおよそ統一性といったものをもたない﹂︑ 益の葛藤の産物であり︑ー優位を競う無数の社会的・囚果的利益のその都度の諮合成ー

﹁概念構成と体系形成への新たな努力﹂をぶしていると言 以外の何物でもない以卜︑

. .  

1 ︶ 

︑ .

99 という訳である︒

と︒前者にとって法体系は法規範の無矛盾で完全な叶算体系であるのに対して︑

後者にとっては法規範は社会的諸利

あるばかりか論則的に尤全であるのに対して︑前期利益法学にとっては法体系は尤令でないばかりか整合的でもない︑ その無矛旧竹・統.性をも否認した︒

あるいは次いように

訟思想の傾向を^ーこ~1-iうと、

,1

I 

a l

t e

r e

  I n

t e

r e

s s

e n

  j │  ur is pr ud en z)

からの転向である︑

(E in he it an d  v

V i

d e

r s

p r

u c

h s

l o

s i

g k

e i

t   o

d .

 

f r

e i

h e

i t

) を含めてその完紅雷且

(G es ch lo ss en he it .  

o l

l s

t a

n d

i g

k e

i t

  , c om pl et en es s 

Lという川崎叩を川いる︶を要晶するのに対して︑後者は法規範秩序の完仝性を含めて︑

える︒概念法学にとって法体系は杷合的

(c on si st en t)

で 以ドでは

. .  

E

︿E

L

法規範の体系的構成に閃して概念法学と伯期利益法学とは対班的立場に立ち︑

前者が法規範秩庁の統.性・無矛伯

調はほば詞様である︑とげってよいであろう︒

1c

l)

しこ︒

i

﹇オ

t

間題が片付いていない限り︑

今日でも法思想

u J 止 八•特に概念法学ならびに前期利益法字戦後四半恨紀を経過した頃︑法丈叫、E"i 察することにする︒もし公罪体系というものについて叫解があると︑調争はむしろトじであろうからである︒

そこ

で︑

ー公

罪化

を帰鮎するもいかどうか︑ここで改めて衿 理的解釈﹀あるいは︿体系的解釈﹀に際して︑

法の向罪的体系化とか公刑化が

l l J

椛だ

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

法体系の詞刑的分析が果たしてそこでけわれるような

これまでのところで︑われわれは幾度か法の休系化•特に公則化についての批判を観察してきた。

︿ 誦

' ‑

という狐見いあることも知った︒

また

逆に

公理論と論理

三三

0

1 4   3 ・ 4  

816 (香法'95)

(3)

i

i

j1.

J i l t

ここ

で︑

ク ル ー ク の は 説 の 怠 図 に つ い て 少 し 触 れ て お こ う

① 彼 が 法 体 系 の 公 罪 化 は

しているのである︒

ー原

刑的

に l l J 能 し

だ と

4

1 4   3 ・ 4  

品法

︵ギリシャ弁論法全般ではなく︑

アリストテレスの

',, 

0―' 

に分析視点を求める点でも︑

鮒やかな対照をぷ

という法学方法綸の間題を対立の韮盤と 払規範体系の公刑化か可能かどうかという狭い

1

点をめぐる論争となっている︒

ルークが今川紀の発展した叫号詞刑学に依仔するいに対して︑

フィーウェークは歴史を遡って︑ 9ヽj

u

・ー じ\

│ ! ー ギ ー

︿

1

しつ

つ︑

そのじさらに︑

ヽ~

しカ

1

可能性を保間するという課題を追究する際に︑

どのように機能しうるのか︑

﹁ 者

芥 一

︱●↓︱

n

Ai

j 

と旦

いっ

た j j が

よい

の道

日ぺ

o r g a n o n  

︶としてい諭雌

︵形

式扉

罪︶

法芹が法体系の妥中ー性.

灯性と適川

I E

利益法学からの転向努力の;府物であるために︑

興味をそそられたのであるが︑この対立では二般に︑

法学︵むしろ ェークは公理化の可能性を仝間的に

i

廿﹈こ︶︶

︵ 防

J I 化し

t

否定する︒

この

対立

はあ

る音

心味

で︑

t

ー心のような概念法学と削期

期利益法学との歴史的対立の円来と思わせるような対立が︑

8

̀ 

V i e h , v e g

)

との間に現れた︒

クルークは法規範体系の公刑化を

﹁原即的に

r l I

p r i n z i p 1 e l l m o g l i c h  

" .  

L( 

とし

フィ

このような新たな体系構成の見地からはいずれも

m u

端に

屈し

K l u g

とフィーヴェーク︵

) ` 

ク ︵

クルー

U l r i c h  

T h e o d o r  

4 L

^

^ . .

ik f 

0

I L

あたかも概念法学と前

体系を:佃の統

q的体系として構成する試みであった︑

K a r l   E

n g i s c h )

の努力はこれに中ーたる︒

とこ

ろで

レ ︶

える

コーインク

H e r r n u t  

複合体の論則的完全付を否定しつつ︑

それとは別個の且礎︑

つまり倫理的諸叩女

J叩や社会的語述閃い統性の卜に︑

C o i n g )

やエンギッシュ

^ ^ ヽ

ンティ・テーゼを通して両者の綜合を形成することにあった︑

と月えるであろう

c

すな

わち

︑ 訊体系を構成する規範

, r ‑

的完全性の︑じ張を除き︑

他方前期利益からは法規範体系の統一性一般の否定という極瑞な︑じ張を削いで︑これらのア われたのであるが︑その場合この体系構成の韮本的態度は︑極<図式的に言えば︑

概念法学からは法規範体系の論罪

817  (香法'95)

(4)

事情のもとで︑同じもの

という原理である︒なおその

他の条件をも︑用語上の不備・非難を防ぐために附加する必要があれば︑附加してよい︒﹂と言うものである︒論理学

に少し馴染んだ者にはまことに当然の話として理解できるが︑

と思

われ

る︒

︵論

理法

則の

意味

論︶

クルークにとっても同様である

五四

じ主

語︺

式がある︒﹁それはどんな原理であるか︒

[ ⁝ ⁝ ]  

それはすなわち︑同じもの

[同じ述語︺が同時に︑

そしてまた同じ

またクルールは︑後に述べる﹁公罪

とき

しろ

それが実際卜容易であると言っているのではなく︑

従っ

て︑

クルークは法体系の公理化を一

ことを自明のことと考えている︒従って︑

範の体系あるいは法規範の解釈の体系を︑

考察対象とし︑ また法体系の公理化に実際に着手している訳でもない︒

それが実際的であるかどうかには触れていない︒仮に公理化を試みるとすると︑それは大変な作業となり︑そ れによって得られる利点を帳消しにするかも知れない︒まして法体系の歴史的変動を顧慮すると︑特にそうである︒

つの統制理念として捉えていると言ってよいであろう︒②

系が︑実証主義の要請のごとく︵通時的に︶固定化できると考えている︑

﹁公理化﹂を考えるとしてもその適用の仕方は限定される︒すなわち︑法規

ある一定の時点で共時的に︵解釈の場合には︑

その限りで︑公理化の可能性が論じられているに過ぎない︒③

系の三つの基準﹂がすべて完全に満たされねばならない︑

きで妥当する・無制約な法則や基準と見倣しているのでもない︒

に属しかつ属さないということは不可能である︑

その解釈者の視点に立って︶

と考えている訳でもない︒事実︑数学においてすら公理系

の︿独立性﹀あるいは︿完全性﹀(:︱つの基準の中の二つ︶が間題にされる場合と間題にされない場合とがあり︑当該

公理体系の実用性︵日常性とか汎用性︶を重視して︑間題にしないことは多い︒④論理法則として︿無矛盾律﹀が

あり︑公理系の一基準として︿無矛盾性﹀があるが︑︵フィーヴェークが非難するごとく︶クルークがそれらを文脈ぬ

ここに無矛盾律に関するアリストテレスの有名な定

のではなく︑歴史的に変動するものである

クルークは法体

1 4   :1• 4 

818  (香法 '95)

(5)

法と論理・方法論(守娯)

(1) 

① 

一定

の︑

証明を伴った知識の体系を構築するには︑

る ︒ ︶

まず︑公理体系の構造を素描しよう︒

考え

るが

q二つの可能性がある︒

c  a 

証明できないが・出発点とし 証明される命題︵群︶A

とそ

フィーヴェークの所論に若干の検討を加え︑﹁論理﹂というものに対する理解をさらに深めたいと

その前に﹁公理体系の構造﹂と﹁公理系の三つの基準﹂に概略触れておく方が都合がよい︒

理自体のシステムを﹁公理系﹂︑公理とそこから導かれる定理を含めた全体のシステムを﹁公理体系﹂と呼ぶことにす

れの証明に使われる命題︵群︶

背進を必要とする場合︒

b

さらに

B

を証明する命題︵群︶

C

を要求し︑次々に︑

命題相互の間で術環的に証明を行う場合︒あるいは︑

て設定される基本的命題︵群︶

B

との

鎖が

から︑他の証明可能な命題︵群︶を導き出す場合︒これら三つの可能性のうち︑第三

の道はアリストテレスが折りに触れて強調したところであるが︑

公理を数学の基礎原理と見なせるようになるのは︑ 前五世紀の半ば頃には︑すでに数学者によって採用されていたことが判明している

︑︑

それらが現実に証明できない•あるいは証明困難であることが判

って始めて起こることであろう︒

さて

本節

では

それゆえに無限に

この方法はアリストテレスよりほぼ一世紀前の紀元

︵後

述参

照︶

︒実

際︑

定義

・公

準・

第三の道・公理的方法では証明体系の証明できない命題群とそれらから証明される命題群とを分けることが必要で

ある︵丁度︑近代法体系の原則が判決とそれを正当化すべき法源

1

1裁判所の判断に使用されるべき実体法的基準との

区分を要請するのと似ている︶︒現代の考え方では︑公理と公準とは区別されることがなく︑体系の基礎として無定義

語と証明なしの公理が選ばれる︒

②現代の公理論で特徴的なのは︑公理系から定理を導く際の︿推論規則﹀︵あるいは︿変形規則﹀︶が特定されてい

ること︑また定義を導入する場合に備えて︑無定義語による定義の手続︑あるいは普遍語︵適宜に導入する一般的用

~

︵以下では︑公

1 4   3•4--819

(香法

' 9 5 )

(6)

意味論は記号によって表される意味を考察対象とするから︑

意味論的体系では記号に一定の愈味が当宛われ

その体

,...̲ 

→ 

に一

され

る﹁

定理

﹂は

のような構文論的体系のことで︑この体系で﹁証明﹂

先行する公理あるいは定理である一定の記号列から変形規則によって誘導されうる記号列である︒

ここでは︿推菰規則﹀も形式化されて︑

︿変形規則﹀に転化する︒

は記号列︶として扱い︑ の正当化のための一定の手続が定められているのと似ている︶︒

t u

a l   d e f .  

これらは証明が厳密に行われるべく・必要な装閥なの

定義されていないが︑公理によって指定された関係を満足しなければならないので︑

その限りにおいて文脈的に︵

contextually)・吟5仕い的〗に(implicitly)寄常氏されることになる(このような定義の形式をimplicit

d e f i n i t i o n ,   c o n t e x

  , 

あるいはさらに限定して

a x i o m a t i c d e

f .  

と呼ぶ︶︒無定義語はしたがって︑公珂によって定められた制約さ

どのように理解︵解釈︶されてもよいのである︒現代の公岬体系では︑定義は︑

のように最初から登場せず︑叫明の過程で︑先に述べたごとき

f

で︑

を前提にして導人される︒

できる︒そして前者のドでは構文論的範開に基づいて 味論的体系﹀が構成される︒すでに述べたように︑構文論では表現︵語や文︶

︿構文論的体系﹀が︑後者の下では意味論的範助を用いて

そのような記号と記号との間の関係を考察の対象とする︒﹁形式化された体系﹂とげうのはこ

を﹁解釈

i n t e r p r e t a t i o n

﹂と言う︶︑体系は意味をもった記号の体系となる︒証明は︿推論規則﹀に韮づいて︑

から息味を抜きとって単なる記号︵又

. ︑

︿ 息 切

① 公 罪 体 系 は 二 つ の 本 質 的 に 異 な っ た 観 点

すなわち構文論的観点と意味菰的観点とのドで︑

ー一

種類

り扱

いが

また多くの場合にそれまでに証明された定即

え満足すれば︑ユークリッド9

原論

現代の考え方では︑

公罪はいきなり無定義語を用いて記述される︒無定義の意味はもちろん陽顕的に

( e x p l i c i t l y )

であ

る︒

このような装憤は︑例えばユークリッドの

C

論﹂

には欠けている︒ 語︶を甘該体系の目的に適合するように規定する手続︑

が定められていることである

︵丁度︑近代法の体系で︑判決 三三四

14 

]•4 8 2 0  

(香法

' 9 5 )

(7)

法と綸即・方法論(,、

: f

( 1 )  

次 に

﹁公

理系

にある訳ではないのである︒ ではなぜ態々語や文から意味を抜きとって記号とし︑体系の構造を形式化するのであろうか︒

た理由による︒われわれの日常汀語︑あるいはそれから転用された体系用ば語はさまざまの内包

( c o n n o t a t i o n

)

を伴

って

いて

三三五

︑︑

︑︑

から︑同じく﹁真﹂と見倣される文を誘導することになる︒

その中には当面余叶な内容も含まれる︒吊い話が︑概念や図形などさまざまのモード 想像的などの様式︶をもった佑報やイメージが必ずといってよい程含まれている︒

の基本原理の意味を賠黙押に歪めたり︑推論を狂わせることがないようにする︑ それはよく知られ︵

身体

的︑

感覚

的︑

かかる情報やイメージが中ー該体系

一度体験してみるとよく分かることである︒それをーつの例で胄えてみよ う︒この原稿が版組みを終わって手許に屈き︑校正をする段階のことであるが︑校正の過和で︑内容に間違いがなく

l E

に表現されているか気に懸けながら校正を進めるとか︑執筆のときの意図を追体験し︑

いるかに留意しながら校正刷りを﹁読んでいる﹂と︑誤植に気づかない

︵自分の本来の息図に従って読んでしまう︶

ことが多い︒校正を旨くやる方法はいくつかあるのだが︑要は文の意味内容を忘却・無視することである︒文章をた だの文字列ないし文として把らえ︑文字の形に注意し︑文法に従って

ればならない︒文を純粋に文字列と見倣す方法は文章を終わりから逆に見てゆく方法で︑

体系を形式化する目的の︱つは右のことにあり︑決して体系の文字列や解釈︑あるいはそれらの構造を固定すること

︵満たすことが沼ましい︶:︱つの基準﹂について簡単に説明しておこう︒

三つの基準は﹁公理系の無矛盾性

¥ V i d e r s p r u c h s f r e i h e i t , c o n s i s t e n c

y

﹂︑﹁公理の相牡独立性

U n a b h a n g i g k e i t ,

号とその•原稿に対応した順庁だけが間題になる。 のようにして推論が能率化されることも︑ ②  系で

︑︑

︑︑

﹁頁﹂と見倣された文︵命題︶

この場合には専ら無意味記

︿非文﹀になっていないかどうかを検介しなけ それを十分に再現しえて これが形式化の罪由である︒実際こ

1 4  -3•4 ‑821 

(香法

' 9 5 )

(8)

S と

﹁独立性﹂の形式的定義として次のような定義がある︒﹁

S

が公

理系

A

0

もしそうしたことになればその公理は他の諸公理から証明されうる︿定理﹀にすぎず︑独立した公理とするに足りな

sからAを差し引いて•さらにAの否定をつけ加えた公理系(S|

A )

 

+ 

1 F A

が︑

② 第 二 の

﹁ 公 罪 の

︵間

の相

互︶

1 L

ー ︑

t

︱よ

H

ー︑

︶\ 入田 土

ぢ\工収LLlvW

ノ O I L

I

A

S

の公哩の ︵あるいはその否定︶

つであるとき︑

が他の諸公理からは導けないことで︑

今世紀初頭から六

0

年代にかけて公剌論に一屑の席きがかけられた︒

いわゆる﹁数学基礎論﹂ 何れにせよ︑

モデルを用いた無矛旧性の証明は相対的であるから︑

モデルを用いない

﹁絶対的な証明﹂を求めて︑

( 2 1 )  

の形成と展開である︒

もし公理系

共にモデルをもつならば︑

てを公理系から導くことができるか

︵で

きれ

ば︑

その公罪系は完全である︶という間題である︒

題が暗に頻を出していることに気づいた読者は多いであろう︒すなわち︑当該公理体系にとって有意味な定理のすべ 提となるので︑

この力法では整合性の

︿ 相 対 的 訛 明

﹀ し か 得 ら れ な い

︒ こ の 説 明 の 中 に

︿公哩系の完全性>の間

ある

しか

し︑

この採作的定義が付効であるためには︑

モデル自体が無矛盾であることが

f

め判明していることが前

理系の

このようなモデルがあれば︑公理系は

, 

,. 

l

認められている︒体系内で証明可能な式︵文︶がすべてある解釈のもとで真なる命題を表すとき︑

︿モデル﹀となる︒そして︑無矛盾である︑

と認められるので この解釈は当該公

ことになる

そこで

﹁無

矛盾

性﹂

0) 

︿操作的定義﹀が採用され︑

この確認の方法を一定の範囲で担保するものとして

そうなると︑

どこまで推論をすすめた結果矛伯が現れるかを知る術がない以

t

︑ 実際に無矛盾を確かめる方法がない

ないことが即座に判明しないで︑ ① ﹁公罪系の無矛盾性﹂

i n

d e

p e

n d

e n

c y

﹂そして

﹁公雌系の

︵公狸体系に対しての︶完全性

V

o l l s t a n d i g k e i t ,  

c o

m p

l e

t e

n e

s s

 

a)

であ

る︒

﹁公刑から祁かれる定理が相吐に矛盾しないこと﹂を意味する︒公理同志の間で矛盾が その公理系から多様な帰結︵定理︶を導いてみないと判らないことが多い︒

三二六

しかし

1 4 ‑ ‑ 3 ・ 4  ‑ 8 2 2  

(香法

' 9 5 )

(9)

法と論理・方法論(守屋)

性と同じように操作的定義が考えられているが︑これ以上追究しないことにする︒ただ︑一言必要なのは︑ある種の という欠陥があり︑無矛盾

︵モ

デル

をも

A

S

の中で独立である︒﹂この事は非ユークリッド幾何学誕生の歴史的経緯の中によく示されている︒

の第五公準︵平行線の公準︶の否定︑すなわち︑

︵ボ

ャイ

第五公準とした新しい公理系が︑実際にユークリッド幾何学を用いたモデルをもつことが示されて始めて︑非ユーク

︵ ふ

リッド幾何学に数学

K

の市民権が与えられたのである︒かくして︑

けるのではないかという・少なくとも一五

00

年以上に亘る疑問が否定的に解決されたのである︒尤も公理系に︑独

立ではない・余計な公理が入っていても︑公理系の性格に本質的な変更がもたらされる訳ではなく︑

い程証明が容易になる︑という利点が生ずるのである︒

第二は﹁公理系の︵公理体系に対する︶完全性﹂である︒これは︑

初用語)•あるいはその体系で定義された普遍用語(前述参照)

﹁S

I文

﹂と

呼ぶ

︶が

問題

で︑

文で

も︑

完全

であ

る︒

︱つの直線外の点を通りその直線に平行な直線はただ一本ではなく︑

で表

され

た文

ユークリッド

むしろ公理が多

その体系に最初に導入された定義なし用語︵原

つま

S

の中で有効な文︵これを以下

その体系の公理系と変形規則︵推論規則︶によってすべて証明あるいは反証できるかどうかの

もしできればその公理系は完全である︒もっと厳密な定義は次のようになる︒﹁公理系

S

は ︑

A

が公理系

s +

の独立な公理でありえないとき︑

A A

がどんな

S ̲

すなわちs+As+~¥Aも共に充足的で

つことが︶ないとき︑完全な公理系である︒﹂換言すると︑﹁公理系

S

に新たに独立の公理を追加できないとき︑

この定義にも︑公理系が実は完全であるかも知れないのにそれを証明できそうにない︑

体系では、公理が無矛盾である限りその体系のSI文で•その証明も反証も不可能なものがある、

S は

という数学史上最大

三三七 ③  ユークリッドの第五公準は他の四つの公理から導

無数に引ける

ロバチェフスキ︑

ガウ

ス︶

︑あ

るい

は︑

b

全く存在しない

︵リ

ーマ

ン︶

という命題を

14 

3・4‑8 2 3  

(香法'95)

(10)

b

公理の独立性とは︑

以上︑少し舌足らずの説明を行ってきたので︑念のため︑公理の独立性とは︑反証されうることである︒

公理系の無矛盾性とは︑

こと

であ

る︒

その体系に属する真なる命題とその否定が共に満足される解釈︵モデル︶が存在しない そのいかなる公理についても︑残りの公理の全てとその公理の否定とを同時に満足させる解

釈が存在することである︒すると同じことであるが︑

公理系を意味論的に見た場合 矛盾を含むようになることである︒

̲  

. •1 C

② 公 理 系 の

ある公理系の中でいかなる公理もそれ以外の公理から導出し得ないことである

﹁強い意味での﹂完全性とは︑

﹁弱い意味でのL

完全性とは︑

その理論に属ずる全ての

S 1

文がその体系において証明されうるか・

その公理系にそれからは導出し得ない

S

ー文

を加

える

と︑

C

I

公 理 系 の

らは余分の公理が除かれている︶︒

る︿解釈﹀もあり得ない︑

つまり適用できない︶︒

公理系の無矛盾性とは︑S—文Aおよび非Aが共には決して導かれないことである(体系が矛盾していればいかな

︵ 公 理 系 を 構 文 論 的 に 見 た 場 合

ておくことにする︒

(2)

し)

L ̲  

ということになる

︵ 註

( 2 7 )

参照

︶︒

級の﹁超数学的﹂定理が証明されている︑ということである︒

この体系が ︵

この

体系

これら三韮準の構文論的定義と意味論的定義を列挙し その公理の否定と残りの公理とから成る新しい公理系の無矛

仮に類比的に言えば︑ ︑︑︑︑﹁法体系は論理的に完全ではあり 三三八

14  3 ・ 4  

824 (香法'%)

(11)

itと論即・方法論('、'J して占えば法発見︿欠陥補充﹀が必要なので︶︑

経験的な発見は不必要だ︑

三三九

と公理じ義者が︑

E張していない限り︑

14 

を混同していることである︒公理化された体系はたとえ論罪的に完全であっても経験的に不完全でありうる︒その卜大抵の公罪 系は論理的にも不完仝である︒

︵法体系に関連

①まず引用文の冒碩で気づくことは︑

フィーヴェークが︑既に

( 4

) )

触れた﹁論理的完全性

Lと﹁経験的完全性﹂

̲̲ ̲ 

とカ

1

昧ぐ

( 2 1  

それに対応するようなことは無怠味なのである︿引用6

﹁ し

忍~1L

―,‑‑

l,, 

L ~

L

l

最適な

( o p t

i m a l

(Invention.. L体系が詞即的に冗仝な〗)場合には、油繹はあらゆる発見r例えば、法体系ならば法発見〗)を全く不 要にする︒︹⁝⁝/体系は体系のみで間題の8息味を決定する︒体系の法命題は残らず︑論岬的に見て厳格に吟味することができ︑

~

の部分は引川者による補足をぷす︶︒

議論が少し多岐に日.っているので︑

使

系の中で予廿出し得ることである︒ C

C

I

3 ・ 4  

︑ ︑

︵これが前述のように︑

︑︑︑︑ 続を説明する︶︒

F

825 (香法'95)

(12)

しながらこの点を検討してみよう︒ の間には矛盾があってよい︑ ④  フィーヴェークはここで結局︑ 構築することも可能であることは明らかであろう︒ ことができない ③ 

序な

がら

﹁発

I n

v e

n t

i o

n

﹂とか﹁弁護しうる

v e

r t

r e

t b

a r

﹂といった言葉は︑弁論術や論争術あるいは弁証法 引用文の後段でフィーヴェークは︑体系が内部的に無矛盾である

がな

い︶

ためには︑文の︿解釈﹀によって得られるその体系内の命題は真か偽かであって︑

^引

6

の法

規範

︵排

中律

1

1第三者排除の法則が成り立たねばならない︶

B.C

に三分割したとき︑

ていなければならない︑

る︒それにも拘らず︑ 点Xが

A

には属していない︑

と言いうるためには︑元の線分は二分割

( A

B

+ C )

され

などと言えないことは明らかであろう︒彼は無矛盾律と排中律とを全く混同したのである︒

その上︑論理学の体系には多値論理学の体系があって︑命題の真理値として真・偽の他にいくつもの値を許してい

その体系は矛盾を含んでいてはならないのである︒

盾性を体系内部の個々の命題の真理値の排中性と混同したのである︒従って彼が求めるような︿四値論理の体系﹀を

二里の混同をしたことになる︒ と述べている︒

まず無矛盾律と排中律とを混同し︑次に体系内部で

の論理法則の議論と︑体系自体についてのメタ論理学的な議論とを区別し損ったのである︒

で最後に言及しなければならないのは次の点である︒すなわちフィーヴェークは︑公理論的体系が無 矛盾でなければならないのと対甑的に︑法体系のような﹁トポイ[論拠]目録

T ゜

p 2

g

K

a﹂の中のトポス[桐々竺

と主張する︒そこで試みに︑彼がトポイ目録の範例とする︿格言集﹀を参照

の用語であることに注目しておこう

︵後

述参

照︶

②  ーヴェークの論難は的外れである︒

つまりフィーヴェークは︑体系全体の無矛

︵文

P

﹂ 三四〇

それ以外の真理値をとる しかし︑ある線分を線分

A.

と文﹁非

P

﹂が同時に成り立つこと

14 3•4~826 (香法'95)

(13)

法と論理・方法論(守屋)

われわれが格言集を幡いてみると︑ちょうど反対の意味をもった格言の対が多いのに気づく︒例えば︑﹁楽あれば苦

あり﹂と﹁苦あれば楽あり﹂︑﹁義を見てせざるは勇なきなり﹂と﹁長い物には巻かれろ﹂︑

﹁情も過ぐれば仇となる﹂など枚挙に暇がない︒

そのような対が同時に使われたとすると︵たとえば﹁楽あれば苦あり︑苦あれば楽あり﹂が︶︑

何の役にも立たないことは明らかであって︑

われわれはそれらの対をばらしたじで︑その都度の情況に適した・相互

面 ︶

に整合的な格言をセットにして用いる訳である︒そして︑各セット中の格言の間に特に論理的な関係がなくても︵格

言相互が論理的に独立であっても︶︑それらを︱つの論理的な体系に組み立てることができる︒すなわち︑各セットそ

のものを﹁公理系﹂とし︑

のではない︒しかし︑ そこから論理的に誘導しうる格言をいわば﹁定理﹂として附け加えて︑

を作ることはできるのである︵論理的に相互独立な格言はまた相互に矛盾しない︶︒格言は態々公理化を試みる程のも

さまざまの格言の論理的振る舞いや含意︑格言間の関係を考察するようになると︑自然に準公 このようなモデルが果たして法体系のモデルとして適切であるかについては︑議論と批判のあるところ

現実に見出せる法的な全体構造は︑ ﹁情けは人の為ならず﹂と

フィーヴェークがこのような事態を念頭においていることは明らか

一定の﹁公理体系﹂

フィーヴェークがトポイ目録に即して示そうとしたように任意に拾捨で

いずれにせよ論理的な意味での体系ではない︒それはむしろ︑その範圃が非常に区々であり・往々

にして僅かの導出を超えては進まないものであり・かつまた相

の関係を厳密に吟味できないような・不特定多数の論理的体系︹の複合︺l l

である︒[⁝⁝]

② フ ィ ー ヴ ェ ー ク は

︑ 法 体 系 の

きな

い以

上︑

l‑ (3

であ

る︒

﹁公理化﹂を次のように論難する︒ われわれが︑法体系に含まれる法規範を︑ 理的な体系が生成してもおかしくないのである︒ であろう︒しかし仮に︑

三四

1 4 ‑‑3・4‑827 

(香法

' 9 5 )

(14)

( 3 )

似艮の と に ハ ② ま れ ①

) り 解 結 す は 法 れ ば な ) そ と

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私 け そ 釈 しさ'常 に な リ ど な 必

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1 4   :~-4·828

(香法

' 9 5 )

(15)

i

去と面理・方法論

( ' : f

判明しているのである︒ イトヘッドによる数理論即学屯りL

︵ 註

( 2 7 )

参照

︶︒

が証明され︑

P r

i n

p

id Mミ 斎

m d l i

. C ( I

三四

の無矛盾な体系の不完全性し 理学に限られており︑既述︵本節川③︶

のよ

うに

﹁算術を含む

[ B

.ラッセルと

A.

︑︑︑︑

数学の基礎がある意味で不完全なことが

・ホ

に裁判官にとっては避け難い想定であったのである︒

しかし今日︑

﹁ 裁 法体系の完結性が法律実証

義E

の本質的な且本概念と指科加理を多かれ少なかれ偶然的な順序で含んでいる︑と想定すると︑公理論的方法では︑それらの全てから論理

的体系zを作り、展開することが今や間題になるのである。[……〗

ここでも︿公理系の完全性﹀が間題になっている︒原理的な間題点については既に先の引用

6

に関連して述べた

一節

( 7

)

の要請と公刑論の現状に再度触れておこうと思う

︵概

念法

学︶

の要請であったことは周知の通りである︒

のように︑近代法の一1つの原則﹁裁判官は法律に従う﹂

判忌避の禁止﹂とを両立させるために︑止むなく前提されることになった一 もちろん︿公理系の完令性﹀は法体系の完結性とは全く異なる次元の間題であるが︑同じような事情は公理論にも

存在する︒完全な公理体系であることがメタ論理学︵メタ数学︶

とんど関心が向けられていないのが実情なのである

で証明されているのは︑

ただこの要請は︑既述

︵つまり︑裁判官による法創造の禁止︶

つの要請であり︑︿法体系の完結性﹀は特

この想定を本気で現実と取り違える者はいない︒

命題論理学や第一階述語論 また︑数学の韮礎づけの間題以外では︑数多い公理系の完全性を論ずる必要は余りなく︑

︵ 第

︑ ︑ カ

ここでは﹁法体系の完結件﹂

︵本

節註

( 2 7 )

参照

︶︒

① 

z

に属しているのであるが︑

体系

z

によってば礎づけることがでぎない︑

T

x

)

C.J~=

4

,

{,~}

うことは

i j j

白である︒芳片心

,f

l,

 

守厨︶︿引用8 うることが要求される︒この要求が満たされると︑諸公刑の完全性が現前するのである︒

これらの諸公理は確かに体系 そうした命趙は体系

z

の語原刑あるいは諸公坪を形成すべきであるから︑

. 

,

: 

'' 

それらから他のすべての命題

︹法規範︺が導出され

14

3・4  ‑

829 (香法'95)

(16)

(4)  る ︒ 9 ,

ょ ︑

︿公理系﹀をフィーヴェークは次のように把握する︒

とい

うの

は︑

︵後

述五

⑥②

参照

従って︑法学において仮に公理化が試みられる際にも︑

つまり現実の公理論とは理論的にも実際的にも外れた標的に攻撃の矛先を向けているのであって︑

過ぎなかったように思われる︒

であ

ろう

しかし批判の標的を間違えると︑

この作業は非常に困難なも の反転像として 三四四

フィーヴェー

すぐ続けて彼が否定しているように︑逆である︒現在ディジタル・コンピュータを使ってある法律の計算化とそ

れに基づいて生成される法的判断のプロト・モデルを作製する研究が進められているが︑

ので

ある

何れにせよフィーヴェークは︑相前後する二つの文章によって自已憧着に陥っているのである︒﹁原理的には可能だ﹂

と言うことと︑﹁原理的には困難でない﹂と述べることとの間には架橋し難い概念

L

の懸隔があることは明らかである︒

﹁原理的には可能だ﹂という言葉には﹁たとえ事実上困難であっても﹂という言外の含みがあるからであ

法の中核命題としての諸公理はなるほど論理的には任意

( l

o g

i s

c h

wi

ll

ku

r)

であることに変わりはない︒そして︑他でもなくまさにこ

の諸公理を選ぶ思考の操作は[⁝・:︺一切の危険を伴う︒これらの諸公罪は正義間題に答えを出さねばならないからである︒これ︹法体

系の諸公理の選択︺に続く手続きはもはや法の探求

(R

ec

ht

su

ch

en

)ではなく︑法適用

(R

ec

ht

an

we

nd

en

)

にすぎない︒以上のことは

②右の引用冒頭で︑

︑︑

︑︑

︑︑

フィーヴェークは﹁演繹的な体系化は原理的に決して困難ではない﹂と述べているが︑実際に

その反転像も忽ち狂ってくるのは致し方のないこと

クにその必要があったのは︑ただ︑彼が標的とする﹁公理論の虚像﹂﹁トピク論﹂を構成するために

う︒その意味で︑

フィーヴェークの論難は非常に現実離れをしている

︵時

代錯

誤で

ある

と言っても過言ではなかろ その完全性を間題にする余地はまず無い︑と言ってよかろ

14  3・4 

‑ ‑ 8 3 0  

(香法'95)

参照

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