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法 と 論 理

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(1)

前置き 序 ホ ー ム ズ 判 事 の 標 語 第 一 章 論 理 に つ い て の 誤 解 第 一 節 概 念 法 学 と 論 理 第 二 節 詭 弁 と

﹁ 形 式

﹂ 論 理 第三節文法・記号論と論理︵以上本号︶

第 四 節 公 理 論 と 論 理 第 五 節 推 理 の 構 成 要 素 第 六 節 包 摂 と 代 入 第 七 節 方 法 論 と 論 理 第 八 節 二 つ の 演 繹 主 義 第 九 節 あ る 法 論 理 学 者 へ の 回 答

第 一

0

節 ま と め

法 と 論 理

. 

法 論

九 九

第 二 章 法 論 理 の 周 辺 第 一 節 先 験 的 論 理 学 と 形 式 論 理 ー 包 摂 論 に 関 連 し て 第 二 節 弁 証 論 と 論 理

1

対話的合理性に関連して 第三節ファジー推理と論理││修辞学的法学に関連して 第 四 節 学 習 す る 械 械 と 論

i

例からの推理に関連して 第 五 節 自 然 言 語 の 論 理 と 形 式 論 理

結語

論理の誤解を中心にした序説

[

10‑3・4‑4 2 7  

(香法

' 9 1 )

(2)

くの もし学生諸君が様々の学問の歴史を遡ってみれば︑

ここで扱う誤解の類も︑単に

︵後の時代から見ると︶ いかに多 きるものではあるが︑ ﹁僅かの注意﹂で以て理解し避けることので に足を踏み込んだ頃︵尤も︑現在も基本的に

道徳に関して私がこれまでに出会ったすべての体系において︑︹⁝⁝︺それらの体系を説く者は︑始め暫くの間︹⁝⁝︺神

の存在を確立し︑あるいは人間界の諸事象に関するいろいろの考察を行う︒しかし突然︑︹⁝⁝︺私が出会う命題はすべて︑

︑ であるとかでないという︹それまでの︺命題の通常の繁辞の代わりに︑べきである又はべきでないで結合され︹た命題に変わ り︺︑そうでない命題には︹⁝⁝︺出会わなくなるのである︒この変化はこれを看取する者がないとは言え︑極めて重大な事

︑︑

︑︑

柄である︒何故なら︑このべきであるあるいはべきでないは︑断言の新しい関係を表現している︹からである︺︒︹⁝⁝︺いか

にしてこの新しい関係がそれと全く異なる他の関係から導きだされうるのか︑その理由︹⁝⁝︺は全く想いもつかないことの

ように思える︒︹⁝⁝︺この僅かな注意は道徳性についての一切の卑俗な体系を覆すであろう︒

D

・ヒ

ュー

香川大学法学部の創立一 0 周年記念論集に投稿するに当たって︑

も閲読してもらえるようなテーマを選び︑

(2 ) 

にした︒実際︑本稿で取り上げる問題は︑私が初めて法学部︵大学院︶

は 変 化 し て い な い が

︑ 法 学 部 に 蔓 延 し て い た

︑ 論 理 と い う も の に 対 す る 従 っ て

︑ 法 学 方 法 論 に も 関 連 す る 誤 解と混乱である︒それらの誤解や混乱はある意味では些細なものであり︑

その僅かな注意を欠くと大きな過誤を惹き起こす類の︑その意味では重要な過誤なのである︒

この種の誤解や混乱によって

﹁無駄な﹂努力や言葉が費やされたかを如実に知ることができるであろう︒事実︑

置 き

かつ︑学生諸君にもできれば理解してもらえるような体裁で執筆すること

どんな主題を選ぶか少し迷った末に︑学生諸君に

1 0 0  

10‑‑3・4‑4 2 8  

(香法

' 9 1 )

(3)

法と論理・方法論ーー論理の誤解を中心にした序説ー一{ー)(守屋)

ら ︑ 値すると思われるのである︒ 学生諸君が陥り易いだけでなく︑立派な研究者さえも大抵の場合に臆面もなく陥っているが故に︑

と い っ て も ︑

われわれは誤ることによってしか前進することができない︑

銘記すべきであろう︒その意味で︑誤りを犯すということは無駄ではない︒

一体その誤解されていると言われる当の論理とはどんなものなのか︑終始気になるか

もしれない︒しかしそれについては︑本稿の終り近くまで論じないことにする︒論理とは然々のものだ︑

に定義してかかるよりも︑様々の問題点を整理しながら︑徐々にイメージを固めていただく方がよかろう︑

ホームズ判事の標語

プラトンの学園︵アカデメイア︶における学頭︵プラトン︶

書かれていた︑

の戸口には︑﹁幾何学を知らざる者は入るべからず﹂と

(3 ) 

と伝えられている︒この一見奇妙な隻句は不用意にも屡々実話として語り継がれているが︑実は︑非

常に後の時代に作られた逸話であって︑

注釈の中に見られ︑

ま た

それ以後の若干の資料の中にも出てくるようであるが︑ アリストテレスの著作﹃魂について﹄に対する紀元六世紀のフィロポノスの

(4 ) 

プラトンと同時代の証言はない︒

もちろん︑これが実話として伝承された裏に︑数学︵算数︶︑幾何学︑天文学︑音楽理論などの数学的諸科学を哲学研

究のために不可欠の予備学としたプラトン自身の思想やプラトン注釈家達の記述が背景としてあってのことであるか

この逸話に一定の真実が含まれていることは広く認められている︒

以来︑学園の標語には事欠かないのであるが︑今日︑

るからである︒

読者は︑本稿を読み進む間︑

1 0

  ということを

と天下り的

と思われ

アメリカのあるロー・スクールのホールの玄関には︑﹁法の生 一層取り上げるに

10-3• 4‑4 2 9  

(香法

' 9 1 )

(4)

ホームズの標語は自明の真理

( t r u

i s m )

のように受けとられてきた︵し︑また︑紛れもなく一定の真理を

含む故︑異論の余地のない命題に翻案することは容易である︶が︑それは論理に対する誤解の上に成り立つ

t r

u i

s m

と も

か く

う︑と考えることは許されよう︒ ること請け合いである︒私も︑法学部に籍を置いた頃︑この常套句の偏向した解釈と︑ に辟易した記憶がある︒現在でも私を﹁法律実証主義者﹂ないし﹁概念法学者﹂と見倣している人物は少なくないよ う

で あ

る ︒

つまり︑法の﹁論理﹂を研究すれば︑

る ︒ 従 っ て ︑

それが醸し出す異様な雰囲気 それだけで︑右の様な誤解を受けるに充分なバイアスが法学徒の間

には存在しているのである︒幸い私は︑法律実証主義者でも概念法学者でもなく︑終始その逆であった︒

そもそも概念法学者が論理を誤解していたのであり︑概念法学の批判者達もまたその点で何ら選ぶところがない︒

人は︑かつては論理を法の創造主として奉り︑今は法適用の歪みを論理に帰責する︒それ故にこそ︑概念法学という・

歴史的動機は理解できるが基礎づけの極めて曖昧な方法が成立ち︑他方で︑奇妙な概念法学批判もなされうるのであ

﹁論理﹂に対する公平な認識に立脚することによって︑法学方法論に関する誤った観念を除去しうるだろ

九 割

以 上

はこの標語の ︵一定の解釈の︶信者であるから︑

かかる信徒でない少数派は法学部で肩身の狭い思いをす

わが国の法学部でも︑ と人々に理解されてきたことは事実のように思われる︒ が注目される︒

それはとにかく︑ 命は論理に非ずして︑経験なり﹂

この標語も︑プラトンのもの程直戟的ではないにせよ︑ という標語が高々と掲げられている︒言うまでもなく︑

O l

i v

e r

  W e

n d

e l

l   H

o l

m e

s ,

  I I

) が残した言葉である︒重点の置き処がプラトンの場合と比べて︑見事に逆転しているの

一定の禁制を︑真理の体裁

をとった間接的禁制を含んでいる︑ と言えよう︒少なくとも︑﹁この真理に懐疑する者は法学徒として不適格である﹂

ホームズのこの標語は常套句

( t o p

o s )

の一っとなっており︑現在︑法学徒の圧倒的多数︵優に

かのホームズ判事

( J u s

t i c e

1 0  

10-3• 4‑430 

(香法

' 9 1 )

(5)

法と論理・方法論—ーー論理の誤解を中心にした序説—-+-) (守屋)

る ︑

と期待したいものである︒

そこでまずは︑

と 思 わ れ る ︒

ホームズの右の隻句を︑

︵岩

波書

店︑

( 1

)  

Da

vi

d  H

um

e,

A  

T r e a

t i s e

  o f

u  H

ma

n  N

a t

u r

e ,

  1

7 3

9 ー

4 0 .

大槻春彦訳﹃人生論﹄

には︑意味が通り易いよう︑守屋が手を加えた︒

( 2 )

しかし︑議論の途中で使われることになる論拠に関しては︑過度に難解にならない範囲内で︑通常の学術情報︵参考文献等︶を挙 げることにしたい︒より進んだ関心にある程度は応えられるであろう

( 3

) たとえば一七世紀の哲学者デカルト

( R

e n

e

D e

s c

a r

t e

s )

は︑この隻句をさりげなく使って︑論究の手懸りとしている︒﹁精神指導の

規則

Re

gu

la

e

ad

  di

r e

c t

i o

n e

m   i

n g e n

i i ﹂(﹃デカルト著作集﹄︵白水社︶第四巻︶︑二七頁︒この点は次の訳の方がはっきり見てと

れる︒野田又夫訳﹁精神指導の規則﹂︵岩波書店︶︑二七頁︒

( 4

)

田中芙知太郎﹃プラトン﹄︵岩波書店︶︑ー︑一︱二頁以下︒広川洋一﹃プラトンの学固アカデメイア﹄︵岩波書店︶

1 0

頁︒

Ne

al

W.

  G i

l b e r

t ,  

l

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a n c e

Co

p t s

o f

M

 

ミ 呈

p .

8 0 0 .  

( 5

)

プラトン﹃国家﹄︑第七巻︑六章

│t

一八

章︑

52

1C

‑5

41

B

(田中芙知太郎訳﹃プラトン全集﹄︵岩波書店︶︑第一︱巻︶︒

( 6

)  

O l

i v

e r

  We

nd

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l  H

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s ,

he

  Co

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on

  La

w,

 (

B o

s t

o n

,  

1 8   0 0 l )   •

p .   1 .  

( 7

)

﹁法の生命は論理ではなく︑経験であった﹂という文が二通りに解釈できることは︑簡単に看取できる︒すなわち︑①論理と経験 とを二者択一的に理解した上で︑経験を拾って論理を捨てる解釈と︑②論理と経験を非排他的に理解した上で︑経験に重心をかけ る解釈である︒②の解釈の方が明らかに健全であるが︑わが国では管見する限り︑圧倒的に①の解釈が採られている︒ホームズの 見解もその文言をあれこれ照合する限り︑①の見解に近いと言えるかもしれない︒しかし︑ホームズ自身の行動は︑極めてドグマ ティックであって︑自分の原理的見解を委細かまわず論理的に展開して行った︑という評言が一方にあることは興味深い︒たとえ ば ︑

Gr

an

t G i

l m

o r

e ,

T  

he

  De

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h  

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C o

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e   U n i v e r s i t y

  P r e

s s ,  

1 9 7 4

) ,  

p p .  

2 0 ‑ 2

1 ,  

1 1 2

ー1 1

3 参

照︒

ホームズの言葉は︑右の標語に限らず︑多くの場合両義的で︑表面に一斑の真理を含むと同時に︑裏に人を錯覚に落とし人れる 陥穿を秘めている︒それが人を魅了し︑魅了されてその言葉を呑み込んだ人間を痩れさせる秘密であろう︒その意味で︑非常に修

1 0

一九六三年︶︑四︑コごニー三四頁︒訳文

その背景を含めて簡単に考察しよう︒

あ る

ヒュームの言葉のように︑ ﹁僅かの注意﹂を払うことによって︑ ﹁卑俗な﹂観念を覆すことができ

10-3• 4 ‑ ‑ 4 3 1  

(香法

' 9 1 )

(6)

ホームズはその著﹃コモン・

第一節

辞的 ( r h e t o r i c a l ) なのである︒たとえば︑﹁どんな結論にでも論理的な形式を与えることができる︒︹だが︺方法と形式がいくら論 理的でも︑︹それから生まれる確実性は﹁幻想﹂にすぎないこともある︺﹂という言葉に魅惑される人は︑立派にホームジアンたる 資格がある︒最後の文は︑本稿でこれから問題にするレトリックの簡潔で典型的表現となっているが︑﹁論理的な形式﹂を﹁形式 論理﹂に︑﹁方法と形式が論理的である﹂を﹁形式論理の方法﹂に翻訳する人があれば︑その人は間違いなく錯覚に陥っているの

であ

る︒

ホームズについての若干の分析を拙稿﹁ケース・メソッドについての覚書﹂で予定している︵初回は﹃北大法学論集﹄第四

0

巻 ︑

第五・六合併号下巻(‑九九

0

年︶︑三三三一ニーニ三六四頁に掲載︶

概念法学と論理

この書物の目的はコモン・ローについて︱つの概観を提示することにある︒この仕事を完遂するためには論理の道具が必要である︒

ある特定の結果

( r e s u l t ) を導くためには︱つの体系の幣合性

( c o n s i s t e n c y

) が必要であるが︑それがすべての必要事なのではない︒法と

いうものの生命は論理ではなかったごてれは経験であった

(T he l i f e   o f  t he   la w  h as   no t  b ee n  lo g i c :  

i t   ha s  b ee n  e x p e r i e n c e )

︒時代 の感知された必要事︑広く受容された道徳的・政治的理論︑公然とあるいは無意識に抱懐される公共政策の直感︑さらには︑裁判官が 彼らの同銀と分かち合う偏見すらもが︑人々がそれによって統治されるべき法の決定に際して︑三段論法

( s y l l o g i s m

) よりもずっと大

きな役割を担うのである︒︹:・⁝︺法というものを数学の書物のように公理と系︹定理︺のみを含むかのように扱うことはできない︒

︹⁝⁝︺われわれは歴史と︑﹂

法に関する現存の理論を交互に参照しなければならないのである︒︿引用I L

1

ロ ー

の第一講冒頭を次のように書き出す︒

第一章論理についての誤解

1 0

10‑3・4‑432 (香法'91)

(7)

法と論理・方法論_論理の誤解を中心にした序説ー一←)(守屋)

て 同

罪 で

あ る

か く

て ︑

1 0

五 ここで﹁僅かな注意﹂が必 この点ではホームズと 右の文章を文字通りに続む限り︑間然するところは無い筈である︒法の発見︑ さらには発見された法の適用︵判決︶

において︑論理よりも経験が重要である︒しかし︑論理は︵法ないし法解釈の︶体系的整合性を要求し︑三段論法︵推

論︶を正しく適用することを要求するであろう︒実際︑不整合な︵法ないし法解釈の︶体系からは任意の命題を導き

うること︑は簡単に証明できるし︑三段論法はある限られた範囲でのみ妥当する推論ではあるが︑その正しさの説明

もついている︒しかも︑ホームズは論理だけでは不卜分だと云っているが︑論理が不必要だと断定してるわけではな

い︒むしろ︑彼の文章を文字通りに受けとる限り︑論理もまた法の決定に必要なのである ︵むろん︑余り重視した形

しかるに︑巷間に流布した解釈では︑経験と論理は二者択一的に理解され︑形式論理は誤っているから切り捨てる

べきだ︑ということになるが︑そこに到る推理は大略次のようなものである︒まず︑ホームズは︑︿概念法学

( B e g

r i f f

s j u r

i s p r

u d e n

z ,  

c o

n c

e p

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a l

  j u r

i s p r

u d e n

c e )

﹀ の

吟 暉

理 主

芸 戎

( l

o g

i s

m な

い し

p a

n l

o g

i s

m 汎論理主義︶を批判したのだ︑とい

うのがこの解釈の前提である︒ところで︑概念法学は法体系の︑︿完全性﹀を暗に前提して︑法発見や法的決定を既存

の法体系の論理的操作のみから導こうとしたが︑これは決定的な誤りである︒従ってまた︑法の形式的な論理操作は

同様に決定的誤りである︒このことは他でもなく形式論理の問題性を示している︑というわけである︒

ホームズの意図が概念法学的な論理主義を批判することにあった︑

それ以下の推論は混乱の産物である︒核心的な点は︑論理操作と論理そのものとの︑また形式的論理操作︵論理の形

式的適用︶と形式論理の不用意な混同である︒この混乱は要するに論理の誤解に帰因するが︑

要なのである︒

︵形式︶論理学に対する全般的な不信と拒絶反応が惹起されたが︑

跡 は

な い

︶ ︒

(6 ) 

という右の前提は間違いではあるまい︒しかし

10-3• 4‑4 3 3  

(香法

' 9 1 )

(8)

便 宜

上 ︑

引用文の第二段落から考察してゆく︒最後の文によって︑ パウンドが論理として観念しているものが 成論を少し検討しておこう︒

結果を機能的に観察することによって︑法準則が︑求められた事実上の結果にいかにして︑あるいはどれだけ到達しているかを知る ことは︑ホームズ判事が﹁法の生命は理性ではなく︑それは経験であった﹂と述べた時に考えられていたことである︒しかし︑われわ れが経験は理性によって発展させられうる︑という場合︑理性とは︹⁝⁝︺単にある種の論理的方法を意味するのではない︒形式論坪 によって発展させられた諸前提は︑決して合理性による吟味を受けて来なかったといってよい︒たとえば︑判決の絶対的・固定的準則 としての先例拘束の原則︹⁝⁝︺の合理的基礎は︑しばしばその準則自体の観点から説明されているのである︒︹つまり︑法の機能的 目的とか目的合理性からではなく︑法そのものの安定性とか法の内部的正義の視点だけから説明されてきたのである︒守屋註︺

理性と推理とは同一のものではない︒推理はそれだけで必ずしも合理的帰結に達するものでもなければ︑必ずしも理性に依って導か れるものでもない︒推理が合理的であるかどうかは︑それらが何から出発するか︑それがいかに行われるか︑またいかなる目的に向け られるかによっているのである︒推理は真の論究も連結の本質点に関する評価も欠く場合には︑しばしばある観念と他の観念との単な

(9 ) 

る組合わせであり︑外面的な連結である︒︿引用2

冒頭近くで次のように述べる︒ パウンドは講義﹃経験と理性による法発見﹄ の第三講﹁理性と法発見における推理﹂

前述のように︑

の型に類型化する

﹁ 名 の

判事

( J u s

t i c e

J e

r o

m e

  F r

a n

k )

のホームズに対する適切な評言を紹介するが︑ ここではパウンド

( R

o s

c o

P e

o u

n d

) の 賛

ホームズの右の標語に対する賛成論は実に多く︑ 概念法学とその方法論の歴史的検討は別稿に譲り︑以下︑この混乱の具体相をいくつか見てゆく事にするが︑まず︑ 現在流布している論理的混乱の例をいくつかランダムに取り出して検討し︵第二節第九節︶︑

︵ 第

一 〇

節 ま

と め

︶ ︒

批判は少ない︒後で︵第一章第六節︶︑ フランク

そ の

後 ︑

混乱を若干

1 0

10‑J・4‑434 (香法'gl)

(9)

法と論理・方法論――—論理の誤解を中心にした序説ー一+-) (守屋)

論理的帰結を導く道具︵オルガノン︶

で は あ る が ︑

その帰結が によって半ば準備され︑

( P e t r u s   R a m u s ,  

1515 │ 

7 2 )

によって発見された

b a r b a r

a 第二式︶で事足りるかもしれない︒例えば刑法二三五条﹁他

人ノ財物ヲ窃取シタル者ハ窃盗ノ罪トナシ十年以下ノ懲役二処ス﹂

︵誤解に汚染された︶名辞論理に緊密な関連をもっているのである︒

パウンドの執筆時においてすら︑実際に知られていた論理体系のほんの一部に過ぎない︒重

パウンドが論理学をこのように狭く理解することによって︑ ﹁真理の探究﹂や﹁連結の本質点に関する評

価﹂を行うに必要な論理体系の多くを完全に慮外に置いたということである︒尤も︑

リストテレス以来﹁いかなる前進もなしえなかったし︑従って︑

( 1 2 )  

える﹂と無造作に語った程だから︑ パウンドが論理学の発展にまるで無知だったとしても仕方ないことかもしれない︒

それにしても︑プラグマティズ法学の唱導者たるパウンド加︑

S a n d e r s   P e i r c

e ) の論理学・探究法上の仕事を皆目知らなかったとすれば︑

マティズムは少なからぬ論理学者・記号論学者を擁してきたのであるから︒

しかし右の点を除けば︑引用文第二段落は論理学的に見て大略異論のないものである︒

要 な こ と は ︑

し か

し ︑

三 段 論 法 は ︑

処せられる︒確かに︑概念法学の方法は ホ的三段論法

s y l l o g i s m u s e x p o s i t o r i u s

( W i l l i a m f   o   O c k h a m

.  

?

1 34 9/ 50

)

b a r b a r

a そのものではなく︑

1 0

七 あらゆる外見からして完結し完成しているように見 かのカントですら︑論理学はア つまり三段論法︵クラス論理︶

において判決が直接一定の法規に基づくことを示すには三段論法第一格第一式︵いわゆる

b a r b a r

a ︒但し実際には︑

ドゥンス・スコートゥス

( J o h a n n e s

辞論理

t e r m

l o

g i c

﹂と呼ばれるものの一種︑

D u n s S   c o t u s ,

1266

 

13 08

)

メランヒトン

( P h i l i p p M e l a n c h t o n ,  

14 97

1 56 0)

などによって夙に論じられた﹁例

一六世紀半ばにフランスの人文主義者ラムス

に基づいて︑個々の窃盗犯は一 0 年以上の懲役に

﹁プラグマティズの父﹂

﹁ 合

理 的

︑ ︑

であることが判る︒成程︑判決の正当化

ウィリアム・オッカム

︵鶴見俊輔︶パース

( C h a r l e s

4)   (l  

片手落ちと言えなくもない︒実際︑プラグ

というのは︑論理は様々の

︑ ︑

︑ ︑

かどうかといった評価自体には関与しない

10-3• 4‑435 

(香法

' 9 1 )

(10)

では論理はどのように誤解されているのか︑ この主題にこれから入ってゆこう︒

丘 ︶

からである︒しかし︑ そうだとすれば︑引用文第一段落はまことに奇妙で︑後段の思想とは相容れないことが判る︒

特徴的なのは︑判決の絶対的︑固定的準則が形式論理によって発展させられた

だ ろ

う か

という断定である︒ しかし実際には︑形式論理に法や法学の原理を固定化したり絶対化し︑

する力は全くないのである︒論理は推理

( i n f

e r e n

c e )

のための道具であるが︑法や法学の対象を論定し︑その諸原理を

同定・評価するのは挙げて法と法律家の固有の仕事であって︑論理の関知するところではない︒今日まで他の社会科

かの特徴的タイプの推理があるが︑ 学や自然科学の諸分野は夫々固有の道具を推理のために工夫し・選び︑

︑ ︑

︑ ︑

それを基礎づけ・改良してゆくのではなく︑

定化に有責であると非難することは︑論理

︵学︶を法律家のスケープ・ゴートに仕立て上げるに等しい所業ではない

パウンドのみではない︒これまで法律家は︑ これを固持

かつ改良してきた︒確かに法律学にもいくつ

しかも形式論理が判決の絶対化︑固 たとえ無意識にせよ︑自らの決定を論理に仮託し︑決定の責

任を論理に転嫁してきた︒これこそ︑ある程度まで︑法律実証主義や概念法学の態度でもあったのである︒私は次の

自分の使い方の拙劣さを道具の所為にする大上を人は信用しない︒頗る鋭利な飽も金槌の代りにはならない︒むろん良い飽と悪い飽 とあり︑良い鉤に取り替えることは必要だが︑それとこれとは別のことである︒

論理の使い方を間違えているのは︑論理自体ではなく︑法律家である︒道具を適切に使わない法律家が︑自分の選

び方・使い方の不味さを道具の所為にすることはできないのである︒ ように書いたことがある︒ け

な か っ た

︵が︑決して合理性による吟味を受

1 0

10‑3・4‑436 (香法'91)

(11)

法と論理・方法論――—論理の誤解を中心にした序説ー一{ー)(守屋)

( 4

)  

( 3

)  

( 2

)  

おく

( 1

)

s

y l l o g i s m

' は本来︑広く演繹的推論を指すが︑現在では三段論法に限定して用いられる語なので︑

ホームズの念頭にあったのもその語義であろう︒

Ho lm es ,  Th e  C om mo

n  L

( 1 8 8 1 ) , p .   1 .  

すべてのことを

︵つ

まり

1 0

ここでも﹁三段論法﹂と訳して

任意のことを︶証明できる体系には何らの意義もない︒

一四枇紀の神学者・論理学者達は﹁形式的な矛盾を含む命題から︑いかなる命題も必然的に帰結する﹂ことを知っていた︒例え ば︑ドゥンス・スコートゥスは︑①任意の伶なる命題からは︑良い質駄的帰糾において︑いかなる他の命題も帰結する︑②任意の

真なる命題は︑良い質鼠的帰結において︑他のいかなる命題からも帰結する︑③形式的矛盾を含む命題から︑形相的帰結において︑

いかなる命題も導き出されうる︑ことを証明した︵但し﹁スコートゥス偽車

n﹂と呼ばれる書による︶︒このことを今世紀に再発見

したのはポーランドの著名な論理学者ルカシェヴィッチ

( J a n Lu ka si ew ic z)

であ

る︒

Lu ka si ew ic z,

On 

t h e   His to ry f   o   th e   Lo gi c  of   P r o p o s i t i o n s ,  

i n :   P o l i s h   Lo

gi c  19 20

‑1 93 9, e d   .   a nd   t r.   by t   S o r r s   Mc Ca ll ,  ( 1 9 6 7 ) ,   p .   8 3 .   p .   8 4 n .   ~W~tHsの知細叩5バ~あ}る。

堀江徹訳﹁命題論理学の歴史について﹂︵石本新訳編﹃論理思想の革命﹄所収︶一九

0

頁︑一九九頁註

( 4 5 )

尚︑右の①︑②が﹁質料含意のパラドックス﹂と呼ばれるものであるが︑本註に対応する本文で言及しているのは③である︒中

世論理学については︑

c f .

Er ne st .   A   Mo

od y, T,~  

h

zd Cミ

z s e q u e n c

einM

i

葵 ミ

[L og苔 ( 1 9 5

3 ) ︒

三段論法の解釈については論争があったが︑これについては後に第一章第八節で触れる︒また︑アリストテレスの三段論法につい ては第一章第五節でも触れるが︑取り敢えずここで︑いくつかの基本的研究内を学げておく︒読者の多くは論理学に深入りしたい とは思わないであろう︒しかし︑ある程度深入りしないと︑論理学の学問的性格を理解することはできない︒法律学にある程度の

研鑽を積まないと︑法律学の学問的性格を理解できないのと同様である︒].

Lu ka si ew ic z, A r   i s t o t l e ' s   S y l l o g i s t i c ,  

̀I mm [  h e   St

d '

言 .

nt of Mo de rn Fo nn d[ L o g i c ,   2n d  a nd   en la rg ed   ed . ,   ( 1 9 5 7 ) .   Ku rt   Ebb in gh au s. E  in   Jon na /e s  Mo de l!   de r  S y l l o g i s t i k   d e s  

A

o t e l e s , ( 1 9 6 4 ) .   Gu nt he r  P a t z i g ,  

Di e  A r i s t o t e l i s c h e  

s ̲  

̀  v l

l o g i s t i k 3 .   ,   v e r b e s s e r t e   Au fl   . .   ( 1 9 6 9 ) .   Pe te r  F .   S t r a v ; s o n ,  

b 〜I

m,  

d葵

[ i o n t O L o g i . ( d [ T l e o n P .

1 9

5 2 ) , e s p . h   c a p .   6 .   S t o r r s   Mc CA LL ,  A r i s t o t l e ' s   Mo da l  S y l l o g i s m s .   ( 1 9 6 3 ) .  

尚︑次の二冊の教科土口は︑博統的な近世・近代的論理内の体裁を借りながら︑伝統的論理学と現代論理学をバランスよく配慮し

た︵従って︑論理学に対する誤解に染まらぬ︶好人門書である︒方法論が組み込まれているのが近世・近代論理害の︱つの特徴で

ある︒近藤洋逸・好並英司﹃論理学概論﹂︵一九六四年︶︒

Mo rr is

R .

  C

oh en   an d  E rn es t  Nag

el ,  A n  In t r o d u c t i o n   t o   Lo gi c  a nd  

10-3• 4~-437 (香法'91)

(12)

( 6

)  

( 5 )  

Sc ie n

iC Me ih od 9( 19 34 , 1 9 6 4 ) .  

一定の言明体系の︿完全性﹀については後に第一章四節で触れる︒ホームズは別の論文で、例えば次のように述べている~

﹁私が︹ここで︺言及している誤謬は法の発展において働いている唯一の力は論理なり︑という観念である︒確かに︑最広 義においてはその観念は正しいであろう︒われわれが世界

( u n i v e r s e ) について考える上で基礎となる要諮

( p o s t u l a t e

) は

すべ

ての諸現象の間に︑その先行者

(a nt ec ed en ts ここでは原因のこと︶と後続者

(c on se qu en ts 結果︶の間に恒常的な屈的関係 があるということである︒もしこれらの恒常的関係を欠くような現象があれば︑それは不可解である︒そのような現象は原因

ー結果の法則の外に在り、そのようなものとして、われわれの思考能力を超え、あるいは少なくとも、それへと〔合理的に〗

推理したり︑それから推理することのできない何物かである︒︹⁝⁝︺

私が話題にしている危険は︑他の諸現象を支配している諸原理が法というものをも支配する︑という容認ではなく︑与えら れた体系︑例えばわれわれの法体系が数学のように行為の何か一般的な諸公理から構成できると︑という観念である︒これは

︹先の︺諸学派︹にとっては︺自然な誤りであるが︑この誤りはこれら諸学派に限られたものではない﹂︑と︒

引用文の前段で言及されているのは︑カント的カテゴリー論である︵これについては︑第二章第一節参照︶︒また︑後段でホー ムズが﹁先の諸学派﹂と言って例示しているのは①ホッブス

(T ho ma Hs ob be s)

︑ベンサム

(J er em yB en th am

)︑オースティン

(J oh n  Au st in

)および︑②法は時代精神の声

( t h e vo ic e  o f  t he   Z e i t ‑

g e i s t ) その他のものである︑と考える思想家達である︒前者 は︑法を宣言した最初の人物が裁判官である時にさえ︑すべての法は主権者から流出

(e ma na te

)すると考え︑後者は︑法は時代精

神その他︵例えば︑ドイツ歴史法学派の場合のような民族精神

Vo lk sg ei st

)からの流出の所産である︑とする︒そしてホームズは︑

この流出の過程や機構が一種の論理的展開の過程として観念された︑と言うのである︒

ここで︿論理主義﹀というのは︑認識論や数学基礎論におけるそれではなく︑社会事象の全体的関連やその歴史的発展の説明を

事象の︿概念﹀ないし︿本質﹀の論理的展開で償き換えようとする観念形態である︒その最も壮大なプログラムがヘーゲル

(G eo rg W.F•

Hegel)の弁証法(存在•本質・概念の三幅対)であったことは、周知のことである。G.W. 

F .   H eg el ,  W i s s e n s c l z a f t   d er   Lo gi k 

̀ 

( 1 8 1 2 .  

いわ

ゆる

﹃大

論理

学﹄

︶︑

d o . , En zy kl p  0

良 さ

dこ

︑ ph i[ o so ph is ch en v V   i s s c n s c l z f

ぎ 〜

E

rs te r  T e i ! .

  (

いわ

ゆる

﹃小

論理

学﹄

︶︒

何れも和訳がある︒手近な参考文献として︑武市健人﹃ヘーゲル論理学の体系﹄︵一九七

0

年︶

と︑

J

・イポリット﹃論理と実存

1 0  

10~-3·4- 4 3 8  

(香法

' 9 1 )

(13)

法と論理・方法論ー一論i理の誤解を中心にした序説ー一{ー)(守屋)

( 7

)  

ー ヘ ー ゲ ル 論 理 学 試 論

︵ 渡 部 義 雄 訳

︑ の み を 挙 げ て お く

︒ ヘーゲルの企図と見識をまるで的外れなどと言うことはできず︑むしろ典味深いものである︒﹃小論理﹄に加えられた・講義中 の口頭による遺補は︑ヘーゲル弁証法に親しむのに手頃な手懸りを与えてくれるのであろう︒しかし多くの人は︑これらを論理学 的作品として読まないであスう︒というのは︑右のような論理主義では﹁論理学﹂は一種の存在論であり︑歴史哲学であるからで

ある

と ︒

ころ

で︑

一九

七五

年︶

ホームズはさらに次のように続ける~

裁判官の間の意見の不一致は︑単に一方か他方が彼らの計算

(s um

)を正しく行っていないことを意味するかの如くに︑ある

いは︑もし彼らが一層の労苦を惜しまないならば必ず一致が得られることを意味するかのように︑しばしば非難される︒この 思考様式は全く自然である︒法律家の訓練は論理における訓練である︒類推︑区分︑演繹は法律家が最も親しんでいる推理で ある︒司法決定の言葉は主として論理の言葉である︒そして論理的な方法と形式は︑すべての人の心に宿る確実性と安定性へ の憧れにおもねるものである︒しかし確実性は一般に幻想であり︑安定性は人の定めではない︒論理的形式の背後には競合す る立法上の諸根拠の相対的な価値と菫要性についての判断が横たわっている︒︹⁝⁝︺あなた方はいかなる結論にも論理的形

式を与えることができる﹂︑と︒0

W .

 

H

ol me s, T  he   Pa th   of   th e  L aw ,  i n  

: d o

. ,   C o l l e c t e d   L

eg al   Pa pe rs P   ( et er   Sm it h,  1 9 5 2 ) ,   p p .   1 79

1 8

1 . 最後の一節が序の註

( 7

)

で引用したものである︒

﹁概念法学﹂という呼称は︑概念法学を自称する学派があったということではなく︑一九世紀ドイツの︿歴史法学﹀に一時加担し たが︑やがてこれを方法論的に批判するに到ったイェーリンク

(R ud ol ph vo n  J he ri ng

が︑かつての同僚に名付けた綽名であるこ)

とは︑改めて言うまでもない︒

R. Jh er in g, G   e i s t   d es  r o n z i s c l  

 e

n  R ec ht

sミ

dd en re rs ch ie

ミd

z e n S t u f

ミ i

〜 s e i n e ,

En

[〜 ︷ ぇ ︐

k[

z g , 2e r  T h e i l , 2   e  A b th ei lu ng ,  1 .   A u f l . ,  

1 0 0

5 0 0 ' S . 3 3 4

4 1

4 .

t

夕ぃというものは作為的標的に向けられ易く︑その動機は比較的明らかな場合 にも︑何をもって︑何処までを標的とすべきかが︑使う人によってずれる場合が多い︒したがつて︑この語︵概念法学︶を用いる 場合にも︑多少とも理念型であることを意識しておく必要がある︒歴史卜の概念法学についての基本的参考文献を幾つか挙げてお

く。磯村哲『社会法学の展開と構造』(一九七五年)、特に、第一編第一章、三—二三頁、および第二編、ロ―-I一五八頁。矢崎光

囲﹁法実証主義﹂︵尾高朝雄・峯村光郎・加藤新平編﹃法哲学講座﹄第四巻所収︑一九六

0

年︶︒しかし何と言っても重要なのは︑

10-3• 4‑439 (香法'91)

(14)

( 1 0 )  

( 9 )  

( 8 )  

先に挙げたイェーリンクの著作と︑以下のものである︒

Eu ge nE h r l i c h ,   Gr un dl eg un g  d er   s o z i o l o g i e   d e s   R e c h t s ,   ( 1 9 1 3 ) d   ;  o . i  D e  j u r i s t i s c h e   Lo

g姿

( 1 9 1 8 ) .

およ

び︑

Ph il ip Hp ec k

の諸論文︒最後の三者は翻訳されていて︑何れの翻訳もそれ自体労作である︒河

上倫

逸︑

M

・フーブリヒト共訳﹃法社会学の基礎理論﹄(‑九八四年︶︒同共訳﹃法律的論理﹄︵一九八七年︶︒津田利治訳﹃ヘック

利益

法学

﹄︵

一九

八五

年︶

また

︑ We rn er Kr aw ie tz   ( H r s g . ) T ,   he or ie   un d  T he ch ni k  d er   B e g r z : ( f s j u r i : , , p r u d e n z   ( 19 76

)はいくらか

s o u r c e

ぎ品の性格を兼'

ねた論文集で便利であり︑

H .

Co in g  u .  

W .  

Wi lh el m  ( H r s g . ) ,   W i s s e n s c h a f t   un d  K o d i j i k a t i o n   d e s   P r i v a t r e c h t s   i r n   1 9 .   ]d hr

h

id eH 9B d.

Iー

l I I 9 ( ] 97 6‑ 19 77

)は概念法学の醒めた評価のために欠かせない論文集である︒広く認められているように︑

原則論として見れば︑﹁法の完結性﹂は﹁裁判官による法創造の禁止﹂と﹁裁判忌避の禁止﹂を両立させるために必要な︱つの想

定︑特に裁判官にとっては避け難い想定であったのである︒概念法学も所詮︑一時代の子であったと言えよう︒

ホームズのプラグマティズムないしは功利主義につき次を参照︒

Ho lm es , Pe ir ce   an d  L eg al   Pr ag ma ti sm   (a no ny mo us   no t e .   b u t ,   i n   f a c t ,   b y  J .   D.   Mi l l e r ) ,   8 4  Ya le   La u:   ]o

w nd

[ , 

p .   1 1 2 3

£ .   ( 1 9 7 5 )  

H •

L .  

Po hl ma n,  

s t  

i c e   O l i v e r   V V e n d e l l   H ol me s  a nd   Ut i l i t m '   iミz

]u ri sp ru de

n

( 1 9 8 4 ) .

R .  

Po un d,  L ai v  F in di ng

f J  

l J o

ug l E xp

ミ .

C1

ミミ

idK

s o n , ( 1 9 6 0 ) ,  

海原裕昭訳言経験と理性による法の発見﹄

四ー八五頁︒訳文は少し変えさせていただいた︒

ォッカム達の仕事にも実際には︑

26 9

n

:

ストア学派の論理学の中にその先樅があった︒

c f .

J. M.   Bo ch en sk i, F  or ma te  L o g i k ,   ( 1 9 5 6 ) ,   S .   ba

rb ar

a第二式というのは︑固体名辞と単称命題を小前提に含む

ba rb ar

aの補足型であって︑法律家には全く馴染みのものであ

る︒これはラムスによって取り上げられ︑法学に特徴的な推論式として定着して行くが︑ラムス自身はその妥当性について何らの

証明も与えていない︒今日では︑限量述語論理学の中で説明される︵詳しくは︑第一章第六節参照︶︒この論法を単位クラス

( u n i t c l a s s ・

単一要素だけから成る集合︶を用いて︑アリストテレスの三段論法に統一したのは︑一七世紀イギリスの数学者

Jo hn Wa ll is  

であ

る︒

He in ri ch Sc ho lz ,  Ab ri B  d e 1 ︑ G e s c h i c J [ d   e  er   L o g i k ,   D r i t t e   A u f l .   (K ar l  A lb er ,  1 9 5 9 ) , S .     39

‑4 0;  I .M .B oc he ns ki ,  Fo rm

L o g i c , P .   2 3 2 .  

尚︑ラムスの論理学については︑右のショルツの﹃論理学史綱要﹄の他︑山下正男﹃論理学史﹄︵一九八二年︶︑

i l l i a m an d  M ar th a 

︵一

九六

九年

︶︑

)¥ 

10‑3・4‑440 (香法'91)

(15)

法と論理・方法論ー一論理の誤解を中心にした序説ー一{→)(守屋)

( 1 1 )

  K n e a l

e ,

T  

he

  D e

v e

l o

p m

e n

t   o

f   L

o g

i c

  ( 1

9 6 2 )

 

; Wi

lh

el

m  R

i s

s e

̀ 

 

Di

e  L o g

i k

e   d

r   Ne

百 匡

1 . B

a n

d ,

  ( 1 9

6 4 )

に詳しい︒本稿では第二

章第一節で再びラムスに触れなければならない︒

ショルツの﹃論理学史綱要﹄は比較的小冊子︵原著で全七八頁︶であるが︑論理思想を歴史的に深く分析した名著で︑必読文献

である上︑山下正男訳﹃西洋論理学史﹄(‑九六

0

年︶は︑訳者による註と文献解題が追加されていて︑頗る有益である︒私はこ

の訳書の出版直後にこれを手にし︑非常に教えられた︒

アリストテレスを超え論理学を決定的に拡張したのは一九世紀後半のドイツの数学者フレーゲ

( G

o t

t l

o b

F r

e g

e )

の著述

'

B e g r

i f f s

h r i f

t

(概

念記

法︶

9︵

1 9 7 9

) で︑副題﹁純粋思考のための︑算数言語をモデルとした記号言語﹂に示されているように︑論理学によ

る算数の基礎づけのため︑算数言語を自由に表記でき︑かつ数学での問題思考を遂行するに十分な推論規則を備えた新しい言語体

系を創出するのが目的だったのである︒というのは︑旧来の三段論法では数学で用いられる文や推論を再現・表記することができ

ず︑算数における論理操作に十分な道具が欠けていたからである︒ここでは詳述しないが︑事は単に算術の基礎づけにあったので

はなく︑数学全体の基礎に関わっていたのである︒それにしても︑この言語は日常の言語活動︑特に日常的に推理したり︑問題思

考を遂行する媒体としても広く活用できるものであったことが︑われわれにとっては重要である︒今日︑既存の論理学の体系だけ

では︑日常の言語活動を十分に再現できない︑といわれているのと︑ある意味で類比的ではあるが︑フレーゲの場合と今日の情況

とは性格的にかなりの隔たりがある︒今日の問題状況については︑第二章第五節で一瞥するが︑フレーゲの発想については︑著名

な教

科書

D .

H i

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t   u .  

W.

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n,

G r  

:   ミミ誌

g e

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r [

l e

o r ミ

i s c h

e n L

og

苓の各章の導入部の説明が有益である︒石本新・武

尾治一郎共訳﹃記号論理学の基礎﹄は本書第六版の翻訳である︒本書第三版には伊藤誠氏による︑同じ体裁・同じ出版社の訳があ

るが︑両版とも重要で︑両版を比較することは有益である︒フレーゲに関する邦語文献としては︑藤村龍雄訳﹃フレーゲ哲学論集﹄

︵一九八八年︶︑野本和宰﹃フレーゲの言語哲学﹄︵一九八六年︶が有用である︒ただ﹃概念記法﹄は藤村訳には収められていないので、次のような包ミ、ミbookに当らねばならない。]edirdnHW0m(ミ)9FromFr~etoGdel9(1967), 

pp . 

1 ‑

8 2

;  

K a

r e

l  

Be

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Lo

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  K r e

i s e r

( H r s

g . ) ,

  L

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x t e ,

  ( 1

9 7 1 )

S,  

. 

0 0

1 0

6 .

( 1 2 )  

I

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l  K

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e  z u r

w   z

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n   A

u f l .

,   S

. 

V I I I

.  

( 1 3 )

パウンドについては︑鵜飼倍成﹃現代アメリカ法学﹄︵一九五四年︶参照︒

( 1 4 )

パースについては︑上山春平編訳﹃パース︑ジェイムズ︑デューイ﹄︵﹃枇界の名著﹄第四八巻︑中央公論社︑一九六八年︶︑編者

10-3• 4‑4 4 1  

(香法

' 9 1 )

111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111● 11111111111,111111,111111,1111,1111111111,,,,  ""‑"""""" 

(16)

次の文章は法律学関係で一般的に見られるタイプの文章であり︑

形式的法治主義︹天皇制法治主義︺の形式性は︑立法と執行の両面に亘って貫かれた︒立法の面でいえば︑法律を以てしなければ人

民の自由を奪いえないという法治主義の原則は︑これを形式的に受けとめる限り︑逆に︑法律を以てするなら︑いかようにも人民の自

由を奪ってもいい︑という形式論理の理屈を生みだす︒︹⁝・:︺この形式論理を支えていた考え方は︑こうである︒臣民の自由や権利

二 節 詭 弁 と

る ︒

﹁形式﹂論理

その意味で典型的なものである︒

によ

る解

説︒

t

山春平﹃弁証法の系譜﹄(‑九六三年︶︒鶴見俊輔﹃アメリカ哲学﹄田︑

m

︵一

九七

六年

︶︒

Ja me

K .  

s Fe ib le ma n, A  n   I n i r o d u d i

ミ こ

o[ he   P h i l o s o p h y   of h  C

ミ ︑ [

e s   Sandspei.nm(1946)•

Ka rl  0 .

  A

p e l , D  er   De nk we g  d e s   Ch

l e s S .   P e i r c e ,   ( 1 9 7 5 )  

• Ni ch ol as   R e s c h e r , P e   i r c e ' s   P h i l o s o p h y   o f  S c i e n c e ,   ( 1 9 7 8 ) .  

パースの記号論・論理学について︑米盛裕二郎﹃パースの記号論﹄

︵一九八一年︶︒プラグマティズム全般について︑

I s r a e l S c h e f f l e r , F  ou r  Pr a g

m a t i s t s , (   1 9 7   4 ) .   Al fr ed   J .   A ye r, T  he   Or i g i n s   o f 

P

gm at is m, ( 1 9 6 8 ) .   Mo rt on   G.   Wh it e, T  he   Or i g i n   of   De we y' s  I n s t J

ミ 箋 ミ ミ

i s m , ( 1 9 4 3 )   ;  d o . ,   P ra gm at is

m

1d t h e   A m

r i

ミ ミ

Mm d̀

︵1 9

7 3 ) .   d o . S ,   o c z

・ ミ

Th ou gh t i n   Am er ic a,  ( 1 9 4 7 ,   1 9 7 6 ) .  

早 取

碑 区

の 圭

E物の第五章で︑ホームズが扱われている︒

( 1 5 )

評価過程がいくつもの試行錯誤︑往復運動︑フィード・バックを含む場合には︵原理的には常に含むのであるが︶︑その限りで論

理が関与することになるから︑評価の﹁合理性﹂に対する責任の一斑を論理が担うことになる︒

いきなり法学方法論に入ってゆくことは必ずしも適当でないが︑若干の参考文献を挙げておくことにする︵これらの文献を検討

することは︑これまでの註と同様︑本稿の函外にある︶︒

Il ma r T am me lo ,  R e c h t s l o g i k   u nd  m

en·eGCrechhgKci[•(1971).

Ju rg en   Ro di g, D   ie  T h e o r i e   d e s   g e

, ︑

i . c h l l i d

i nE}

斎 ミ

n t n i s v e r f a l z r e n s , ( 1 9 7 3 ) ・

吉野一﹁法的決定に至る推論の論理構造﹂︵﹃慶応義塾創立―二五年記念論文集〗所収)。同「正義と論理ー—ー正義推論における演繹的方法の役割」(『法哲学年報・一九七四年」所収)。同

﹁裁判における正当化の論理構造モデル﹂︵﹃明治学院論叢第三︱一号﹄所収︶︒ただし︑ここで示した文献は法学方法論一般に亘

るものでも︑また法論理に射程を限定したものでもなく︑法学的方法の中での論理の位置と意義を特に考察の対象としたものであ

一 四

10-3• 4‑442 

(香法

' 9 1 )

(17)

法と論理・方法論―-—論理の誤解を中心にした序説ー一{ー)(守屋)

つ に も 拘 ら ず

ならば

q

一 五 q との間に﹁ P P と q P が成り立つか いま二つの命題を P ︑

が︑別に後段︵︹⁝⁝︺

の 後

で与えられているからである ﹁法律を以てすれば︑人民の自由を奪ってよい﹂とする論拠 必ずしも真でないのであって︑

は︑天賦の権利ではなく︑天皇の思召しによって︑とくに臣民に与えたものである︑それ故︑同じ天皇の命令である法律で︑どのよう

にこれを制限しようと︑もともとである︑というのであった︒︵傍点︑守屋︒字体を一部分変えた︒︶︿引用3

全体の論旨に異議を感ずる人はまずいないであろう︒しかし議論の進め方︑特に前段︵︹⁝⁝︺の前︶の議論に論理

的誤謬を認める人は多いであろう︒﹁法律を以てしなければ人民の自由を奪いえない﹂ということから︑

す る

な ら

いかようにも人民の自由を奪ってもいい﹂ということは︑形式論理では導けない︒周知のように︑

(2 ) 

で あ

る ︒

かかる推理は﹁形式論理の理屈﹂

にも拘わらず︑全体の論旨を異とするに足りないのは︑

この前提から﹁法律を以てすれば︑

し︑成程この結論は後段の論拠と形式論理に支えられているが︑ 人民の自由を奪ってよい﹂と結論することが形式論理によって可能である︒しか

い︒仮に論理が前提に支えられているとすれば︑結論は先取りされていて︵つまり︑前提のみに支えられていて︶︑推

は前提から独立していなければならないし︑独立に扱われねばならない︒ 論は無用である︒論理︵推論︶

︑ ︑

論理とは二つの命題の間に成立するある一定の関係である︒

らといって必ずしも q が成り立つとは言えない︒

か ら 言 え ば ︑

﹁ 後 件 肯 定 の 誤 謬

﹁ 法 律 を 以 て

﹁ 逆

﹂ は

︵﹁国民の自由や権利は︑天賦の権利ではなく︑⁝⁝﹂︶︒

﹁形式論理がこの論拠に支えられている﹂わけではな

q と

し た と き

︑ この場合﹁

P ならば q ﹂︵記号でざ←

q '

と 書

い て

お く

︶ は

︑ ︑

︑ ︑

との間の論理的関係を表していない︒次に﹁ P ならば q

﹂ と

P が共に成立っている︵前提︶とすると︑

︑ ︑

しかも P

︑ な

ら ば

q ﹂ ( ︵

P

q )

a

 

n d

 

p

← 

q )

が常に成立ち

︑ ︑

q ﹄が成立たないことは決してなく︶︑ しかも P ﹄が成立

この場合には前提

( (

P

q )

a

 

n d

 

p

)

と結論

( q )

との間に論理的

Pならば

q

︵ 換

言 す

る と

10‑3・4‑4 4 3  

(香法

' 9 1 )

(18)

﹁封建的哭約とその解体﹂という論文の一節である︒ け容れた原則から﹁形式的に推理すること︑ 関係が成立している︒ただ︑前提が真で結論が偽なることは﹁決してない﹂と一口に言っても︑

一 階 述 語 論 理 学 ︑

なった・高度に技術的な規定を必要とするのであるから︑単純に考えてはならない︒それはともかく︑

合の前提と結論の間の﹁ならば﹂を論理的含意

( l o g

i c a l

i m p l

i c a t

i o n ,

  e

n t

a i

l m

e n

t )

と言う︒しかし﹁ならば﹂をいつも

論理的に妥当な関係と考えてはならない︒

何れにせよ︑右の引用文で︑①

(4 ) 

形式論理が全く詭弁と等置されていることに注目しておく必要がある︒しかし︑

詭弁が必要だったのは形式論理の所為ではなく︑形式論理は寧ろ︑天皇制法治主義が実は法治主義でなかったことを 暴くのである︒②

引用文前段でもう一 ﹁決してない﹂の内容

高階述語論理学あるいは種々の様相論理学その他で︑ それぞれに異

︑ ︑

︑ ︑

このような場

つ看過できないのは︑法治主義の原則を﹁形式的に受けとめること﹂と︑受

つまり︵形式的︶論理法則に従って推理すること﹂とが無造作に等置さ

れていることである︒些細な挙げ足取りと思われるかもしれないが︑両者の区別は論理の理解にとってわざわざ言及

するのが端ない程基礎的なことなのである︒

形式論理と詭弁との等置は法学者の間でかなり一般的であるから︑もう一 つ引用しておくのも無駄ではあるまい︒

家父長制的なもの︹家父長制的な規範関係︺ほど契約書は作成されない︒女中・書生等の奉公関係で喫約書が作成されるのはきわめ

て稀である︒ただ︹それとは異なり︺︑借地・借家とか︑土建請負とかのように︑もはや﹁和の精神﹂︹家父長制の精神︺が支配せず︑

権力︹の意思︺が自らの強制機構によって貫徹しにくい場合には︑裁判所による︹国家意思の貫徹の︺保障を可能ならしめる手段とし

て契約書が作られる︒それらの契約書の内容が対等当時者の双務契約の類型に属するものでないことも︑小作証書におけると異なると

ころはない︒すなわち︑契約書は︑双方当事者の規範関係において一方当事者の意思のみが支配することを保障しており︑言わば﹁権

︵ここでは︑確率論理学に触れないでおく︒︶ は︑論理学では︑命題論理学︑

一 六

10‑3・4‑444 (香法'91)

参照

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