• 検索結果がありません。

春秋繁露通解並びに義証通読稿七-上 : 巻五滅国篇上第七・滅国篇下第八・随本消息篇第九

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "春秋繁露通解並びに義証通読稿七-上 : 巻五滅国篇上第七・滅国篇下第八・随本消息篇第九"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

春秋繁露連解並びに義証通読稿七

i

巻五滅菌篇上第七@滅国篇下第八@随本消息篇第九

j

本付制は吋春秋繁滋いの通仰併を、蘇輿の町議涯いを通読し、その説 に装づきながら試みたものである。今回は巻五のうち、紙数制限の 都合上、減問上下・鎚本消怠綴の一ニ絡についてのみ行った。同巻の 残 る 盟 会 前 京 総 第 十 ・ 正 資 総 第 十 一 ・ 十 指 絡 第 十 一 一 ・ 一 ⋮ 出 一 致 問 納 第 十 一 一 一 に ついては本稿の下総として、な位大国文いの次号、もしくは吋佐賀大 学文化教育学部研究紀潔いの次年度問すに掲載する予定である。 従来と同じように、本稿においても、本文と践をそれぞれ分離し て、通説、通解を行い、設の本来の位援を①・②・③:::の記号で 一示す形式な取っている。また、従来同様、()は蘇燃の自注を示 し 、 ( ) は 、 訳 者 践 を 一 部 す 。 底 本 は 、 出 回 一 統 庚 成 本 吋 務 秋 繁 綴 義 一 説 い ( 中 文 出 版 社 印 行 本 ) で あ サ h v

滅菌上鰐七①

︿ 終 結 叫 ﹀ ①銭(機)一氏ふ、﹁此れ本一筋なり。当に分かつべからず﹂と。

︿ 本 文 ﹀ 況とは民の往く所なり。

φ

殺とは其の群を失せざる者なり。② 放に能く万民をして之れに役かしめて天下の時併を得る殺は、天下に 敵 鉱 山 し 。 獄 者 一 一 一 十 六 、 ℃ 隠 五 十 二 。 ③ 小 田 闘 に し て 、 徳 務 く し て 大 阪に朝糊仰せず、議伎と会燦せず、孤特にして相守ら、ず、独館して群 を河じくせざれば、柳却に巡ふも之れを救ふ英し。亡ぶる所以なり。 ④独り公侯大人のみ此くの如くなるに非ず。天地の問に生まれ、 根本微なる殺は、大風疾一闘に滋ふ可からず。立ちどころに鍛して消 耗せん。⑤衛侯朔、臨く斉幾に事へて、天下之れを慾ふ。⑥鼠 鋭、カを弁せ、獄公之れを難ず。⑦習の趨腐は一本八のムムなり。尺 寸の士、一介の衆無し。③隠して笠公、綴主の余琢に拠りて之れ そ談せんと欲し、⑨変を窮め詐を極め、円前尽きカ掲き、橋ひ大い 川伸刊レ に身に及ぶ。⑬肢の心を推し、小閣の位より澱むれば、熱れか能 く之れを亡ぼさんや。⑬放に伍子資は一夫の土にして、幾を去り 関践に子め、遂に怒を山町内に得たり。⑫託する所の者は誠念り。楚 れ何ぞ禦ぐ可けんや。⑬楚芝、災の悶安子五待問出に託して天下之 れ を 問 問 る 。 ⑬ 良 公 、 党 ( の 間 出 を 滋 之 お 叫 に 託 し て 、 資 総 之 れ を 州 都 ふ 。 ⑬ 得 箆 を 殺 す に 及 ん で 天 下 之 れ を 絞 ん ず 。 ⑬ 際 公 、 宮 之 奇 89

(2)

を閉山ひずして、調悶獄之れを亡ぼす。存亡の端、知ら dc る可からざる なり。⑫諸侯、加ふるに兵を以てせられ、逃滋奔走して滅亡にお点 るも簡も之れを救ふ災きを見る。平生の潔行日比るべきなり。⑬隠、 ⋮ 砲 に 代 は り て 立 つ は 所 翻 る ﹁ 傑 か に 存 す る の み ﹂ ( 吋 萄 テ い 刑 制 問 徽 ) なり。⑬無級、郎を的ゐて時四を滅ぽす。内に談窃加熱し。外に諮佼 の 救 ひ 無 し 。 裁 も 亦 口 沌 れ に 出 る な り 。 小 米 ・ 察 ・ 衡 の 悶 之 れ を 伐 ち 、 郷、災のカに悶りて之れそ取る。⑫此れ以て議宝を滋に逃して之 れ を 守 る 英 く 、 間 見 る 者 之 れ を 援 ふ と 開 到 な る 都 市 し 。 部 殺 、 地 を 失 し て 魯一般に朝す。部穀、地を失するは亦笠ならずや。 ︿ 麟 制 緩 ﹀ ① ﹁ 白 虎 通 い 号 線 に 、 コ 十 し 一 は 、 役 な り 。 天 下 の 帰 り 往 く 所 な り ﹂ と 。 吋終詩外伝い(巻五)に、﹁五は役なり。天下之れに往く之れを玉と 諮 ふ ﹂ と 。 吋 春 秋 元 ム 叩 奇 い に 、 ﹁ ヤ ネ は 往 な り 。 抽 仰 の 総 り 白 川 ふ 所 、 人 の 楽しみ附加する所なり﹂と。議ずるに、﹁五﹂と﹁往﹂とは、双戸な り。米だ民総ひ往かずして能く五たる者有らず。 ② 吋 ( 逸 ) 四 川 淑 聞 い 論 法 絡 に 、 ﹁ 之 れ に 従 ひ て 群 を 成 す を 世 相 と 臼 ふ ﹂ と 。 以旬予﹂王制筋に、﹁能く以て下を佼ふ、之れを君主諮ふ。君とは替 く 群 ず る な り ﹂ と 。 ( 伺 ) 活 道 綴 に 、 ﹁ 世 相 と は 何 ぞ 。 能 く 群 す る な り ﹂ と 。 吋 線 詩 外 伝 い ( 巻 五 ) に 、 ﹁ 沼 と は 群 な り ﹂ と 。 ﹁ 白 虎 通 い 三 棚 機 械 刷 に 、 ﹁ 酒 相 は 鮮 な り 。 静 下 の 心 を 帰 す る 所 な り ﹂ と 。 吋 口 向 覧 ﹂ 官 民 利 絡 に 、 ﹁ 群 の 凝 る 可 き や 、 抑 制 与 に 之 れ に 利 す れ ば な り 。 利の務より山山づるや、務道玄つなり。放に活道立てば、別ち利、群 よ り 出 づ ﹂ と 。 菜 、 ず る に 、 ﹁ 務 ﹂ と ﹁ 鮮 ﹂ と は 、 数 加 械 な り 。 + 段 、 ﹁ 君 ﹂ は﹁群﹂を以て畿と為す。放に器削雅い(釈結)林系を以て﹁君﹂の 内 予 を 訓 ず 。 一 則 し て 自 ら 称 し て と 臼 ひ 、 又 ﹁ 余 一 人 ﹂ と 日ふは、敢へて民に若たらざるの心を見すなり。又敢へて天下の群 を己に必せず。放に孫って之れを品目ふなり。。天務本﹁也﹂の字無 官 レ 。 ③

O

盛(文 m m ) 云 ふ 、 ﹁ 間 本 町 失 街 の 活 一 一 一 十 一 、 亡 国 の お 五 十 二 い に 作るは、誤てり﹂と。際ゆ必ずるに、﹁獄窓﹂の上、疑ふらくは、﹁春 秋﹂のニ文学を税す。 ④ 吋 智 子 い に 云 ふ 、 ﹁ 関 の 存 亡 は 隣 淘 に ⋮ お れ 有 り ﹂ と 。

O

成云ふ、な関 税い本或いは内成群いに作る﹂と。 ⑤ 吋 緯 詩 外 伝 い ( 巻 一 一 ) に ﹁ 坊 や 木 、 絞 茨 浅 さ は 、 米 だ 必 ず し も 撤 ( も と﹁械﹂に作る。飯山内に拠って立す)けざるなり。翻風凝り(もと ﹁輿﹂字を脱す。原典に拠って補う)総雨降つれば、州知ち撤くるこ と必ず先んず。内刑制苑い建本絡に、﹁樹、本浅く根成ること深からざ れば、米だ必ずしも撤(向上)けざるも、瀬別表り関税雨⋮怠れば抜く ること必ず先んず﹂と。 ⑥ 主 人 を 致 す も 、 衡 を 救 ふ 能 は 、 ず 。 ( 液 公 六 年 ﹁ 務 、 五 一 一 一 月 、 主 人 子 治 ︿ 救 衛 ﹂ の 丸 木 の 何 休 注 参 照 ) ⑦僚二十年(二年の誤)伝に、﹁ m w 同 献 、 初 肉 品 に 携 し て 入 り て 謀 っ て 日 く、話口、郭を攻めんと欲すれば、則ち良之れな救ひ、践を攻むれ ば、別ち郭之れを救ふ。之れそ如何せんピと。﹁統﹂当に﹁郭﹂に 作 る べ し 。 ③

O

天啓本﹁⋮介﹂のよに﹁無﹂の{主特り。後本向じ。 ⑨

O

天務本﹁主﹂を﹁主﹂に作る。 ⑬終はりに獄せらるるを一式ふ。笈六年に見ゆ。 ⑪﹁腐の心を推す﹂とは、猶ほ﹁赤心を推す﹂と云ふがごとし。人

(3)

そ腹中に期総くの窓なり。下文に務ふ、﹁託する所の者は誠なり﹂と。 一 一 一 一 白 ふ こ こ ろ は 、 機 使 し 滋 公 、 腐 の 授 を 知 り て 誠 に 時 胞 を 用 い て 以 て 小 は じ 国の位より税制めば、執れか能く之れを亡ぽさんや。況や粉、笈の線に 拠るに於けるをや。吋初予い仲尼絡に、﹁文玉、百監の地より殺めて 天下一たり﹂と。義之れと同じ。彼の文の綴注誤らず。市れども額 千裂、以て﹁載﹂のでに﹁之﹂の字を脱すと為すは誤れり。。骨仰木 に 云 ふ 、 ﹁ 他 十 品 吋 柏 戦 い を 訴 訟 に 作 る ﹂ と 。 ⑫ 定 協 和 十 伝 に 見 ゅ 。 ⑬ 億 二 十 八 年 創 刊 注 に 、 ﹁ 子 玉 得 原 は 楚 の 時 制 緩 の 留 に し て 、 数 E 楚のお を遊びいて中国を佼さしむ﹂と。 ⑬儀公二年伝に見ゅ。 ⑮ 凌 本 、 ﹁ 天 下 ﹂ の よ に ﹁ 市 川 ﹂ の 字 有 り 。 ⑬議く人を用ふるを鮮の本と為す。 ⑫ 授 を 淘 ふ る 能 は ざ る は 、 九 河 を 正 す 能 は ざ る に 山 間 る 。 放 に 又 凡 ︿ の 素 行を後む。孔子、表公に告げて日く、﹁人を取るに身を以てす﹂(吋孔 子 家 一 部 聞 い 諸 儀 削 除 ) と 。 ⑬隠十年(経)﹁米人材常人俗人、戦を伐つ。鄭人伐ちて之れを取る﹂ と 。 伝 に 、 ﹁ 甘 刊 の 伐 ち て 之 れ を 取 る と 一 式 ふ は 何 ぞ 。 お き な り 。 誕 の 拐 さこと奈係。英のカに図るなり。誰れのカにか図る。米人察人衡人 の カ に 図 る な り ﹂ と 。 ⑬部殺、必に朝するは、一桜公七年に在り。何注に、﹁汚いはざるは、 地を失へばなり。引相、怒人に胡制するは絞し﹂と。築ずるに、魯の極 は糾糾して立ち、罪を附加支に得たり。部殺、往きて籾す。授の知る可 き無し。此の鏑誌に王は往なり、震は務なりの義をきふ。でには乃 ち授を府ふるに詳 k た り 。 日 比 る 可 し 、 殺 の 民 を 得 る は 惟 だ 削 減 に 任 じ し た が て政そ輸けしなるに在って、衆に絢ひて以て殺を子むるに在らざる を 。 阪 災 者 は 民 の 線 機 ? な れ ば な り 。 ︿ 本 文 通 釈 ﹀ 王とは民が向かう所であり、穏とは築関を乱々ぜないようにするもの である。そこで万民に('自己に)向かうようにさせ、天下を(秩序) 集間化せたものは、天下に微なしということになる。(吋春秋いに記 さ れ た 所 で は ) 獄 窓 が 一 一 一 十 六 、 亡 間 出 が 五 十 二 あ る が 、 小 闘 で あ り な がら君徳が務く、大閣に税制何せず、諮侯と会開門することもせず、孤 独に振る舞って共同防衡をせず、孤立して(諸佼の)集団化に加わ らず、(その結果)危機に出会ってもだれも数うものがない。これが 国が亡んだ際関である。仰向もこれは王公大人だけの問題ではない。 天地の衡に生まれ、根がしっかりしないものは、然風雨に備えるこ とはできず、すぐにもく、ずれてすり減ってしまうのである。 衛侯朔は、(板公十六年、周の天子の小衆徴発命令を遂行できず、 周に反目して孤立して斉に出奔し)かたくなに斉の議公に仕え、(そ のため荘公六年、主人が彼の帰国のために動くが、それが災現でき ないというような騒燦を引き起こし)天下の滋いとなった。 成閣と線図(の小関どうし)は結び合ったが、(その結果、依公二 年)習の献公が(際公に焔絡を贈って阿協の問販関係を乱し)これ らに難事を被らせ(商閣を取)ることになった。 胤 悶 の ( 絞 殺 ) 越 時 間 は 一 介 の 士 で あ り 、 尺 寸 の 土 地 、 一 怒 り の 山 本 を 持つわけではなかったが、(彼に己の怒しき行状を知られた)鳳閣の滋 公は、総省(文主)が残した威光によって彼を談殺しようと、変一時貯 を労したが、詐術は尽きカも尽き、(笠公六年、衆人の支持を得た越 一 一91一一

(4)

物対に絞殺されるという)大いなる補いが身に及んだ。総活の(良さ) 心を自己の胸中に緩いたよで、小田闘の(殺の)佼から始め(るよう 必気持ちでい)たならば、だれが酪を滅ぼすことなどあろうか。こ れ に 対 し 、 伍 子 育 も 一 介 の 土 で あ っ た が 、 彼 は 生 留 日 付 尽 を 総 れ て 間 決 王 関 肢 に 自 分 安 売 り 込 み ( 定 公 的 年 ) 、 同 日 で 怠 を 得 た ( 給 関 取 、 旧 民 は 大 い に 強 く な っ た ) 。 そのように綴みとする白下は誠ある点切であり、何ものも(誠ある 者のカを)妨ぎ止めることはできないのである。(たとえば)楚況が その簡を子五得陸に託すると天下はそれを恐れ(やがて、俄公二十 八年、普佼を規定とする諮佼連合が城淡に楚と戦うことになっ)た。 際 公 が そ の 留 を 宮 之 均 叫 に 託 す る と 、 組 口 の 獄 公 は そ れ を 装 え ( 依 公 一 一 年、際公安婦℃誘惑し、統との阿内閣を破らせることを路策し)た。 ( と こ ろ が ) 楚 ま が 得 鼠 を 殺 す や ( 俄 公 二 十 八 年 ) 、 天 下 は 林 況 を 絞 ん じ 、 成 公 が 宮 之 城 町 ︿ の 紙 同 の 賄 を 拒 否 せ よ と の 謙 一 夜 ) を 送 け る や 、 胤 日 の献公は践を滅ぼした(俗公二年伝 ) 0 ( 以上のことから)酪家存亡 の端絡を十分認識しておかなければならないのである。務俊明、、武 力攻殺な受げ、関内を逃走したり間外へ奔走したり、来ては滅亡に 受つでも、諸外閉山は救ってくれない。(その結楽によって)その諮佼 の一平生の所業が(いかなるものであったかが)分かる。 ( た と え ば ) 絡 の 総 公 が 桓 公 の 代 わ り に 却 位 し た と き 、 ( 術 何 回 は ) い わ ゆ る ﹁ わ ず か に 存 す る の み ﹂ の で あ っ た 。 ( そ の 拘 僚 が 、 路 公 一 一 年 ) 大夫無断協に策を第いて緩閣安滅ぽさせてしまった。これは内には談 陸もなく、外には諸佼の救いもなかったからである。 ( 際 公 十 年 の ) 判 明 ( の 滅 亡 ) も 、 同 様 の 絞 閣 で あ る 。 市 水 ・ 察 ・ 衡 の ⋮ 一 一 回 が 一 討 伐 し 、 鄭 が そ の 勢 い に 粂 じ て ( 殺 を ) 取 っ て し ま っ た 。 これは、道に議宗を落としてそれを日比猿るものがいないまま、見つ けた殺が捻っていってしまったのと同じである。 部俊と穀侯は(相公七年)国土そ失った後、(獄活者たる)魯の額 公 に 朝 日 比 し た が 、 ( こ の よ う に 怒 人 に 朝 間 比 す る 制 俗 で あ る か ら ) 部 俊 ・ 殺侯が悶土を失うのももっともなことである。

滅菌下欝八

︿ 本 文 ﹀ 紀佼の滅ぶ所以の者は、乃ち九段の綴なればなり。一丘の震は、 ①百佼の織を危ふくす。故に大去と日ふ。②衛入、成を阿波し、 ③郷、成に入り、@及び斉の師、成を悶み、一⋮一たび大兵を被り 終ひに滅ぶも、⑤之れを救ふ英し。侍む所の者は安くにか在る。 沈 刊 の 般 公 、 開 制 送 を 行 は ん と 欲 し 、 認 遂 に ム 叩 に 遼 ふ 。 放 に 滅 ん で す 悶 に 狩る。⑥大を事とせずして小を惑とするは、絞伯の戦ひて伎に死 する所以なり。⑦諮佼に謎ひを効くる者英し。幽の会に、資樹、 数 E 諮侯を会ずるも、穫は小にして、未だ来たらず。絡は大隠にし て、闘の会、渡公役かず。⑧戎人乃ち兵を済の鴎に綴ふ。⑨魯 の孤独にして之れを数ふ官民きを見るに的るなり。此の時大夫、世相命 を廃して専ら危ふさを救ふ者あり。⑬魯の寝公二十七年、斉桓の 簡の会を為し、衛入来たらず。⑪茶の明年、続公怒りて大いに之 れを敗る。山戎を伐つに及び、旗を張り滋しを隊ねて以て諮侯に綴 る 。 ⑫ 廷 に 於 い て 、 品 川 同 一 年 に 一 一 一 た び ム 口 を 築 き 、 乱 恵 比 り に ⋮ 一 一 た び 内に起こる。⑬爽秋の兵品川りに外に滅ぽす。⑬衛滅ぶるの端は、 や ぷ 幽の会を失するを以てなり。⑬乱の本は、線、内に蔽るるに存す。 ⑬郎、未だ憾で斉桓に会せず。腎に附くも又微なり。習侯、殺に

(5)

獲はれて之れに山内く。淡の会楚れなり。⑫斉極卒し、滋刀・開制芳 の乱作り、⑬郎、秋と茶の同姓を伐ら之れを取る。⑬其の行ひ 此くの如し。爾、親しむと雌も、路くんぞ能く穏に綴しまんや。間延 の 殺 や 、 災 れ 問 姓 に 滅 ぽ さ る 。 ﹁ 衛 佼 、 即 仰 を 殺 減 す ﹂ 、 送 れ な り 。 ⑫ 資 額 、 幽 の 会 そ 為 し 、 衛 ⋮ 品 工 ら 、 ず 。 額 怒 り て 之 れ を 伐 ち 、 秋 、 之 れ を 滅 ぽ す 。 担 謎 へ て 之 れ を 立 つ 。 雨 情 荘 、 利 の 波 を 為 し 、 淡 開 籾 を 劫 す 。 ⑫ 怒 絶 え 、 ⋮ 粕 一 之 れ を 立 つ 。 ⑫ 那 紀 、 米 だ 初 勝 せ ざ る も 、 斉 一 組 、 放 ︿ の滅ぶを間見、諮侯を本ゐて之れそ立つ。心安問ひること此くの如し。 ゆ る 笠に綴たらぎらんや。放に天下を姿ふるを以て之れを与す。 ︿ 幾 経 ﹀ ①紀役、哀公を諮り、周に京らるるを致す。(荘公四年) ② 荘 四 年 な り 。 ③隠五年なり。案ずるに﹁成﹂当に﹁盛﹂に作るぺし。下向じ。 ④ 隠 十 年 な り 。 ⑤ 夜 八 年 な り 。 ⑥ 斉 の 締 に 降 る 。 ⑦ 荘 十 年 な り 。 ③荘二十四年なり o ( 荘公二十六年綴の﹁習殺英大夫﹂の粂の伝文 に、閣が滅び、務的が﹁佼に死し﹂たことを前提にした記述がある が、その死が何時のことか明らかでない。な務鉦﹂が葱伯の死そ荘公 二十凶年としたのは、この絞公一一十六年の伝文から類推して、校公 二十四年経の﹁冬戎俊樹制﹂を稼伯の死、務の滅亡と考えたものと思 わ れ る 。 ) ⑨液十六年、吋公学い絞に、﹁公、斉侯・宋公・陳侯・徹佼・鄭伯・ 許 閥 均 ・ 稼 伯 ・ 滑 伯 ・ 燦 子 に 会 し て 般 に 問 問 胤 す ﹂ と 。 内 線 帆 m m い 、 ﹁ 公 ﹂ の ん 子 然 く し て ﹁ 瞥 伯 ﹂ 有 り 。 虫 記 、 ﹁ 公 ﹂ の 字 無 く 、 ﹁ 習 ﹂ の 字 無 し 。 之れに掘れば、則別ち廷の見る所の﹁公学い経、笑にロ告と伺じ o A 寸本は慈し誤街ならん。斉⋮砲、凡そ悶び幽に会す。災の一は二十七 年 に 在 り 。 校 公 川 被 て 往 き て 間 見 る 。 一 ﹁ 文 の 十 六 年 の 会 は 、 公 往 か ず 。 微 殺 を 巡 る を 知 る 。 ⑬会する者は、米・陳・鄭なり。。凌本﹁之﹂の字紙し。 ⑬ ( 経 ) ﹁ 荘 三 十 一 年 斉 侯 来 た り 戎 の 挺 を 献 ず 。 ﹂ 伝 に 、 ﹁ 旗 た て 獲 も の あ げ て 我 に 過 ぎ る ﹂ と 。 ⑬公子 4 4 、 殺 械 を 成 す ( 荘 公 一 一 一 十 一 年 ) 。 子 般 ・ 関 公 獄 せ ら る ( 関 公 一 兆 ・ 一 一 年 ) 。 ⑬(経)間二年、秋、衡に入る。俊二年、楚丘に城く。伝に、﹁援し 秋之れを滅ぽすなり﹂と。案ずるに此の処、魯・衛参錯す。疑ふら く は 叩 訳 文 有 ら ん 。 ⑬

O

宮本に臼ふ、﹁他本﹁失いの字無し﹂と。 ⑬﹁乱﹂の上、当に﹁慾﹂の学有るべし。﹁蔽﹂疑ふらくは、﹁紋﹂ に作らんか。乱、家庭より作る、送れ自ら絞るるなり。 ⑮傍十八(十六の誤り)年なり。 ⑫

O

後 本 ﹁ 指 月 額 ﹂ を ﹁ 桓 公 い に 作 る 。 ⑬傍十八年、部人秋人、衡を伐つ。 ⑬悠二十五年なり。案ずるに、以下、文義組制腐せざるに似たり。

O

皆 同 本 に 云 ふ 、 ﹁ 吋 衛 い 他 本 誤 っ て 辺 訟 に 作 る ﹂ と 。 ⑫ 一 一 一 議 己 に 上 に 見 ゆ 。 ⑫ 関 二 年 な り 。

O

宮本に云ふ、﹁吋絶﹂抽出本お控に作る﹂と。凌本 ﹁ 一 般 ﹂ を ﹁ 滅 ﹂ に 作 っ て 云 ふ 、 ﹁ 山 木 の 謬 を 避 け て 改 む ﹂ と 。 93

(6)

⑫ 浪 路 子 ﹂ 大 医 綴 に 、 ﹁ ( 燈 公 の ) 五 年 、 山 木 、 犯 を 伐 つ 。 ⋮ 相 一 公 、 縁 綾 に 築 き て 以 て 之 れ を 封 じ 、 中 前 十 十 日 乗

- m

一 千 を 予 ふ o ﹂ ﹁ 明 年 、 秋 入 、 那な伐ち、邪者山山でて斉に致る。一般公、潟儀に築きて以て之れを封 じ、議官梁・卒千人を予ふ。明年、秋人、絡を伐ち。衛翁山山でてい燈 に 致 る 。 ﹂ ﹁ ⋮ 約 一 公 、 楚 叩 仰 に 築 き て 以 て 之 れ な お じ 、 京 一 一 一 渡 来 ・ 甲 五 千 を 予 ふ ﹂ と 。 又 小 佳 織 に 云 ふ 、 ﹁ 一 般 八 ム 、 天 下 の 諮 侯 そ 遊 へ 、 天 下 の 諮 侯仁を称す﹂と。案ずるに、﹁斉桓、闘の会を為す﹂より以下は当に 是 れ 刷 加 の 一 節 の 文 な る べ し 。 ︿ 本 文 巡 釈 ﹀ ( 務 公 八 年 ) 紀 侯 が 悶 を 滅 ぼ し た 飯 悶 は 、 ( 料 吋 の 斉 の 幾 公 の ) 九 世 前 の ( 哀 公 を 当 時 の 紀 侯 、 が 問 周 五 に 議 ぎ し て 死 に 追 い や っ た た め に 、 斉の)縦となっていたことによる。(九位前の紀侯の)一時の言葉 が、百殺の後嗣の乱却を危うくすることになった。そこで(吋春秋い) は、(突は斉が滅ぼしたのであるが)﹁紀侯大いに其の闘を去る﹂と (て、務侯の地位から立ち去らせたように)記したのである。 (際公五年には)衡人が成閣を侵略し、(隠公十年には)鄭が斉悶 に進入し、更に(荘公八年には)斉箪が成国安包矧し、(このご一一度 の大攻懇を受けてついに(窓公八年の斉の進攻の擦に、成は)滅ん だが、これを救うものはいなかった。(成が)頼みとしものはどこに あ っ た の だ ろ う か 。 斉 の 一 般 公 が 務 道 を 行 わ ん と し た 線 、 制 服 関 は ( 額 公 の ) 命 令 に 均 討 さ 、 そ の た め に ( 蕊 公 十 年 、 斉 の 攻 繋 を 受 け て ) 間 同 は 滅 ん で 身 は 菖 に 奔 っ た。大国を環視せず、小国を援視するのは、(荘公二十問何十、注③参 閉 山 ⋮ ) 市 街 伯 が 位 に 在 っ た ま ま 戦 死 し た 原 因 で あ る 。 ( そ の 際 に ) 諸 侯 で (寝伯の)緩いを助ける者はなかったが、(それに先立つ荘公十六年 の)隣の会で、斉の⋮般公はしばしば諮佼を同胞させたが、留は小慢 でありながら、来ることはなかった。(その結梁が協同の滅亡というこ とになった。他方)魯は大闘であったが、馴酬の会に蕊公は行かなかっ た。(その後の蕊公十八年)戎人が、滋を淡水の商に進めて魯悶を絞っ た。これは魯が孤立して諮伎の救援がないのを見て取ったことによ る 。 ( 次 の ﹁ 此 特 大 犬 山 路 震 ム 叩 一 線 救 危 者 ﹂ は 、 ロ ャ 滋 証 い に 従 っ て 、 こ の 間 同 に 誤 脱 が あ る も の と し て 解 釈 を 巡 け る 。 ) 知惜の荘公二十七年、済の駁公が蜘酬の会を為した際、衡人は会に来 な か っ た 。 そ の 明 年 、 桓 公 は 怒 っ て 僚 を 大 い に 放 っ た が 、 ( 荘 公 一 一 一 十 一年)山戎を討伐するにいたり、燦を張り、戦利品を連ねて問見せて 諮 佼 に 鱗 っ た 。 ( そ の 結 泉 、 附 酬 の 会 の 結 束 は 乱 れ ) 務 は 一 年 に 一 一 一 皮 も ム口を建設(する被沢を)し、(獄窓の)乱践が打ち続いて三たび閣内 にことを起こし(公??牙による荘公の後柄、公平 J般紙殺の機遂の醸 成、公子後父による公子般紙殺事件、向じく公平 J後父による関公絞 殺)、他方、爽秋の鍍が(魯閣の)外において滅間出をなした(防公二 年﹁秋、入衛﹂、依公二年公学伝説、秋、衡を滅ぽすとする)。衛閣 が滅んだ端緒は、幽の会に参加しなかったことによる。(怨の)乱の 根 十 中 の 原 留 は 、 親 族 関 係 が 崩 壊 し た こ と に よ る 。 問 仰 は 斉 の 組 公 の 会 に 参 加 せ ず 、 資 関 に 就 い た が 、 こ れ も 微 閣 で あ っ た 。 ( 俄 公 十 五 年 ) 旭 日 侯 が ︿ 潔 と の 戦 い で ) 絡 に 捕 ら え ら れ る と 、 ︿ 部 は ) 組 問 に 符 い た 。 ( 悠 公 十 六 年 の 斉 侯 、 宇 中 祭 で 那 侯 が 加 わ っ た ) 滋 の 会 が そ れ で あ る 。 ( と こ ろ が 、 傍 公 十 七 年 ) 斉 の 一 般 公 が 卒 し て 、 竪 刀 ・ 日明牙の羽叫が起こるや、那国は(諸佼との陣頭そ忘れて)秋とともに 伺姓の間闘をぶんどった。郊の振る舞いはこの通りである。お前が親

(7)

しんできてもどうしてお前に親しむことができよう、というもので あ る 。 こ の ( 那 の ) 殺 は 、 そ の 問 問 姓 に 滅 ぽ さ れ た 。 ( 依 公 二 十 五 年 辺 骨 秋 い 経 文 の ) ﹁ 衛 侯 、 相 仰 を 綴 滅 す ﹂ と い う の が そ れ で あ る 。 斉の悠公が胸酬の会をなした際、衡は来なかった。(そこで)板公は 怒って衡を討伐したが、(そのよに)秋が衡を滅ぽしてしまった。額 公はこれな謎えて衡を再建した(依公二年伝 ) O ( 他方)魯の荘公は ( そ の 十 一 一 一 年 、 斉 の 一 般 公 が 主 宰 し た ) 前 仰 の 盟 に 加 わ り 、 決 勝 の 拙 唱 を 殺迫して取ったが(同年伝)、(その後)魯の(内乱で篠の潤公が絞 殺 さ れ 、 知 甘 現 制 が 空 位 と な っ て し ま い ) 後 納 が 絶 た れ そ う に な っ た 際 、 桓公はその後継(傍公)を擁立した。部国と花閣は、一度として(斉 に)朝聴しなかったが、出月の一般公は、その滅亡をみるや、諮侯を率 いて再興させた。(穏公の)心の用い方は、これほどであり、これで 綴者たりえないはずない。そこで(額公は)天下を遜えるものとし て評悩を受けるのである。

随本消患第九璃①

︿ 畿 証 v ① 文 、 綴 名 と 応 ぜ ざ る に 似 た り 。 凌 云 ふ 、 ﹁ 竹 中 文 選 ﹂ 胸 酬 遜 試 の 大 家 注 に、吋人の行ひ、各々其のん叩に随ふ。命は衿先に之れを定む。放に徴 兆を前に為す。然りと縫も、亦人に在りでは消息して行はる。天命 は 畿 を 祐 け 惑 に 災 し 、 爽 は ざ る な し い ﹂ と 。 ( 門 出 入 記 い ) 謄 舎 に 、 ﹁ 策 形、近行を建立して、消 F 凶 品 を 起 こ す ﹂ と 。 正 義 に 、 ﹁ 綴 生 ず る を 息 と 為し、陰死するを消と為す﹂と。

第一部

︿ ・ 本 文 v 顔淵死す。子臼く、﹁記入、予を終ぽせり﹂と。予防悶死す。孔子日 た く 、 ﹁ 天 、 予 を 祝 て り ﹂ と 。 四 の か た 狩 り し て 麟 を 獲 た り 。 尽 く 、 ﹁ 五 口 が 道 締 ま れ り 。 習 が 道 締 ま れ り ﹂ と 。 一 一 一 年 に し て 、 山 身 槌 ひ て 卒 す 。 ①此れに階って観れば、②平人命の成敗、議人之れを知るも、救 ふ 能 は ざ る 所 あ り 。 ム 叩 な る か な 。 ︿ 磯 経 ﹀ ①哀公十凶年伝に、﹁子臼く、吋 γ 火 、 予 を 耐 火 ぽ せ り い と 。 子 路 死 す 。 孔ヱア臼く、つ火、予を祝てりいと。凶のかた狩りして鱗を獲たり。日 く、﹁習が道窮まれりピと。注に、﹁祝は、阪なり。夫、顔滅・子路 を生じで、夫子の輔佐為らしむ。地悶死するは、平八将に夫予を亡ぽす の徴なり、鱗は太平の符、緊人の殺なり。時に麟を得て死す。此れ も亦天の夫子に将に没せんとするを告ぐるの徴なり。放に爾か云ふ﹂ ﹀ ﹄ 。 ②﹁階﹂は猶ほ﹁山間﹂のごときなり。﹁悶﹂なり。又察本絡に見ゆ。 95 ︿ 本 文 巡 釈 ﹀ 顔淵が死んだ際に孔予は﹁天が私を滅ぼした﹂と震われた。ウナ路 が 死 ん だ 際 に は 、 ﹁ 日 中 ︿ が 私 を 断 っ た ﹂ と 昔 日 わ れ た 。 ( 魯 の 哀 公 十 郎 年 ) 割方に狩りをして麟が符られた時には﹁我が道は窮まった。我が道 は 桝 閉 ま っ た ﹂ と 言 わ れ た 。 そ の 後 一 一 一 年 で 孔 予 は ( そ の 言 葉 巡 り に 天 命に)従って卒した。天命の慈し慈しというものは、問中人はそれを

(8)

知っているのであるが、(かといって怒しき)命をどうにかできると いうものではないものなのだ。

第二節

︿ 本 文 ﹀ 皿日献公の卒するに先だちて、①斉桓公、葵丘の会を為し、一得び 奨の紺却を致す。②斉 4 4 4米だ卒せざるに先立つこと一年にして、秘 儀、姉を乞ひで殺を取る。③智文の威、天子安湾び致す。卒する に先だつこと一年にして、魯の俄公の心分かれて斉に事ふ。④文 公 、 四 回 に 一 事 へ ず 。 a 斉侯滋の卒するに先だつこと一年にして、文公、 習に如き、衛侯・鄭佑皆期せずして来る。斉侯己に卒して、議侯果 たして習の大夫に新械に会す。⑤魯の昭公、林況に事ふるを以ての 放に、皿同人入らず。⑥幾国強くして滋を得、一年にして符び諮侯 に 会 し 、 強 同 一 一 円 安 伐 ち 、 斉 の 為 に 乱 院 を 詠 し 、 遂 に 一 織 を 滅 ぽ す 。 線 、 英の威を得て以て部を滅ぽす。⑦英の明年、池田に如き、河上の柳時 無し。③皿時間明の卒に先だつこと一年、難無し。⑨楚問問、内に乱 れ、臣、震を紋す。諮役、平戸以に会して楚の乱医を談せんことを謀 る。⑬昭公、想に与るを得ず、大夫執はる。⑪呉大いに縫の党 の六回を難父に敗る。⑫公、班日に如きて大いに辱められ、春秋之 れが為に謬みて疾有りと智一口ふ。⑬此れに出りて綴れば、行きで従 ふ所は侍むに足らず。事ふる所の者は、附閉まざる可からざるなり。 此れも亦存亡栄町熔の褒なり。⑬楚の荘去の卒に先だつこと一一一年に して、⑬皆、赤秋滋氏及び伊氏期間げ吋を滅ぽず。⑬滋子替のネに 先だつこと三年にして、郷、練角川に服す。⑫皿日佼周、卒して一年、 ⑬楚子昭卒するに允だつこと二年にして、⑬隙・祭と郷を伐ち 大いに克つ。⑫英の明年、楚の開朗建、議佼に会して中国に張る。 ⑫卒して一一一年にして、⑫諮変の君、終に朝す。⑫楚子巻、之 れを継ぎ、間年にして卒す。⑫其の悶佼等を為さずして、願って 隆盛強大に、中間、出でざること年余なるは、⑧何ぞや。楚子昭 は、援し諮侯の可なるものならん。天下の禁の認を疾む者、同校赴き 淑へて之れに一栄ず。@兵、間近たび山山でで、常に衆を以て少を駿 ち、一線を以て散を慾つは、畿の尽くるなり。卒するに先だつこと四 去年にして、⑫中間、内に殺さ、斉・組問・制御・衡の兵、分れて守 り、大問、小を幾ふ。⑫諸変再び綴儀に会し、斉往くな筒ぜず。 ⑮ 問 日 一 穴 、 英 の 雨 に 在 り て 、 一 一 活 殺 さ れ 、 ⑮ 中 国 技 ( の 北 に 夜 り て 、 斉・衛兵の惑を殺し、@駿封、窓を幼かして国を乱し、石慾の徒、 絞まりで群を成し、⑫衡の街、糠儀に拠りて緩りを為す。⑬林 父、成に拠りて以て畔き、@栄公、災の世子を殺し、@篠大い に鋭う。⑮中街の行ひは、亡留の波なり。@稼へば文官一の燦に 於げるが如し。⑮中間の君、五年の中に五軒相殺さる。@皿悶援の 行ひを以て、一火炎をして斐林に戎たしむ。⑩挟捺して指挽し諮 侯敢えて出でざる英し。此れ務ほ限の沖有るがごときなり。@ ︿ 磯 経 V ①

O

各本行を擬げ、す。今、上と隠せざるを以て、加に二郎となす。 文 、 滅 屈 と 相 綴 た り 。 天 啓 本 、 ﹁ 献 ﹂ の で に ﹁ 八 ム ﹂ の 学 有 り 。 凌 十 牛 肉 じ 。 ② 依 九 年 な り 。 ③俗二十六年なり。。んお本に一おふ、﹁他本宗ごの字無し﹂と。 ④ 畿 の 文 公 の 卒 は 倦 三 十 二 相 サ に 夜 り 。

(9)

⑤ 文 十 三 年 ( 経 ) に 、 ﹁ 公 、 蹴 問 に 如 く 。 衛 侯 、 ホ 同 に 会 す 。 公 、 四 回 侯 と 盟 す 。 盟 国 よ り 、 怒 り 、 鄭 伯 、 公 に 斐 す ﹂ と 。 十 四 年 に 、 ﹁ 斉 侯 機 卒 す 。 六月、公・米公・際侯・衡侯・郷伯・許男・務伯・皿日の越時朋に会す。 焚 頭 、 新 城 に 間 同 盟 す ﹂ と 。 ⑥

O

皆 同 本 に 一 広 ふ 、 ﹁ 内 楚 ﹂ 他 本 選 に に 作 る ﹂ と 。 岱問削凶年(経)に、﹁楚子、災を伐ち、斉の援封そ執へて之れを殺 し 、 遂 に 腐 を 滅 ぼ す 。 九 月 、 部 を 取 る い と 。 。 官 本 に 一 広 ふ 、 ﹁ 他 本 諜 闘 い を 誤 っ て 吋 判 断 ﹂ に 作 る ﹂ と 。 ⑧限公五年(経)に、﹁公、四時に如く﹂と。。凌本﹁難﹂を﹁態﹂に 作 る 。 ⑨昭十六年、管昭卒す。十五年、公、組問に如く。 ⑬ 紹 十 一 一 一 年 な り 。 ⑪ 季 孫 総 如 、 習 に 執 は る 。 並 ん で 間 十 一 一 一 年 に 在 り 。 益 し 説 田 昭 の 市 ? に 先だつこと一一一年、己に難有りしならん。此の問、磁を絞ぶること経 と 逃 ふ に 似 た り 。 ⑫ 昭 二 十 一 一 一 年 ( 縫 ) に 、 ﹁ 問 問 、 税 ・ 胡 ・ 沈 ・ 蒸 ・ 隙 ・ 許 の 削 を 幾 父 に 敗 る ﹂ と 。 ⑬ 昭 二 十 三 年 ( 経 ) ﹁ 公 、 皿 回 に 如 く 。 一 向 に 受 り て 、 疾 有 り て 乃 ち 復 る ﹂ の伝に見ゅ。昭公一一年、十二年、十三年、二十一年、組問に如き、皆、 一向に変りて乃ち復るより、此に奈りて忍たびなり。以上は皆慾を以 て主と為ずの文なり。 ⑬己、自立して人に事へざれば、持むに足る者鮮し。 ⑮ 政 云 ふ 、 ﹁ 吋 楚 荘 主 い 、 当 一 に 浪 池 子 旅 ﹂ に 作 る べ し ﹂ と 。 。 天 啓 本 、 ﹁ 卒 之 ﹂ を ﹁ 之 卒 ﹂ に 作 る 。 ⑬ 笠 十 六 年 ( 絞 ) に 、 ﹁ 皿 口 、 赤 秋 悶 叩 氏 及 び 則 自 肝 帽 を 滅 ぽ す ﹂ と 。 十 八 年 に 、 ﹁ 林 光 子 旅 卒 す ﹂ 、 と 。 ⑫ 幾 十 七 年 ( 経 ) に 、 ﹁ 郷 を 伐 ち 、 繍 魚 に 会 す ﹂ と 。 十 一 一 一 年 に 、 ﹁ 九 月、楚子経卒すむと。 ⑬ 袈 十 五 年 ( 経 ) に 、 ﹁ 雌 岡 侯 周 ネ す ﹂ と 。 盛 一 式 ふ 、 ﹁ 此 の ふ ハ 字 の 上 下 、 疑ふらくは、説脱有らん﹂と。 ⑬ 威 一 五 ふ 、 ﹁ 山 山 本 吋 之 卒 年 い に 作 る 。 読 な り ﹂ と 。 ⑫幾二十年(経)に、﹁楚子・繋侯・隊侯、州開を伐つ﹂と。二十八年 に 、 ﹁ 楚 子 卒 す ﹂ と 。 ⑫ 淡 公 一 一 十 七 年 な り 。 ⑫ 俊 一 式 ふ 、 ﹁ 当 に 詰 刊 い に 作 る べ し ﹂ と 。 ⑧諜二十九年なり。公、慾に夜り。 ⑫昭九年(元年の誤)なり。 ⑫ 一 ﹁ 当 に 脱 文 有 る べ し 。 楚 子 巻 、 卒 し て ⋮ 一 一 年 、 策 の 慾 玉 、 諮 伎 に ゆ に会して、間決を伐ち腐を滅ぽす。当に禁の事を指す。 ⑫ 吋 一 直 子 い ︿ 梁 窓 王 ト ム ) に 、 ﹁ 天 下 の 其 の 認 を 挟 む 者 、 皆 赴 い て 主 に 惣 ふ ﹂ と 。 ⑫

O

凌本﹁四﹂の下に﹁十﹂を約す。 ⑮

O

宮 本 に 云 ふ 、 ﹁ 他 十 4 T m h の 字 無 し ﹂ と 。 ⑧ 議 二 十 四 年 、 隙 畿 に 会 し 、 次 年 一 内 び 会 す る も 、 斉 、 山 明 日 比 γ ら ず 。 ⑩畿二十五年、兵子詩、巣門に殺さる。二十九年、隠、余然加を殺す。 凌 一 広 ふ 、 ﹁ 吋 殺 ﹄ 均 一 刊 に 誌 設 に 作 る べ し ﹂ と 。 で 開 門 じ 。 @ 誕 二 十 近 年 ( 経 ) に 、 ﹁ , XR の経将、共の世相光を紋ず﹂と。二十六年 に 、 ﹁ 衡 の 術 中 町 議 、 放 ( の 殺 到 を 秘 す ﹂ と 。 ⑨袋二十七年伝に、﹁閑却為れぞ、諸伎を殆ぷむ。衡の石怒是こに在る が為なり。怒人の徒是こに在るを臼ふ﹂と。

(10)

-97-⑮畿二十五年伝に、﹁線儀とは何ぞ。衡の色なり。日叫為れぞ衛に入る い つ は と震はざる。おを緩りて、以て獄すればなり﹂と。 ⑧畿二十六年なり。

O

U

人 啓 本 ﹁ 以 ﹂ そ ﹁ 臼 ﹂ に 作 る 。 ⑮ 幾 一 一 十 六 年 な り 。 ⑮袋二十閉年々り。 ⑧﹁其の荘王の卒するに先だちいより此に一全るまで、楚を以て主と 為 す の 文 令 り 。 ⑬ 皆 同 本 に 去 ふ 、 ﹁ 他 本 町 於 い の ん 子 無 し ﹂ と 。 ⑮文十四年、斉の荷人、本討を殺す。十六年、宋、社付臼を殺す。十八 年、斉、商人を殺す。子卒す。蕊、成就ハを殺す。 ⑩ 笈 元 年 に 日 比 ゆ 。

O

政 一 去 ふ 、 ﹁ 吋 春 秋 竹 本 、 或 い は 吋 楽 林 い に 作 る 。 文 十 一 一 一 年 の 釈 文 に 去 ふ 、 吋 ﹁ 斐 ﹂ 、 本 、 又 ﹁ 楽 ﹂ に 作 る い と 。 悶 死 れ 内 公 品 中 γ い本に又吋楽林いに作る者有るなり。一本誌蝋林いに作るは、誤 て り ﹂ と 。 側 関 案 ず る に 、 夫 前 官 本 ﹁ 楽 林 ﹂ に 作 る 。 凌 本 同 じ 。 @ 誕 日 を 以 て 悠 を 慾 ふ 。 一 宮 口 ふ こ こ ろ は 、 民 間 中 国 の 波 乱 に 乗 じ て 諸 侯 の 熔附を得たり。廷の時に当たりて、諮侯の服従・楚を見ること獄ほ際 の 洋 有 る が ご と し 、 泥 水 の 涯 を 得 る が 廿 お き な り 。 詩 に 、 ﹁ 際 あ れ ば 、 剣 ち ゅ け 有 り ﹂ ( 衛 風 、 仮 綴 ) と 。 郷 箆 に 雲 ふ 、 ﹁ 吋 ぬ け い 読 ん で 鮮 と 為 す。鮮は綾なり。言ふこころは、滋と際と皆、極山序有りて以て自ら扶 持す。今、君子放慾にして心窓曾て拘制制する所然きなり﹂と。策ず るに、禁、此の訟を引いて、必ずしも本畿に定符せやす。然れども鄭 畿 、 ﹁ 扶 持 ﹂ の ニ 字 、 批 れ よ り 取 る に 似 た り 。 字 句 ? と 箆 日 出 織 に 、 ﹁ 鉄 総指捕押するのみして、市も強畿の随、趨使せざる英し。之れを鍵へ ば 、 是 獄 ほ 烏 獲 と 佐 川 僚 と 持 つ な り ﹂ と 。 語 意 、 批 れ と 問 問 じ 。 議 兵 筋 、 ﹁ 挟 棉 向 指 熔 ﹂ に 作 る 。 事 法 問 い 覧 笠 ハ 測 に 、 ﹁ 鉄 総 指 隠 す る の み に し て 、 市も海内貿綴す﹂と。

0

1

人 前 廿 本 ﹁ 沖 ﹂ を ﹁ 抜 ﹂ に 作 る 。 持 叫 に 云 ふ 、 ﹁ 一 に 吋 摘 出 之 有 ゆ け い に 作 る ﹂ と 。 ︿ 本 文 通 釈 ﹀ 皿日の獄公の卒去に先だって、斉の⋮般公は(偲公九年)楚丘の会を なして、一一度にわたって諮佼を集会させたが、斉の(桓公を継いだ) 家公が卒去する(俗公二七年)一年前には、魯の傍公が(楚に)援 を競うて(斉の思)殺をぶんどった(ほどに斉は酪カを弱めた)。期間 の文公威勢は、天子を二度も呼び努せるほどであったが、その卒去 (儀公三十二年)の一年前には、擦の依公の心は移り斉に仕え、(僚 公 の 次 の ) 文 公 は 鵬 首 に 仕 え よ う と し な か っ た 。 ( と こ ろ が ) 斉 佼 滋 ( 昭 公)の卒去(文公十悶年)の一年前になると、(魯の)文公は(今度 は)習に行った。(その際、斉と隠顕していた)館侯と郷佑も期せず してやってきて、斉伎が卒去するや、(この三閣を含む)諸佼は間取た せるかな(文公十四年)皿回の大夫に新城で会した。 制僚の昭公の降、(彼が)楚に佼えていたため、資人は魯に侵入する ことはなかったが、(この綴)楚は強大で得怒となり、一年の問問に二 度にわたって諸侯を会し、強大な同日閣を討伐し(昭公四年)、斉のた めにその乱筏燦封を詠殺し(向上)、ついには成簡を滅ぼした。鶴間 は そ の 勢 い を 得 て 制 御 を 滅 ぼ し た ( 同 上 ) 。 そ の 翌 年 に は 、 四 回 聞 に 行 っ た が 、 ( こ の 段 階 で は 、 務 侯 に 、 後 に 一 得 一 一 一 に わ た っ て 出 く わ す こ と に なる)黄河のほとりの苦難はなかった。属国の紹公の卒去(昭公一六 年)の一年前までは(同じように)その務難はなかった。(ところが) 楚鴎に内乱が起こり、直下(公子楽疾)が君主(公子比)を殺し、 ( そ れ に よ っ て ) 諸 侯 が 一 平 丘 に 会 し ( 昭 公 十 一 一 一 年 ) 、 そ の 乱 回 の 詠 殺

(11)

を謀った。(しかるに)昭公は(この擦の)盟に参加することができ

γ

、 大 中 大 ( 季 孫 隠 如 ) が ( 班 闘 に ) 撚 ら え れ て し ま っ た ( 向 上 ) 。 ︿ そ の後の昭公二十三年)呉が鐙に与する六悶を簸父の地に大敗させる と 、 怨 侯 は ( 今 度 は ) 皿 日 に 行 き 、 ( そ の 挙 げ 句 ) 大 い に 等 め ら れ た 。 吋 春 秋 い は そ れ を 隷 ん で ﹁ ( 昭 公 二 十 三 年 、 公 、 皿 悶 に 如 き ) 疾 有 り ( て 復ること記している。以上の惑から観察するに、(自立した悶では なく、他国に)行き従う阪は、憾むに足りない。仕える国は十分鎮 まなければならない。これまた(関家)存亡栄辱の婆である。 楚 の 荘 玉 虫 卒 去 ( 笈 公 十 八 年 ) の 一 一 一 年 前 、 皿 日 が 赤 秋 滋 氏 及 び 昭 氏 館時を滅ぼした(笠公十六年)。綾子務の卒去(袈公十八年)の三年 前 、 ( 組 問 を 盟 主 と す る 諸 侯 の 祭 が ) 郷 を 議 魚 の 地 に 服 従 さ せ た 。 脱 出 俊 潤 が 卒 去 ( 灘 公 十 五 年 ) し て 一 年 後 、 楚 子 問 削 の 卒 去 ( 幾 公 一 一 十 八 年 ) の二年前、楚は附開閉・察関と制御を攻懲して大勝した(幾公一一十六 年)。その翌年、獲の路建が諮佼と(宋に)会して(間二十七年)中 肢に対して威勢を猿り、彼(幾子 m m ) の 卒 去 の 翠 年 、 中 間 出 諮 隠 は 楚 に 朝 日 比 し た ( 幾 公 一 一 十 九 年 ) 。 楚 子 巻 が そ れ を 継 い で 、 そ の 四 年 後 に 卒去した(限公光年)が、その国は佼略強奪をなさず、それで反っ て隆盛強大になり、中原諮問も一年あまり出兵そしなかった。これ は な ぜ で あ っ た の か 。 楚子昭が、諮侯の(何とか)可としうる(程度の)ものであった。 (それでもその他の諮佼は惑行ばかりで)天下の務主に背しめられ ている殺が、皆(綾子昭のもとに)訴えに出向き、(林況が)それに乗 じ た か ら ( に す ぎ な い の ) で あ る 。 ( 慾 の ) 四 ? な 皮 の 山 山 氏 ︿ は 常 に 数 の 多きで少数のものを攻脚本し、まとまった家で不備いの綴を伐った。 これは(もはや)義の消滅であった。 ( 終 予 昭 の ) 卒 去 の 四 五 年 前 の 開 明 、 中 隊 諮 問 は 内 に 反 自 し あ い 、 斉 -m 日・魯・衡の各国の兵は、バラバラにその大国(たる威勢)を 守り、小国を襲った 0 ( それでも)中議諮問は二度にわたって傑儀に 会 し た が 、 出 円 国 は 参 加 を 一 本 知 し な か っ た 。 ( 一 方 ) 呉 留 は そ の 南 で 二 震 が ( 相 次 い で ) 殺 さ れ ( 幾 公 二 十 五 年 の 同 一 一 円 子 翁 ・ 諜 公 二 十 九 年 の 旧 日 目 ヱ ア 余 祭 ) 、 中 間 闘 は そ の 北 に あ っ て 斉 ・ 衛 問 が ( そ れ ぞ れ ) 殺 主 を 殺 した(袈公二十笈年の経符による a済侯光の獄殺、間二十六年の衡の 筒惑による衛侯郊の獄殺 ) 0 ( 更に斉では)燈封は君、五を脅迫して留 を乱し、(衛では)石惑の徒が紫まって徒党をなし(幾公二十七 年)、総侯街は陳儀の会を根拠にして(先制相郊に対する)偽り事を為 し(議公二十七年)、(伺じく衡の)林父は戚を根拠として成人を率 いて叛き(幾公二十六年)、(米では)米公がその世子療を殺し(裂 公一一十六年)、怒では大飢慾が起こり(議公二十四年)、中原諮問の 状況は亡限の(歩んだ)跡のようであった。(なればこそ、悠子昭の 凡設でも盟主の地位にあることができたのである 0 ) この時代はまる で文公笠公の時代の如くである。(文笈の時代には)中原諸国は五年 の市?で五人の君主が殺後され、(また一方、この時代、線主の立場に あった)晋の慾公(は、自ら)の(行うべき)行為を、一大中大に代 行させて、(笠公元年の)変林の会に立たせた。(笠公のこのやり方 は)両手を前に級んで(何もせず)口で指図するだけのものであっ て、(それでも)諮侯は(その採閣に従って)簡を出ないわけにはい かなかった。(先に日比た幾公の時代の楚のやり方もこれと同様であ り)、まるで川沢に溌紡があるようなもので(中僚の議侯たちの放慾 な 心 が 、 調 聞 や 楚 の 波 支 の 聞 出 に よ っ て ど う に か 規 制 を う け た の で ) あ る 。 ( 本 学 教 授 )

参照

関連したドキュメント

      ︾+跨切

 共ノ頻度順位ハ7. 5.5.3,9.7.5.3,11.7.7.3デアル.黒人式手式頻度ヨリ翻察スル時ハ五

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

第七節 義務違反者に対する措置、 第八節 復旧及び建替え 第 2 章 団地(第 65 条~第 70 条). 第 3 章 罰則(第 71 条~第

「美術の新運動を観て」本方昌 「聡明な人間味」相馬御風 「現代文学と女性作家」平林たい子 「文壇新風景」大宅壮一

25 232220〃1512 11 ノ 9654 3 228

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

23 21 20 16 1413 109 76