Title
「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験
としての「クカル考」−
Author(s)
上原, 明子
Citation
沖縄キリスト教短期大学紀要 = JOURNAL of Okinawa
Christian Junior College(40): 27-49
Issue Date
2012-01-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/9747
沖縄キリスト教短期大学紀要第40号2012)
「自由への読書」のための実践的研究’
一神話的思考実験としての「クカル考」一*
上 原 明 子
要 約 こ の 数 年 展 開 し て き た 真 に 自 律 し た 自 由 な 人 間 を 育 て る た め の 体 系 的 な 読 書 教 育 で あ る 「 自 由 へ の 読書」は、平和主義的感性の育成へと止揚し、進むべき方向を見出した。実践的な研究段階へ進むに あたり、大震災からの意識の変化と覚醒は揺るがない指針、「今とこれからの生命の全てと共に生きる」 ための教育と研究を行うのだという指針を示してくれた。 「自由への読書」のための実践的研究として、これから、「平和主義的感性の育成」を機軸とし た 3 段 階 の 研 究 ・ 実 践 を 展 開 し て い こ う と 考 え て い る 。 本 稿 は 、 「 オ ル タ ナ テ イ ブ な 思 考 と し て の 神話的思考」段階、「平和への対話を生み出す教材作成」段階、「ESD(EducationforSustainable Development)教育としての平和主義的感′性の育成」段階のための、第1段階として、この時代にお ける様々な課題と向き合うために第3の道としての「神話的思考」の必要性を提唱し、思考実験とし ての神話創作を報告する。 これから、真に自律した自由な人間を育てるための体系的な読書教育である「自由への読書」を、 ヒトを含めた森羅万象の全ての領域の「まことの幸い」を考える学問分野につなげてみたいと願って いる。そのために、本稿から始まった3段階の実践的研究は、その遥かな道のりの途上であると同時に、 重要な要となる。 は じ め に * * 2011年3月11日に起きた東日本大震災で、ヒトを含む森羅万象全ての領域において、尊い 命の蹟いがなされた。ポスト3.11世代の私たち一人ひとりが、ここから先の時間を、どのよ うに生きていくのかが問われている。震災やフクシマの被災者や被災地に対して、同情や共感 を超え、目の前で起こり、現在も進行しているこの状況から、何を受け取り、そしてどう変わ らねばならないのか、言語教育に携わる教育者としての自分自身の在り方、役割を問い続けて いる。 この数年展開してきた真に自律した自由な人間を育てるための体系的な読書教育である「自 由への読書」は、平和主義的感性の育成へと止揚し、進むべき方向を見出した。実践的な研究 段階へ取り組むにあたり、大震災からの意識の変化と覚醒は、「今とこれからの生命の全てと 共に生きる」ための教育と研究を行うのだという揺るがない指針を示してくれた。 「自由への読書」のための実践的研究として、これから、「平和主義的感性の育成」を機軸 とした3段階の研究・実践を展開していこうと考えている。本稿は、「オルタナテイブな思考 としての神話的思考」段階、「平和への対話を生み出す教材作成」段階、「ESD(Education *ActionResearchfOr“ReadingfOrFreedom”I−Thoughton“KUKARU":MythologicalThought Experiment-**AkikoUehara −27−沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012)
forSustainableDevelopment)教育*注'としての平和主義的感性の育成」段階のための、第1
段階として、この時代における様々な課題と向き合うために第3の道としての「神話的思考」 の必要‘性を提唱する。その中で、思考実験としての神話創作をひとつの創作モデルとして示し てみたい。 こ の 一 連 の 実 践 的 研 究 が 、 単 な る 実 践 報 告 に 終 わ ら ず 、 深 い 思 考 と 時 代 の 要 請 に 裏 付 け ら れ たものであることを認知し、うずまきの螺旋をくぐって進むようなジェネラリスト的研究であ りたいと志向する。1.「平和への対話をしでいる」プロジェクト
上原2011で、「自由への読書」は、「今とこれからの生命の全てと共に生きる」ための持続 可能な社会を作ることに挑戦しつづける、平和主義的感性の育成に連なる教育であること、そ のためには、理性と感性の調和のとれた美的な人間教育の土台として、批判的思考力と共感的 想像力の育成が求められることについて論考した。特に、共感的想像力を育成するために、「真に他者と共に生きる」場を生み出す「読み愛」*注2という概念を提唱した。この「読み愛」の
概念とは、すなわち「対話的思考」のことである。教育の場に対話を生み出すことは、パウロ・ フレイレのいう共同探究者としての教育者の役割であり、平和の源泉である民主主義の根幹部 分でもある。 比較社会学者の鶴見和子は、自らの学問である「内発的発展論」について「自分たちの地域 の自然生態系に適合していて、それぞれの地域の人々の必要に応じて、人間を幸福にしていく ような発展の仕方があるのではないか」(鶴見a2002.p.110)ということを考えたことが始ま りだったと述べている。一方、水俣在住の社会派作家である石牟礼道子は、鶴見との対話の中 で、「一人一人の人間の一番ゆたかな深部に降り立って、それをぞっくり抱えてくるような学 問があるはずだ。そこにくぐり入って立ったときに、その学者たちの定説が出来上る。万物の 中の人間の位相が仮象の制度をとつ払って見えてくる。のぞましい未来を模索できる手がかり が、民族の風土から陰影をもって浮上する。そんな風土を踏まえた心性を普遍化してみせる、 そんな学問はないのか」(鶴見a2002.p.124)と問いかけている。学問に対する鶴見の直感的 姿勢と石牟礼の本質的な問いかけに連なるような、私自身の学問を拓いていきたいと考えてい る。それが、自ら育ちゆく子ども達・若者達を支える教育者として果たすべき役目であるよう に思う。 この時代の沖縄、さらに、ポスト3.11世代を生きる私たち教育に携わる者の責任とは、子 ども達・若者達と共に「今とこれからの生命のすべてと共に生きる」社会を創るための対話を 生み出すことである。現代社会のこの閉塞感を打破するために、私たちは、私たちを取り巻く 多様な生命と対話すべき時にある。対話とは何か。それは、息づく生命同士の響き合いであ る。報告によると、沖縄島を取り巻く人工ビーチの数は38ヶ所。ざらに、計画中の人工ビー チが10ヶ所以上あるという。そうした現状から報告の中では、「こうした人工ビーチ造成ラッシュは、沖縄の海辺を『沈黙の渚』に変えつつある」(名和2010p.4)と警鐘が鳴らされている。
対話を失い、響き合うことを失った世界は、どこへむかうのだろう。 沖縄県名護市の大浦湾にある瀬嵩浜に生息する「オガタザタラ」という二枚貝は、数十万年 前から、頑固に一途に、亜種をつくらずに、太古の海の環境の残る渚に息づいてきた淡紫色の上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」− 美しい貝である。地球上には、4つの海域に生息しているのが確認されているが、それぞれが 遠く離れて独自に生きているため、ひとつの海域のオガタザクラが絶滅することは、地球上か ら完全に失われることを意味する。わずかの環境の変化が、彼らには耐えられないのである。 辺野古に基地の建設が始まれば、大浦湾の環境は打撃を受けることになり、おそらくオガタザ クラは、永遠に失われてしまうだろう。種の保存の観点からみると、とても傍い貝であるが、 その弱さは翻って強さとなっている。「私たちは、こんなに弱いのです。人間は、私たちを存 続 さ せ る こ と が で き ま す か ? 」 と い う オ ガ タ ザ ク ラ か ら の 問 い か け に 、 ど う 応 え て い く の か 。 日々、祈りながら自分自身に問い続けている。その中から生まれた教育観が、「平和への対話 を生み出す」教育である。加えて、ヒトを含めた森羅万象との対話を生み出すために献身して
いる仲間を、ハンス・イェニイ*注3の美しい動物画に因み、「チーム・緑の鹿」と称し、共に
ユ ク ベ キ 場 所 へ む か い た い と 願 っ て い る 。 基礎的研究の螺旋の先にある「自由への読書」の実践的研究では、「平和への対話をしでいる(生み出す)」*注4プロジェクトを提唱し、その研究と実践報告を行う。「気づき、学び、行
動する」という教育理念は、対話的思考が支えている。対話を生み出すためには、共同探究者 たらんとする教育者の自覚の下に設えられた教育環境と適正な教材が必要である。プロジェク トの一環として、現在、DVD教材「しでいる」制作と神話的思考実験としての「クカル考」 創作が進行しているが、今回は、「クカル考」についての研究報告を、次章以下で扱う。2「神話的思考」の意味
この時代の様々な課題、特に、自然環境や生物多様性と経済問題にかかわる持続可能な未来 のための課題に対するオルタナティブな思考として、「神話的思考」が必要ではないかと直観 した。萩原1995は、神話や伝説の持つ機能のひとつを「自然環境に働きかけるために語ら れた」としている。「神話的思考」というもう、ひとつの視点をもつことは、私たちの物事に 対する思考の抽象度を高めるだろう。烏は鳴き交わし、蛍は明滅しあい、私たちは触れ合い・ 響き合いながら、この世界の美しい流れの環の中に息づきあっているのである。 「野生の思考」という新たな思考の地平を切り拓き、終生、神話学に献身したレヴイースト ロースのコトバは、私たちに多くの示唆を与えてくれている。 私たちは、昔は、神話的思考に出てくるさまざまなことを無意味で馬鹿げたこと として片づけてしまいがちでした。これからはきっと、その非常に多くを理解でき るようになるでしょう。(中略)人間の心の中に起きることが基本的生命現象と根本 的に異なるものではないと考えるようになれば、そしてまた、人間と他のすべての 生 物 一 動 物 だ け で な く 植 物 も 含 め て − と の あ い だ に 、 の レ ノ こ え ら れ な い よ う な 断絶はないのだと感ずるようになれば、そのときにはおそらく、私たちの予期以上の、高い叡智に到達することができるでしょう。(レヴィーストロース1993pp32-33)
本章では、人類学者の中沢新一と民俗学者の谷川健一、比較神話学者のジョーゼフ・キャン ベルを導き手として、「神話」を哲学として位置づけながら、この時代における「神話的思考」 −29−沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012) の意味と役割について考えてみたい。 2 1 哲 学 と し て の 「 神 話 」 中沢は、神話について「人類最古の哲学」と称する。これは、神話について「感覚の論理」 を駆使して人間の生の意味を問いはじめた人類の哲学行為のはじまりであると論じているレヴ イーストロースの研究に由来するものである。そして、「自然界や人間社会にみいだされるさ まざまな事象のうちに潜んでいる差異に注目して、それを二項操作の道具として用いながら、 宇宙のなかでの人間の位置や世界をみたすものごとの意味について深い思考をめぐらすものと
して生まれた」(中沢2004p.33)神話的思考と科学的思考は、どちらも同じ論理的思考に基づ
いているのだと述べる。さらに、論理的な思考については、「現代の分析哲学者のおこなって いることと遜色のない論理的思考を、神話は狐やカラスや熊を使っておこなっている」(中沢2002p.64)としている。その上で、神話的思考と他の科学的思考との間にある差異について、
対称性の論理と非対称性の論理を展開しながら、神話の「分類学上ちがうものの間に深い共通 性のあることを見出す能力」こそが、対称性の論理であると論考している。 一方、自然を生きた存在として扱い、神と人間と自然の間の交渉がなきれる学問が民俗学で あるという谷川の主張に、神話の科学的な側面をみることができる。キャンベルは、神話につ いて、「究極の真理の一歩手前の真理である」と述べている。このことから、神話とは、アニミズム*注5の世界の立ち遅れた思考としてではなく、むしろ、
論理的思考や先端の科学的思考に匹敵する思考形態であると考えたい。鶴見bは、生物学者の 中村桂子との対談の中で、これからの千年について、人工のものと人と自然の共生時代となる ことを予見し、アニミズムのような関係づけを行う思考が求められるのではないかと提起して いる。さらに鶴見cでは、アニミズムという思想について、今の科学方法論を人間の立場だけ ではなく、生物の立場から、再構築していく基礎になると論じている。本稿では、神話を哲学 として捉え、神話的思考実験である神話創作活動を教育の場で展開することの可能性について 論考する。 〔引用全文〕 ◇「彼は1950年代の初め頃から神話の研究に取り組み、私たちの前にまったく新しい理解にもとづく、神話 の世界の真実をしめしてみせたのです。『人類最古の哲学としての神話』という表現も、じつはこのレヴ ィーストロースによるもので、神話は「感覚の論理』を駆使して、宇宙の中での人間の生の意味を語りだ そうとする、人類の大胆な哲学行為のはじまりをしめすものとして、みごとに描きだされることとなりま した。」(中沢2002ppl9-20) ◇「人間は長いこと、人生や世界の本質をとらえるのに、感覚の論理とでも呼ぶべき具体的なものの論理を使 うことを好んできました。(中略)ですから語りの表面ではとてもファンシーなデキゴトがつぎからつぎ へと展開しているように見えるのですが、その裏では動物や植物の具体的な生態についての知識を利用し て、論理的な思考が働いているのが神話なのです。しかもこの論理、外見よりもはるかに精密な働きをお こなっています。現代の分析哲学者のおこなっていることと遜色のない論理的思考を、神話は狐やカラス や熊を使っておこなっているのです。」(中沢2002p.64) ◇「神話はずいぶんと古い時代から語られていたものですし、世界中に残されている神話的思考の痕跡を探っ てみると、そこになにか普遍的な意味内容をもった事柄が、語り出されているように思われます。また一 見すると荒唐無稽のように見えて、じつは深いレベルで働いている一貫性のある『論理』の存在を感じ取 ることもできます。そこで私たちはレヴイーストロースにならって、神話のことを『人類最古の哲学』と上 原 : 「 自 由 へ の 読 書 」 の た め の 実 践 的 研 究 1 − 神 話 的 思 考 実 験 と し て の 「 ク カ ル 考 」 − 呼ことにしたのでした。」(中沢2004p.14) ◇「神話の思考は、レヴイーストロースが主張してきたように、科学の思考と断絶するものではありません。 神話の思考をつくりあげているのは、コンピュータを作動させ、科学者の頭の中で働いているのとまった く同じ、『二項操作』という基礎的な知的道具にほかなりません。自然界や人間の社会にみいだされるさ まざまな事象のうちに潜んでいる差異に注目して、それを二項操作の道具として用いながら、宇宙のなか の人間の位置や世界をみたすものごとの意味について、深い思考をめぐらすものとして、神話は生まれま し た が 、 そ こ で 利 用 さ れ て い る 人 類 の 知 的 能 力 は 、 科 学 的 思 考 を 生 み 出 し て き た も の と 、 本 質 的 に 同 じ も のでした。」(中沢2004p.33) ◇「神話的思考というものを、他の科学的思考などと隔てている最大の特徴である『分類上ちがうものの間に 深い共通性のあることを見出す能力』こそ、この対称性にしたがって作動する論理、すなわち対称'性論理 にほかならない」(中沢2004p.264) ◇「自然の生物の間には種の絶滅防止のためのさまざまな抑止力が働いています。それゆえに自然の生物は弱 肉強食という右まわりの循環の回路をもっていると同時に、その底に共存共生という左まわりの回路を持 っている。民俗学は、相手を侵しながらもどこかでまたほかのものから侵されて、バランスを保っていく という自然界の法則の中で、食物連鎖に見られる敵対関係ではなく、生物相互の共存共生の面、つまり自 然界に働いている『親和力』を民族現象に置き換えたものである、と考えることができます。」(谷川1991 p.61) ◇「私は民俗学は、『神と人間と自然の交渉の学』であると申しましたが、ここでいう自然は死んだ自然では ありません。よくものを言い『言問う』自然です。だからこそ三者の間に『交渉』がなり立つのです。」(谷 川1991p.213) ◇「神話はその文化、時代、場所とあまりにも密接に関連していますから、絶えずそれらを再構築する芸術的 な努力によって、シンボルないし隠職を活'性化しない限り、その生命があっさり消滅してしまうのです。」 (キヤンベル1992p.119) ◇「神話は絵空事ではありません。神話は詩です、隠愉ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言 われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にはできない、だから一歩手前なんです。究極 は言葉を超えている。イメージを超えている。あの生成の輪の、意識を取り囲む外輪を超えている。神話 は精神をその外輪の外へと、知ることはできるがしかし語ることはできない世界へと、放り投げるのです。 だから、神話は究極の真理の一歩手前の真理なんです。」(キャンベル1992p.292 2 2 オ ル タ ナ テ ィ ブ な 思 考 と し て の 「 神 話 」 この時代における神話的思考の役割について、中沢は、オルタナテイブなものは、各自の中 に眠っている「最古の能力」の中にあるとして、神話的思考を探ることによって、今日の人類 が陥っているさまざまな課題から脱出できるのではないかという。また、「部分と全体が一致 する」という対称性の論理による神話的思考の倫理観によって、これまで地球上の生態系のバ ランスが保たれてきたことに注目し、私たちが今、作り出さねばならないのはまさに、神話の 研究から紡ぎ出される倫理観ではないかと提起している。 谷川は、民族学的視点から、危険なイデオロギーによる合理的支配の対極にあるものとして、 多文化共生や生物多様性を尊重している。このことは、オルタナテイブな思考としての神話的 思考の役割と通じている。キャンベルは、神話を時代に即した生きたモデルとして成り立たせ るためになんらかの芸術的再構築をすべきであると述べている。 この時代の沖縄に生きる教育者として、また、ポスト3.11世代を生きる者として、社会や 時代の課題とどう向き合っていくのか。神話的思考は、これからの時代を拓いていくための古 3 1
-沖縄キリスト教短期大学紀要第40号2012 くて新しい、第3の道を示してくれるのではないだろうか。ヒトを含めた森羅万象の全てが共 存共生する社会が、神話的思考の下に実現できるのではないだろうか。 〔引用全文〕 ◇「神話的思考は人類の思考能力の秘密をあきらかにできる、不思議な力をもっています。その思考能力か ら、宗教も芸術も経済も生まれ出てきたのですから、その秘密を探っていくことによって、ひょっとした ら私たちは今日の人類が陥っている袋小路からの脱出口を探り当てることができるかもしれません。」(中 沢2002p.16) ◇「科学的思考が使っているのとまったく同じ『二項操作』を用いながら、神話的思考はそれとはまったく違 う『対称性の論理』による、独自の思想を生みだそうとしてきました。そして、この『対称‘性の論理』の 働くところ、交換は贈与につくりかえられ、言語には詩が生みだされ、人間は宇宙の一部分にすぎないこ とを教える倫理の思考が生命を取り戻すようになります。神話の中でかつて強力な働きをおこなっていた 『対称性の論理』を復活させることには、今日大きな意義があります。それは、私たちの暮らしている世 界をつくりあげているのが非対称性の特徴をもつものばかりになってしまい、その世界の内部にいるかぎ り経済から国際関係にいたるまで、あらゆる領域で非対称'性の原理による活動が、あまりにも過度になっ て、人間の世界に取りかえしのつかないようなバランスの崩壊をもたらしつつあるからです。私たちにと ってほんとうに必要なオルタナテイブなものは、自分の中に眠っている『最古の能力』を目覚めさせるこ とによって、はじめて可能になってくるのではないでしょうか。」(中沢2004pp.15-16) ◇「倫理による命令は、つねに『部分と全体が一致する』という対称性の論理にしたがおうとします。そのた めに、こうした倫理は合理化することができません。しかし合理化不能な倫理によって、地球上の生態系 のバランスは保たれてきたのです。私たちが今日、人類の知恵を結集してつくりださなければならないも のは、このような倫理なのではないでしょうか。そのために、私たちには神話の研究が必要で不可欠です。」 (中沢2004p.156) ◇「イデオロギーですべてを律していくことの危険さ、ひとたびイデオロギーにとらわれた場合に、それから 抜け出ることの困難さを、私は戦時中に体験してわかっておりました。」(谷川1991p.26) ◇「完全に日本に帰属したのは明治十二年の廃藩置県で、沖縄県になってからのことで、近代史のできごと で す 。 そ こ で 私 は 日 本 と 沖 縄 は 母 を 同 じ く し 、 父 を 異 に す る 兄 弟 で あ る 、 そ の 際 の 母 は 民 族 で あ り 、 父 は 歴 史 で あ る と い っ た こ と が あ り ま す 。 母 を 同 じ く し て い る た め に 、 沖 縄 は 日 本 に 親 し い 気 持 ち を 抱 き ま す 。 し か し 父 を 異 に し て い る た め に 、 日 本 に 反 発 す る こ と が あ る の で す 。 一 体 と な る こ と も 、 離 れ 去 る こ ともできないという双方の揺れ動く感情の中に、沖縄の人々は今なお生きているといえます。」(谷川1991 p.103) ◇「生きている神話は、その時代にふさわしいモデルを与えてくれるのです。」(キャンベル1992p.267) ◇「神話は生かされるべきです。それを生かすことのできる人は、なんらかの種類の芸術家です。芸術家の役 割は環境と世界との神話化です。」(キャンベル1992p.161)
3.神話的思考実験としての「クカル考」
オルタナテイブな‘思考として、神話的思考を研究するにあたり、沖縄における神話の発掘を 手がけ始めているが、昔語りのレベルからその奥へ、回路をつなげることに難渋している。各 地に残る民話や古謡に神話の足跡を辿る方法でのアプローチだけではなく、できれば、古老の 語り部と出会えることを望んでいる。神話発掘作業を継続しながら、一方で、神話的思考を内 発的な体験とするために、神話創作活動を行ってみることにした。上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」− 3 . 1 神 話 創 作 の た め の 条 件 東アジア地域やネイテイヴ・アメリカンのさまざまな神話や伝承物語、昔語りについての研 究やテキストを検証した結果、神話を創作するための5つの条件を設定した。これらの経糸が、 しっかりと張られていることにより、創作神話という子ども達・若者達の魂を包む美しい織物 を織ることができると考える。 特に重要な条件は、「条件1:現実の現象、事物に対する詳細な観察と知識に根ざしている ことb」である。これが、単なる伝承物語や昔語り、宗教的な話から、神話を差別化する条件 となる。神話は、現実の世界における課題を克服するために紡がれた物語であり、そこには自 然科学者のような詳細な観察が求められている。その次に、「条件2:主人公は、負欲(生命 力旺盛)であり、生と死、善と悪などの両義‘性をもっていること。また、2つの世界の仲介者 の役割を持つこと。」が重要となる。神話は、いわば、彼岸と此岸をつなぐものでありヒトの 世界と森羅万象の世界をつなぐものでなければならない。そのための仲介者の役割を果たす主 人公は、両義性を持ち、かつ、負欲な存在として、旺盛な生命力の象徴である必要がある。 条件3と条件4は、伝承物語や昔語りの語法から抽出した条件である。「条件3:赤・黒・ 白の3色を象徴するシンボルがあること。」で示される赤と黒と白の3色は、ヒトの心の在り 様を表しているとされている。川手2001は、「子どものこころはお話を物質的に聞くので
はなく精神的にきく」(p.76)とし、子ども達の心に響く昔語りとは、内容ではなく、さまざ
まな言葉のメタファー(暗職)が織りなす宇宙の摂理、大自然の真実であるという。そして、 日 本 の 昔 語 り の 「 に ん じ ん ご ぼ う だ い こ ん 」 や グ リ ム の 「 白 雪 姫 」 を は じ め 、 さ ま ざ ま な 民族の神話や伝承物語に登場する3色の、赤は「行為への燃える意志」を、黒は「限りなく豊 かな感情」を、白は「美しく結晶・昇華した叡智」を暗職しているという。一方、「条件4: くりかえし(3回目の転換)があること。」とは、くりかえしのリズムが子ども達の心にもた らす、真理への到達のための試練と展開を示している。予定調和的なくりかえしの安心感の中 で、彼らの心には主人公と一緒に未知なるものへ立ち向かう勇気が育まれるのである。条件5に、Rシユタイナーの教育哲学の中核にある人智学*注6の12感覚論(触覚、生命感覚、
運動感覚、平衡感覚、喚覚、味覚、視覚、熱感覚、聴覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚)を 加えたのは、神話創作が、伝承の継承に留まらずに、今とこれからの時代へのオルタナテイブ な思考となるためには、自分自身への深い認識を持って、世界と出会う必要があると考えたか らである。ヒトの世と森羅万象の世界をつなぐための示唆を与えてくれる12感覚論は、創作 神話という綾なす織物のための経糸の張り具合を調整する役目を担っている。 条件1:現実の現象、事物に対する詳細な観察と知識に根ざしていること。 条件2:主人公は、貧欲(生命力旺盛)であレノ、生と死、善と悪等の両義性をもってい ること。また、2つの世界の仲介者の役割を持つこと。 条件3:赤・黒・白の3色を象徴するシンボルがあること。 条件4:<レノかえし(3回目の転換)があること。 条件5:R.シュタイナーの人智学、12感覚論からの照応があること。 −33−3.2「クカル」の両義'性 才 iIll縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012) 〆 ユ ー ラ シ ア 大 陸 に は 、 「 貝 と 烏 」 に ま つ わる伝承物語が広く分布しており、特に、 中11|ヨーロッパには、「ツバメは冬には海 の 貝 に な っ て い る 」 と い う 伝 承 が あ る 。 日 本にも、t6の殻と雀の羽毛の模様から連想 したらしい「雀海に入って蛤となる」とい う物i語がある。神話創作にあたり、水界と 陸 界 を 行 き 来 す る 両 義 性 を 備 え た 存 在 と し ての「クカル」は、ネIll話のための潜在的可 図1:屋恥│Ⅱ湯原干潟の「クカル」(名和純氏l雌影) 能性を秘めた素材であった。というよりも、 「クカル」との出会いが、神話創作へ導いてくれたという方が正しいだろう。これは、沖細県 の恩納村に自然のまま残る屋嘉Ⅲ潟原干潟のもたらしてくれた神話的思考への啓示であったよ うに思う。生物多様性の宝庫である美しい干潟が、リゾート開発と自然保護の狭間で揺れてい る。浅薄な人間の我欲によって、はるかかなたの昔から連綿と続いてきた命の系譜が、失われ ることがないように心から願い、賢明な判断が下されることを心から祈っている。干潟を失う ことは、そこに生息する生物多様性の│Ⅱ界を失うことだけではなく、私たちの外的・内的な世 界 の 豊 か さ を 失 う こ と で あ る 。 私 た ち 大 人 は 、 人 工 ビ ー チ で 育 つ こ れ か ら の 子 ど も 達 の 感 性 に 責 任 を と れ る の だ ろ う か 。 一 人 ひ と り が 、 自 分 自 身 に 突 き 付 け な け れ ば な ら な い 重 大 な 課 題 で ある。 神話を創作するにあたり、「クカル」という響きでつながる烏と貝についてできうるかぎり の 情 報 収 集 を 行 っ て み た 。 こ れ ら の 情 報 と 観 察 が 、 「 ク カ ル 考 」 と い う 5 つ の 物 語 へ と 結 晶 す ることになった。 アカショウビンは、カワセミ科の夏烏(沖縄のリュウキュウアカショウビンは留鳥)で、’二| 本各地で観察することができる。水辺を好むカワセミやヤマセミと違い、川や森に広く生息し ている。日本各地に伝わるアカショウビンの伝説を調べると、赤い烏という形状により、「火、 火事」のイメージと重なる話が多い。また、渡りの季節が雨季の頃であるという習性により、「雨 乞い、水を求める」類の話もみられる。そのどちらも、ネガティブな志向を象徴する存在とし て扱われている。沖縄のIlll.'lj村では、繁殖期に鳴き交わす声が、豊穣をもたらす烏として扱わ れているとの情報が若干確認されている。 イトマキボラに関しては、生態研究が少ないため、生息する海域の底生生物食物綱の頂点に 立 つ と い う 程 度 の 情 報 が 得 ら れ る に 留 ま っ て い る 。 そ の 頂 点 に 立 つ と い う 習 性 に よ り 、 お そ ら く古の人々は、豊穣の象徴として敬ってきたのではないかと推察される。味は、非常に苦く、
海人(ウミンチュ)の間では、身を食するよりも卵を食する貝*注7として扱われているようで
ある。また、首里城跡の「天界寺」跡や、各地の貝塚から数多く出土しているが、他の貝類の 明らかに食された状態とは異なっているように感じたと、発掘調査に携わった貝類研究者雲の名 和純氏は話してくれた。琉球語文化圏*注8において、「クカル」はイトマキボラという巻貝とアカショウビンという
烏に共通する方言の呼び名である。アカシヨウビンは、その鳴き声の形状から「クカル」と称上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」− されるようになり、さらに、イトマキボラの形状がアカショウビンを連想させることから、イ トマキボラは「クカル」と称されるようになったと推察される。 各地の方言の呼び名は、次のようになっている。 (1)イトマキボラの方言呼称の分布(『日本貝類方言集』より) イトマキボラの方言呼称について、民間レベルにおいて、沖縄では「クカル」と称されてい る(内陸部や山峡地域では、イトマキボラ自体についての認識が薄いためか、方言呼称がない) ようだが、研究書や方言名辞典等の記載がほとんどないのが現状である。現在、民俗学的アプ ローチでの調査を継続中である。琉球語文化圏にみられる「クカル、クワル」等の方言名の由 来については、形状と赤い身からの連想で、アカショウビンの方言呼称と重なっているのでは ないかと推察される。 〔方言名一覧〕 ◇イトマキボラ(糸巻法螺)科 アカニシ(三宅島、高知県宿毛市小筑紫野) アカメ(熊本県牛深市、鹿児島県薩摩郡) クアラ(与論島) クアズブラ(宮古。来問島) クワル(奄美大島) コッカーンナ(八重山) ゴッカル(八重山) サギモッコー(種子島) サゼーミナ(長崎県上県郡) スイボッポ(大分県) ヨナキガイ(高知県宿毛市沖の島町母島) クカル(沖縄県恩納村)※口頭調査 (2)アカショウビンの方言呼称の分布(『全国鳥類地方名検索辞典』よレノ) アカショウビンの方言呼称について、全国の呼称を分析すると、擬声による呼称と擬態に よる呼称、習'性による呼称、その他の4系列に分かれるようである。擬声系列は、「キヨロロン」 「テロロ」「ケロケロ」「ヒーヒョン」「クカル」「クッキャール」「クワル」「コッカーリ」「ホカラ」 「ホーピル」「ホールー」「ホールハナシ」等。擬態系列は、「ヒドリ」「ヒゴマ」「トーガラシドリ」 「イボドリ」「アカドリ」「ヒスイ」「ヒノトリ」「アカカワセミ」「アカマンマ」「アコーグヮー」 等。習性系列は、「ミズコイトリ」「ジゴクドリ」「アメフリドリ」「ミズハカリ」「ミズホシドリ」 「ミズコイドリ」「アメフリトリ」「ミズマシトリ」「サンズイドリ」「サカナトリ」「ミズケード リ」「ミズツケドリ」「ミジコッカーリ」等。その他は、「ナンバンチョー」「ナンバンゲラ」「ヤ マショービン」「バクローノカカー」「テングノトリ」「ショート」「ニーレ」「マカナヨビン」「ガ ラスヌハンマドゥイ」等。 「クカル」系列の呼称は、沖縄県と鹿児島県でのみ出現しており、イトマキボラの「クカル」 系列と重なっている。 −35−
沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012) 〔方言名一覧鹿児島県、沖縄県のみ掲載〕 ◇アカショウビン〔カワセミ科〕 〔鹿児島県〕 アーシイギ(鹿児島県徳之島) アマカンマ(鹿児島県川内市) イチユガハン(鹿児島県加計呂間島) エビスドリ(鹿児島県種子島) キギョドイ(鹿児島県川内市) キョッキョロ(鹿児島県請島) キョッキョロー(鹿児島県請島) キンキョドイ(鹿児島県各地) クカール(鹿児島県徳之島) クカル(鹿児島県加計呂間島、鹿児島県徳之島) クキャール(鹿児島県加計呂間島) クッカール(鹿児島県徳之島) クッカル(鹿児島県奄美大島、鹿児島県加計呂間島、 クッカロー(鹿児島県加計呂間島) クッキャール(鹿児島県加計呂間島) クッキャル(鹿児島県加計呂間島) クファール(鹿児島県加計呂間島) クファールー(鹿児島県加計呂間島) クヮール(鹿児島県請島) クヮハールー(鹿児島県加計呂間島) クワル(鹿児島県加計呂間島) クンカル(鹿児島県沖永良部島) コーロ(鹿児島県奄美大島) コッカル(鹿児島県奄美大島、鹿児島県徳之島) コッカン(鹿児島県徳之島) ミズケツドイ(鹿児島県各地) ミツケドイ(鹿児島県各地) ミヤマ(鹿児島県各地) ミヤマエビス(鹿児島県各地) ミヤマシシ(鹿児島県各地) ミヤマヒッシ(鹿児島県各地) 鹿児島県与路島) 〔沖縄県〕 アカックヮイ(沖縄県伊良部島) アコーグァー(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡宜野座村) アハグカル(沖縄県伊良部島) ウテイゴール(沖縄県伊江島) ガラスヌハンマイドゥイ(沖縄県伊良部島) クカール(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡今帰仁村) クカウ(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡宜野座村) クカリ(沖縄県宮古諸島)
上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」− クカリー(沖縄県宮古諸島) クカル(沖縄県沖縄本島、沖縄県座間味島、沖縄県伊良部島、 クカルー(沖縄県沖縄本島、沖縄県中頭郡西原町) クカルルー(沖縄県座間味島) クルカ(沖縄県各地) コーカルー(沖縄県座間味島) ゴーッカル(沖縄県竹富島) ゴカーリ(沖縄県波照島) コカル(沖縄県座間味島) コケル(沖縄県各地) コッカーリ(沖縄県八重山諸島、沖縄県石垣島) コッカーリイ(沖縄県八重山諸島) ゴッカール(沖縄県小浜島) ゴッカラマ(沖縄県西表島) コッカリイ(沖縄県八重山諸島) ゴッカル(沖縄県八重山諸島、沖縄県石垣島、沖縄県鳩間島) ホーピル(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡今帰仁村) ホーピルルー(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡今帰仁村) ホール(沖縄県伊江島) ホールー(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡今帰仁村) ホールガナーシ(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡今帰仁村) ホールガナシ(沖縄県沖縄本島、沖縄県国頭郡今帰仁村) ホールピン(沖縄県国頭郡今帰仁村) ホカラ(沖縄県竹富島) ホッカル(沖縄県竹富島) ミジコッカーリ(沖縄県八重山諸島) 沖縄県伊良部島、沖縄県浦添市) 最後に、島尾ミホの『海辺の生と死』に収められているアカショウビンについて紡がれた「ク ッキャール」という美しい文章を紹介する。 ものうい初夏の床の中で、けたたましい山鳥の鳴き声で目を覚まされると、「ああ 今年もクッキャールが渉ってきた」と思い、突然若葉の甘い匂いが部屋いつぱいに 満ちてくるようです。「クッキャールルルー、クッキャールルルー」と透き徹ったこ ろがるような声で鳴いているそれは、季節の移レノ変わトノのけじめのはつきリノしない 亜熱帯の島で、いくらかは移りをさとらせるもののひとつと言えましょう。
(島尾ミホ1987p.79)
3.3創作神話「クカル考」 「クカル考」(文末資料参照)は、5つの物語からなる創作神話である。 以下で、それぞれの物語についての解説を行いながら、神話的思考実験がく成される〉とき の思考のプロセスを辿ることにしたい。それによって、この神話的思考実験が、単発の個人的 な創作活動に留まらず、子ども達・若者達の神話創作活動への普遍的な創作モデルを提供する −37−沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012) ことができればと考える。創作活動を通して、彼らは、自らを取り巻く生命の多様性と出会う ことができる。対話することができる。そしてそれが、「今とこれからの生命の全てと共に生 きる」ための持続可能な社会への歩みを支えるだろう。 (1)クカル考(20110830)「アカショウビンのはなし」 ◇12感覚論:聴覚
◇テーマ:耳を澄まして聴くことにより、深く自己の内面と向き合うことができるように
なる。世界を認識することができるようになる。それが社会性の始まりであり、 真に他者と出会うことへの導きとなる。 ◇メタファー:「赤」を象徴する「炎、真っ赤な炎の色」により、行為への燃える意志を表現。 (2)クカル考(20110907)「イトマキボラのはなし」 ◇12感覚論:嘆覚、味覚、視覚 ◇テーマ:嘆覚で生きている動物段階から、視覚と聴覚で生きる人間段階へと移行する。 そこで、人間としての世界との出会いが起こる。視覚によって、世界は開か れていく。色彩を知覚することにより、自分自身の内側から解放され、世界 と他者と出会うことができるようになる。また、受胎プロセスとしての食べ るという行為により、世界と人間は共に潤しあうことができるようになる。 特に、苦味という痛みや辛ざの体験は、意志力を育てる。 ◇メタファー:「なぞなぞ遊び」により、離れたイメージが重なることで、驚きや喜びを もった世界との出会いを表現。 (3)クカル考(20110901)「ひとの願いのはなし」 ◇12感覚論:熱感覚、言語感覚、思考感覚 ◇テーマ:願いは、祈りを生み出し、熟成した人間の思考から、対話的思考が生まれる。 世 界 と 出 会 う こ と の 次 に 、 世 界 へ の 関 心 が 起 こ る 。 関 心 は 魂 を 暖 か く し 、 世 界に参加することを求める力に比例して熱が高まっていく。そうして、人間 としての幸福感が目覚める。 ◇メタファー:「願い、祈り」は、人間だけの持つ言葉や思考であり、「うた」段階からの 脱皮したことを表現。「身も心も焦がす、炎の柱」により、熱さを表現。 (4)クカル考(20110831)「森の王と海の王のはなし」 ◇12感覚論:触覚、言語感覚、思考感覚 ◇テーマ:触覚体験は、自分と世界の境界を認識させる。自分の内側と外側を認識する ことによって、他者とのつながり、神とのつながりを求める渇望が生まれる。 沈黙の世界の中で真理は育まれ、自分を犠牲にすることが新しい命の始まり となるのだという気づきと行動が起こる。 ◇メタファー:「貝殻」で、命の抜け殻と新たな塾術的衝動を引き起こす存在、内的に求 め合う存在を表現。「うずまき、螺旋」で、死と生の連帯を表現。「己の 存 在 を 打 ち 消 し 合 い 重 な り 合 う 果 て に 誕 生 す る 王 」 で 、 痛 み の 結 晶 が 叡上原:「自由への読書」のための実践的研究’一神話的思考実験としての「クカル考」− 智であることを表現。 (5)クカル考(20110903)「赤瓦と漆喰のはなし」 ◇12感覚論:生命感覚、平衡感覚、運動感覚、自我感覚 ◇テーマ:痛みを感じる体験から、他者への思いやりの衝動が生まれる。運動感覚の根 源にある、そこへ行きたい、挑戦したいという意志が、出会いを生み出し、 真に他者と生きる覚悟を芽生えさせる。自分自身で自分のユクベキ場所を決 めて動くことで、真の自由を得ることができる。それこそが、喜びを持って 生きることである。さらに、自分自身と他者の自我の自由を認め合う平衡感 覚が、共に生きることの喜びにつながる。それは、愛という行為であり、ま ことの幸いへむかう生き方である。 ◇メタファー:「白いサンゴ、白い漆喰」で、献身と思いやりを象徴するキリスト存在を 表現。「黒い土」による限りない自己犠牲の尊さを表現。「赤い炎、赤い瓦」 への転換による意志の強ざによる運命の切り拓きを表現。「白いサンゴに
よる支え手への感謝と支え手の役割の交替」により、「passion(受難)か
らcompassion(共に苦しみを分かち合うこと、思いやり)」の衝動の芽生え、
人間としての自我の獲得の瞬間を表現。「クカル考」の5つの物語を貫く大テーマは、「sacrifice(献身)とcompassion(思いやり)」
である。この2つのメッセージを、謹術の衣に包んで、平和主義的感'性の育成のために、子ど も達・若者達へ伝えたいと考え、神話創作に取り組むことにした。神話のカタチを纏うことに より、この2つのメッセージは彼らの内奥に、生命力を伴って息づき、彼ら自身から新たな創 作活動が生み出されていくだろう。そこから生まれ出るものこそが、オルタナテイブな思考の 萌芽となるだろう。4.「自由への読書」ヘの展開
本稿で創作した「クカル考」は、様々な教育の場で自由に展開できる素材である。例えば、 群読やコロス劇における朗読テキスト、自然保護や沖縄の文化学習のための導入教材、文学の 授業における創作活動のための創作モデル等、その潜在的可能'性は大きい。特に、創作という カタチでの神話的思考実験を体験することは、現実を多角的な視点から眺める思考訓練になり、 抽象的思考能力を高めることにもつながるだろう。 創作活動や塾術活動は、子ども達・若者達の「現実体験」となる。神話的思考実験は、対話 を生み出すために、現実に触れ、体験することが大事であることと照応する。単なるファンタ ジーや既成の作品ではなく、創作されたもの、あるいは自ら創造したものと出会うことが、彼 らの感性をより豊かに育むことだろう。今後、「クカル考」以外の神話的思考実験として、子 ども達・若者達と共に、わらべうたや昔語り、万葉集やおもろそうし等の行情詩、宮津賢治の 作品における神話的思考の足跡を辿り、創作活動を深めていきたい。また、「平和への対話を しでいる」プロジェクトとして、育ちゆく子ども達・若者達のために、「クカル考」に連なる「貝 −39−沖縄キリスト教短期大学紀要第40号2012) と烏の神話」という自然科学と文学を融合させた塾術分野の地平を拓いていきたいと考えてい る。 神話的思考実験は、教える.教わるという役割分担型の教育スタイルから脱却し、対話的思 考に支えられた共同探究の場を生み出すための礎石としての役割も担う。抑圧する者と抑圧さ れる者という、被抑圧者を生み出す関係性からの解放という教育者の意識の変革を教育の場に 起こすことこそが、「平和をしでいる」ための出発点なのである。「自由への読書」が展開して いくための対話的思考は、平和主義的感性を育む豊かな土壌となるだろう。 そして、何よりも「神話的思考」という美しく普遍的な思考力は、これから彼らに打ち寄せ る荒波に耐える力となるだろう。はるかかなたの未来へと希望をつないでいくだろう。 お わ り に このささやかではあるが、揺るがない目標への第一歩である本稿は、「平和主義的感性の育 成」を機軸に据えた言語教育のための実践的研究の第一段階である。ポスト3.11世代を生き る教育者として、自分の在り方を問い続けたことへの現段階での答えが、「対話的思考」である。 そして、この時代の様々な課題に対するオルタナテイブな思考としての「神話的思考」の必要 性を確信している。真に自律した自由な人間を育てるための体系的な読書教育である「自由へ の読書」を、ヒトを含めた森羅万象の全ての領域の「まことの幸い」を考える学問分野につな げてみたいと願っている。これが、ヘルマン・ヘッセのいう「ガラス玉遊戯」なのかもしれな い。そのために、本稿から始まった3段階の実践的研究は、その遥かな道のりの途上であると 同時に、重要な要となる。 敬 愛 す る マ ザ ー ・ テ レ サ の コ ト バ 、 「 ど こ へ 行 け ば い い の か は 分 か っ て い ま し た 。 た だ 、 そ こへたどりつく方法がわかりませんでした」に希望を見出しながら、これからの研究と教育実 践に向き合っていきたい。
【注記】
1:持続可能な社会を創っていくための教育。日本が2002年に国連サミットで提案し、国連 ESDの10年(2005年-2014年)として、現在日本国内で、積極的に推進きれている。 現代社会の諸問題と自分とのつながりに気づき、解決策を考え、行動していけるような「持 続可能な社会づくり」のための担い手を育てることを目的とした教育である。 2:上原による造語。上原(2011第3章「真に他者と共に生きる」を参照。 3:1904-1972・スイスの医者。波動学者で画家。「動物たちは世界言語から生まれた象形 文字である。そしてまた、万有とその似姿に人を導く印でもある。その封印は、動物を愛 するものにこそ解き明かされる。」という認識の下に動物画を描き続けた。 4:「しでいる」とは、沖縄の方言で「卵がり畔化すること」を意味する美しいコトバである。 5:宇宙のなかにある生物も非生物も含む全てのものが魂をもっているという考え方。自然と 人間の互酬性、自然に対する親しみと畏怖、生と死の循環思考などを特徴とする。(鶴見 cp.101)上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」− Rシュタイナーの提唱する精神科学。12感覚論については、ズスマン2007参照。 沖縄県恩納村の一部の地域で採れるイトマキボラは、苦みが少なく、身を食すようである。 沖縄島を中心として、宮古・八重山の先島地域から、奄美大島(七島灘)までの範囲に広 がる地域。生物地理学上の境界線(渡瀬線)であると同時に、日本語の方言区画の境界線 でもある。
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【引用・参考文献】
海老沢敏1989『ミユーズの教え』音楽の友社 波部忠重(1968『日本の貝」(保育社) ヘルマン・ヘッセ(2007)『ガラス玉遊戯』ヘルマン・ヘッセ全集15臨川書店 星野道夫1996)『森と氷河と鯨」世界文化社 パウロ・フレイレ(2011)『新訳被抑圧者の教育学』三砂ちづる(訳)亜紀書房 飯田哲也・鎌中ひとみ(2011)『今こそ、エネルギーシフト』岩波ブックレットNo.810 井筒俊彦(1991)「意識と本質』岩波文庫 川手麿彦(1999)「隠きれた子どもの叡智』誠信書房 川手麿彦(2001)『子どものこころが潤う生活』誠信書房 金関寿夫(2000)『アメリカ・インデイアンの口承詩」平凡社 ジヨーゼフ・キヤンベル、ビル・モイヤーズ『神話の力」飛田茂雄(訳)早川書房 内藤克彦1999『シラーの美的教養思想」三修社 中沢新一(2002)『人類最古の哲学カイエ・ソバージュI』講談社選害メチエ231 中沢新一(2004)『対称性人類学カイエ・ソバージュV」講談社選書メチエ291 中沢新一(2005)『神の発明カイエ・ソバージュⅣj講談社選害メチエ271 中沢新一(2006)『芸術人類学』みすず書房 名和純(2010)「沖縄島の人工ビーチ生成ラッシュと沿岸生物多様性の劣化」『おきなわ環境 ネット』沖縄環境ネットワーク通信45号pp4-5 西平直(2009)『世阿弥の稽古哲学』東京大学出版会 荻原直子1995『東北アジアの神話・伝説』東方書店 小津俊夫(1999)『昔話の語法」福音館書店 落合美知子(2010)『子どもの心に灯をともすわらべうた実践と理論』エイデル研究所 ウイリアム・プルーイット『極北の動物誌』岩本正恵(訳)新潮社 マイケル・サンデル2011『マイケル・サンデル大震災特別講義私たちはどう生きるのか』 N H K 「 マ イ ケ ル ・ サ ン デ ル 究 極 の 選 択 」 制 作 チ ー ム ( 編 ) N H K 出 版 シラー(1948)『人間の美的教育について」小栗孝則(訳)小石川書房 島尾ミホ(1987)『海辺の生と死』中公文庫 ルドルフ・シュタイナー(1990)『メルヘン論」高橋弘子(訳)水声社 レヴイーストロース(1996)『神話と意味』みすず書房 谷川雁(1989)『ものがたり交響」筑摩書房 谷川健-(1986)『神・人間・動物」講談社学術文庫 谷川健-1991)『わたしの民俗学』三一書房 谷川健一(1994)『海神の贈物〔民族の思想〕」小学館 4 1-沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012 谷川健一(2004)『渚の思想』晶文社 谷川健一(2007)『蘇る海上の道・日本と琉球』文謹春秋社 鶴見和子a2002)「対話まんだら石牟礼道子の巻魂j藤原書店 鶴見和子b2002)『対話まんだら中村桂子の巻命」藤原書店 鶴見和子c(2002)『対話まんだら佐佐木幸綱の巻歌』藤原書店 上原明子2011「「自由への読書』のための基礎的研究Ⅲ−平和主義的感性の育成一」『沖
縄キリスト教短期大学紀要』39.pp23-45
柳宗悦(1954)『琉球の人文」春秋社 吉本隆明1997)『ほんとうの考え・うその考え』春秋社 アルバート・ズスマン(2007)『人智学講座魂の扉・十二感覚』耕文舎十イザラ書房 BIRDER編集部(編(2008)「華麗なる水辺のハンターカワセミヤマセミアカショウビ ン』文一総合出版 川名興(編)(1988『日本貝類方言集』(未来社) 白井祥平(監修)太平洋資源開発研究所(編)(2005)『全国鳥類地方名検索辞典〔南日本編〕」 生 物 情 報 社 白井祥平(監修)太平洋資源開発研究所(編)(2005)『全国烏類地方名検索辞典〔北日本編〕」 生 物 情 報 社 *本稿を、深い感謝と希望と共に、「チーム・緑の鹿」へ捧げます。上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」− 〔クカル考資料1〕 (1)クカル考(20110830)「アカショウビンのはなし」 目 の ギ ョ ロ リ と し た み に く い 小 さ な はるかかなたの昔、 ひとは、まだ「音」を聞いたことがなかった。 た だ 、 ま わ り の 世 界 に と け あ っ て 、 ま ど ろ ん で 生 き て い た 。 そのようすを、天空からみていた月は、森に暮らす烏によびかけた。 「だれか、私のうたを奏でてくれないか」 最初に、森で一番大きな烏が名乗りをあげた。 天のうたは、烏の魂を焼き尽くし、やがて烏のからだは真っ赤な炎に包まれた。 烏は、その炎の痛みに苦しみ、命を落とした。 次の烏は、森で一番美しい羽根をもった烏だった。 しかし、その烏もまた、天のうたに魂を焼かれ、命を落とした。 三番目に名乗りをあげたのは、へんにくちばしが長く、目のギョロリとしたみにくい小: 烏だった。 その烏の魂を天のうたが貫いたとき、烏は炎に包まれた。 痛みと苦しみで、いまにも死んでしまいそうになった。 そのとき、月は言った。 「おまえの全てを天のうたに捧げるのだ。人々のために捧げるのだ。 痛みも苦しみも全て捧げてうたうのだ」 ピ ョ ロ ロ ロ ロ ∼ 烏は天のうたを奏ではじめた。 森の奥で、世界にまどろんでいたひとの耳に、生まれてはじめての「音」が聞こえた。 ピ ョ ロ ロ ロ ロ ∼ 今や真っ赤な炎の色をした烏の奏でる天のうたは、ひとの魂を目覚めさせた。 そうして、まどろみから目覚めたひとは、うたとことばと智恵をもつ存在になったのだ。 こ れ が は る か か な た の 昔 か ら は る か か な た の 未 来 へ の 物 語 で あ る 。 −43−
沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012) 〔クカル考資料2〕 (2)クカル考(20110907)「イトマキボラのはなし」 はるかかなたの昔、 ひと は 、夜で も 昼と同じ ように 歩くこ とができた。 なぜなら、ひとは、自分の周りを包む匂いをたよりに生きていたからである。 そのため、ひとは、いまだ世界と出会ってはいなかった。 ある夜、月は、海の貝に問いかけた。 「<ある〉ものであり同時にくない〉ものとは何か」 はじめに、美しい二枚貝が答えた。 「それは、私の貝殻です。私たちは、いつか片貝となっても、見えないもう片方とつながり 続けることができるからです」 月は、二枚貝を讃えた。 「おまえは、天空の音楽をその身に宿し、そのカタチと色と模様は、天空の交響となるだろう」 次に、愛らしい巻き貝が答えた。 「それは、あなたの影と光です。水面にあなたの影が映るとき、あなたの影は光となってこ ちらを照らし、天空と水面の両方にあるからです」 月は、巻き貝を褒めた。 「おまえは、天空の物語をその身に宿し、そのカタチと色と模様は、天空の書物となるだろう」 3番目に答えたのは、りっぱなうずまきを持ったイトマキボラだった。 「それは、〈知らない〉ことをく知っている〉あなたの叡智そのものです」 月は、イトマキボラを祝福した。 「おまえのうずまきは、私の叡智の容れ物。その命の螺旋をくぐり、世界の智恵のすべてを 得ることだろう」 そうして、月は、イトマキボラに言った。 「人々のために、おまえの為すべきことを為さしめよ」 イトマキボラは、新月の大波に乗って、うなぞこから人々のもとへのぼっていった。 海から漂う、魂をふるわせる匂いをたどり、ひとは、イトマキボラと出会った。 「おまえの命の螺旋に、私の命をくぐらせよ」 そのとてつもない苦い味にひとの身体は震え、魂が覚醒した。 ひとの目に、光と色が鮮やかに映った。 ひとは、はじめて世界を見た。 目に映る明るい光と鮮やかな色彩は、ひとの心を高ぶらせた。 荒ぶる魂は、世界を堕落させていった。
上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」一 月は、イトマキボラに言った。 「世界のために、おまえの為すべきことを為きしめよ」 イトマキポラは、満月の大波に乗って、うなぞこから人々のもとへのぼっていった。 「おまえの命の螺旋に、海の命をくぐらせよ」 イトマキポラは、美しく鮮やかな赤い色をした卵を差し出した。 「これは私の命の源。海の命をつなぐもの。おまえの命の螺旋をくぐらせよ」 イトマキボラの卵は、この世で最上の味がした。 荒ぶる魂は、静まり、天空の交響に耳を澄ませ、天空の書物に心を添わせることができるよ うになった。 こうして、ひとは、本当に、世界と出会ったのである。 こ れ が は る か か な た の 昔 か ら はるかかなたの未来への物語である。 −45−
沖縄キリスト教短期大学紀要第40号2012) 〔クカル考資料3〕 (3)クカル考(20110901)「ひとの願いのはなし」 はるかかなたの昔、 ひとは、天からの恵みを受けて暮らしていた。 野山や海辺は、美しいもので満ちあふれていた。 ひとは幸せだった。 あるとき、ひとの心にちいさな願いが生まれた。 「天にも地にもない、美しいものを創り出してみたい」 そのちいざな願いは、だんだん大きくなり、ひとの心は張り裂けそうになった。 もはや、野山や海辺を歩いていてもひとは幸せではなくなった。 うたもうたわず、だまりこんでいるだけのひとに、月はたずねた。 「なぜ、うたわないのか」 ひとは言った。 「うたいたいうたを失ってしまったからです」 「なぜ、失ってしまったのか」 「幸せではないからです」 「なぜ?世界はこんなにも美しいもので満ちあふれているのに?」 「わたしは、天にも地にもない、美しいものを創り出してみたいのです」 ひとの願いは身も心も焦がし、ついに火の柱となって天へ届いた。 ひとは、生まれてはじめて天に祈った。 月は、いよいよ、ひとが智恵を授かるときが来たことを知った。 月 は 、 森 の 王 ク カ ル を 海 へ つ か わ す こ と に し た 。 「世界のために、我が身を棒げよ 人々のために、海の宝を持ち帰るのだ」 こ れ が は る か か な た の 昔 か ら は る か か な た の 未 来 へ の 物 語 で あ る 。
上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」一 〔クカル考資料4〕 (4)クカル考(20110831)「森の王と海の王のはなし」 はるかかなたの昔、 うみは、コトバを超えたコトバの領域だった。 生まれるべき思考の全てを内包した果てしない沈黙の支配する領域だった。 うみでは、宇宙の哲学を司る貝たちが、その身の奥で世界の思考を育んでいた。 ひとつの思考が満つる時、貝は我が身を捧げる。 思考の抜け殻は、波に揺り上げられ、ひとの領域へと運ばれる。 ひとは貝殻に触れ、己と世界の境界と出会う。己を深く感じ、世界を求める。 思考をたずさえた貝の命は、うずまきの螺旋をくぐり、新しい生を得る。 命の螺旋をくりかえし、いまや世界の思考はイトマキボラの内に息づいていた。 りっぱなうずまきを持つ貝は、果てしない沈黙、全てを内包した闇の中で、我が身に満つる 世界の思考に光を与えるものを、世界の思考を語り始めるものを、待ち続けていた。 やがて時がきた。 天のうたを奏でる炎をまとった烏が、月の光の道をたどり、命の螺旋をくぐり、イトマキボ ラヘと刻印された。 わたしはおまえに、おまえはわたしに、命の螺旋はめぐりめぐる 古い命の終わりに、新しい命の始まりがある、命の螺旋はめぐりめぐる 沈黙の闇に光さして、コトバを超えたコトバが生まれる、命の螺旋はめぐりめぐる 森 の 王 ク カ ル は 、 海 の 王 ク カ ル と な っ た 。 うずまきの螺旋をのぼりくだり、クカルは海と森を生きるものとなった。 こうして、世界の思考は、ひとの領域へ命あるものとしてもたらされるようになったのだ。 こ れ が は る か か な た の 昔 か ら は る か か な た の 未 来 へ の 物 語 で あ る 。 −47−
沖縄キリスト教短期大学紀要第40号(2012) 〔クカル考資料5〕 5クカル考(20110903)「赤瓦と漆喰のはなし」 はるかかなたの昔、 海の王クカルは、うなぞこに息づく命のすべてに呼びかけた。 「私と共にひとの領域へ行く者はいないか」 O 「私を手伝ってくれないか」 ○ 「新しい命を生きる者はいないか」 深い沈黙の奥のずっと奥で、かすかな声が応えた。 「私が参ります。私は私の運命を試してみたいのです」 それは、うなぞこ深く積もった黒い土だった。 黒い土は、はるかかなたのそのまたはるかかなたの昔から、うなぞこに降り積もり、じっと 海の底を支え続けてきた。 そのとき、もう一つの声が、力強く響いた。 「私も一緒に参りましょう」 白く輝くサンゴだった。サンゴは言った。
「私は、ずっと黒い土に支えてもらってきた。そのおかげで、幾世代も子ども達を育てる幸
せをいただいてきた。今度は、私が黒い土の支え手となろう」 その瞬間、暗い闇の中に、ひとすじのまばゆい光が射し込んだ。 海の王クカルは、黒い士と白いサンゴをその身に抱くと、命の螺旋をくぐり、月の光の道を 通って、海面へと潮け上った。 気がつくと、黒い土と白いサンゴは、我が身に纏っていた懐かしい海の気配を絶ち切り、森 の王クカルのはばたきと共に、天空の只中を飛んでいた。 月は言った。 「互いのためにその身を与えあう者たちよ。その尊い魂の美しさは、ひとの心を揺さぶり、 世界をゆさぶり、新たなときをしでいる(生み出す)だろう」 森の王クカルは、人々のために、海の宝を持ち帰った。 ひとは、いまや、「天にも地にもない美しいものを創り出したい」という願いが、全身から たちのぼる炎となって、天にも届く火の柱となっていた。上原:「自由への読書」のための実践的研究1−神話的思考実験としての「クカル考」一 「熱い・・・」 黒い土と白いサンゴは、ひとの願いの炎に焼かれた。 「私は私の運命を試してみたいのです」 黒い土は、熱さに身をよじりながら、じっと耐え続けた。 その傍らで、炎に焼かれながら、白いサンゴは言った。 「私は、どこまでもあなたと共にあろう」 七日七晩、炎に耐えた黒い土は、真っ赤な炎の色の土となって、赤瓦としての新しい命を得た。 白いサンゴは、輝く白い漆喰となった。 こうしてひとはついに、「天にも地にもない美しいもの」を創り出すことができたのだ。 白い漆喰は、その身の全てで、赤い瓦を支えている。 いつか、白い姿が黒く変わっても、この尊い2つの魂の美しい紳は、永遠に変わることなく、 ひとの暮らしを守ってゆくのだ。 ひとの心に新しいうたが生まれはじめた。 や が て 、 ひ と の 心 に 新 し い う 7 世界は、喜びに満ちていった。 こ れ が は る か か な た の 昔 か ら はるかかなたの未来への物語である。 −49−