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『森に住む人々」試論
福 岡 忠雄
1 これから始まるパストラル的世界をいち早く予感させる点で,この小説の冒 頭部分は極めて巧妙にできている。「かつての馬車道を,昔の思い出を尋ねて辿 る旅人がもしあれば」という出だしの一句は,直ちにこの物語の基本となるノ スタルジックな気配を醸しだしているし,この物語自体が作者の記憶の中の「昔 1) の思い出を尋ねる」趣向から生まれたかのような気分を誘う。失われた日々を 2) 懐かしみ,古き良き時代をしのぶノスタルジアはパストラルの基調である。 やがて最初の人物が登場する。かつら屋のパーコムである。彼はリトル・ヒ ントックに行く途中道に迷ったらしく,入り口を求めて途方にくれている。ち ょうどそこヘミセス・ドラリーが手綱を取る乗合馬車が通り合わせる。これ幸 いと助けを求めるパーコムに「なにしろ,ほんとに小さい所だから,あんたみ たいな町の御人は,ランタンに灯をともして探しでもしないと見過ごしてしま うよ」と言う。この部分の含みはやがて明らかになる。やがて辿りついたりト ル・ヒントックを作者は次のように描く。 1)実際,Millgateはこの物語が,バーディ自身の身近な祖先への懐旧の思いに基づいてい ると指摘している。Michael Millgate, Thomas Hardy’A Biograpkp(Oxford Univer− sity Press, 1982), p. 280. 2) “For the pastoral, time is a concommitant of emotion. For this reason, nostalgia is often an important temporal quality of pastoral literature.” (Andrew V. Ettin, Literature and the Pastoral (New Haven and London : Yale University Press, 1984), p. 142)At length could be discerned in the dusk about half a mile to one side, gardens and orchards sunk in a concave, and as it were snipped out of the woodland. From this self−contained place rose in stealthy silence tall stems of smoke, which the eye of imagination could trace down− ward to their root on quiet hearthstones festooned overhead with hams and flitches, lt was one of those sequestered spots outside the gates of the world. (Chapter 1, my italics) ここにはパストラル的空間に必要な要素が殆ど網羅されている。「庭」や「果樹 園」などの語は,手入れされた自然の状態を表す。そのままの野生がすべて排 除されることはないにしても,パストラルに描かれる自然は,乱暴・で厳しい砂 漠や荒野としての自然ではなく,適当に馴致された自然であり,秩序と調和を 3) もつ自然でなくてはならないのである。 「頭上にはハムやベーコンが亜綱のようにぶら下げられている静かな炉端」 もまた典型的パストラルのお膳立てである。それらは飢餓や貧困とは対極の物 質的には恵まれた状況の象徴であり,「花綱」はそのような自然の恵みに対する 祝祭的雰囲気を漂わせている。「静かな炉端」もパストラル的トポスの典型で, パストラルの重要な要素である“憂き世の労苦からの解放の場”を具現するも のである。 しかし,この部分においてリトル・ヒントックを最:もパストラル的空間とし て印象づけるキー・ワードは他にある。それは「隔離された」(sequestered)と 4) 「密閉された」(self−contained)とv・う二つの用語である。パストラル的空間の 3) “(T) he pastoral ideal is an embodiment of what Lovejoy calls “semi−primitivism” ; it is located in a middle ground somewhere “between,” yet in a transcendent relation to, the opposing furces of civilization and nature.” (Leo Marx, The Machine in the Garde7t : Technology and the Pastoral ldeal in America (Oxford University Press, 1964),p 23) 4) “ln the most languidly iclyllic pastoral descriptions, such as the large meadow and lovely valley of the first passage from Homer, we will feel that the pastoral life is ・
『森に住む人々』試論 55 最大の条件は,それが“隔離された場所”であることである。何から隔離され ているかといえば,それは“都市”および都市が象徴する社会的諸制度,諸原 理からである。一言で言えば,パストラル的下問とは都市が象徴する法的,経 済的,政治的諸制度の及ばないユートピアとしての空間なのである。この物語 において最初にかつら屋が登場し,彼が目指すリトル・ヒントックを捜し出す のに大いに苦労する含みの意味がここにある。“町の御人”には入って行く道が 分からない。それはリトル・ヒントックが町から遠く離れた“隔離された”場 所であることを表している。“隔離された場所”としてのパストラル的空間は, 当然密閉された空間でもある。この空間の平和は,外部から進入する異質な要 素を排除することによって保たれているからである。そのためにはこの空間に おける人間の営みの多くが自足的でなくてはならない。例えば,木材という自 然が供給してくれる資源を主な経済的糧とするこの村の経済は,外部の経済的 5) システムに依存する度合いが極めて僅かであり,また,人間関係における“交 換”制度ともいうべき結婚に関してもほぼ自足的である。 As in most villages so secluded as this intermarriages were of Hapsburg− ian frequency among the inhabitants, and there were hardly two houses in Little Hintock unrelated by some matrimonial tie or other. (Chapter 4) 豊かな自然,ノスタルジックな雰囲気,約束された安逸と休息,隔離,密閉 された空間,物語の開巻そうそうに打ち出されたパストラルとしての基調は, X sequestered and protected. The pastoral world will seem, indeed, to be a safeiy contained and self−contained haven from the hazards of public places and the flow of ordinary time.” (A. V. Ettin, oP. cit,, p. 11, my italics) 5) Pastoral downplays economics through the ideai space it creates and through the imaginative play enacted within this space. COwen Schur, Victorian Pastoral : Ten− nyson, Hardy, and the Subversion of Forms (Columbus ’ Ohio State University Press, 1989), p. 8)
登場人物にも反映されている。例えば,ジャイルズ・ウイタボーンとマーティ・ サウスの二人がそうである。「他の誰にも分からない言葉,樹々が交える言葉を 6) 理解する」という二人は,自然と一体となって生きるパストラル的造形の典型 である。厳密に言えば,本来パストラルに登場する人物といえば,羊飼いでな くてはならない。例えば,バーディのもう一つのパストラル的作品『遥か狂乱 の群れを離れて』のゲイブリエル・オウクがそうであるように。しかし,たと え扱うものが羊から苗木に変わろうと,この二人が同型であることは誰の目に も明らかである。地味で目立たない性格,忍耐強さ,変わらぬ誠意等々,全く 同じである。 意外に思われるかもしれないが,フィツパイアーズもまたある意味でパスト ラルに欠かせない人物なのである。少なくとも,導入部の彼はそうである。と いうのは,パストラルは伝統的に,農村社会と,そこへやってくる一人目都会 人という定型をもっていたからである。これは勿論,都市と農村との対比とい う基本形に沿うものである。この場合の“都会人”とは原則として詩人である。 このことは,パストラルが元々,現実の空間とは関係の無い,伝統的定型に則 7) つた言語遊戯的空間だということを思い出させるものである。「詩を好む」都会 人としてのフィツパイアーズの導入はこの定型をなぞったものなのである。 文芸形式としての伝統をなぞったということで言えば,この物語の最終章も 極めてパストラル的である。即ち,死んだジャイルズの墓に一人詣でるマーテ ィの姿がそれである。死んだ恋人,彼の墓,その前に額ずき人の世のはかなさ を嘆く人,これはパストラル,より正確には,パストラル・エレジーの典型的 構図である。 II 前章で私は,この作品に組み込まれている様々なパストラ的要素を列挙して 6) Thomas Hardy, The vroodlanders, chapter 44. 7) “Pastoral involves play through and about language, and the genre takes form around language games, often song contests.” (O. Schur, oP. cit,. p. 5) .
『森に住む人々』試論 57 きた。しかし,実を言うと,それは議論を進めるための“仕組まれた”前置き であったことを白状しよう。というのは,「バーディは表面上,このような入念 なパストラル的装いによって,当時の読者の好みに応ずるポーズをとりながら, その実,パストラルというジャンルが内包する“隠蔽”や“歪曲”を,テキス トの微妙な亀裂を通して,それとなく露出させようとしているのではないか」, それを立証するのが本論の狙いだからである。何のためにバーディがそんなこ とをしなければならなかったのかについては,後で推論を試みることにして, その前に,過剰なまでにパストラル的な要素が盛り込まれたこの作品のどこに 反パストラルなものが組み込まれているか見てみることにしたい。 第一に気がつくことは,自然そのものがおよそパストラルにふさわしくない 様相を呈していることである。例えば,伝統的パストラルによれば,季節は夏, 8) また一日の時間で言えば真昼がルールである。つまり,自然が最もみずみずし く,緑濃く,生の鼓動の高鳴る季節である。そう言えば,テスの苦難の人生に おける束の間のパストラル的瞬間もやはりこの季節であった。 Amid the oozing fatness and warm ferments of the Var Vale, at a season when the rush of juices could almost be heard below the hiss of fertilization, it was impossible that the most fanciful love should not grow passionate. (Chapter 24) ところが,『森に住む人々』は冬に始まる。従って自然を叙述する言葉もおそよ パストラルからは程遠い。それでも,作者にそのつもりがあれば,冬は冬なり に厳粛で落ち着いた景色の魅力もあるはずである。しかし,テキストでは,「枯 れた」「朽ちた」「病んだ」等の言葉が頻出し,死の予感と退嬰的な雰囲気が漂 って,パストラル的自然が約束する“再生への期待”などどこにも見当らない。 第四章の冒頭,新しい日への再生であるはずの夜明けの様子の比喩として用い られた「死んだままで生まれてきた赤ん坊のように」という一句は特に強烈で 8) A.V. Ettin, oP. cit., pp. 136−7.
ある。作品全体の印象を左右する序章でのこのような自然は,後に季節がめぐ り,森が活気を取り戻した後になっても,読者の意識のどこかにわだかまって しまう。 しかし,この作品に描かれた自然が,パストラルのそれとは決定的に違う理 由は他にある。 On older trees still than these huge lobes of fungi grew like lungs. Here, as everywhere, t.he Unfulfilled lntention, which makes life what it is, was as obvious as it could be among the depraved crowds of a city slum. The leaf was deformed, the curve was crippled, the taper was interrupted;the lichen ate the vigour of the stalk, and the ivy slowly strangled to death the promising sapiing. (Chapter 7) この部分はよく引用される個所で,多くの論者の指摘する通り ダーウィン的 9) 自然観が明瞭に見て取れる。己が生き延びるためには他を犠牲にするという, 所謂“適者生存”の競争原理は,パストラルの調和的,平和共存的自然観と真 っ向から対立するものである。特にこの作品で,ダーウィン的法則に支配され る自然が格別不協和音を発する理由は,それが都市の原理に通底するものだか らである。元々この空間は都市原理から隔離されていたが故にパストラル的空 聞であり得たはずである。しかし,そこが一旦“適者生存”,“弱肉強食”の場 となってしまえば,食うか食われるかの競争原理に明け暮れる“都市”と何ら 変わることのない場となってしまう。現に,「“満たされざる意図”の明白なこ とは,都市のスラムの退廃した群集の問におけるのと同じで」と言うように, 保たれるべき都市との対比そのものが崩れてしまっている。都市の競争原理の 根底にあるのは経済活動営利活動である。経済活動の場に勝ち残るためには, 調和や平和共存に構ってはいられない。何よりも,他に打ち勝つ強者のみが生 9) See David Lodge, Working with Strvtcturalism : Essays and Reviews on Nineteenth− and Twentieth Centu73; Literature (Routledge and Kegan Paul, 1981)
『森に住む人々』試論 59 き残る。逆に言えば,パストラルがパストラルであり続けるためには,これら 経済的要因を一切排除する必要があるのだ。経済的活動は,たとえ行われると しても,あくまでも自足的範囲に限られ,競争原理の発端となる蓄積された財 の力による“纂奪”(usurpation)が行われないことが条件なのである。 ところが,表面的なパストラルの装いにも関わらず,この“纂奪”こそがこ の小説の重要なテーマの一つなのである。現に,この物語では,経済行為に関 するエピソードが意外なほど多い。開巻部の憲章を読み直しただけでも,マー ティの父親の“生涯所有権”の話,メルベリーの“街道債券”の話,請負仕事 の契約の話,そして何よりもパーコムによるマーティの“髪の毛買い”の話な どがすぐに目につく。特に,マーティの髪の毛の一件は重要である。物語の後 半,チャーモンド夫人とフィッツパイヤーズの不倫が,一挙に熱が冷めてしま うのは,夫人の髪の毛が偽物だと男が気づいたからで,そこから話がまた新た な展開となることを考えると,冒頭のこのエピソードは,プロット上の巧妙な 伏線であると言える。しかし,このエピソードが伏線となっているのはプロッ トに対してだけではない。この物語が含むテーマそのものに関する伏線でもあ る。それが“纂奪”のテーマである。 III この物語では,土地の生涯所有制という独特の制度が物語の紛糾の発端にな っている。代々の取り決めによって,マーティの父親が死んだ時点で,契約の 更改の手続きをとらないと,ジャイルズは家屋敷を失うことになっているので 10) “One of that traditional figure’s (i. e. the good shepherd’s) greatest charms always had been his lack of the usual economic appetites. As Renato Poggioli observed, in the literary mode the shepherd appears everywhere as the “opposite of the homo oeconomicus”....To find an almost perfect model of the Jeffersonian econoniy we need only recall the situation of the happy rustic in Virgil’s first eclogue. There too the economy makes possible the contained self−sufficiency of the pastoral community..., The goal is sufficiency, not economic growth....By equating desires with needs, turning his back on industry and trade, the husbandman would be free of the tyranny of the market.” (Leo Marx, oP. eit., p. 127)
ある。実際,ふとしたことで地主のチャーモンド夫人を怒らせてしまった彼は, 一方的に契約の延長を拒否される。(ただし,感情のもつれは口実で,チャーモ ンド夫人の側に,当時貴族の間で流行した“囲いこみ運動”に一枚加わろうと した気配が感じられる)。こうして,彼は仕事場も住む場所も取り上げられ,同 時にグレイスの結婚相手としての資格も失ってしまうのである。つまり,この 物語の背景には,不合理な土地所有制度という経済的な問題が用意されている のである。 ただ,一口に纂奪と言っても,小説である以上,それが純粋に経済的行為の レベルにとどまることはない。必ず,人間ドラマに密接に関わってくる。財力 にものを言わせて買いとったマーティの髪の毛買いは,単なる商行為ではすま ない。他の女を美しく見せるために,彼女の女性としての象徴が“商品”とし て交換の対象とされ,彼女の“女”が経済の仕組みの中で売買されたのであ る。テキストはこの事件をdefloweringと言い, rape of locksと呼ぶ。つま り,象徴的には,彼女のセクシュアリテdそのものが纂奪されたことを意味す る。従って,この時点で既に,彼女が最:後までジャイルズと,男と女の関係に 踏み込むことはないであろうことが予告されているのである。この予告通り, 最終章はセクシュアリティを奪われた女としての禁欲的で中性的な彼女を描い ている。 As this solitary and silent girl stood there in the moonlight, a straight slim figure, clothed in a plaitless gown, the contours of womanhood so undeveloped as to be scarcely perceptible in her,...she touched sublimity at points and looked almost like a being who had rejected with indiffer− ence the attribute of sex for the loftier quality of abstract humanism. (Chapter 48) メルベリーと亡くなった先妻の場合はもっとはっきりしている。元々,ジャ イルズの父の恋人であったはずの女性をメルベリーが“横取り”したのである。
『森に住む人々』試論 61 マーティの髪の毛買いという挿話的事件を別にすれば,この物語の実質上の展 開は,自分の過去を悔やんだメルベリーが,その償いとして,ジャイルズと娘 のグレイスを結婚させるという約束,“契約”から始まっている。つまり,ここ でも纂奪事件が物語の起点として設定されているのである。 民間伝承特有の寛いだ気分の陰になって目立たないが,“Midsummer eve” のエピソードの底に見え隠れするのもやはり同じパターンである。この晩,将 来の夫を占ってもらえるという土地の言い伝えに従って,山に入った娘たちは, 突如パニック状態となり,一斉に山を駆け下りる。その時を狙って,ジャイル ズが抱き止めるはずだったグレイスをフィッツパイヤーズが“横取り”してし まうのである。この事件だけであれば,纂奪などというのは大げさに過ぎるが, 生涯所有権の問題から始まって,この物語全般にわたって蚕砂が行われ,その 殆どが典型的パストラル人間,ジャイルズをめぐるものであることを考えると, たとえ,土俗的・迷信的おおらかさに包まれた事件であっても見過ごすわけに はゆかない。 その証拠に,この物語の最大のクライマックスにおいても,この構図が繰り 返され,この場合も被害者はまたもやジャイルズである。夫の背信に疲れたグ レイスは,復縁を迫る彼から逃れるために友人の許へ頼っていこうとする。だ が途中で行き暮れて,困った彼女はジャイルズの小屋に泊めて貰う。慎み深い ジャイルズは,同室を避けるために自分の小屋を開け渡し,自分は粗末な囲い の中で夜を過ごす。折悪しく,その晩から風雨がつのり,既に病を得て体力を 消耗していたジャイルズは,この嵐の追い打ちにあって結局死んでしまう。 この場面は通常グレイスの精神史における重要な覚醒の瞬澗とされる。世間 体をはばかって,ジャイルズの寛大さに甘えひとり小屋にこもっていた彼女が 最後になって,事の重大さ,ジャイルズの人間としての真価に気づき,「もう何 も構わないから,入ってきて」と叫ぶところに,体面ばかりを慮って,おどお どと生きてきた彼女が,人間として最も大事なものが何であるかに気づいた瞬 間だというのである。この解釈にはどうも無理があるように思う。というのは, 物語にはまだ先があるからだ。この後,グレイスはあっけない位あっさりとフ
イッツパイアーズと復縁し,ジャイルズを悼む気持ちもたちまち薄らいでしま っている。復縁の約束を取りつけたフィッツパイアーズは,とりあえず二人の 落ち合う先を“ウェセックス伯ホテル”に指定するが,グレイスは難色を示す。 「人に見られるのが厭なのかい」と聞く夫にグレイスは,「別にそうじやないけ ど,ブラシも櫛も持ってきてないんですもの」と答える。この皮肉たっぷりの 幕切れは,言葉とは裏腹に彼女が最後まで気にかけていたのは,身だしなみで あり,体面であったことを示している。 嵐の晩のでき事を,一人の女の精神的成長のきっかけとのみ見る見方は,グ レイスの側に立ってしか状況を見ていない。ジャイルズの側に立って事実を確 認すれば,そこには,世間の目をはばかるグレイスがジャイルズをその住む家 から追い出したという新たな“纂奪”の構図が見えてくるはずである。つまり, 結果的には,チャーモンド夫人の行為の繰り返しなのである。チャーモンド夫 人が,先祖代々受け継がれてきた所有権を盾にジャイルズの住まいを自分の “property”と主張,彼を追い出したとすれば,グレイスは“propriety”を盾 に,彼を追い出したのである。 やがて,病み衰えたジャイルズを見て,事の重大さを悟ったグレイスは,遂 に彼を小屋の中へ入れる決心をする。その時初めて彼女は,事をここにまで至 らせた原因が何であったかを悟るのである。 A dreadful enlightenment spread through the mind of Grace. “Oh,” she cried in her anguish as she hastily prepared herself to go out ; “how selfishly correct I am always−too, too correct! Can it be that cruel ProPriety is killing the dearest heart that ever woman clasped to her own !” (Chapter 42, my italics) この物語が,作者が予告したような「ソフォクレス的規模と統一の悲劇」にま 11) で高揚せず,「もの静かで冥想的でゆっくりしたペース」で終わってしまってい 11) David Lodge, oP, cit., p. 79
『森に住む人々』試論 63 る原因の一つは,クライマックスであるはずのジャイルズの死に至る行程で, 強烈な悲劇の原因が欠如していることである。元々パストラルを装った作品で あるだけに,そのような強烈さはかえって語りの穏やかさを乱すことを懸念し たからかもしれない。その欠如を埋めるのがグレイスの“体面(propriety)”で ある。フィッツパイヤーズの出奔によって,改めてジャイルズとグレイスが結 ばれる可能性が開かれる。しかし,この時になってもなお,二人の間に割って 入り,その実現を妨げるのが他ならぬグレイスのproprietyなのである。 The question whether the future would indeed bring them together for life was a standing wonder with her. She knew that it could not with any ProPriety do so just yet. (Chapter 38, my italics) “Not that 1 feel morally bound to any one else after what has taken place ; no woman of spirit could−now, too, that several months have passed. But 1 wish to keep the ProPrieties as well as 1 can.” (Loc. cit., my italics) それは一見,若い娘特有の小心さに過ぎないかに見える。しかし,この何でも ないように見える意識が,あの嵐の晩,最早手遅れとなる瞬間まで,二人の前 に立ちはだかり,ジャイルズを死に追いやる。つまり,結果として,グレイス のproprietyは,チャーモンド夫人のpropertyに劣らぬ位ジャイルズの悲劇の 要因となっているのである。 ところで,proprietyという言葉は語源的にはpropertyから派生したもので あるという。だとすれば,ジャイルズの小屋を占拠したグレイスの「体面(pro− priety)」は,彼の家屋敷を取り上げたチャーモンド夫人の「所有権(property)」 とどこかでつながっていることを暗示する。チャーモンド夫人のそれのように, その細面はあからさまに経済的には見えないかもしれないが,たぐってゆけば 結局同じ根に辿り着きそうな気配がある。それは,経済の問題そのものを包含
するより大きな問題階級社会という政治的テーマの影である。
IV
Propertyといい, proprietyといい,その二つともが階級・階層を分ける閾, 優越的な階級のその優越性の表徴である。貴族は地主として,土地(property) の占有によって経済的・社会的優越性を保持している。同時に,優越的な階級 は,その階級にふさわしい“固有の行動様式”(propriety)を規定することに よって階級的アイデンティティを保持しようとする。それはまた“排除”の論 理でもある。階級のアイデンティティは,その階級に属さないものを追放・排 除することによって保たれる。グレイス自身元々高い身分にあるわけではない。 出自においてはジャイルズと同じである。だが,父親によって身につけさせら れた“教育”は,彼女を階級的なエグザイルに仕立ててしまう。 Leaving out the question of Grace being anything but an ordinary woman, her peculiar situation, as it were in mid−air between two storeys of society, together with the loneliness of Hintock, made a husband’s neglect a far more tragical matter to her that it would be to one who had a large cirlce of friends to fall back upon. (Chapter 30) 階級社会の中にあって,その身分制度を跳び越える手段としての教育をバーデ ィはたびたびテーマとして取り上げている。その代表は『ジュード』である。 しかし,その扱い方は常に二重性を持っている。教育は確かに階級社会の閾を 跳び越える力になる。だが,同時に,自らが生まれ育った階級との伯山を失い, 根無し草になってしまう危険1生を孕んでいるのである。テスの悲劇の一因は, エンジェルによって身につけさせられた“教育”のために,彼女が無理矢理ミ ドル・クラスの価値観の中へ取り込まれたことにある。 こう考えてくると,グレイスばかりを責めるのは酷に思えてくる。彼女が身 につけさせられた教育は,彼女をより上の階層に押し上げ,そして,そのこと『森に住む人々』試論 65 のために彼女は,その階層にふさわしい行動を求められただけなのだから。そ れがジャイルズに対する翼長・排除という結果になったとすれば,その原因は, 彼女自身というより,そのような排除の論理を内包した階級社会の仕組みその ものに求められるべきなのだ。 この小説が,階級社会という政治的陰影の下にあること,また,そのような 制度への辛辣な皮肉,抵抗を秘めていることを明瞭に示すのが,フィッツパイ ヤーズが落馬したあの晩のエピソードである。彼が重傷を負ったという噂を信 じて,チャーモンド夫人とスーク・ダムソンが大慌てでやってくる。いずれも 彼と関係のあった女たちである。二人に応対したグレイスは,普通なら,正式 の妻の座にある者が当然示すべき嫉妬と怒りの感情を不思議に持てないままに, むしろ,同性としての一種の連帯感をもってこう言う。「あなた方なら,彼の寝 室に入る権利が立派にお有りになりますわ……妻が三人制どうせのことなら, 12) 一緒に入りましょう」。現代の読者には勿論のこと,当時の読者にとっても,こ の場面は,それまでの地味で控え目な調子の中へ,唐突に持ち込まれたファー ス,あるいはカリカチャーのような印象を与えたはずである。だが,この唐突 感,カリカチャー的不協和音こそ,よどみなく運ばれる物語の定型的筋運びに 亀裂を生じさせ,その定型の奥に隠されているものを垣間みせる瞬間になって いる。と言うのも,このファースは,一人の男と三人の女のドタバタ喜劇的様 相の背後に,“社会的ヒエラルキーの下に置かれた男女関係”という政治的テー マをちらっかせているからである。スーク・ダムソン,グレイス,チャーモン ド夫人一フィッツパイヤーズをめぐるこれら三人の女性は,順に,労働者階 級,ミドル・クラス,貴族階級と,きれいに各階級を代表する。そして,フィ ッツパイヤーズと彼女等一人一人との性的関係は,階級的色分けに合致する形 で結ばれている。ミッドサマー・イヴの晩,行きずりに稲叢の草いきれの中で 関係を結んだスーク,代々の古い調度品に囲まれた館の一室で,有閑階級の未 亡人がもて余す倦怠と憂愁に乗じて結ばれたチャーモンド夫人,金と教育を頼 みに,ひたすら上流階級の列に連なることを夢見る父に促されたグレイスとの 12) Thomas Hardy, The PVoodlanders, chapter 35.
関係。これら三様の関係は,フィッツパイヤーズのセクシュアリティを通して, 当時の階級社会におけるそれぞれの階級のあり様を,ブラック・ユーモア風の 装いの陰に皮肉と抗議を秘めながら描き出しているのである。この物語で男女 13) 関係の中心となるのは,ジャイルズではなくフィッツパイヤーズである。社会 の底辺に位置する男ではなく,古い貴族の末喬である。スークの好奇心,グレ イスの父の野心,チャーモンド夫人の階級意識,フィッツパイヤーズの放縦な 女性関係をかくも易々と可能にしたこれらの要因のすべては,彼の階級上の優i 越に発しているのである。つまり,この物語では,社会的ヒエラルキーが男女 関係の中にそのまま持ち込まれているのである。同じく一対三の男女関係を扱 いながら,『遥か狂乱の群れを離れて』の場合,この小説とは反対に,一人の女 対三人目男という構図になっている。つまり,男女の構成が裏返しになってい るのである。その結果と言っていいと思うが,ここではバスシーバの恋愛遍歴 に階級という社会的成分がほとんど感じられないし,男たちも,持ち前の男伊 達や情熱や誠意などを武器に争うのであって,身分や階級は関係がないのであ る。焦点は専ら,彼女の未熟から成熟へと向かう“感情教育”の場としての恋 愛であり,しかもその恋愛は,適当に現実感を保ちながら,パストラルにふさ わしいロマンチックで甘美な気分が残されている。 それに比べて『森に住む人々』におけるいずれの恋愛も苦い後味が残る。成 程,定石通りフィッツパイヤーズとグレイスは最後には“めでたく”復縁する。 しかし,それも,二人が半ば逃れるように“町”へと出て行き,しかも「今か ら二,三年後,グレイスにまた同じような不幸がやってこないと誰が断言でき ょうか」などと,およそパストラル的祝福には程遠い結末なのである。 同じ一対三の男女関係の構図を持つ両者のこの違いは,バスシーバと違い, フィッツパイヤーズが,都市からやってきた名門貴族の末喬で,しかも男性で あることに発していると言っていいであろう。それによって,この空間の中へ 13)バーディがこの物語に最初に用意したタイトルはFitzpiers at Hintockだったという。 See Richard Little Purdy, Thomczs Hardy : A Bibliographical Study (Oxford at the Clarendon Press, 1954), p. 56.
『森に住む人々』試論 67 都市の原理,階級の原理,男性社会の原理が持ち込まれ,本来排除されるべき これら“政治的”要因のためにパストラルの世界がその基盤を切り崩されたの である。 結び 『森に住む人々』は,その題名はもとより,設定された舞台,登場人物,ド ラマとしての穏やかさ,全篇を包むノスタルジックな気分等々からして,バー ディの作品の系譜からみて,『緑樹の陰で』,『遥か狂乱の群れを離れて』を受け 継ぐ,正統派のパストラル小説,いや,その総仕上げともいうべき作品である かのように見える。だが,果たしてそうであろうか。むしろ逆に,これは極め て反パストラル的小説ではないのか。表面的には申し分の無いくらいパストラ ル的お膳立てを整えておきながら,結局,最終的にはそれらを覆してしまうの がバーディの狙いだったのではないか。 では,なぜそんなことをする必要があったのだろうか。それは“パストラル” という文学上のジャンルに対してバーディが常々一種の抵抗感を感じていたか らではないだろうか。ジャンルとは単に扱う内容,用いられるスタイルに関す る領域設定というだけのことではない。特定の領域を設定するということは, 同時にその領域になじまない要素を排除したり隠蔽したりするということであ る。言い代えると,パストラルがパストラルであるための不可欠な要素がいく つかあると同時に,排除,隠蔽されるべき要素もいくつかあるということであ る。 バーディが『緑樹の陰で』や『遥か狂乱の……』を書いた動機の少なくとも 半分位は作家として世に出るための計算つくであったと思われる。と言うこと は,かなりの部分,当時の読書界の趣味なり嗜好なりに自らをすり寄せていっ たということである。もっとも,『遥か狂乱の……』は今でもバーディの傑作の 一つである。ただ,それは,ジャンルが要求する諸条件に完壁に応じてみせた ということであって,その過程で,作者が自己抑制を強いられただろうことは 想像に難くない。つまり,先ほどの言い方を繰り返すなら,パストラルが内包
するイデオロギーによって排除されたり隠蔽されたりしたものに対し,バーデ ィが割り切れない思いを持ち続け,農村を描き自然を描きながら,これは決し 14) て本当の農村でもないし,自然でもないと考えていたと思われるのである。 言うまでもなく,パストラル的空間とは都会人が捏造した極めて人工的空間 である。 Although we may at first think of the pastoral tradition as a mouth− piece for the rural view, it is in fact predominantly urban in character. While it generally presents the country in positive terms as a retreat from care, it is a highly sophisticated form originating in the town and invariably for urban consumption; in William Empson’s terms it is 15) about countrymen but neither by nor for them. パストラルの世界とは,都市という概念が含む否定的要素をすべて裏返して, 空想裡に描きだしたユートピア的世界であって,農村社会の実態とは何の関係 もないものである。法や経済や政治のメカニズムで統御された人間社会の縮図 が都市である。それらは,社会全体の秩序や効率や利害の調整を保証する代り に,個々の人間からは自由を奪い,努力や責任を強制し,力と力の関係に巻き 込む。パストラル的空間がそのアンチ・テーゼとして,その過酷なメカニズム からの逃避の場として仮構されているということは,法や経済や政治に代表さ れる都市の論理とは無縁の世界であることを前提とする。バーディにとってそ れは欺隔以外のなにものでもなかったろう。法,経済,政治という都市のメカ 14) “The formal coherence of the genre may be disrupted, ironised, or subverted by elements that cannot be contained within the limits of its ideology ; in the case of Hardy, this can be seen most clearly in the anxieties and ambiguities of his relation to the pastoral mode.” Penny Boumelha, Thomas Hardy and Women: Sexzdal Ideology and IVarrative Form (The Harvester Press, 1982), p. 6. 15)W.H. Keith, The Rural:Tradition:A Stuめアげthe Non−Fiction Prose協’薦(ゾthe English Count7 yside (Tronto and Buffalo : University of Tronto press, 1974), p. 4.
『森に住む人々』試論 69 ニズムの最大の犠牲者が,都市の“植民地”としての農村社会だったのだから。 そして,その欺隔を暴く方法として,入念に装われたパストラルの空間へ,そ のメカニズムのすべて,法と経済と政治の論理を密かに忍び込ませたのである。 もう一度,パストラル的造形の化身であるジャイルズを死に追いやった直接的 原因を再確認すれば,まず,生涯所有制度によって家屋敷を取り上げられこと, 次に,離婚法の改正が実現しなかったこと,そして,グレイスの体面のために 小屋を明け渡したこと。それらは,それぞれ,経済・法・階級社会(政治)の メカニズムに対応していることが分かるはずである。