自由とライフ・チャンスーダーレンドルフの政治・
社会理論
著者
槍山 雅人
学位授与大学
東洋大学
取得学位
博士
学位の分野
法学
報告番号
乙第189号
学位授与年月日
2009
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007117/
2 0 0
9
年 度
東 洋 大 学 博 士 学 位 請 求 論 文
自 由 と ラ イ フ ・ チ ャ ン ス
ー ダ ー レ ン ド ル フ の 政 治 ・ 社 会 理 論
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-槍 山 雅 人
凡 例
1. ダーレンドルフの著作に独語版や英語版など複数の原典がある場合には、自身の母語 が独語であることから独語版を主たる文献とした。しかし、注などの頁数の表示では、 可能なかぎり双方の原典の頁数を示すとともに、邦訳のある場合には該当頁数を表記 した。ただし、増補改訂版として英語版が独語版の後に出版されたような場合には、 主文献として英語版を使用したケースもある。2
.
ダーレンドルフの著作からの引用で、既存の邦訳に依拠した場合、注に原著の頁と邦 訳の該当頁とを併記した。ただ、表記の統ーのため、引用文中の字句などを変更した 場合がある。また、既存の邦訳にまったく依拠していない場合、注には原著の頁のみ を掲げ、その邦訳書の頁数の記載を省いたケースや、そもそも邦訳書を記載しないケ ースもある。 3.注は通し番号を付し、それぞれの章末に一括して掲載した。 4. 注において、ダーレンド、ルフの原著作名が繰り返し登場するとき、原著名を簡略化し て記した場合がある。たとえば、α
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と記し、原典の文献名を類推しやすいよう配慮した。 5. なお、執筆者の判断でキーワードと判断する語句については、適 宜 < >で、括った。目 次
凡 例 頁 序 章 1.本論文の視点一一一自由の哲学的概念から社会科学的概念への展開・・・・・・・・・・・・・ 3 2.日英におけるダーレンド、ルフ受容の相違・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9 3.本論文の構成と基本的なアプローチ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12第
1
部
前期ダーレンドルフにおける自由の哲学的概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20 第 1章 『社会階級と階級紛争』にみられる「自由な社会Jの概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24 1.W社会階級と階級紛争』に至る背景一一 1947"-'58年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24 2.二階級社会モデルの有効性と限界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29 3. i自由な社会Jと階級紛争との関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32 4.小括一一「自由な社会Jと紛争の多元性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 34 第 2章 『ホモ・ソシオロジクス』における「全体的自由Jの概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40 1.Wホモ・ソシオロジクス』の成立の背景・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40 2.Wホモ ・ソシオロジクス』における役割理論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41 3. ホモ・ソシオロジクスと 「全体的人間Jのジレンマ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50 4.小括一一一ホモ・ソシオロジクスと「全体的人間J•••••••••••••••••••••••••••• 56 第3章「未定である自由J と.i確定する自由j一 一 「自由と平等の考察」の論点・・・・・ 63 1. i自由J対 「平等Jの政治理論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 63 2. i制度的自由主義Jの根拠づけと価値「自由j・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 76 3. 小括一一二つの自由概念のゆくえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 90 第4章 実務家、政治家としてのダーレンドルフの理論と実践・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100 1.教育政策と大学改革への取り組み一 一1958"'"'69年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100 2.ドイツ自民党政治家としての改革活動一一1968"'"'74年・・・・・・・・・・・・・・・・ 107 3.小 括一 一学者ダーレンドルフと政治家ダーレンドルフの間・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 117第
2
部
後 期 ダ ー レン ドルフにおける自由の社会科学的概念・・・・・・・・・・・・・ 124 第5章 学問世界への復帰と後期理論の完成一一導入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・ 126 1. L S E学長としての取り組みと『ライフ ・チャンス』の誕生一一1974年以降 126 2.政治の世界への復帰断念と後期理論への道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 128 第6章 ライフ・チャンス理論の展開・・・・・・・・・・・・・ ・・・ 137 1.W新しい自由Jにおける<ライフ・チャンス>概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 137 2.Wライフ・チャンス』におけるべンサム、 ミルとの距離・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 139 3. <ライフ・チャンス>の概念ー一一マックス・ウェーパーとの距離・・・・・・・・・・・・ 146 4.小括一一ー現代自由主義の基本問題・・・・・.. 159 第7
章 請求権と供給の関数としてのオプション・・・・ 165 1.W現代の社会紛争』の位置・・・・.. 165 2.アマルティア・センのエンタイ トルメント概念とその批判・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 165 3.く請求権>と<供給>をめぐる 「現代の社会紛争J•••••••••••• •••••••••••• •• 174 4. <請求権>としてのシティズンシップ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 181 5. 小括一一新しい社会紛争のゆくえ・・・・・・・・・・ 188 第8章 帰属と粋としてのリガチュア・・・・・・・・・・ 196 1.帰属と粋としてのリガチュア概念・・・・・・ 196 2.リガチュアとアノミー・・・ 199 3.リガチュア復興の試みとその批判・・・・・・ 205 4. 小括一一擬似リガ、チュアと真正リガチュアの間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 209 第9章 ナチス社会でのオプションとリガチュア一一ライフ・チャンス論の応用例・・ 214 1.はじめに一一ナチスと国民社会主義党との匝離・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 215 2. iドイツ問題Jとは何か一一『ドイツの社会と民主政』の第 1論文・・・・・・・・・・・ 218 3. i急進的革新者」としての国民社会主義党・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 223 4.小括一一権威主義的伝統の破壊者としての国民社会主義運動・・・・・・・・・・・・・・・・ 239 第 10章 現代自由主義の政治認識と政治課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 246 1.社会民主主義的政治のヘゲモニー確立一一現代ヨーロッパ政治に対する認、識・・ 246 2.社会民主主義的合意への挑戦一一サッチャリズムと緑の党・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 250 3.社会民主主義的合意の担い手の問題一一 「多数派階級Jの成立・・・・・・・・・・・・・・ 254 4.現代自由主義の四つの政治課題・・・・・・・ 2575. 小括一一戦略的改革の必要性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 266 終 章 自由とライフ・チャンス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 274 1. 自由概念から<ライフ・チャンス>概念への転換の理由とその意味・・・・・・・・・・ 274 2.<ライフ・チャンス>理論の現実政治へのインプリケーション・・・・・・・・・・・・・・・ 285 A. ダーレンドルフ略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 296 B. ダーレンドルフ主要著作目録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 298 C. 参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 306
序 章 本論文は、 ドイツの社会科学者であり実践政治の世界でも活躍したラノレフ・ダーレンド ルフ (RalfDahrendorf;1 9 2 9"'-' 2 0 0 9年)の政治・社会理論を、自由概念の時系列 的変化に着目して可能なかぎり体系的整合的に理解することをめざすものである。とはい え、半世紀以上をかけて構築されたその理論的体系を微に入り細にわたって検索し、細大 漏らさず再構成しなければならないとすれば、間違いなく徒労に終わるだろう。 なぜなら、「その研究領域は、現在ではアダム・スミスの時代の意味での政治経済学、あ るいはマックス ・ウェーパーの時代の意味の社会経済学としか呼びょうがないほど、包括 的となっているJ(1)からである。ダーレンド、ルフはもともと哲学から出発し、途中で社会 学に転向するが、その最初の時期には産業社会学や経営社会学の分野の研究を進めた。そ の後、社会変動論や役割理論で独自の境地を聞き、国際的な社会学者としての地位を確立 した。それに留まらず、ドイツ社会の経験的分析を進めつつ、現実政治への関与を深めた。 そして研究生活に戻るとその経験を生かし、政治・社会理論で独自の新境地を拓き、さら には歴史哲学、政治経済学へと踏み込んでいった。このようにダーレンドルフの政治・社 会理論は、大きな幹から多種多様な小幹が枝分かれし、それぞれ成果を実らせている。 このようなダーレンドルフ理論の歩みを念頭に置きながら、その体系的整合的理解を進 めようとする場合、どのようなアプローチが適当といえるであろうか。最初に考えられる 方法は、 50年以上にわたるその理論的業績の節目をどこかにみつけ、とりあえず時期を 区切ることから出発するアプローチである。学問の一般的アプローチとして、性質の似た ものを一つのカテゴリーに区分していくという分類法が、ここでも大いに有益と考えられ る。後述するように、本稿ではダーレンドルフの理論的業績をその特質に応じて前期と後 期の二つの区分することにする。これとは別の区分も可能かもしれない。しかし、時期の 区分にあたっては意味ある区分でなければならず、そこに有意な特徴づけがなされていな ければならない。そうでないなら、履歴上の単なる形式的区分にすぎないことになる。 たとえば、ダーレン ド、ノレフの生活の特徴の一つが地理的な移動の多様さにあるとすれば、 活動拠点を目安に時期の区分を行う方法が考えられるかもしれない。つまり、初期のころ のドイツのハンブルク大学時代、イギリスのロンドン・スクール・オプ・エコノミクス (L
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への留学時代、再びドイツのザールラント大学時代、チューピンゲン大学時代、連 邦議会議員時代等々、経歴上活動拠点となる場所を手がかりに、その理論的変遷をいくつかに区分するという方法である。しかし、それぞれの活動拠点に照応して節目となるよう な理論的展開が見られるとか、それ以外のなにか特別な意味が各々の時期に認められるな ど、説得力ある視点なくして活動拠点による区分を行うことは難しい。活動拠点、が変わる たびにそれに応じて理論的なテーマも変わっている、という関係が明確であるなら、意味 ある区分といえる。しかし、そのような有意な対応関係が証明できないなら、活動場所に よる区分は実質的内容が伴わないおそれがある。あくまで理論的な内容に即して時期を区 分するのが、より確実かつ適当な方法であろう。 これと似た区分の仕方に、個別研究テーマに基づく区分の仕方というものが考えられる。 ダーレンドルフの場合、時期ごとに研究テーマが異なるケースが多々みられることから、 対象テーマに基づく区分が可能かもしれない。たとえば、マルクス階級論、社会紛争論、 産業社会学、経営社会学、役割理論、ライフ・チャンス理論など、時期によって取り扱う テーマが微妙に異なるのは事実である。しかし、その視点から区分しようとすると、著作 の数だけ、また論文の数だ、け節目があるということになり、あまりに細かな区分になって しまれそうなると、体系的整合的な理解を進める上で何のための区分なのか、という根 本的疑問がわいてくるであろう。個別研究テーマごとに時期を細分化するのは確かに不可 能ではないが、さほど意味があることとも恩われない。むしろ、そこから一段掘り下げて、 さまざまな異なる個別研究テーマの底流に流れ、一見異なる研究素材を相互に結びつける 問題意識のようなものを抽出するアプローチのほうが、比較的大きな理論的潮目が明らか になると考えられる。 さらにこの区分法の裏返しとして、そもそも時期的な区分は必要ないとし、う見方も成り 立ちうる。この見方の拠って立つ根拠を類推するなら、ダーレンド・ルフの50年以上にわ たる著作はそれぞれ独立した作品群であって、発表の順番に関係なく同時的な理解が可能 であり、その聞にはなんらの有意な時系列的な展開も認められない、というものになる。 個別テーマに基づく個々の著作群は、いわば水平にー列に並べられた別々の部品であり、 時期を無視してそれらを組み立てていくことこそダーレンドルフ理論の全貌に迫る近道だ、 というのであれば、それはそれで確かに一理ある見解と言わなければならない。ダーレン ドルフの理論は、それほどまでに多岐多様にわたっているからである。だから、無理に相 互の理論的連関を意識しすぎる必要もない、ともいえる。しかしながら逆に、もし一部の 作品群に、表面的な独立性にもかかわらず、ある共通した問題関心が奥底に込められてい るとすれば、それを一つの塊として括り出しても差し支えないのではないか、と も考えら
れる。 結論から言えば、本稿では、ダーレンドノレフの理論生活を前期と後期に二分した上で、 前期の哲学的な自由論から、後期の社会科学的な自由主義理論への展開がなされたとの見 解に立つ。以下、本稿のこのような視点について補足するとともに、次にその視点をより 深めるため、わが国におけるダーレンドルフ理論の受容について、その経緯と問題点を述 べる。そして最後に、本論文の構成と基本的アプローチを明らかにしておきたい。 1.本論文の視点一一自由の哲学的概念から社会科学的概念への展開 本論文は、ダーレンドルフの政治家としての活動 (1968"-'74年)以前の時期と、 その後の時期の二つに、その理論的業績を区分するのが適当という視点に立っている。政 治家としての活動の時期を単独に独立させれば、時期の区分として三つになるが、そのよ うな見解はとらなかった。それは、本論文があくまで理論の展開を辿ることを主な眼目 と しており、実践的活動のほうは、それがいかに有意義な政治活動であろうと、副次的な位 置づけしか与えられないと考えられるからである。もちろん、ダーレンドノレフの実践的活 動が理論的活動に影響を与えている重要性を踏まえ、実務家、政治家と しての活動につい ても、かなりの紙幅を割いて論述した。だが、理論的展開の重視としづ見地から、実践的 活動には理論的活動と同じだけの意義を付与しなかった。それゆえ、政治家としての活動 の時期は、前期の最後の部分として記述するに留めた。 ( 1 )先行研究の位置づけ一一パイザートの業績の特色 ダーレンドルフについて最も定評があり、最も傾聴に値する年譜を書いているのがハン スゲルト ・パイザー ト
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である。パイザー トは、ダーレンドルフがハン ブルク大学教授を務めていたときの助手で、ダーレンドルフの研究生活の細部にいたるま で最も深く知悉している人物といってよい。ダーレンドルフがチュービンゲン大学に移る と、パイザートも後を追って移籍し、その指導のもと博士論文 『ドイツにおける社会状態 と教育チャンスj(2)を書き上げている。わが国でも、共著の邦訳『ドイツの高等教育j(3) で知られている。 ダーレンドルフの六五歳の誕生日を記念して出版された『社会・民主主 義 ・ライフ・チャンス』に、このパイザートが監修者として寄せた論文が、「学問と政治の聞の旅一一ラルフ・ダーレンドノレフに関する年譜的覚書J(1994年)(4)である。その中 でパイザートは、ダーレンドノレフの職業生活を四つに区分している。 このパイザート論文は、ダーレンドルフの大学生時代から始まっていて、それ以前の年 譜が欠落しており、また六五歳の誕生記念論集なので、当然ながら 19 9 5年以降の年譜 が収められていない。しかし、その範囲内で・パイザート論文は、タイトルから推せるよう に、ダーレンドノレフの人生を一つの壮大な旅に見立てて、見事に再構成している。それは、 学問と政治との聞をダーレンドルフが行きつ戻りつしながら自己形成してし、く側面に主眼 を置いており、客観的で信頼に足るものとなっている。六五歳までの人生を次の四期に分 ける点が一つの特徴であるが、それぞれ以下のように題名を付している。 第一期 (1947"-'58年)学問への道一一一ドイツ、イギリス、アメリカでの停車駅 第二期 (1958"-'69年) ドイツの大学で、教授一一ハンブ、ノレク、チュービンゲン、 コンスタンツ 第三期 (1968"-'74年)学者として政界へ一一シュ トゥッ トガルト、ボン、 ブリ ユツセノレ 第四期 (19 74年以降)外洋船に乗り込む知識人一一骨港はイギリス この四区分は本論文でも大いに参考にしたが、決定的に異なっているのは、本稿のいう 前期の時期をパイザード論文では三つに細分化し、第一期、第二期、第三期としている点 である。第四期は本稿でいう後期と完全に重なる。したがって、本稿とパイザート論文と の違いは、端的に言っていわゆる前期の捉え方にある。これは主に着眼点の違いに起因す るものと考えられる。パイザートの場合、ダーレンドルフの年譜を 「壮大な旅」に見立て ている点に如実に現れているように、ダーレンドルフのその時々の停泊場所や社会的位置 を重視しているようである。 たとえば上記の四期区分の副題にあるように、第一期ではドイツ、イギリス、アメ リカ、 第二期で、はハンブ、ノレク、チュービンゲン、コンスタンツ、第三期で、はシュトワットガノレト、 ボン、ブリュッセル、第四期ではイギリスと、わざわざその時々の活動拠点の地名をあげ て四区分の根拠付けを行っている。もちろんパイザー ト論文は、活動拠点、のみに依拠して いるわけではない。パイザートにとってもう一つ重要な視点は、ダーレンドルフのその時々 の職業的な社会的位置である。すなわち第一期は学問の修行時代、第二期は大学での教職
時代、第三期は政治家としての時代、第四期は大学での管理者の時代というように、職業 的な社会的位置に即した区分にもなっている。 このようにパイザート論文の特色は、ダーレンドルフのその時々の活動拠点と社会的位 置という二つの因子を総合的に評価してその活動内容を区分する、という手法にある。こ の区分法のメリットは、活動拠点と社会的地位が時期的にほぼ完全にかみ合い、相互に照 応関係にあることから、区分上無理がないという点にある。そういう意味で、穏当で有益 な区分であるし、ダーレンドルフの業績を無理なく円滑に理解しやすくした、という点で パイザートの功績といえる。しかもパイザートは終始、ダーレンドルフの近くに身を置い ていたことから、節目節目でダーレンドノレフが何を考えていたのを知る貴重な証言者でも ある。こういう点を本論文では、随所で参考にした。 しかし、パイザートの手法が、表面的に現れた活動内容や職業的地位を重んじすぎる区 分となっている点は、難点といえよう。確かに、ダーレンドルフの人となりを加味した総 合的な評伝のような年譜をめざすのなら、パイザートの分類は見事に功を奏するであろう。 しかしながら、ダーレンドルフの理論の内容にもう一段踏み込んだ精査を心がけようとす れば、理論的な内的関連性やその底にある問題意識の繋がりにも同を付けていくほうがよ り適切である。そして、理論的関連や問題意識の観点を重視してダーレンドルフの業績を 区分する場合、その時々の活動拠点や社会的位置がどうあったかという問題は、あくまで 副次的な問題にすぎなくなる。 (2)本論文のアプローチとその意味 本論文では、ダーレンド、ルフの活動拠点や社会的位置よりも理論的業績そのものを第一 次的、優先的に着目しながら、それら理論の内的関連性およびその底に流れる問題意識を 探る、という業績本位のアプローチを採用した。その一つのステップとして、その時々の ダーレンドルフの問題関心を集約するであろう基軸的な概念を著作群から抽出し、その概 念を手がかりにしてダーレンド、ルフの理論を体系的整合的に理解しようと努めた。言い換 えれば、ある著作の論旨を左右し、場合によっては複数の著作にまたがって中心的な役割 を果たしていると考えられる重要概念とはいったい何か、という観点からダーレンドルフ 理論の変遷を跡付けた。 その結果、本論文は、ダーレンドルフの前期の基軸概念を自由概念、後期のそれをライ
フ・チャンス概念として把握できるとの見解に立つものである。後期の基軸概念がライフ ・ チャンスという点については、大方の理解が得られると思われる。後期の代表作である 『ラ イフ・チャンス ~(1979 年) (5)でライフ・チャンス理論が体系的に打ち出され、後年の もう一つの代表作で、ある『現代の社会紛争~(1992 年) (6)でもそれを継承した議論がな されているからである。 ところが、前期の基軸概念を自由とする解釈は必ずしも自明のものではない。それどこ ろか、わが国の標準的なダーレンドルフ理解とは、かなりかけ離れているともいえる。と いうのも、次項で回顧するが、初期や前期のダーレンドソレフのわが国で、の受容のされ方は、 ダーレンドノレフといえば階級理論であり、社会紛争(闘争)理論であり、役割理論で、あっ たからである。つまり、前期に限定すれば、ダーレンドルフの基軸概念は一見して階級、 社会紛争(闘争)、役割といったような社会学的カテゴリーであるかのように受け取れる余 地がある。しかし、そのような理解は非常に表面的な理解である、との立場に本論文は立 っている。 詳細は第 1部に譲るが、ダーレンドルフの自由への関心は、前期理論の隅々までこだま している。ダーレンドルフの主な前期著作は、階級や社会紛争や役割などの社会学的概念、 を表面的に使いつつも、実は自らの自由論を展開する構成となっている。したがって、前 期ダーレンドルフではいかなる自由論が構想され、どういう点で限界に突き当たったのか、 そしてやがてライフ ・チャンスという別の概念になぜバトンタッチせざるをえなくなった のか、という視点がどうしても必要になる。 ( 3 )ダーレンドルフの出発点一 一根源的価値としての自由 ここで簡単に自由概念について補足し、ダーレンドノレフがどこから出発しているかを明 らかにしておきたい。 ドイツ語源学の大家フリードリヒ・クルーゲ (FriedrichKluge)の 編纂した『ドイツ語語源辞典』の“仕ei"(自由)の項目 (7)によると、 freiの原点が「拘束 や強制のない状態Jを意味したことがわかる。 ドイツ語のFreiheitや英語のfreedomの語 源は、インド・ヨーロッパ語族のゲ、ルマン語派に属する最も古いゲルマン語派の言語であ るゴー ト語の金eihalsや、中高ドイツ語 (10 5 0年頃から 1350年頃にかけてのドイ ツ語)のfrihalsとされるのが普通である。この場合のhalsは首を意味する。当時、奴隷た ちの首には首輪が付けられたが、主人たちの首には輸は不要であった。すなわち、奴隷で
ない者は「存在しない首輪(企
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J = ["首輪を付けていない者」とし、うこと になり、それが自由民を意味することになったとみられる。奴隷の首輪は当初、強制の道 具にすぎなかったが、歴史が進むにつれ強制を象徴するもの(シンボル)に変わってして。 こういう語源からすると、自由には少なくとも「人間行動に対する制限の欠如J、「あらゆ る強制の免除Jといった意味が根源的に含まれることになる。 拘束や強制が存在しないような人間の 「本来的状態」を想定し、それを絶対的な 「ある べき姿J として規範化する思想は、近代ヨーロッパの政治思想で、登場した。この概念のも とでは、人間の「本来の自由な状態Jは一種の権利であり、これを侵害するものが拘束や 強制であって、それを人に加える場合にはそれ相応の正当化の根拠がなければならない、 と考えていく。十分な正当化の根拠が存在するならば、拘束や強制を受け入れることがで きるが、正当化の根拠が存在しない場合はまさしく自由の侵害であり、糾弾されなければ ならず、さらに正当な法と秩序のもとでは犯罪さえ構成しうる、とみなす立場でもある。 思想家をあげるなら、 19世紀のイギリスの思想家で経済学者でもあったジョン ・スチ ュワート ・ミル(
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ll)が代表的であろう。ミルは代表的著書『自由論J
で、 「個人は、自分自身に対して、自分の身体と心に対して主権者(
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であるJ(8)と 述べた。この「個人の主権J という考えでは、個人が自分に対して主権者であり、その限 りで個人は自由である。 ドイツ系アメリカ人の政治学者であるカール・J・フリードリッヒ(
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は、 この点こそミルの 『自由論』の核心部だ、と指摘している(9)。 もちろん「個人の主権」という考え方は比轍的な表現である。主権者というのは、 16 世紀のフランスの法学者、ジ-ヤン・ボダン(
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によれば、 臣下の財産、生命、 権力をまったく自由に使用し、自由に処分できて何者の拘束も受けない絶対的な権利をい う。ミルが「個人の主権」という場合、この概念そのものを指すのではなく、アナロジー である。つまり、ミノレの場合、個人は自分の財産、生命、権力をまったく自由に使用し、 自由に処分できて何者の拘束を受けない絶対的な権利を有するということになる。 ただし、「個人の主権J概念には一つだけ制約条件がある。つまり、「個人の主権Jが何 者の拘束も受けないといっても、ある個人による主権の使用が「他人に対する危害」とな ってはならない、という点である。『自由論』の中で、ミノレはこ う述べている。 小論の目的は、 一つの非常に単純な原理を主張することにある。それは、社会が強 制や統制という方法で個人に接する際、そのために使われる手段が法に基づく刑罰という形の物理的な力で、あっても、あるいは世論による精神的な (moral)強制で、あって も、その接し方を絶対的に律する原理である。その原理とは、人聞が個人的に、また は集団的に、成員の誰かの行動の自由 (theliberty of action)に正当に干渉できる唯 一の目的は、自己防衛 (self-protection)の場合に限られるというものである。つまり、 文明社会 Ccivilizedcommunity)のし、かなる成員に対しても、彼らの意思に反して正 当に権力を行使できる唯一の目的は、他人に対する危害の防止 (toprevent harm to others)である。 (10) このように、「他人に対する危害の防止Jを排除する自己防衛の目的のみに限って、公権 力や他の文明社会の成員は、個人の主権を部分的に制約できる。しかし、それ以外の目的 に関して、公権力や他の文明社会の成員が個人の主権に制限を加えようとすることは 「個 人の主権の侵害j となり、正当化されないということになる。 前期ダーレンドルフが展開しようとした自由の概念は、まさにこの自由概念の系列につ ながるものである。たとえば、初期の代表作『ホモ・ソシオロジクス~ (u)は、わが国では 役割理論を扱った著作として広く知られてし、る。しかし、本稿の理解では、実際にはそう ではなく、むしろ自由概念を展開した著作という位置づけであり、その際、役割概念等は 自由概念のあくまでも引き立て役にすぎない。 一方、 ダーレンドルフは、 1968年から西ドイツの自由民主党政治家として実践的政 治世界の歩みを始め、当時のヨーロッパ共同体委員会の対外関係担当委員という要職を務 めたあと、 1974年にイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LS E) に学校長として赴任する。 このころを境に、前期の独特の自由概念は少なくとも前面には 登場しなくなり、これに代わってライフ・チャンス概念が基軸概念たる位置を占めるよう になる。もっともだからといって、後期において自由概念が完全に放棄されたわけではな く、 ライフ ・チャンスという新しい自由概念が形成された、と考える。 ライフ・チャンス理論については第2部で詳述するが、それを一言で言えば行為の選択 肢としてのオプションと、人間の紳としてのリガチュアの関数としてライフ・チャンスを 捉える立場であり、人間の在り様はこの両者の関係から三次的に決まってくる、という捉 え方である。その上でダーレンドルフは、この両者の最適関係を実現するくより多数の人々 のライフ・チャンス拡充>の追求を政治理論の目標に据えた。要するに後期ダーレンドノレ フは、拘束の一因になり、不自由にも転化しうる人間の粋、すなわちリガチュアの存在の
正当性を承認し、これを受容し、関数上の独立変数とすることで、独自の新しい理論的境 地に到達した。 そのような新しい概念を前提にすると、その帰結として取り組むべき政治課題も従来の 自由主義とはまったく異なるものになってくる。前期の自由概念に基づく政治理論の政治 課題は、一言でいって拘束からの人間の解放である。しかし、ライフ ・チャンス概念に基 づく政治理論の政治課題は、オプションの充実と粋の構築の最適均衡状態をめざす二正面 作戦となる。このような独自的特色を強調して、ダーレンドルフは自分の政治理論を<新 しい自由主義>とか、<制度的自由主義>と呼ぶ。この政治理論の現実政治へのインプリ ケーションについても本稿の最後に検討してみたい 2. 日英におけるダーレンド、ルフ受容の相違 以上のような本稿のダーレンドルフ理解は、わが国における従来のダーレンドルフ受容 の仕方とかなり隔たっているといえよう。この際、わが国で発行されている社会学、政治 学の主な事典類の中で、ダーレンドルフがどのように記述されているかを概観し、その位 置づけの一端を確認しておきたい。そこに、わが国におけるダーレンドルフの受容のされ 方の一つのパターンが投射されていると考えられるからである。 ( 1 )わが国の社会学分野での受容 まず、社会学分野で1988 年に発行された弘文堂の『社会学事典~ (見田宗介ほか編) では、「ドイツに生れ国際的に活躍する社会学者。役割論を論じた『ホモ・ソシオロジクス』 で若くして注目され、紛争理論を提唱した『産業社会における階級および階級闘争~ (1 9 5 7)で大きな論争を巻き起こした(武川正吾)J (12)と述べられている。後述するように ダーレンドルフの主著である『ライフ ・チャンス』は1979年に発行されており、 19
82
年に邦訳が出ているにもかかわらず、ここの記述では代表的な著作としてごく初期の 『産業社会における社会階級と階級紛争~ (13)と『ホモ・ソシオロジクス』だけが掲げられ ているにすぎず、後続する後期の主要著作がすべて省かれている。 しかし、この『社会学事典』は 1988年発行でいくぶん古い。比較的新しい2005 年発行の有斐閣の『社会学小辞典(新版増補版U(
演島朗ほか編)ではどうであろうか。ダーレンドノレフの項目には、「ドイツの社会学者。・・・・・・マルクスの階級理論を再構築した 闘争理論によって、パーソンズの統合理論を批判。また労使関係についても、経営参加に 批判的で、集団交渉を中心とする階級闘争の制度化を主張。『産業社会学j)(1956)、『産 業社会における階級および階級闘争j) (独語版1957、英語版 19 5 9)、『ライフ ・チャ ンセズj)(1979) など(執筆者無署名)J (14)と記述されている。この『社会学小辞典』 はもともと 1977年に初版第 1刷が発行され、増補改訂を何回か重ねて2005年版に 至っている。しかしながら、ダーレンドノレフの記述に関しては、やはりごく初期の頃の著 作や理論に焦点があてられ、適切な改訂がなされないまま旧来の記述に留まっている。 社会学分野におけるダーレンドソレフ受容の有様を、もちろんこの二つの社会学事典 ・辞 典で代表させることはできないが、ここから事柄のある一端をみてとることができょう。 それは少なくとも社会学分野においては、ごく初期の『産業社会学』、『産業社会における 社会階級と階級紛争』、『ホモ ・ソシオロジクス』などを除いて、それ以降の理論的業績に 対しては、ほとんどといっていいくらい研究上の配慮がなされてこなかった、という点で ある。 一方、初期の頃のダーレンド、ルフの著作は、わが国の社会学の世界で積極的に受容 されてきたようである。そこで、どういう文脈の中で取り上げられたのか、少し回顧して みる必要があろう。 周知のように、ダーレンドルフの1950年代の著作は、 『産業社会学)j(1956年) が経営経済学の池内信行氏らによって1961年に、『産業社会における社会階級と階級紛 争j)(1959年)は理論社会学の富永健一氏らによって1964年に、そして『経営社会 学j)(1959年)(H,)は経営社会政策の石坂巌氏らによって1985年に、それぞれ邦訳さ れ出版された。いずれもその道の大家といってよい人々によって、初期ダーレンド、ルフが 紹介された事実は特筆されてよい。とりわけ非マルクス主義社会学の権威で、同時にアメ リカの社会学者タルコット ・パーソンズ (TalcottParsons)らの構造機能主義社会学をわ が国に中心的に導入した富永健一氏が、『産業社会における社会階級と階級紛争』を非常に 高く評価したことは、ダーレンドルフへの関心と理解の深まりにかなりの程度、寄与した といってよい。しかしながら、ここからダーレンドルフといえば、 「マルクスの階級理論を 再構築した闘争理論Jというような固定観念が、わが国に定着したと考えられる。 当時の状況を想像するに、マルクス主義系の社会科学が全盛を迎えていたころである。 ダーレンド、ルフは当初、マルクス研究から出発し、 ドイツ社会民主党員で、あったが、イギ リス留学を経て自由主義者に転身した。当時の社会民主党といえば、 1959年のいわゆ
るゴーデ、スペルク綱領でマルクス主義と完全に決別する以前の社民党であった。「社会主義 者としてイギリスに向かったが、自由主義者となって戻ってきたJ と自らのちに述べるよ、 うに、『産業社会における社会階級と階級紛争』では、マルクス思想、の母斑を残しながらマ ルクスを批判するという、社会主義と自由主義の混在が特徴となっている。この点も、当 時の時代状況にある程度、適合していたのではなかろうか。マルクス・レーニン主義は完 全に否定するが、階級理論までそっくり放棄してしまったわけではない、こういうダーレ ンドルフの姿勢が当時のわが国の「反<反共主義>J的なムードに奇妙に合致していたの ではなかろうか。 ( 2 )わが国の政治学分野での受容 政治学分野の事典類では、社会学分野よりもバランスのとれた紹介がなされているよう である。大学教育社編集の1998 年発行の『新訂版現代政治学事典~ (16)は、もともと 1 991年に発行された総合的な政治学事典であるが、ダーレンドルフの項には「ドイツの 社会学者。現在オックスフォード大学カレッジ長 (19 8 7年"')。研究領域は社会科学全 般にわたり、マルクスの階級論やパーソンズの社会システム論の批判で一躍名をなし、一 時、政界入りし政務次官も務めたが、学窓にもどり、最近は 『新しい自由主義』の立場か ら先進社会論を展開している(執筆者無署名)Jと簡明に記載されている。ここでようやく、 後期ダーレンドルフも射程に収めた経歴中心の紹介がなされている。 さらにまた、弘文堂から 2000 年に発行された『政治学事典~ (17) (猪口孝ほか編、縮 約版
2004
年)のダーレンド、ノレフの項には、「ドイツ生まれの社会学者。イギリスを主要 な舞台として活躍。産業社会の階級関係、階級闘争を分析。産業社会を批判的にみながら も現実を経験主義的に分析する。その学術的知的貢献に対して貴族の称号をもらう。(猪口 孝)Jというように、やはり後期ダーレンド、ルフを意識した説明がなされているものの、後 期の『ライフ ・チャンス』中心の紹介はいずれにおいてもなされるに至っていない。 以上のように、わが国では今日なお、初期のころのダーレンドルフ理解が幅広く流通し ているように考えられ、加藤秀治郎氏の翻訳や紹介(18)をもってしでもその影響の影を完全 に払拭しきれていないのが実情のようである。 (3 )イギリスなど外国での受容これに対して、最も高くダーレンドノレフの業績を評価しているのはイギリスであり、国 によってこれほど受容の仕方が異なるのかを示す良いサンプルになっている。イギリスの 人々がダーレンドルフを評価するのは、その学問的業績だけではない。たとえば、 LSE 初めての外国人学長としての経営手腕も高い評価の対象となっている。 ダーレンドルフは足掛け10年以上にわたるイギリス生活を送っているが、その期間さ まざまな公職を務めた。たとえば、王立法務委員会の委員や、金融機関健全性評価委員会 の委員を歴任した。 LSEに対する貢献は、イギリスのみならず外国でも評価された。名 誉博士号の授与は1973年のリーディング大学に始まり、六五歳を迎えるまで二一回を 数えた。そのうち、 イギリス国内の大学からは八つ授与された。 LSEの名誉研究員に続 き、インペリアノレ・カレッジ・オブ・サイエンス・アンド・テクノロジ一、ロイヤノレ・ソ サイティ・オブ・アーツ、ロイヤル・ソサエティ・オブ・サージェンズ、イギリス学士院 のそれぞれの名誉会員に叙せられた。イギリス学士院に関しては、 1982/83年に副 会長を務めた。 さらに1982年、五三歳のときイギリス士爵 (knight:大英勲章第2位)の称号サー・ ラノレフを授与される栄誉に浴した。そして93年、六四歳のとき男爵 (baron)として貴族 に叙せられ、イギリス貴族院議員となった。このような陸自すべき待遇振りは、ダーレン ドルフに対する格段に高い学問的声望を抜きにして考えられない。 このように、ダーレンドルフの業績に対する内外の認識の落差は相当程度に及んでいる と考えられ、それを少しでも埋めるのが本稿の一つの目的である。蛇足ながら、イギリス 以外での受容のあり方を示す例としては、ヨーロッパその他各国における翻訳の種類の多 さを挙げることができる。イタリアを筆頭に、スペイン、オランダ、フランス、フィンラ ンド、ポルトガノレなどヨーロッパ各国をはじめ、ブラジルや中園、インドなどでも、さま ざまな著作の翻訳が手がけられている。まさにダーレンドルフは、ヨーロッパを代表する 知識人として、多くの国の読者の知的欲求に応えてきたといってよい。 3.本論文の構成と基本的なアプローチ 本稿は、ダーレンド、ノレフの学問的業績について基軸概念の変化を手がかりに前期と後期 に区分し、前期の哲学的な自由論から後期の社会科学的な自由主義理論への展開を跡付け
るものである。したがって、大きくわけで第1部(前期)と第2部(後期)の二部構成を とる。以下、簡単に、本論文の構成細目について基本的な視角を提示しておきたい。 ( 1 ) 第1部の構成と基本的なアプローチ方法 第1部では、代表的著作として『産業社会における社会階級と階級紛争』、 『ホモ・ソシ オロジクス
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、そして『社会と自由 jj(19)に収録された「自由と平等に関する考察Jの三論文 を中心に、各々の著作に現れた自由概念の内容を検討する。その際、各著作で自由に対す るダーレンドルフの考え方がどのように変遷していったかを跡付けつつ、名目上は同じ自 由概念で、あっても、それぞれの著作の段階でどのような微妙な意味内容の差異があるかを 明らかにする。 『産業社会における社会階級と階級紛争』は本来、自由論を展開した著作ではない。む しろ、マルクスの「二階級モデ、ノレJを分析的な概念として精轍化するため、 「所有」に代え て 「権力」を「支配関係Jを階級形成の基盤に据え、政治的な階級概念の現代的有効性を 強調する内容になっている。だが、最後の部分で、 「向由な杜会」 という用語が登場してき て、「自由な社会」の対極にある社会として、「全体主義社会」とし、う理念型的な概念が使 用されている。ここでいう「自由な社会」は、どうし、う意味で 「全体主義社会J と区別さ れるのか、そしてこの区別の仕方に自由概念がどのように関係するかを、本稿では検討す る。 次の『ホモ・ソシオロジクス』は、欧米で発達した社会学的役割理論のドイツにおける 受容の一つの頂点を示す作品であるが、本稿では、役割理論よりもむしろ独自の自由論を 展開した著作として把握し直すこととする。ダーレンドルフは、役割期待に拘束されて行 動する「ホモ ・ソシオロジクス(社会学的人間)Jという理論的モデ、ルを構成しつつ、それ との対比でいかなる役割からも解き放たれた「全体的人間」という自由な人間のイメージ を喚起している。私見によれば、このような二分法こそ、この段階でのダーレンドルフの 自由論を特徴づけるものであり、まさに主旋律である。しかし、そのような理解もまだ表 層的にすぎない。ダーレンドルフは、面IJ旋律ともういうべきもう一つの自由概念を提出し ており、むしろこちらのほうが後期の<ライフ・チャンス>概念に繋がる考え方である、 と本稿では判断する。このような視角から、本論文では、『ホモ・ソシオロジクス』に潜む 二重の自由概念を明らかにしていく。「自由と平等に関する考察」は、前期ダーレンドノレフの自由論の一つの終着点で、ある。 ここでダーレンド、ルフは、ラトビア生れのユダヤ系政治哲学者、アイザイヤ・.パーリン (Isaiah Berlin)による「消極的自由Jと「積極的自由Jの区分を手がかりに、自分なり の「二つの自由概念Jを提唱している。一つは「未定である自由」概念であり、人間の性 質に由来しないすべての制限から放免された状態こそ自由であると考える。もう一つは 「確 定する自由J概念であり、自己実現のチャンスが現実に活用され、人の実際の行為として 具体化する場合においてのみ自由が存すると考える。これは、人が拘束や強制から解放さ れて「未定の状態(何も決まっていない状態)jに置かれる自由と、自分の素質を発展させ、 それを現実の中に「確定していく状態(自己実現を果たす状態)Jに置かれた自由の区別と いうことになる。本稿は、これら自由概念の意義と限界を検討するとともに、二つの概念 の蝶番のような役割を果たしている「チャンス」概念に着目し、後期理論との関連性を考 察する。 (2 ) 第2部の構成と基本的なアプローチ方法 第 2部は、『新しい自由j](20)から始まり、『ライフ・チャンス』、そして『現代の社会紛争』 へと至る、後期ダーレンドノレフの新しい理論的境地について検討する。本稿は、その基軸 概念をライフ・チャンス概念と把握するものである。第2部全体を通じて、新しい自由主 義理論の基軸概念としてのライフ・チャンス概念の有効性と限界を論究するとともに、最 終的には現実政治に対するインプリケーションについても検討してし、く。 まず、『新しい自由』は、ダーレンドルフが
LSE
学長として学問生活への復帰直後に招 かれたBBCラジオでのレクチャーである。ここで、後期ダーレンドノレフの社会科学的自 由主義理論の基軸概念となる「ライフ・チャンス(life-chances)Jが登場してくる。この中 で、現代の改革思想としての自由主義の新たな意義に触れつつ、ポパーの漸進的社会工学 の立場にたつ「改良志向社会jが提唱される。本稿は、さまざまなダーレンドルフの社会 科学的概念の中でも、特にこのライフ・チャンス概念に着目し、その理論的可能性と限界 を示す。 次の『ライフ・チャンス』は、文字どおりライフ・チャンス概念を縦横に論じた記念碑 的な著作である。端的にいえばライフ・チャンスとは、オプション (uptionen)とリガチ ュア (Ligaturen)とし、う二つの要素の関数で、ある。オプションとは、選択の可能性であり、行為の選択肢のことである。一方、リガチュアとはもともと医学用語で、外科手術のあと に傷口を縫い合わせる結葉系のことであるが、一言でいって人間同士の紳や帰属のことで ある。本稿はここで、なぜダーレンド-ルフがライフ・チャンス概念を自由主義的政治・社 会理論の中心概念に据えようと考えたのか、その発想、の根源、を明らかにすることを目指し つつ、可能なかぎり忠実に、ライフ・チャンス概念の体系的包括的な再構成に努めていき たい。その際、場合によって不自由に転化しうるリガチュアを正当な要素として理論に組 み入れたことの意味に注目してみたい。 そして、『現代の社会紛争』は、ライフ・チャンス概念をさらに発展的に精微化し、オプ ションを請求権と供給の関数として捉え直そうとする野心的な試みである。これらの概念 の意味については第2部に譲るが、これらの概念に基づき現代の社会紛争をどのように新 たに解釈しに直すことができるのか、ダーレンドルフの意図を検証してし、く。 最後の終章では、前期の哲学的な自由論から後期の社会科学的な自由主義理論へと展開 せざるをえなかった理由を、彼の私生活面まで掘り下げて確認するとともに、その政治・ 社会理論の現代的意義を含む、現代政治へのインプリケーションについて考えてみたい。 ( 3 )伏線としての年譜的アプローチの重要性 ダーレンドソレフは一方で政治家や大学管理者でもあったことから、本論文では理論的著 作だけでなく、その年譜にも目を配り、その足跡を随所に盛り込んだ。それにより、どの ような時代背景やし、かなる社会的立場でそのときどきダーレンドルフが諸問題に取り組ん でいったのかの理解の一助としようとした。年譜を作成するにあたっては、第三者から見 たより客観的な視点だけでなく、本人の個人的述懐に基づくより主観的な視点も欠かせな い。たとえば、何年にこういう本を出版したかとか、そうしづ職業に就いたとか、具体的 な客観的データが欠かせないのはいうまでもない。しかしそれ以上に重要なのは、ダーレ ンドルフ自身がどういう問題にぶつかり、何を考え、思考をどういうふうに展開していっ たのかである。そして、そのような出来事の意義は、第三者ではなく、ダーレンドルフ本 人が重み付けをして初めて決まるのであるから、個人的な回顧のような資料が必要になっ てくる。 その際、最も重要な資料が、前述のパイザートの「学問と政治の聞の旅一一一ラルフ ・ダ ーレン ド‘ルフに関する年譜的覚書J
(1994
年)である。また、第三期の政界入り の時期を対象としたバイオグラフィ的研究については、ゲラノレド・チェック (GeraldCzech)の 『政治家ラノレフ・ダーレンドノレフがドイツ、ヨーロッパ、イギリスに対して果たした役割 とその影響~(2006 年) (21)がある。こちらも適宜参照した。年譜の個人的主観的側面に ついては、ダーレンドノレフ自身が自伝を書いている。『境界を越えて一一人生の思い出~ (2 0 0 2年)(22)がそれで、能力の限界、学問の垣根、職業の壁、そしてドイツの国境を越え ていった自分の姿を“UberGrenzen (境界を越えて)"という一つのキーワードで表現し ている。ダーレンドルフの人生は、ワイマール共和国後期、ナチス・ドイツ、戦後のボン 共和国へと連なる時代とオーバーラップしており、一つの時代史と しても読める。とくに、 パイザート論文に欠けている幼少年時代についての思い出が収められており、貴重である。 以上、縦軸にパイザート論文を、横軸にダーレンドルフの自伝を随所に織り込みながら、 客観的、主観的な観点から年譜を再構成し、本論文の伏線とした。
序章の注
(1) 加 藤秀治郎・槍山雅人 「ダーレンドルフの政治・社会理論J、加藤秀治郎・槍山雅人編・
監訳 『増補版 ダーレンドルフ政治・社会論集一 一重要論文選』晃洋書房、2006年所 収、 214頁。
(2) Hansgert Peisert, SozialeLage und Bildungschancen inDeutschland, Piper, 1967.
(3) ハンスゲルト・パイザート、ゲノレヒノレト・ブラムハイン『ドイツの高等教育システム』 玉川大学出版部、 1997年。 原著は、HansgertPeisert und
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rhildFramhein , Das Hochschulsystem inder BundesTl伊 ub1ikDeutschland. Funktionsweise undLe
istungsfalugkeit, Klett-Cotta, 1981.(4) Hansgert Peisert,“Wanderungen zwischen Wissenschaftund Politik:
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in:Hansgert Peisert und Wolfgang Zapf (Hrsg.), Gesellschaft, Demokratie undLe
benschancen, DVA, 8tuttga此, 1994.(5) RalfDahrendorf, Lebenschancen.Anlaulらzursozl冶lenund politischenTheorie,
8uhrkamp, Frankfurt a.M., 1979.加 藤秀治郎・ 吉田博司・田中康夫訳『新しい自由 主義一 一ライフ・チャンス』学陽書房、 1987年。
(6) Ralf Dahrendorf, Der moderne soziale
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Dikt.Essay zur PoJitik der Freiheit,Deutsche Verlags-Anstalt, 8tuttgart, 1992.檎山雅人 ・加藤秀治郎訳『現代の社会紛 争』世界思想社、 2001年。
(7) FriedrichKluge (Bearbeitetvon Elmar 8eebold),EtymologischesW色村"erbuchder
deutschen命rach,Walter de Gruyer, Berlin, 1995, 8.284.フリードリ ヒ・ クルーゲ、
(1856---1926年)が1883年に出版したこの 『ドイツ語語源辞典』はドイ ツ語語源の最も権威ある辞典の一つであり、 最新版は第24版 (2002年)を数え るにいたっている。
(8)
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8. Mill, On Libert~ Penguin Books, 1974 (first published 1859) ,p.69.山岡洋一訳 『自由論』、光文社古典新訳文庫、2006年、28頁。
( 9) Friedrich, Carl J., An /n troduction to Political Theory, Twelve
Le
ctures a t Harvar,dHarper and Row, 1967, p.25.ここで、 “Thesovereignty ofthe individual is the heart and soul of this essay, On Libertj'と述べられている。安世舟、村田克巳、田 中誠一、福島治訳『政治学入門 ハーバード大学 12講』学陽書房、1977年、 37頁。
(1Q) J. 8. M出,op.cit., p.68,邦訳27頁。
(U) Ralf Dahrendorf,“Homo 8ociologicus. Ein Versuch zur
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, 10.Jg., Heft 2 und 3, 1958.単行本は、 WestdeutscherVerlag,Koln, 1959.橋本和幸訳『ホモ ・ソシオロジクス』ミネルヴァ書房、 1973年。
(12) 見田宗介、栗原彬、田中義久編集『社会学事典』弘文堂、 1988年、593頁。
(13) Ralf Dahrendorf.
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,ftFerdinand Enke, Stuttgart, 1957.著者による英訳版は、α
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Stanford University Press, Stanford, 1959.Routledge & Kegan Paul,
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ndon, 1959.富永健一訳 『産業社会における階級および 階級闘争』ダイヤモンド社、 1964年。邦訳の表題は上記のとおりであるが、 ドイツ 語版の表題を素直に邦訳すれば、『産業社会における社会階級と階級紛争』となる。 この中の「社会階級」と「階級紛争Jの部分が、富永氏の邦訳ではそれぞれ「階級J と「階級闘争」に置き換えられている。この違いは一つには、邦訳書がドイツ語版で はなく、 英訳版に基づいていることによる。本稿では、オリジナノレの ドイツ語版の表 題を優先し、以後、『産業社会における社会階級と階級紛争』と表記することにする。 なお、「階級闘争」よりも「階級紛争jの訳語のほうが望ましく、かつ正確である理 由については、第1章の注 (26)を参照されたい。 (14) 漬島朗、竹内郁郎、石川晃弘編『社会学小辞典(新版増補版)~有斐閣、 2005年、 676 頁。 (15) Ralf Dahrendorf,
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, Betriebswirtschaftlicher Verlag Dr. Gabler,
Wiesbaden,
1959.石坂厳・鈴木秀一 ・ 池内秀己訳『経営社会学』 三嶺書房、 1985年。 (1ω 大学教育社編集『新訂版 現代政治学事典』ブレーン出版、 1998年、 650頁。 (17) 猪口孝、岡沢憲芙、山本吉宣、大沢真幸、スティープン・R.
リード編『政治学事典』 弘文堂、初出2000年、縮約版2004年、 715頁。 (18) ダーレンド-ルフ理論に関する加藤秀治郎氏の代表的論文は、「ダーレンド、ノレフの政治 ・ 社会理論一一ドイツ・ヨーロッパの政治・社会動向とからめて」、『年報政治学2002 20 世紀の政治理論』岩波書底、 2002年所収であり、わが国におけるダーレンド、ルフ研究 の到達点と位置づけられる。(19) Ralf Dahrendorf, Ge
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Piper, MOnchen,1961.(20) RalfDahrendorf,
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, Routledge & Kegan Paul,Lo
ndon, 1975. StanfordUniversity Press, Stanford, 1975. 加藤秀治郎訳『現代文明にとって「自由 J とは何か~ TBSプリタニカ、 1988年。著者による独訳版は、 DieNeue Frei五eit.Uberleben und Gerechtigkeit in einer veranderten Welt, R. Piper, Munchen, 1975.
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rald Czech, Der Politiker Ralf Dahrendorfi刀seinenFunktionen fur Deutschlan,d Europa und GroBbri白 血, ienund sein W.zrken, GRIN Verlag, 2006.第 1部 前期ダーレンドルフにおける自由の哲学的概念 第 1部では、前期ダーレンドルフの自由の哲学的概念を検討する。ダーレンドルフの主 要な関心は、非常に若いころから自由の追求にあった。しかしながら、それがある程度、 明確な姿をとるまで、好余曲折があった。その足跡を追うには年譜を丹念に跡付け、実践的 生活との関連のもとで理論的な発展を考察していく必要がある。政治理論家によっては、 経歴の考察などさほど必要でない場合もあるかもしれない。しかし、ダーレンドルフの場 合、連邦議会議員や欧州共同体委員など、現役の政治家として活躍していた時期もあり、 理論と実践の往復運動が一つの彼の特徴となっている。 以下では、年譜の考察と絡ませながら、前期ダーレンドルフの主要著作で、ある 『産業社 会における社会階級と階級紛争~ (1 9 5 7年)(1)、『ホモ・ソシオロジクス~ (1 9 5 9 年)(2)、そして「自由と平等に関する考察J
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年)(3)を取り上げ、自由概念の形 成過程を跡付けてし、く。 第1章では、ダーレンドルフの修行時代の学問的研鎖に言及しつつ、ザーノレラント大学 博士号請求論文として公刊された『産業社会における階級と階級紛争』にみられる自由概 念を再構成し、最初期の自由概念にし、かなる特色が見られるかを考察する。 第2章では、 前期ダーレン ドソレフの出世作ともいえる『ホモ ・ソシオロジクス』で展開 された役割理論に、独自の自由論が隠されていることを明らかにする一方、その 「全体的 人間J(
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としての自由のあり方とその限界について検討する。 第3章では、前期の自由概念が集大成的に論じられた「自由と平等に関する考察」を取 り上げ、そこでダーレンド‘ルフの提出した独自の二つの自由概念をさまざまな角度から掘 り下げ、 この概念の有効性と難点を探求する。 第 4章では、実務家として州の大学教育政策の改革に取り組んだ足跡や、 ドイツ自由民 主党の政治家として州議会選挙、連邦議会選挙に当選し、外務政務次官および欧州共同体 委員を務めた足取りのなかから、実践生活で自由概念を追求する姿を再構成する。 ダーレンドノレブは、 19 2 9年にハンブノレクで出生した ドイツ人である。父はグスタフ ・ ダーレン ドノレフ(
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rf)、母はハンブルクで会社秘書を務めていたリーナ ・ ヴ‘ィ ット (LinaWitt)である。 ダーレンドルフの前期業績の基軸概念は自由であるが、そのような問題意識はどのよう に形成されてきたのだろうか。 一つには、父グスタフからの強し、影響がある。ダーレンドルフはのちに、「私にとって、父は模範であると同時に教育者でもあった。父が亡くなった とき、私は喪失感と、愛されたいという欲求を感じたJ(4)と回顧している。 父グスタフは、 1918年以来の熱心な社会民主党員で、理想的な社会主義を目指して いた。ワイマール時代には、国会
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議員を務めた。このときの様子を息子ラ ルフはのちに、「父が 1932年 11月6日、ハンブノレク市選出の国会議員に選出された。 ベルリンで多くの時間を過ごすことになったが、日夜、民主主義の存亡のための空しい闘 いに明け暮れるのをそれは意味した。国会は、脅迫と威嚇を映し出す鏡となったJ(5)と振 り返っている。 父グスタフは1933年春、ヒトラーの全権委任法に反対したことから、秘密警察局(の ちの秘密国家警察〔ゲシュタポJ
)によって捕らえられた。やがて釈放され、監視を受ける 身となる。結局、 1944年 7月 20日にヒトラー暗殺未遂事件が起きると、社会民主党 の大立者ユリウス・レーパー(
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派の同志ということで連座、逮捕された。 そして、悪名高き「民族裁判所J(国民社会主義党政権下の特別法廷)に起訴され、懲役 7 年の刑を宣告された。 グスタフは戦争末期を生き延び、ソ連軍の手で解放されると、 1945年 9月には全ソ 連占領地区での社会民主党副委員長に任命された。つまり、やがてドイツ民主共和国(東 ドイツ)となる地域の代表的な政治家だ、ったのである。しかし、その9カ月後、社会民主 党と共産党をドイツ社会主義統一党(S
ED)
に強制合併する案件が持ち上がると、共産 党に併呑される危険を察知して、これに反対した。そうなるともうそこにいられなくなり、 イギリス占領軍の将校によっ'て空路ベルリンからハンブルクに連れ戻された。こうして父 グスタフは、 二度にわたって全体主義権力と正面衝突し、迫害を受けたわけである。 息子ラルフは、父が国会議員となりハンブノレクからベルリンに移ったことから、生徒時 代の大半をベルリンで、送った。父グスタフは、確信的な社会民主党員で、あったから、ルー テル教会を離れており、母リーナにもそうするよう説得していた。そのような家庭環境で あったので、ラルフは幼児洗礼を受けていない。 1 944年1月、 当時一五歳の高校生であったダーレンドノレフは、秘密警察(ゲシュタ ポ)に拘束され、フランクフルト・アン・デア ・オーデ、ル市にある警察の独房に収容され た。これは当時、「ドイツ高校生自由連盟Jなる青少年組織に所属し、ナチス国家に反対す るチラシを撒くなどの非合法活動を行っていたからである。秘密警察が、ダーレンドルフ 家の私信を検閲していたのだ、った。その後、強制収容所送りになるが、そこでの経験は今までの人生とはまったく異質であったという。この例外的経験は、ダーレンドルフのその 後の人生に決定的な影響を与えた。それは、次のように「自由への衝動J と表現されてい る。以下の言葉こそ、ダーレンドルフの原点であるといってよい。 1 0日間の独房監禁によって、閉所恐怖症に似た自由への衝動が私の中で目覚めた。 それは臓物(はらわた)から来る、監禁を憎む意思であった。個人の人格的権力であ ろうと、組織の匿名的権力であろうと同断であった。 (6) 終戦後、東ドイツ地区から引き上げた父グスタフは、西側の社会民主党員として、ハン ブPルク市議会議員に復帰し、さらにフランクフルト経済評議会の議員に選出された。同評 議会は各州議会代表者から構成される一種の擬似議会であり、アメリカ・イギリス占領地 区の統合地帯で設立が許されていた。これがやがて、現在の連邦議会になってし、く。父に 連れられて評議会に出かけたこともある息子ラルフはのちに、「この議会の卵は見晴らしが よく、将来のドイツの進むべき道をさまざまに取り揃えていた。わたしは政治の味を覚え たJ(7)と、政治との避遁を振り返っている。その場合の政治とは、ラノレフにとって、国家 的事柄にいそしむことを意味していなかった。当時を振り返りつつ、 I自分の政治観は最初 からアングロ・サクソン的であった。政治とは選挙であり、公開討論であり、とりわけ議 会であり、他者との論争で、あったJ(8)と、ラノレフは述懐している。