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論文内容の要旨 共生人間学専攻氏名丹羽初穂 本論文はカナダ ケベック州における言語教育政策が フランス語への安心感 を形成したことにより 英語教育の早期導入が可能になったことを 社会の変化から論証する ケベック州はフランス語を共通言語とし これをアイデンティティの基盤としている しかし長きにわたり

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学位論文

カナダ・ケベック州における言語教育政策の変遷

—「言語への安心感」の形成と英語教育の相関性について—

指導教員 西山教行准教授

平成

24 年 1 月 20 日

京都大学大学院 人間・環境学研究科

修士課程 共生人間学専攻

外国語教育論講座

丹羽初穂

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論文内容の要旨

共生人間学専攻 氏名 丹羽初穂 本論文はカナダ・ケベック州における言語教育政策が「フランス語への安心感」を 形成したことにより、英語教育の早期導入が可能になったことを、社会の変化から論 証する。 ケベック州はフランス語を共通言語とし、これをアイデンティティの基盤としてい る。しかし長きにわたり、ケベック州では英語が経済、社会において優勢言語であっ た。また、フランス語系ケベック人は、移民がフランス語を学習せず、英語を学習す ることから、フランス語とフランス文化が消滅することに恐れを抱いていた。つまり、 ケベック州において英語はフランス語をいわば抑圧し、脅かすものだった。それにも かかわらず、ケベック州においては英語教育の早期化が認められ、現在では初等教育 の第一学年から導入されている。この逆説的状況は、ケベック州において、言語教育 政策によりフランス語の地位が確立され、消滅することはないとの「フランス語への 安心感」(言語への安心感 / sécurité linguistique)が形成されたことから生まれたの ではないだろうか。 この仮説を裏付けるために、1977 年の「フランス語憲章」、1997 年の教育改革、 2005 年の教育改革をそれぞれ分析し、言語教育に対する影響を分析した。また、ケ ベック州における英語とフランス語のステータス、経済と言語の関係、人口動態、教 育水準、英語教育に対する議論の 5 項目に焦点をあて、「フランス語への安心感」の 形成を検証した。 分析の結果、1977 年の「フランス語憲章」により、「フランス語への安心感」が生 み出され、続く1997 年、2005 年の教育改革でもそれが培われ続けたことを解明した。 また、社会の変化からも「フランス語への安心感」が形成されてきたことが明らかに なった。 本稿は、このような言語教育政策と社会の中で生み出された、「フランス語への安 心感」が、ケベック州における英語教育の早期化を可能にしたと結論づける。

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目次

序論

... 1

1 章 問題提起と仮説の提示

... 2 1.1. 問題提起 ... 2 1.2. 研究の目的 ... 2 1.3. 「言語への安心感」について ... 3 1.4. 先行研究 ... 4 1.4.1. 英語とアイデンティティ言語への「安心感」 ... 4 1.4.2. ケベック州の教育について ... 6 1.4.3. ケベック州の英語教育について ... 6 1.4.4. ケベック州の言語政策について ... 7 1.5. 研究方法 ... 7

2 章 ケベック州における英語の特殊性

... 9 2.1. 入植からパリ条約まで ... 9 2.2. パリ条約とケベック法 ... 10 2.3. カナダ法 ... 11 2.4. 連邦法及び英領北アメリカ法 ... 12 2.5. 「静かな革命」 ... 14

3 章 ケベック州の言語政策について

... 17 3.1. 言語政策とは何か ... 17 3.2. ケベック州の教育システムについて ... 17 3.3. ケベック州の教育と言語政策について ... 19 3.3.1. 「フランス語憲章」 ... 19 3.3.2. 1997 年の教育改革 ... 20 3.3.3. 2005 年の教育改革 ... 22 3.4. ケベック州の言語政策について ... 23 3.4.1. 「フランス語憲章」と言語教育 ... 23

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3.4.2. 1997 年の教育改革と言語教育 ... 24 3.4.3. 2005 年の教育改革と言語教育 ... 25 3.5. 英語教育早期化の要求について ... 26

4 章 ケベック州における社会の変化について

... 28 4.1. 英語とフランス語のステータスの変遷 ... 28 4.1.1. 「静かな革命」期以前 ... 29 4.1.2. 「フランス語憲章」前後 ... .30 4.1.3. 1997 年の教育改革前後 ... 31 4.1.4. 2005 年の教育改革前後 ... 31 4.2. 所得と言語の関係性 ... 32 4.2.1. 1960 年代から 1990 年代まで ... 33 4.2.2. 2000 年以降のケベック州の所得状況 ... 35 4.3. 言語話者の推移 ... 36 4.3.1. 「フランス語憲章」以前 ... 37 4.3.2. 1997 年の教育改革前 ... 40 4.3.3. 2005 年の教育改革前 ... 43 4.4. 言語と高等教育学位保持者の関係性 ... 46 4.4.1. 「フランス語憲章」以前 ... 47 4.4.2. 「フランス語憲章」以降 ... 47 4.4.3. 1997 年の教育改革 ... 47 4.5. 英語教育導入における賛否の推移 ... 48 4.5.1. 「フランス語憲章」前後 ... 49 4.5.2. 1997 年の教育改革前後 ... 49 4.5.3. 2005 年の教育改革前後 ... 51 4.6. 「フランス語への安心感」と英語教育の早期導入の関係性 ... 52

5 章 結論

... 55

謝辞

... 57

参考文献

... 58

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1 序論 本論文は、カナダのケベック州において、言語政策によって「フランス語への安心感」 が形成され、それが英語教育の早期化に関係していることを論証する。 カナダのケベック州は、北米大陸においてフランス語のみを公用語とし、アイデンテ ィティ言語としている。ケベック州はその歴史から、人口の大多数がフランス語系ケベ ック人だったにもかかわらず、長きにわたり英語系ケベック人が経済的・社会的に高い 地位を占めていた。そのためフランス語系ケベック人にとって英語という言語は、フラ ンス語をいわば抑圧する言語であった。また、ケベック州に到来する移民がフランス語 ではなく英語を学習することから、フランス語系ケベック人はフランス語やフランス文 化が消滅してしまうという恐れを抱いており、英語を脅威と感じていた。このように、 フランス語系ケベック人にとって、英語は「特殊な言語」であった。 しかし現在、ケベック州のフランス語系公立学校で、第二言語としての英語教育は、 初等教育の第一学年から導入されている。2005 年まで英語教育は初等教育の第三学年 から導入され、それ以前は第四学年から導入されていた。つまり、英語教育の開始時期 は次第に早期化されているのだ。英語がケベック州において特殊な言語であったにもか かわらず、なぜ教育の開始時期が早期化されているのか。本論文では、言語政策が社会 の変化をひきおこし、フランス語、フランス文化が失われることはないとの「フランス 語への安心感」が形成され、結果として英語教育の早期導入が許容されるようになった と仮定する。この仮説を裏付けるため、ケベック州における言語政策と社会の変化から 「フランス語への安心感」を論証し、英語教育と関係づける。 第1 章では、本研究の目的と方法を明らかにし、「フランス語への安心感」の定義を 行う。また、他の地域で行われている言語政策の先行研究を検討する。第2 章では、な ぜケベック州において英語が長きにわたり特殊な言語であったのかを、ケベック州にお ける「“英語的”事実」(矢頭, 2009a) の歴史的経緯から概観する。第 3 章ではケベック 州の言語政策について考察する。ケベック州の英語教育に影響をおよぼした、1977 年 の「フランス語憲章」、1997 年の教育改革、2005 年の教育改革を取り上げ、これらが 与えた影響を検証する。第4 章ではケベック州における社会の変化から、「フランス語 への安心感」の形成を分析する。そのために、フランス語系ケベック人の「言語への安 心感」を脅かす要因になっていた、英語とフランス語のステータス、英語系ケベック人 とフランス語系ケベック人の経済的地位、フランス語話者の人口動態、教育水準などが、

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言語政策の実施に伴い、どのような変化を遂げたかを分析する。また英語教育に対する 反応の推移を、ケベック州の新聞Le devoir に寄せられた論説、SPEAQ (Société pour la promotion de l’enseignement de l’anglais, langue seconde, au Québec) のレポート

などから考察する。第5 章では結論として、ケベック州の導入した言語政策により「フ ランス語への安心感」が形成され、それが英語教育の導入に影響を与えたことを確認す る。 第1 章 問題提起と仮説の提示 1.1 問題提起 本論文では、ケベック州での英語教育の早期導入が、州政府の言語教育政策が生み出 す「言語への安心感 (sécurité linguistique)」に支えられているとの仮説を検証する。 ケベック州は北米大陸という英語が支配的な場に位置するにもかかわらず、フランス語 を維持し続けようとしている。Bouchard と Taylor (2008) には、フランス語がケベッ ク州社会における共通言語 (la langue française comme langue commune / French as a common language) であると明記されている。つまりケベック州において、フランス 語はフランス語系ケベック人にとってアイデンティティ言語であり、それを脅かす英語 教育の扱いは困難であった。このような地域で、どのような言語教育政策が行われ、そ れによって社会がどのように変化し、英語教育が推進されているのか、これを検証する ことにより、ケベック州における言語教育政策の意義を再考することができると考える。 1.2 研究の目的 本研究の目的は、英語が特殊な性質をもつケベック州での言語教育政策と、社会の変 化の関係を考察し、その結果として、早期英語教育が導入された事実を検証することに ある。ケベック州において英語は長らく「特殊な言語」であった。それは歴史的に、英 語が支配者の言語であり、ケベック州でのアイデンティティ言語であるフランス語と対 立すると考えられてきたからである。すなわち、英語に対してフランス語系ケベック人 は決して好意的な感情を持っていなかった。しかしケベック州の英語教育は、年を追う ごとに初等教育での導入時期が早くなっており、早期英語教育が推進されている。では なぜこのような逆説的状況が進行しているのだろうか。本論では、この疑問に対して、 ケベック州の実施した言語教育政策が、フランス語という言語への安心感を高めたとの

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3 仮説を提唱し、それを社会の変化から検証する。 そのためにまず、「言語への安心感」を定義し、それがケベック州において何を意味 するかを検討する。そして国際社会の中での英語重視や英語教育の早期化の流れを概観 し、「言語への安心感」が他の地域などで言語政策によってどのように保持されている か、教育とどのように結びついているのかを考察する。 1.3 「言語への安心感」について 「言語への安心感」は、フランス語の« sécurité linguistique » の訳語である。原語 に「フランス語」という卖語は組み込まれていないが、ケベック州の中でこの表現が用 いられる場合、「言語」はアイデンティティ言語であるフランス語を指す。つまりこの « sécurité linguistique » は、フランス語系ケベック人が抱く、フランス語とフラン ス文化がケベック社会の基盤となり、維持され、社会の中で消滅せず、存続しうること に対する「安心感」を指すのである。いつからこの表現がこのような意味で使用されは じめたかは確定できないが、「フランス語憲章」(La Charte de la langue française) が

社会に与えた影響を論ずる際に使用されることが多い。これはLabov (1966) が提唱し

た、« linguistic insecurity » (insécurité linguistique) とは異なる概念である。そこ で« sécurité linguistique » との差異を明確にするため、« insécurité linguistique »

を定義し、両者の比較を行う。そのためLabov (1972) がニューヨークで実施した実験 をもとにして、« insécurité linguistique » を解明した鈴木 (2001)を用いる。 Labov (1972) は、話者が「話し方・発音の仕方に特別な注意が払われるフォーマル な場面」 (鈴木, 2001) で、発音の過剰修正を行うことを見出した。すなわち話者は、 「正しい」とされる言語規範と、自らの言語規範が異なっていると認識しており、自ら が獲得した言語規範を、安定的に維持することができない。Labov (1972) はこの状態 を« linguistic insecurity » (insécurité linguistique) と呼び、「特定の階層の発話者には、 自らの発話様式を安定的に維持することを許さないような圧力」 (鈴木, 2001, p.6) が 働くことを明らかにした。つまり« insécurité linguistique » は、話者が自ら身に付け た言語に正統性を見いだせないという状況がつくりだす、話者の「存在論的に不安定な 状態」(鈴木, 2001) と定義することができる。しかし« sécurité linguistique » はこの 対義語ではない。確かに、« sécurité linguistique » は、話者の「存在論的に不安定な 状態」とは逆の、「存在論的に安定な状態」を指す。だがその安定は、話者の所持する

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4 言語規範や、言語の正統性が圧力を受けない、揺るがないという状況に依るものではな い。自らのもつ言語が社会において正当に使用され、消滅することなく存続しうるとい う、言語保障がなされている状況から得られるものである。本論文では、フランス語の 学習、使用の保障がされているという言語保障から生まれる、アイデンティティ言語が 消失しないとの「安心感」に重きをおき、« sécurité linguistique » を「言語への安心 感」と呼ぶ。

ケベック州専門的職業人組合 (Syndicat de professionnelles et de professionnels du gouvernement du Québec : SPL) による報告書は、上記の意味でのケベック州におけ る「言語への安心感」に言及している。「北米大陸に位置するがために脅かされるケベ ック州のアイデンティティ」 (SPL, 2001, p.7) と題された章は、ケベック州で英語侵 略に対する防御の姿勢の理由を、「フランス語への安心感」が脅かされたためと述べて いる。 ケベック州における「言語への安心感」の「言語」はフランス語を指すが、このよう な「言語への安心感」を作り出すために、他の地域ではどのような言語政策が行われて いるのだろうか。本論で英語教育との関係を取り扱うことから、英語教育が推進され、 早期化されることによりアイデンティティ言語が脅かされると考えられている国や地 域に焦点をあて、どのような言語教育政策がとられているのか、またどのように言語へ の安心感が培われているのかを次に検討したい。 1.4 先行研究 1.4.1 英語とアイデンティティ言語への「安心感」 英語教育の早期化の流れはいたるところでみられる。これは、英語が経済、学術に深 く結びついている言語であると考えられているためである。例えば日本において、日本 経済団体連合会は『グローバル時代の人材育成について』の中で、「わが国の英語教育 は、読み書き中心であることから、聞く、話すといった英会話力がなかなか向上しない。 実用的な英語力の強化のためには、できるだけ幼尐の時期から英語教育を開始し、耳か ら英語に慣れていくことが重要である。」 (日本経済団体連合会, 2000) と、英語教育へ の苦言を呈している。一方学術分野においても、スウェーデンでは、医学書の大半、学 術論文は自らの言語ではなく英語で書かれている (Malv, 2004)。また、「科学言語とし てのドイツ語の促進」(Arbeitskreis Deutsch als Wissenschaftssprache) グループは、

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5 科学言語としてのドイツ語を尊重、促進する活動を行っている。現在、科学論文の多数 が英語で書かれているためである。このように、英語が経済、学術の分野で特にlingua franca であることは否定できない事実であり、そのため教育の場においても英語が重 視、偏重される傾向がある。一方で、言語は人間のアイデンティティに結びついている ため、多くの国や地域は、様々な形で英語と自分たちの言語との共存をはかろうとして いる。 では英語の存在感が増すことで、自らの「言語への安心感」に影響を受ける国や地域 での英語教育政策とはどのようなものだろうか。例えばヨーロッパでは、英語教育への 一極集中に危機感が持たれている。それは、他者への寛容性を育成するとの目標のもと で展開されている複文化・複言語主義という考えにも認められる。複文化・複言語主義 のもとで母語 + 二言語学習が推進されている背景には、一言語だけでは多数が英語だ けを選択し、各国の国語がヨーロッパにおいて学習されないという危機感が存在する。 事実、スイスで行われた調査によると、ドイツ語圏カントン(州)では、もし学習言語を 自由に選択することができる場合、英語を選ぶと答えた人数は、スイスの公用語である 他の言語を選択する人数よりも多かった (Krum, 2004)。また、『英語学習に続くドイ ツ語学習』(German after English) (Hufeisen & Neuner, 2004) といったように、第 一外国語から第二外国語への学習ストラテジーを活かすことにより、ヨーロッパ内での ドイツ語学習者数の増加をはかる試みもおこなわれている。このようにヨーロッパにお いて、英語とその他のヨーロッパ言語の共存は言語教育政策を通して模索されている。 またシンガポールでは、長年にわたり英語重視の言語政策がとられていたが、現在で はアイデンティティ言語としてのマンダリン (中国語) の教育が盛んに行われている。 スピーク・マンダリンキャンペーンは、英語教育の振興により弱体化したシンガポール 人のアイデンティティを新たに生み出す動きである。宮奥 (2006) によると、シンガポ ールでは、華人が77 %を占めているものの、全員がマンダリンを話す状況ではなかっ たことから、シンガポール華人というアイデンティティを創出するためにマンダリンを 選び、振興をはかった。このキャンペーンは英語重視政策の渦中に実施され、英語とア イデンティティ言語をどのように共存させるかという問題にもつながった。 このように、英語はアイデンティティと結びついた言語と共存が難しいこともある。 このような事例を見ると、アイデンティティ言語が失われないよう、また維持されるよ う、言語政策の実施がなされていることがわかる。人々の「言語への安心感」が言語政

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6 策を通じて作り上げられ、高められるのである。 次は、ケベック州における言語政策、そして教育の関係を、ケベック州の教育一般に 関する先行研究から振り返りたい。 1.4.2 ケベック州の教育について ケベック州の教育については、小林 (1994) ならびに小林 (2003) が詳しいため、こ こではそれらの研究を参照し、検討をすすめたい。 小林 (1994) によると、ケベック州の教育は、初等教育 (6 年)、中等教育 (5 年)、つ い で 大 学 前 教 育 機 関 に あ た る 「 一 般 教 育 ・ 職 業 専 門 教 育 コ レ ー ジ ュ 」(Collège d’enseignement général et professionnel : CEGEP、2 年)、そして高等教育 (3 年) と

区分されている。大学入学にはこの CEGEP の学位 (diplôme) が必要である。ケベッ ク州では教育が長い間教会に委ねられており、学校はまず教授言語を英語とする学校と、 フランス語とする学校に大別される。さらにそれがカトリック英語系学校、プロテスタ ント英語系学校、そしてカトリックフランス語系学校、プロテスタント英語系学校とな っており、それぞれに教育委員会が存在していた。これらの学校制度は異なっていたが、 1964 年に統一された。現在では教育委員会も宗派別にではなく、言語ごとに変更され、 初等学校、中等学校、CEGEP の英語系学校とフランス語系学校が存在している。本論 では初等教育、中等教育に主に焦点をあてる。ケベック州の発行する2010 年 9 月のデ

ータ (Ministère de l’éducation, du Loisir et du Sport du Québec : MELS, 2011) に

よると、ケベック州では88.9 % の子どもがフランス語系学校に、9.4 % が英語系学校 に通学している。学校数としては、72 校のうち、64 校がフランス語系学校、13 校が英 語系学校である。この他にも、先住民の学校が存在している。 小林 (2003) によると、ケベック州では英語系学校とフランス語系学校で、教授言語 と第二言語の卖位数が異なっている。英語系学校では教授言語の英語が全体で12 卖位、 第二言語のフランス語が10 卖位である。一方のフランス語系学校では、教授言語のフ ランス語が 14 卖位、第二言語の英語が 8 卖位となっている。また、英語系学校では、 フランス語のイマージョンプログラムが行われている。 1.4.3 ケベック州の英語教育について ケベック州の英語教育研究は、教育に対する言語政策の影響を論ずるものだけではな

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7 い。バイリンガル話者がカナダ連邦全体でも最も多いことから、言語間の転移、学習の 動機付け、イマージョン教育についても盛んである。 Maheau (1983) は、ケベック州でのイマージョンプログラムが、言語政策、特に「フ ランス語憲章」によってどのような影響を受けたかを考察した。Thordardottir (2005) は、英語とフランス語の語彙と統語がどのように相互影響を与えるかを、ケベック州の 事例をもとに研究を行った。Belmechri と Hummel (1998) は、第二言語としての英 語学習の動機を、ケベック市の高校で調査し、最も強い学習動機を明らかにした。Spada とLightbown (1989) は、英語集中学習クラスの観察から、学習者の英語レベルにどの ような変化が現れたかを検証し、集中学習クラスの長期的な効果について論じた。 このように、ケベック州では様々な視点から英語教育に関する研究がすすめられてい る。これは、ケベック州におけるバイリンガリズムへの高い関心を反映するとともに、 英語とフランス語の共存に必要な教育について、多くの研究者が関心を寄せているため である。 1.4.4 ケベック州の言語政策について 時田 (2006) は、ケベック州におけるフランス語化政策と教育の関連性を概観し、言 語政策により引き起こされる社会の言語状況の変化を検証した。また、Laporte (1984) は 、 ケベ ック 州の 言語政 策 と言 語の ステ ータス 、 言語 と経 済状 況、ア ロ フォン (allophone)、すなわち英語もフランス語も母語としない者への影響を考察している。 またFallon と Rublik (2011) は、英語教育と言語政策の観点から、2006 年の言語政 策以降の英語教育現場への影響を質的に調査している。 本論は、ケベック州における言語政策が、ケベック州の人々に与えた影響を検証する。 そのために、Laporte (1984) の研究手法を参照し、言語のステータス、言語と経済状 況、フランス語話者数の変化、進学率の変化などの視点から、言語政策が社会に与えた 影響を検証する。またFallon と Rublik (2011) の研究を参考に、英語教育の早期導 入に対する教師の意見をもとに、言語政策と英語教育の影響を検討する。このことから、 ケベック州での言語への安心感、すなわち「フランス語への安心感」が高まってきたこ とを論証する。

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8 1.5 研究方法 英語教育の導入時期について改革の行われた1977 年、1997 年、2005 年のケベック 州の言語政策を分析し、それぞれの政策が社会に与えた変化を検証し、またその社会の 変化が言語政策に与えた影響を考察する。そのため三つの時期の言語政策の改革を分析 し、その特徴と英語教育への影響を考察する。次にそれぞれの政策実施前後で、フラン ス語系ケベック人の「言語への安心感」を脅かしていた要因に関係する、フランス語の ステータス、言語と所得、フランス語話者人口、言語と学位保持率、英語教育への議論 の五項目の変化を検証する。そして言語政策と社会の変化が相互に関係し、「フランス 語への安心感」がケベック社会の中で培われ、結果として英語教育の早期導入が可能に なったことを論証する。

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9 第2 章 ケベック州における英語の特殊性 本章では、ケベック州においてなぜ英語が特殊な言語になったのかを、歴史的経緯か ら解明する。そして、ケベック州においてどのようにフランス語がケベック州住民のア イデンティティ言語となり、一方、英語はなぜケベック州において「静かな革命」の時 期まで支配言語であったのかを明らかにする。 まずは、フランス人がケベックに入植し、そこでフランス文化とフランス語の根付い ていった経緯を概観する。次に、ケベックがイギリスに割譲された「パリ条約」、なら びにケベックにおいてフランス語が維持される契機となった「ケベック法」について考 察する。さらにフランス語話者に対する不平等を生んだ「カナダ法」、そしてカナダ連 邦成立に至る「英領北アメリカ法」を論ずる。 ケベック州の人口は、大きく4 つのグループに分けることができる。先住民、フラン ス語を母語とする者、英語を母語とする者、英語とフランス語のいずれも母語としない 者である。先住民以外のものを、それぞれ順にフランコフォン (francophone)、アング ロフォン (anglophone)、アロフォン (allophone) と呼ぶ。またケベック州におけるフ ランス語、フランス文化など、フランコフォンが保持しているもの、またその精神性な どを「フランス的事実」 (竹中, 2009b, p.36) と呼ぶ。一方でアングロフォンが保持し ている文化、その精神性などを「英語的事実」(矢頭, 2009a, p.170) と呼ぶ。 2.1 入植から「パリ条約」まで 現 在 の ケベ ッ ク州 に あた る 土 地 は 、 ジャ ッ ク・ カ ル ティ エ (Jacques Cartier, 1491-1557) がフランス王の命をうけてこの地に到来するまで、先住民の暮らす土地で あった。カルティエがこの地を「発見」し、1534 年に「新フランス」 (Nouvelle France) と名付けた。その後、1604 年にはサミュエル・ド・シャンプラン (Samuel de Champlain, 1567-1635) 指揮の下に、新フランスは植民地化されていった。そしてフランス文化や フランス式教育がそのまま持ち込まれた。当時、フランスでは教育制度が完成しておら ず、教育はカトリック教会の管轄下であった。この教育制度は新フランスにも引き継が れ、フランス人の子供たちのみならず、カトリックを布教するとの目的のもとに、先住 民に対しても教育は行われていた。当時のケベックのフランス人は自国の文化に対する 自信と誇りをもっていたため、彼らは学校教育を通してのフランス文化の伝達を重視し た。こうして、フランス文化とカトリック文化がケベックの学校教育の二本の柱となっ

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10 たのである (小林, 1994)。このように、現在に至るまでケベック州において教育は、ケ ベック州の核を構築するために大きく貢献してきたのである。当時、北米大陸 (現在 のアメリカ合衆国) は 1610 年にイギリス領となっており、13 植民地として統治されて いた。一方、フランスの植民地である「新フランス」はその版図が18 世紀に最大とな り、「北はニューファンドランドおよびラブラドールから内陸部の五大湖周辺を経て单 のルイジアナにいたるまで」(竹中, 2009b, p.39) と拡大していった。1760 年の時点で、 人口はフランコフォンが約7 万から 8 万人であり、一方、他の 13 植民地に居住してい たアングロフォンは150 万人であり、圧倒的な差が存在した。1760 年、北米における イギリスとフランスの植民地獲得において、フランスは敗北した。新フランスはイギリ スの統治下に入ったのである。宗主国フランスは、この当時すでに新フランスへの興味 をそれほど強くもっていなかったと言われている (竹中, 2009b, p.41)。ヨーロッパでの 自国の政治を優先しなければならず、そのために新フランスの支配を継続する余裕がな かったのである。敗戦に伴い、フランス本国からの支配層、すなわち政治や経済に関わ っていた人々はフランスへと帰国した。これにより、新フランスはフランス本国から「見 捨てられた」という考えが、残った人々の間に強く根付いた。ケベック市は1759 年に 陥落し、モントリオールも翌年の1760 年に陥落した。そして、新フランスは 1763 年

の「パリ条約」 (Traité de Paris / Treaty of Paris) によって正式にイギリス領となっ た。 2.2 「パリ条約」と「ケベック法」 ケベック市の降伏、ならびにモントリオールの降伏にあたっての調印文により、イギ リスは新フランスに以下の三点の条項、すなわち「カトリック信仰の自由、聖職者の活 動、女子修道会の会則と特権の保持」 (小林, 1994, p.19) を認めた。その後の 1763 年 の「パリ条約」は、これらの条項を大英帝国の法律が許す範囲までと定めた。また、名 称は新フランスから「ケベック植民地」 (Province de Québec / Province of Quebec) に

変更された。このようにして、イギリスは約8 万人のフランコフォン、すなわち「フラ

ンス的事実」を持つ人々を北米植民地に包摂することとなったのである。しかしイギリ

ス政府は、他の13 植民地からの人々の移動を予想し、ケベック植民地にもアングロフ

ォンが多く住むことになると想定した。しかしこれに反して、アングロフォンはケベッ ク植民地へと北上することはなかった。そのためケベック植民地には引き続きフランス

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語を使用するフランコフォンが、フランス的精神性を保持し続けながら、カトリック教 会の指導と教育の下に暮らしていたのである。

しかしケベック植民地内部に「フランス的事実」を有する人々が多数居住していたと しても、宗主国が交代した状況で、「フランス的事実」という独自性の維持は容易では なかったはずだ。それを支えたのは、「ケベック法」 (Acte de Québec / Quebec Act) と いう法律であった。この「ケベック法」とは「ケベック植民地」の領土拡大、フランコ フォンに対するカトリック信仰の保障、フランス民法の温存、領主制の温存を主軸とす る法律である。つまり「フランス文化、諸制度の存続の承認」 (長部ほか, 1989, p.14) が その柱となっていたのである。イギリスがこのような政策を導入した理由は、イギリス の直面していた植民地問題に関係している。 北米大陸における13 植民地では独立の機運が高まっており、イギリスは、ケベック 州がこれに同調する可能性を非常に危惧していた。そのためケベック植民地における 「フランス的事実」という独自性をむしろ保障し、イギリスに対する不満を封じ込め、 ケベック植民地が独立運動に参画しないことを企図したのである。この政策は功を奏し、 またケベック植民地に経済的理由があったことからも、ケベック植民地はイギリス植民 地として残ることを選択したのである。 このように「フランス的事実」という独自性は保障されたものの、ケベック植民地に おいて、イギリスの経済的侵略がはじまっていた。アングロフォンの商人が軍隊ととも に到来し、経済を支配したのである。フランコフォンのエリートがつくことのできた職 業は、「医師、弁護士、代書人」 (長部ほか, 1989, p.62) だけと言われている。一方、 農民たちは、アングロフォンの流入により、これまでにも増して、大地とカトリック信 仰により目を向けるようになった。 2.3 「カナダ法」 アメリカ独立戦争はケベック州にも大きな影響をもたらした。1763 年ごろのケベッ ク植民地に居住するアングロフォンは商人たちを中心とし、人口のわずか1 % にすぎ なかった。しかしアメリカ独立戦争に敗れた王党派がアメリカ合衆国から移住をはじめ たことにより、状況は一変する。ケベック植民地において、人口という武器はフランコ フォンの独自性を保つために重要であったのだが、それが脅かされ始めたのである。セ ントローレンス川の上流と下流にアングロフォンとフランコフォンという住み分けが

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はじまったのは、この頃である。二つの民族は文化や言語、宗教までも異なることから、 彼らの居住する場所をひとつのケベック植民地として扱い続けるのは難しいとイギリ スは判断し、1791 年の「カナダ法」 (Acte constitutionnel / Constitutional Act of 1791) によってケベック植民地はアッパー・カナダとロワー・カナダに分割される。上流 (ア ッパー・カナダ) にはアングロフォンが多く居住し、下流 (ロワー・カナダ) にはフラ ンコフォンが多く居住することとなった。この時期のロワー・カナダに暮らすアングロ フォン人口は6 万人で、土地制度の改正を受けて、アングロフォンの人口はロワー・カ ナダでさらに増加した。そのため、アングロフォンの子弟への教育を目的として、イギ リスの支援のもとでプロテスタント教会はロワー・カナダでの学校を設置し始める。一 方、フランスと関係が途切れてしまったため、フランコフォンの子弟に対する学校教育 は、推進されなかった。フランコフォンへの教育を担当していたのはカトリック教会で あるが、新たな宣教師の呼び寄せをイギリスが禁じたことから、教師の絶対数が不足し たのである。小林 (1994, p.23) によると、1790 年にはわずか一万人のアングロフォン に対して17 校の学校が用意されていたが、16 万人を数えるフランコフォンに対して約 40 校の学校しか設置されなかった。このため、フランコフォンの住民には十分な教育 が行きとどいていないとの認識が、フランコフォンのみならずアングロフォンにも広ま り、アングロフォンがフランコフォンを蔑視する風潮を生む発端となった。また、ロワ ー・カナダの中でも、人口の尐ないアングロフォンが経済的覇権を掌握し、そこにはア ングロフォンの総督や富豪商人が暮らしていた。 「カナダ法」はケベック植民地に議会制度を導入した。当初この議会は、ロワー・カ ナダに居住するフランコフォンとアングロフォンの人口比に従って、フランコフォンが 多くの議席を占めていた。イギリスはアングロフォンによるカナダ支配を当然と考え、 この傾向を好意的に捉えず、フランコフォン議員の数を制限する施策をとった。このよ うにアングロフォンによる政治や経済の支配にフランコフォンは反発し、1837 年にパ ピノーの動乱 (Rébellion des Patriotes / Lower Canada Rebellion) をひきおこす。こ の動乱は、翌年には武力で鎮圧されたが、これがアングロフォン、英語に対するフラン コフォンによる最初の反抗であり、ここからフランコフォンとアングロフォン、ひいて はフランス語と英語の対立が可視的な形で噴出し始めたのである。

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13 2.4 「連邦法」及び「英領北アメリカ法」

北米植民地でおきたパピノーの動乱をうけて、イギリスはその支配の見直しを決定し た。自由党の前身であるホイッグ党 (Whigs) に属するダーラム卿 (John George Lambton the Earl of Durham, 1792-1840) がイギリスより派遣され、ダーラム卿はア

ッパー・カナダとロワー・カナダに関する報告書を1838 年に提出した。その中にはフ

ランコフォンに対する軽視が認められる (小林, 1994)。ダーラム卿は、その報告書の中 で、フランコフォンをイギリス文化などに同化しなければ、ロワー・カナダの安定はな いと主張した。そのため、アッパー・カナダとロワー・カナダを一つに統合し、アング ロフォンが議会において、より多くの議席を獲得できることを提案したのである。この 報告書をうけて、1840 年の「連合法」(Acte d’Union / Act of Union) により、アッパ ー・カナダとロワー・カナダを統合したカナダ州が誕生した。しかし、それにもかかわ らずフランコフォンの人口はカナダ州全体でアングロフォン人口よりも多かったため、 イギリスはこの不均衡を議員の選出方法によって是正しようとした。つまり、カナダ州 を東部 (かつてのアッパー・カナダ) と西部 (かつてのロワー・カナダ) にわけ、各地 域から選出する議員数を、母数にかかわらず同人数と定めたのである。このようにロワ ー・カナダに対しては明らかに不公平な政策が導入されたため、フランコフォンの中に さらなるアングロフォンと英語に対する敵視、そしてフランコフォン・ナショナリズム が芽生えていった。 1867 年のコンフェデレーション (Confédération / Confederation) によりカナダ連 邦が結成される。「英領北アメリカ法」 (Actes de l’Amérique du Nord britannique / British North America Acts) により、カナダ、ノヴァスコシア、ニューブランズウィ ックのイギリスの北米領三つが一つに統合された。この背景にはイギリスのもつ政治的 思惑がある。イギリスはアメリカ单北戦争が北米植民地に飛び火することを恐れ、イギ リスみずからが北米植民地の防衛を行うのではなく、北米植民地自身に任せることを決 め、北米植民地に自治権を与えたのである。こうして、カナダ連邦という北米植民地が 完成した。大石 (2006) によると、この時期、カナダ連邦には全人口の 31.1 % にあた るフランコフォンが居住しており、その多くはケベック州に集中していた。これを見る と、カナダ連邦の中で、フランコフォンは英語系に囲まれるマイノリティになったこと が分かる。 このように、フランコフォンは経済的弱者であるのみならず、コンフェデレーション

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14 を経由することによりカナダ連邦全体において人口の点でマイノリティになった。そも そも「パリ条約」の時に芽生えた「フランスに見捨てられた」という感情とこの状況が 結びつき、フランコフォンはますますカトリック教会に依存し、近代の経済的発展を遂 げることができなかったのである。このような状況で、フランコフォンはアングロフォ ン支配への反発を感じ、自らのアイデンティティを脅かし続ける英語に対して、敵対心 を持った。これは想像に難くない。 2.5 静かな革命 このような経緯をたどり、ケベック州はカナダ連邦の一部となったが、ケベック州に 暮らすフランコフォンの経済的発展は遅れていた。依然として、アングロフォンはケベ ック州の経済的な支配を続け、カトリック教会は既得権を手放さなかった。そして、こ の宗教勢力に強く結びついていたフランコフォンは、アングロフォンより低い水準の教 育を受けていた。カトリック教会の推進する教育はそもそも聖職者の育成を目的として いたため、普通教育や非宗教教育は成立していなかったのである。コンフェデレーショ ン以降の数年間は、ケベック州における「おおいなる暗黒時代」 (竹中, 2009a, p.48) と

呼ばれている。1936 年に政権をとったデュプレシ (Maurice Le Noblet Duplessis, 1890-1959) は保守主義の立場を変えなかったため、アングロフォンとフランコフォン 間の経済や教育領域における格差は開く一方であった。1900 年代初頭の統計によると、 ケベック州のモントリオールにおいて、フランコフォンの人口比は尐なくとも60 % を 超えており、アングロフォンは約30 % に満たなかった (Behiel, 1991, p.2.)。このよう な人口差がありながらも、フランコフォンの社会的上昇には英語が必要であり、フラン コフォンの大規模事業主は存在せず、格式高いホテルやレストランでのサービスは英語 に限られていた。フランコフォンは人口の点からはマジョリティであったにもかかわら ず、自らの言語を使用して社会的成功をおさめることができなかったのである。さらに、 20 世紀初頭は、カナダ連邦に移民が殺到した時期でもあった。当初はアングロフォン 以外のヨーロッパ系移民が、ついで中国や日本からので東洋系移民が激増した。ケベッ ク州はその影響を免れることはなく、この時期ケベック州のアロフォン人口は徐々に増 加する。ところがそのアロフォンは、フランス語を学習せず、この事実はフランコフォ ンに危機感を抱かせた。さらに、フランコフォンの出生率が低下し、この危機感に拍車 をかけた。フランコフォンが人口の点でマジョリティという立場すらも失った場合、ケ

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15 ベック州からフランス語とフランス文化という「フランス的事実」が消滅してしまうの ではないか。このような恐怖が、フランコフォンの間に広がったのである。さらに、経 済活動に有利な言語が英語だけならば、フランコフォンもいずれは子供たちに英語を学 習させ、その流れが主流になる。それはすなわち、ケベック州のアインデンティティの 消滅を意味するのである。また、他の州に広がるフランコフォンの直面した状況を見て、 ケベック州におけるフランス語への危機感は増すばかりであった。フランコフォンはケ ベック州の西と单に位置するオンタリオ州とニューブランズウィック州にはとりわけ 多く居住していたが、その他の州にもフランコフォンは散在していた。そして他の州で はアングロフォンに同化される動きが圧倒的であった。そのため、アングロフォンが人 口の点でマジョリティになってしまった場合、ケベック州のフランコフォンが同じよう にアングロフォンに同化、吸収されてしまう可能性は非常に高かった。 1960 年に自由党が政権につくとともに、ケベック州のフランコフォンに近代化の流 れ が お と ず れ は じ め た 。 こ れ を 「 静 か な 革 命 」 (Révolution tranquille / Quiet Revolution) と呼ぶ。これが「静かな革命」と呼ばれるのは、フランス語系が戦争や抵 抗によってその立場を奪い取ったためではなく、近代化の波が政治的領域から起こった ためである。それは、「農耕型社会から産業型社会へ」、「大家族から核家族へ」、「内向 的世界観からより開かれた外交的世界観へ」、「カトリックの支配する伝統的価値観から 革新的で脱宗教的価値観の社会へ」 (竹中, 2009a, p.48) という変化にもあらわれてい る。そして1977 年の「フランス語憲章」を経て、フランコフォンはケベックを「言語 的に征朋した」 (竹中, 2009a, p.53) と言われている。これによりケベック州のフラン コフォンは次第に自信を取り戻していったのである。 ここまでのところで、歴史的な観点からケベック州における「フランス的事実」と「英 語的事実」を、「静かな革命」の時期まで概観した。フランコフォンは征朋され、抑圧 され、アイデンティティ消滅の危機を感じていたが、これはアングロフォンや英語によ って生み出されてきたのである。ケベック州における英語への特殊感情は、ジャン・ル サージュ (Jean Lesage, 1912-1980) の率いる自由党が、1962 年にもう一度政権を獲 得した時に訴えたスローガンにも現れている。「我が家の主人」 (Maîtres chez nous) (柳原, 2000) というスローガンには、それまでフランコフォンがケベック州という「我 が家」において、実のところ「主人」ではなかったことを暗示している。それまでの「主

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ケベック州における英語が、フランコフォンにとって扱いにくい言語だったことがわ かる。ではケベック州の学校教育はこのような英語をどのように取り扱ってきたのだろ うか。次章ではこの課題について言語教育政策の視点から検証する。

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17 第3 章 ケベック州の言語政策について 3.1 言語政策とは何か 本論で取り扱う言語政策は、言語教育政策を含むものである。そのため、まず言語政 策を定義し、ケベック州における言語政策が何を指すかを明らかにする。 「言語政策」と「言語計画」については種々の研究がなされているが、本論ではこの二 つが主従関係にあるとの、Calvet (1996 西山訳 2000) を踏襲し、言語計画は言語政 策に含まれるものとする。「言語政策」とは、政府が何らかの力をもって介入し、「人間 の言語獲得・習得・運用・普及に関して講じられる政策(計画)」 (関, 1997, p.7) のこと である。そして言語計画は コーパス整備 (corpus planning) と地位計画 (status planning) に分けられる (Crystal, 1992 風間ほか訳 1992)。本論では、言語政策と いう用語を、ある言語がある社会においてどのように使用されるべきか、その言語の地 位の変更計画という意味で用いる。ケベック州を研究対象とする本論において、言語政 策は以下の項目を含む。 ①言語法 Calvet (1996 西山訳 2000, p.66) が「法的側面のない言語計画は存在しない」 と述べるように、政府は言語政策により種々の制約を乗り越え、言語計画として言語に 対して強制力を発揮するため、法律を制定する。政府は言語法により、言語を公用語と して定め、教育機関での教授言語を定め、ある言語の使用を推進することができる。 ②言語教育政策 上記の意味での言語政策において、学校教育の果たす役割を見逃すことはできない。 言語獲得・学習・運用は多くの場合、教育を通じてなされるためである。言語教育政策 によって、就学率は上昇したり、学習する言語の種類が変化することもある。このため、 本論では言語教育政策についても論及する。また、一度実施された言語教育政策は後に 改革 (réforme) が行われることもある。これも言語教育政策の一環にふくめて論ずる。 3.2 ケベック州の教育システムについて ケベック州の教育を論ずるにあたり、まずはカナダ連邦とケベック州の関係、とくに 教育政策の関係を考察する必要がある。そこで本項ではカナダ連邦とケベック州の言語

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18 教育政策について、学校制度と教育行政の観点から述べる。 現在のカナダ連邦の教育に関する権限は、「英領北アメリカ法」という法律により連 邦各州にその裁量がゆだねられている。同じく連邦制度をとるアメリカ合衆国と異なり、 カナダ連邦に教育省は存在しない。そのため州は教育改革やその動向の決定に、大きな 権限をもつ。しかし学校制度が州により異なることから連邦内の協力や情報交換が損な われることのないよう、1967 年以降カナダ教育担当大臣協議会が設置されている。カ ナダ連邦では、州により中等教育の修了条件が異なるため、この組織は、転校の手続き が困難である場合などその手助けを行う。では教育は州レベルでどのように決定され、 実施されているのだろうか。カナダ連邦に各州を統括する教育省はないが、州ごとに教 育省があり、これが「政策のフレームワークを決め、教育財政に責任を有する」 (平田・ 溝上, 2008, p.100) のである。そのため教育省は州レベルでの教育の大枞を決定する ものの、各地区の運営は教育委員会の担当となっている。教育委員会は、より細かく学 区ごとに教育目標や予算、プログラムを決定する権限を有しているが、教育委員会は州 に一つとは限らず、公立学校や私立学校ごとに区分されている。ケベック州には私立学 校と公立学校があり、どちらにも教授言語を英語とする英語系学校、フランス語とする フランス語系学校がある。同様に、教育委員会も現在では英語系学校、フランス語系学 校それぞれを担当するように分類されている。 ケベック州の言語政策は法律による規制を実施している。州政府と連邦政府の法的関 係についてみると、州条例が連邦政府条例に抵触した場合、その決定は最終的に連邦最 高裁判所の判断にゆだねられる。基本的に連邦政府は各州に教育予算を配分し、具体的 な教育運営の施策は各州に一任しているが、連邦政府の理念や法律に反した場合、連邦 政府が最終的な意思決定を行う。これがケベック州とカナダ連邦政府の言語政策に関す る法的権限に関する考え方である。

またケベック州には、「教育高等審議会」(le Conseil supérieur de l’éducation : CSE) が存在する。これは教育省に対するアドバイザー的な機関であり、言語政策の実施にあ たり、教育省に対して答申を提出する。教育省は教育審議会の答申に基づいて法案を策 定し、政策を実施する。この関係は、日本の省庁の設置する審議会と大臣の関係に類似 している。

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19 3.3 ケベック州の教育と言語教育政策について ここではケベック州の言語教育政策の中でも、英語教育とフランス語教育に影響を及 ぼした政策を主に取り上げる。そこには言語法や教育改革が含まれる。まず言語教育政 策の概要を述べ、その後、それらが初等教育や中等教育に与えた影響について論ずる。 また、言語教育政策の概要を提示するにあたり、その政策の実施された理由を明らかに する。 まず、ケベック州のフランス語に大きな影響を与え、1977 年に発布された「フラン ス語憲章」 (La Charte de la langue française / The Charter of the French Language) をとりあげる。これは、ケベック社会全体におけるフランス語の地位を確立したもので、 ケベック州の言語教育を語るために欠かせない。第二に1997 年の教育改革を考察する。 これは、それまで未解決の教育問題の解決を試み、21 世紀に向けた新たな視点を盛り 込んだものである。その上で、これを修正した2005 年の改革について論ずる。この改 革は、教育審議会と教育省の意見が一致をみないまま、言語教育改革の実施に至った事 例である。 3.3.1 「フランス語憲章」 1977 年に、ケベック州において「フランス語憲章」が発布された。これは、他の国 や地域に類をみない強い拘束力を持つ言語法である。この憲章は、フランス語の地位向 上とフランス語の質の維持を二つの大きな目的としている (矢頭, 2009b)。「フランス語 憲章」は前文で、フランス語がケベック州の公用語であり、アイデンティティ言語であ ることを謳っている (丹羽, 1998)。そしてこれを社会に反映させるため、多くの領域で のフランス語使用を義務づけた。司法の領域を始め、労働環境、社会環境、そして教育 の領域にその影響は及んだ。2 章で述べたように、ケベック州では、住民の大多数がフ ランス語系だったにもかかわらず、長きにわたり、英語こそが街中で多く見られ、サー ビスを受けることができ、そして会社で上昇するための言語であった。しかし「フラン ス語憲章」の導入の結果、法律はフランス語のみで起草1され、従業員が50 人以上の職 場ではフランス語での業務が義務付けられた。さらに街中の看板標識は全てフランス語 で書かれることになった2。教育においてはほぼ全員の子供が公立フランス語系初等学 1 後に、カナダ連邦最高裁で違憲判決、改正が行われた。 2 後に、英語との併記が認められた。

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20 校、中等学校に通うこととなり、フランス語を教授言語とする学校の生徒数が増加した。 またフランス語の質の維持に関して、この法律は Calvet (1996 西山訳 2000) の 指摘する意味での言語整備にも介入している。ケベック州で使用されているフランス語 は、標準フランス語であるパリ方言とは異なり、ケベック・フランス語である。18 世 紀に宗主国フランスと切り離されたケベック州には、現代のフランス語とは異なる、か つての古いフランス語が残されている。ケベック・フランス語は標準フランス語とは語 彙、発音において離れていたため、フランコフォンはこの言語に务等感を抱いていたが、 「フランス語憲章」の成立とともにそのフランス語こそが自分達の言語であると自覚す るようになった。ケベック・フランス語への英語の介入を防ぐために、この憲章は徹底 したフランス語化の実施を決定した。英語に対応するフランス語がない場合に、その新 語を作り出し、英語化に対抗することがケベック州におけるフランス語の質の向上につ ながると考えられている (矢頭, 2009b)。圧倒的な英語人口が暮らす北米大陸に位置す るケベック州において、メディアなどを通した英語の流入機会は多い。そのため、この 法律はケベック・フランス語の英語化に対抗するために、大きな意義を持つ。 この「フランス語憲章」の制定により、ケベック州におけるアングロフォンの間で激 しい混乱が生じた。今まで優位言語であった英語が、一転して優位性を失うからである。 公共サービスは全てフランス語でのみになり、職業についている者にはその職業を遂行 するに十分なフランス語能力が要求された。もはや英語の能力だけではケベック州で生 きていけなくなってしまったのである。その結果、多くのアングロフォンが他の州に流 出し、同時に多くの企業が州外へと移転したと言われている (長部ほか, 1989)。ケベッ ク州はこれにより経済の停滞を予想したが、それにもかかわらずこの憲章を批准し、発 布した。以上が「フランス語憲章」の導入とその意義の概要である。 3.3.2 1997 年の教育改革 ケベック州は1980 年代に一度、大きな方向転換を遂げ、その後、新たな視点を強調 するため 1997 年に教育改革を実施した。1980 年の教育改革は言語教育に大きな影響 を与えたものの、「フランス語憲章」の影響はそれに勝る。しかしまず、1997 年の教育 改革の実施の背景を理解するため、1980 年代の教育改革を明らかにする必要がある。 ケベック州の公教育に関する基本法は1988 年に成立し、学校の自主性や主体性の増 大、就学年齢の規則の導入が決定された。これにより就学率は上昇したが、逆に教師の

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自由裁量が増大したために、児童の基礎学力が身につかないという結果を生んだ。これ に対応するため、また新たな世界の変動を受け、「コルボ・レポート」 (Rapport Corbo) が作成された。『21 世紀のためにわれわれの若者を準備する』 (Préparer les jeunes au 21e siècle) との題名を持つ報告書は、21 世紀を生き延びるための必要な点を考慮した カリキュラム編制の必要性を説いている。このレポートは「グローバル化した社会の中 での孤立主義は否定するが、ケベックの特殊性は肯定するという複合的判断を教育改革 の原理に据える」 (小林, 2003, p.105) と結論づけている。

これらを受け、「成功」 (success) というキーワードの下、ケベック州教育省は 1997

年に次のような教育に関する行動計画 (le plan d’action / action plan) を発表した (MELS, 1997)。行動計画によると、①幼児教育、②基礎学習の重視、③学校の自由裁 量権の増加、④モントリオール圏の学校のサポート、⑤職業技術教育の強化、⑥高等教 育の合理化、⑦生涯学習の促進の七つが主な柱となっている。この中では、若者の成功 をめざすことが、全体の方向性として認められる。まず教育省の発言を引用して、成功 とは「学位 (diplôme) を得て学校を卒業すること」 (MELS, 1997) と定義されている。 そこで、「成功」と「言語」を関連付け、全体の方向性を決定づけているように見える、 いくつかの要因が提示されている。 ①幼児教育について 1997 年に幼稚園で一日子供預かりのサービスが開始された。MELS (1997) は、研究 によると、幼い時期から幼稚園に通園した場合、その後の教育課程において落伍が尐な くなることから、このサービスの開始を決定した。中等教育での落伍は初等教育でのつ まずきに原因があることが多く、幼児教育において初等教育の準備を十分に行うことに より、全ての児童に成功への機会を平等に与えることができる。そのために、とりわけ 会話と作文の訓練が必要である (MELS, 1997)。 ②基礎学習の重視について 教授言語、第二言語、第三言語、歴史、数学と科学などは、両親からの要求が高まっ ている科目である。これらは十分な満足な成果があがっていないため、カリキュラムの 改 善 を行 う。 とり わけ、 会 話と 作文 の両 方 に関 わ る 言 語ス キル の向上 を 目指す (MELS,1997)。

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22 ④モントリオール圏の学校のサポートについて モントリオール圏の学校は、時代の変化とともに新たなる挑戦に直面している。「フ ランス語憲章」により、学校にはフランス語を理解できない子供たちが増加した。彼ら の落伍率は高く、彼らをいかに「成功」へ導くのかが、これらの学校の課題である。そ のための特別予算が措置されている。 また、教育委員会の分類についても言及がある。これまでの歴史をみると、ケベック 州では主に宗教団体が教育を担当してきたため、学校教育と同様に教育委員会も長きに わたりカトリック系とプロテスタント系に分かれており、前者がフランス語系学校を統 括し、後者が英語系学校を統括していた。しかしこの1977 年の改革は、宗派により教 育委員会を分けるのではなく、言語別教育委員会の設置を決定した。この措置は、英語 系コミュニティに学校を変革する力を与え、フランス語系コミュニティには移民統合を すすめた (MELS, 1997)。以上が 1997 年の教育改革の概要である。 3.3.3 2005 年の教育改革 1997 年の改革は、教育現場では 2001 年から導入が開始された。この教育改革を土 台とし、2005 年にさらなる教育改革が行われた。この改革の発表は 2005 年であり、 2006 年から実施された。これは 1997 年と同じく「成功」を主な目的とするが、MELS (2005b) は、この改革により、ケベック州の若者はより上位の学位を得て、より経済市 場へ参入することができるようになると主張した。当時の教育相Pierre Reid は「これ らの改革は若者の成功と、教育の質の改善をより強固にするだろう」 (MELS, 2005b) と、この改革を推進した。 行動計画に記された教育改革の主要項目は、①ケベック州教育プログラムの導入、② 新しい学校規則の導入、③新教育評価基準の導入、④新しい特別教育の導入、⑤補完教 育サービスの新しいフレームワーク導入、⑥より統制された学校の新たな編制、⑦変化 に富み創造性のある教育プロセスの作成である。言語に関係するのは主に①と②であり、 2006 年から初等教育、中等教育に新しいカリキュラムが導入された (MELS, 2005a)。 この改革により、ケベック州の子どもたちはカナダの平均、さらに経済協力開発機構 (l’Organisation de coopération et de développement économiques) の中でも最もバラ ンスよい教育を受けるようになった (MELS, 2005b)。以上が 2005 年の教育改革の概 要である。

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23 3.4 ケベック州の言語教育について 次に、言語政策が学校教育、特に初等教育、中等教育の言語教育に与えた影響につい て論ずる。「フランス語憲章」の導入される 1974 年まで、英語教育はフランス語系学 校で第五学年から導入されており、また英語系学校でのフランス語教育は第三学年から 導入されていた。 3.4.1 「フランス語憲章」と言語教育 「フランス語憲章」は教育、特に学校選択の規則に関わる決定に大きな影響をもたら した。「フランス語憲章」以前は、1974 年の公用語法に従い、「英語を母語としない移 住者は英語力のある者のみが英語系学校に就学できると定め、その選別は地区委員会に 定められていた」 (小林, 1994, p.101)。しかし実際のところ、移住者は英語系学校に通 うことが多く、この法案はフランス語人口の低下の危機に対する保障にはならなかった。 そこで1977 年の「フランス語憲章」は、第 72 条で「(公立の)幼稚園、初等教育、中 等教育においては、教授言語はフランス語で行う 」と明言した上で、続く第 73 条で生 徒の学校選択に言及している。「フランス語憲章」は現在まで効力をもっており、以下 の条件に該当する子供たちを除いて、全ての生徒がフランス語系学校に通うことを義務 づけている。 ・その子供の父または母がカナダ市民であり、カナダで初等教育の大半を英語で受 けた場合。 ・その子供の父または母、ならびに兄弟がカナダ市民であり、カナダで初等教育ま たは中等教育の大半を英語で受けた場合。 ・その子供の父または母はカナダ市民ではないが、どちらかがケベック州で初等教 育の大半を英語で受けた場合。 ・1977 年 8 月 26 日にケベック州において最後の就学期間、英語を用いた初等教育、 中等教育を受けた子供、ならびにその兄弟。 ・その子供の父または母が1977 年 8 月 26 日にケベックに居住していたが、ケベ ック州以外で初等教育または中等教育の大半を英語で受けた場合。

(Publication du Québec, La Charte de la langue française , chapitre VIII,73 より拙 訳)

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24 これによると、アロフォンの子供たちはフランス語習得の有無にかかわらず、フラン ス語を教授言語とする学校を選択しなくてはならなくなった。学校教育は、1979 年に 発表された「ケベックの学校、政策発表及び実施計画」 (小林, 1994, p.107) をうけ、 1981 年から具体的変化を被っていった。フランス語系学校での英語教育の開始は第四 学年に引き下げられた。これは「フランス語憲章」により、フランス語のできない子供 たちがフランス語系学校で増加したためである。つまり、英語教育の早期化は必ずしも フランコフォンだけに向けられたものではなく、むしろ教授言語としてのフランス語に 加えて、英語も第二言語3として習得しなくてはならないアロフォンを対象としたもの であった (小林ほか, 2003)。 その結果、フランス語系初等学校では、英語教育は第四 学年から開始されることになり、週に二時間が割り当てられ、三年間で合計して 216 時間が配分された。一方、英語系学校では、フランス語教育が第一学年から開始された。 またこの時期に中等教育の言語教育に対しては変更が加えられなかった。 3.4.2 1997 年の教育改革と言語教育 1997 年の教育改革によって、ケベック州の言語教育はどのような影響を受けたのだ ろうか。1997 年の改革は「若者の成功」を合言葉にし、言語教育に大きな変化をもた らした。ケベック州における第二言語教育とは、英語系学校においてのフランス語教育 を、またフランス語系学校においての英語教育を指す。英語系学校においての第二言語 としてのフランス語は、初等教育の第一学年から導入されており、これまでの教育制度 に変化はなかった。一方フランス語系学校をみると、それまでの初等教育で英語教育は 第四学年から導入されていたが、第三学年からとなった。しかし実際のところ、それま での英語教育から、週に一回で四年間、合計 144 時間の英語教育への割り当てへと変 更された。つまり初等教育を見れば、英語教育の時間が72 時間減ったのである。導入 の時期が早まったため、一見すると英語教育の時間が増加したと思われるかもしれない が、実際のところ英語の授業時間数は削減された。すなわち2000 年から始まった実際 の初等教育の教育現場においては、英語の学習年数は3 年間から 4 年間に増えたものの、 実際のところ英語の授業時間は減らされた。一方、中等教育において、フランス語教育 3 これを第二言語と定めるか否かは難しい。アロフォンは、英語・フランス語でもない母語 を保持しているが、フランス語系学校に通学している。そのため、彼らにとってフランス 語は第二言語となっており、英語は第三言語である。

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