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研究紀要 第7号 (その3)

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(1)

i. は しめ に 今 日われわれは、発掘調査に際 して、竪穴住居址に付属す るカマ ドを目にす る機会が非常に 多い。 しか し、カマ ドが、考古学研究の中で比較的軽視 されがちな遺構 であることは否定で き ない。 カマ ドに関す る論究はかな り認め られ るものの、本格的にこれ を対象 としたまとまった 論考が認め難いことか らも、それは言えるのではないか と思われる。 一方、近年の開発に伴 う大規模調査によって、カマ ドの資料は激増 している。筆者は、これ を集成 し整理す る必要 を強 く感 していた。 しか し、調査方法や図化方法に一定の規準や観点が ないまま今 日に至 ったため、カマ ドのデー タ処理は きわめて困難な状況にある。 またすでに見 たように、住居構造 を理解す るうえでのカマ ドの重要性 も軽ん じられてきたように思われ、こ のためか、調査報告の中でのカマ ドの扱いに妥当性 を欠 くような もの も散見される。 こうした制約 も大 きい ものがあるが、以下において、今 日求め得 る資料 をもとに、カマ ドに 関 し年来考 えて きたことをまとめてみたい。論 旨は 多岐にわた り、資料的制約に加え、つ っこみ 不足の論点 もあろ うか と思われ るが、現時点における知見の整理 と、今後のカマ ド研究の方向 性 を示す ことがで きれば幸いである。 五

.カ

マ ド研 究 の 現 状 カマ ドの語について、松前健氏は本居宣長の『古事記イん などを参考 として次のように論及 用語

*

している。すなわち、古代においては火を焚 く場所全般 を「火処 (ホ ド)」 と言い、火 処に置かれた ものが「竃 (カマ)」 であ り、竃の置かれ る火処が「竃処 (カマ ド)」 である、 とされるのである。本論で対象 とす るカマ ドは作 り付けの ものに限 られ るが、これ らは「竃処」 にあたるもの となろう。煙道がな く、屋内に置かれるものは「ヘ ッツイ」 または「 ク ド」 と言 われ、カマ ドとは区別される。 なお考古学では、「竃」「か まど」「カマ ド」 とまちまちに表記 され るが、本論では「カマ ド」の表記 をとり、括弧は省略す る。 ・

*松

前 健 「古代 宮廷竃神考」

**

「ヘ ッ`ノイ」 は古事記 (上巻 、 ヒ」 を通 して変化 した もの 、 『古代文化

J25-2・

3

昭48 神代 の うち黄泉国の章

)に

み られ る「戸喫」 の行為 が 、「「ヘ ッ 「 ク ド」は「ホ ド」の訛 りであろ っ。

(2)

研究 ノー ト 住居址の本格的な調査 とともに、カマ ドが研究の対象 として認識 されたのは、長野県塩 研 究略 史

111*

尻市平 出遺跡 での調査 が最初 であ ろ う。 大場磐雄 氏は考察の なか で カマ ドにつ い て も詳述 し、その 多 くは現在 で も広 く引用 され 、研究 の出発点 となってい る。 カマ ド出現期 の問題 につ いてはの ちに述べ るが 、萩 原弘道氏 は東京都杉並 区 の矢倉 台遺跡 に お いて 、土器編年 の メル クマー ル として カマ ドの存在 を論 した。氏は「土師式文化前期 に も竃 が存在 した。……和泉式 と同様 な様相 を有 し、かつ土師式 中期 の土器 に移行す る形態 を併せ 有 す る… …」土器 を「矢倉台式」 とし、器形変化 とカマ ドの相関関係 を示唆 した。 住 居構造上 の 、煮沸 きの場 の位 置関係 につ いては、全国例 の集成 と分析 か らみ た石 野博信 氏 の論考 が あ る。氏 は先 史時代か らの住居址の屋 内使 用法 の類型化 に際 し、その基本要素 に炉 と カマ ドを置 き、古墳 時代 前期 後半 に「住居型」 の統合 とい う大 きな画期 を結論付けてい る。 竃 神信仰 に関す る論文 は文献 史学 の うちに 多 くみ られ 、松 前健 氏の前掲論文 な どが代表的 で あ る。氏 は文献 にみ える神 の象徴 として種 々の竃器物 を とらえ、古代 中国にお いて早 くか ら完 成 され た竃神 の姿 を明 らか に した。 この考 えは桐 原健 氏の竃 内支石 (支脚

)を

神 とす る論 に も 反映 してい る。 また水野正 好氏 は これに加 えて 、竃形 ミニチ ュア土製品の性格 を論 じ、畿 内に おけ る外来系氏族 の社会的一 面 を考究 した。 これ らが カマ ドに付帯す る諸現 象 を論 して いるのに対 し、カマ ド自体 の問題 に触れ たのは 、 や は り大場磐 雄 氏の構築材分類が最初 であ る。氏 は、粘土製か ら土・石混用 を経 て石組 カマ ド ヘ とい う変遷観 を示 した

(前

掲書234∼ 235頁

)。

また大 川清氏は 、構築材 の相違 は時間的に 変化 す る もの では な く、入手 の難 易に求め られ る と考 え、 さ らに カマ ド出現 の精神 的 なプ ロセ スに も言及 した。 構 造・構 築 法 につ いては 、各遺跡 での調 査報告 の ま とめ の なか に 多 くみ られ る。初現 期 の カ マ ドの構造 を詳述 した神 奈 川県横浜市東原遺跡、構築法 を分 類 した千葉市上 ノ台遺跡 、熱効率 を も とに変遷 を考 えた茨城 県東茨城 郡大 洗町髭 釜遺跡 な どの諸 報告 が参考 とな る。 この他 に欄 国 男氏 の構築 論 が あ る。 これは東京都 八王子 市 内の例 をもとに、設計段 階 での尺度の使 用 を探 *遺跡 を引用す る場 合 は 、初 出の時に都道府県以下現在の市町村 を記 し、右肩に参考文献番号 を 表 わす。三度 日以後 は都 道府県名・遺跡名のみ を掲 げ る。

**大

場磐 雄 「土師式住居址 か らみ た諸問題」 「平 出

J昭

30

***萩

原弘道 「土 師式文化前期 に対す る一考察 一矢倉台式土器の提 唱 一」 『西 郊文化

J8昭

29

****石

野博信 「考古学か ら見 た古代 日本の住居」 『家』昭51

*****桐

原 健 「古代 東国におけ る電信仰の一 面 一竃 内支石 の あ り方 につ いて一」 『国学 院雑誌』78

-9

日召52

******水

野正 好 「外来系氏族 と竃 の信仰」 r大阪府の歴 史』

2

昭47

*******大

川 清 「 カマ ド小考」 『落合

J

昭30

(3)

* ろ うとした ものであ る。筆者 もこ うした諸先学 の論 を もって、数年 来 カマ ド構造 のデー タ表化 を試み て きたが 、 これ を集約 し、変化 をみ いだす には至 らなか った。 以上略記 した よ うに カマ ド研究の流れは大 き く出現期 の問題 、付随す る問題 、構造上 の問題 に わた り、各々絡み合 って論 じられて きた。 そ して 鬼高期 の カマ ドに重 点 が置かれ 、かつ関東 を中心 に行 われ て きた とい う状 況が うかが われ る。 炉は、縄文時代前期にはすでに屋内に設け られ、通常はほぼ中央に位置 していた。こ 発生 の 条件 れが弥生時代には確実に一方にかたよりは じめ る。平面形をみると、単なる円形の く ばみか ら楕円形 とな り、枕石 または土器埋 設に よ り焚 口が あ らわれ る。 炉 の まわ りには小穿孔が 検 出 され る こ とが 多 くな り、火床 中に径 10cm程 の くぼみ を設け た例 もみ られ る。前者か らは上 部構架 物 が 想起 され 、後者は台付甕 の 出現 に対応す るよ うであ る。す なわ ち炉 に方向性や機能 分化 が生 し、 さらに熱の有効 利用が意 図 され は じめ た と考 え られ る。炉 に粘土 を利用す るの も この ころか らで、東海・ 南関東 では粘 土敷炉がみ られ、西 日本 で も粘土 囲炉が あ らわれ る。 古墳 時代 前期 に な る と、炉は一般 に くばみの不 明瞭 な火床 のみの ものに退化 し、よ リー層壁 に近づ く。炉の周囲か らは、五領期 に特徴 的 な「異形器 台」形土製品が、 また和泉期 には角形 土 製 品 (五徳

)が

検 出 され るこ とが ある。 これ らは炉 の外周部 を立体的 に構成 した と考 え られ る。 炉 に伴 う支脚 につ いて、小林行雄 氏は山陰の 「大埴論」 、北 九州 の「用途不 明土器」や壱岐 の 「鳥帽子 形石」 な どをあげて「古代 日本の遺物 の うちに炉の支脚 として用 いた土製品のある こ とを注意 し、……」 「永 い竃 の生活の前 史 を考 え よ う…」 と提起 されている。 炉 は炊事 、採光 、暖房 の機能 を もつが 、 カマ ドは炊事 のみ を機能 として登場 した。 カマ ドの 国 内 自生 説 を とる和 島誠一 。金井塚 良一両氏 は、台付甕 の消失 と甑 の普 及、角形五徳 の登場 と い う現 象 を とらえ、「竪 穴生活に次 第に成長 した 自律的 な消 費生活 こそ まさに炉か らか ま どへ の転換 を推進 した要 因……」 としてい る。 中国 では殷代 以 前か ら二 足銅 器が煮 沸具 として使 われ 、 これが祖 型 とな って漢代 にはか な り

*欄

国 男「鬼高住居 の カマ ドの設計」『小 田原考古学研究会会報

J4

昭46

**後

項 に掲 げてい る神 奈川 。上 谷本 第二 、千葉 。仁戸名 、八千代 。村上込の 内遺跡 の報告書 な ど で私 見 を述べ たこ とがある。 14

***こ

の ような事例 は実見 した 多 くの遺跡でみ られ た。千葉・城 の腰、神奈川・小黒谷、同神庭遺 跡 な どが好例 であ る。

****小

林行雄「土製支脚」 『考古学雑 誌』

31-5

昭16

*****カ

マ ド出現の前段階に、住居構造 の大 きな変化 、 とくに壁面の立上が りが高 くなったこ とが考 え られ る。 こ うして地面 と屋根 との間に空間 を設け るこ とが可能 に な り、採光機能 な どの分離 を促進 したのでは なか ろ うか。

******和

島誠一 。金井塚 良― 「集落 と共 同体」 『 日本の考古学』

V

昭41

(4)

研究 ノー ト 整備 され た竃形 明器がみ られ る。後漢代 及び唐代 に も副葬 品 として瓦竃 が 多数 発見 され る。 こ の習俗 は高句麗に も波及 し、 さらには 日本 の畿 内に もこれが認め られ る。 しか し、これ らは実 用 の もの でないため 、 ここで論 してい るカマ ドとの系譜関係 をた どるこ とは困難 であ る。 カマ ドの 外来説 を とる大場 盤雄 氏 も「元来はわが国の発明では な く、恐 ら く古墳 時代 のあ る時 に大 陸 (中国

)か

ら伝 来 した もの と思 われ るが 、……・」 大陸 での実例 を知 らないため 、「僅か に明 器 の竃 の構造が知 り得 られ るのみ……」 で、「竃 の観 念」 だけが移 入 され 、実物 に対す る認識 の不 足か ら独 自に カマ ドを作 りは じめ た と考 えてい る (前掲書235頁

)。

大 川清氏 は 「窯業 技 術 面 の進 歩 発展 に影 響 され……」て熱効果 を高め るため に炉 をおお った と論 じてお り (前掲書 80頁 )、 両氏 ともに国外か らの直接 的 なカマ ドの導 入説には消極 的であ る。 この他 、西 谷真 治、 喜 谷美宣氏 らもカマ ド成立 に際す る須恵器窯か らの影響 を重視 してい る。 石野博信氏は前掲書において弥生時代後期 に さかのぼ る、「類カマ ド」 の存在を 出現期 の カマ ド 紹介 している。また、愛媛県松山市北久米遺跡では、庄内式士器を出土する住居 址の北壁に粘土区画 を設けた例があ り、中か ら「支脚土器」 が検出されたという。 また五領期の神奈 川県川崎市 久地不動 台遺跡 で、す でに壁 外に切 り込みのあ る「 カマ ド」が検 出 されてい る。今 後 、 これ らの例 とカマ ドが 系統的に連 なるか否か の検討が必要 である。

5世

紀 前半 とされ る福 岡県浮羽 郡吉井町塚 堂 遺跡 では 、詳細 は不 明 なが ら、12軒 の住居 址 に

****

石組粘土被覆のヘ ッツイがみ られ、この うちの10軒は屋内中央に、他は壁際に位置す るとい う。 また、「和泉

I式

」に比定 された埼玉県本庄市西富田遺跡 では、ローム層 を掘 りのこした袖 内に焼土のみ られるヘ ッツイが検出された

_同

様の ものは周辺の西富田新 田、西富田薬師、二 本松の各遺跡や東松 山市駒堀遺跡などへ と引き継がれ、普及 して行 く。その 多 くは煙道 もな く 58 未発達 な段 階 であ るが 、児玉郡 児玉町 倉林 後遺跡例 は、南東隅 を利用 した明確 な縦煙道が作 ら れ て い る。 この

5世

紀後半代 には カマ ドが全国的に出現 した よ うであ る。長野 県では、平 出 上 高井郡小布施町堀 回遺跡 に、立石 な どを使 った屋 外に伸 び る煙道が あ らわれ るが 掘 りぬ くまでには至 って いない。千葉 県で も船橋市 外原遺跡 の

8号

住居址 が あ る。

6∼

7個

芯 として粘 土被覆 した施 設 を もつ とい う。 *西 谷真治「農民の生活―鉄製農工具の発達 ―」『世 界考古学大系

J3

昭34、 喜 谷美宣 「住居 お よび建築」 『 日本の考古学』

V

昭41

**愛

媛 県埋 蔵文化財 セ ンター 『一般 国道11号線松 山東道路 関係 遺跡埋蔵文化財調査報告書I』 昭 56

***久

保常晴 『川崎市 久地不動 台遺跡調査概要』 昭 40

****月

刊 『考古学 ジャーナ ル』

No191昭

56(考

古 ニ ュー スの項 で紹 介 され た。)

*****こ

れ につ いては 、粘土 では な く灰 の誤認 で、灰捨場 の可能性 が あ る とす る見解 もあ る。 。

3号

址 、 、 まだ壁 を 土 製五徳 を

(5)

和 泉期 末葉 には群 馬県甘楽郡甘楽町笹遺跡 Ⅵ一 Ⅱ号住居 址の よ うに、焚 口に鳥居状 の板石組 した例や 、同新 田部 尾 島町歌舞伎遺跡 の粘 土囲炉 とヘ ッツイが併存す る例 が あ る。 さ らに東北 の宮城 県仙 台市岩切 鴻 ノ巣遺跡 、同亘理郡亘理町宮前遺跡か らは南小泉期 の住居l■が検 出 され 、 ヘ ッツ イ とともに、トンネル状 の煙 道 を もつ カマ ドが認め られ る。 また神 奈川 。東原・

A-2、

B-5号

址 な どではか な り完成 された もの をみ るこ とが で きる。一 は壁上部 を切 り込み 、他 は 屋 外に 120 cm突 出 させ 、 ともに煙 道に改良 を加 えている。 42 73 130 この他 に も神 奈 川県川崎市宮 内遺跡 、栃 木県足利市上敷遺跡 、山口県防府市下右 田遺跡 な ど の報告例 が知 られ るが 、構造 を知 る手懸 りに とぼ しい。 また埼玉 。西富 田、群 馬・ 歌舞伎 な ど、 カマ ドを もつ和 泉期 の大集落 の調査 に よる詳細 な報告 が またれ る。 面 。 構 造 の把 握 カマ ドについて検討する前に、各部分の呼称を統一 してお く必要があろう。立体的に 各部の名称 みると、1)焚出部2)燃焼部3)煙道音陶こ分かれ、各部は袖 と天丼により画される。平・断 面的には1)と 2)の間に焚 日、2)の上面に掛 口があ り、下面には火床がある。2)と 3)を分けるの が煙道 口で、煙道の先端が煙出口となる (図39)。 袖や天丼の構築材 としては「粘土」、礫石 を主材に して、焚 日の補強や天丼の保護に土器・ 瓦などを混用 した り、袖芯 としては、これ らの他に黒土や掘 り残 したローム層 を利用すること もある。 現在、一般に「粘土」 と呼び慣わ しているのは、千葉県の場合海成の下末吉 ローム層の可能 性が強いが、これのみによって構築 し、かつ強度 を維持す ることはむずか しい。そこで山砂・ 黒土などを混入 し、さらにはスサ を入れることも考案 された。従来、これ らの混入物 を含めて、 「粘土」「砂質粘土」な どと呼ばれて きたようである。 構造を知る手懸 りとして、現代のカマ ドの総合的な研究について、その成果を紹介したい。 構造 これは一定の基準、一定の条件下で実験 され、熱効率や釜に対す る焔の接触状態、さら にお き火の輻射熱効果などを確かめなが ら、性能の良否 を判定 しようとした ものである。 燃焼部 (火袋

)の

形状は、焔の成長が充分に得 られ、かつお き火の熱量 を保てるよう、火床 面 を狭めた鉢状 にす るのが効果的である。燃焼部の高 さは約30cmが適当で、容量 も自ず と一定 の範囲に限 られる。火床の位置はほ とん どが焚口寄 りに設け られている。 *報 告書では和泉期前半以降 としているが、土器様相はむ しろ矢倉台遺跡 出土の ものに類似す る。

**以

下 の記述 では、 これ らをすべ て「粘 土」 と呼 び、細か い区別 は行 わない。

***科

学 技術庁 資源調査会『か まど改良に関す る調査報告

J

昭33

****燃

焼部 (火袋

)の

高 さ

=焚

回の高 さ+α 十釜の平均的 な深 さ α

=約

3 cm(上 掲書に よる)

(6)

研究 ノー ト 煙 道部 (煙突

)に

関 しては 、その長 さが 問題 とな る。長 い煙 突 では通 気性 が 良 く、燃 焼 を促 進 し、高熱 は得 られ るが 、焚 口か らの吸引力が増す ため焔 の滞留が不 充分 であ る。比較 的短 い 場合 では 、通気不 足に よ りか えって焔 の成長 が良 く、熱効率 も高 くな る。横煙道は燃焼部 か ら の通気 を抑制 し、熱効率 を一定 に保 ち、あわせ て排煙 を円滑 に行 うこ とが で きる。 しか しこれ が長す ぎては抑制が強す ぎ、大す ぎる場合 は反対 に吸 引力が増 し、 ともに熱効率 を著 し く低下 させ る要 因 とな る。 煙 道 口につ いては、 まず大 きさが問題 であ る。実験 の結果 、大 きす ぎる と熱の損失 を招 き、 小 さす ぎては不 完全燃焼 を引 き起 こ した。煙道 日の規模 と煙突の長 さの関係 は 付 図に示 した * (図37)。 煙 道 日の高 さは、火床面に近 い と通気性 に富みす ぎ、釜底の位 置付近す なわ ち火床 面か ら18cm程 が効 果 的 で、 これ以上 では釜底 が 口をふ さいで しま うため 良 ぐない。 こ うして得 た成果 を もとに カマ ドが試作 され た。 これ を基本に古代 の作 り付け カマ ドの模 式 図 を作成 してみ た (図39)。 古代 には ロス トル式の カマ ドは な く、灰 出 しは焚 日か ら直接行 うか ら、 カマ ド前面 に焚 出部 が、必要 となる。燃焼部 は袖 内壁 を内弯 させ壺状 にす るが 、これに よ り熱高率 を高め 、 さらに甕 に見合 う機トロ径 も得 られ るのであ る。 火床 は帯トロよ りやや 焚 口側 に寄 るのが普通 であ る。煙道 部 は壁 を掘 り込 ん で作 られ るが 、これは煙 道全体 を傾斜 させ て、相応の長 さを得 る とともに 、 屋 外へ の排煙 を可能 に している。 また煙道 口に「障壁」 を設け るこ とで、入 口を火床 よ り高 く し、煙道下部 においては現代 カマ ドの横煙 道に類す る効 果が生 じる。 粘土製のカマ ドを作るには、 まず住居構築の段階で設置場所 を選ぶ。これには集団 としての 構 築

*****

強 い規制や 、地域 的 な 自然特性 の介在が考 え られ る。次 いで素掘 りを行 う。簡単 な もの は壁 を切 り込むだけだが 、基部 とな る床面 を掘 り込 んで、粘土 ・焼土 な ど粗 い土 を充填 して「 基礎 固め」 を施 す こ とも多い。 *煙 道 回の大 きさは50cr以 上 、22clr以下 では不都合が生 した。 また40∼80cmの 長 さの煙 突の場合 では、 9× 4 cm(36cr)の 大 きさが最 良 であった。 **一般 に火床や 焚 出部 は皿状 に くば んでいる。 これは灰 出 しの行為 の結果生 した もので、当初か ら施 設 として計画 され た くぼみ ではない と考 える。 ホホ*支 脚 の位置 ― とくに裾付け支脚 一が火床 よ り奥にあるのが普通である。 ただ し出現期 に 多い倒 立高不利用 の場合 は、火床 中央にあ る。土器様相の変化に伴 い、支脚の使用法に他の 目的が加 わ った と考 えるこ とも可能 である。 ホ

***煙

道 口付近 には 、地 山 を掘 残 した り、粘土 な どを貼付 した段 がみ られ るこ とが あるが 、これ を 「障壁」 と仮称す る。 この他に も、煙道下へ埋め土 を施 して微妙 な角度の変化 をつけた りす る が 、 この よ うな煙道部へ の工作全体 を「煙道操作」 と呼ぶ。

*****集

落 内におけ る「道」や 、火災に対す る配慮 、あ るいは住居 人 口 との関係 な どい くつかの要 因 が あげ られ る。

(7)

煙 道 の 長 さ 図

37

煙道 と熱 効 率 の 関係 図 (『かまど改良に関する研究Jから) 1 全 長 に対 す る切 込 み長 の割 合 2.全幅 に対 す る切 込み幅 の割 合

3

煙 道 下部 での上 昇角 4.煙道上 部 での上 昇 角

5

神 構 材の切 込 み に対 す る侵 入 度

6

火床 の位 置 図

38

円形 グラフ凡例図 1現代 カマ ド (rか まど改 良 に 関 す る研 究Jか ら) 複原

) =============

39

カマ ド模式図

1磋

[

煙 道 口の規模 突         ロ

 火

熱   効   率 Cm(疏) 9×14=126 9×4=36 9×23=207 焚 ロ 煙 出 ロ

墨③

煙道 ロ 燃 焼 ② 部 焚 ロ 焚出口 ① この基礎 の上 に袖 を築 きあげ、天丼 の構架 には、補 強に土器や板石・ 瓦 な どを利用す るこ と も多い。最 も弱 いのが天丼 の前 面 で あ る。 この ため両袖端 に甕 を倒 立 し、その間に数個 の長甕

**

を `いれ こ、に して連結 した もの を渡すか 、 または板石 を鳥居状 に組む例 な どがある。煙道部 もまた、土管 の よ うに甕 を埋 設 した り、瓦 を敷 きつめ た例 もあ り、煙 出口には底抜けの甕 を立 *「基礎 固め」は 、高 熱発生に誘 発 されて起 る地 山か らの毛管現 象に よる水蒸発 を防 ぐため で、窯

**業

技術か らの発想 であ ろ う。 土器連接 の例 は、神奈 川・ 草 山、同上 谷本 第二 、栃木。構 現 山北 、同井頭諄詠 、板石利用例 は 群 馬 。笹 、長野・ 山岸 遺跡 な どが、 また両者が併存す るのは宮城・東 山遺跡が ある。

%

:│

2J

(8)

研 究 ノー ト * て た もの も知 られてい る。 なお 、基底 に小穿孔 を10余個残す場合 もあ るが 、 これは構築 に際 しての木組の跡 との解釈 も で きる。 さらに大量の粘土の塊 を くりぬ いて作 る方法 も考 え られ る。 現在の ところカマ ドの調査法には 3つ の タイプがある。 1は 切断面の観察によってのみ 調 査方法 の調査、2は 外形 を精査 し、基本的には断面観察による方法、3は原型把握のため燃焼 部や 煙 道 を くりぬ く調査 法 で あ る。

1は

論 外 として も、他 の方法に もい くつか の問題が あ る。

2の

場 合 は平 面 図 として 、現状 図 を取 ってお く必要 が あ る。す なわ ち切 断す るこ とに よ り原型 が失 われ るか らであ る。

3の

場 合 は 、調査 者 の 技量 に よっては燃焼部 内壁や 煙 道 を破壊 して し ま うお それ もあ り、一 度破壊 して しまった結果 は 、断面観察 に よっては確認 で きない とい う欠 点 が あ る。 こ こで調査 のあ るべ き方法 につ いて私見 を述べ てお きたい。

3の

くりぬ く方法 は構 造図作成 に有利 だが 、か な りの危険 を伴 う。 そ こで

2の

方 法 を用 い て手順 を説 明 してみ たい。 外形 の精 査 は 、両袖 、天丼 、焚 口の順 で行 うと比較的容 易である。切 断す るこ とに よって原形の破壊 は まぬか れ ないが 、中軸 線上 に10cm前 後の縦 断面用の土堤 を残 し、横 に スライスす るよ うに切 断 し記録す るこ とで 、図面 として復 元が可能 であ る。横 断面は焚 口・ 燃焼部 中央 。煙道 口・煙 出 口で図化す る必要 が あ る。 しか し多 くの場合 、焚 口懸架 は崩落 し、煙 出 口 も調査時の検 出面が 構 築 時 の原表面か ど うか確認がむずか しいため 、一般 には

2か

所 で横断面 を観察す る「 キ」字 状 の切 断面 図が 多い。 カマ ドの調査 で、煙道 口を含む煙 道部 の構造 を知 るこ とは と くに重要 であ る。前述 した障壁 や つめ 土 の有無 、煙 道上昇角度 の変化 な どは と くに留意 したい点 であ る。 市

.形

態 分 類 カマ ドの形は千差 万別 であ る。 カマ ドの遺存度 、構築 後の修 。改築 、調査者 の見解 な どに よ って も、 多様性 を示す こ とが あ る。 また煙道 日の もつ問題 は、熱効率 と密接 に関連す る要素 で あ るが 、現状 の調査法 では、これ を把握 で きる ものはほ とん どなぃ。 したが って、報告 書 にみ られ る一般 的 な図か ら抽 出可能 なデー タを もって 、形態分類 を試み た。 ホ煙道に甕 を用 いた例 は、栃木・篠 山、茨城・ 鹿島町No l遺 跡 、煙 出日の補強例 は、千葉 。有吉 埼玉・鶴 ヶ丘遺詠 に、両者が一体 となってみ られ るのは市原・萩 ノ原遺跡 であ る。 また、煙道 の充瞑 土 内に繊維質の炭化物 を検 出す るこ とも多いが 、 これに よって、竹筒の使 ・ 用 を考 えるのは早計 であ ろ うか 。

**前

者 は、神 奈川・ 小黒 谷

V24号

址 、茨城 ・磯部2号址が 、後者 は、千葉・ 仁戸名

D-2号

址 が好例 であ る。

***こ

れ に加 えて、煙道 中央付近 で横 断面形 を記録す るこ とも必要 であろ う。

(9)

形態分類の基礎 となる、

6要

素 を示 した円形 グラフについて説明 してお く(図38λ

l・

2 グラ フ は、住居壁への切 り込み平面の長・幅 を、カマ ド全体の長・幅に対比 した百分率であ り、 グラフ上 に特徴が あ らわれ るよ うに 目盛 りを加減 してあ る。

3は

煙 道下部 の上昇角度 を、

4は

*

部 での それ を表 わす 。

5で

は袖の構築材が切 り込み 内部 に どの程度侵 入 しているか を示 したが 、 これは今 の ところ感覚 的 な量化 に過 ぎない。

6は

火床 の 中心 と、本来の住居壁 との距離 を表 わ した もの であ り、基本的には25cln単位 をもって示 した。 次に形態分類図について説明す る(LX140 λ 断面は中軸線上の縦断面図 と、住居壁 卜面 形態分類 の線上 での横断面図 を示 した。 また縦 断面 には 、煙道 回の操作 を行 った場合 を表 わ し、 グラフでは

3の

線上 に破 線 で示 した。

A類

は壁へ の切 り込 みが まった くみ られず 、袖 を平行か 「ハ」字形に並べ 、 カマ ドの 内外 を 区画 しただけの形 であ る。 火床 は壁か らはか な り離れた位置 にあ る。 いわゆ るヘ ッツ イは、煙 道 の ない点 をの ぞいて この類 型 に属 し、

0類

と別称 した。グラフには

3つ

の 円 を描 いてあ るが 、

A類

6要

素 は 、基本的 には内円に接 す る。

B類

は 、煙道 に角度 の変化 を もたせ るため と、煙 出 口を壁 外へ 設け るため に、わずか に切 り 込 みが み られ る もの であ る。

Bl類

は壁の上部 のみ を切 りお とす だけであ り、

B2類

は煙 突様 に 突 出 して い る。 袖や 火床 は

A類

と大差 ない。

C類

の特徴 は、 カマ ド全幅 の

6割

以上 の切 り込みがみ られ るこ とで、次の

D類

の よ うに大 き くは掘 り込 まず 、立体的 にみ る と基本的には半 円錐 形の切 り込み形 であ る。袖 の一部 は切 り込 み 内に まで伸 び 、火床 も壁 に近づ く。煙 道上昇角 は 、

B類

に くらべ て緩 急 自在に設定 で き、本類 の なか には階段 状 に角度 を変化 させ る もの もあ る。 グラフでは、中円上 に位置す るこ とが 多い。

D類

は壁 を大 きく掘 り込む もので、半裁円錐 形の切 り込み となる。 カマ ド全体の

3割

以上が 屋外に設け られ る。切 り込み内に袖や天丼 を構 え、火床は壁の直前にまでせ まる。

E類

はさら に屋外への突出が進み、基本的には焚 口の面が壁面 と合致す る位置にまで後退す る。

E類

をグ ラフで表わす と

4以

外はほぼ外円に接す ることになる。

F類

は屋外へ長 く伸びる煙道が特徴的である。

Fl類

の屋内構造は

A類

の変形で、

F2類

は切 り込み をもつ点で

D類

などに似ている。 グラフ上では

3が

極端に突出す る。煙道の構築は一様 でな く、地 山を掘 り抜いた トンネル状の もの、溝 を掘 って被覆 した もの、土器 を連接 した土管 状の ものな どあるが、いずれ も同類 として包括 した。

*煙

道下部の状態 に よ り、現代 カマ ドの横煙 道の効果 を明 ′)かに したいため であ る。

**カ

マ ドの規模 は各形態 を通 してあま り変 らないためである。

***火

床面上 を通 る横 断面 は、いずれ も大差 な く、

A類

にのみ図示 して、他 は省略 した。

(10)

研究 ノー ト

IIIttI:袖 国 煙道障壁 融 火床 (天丼 は省 略) 図

40

カマ ド形態分類図 ― ´ 4

(11)

v。 各地 の様相 前項ではカマ ドが

6形

9分

類 され るこ とをみたが、これ らが各地で どのように存在す るか を次表によって概観す る。 表は任意の地域割の うえに

4期

区分 とした。

I期

5世

紀代及び

6世

紀初頭 を示 し、

H期

6世

紀か ら

7世

紀末葉 までを含め、さらに

3時

期に細分 した。Ⅲ期は

8世

紀代および

9世

紀初 頭 、Ⅳ期は

9世

紀以降 とした。 県内 1,200例 については便宜的に

6区

域にわけたが、地域によって資料数のば らつ き 千葉 がある(表12鬼 県内で最古の例は船橋・外原 。

8号

址であろうか。土製五徳 を袖芯 とした

O類

で、他に例が ない。その他

I期

に含めた事例は鬼高期初頭 と考 えられ、いずれ も

A類

である。印謄郡 白井町 新駒遺跡 などでは、炉が併設 される。 Ⅱ期は鬼高期にあた り、この うち

6世

紀代 では

B類

7割

を占め、

I期

A類

は激減す る。

6世

紀後半には

C類

が現われ、

7世

紀代には、全体の

5割

に も達 し、加 えて

D類

1割

強認め られ る。

B類

も煙道操作などによ り発達 した形で継続す る。 Ⅱ期前半の千葉 。上 ノ台は 〔

A<Bl<B2)型

の集落である。船橋市小室遺跡には、古 い時 期に炉併設の住居址が

2軒

あ り、その後 〔Bl〕 型→ 〔

B2)型

→ 〔C〕 型へ と変化す る。山武 郡芝山町清水台No l遺 跡は、

6世

紀が 〔

Bl)型

7世

紀になると 〔B2〕 型の集落 となる。他 に柏市尾井戸遺跡 なども 〔B〕 型である。編年 的に細分 されている千葉市駒形遺跡 では 〔

Bl

+B2〕

型→ 〔

B2+C〕

型→ 〔D〕 型へ と変化 し、

B類

のほ とん どに基礎 固めが施 され る (表 10)。 千葉市有吉遺跡の古い時期には

A類

が半数認め られ、次いで 〔B〕 型→ 〔

C+D〕

型ヘ 移行す るが、市原市大厩遺跡で も、これに近 い変化がみ られ る。

7世

紀代 を主 とす る千葉市木 戸作遺跡では

6割

が、山武郡芝山町高田権現遺跡、同大台西遺跡 ではすべ てが

C類

であ り、

C

13 14

類中心の傾向は千葉市仁戸名遺跡、同西屋敷遺跡でも認め られる。

鬼高期

186軒

の大集落である我孫子市 日秀西遺跡では、

6世

紀代の可能性のある

6軒

は 〔

B2)

型、続 く時期では 〔

Bl<B2<C〕

型 とな り、この

3類

が全体の

9割

以上 を占める。またその

半数近 くには煙道操作が行われ、かつ基礎固めの整備されたものも多く、修改築が頻繁になさ

れたこともうかがえる。

*た だ し中段 には編年観の不明瞭な遺構例 も含 まれ る。

**年

代観 は各報告 書 の記述 に もとづ いてい るが 、補 足的 に 自己の判断 を含め た場 合 もあ る。 ***〔 〕内にその遺跡 での主体 とな るカマ ド形態か 、形態別 の頻度 を不等式 な どで表 わ し、〔 〕全 体 は集落型 を示す こ とにす る。

****細

か くみ る と、

6世

紀代

Bl=1、 B2=5、

7世

紀代 B:=17、 B2=25、

C=52軒

となる。

(12)

ⅢⅢ腋

︲︲︲︲

 向]

ゴだ菫≧」

轟 址

1 6.関 戸 024号址 (註)・ 報告書掲載図に構造上の要点を補筆 した。 ・縮尺は約60分の│ ・6は未報告

41

千葉県 内の カマ ド実例図 21有 吉 !79・

5址

(13)

12

カマ ド形態分布 表 (千葉 県) 地 域時期 態 件 数 一 ユ 勤: O A BIB2 C E F:F2 束 ¨ 局 I 1 l 茂侶神社脇,外原 日秀西・余間戸・尾井戸・加村台・4ヽ室・印内台・夏見台・八栄北 一ノ割・夏見台・夏見大塚・印内第1・印内第2 余間戸。一ノ割・桐ヶ谷新田・高野台・加村台。南台・夏見大な、他 l 6 9 1 6 16 24 3   13   55 1 8 1 Ⅳ 計 99 l 菓 I {夕 喜覇 斃」馴野i瀞 コアラ舛鶴 崎t戸名・西屋敷・駒形・石神・上 有吉・御な台・ムコアラク・推名崎・にとな。西屋敷・高品第2・宮崎第1・村 上込の内・桑納前畑 有吉・御塚台・ムコアラク・権名崎・六通・駒形・高品第2・宮崎第1・大森第 1,大森第2・村上込の内・睦小学校・佐山寺の下・島田、 l 10 11 8 13 23 5   4   33 1   ︲4 2 4 4 20 2 Ⅳ l 1 4 68 28 l∬ lⅢ 30 2 I l 1 新駒 公津原・子の神・間野台・古屋敷。(関戸)・(タルカ作) 公津原・中囲護台・江原台・鹿島台・蒲田谷津・古屋敷・(本戸下) 公津原・江原台・鷲尾余。新機・吉高家老地・寺沢・北の台。他 ( )内千葉県文化財センター調査・未報告分 1 ︲8   7 4 2 2 3 11 Ⅳ 2 49 1 4 105 l 香 取 Ui 瑳 I 仏師台・神田台・大寺・林・萱付道 神田台・妙名。名古屋経塚・大寺 ク、師台・神田台・長部山・大寺・林・裏坪。原宿・他 1 1 1 2 l Ⅳ 1 4 6 5 6 総 lnI I 2 2 宮門 高田権現・大台西・清水台No l・猪ノ堤 山田水Fl・高田権現・大台西 山田水rl・i青水台‖,1 2 3 2 6 1 5 1 IЮ 7 1 1 Ⅳ 1 `汁 4 3 l

(14)

研究 ノー ト 表12(その2) 時期 態 件 数 遺 跡 名 O A BI B? C D E FI F2 上       総       東 I 大脱・土字・ばあ山 萩ノ原・南総中学・祗国原夕tな・姉ヶ崎台・坊作。(健 HI) 菊間・南大広・野馬堀・坊作・(健田) ( )内安房分 11 l

1 1

2 2 4 1 3 5 l 16 Ⅳ 5 1 3 l 1() 1 6 3 8 Ⅲ期 は真 間期か ら国分期初頭 まで をいい、340余例 の うちに はすべ ての形態 が 含 まれ る。

C

類 は

5割

近 く、

D類

3割

で 、

B類

は明 らか に減 少す る。 また本体 を屋 外に置 く

E類

や 、

7世

紀 後半 にみ られ た

F類

が若千含 まれ る。 Ⅳ期 は国分期 全11を 示す。

D類

5割

jり

C類

3割

と逆転 し、

E類

2割

に増 える。

各遺跡においてⅢ期からⅣ期前半の動 きをみる。

7世

紀末か ら

8世

紀の佐倉市間野台遺跡、

同古屋敷遺跡では 〔

B〕

型→ 〔

D〕

型へ と移る。東金市山田水呑遺跡を表

14に

よってみると、

B類

は基本的には

8世

紀初めで終 り、

C類

は当然全期にわたって多いが、とくに

8世

紀中葉か

ら末葉に目立つ。

9世

紀になると 〔

C+D〕

型→ 〔

D〕 4Ч

へ確実に移行する。こうした 〔

C〕 11

→ 〔

D〕

型への変化は、千葉 。有吉、佐原市神田台遺跡、八日市場市大寺遺跡などでも認めら

れる。また成田市公津原 Loc.15遺 跡では 〔

B2<C〕

→ 〔

B2<C〕

型→ 〔

C>E〕

型と常

C類

が中心であ り、千葉市ムコアラク遺跡、船橋市夏見大塚遺跡 も 〔

C〕 11集

落である。

八千代市村上込の内遺跡では

8世

紀前半の数軒に

B2類

がみられ、

9世

紀からは 〔

B<C<D

〕型→ 〔

C<D>E〕

型 と変化する。千葉市大森第 1遺 跡などにも

D類

主流の傾向がある。

9

世紀後半以降は

E類

が多くなる。我孫子市余間戸遺跡では当初の 〔

C<D>E〕

型が

10世

紀後

半までには

C類

が消え、圧倒的な 〔

E〕

型の集落 となる。柏市高野台遺跡などもこれに近い。

市原市域で

7世

紀後半のばあ山遺跡

9号

址にみられた

F類

は、次期の萩 ノ原遺跡では

16軒

15軒 にみ られ る。他 に も南総 中学 、坊作 、lTR園原 貝塚 な どの 各遺跡 、降 っては南大広遺跡 に も

あり、 〔

F〕

型集落の存在という本地域の特異性が認められる。

13

駒 形遺跡の カマ ド分類表

14

山田水呑遺跡 の カマ ド分類表 対l 編 年 O A

BIBピ

C D E 鬼高I 2 3 1 1 4 9 4 1 2 Ⅳ EIl 分 3 1 幻l 編 年 BIB2 C D E Fl 一 則   後 I 3 2 l 7 2 1 1 1 4 1 Ⅳ Ⅳ 7 7 1

(15)

平安 時代 後期 に な る と、集落は もとよ り住居構造 の知 られ る例 がほ とん どない。佐 原市仏師 台遺跡 で

E類

が あるほかは 、佐 倉市江 原台遺跡 の数例 は痕跡程 度 で、1合橋 市 印 内第

3遺

跡 の 同 期 の住居l■には カマ ドが ない。 以上 を整理 してみ る と、

A類

I期

の普遍的 形態 で、

H期

前半 で実 質的に終 るこ とが わか る。

B類

は Ⅱ期 を特徴付け 、 多 くの遺跡 で

Bl類

か ら

B2類

へ の変化が認め られ た。

C類

6世

紀 中 葉 に登場 し、

H期

後半以 降最 も盛行す る形態 であ り、細分 も必要 であろ う。

D類

6世

紀 末頃 一 部 で現 われ るが 、HI期 か らⅣ期前半 で主 流 を 占め る。住居規模 の縮小傾 向に伴 いⅢ期以降現 われ るのが

E類

で 、Ⅳ期 の特徴的 な一類 であ る。

F類

は市 原周辺 をの ぞいては 、カマ ドとして 一月比化せ ずに終 った と考 え られ る。 方位 に関 しては 、全体 を通 じ

8割

以上 が北 向 で、南向例 に なる とほんの数例 であ る。 さらに 北 方位 の うち

8割

近 くが北北 西 ない し北西 に主軸 を もつ。 次 に関 東におけ る状 況 を概 観す る (表15)。 初現期 の カマ ドは埼玉県北音陶こ限定で き、 関東

0類

か ら

A類

が生 じる過程が明 らか にな りつつ ある。神奈川 。東原では精緻 な

Fl類

が、

6世

紀初 めの埼玉県富士 見市打越遺鏃 では

Bl類

が現 われ る。

H期

前半 には

B2類

をは じめ 、す でに大半の形態がみ られ る。

I期

にみ られ た

Bl類

が II期 で も主 形態 の一 つ であ るが 、後半 には

B2類

に とって代 られ 、南関東で先行 して現 われ た

C類

も、 この ころには

B類

と相半 ばす る。 鬼高期 前半 を主 とす る茨城 県鹿 島郡鉾 田町姻 田遺跡 では 〔

A>B2〕

型 とい う

I期

の傾 向が遺 存 し、東京都 八王子 市西野遺跡 も同様 であ る。 茨城 県水 戸市大塚 新地 遺跡 、栃 木 県字 都 宮 市権

現山北遺跡は 〔

B〕

型であるが、

C、

D類

もわずかに現われる。さらに茨城県竜ケ崎市外八代

遺餘は

6世

紀代には典型的な 〔

B〕

型であった集落が、

7世

紀には 〔

B2+C〕

型 となる。こ

うした 〔

A+B〕

型または 〔

B〕

型から 〔

C〕

型への移行は、埼玉県のうち児玉郡神川村中道

遺跡、同美里村題庭神社前遺跡や群馬県多野郡吉井町入野遺跡でも明らかである。

これに対 し神奈川県では多少違った動 きがある。藤沢市池ノ辺遺跡は、

6世

紀には 〔

B2+

D〕

型で、

7世

紀代には

E類

も含まれる。横浜市上谷本第二遺跡は最古期には

A類

が、次いで

B+C)型

→ 〔

C+D〕

型へ と移行する。秦野市草山遺跡、相模原市当麻遺跡でも、

D類

48 登場 。発展 の経緯が わか る。

F類

は群 馬県で散 見 され るが 、秦野市尾尻八幡 山遺跡 は 、12軒 中

9軒 がF類 という 〔

F〕

型集落である。

Ⅲ期 の特徴 は

DoE類

が あわせ て

7割

に も増加す るこ とで、この うちで も

D類

が よ り多 く、 各遺跡 で通 有 の もの であ る。 しか し茨城 県や 栃 木 県の一 部 では なお

C類

が根強 い。 Ⅳ期 に なっ て も

DoE類

主 流 の傾 向は変 らず 、逆 に

E類

D類

他 を圧倒 す る よ うに な る。

F類

の存在 も、 本期 に至 って各地 で

1割

程 の定着性 を示 す。

(16)

研 究 ノー ト 表

15

カマ ド形態分布表 (全1日 ) 時期 形 態 件 数 遺 跡 名 O A BI B2 C D E Fl F2 T 彙 I 2 3 2 8 1 1 2 23 42 3 27 31 56 ︲3   ︲9   ︲04 2 2 6 12 33 l“ 2 16 Ⅳ l 8 4 160 1201 東 京 ・ 埼 I 南 ・ 神 奈 川 I 8 3 l 1 l i3 中田・打越。東原 {彗

1雪

魔風

!」

A4t・

2・ ‰ 棚 岩理 寒隷 理]彗L:』黒理 異ぎ 電%通常仙 訃 殿山 武蔵国分寺・寺坂・神明上・中田・船田・N419・N533.山田・馬場・高台・栗谷 ・鳶尾.上谷本第二・草山・当麻・上浜田・下大槻・谷原・一色・四ノ宮・池の辺 他 4 5 6 8 11 2 4 3 3 Ⅳ 3 6 5 11 36 lbi 36 埼 ● 北 ・ 群   島 l 5 11 1 17 西富田(及び周辺)・倉林後・弥藤次・弥藤吾新田・駒堀・笹・歌舞伎A、 距還神社前・駒堀。中道・立正大熊谷校地・森・入野・歌舞伎A・」i諏訪、 他 他 水深・荒神脇・層建神社前・宙電下・大久保山・森・八幡、他 {畏靭 奔

t柑

籠野・中道薔電下・大久保山・批杷橋・情 台ス幡・空・ 4 5 4 1 1 2 2 1 1 3 l 11) 1 Ⅳ 2 4 11 栃   本 ・ 茨   城 I 上敷・権現山北・篠山,大塚新地・外′代・18田・松原 薬師寺南・大塚新地・小松原・辻の内。松原・外′ヽ代。大沼・鹿島町‖,1 {埜翼苗F♂塚新地・4゛ 原・星の宮A・壬生銭渕・山向・柴工団A・外八代・ II 4   Ю

2 3

8 1 1 9 l 7 4 l l l l 1 1 8 1 Ⅳ 9 宮   城 ・ 福   島 I 1 2 5 岩切鴻ノ巣・宮前 栗・佐平林・徳定A )内山形分 3 2 l 2 15 3 1 2 2 3 5 50 5 Ⅳ 3 1 9 46 10 5 7' 手 I il平・様塚・枡江・佐野・道場・谷地前C・ 'ヽ わ台.岩渕境・(山形西高)、他

{馨

雅聯路臨潔職鷲獄計

m緒

7・

諏西

││

(17)

15(そ

の2) 時期 態 件 数 遺 助: O A BI B2 C D FI F2 ・ 秋 田 2 1 3 上田面・堀之内・長瀬・玉貫・大田方八1・下藤根・鳥野・官手 儡 棚 革前 顔 稲← 本は 行塚沖 帥 西レ 蜘 u・I田 Ⅳ 1 4 7 70 2 計 3 5 三日   森 ・ 北 海 道 I 羽黒平・浅瀬石・N154 {翼量ち ?↑yfttLγ8沢 ・永野・古館・大平・近野・牡丹平南・板留・岐阜 1 3 2 1 7 Ⅳ 2 1 1

H1 2

230 計 3 1 1 長 野 ・ 山 梨 ・ 静 岡 I 2 3 平出・堀巨l 平出・塩崎・天伯B・山岸・柳坪・御幸町。日詰 和平・菖蒲沢,大月・谷稲葉A・山廻・神明平

{鶏

1暫非毒i鱚木山東・酬 沢・動 ・奸 ・紅 A・脚 髄 寺 鰍 ・ ( )内数年藤井原ⅡI∼Ⅳ期分 4 2 3 3 3 1 3 2 8 3 1 6 5 2 17 Ⅳ 1 15 7 12 6 計 27(6) 157(43) 西     日     本 I 1種:楢 '署

肇槽

li竜

│´

『肇

騨江

(二重)古里(福岡)和自・柿原野田・筑後国分(佐賀)大門西・綾部八本松 5 11 3 1 2 3 7 4 2 1 1 2 1 4 1 6 2 Ⅳ 4 6 17 2 神奈川県海老名市上浜 田遺跡では表の如 く 〔D〕 型→ 〔E〕 型への変遷が明 らかである (表 16)。 同 じく藤沢・池 ノ辺、横浜市新羽大竹遺跡、東京都町田市直路 山遺詠、埼玉県入間郡 坂戸町山田遺録 なども、ほ とん どこの傾向 を示す。相模原 。当麻、埼玉県加須市水深遺餘、同 大里郡大里町荒神脇遺跡では、Ⅲ期か らⅣ期にかけて 〔E〕 型である。東京都八王子市船 田遺 跡は 〔

D+E〕

型 となる。 これに対 し栃木・茨城両県では

8世

紀中葉の宇都宮市辻の内遺跡や 、

9世

紀の茨城・外八代 などで

C類

がかな り遺存す るが、各遺跡の後半では

D類

を中心に展開す るようであ り、河内郡 南河内町薬師寺南遺跡がその好例 といえよう (表 17)。 また

8世

紀前半の`日立市大沼遺跡、9 世紀以降の下都賀郡藤岡町後藤貝塚 、さらに群 馬県佐波郡境町西今井遺跡 など 〔F〕 型集落 と 思われ る遺跡が例 を増 している。

(18)

研究 ノー ト 表16 11浜田遺跡 の カマ ド分類表 表

17

薬師寺i菊遺跡 の カマ ド分 類表 福 年 C D E FrFz I l l 2 1 6 5 1 2 ll Ⅳ Ⅳ 3 9 V 1 1 Ⅵ 3 6 り│ 編 年 Bl B2 C D E 「 IF2 I 1 2 l l l l l 1 4 3 9 4 2 Ⅳ Ⅳ 4 1 V 1 4 2 平安 時代 後期 には埼玉 県大里都 川本町鹿 島古墳群

4号

住居 址の よ うな整備 され た屋 内ヘ ッツ イ もみ られ るが 、同 児玉郡 上 里町 田中前遺跡 、本庄 市大 久保 山遺跡 な どでは

Dま

たは

E類

がみ られ る。栃 木県下都 賀郡壬生町銭ipl遺跡 で も石芯 の

E類

がみ られ る。 以上 を形態別 に整理す る と、

0類

I期

の埼玉 県北部 にみ られ るのみ で、

A類

Bl類

もI 期 を経 て 、余 り普 遍化せ ず

7世

紀 中頃 には終 る こ とが わか る。

B2類

は関東 で も南部 で

H期

、北 部 で Ⅱ期 後半か らⅢ期 前半 を盛期 とす る。

C類

H期

の うち

6世

紀後半か ら盛行 し、Ⅲ期 以 降 も一 部地 域 に残 るが 、全体 としての頻度は

1割

に過 ぎない。

D類

6世

紀 後半 に現 われ 、Ⅲ期 か らⅣ期 前半 に主体 を成す形態 であ る。

E類

7世

紀 末葉 に散 見 され 、徐 々に増加 し、

9世

紀 以 降

D類

を圧倒 し、国分期 の特徴的 な形態 といえる。

F類

は 各地 。各期 にみ られ るが 、

8世

紀 後半 か ら北 関東 で

2割

近 くを 占め 、群 馬県 を中心 に主体 的形態 とす る集 落 の増加 が予 想 で きる。 方位 につ いては時期・地域 に よ り、か な り複雑 な様相 を呈す る。南関東 では、初期 の八王子 市 中 田遺跡 をは じめ 、

H期

か らⅢ期 の東京都 では 、

8割 5分

程 が北 向 であ るのに対 し、北関東 では初現期か ら東 または東南向が きわめ て 多 く、以後群 馬県では

7割

5分

程 、埼玉 県 で も約

3割

を 占め る。 Ⅳ期 に至 って各地 でば らつ きが 目立つが 、神 奈 川県 では北 とともに東 または西向が 確 実 に増加 し、厚 木市鳶尾遺跡 の よ うに、東向

5割

、西 向

3割

と極端 に 多い例 もある。 初現 は南 小 泉期 に求め るこ とがで きる。

A類

の他 に 、煙 道の長 さは不 充分 なが ら

F類

東北 が現 われ る。 また宮城 。宮前 では

0類

か ら

A類

へ の変化が明 らか であ る(表151 11期 例 として福 島県、宮城 県の遺跡 をあげた。

I期

の A・

F類

が継続 し、 と くに

F類

は過半 数 に達 す る。福 島県西 白河郡 東村佐平林遺跡 は

6世

紀前半 か らの集落 で 〔

A+B〕

→ 〔C〕 型 へ と変化 し、同期の福 島県郡 山市徳定

A遺

跡 は 〔

A+Fl)型

で 、他 に

D類

も現 われ る。宮城 県 仙 台市栗遺跡 は

7世

紀 を通 して 〔F〕 型集落 であ る。

8世

紀 前半 に は秋 田県に 、後半 には北部 全体 に普 及す る。 Ⅲ期 では

8割

強が

F類

で 、これに C・

D類

が 加 わ る程 度 で あ る。 Ⅳ期 は新 た に

E類

が み られ 、

2割

程 に達 す る。 Ш期 か らⅣ期 を

*北

海道札幌市

N151遺

跡 に も、擦文期初めのヘ ァツ イを もつll:た:IJ止が 発見 され た

(19)

通 して 〔F〕 11集 落 は 、宮城 県柴 田部 柴 田町土平遺跡 、同栗 原郡金成町佐野遺跡 、秋 田県平 鹿 郡 平 鹿 町下藤根遺跡 、岩手県二戸市 中曽根遺跡 、青 森県黒石 市牡丹平南遺跡 な ど数 多い。〔

F十

E〕型の遺跡 は 、宮城 県古 川市藤屋敷遺跡 、同 多賀城 市 多賀城跡 が代表 的 であ る。 こ うした東北通有の現 象 も、南 。北 ではか な り差 が あ る。福 島・佐平林 、同所谷地 前

C遺

跡 では

F類

の他 に B・ C・

D類

が合せ て半数 もみ られ る。 また青 森 県南津軽郡 浪岡町羽黒平遺跡 では 、皿期 に現 われ た

D類

が 、次期 には過半数 を占め る。 この傾 向は青森市近野遺断 、同南津 軽郡 浪岡町源常平遺跡 な どの大集落 で顕者 であ る。青森 県の諸遺跡や 、秋 田県鹿角市源 田平遺 跡 の

F2類

カマ ドは 、長 大 な溝 を掘 り込 んで粘土 を巻 きつけ た特殊 な ものであ る。 12世 紀以降の秋 田県大館市塚 の下遺跡 では 、壁下 に火床の存在が確 認 され たが 、煙 道 な どは 不 明 で あ った。 さらに

6号

住居 址 では 火床 の よ うに焼 け ただれ た「敷石 遺構 」 とい う全 く新 し

い形態が認められた。また北海道網走支庁常呂町ライトコロ川口遺跡は 〔

F〕 11の

集落だが、

平安時代末期か ら鎌倉時代初頭に比定 され る。 方位は東 。南向が各々

4割 5分

前後である。宮城県では東向が 多く、秋田 。岩手両県では両 方位 とも均衡 し、逆に青森県では南向が主 となる。 なお福島県の諸遺跡や 、宮城 。佐野 、秋田 。下藤根、岩手県二戸市上田面遺跡など、地域の別な く、北向で構成される集落の存在 も無視 で きない。 カマ ドの構築に礫石 を多く使 う地域で、遺存が極端に悪い場合 もある。 とくに 中部・ 東海 山梨県では有力な遺跡があるにもかかわらず、構造を把握できる例に乏しい(表15)。 初現期には長野 。平出、同 。堀 回で変■1の

F類

がみ られた。

6世

紀代には長野市塩崎遺跡の 〔A〕 型、山梨県北巨摩部長坂町伊1坪遺跡の 〔B2〕 型集落がある。反面

6世

紀か ら

7世

紀にか けて長野・平出、同下伊那郡鼎町天伯

B及

び山岸遺跡では

Fl型

が半数 を占め、山梨県大 月市大 月遺跡では

8世

紀に も遺存す る。Ⅲ期か らⅣ期はA・ B・

C類

が各々

3割

前後 と均衡 し、各遺 跡内で も同時に見受け られる。長野県伊那市和手遺跡、同菖蒲沢遺跡では、皿期の 〔

A<C〕

型が、Ⅳ期 では 〔

A>B>C〕

11と変化 し、同福島遺跡では

DoE類

も含 まれ る。 静岡県沼津市藤井原遺跡は

7世

紀末葉か ら10世紀の約 100軒 の大集落である。 ここではD・

E類

7割

の他 、各類 ともみ られ る。藤枝市山廻遺跡は

E類

である。 方位は、長野県で北 。東 。西 とも均等にみ られ、静岡県では藤井原、沼津市御幸町遺聯 な ど の大集落で、北及び北西が主流である。 その他 近年

5世

紀前半に属す る例が、西 日本で急増の傾向にあることは前述 した (表15ヽ

*岩

手県二戸市長瀬 遺跡か らは 、16世紀頃の住居址 が検 出 され たが 、 カマ ドお よび炉 といった施 設はみ られ ない。

(20)

研究 ノー ト Ⅱ期は畿内にカマ ドが現れ る時期である。

6世

紀後半以降

7世

紀前半の京都市常盤仲 ノ町遺 跡は 〔A〕 型であるが、同期の城陽市久世廃寺 、同森山遺跡は

D類

が一般的であ り、

7世

紀末 葉には本地域か らカマ ドが消失す る。周辺では兵庫県三 田市末野遺跡 、徳島県三好郡三好町大 柿遺跡が

Cお

よび

D類

で、Ⅲ期に至 って も構築は続け られたようである。 この他京都市中臣遺 跡 、大阪府高槻市芝谷遺跡など大集落の調査について、その成果が期待 される。 九州 では

5世

紀前半の福岡・塚堂に初 ま り、

6世

紀代には福岡県筑紫野市大曲 り遺麟 の

A類

や 、福岡市片江辻遺跡の

B類

7世

紀代は福岡 。大曲 り、同小郡市宮裏遺跡の

D類

、同鞍手郡 宮田町柳 谷遺跡の

F類

への変化が認め られ る。

8世

紀 も

DoF類

が主形態で、福岡県甘木市柿原 │などが好夕1である。九州 で も

9世

紀初頭 までに、置竃に転換 し 野田遺跡、久留米市筑後国府窃

*

た らしく、わずかに佐賀県三養基郡中原町綾部八本松遺跡が知れ る程度である。 また熊本県下益城郡城南町沈 目遺跡

5-6号

住居址は、すでに住居域 と分離 された「釜屋」 がみ られ、ヘ ッツイ

2基

が併設 されている。そ して平安時代末期の宮崎県北諸県郡高崎町下原 遺研 では、独立の小屋内に「平 カマ ド」が設け られていた。 以上 、各 地 のカマ ドにつ いてみて きたが、作 り付けカマ ドの調査例が認め られない地域が 日本海側にはほ とん ど認め られない。兵庫県城崎郡香住町南住 かな りあることも事実 である。 遺跡例は中世初期の例 である。鳥取県米子市青木遺跡では置竃が機能的に利用 されていたこと

**

が うかが える。 宙 。 ま とめ 出現 弥生時代に現われる炉や土器組成の変化の うちに、 自生的にカマ ドが生 まれ る過程 を 考 えることは容易である。 しか し日本の古代文化のなかか ら、全 く独 自に派生 した と 断定す ることもで きない。 くり返すが、福岡・塚堂例は出現 を語 る上で重要 である。それは屋内ヘ ッツイと壁際の もの が共存す ることであ り、九州北縁 とい う地勢の問題である。粘土囲炉 と屋内ヘ ッツイを簡単に 結び付けて論ず るこ とはできないが、 ともに西 日本で発展的にみ られる。 また、言 うまで もな

,北

九州 はその経路にあたる地 く、

5世

紀にはかな り頻繁に大陸や半島 との交流がみ られ るが、 域 で もある。 52こ は、和泉期お よび鬼高期の古 次にカマ ドの波及について考える。神奈川県川崎市神庭遺跡│ い時期の好夕Jがある。両期 とも住居規模 などが酷以 し、

A類

に属す るカマ ドを有す る120。 126 *『片江辻遺跡

Jの

報告 の なか で、報告者 は九州地 方の カマ ド例 をもとに、その波及 。消滅 を論 している。

**『

青 木遺跡 発掘 調査報告書

JI

昭和51年

(21)

号 住居址 の貼床 下 か らは炉が検 出 され た。 この

2軒

出土 の もの は 、和 泉期 の土器 と比較す る と だ いぶ様相が新 し くなる。 これは和泉期か ら鬼高期へ の移行が 、相 当急激 に起 った こ とを推 測 させ る資料 であ る。 この こ とか ら、少 な くとも神庭遺跡 にお いては、カマ ドが 自生的に現 われ た とは考 え られ ない。 また本庄市周辺 の初現 期 の状 況に も、 これ と似 た様相が うかが われ る。 こ うした資料 は、 カマ ドが一 元的に発生 し、急速 に波及 してい ったこ とを示す もの と考 えたい。 カマ ドが西 日本 、 と くに九州 付近 で屋 内ヘ ッツイ を祖型 として出現 した とす るな ら、 これが 四半世 紀 もかか らずに 、遠 く東国 でみ られ る経過 が全 く不 明であ る。 カマ ド出現 の根本的 な問題 であ る住居形態の変化 につ いて 、再 び石野博 信氏の前掲論考 を引 用 したい。氏は、古墳 時代前期後半 に「方形系統 の住居 型」 に統合 され た こ とを強調 した。 こ れ は必ず 、上屋構造 と関連 した変革 であ り、炉 も壁 に近づ き、火処 と生活空間の分離が始 まる

**

こ うした変化 は各地 でみ られ 、 カマ ドの受 け入れが着 々 と進ん でいった と考 える。 ヘ ッツイか ら煙 道 を もつ カマ ドが生 じ

tよ

り通気 を高揚 し、効率 を高め るこ 編年の可能性 とが可能 にな った。 カマ ドは

5世

紀 後半 か らす くな くとも

H世

紀 に至 る まで 、 熱効率 と、生活空間 との分離 を中心課題 として改良 されて いった。 い ままで形態分類 を通 して 構 造 変化 をみ て きたが 、基本的には 、主体 となる形態 の変遷 が

A類

か ら

E類

へ と、着実 に起 こ った こ とが確 認 で きた。 これは上述 の

2つ

の課題 と合致す るの であ る。 関 東 を中心 に その変遷 をふ り返 る。

A類

は最初 に煙 道 を もった カマ ドであ る。

Bl類

は屋 外へ の排煙 を可能 に した。 ともに不 充分 な構造 で、あ ま り普 遍化せ ず

7世

紀 末 までに消滅 す る。

B2

類 は煙 突の効果 を充分 に果す こ とが可能 な形態 で、 と くに Ⅱ期 (6∼

7世

)に

盛行 し、Ⅲ期

(8世

紀代

)に

まで遺存す る。 この

3類

は単 に通気性 を求め ただけの構造 であ る。過度の通気 を抑 え熱効率 を高め 、 さ らに 円滑 な排 煙 を行 う必要 が あ る。煙 道の長 さ と、適 当な上昇角 、 と くに横煙 道効果 を得 るため に は 、屋 外での距離 を伸 ばす こ とが必要 であ り、 これが

C類

で実現す る。 この類 は、 Ⅱ期 後半(7 世紀代

)か

らⅢ期 に主体 を成す。

DoE類

は住居規模 の縮小 に伴 って、屋外へ の分 離が進 んだ形態 であ る。 これ らの 多 くは 、 基礎 固めや 、煙 道障壁 に よ り、一層熱効率 を高め るこ とが で きた。

D類

は Ⅲ期か らⅣ期 前半(9 世紀代

)に

E類

は Ⅲ期 に普 及 しⅣ期 (9∼11世紀

)に

は主体 的形態 となる。 東 日本 の うちで 、関東 と東北 との違 いは 、 カマ ド形態 と方位 に歴然 と現 われ る。関 地域差 東 では

A類

か ら

E類

へ の変遷がみ られ るのに対 し、東北 は初現期か らの

F類

内 での *西富 田遺跡 な どの土器様相 は不 明確 な点が 多い。今 後和 泉式土器の再検討 のなかで、本地 区の 時期的裏付け を明 らかに しなければ なるまい。

**傍

証 的だが 、山陰・北 陸 では古墳 時代 中期 に至 るまで、「円型住居型」が一般 的 であるこ とは 、 作 り付け カマ ドが この地 方に稀薄 である とい う分布傾 向 と軌 を― にす る。

(22)

研 究 ノー ト ホ 変化が中心 となる。方位は関東の北向に対 し、東北では東及び南向が一般的である。 さらに細 か くみ ると、両地域の接点付近 での交叉がみ られ る。福島県では比較的北向の集落が 多い。逆 に群馬県には東向の 〔F〕 型集落が増えている。 この事実は、文化・政治面での何 らかの集団 的意図の介在 を感 じさせ る。一方長狭な煙道 を設け ることと東ない し南向方位 との関係 を立地

**

条件 か ら見直す 必要 もあ ろ う。 南関 東 の うちで も、千葉・ 茨城両 県の一部 (旧下総

)と

、東京都 。神 奈 川県 及び埼玉 県南部 (旧相模・武蔵

)で

若 千 の違 い をみ る こ とが で きる。前者 にお いては、

H期

・ Ⅲ期 を通 じて

C

類 の 占め る割合 は全体 の

4割

を超 え、Ⅳ期 前半 まで主体 的 な形態 に数 え られ る。後者 は これが

1割

に も満 たず 、Ⅳ期 にはほ とん どな くな るのに対 し、 よ り効率 的 な

DoE類

は千葉 県 よ リー 段 階早 く開始 され 、Ⅲ期以降は総数 の

8割 5分

程 に も及ぶ。 これは相模・ 武蔵 な どに くらべ て 下総 の後進性 を表 わす一事 象であ る。 い ち早 くカマ ドを置竃 に変換 したのは 、

8世

紀初 め の畿 内であ ったといわれ る。 カマ ド以降 この傾 向は西 日本全体 に及び、

9世

紀初め に は九州 で もカマ ドが 消 え る。 東 日本 では

H世

紀 頃 まで続 くが 、その後が不 明 であ る。 ただ各地 で散 見す るヘ ッツイや 、秋 田 。塚 の下の 「敷石遺構」か ら「火処」の変化が うかが える。 中世 に は宮崎 。下 原の よ うな、独立竃屋がみ られ る。 また広 島県福 山市草戸千軒町遺跡か ら は 、か な りの数 の素焼竃が 出土す る。 近世 の状 況 は 、現存す る民家か らもうかが うこ とがで きる。重要 文化財指定 の 農家 、町家210 余例 の うち、半数近 くに複式ヘ ッッイが残 る。桃 山期 とされ る兵庫 県宍 粟郡安 富町の古井家 で は 、人 口正 面の土間奥 に直接築かれ 、奈良 県五 条市栗 山家 では、「分棟 釜屋」が土間 を通 して 主屋 と連接 している。 17世 紀前半 の近 畿の諸例 は 、分棟 式や 土間 を仕切 った部屋 を成す例 が 多 い。17世 紀後半以降 では東・西 日本の相違 が明 らか とな る。す なわち西 日本では、その

8割

強 が従 来同様 の構造 を有すが 、東 日本 では、土間上 に直接ヘ ッツイを設け るだけの ものが普通 で あ る。 以上 、 カマ ドに関す る 多方面か らの検討 を加 え、私 見 を述べ て きた。 しか し、 ここ 問題 点 に いた って も、なお重要 な点 で疑 間 と反省が残 った。 それ を以下個 条書 きにす る。

*東

北地 方の研究者 の なか では、

F類

の細分が試み られている。岩手・下羽場 、青森・ 古館 、同 牡丹平南遺跡 な どの報告 書 に詳 しい。 ホ

*青

森 。永野遺跡 では、年 間の風向 を分析 し、東南 風の強 い 自然環境 と、東向 カマ ドの関係 を示 唆 している。

***他

に も、土器 製作技法や 、集落の構造 などに もこ うした一面がみ られ る。 ホ

***広

島県草戸千軒町遺跡調査研究所『草戸千軒 』 昭

54

これ らは古代竃 形土器 に酷似す る。

*****文

化庁 『重要文化財

17-建

造物 Ⅵ ―

J

昭50、 所収 の平 面図に よる。

(23)

・ カマ ドの発生 には 自生的 な面が強 いよ うだが 、西 日本の状況に未だ不明な点が 多 く、いつ 、 どこで発生 したか断定 で きない。 ・住居上屋構造 の変革 とカマ ドの 出現 の因果関係 を知 るこ とは重要 だが 、今 後の建 築 史的研 究 に待 ちたい。 ・ カマ ド形態変化は 、熱効率 に負 うところが大 であ るに もかか わ らず 、A・

B類

とした古 い 形態が 、後代 に まで見受 け られ るこ とは無視 で きない 。煮沸用具 (妻・釜・鍋・甑・五徳・支脚

)と

、 カマ ド構 造 を結 び付 け て 、両者 の変化 を理論 的 に把 え る作業 を行 うこ とが必要 であ る。 ・東北 におけ る

F類

カマ ドの意味 を良 く理解す る とともに、 これ を媒体 とす る他地方へ の影 響 を、文献上の動 き も含め て検討 したい。 ・古代末期 に起 こる、ヘ ッツイヘ の回帰現 象 と食生活の変革 の関連付けは、今後の課題であ る。 以上 住居構造の うちの一付帯要素 に過 ぎない カマ ドにつ いて概観 したが 、筆 を進め るに した が い 、 よ り多 くの問題 を残す結果 とな った。 この こ とは カマ ドが 、考古学 的研究 の対 象 として 相 応 の魅 力 をもっているこ とを暗示 してい る。前述 の問題点 と反省へ の取 り組みが 、 カマ ド研 究 の 第二段 階 とな ろ う。 (追 補

)

昭和57年 初頭 までに調査 され た埼玉 県二本松遺跡か らは和 泉期 に「壁か ら分離 し た カマ ド」が検 出 され た とい う。 発生の問題に重要 な資料 であ る。(長谷川勇「本庄 市西富田遺跡群の調査」『第15回遺跡発掘調査報告会発表要 旨』

(昭

和57年 3月 7日) 主 要 参 考 文 献 一 覧 〔千葉 〕

8『

駒 形遺跡

J昭

53 1『外原』 昭

47 9『

千葉 東南部 ニ ュー タウン

3-有

吉 遺跡 (第 2「千葉 。上 ノ台遺跡 第11次調査概報」 『先 史

一次

)一

』 昭50。 『千葉 東南部 ニ ュニ タウ

9J昭

50

5-有

吉 遺跡 (第二次)一

J昭

53

3r千

葉市上 ノ台遺跡

J昭

48 10『

市原市大厩遺跡』昭49

4『

白井町新駒遺跡調査概報』 昭

55 11『

千葉 東南部 ニ ュー タウン

2-木

戸作遺跡 ( 5『千葉 ニ ュー タウ ン埋蔵文化財調査報告書I』

第一 次)』 昭50 昭

49 12『

成 田用水』 昭54

6r清

水 台No l遺 跡 発掘調査報告』 昭

55 13『

に とな一古墳群 とその集落址 の調査 ―』昭 7『尾井戸遺跡 発掘調査報告書』 昭

55 47

表 12  カマ ド形態分布 表 (千 葉 県 ) 地 域 時期 態 件 数 一ユ 勤 : 名 O  A BIB2 C E F:F2 束 局 ¨ I 1 l 茂侶神社脇 ,外 原 日秀西・余間戸・尾井戸・加村台・ 4ヽ 室・印内台・夏見台・八栄北一ノ割・夏見台・夏見大塚・印内第1・印内第2 余間戸。 一ノ割・桐ヶ谷新田・高野台・加村台。 南台・夏見大な、 他l6   91   616  243 13 55181Ⅳ 計 99 l 菓 I {夕 喜覇 斃」馴野 i瀞 コアラ舛鶴 崎 t戸 名・西屋敷・駒形・石神

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