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日本英文学会中国四国支部

第 65 回大会

プログラム

 梗概

会 期:平成 24 年 10 月 27 日(土)・28 日(日)

会 場:高知大学(朝倉キャンパス)      

        〒 780-8520 高知県高知市曙町二丁目五番一号

日本英文学会中国四国支部事務局

〒 739-8522 東広島市鏡山一丁目 2 番 3 号 広島大学大学院文学研究科英文研究室内 TEL/FAX 082-871-1675

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第一日 10 月 27 日(土)(参加受付 12:30 より)

開会式・総会(12:45 ∼ 13:15 共通教育棟 2 号館 1 階 212 教室)

(司会)高知大学教授  上 岡 克 己  開会の辞 日本英文学会中国四国支部会長  地 村 彰 之  挨  拶 高知大学人文学部長  吉 尾   寛  総  会

研究発表(13:30 ∼ 16:45)

 第 1 発表 13:30 − 14:10    第 2 発表 14:15 − 14:55  第 3 発表 15:15 − 15:55    第 4 発表 16:00 − 16:40 第 1 室(共通教育棟 3 号館 2 階 324 教室) (司会)広島大学名誉教授  植 木 研 介 1 A Descriptive Analysis of Jane Austen s Use of Being Doing

広島経済大学非常勤講師  古 本 勝 則 2 Great Expectations における identity の喪失

広島女学院大学特別専任研究員  山 内 香 澄 (司会)岡山大学教授  福 永 信 哲 3 ペシミズムの克服─『アダム・ビード』と『ロモラ』におけるショーペンハウアー哲学の影響 香川高等専門学校助教  藤 原 知 予 4 ジョージ・エリオットと日本の翻訳児童文学─岡上鈴江訳の『妹マギー』を中心に 徳島文理大学准教授  中 島 正 太 第 2 室(共通教育棟 3 号館 2 階 322 教室) (司会)広島大学教授  吉 中 孝 志 1 死を待つふたり─ローゼンクランツとギルデンスターンの目からみる不条理─ 広島修道大学非常勤講師  住 田 光 子 2 T. S. エリオット作「J. アルフレッド・プルーフロックの恋歌」における人間像 元広島女学院大学大学院特別研究生  野 坂 映 作 (司会)千葉工業大学助教  三 村 尚 央 3 カズオ・イシグロ作品における子どもの役割 鳥取大学准教授  長 柄 裕 美 4 読みかえの物語としての『遠い山なみの光』─エツコの自己物語によるケア─ 松山大学准教授  新 井 英 夫 第 3 室(共通教育棟 3 号館 2 階 321 教室) (司会)鳴門教育大学教授  前 田 一 平 1 ハーンの初期の新聞記事における視座 元京都府立大学大学院博士課程後期  森   新 子 2 George Gordon Byron を介してみるハーン

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()   () (司会)愛媛大学教授  藤 江 啓 子 3 クィークェグとその身体の意義 徳山工業高等専門学校准教授  髙 橋   愛 4 青い Fanshawe、赤いノート、白い空間   ─ Paul Auster のメタフィクションにおける究極の言説をめぐって 岡山大学教授  中 谷 ひとみ 第 4 室(共通教育棟 3 号館 2 階 325 教室) (司会)岡山大学准教授  那 須 雅 子 1 大学英語教育に文学教材を使用する際の留意点   ─文学テストのスコアと授業成績及び TOEIC のスコアとの相関分析からの示唆 県立広島大学准教授  西 原 貴 之 2 多読用物語を用いたデジタル・ストーリー制作活動─二年間の実践報告─ 広島大学准教授  榎 田 一 路 【招待発表】 (司会)鳥取大学准教授  福 元 広 二 3 転移修飾表現の意味解釈について ─修飾のメカニズムと表現の多様性─ 高知県立大学准教授  金 澤 俊 吾 【招待発表】 (司会)三重大学教授  西 村 秀 夫

4 言語・文化研究のリソースとしてのThe New York Times

高知県立大学教授  五百藏 高 浩

特別講演

(17:00 ∼ 18:00 共通教育棟 2 号館 1 階 212 教室) (司会)福山大学教授  田 中 久 男 演題: 亀井俊介研究・序説 講師: 東京大学教授 平 石 貴 樹

懇親会

(19:00 ∼ 21:00) (司会)高知大学教授  山 下 興 作 会場: 日本料理 匠 本店(高知市はりまや町 1-1-17) 会費: 6,000 円

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第二日 10 月 28 日(日)

シンポジアム(10:00 ∼ 13:00 共通教育棟 2 号館 1 階 212 教室)

「英語リーディング教授法の多様化のなかで─文学研究者に存在意味はあるのか」 悪魔の弁護人として (司会・講師)法政大学教授  丹 治   愛 文学教材によってこそ育まれるリーディング能力って何だろう? (講師)広島大学准教授  小 野   章 英語教材としての文学の復権を目指して─リーディング授業を中心に─ (講師)東京大学大学院博士課程後期・前西南学院大学助教授  高 橋 和 子 訳読の擁護と顕揚 (講師)東京大学教授  菅 原 克 也 英文学で学ぶ英語リーディングと文体論 (講師)広島大学准教授  今 林   修 (ディスカッサント)学習院大学教授  真 野   泰

閉会式(13:00 ∼ 教養講義室棟 2 号館 504 室)

(司会)高知大学教授  吉 門 牧 雄  閉会の辞 日本英文学会中国四国支部副会長  福 永 信 哲

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第一日

─── 研 究 発 表 ───

A Descriptive Analysis of Jane Austen s Use of Being Doing

広島大学大学院博士課程後期  古ふる 本もと 勝かつ 則のり

 本発表では、Jane Austen の前置詞のあとに続く being doing の使用法について考察する。前置詞 のあとに続く being は動名詞であるが、その後の doing は大別すると次の二つに分類される。一方 は動名詞であり、他方は分詞である。前者において、単純形である doing と being doing とではど

のような相違があるのかをまず明確にし、次に being doing の選択がなされた理由を探っていく。 単に「行為」「一般的なこと」「事実」を表すだけなら doing で十分である。しかし、context により、 そのdoing の特性が何であるのか、またどのような意味で用いられているのか、またそれと共に being が用いられることで何を表しているのかを探っていく。他方、doing が分詞の場合は、その 一時点における動作の進行が表されていることになる。Austen は進行形を、他の場面でも巧みに さまざまな用法と意味を持ち合わせて多用しているが、beingと分詞doingの組み合わせにおいても、 進行形の特質が十分に活かされた形となっている。ただ、この二つの分類が、用例によって峻別 できるものもあれば、いずれか一方に近いとか、その両者の中間の用法であるというように、明 確な分け隔てが困難なものもあるが、最終的な決定は、読み手に委ねられることになる。

Great Expectations における identity の喪失

広島女学院大学特別専任研究員  山や ま の う ち内 香か 澄すみ

 本発表は、Charles Dickens の Great Expectations におけるセンセーション・ノヴェルの可能性を identity の曖昧性から考察することを目的とする。

 Great Expectations は、ちょうどセンセーション・ノヴェルの隆盛期であった 1860 年 12 月 1 日 から 1861年8月3日までAll the Year Roundに連載された。Pykettが挙げているように、センセーショ

ン・ノヴェルの要素には、過去の謎に関するものや結婚や欺瞞に関するもの、そして家族の秘密 が中心におかれている。中でもこの作品には、センセーション・ノヴェルの要素と関連して identity に関する曖昧性が含まれている。そこで、この作品とセンセーション・ノヴェルの関連 を証明するために、個々の登場人物を分析する。まず、名前も曖昧でありながら紳士階級に憧れ る Pipと彼の悪の投影とされるOrlick。次に、Miss Havishamによって自己を作り上げられたために、 感情に乏しい Estella。そして、最後に Estella を創造しながらも、自らの自己を持たず狂女として 扱われる Miss Havisham に焦点を当て、この作品における identity の曖昧性を検証する。

ペシミズムの

克服

─『アダム・ビード』と『ロモラ』におけるショーペンハウアー哲学の影響 香川高等専門学校助教  藤ふじ 原わら 知ち 予よ

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()   () テクスト分析を通して、エリオットのショーペンハウアー哲学への呼応を読み解くことを目的と する。  19 世紀は多くの文人が近代ヨーロッパ的メランコリーに悩んだ時代だった。科学の発展や産 業化の進んだヴィクトリア期時代に生きたエリオットが、ペシミズムへの実存的な対応として厭 世哲学を構築したドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーに影響を受けた事実は先行 研究において議論されてきた。  本発表では影響関係を指摘するにとどまらず、エリオットが作品を通して近代的厭世観を克服 する術を哲学的に模索したと仮定し、テクスト分析によって証明する。方法として、『アダム・ビー ド』の女宣教師ダイナの心理的変化にショーペンハウアーの「善人の定義」と「意志の否定」(『意 志と表象としての世界』第 2 巻 66 節)の議論を用いて解釈する。また、ショーペンハウアーの 悪人の定義にあてはまる夫ティートとの関係に葛藤する『ロモラ』の主人公ロモラの心理的変化 を分析する。苦しみの世を生き抜くための善行として他人の苦痛を自分のものとして共感するも のの、その重みに耐えられず結局孤独を選ばざるを得ないショーペンハウアーの厭世主義とは異 なり、エリオットは人生の苦難を乗り超えるためには他者との絆を礎とした人間愛を信じること が必要だという結論に至っている。

ジョージ

・エリオットと日本の翻訳児童文学

─岡上鈴江訳の『妹マギー』を中心に 徳島文理大学准教授  中なか 島じま 正しょう 太た  童話作家、小川未明の次女である岡上鈴江(1913-2011)は、外務省勤務を経て外国文学作品 の翻訳、翻案を数多く手がけるようになるが、その第 1 作と見なされているのが 1956 年に児童 向け文学全集の 1 巻として刊行された『妹マギー』である。これはジョージ・エリオット『フロ ス河の水車場』の翻訳(翻案)で、岡上はその後 1960 年に『サイラス・マーナー』も『エピー のねがい』というタイトルでやはり児童向け、しかも少女を読者として想定した文学全集の 1 巻 として翻訳(翻案)を行っている。  前者は場所(『フロス河の水車場』)、後者は男性名(『サイラス・マーナー』)からそれぞれ女 性の名前が入ったものへとタイトルが改変されており、このことから岡上は、エリオットのこれ ら 2 作品を女子教育のための物語として再構成し、子供たちに届けようとしたのではないかと推 測できる。では具体的にそれぞれの翻訳(翻案)において、内容面では児童向けにどのような改 変・省略が行われているのだろうか。  今回の研究発表では前者の『妹マギー』に焦点をあて、児童向けの文学全集や叢書が数多く刊 行された1960年前後という時代背景も考慮しながら、翻訳(翻案)の過程で岡上が子供たちに『フ ロス河の水車場』という作品の何を伝えようとしたのか、また同時に何を伝えずにおこうとした のかを検証したい。

死を待つふたり

─ローゼンクランツとギルデンスターンの目からみる不条理─ 広島修道大学非常勤講師  住すみ 田だ 光みつ 子こ  戯曲 Hamlet(c.1600-01)のなかで、処刑のためイングランドへ護送されるハムレットの身代わ

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()   () りとなるのは、ローゼンクランツとギルデンスターンである。おひとよしとも取れるふたりだが、 王子は、このウィッテンバーグの学友を快く思っていない。ふたりは私欲にかられてご機嫌伺い にきたのだから、死は自業自得の結果だと王子は冷たい。しかしながら、ふたりは何を考えてい るのだろうか。それは、観客の想像に委ねられている。

 こうした古典をもとにしたトム・ストッパード原作・監督の映画、Rosencrantz & Guildenstern Are Dead(1990)は、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞に輝いている。劇作家が、Hamlet の時空 間を利用し、人間がいかに死に反応するかをテーマにしたスピンオフ作品である。死を待ってい るふたり、という設定からは想像し難いが、映画はユーモアやペーソスに溢れている。それは、 生まれた折からともに育てられた王子のために、エルシノア城を訪れる用事を断れなかった、と いうふたりの人物造形によるものが大きい。本発表では、映像表象をもとに、不条理な世界のな かに存在するローゼンクランツとギルデンスターンの〈待つ〉行為を分析してゆく。そのなかで、 ローゼンクランツが自然の事象にただならぬ関心を寄せている点を指摘し、〈待つ〉ふたりの視 点にみられる変化を再考したい。

T. S. エリオット作「J. アルフレッド・プルーフロックの恋歌」における人間像

元広島女学院大学大学院特別研究生  野の 坂さか 映えい 作さく  この詩において、語り手であるプルーフロックは現代人の象徴である。つまり曖昧で、何も決 定することができず、前進することも後退することもできない。その姿はアポロ的理想とは異なっ たものとなっている。中年で禿があり、外見を気にし、自己意識が強く、内省的で臆病な彼の姿 は、現代人の存在を象徴していると言える。現代の人間存在の黄昏が彼の老いに重ね合わされて いる。  この詩では彼は「君と僕」に分裂しているとされる。「君」は友達か仲間であり、何ら感情的 中身が無いとエリオット自身も語っている。現代の人間は人間自身が自身を詳細に分析した、ま たはすることができた。その結果、人間は中身、つまりその人間性を失った。人間として動物と は区別されうる本質、理性を失ってしまった。現代という時代は人間性が後退し、人間の人間と しての中身が減少し、殻だけになりつつあるのではないか。木を例として使うならば、先端の花 や葉先が人間の文明である。ところが肝心の根っこが駄目になりつつある。根が腐ればいずれ花 や葉も枯れてしまう。  現代における人間性の後退によって、代わりに非人間的な力が支配的となる。理性ではなく動 物的本能のままの力である。この詩のブルーフロックのピンに刺されてもがく姿から、彼は人間 的理性、本質と非人間性との戦いの渦中にいるのではないか。この戦いが彼の分裂の原因ではな いか。

カズオ

・イシグロ作品における子どもの役割

鳥取大学准教授  長な が ら柄 裕ひろ 美み  数々のインタビューで「子ども時代」への拘りを繰り返し表明していることに示される通り、 カズオ・イシグロの作品には多くの印象的な子どもたちが登場する。A Pale View of Hills の Mariko からNever Let Me Go の Hailsham の子どもたちに至るまで、物語展開上必須の存在といえる。本発 表では、複数作品に登場する子どもたちの役割についていくつかの観点から検討を加え、そこに

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()   () 共通する要素を明らかにしたい。まず、運命に対する不可抗力性の表象としての子どもについて 作品分析を行う。彼らは、未熟で無力であるがゆえに、自らの運命を受動的に受け入れざるを得 ず、様々な現実認識の誤謬を犯すと同時に、対応の遅延を生じさせる。また、一作ごとに様相を 新たにするイシグロ作品の変遷を追いつつ、この変化に子どもの役割がどのように関わっている かを考察する。次に、理想と希望の表象としての子どもについて作品分析を行う。過去へのノス タルジアと同時に未来への希望を暗示するイシグロ文学の特徴に、子どもたちはどのように関わ りまた機能しているのだろうか。以上の分析をもとに、イシグロ作品に登場する子どもが、作家 独自のテーマを表現するための〈戦略〉として、作品構成上重要な役割を担っていることを論じ たい。

読みかえの物語としての『遠い山なみの光』

─エツコの自己物語によるケア─ 松山大学准教授  新あら 井い 英ひで 夫お  本発表の目的は、カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』における語りの手法に着目し、過去 を語ることを避けていたエツコが、どうしてその過去を語り始めなければならなかったのか、そ の理由と目的を自己物語論の立場から解明することにある。  日本での戦争体験とそれによる両親と恋人の喪失、さらに渡英後の家族の離散とケイコの自殺 は、エツコにとって全て目を背けたくなる事実である。エツコは辛い過去との関係を絶つために 日本を離れ、英国に渡ったが、結局孤独の身となり、未だに心的外傷後ストレス障害を抱え苦し んでいる。ニキがロンドンに戻った後、エツコは再び一人となり、「自分はいったい何者なのだ ろうか」というアイデンティティ・クライシスに直面したのであろう。妻として夫と過ごし、育 児に追われ忙しい日々を過ごし、自らの過去を振り返ることから逃げ続けてきたエツコは、独り 身となり忙しさから解放された現在、自己を取り戻すために、過去を振り返り、自己を確認せざ るを得ない状況に置かれているのである。彼女が自己を保つ唯一の方法は、自分の過去を正当化 することである。心的外傷後ストレス障害を抱える原因となった辛い過去を読みかえ、良き方向 に修正することが、精神的安定のために、そして何よりも生きるために必要だったのである。こ のような読みかえの作業を通じて、エツコは苦痛の多い自己から苦痛の少ない自己へと変化させ ることができるのである。

ハーンの

初期の新聞記事における視座

元京都府立大学大学院博士課程後期  森もり   新しん 子こ  ラフカディオ・ハーンはアメリカに上陸して新聞記者として名を挙げていった。シンシナティ においていくつかの興味深い記事を書いて、評判を取っていき、記者としての名声を確立していっ た。これらを読んでみると、ハーンの記事における視座におもしろい特徴を読み取ることができ る。  本発表では、「皮革殺人事件」「尖塔に登って」「ドリー」を中心に取り上げて、これらの記事 に共通する視座を検討し、顕著な特徴を提示してみることにする。その上で、これらの特徴が何 故生じたのか考えていく事としたい。  この検討は、ハーンのアメリカ時代の初期にのみに言及できる事かもしれないが、よく考察し

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()   () てみると、ハーンの獲得していったこれらの記事における視座が、ハーンのそれまでの生き方と 深く関わりがあることに気が付く事である。ハーンの複雑な人生が、初期のハーン記事の視座に 強い影響を与えていたということを示唆してみたい。そこに、ハーン文学の一つの重要な特色が 表われることを論証していきたいと考える。

George Gordon Byron を介してみるハーン

岡山大学・ノートルダム清心女子大学・吉備国際大学非常勤講師、島根大学嘱託講師 伊い野の家け 伸しん 一いち

 昨年の発表では、ラフカディオ・ハーンによる On Poets の Studies in Browning から、ハーン

のブラウニング観を検討し、「ロマン主義的要素と社会的義務感の相克」という点から重畳した

ところがみられるブラウニングとハーン両者について考察を試みた。

 今回は、やはりロマン派の詩人として知られるバイロンに対するハーンの見方に目を向けてみ たい。ハーンは A History of English Literature と On Poets において、バイロンを紹介、解説している。 前者においては、バイロンのロマン主義的作品を評価し、彼の性質をして「イギリス的というよ り、たぶんにケルト的と言っていい気質を多く持っていた」とまで述べている。ケルト世界をそ のバックボーンとするとみられるハーンであってみれば、強い共感を示しているかにも思える。 しかし後者では、バイロンの作風、生涯について、ネガティブな見解を示しているのである。  ロマン主義を包摂していると思われるハーンであるが、上記のような見方をしているバイロン 対する彼の視線から、ハーンの如何なる面がうかがえるか考えてみることにしたい。

クィークェグとその

身体の意義

徳山工業高等専門学校准教授  髙たか 橋はし   愛あい  ハーマン・メルヴィルの『白鯨』では、さまざまな国籍・人種の人物がピークォッド号に乗り 組んでいる。種々雑多な乗組員のなかでも特に人目を引く人物として、入れ墨で覆われた「浅黒 く、紫がかった、黄色い」肌をした「野蛮人」とされるクィークェグがいる。この男は、一等航 海士スターバックに仕える銛打ちであるばかりでなく、語り手イシュメールの「心の友」となっ て彼をピークォッド号へと誘い、破滅的な航海から彼の命を救うことにもなる人物である。『白鯨』 において、なぜクィークェグがこのような重要な役割を担うことになったのだろうか。白人でも、 アメリカ原住民でも、アフリカ生まれの黒人でもなく、全身に入れ墨を施した南海の「未開人」 が選ばれたのはなぜなのだろうか。この疑問に対する鍵として浮上するのは、彼の身体の有り様、 すなわち、入れ墨の施術で切り刻まれた身体である。彼の身体は、西洋人の目には「忌まわしい」 ものであると同時に神秘に満ちたものと映り、恐怖と畏敬がないまぜになった「おそれ」を喚起 してくる。クィークェグは、入れ墨という身体加工を経ることで他に類がない男らしさを獲得し、 物語内で重要な位置を占めることになったのではないだろうか。そこで本発表では、『白鯨』に おけるクィークェグの存在意義を、入れ墨を中心とした身体加工をめぐる言説を踏まえつつ、彼 の身体をとおして考察していく。

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青い Fanshawe、赤いノート、白い空間

─ Paul Auster のメタフィクションにおける究極の言説をめぐって─

岡山大学教授  中なか 谷たに ひとみ

 Paul Austerの小説世界で最も謎に満ちた登場人物はThe Locked Room(1986)の Fanshawe であろう。 妻子の前から忽然と姿を消し隠れて彼女らを見張るのだから、始末に負えない。しかし小説の語 り手が感銘を受けるように、奇妙な行動より彼の言述の方がはるかに我々の興味を引く。フラン スの片田舎で別荘の管理人だったころアメリカの家族に送った手紙は、彼の眼が信じられないほ ど鋭敏になり、あたかも見ることと書くことが一致したように思えるほど透明な文体である。そ して、小説の最後で語り手が彼から渡される赤いノートの言述は、言葉はすべて見慣れたものだ が、奇妙な統語法ゆえに意味がほとんど理解できない。互いに打ち消しあうような組み合わせの 言葉使いで、言語の意味作用の機能や合理性を超越したような、それでいて不思議な透明感があ る。究極的な言説の一つと言ってよかろう。しかしいったい、具体的にどんな文章なのだろうか。  例を示すことなど英語の母国語話者でも困難かもしれないが、本発表では、上述した言説がど のようなものかを推測するために、まずオースターの小説世界から City of Glass(1985)の Peter Stillman,Sr. の言語探究、彼の実験に使われた息子の言述、そしてMoon Palace(1989)の Marco Fogg の語るための修行から、次に、意外なようだが、日本語との比較から、そして最後に Giorgio Agamben の言語論からアプローチしたいと思う。

大学英語教育に文学教材を使用する際の留意点

─文学テストのスコアと授業成績及び TOEIC のスコアとの相関分析からの示唆 県立広島大学准教授  西にし 原はら 貴たか 之ゆき  本発表では、(1)昨年度本学会で発表した「一般英語授業で英語小説教材を使用した場合のテ ストについての提案」で提示した期末テストスコアの再分析結果を報告し、その結果に基づいて (2)現在の大学英語教育で英語文学教材を使用する際の留意点を指摘する。(1)に関しては、ま ず期末テスト内の文法、内容理解、解釈、反応、言語の創造的側面に関する設問の各小計スコア と授業全体の成績の相関関係(ピアソンの積率相関)を調べた。その結果、文法と内容理解に比 べて他の 3 つの側面はその相関が弱くなることが確認された。さらに、授業受講者のうち当該授 業開設学期中に TOEIC を受験した 19 名に対象を絞り、期末テスト内の各小計スコアと TOEIC のリーディングセクションのスコアの相関関係を調べた。その結果、文法と内容理解に関しては 正の相関が確認されたのに対して、他の 3 つはほぼ無相関という結果となった。以上の結果を受 け、(2)に関して、(a)同一の文学教材を使用した授業であっても、一般的な英語力の伸長を目 指す授業か英語文学能力の養成を目指す授業かで、解釈、反応、言語の創造的側面に関する学習 者のパフォーマンスをどの程度成績へ反映させるかは別の基準が必要であること、(b)TOEIC で求められる読解能力と文学作品読解能力は完全には一致せず、一方を手段として他方の養成を 目指すことについては慎重にならなければならないこと、を指摘する。

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多読用物語を用いたデジタル・ストーリー制作活動

─二年間の実践報告─ 広島大学准教授  榎えのき 田だ 一かず 路みち  英語教育における多読活動とデジタル・ストーリーテリングは,英語の受容技能あるいは発表 技能の養成を目的として物語を利用する活動である。前者は学習者のいわゆる「読みの流暢さ」 を促進するための手段として,すでに数多くの実践がなされており,パソコン上でナレーション に画像や音声などを組み合わせて物語を作成する後者も,英語教育に取り入れる試みが徐々に活 発化しつつある。  この多読とデジタル・ストーリーテリングを組み合わせることで,学習者の受容・発表技能を 養成しつつ,物語の構造レベルでの要素やその法則性への意識を深めることが期待される。そこ で発表者は 2010 年度本大会において,この二者を組み合わせた授業活動の理論的背景と実践手 順を中心に発表した。本発表はその後二年間の実践報告である。  対象としたのは英語学習に意欲的な国立大学の学生が履修するリーディング力養成クラスで, 授業時間の一部を利用して本実践が行われた。具体的には,多読活動の中で物語構造を意識して 作品を要約・分析し,そこで抽出された構造を応用してグループによるデジタル・ストーリー制 作作業を行った。本発表ではこの実践の概要を説明した後,学生の作成したデジタル・ストーリー を紹介し,さらに対象学生に実施したアンケートの結果をもとに,その有効性と課題を探る。 【招待発表】

転移修飾表現の意味解釈について

─修飾のメカニズムと表現の多様性─ 高知県立大学准教授   金かな 澤ざわ 俊しゅん 吾ご  形容詞が、形式上後続する名詞を修飾する位置に生起していながら、意味上、他の語を修飾す る、転移修飾(transferred epithet)と呼ばれる現象がある。小説や詩などに多くみられる表現技法 の 1 つである。  転移修飾表現に関して、これまで数多くの研究の中で、経験的事実が指摘されてきた。また、 最近では、認知言語学の手法を用いて、転移修飾表現のスキーマを構築する試みがなされ、理論 的にも一般化を図ろうとする動きがみられる。  しかしながら、先行研究において、「形式上、形容詞に後続する名詞」が当該表現内で担う意 味機能については、考察されてこなかった。その結果、転移修飾表現の分布の違いに対して、十 分な説明を与えられない状況にある。例えば、smoke a sad cigarette は転移修飾表現として容認さ れるのに対し、buy a sad cigarette は容認されないという違いを説明できない。

 本発表では、転移修飾表現において、形容詞と、後続する名詞との間には、形式のみならず、 意味的にも修飾関係が成立していると主張する。そして、この修飾関係は、共起する動詞の分布 を決定づける上で、重要な役割を果たしていることを示す。さらに、転移修飾表現は、語彙的な 合成によって形成される単純なパタンから、文もしくは文脈に手がかりを求めて形成される複雑 なパタンに至るまで、多様性がみられる現象であることを示す。最後に、本発表で提案される修 飾関係は、形容詞の限定用法の定義に従っており、転移修飾表現に限ってみられる特殊な関係で はないことを明らかにする。

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【招待発表】

言語・文化研究のリソースとしての The New York Times

高知県立大学教授  五い お ろ い百藏 高たか 浩ひろ  1969 年、米国で ARPAnet と名づけられた 3 つの大学を結ぶネットワークが始まった。1980 年 代には学術利用の手段として広がり、1990 年以降は民間利用が加速化し現在に至っている。ハー ド面・ソフト面の技術革新は半世紀もたたないうちに膨大な量のテクスト、画像、音声、映像を 同時に扱うことが可能となってきた。このテクノロジーを人文学研究と教育に応用する分野を総 称した Digital Humanities という用語も世界規模で広がりを見せている。本発表はインターネット 版の The New York Times 紙[NYT](1851-)に着目し、英語研究のために得られる言語サンプルの 探索と確認、時代の思潮を表す表現の発掘について考えていきたい。加えて、発表者の教育実践

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第二日

─── シンポジアム ───

題目:英語リーディング教授法の多様化のなかで

文学研究者に存在意味はあるのか  わたしが大学生のとき、英語リーディングの授業は、英語文学研究者が英語文学作品を教材に して訳読方式で行なうというのが相場だった。しかしこの 20 年のあいだに英語教育の場におけ る文学研究者の存在も、文学作品の存在も、さらには訳読方式の存在も相対的に小さくなり、英 語教育者も英語教材も英語リーディング教授法も急激に多様化してきた。英語教育のなかで文学 研究者が相対化され、さらには周縁化されつつあるこのような状況のなかで、われわれは、どの ような教材と教授法を用いることで、リーディングの授業において文学研究者として独自の貢献 をしている(と感じている)のだろうか。講師のそれぞれが、リーディング授業をどのような目 的をもって、どのようなテクストを教材にして、どのような方法によって行なっているのかを紹 介したうえで、それぞれが心のなかで文学研究と英語教育をどのように関係づけているかを告白 することになるだろう。

悪魔の弁護人として

(司会・講師)法政大学教授  丹たん 治じ   愛あい  2005 年あたりだっただろうか、わたしはリーディングの授業のやり方を根本的に変えた。文 学作品を用いず、基本的に訳読法も止めた。英米の新聞のなかから現代の世界のさまざまな局面 ─政治、経済、社会、文化、科学など─を題材とした記事を選び、英語のわからないところを互 いに教えあうグループワーク方式で英語を読みとおさせたうえで、最終的には、単独でおこなう 授業外課題として、日本語でその記事の要約を書かせることで理解度を確認することにしたので ある。そのような反文学的な授業の形態にたいして、悪魔の弁護人として反論を期待するしだい である。  とはいえ、わたし自身は文学研究者としてのアイデンティティをかならずしも棄てたつもりは なく、自分自身の授業の理念と目標のなかに文学者としての思いをこめているつもりである。講 師のひとりとしてその思いについて述べてみたいと思っている。

文学教材によってこそ育まれるリーディング能力って何だろう?

(講師)広島大学准教授  小お 野の   章あきら  英米文学研究者が英語教育を語る際に有り勝ちな意見として、「私は文学が大好きだ。だから 文学を英語学習にも使うべきだ」というものがあるかもしれない。残念ながら、このようなスタ ンスを取っている限り、英語教育において文学はますます疎まれることであろう。「文学が大好 きだ」という(もっともな)意見はとりあえず置いておいて、次のように論を運んでみてはどう だろうか。文学は、いわゆる四技能中、リーディングにもっとも深く関わっている。ひとえにリー

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ディングと言っても、その能力は様々な要素から成り立つ。例えば H. Douglas Brown は、非英語 母語話者が優れた英語の読み手となるためには 14 の能力を磨く必要があると指摘した。その中 には Distinguish between literal and implied meanings. という能力も含まれる。このような能力こそ、 文学を通してもっとも効果的に付けられるのではないか。リーディング能力を規定した上で、文 学の役割を考察したい。

英語教材としての文学の復権を目指して

─リーディング授業を中心に─ (講師)東京大学大学院博士課程後期・前西南学院大学助教授  高たか 橋はし 和かず 子こ  多くの英語文学研究者にとって、〈文学を教えること〉と〈文学を教材として英語を教えること〉 は、一体化しているのではないだろうか。例えば英語文学専攻以外の大学生に、文学を用いて英 語を教える場合を想定しよう。当初は語彙の意味や構文を扱っているが、ふと文学史的な知識が 頭をよぎり、いつのまにか文学を教えることに心が傾くことはないだろうか。このような心の傾 きを極力避け、上手くバランスをとり授業を行なうことが、文学教材を用いた英語の授業には必 要だと思う。そして、文学の特色を活かした教材を用いて、多彩な活動を取り入れた授業が展開 できれば、コミュニケーション能力育成を謳う現在の英語教育で文学が復権する可能性は高い。 文学は、近年の英語教育が求めるオーセンティック教材の 1 つであり、双方向性を持った授業実 践を可能にする素養を多く持っている。本発表では、関連する理論を紹介し、リーディング授業 での実践例も報告したい。

訳読の擁護と顕揚

(講師)東京大学教授  菅すが 原わら 克かつ 也や  私はいまだに「訳読派」である。教材の選択や授業の方法が自由裁量に任される授業では訳読 を行うことにしている。教える立場からしても、訳読は手間がかかるし、体力も使う。カリキュ ラムの制約上、訳読ができない授業は、むしろラクだと思うほどである。もっとも、「訳読」の 授業で実際に何を行うかは、やや具体的にしておく必要がありそうである。一般に「訳読」方式 と考えられているもののなかには、私が賛成できないものがあるからである。日本で外国文学の 研究に携わる場合、ほぼ例外なく原文を日本語に訳すという手続きを、訓練として経験するはず である。そのような経験は、教室の場でどのように生かされうるのか、逆に控えるべきことは何 か。私なりの立場を明らかにしてみたい。

英文学で学ぶ英語リーディングと文体論

(講師)広島大学准教授  今いま 林はやし   修おさむ  H.G. Widdowson(1975)によって、英文学を教える際の文体論の有用性が示されて久しい。構 造主義言語学の台頭によって進んだ言語研究と文学研究の乖離が文体研究によって埋まるどころ か、それぞれの分野での専門の細分化がますます進んでいる。このような状況では、言語学者は 文学的直観力を鍛え、英文学者は言語学的観察眼を養うことなど到底できるはずはない。しかし、

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()     () それぞれの専門だけでメシが食えればいいが、今の日本の大学はそんなに甘くはない。両者とも 何らかの形で外国語としての英語を教えなければならない。しかも実用的コミュニケーション重 視という条件までがつく。このような現状の中、英語リーディングの授業にどのような教材を用 い、どのような教授方法を取ればいいのだろうか。本発表では、今一度、大学の英語リーディン グの教材として英文学を用い、文体論を積極的に活用することの意義について考えたい。

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─交通案内─

交通アクセス(高知大学公式 HP より引用) URL: http://www.kochi-u.ac.jp/outline/access/asakura/ 【所要時間】 ●高知龍馬空港から  車で約 45 分  空港バスで約 50 分「朝倉(高知大学前)」下車 ● JR 高知駅から  車で約 20 分  JR 土讃線下り 15 分「朝倉駅」下車徒歩 3 分  路面電車で約 30 分【土佐電鉄】  ※ JR 高知駅南口に出て、「 高知駅前 」 から 「 桟橋 」 行きに乗車。「 はりまや橋 」 で乗換、「 朝 倉(高知大学前)」 下車すぐ。  ※ 「 はりまや橋 」 からは、「 鏡川橋・いの 」 方面の 「 いの 」 行きか 「 朝倉 」 行きにご乗車くだ さい。  バスで約 25 分【土佐電鉄】【高知県交通】   「 高知バスターミナル」から「宇佐 」「杉の川 」「 高岡 」「 須崎 」「 市野々 」「 梼原 」「 天王ニュー タウン」 行きに乗車、「朝倉(高知大学前)」下車すぐ。 ●高速道路から  高知インターチェンジから 車で約 30 分  伊野インターチェンジから 車で約 5 分

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─会場のご案内─

参照

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