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存在の矛盾性-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

高 階

順 本稿は、すべて存在は無矛盾に於てその存在が可能であるとする在米の思想忙反射して、存在は却って有矛盾忙於ての みよく存在者とLての意義を顧ち得ることを主張せんとするものである。随って勿論、現賓に矛盾を許容すべきでない といふこと甲、まして現賓に存在する矛盾揉これを棄揚せねばならぬといふことなどを主張せん主するものではない。 志す所は見知賓の存在は矛盾性に於てのみよく存在者たる性質を有ち得るととを即存在的に解明せんとするにある。 ﹁法律や制度を死んだ動きのない秩序として考へる限り英盛には研かの矛盾も慣借あるものとして共存在を主張し得る 傲地がないのは富然であるCしかし法絆や制度を略章た現茸の存衣として考へる隠す、其中忙矛盾の存在を認めるこL は少Lも不合理ではない﹂︵宋弘博士﹁法窓雑記﹂F経済往来算入啓発十二塀﹄︶。かくの如きことは濁り法律や制度の文他 領域内忙のみ存することではなく、存在一般に啓遠的な事腰と見られなけれぼならぬ。その塩を究胡せんとするのが本 稿の目的なのである。倫ほ本稿は﹁商工経済研究﹂環八稔璽一朗以下に揚げ竺忠誠の志向性より存在の矛盾性へ﹂の績篤 と見らるぺきものであるが、とれのみで猫立の二常をなすものとしても差支へはない。 内 容 一アリスーテレスに於ける矛盾梓の表現形式 存在の矛盾性

存 在 の 矛 盾 性

三七七

(2)

−ァ可二ストテレスに於ける矛盾辟の表現形式

フツセールの純粋意識の本質たる志向性が客観主恩昧づける主観の態度であり、ハイデッガーの人間的現存在

の本質たる関心性が客観によつて動捺せしめられたる主観の態度であるとすれぼ、こ1に第三のものとして、主

観、客観が相互に他によつて存在せしめられると同時に、またそれらが相互に他の存在を可能ならしめる、謂はしゞ

主客同等の力を有つところの新しい立場が見出されなけれぼならぬ。私は、か1る立場は、尭鶴も客鶴も共に存 在であり、それ故に存在といふ地盤に於て初めて雨着の関係も可能であると見、更に進んでこの存在そのもの1 高松高等商業畢校閲佼十周年記念論文換 二 アヮス!ブレス矛盾律のシグワルー的解繹 三 アリス!アレス矛盾律のマイエル的解将 四 矛層律の存在論的根墟 五 矛盾律のライブニッツ的弘にカンー的解揮 六 形式論理畢的立蓼と布衣論的立暴 七 矛盾律のヘーゲル的解繹 入 存在億と矛盾 九 存在の矛盾性 血○ 矛盾律の新しき解繹 三七八

(3)

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(4)

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(5)

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高祖高等商兼拳校開校十周年記念論文集 三入こ れが他の根抵となる関係に於て存してゐるかといふてとのみ℡あらう。故に艶々は間ふ、彼は何れの規定を以て 矛盾律の虞の規定となし、他をそれより派生するものとなしたのであるかと。

こ アリス

先づ冴眉律は普通には形式論理畢の根本原理として白岡律や排中律など1共に挙げられ、而もその形式論理畢 の姶瀕はアリストテレスの︵ぎ§且にあるを以てーアリストテレスの窒息もその論理畢的規定にあるのであつた ことが督然にも考へられるやうである。これ、シグワルトがアリストテレスの尿意は寄らその論理的既定にのみ 存してゐたことを翰ずる所以であらう。 シグワルトに擦れぼ、矛盾律と盟日定判断のその否定判断に封する関係を表はすもので、否定の本質及び意義 . を明かにし、それに於て﹁Aはおである﹂及び﹁Aはちでなとの嗣判断の同時に虞たり待ないことを窟映するもの である︵芦署喜t川首i町もdl﹀冨u芦∝・−∝00・︶。随つて矛盾とは存在︷非存在との関係ではなくして、骨党利断 の否定判断に封する関係である。かくて彼はアリストテレスの矛眉律の定義も、相矛盾する丙判断の同時に虞た り得ぬことを表してゐるものと徹しなけれぼならぬとする。故にシグワルトの主張に揺れぼ、兜きの︳思Å∴は 雷然主節を表はし、↓ひ乱丁hは賓鮮豊息昧するものでなけれぼならぬ。即ち﹁Aはおである﹂が償ならば﹁AはB でない﹂が償であ少、後者が虞ならば前者が燐であることを示すものがアリストテレスの考へた矛盾律である

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とする。かゝる考へは最も普通のもので、ヴントなどもかく解繹してゐるのである︵W・W弓d∵ど警、望l︸S・ 課∽.︶。 ● 確かに以上の見解には官爵に中るものがある.。アリストチャスの言葉そのものによつてもこれは確かに論詮さ れ得るであらう。例へば﹁同仙事物忙ついての相矛眉する墓一品、ノ併し、これを同時に虞理であるとすることが できないとすれぼ、反封なるものどもが同時に同山物に属してゐることのできないことも亦明かである﹂︵Arist? 邑法⋮声こ○〓b︼ひ⊥00●︶といふ表現に於ては、その相矛盾する茎一一口急当意真苫︶とか、虞理であるとすること ︵音量賢魚苗︶などの語によつて明かにされた論理拳的規定が、前件と後件との関係に於て、次の属してゐる ︵㌻ざ登且ことのできないといふ在存論的規定を根掠づけるものとなつてゐる。また﹁もしも或もの藍典蜜に骨 定することゝ同時に否定することが不可能であるとすれば、相反するものが同時に或もの忙威してゐるといふこ とも不可能である﹂︵ibid●−書b柏幕︶といふ変現に於ては、前件中の肯定すること︵ぎ眉号室︶とか香定すること ︵計息萱︶とかの語は論理啓的立言のためのものであり、後伴内の凝してゐる︵首ざ琶且の語は存在論的言表の ためのものである。これらによつて見ても、アリストテレスに於て諭甥畢的規定が存在論的規定の基礎となつて ゐることが明かであり、そしてこれはシグワルトの解繹によれぼ正さに常然のことでなければならぬ。何故なら ば虞偶の別は存在そのものにあるのではなく、それは只主観的なる思惟作用内にのみその坐を占めてゐるものだ からである。即ち彼はアリストテレスのこの原理は直接端的に我々の思惟性質に恰督するものであるとするので 存在の矛盾性 三八三

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高松高等商染拳校開校十周年記念論文集 三人四 ある︵Si笥邑⋮㌻監√笹−芦︶。かくて矛盾禅は批によれば単に同一のものが存在すると同時に存在しないこと ヽヽ ヽヽ は凝り得ないといふことではなく、か1ることは何人もこれ聖典理として認め得ないといふことを示すものとな らねばならぬも かくの如くシグワルトに於ては、論理蓼的に眞理と認めることが存在の基礎をなすのであつて、これは正しく 主観に蚤きを撞いた解鐸と見なけれぼならぬ。けれども更に叫歩進んで、その眞埋を虞理として、随ってそれが 決して虚偽ではないものとして認めるといふことは、岨鰹如何にして可能であらうか。即ち論理畢的眞埋立言或 は虚偽主張の根嬢は何魔に存してゐるか。著しそれが何等の根嬢をも必要とすることなく、“眞備決定が只寄ら我 々の思惟作用にのみ依存し、我々の概念師恩惟の趨くがま1に自由に決定できるものとするならば、側命題の眞 償は全く窓意的象観に相知的のものとなり、それは結局眞備決定の不可能を意味するものとならねぼならぬであ らう。劇命題の立言が眞であつて偽ではないことがいはれ得るためには、その根低に何ものかゞ存Lてゐなけれ ぼならぬ。即ちそれを虞或は偽と決定する根接がなけれぼならぬ。かくて、アリストテレスの矛盾律は彼の眞埋 や そのもの1概念から、今一度見直されなぐてはならぬ。 三 アブストプレス矛盾辟のマイふル的解帝 マイエルの解繹匿よれぼ、眞腐政界忙判断のみ忙存してゐるものではなく、概念や表象や知覚にも存してゐる

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︵ロぎieり⋮=ロie萱−鼠stikdesAri蔓e−謡㌔ei=﹀一芸00﹀S・芦︶。併しその知覚や思惟内容それ自身のみでは未だ展 偶の区別はない︵ibid・S・ご。それらが虞璃たり得るのはそれらの資質的内容が存在者︵Seie已e︶に適合し、概 念や表象や知覚が自らの完全なる閻像︵Abbi−eを資在の中に見出し.た場合である。故に思惟に際して、その封

象が賓在と﹂致しない場合には渓謬または虚偽といはれ、一致せる場合に尿理と呼ぼれる。随って眞理概念及び

それに封立する虚偽概念の解明は常に明かに存耗概念に結合してゐる。買埋とは或る意味に於ける布衣であり、

虚偽は非存在である︵ibid・S・−ご。即ち判断の繋酢に於ける眞偶の決定は偏へに存在に劃する関係に於てのみ決

定されるのである。即ち存在に封して﹁である﹂といひ、非存在に勤して﹁でない﹂といふ判断は共に眞理であり、

それに反するものは虚偽である。故に骨党的聖断が常に眞理を表すのではなく、その虞理性は専ら存在に関係す

ることによつてのみ決定される。内定的眞理は専賢忙於て思惟内容と存在者との合致である︵ibid・S・︼甲︶。かく

の如く判断の虞潟は専ら存在に封する摘係に於てのみ、即ち存在を基礎としてのみ可能であるといふマイエルの

虞理解鐸の正鵠さを、我々は事資多くのアリスーテレスの言葉そのものによつて基づけることができる。

例へぼアサストテレスは最も簡明に次の如くいふ。﹁∵方、存在してゐるものを存在Lてゐないといひ、或は 存在してゐないものを存在してゐるといふのは虚偽ヘ音萎伽︶であり、他方存在してゐるものを存在してゐると いひ、海産してゐないものを存在してゐないといふのは贋理︵‡寡︶である。故にまた、何ものかの存在してゐ ること或は存在してゐないことをいふ人は、眞坤をいつてゐるか虚偽をいつてゐるかである︵Lrri旨︷e−es⋮芦u 存在の矛盾性 三八五

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高松高等商染登校開校十周年記念論文集 二大六 ︼≡≡て声︶と。こゝに於て存在するとか存在せぬとかの立言たる判断の炭偽は全く存在者そのもの1基礎の 上忙立つことゝなる。また他のところでは次の如くにいふ。﹁併L最も根源的窒息昧の存在は虞なるものか偏な るものかである。そしてこれらは事物の結合或は分離に閲してぉる。そこで叫方、分離してあるものを分離して あるものとし、また結合してあるものを結合してあるとする立言は虞理であサ、他方、寄物がしかあることとは 相反する立言は虚燭である。⋮⋮⋮扱が色白くあることを我々が考へることの正しくあるが故に汝が色白くある のではなく、反封に汲が色白くあることの故ば我々のそれをいふのが眞理なのである﹂︵ibid・−○巴b−−P︶何故 ならば、先づ虞理とは結合してゐるものについて肯定を、分離してゐるものについて否定を有つことであり、虚 偽とはそれら各々の反封をなすことだからである﹂︷ibidJO誓b箋1N∽︶。こゝに於て明かなることは、判断の虞 燐を決定するものは、常に客観的有産の有無のみに関するものではなく、存在そのもの1存在様式即ち結合や分 離などの事態にも細隣してゐるといふことである。併し、これらは要するに存在と非存慮とに関係してゐるとい ってよいであらう。何故ならばアリストテレスにとつては在在に於ける結合と分離とは同時に存在と非存在であ るに外なぬからである︵ヂ]Pibid∴○ごb−¢−空こ○讐b〓1︼ご。 かくの如くアリストテリスに於ては判断の虞偶の決定は、存在論的なる布衣・非存在に依存してゐることが明 かであるが故忙、これを端的に﹁命題の炭偽は事物の存在・非存在忙依存してゐる﹂ともいへるであらう。以上の 僅かな引用の言葉忙墟って見ても、アリストテレスは宅親的なる論珊嬰的判断の輿砥に、それを根接づけてゐる

(11)

決定原理としての膚親的存在者を指定してゐることが明かであらう。とのことは例へばまた同一判断が時監典と もなり、時に備ともなることによつても明かである。﹁成人が鐘つてノゐる﹂といふ眞なる命題は、その人が立った 場合には償となるが、命題がかくの如く威から鰐となるこ.とのその根嬢は決して判断や命題の中にあるのではな くして、存在する事物そのもの⊥中にあるのである。 かく主観的判断が客観的事物・夢態に依存してゐることの理は更にアリストテレスに於ける認識すること︵恥 三貴ミと認識され得るもの曾h3Tヱとの関係について⊥管することによつても明かにせられるであらう。彼 にあつては認識され得るものは認識することなくしても存在し得るが、後者吟前者なくしては存在し得ない。即 ’t ち認識され得るものは認識することよりも存在論的により先きなるもの︵呈↓焉︶たるの性質を有つ。このこと は彼に於て認識は必ず何ものかの認識曾§言ヨ鼓︶でなけれぼならす、必ずそこに認識されるもの′が前提され ねぼならぬが、認識され得るものは認識なくしては存在し得ないといふが如きものではないといふことからも、 自ら明かにされることであ告ブロクゴラスが人間は萬物の尺度であるといへ∵ろのも、アリストテレスにとつて は、資は何等の意味あることを.いつてゐるものでなかつた︵ibid∴○訟p霊よ㌢︶といふのも、以上の理によつ てであらう。かくて要するにアリストテレス庭於ては、論理畢的眞馬決定の原理即ち判断の眞偏決定の根摸は、 常に必ず自己を超越して客観的に存在する事物や事態に求められねばならなかったのであるト。 尤もアリストテレスの言葉の中には、以上の思想とは重く反封の意味を現はしたと解繹されるやうなものもな 存在の矛盾性 三人七

(12)

いことはない。例へぼ﹁虚偽及び虞甥は寄物の申に︵㌢↓爵て竜合雪雲毒︶あるのではない。例へば書きものは眞甥で あるが悪しきもPは正さしく虚償であるといふやう打、寧ろ思惟め中に︵㌻む紆⋮首︶ある﹂︵ibid・岩彗 b誓−当︶。 ﹁即ち結合や分離は思惟の中にあるものであつて、事物の申にあるのではない﹂︵ibid・︼○当bNりー∽−︺といふが如 きである。併Lこの場合思惟の申にあるといふのは、思惟を根操としてその上に成立してゐるといふ意味ではな く、.単に心理的番資として、、眞備決定の判断作用そのものが論理的思惟といふ心的現象内に存立してゐることを 述べたものに過ぎない。﹁随ってかく如き仕方での炭なる故佐在るところのものは、本来の意味に於ける︵き官∽︶ 存在よりは臭った仕方︵等盲︶での存在である。︵何故ならばその思惟は只それがいかにあるかの本質や、その 作られてある性質、、いか程かといふ.分盈、その他かゝるものをのみ結合し或は分離するものだからである︶﹂ ︵ibid・︼○虹ヾb望−㌶︶。その臭った仕方といふのは心理主義的詮明方臨とでも解されるものであらう。我々は只 今妻そして恐らぐまたアリストテレスの尿意に副ひつ1 − かゝる心珊的事蜜に於けるものを聞竃としてゐる のではない。寧ろその事賛内に存立する〓軍め判断の虞偏決定の根城そのものを間ふてゐるのである。そしてそ れが思惟の必然性とか信念とかいふ心瑚的事資としての思惟作用内に在るものではなくして、寧ろ客観的に存在 する事物や事態そのもの1中佐在らねばならぬことを主張するのである。 さて朝って、.アヮま∵トテレスのか1る眞理概念から前の矛盾律の規定を老へて見るに、そこに於ては、マイエ ルも特忙力改する如く、存在・非存在の関係を規定する最高原理がそれ故にまた同時に肯定否定の関係を規定す 高松高等南米畢校閲校十周年記念論文集 三八八

(13)

る最高の原理たらねばならぬことゝなるであらう。即ち矛盾律の存在論的規定が、論理蓼的規定の前にそれを 根援づけるものとして存在してゐなければならぬことが明かなのである︵呂乳e巧⋮PS・d・A・﹀班・詮・︶。それ故忙シ グワルトの考への如くに、矛盾律を党づ立言された二矛盾判断の関係規定のものとして論理啓的に述べらるべき 釘のではない。アリストテレスの眞意は、先づそれを故和布在諭的原理として考へ.、次にそれ故に論理拳的思惟 領域にも安富する原理たらねばならぬとするところにあつたと見・なければならぬ。彼の見解をかく解繹せねぼな らぬ所以のものは、彼が主観的思惟の性質即ち思惟必郡性からは、決して直接に矛屑律は導出され得ないと考へ てゐたと思はれるからに外なら.ぬ′。即ち彼は思惟佐射する原理の尭胡的安富を、安富すると思惟された存在的原 理から明かにし来ったのである。このことは次の言葉から明瞭に看取できるであらうっ ﹁我々は併し今、いかな るものに於ても存在すると同時に存在しないことの不可能であることを安笛するものとして認容し、またそれに ょって︹哲釦ヨざ。e︶それがすべての原理中の敢も確賓なる︵曾曾ト01守J︶原坪であることを詮明した﹂︵A訃芝e−窃 ⋮芦﹀−00の′p∽−ご。即ち初め存在と非存在との関係から存在論的に矛眉律を規定し、正さにそれによつて、その 原理の論理拳的にも確茸なるものとして澄明できることの理が述べられてゐるのである。 かぐてアリスiテレス佐於ては、甲と乙とが瓦lこ矛眉した命超を定立して之を主張し合ふとか合はないとかい ふことからは、事物そのものに何等の欒化をも資すものではない。その甥由は事物は甲がこれを肯定したから存 在するとか、乙が否定したから存在せぬとかいふ如きものではないからである。即ち事物の存在・否存在は骨 存在の矛盾性 ニi八九

(14)

高松品等商染畢校閲枚十周年記念論文集 二元○ 声・否定によつて次発されをものではない。二つの矛盾する判断の成宰不成立の問題は、存在そのもの1矛 盾・示矛盾の問題方面に直接関係するものではない。これ、矛盾律の現更に於て、先づ最初鱒﹁存在すると同時 に存在しないことは不可能である﹂︵ibid・冨b睾喜冨柑ぶ岩警b⋮糞ete。︶といふ存在論的規定が奉げられね ぼならず、これがまた彼の矛盾律の尿意を侍へてゐるものであるとされる所以である。かくアリストテレスに於 ては矛盾律の原理は兜づ第一、に存在の添即であつて思惟の法則甘はなく、﹁存在するところの存在に安督してゐ る﹂︵ibid﹂妄言翠︶.臥の、存在する限りの存在者に安常するものである。かくてマイエルも、存在と非存在と の関係を決定するのが矛盾律の任務であり︵夢ieり⋮PS・d・♭・リS∵箪︶、それはあくまでも党づ存在の領域忙於て 意味を有つもの、即ち存在の法則であり︵ibid・S・芦︶、その存在の法則が次にそれ故に眞弼的存在即ち思惟内に 存する屁理内容の法則となる︵ibid・S・芦︶こと訂明言するのであるっかくて我々は前蓮のアリストテレスの定義 に於けるTか告㌣及び↓か乳↓bをぼシグワルトの桝見とは反封に、客観的布衣の事物とその夢物に所属してゐる 寄掛または性質と解することの却つて安富なることを認め得ると侶する。アリストテレスが矛眉律の詳述をその 論理単に於てよ針も、寧ろ却って形而上蓼に於てなした所以のものも、かくその存在論的規定を貴んじた放であ るとはいひ得ぬであらケか。 団−矛盾梓の存在論的根按

(15)

シグワルトに於ては﹁Aは箸である﹂と﹁AはBでない﹂との二判断の同時に同虚に於て虞たり稗ないことを示す のがアリストテレスの矛盾律と解され鷲併し我々はマイエルと共にか1る論理蓼的規定は彼の眞憲ではなく、 寧ろそれは﹁Aはちであると同時に玉でないことは不可能である﹂といふ端的なる存在的事資の存在論的規定であ

るべきことを見駕即ち我々はアリストテレスの立場の虞相を指摘することによつて、一般に思惟の根抵には布

衣がなければならぬこと、論理畢的見分の前に存在論的見方がなされねぼならぬことを明かにし宅今、この立

場から更にシルグワルト的主張の線種を省察する時、それは如何なるものとなるであらうか。党づ彼の立場に於

て、相矛盾する二命題が同時に同塵に於て開音共に眞たりといひ得るためには、敢初如何なることが前捷されねば

ならぬであらうか。それらが矛屈するとか共に眞たり得ないとかいふことは、いふまでもなく二つの命題問の関

係を決定することであり、そしてこ、の関係の決定のためには、勿論兜づ節仙にその関係項たる各命題が、各その可

能なる立言として、何等かの意味で措定されてあることを必要とするであらう。何故ならば、それら二命題が如何

なる意味に於ても先づ措定されてあるといふことがないとすれば、それらの間の関係も亦考へ得られない筈だか

らである。然りとすれぼ、兜づその﹁Aはちである﹂といふ判断の立言的指定は一倍如何にして可能であらうか。

こゝに人は恐らく直ちに白岡律を考へ来るであらう。そしてこれこそ論理琴に於ける最も根抵的なる原理であ

り、それ故忙また矛盾律の澄明根嬢でもなければならぬ、と主張するでもあらう。併しながら∵存在的論立場に於

けるアリストテレスに放ては少くとも、矛盾律の前に自問律は考へられてゐなかつ冤矛盾律は白岡律を詳明棍接

存在の矛盾性 三九山

(16)

高松高等商業畢校開校十周年記念論文集

三九二

とすることなしには自らの眞理性を保護し且つ敬称することができぬほどに、しかくカの弱くまた影の薄いもの

ではなかった。それは存在そのものの端的なる考察から直接に明かにせられるものであり、その眞理性の幸張の

ためには、それ自鰹何等他の詮明を要することなく、寧ろこれを芳明せんとする人々は却って自らの哲畢的教養

の不足であることをー何故ならば、語明は如何なるものに勤しては必要であり、如何なるものに勤しては不必

要であるといふことを雛知L得ぬものは、習蓼的教養の不足藍息味してゐるが故にー暴露せざるを得ぬ︵1芦 −00冨γSしが如き、それほど嘗でにも自明の原理であつた。それ故に我々はこ1に自同律など藍吋ち込むこと

なく、あくまでも存在する寄物及び事態そのものゝ存在論的分析検案によつて、普面の問題解決のために進まね

ぼならぬ筈である。

さて﹁Aが丑である﹂といふ命題が単に形式的なる茎言ではなく、それが仙窟の意味を有ち、軸足の事態を毒張 する立言たり得るためには、児づA概念と丑概念とが必ず何等かの関係に於て存するといふことが必要であら ぅ。ところで、その関係とは明かにA概念と月概念とがその外薙的領域の金牌に於てか或はその叫部分に於て互に 一致することを衣はすものであり、そし七それ以外ではあり得ぬであらう。同様に﹁Aは玉でない﹂と云ふ命題は それらの義朗傭の全く成立することなき事態を示すに外ならぬであらう。こ1に於て問題となることは、然ら ばか、るA概念とB概念との外延的領域に於ける壷・不一致の関係は如何にして可能であるかといふことであ り、そしてそれは、A概念とぉ概念とが兜づ少くとも思惟内に措定されて参ること、否、畢に彗晶に措定され

(17)

てあるのではなく、常に必す存在そのものに関係するものとして、侍ほ謂はゞ、容澗的存在性の静め得られるも のとして、存在そのもの1中に措定されてあるといふ事態登別捷として、初めて可能とされろであらう。かゝる 前捷なくしてはAはBであるともまたBでないとも決定椚爽ぬ筈だからである。こゝに於て明かなることは、 ﹁Aは▲丑である﹂と﹁Aは甘でない﹂といふ命題が可能である努めには、、党づ最初にAがAとして、さうしてまたち が召として定立されてゐることが常に必ず必要であるといふことである。この丙概念が各々存在論的に布衣する ものとして定立されてゐることなしには、我、々はその間に如何なる関係をも考へ1るととができない。こゝに於て 我々は更に、そのAがAとして、ま虎その暑がBとして存在論的に措定され得るのはナ照何によつて可能である かを考へて見なければならぬ。そしてそれはAまたはBの存在そのもの1根嬢を間ふことによづて初めて明かに される問題である。こ1に於て我々の論究は全く形式論璃螢の領域を癒して、寧ろそのこ鱒深きところに存する 存在論的領域にまで進められぬぼならず、Aとぉとの論郡畢的関係ではなくして、AまたはBそのものゝ存在性 を考察する立場にまで進められねぼならぬであらう。 さて、かくの如き立場に於て親する時、存在論的に将軍せらるべきAまたはBは、必す存在するものとしてそ の癖賛なる存在性の定立され・、主張されるものでなければならぬ。常に抽象的・形式的にのみ思惟せられたるA と署と蛛、その山番的開係を決定するやうに取扱はれることができない。何故ならば、二型断のSとγとの関係 とはその外延的領域に於ける﹂致・不劇致の関係でありヾそれ以外のものではあり得ぬが故に、外砥的領域を預 存在の矛盾性 三九圭

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高松高等商薬草校開校十周年記念論文集 三九四 想することなき基虚なるAとぉとの聞にはそれ等の関係を決定する何等の手懸りをも見出すことができぬと忍ば れかからである。かくて要するに、すべての判断に於けるSとPとは必ず先づ各々その存在性を自ら主張し得る もの、或は主張してゐるものでなければならぬ。存在することもなしに闘供することは、存在論的に見て重く不 可能の′ことだからである。単に抽象的に思惟せられたものに勤して側養的に何等かの関係を規定せんと努めるこ とは、例へば認に形式的に僧け考へ得られる沌まの萱l。昔日∽のすべてに眞理性を認容すべく努めること∼同じ であらう。アリストテレスの論理塾が形式論理輿と呼ぼれながら、而も常に婁虚なる概念遊戯ではなく、嘗際的 に効用あるものとして不滅の光を放つ所以の鴻のも、それが常に存在的根掠を有し、それと不可離の関係に置か れてゐるからに外ならぬであらケ。彼の矛盾禅が常た存布をその根嬢としてゐなけれぽならなかつたこと、さう してまた驚際楓接としてゐたことの珊敵は、こ1に於ても明かであるといはねぼならぬq かく矛席律の眞理性は常にそれに封應する存在即ち事態に根接づけられることによつて保詮されることを要す るものである。このことはプフェンダーの主張に於ても明かである。彼は矛盾律の規定を存在論的・心理的・論理 的の三となし、瞥藩を外論理畢的なるむのとして論珊拳から排斥し、シルグワルトと同じく専らその論理畢的 規定のみを富んずるのであるが、併し、その論理畢的規定の根棒に存在論的矛盾の軍資を認めてゐる鮎では、シ ルグケルトに反して我々の立場に接近してゐるのである。彼のいふ存在論的規定とは﹁SはPであろと共にPで ないことを得ないト︵A・吋詳de汽ど嘗︶J已−旨。FPp芦2p声官設eぎn的、蜃S・苫・︶といふのであり、心理的規

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克とは﹁人間はSはPであると、SはPでないとを同時に判断し得など︵詳iPS・茎・︶または﹁人間はSはPで あると﹂SはPでな小といふ二つの即断を雨空ハ虞であると主張し得ない﹂︵藍・S・軍︶といふのであり、また 論理箪的規定とは﹁相矛眉する弼判断は址ハに虞たり得ない﹂︵ibid・S・器・︶といふのであ驚′そしてこれらの中の 第仙のもの即ち二∵つの封象はPであつて且つFでないことを得ないといふ普遍的封象論的即ち形式的存在論的 寄算が矛盾律の眞理の究極の根橿︵die訂t賢G計d−品e︶せある﹂︵i藍・S・琶︺とする史郎ち彼に於て矛盾律の選

球は封象二椴の啓態の中に基づいてゐるのであつて、思惟者即ち人間の性情に基づいてゐるものではない。同時

貯またそれは或る超個人的超経験的意識﹁般の如きものに依存することなく、まね麗起的営為の如きものによつ

てその眞理性を保詮されてゐるものでもない。矛盾律はかーる暗いもの1本質や威令に基づいてゐるのではな

く、各その封象一般の明るい寄態に基づき、更にその上に眞偶の本質や丙判断の矛盾封立の本質に基づいてゐる

のである。これらの根粒を得て初めて矛屑律の絶封的屋理性が存慮し得る。かくて彼の霊視する論理畢的規定も

常然存在論的規定によつて傑澄づけられねぼならぬことゝなる。

シルグワトに於ては矛盾禅の規定は専ら論理螢的にのみなされて他は顧みられなかったが、プフェンダーに於

ては諭珊畢的規定のみが蛋んぜられながらもその根粒として存在論的規定が許容された。然るに我々の立場は専

ら存在論的規定のみを畢揚し、その方酎に矛盾律を探究し、論理堕的規定は只そこから導出され来るものとなす

のである。 存在の矛盾性 ≡九五

(20)

五 矛盾繹のライブニッツ的並びにカント的解辞

さて、AまたはBが単に基虚なる形式概念とLてではなく、寛際存在するものとして、ま夜鷹援軍茸に関係を 有つものとして、兜づ存在論的′に措定されるといふことは如何にして可能であらうか。AがAとして自らの存在 性を堆得し、以てそれがAであるといひ得られるためには、少くとも二つの催件を必要として有たねぼなら ぬ。その∵はAがAとして自己自らを十全に露呈せLめることであり、その二はAはAであつて決してその他の すべてのもの即ち非Aではないといふことを自ら主張するといふことである。存在が自己を隠徹する側切のもの から自らを自由ならしめーそれ自らの存在性を完全に崖蜃せしめると北ハに∼、自己は自己であつて決して他ではな いと自ら解繹し、自ら語るところに、存在の眞理性が最も明瞭確賓に保詳し得られる根接がある。即ちAの存在 はAがAであること、、Aが非Aでないこととの二つの條件によつて、その存在性が充分に確保され得る。今ん がAとして自己を十全に露呈せる場合をその明晰性︵珂︸㌢ei−︶の襲硯とするならば、Aが非Aでないことを完全 に垂不した時はその判明性︵De邑。露eit︶の明示ともいへるであらう。かくて存在が存在として自らを十重に露

呈すると共佗自らに矛盾する二切のものから自己を罷別して自己の存在を主張し、それによつて存在自らの存在

性の費硯をなすことを以て展理と呼び得るならば、眞理の板紙は正さしぐデカルトのいへるが如く、明晰に且つ

利明に我々に概念し縛られる竃窯星空せi善吉S訝lpm讐。de壱相思こといふことに於て存するであらうCま 高松高等商業拳校開校十周年記念論文集

(21)

たかゝる展埋の自己顔硯を以て習螢の任務とするならば、、存在自らをして自己を誇らしめるといふハイデッガー

の解繹拳の如きが、眞の意味の哲螢の名に惜し得るものであらう。

この存在の明晰性と判明性とは雨着固より相互に引き離し得ぬ紺備にあり、随って﹁AはAである﹂といふこと の梶棒には常に必ず﹁Aは非Aでない﹂といふことが不可紋の事態として存在してゐることも明白である。然るに ﹁AはAである﹂といふ立言は正さしく白岡律の表現形式であり、さうして﹁Aは非Aでない﹂といふのが賓にライ ブ﹂1ツツやカントによつて捷唱せられた矛屑禅そのものゝ表現形式であつたことを、人はこ1に甚だ興味深く想

起し得ることであらうと思ふ。即ち我々は、シグリルトやヴントによつて論理畢的に規定されセ矛盾律を春永諭

的立場に於て探究し、それによつてこ1に全く新しい形式の矛盾律に逢着するに至ったのである。こゝに於て我 々は、こ・の二つの表現形式に於ける矛盾律の問の関係を探り、.それによつて新しい形式のそれへと槍鼓を挟め、

以て我々の問題を開展しゆくことをなさねばならぬ。

さて、こゝにいふ新しい形式の矛盾律とは、資するに﹁A蜂非Aで毎い﹂といふ。謂はゞS概念とP概念との関

係よりそれを規定せるものに外ならぬごフィブニッツに於ける矛盾律の表現形式を見るに﹁仙の命題提供理か虚

偽かである﹂︵G・H・どibniご警u壷u増野乳sHづ︶N・︶といふのであつて、決して二つの命題の関係ではなかっ た。また﹁Aであるものは非Aであることはできないであらう﹂の形式では確か・にAと非Aとの関係となつてゐ、ま た﹁一つの事物が存在すると同時に布衣せぬことはできない﹂︵ibiP︼・S﹂や︶に於ては、それはいかに存在論 存在の矛眉性 ≡九七

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高松高等商発登校開校十周年記念論文集

三九人

的に規定されたアリストテレスのそれに類似してゐることであるか。即ちライプニッツに於ける矛眉律は決して

先づ白岡律に基づいて立てられたものではなく、寧ろ反封に自同律を基礎づけてゐる根源的原理︵︻訂p岩n筈eh宗 家n思︶であり、矛盾律即自問律ですらもあつた。次にそれは相矛盾する二判断の展憐関係を論理拳的に音義す

るものではなくして、二つの矛盾概念問の端的なる規定であつた。即ちライプニッツに於て矛盾禅は、説も直接

に、矛盾を含んだすべてのものを虚備とし、その虫偏に矛盾し反動するすべてのものを眞理とする理性認識のね

めの二大原理∼今叫つは充足理由律−1め中の鵬つであつて︵ILeibniN⋮Dieぎn邑。−。腎﹀竿︶、単なる形式論理 参酌思惟の原則ではない。ライプニッツが虞理を分ちて理性眞理と革資眞瑛となした︵ib風∴芦︶ことは有名℡あ るが、普通、矛盾樺即白岡禅は理性眞理の基礎であり、充足理由禅は番掌典理の基礎であるといはれる。そLて

斯くの如き原理は概念的思惟によつて一よりも寧ろ直観的認識によつて直援に明かなものである。かくて彼の矛盾

律はギンデルバン下も指摘する如く、痍何壌的屋理や形而上畢的眞理の如くに論理的に演繹し論語し得るもので

はなくして、而もそれらと同様に純粋に直魔的なる碓資性を有つものである。即ちデカルトに於けるが如く、立

詮約科蓼の尖頗空つの純粋に直藤的に認識され得る原則を置かねばならぬことは、ライプニッツに於ても感得

されたことであつた︵惑∵召inde︼ba邑⋮Q駿賢eどede⋮e琵eβ字i訂。p已中︸︶S釜・︶。かくてその矛盾律も単なる

形式的思惟によつて導き出されたものではなく、車ろデカルト的直努によつて得られたものであつた。そしてそ

れは矛盾を含んだものに反封し矛盾するもの、即ち矛盾なきものが直ちに屈強であることを表明するものに外な

(23)

らなかつた。

かくの如く矛盾なきものが直ちに眞理であるとするライプニッツの考へは、カントによつていたく攻撃せられ

る所以のものとなつたのであるが、併しそれを攻撃したカントも勿論全く矛盾律の眞糀を否定するものではな

い。彼に於ては矛盾のないといふことのみでは虞理たり得ないこと例へば二直線によつて固まれた固形の如きで

あるが、併し眞理たる以上少くとも矛屑を含むものであつてはならぬことはいふまでもない。即ち眞理として可

能であるためには、矛盾を合吏ぬといふ論理的可能性の外に、概念が直観に於て封象と合致するといふ賛在的可

能性が輿へられねぼならぬ。そしてその論理的可能性を根嬢づけるものが矛盾律でぁる。かくてカント望典理の

消極的方面の規定として矛盾律の必要を認めたのである。然らばカントの考へた矛盾待とは如何なるものであつ

たか。

カントに於ては矛屑律は次の如き形式に於て表はされる﹁如何なるものにもそれと矛盾する賓群は属しなと

︵Ⅰ.同邑︰同数kder乱nen霊rnu鼻S.喜.︶。そしてこれ止二切の眞珊性の滑極的ではあるが併し仙般的なる棟

徴であるとする。けれどもカントは寧ろこの矛盾律を認識論に通行するものとは考へてゐない。それは単に論理

挙忙のみ廃するもので、認識の内容とは関係なく、只認識一般としての認識のみに安富し、そして矛盾は認識を全

く破壊し厳莱すると宣告するのみのものであるとする。併しながら、それは分析判断については積極的効果を有

つものとされ、その場合には、矛盾に基づく限りに於ける誤謬や虚妄を追放するだけではなく、屈珊性を認識す

存在の矛盾性 ≡九九

(24)

高松高等商染畢校開校十周年記念論文集

四〇〇

るためにも使用できるとされるのである。その瑠由は分析判断の場合には、客胡の認識に於て既に概念として存

し、思惟されるもの1反封は普然否定されるが、概念そのものはその反封が客観と矛盾するであらうといふ埋由

で必然的にその客観に封して骨定されぬぼならぬが故に、それが骨定的なると否定的なるとを間はす、その眞理

性は常に矛盾律によつて十分に認識されることができるからである。けれども、カントの問題とするところは、

人皆の知る如く、本来分析判断ではなくして、梵天的綜合判断が如何にtて可能であるかといふところにあつ た。そしてその綜合判断に於ては、矛盾律は只認識のeOndiliOSineq星n昌たるものに過ぎネ、何等積極的にそ の眞理性を決定するものとはならなかつたのである︵ibid.S.−芦︶。

かくの如く矛盾律の数展性に関してはライプニッツとカントとの間に翼要なる見地の相違があつたとしても、

矛盾律の意義そのものについて璧何れもこれ卑Aは非Aでなとといふ形式に於て、相矛盾する繭概念の関係

といふ如くに解されてゐるのである。そして我芸問題も今は矛盾律の意義そのものにあるを以て、今この雨着

を同一顆の中に入れて考へるとしても敢て不普でないと児ふのであか。

大 形式論理拳的立場ビ存在論的立場

さて、シグワルトの見地では、この﹁Aは非Aでない﹂といふ原理は、アリス!アレスの冒S已Nd針弓idersp等 身とは本質的に興れるものであり、全く特別な意味のp計ip旨e蔓邑cぎ100である。何故ならば、アリスト

(25)

テレスの矛盾律は骨定・否定の二判断の闘係を決定せるものであるにも拘はらず、これは一つの判断内のS概念 とそれに矛盾せるP概念と打開僻を決定せんとするものだからである︵Sig司邑⋮どgikこ﹀S・︼芦︶。こゝに於て 我々は我々の問題を開展するために、この相異れる二形式の矛盾俸の相互関係について瞼質しゆくの必要を感す る.〇 シグワルトが自らの表現形式を以モアサスノトテレスの虞意に副ひ得たものとすることは、果して寄切眞相を博 へてゐるものlといへようか。随つてライプニッツ的表現がその尿意を俸へ得ないとれふことが炭質であらうか。 我々は既にアリストテレスの眞意が矛盾禅を存在論的立蓼に於て規定せんとするにあることを見た。然るに存在 論的立場では概念が判断に先耳たねぼならぬと恩はれるが故に、我々は却ってライプニッツの規定がアリストテ レズの眞意に副ひ得たものであることを恩ふと共に、その如き規定によるにあらざれぼ、思惟の単なる形式では 及く、存在そのものゝ如資なる存在性を倦へる矛屑律の規定の不可能なるを思ひ、随つ七シグワルトはアリスト テレスの外面的形式的方面をのみ侍へたが故にその虞意に背き、ライプニッツはその内賛的方面を偉へたが故 に、形式的にはそれに違背するが如く見えて資は却ってその尿意を俸へてゐるといふ如くに解すべきではないか と考へる。その間の消息を次に明かにしよう。 さて、韓埋輿的なるシグワルトの立琴に於て、存在論的なるライプニッツの矛屑律規定の表魂たる﹁Aは非A でない﹂なる命題の意味を考へるに、これは﹁A﹂なるS概念と﹁非A﹂なるア概念と﹁は・⋮︰でない﹂なる聖断との三 存在の矛盾性 四〇一

(26)

要素から成り立つことが明かであらう。一切の命題をこれら三野責に分ちて考へるのが所謂論理串的立場の特徴 なのである。ところで、その概念﹁A﹂は﹁Aであること﹂であり、概念﹁非A﹂は﹁Aせないこと﹂であり、更に﹁は ⋮︰でない﹂はこれら桶概念の外延上の不山敢闘係を示すものである。そして﹁Aであること﹂は﹁Aとしてあるこ と﹂であり﹁Aとして存在すること﹂である然るにAがAとして存在することとはいふまでもなく白岡律に撲っ て可能にされることであり、随ってそれは常然﹁AはAである﹂といふことを意味するものに外ならぬ。かくて同 疲にそれに矛盾封立するものとしての﹁Aでないこと﹂は常然﹁AはAでない﹂こどを示すものとなり、結局﹁Aは 非Aでない﹂といふ判断は﹁AはAである﹂と﹁AはAでない﹂との二つの判断の相互に矛盾することを示すものと ならねぼならぬ。換言すれぼ﹁Aは非Aでない﹂といふライブー㌦ツツ的矛盾律の表現形式は結局﹁Aはちである﹂ と﹁AはBでない﹂との二つの判断は同時には眞たり得ないといふシグワルト的表現形式にまで膵せられねぼなら ぬとと1なる 然るにライプニッツ的見地からシグワルーのそれを親する時は、その事情は正さに全く逆となる。即ち﹁Aは Aである﹂は結局A自らの自己定立であり、A自らの明晰悼を確然女らトめるものに外ならぬゥ別言すれぼそれ は﹁Aたること﹂であり、A概念の存在措定に外ならぬ。また﹁AはAでない﹂なる判断は同様忙A自らの存在に判 明性を輿へるための、Aならざるもの即ち非Aの存在定立忙外ならぬ。それ故に以上の粕矛眉する二期断は結局 Aと非Aとの矛盾封立の関係を表はすものに外ならぬ。かくてシグワルトの二判断による矛眉律規定は結局﹁A 高松高等商発車校閲枚十周年記念論文集 四C二

(27)

は非Aでない﹂なるこ型断によつて、必翠にして充分なる襲規を磁ち得ること1なる。 かくて、シグワルト的立場で鱒十判断離ち二概念による予眉律の規定が、二判断即ち銅概念の関係とならねぼ ならぬとし、ライプニッツ的意瘍ではそれとは全く反封の紺係たらねぼならぬこと1なる。こ1に於て前者は概 念の根種に判断がなければならぬとして概念をも判断に還元せんとし、後者は判断を以て概念を根越とすべきも のとして判断をも概念に還元せんとする立場であると解することができる。かくて我々はこ1に判断が概念に先 立つか、概念が判断に兜立つかといふ、論理畢上最も古典的なる問題に遭遇せることを認めざるを得ない。かく て常該問題は途にか1る概観的論文に於ては容易に決定し得ぬほどに重大なる問題たることの自覚にまで到達す る。併し、我々のこれに封する論結は、次の如く指示することによつて大凡そ誤りなきを得ること1思ふ。即ち 判断を以て概念に先立つとするものは形式論理垂的立垣内に在るものであり、反封に概念を以て判断に先んする となすものは存在論的立場内に在るものであると。布衣そのもの1存在性を諭することなしにひたすらに思惟の 形式をのみ諭する立場に於ては、原始分割︵宇=teil︶としての判断が最初にしてまた最も根栖的なるものとなる であらう。けれどもアサストテレスもいへる如く、我々の理性にとつて︵芯ふ骨とより鹿きなるものがまた直ちに 蜜鰹にとつて︵恩。訂旦︶も腐きであるとはいひ得ない。そのわけは電照にとつて先きで屠るとは猫立してある ものとしての存在の鮎からいつて優位たることであり、理性忙とつて兜きであるとはそのもの1概念から他のも の1概念のつくられるところのものをいふのだからである︵A訃t。tel窃⋮芦−Sヾb︼−こりかくて、珊性的思惟に 存在の矛盾性 四〇≡

(28)

○ とつてはたとひ虎始分割が兜きであるとしても、資在または存轟その賜のとしては、その原始分割される嘗のも の1存在が先づ前提されてゐなければならぬ。それ故に存在論的立場に於ては、客観的存在が主観的思惟に発立 つのであつてその反勤ではあり得ない。故にこの立場では普然ライプニッツ的立場が擁護されなくてはならぬ。 然るにアリストテレスの立場は前述の如く眈に充分の理由を以て存在論的立場内た立つものと見られねばならな かった。それ故に矛盾律のライプニッツ的規定がシグワルト的規定よりも仙屠アリ女手テレスの質草に近いこと か論聴し得られるであらうと息ふ。 七 矛盾辞のヘーゲル的鮎澤 さて我々の本木の課題は主観・客観の関係問題につ′いての解明にあつた。今、矛盾律を中心として槍質し釆つ た論理拳的立場は主観的思惟を以てより基礎的のものとする主観食感の態度でをり、反封に存在論的立場は客観 的存在をより根概的のものとする客観禽盈の立場であるやうに思はれる。かく論理的立場から存在論的立葛への 勉移によ一つて得られ窄フィプニッツ的解鐸のアリストテレスの立場でも尚ほ眞に主凱・客観平等の銅係封豆の意 味を有ち得るに至らぬとすれば、〓駁に我々は栗に何魔にまた如何にしで我々の立場を開展し得るであらうか。 こゝに於て我々は寧ろ存在論的︵邑○︼○的i∽昌︶な立切より更に血歩遊んで存在そのものに直接入り込む立場、謂は ゞ存在的︵○昔s註︶な立場ともいはるべき立場にまで突き進まねぽならぬであらう。存在論的立場と雄もそれは 高聡高等菌糸拳校開校十周年記念論文集 四〇四

(29)

拾ほ封存在的立場︵d訂崇ns邑lung旨Seien計n︶であつて、兎華虞に即存在的立場︵已e欝n邑−。n平野nSeien訝ヱ

の、ものではないやうに思はれる。この郎存在的立場とは眞に存在そのものに即して存在の存在性を顛示する立場

であつて、謂蜂ゞ思惟即布衣、随つて立た主観即客観の立場ともいへるものであ号然らばこの新しい立場に於

て我々は﹁腰如何なるものを得るせあらケか。

存在論的立場から即存海的立夢に入ることは、ライプニッツ的解繹のアリストテレス的立場からへトゲル的立

場.に入ることを意味するであらう。ヘーゲルの耕語法こそ、思惟即存在・義和即客観の立場を最もよく秦明して

ゐると恩はれるからである。このへトグル的立場への新なる趨移は、今の我々の道程にとつて最も重大なる立場

への展開を約束する。以下我々はヘーゲルの畢詮と聯閲しっ1論議を進め、それによつて最後に得らるべき結論 を、便宜上今こ1に橡め要言して居きたいと思ふ。その.結論とは即存在論的立場ではライプニッツ的解繹の矛盾

律が査ぺ逆愛息味で安富せねぼならぬといふことである。郎ち存在論倒立勃では未だ矛盾を含むものは存在し得

ぬものであり、随って眞理たり得ぬものであつたが、即存在的立場では、却って存在はすべて矛席を包有す・るこ

ヽ︳ヽ

とによつて存廃し得、存在の存在性は苦にその矛盾性にあるといふことが明かにせられるといふことである。そ

の瑠打ついて我々は詳述せねぼならぬ。

﹁Aは非Aで.ない﹂といふライプニッツ的命題が眞理であるためには、常然党づAなるS概念と非AなるP概念

との存在確立が必要であ少、而もその雨概念間に一義的一致・不二教の関係の成立するためには、それらが即存

存・衣の矛盾性 四〇蚕

(30)

高怒高等商業拳校開校十周年記念論文集 四〇六 癖的であること、香な寧ろ存在そのものであることが必要である。こ1に勿論我々は中世期的なる質念論的見解 を直に眞理となすものでぽない。併し少くとも内資的なる判断のSまたはPとして概念せられたるものは、その 蚤ゝ直ちに存在するも打として取扱はれねばならぬ。何となれば然らざる限りそれは基虚なる概念、例へば撃と して敬する風︵旨t。S召。iBの如きものとして、その間に叫轟的馴致・不鵬致の関係は確立されるに由ない筈だ からである。こゝに於て、A並びに非Aなる概念の存在その沌のが如何にして存在L得るかの問題が、こ1に最 初にして而も食も船坂的なるものとなる。.然るに既に見た如く、AがAとして自らの明噺性を確立するためには AはAであることを、そしてまたAがAとして自ら▼の判明性を接待するためにはAは非Aでないことを明確にせ ねぼならぬ1即ちAの存在は同時に非Aの存泰すること忙よつてまた非Aの存在は同時にAの存在することによ って、初めてそれらの明噺性と判明性とが磁ち得られるのである。こ1に放て明かなることは、Aとその矛盾概 念たる非Aとは、自己の存在を確立するために相互に他のもの1同時的存在を必要とすること、即ち両者が相互 に他のものゝ存在を有つことなしにはAも非Aも決してその存在性を確立せられることなく、随ってその間の矛 盾踊係も成立するに由ないといふことである。かくて、すべて或もの1布衣するためには、必すそれに矛眉する ものし存在を不可故に必要とするのである。即ち﹁Aは弗Aでなとの命題は、只A概念と非A概念との矛盾関係 を嘉したどけの町のであつて、それら・が存在するために互に他を必要とすることを示したものではない。布衣論 酪立坊では飼求だAと非Aとは同時に布衣し得ぬかも知れぬが、より一骨事態そのものに肉迫せる、香な寄熊を

(31)

抄ものに即せる即存在的立場では、存在そのものゝ存在性として、Aと非Aとが必ず同時に存在せねばならぬの

である。かくて矛盾すかものは存在し得ぬといふことを表現するライブーーツツ的矛盾律は、正さしく全く逆の意

味を有つことにょつて、即ち矛盾的関係に於て存在せぬものはすべて存在し得ないといふ意味を有つことによつ

で初めて眞理性を有つものとなり、こ1に所謂矛盾律がへー、ゲル的解繹の意味に代へられねばならぬことの理が

明かとなるのである。

既に述べた如く、アリスエア、レスが・ハルメェデス的であつたとせぼ、ヘーゲルは人も知る如く、ヘラクレイト

ス的であつたといへるであらう。ヘーゲルの論理螢の中には彼自らの骨白が示す如く、ヘラクレイトスの殆どす

べての言葉が採り入れられてゐるとさへもいはれる。﹁それは存在するか或は布衣せぎるかである﹂といふパルメ

ェデスの立場に於ては、存在すると紆時に存在せぎることは不可能であり、矛盾するものは如何なる意味でも存

在し得ぬものであつた。然るに﹁我カは同∵の流れに下り立ちて而も下り立つことがない。我々は存在して而も

存在しないハ守邑2itOS毒p牒m2n−ミ⋮・︶﹂といふことの眞理とせられるへラクレイ主にあつては、存在する

ものは寧ろすべ・て矛盾するものであり、矛盾するものであるが故に活動するものであるとされ駕かくて﹁紳は

笠であちて夜であ少、冬であつて夏であり、哉寧であつて平和であり、過剰であつて飢餓である︵ibid・芦︶﹂。 ﹁蕃患誓如人iトid・琴︶﹂であり1ま琴不死なるものは死すべきもの、死すべきものは不死なるもの、彼等は五に 死によつて生き、生によつて死ぬる︵ibi⋮畳ものともされ驚かく存在の本性は矛盾にあり、而も矛盾す 存在の矛盾性 四〇七

(32)

高松高等商兼拳校開校十周年記念論文集

四〇入

の祭れを超隠すべぐ戦はねばならぬが故に、戟寧、活動、酪暗が存在の存在性となる。即ち′﹁戦は萬物に通有

のものであり、車ひは正義やあり、すべてのものは畢ひと必然とによつて・隼じ︵ibid・芦︶﹂﹁相封立するも▲のは合 −し.雑多落る音響より世にも妙なる調音が生する︵ib訂・∞し﹂とされるのである。 へトゲルの所詮法的立場は園芸1るへラクレイトス的思想を基礎として立てられたものであるが故に、去こ

では存在するものはすべて矛盾をそれ自らの申に包有し、矛眉なきものは却って存在し得ぬものとなる。即ちラ

イプニッツ的矛眉律が重く迎の意味で通行するものとなるのである。かくてライプニッツ的立場では有は同時に

非有即ち撫であることはできなかつたが、ヘーゲルの立場ではその始漁たる純粋有は同時に以て無とされるもの

たるのである入居2−⋮謬c音量㌻rp⋮。畳ischenヨ彗Segenニ二芦︶J﹂かくて彼に於て竺般に﹁純粋有 と純粋無と峰岡ふのものである︵Hegei︰Wi鷲n邑訂妄乙。賢l・出u㌢眉S・軍︶。﹂かく純粋有が直ちに以て無

主され得る所以のものは、それが全く﹁無規忠的であつて畢純なる直接着であると共に純粋なる思想だから

︵穿乳=E・d・p㌢W・冨£﹂であり、存在するといふ規定さへもなし能はぬ基虚なる不定者だからである。謂はゞ

それは顛内容なる純粋着であり、随って有であると同時吃無であり、無にして有、有にして無たる自己矛眉着でか

る。かくてヘーゲル・に於ては矛盾のないことではなく、却って矛眉のあることが萬物存在の根本原理となる。′か

ぃる存在の矛盾性計る思想が彼に於て如何に重要な意味を看つものであるかば、その腎記法がこの原理の上にの

み可能■であることを察することによつ七充分明知し得るであらう。ヘラクレイトスに於て萬物が流れ哉ひ争ひ動

(33)

く乙とによつてよく存在者たり得る所以の根墟が、その矛盾するもの1存在といふことにあつた如く﹂ヘーゲル に於ける斯語的運動或は進行の由つて生する根源も正さしくこの矛屑といふことに於て存してゐたので.ある。矛 盾は彼に放ては嘗に一切の運動、並びに生成の源泉であり、\﹁硯資に於ける州切の運動、山切の生命、一切の活 動の療群である︵詳ge−⋮声d・廿㌢華冨︼︸N壷tエ。﹂即ちすべてのものは自己自身の中に矛盾を有つ限りに於七 のみよく運動することができ、衝動と活動とを有つことができる。かくて菅通山厳に正1反1合、或は措定−反 糟衰1療合、または有−無1成、或はまた即自的存在十封自的布衣−即且封自的存在など1いふ三股路線の形式 に於て理解せられる彼の有名なる明澄法も、正さしくこの正で率ると共に反であり、有であると同時に無である といふ存在そのもの ー 彼た於ては飴りに思堺的であつたではないかと考へられはするが ー の矛盾性にその漁 泉針たは原理を有つものたるのである。これ存在の矛盾性を特に明かに主張せんとする我々の立場がライブ一一シ ツからヘーゲルに移らねぼならぬとされる所以である。 併し、さればとて我々は勿論﹁Aの存在のため.には非Aを要し、非Aの存在のためにはAを要する﹂といふ以上の 我々の論結が直ちにそのま1ヘーゲル的であるといふのではない。ヘーゲルに於ける矛盾者蜂恐らく我々が今ま で述べ釆つね如き単なるAと非Aとの封意といふ如きものではないであらうぅ故に於て摘発の自己矛屑とは、指 定の概念的金牌性とその賛在的仙南性との問の関係▼に於て存してゐた。即ちその矛眉せは﹁AはAでありながら 同時に非Aである﹂、といふ如き論理的判立的矛盾ではなくして、寧ろAと非Aとの綜合たる灸慣性せしてのもと 存在の矛盾性 四〇九

(34)

四山○ 高凝議等商染拳校開校十周年記念論文集 その部分性としてのAとの間に矛盾と解されるのである。かくてヘーゲルの矛眉は全館封部分の関係と解される が俄に、それは督然紋如︵ぎn鼠︶の概念と山致し、またその矛盾は包含的矛盾︵impliNie琵尋id慧p⊇。F︶と呼ぼ れるむのである。何故ならば部会性は粂櫨性の快けたるものと見られ、またそれは金慣性に包括されてゐ㌃もの とも見られるからである。かくて彼に於ては例へば畢なる育と非常との封宜の如きは眞饗の矛眉関係を成立せし めるものではなく︵He駕l∴戸dけ苫・W・如こ?︶、虞の矛眉は寧ろ育と非育との統一たる全慣性と育との間に存在 するものである。 併し、ヘーゲルのか1る包含的矛眉の思想は、Aと非Aとの間の封立切矛盾︵讐gen登註註撃尋峯温写邑︶関係 を謎めんとする我々の以上の考へカに決して矛盾するものではないり眉、それは寧ろ我々の立場を一隊挟め且つ 明かならしめるため笹役立つものである。何故ならば、我々の立場は、これから明かになるであらう如く、封意 的矛盾に即して而もその基礎の上に包含的矛盾をも認め、それをも明かならしめんとするにあるからである。即 ち我々の立場は革匿包含的矛盾或は対立的矛眉のみではなく、寧ろこの二つの矛盾を両者相即するものとして取 扱ひ、以で存在そのものゝ矛眉性を明かならしめんとするにあるのである。併しながら、かくいへぼとて我々は 勿論へノーゲルの感想を我々の思想の〓鱒分として考へ、へ′−ゲル以上の新しい領域を開拓し得たもの1如く自ら を膠するものではない。何故ならばヘーゲルに於てもやはり包含的矛眉が同時に反省によつて封立的矛眉たるこ とができ、′結局矛盾政包括的であると共に封立的であると解し得られるからである。唯併し、我々がヘーゲルの

(35)

立場以上濫何ものかを求めてゐるものがあるとすればそれは、彼に於ける矛眉律は即布衣的であるよりも寧ろ即

精細的であると思はれるが故に、眞に存在そのものに即した存在性としての矛眉性を解明し得るためには、彼の

立場に今少し客観的方面舵尊重するの立場を導入し来る必要があるではないかといふ。とである。彼の矛盾が即

存在的であ乱よりも寧ろより多く即精締約即ち観念的であるといふことは、彼が封立的矛盾よりも包含的矛盾を

党づ最初に考へ、それよれ謂腋ゞ分析的に封立的矛盾を考へ出したと解されることに於て明かであらう。何故な

らば包含的矛盾は唯精紳の領域に於てのみ許容されるものだからであるじそれ故に彼の所詮法は布衣そのものゝ

堺謹的踊係の解明よりも寧ろ結局精油現象の、即ち意識過程の、謂はゞ思料的所詮法であるともいひ得るであら

うJ勿論﹁理性的なるものは硯蜜的であり、現質的なるものは理性的である﹂ことをその根本原理として掲持する

彼の立琴に於て腋、姦在はロゴスであり、ロ㍉コスは精神であるが故に、存在は結局精神であり、精紳と存在とは

同∵のものであることは勿論であるが、併し精紳的なるものも、少くともそれが存在者として存在的なものであ

るためには、必ず党づフツセール的意味に於ける領域的布衣に於てそれに底礎づけられで存在してゐるものでな

けれぼならす、随ってそれは、何等か精紳以上の或る存療的なるものによつて土基づけられて存在せねばならぬ

ものである。即ち精神は或る垂豊的なる一存凝着たるもの1申にそれに於て存するところの坐を得てゐなけれぼ

ならぬ。蛸紳の堺語法はあくまでも動的であり、活動的であり、またかくあることのみで充分であるであらう

が、﹀それが同時に布衣そのものゝ所詮放であるためには、その動が寄ら静の中に於てのみ布癒し得、勤も静中の

存在の矛盾性

参照

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