弘前大学教養部 「文化紀要」第31号,1990年
相 良 氏 法 度 十 八 条 の 世 界
目次
はじめに
一丁相良氏法度つ十八条の研究史1「公界=もう一つの公」説の成立
2十八条解釈をめぐる二学説の対立
3理非聴断権の放棄II七条の解釈
4「公界」の実体論と第三の学説二﹃相良氏法度Jl十八条の世界
1日欧の裁判文化比較
2「公界論定」と大名法廷イ「大名法廷」登場の理由
ロ「公界論定」以後の問題3コトアゲのタブー
4コトアゲと「外部」 安野異幸
弘前大学教養部 「文化紀要」第31号,1990年
はじめに
本稿は﹃相良氏法度﹄第十八条に関する考察である。
この法令はその内部に「公界」という言葉を含み'「公界」を論ずる人が必ず問題にする史料として'現代の中世
史家には有名なものである。まず問題の﹃相良氏法度﹄十八条の全文を掲げる。
一諸沙汰之事'老若役人え申出侯以後'於公界論定あらは'申出侯ずる人道理也とも非義に可行。況無理之由へ
公界の批判有といへ共'一身を可失之由'申乱老あり。至妾'自然有慮外之儀老'為道理老不運の死ありといふ
とも'彼非義たる者の所帯を取て'道理の子孫に与べし。所領なか覧者は'妻子等いたるまで可絶。よくく分
別有べし。殊更其あつての所へ行'又は中途辺にても'惣而面に時宜をいふべからざる事。
第一章では研究史の整理を試みたい。この法令に閑し議論を述べた人名を順にあげると'笠松宏至'勝俣鋲夫'石
母田正'大山喬平へ服部英雄'網野善彦'石井紫郎'安良城盛昭等々となり'これら.は皆現代の中世史学を代表する
人々である。第1節では'この法令の最初の論者・笠松の議論を受け止めた勝俣以下の研究者たちの内面の世界・想
像力の世界を問題としたい。もとより'歴史学の研究者であれば'当然'実証的な方法で史料に迫っていったに違い
ない。しかし客観的な史料に対時すむ際の'研究者の主体の側の問題意識や想像力は'それ自身一つの歴史の産物な
のである。
ところで笠松の議論が﹃相良氏法度﹄十八条の解釈にあったのに比べ'勝俣の議論の中心はむしろ「公界」の実体
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にあった。それゆえ笠松・勝俣以後の論争史を整理する視角として'①笠松の条文解釈を出発点とLt直接当該条文
の解釈と密接な関係を持つ議論と'②勝俣批判として展開された「公界」の実体論の二つに分けて研究史を整理した
い。それゆえ次の第2節で'①の十八条の解釈史を述べていきたい。また笠松氏によって打建てられた(権力から区
別されたもう一つの公)としての「公界」の概念は'﹃相良氏法度﹄第七条の分析の結果から導き出されたものであ
ることから'第3節では七条の分析を試み'この条文の解釈を再検討したい。第4節では②の「公界」の実体論に関
する研究史を振り返りつつ'笠松・石母田の議論の再評価を試みたい。
次の第二章ではこの法令の解釈・分析を試み'この法令の世界を論じたい。特にここでは'この法令の中心が「況」
以降にあることを考慮して'「況」以降の分析に重点を置きたい。「況」以降の部分が問題としている事柄の中心は'
「一身を失うべし」とコトアゲして'相手を呪う言葉を吐‑ことにある。それゆえ第一に'これとゲルマン法の世界
におけるフェ‑デとの比較を試みたい。次に'日本の伝統的な社会にあっては'タブー視され'忌避されていたコト
アゲについて論じたい。
一﹃相良氏法度﹄十八集の研究史
‑「公界=もう一つの公」説の成立
﹃相良氏法度﹄十八条に関する研究史を振り返ったとき、まず最初に取りあげるべきものに'笠松宏至の論文「中捌世在地裁判権の一考察」がある。この論文により'初めて当法令が「公界」文言を記した史料として注目されるに
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至った。笠松はここで'同じ‑﹃相良氏法度﹄七条の分析の結果から'この「公界」を相良氏の法廷に先立って存在
する「其所衆」の「談合」とした。こうして「公界」は相良氏権力とは区別された(もう一つの公)として日本中世
史学界に登場したのである。・.;・次にあげるべきは'勝俣鋲夫の論文「相良氏法度の一考察」である。勝俣はここで'笠松の(「公界」とは相良氏
権力とは区別された「所衆談合」の意)を受け継ぎ'また新史料﹃八代日記﹄の分析の結果から'この「公界」を相
良氏の支配下にある三郡の(郡中惣)と再定義した。さらにこの「公界」は'訴訟裁判における第一次裁判権や'主
君の家督の決定・戦争の開始等々について発議権を持つとした。当然'この(郡中惣)は相良氏権力から独立した存
在である。
このように互いに内的な関連を持つ笠松・勝俣両氏の論文は'共に同じ年の一九六七年に'同じ論文集・宝月圭吾
先生還暦記念全編﹃日本社会経済史研究中世編﹄に収められて同時に発表された。それゆえ「公界」論はいわば「笠松・勝俣学説」として学界に登場したのである.しかし厳密に考えれば'後述するように'笠松の述べたことと
勝俣の笠松理解との間には多少の開きがあると思われる。
それはともあれ'この(権力から区別されたもう一つの公)という「公界」の概念が'日本中世史学界に与えた衝
撃は非常に大きなものがあった。例えば一九七二年に'石母田正は﹃中世政治社会思想上﹄の解説論文「戦国家法‑■‑について」、の中で'勝俣の研究を要約・紹介しっつ﹃相良氏法度﹄を解説した際'「︽公界︾‑所衆談合的な︽公︾
が'中世に存在したということは'日本思想上'忘れてはならない事実である」と強調したことからも窺うことがで
きる。
今ここで'この衝撃とは何であったのかを改めて考察したい。そのためには実証史家・笠松の議論を高‑評価した
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のが'むしろマルクス主義史家の石母田正や'網野善彦であることに注目すべきであろう。結論を先に言えば'石母
田や網野たちを襲った「衝撃」の内実とは'マルクス・レーニン主義'中でも特にレ‑ニソ主義の対象となるべき存
在が'日本中世史学において実証されたとすることにあったと私は思うのである。いささか唐突と思われるこの結論
になぜ導かれることになるのか'その説明を'網野の議論を検討することで果して行きたい。一‑現在「公界」に関する議論はもっぱら網野が引き受け'著者﹃無縁・公界・楽﹄.に引き続き'増補版﹃無縁・公界・いI・楽﹄の補注や論文「﹃公界﹄と公界寺」'二宮宏之との対談「歴史叙述の方法j.等々において'新たな用例の紹介や
(「公界」とは何か)がさらに展開されている。ここで網野は「公界」の「公」を八日本社会の中から生みだされた
人民的な「公」の萌芽)と述べて'その意義を高‑評価している。
つまり網野は「公」には「人民的なもの」と「公権力のもの」の二つがあるとの前提の上で'この「公界」を︽公
儀︾を称する「上からの公」「国家の公」と対立的なもの'それゆえ「下からの公」「人民的な公」と理解しているの
である。先に引用した石母田の言葉も'この網野と同じ考えに立っているとみなすことが許されよう。しかしこの網
野の議論は'歴史学の実証的な研究の成果に基づ‑議論ではな‑'むしろ二十世紀の構造を決定したロシア革命の思
想・レーニンの思想に基づ‑議論なのである。
なぜなら'二十世紀の世界秩序を決定したレーニン主義とは'無階級社会・共産主義社会・「国家の死滅」等々を理IJ想として掲げながら'現実には社会の外部に立ち'人々に対して目的意識性を外部注入する「牧人1司祭権カーと
して'ポルシェビイキ党が人々の前面にそびえ立つものであった。一方では「権力の否定」を掲げながら'他方'社
会主義・共産主義を目指す特殊な権力として人々の前にそびえ立つ矛盾'しかも自らの内に「権力の要素」を持つこ
とに無自覚であり'それゆえ逆におぞましいほどに権力主義的な性格のもの'それがレーニン主義である。
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それゆえ網野の言う「下からの公」の観念は'レーニン主義が自らの内的矛盾のゆえに必然的に生み出す「二十世
紀の神話」の一つである。現実政治の中でこの「下からの公」の議論を考えると'これはポルシェビイキ党による指
導を受け'目的意識性の外部注入の対象となるべきもので'レーニン主義に最も好都合な存在なことは明らかであろ
う。つまり右母田や網野たちを襲った「衝撃」の内実は'レーニン主義の対象となるべき存在が日本中世史学におい
て実証されたとすることにあったのである。
網野は'先の文に続けて「人民的な︽公︾が自己を貫徹することな‑︽公儀︾を称する︽公権力︾にとりこまれて
い‑」と述べている。しかしなぜか氏は'戦国末・近世初頭の歴史の中に失われた可能性や「萌芽」を探ることにの
み学問的な情熱を傾け'「なぜ︽公儀︾を称する︽公権力︾にとりこまれてい‑のか」の問題にはあまり重きを置い
ていない。ここには'実証史家としての網野ではな‑'むしろ思想家・イデオローグとしての氏の姿がある。
ところで一方、笠松は前述の論文「中世在地裁判権の一考察」の結論部分で'「中世における各種裁判権の重層
関係は'常に上部権力からの疎外と委任'下部権力における現実的な管轄によって結ばれていた」と述べ'「公界の
沙汰」を「上部権力からの疎外と委任」の一つに数え上げている。豊松・勝俣学説という形をとったときの「公界」
論では'確かに上部権力からの独立性・自立性が強調されるが'「上部権力からの疎外と委任」である限り'その独
立性・自立性は上部権力の許容する範囲内にあったと見るのが素直な理解であろう。
それゆえ'笠松の議論に注目する限り'「公界」論は勝俣・網野等々のように相良氏権力と対立的な「惣・一撲」
の方向に進むべきものとは直ちに断言できず'別の展開の可能性も否定できないと思うのである。
笠松がこの論文で明らかにしたことは'「売券」に登場する「公方」の分析を通じて「公方はけっして将軍や天皇
にかぎられていたのではな‑'上は大荘園領主から下は在地の地頭領主にいたるまで'あらゆる種類の地域的'ある