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苑'マル9サス
傳 研 究
南亮
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(はしがき)私は豫てから自分の筆で一度マルサス傳を書いてみたいと考へてゐたが︑つひ機會がなくて今Hに至つたのである︒こエに爽表するものは近く完成すべき一著﹃マルサス﹄の巻頭に置かうとする原稿の一部であるo敢へて研究と名
付くべき性質の堅苦しいものではないが︑資料その他の關係から恐らく私がこの國の中にあつて書きうる最上のものであら
う︒實際私は丈末に一括して掲げた資料の中比較的古いものは殆んどすべて東京商大︑慶慮大墨及び東北帝大の各圏書館を
騙けめぐつて漸く披讃するを得たのである︒およそ學者の生ひ立ちなり︑性格や生涯の事歴なりが︑その入の⁝學説や思想を
理解するのに大切であることは誰れもが承知してゐるが︑わが人口學者マルサスについてはこれは特別にさうなのである︒
﹁アダム・スミスや他の論者はその誤謬を知識上の不確實に員うてゐるが︑マルサスはその多くを彼れの優しい心に買うて
ゐる﹂とはジエームス・ボナーの言であつたoマルサスを全的に理解するためには︑その﹁優しい心の﹂由來をも探らねば
ならぬわけである︒かくて私のマルサス傳は十五︑六世紀の昔に遡つてのマルサス家の起源から始まるのであるが︑こエで
は紙藪の關係があつてその全部を獲表することが出來ない︒從ってこエでは父ダ為工.ル以前のマルサス家の蔀分と︑終りの
方では彼れの交友關係︑死︑及び子孫を取扱つた部分と︑さらに若干の回想を認めた部分との三節を割愛することにした︒
術ほ本稿は︼つの纏まつた著作の一部分となるべきものであ・oから績く諸章への關聯を豫想した記述も所々にあるが︑それ
らはす"へて﹃マルサス﹄が刊行きれてからゆつくり讃んで頂きたいと思つてゐる︒とりあへずこれを私のマルサス傳の一餉
として譲者に提供する次第である︒
マルサス債酵研究(南)二五
甲
戸●
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父ダ昌エル 二六多くのマルサス傳記者(ペイン︑ボナi︑スチブン︑ドライスデール︑ケインズ等々)の異ロ同昔に傳へる
ところでは︑マルサスの父ダニエルは少しく風攣りな人物であつた︒彼は一七四七年(+七歳)の復活祭に
オックスフォードのクィーンス・カレッヂに入學してそこで大學教育を受けたが︑學位をとつては卒業しなか
つた︒彼は大の族行好きで︑イギリス本國の各地だけではなく欧洲大陸をも遊歴した︒そして結局ー父祀ρ遺
産に基いて1イギリスの一郷紳(8§賃団鵬︒琶︒ヨ彗)としての生活をはじめ︑雫静な知的趣味と交友とを樂し
みながら匿名で若干の作品を書いたりして僅かに野心を慰めてゐた︒彼は何よりも閑静な生活を愛した︒彼は
規則的に運動もし︑猟にも出かけた︒彼れの知的趣味は特別に植物學に向けられ︑植物標本をも作つた︒彼は
ギリシャ語︑ラテン語︑そして多分ドイッ語をも學んでゐた︒ゲーテの﹃若きウェルテルの悲しみ﹄(}七七
四年)の英課は彼れの手に成つたものど傳へられた程である︒それは事實疑はしいとしても︑彼は多分ジェラ
ーディンの﹃風景論﹄(一七八三年)の酬課者であつた︒わがマルサスは後年(一八〇〇年二月)マンスー‑'・
マガジン誌上において亡父ダ昌エルの立場を辮護して︑﹁父は軍なる翻課者たるべく饒りに猫創的であつた﹂
旨を述べた(ボナー)︒しかし少くとも﹃風景論﹄の翻⁝課だけは疑ぴがない如くであつて︑ケインズは﹁マル
サス自身の文庫中で︑該書の﹁部に書き込まれた註記から斯く見る﹂(﹃評傳集﹄)と記してゐる︒
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' 父ダニエルの幸幅なる結婚は一七五二年(二十三歳)の五月六日に學げられた︒ペインの﹃マルサス家歴集
誌﹄の記述によると新婦は新郎よりも三つ年下で︑ジョージ一世及び二世に仕へた宮廷藥剤師トーマス・グレ
アムを祀父としチェルシー病院のダニエル・グレアムを父とするヘンリエッタ・カザリ'ン(=①︼口H一6侍θ潤()mけ70H一昌)
嬢であつた︒彼等の新家庭にはやがて二年後長男シドナム(︒︒琶窪冨8昌q劇1一c︒卜︒一)が生れる︒しかし次男の
ロバート︑わがマルサスを産む前には︑爾親はこの人物に最もふさはしい新邸宅を構へて置かねばならなかつ
た︒すなはち一七五九年︑父グニエルはサリー州ドーキングの附近に︑チャートゲート農場(O訂亭竪8司母ヨ)
といふ名で知られてゐた小さな︑立派な邸宅を購入した︒そしてこれに﹁ルッカリ蕪﹂︑甫冨因︒︒冨曙.︑とい
ふ名を與へた︒そとには樹木の生ぴ茂つた森もあり︑清水の流れる小川もあつて︑あらゆる自然の清楚な美し
さが具はつてゐた︒しかしわが待たれたる人物は容易に生れて來なかつた︒小鳥は幾度びかその森に塒をかま
へまた幾度びかその雛鳥は嚢つて行つた︒かくてつひにーこxに居を構へてから七年目‑一七六六年の二月十
三日に待たれたる次男ロ︒ハートは生れたのである︒時に父三十六歳︑母三十三歳であつた︒(﹁ルッカリ蕪﹂は
只わがロバートを生むための場所であつた如く︑その任務が終つて二年の後父ダ昌エルはこれを費却して同州
内のオールベリ(≧げ霞k)に居を輻じた︒)
梼この生日には注意して欲しいo多くのマルサス傳には混齪があるoこの混齪は大盟三つの系統に分類することが出來るo第
一は﹁二月十四日﹂とするものでボナーの﹃マルサスと彼れ分業績﹄を始めとし︑マイヤー﹃會話僻典﹄(}九〇八年版第十
マルサス億阿研究(南)︑一一・七 亀
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二八
二巻)︑﹃プロツクハウス﹄縮刷版︑セイ・シエイレエ共編﹃経濟⁝學新僻典﹄(一鳶○○年版)等がそれである︒第二はコ一月
十七日﹂とするもので︑スチブン︑リi共編﹃國風傳記僻典﹄(一九二二年版第・十二巻)︑ハアムズワース﹃萬有百科僻典﹄
(第八巻)ゆバトリック︑グルウム共編﹃チエンバー傳記僻典﹄︑エルスター編﹃⁝國民縄濟僻典﹄(第四版第二巻等々である︒
さらに第三は﹁二月二十七日﹂とするもので例へばドルン鐸﹃入口原理論﹄(第・二版)へのヴエンチヒの添丈はさうなつて
ゐる︒全く驚いたことである︒私は在來︑この中の第一︑即ち﹁二刀十四日﹂が正しいものと思つてゐたo何故ならこれに
はマルサスの墓碑銘に記された生旧といふ讃擦があるから︒他の二っのB附には根擦がない︒しかるに近年に至つてこの墓
碑銘に記された生日が疑はしいといふ事實が傳へ出されたのである︒即ち︑マルサス生誕當噂のウオツトン(1ノ.︒ぎ=)教慨の
登録簿によつて新たに﹁二月十三日﹂と確かめたのはケインズの功績である︒その﹃評傳集﹄九九頁を見よ︒私はこれに從
ふことにしてゐるo
しかしながら吾々はまだ生誕の地﹁ルッカリ荘﹂に止まつてゐなければならぬ︒赤ん坊が生れて三週間目の
一七六六年三月九日に︑早くも大きな出來事が生じた︒この日二人のしとやかな︑しかし偉大なる敏母が1ジヤ
ン・ジャク・ルソー(一①粒昌旨恥oρζ$閃o錫︒・︒・o粒⊆Hコトっー↑刈刈Q◎)とデヴィツド・ヒューム(︼)9︿冠==ヨ①目刈H一ーH"司①)
とがi一緒に﹁ルッカリ荘﹂を訪つれたのである︒ケインズの筆・致に徹ふなちば︑彼等はおそらく︑この赤ん
坊に愛撫のキスを與へて檬々な知的贈り物を譲り渡したことであらう︒父ダニエルはヒュームの友人であつた
ばかりでなく︑またルソーの︑熱烈なるとは言はないが︑心からの崇拝者であつた︒ルソーがはじめて渡英し
て來たとき︑ヒェームはサリーで︑ダニエル・マルサスの身近かで佳むことを奨めた︒ダ一一エルはその面倒を
見ると言つてゐたのである︒ルソーは三月八日にそこを槍分したが︑後で噺はつた︒二週聞の後ルソーはダービ
叩
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瞥 シアのウットン(≦︑oo穽§ーこれは前出の≦98昌とは異なる)で惨めなる寄寓をはじめた︒彼はそこで﹃⁝戯
悔録﹄の稿を起したが︑塞い︑退窟な︑そして淋しい場所であつた︒やがて数週聞の中に︑その時すでに牛ば
狂齪してゐたルゾーはヒュームとの喧嘩をはじめたのである︒これは無論ルソーが悪かつた︒最初からダニエ
ルの招待通りにしてゐたら二人の偉大なる﹁⁝敏母﹂の喧嘩は起らすに濟んだであらう︒}方︑ダニエルとの間
は良かつた︒一七六四年の春モーチエに初めて訪問して以來︑ダニエルはルソーを崇鐸し︑ルソーはまた懇切
.・!で友情的であつた︒
一七六八年頃(マルサスニ歳)父ダニエルは︑ルソーのために植物學の文献を蒐集するのに苦陣労してゐ為︒
ルソーは一七七一年附の﹃植物學要義についての一婦人への手紙﹄を出して二年の後︑その文庫をダ昌エル
に若干の植物標本を贈物に添へて買取つて貰つた︒この交庫をダニエルはその遺言でーペインによるとこの遺
言は﹁七七九年一月四日附ですなはち彼れの死の二十N年前に書かれてゐたー自分の母の姪に當るジェーン・
ダルトン夫人(︼≦械q︒・臼彗︒U亀8旨)に與へた︒﹁七七九年といへばルソーの死の翌年であるが︑そのとき︑わ
がロバートはもう十三歳に成長してゐた︒父は何故にこのルソーの署名入りの文庫をわがロバートに與へなか
つたのであらうか︒ロバートは︑しかし危いところで︑父譲りの植物學に囚はれないで濟むことになつた︒ケ
インズによると︑問題の書籍の中二冊が今術︑オールペリのダルトン・ヒルにあるマルサス家文庵(ロバート・
マルサス氏現有)に淺つてゐるとのことである︒このや執・に友情の厚かつた父ダニエルがルソーの遺言執行人
マルサス傳研究ハ南)◎一一九