保瞼學説の登展とその階級性 六六
保 瞼 學 説 の 襲 展 と そ の 階 級 性
ブルヂョア保瞼學批剣
小林北
郎
保瞼の本質は︑如何に理解され批判されて來たか︒そして批判され理解されてゐるか︒
歴史的にかそれとも超歴史的にか︒形而上學的にか或は辮誰法的にか︒
保瞼そのものは飛躍しやうとしてゐる︒保瞼學も飛躍しなければならない︒と云ふ意味は︒
一︑
保瞼の本質に就いては︑從來多くの學者により︑種々に分析され様々の學読が淺されてゐる︒私は今それ等
の諸學論を軍に年代順に羅列するのではなしに︑それ等を一つの獲展過程として理解してみたいと思ふのであ
る︒先人の残した學読が︑輩にその學者の欠黙としてのみ把握されるのでなく︑保瞼制度の本質への全き理解
への順次的接近として︑考へて見度いのである︒と同時にそれ等の學読は︑保瞼の本質への順次的接近である
にはあつたのだが︑從來の保瞼學者の殆んどすべてが︑意識的にか無意識的にか︑ブルヂョア階級の見地に立
脚してゐた爲めに︑途に歴史的範薩⁝としての保瞼の本質を暴露することが出來なかつたことを蓮べてみやうと
思ふ︒
保険制度の本質を如何に把握するかと云ふことは︑保瞼制度自髄の獲展分化によつて規定されてゐる許りで
はなく︑當時の與へられた杜會事情とも無關係ではあり得ない︒更に肚會的條件と保瞼制度の獲展分化とが又
相互的關聯の中に存在してゐる︒
與へられた客槻的條件は人闇意識に反映して來る︒それは人聞的實践を通して︑新しい保瞼の誕生となり獲
展となる︒そして今度は再びそれが人聞意識に入り込み薪しい保瞼學読を生ましめるのだと思ふ︒客観的條件
ー人聞意識ー實践としての薪保瞼の成立ー薪學論の成立これが保瞼制度機展の實相でありそして叉保瞼
學読獲展の過程である︒
二︑損害読の登展と批剣
①損害填補論︒︒3巴窪ω牙爵琶㈹︒・穿8瀞
一八〇八年︒︒曽目き=≦舘q・ず邑(マーシヤル)が︑
保隙學説の登展とその階級性 一八五七年彰P]≦鼠巳(マシウス)がそれぞれ英國︑濁逸に於
六七
保陰畢観の機展とその階級性山ハ八
いて唱導したのであつた︒保瞼學読の獲端とも見らるべきものと思ふ︒では此の読は︑保瞼の本質を如何に理
解したか︒小島博士の引用を借りれば.︑膨鶏H§8尻騨8具冨9宅冨器ξ︒蕊喝錠蔓・写8昌ω=︒同軸ユ︒昌︒{9︒︒昌巳9什︒告
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ご)と云ふのである︒即ち保険の本質は損害填補契約たるにあると断するのである︒今日現實の保瞼の本質的
概念としては︑期の如き読は全く不完全なものであることは明かである︒保瞼の本質は決して契約ではない︒
契約は保瞼本質の個別的部分的表現形態たるに過ぎない︒では損害填補設は全くのナンセンスであつたか︒そ
うではない︒保瞼制度は當時先づ何よりも先に契約關係としての現象形態をとつた︒個々の契約の綜合として
保険團騰は観念され保瞼制度は理解される︒保瞼制度が科學的研究の封象としてとり上げられた第一の段階に
於いては︑斯の如き現象形態に力黙を置いたのは當然であつた︒保瞼を契約なりと観念せる此の読は︑斯の如
き段階に於ける必然的産物であつた︒だから︑小島博士が﹁マーシヤル・マシウスの時代には︑未だ張制保瞼
の制度なく︑保瞼は主として契約關係によりて行はれたのであるから︑保瞼は敦れも私法關係のものであつ
て︑公法關係の保瞼なるものはなかつた︒從つて當時の彼等が保瞼と保瞼契約とを混同したのは︑強いて深く
之を餐むるに及ぶまい﹂(註三)と云はれたのは全く正當である︒
保瞼の本質的概念として損害をもち出す考へ方は︑それ自磯決して間蓮つてゐるのではなかつた︒貨幣維濟
漸く一般化し︑螢利経濟が支配的となるに及び︑偶獲的災厄による経濟的影響は損害に相違なく︑現代的保瞼
の出嚢黙もその物質的根擦も正しくそれに置かれたことは疑ない︑少くも保瞼の主要形態はそれで読明が出來
たのであつた︒だから此の黙から保瞼を読明したのは全く正當だつたと思ふ︒勿論損害の概念からでは︑生命
保瞼のあらゆる場合を設明し得ないことは私も之を認める︒然し生命保瞼の獲蓮分化の程度未だ低かつた當時
の段階では又止むを得ないことではなかつたか︒人間認識は一度に封象の総ての特徴を暴露することは出來な
い︒封象自艦の獲展と從つて人間認識の獲展の低度の段階では︑損害填補読は必然的であつたのだ︒
註一保陰本質論初版一一四‑一一五頁
註二保論陥本瀞貝訟醐初版一一山ハ!一一♪い頁
註三保瞼本質論初版一一八頁
②損害分捲読︒︒畠巴窪q・需昌亀§σQ︒︒昏8瀞.
一八九一年に猫逸の経濟學者﹀自︒賦竃茜琴H(ワグナー)が主張し初めた読である︒即ち曰く.ぐ侮誘酵︒歪轟遷
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保瞼學説の機展とその階級性六九
保陰學説の襲展とその階級性七〇
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鼠山2窪亀①﹃Q匡臼①Oo守7同酔o年"普g臥o窪≦一H匡肖90ぎqぽ●(註)
保瞼制度自膣の普及と獲展︑並びにそれが観察の繰り返しは︑保瞼は軍に契約當事者二人切りの關係丈けで
はないことが理解されて來た︒ワグナーの損害分憺読は斯の如き認識の段階を代表するものである︒即ち彼
は︑保瞼は損害を多数の場合に分割することによつて之を填補する所の経濟上の制度であると云ふ風に理解し
たのであつた︒
註保瞼本質論一二ニー=一三頁
③危瞼韓嫁説O・貯穿︒︒昏8Hけ
此の論は一八九七年猫逸の輕濟學者国轟窪く︒ロ審田箸︒︿酵(フィリッポヰッチ)の提唱した庭のものである︒
然し之は結局に於いて前述の損害分澹読と何等選ぶ庭がない︒只損害と云ふ言葉の代りに︑﹁損害を被るの可
能﹂叉は﹁損害を被るの虞れ﹂と云ふ意昧をもつものとしての危瞼なる文字を使用したに止るのである︒だか
ら私は損害分捲読から危瞼韓嫁論までに一つの獲展があつたものとは認めないのである︒
㈲人格保瞼読
一九一〇年冒の鳳囚︒匡巽(コーラー)と去ふ人が此の読を唱へ出して來た︒私は此の読を非常な興味を以てみ
る︒先づコーラーは如何なることを主張したか︒
﹃人保瞼の保瞼たるは︑そが人事上の事件によりて惹き起されたる財産上の損失に封して填補を與ふるが爲
めのみではない︒寧ろか﹄る事件によりて近親を喪ひ︑從つて生存の刺戟も生計の安固もなくなり︑此世に在
るも緊張なく激働なく慰安なきに立ち至りたる際に︑この保瞼が之に封する填補をも併せ與ふるからである︒
故に若し生命保瞼を以て︑輩に人の死亡に因る財産上の損失を填補するに止まるものと見徹さば︑そは唯物主
義者的謬見であらう︒人格の力は財産の獲得以上に出つるものである︒この部分も亦何等かの方法によりて填
補せらるることを要する︒されば保瞼なるものは︑運命が奪ひ去りたる如何なるものの一部をも填補すべき力
あるべきである︒⁝⁝故に人或は生命保瞼と災害保瞼とを︑非損害保瞼といひ︑その他のものを損害保瞼とい
ひて爾者の匝別をなすけれども︑正確に言へば︑生命保瞼と災害保瞼とは人格保瞼であつて︑然るが故にこれ
らの保瞼は財産債格に拘束せらるるものではないのであると見るべきであらう︒﹄(註)
此の読は我が小島博士によつて嘲笑的に批判し去られてゐる︒博士の名批評に接せんとする人は保瞼本質
論︑保瞼學要論等を直接参照せられることを望む︒然しここで私は博士とは異る方面から此の読を考察してみ
度いと思ふのである︒
コーラーが此の説を唱へ初めたのは︑前記のやうに一九一〇年であつた︒一九一〇年と云へば︑一八九一年
には︑後述するヴイヴアンテの技術読が︑尚一八九七年にはゴビーの需要読が共に伊太利に於いて既に提唱さ
れて相當の年月を経過してゐるのである︒然もその一九一〇年にはフプカの経濟生活確保読が現はれてゐるの
保瞼學説の襲展とその階級性七一
保隙學説の機展とその階級性七二
である︒是等の事實は一罷如何なることを意味するのであろうか︒生命保瞼の畿達分化普及につれて︑從來の
損害読は︑實在の保瞼制度の本質を表現するものとしては不完全なものに轄化され終つてゐたことを意味する
のだと思ふ︒損害読は批判された︒そして止揚されなければならなくなつてきた︒コーラーは斯くの如き條件
に直面した︒そして先づ損害読を救ふ爲めには︑生命保瞼制度さへも損害の観念に貫徹されてゐることを改め
て力調しなければならなかつた︒彼はそれを極めて大謄にやつてのけた︒彼の方法は︑事實そのものを忠實に
認識するのではなくて︑事實を彼の頭臓で深刻に面白く㈱馳することであつた︒保瞼學読は彼にあつては宗敏
であつて科學ではなかつたのである︒だから私は︑コーラーの人格保瞼説そのものは︑損害読波落の一歩手前
であると思ふのである︒一歩手前とは︒
私は改めて生命保瞼否認読に移らなければならない︒
註保瞼本質論一七〇1一七一頁
⑤生命保瞼否認読く︒言臨諺旨碧昏8H躍
此の読は︑損害の観念の安當せざる所謂生命保瞼は︑保瞼でないと論蜥し去つたのである︒私はこれを損害
読の絡局であると見る︒
生命保瞼の獲達分化の客観的事實に驚き︑然しその事實をそのまま受取ることを欲しなかつたコーラーは︑
親念的に凡ゆることを損害の襯念で押し通した︒そのとき程損害読が︑端的に自己の無能を暴露したことはな