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―福島県葛尾村の帰還者への聞き取り調査を通して

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(1)

福島原発事故避難者の「帰還」に関する一考察(2)

―福島県葛尾村の帰還者への聞き取り調査を通して

著者 和気 康太, 相澤 京美, 望月 孝裕

雑誌名 明治学院大学社会学部付属研究所研究所年報 =

Bulletin of Institute of Sociology and Social Work, Meiji Gakuin University

巻 50

ページ 49‑65

発行年 2020‑02‑20

その他のタイトル A Consideration on the  Return  of the

Refugee by the Severe Accident of the

Fukushima Nuclear Power Plant(2): Through

Hearing Investigations for the Returners of

Katurao Village in Fukushima Prefecture

URL http://hdl.handle.net/10723/00003851

(2)

はじめに

 2011年3月11日に発災した東日本大震災で は、福島第一原子力発電所(以下、福島原発と 記す)にも大津波が襲来し、全電源を喪失する という、危機的な状況に陥った。そのため、福 島原発では「炉心溶融」 (メルトダウン)が発生 して、原子炉建屋内に水素が充満し、1号機、

3号機、4号機が水素爆発を起こした。また、

その結果、大量の放射性物質が福島県の浜通り を中心に拡散するという、深刻な事態が生じた。

それ以降、福島原発の近隣自治体の地域住民は 避難生活を余儀なくされ、原発事故後8年半が 経った今日でも全国各地に数多くの福島県民が 避難生活を続けている

(1)

 一方、福島原発事故による避難の問題は、新 しい段階に入っていると言える。国(復興庁な ど)はこの間、避難地域の除染作業を行い、避 難指示を段階的に解除してきた。そして、それ に伴って、地域住民の、元の自治体・地域への

「帰還」が始まっている

(2)

 そこで、われわれは社会学部付属研究所の一 般研究プロジェクト「福島原発事故避難者の帰 還について考える(Ⅰ) (Ⅱ)─避難者の生活課題 の分析を通して─」で研究助成を受け、2017年 度と2018年度の2ヵ年に亘って、福島県葛尾村 において現地調査を行ってきた。われわれの研 究プロジェクトでは、福島原発事故避難者が帰 還してきている葛尾村(以下、村と記す)という

「地域」 (コミュニティ)の現況を総合的に分析す るため、地域調査の視点と方法を用いて、行政

(葛尾村役場)や地域団体(葛尾村社会福祉協議 会など)だけでなく、帰還者である地域住民も 調査対象として設定し、現地調査を実施してき た。なお、われわれは、社会福祉の研究者であ るため、地域調査では基本的に「社会福祉」に 視座を限定していることを最初にお断りしてお きたい。

 さて、昨年度、われわれが一般研究プロジェ クト報告として、本年報49号に執筆した論文「福 島原発事故避難者の『帰還』に関する一考察─

福島県葛尾村の復興計画等の分析を通して─」

では、村が策定している復興計画や「かつらお 再生戦略プラン」、あるいは葛尾村社会福祉協 議会(以下、村社協と記す)の「地域福祉活動計 画」などの計画の内容の分析を通して、村の福 祉施策を中心とした各種施策の現状や、今後の 方向性などについて検討を行った。また、それ らを踏まえて、上記の論文では「限界集落」「地 域包括ケアシステム」「地域共生社会」という 3つの鍵概念を通して考察を行った。

 今年度は引き続き、その論考の成果を踏まえ て、われわれが村へ帰還してきた地域住民(以下、

帰村者と記す)を対象として、2018年9月に行っ た聞き取り調査(ヒアリング)の結果をもとに帰村 者の「生活課題」などについて分析し、村への 帰還の意味を考察することを目的としている

(3)

福島原発事故避難者の「帰還」に関する一考察(Ⅱ)

─福島県葛尾村の帰還者への聞き取り調査を通して─

和 気 康 太 ・ 相 澤 京 美 ・ 望 月 孝 裕

(3)

1 葛尾村における生活環境の整備状況─介 護・生活支援サービスを中心にして─

(1) 葛尾村の人口・世帯数及び帰村率

 村の人口は1,410人、世帯数は483世帯である。

(2019年8月現在)2011年3月の東日本大震災の 時には1,567人で、477世帯であったので、人口 は150人程減少したが、世帯数はほぼ横ばいで ある。これは、福島原発事故によって若い世代 が他の自治体へ転出したからであると考えら れる。人口の居住地域の内訳は、①帰還困難区 域が108人(34世帯)、②避難解除区域が1,205人

(408世帯)、③解除後新規転入97人(41世帯)で ある。村は2016年6月に国の避難指示が解除さ れたが、3年以上経った現在でも「野行地区」

は依然、放射線量が高く、「帰還困難区域」に 指定されたままである。

 現在の帰村者数は326人(153世帯)で、帰村率 は27.1%である。また、居住率は31.8%である。

同様に避難者数は987人で、福島県内が926人(20 市町村)、福島県外・海外が61人となっている。

主な避難先は①三春町365人、②郡山市262人、

③田村市159人である。

 2年前の2017年8月現在の帰村率が12.4%

(162人)であったので、この間に帰村率、帰村 者数はほぼ2倍になっている

(4)

2 葛尾村の生活環境の整備状況

(1) 村営住宅の整備

 生活環境の整備としては、まず村営住宅の整 備が上げられる。村営住宅も村が不在であった 期間に老朽化が進んだため、避難指示が解除さ れてから改築・改修され、村民が入居できるよ うになった(写真1) (写真2)。また、村役場の 近くにサービス付高齢者住宅が整備され、在宅 で生活するのが困難な一人暮らし高齢者などが 入居している。ただし、現在は高齢者だけでは なく、若い世代の人も入居できるようになって いる。

(2) 介護保険制度

 現在の村の高齢化率は37.6%で、要介護認定 者数は149人である。2011年3月の東日本大震 災の時の高齢化率は32.0%で、要介護認定者数 は95人であったので、この間に高齢化率は5.6%

増加し、要介護認定率は57%(54人)増加したこ とになる。単純な計算は出来ないものの、要介 護認定率は、高齢化率の伸び率の約10倍である ので、やはり高齢者の多くが仮設住宅に入居し たため、「生活不活発病」で要介護状態になっ たのではないかと考えられる。なお、このよう な影響もあり、村は全国の市区町村で最も高い 保険料(1号被保険者基準額)となっている

(5)

写真1 福島県葛尾村の村営住宅の様子(1) 写真2 福島県葛尾村の村営住宅の様子(2)

(4)

(3) 村社協の福祉サービス 

 高齢者に対する福祉サービスの中核を担って いるのは、村社協である。その実施事業として は、①社協事務局運営事業(地域福祉推進事業・

福祉団体の支援・社会福祉を目的とする調査・

広報等)、②介護保険事業(居宅介護支援事業・

通所介護事業・訪問介護事業)、③地域包括支 援センター運営事業(介護予防支援事業・介護 予防事業・総合相談等)、④応急仮設住宅地域 高齢者等サポートセンター事業(施設管理・総 合相談・地域交流サロン等健康づくり事業等)、

⑤地域コミュニティ復興支援事業(仮設住宅・

借り上げ住宅・復興住宅等)、⑥生活支援サー ビス「おたがいさま」事業(外出支援サービス)、

⑦被災者生活支援事業(1.… 帰村者宅の訪問及 び総合相談事業・安否確認、2.…葛尾村地域福 祉センターみどり荘にて交流サロン&健康教 室、3.…日帰り旅行〔交流・親睦を目的に県内 外の旅行等〕、4.…デイサービス〔週3回・入浴、

機能訓練、レクリエーション等〕)の7つの事業・

活動を行っている。なお、三春町にある村社協 の拠点は、2020年3月に閉所する予定である。

 現在、介護保険制度の生活支援体制整備事 業で3名の地域支えあい推進員(生活支援コー ディネーター)が村社協に配置されている(その 内、1名は三春町の拠点の配属)。村社協は要

介護・要支援を問わず、生きがいデイサービス を行っているが、彼らはその参加者を中心に見 守り活動などを行っている。また、帰村者たち の自主的な活動も支援し、年度末の3月には発 表会を実施して、地域ごとのつながりを「見え る化」している(写真3) (写真4)。

 一方、生活支援相談員の相談件数は減ってい る。しかし、個別の相談には困難ケースが多く なっている。そこで、地域ケア会議、特に「自 立支援型」のケア会議を月1回行い、保健師や 介護支援専門員などの関係者で情報共有すると ともに支援方針を検討している。

 個別の介護サービスでは外出支援が課題に なっている。この事業は、村民の買い物や通院 の際に村民が車を運転して同行するサービスで あるが、その担い手の多くが高齢者であり、免 許自主返納の問題などもあり、現在では担い手 を確保することと、利用希望者とのマッチング が難しくなっている。外出支援サービスが充実 していれば、たとえば三春町の避難者なども本 音では帰りたいようである

(6)

(4) 見守り等サービス

 生活支援サービスにおいて重要な役割を果た すのが、見守りサービスである。福島原発事故 で全村民が避難したあと、村内の治安悪化が懸

写真3 福島県葛尾村の地域支えあい活動の記録(1) 写真4 福島県葛尾村の地域支えあい活動の記録(2)

(5)

念されたため、村(住民生活課)はその年の11月 まで直営で「警邏隊」を組織していた。しかし、

当時、村は会津坂下町に避難していたため、警 邏隊の隊員はそこから村まで通わなければなら なかったこともあり、12月以降は郡山市の人材 派遣会社に業務委託を行った。しかし、村でも 避難指示解除後、帰村者に生活不活発病が数多

く見られたため、村民の健康管理が課題となっ ていた。そこで、別の会社に業務委託し、

図1

図2のようにタブレット端末を使った健康管理

と、①見守りパトロール、②生活支援サービス、

③緊急通報の3つの機能を付加した、新しい事 業を開始している

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図2 福島県葛尾村の生活支援サービスの仕組み 図1 福島県葛尾村のきずなシステムの体制

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3 福島県葛尾村の帰還者の事例調査

(1) 本研究プロジェクトの概要

 福島原発事故の避難者に関する、これまでの 先行研究を踏まえ、本研究プロジェクトでは避 難者の「帰還」を研究テーマとして、福島県葛 尾村の帰村者を事例調査の対象として設定し、

現地調査を行った。

 われわれが、福島原発事故によって全住民の 強制避難を余儀なくされた浪江町、双葉町、大 熊町などの町村のなかから、葛尾村を現地調査 の対象として選定したのは、ひとつはこの村が 福島原発事故以前に少子高齢化と人口減少化が 進む、過疎の中山間地域で、人口が集中する一 部の都市部を除けば、10年後あるいは20年後の、

わが国の「地域社会」を代表するような町村部 であること、換言すれば今後、「消滅」が危惧 される町村部の象徴的な基礎自治体となってい ることである。もうひとつは、上記の町村のな かで、比較的はやくに避難指示が解除され、住 民の帰還が始まっていることである。原発事故 も、時間の経過とともにいくつかの局面が出て くるが、本研究プロジェクトは住民の避難生活 よりも、むしろ帰還後の地域生活に焦点をあて ているので、「事例調査」に適合していると考 えられたからである。

 なお、現地調査の概要は、以下の通りである。

1) 調査目的

 葛尾村の帰村者の抱える生活課題を聞き 取り調査を通して把握するとともに、それ に対する村(行政)及び民間団体(社会福祉 協議会など)の復興政策・計画と、そのも とで実施されている福祉事業・活動などに 関して評価を行う。

2) 調査対象者

 葛尾村の避難者のうち、村へ帰還した人 たち(帰村者)及び村(行政)と民間団体(社

会福祉協議会など)において、帰村者への 福祉支援を担当している職員など。

3) 調査方法

 聞き取り調査によって現地調査を行っ た。 な お、 上 記 の 調 査 対 象 者 に 対 し て は、 半 構 造 化 面 接 法(semi-structured…

interview)で聞き取りを行った。

4) 調査期間

 葛尾村における帰村者への現地調査は、

2018年9月に行った。なお、本調査の補足 調査を2019年8月に実施した。

5) 研究倫理

 葛尾村の帰村者に対しては、聞き取り内 容に関する守秘義務の遵守と、データを使 用する際の事前の通知・承諾などに関する 説明を行い、同意書を得るようにした。な お、帰村者に対する聞き取り調査は、プラ イバシーに関わる部分が多いので、大学の 研究倫理審査(明治学院大学社会学部社会 福祉学科調査・研究倫理審査…SW1905)を 受けて承認を得た。

(2) 帰村者の事例調査

 以下、5人の帰村者の事例について(1)福島 原発事故までの生活歴、 (2)福島原発事故後の 避難状況、 (3)帰村後の生活と今後の展望とい う3つに分けて記述していくことにする。

〈事例1〉

(1) 現在、Aさんは69歳。妻は65歳である。両親 は健在で、父親が93歳、母親が91歳になるが、村 の実家で一緒に住んでいる。子どもは1男3女で、

長男はいわき市の会社で仕事をしている。3人の 娘たちはいずれも結婚して家を出ている。

 Aさんは村で生まれ、小学校と中学校はいずれ も地元の学校を卒業した。中学卒業後、大工に弟

(7)

子入りして、6年間、修行をした。24歳の時、福 島第1原発と第2原発の建設が始まり、村へ戻っ た。村にも作業員の募集があったので、バスで連日、

原発へ行き、仕事をしていた。(下線1)当時、近隣 の浪江町なども含めると、この地域でおそらく50 人くらいは作業員がいたのではないかと思う。結 局、Aさんは、2つの原発が出来上がるまでのプ ロセスをすべて見ることになった。村出身の女性 と結婚してからは15年間、村で電子部品を作る会 社を創業し、経営をしていた。

(2) 3.11の東日本大震災の時は楢葉町の中学校で 仕事をしていた。地震の震度は6以上で、地割れ なども見られた。楢葉町から村へ帰ろうと思った が、地震で途中、橋が崩れていたりしたため、迂 回路を通り、夜遅くに帰村した。娘は当時、双葉 町の老人ホームで働いていたが、避難をして深夜 に村へ帰って来た。

 福島原発事故にはテレビで放映されているのを 見て気づいた。村にも避難指示が出て、村民が村 役場の前に集まり、バスで避難するということで、

Aさんたち家族は自家用車で、バスと一緒に移動 し、福島市のあづま運動公園の体育館に一晩避難 した。当時、Aさんの弟が、東京で仕事をしてい たので、東京へ行き、1ヵ月ほど一緒に住んでいた。

その後、埼玉県の方へ避難をしたが、間借りした アパートの住人たちは本当にやさしい人たちばか りで、いまでも感謝している。

 村の仮設住宅が三春町に順次出来たが、Aさん たちが入居したのは9月で一番遅かった。Aさん は若い時に大工修行をしていたこともあり、仮設 住宅の建てつけが悪く、カビがひどいのが気になっ た。仮設住宅では、家族5人で2棟に住んでいた。

Aさんは震災後、宮城県の仙台市や女川町などで 仮設住宅の建設の仕事をしていた。その仕事が一 段落してからは、会社が大手ゼネコンから除染の 作業を受注していたこともあり、三春町の仮設住

宅から村へ通って来ていた。結局、仮設住宅を出て、

家族で村へ戻って来たのは、避難指示が解除され た6月であった。

(3) 村へ戻って来たのは、Aさんの両親が戻り たいという強い意向があったからである。ただし、

なにか仕事をしなければならないので、はじめに 農業を考えたが、やはり現況では難しいので、「胡 蝶蘭」の栽培と販売を考えて、新たな会社を設立 した。その契機は村にある、たばこの収納場が空 いていたことである。帰村した当時、福島原発事 故の被災地での創業・起業に補助金を出す制度が あり、それを活用した。国に補助金を申請する時 の複雑な手続きは、Aさんの弟が担当してくれた。

胡蝶蘭の栽培は難しく、苗は台湾から輸入し、そ れを空調設備の完備したビニールハウスで栽培し ている。栽培自体は時間と手間のかかる仕事であ るが、現在は幸いにして「復興大臣賞」を受賞し たりして、東京などへも出荷し、会社としての事 業は軌道に乗ってきた。

 今後は農業の再開を考えている。村には広大な 土地があるので、これを活用しないのはもったい ない。あと2年から3年もすれば、なしやぶどう が栽培できるし、ぶどうはうまくいけばワインと して出荷できる。胡蝶蘭もいいが、やはり村は農 業を基幹産業にしないといけない。できれば、農 業に従事してくれる、若い学生さんたちが来てくれ ると村の復興にもつながる。それが、これからの 村の基盤ではないか。他人の真似をしていても駄 目で、自分で考えることが大事だと思う。(下線8)

 Aさんは、性格的には楽天家である。なにをし ても楽しくやってしまう。福島原発事故のあと、

確かに大変ではあったけれども、それでもここま で来れたのは、この性格のおかげだと思っている。

年齢も70歳になるので、病気や介護のことが心配 にならないといえばうそになるが、それでもそう なったらそうなったで前向きに考え、生きていく

(8)

つもりである。最後になるが、いまの胡蝶蘭の会 社は、若い人たちに譲ろうと考えている。若い人 たちががんばってくれれば、必ず村の復興に役立 ててくれると信じている。

〈事例2〉

(1) 現在、Bさんは63歳、妻は62歳である。両親 は健在で、父親、母親ともに85歳になるが、村の 家で一緒に住んでいる。子どもは4人で、2男2 女である。長男は東京で仕事をしているが、他の 3人は福島県内に在住している。4人のうち、2 人は結婚をしていて、孫も2人いる。月に1回はB さんに会いに来る。(下線2)

 Bさんは村で生まれ、小学校と中学校はいずれも 地元の学校を卒業した。高校は双葉郡にある高校 へ行き、卒業後は東京へ出て、専門学校で測量など、

土木関係の専門知識と技術を学んでいた。その後、

東京でしばらく仕事をしたが、25歳の時に村役場 に就職し、60歳で定年になるまで仕事をした。現 在は、村の行政相談員をしている。妻は再雇用され、

村役場で仕事をしている。

(2) 3.11の東日本大震災の時は村役場にいた。そ の時は住民生活課の職員であったが、防災担当で もあったので、福島原発事故が起きた時には村民 の避難を考えなければならなかった。普通電話は 使えず、携帯電話も不安定であったので、防災無 線で、どこに避難するかを相談していた。そのう ち、村役場の前に置いてある放射線検知器のカウ ンターが上がりはじめ、ともかく避難しなければ ということで、村役場でマイクロバスなどを借り 上げ、生活必需品など、備蓄してあったものを一 式もって、福島市のあづま運動公園へいった。そ の頃には双葉町、大熊町、浪江町の住民が逃げて 来ていた。米軍が80キロ圏内は危ないということ で、会津坂下町へ避難することを決めた。それか ら4月半ばまでの1ヵ月は、会津坂下町でホテル

や旅館に村民は分宿し、村役場の仕事をした。

 家族は当時、福島市に娘がいたので、市内のア パートで生活をしていた。Bさんは単身赴任であっ た。三春町に村の仮設住宅が出来たので、そちら へ移ったが、会津坂下町、福島市、三春町と家族 は分散した。避難指示が解除になったので、Bさん と妻と両親の4人で村へ戻って来た。ただ、昔の 家は5年以上も空き家になっていたので、とても 住める状態ではなかった。そこで、新しい家に建 て替えた。

(3) 村へ戻って来たのは村役場の仕事があった からである。しかし、それ以上に村人にはこれま でいろいろとお世話になったので、恩返しの意味 も込めて、みんなで一緒に「村づくり」をしたい という思いがあった。これからのことで言えば、

農業は除染作業が終わり、田畑が整備されて再開 できるようになりつつある。しかし、3年経って も帰村した人が少なく、その多くが60歳代なので、

以前のように農業を村の基幹産業にするのは難し いのではないかと思う。

 以前は村役場で働くかたわら、土曜日と日曜日 は農業をしていた。いまは自分の家の庭で家庭菜 園をしている。農業に取り組むと国(復興庁)から 補助金がもらえるようである。農耕機具も5年以 上経ってしまったので、使いものにならない機具 も多い。しかし、それを購入すると、その費用の 4分の3が補助金で支払える。このようになにも かも「補助金」でいいのかという疑問がある。や がて国からの福島原発事故関連の補助金はなくな るだろう。その時、われわれはどうするかをいま から考えておかなければならないのではないか。

 正直、いまのままならば、長期的には廃村なの かもしれない。ただ、村の歴史だけは残したい。

三春町に復興公営住宅を建設したが、あの土地は 村のものである。したがって、三春町と飛び地合 併するのがいい。復興公営住宅は120世帯あったが、

(9)

家賃補助がなくなったら90世帯になった。あの住 宅は分譲しないので、やがて取り壊すことになる だろう。もったいない気がする。

 村人の家族は、いまでも二重生活、三重生活を 余儀なくされている。世間は、東京電力から賠償 金が入ったのだからそれでいいだろうと言うが、

それは間違っている。正直、賠償金の多寡によっ て村は分断されているように思う。村人も日々の 生活が大変なので仕方がないが、福島原発事故が 起きる前に比べて、みんな自分のことだけを考え るようになったような気がする。(下線3)村は介護 保険料が全国1位で有名になったが、介護保険以 外の生活支援サービスを村民たち自身の力で充実 させないといけない。そうしなければ、帰村者も 増えないのではないか。これからは、村民の意識 も変えていかなければならないと思っている。

〈事例3〉

(1) 現在、Cさんは68歳。妻は67歳である。24歳 の時に結婚し、子どもは3男で、いずれもいまは 独立して、郡山市など、福島県内で生活をしている。

両親は健在で、父親は戦後、この村へ入植し、田 畑を開拓した一人である。

 Cさんは村で生まれ、小学校と中学校は地元の 学校を卒業した。中学卒業後は主に建築関係の仕 事をしてきた。その頃は両親が農業を営んでいた ので、4月から10月までの農繁期は村で農業に従 事し、11月から3月までの農閑期には村の仲間5 人位と東京へ出て、ビルやマンションなどの建築 現場で20歳過ぎまで働いていた。その後、福島第 2原発の建設が始まったので村へ戻り、村の仲間 たちと一緒にマイクロバスで出稼ぎに行った。都 合10年位は、原発で仕事をしたと思う。(下線1)浜 通りの人たちは良い人が多く、仕事は楽しかった。

まさかあの原発で、今回のような大事故が起こる とは思わなかった。原発の仕事が終わったあとは、

郡山市の中学校などで建築関係の仕事をしてきた。

この仕事は、結構きつくて、残業で夜10時頃まで 働いていた。

(2) 3.11の東日本大震災の時は、車で川内町から 大熊町へ向かっていた。地震の規模が大きかった ので、道路がいろいろなところで崩落した土砂で 通れず、しかも10メートルを超える津波が海岸線 に押し寄せたので、海沿いの国道は通れなかった。

結局、旧国道や林道などを通って、夜遅くに友人 3人と一緒に村へ帰った。この頃、すでに浪江町 や大熊町の住民が村の体育館に来ていて、村で炊 き出しをしていた。翌々日は白い防護服を来た人 が村内を歩いていて、これは大変なことになった と思った。3日後の月曜日の夜9時30分に村の防 災無線で、全村民避難の連絡があった。当時は息 子と同居していたが、娘が結婚して会津にいたの で、会津に息子と一緒に避難した。会津ではアパー トを借りて、8月に三春町の仮設住宅に入居する まで、そこで生活をしていた。妻は村の役場で仕 事をしていたので、その頃は別々に住んでいた。

 息子はそのまま会津のアパートに残ったので、

Cさんと妻と両親の4人で仮設住宅に住んでいた が、割当が一部屋だったので、ともかく狭かった。

その頃は、以前、建築関係の仕事をしていたこと もあり、仮設住宅を作るために、宮城県内のいく つかの町村に出かけ、仕事をしていた。

 3.11の東日本大震災の年の6月に葛尾村で「警邏 隊」(見守り隊)が結成されたので応募した。この警 邏隊は福島原発事故のあと、全村民が避難したた め、空き巣被害などが出ないように村中をパトロー ルし、不審者を通報することを目的としていた。(下 線6)しかし、実際には村に不審者がいなくて、別 のところへ行く人によく道を聞かれた。この頃、

まだ家族は会津にいたので、2ヵ月ほど、会津か ら村に通った。

(3) 村へ帰還したのは、何よりもここが生まれ

(10)

育ったところだからである。また、仮設住宅はと もかく狭いのと、隣の家族と接して暮らしている ので、いろいろと気を使わなければならない。こ れは、それまでの生活とは全く違ったので、結構 ストレスだった。また、当時、父親は90歳になっ ていたが、ともかく「仮設住宅では死にたくない」

と言っていたこともあった。事実、仮設住宅では 多くの高齢者が関連死したように思う。そこで、

村の避難指示が解除されたら、すぐに帰村した。

ちなみにこの地区は、村の他の地区に比べると帰 村率が高く、みんなで一泊旅行にも出かけたりす る。これは、三春町の仮設住宅に入居していた時、

同じ地区の人たちが同じ棟にいたからではないか と思う。(下線6)

 いまの村での生活に特段に不自由はない。村内 に診療所があり、父親も、母親も月1回診療を受 けている。以前、父親が体調を崩した時に2ヵ月 ほど、訪問看護サービスを利用したが、これはい までも月1回継続している。まだ車の運転が出来 るので、病院への通院も、買い物も出来るし、必 要があればどこへでも行ける。ただし、これが出 来なくなると、村で生活するのは大変かもしれな い。

 見守り隊の仕事は今年で8年目になるが、仕事 は昼夜3シフト制なので、夜の勤務の時は朝帰り になる。これは結構きつくて、慢性的に寝不足に 悩まされているが、自分たちが見守っている人た ちが300人もいると思うと泣き言も言えないので、

ともかくこの仕事を続けている。

 空いた時間には農作業をしている。村の田畑に もまだ除染作業で出た表土が袋詰めされて積み上 げられているが、それでも中間貯蔵施設が出来て、

一時に比べればかなり少なくなった。帰還して3 年目になるので、そろそろ農作業も本格的に考え てもいいのではないかと思っている、

 いまの楽しみは孫たちに会うことで、それが心 の支えになっている。(下線2)

 正直、10年後、この村はどうなるだろうと思う ことはある。いまのままならば間違いなく10年後、

20年後にはこの村には住民がいなくなるだろう。

ただ、地区の会合でそういうことを正面きって議 論することはまだない。みんな不安は感じている だろうが、それを言葉に出して言えない雰囲気が あるのは事実である。

〈事例4〉

(1) 現在、Dさんは77歳、妻は78歳である。子ど もは3人で、息子が2人、娘が1人いて、いまは 娘と同居している。両親はすでに他界し、いまは 3人暮らしである。

 Dさんは村で生まれ、小学校と中学校は地元の学 校を卒業した。中学卒業後は父親の農業を引き継 いで、主にたばこの葉を栽培していた。妻も村の 出身者で、25歳の時に結婚した。Dさんの兄弟姉妹 は多くて7人いるが、その内の4人がいまでも村 に住んでいる。

 35歳の時、福島原発の建設が始まったので、村 の仲間たちと一緒にマイクロバスで出稼ぎに行っ た。(下線1)まさかあの原発で、あのような大事故 が起こるとは全く考えていなかった。その頃はま だ両親も健在だったので、農繁期には福島原発の 仕事をしながら、父親の農業を手伝っていた。10 年位で福島原発の仕事は終わったが、そのあとは 村で農業に専念してきた。

(2) 3.11の東日本大震災のあと、2晩目の夜に村 から全村避難の連絡があり、福島市のあづま運動 公園の体育館に避難をした。村は会津坂下町に避 難するということだったが、Dさん夫婦は1ヵ月ほ ど、埼玉県へ避難した。そこではその地域の婦人 会の人たちが温かい食事をコミュニティセンター で提供してくれて、いまでも本当に感謝している。

埼玉にいた時はなにもすることがないので、その 地域の農業を手伝っていた。いまでもその人たち

(11)

とは行ったり来たりの交流をしている。その後、

8月に村の仮設住宅が三春町に出来たので入居し た。

 仮設住宅での生活は大変だった。村にいる時と 違って、仮設住宅では鍵をしなければならない。

これが、実は結構ストレスだった。あとは本当に やることがないので、それはそれで辛かった。地 元の農家の人たちに頼んで、田植えの手伝いなど をしていた。それでも、仮設住宅に入居していた 時には体調が悪くなった。村の避難指示が解除さ れた時、この地区では一番はやく帰って来たがすっ きりした。

 仮設住宅にいる時、たまに家へ帰って来て、家 の補修などをしていたが、5年以上不在にしてい たので、家は雨漏りがしていて、とても住める状 態ではなかった。そこで、2017年1月に家を建て 替えた。

(3) 2016年6月に帰還したが、農作業は全く出 来ない状態だった。ただ、中間貯蔵施設が出来て、

除染した表土の仮置き場が無くなっていくので、

いまは農業の再開を考えている。しかし、当面は 花を作って売り出すつもりで、JA(農業協同組合)

とも段取りをつけている。田植えと稲刈りは機械 を使うが、それも5年以上使っていないので、新 しい機械を購入するか、借りるかしなければなら ない。この地区は幸い40軒中30軒が戻っているの で、農作業を再開する方向で計画をしている。(下 線5)ともかく、農業を続けないと、この地域は再 生しないと思う。

 いまは週に1回、村の診療所に通院している。

また、郡山市の病院にも月1回は通院している。

最近はストレスがなく、無理をしていないせいか、

体調はいい。まだ車の運転ができるからいいが、

もし運転できなくなった時のことを考えると、外 出支援サービスがあるといいと思う。

 いまのところ、Dさんも、妻も元気なので、自

分たちの介護は考えていない。正直、考えてみて も仕方がないので、介護が必要になったらどうす るかは、その時になったら考えようと思っている。

ただ、将来の不安は、やはり病気になった時の通 院と、買い物が心配である。

 Dさんの孫は7人いる。お盆やお正月に子どもと 孫たちが来るのが楽しみである。また、それがい まの心の支えになっている。(下線2)村には一人暮 らしの高齢者が多い。土曜日や日曜日に子どもた ちが会いに来ている人もいるが、それでも寂しい だろうし、まわりの人たちとつきあわない人も多 いような気がする。子どもや孫たちが、自分たち のところへ呼び寄せをしてくれる人はまだいい方 で、帰村したのはいいが、村のなかで孤立している、

一人暮らし高齢者も少なくないと思う。(下線4)

 家族とは別々に暮らしている。いま思うと、仮 設住宅が良くなかった。子どもたちの世代は仮設 住宅には入居しないで、「みなし仮設」のアパート で暮らしていた。そのため、もう避難した先での、

自分たちの生活があって、村には戻って来ないだ ろう。仮設住宅で一緒に生活をしていたら、もし かしたら一緒に村へ戻って来たかもしれない。結 局、村のどの家族も分散し、いまでも二重生活、

三重生活になっている。村へ戻って来ているのは、

高齢者ばかりだが、これが現実である。

 村の将来は、やはり若い人たちが帰って来ない と難しいのではないか。

 娘は、村の学校で仕事をしているが、小学校も 中学校も再開した。これから若い人たちが戻って くるのを期待している。ただ、この地区の会合な どでも、村のこれからについての話は出るが、村 民が数多く集まる「総会」のような場では正面切っ た話にまだなってはいない。帰村して3年になる が、村民は村の将来について考える余裕がないの かもしれない。取り敢えずは、村役場に任せてお けばいいと思っているのかもしれない。

(12)

〈事例5〉

(1) 現在、Eさんは90歳である。2010年に長年連 れ添った夫を亡くし、いまは一人暮らしをしてい る。

 村で生まれ、地元の小学校を卒業した。当時は 戦時体制であったので、いまの中学校にあたる青 年学校に3年間通った。さらに卒業後は、高等科

(研究科)に2年間通った。その頃は学校で、女性 でもよく竹やりを突く練習をさせられたのが記憶 に残っている。父親と母親は優秀な人で、5人の 子どものうち、4人が学校の先生になっている。

 Eさんは学校卒業後、郵便局に勤めた。当時は戦 争をしていたので、男性がいなくて、Eさんも含 め、女性が郵便物を配達していた。昭和25年に農 家を営んでいたS家へ嫁に来た。その頃、村はま だ入植と開拓をしていて、田畑を耕すだけではな く、山の木を切って売っていた時代だった。村に はトロッコがあり、切り倒した木をそれに乗せて 運んでいた。

 Eさんは農家の嫁として苦労をした。夫は良い人 で、農閑期には土方の仕事をしていたが、生活は 苦しく、薪を売っていたこともあった。子どもは 3人で、2男1女である。長男は福島県内で仕事 をしている。次男は3.11のあとに避難をした埼玉県 で建築関係の仕事をしていて、一級建築士である。

娘は農家に嫁に行き、いまでも農作業の手伝いを してくれる。娘は大学を卒業しているが、学費を 捻出するために家政婦をしていた時期もあった。

また、叔父さんが胃がんで、長い間、看病をして いた。Eさんは59歳で自動車の免許を取得している。

(2) 3.11の東日本大震災の時は村の自宅にいた が、友だちから電話があり、テレビを見て大津波 が来たことを知った。実家のある浪江町から次々 と親類縁者が村へ来るので、大変なことが起きた のではないかと思った。ともかく、彼らは食べ物 がないというので、車で買い物に出かけたら余震

で車が揺れて怖かったのをよく記憶している。ま た、自宅へ戻る道に地震で大きな石が崩落し、転 がっていたので、それを川の沢へ落としたりもし た。診療所で薬を処方してもらい、家へ帰って来 たが、やがて全村避難ということになり、ほとん ど着の身着のままで、郡山市の妹のところへ車で 急いで避難した。

 その後、埼玉県にいた弟のところへ避難をした。

弟は大工をしていて2人の弟子がいるが、「死ぬま でこの家にいろ」とEさんに言ってくれて、本当に 感謝している。ただ、弟は一人親家庭で、子ども たちを男手ひとつで育て上げた。そういうことも あり、いつまでも弟に世話になるわけにはいかな いので、同じ埼玉県にいる次男の家の近くに一人 で暮らすようになった。慣れない土地での一人暮 らしは大変だったが、それでもいろいろと支えて くれる人たちもいてうれしかった。その後、村の 避難指示が解除され、村へ戻ってきた。

(3) 村へ戻ることに息子たち2人は反対した。

しかし、戻って来てからは、以前のように次男の 嫁に気を使わなくて良くなったので、少しほっと している。ただ、長男は近くに住んでいることも あり、Eさんを心配して、3日に一度は食事などを 運んでくれている。

 村の家は本当にジャングルのようになっていた。

猪が地面を掘り返し、ゆりの球根などを食べ散ら かしていて、ひどい状態だった。それでも、Eさん はまた戦後、この家に嫁に来た頃に戻って一から やり直しだなと思い、新たな気力が湧いてきたよ うに感じた。5年間、空き家にしていて老朽化が 進んでいたので、家の補修をした。

 大きい家に一人で暮らしていて、寂しくないか と言われると正直、寂しいけれども、夫の「魂」

が時々来るから寂しくない。また、息子は定期的に、

娘も時々訪ねてくるので、寂しくはない。家族と いうのは、本当にありがたいものだとあらためて

(13)

思う。家には子どもや孫の数多くの写真が置いて ある。たくさんの思い出に囲まれて、いまの心の 支えは子どもと孫たちである。(下線2)

 あとは友だちを作ることが大事だと思う。村社 協が実施しているデイサービスで、同じように村 に帰村してきた同世代の人がいるが、彼らと定期 的に会って、友だちになった。デイサービスは家 まで迎えに来てくれて、家まで送ってくれるので、

本当にありがたい。「せせらぎ荘」に行けば大丈夫 だという安心感がある。また、村の見守り隊の人 が毎日、新聞配達も兼ねて、様子を見に来てくれ るのもありがたい。(下線7)一日中、他人と話さな いということがないので、孤立しているという実 感はない。

 Eさんは、常に笑顔を絶やさないように生きてい くことを信条としている。そのため、家族・親族 だけでなく、数多くの友だちがいて、“支える”“支 えられる”の関係を維持している。

4 考察

 上述の5つの事例を簡潔に要約すると、事例 1のAさんは高齢者ではあるが、胡蝶蘭の栽培 と販売を手がける会社を経営していて、まだ現 役で仕事をしている方である。事例2のBさん、

事例3のCさん、事例4のDさんはいずれも仕 事はしていない方々で、Bさんは村役場(公務 員)の退職者、CさんとDさんは3.11の福島原発 事故以前は農業従事者であった。ただし、Cさ んは農業以外にも「出稼ぎ」として他の仕事を していて、現在でも村の「見守り隊」の仕事を している。一方、Dさんは「出稼ぎ」をしてい た時期はあるが、基本的には専業の農業従事者 で、現在は農業や園芸の再開を考えてはいるも のの、仕事はしていない。事例5のEさんは配 偶者が他界し、現在は女性の一人暮らし高齢者 である。なお、AさんとCさんとDさんは福島 原発が建設されている時に作業員として働いて

いた経験がある。 (下線1)

 このように見ると、村への「帰村者」と言っ ても、実は福島原発事故までの生活歴、避難先 の場所や避難時の状況、帰村後の家族形態、地 域社会との関わり、仕事(雇用)の有無や形態、

社会的支援(医療・保健・福祉サービスも含む)

の必要性などは多種多様であることがよく分か る。

 以下、5つの事例と、この多様性を前提とし て、福島原発事故避難者の「帰還」について3 点の考察を行うことにしたい。

 第1は家族の再統合についてである。

 村は、福島原発事故以前は米やたばこの葉の 栽培などを中心とした農業を基幹産業とした地 域であり、のどかな田園風景のもと、家族は直 系拡大家族を基本として、親世代、子世代、孫 世代の三世代がひとつの家に同居する、いわゆ る三世代同居型の家族が多数派を占めていた。

そして、その点では「安定」した家族形態を保っ ていたと言える。しかしながら、福島原発事故 の避難の過程で、家族は「分散」を余儀なくされ、

特に若い孫世代は避難先での生活が長くなるに 連れて、その避難先でたとえば子ども(ひ孫世 代)の就学や、生活の利便性などの面などで適 応したため、村に戻るのは難しい状況になって いる。したがって、村で家族を、福島原発事故 以前のように再統合することは困難であるとさ れている。

 上記の見方は一読すると正しいように思われ るが、われわれが現地調査を通して検討してみ ると、事例1のAさんから事例5のEさんまで、

いずれの事例でも、娘たちは結婚すると村外で

居住し、「直系」である長男、またはその他の

息子たちも中学校や高校までの学齢期は同居し

ているものの、それ以降は村外で仕事をし、一

人もしくは自分の家族と一緒に生活をしてい

る。つまり、年齢構成からみて、90歳代の親世

(14)

代と60歳代の子世代は帰村しても同居をしてい るが、30歳代以上の孫世代は、村で農業に従事 している人を除けば、もともと同居していない ので、「再」統合ということにはならないと考 えられる。ただし、現在の親世代が他界し、世 代が一つ繰り上がると、あくまでも農業などの、

村の基幹産業が復興しているという条件がつく としても、孫世代が帰村してくる可能性はある と思われる。なお、上述のように家族の居住形 態は「分散」

(8)

したが、それは必ずしも家族機 能の脆弱化を意味しない。つまり、家族の機能 を①身体的、②経済的、③精神的の3つの次元 に分類すると、①と②の機能は弱くなったもの の、③の機能はより強くなっているようにも思 われる。それは、5つの事例のすべての人が子 どもや孫の存在が心の支えであり、帰村後も交 流をしていることからも明らかであろう。 (下線 2)

 第2は地域社会の再統合についてである。

 地域社会(コミュニティ)をどのように考える かについては諸説があるが、本論では「地域(地 理)性」と「共同性」を構成要件とする、人び と(住民)の“つながり”であるとすると、福島原 発事故以前の村には「地域社会」が成立してい たと言える。それは、村あるいは地区という「地 域」を単位として、主に農業、つまり田畑の耕 作や収穫などといった、共同の作業を通じて、

村民が相互につながりをもっていたということ である。村の歴史は長いが、戦後に入植者が増 え、田畑が耕作されて農地が拡大していく過程 で、村民は長年、このようにして地域社会を形 成してきたのである。

 しかしながら、福島原発事故によって5年も の間、全村民が福島県内を中心にして、全国各 地に避難し、村外に居住していたことによって、

村内にあったそれまでの地域社会は事実上、消 滅したとされている。ただし、三春町の仮設住

宅には地区ごとに入居したため、村民相互の「つ ながり」は部分的ではあるが、維持されたと考 えられている

(9)

 第1と同様、上記の見方は一読すると正しい ように思われるが、われわれが現地調査を通し て検討してみると、村の場合、福島原発事故の 賠償金の多寡という問題があるため、村民相互 の「つながり」は、より複雑になっていること に留意する必要がある。事例2のBさんは、こ の点を明言しているが、われわれはこれまでの 現地調査で、いろいろな方々からこの話を聞い てきた。 (下線3)地域社会の共同性も、賠償金 という経済的問題が絡むと一様には行かないよ うで、事例4のDさんは帰村者の「社会的孤立」

も指摘している。 (下線4)

 なお、上記の問題があったとしても、地域社 会の再構築に向けた取り組みは徐々に進んでい る。まだ、村の帰村率が地区別に違うため、ど うしても濃淡があるものの、現在は村内の除染 が進み、農業などが再開できる状態になりつつ あるため、事例4のDさんが述べているように 農業などの再開に向けての動きが出て来てい る。 (下線5)さらに、福祉コミュニティという 点では、事例3のCさんが述べている、村民の 見守り活動への参加や、自主的な生きがい活動 なども一定の広がりを見せていることを考える と、地域社会の再生・創生の萌芽が出て来てい ると思われる。 (下線6)

 第3は福祉サービスの再統合である。

 事例1のAさんから事例5のEさんまで5人 に共通しているのは「健康」ということである。

ただし、全員が高齢者であるため、無病息災で はなく、「有病息災」である。すなわち、それ は何らかの病気を抱えながらも、一定のADL

(日常生活動作)を保ちつつ、日常生活には特段

に不便を感じない状態を維持しているという意

味である。事例5のEさんは年齢が一番高いこ

(15)

ともあり、ADLあるいはIADL(手段的日常生 活動作)は最も低かったが、それでもさまざま な社会的支援を受けながら、一人暮らしが出来 る水準を維持していた。 (下線7)したがって、

病気を抱えていても、村の生活支援サービスを 利用して、診療所に通院することは出来るし、

また必要があれば郡山市などの総合病院にも通 院出来ている。

 しかしながら、これは、別の言い方をすれば

「有病息災」の人たちしか、帰村していないこ とを意味している。つまり、仮設住宅などの避 難先で要支援・要介護状態になった場合、介護 保険制度の「住所地特例」などの制度を利用し て、避難先の介護・生活支援サービスを利用し て生活しているので、帰村は困難な状況なので ある。

 第1で述べたように家族を再統合するのは難 しい。したがって、家族が介護・生活支援の機 能を果たすことを期待するのには無理があると 思われる。現在の親の世代は、子の世代が健康 であればある程度、介護・生活支援を担うこと が出来るので、その生活困難は顕在化しにくい が、子の世代が要支援・要介護の状態になった 時、村の現状では孫の世代にそれを期待するこ とは出来ないであろう。おそらく10年後に村の 介護・生活支援に対する必要(ニーズ)は急速に 拡大すると予測される。一方、第2で述べたよ うに地域社会もまた再統合するのは難しい。も し仮に上記の生活困難や必要が拡大しても、地 域社会(コミュニティ)には相互扶助機能がある ので、地域社会が十分に機能していれば、それ を受け止めることも出来るであろう。しかし、

村の現状を考えると、それも難しいと予測され る。いわゆる地域力の強化には一定の限界があ ると考えられる

(10)

 福祉の領域には「自助」 「互助」 「共助」 「公助」

という枠組みがあるが、上述のように自助と互

助にあまり期待ができない以上、共助と公助が それを補完するしかない。その意味では、福祉 サービスの拠点が分散している村社協の機能を 村で再統合し、さらに医療や保健や住まいなど も包含した「地域包括ケアシステム」

(11)

を推進 していくことが、これからの重要な課題になる と思われる。

まとめに代えて

 われわれは3.11の東日本大震災のあと、被災 した岩手県と宮城県の太平洋沿岸の市町村を訪 れ、被災地における福祉支援をテーマとして研 究活動を続けて来た。当初は目に見える被害が 甚大であったことから、われわれも大津波で被 災した地域に目を向けていたが、やがて福島県 の福島原発事故による被災は全く違う次元の、

しかも非常に深刻な問題であることに気づい た。そして、それ以来、われわれは福島原発事 故の被災者に対する福祉支援というテーマで研 究活動を続けている

(12)

 その一環として2017年度と2018年度の2年 間、本研究所の一般研究プロジェクトの研究助 成を受けて、福島県葛尾村を研究対象として設 定し、被災者の帰還(帰村)に関する現地調査を 継続してきた。本論は、その成果をまとめたも のである。

 「復興とはすべてを元に戻すことではない。

新しい地域社会(コミュニティ)や文化を創り出 すことである」。

 これは岩手県と宮城県の被災地をわれわれが

訪れた時に被災者の方々からよく伺った言葉で

あるが、この「復興」は福島原発事故の被災者

の場合、「帰還」に置き換えることができるの

ではないだろうか。つまり、帰還とはかつての

地域生活を取り戻すことではなく、新しい生活

を、帰還した地域社会(コミュニティ)や、その

文化のなかで、前向きに創り出していくことな

(16)

のである。

 われわれがいま村での2年間の現地調査を終 えて言えるのは、村の前途は決して洋々ではな いということである。しかし同時に、本論で言 及した5人の帰村者以外にも、村で聞き取り調 査をさせていただいた人たちの底流には自分た ちが生まれ育った村を何とかしたい、もっと良 くしたいという思いがあることを強く感じた。

村への帰還の原動力にそういう思いがあれば、

村はいずれ必ず復興するとわれわれは信じてい る。

 村の産業振興という点では企業誘致も大事で あろう

(13)

。しかし、村の将来に向けて、より重 要なことは、たとえば事例1のAさんが述べる ように、まず地場の産業をじっくりと時間をか けて育成していくことではないかと思われる。

(下線8)国(復興庁)からの補助金を受け、それ で満足してしまうのではなく、むしろそれを積 極的に活用し、帰村者自らが考えた新しい発想 と、しっかりとした展望(ビジョン)をもとに村 の将来を切り拓いていくことが、村を持続可能 な地域社会にしていく基盤になるであろう

(14)

。  こうした「持続可能性」をいわば前提条件と して、葛尾村という地域社会をこれからいかに

「自立助長」させていくか、社会福祉、とりわ け地域福祉もまた、その支援力が問われている と考えられる

(15)

【謝辞】

 本研究プロジェクトの一環として実施した現地 調査では、福島県葛尾村(行政)および葛尾村社会 福祉協議会などにおいて、帰村者の支援を担当さ れている職員の方々に大変お世話になりました。

ここに記して感謝申し上げます。また、われわれ の聞き取り調査を快く承諾してくださった帰村者 のみなさまにも、あわせて心から深謝申し上げま す。末尾ながら、われわれも葛尾村の復興を祈念 しております。

【注】

(1)… 福島原発事故避難者の現況及び時系列変化に ついては、復興庁及び福島県庁避難者支援課 のHPを参照。それによると、2019年8月現在、

福島県外への避難者数は31,374人である。な お、この数値には福島県内へ避難数は含まれ ていない。https://www.pref.fukushima.lg.jp/

sec/16055b/ 閲覧

(2)… 福島原発事故後の避難区域:「帰還困難区域」

「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の 変遷については、福島県庁内の「ふくしま復 興ステーション」のHPを参照。このHPには葛 尾村を含む、12市町村の避難地域の状況につ いての詳細が解説されている。

… http://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/

list271-840.html 閲覧

(3)… われわれの研究プロジェクトは2017年度と 2018年度の2ヵ年であるが、2019年8月にも 2017年8月、2018年9月の現地調査を補足す る調査を行っている。なお、本論には一部、

その成果を組み込んでいる。このように時系 列調査に取り組む目的は、葛尾村及びその帰 還者の経年変化を把握するためである。本論 の事例調査の対象者5名の内、3名は2017年8 月の現地調査以来、継続して聞き取り調査を している人たちである。

(4)… 葛尾村のHP及び同村の住民生活課が作成して いる資料に基づいている。

(5)… 葛尾村の介護保険料については、同村の住 民 生 活 課 のHPを 参 照。 そ れ に よ れ ば、 第 7期の介護保険料は年間117,600円(基準額)

で、 月 額 換 算 は9,800円 で あ る。 な お、 こ の金額は、全国の市区町村の介護保険料の なかで最も高い金額となっていて、新聞な どでも取り上げられた。朝日新聞デジタル ニ ュ ー ス:https://www.asahi.com/articles/

ASL883VCHL88UBQU00K.html 閲覧。

(6)… 葛尾村社会福祉協議会の事業・活動について は、同事務局が作成している資料及び新開正 和氏(同事務局長)への聞き取り調査の内容に 基づいている。なお、福島県内の社会福祉協 議会による、福島原発事故避難者への福祉支 援活動の状況については、斉藤知道氏(福島県 社会福祉協議会)にご教示をいただいた。

(7)… 葛尾村における、新しい事業については、旭 機工㈱のきずなシステムのHPと資料及び同社

(17)

の社員であった瀧井達子氏への聞き取り調査 の内容に基づいている。

(8)… 福島原発事故避難者に関する文献・資料を読 むと、しばしば「(一家)離散」という言葉が 使われているが、それに対して、われわれは 違和感をもっている。そこで、本論では敢え て離散ではなく、「分散」を使っている。離散 は文字通り、家族構成員が離れ離れになり、

家族としての機能(紐帯)が喪失している状態 を意味し、分散は家族の居住形態としては別々 になっていても、家族としては機能している 状態を意味している。福島原発事故避難後の 家族形態は多様であり、確かに離散している 家族もあるが、相対的には「分散」の方がよ り適切であると考えられる。

(9)… われわれは2011年3月の東日本大震災以後、

福島県だけでなく、岩手県の大船渡市、釜石市、

宮古市、山田町や、宮城県の石巻市、岩沼市、

気仙沼市、陸前高田市、女川町、南三陸町、

などで現地調査を行ったが、それぞれの市町 村で、仮設住宅の入居を①抽選で決めるとこ ろと、②「地区」ごとに決めるところに大別 された。われわれが実施した生活支援相談員 への聞き取り調査では、①よりも②の方が地 域社会の機能を維持しやすいことが明らかに なっている。

(10)…「一億総活躍プラン」(2017年6月)に掲げられ ている地域共生社会の実現について、具体的 に検討するため、2017年10月に「地域におけ る住民主体の課題解決力強化・相談支援体制 の在り方に関する検討会(地域力強化検討会)」

が設置され、その最終報告書が2018年9月に 出されている。また、現在はその報告書をも とにした「実証実験」が全国の複数の自治体 で行われているが、「地域力」を強化していく には一定の条件があることには留意をしてお く必要がある。

(11)…地域包括ケアシステムについては、厚生労働

省のHPを参照。

… https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/

bunya/hukushi_kaigo/kaigo_koureisha/chiiki- houkatsu/ 閲覧

(12)… われわれは、厚生労働省セーフティネット支 援対策等事業費補助金(2015年度)の助成を受 けてから、福島原発事故避難者への福祉支援 に関する調査研究を継続している。その成果

については、『福島の避難者に対する効果的な 福祉支援のあり方に関する調査研究事業報告 書』(平成26年度年労働省セーフティネット支 援対策等事業費補助金社会福祉推進事業)一般 社団法人全国介護者支援協議会、2016年3月、

などを参照。

(13)… 福島県では現在、福島イノベーション・コー スト構想が推進されている。これは、2017年7 月に福島県が設立した「福島イノベーション・

コースト構想推進機構」が中核となって、「福 島復興再生特別措置法」の重点推進計画に基 づく国家プロジェクトとして具体化されてい るもので、①新たな産業基盤の構築、②未来 を担う教育・人材育成、③生活環境の整備、

④交流人口の拡大、⑤情報発信の5つの柱が 挙げられている。また、①では企業誘致、進 出企業と地元企業とのマッチング、企業の新 ビジネスの立ち上げ支援、民間企業等の農業 参入支援、などが考えられている。

(14)… 本研究プロジェクトの間の、葛尾村における 大きな変化は、一般社団法人葛尾むらづくり 公社による「あぜりあ」(葛尾村復興交流館)が 出来たことである。あぜりあは「復興のシン ボルとして、葛尾の記憶を継承した新たな交 流の場」として建設され、「生活・余暇の充実 と村内外への情報発信を主な機能とし、交流 のきっかけを創出」することを目的としてい る。また、具体的には①生涯学習機能、②販 売機能、③各種資料展示機能、④情報発信機能、

⑤健康増進機能、⑥放射能検査機能の6つが 考えられている。さらに、このような機能を 促進するために「復興支援員」が3名、専任 で配置されている、今後は、彼らが産業振興 だけでなく、いかに「地域社会開発」を村民 と共に実践していくかに期待が寄せられてい る。(あぜりあの資料及びURL参照)

… https://www.katsurao-kosha.com/azeria 閲覧

(15)… 地域福祉とは①地域の福祉力と②福祉の地域 力の合成ベクトルであると考えられる。①地 域の福祉力とは、地域住民がいかに福祉意識 をもち、福祉活動に参加するかという力であ り、②福祉の地域力とは、いかにそうした地 域住民の力を引き出すかという、福祉専門職 の力(支援力)を意味している。これからの地 域社会開発では、地域福祉が中核にならなけ ればならないが、その意味では、たとえば社

(18)

会福祉協議会の職員の力量(専門性)の向上も、

大きな課題になると考えられる。

【参考文献】

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大島堅一・除本理史『原発事故の被害と補償─フ クシマと「人間の復興」』大月書店、2012年。

金井利之『原発と自治体─「核害」とどう向き合 うか』岩波書店、2012年。

山下祐介・開沼博編『「原発避難」論─避難の実像 からセカンドタウン、故郷再生まで─』明石 書店、2012年。

相田祐里奈『避難弱者─あの日、福島原発間近の 老人ホームで何が起きたのか』東洋経済新報 社、2013年。

除本理史『原発賠償を問う─曖昧な責任、翻弄さ れる避難者』岩波書店、2013年。

田中重好・船橋晴敏・正村俊之編『東日本大震災 と社会学─大震災を生み出した社会─』ミネ ルヴァ書房、2013年。

平山洋介・斎藤浩編『住まいを再生する─東北復 興の政策・制度論─』岩波書店、2013年。

山下祐介・市村高志・佐藤彰彦『人間なき復興─

原発避難と国民の「不理解」をめぐって』明 石書店、2013年。

山本薫子他『原発避難者の声を聞く─復興政策の 何が問題か─』岩波書店、2013年。

今井照『自治体再建─原発避難と「移動する村」』

筑摩書房、2014年。

清水奈名子「原発事故子ども・被災者支援法の課 題─被災者の健康を享受する権利の保障をめ ぐって」『社会福祉研究』(第119号)鉄道弘済会、

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NHKスペシャル『メルトダウン』取材班編『福島 第1原発事故7つの謎』講談社、2015年。

除本理史・渡辺淑彦編『原発災害はなぜ不均等な

復興をもたらすのか:福島事故から「人間復 興」、地域再生へ』ミネルヴァ書房、2015年。

藤川賢「福島原発事故による避難住民の生活と地 域再生への方向性─浪江町による住民アン ケート(2012年6月実施)2次分析報告」『研究 所年報』(第45号)明治学院大学社会学部付属研 究所、2015年、43頁~60頁。

吉原直樹・仁平義明・松本行真編『東日本大震災 と被災・避難の生活記録』六花出版、2015年。

高橋滋編『福島原発事故と法政策─震災・原発事 故からの復興に向けて─』第一法規、2016年。

戸田典樹編『福島原発事故…漂流する自主避難者た ち』明石書店、2016年。

高橋滋編『原発事故からの復興と住民参加─福島 原発事故後の法政策─』第一法規、2017年。

山本義隆『福島の原発事故をめぐって─いくつか 学び考えたこと─』みすず書房、2017年。

土屋葉・岩永理恵・井口高志・田宮遊子『被災経 験の聴きとりから考える─東日本大震災後の 日常生活と公的支援─』生活書院、2018年。

寺島英弥『福島第1原発事故7年避難指示解除後 を生きる─古里なお遠く、心いまだ癒えず』

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戸田典樹『福島原発事故…取り残される避難者─直 面する生活課題とこれからの支援課題』明石 書店、2018年。

前田正治『福島原発事故がもたらしたもの』誠信 書房、2018年。

吉田千亜『その後の福島─原発事故後を生きる人々

─』人文書院、2018年。

【執筆分担】

 本論では、「はじめに」と「まとめにかえて」を 和気康太と相澤京美が、また「1.葛尾村における 生活環境の整備状況」から「3.考察」までを望月 孝裕が執筆した。

参照

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