• 検索結果がありません。

コ ンス タ ンス ・ブ ラウ ン ・ク リヤマ著 の マ一 口ウ伝

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "コ ンス タ ンス ・ブ ラウ ン ・ク リヤマ著 の マ一 口ウ伝"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

人文論叢 (三重大学)第27 2010

コ ンス タ ンス ・ブ ラウ ン ・ク リヤマ著 の マ一 口ウ伝

ChristopherM arlowe.A Renaissance

L

ife

(IthacaandLondon:CornellUniversityPress, 2002)

を概観する

坂 本 つや子

要旨 :constanceBrownKuriyamaによるChristopherMarloweの伝記研究 は、JohnBakeless 始 ま る、 ヴ ィク トリア期以 降 マ一 口ウ研究 が盛 ん にな って以来、次 々に発 見 され る資料 を もとに した実証 的研究 の流 れ に沿 って い る しか しク リヤマは膨大 で はあ って も、 断片 的な資料 に基 づ いて過去 の人物像 を再構築 す る際 に陥 りが ちな、先入観 による事実歪 曲の危 険性 につ いて も認識 して い る ク リヤマはカ ン夕べ リにお けるマ一 口ウの一族 とキ ングズ ・ス クール の教 師、 ケ ンブ リッジ時代以 降 の友人 や周辺 の人 々、 ケ ンブ リッジの頃か ら繋 が りが あ った と考 え られ る国務長 官 サー ・フラ ンシス ・ウ ォル シ ンガ ムおよびバ ー リー卿父子、 ロ ン ドンの劇場 関係者 た ち、 お よ びパ トロ ンで あ った トマス ・ウ ォル シ ンガムや ス トレンジ卿、 あ るいはサー ・ウ ォル ター ・ロー リーお よび ノーサ ンバ ラ ン ド伯爵等、 マ一 口ウの人生 にかかわ った人 々 との関係性 につ いて綿密 に分析 を行 い、 マ一 口ウの人生 の謎 の部分 につ いて、極 めて理性 的な考証 を行 って い る

は じめ に

英国においてマ‑ ロウ研究が盛んに行われ るようにな ったのはヴィク トリア期以降であるが、

初期 に書かれた伝記 は時代思潮 を反映 して、「無神論者」 あるいは 「同性愛者」 と目され るマ一 口ウの生涯 と非業の死 について、道徳的立場か ら批評す る傾 向の ものが 目立 っていた。 しか し JohnBakelessに始 まる近年 の実証 的研究 においては、 カ ン夕べ リ時代、 ケ ンブ リッジ時代、

およびロン ドン時代 におけるマ一 口ウの人間関係、教育環境、経済状況等 について、新 たに発 見 されつつある資料 に基づ く研究がな されてお り、 また彼が生 きたエ リザベス時代 の社会状況、

宗教並 びに政治 における国内および外国勢力の相関図等 につ いて も、 同様 に綿密 な考証がなさ れ るようにな った。

Kuriyamaは これ までのマ一 口ウ研究者、LeslieHotson,FrederickS.Boas,M arkEccles,C.

F.TuckerBrooke,JohnBakeless等 による伝記研究、 とりわ け膨大 な資料 を もとにマ一 口ウの 生涯 に迫 ろうとしたペ ック レスの研究 に敬意 を表 し、彼 らの業績が ク リヤマ 自身の研究 の礎 と な った ことに感謝 しつつ も、 その問題点を指摘 している た とえばク リヤマはマ一 口ウの足跡 を記録 した法的書類 の解読方法 について、膨大ではあ って も断片的な資料 を もとに一人の人物 像 を作 り上 げることは、誤 りをおかす危険が大 きい と考えている この例 として ク リヤマは、

マ一 口ウがホー リーウ ェル ・ス トリー トで些細な騒動 を起 こして捕縛 された事件、 および、非 業 の死 の原因 とな ったデ ッ トフォー ドでの喧嘩沙汰等 についての研究者 たちの平均的意見 を挙 げ、彼 らが法的書類 を分析 し、 それを もとにマ‑ロウの人物像 を構築す る際に、 マー ロウの私 生活 につ いての従来の定説 に基づ く先入観 にとらわれ るあま り、肯定的な見方 よ りむ しろ否定 的な見方 をす る傾 向にあるが、 これは間違 いであると警告 している ク リヤマは彼 らの見解 に 対す る反証 と して、 マ一 口ウの29年 の人生 の うち、最初の25年間は特 にこれ とい った事件 も

‑ 179‑

(2)

な く、 平 穏 に過 ぎ て い る こ と に注 意 を促 して い る ク リヤ マ はChristopherMarlowe.・A RenaissanceLlfeにおいて、巻末 に貴重 な資料 を多数収録 して いるが、 この よ うな資料 を扱 う際

の ク リヤマの姿勢 は一貫 してお り、極力 セ ンセー シ ョナルな見方 を避 け、冷静 で理性的な判断 を心がけて いる これ はマ一 口ウのように悪評 と錯綜す る人 間関係 のなかで生涯 を終 えた人物 について語 る場合 には、 と りわ け大切 な ことであろ う

宗教都市 カ ン夕べ リ

マ‑ ロウ出生 の地 であ るカ ン夕べ リについて、 ク リヤマはまず マ一 口ウの家庭環境 につ いて 考察 して い る マ一 口ウに敬意 を表す ることに熱心 な、 ポス ト・ヴ ィク トリア ンとい うべ き 20世紀初頭 の研究者 た ちは一 注意深 いポアズ、 ブル ック、 ペ ック レス等 の研究者 さえ一父親 のJohn Marloweが、 カ ン夕べ リの裕福 な皮革操業者、christopherMarley(1540)の死後 に 生 まれた息子 であ ると信 じたが っていた。 しか しジ ョン ・マ一 口ウ自身、 自分 がカ ン夕べ リの 10マイル西 にあ るフェヴ ァシャムの近 くにあ るオ スプ リンジとい う村 の生 まれであ ることを 記録 に残 してお り、 また後 にカ ン夕べ リ出身 の研究者w illiam Urryが これを裏付 ける証拠 を 発見 してい る

宗教都市 と してのカ ン夕べ リがマ一 口ウの人格形成 に強 い影響 を与 えた ことは研究者 たちの 一致 した意見である この地 は もともと英 国キ リス ト教 の揺藍 の地 であ り、 中心地であったが、

のちにカ ン夕べ リ大 司教 トマス ・ア ・ベケ ッ ト (在位 1162‑70)が、教会法 の王権 か らの独立 を主張 して国王 ヘ ンリー2世 と対立 し、大聖堂 内で殺害 された ことで、今一つの意味を持つ場 所 とな る ク リヤマは この都市 が長年 にわた り、 トマス ・ア ・ベケ ッ ト崇拝 のメ ッカであ った ことに注意 を促 している。 エ リザベス1世 の父であるヘ ンリー8世 は、 ローマ教会か ら離脱 し、

修道院解散 を行 った。彼 がベケ ッ ト崇拝 を阻止す るため、遺骨 を焼却 し、遺灰 をバ ラ撒 いた こ とはよ く知 られた事実 であ る 崇拝 はヘ ンリーの長女であ るカ トリック女王 メア リの時代 に復 活 した。 メア リ女王時代 には41名 のプロテスタ ン トが カ ン夕べ リで審判、処刑 されたが、 こ れはマー ロウが誕生す る少 し前 の ことである またカ ン夕べ リには、ヘ ンリー8世 の離婚 問題 に関連 して処刑 された トマス ・モアの、長女 マーガ レッ トの夫 であるウィ リアム ・ローバ ーの 家代 々の墓所 があ り、 そ こには20世紀 にな って列聖 され、「聖者」 とな った トマス ・モアの首 も和 られている 何 れ も王権 よ り、教皇がその代表者 た るローマカ トリック教会 の権威が優越 す ると考 え、 これ に殉 じた人 々である ク リヤマは特 にベケ ッ トの場合、彼 が 自らの生命 を犠 牲 に して まで も、王権 を超 え る権力 を手 に入 れ ようと欲 したので はないか と憶測 している

マー ロウが9歳 の時、 エ リザベス女王 の2週間にわた る行幸 があ った。 ク リヤマをは じめ多 くのマ一 口ウ研究者 た ちは、女王がカ ン夕べ リを通過 した時 には、未来 の劇作家が、絹や宝石 に飾 られた宮廷人 たちの塩 びやかな行列 を 目のあた りに して、 カ ン夕べ リの 日常 とかけ離れた、

富 と栄光 に満 ちた世界が存在す ることを知 った可能性 は十分 あ ると推測 し、 この経験 がマ一 口 ウの創作活動 その他 に一定 の影響 を与 えたのではないか と考 えてい る

1580年、 マ一 口ウは、1544か ら1553までケ ンブ リッジの コーパ ス ・ク リステ ィ学寮長 を務 めた、 カ ン夕べ リ大主教 マ シュー ・パーカー (1504‑75)の創設 したスカラシ ップを獲得 した。

これはカ ン夕べ リのキ ングズ ・スクールか ら、 ケ ンブ リッジ大学 に進学 したい と希望す る学生 のための もので あ った。奨学生 にな る資格 には、 ラテ ン語文法 を完全 に修得 してい ることに加

プ レー ン ソ ン グ

えて、 聖 歌 (古 くか ら教会 で用 い られている無伴奏 の単声典礼聖歌、特 にグ レゴ リオ聖歌 を

(3)

坂本つや子コンスタンス・ブラウン・クリヤマ著のマ一口ウ伝,ChristopherMarlowe:ARenaissanceLife(IthacaandLondon:CornellUniv.Press,2002)を概観する

い う) の譜面 を見 ただけで歌 うことので きる技能、 さ らに出来 れ ば韻文 を作 る技能 が条件 とさ れた。16世紀後期 には聖職者 の質 の向上 を図 る必要 があ ったので、貧 しい家庭 出身 の才能 あ る子弟 に教育 の機会 を与 えたのであ る 奨学金 は原則3年給付 であ ったが、教会 に入 る意思 を 示 した場合 は6年間給付 された。

大学都市ケ ンブ リッジ

マ一 口ウは1581317日、 ケ ンブ リッジ大学 に入学 し、57日、正式 に奨学生 に選 ば れてい る 彼 がケ ンブ リッジ入 りしたのはま もな く17才 にな る頃で あ ったが、 これ は一貴族 階級 出身 の学生 は別 に して‑ 当時の彼 と同 じ経済 的、社会 的背景 を持つ学生 の平均入学年であ 21歳 よ り若 か った。

1580年、 キ ングズ ・スクールを卒業 したマーロウは、奨学金 の支給 を待 たず に、11月末 また 12月初 め頃ケ ンブ リッジに向 け出発 した と思 われ る ケ ン ト州 カ ン夕べ リか らロン ドン経 由 100マイルを旅 してケ ンブ リッジへ向か う旅 は、冬場 には特 に過酷であ った。 当時ケ ンブ リッ ジの人 口は約5,000人、その うち 1,900人 は大学関係者であった。 コーパス ・ク リスティ ・カ レッ ジのbutterybook(英 国の大学 内にある食料 品等 の売店 の出納簿) には、12月初旬 に初 めて ̀ Marlen'と綴 られたマ一 口ウの名前 が現 れている ク リヤマの考証 では、早 めのケ ンブ リッジ 入 りは実 際的な動機 に基づ くものであ った。 当時BA取得 に3年、MA取得 にはさ らに4年が 必要 であ った。 また16世紀 にはBA取得 は、 よ り権威 ある学位 であるMAを取得す るための 準備段階であると見 な されていた。すでに述べたように、パーカー ・スカラシップは、最長で6 年 間貰 うことが出来 た。従 って奨学金 の支給期 間中にMA学位 を得 るには1日で も早 く学業 を は じめ、最短年で学位請願資格 を満 たす必要があったのである。

ケ ンブ リッジ時代 のマ一 口ウにつ いて常 に問題 とされ るのは、彼 がMA学位 を請願 した時、

必要条件 となる ̀attendancerequirements/residentialrequirements(1)ラ(在学 中長期間ケ ンブ リッ ジを離 れ ることを禁 じた規則) を満 た していなか ったため、最終的 に枢密 院の介入 によって よ うや く学位 が取得 で きた とい う点 であ る ク リヤマは この ̀attendancerequirements'の期 間 不足 について、 マ一 口ウの記録 だけを取 り上 げて論ず ることをせず、 同時期 ケ ンブ リッジに所 属 していた多 くの学生 の記録 と比較 す ることによ り、BAを取得 す るまでのマ一 口ウは、 む し

ろ平均的な学生 と比べ ると、年 間を通 してケ ンブ リッジに居住 している期 間が長 か った ことを 証 明 している̀residentialrequirements'の規定 では、BA ̀Supplicat'(正式 の学位請願書) を提 出す る資格 を得 るためには、4年 間ケ ンブ リッジに居住す ることが条件 とな っているが、

そ もそ もこの 4年 間」 の意 味す るところは、3学期×4‑12学期 間の ことであ る これは 授業 のあ る3学期 に ̀vacationterm/summerterm'を加 え た4学期×3‑12学期 で も同 じ

ヴ ァケー シ ョ ン ・タ ー ム

扱 い とな る 多 くの学生 が卒業 まで3年以上かか ったのは、夏季休暇期 間 はケ ンブ リッジを離 れ るのが常であ ったためである 学則 の建前 と実際的な運用 のギ ャップの理 由はケ ンブ リッジ の衛生環境 にあ った らしい。沼沢地 に囲 まれていた当時のケ ンブ リッジでは夏期 に伝染病 が発 生す ることがあ り、 このため大学 当局 も、大勢の学生が居残 っていた場合 の危険性 を勘案 して、

規則違反 を大 目に見 て いた と考 え られ る1581317日に正式 に入学 したマ一 口ウにつ い て いえば、1584年 の2月半 ば にBA請願 に必要 な ̀requirements'を完 了 して い るので、3 で取得要件 を満 た した と考 え られ る また3年 で学部 を卒業 したので、MA取得 のための奨 学金 は十分であ った。

‑ 181‑

(4)

BA取得後 のマ一 口ウは、 一転 して この規則 を守 らぬ傾 向を見 せ て い る 彼 の名 は1585 6月 中旬 頃か ら9月 中旬 頃 にか け、約2カ月 に渡 って コーパ ス ・ク リステ ィ学寮 のバ ッテ リー ブ ックか ら消 えて い る 先 に述 べた枢密院介入 の理 由 と して、彼 が長期 間ケ ンブ リッジを留守 に した ことは、諜報活動 のため大陸 に渡 って いた証拠 であ るとす る批評家 が多か った。 しか し 近年 にな って、 カ ン夕べ リ出身 で大聖堂 の古文書館 に勤務 して いた研究者william Urry(2)が、

マ 一 口ウ とカ ン夕べ リ出身 の裕 福 な羊 毛 お よび毛 織 物 商 の息 子JohnBenchkin (1567生 、 1585.6.30にカ レッジに登録) との交友 関係 を突 き止 めた ことか ら、諜報 活動説 を覆す証拠 が 出て きた。 ユ ー リー は ジ ョンの義母 と考 え られ るMrs.Benchkinが、 ジ ョンを相続人 に指定 す るため作成 した、1585819日付遺言証書 を発見 した。 この遺言書 には証人欄 にマ一 口 ウ、 マ一 口ウの父 と娘婿、 お よび父 の徒弟 の署名が あ った。 これ によってマ一 口ウ一家が証人 と して署名す るた めBenchkinの家 に集 ま った時、 マ一 口ウは夏季休 暇期 間 を利用 して カ ン夕 べ リに帰省 中で あ り、恐 ら く学士号 を持つ彼 が署名す る重 みを考 えた友人 の要請 で、証人 に加 わ った ことが明 らか にな った。

カ レッジのバ ッテ リー ブ ックの記録等 か ら判断 して、 マ一 口ウ とBenchkinとはカ ン夕べ リ にいた頃か らの知 り合 いで、1585‑86年 のあいだ、 出来 るだ け一緒 に行動 しよ うと して いた と

ーカル・タイ

考 え られ る ク リヤマ によれ ば16世紀 は 地 縁 が強力 な時代 で、新入学 のマ一 口ウのチ ュー ター とな った若 いMAThomasHarrisにつ いて も、彼 がケ ン ト州 出身 で あ ったので、人選 は これ に基 づ いて い る と推測 して い る また ク リヤマ は、Benchkin1594529日 (金 曜 日) にKatherineGrawnteとの結婚許可証 を申請 して い るが、 これ はマ一 口ウの死 (15935 30日) か ら正確 に1年後 であ り、Benchkinのマ一 口ウに対す る友情 と敬意 が感 じられ ると 記 してい る

ロン ドン時代

ク リヤマはマ一 口ウは最初 か ら聖職者 にな るつ も りはな く、卒業 を 目前 に控 えた1587年 の 春 または初夏 には、 ロ ン ドンでの生活 を考 えて いた と推測 して い る マ一 口ウはケ ンブ リッジ を出て は どな く、 ロ ン ドン旧市街 の北 の市 門である ビシ ョップズゲイ トの北方 に広 が るシ ョア デ ィ ッチに隣接す る、 ノー トンフォルゲイ トに居住 した と考 え られ る 中世 においては職住接 近 が普通 で あ る 1580年代 には劇場街 は ビシ ョップズゲイ トの北側 にあ った。現在 のモダ ン グ ロ‑ ブ座 が あ るバ ンクサ イ ド界 隈 に劇場 が建 ち始 め るの は もう少 し先 の ことで あ り、1587 年 には ロ‑ズ座 もまだ設計 の段 階であ った。 この界 隈 は伝統 的 に市 の統制外 にあ る地域 であ っ た。 ここは劇作家 と してのスター トに好都合 であるだけでな く、情報 の売買 を生業 とす る者 に とって も都合 の よい場所 で あ った。 マー ロウはバ ンクサ イ ドの ローズ座 が完成 し、 そ こで彼 の 戯 曲が頻繁 に上演 され るよ うにな った後 もノー トンフォルゲイ トに住 み続 け、 そ こか らロ ン ド

ン市 内を通過 してバ ンクサイ ドへ通 っていた。

ビシ ョップズゲイ トのす ぐ北 には、『タ ンパ レン大王』(TamburlainetheGreat)その他、 マ一 口ウの芝居 の主役 を演 じることにな るエ ドワー ド・ア レンが洗礼 を受 けた教会 もあ る ク リヤ マは この界 隈 につ いて、演劇 その他 の娯楽 (熊 い じめな ど) が行 われた この地域 では売春が横 行 し、男娼窟 もあ った こと、演劇人 や劇場 に引 き付 け られ る人 々はアナーキーな傾 向が強 く、

また常習 的な トラブル メーカーたち もこの界隈 に集 ま って きた ことを指摘 している

法規制 が緩 い土地柄 を反 映 して、 ここはカ トリック教徒 た ちが工作 を行 うのに都合 が よか っ

(5)

坂本つや子コンスタンス・ブラウン・クリヤマ著のマーロウ伝,Chn'ioPherMarlowe:ARenaissanceLlfe(IthacaandLondon:CornellUniv.Press,2002)を概観する

た と考 え られ る マ一 口ウ と同 じくケ ン ト出身 の聖職者w illiam W eston神父 は、一 時期神学 校 の あ った ドゥエ、 お よび ローマ、 スペイ ンを訪 れた後、帰 国 して ノー トンフォルゲイ トに近 いホ ッグ レイ ンに居住 して いた。15868月 に彼 を逮捕 した二人 の政府側工 作員 は、 バ ビン

トン陰謀事件 (エ リザベ ス女王 を殺害 し、幽閉 中のス コ ッ トラ ン ド (前)女王 メア リを即位 さ せ よ うとす るカ トリック教徒 の陰謀) の立役者 で あ るAnthonyBabingtonと、 イエ ズス会士 JohnBallard神父 を見 張 っていた者 たちである またバ ビン トン陰謀事件 を探 っていたRobert

Poley(マ一 口ウ と最後 に会食 した3名 の うちの1人) もこの近辺 に居住 していた。 のちにマ一 口ウのパ トロ ンとな る トマ ス ・ウ ォル シンガムは、 ポー リーの家 で従兄弟 にあた るサー ・フラ ンシス ・ウ ォル シ ンガムか らの指令 を受 けて いた と考 え られ る また1593年 にはエセ ックス 伯爵 の もとで情報収集 を担 当 して いたア ンソニ ー ・ベ イ コ ンも、1594年 に一 時 この地域 に住 んでいた。

ここでマ一 口ウの ロ ン ドン生活 の中で最初 の不祥事 とい うべ き、 ホ ッグ レイ ンでの乱 闘 につ いて考 え る マ一 口ウは宿屋 の亭主 の息子 で あ るW illiam Bradleyにホ ッグ レイ ンで斬 りかか られ るが、続 いてや って きたマ一 口ウの隣人 で詩人 のThomasW atsonが両者 を引 き分 けよ う と して介入 し、 ブラ ッ ドリー と斬 りあ う ブラ ッ ドリーはおそ ら く最初 か らワ トソ ンが 目的で あ ったが、 目指す相手 がいなか ったので、先 に来 ていたマ一 口ウに斬 りかか った と考 え られ る

ク リヤマによれ ば、 この事件 は もともと、 ブラ ッ ドリーがエ ドワー ド・ア レンの兄弟 で劇場座 の支配人 で あ ったJohnAlleynか ら借 りた金 を返 さず、 ジ ョン ・ア レンが法廷 に訴 えた とい う 経緯 に端 を発 して いた。 ワ トソ ンはア レンの弁護士 の義兄弟 で あ った。 この決闘で はワ トソン が、正 当防衛 と認 め られた とはいえ、相手方 の ブラ ッ ドリーを殺害 す る結果 とな り、 マ一 口ウ ともども短期 間で はあ ったが、 ニ ューゲイ ト監獄 に収監 されてい る マ一 口ウはニ ューゲイ ト 監獄 でJohnPooleとい う贋金作 りの名人 と知 り合 ってい る この人物 はカ トリック教徒 であ っ た。 ク リヤマ によるとカ トリックと贋金作 りの組 み合 わせ は偶然 で はない。彼 らはエ リザベス 女王 を廃位 して、 ス コ ッ トラ ン ドのメア リの よ うなカ トリック君主 を誕生 させ るための工作活 動 に従事 してお り、活動資金調達 のため、手 っ取 り早 い手段 を取 って いたのであ る この人物 はまた海軍大 臣LordStrangeの姻 族 で あ るが、 ス トレンジ卿 は隠れ カ トリック と目された こ ともあ る また 「海軍大 臣一座」 はマ一 口ウの芝居 を上演 した ことで知 られて いる

ここで登場 す る ワ トソ ンは1556年 ロ ン ドン生 まれ。 ウイ ンチ ェス ター ・カ レッジとオ ック スフ ォー ドで学ぶが、学位 を取得 せず、 ローマ法研究 のため大 陸 に渡 る ドゥェの神学校 で数 ヶ月過 ご し、 パ リに も行 った よ うで あ る 一旦 帰国 した後、1580年 に再 びパ リに行 き、 この ときサー ・フラ ンシスおよび トマス ・ウォル シンガム と知 り合 った らしい。 イ ンテ リジェンス ・ レポー トは彼 の ことを、パ リに滞在 中のあ りふれた教皇派英 国人 の一人 であると記述 している

マ一 口ウは ワ トソ ンが ギ リシア語 の原作 を ラテ ン語 に翻訳 した 『へ レネ ‑ の略奪(Helenae Raptus)その他 の作 品を英語 に翻訳 した とされ るが、残念 なが ら現存 して いない。

ク リヤマは ワ トソ ンにつ いて、彼 が広 い交友 関係 を持つ人物 であ り、 ホ ッグ レイ ン事件 を も とに調 べれば、 ロ ン ドンにお けるマー ロウの錯綜 した人 的ネ ッ トワー クが解 明で きると指摘 し て い る ワ トソ ン、NicholasFaunt、 トマス ・ウ ォル シ ンガムお よびマ一 口ウはすべて フラ ン シス ・ウォル シンガム と関係 があ り、 お互 いによ く知 った間柄 であ った。 フォー ン トは彼 の主 人 であ るフラ ンシス ・ウ ォル シ ンガム同様、 ピュー リタ ンで あ った。彼 は1554年前後 にカ ン 夕べ リで生 まれ、 マ一 口ウの師で もあ ったキ ングズ ・スクールのMr.Gresshopの もとで学 び、

‑ 183‑

(6)

1572年 にケ ンブ リッジの カイアス ・カ レッジに入 った。 彼 はパ リ滞在 中、聖 パル テル ミ‑の 虐殺 に遭遇 してお り、 これをマ一 口ウに語 った と考 え られ る ワ トソ ンはカ トリック的背景 を 持 ちなが ら、 フラ ンシス ・ウ ォル シ ンガムだけでな くバ ー リー とも関わ り、 また ピュー リタ ン のエセ ックス伯爵、 ス トレンジ卿、 およびカ トリックの親族 や友人 が多 か った ノーサ ンバ ラ ン

ド伯爵 な どの援助 を受 けて いた。

マ一 口ウ と第9代 ノーサ ンバ ラ ン ド伯爵 ヘ ン リー ・パ ー シー (エセ ックスの妹 の夫) との関 係 は、1976年 にR.B.W ernhamが、 ロバ ー ト・シ ドニ ーか らバ ー リー にあてた手紙‑ その中 に 「マ一 口ウが ノーサ ンバ ラ ン ド伯爵 とス トレンジ卿 の愛顧 を受 けている」 とい う箇所 がある‑

を出版 した とき以来注 目され るよ うにな った。 ク リヤマ はマー ロウ とパ トロンとの関係 につ い て、 トマス ・ウ ォル シ ンガムおよびス トレンジ卿 との関係 よ り、 ノーサ ンバ ラ ン ドおよびウ ォ ル ター ・ロー リー との関係 の ほ うが はるか に重要 で あ ると結論付 けて い る ノーサ ンバ ラ ン ド はマ一 口ウ と同年 で あ った。彼 は若 い とき、上級貴族 の若者 の常 で遊蕩 に明 け暮 れていた。 し

ウ ィザ ー ドア ‑ ル

か しなが ら彼 は後 に学 問 に非常 な関心 を寄せ るよ うにな り、賢 者伯爵 と呼ばれ るよ うにな る 彼 は 自宅 に哲学者 や科学者 を集 め、年金 を与 えた。彼 の もとに集 ま った詩人 の中には ワ トソン、

マ一 口ウ、 ロイデ ン、 ピール、 チ ャップマ ンな どが いた。彼 らの 自由な討論 は ロー リーや ノー サ ンバ ラ ン ドを喜 ばせ たが、世 間で は この集 ま りの ことを ̀schooleofAtheisme'(無神論学派) と呼んだ。 ク リヤマは ノーサ ンバ ラ ン ドとマ一 口ウの繋 が りにつ いて卓抜 な指摘 を している ノーサ ンバ ラ ン ドの 肖像画 には天秤 が書 き込 まれて いるが、 その片方、短 いほ うのアームには、

地球 (あ るいは世界) が乗 せ られ、長 いほ うには羽根 が乗 せ られて い る 羽根 の下 にはラテ ン 語 の銘文 ̀Tanti'(̀Worthsomuch'or̀ThusmuchIweightit') が書き 込 まれている。 これ は マ一 口ウのEdwardIIにお けるギ ャヴェスタ ンの台詞(3)にあ るの と同 じ語 で ある

死 の前年

ク リヤマ はマ一 口ウが死 の前年 に引 き起 こ した貨 幣贋造事 件 につ いて検 証 して い る 1592 年 はマ一 口ウに と って運 の悪 い年 で あ った。 この年 はペ ス トが流行 した。623日、枢密 院

はロ ン ドンにおける劇場公演 を、秋 の聖 ミカエル祭 まで停止す るとの布告 を出 してい る これ に先立 つ1592 126日、 サー ・フ ィ リップ ・シ ドニ ーの死後、 跡 を継 いで フラ ッシ ング (オ ラ ンダ の ヴ リシ ンゲ ン) の統 治 者 とな った兄 弟 の サ ー ・ロバ ー ト ・シ ドニ ー は、 「学 者 ChristopherMarlyと金細工 師GiffordGilbertを、英 国 お よびオ ラ ンダの通貨 を偽造 した罪 で 逮捕、本 国送還 した」 との報告書 を大蔵卿バ ー リー に送 った。 マ一 口ウ逮捕 は最初彼 と組 んで この企 て に荷 担 して いたRichardBainesの告発 によ る もので、 彼 はマ一 口ウが この金 を持 っ てスペ イ ンお よびカ トリシズムの側 に寝返 る計画 で あ る と主張 した。貨 幣贋造 につ いて は当局 の指示 で行 って いた とい う説 もあるが、 その場合 は途 中でペイ ンズが裏切 ること自体理屈 に合 わないな ど、 ク リヤマは状況 か ら判断 して これを否定 して い る ク リヤマはマ一 口ウとペイ ン ズにつ いて、情報機 関 に属 して はい るが、 さ して重要 な役割 を担 っていたわ けで はな く、二人

ル‑ティン‑ク

が フラ ッシ ングに滞在 して いたのは、 日常業務 を行 うためで あ った と推測 して い る また ク リ ヤマは、仮 にペイ ンズがケ ンブ リッジ大学 の記録 に残 って いる 「ペイ ンズ」 と同一人物 であ り、

同大学 の卒業生 で あ るとすれ ば、二人 は ともに人文主義 的教育 を受 けて い るので、 自分 たちの 卓抜 した能力 に対 して、正 当な報酬 を得 ていない と感 じただろ う し、程度 の差 はあれ、反権威、

(7)

坂本つや子コンスタンス・ブラウン・クリヤマ著のマ一口ウ伝,ChristopherMarlowe.ARenaissanceLife(IthacaandLondon:CornellUniv.Press,2002)を概観する

反権力 の傾 向を持 っていただ ろ うと推測 している こうい う傾 向を持 った二人が、政府 の統制 が弱 い辺境 の入植地 で、貨幣贋造 とい う手段 で密憤 を晴 らし、 また常時金欠状態であ った生活 を少 しで も楽 に しよ うと した ことはあ り得 ることであ った。

ではペイ ンズはなぜ裏切 ったか とい う点 について、 ク リヤマは両者 の経験 の差 によるもので あると指摘 して い る ホ ッグ レイ ン事件で短期 間 ロ ン ドンの監獄 に収監 された経験 を持つだけ のマー ロウに対 し、ペイ ンズはラ ンスで投獄 され、苛酷 な拷問を受 けた経験 を持 っていた。 こ の経験の違 いがペイ ンズに、犯罪が発覚 した結果 に対す る強 い恐怖感 を抱かせた と考 え られ る

またキ リス ト教 に対す る批判 的態度 について も、 マ一 口ウとペイ ンズでは根本 的 に違 っていた ことが、ペイ ンズのマ一 口ウに対す る悪感情 を生 み出 した と考 え られ る ペイ ンズはラ ンスの 神学校 で経験 した、厳 しく統制 された苦行者 の生活 に代表 され る、 カ トリックの一側面 に反感 を覚えていただけであ るが、 マ一 口ウのキ リス ト教 に対す る態度 は 「神 と使徒 に対す る完全 な 軽蔑」 であ り、 これ はペイ ンズのような人間 には許容 Lがたい態度 であ った。

英 国 に送還 されたマ一 口ウは罰せ られ ることはなか った。 ク リヤマは 「金細工師の腕前 を試 していただけだ」 とい う言訳が当局 に通用 したとも思 えないと言 いつつ、バー リーがかつてマ‑

ロウのMA取得 に尽力 した ときの経緯 を指摘 し、 おそ ら く彼 はマ一 口ウの雇 い主 と してその 人柄 をよ く知 ってお り、 また彼 の ことをまだまだ使 え る人 間であると考 えていたので はないか と推測 してい る しか しなが らこの件 でマ一 口ウは、 「カ トリック側へ走 ろ うと した」 とい う 告発 の内容か ら、身 内にカ トリック教徒が多 く、従兄弟SirWilliam Stanleyによる、 カ トリッ ク信者 を王位 につ けよ うとす る陰謀 に巻 き込 まれか けた こともあ って、 カ トリックとの関わ り を疑われ ることを極力避 けよ うとしていたス トレンジ卿の庇護 を失 うことになる。 このためマ一 口ウは、前 に も増 して、 トマス ・ウォル シンガムの庇護 を もとめ る結果 にな った。

マ一 口ウは159259日に、些細 な騒 ぎを起 こ した廉 で逮捕 され る 当時 は往来 で武器 を振 り回 した程度 で も、「街 の安全 を守 るため」、頻繁 に拘禁 された。 しか しク リヤマはマ一 口 ウが4ヶ月 の間 に2回逮捕 されていることを指摘 し、 また この時の保釈金20ポ ン ドにつ いて も、金 を出 して くれ るパ トロ ンを失 ったマ‑ ロウは、 自分 の財布 か ら出さなければな らなか っ たであろ うと言 って い る

死の年

マ一 口ウの非業 の最期 につ いては、 た とえばThomasBeard,William Vaughanとい った初 期 の批評家 には、「悪行 の報 いで神罰が下 った」 とい う類 の解釈 をす る ものがあ ったが、近年、

よ り論理 的な解釈 が行 われ るよ うにな った。 ク リヤマは 「マ一 口ウの死 の年 であ る1593年春 にはペス トが蔓延 し、社会全体 が沈密 で緊迫 したムー ドにな ってお り、 これがマ‑ ロウの死 の 背景 にな った」 とす る、C.F.ク ッカー ・ブル ックの説 (1930)を支持 してい る

ロウカント‑ズ

この時期 の英 国社会 には、 スペイ ンの持続的脅威、北海沿岸 の低地帯 での軍事作戦 の長期化、

イ ンフ レと高失業率 が深 く影 を落 と していた。無神論者一 当時、何 らかの点 で非正統 的立場 を 取 っていた人 々は こう呼ばれた一 に対す る排斥 はあ ったが、 む しろ外国人排斥 や ピュー リタ ン 排斥 のほ うが よ り激 しか った。 これは ピュー リタ ンの活動家 が英国国教会 の権威 を弱 め ること が、結果 として カ トリックに とって好都合 とな るか らであ った。外国人移住者排斥 につ いては、

商工業 に従事す る英 国人 たちにとって、彼 らの存在 が脅威 とな っていた ことが考 え られ る

159355日には、外 国人居住者 に対す る過激 な攻撃文書 のひとつが、 ブロー ドス トリー

‑ 185‑

(8)

トのオ ラ ンダ教会境 内の塀 に貼 り出 された (オ ラ ンダ教会誹諸 文書事件) 1971年 に この誹 諸文書 の現物 が発見 されたが、 そ こには 「タ ンパ レン」 の署名 が あ り、 同 じくマ一 口ウ作 の戯 曲で あ る 『マル タ島のユ ダヤ人』(TheJewofMalta)や、『パ リの大虐殺』(TheMassacreatParis) への灰 めか しもあ った。誹諸文書 の作者 はマ一 口ウ賛美者 の一人 で あ ると考 え られ るが、 これ は当時 の社会状況 の もとで は、劇作家 に迷惑 が及 ぶ行為 で あ った。

枢密 院 の指示 で犯人探 しが始 ま り、ThomasKydに嫌疑 がか け られ た。CharlesNichollは この理 由につ いて、 キ ッ ドは一 時マ一 口ウと同室 で劇作 を行 って いた し、 マ一 口ウ作 品に も関 わ って いた と考 え られてお り、 またキ ッ ドの作 品で あ る 『スペ イ ン悲劇』(TheSpanishTragedLy) の内容 な どか ら、反体制 的であ ると見 な されて いたためで ある と して い る『タ ンパ レン大王』

(TamburlainetheGreat)が 出版 された時、題名 を記 したぺ ‑ ジに作者 マ一 口ウの名 が書 かれて いなか った とい う例 を見 て もわか るよ うに、16世紀 の芝居制作 は現代 の映画 の場合 と似 て い て、 内輪 の関係者以外 には誰 が作者 であるか知 られ ることがないのが普通 であ った。 キ ッ ドに

ス ク リブ ナ ‑

嫌疑 がかか った今一 つ の理 由 と して、彼 が父親 の代 か らの公証人 で あ った ことが関係 してい る と考 え られ る。 ほ とん どの人が何 とか読 み書 きが出来 る程度 の教育 しか受 けていない時代 にあ っ て は、掲示映えのす る見事 な文字 が書 ける技術 は少数者 の もので あ った。 キ ッ ドは 自身 の関与 を否定 したが、 同時 に誰 の関与 も知 らない と言 明 した。 しか し彼 の持物 の中か ら異端 的内容 の 写本 が見つか った。 エ リザベ ス朝 においては、無神論 と反政府 的扇動 は、神 によ って認可 され た国家権力 に対す る反逆 であると見 なされた。 キ ッ ドは面倒 を避 けるため もあ って、 これをマ一 口ウの ものであ る と言 った。 これ は事実 であ ると見 な して も良 い。 ク リヤマは ここで、 この一 連 の事件 はかつて ウ ォル シ ンガムの部下 であ り、今 はエセ ックス伯 に仕 えている人物 が仕掛 け た民 であ るとす るニ コル の説 を否定 し、 問題 の文書 はJohnProctor FalloftheL・ateArrianの 一部 であ り、 この本 自体 はカ ン夕べ リにおけるマー ロウの師であ った ジ ョン ・グ レシ ョップ も 大 っぴ らに蔵書 の 中に加 えていた ことを指摘 して い る 当局 はケ ン トの トマス ・ウ ォル シ ンガ ム邸 その他、 マ一 口ウの立 ち寄 りそ うな場所 を探 して彼 を召還 した。 ク リヤマはマ一 口ウが証 人 と して形式的 に喚問 されたのであ って、当局が彼 自身 に関心 を示 したのではないとす るブル ッ

クの 説 を支持 してい る

「オ ラ ンダ教会誹諸文書事件」 の背景 には、枢密 院の メ ンバ ー とな ったエセ ックス とセ シル 父子 の勢力争 いが あ った と考 え られ る ク リヤマは、現存す るエセ ックスの手紙 を調べて いた F.S.Boasが、枢密院 とバ ー リー父子 に仕 えていた諜報員Cholmeleyについて、後 日彼がエセ ッ クスの もとで働 くよ うにな った証拠 を発見 した こ とに言及 して い る セ シル はF.ウ ォル シ ン ガム死後、彼 の作 り上 げたスパ イ組織 を受 け継 いでお り、 マ一 口ウ も引 き続 きこの組織 に関係 して いた と思 われ る 一方、 エセ ックスが ア ンソニ ー ・ ベ イ コ ンを ブ レー ンに起用 して情報 収集 を行 って いた ことは よ く知 られた事実 で あ る ク リヤマはエセ ックスが、 た とえば1594 年 のRoderigo Lopez医師逮捕 に見 られ るよ うに外 国人排斥 を行 った り、 コルマ リーをは じめ

とす る、 以前F.ウ ォル シ ンガ ムの下 にいた諜報員 た ちを使 って無神論者 の監視 に力 を入 れ た りした こ とにつ いて、 「セ シル父子 やカ ン夕べ リ大主教 ホイ ッ トギ フ トはカ トリックや過激 な どュ‑ リタ ンには神経 を尖 らせていたが、無神論者 や異端者 の動 向はあま り気 に していなか っ た、 そ こでエセ ックスは彼 らの関心 の薄 い分野 を引 き受 けることで、女王 に 自分 の力量 を示 そ うと したので あ る」 とい う説 につ いては同意 しなが らも、 ニ コルの 「エセ ックスは コルマ リー を使 ってマ一 口ウを攻撃す ることで ロー リーを陥れ よ うと した」 とい う説 には、 ロー リーは当

(9)

坂本つや子 コンスタンス・ブラウン・クリヤマ著のマ一口ウ伝ChristopherMarlowe:ARenaiJJanCeLife(IthacaandLondon:CornellUniv.Press,2002)を概観する

時す で に侍女 との秘密結婚 によ ってエ リザベ ス女王 の不興 を買 い、宮廷 での影響力 を失 ってお り、 エセ ックス も彼 の ことに関心 はなか った と して反論 してい る さ らにク リヤマは、 コルマ リーはエセ ックスの意 を受 け、劇作家 と して熱狂的な支持者 を得 て い る上 に、 ロー リー とのつ なが りを持 ち、無神論者 であ るとい う評判 が立 って いたマ一 口ウを利用 して、バ ー リー父子 を 攻撃 しよ うと したのだ と結論付 けている また ク リヤマは 「オ ラ ンダ教会誹諸文書事件」 を仕 掛 けたのは コルマ リーであるとす る点ではニ コル説 を支持 しなが らも、謀反 を起 こす直前 にシェ イ クス ピア作 の 『リチ ャー ド2(TheTragedLyOfRichardtheSecond)を上 演 させ た とい うエ セ ックスの有名 なエ ピソー ドに言及 し、 エセ ックスは演劇 の影響力 を よ く知 ってお り、張紙 の

「タ ンパ レン」 へ の言 及 はマ一 口ウ自身 に対 す る攻撃 で はな く、 む しろマ一 口ウの作 品 によ っ て引 き起 こされ る市民感情 を利用 して政情不安 を引 き起 こそ うとす る意 図があ った と推論 して いる

死の真相

謀殺説 が依然 と して根強 いマ一 口ウ殺害 の原 因 につ いて は、 ク リヤマは勘定書 きをめ ぐる ト ラブル が原 因で あ る とい う単純 な説 を支持 して い る ク リヤマはマ一 口ウがIngram Frizerに 誘 われてデ ッ トフ ォー ドのエ リナ一 ・ブルの家 に行 った理 由につ いて、 当時のデ ッ トフォー ド はテムズ川沿 いの小 さな港 町であ り、 「オ ラ ンダ教会誹諸文書事件」 の証人 と して、枢密院 の 召喚 に応 じるため、 ペ ス トの脅威 に もかかわ らず ロ ン ドンを離 れ ることがで きなか ったマ一 口 ウに とって、郊外 で1日の息抜 きをす るには最適 の場所 で あ った と推測 して い る 未亡人 エ リ ナ一 ・ブル につ いて は、彼女 はおそ らく仕 出 し屋 と提携 して、私 的なパ ーテ ィの会場 を提供す るのを生業 と してお り、 バ ー リーの遠 い縁者 であ るとはいえ、バ ー リーがマ一 口ウの死 に何 ら かの関与 を してい ると考 え るには遠す ぎる縁 であるとしてい る マ一 口ウの懐具合 につ いては、

当時劇場 はペ ス トのため閉鎖 されてお り、上述 の理 由か ら諜報活動 に も従事 で きず、収入 の道 は閉 ざされていた。 また ロ ン ドンに足止 め されている間の生活費 も必要 であ った七 め、平生 よ りも金 が不足 していた と考 え られ る 従 って彼 が招待客 と してすべ て支払 って貰 え ると期待 し ていた に もかかわ らず、支払 うよ う求 め られた数 シ リングは、 その時の彼 に とって決 して 「 かな」金額 ではなか った と考 え られ る またク リヤマはフライザーをは じめ とす るそ こに集 まっ た人 々は、法律 の知識 を持 って世渡 りをす る人 々であ って、武力 を用 いることは得意 ではな く、

む しろ 4名 の中ではマ一 口ウが一番粗暴 で あ った と指摘 してい る さ らにマ一 口ウ殺害時、 同 家 には他 に も多 くの客 が居合 わせてお り、 目撃証言 を してい る とい う状況 を考 え ると、仮 に劇 作家一人殺害 す る積 りな ら、職業 的殺人者 に とって、 当時の ロ ン ドンには暗 い路地 や人気 のな い街道等、 い くらで も適 当な場所 があ ったはずであ るので、 そんな人 目につ きやす い場所 を選 ぶ はずがない。 また即死 には至 らない眼嵩を狙 うとい うの もプロの手 口とは言 えず、通常 は心 臓 や喉 を狙 うものであ るとい う、非常 に説得力 のあ る推論 を してい る

死後

マ一 口ウはエ リナ一 ・ブルの家か ら程近 い聖ニ コラス教会 に運 ばれ埋葬 された。 ク リヤマは DavidCressyやA.D.W raightの研究 を踏 まえ、過去 にマ一 口ウが埋葬 された場所が、現在建 っ てい る聖 ニ コラス教会境 内の どの位置 であ ると推定 され るのかを述べ、 また行 き倒 れを も手厚 く埋葬 した当時の習慣 か ら推 して、 マ一 口ウ も埋葬 の時 には しか るべ き儀式 を行 な って貰 えた

‑ 187‑

参照

関連したドキュメント

RNAi 導入の 2

一五七サイバー犯罪に対する捜査手法について(三・完)(鈴木) 成立したFISA(外国諜報監視法)は外国諜報情報の監視等を規律する。See

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

大阪府では、これまで大切にしてきた、子ども一人ひとりが違いを認め合いそれぞれの力

私たちは、私たちの先人たちにより幾世代 にわたって、受け継ぎ、伝え残されてきた伝

子どもたちが自由に遊ぶことのでき るエリア。UNOICHIを通して、大人 だけでなく子どもにも宇野港の魅力

一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額