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RenectionsonTheRecordofLIN-C I(Ⅲ-1) 『臨済録』管窺(三之-)

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(1)

弘前大学教育学部紀要 第

8 6

号 :

9 ‑3 3( 2 0 0 1

年10月)

Bu l l . F a c . Ed u c . Hi r o s a k iUn i v . 8 6: 9‑3 3( Oc t . 2 0 0 1 )

『臨済録』管窺 ( 三之‑)

Re ne c t i o nso nTheRe c o r do fLI N‑C H I( Ⅲ‑1 )

山 田 史 生*

f

umi oYAM A*

論文要 旨 行為論 の観点か ら 『臨済録 』 の幾段かを吟味す る。

キーワー ド :行為 意図 因果性

一 行為 とは何か

ファウス トは尤犬 と一緒 に書斎で暖炉にあた り なが ら 『 新約聖書』「ヨハネ伝福音書」の努頭 「 太 初に言あ り」に於 ける 「 言」を奈何 に翻訳すべき か思案 してい る ( 『ファ ウス ト』第一部 『 鴎外 全 集』第十二巻、九八頁) 0

か う書いてある。「 初に ロゴスあ りき。語あ り き。」

もう此所で己はつか‑ る。誰の助 を借 りて先 へ進ま う。

己には語をそれ程高 く値踏す ることが出来ぬ。

なん とか別 に訳せんではなるまい。

霊の正 しい示を受 けてゐるな ら、それが出来 よ う。

か う書いてある。 「 初に意あ りきQ」

軽率に筆 を下 さぬや うに、

初句に心を用ゐんではなるまい。

あ らゆる物を造 り成す ものが意であ らうか。

一体か う書いてある筈ではないか。「 初 に力あ りき。 」

併 しか う紙に書いてゐる うちに、

ど うもこれでは安心出来ない と云ふ感 じが起 る。

はあ。霊の助だ。不意 に思ひ附いて、

安ん じてか う書 くO 「 初に業あ りき.」

ファウス トは 「 語 ・意 ・力」の訳語に満足でき ず、坤吟の果てに 「 業」の語に想到 して漸 く安堵 す る。 「 業」 とは 「 わ ざ」 とい うル ビか ら推 して

9

「 行為」の意であろ うO因に当該箇所 を柴田期は

「 は じめに行為あ りき !」 ( 講談社 ・ 七六頁) と訳 し、池内紀は 「 初 めに行為あ りき」 ( 集英社 ・ 六一 頁) と訳 している。

「ロゴス」のために 「 行為」は甚だ しき意訳であ る。 ファウス トの 「 語 をそれ程高 く値踏すること が出来ぬ」 とい う言に就いて考 うるに,彼は存在 の根源を支 うるに言語 に煉 らず して行為にそれを 見出 した とおぼ しい。 しか し謂 うところの行為が 単なる言語否定 弓 巨 思量でない ことは無論である。

ファウス トは 「 語 ・意 ・力」を綜合せる生の営み を託す るに 「 業 ・行為」の語 を以てす るのである。

「 なん とか別に訳せんではなるまい」と云 うこと より推すに, ファウス トが行為 と言説 とを区別 し ていることは明 らかである。何気な く使 っている

「 不言実行」「 言行一致」とい った言葉に徴す るに, 吾々 も亦行為 と言説 とを区別 していることは明 ら かである。尤 も,オーステインの言語行為論 に拠 れば,話す ことは行 うことである。奈何なる発話 も何 らかの意味に於て行為遂行的であ り,「 世界に 於 ける事実 を記述 し,その真偽を定めることだ け が言語の果たすべき役割である」 とい った記述主 義は誤謬である とい うオーステインの主張は説得 力に富む。

若 し世のあ らゆる事柄 を悉皆 「 行 うこと」の一 部 と看徹す ことが可能であるな らば ( この ことは 世のあ らゆる事柄が ( 別に道徳的な理由か らでな くとも)禁止 され得 る とい う一事 を以て して も証 す るに足 ろ う) ,ファウス トが行為の訳語に想到 し て 「 安ん じ」ることの不可なることは疑いを容れ ない。のっけか ら脱線するよ うで恐縮だが,句を

*弘前大学教育学部国語 国文科教室

De pa r t me ntofJ a pa n e s eLa ng ua gea ndLi t e r a t u r e , Fa c ul t yofEd uc a t i o n,Hi r os a k iUni ve r s l t y

(2)

摘んでウィ トゲンシュタインの 『 確実性の問題』

を一顧 しておきたい。

証拠を基礎づけ,正当化する営みはどこか で終 る。‑ しか し,ある命題が端的に真 と

して直観 され ることがその終点なのではない。

すなわち言語ゲームの根槙になっているのは ある種の視覚ではな く,われわれの営む行為 こそそれなのである。 ( 二〇四)

こう言 ってみ よう。論理学の命題ばか りで な く経験命題の形式を具えた命題 も, 思想 ( 言 語)の操作の基盤をかたちづ くるものである。

このことは,「 私は‑‑を知 っている」とい う 仕方で確認 されるのではない.「 私は・ . ・ ‑せ 知 っている」は私の知識を言いあ らわ し,それ は論理学的な関心の対象にはな らないのであ る。 ( 四〇一)

この指摘に含まれている 「 経験命題の形式 を具えた命題」 とい う言葉か らして,実にま ずい表現である。それはさまざまな対象に関 する言明のことなのだ。 しか もそ うした言明 は,偽であることが証明されれば別の言明に 置き換えられ る仮説 として思考の基盤になっ ているのではない。‑ 安ん じて こ う書 く。

「 初に業あ りき。 」 ( 四〇二)

「 地球は造かな昔か ら存在 していた,とわれ われは想定す る」 とか,それに類 したことを 私が言えば, これは勿論おか しく聞える。そ んなことを想定 しなければな らない とい うの がおか しいのである。にもかかわ らず この命 題は,われわれが営む言語ゲームの体系全体 の基礎にあたるものである。 この想定は行動 の基盤であ り, したが って当然思考の基盤で もある, と言える。 ( 四一一)

「 地球 は遁かな昔か ら存在 していた」 といった

「 経験命題の形式を具えた命題」は,経験的に真 偽を検証すべき筋合の科学的な仮説ではない。そ れは疑 うことがナンセンスであるよ うな信念であ り,それ故に 「 行動の基盤であ り」且つ 「 思考の 基盤で もある」のである。

正当化 とい う営みは正当と不 当とい う両端を要 求する。歴史家が 「 邪馬台国は実在 したか」を議 論する時,卑弥呼が居た大昔にも地球が存在 して いたであろ うことを疑いは しない ( それを Lも疑 えば抑 も議論が成立 しない) 。 歴史家は世界の在 り

方に関す る基本了解 とい う土俵を踏まえつつ議論 を戦わせるのである。

斯かる基本了解 としての世界の在 り方は,別に 自明であるが故に疑いを免れているわけではないO それを疑 った 目には議論そのものが成 り立たな く なるが故に疑いを免れているに過ぎないO現に足 元に踏んでいる大地の存在を疑お うとすれば,わ た くLは 自らの正気をも疑わねばな らない ( が故 にわた くLが大地の存在を疑 うことは叶わない) 0 その世界に生きている限 り,当の世界の在 り方を 拒否す ることはできない。

「 言語ゲームの根砥」を成す ものは,正当化 とい う営みが不要である ところのもの,即ち観照 ( チ オ リア)たる 「 視覚」ではな く実践 ( プラクシス) たる 「 行為」である。故にウィ トゲンシュタイン も亦ファウス トに倣 って 「 初に業あ りき」 と安ん じて書 くのである。

ファウス トや ウィ トゲンシュタイ ンは 「 行為」

とい う語に想到 して安堵 した。不個なる哉,わた くLは行為の概念を狙にのぼそ うとして棺 ミ戸惑 う。

行為は何 らかの結果をもた らす。故にその行為 の意味は,膏に行為者 と連関に於てのみな らず, 行為の現場に居合わす者な どの第三者 との連関に 於て も決定 され ざることを得ないであろ う。若 し 行為が行為者 と第三者 とい う二つの視点か ら見 ら れることを避けられぬ とすれば,行為者か らの意 味づけ と第三者か らのそれ とが一致するとは限 ら ず,故に 「 初めに行為あ りき」 と記 して惜然たる

ことは叶わぬ よ うにお もわれ る。

又 「 初めに行為あ りき」 と記そ うにも,対象た る行為が奈何なるものか,わた くLには分明でな い。行為の始ま りと終わ りとが何時か ら何時まで か,わた くLは確定 し得ない。食事 とい う行為を

「 いただきます」か ら 「 ごちそ うさま」まで とい う具合に限定することはナンセンスのよ うな気が する。

或る行為について,それをグラスを運ぶ腕の動 き と捉えるのか,グラスの液体の噴下 と捉えるの か,或いは酔払 うことと捉えるのか,その切断の 仕方 も亦確定できそ うにない。何処で切断 して も 随意だ とい うわけにはゆかない。酒を呑んで酔払 うことは酔払 うこととして扱われ,妻に叱 られ る ( 単なる腕の動きだ と主張 して も無駄である) 0

一見任意 ともお もえる切断の仕方は,何を基準

(3)

『臨済録』管窺 (三之‑)

として然 るべ く定め られているのであろ うか。按 ずるに,行為の意味を決めるところの切断の仕方 自体が当の行為に依 って左右 されているのではな かろ うか。即ち行為の切断の仕方は,その意味 と の連関に於て決定 されているのではなかろ うか。

同じく醗酎 して も,妻の機嫌が好ければ ( 或い は妻 も一緒に呑んでいれば)そ うひ どくは叱 られ ない。行為の切断の仕方,つま り行為の意味は, 全体的なコンテキス トとの連関に於て決定 され る。

然 く循環が存するな らば,行為が先か,意味が先 か,遥かに定め難いようにお もわれ る。

斯 くして個々の行為を単独にあげつ らうことは 無意味に似るが, さりとてコンテキス トを考慮 し ようとす ると今度は行為の意味を決定することが できな くな りそ うである‑ が, これは木 己憂か も しれない。何故 と云 うに,わた くLが或る出来事 を行為 と呼ぶ場合,その行為の意味が確定 されて いる必要はないか ら。

行為は行為者 と第三者 とい う二つの視点か ら見 られ ることを避 けられぬが,極端な話,或る行為 が独 りわた くLに とってのみ意味を有す る場合で も,その出来事は行為 と評 して可であろ う ( 他人 にそれを行為 として認めよと強要す ることはでき ないが) 。何を以て謂 うか。想 うに行為の結果が直 ちに行為の意味ではないか ら。

行為には,結果 ( 屡 ミそれは他者か らの評価で ある) としての意味だ けではな く,行為 自体の意 味 とい うものもあろ う。価値 とい う秤に載 らぬ意 味をも行為は具え得る。 ピアノの稽古に励んでい る娘は,縦令上手に弾けるよ うにな らず とも,一 心に稽古す るとい う喜びを味わ ったのである。

更に云えば,行為の意味は生み出そ うと意図 し て生み出されるとは限 らず,行為のプロセスに於 て料 らず も実現する とい うこともあろ う。暇潰 し にピアノを弾いていただけなのに,ふ とした拍子 に妙に上手 く弾けて,俄然やる気が出て くること もある。

わた くLは世界に対 して開かれた姿勢 をとって いる。世界は様々の在 り方でわた くLに対 し,そ の世界の在 り方に対することに依 ってわた くしの 在 り方は変化する。わた くLと世界 とは‑如 とな ってシステムを構成 している。わた くLと世界 と は制御 と被制御 といったスタティ ックな階層関係 にはな く,双方か ら生命的に働き掛け合 うところ のダイナ ミックな間柄にある。わた くLは世界 「 の

ll

中で」行為するのではな く世界 「と共に」行為す るのである。

行為に挺身する者は, 自らの行為に対 して傍観 者であることは許 されない。行為はわた くLに働 き掛け,その働き掛けに応 じてわた くLは行為の 意味を定める。行為その もの も亦安定することは 許 されない。或る行為は他の複数の行為 との連関 に於て為 され る。相鍾いで新たな行為が遂行 され ることに依 って,行為全体のコンテキス トが更新 せ られ,それに伴 って行為の意味づけは不断に変 化せ ざることを得ない。斯かる全体論的な視座に 関 しては 『 津沌 』 序章 ( 二六頁〜三八頁)第七章

( 三三九頁〜三四二頁)を一瞥 されたい。

行為論 とい う視座か ら 『臨済録 』 を吟味するに 際 して,わた くLが戸惑わざるを得ぬ事由は分明 である。わた くLは世界 「 の中で」行為するので はな く世界 「と共に」行為するのであるか ら,必 ず全体的なコンテキス トとの連関に於て行為を捉 えねばな らない。然るが故に 「 行為 とは何か」 と 間お うにも,「 行為 とは‑‑‑である」と内包を語 る ことに依 って本質規定することは至難であ らざる を得ない ( まだ しも 「 ‑‑‑は行為である」 と外延 を示す方が見込みがあ りそ うである) 0

わた くLは行為 とい う概念の扱いに くさに逢著 し,正直の話,瞳 目して云 うところを知 らない。

しか しなが ら,‑禅者たる臨済が壕を形而上学的 な行為論に容れ よ うなどとい う存念を持たぬ こと は疑いを容れぬにも拘 らず,わた くLには 『臨済 録』の所説が行為論 と交渉を持つ ことも亦分明で ある とお もわれ る。臨済の説 くところを検するに, その行為の本領を説破 し得て妙なることは近頃の 哲学者の行為論に比するに遜色あるを見ない。わ た くLは巳む ことを得ず して行為論 とい う視座か

ら 『臨済録 』 を吟味する。

わた くLは難解の事を叙するに簡明の筆を以て する心算ではあるが,わた くしの所見が論文の体 を成すか ど うか頗 る覚束ない。わた くLは 「 初に 業あ りき」 と安ん じて書 くことを得たファウス ト や ウィ トゲンシュタインに視て恒梶た らざること

を得ない。以下の論考はわた くしの途方に暮れた 顔や迂閥に洩 らした声に似るであろ う。

二 行為 と意図

(4)

わた くLは多様な営み を捉えるに行為の概念を 以てす るが,それは奈何なるコンテキス トに於て であろ うか。わた くLは 日常生活にあって行為 と い う概念を使 って何 を しているのであろ うかO

わた くしの行為 とは 「 出来事その もの」ではな く 「 出来事を生 じさせ ること」である。わた くし の観察す る ところを以てすれば,行為 とい う概念 は 自然界を模写す るための ものではない。 この こ とよ り推すに行為 と非行為 との区別は 自然界の事 象に基づいて決定 さるべ き ところではなかろ う。

「 出来事その もの」ではな く 「 出来事 を生 じさせ ること」である とい うことに由って観れば,わた くしの行為 とは動詞の形で記述 し得 るわた くしの 振舞いの謂であろ う。但 し動詞の形で記述 し得る 振舞いが全て行為 と呼ぶ に値す るわ けではない。

意志 と無関係に生ず ること ( 歳 を とる・ 吃驚す る・

舷皐がす る) , 意 に反 して生ず ること( 風邪をひ く・

目に焼 ける ・滑 って転ぶ)を行為 と呼ぶ ことは蹄 繕われ る。

何故 に蹄樺われ るのであろ うか。素朴に考える な ら 「 単に為 され ること」 と 「 敢 えて為す こと」

とは違 うか らである。では 「 単 に為 され ること」

と 「 敢 えて為す こと」 とは どの よ うに違 うのであ ろ うか。

其一。行為は 「目的」を持つ。わた くLは喉の 渇きを癒すためにビール を飲む。「 欠伸 をす る」と いった生理的な行動や 「 手が上がる」 といった反 射的な動作は,意識的に 目的を持 って遂行 され る わ けではない。

其二。或る目的の下に遂行 され る行為は 「 評価」

を伴 う。或る行為は潔い行為 として賞賛 された り 恥ずべ き行為 として非難 され る とい う具合に評価 の対象 となる。散歩の途 中でビールの空缶を道端 に捨てることは 「 悪い」 ことだ と評価 され る。

其三。行為は特定の行為 「 主体」によって遂行 されてお り,その行為の もた らす結果は 「 責任」

とい う形で行為主体 に帰せ られ る。わた くLが ビ ールの飲み過ぎで二 日酔 いになって も,それは 自 業 自得である。

其四。行為は 「 規則」によって意味づけ られ る。行 為が 目的 ・評価 ・責任を伴 うのは,それが特定の 規則を前提 としているか らである。それが規則 に 適 っているか規則 に反 しているかに依 って,その 行為は許 された り禁 じられた りす る。 ビールの空 缶を道端に捨てることが悪いのは,或る規則 ( 規

範 ・制度 ・法)に照 らしての ことである。

行為 と聞いてわた くしの頭 に浮かぶ ところの要 件は略上述の如 くである。只憾む らくは,挙 ぐる や否や相鍾いで疑問が生ず ることを奈何 ともな し 難い。

想 うに 「 敢えて為す こと」が必ず 目的 ・評価 ・ 責任 ・規則 といった特徴を有す る とは限 らない。

目的が意識 されない行為や善悪の沙汰 を超 えた行 為 もあろ う。振舞いは物理的 ・心理的な現象 とし ての特徴に拠 ってのみ行為 と目され るわけではな い。人間関係のネ ッ トワークに組み込 まれ,目的 ・ 責任 ・規則 といった概念の適用対象 と看倣 された 時,それは行為 と呼ばれ る。振舞いを して行為た らしめるネ ッ トワークは, 目的 ・責任 ・規則の他 にも動機 ・価値 ・自由 ・権利 ・義務な どの移 しい 概念で編 まれてお り,その編 目に於て或る振舞い が行為 として関係的に偶 ' ,結節す るのであるo

「 欠伸 をする」といった生理的な行動や 「 手が上 がる」 といった反射的な動作は, 目的を持たず, 評価を受 けず,責任 を問われず,規則 に縛 られな い 「 単に為 され ること」である。 しか し状況次第 では, 目的を付度せ られ,責任 を問われ る 「 敢え て為す こと」 と看倣 され るQ会議の最 中に迂閥に 欠伸 を洩 らす と,「 退屈な演説をやめさせ よ う」と い う目的の下に欠伸を した と発言者にお もわれ, 脱まれた り,発言を求め られた りとい う形で責任 を問われ る。道 を歩きなが ら何気な く手 を挙げる と,「 タクシーを停めよ う」とい う目的の下に手を 挙げた と運転手 にお もわれ,御免な さい と謝 った り,仕方な く乗 り込んだ りとい う形で責任を取 ら され る。

何 も考 えずボンヤ リす ること,その こと自体は 行為でない。 しか し娘 との遊ぶ約束を忘れてボン ヤ リす ることは意思表示にな りかねない。休暇を ボンヤ リと過 ごすために綿密 に計画 を立てること もあろ う。 同一の振舞い も,或る脈絡では行為で な く,或る脈絡では行為 となる。甚だ しきに至 っ ては 「 何 も為 さない」 ことが却 って重大な行為 と 看徹 され ることもある ( 宿題 を して こない,左右 の確認を怠る) 。要するに,為す ことが行為でな く, 為 さぬ ことが行為である場合は幾 らで もあ り得 る。

果 して然 らば 「 単に為 され ること」 と 「 敢えて為 す こと」 とを峻別す るメル クマール とは何であろ

うか。

わた くLは感に堪 えなが ら境か ざることを得な

(5)

『臨済録』管窺 (三之‑)

い‑ 行為はわた くしの身に生起す る出来事の う ちで最 も自明である と看倣 されがちであるが,負 も自明な ことは往々に して最 も不明である, と。

行為 と非行為 とを区別す る本質的な条件につい て,常識に富める人は旧に依 って行為者の 「 意図」

がそれである と答 えて垂 も退転せぬであろ う。「 火 山の噴火」 とい う外側か ら眺め られた物理的な出 来事 を 「 火山の行為」 とは呼ばぬ よ うに,行為は 内側か ら意図を持 って営まれる出来事であ らねば な らない, と。 しか し斯かる常識的な考 えはライ ル 『 心の概念』( みすず書房)を読む と木 っ端微塵 になる。

ライルは 「 機械の中の幽霊」は追放 されねばな らない と云 う。機械の中の幽霊 とは 「 身体の中に 宿るが身体 とは種 を異にす る存在者 としての心」

である。機械の中の幽霊の追放は,行為論に就い て考 える場合,行為の心的原因 としての意図なる 心的状態‑の攻撃 とい う形を とる。

上堂。云 く 「 赤肉団上に‑無位の真人有 って, 常に汝等諸人の面門 よ り出入す。未だ証拠せ ざる者は看 よ看 よ」。時に僧有 り,出でて問 う

「 如何なるか走れ無位の真人」。師, 禅林を下 って云 く 「 遣 え道 え」。其の僧擬議す。師,托 開 して 「 無位の真人走れ什歴の乾尿櫛ぞ」 と 云 って便 ち方丈に帰 る。 ( 二〇頁)

わた くLは行為を 「 機械 と機械の中の幽霊」 と い う比境で把 えがちである。機械 とは身体であ り, 機械の中の幽霊 とはそれ を操 る心的な何者かであ る,と。所引の 『臨済録』の一段で云えば , 「 赤肉 団」は機械であ り 「 ‑無位の真人」は機械の中の 幽霊である, と。

日常生活 を健全に営んでいる最 中,わた くLは 自らの意図を とりたてて意識す ることはない。 自 転車で娘 と散歩に出掛 ける時,わた くLは 自分が 自転車に乗 っていることや行き先の公園のことは 意識 してお らず,寧 ろ空の青 さや風の涼 しさに気 を とられている。

意図 と痛み とは違 う。痛みは 自覚 されていなけ れば痛みでないが,意図は 自覚 されてお らず とも 意図 として成 り立 っている。仮に行為者の心の中 を覗 くことができて も,看取せ られ るのは 「 当人 が今 どのよ うな状態であるか」に過ぎない。「 喉が 渇いている」「 腹が減 っている」とい う現状 を覗 く

1 3

ことは,意図の記述ではな く痛みの報告に似 る。

加 えて現状の報告は,それが奈何なるコンテキ ス トで語 られ るかに依 って, さまざまに受け取 ら れ る。喉が渇いている とい う意識状態は 「 熱いお 茶 を飲 も う 」 「 冷えた ビール を呑みたい 」 「 いや水 分を摂 るのは控 えよ う」等々の さまざまの相貌の 下に受け取 られ得 る。

喉が渇いているわた くLは,冷蔵庫 を漁 って ビ ールを見つ ければビールを呑むであろ うし,見つ け られなければ水道の蛇 口を捻 って水を飲むであ ろ う。冷蔵庫にビールが見つか らなか った時,若 し是が非で もビールを呑みたければ,わた くLは 断固 として水道の蛇 口は捻 らず,近所 の酒屋にビ ールを買いにゆ くであろ う.更に買 ってきたど‑

ルを注 ご うと愛用のジ ョッキを取 り出 した時, ジ ョッキを落 として割 って しまったな らば,そのジ ョッキで ビール を呑む ことを庶幾 していたわた く Lは飲む ことを諦めるか もしれない (し,容れ物 にこだわ らなければ別のコップで呑むであろ う) 。

現実に遂行 される行為のス トー リーは一通 りで あるが,それは無数の可能性か ら選ばれた掛 け替 えのないス トー リーである。世界の状況の異な り に応 じて,わた くしの身体の振舞いは変わ り,わ た くしの意図 も亦変わる。若 しわた くLが 自らの 意図を自覚す る とすれば,それはわた くしの行為 を包含 した世界の相貌を 自覚す ることであろ う。

斯 くして 「 心 ・身体 ・世界」 とい う三分法に拠 っ て行為を考 えることはできない。行為は,世界に 於て,世界 と共に,遂行せ られ る。

己の行為の主体である 「 無位の真人」は,世界 に於て,世界 と共に,働 くものである。故に苛 も 無位の真人を舌頭にのぼすか らには 「 如何なるか 走れ無位の真人」 と他人行儀 に語 ることはあ り得 ない。

わた くLが ドアを開けた時, ドアが開いた原因 はわた くLに在 る。風が吹いて ドアが開いた時, ドアが開いた原因は風に在る ( が故 にそれは誰の 行為で もない)。わた くしの手が突然痘撃 を起 こし て ドアを開けて しまった場合は,縦令わた くしの 身に生 じた出来事が原因で結果を もた らしたにせ よ,わた くしの与 り知 らぬ形で生 じて しまった出 来事が原因で結果が もた らされたので,それはわ た くしの行為 と呼ぶに相応 しくない。

わた くLが ( 手の疫撃な どの不随意 の原因のせ

いでな く) ドアを開けた時,何故 に ドアが開いた

(6)

原因はわた くLに在ると評 されるのであろ うか。

わた くLが ドアを開けよ うとい う意図を持 って いたか らであろ うか。 しか し 「ドアを開けよ うと い う意図を持つ」 とは何をすることであろ うか。

「ドアを開けよ う」 と咳 くことであろ うか。 ドア を開ける自分をイ メージすることであろ うか。然 らざることは言を須たない。果 して然 らば,抑 も

「 意図を持つ」 とい う心的状態などは存在す るで あろ うかO

仮に意図を持つ とい う心的状態が存在す るとし て も,事態に改善の見込みはない。その理由をラ イルはこ う論 じている。

私が引き金を引 く場合,それを意志せ ざるを えない とす るな らば,引き金を引 くとい う行 為が 「 意志による」行為であった と述べるこ とは不合理であろ う。他方,私が引き金を引 くことを意志する とい うことがその理論によ って規定 されたよ うな意味において意志によ るものである とするな ら,その意志作用はそ れに先行する他の意志作用によって惹き起 こ された ものでなければな らない。 しか し,今 度はその意志作用はそれ とは別の意志作用に よって惹き起 こされた ものでなければな らな い。そ してこの過程は無限につづ くのである。

( 『 心の概念』八七頁)

「ドアを開けよ うとい う意図を持つ」ことが ドア を開ける自分をイ メージすることである と仮定す る。そ してわた くLは然 くイ メージすることに困 って実際に ドアを開けるとい う傾向を持 っている。

若 し突如 として ドアを開けるイ メージが湧き起 こ り,そのせいで ドアを開けて しまったな らば,そ れはわた くしの行為 とは看倣 されない。それがわ た くしの行為であるためには,わた くLはイ メー ジを受動的に引き受けるのであってはな らず,そ のイ メージを自ら能動的に惹き起 こさねばな らな い。要するにそのイ メージも亦 「 わた くし」が原 因で生 じた ものでなければな らない。斯かる議論 に構造的な欠陥が潜んでいることは見易い ところ である。

ドアを開けたことがわた くしの行為であるな ら ば,それはわた くLが然 く意図する とい う心的行 為が原因でそのことが生 じたのでなければな らな い。 ところがその心的行為がわた くしの行為であ るためには,それ も亦わた くLが然 く意図する と

い う心的行為が原因で生 じたのでなければな らな い。わた くLは当のことをわた くしの行為 として 意図せねばな らず,然 くわた くしの行為 として意 図するためには更にそれに先立つ意図が要求 され ねばな らない。

意図なる心的状態などはない。わた くしの素人 目を以て して も意図なるものは「 機械の中の幽霊」

であるとおぼ しい。わた くしの 「 赤肉団上」にあ る 「 無位の真人」 とは,機械の中に逼塞 して機械 を操 っている幽霊ではな く,不断に本人の 「 面門 より出入」 しつつ働いている 「 赤肉団」 自体であ る。現に生きて働いている当の全身全霊が 「 無位 の真人」であ り,それは個別に対象化 された途端 に 「 乾尿僻」に堕する。

祇だ道流が三祇劫空に達せ ざるが為に,所 以に此の障擬有 り。若 し是れ真正の道人な ら ば,終に是の如 くな らず。但だ能 く縁に随っ て旧業を消 し,任運に衣裳を著 けて,行かん と要すれば即ち行き,坐せん と要すれば即ち 坐 し,一念心の仏巣を希求す る無 し。何に縁 ってか此の如 くなる。古人云 く 「 若 し作業 し て仏を求めん と欲すれば,仏は是れ生死の大 兆な り」 と。 ( 四〇頁)

禅者に とって第一義的な行為である 「 修行」 も 亦修行そのこと自体を離れて 「 意図」を殊更に措 定すべき筋合の営為ではない。修行 とは 「 但だ能 く縁に随って旧業を消」 してゆ くことである。現 に挺身 しているその都度の在 り方に応 じつつ,成 り行きに任せて振舞 うことに由って,宿業を して 自ずか ら消尽せ しむることが修行である。

要するに修行 とは 「 任運に衣裳を著けて,行か ん と要すれば即ち行き,坐せん と要すれば即ち坐」

する底の自由な生き方に徹することである。行き たければ行き,坐 りたければ坐るだ けであって, その際に 「 一念心の仏巣を希求する」 といった心 的状態な どは微塵 も見出されない。

「 若 し作業 して仏を求めん と欲すれば,仏は走れ 生死の大兆な り」と古人 も諭す。「 成仏 しよ う」と い う意図を抱 くことは,成仏なる境地を対象化 し て志向的に意図す る とい う愚を犯す ことである。

須 く自重 して修行そのことに浸るべきである。

膏に然るのみではない。それが修行であるか否

かを掛酌することす らな く,端的にそのことを履

行すべきである。行きたければ行き,坐 りたけれ

(7)

『臨済録』管窺 (三之‑)

ば坐る とい う按配に, 自らの振舞いの何処に意図 なる私秘的な心的状態が介入 しているのか ( 或い は介入 していないのか)寸毒 も関知せず して振舞

うことが肝腎である。

師,衆に示 して云 く 「 道流,切に真正の見 解 を求取 して,天下に向って横行 して,這の 一般の精魅に惑乱せ らるるを免れん ことを要 す。無事是れ貴人,但だ造作す ること莫れ, 祇だ是れ平常なれ

。 ( 四六頁)

只管 「 真正の見解」のみ を握 り締 めてお りさえ すれば よく,決 して 「 精魅に惑乱せ ら」れてはな らない。「 真正の見解」とは何の謂か。意図的な何 事をもせず ( 無事) ,小賢 しい知恵を仕込 まず ( 莫 造作) ,在 るがままに振舞 う ( 平常) ことである。

学を為せば

ミに益 し,道 を為せば

王に 損す。之を損 じて又損 じ,以て無為に至 る。

無為に して為 さざる無 し。天下を取 るは常に 無事を以てす。其の事有るに及んでは,以て 天下を取 るに足 らず。 ( 『老子』第四十八草)

学を為す ことは要 らぬ荷物 を背負 うことである。

道 を為す ことは要 らぬ荷物 を捨てることである。

捨て切 った果てに為すべ き何事を も持たぬ 「 無為」

に至 る。即ち在 るがままに任せて 「 無事 」 を貫 く に至る。老恥 日く「 無為に して為 さざる無 し」。何 事をも為 さぬ ことは万事を為す ことに等 しい, と。

因に云 う。命題 P とその否定命題 r Pとは,方 向は正反対であるが,可能な事実全体の全 く同 じ 分割が対応す る。或る命題 を真 とし,その否定を 偽 とす るのは,全 く同 じ事実である。否定 とは, 元の命題 に実質的な何かを付 け加 えることはな く, ただその方向を反転 させ るだ けである。或る命題 を否定す る場合,一方の命題 ( 否定 され る言明) に言及す ることを介 して,他方の命題 ( 元の言明 と対立す る言明)を特定 している。否定 とは,或 る命題 をアーギュメン ト ( 独立変数の値) とし, それ と対立す る命題 を関数値 として与える ところ の操作である。老恥が 「 無為に して為 さざる無 し 」 と断ず る所以である。

「 無為に して為 さざる無 し」とは,何かを為す に

「 常に無事 を以てす 」 ることであ り,然 く無事で あることが叶わねば 「 以て天下を取 るに足 ら 」 な い。臨済は 「 無事是れ貴人,但だ造作す ること莫

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れ,祇だ是れ平常なれ」 と云い,老恥は 「 無為に して為 さざる無 し」 と云 う。行住坐臥の間,何か を為す事前に も事後に も,能為や所為を分別す る な どの因果的な了解 を持 ち込んではな らない。何 故 と云 うに,能為 と所為 と,有為 と無為 とを分か つ心的状態な どはないか ら。

日常生活にあって,わた くLは 自らの行為に意 図なる心的状態が先立つ とい う事実を確認す るこ とはない。「 歯を磨 く」とい う習慣的な振舞いは意 図的な行為であるが,歯を磨 くに先立 って 「 歯を 磨 こ う」 とい う意図を取 り出す ことができるであ ろ うか。

「 今朝 は歯 を磨 くとい う振舞いを意 図的にや っ たのだ」 と語 ることはできて も,歯を磨 くことに 先行す る ( 或いは随伴す る)歯 を磨 こうとい う意 図の働 きを見出す ことはできない。それかあ らぬ か 「 今朝,何を為 したのか」 と尋ねることはあっ て も 「 今朝,何を為そ うと意図 したのか」 と訊 く ことは竿である。

仮に歯を磨 こ うとい う意図を抱 くにせ よ,その よ うな心的状態が何時 ・如何に生 じたのかを特定 す ることができるであろ うか。歯を磨 く場合,わ た くLは どの瞬間に然 く意図を働かせたのであろ うか。洗面台の前 に立 った時であろ うか。歯ブ ラ シを握 った時であろ うか。抑 も斯か る問いに対 し てわた くLは奈何 に答え得 る とい うのであろ うか。

他者の振舞いについて も亦然 り。歯を磨いてい る妻 を見た場合,わた くLは歯ブ ラシを歯にあて が って微動 させている妻の身体の運動 を観察 し, 然 る後に彼女の心中に 「 歯を磨 こ う」 とい う意図 が存す るであろ うことを推測する, といった回 り 道 を踏んで妻の振舞いを了解す るであろ うか。

わた くLは妻の振舞いについて,妻の証言 を待 たず とも ( 妻の意を付 らず とも)それが行為であ るか否かを迷 うことな く端的に了解 している。わ た くLは妻の振舞いが妻の意に適 った ものである ことを,彼女の振舞いの因果連鎖の何処に意図な る私秘的な心的状態が介入 しているのか ( 或いは 介入 していないのか)微塵 も関知せぬに も拘 らず, 然 く判断 して惜然 としている。

仮にわた くLが 「 歯を磨 こ う」 とい う心的状態

を持 ち,「 歯を磨 く」と記述 され る振舞いを為 した

として も,その際の 「 歯を磨 こ う」 とい う心的状

態はどのよ うな仕方で生 じたのであろ うか。その

心的状態は意図的に生 じたのであろ うか。若 しそ

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れが意図的に生 じた心的状態だ とす る と,その心 的状態を して生ぜ しめた原因である ところの心的 状態が更に想定 されねばな らない。身体的運動 に 対す る外的な要件 として意図なる心的状態 を想定 す る限 り,行為は因果連鎖に組み込まれ ざるを得 ず,す る と意図の更なる原因を求めて事柄が無限 背進に陥ることは必至である。

意図を一つの行為 と看倣すが故に無限背進 に陥 るのだ と反省 し,「 歯を磨 こ う」とい う意 図は不随 意 に生 じたのだ と考えることはできない。何故 と 云 うに,不随意に生 じた意図に由って惹 き起 こさ れた行為 も亦不随意であるか ら,それは 目的 ・評 価 ・責任 ・規則の埼外に生起す るところの,お よ そ行為 らしか らぬ出来事 にな って しま うか ら。

繰 り返 して云 う。わた くLが意図 と呼ぶべき自 らの内面的過程を意識せずに何事かを行 うことは 屡 主である。最 も見易い事例 を挙げれば,発話は 典型的な意図的行為であるが,発話 に先立 ってそ の都度 「これ これの文を喋ろ う」 といった意図を 同定す ることはできない。

一体 「 脳状態の変化に由って手の筋 肉運動が生 ずる」 と記述 され る ところの因果連鎖は,心的状 態に拠 って惹き起 こされ得る ものであろ うか。身 体的動作をもた らす生理的 ・物理的な因果連鎖 を 遡 ってみて も,その因果連鎖か ら独立 した 自発的 な意図なる心的状態は見出 されない。若 し見出さ れ るな らば,その意図 とは生理的 ・物理的な因果 連鎖か ら独立 し, しか も生理的 ・物理的な因果連 鎖を惹 き起 こす原因 とな り,更にそれ 自体は如何 なる原因の結果で もない, とい う非物理的且つ 自 己原因的な 自発性 とい うことになる。斯か る摩討 不思議な働 きを真面 目に主張 して よい ものであろ

うか。

手を挙げよ うと意図 してみて も,意図 しただ け では手は上が らない。若 し意図す ることが動力で あるな らば,それは 自ら能動的に為 し得 る ところ の行為であるが,その 自ら能動的に為 し得 る とこ ろの意図す ることも亦再び 自ら能動的に惹 き起 こ した ものでなければな らない。意図す ることの能 動性 を云 うために 「 意図することを意図す る」 と 云わねばな らない。斯 くして無限背進が導かれる。

ライルが指摘す る通 り,行為の能動性 を意図に求 める限 り, この無限背進は避 け られない。

実際に手が上が った時,わた くLは意図するだ けではない何かの働きを為 した ことになる。 しか

し手が上が った時の心的状態を再現 しよ うと試み て も,それは無理である。何故 と云 うに,意 図な る心的状態な どはないか ら。

手は端的に上がる。成程,わた くLは手を挙げ ることも挙げない こともできた。だが 「 手が上が ったのだが,実は手 を挙げない こともできたのだ」

と云 ってみて も無益である。既に手を挙げて しま った以上,「 実は挙げない こともできた」とい うこ とを示そ うとして も一体何 を して よいか判 らない。

現実は常に一通 りである。 しか し人間はのべつ に非現実の可能性 を開 こ うとす る。 「 手 を挙げる」

ことも,友人‑の挨拶であった り, タクシー‑の 合図であった り,棚 の荷物 を取ることであった り, 肩の凝 りをほ ぐす ことであった りとい う按配に, わた くLに依 って さまざまに意味づ け られ る。一 通 りである筈の現実は,わた くLに依 って さまざ まに意味づ け られ,わた くLはその意味を生きる。

手が上が らない限 り,わた くLは手 を挙げる と い う意図を持 っていない ことにな らざるを得ない。

行為 をもた らす意図は,それ を行為か ら切 り離 し て記述す ることはできない。手を挙げる とい う意 図は,手が上がる とい うことを以てのみ意味づ け

られ る。

「 単に為 され ること」と 「 敢 えて為す こと」とを 分かつ拠 りどころ と看徹 され る意図は,僅かに行 為を惹き起 こす要因ではあるが,単 に 「 思 う」 こ とではない。按ず るに意図 とは,内的に直観 され る心的状態ではな く,外的に観察 され る具体的行 為の形を とった時,行為を惹 き起 こす原因 として ( 自己か らではな く寧ろ他者か ら)要請 され る特 有の 「 知」である。

行為 と非行為 とを分かつべ き意図なるものは, 振舞いの背後 に想定せ られた架空の内面的過程で あるに過ぎない。果 して然 らば 「 意図の有無」な どは, 夙 に下 された 「 行為の有無」とい う区別 を, 徳 か ら説 き直 した ものに過ぎない。

身体的動作が生 じた時,それが生理的 ・物理的

な因果連鎖のみに於て生 じたのか,将又それは意

図を原因 として惹 き起 こされたのか,それ を検証

す ることはできない。仮に意図が身体的動作 を惹

き起 こした として も,それが何時起動 したのかは

判 らない ( わた くLは意図のスイ ッチを何時 ・奈

何 に して捻 ったのであろ うか)。 為すべきか為 さざ

るべ きか逸巡 している時, 自らの内面的過程 をチ

ェ ック し,わた くLは 「 只今意図が発動 した」 と

(9)

『臨済録』管窺 (三之‑)

確認 して為すわけではない。

わた くLが何事かを為す時,脳内では膨大な数 のニューロンが働き合 っている。而 してその働き 合いは生理的 ・物理的な因果連鎖 として説明され 得べきものであ り,そ こには生理的 ・物理的に説 明され得ない神秘的過程などはない。縦令現在は 説明できぬにせ よ,それは遠か らず説明できる筈 である‑ と科学者は考えるであろ う。が,膨大 な数のニュー ロンの ミクロ ( 微視的)な働き合い に依 って生起するマクロ ( 巨視的)な状態は,絶 えず予測不能に変化 しつづけるが故に到底説明 し きれないのではなかろ うか‑ と素人は考える。

リニア ( 直線的)な因果律 に収ま りき らぬ非線形 のマクロな状態変化の機微は, これを ミクロな要 素間の因果連鎖に決定論的に還元できるものでは なかろ う, と。風が吹けば花び らは散るであろ う が, どのよ うに散るかを因果的に予測することは できまい, と ( 斯かる消息に関 しては 『 滞沌 』 序 辛 ( 二六頁〜三八頁)を参看 されたい) 0

若 し素人風に考えてよければ,生理的 ・物理的 な因果連鎖か ら独立 した意図などとい う非物質的 な心的状態 としての原因を措定す る必要は,端か ら無いことになろ う。仮にニュー ロンの ミクロな 関係には生理的 ・物理的な法則に拠 って説明でき ない神秘的な働きはないにせ よ,それに由って生 起するマクロな状態は非法則的に変化 しつづける。

そ してその 「 或る仕方で変化する」 とい う事実が, 敢えて言挙げすれば 「 意図がある」 とい うことで あ り, これは殊更に言挙げするを要せぬ ことであ ろ う。

問 う 「 如何なるか是れ西来意」 。師云 く 「 若 し意有 らば 自救不了」 。云 く「 既に意無 くんば, 云何が二祖法を得たる」 。師云 く「 得 とい うは 是れ不得な り」 。云 く 「 既若不得な らば,云何 が是れ不得底の意」 。師云 く「 伽が一切処に向 って馳求の心飲む こと能わざるが為な り。所 以に祖師言 う , 拙哉丈夫,東を将 って東を寛 む と。伽,言下に便ち自ら回光返照 して,更 に別に求めず,身心の祖仏 と別な らざるを知 って,当下に無事なるを,方に得法 と名づ く。

大徳,山僧今時,事己む ことを獲ず,話度 して許多の不才浄を説き出だす。伽且 く錯 る こと莫れ。我が見処に拠 らば,実に許多般の 道理無 し。用いん と要せば便ち用い,用いざ れば便ち休む。 ( 一二五頁)

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祖師が西か ら来た意図は何か とい う問いに,意 図があるようでは自分す ら救えない, と臨済は答 える。意図がないのな ら奈何に して法を得たのか とい う更なる問いに,得るとい うのは得ない とい うことだ, と臨済は答える。

身体を用いて為 したことを記述 し,更に因果律 をあてが って再記述すると , 「 幾つの行為が為 され たのか」 とい う可笑 しな問いが立て られ,挙句に 自分が何を為 したのか判 らな くなって「自救不了」

の事態に至る。わた くLは手を伸ば し,窓を開け, 部屋に風 を入れた‑ 扱て,わた くLは三つの異 なる行為を為 したのか,それ とも三通 りに記述 さ れ る一つの行為を為 したのか, と。

手を伸ばす とい う身体的動作は,単なる物理的 な運動の集積ではない。それは 「 窓を開ける 」 「 部 屋に風 を入れ る」 といった意味の下に統御 され る ことに依 って,わた くしの行為 として成立 してい る。それは三つの異なる部分か ら成るが,飽 くま でも或る主題の下に統御 された行為である。

「 手を伸ばす ことに依 って窓を開ける」とい う記 述の方向を逆転 させて 「 窓を開けることに於て手 を伸ばす」 と記述 し直す時,事柄はどのように変 容す るであろ うか。わた くLは窓を開けよ うとし たのであ り,単に手を伸ばそ うとしたのではない。

然るにわた くLは確かに窓を開けることに於て手 を伸ば してもお り,そのことが意図されているか 否かを問わず,それはわた くしの為 したことと看 徹 される。

わた くLは 「 口を動かす ことに依 って喋ってい る」が,それは 「 喋ることに於て口を動か してい る」ので もある。手段に依 って 目的が達せ られる 場合, 目的に於て手段は果た されている。尤 も, 手段は必ず しも目的に従属す るとは限 らない。手 段その ものが 目的である とい う場合 もあろ うし, 逆に目的のためには手段を選ばぬ とい う場合 もあ ろ う。要するに手段 と目的 とは両方向か ら相互に 支え合 ってお り,別個に吟味 して 「 意」や 「 得」

をあげつ らってみても草臥れ るだけである。「 に依 って」 と 「 に於て」 との関係に徴 して知 られるよ うに,或る主題の下に統御 された行為について, それ を構成する部分に分かち,そこに於ける 「 得 る」 とい う方向性に拘泥することは愚かである。

得 る得ない といった 「 馳求のJ E . 、 」を持ちさえ し

なければ,外に向けた内なる意図を抱 くこともな

い。現に然るべ く振舞 っている自己の 「 身心の祖

仏 と別な らざるを知 って」い さえすれば,面倒な

(10)

理屈をこねず 「 用いん と要せば便ち用い,用いざ れば便ち休」んで惜然 としてい られ る。

ライルおよび臨済に折伏せ られて,わた くLは 行為に於ける 「 意図」なるものを放棄すべきであ ろ うか。空間に位置を占めず,物理的な法則にも 従わず,只管内観 さるべき私秘的な心的状態 とし ての意図を否定す るとい う点では, ライルの所説 は正当であろ う。 しか し行為の吟味か ら意図なる ものを悉皆抱耕 し去ることは早計に過ぎるともお もわれ る。心身二元論が駄 目なことは固よ り論を 須たないが, ライル流の行動主義 も亦問題を有す る。 ウィ トゲンシュタイ ンはこう云っている。

ひ とが感覚の表現の文法を<対象 と〔 その〕

表記 >とい う見本に したがって構成する とき には, 当の対象が関係ないもの として考察か らぬけおちて しま うのである 。 ( 『 探究』二九 三)

自分の 「 痛み」が何を意味するかは他人には判 らない。従 って 「 痛み」 とい う表現は公共的な言 語 として用い られ ることはない‑ とい うことは ない。「 痛み」とい う表現は吾々の言語に於て立派 に使われている。その際 「 痛み」 とい う表現は, 行動主義者の説 くように,心的状態を述べるもの ではな く行動の複雑なパターンを表 しているので あろ うか。 しか し,そ うなる と 「 痛み」 とい う表 現の中にわた くしの感 じている感覚は入 らぬこと になって しま う。

泣いた り坤いた りする とい う痛みの表出 と痛み の感覚 とを切 り離 してはな らない, とウィ トゲン シュタインは云 う。 「 痛み」 とい う表現に関 して, 心身二元論者はそれを痛みの表出か ら独立 させて 内省に依 って捉えようとし,行動主義者はそれを 痛みの行動を表す ことに依 って意味を持たせ よう とする。心身二元論に拠れば,感覚を表す言語が 成立 しな くな り,行動主義に拠れば,肝腎の感覚 が言語か ら抜 け落ちて しま う。内 と外 とい う向き こそ違え,両者は共に痛みの表出 と痛みの感覚 と を切 り離 している。

「 人皆忍びざるの心有 りと謂 う所以のものは, 今 人乍かに孫子の将に井に人 らん とするを見れば, 皆伐暢側隠の心有ればな り 」( 『 孟子』公孫丑篇) と先人は洞察する。乳飲み子がまさに井戸に墜ち ん とするのを見れば,誰 しも吃驚 して助けようと

駆け寄るであろ う。 この本能的 ・反射的な振舞い に推論の余地はない。忍びざるの心の自然な表出, 即ち覚えず駆け寄るとい う本能的 ・反射的な振舞 い, これ こそが忍びざるの心 とい う言葉の意味で ある。忍びざるの心 とい う言葉の意味を了解す る ことは,忍びざるの心の自然な表出が吾々の生活 にあって果た している機能を了解す ることである。

歯を磨いている時,手の運動は意図的に為 され ている。但 し 「 手を動かそ う」 と意図されている のではな く 「 歯を磨 こう」 と意図されているので ある。行為を意図す ることと意図的に行為するこ

ととは混同 してはな らない。

歯ブラシを歯にあてがって微動 させている妻の 振舞いが 「 歯を磨 く」 とい う行為であるのは,そ の出来事の系列がわた くLに依 って一定の意図を 持つ もの として意味づけられているか らである。

歯を磨いている妻に於 ける意図なる心的状態は, それを観察 しているわた くし( 或いは稀に妻 自身) がその振舞いを一連 の出来事 の コンテキス トに

( 言葉を用いて)位置づけることに依 って振舞い に附与 されるものである。

単に観察するのみでは行為 と非行為 とを峻別 し 得ぬにも拘 らず,わた くLが 「 枯葉が舞い落ちる」

とは云って も 「 枯葉が舞い降 りる」 と云わないの は何故であろ うか。按ずるに,行為 と非行為 とを 分かつ所以は,枯葉の振舞い とい う対象の側には な く,それを意味づけるわた くしの側に存す るの である ( 0 ・‑ ン リーの 『 最後の一葉』を読めば 思い半ばに過ぎよ う) 。

それが行為であるか非行為であるかは ( その区 別が対象 自体の区別ではな く,わた くしのそれ‑

の対 し方に係るが故に)い くら見ていて も判 らな い。見ているだ けでは判 らないな らば,一緒に生 きてみ るよりない。

振舞いを して行為た らしめる 「 意図」なるもの は,わた くLとい う 「 人」が生きることに於て培 われた意味に他な らない。わた くLは嘗て論 じた

「 人」一元論を想起 している。「ビールを呑 もう」と い う意思表現は,心身二元論者の謂 うような心の 中に前言語的に生起 している私秘的な出来事を記 述 しているのではな く,行動主義者の謂 うような 然るべき行動パターンの描写で もな く,具体的な

「 人」の振舞いに於て結実すべき ところの ものが 当の表現を介 して意図 として表出されているので ある。

自分が何を しているかを知 ってお り,何故にそ

(11)

『臨済録』管窺 (三之‑)

うしているのかを知 っていること, これが意図的 であるとい うことである。 自分の振舞いについて, これをどう記述 し, どう評価 し, どう説明す るか は,一人一人の「 人」に とって深刻な問題である。自 分の振舞いを記述 し,評価 し,説明することが, わた くLが個人 として現に存在 していることの実 質的な意味である。

臨済は心身二元論 と行動主義 とを併せて超克す べき視座 として 「 人」一元論を提示する。だが行 為論 との絡みで 「 人」一元論を論ず る前に,わた くLは世の哲学者の行為論を猶下方に詳記するで あろ う。

三 ・一 行為の反因果説 ( アンス コム)

偶 をわた くしの目に触るるところに して棄つる に忍びざる議論が尚存する。『臨済録』読解のため には鶏肋か もしれぬが,姑 くその要を摘んでここ に一顧 しておきたい。即ち行為に於 ける意図の問 題を巡 ってのアンスコムの反因果説およびデイヴ イ ドソンの因果説がそれである。

アンスコムお よびデイヴイ ドソンの所説は,わ た くしのために創間に属するものが頗 る多い。就 中異 とすべきは,帰責の根拠 として行為を捉える とい うア リス トテ レス以来の行為論 より歩を進め, 行為の理由 と原因 との関係を明 らかにす るとい う 分析哲学風の視点である。

因に云 う。以下脱線を厭わず してアンスコムお よびデイヴイ ドソンの所説を覗 く。 これは有益な 脱線である と信ずる。わた くLは安ん じて脱線す る。『臨済録』のみを賞翫 したい向きに とって以下 は悉 く無用の文字であろ うが,脱線 しようとす る わた くしの筆は

か も撃肘 を被 らぬであろ う。わ た くLは捷径を歩む ことを襲わない。寧ろ迂路に 疲れ ることを庶幾する。

尤 も,わた くLは試みに旬を摘んでアンスコム およびデイヴイ ドソンの思量の速を尋ねてみ よ う

とするに過ぎない。行為の反因果説 ・因果説の詳 細は,読者 自らアンスコム 『インテンシ ョン』( 産 業図書)デイヴイ ドソン 『 行為 と出来事』( 勃葦書 戻)に就いて知 られたい。

アンスコムは意図を内観 さるべき私秘的な心的 状態 と看徹 さぬ点ではライルに与するが, さりと て意図を行為 と切 り離 して論ずることもしない。

アンスコムは意図的行為をそれに先立つ内在的な

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心的状態に拠 って定義する とい う二元論を暗黙裡 に前提 した内観的な方法を斬 り,返す刀で行動主 義的な方法をも斬 り, 自他の関わ りにあって奈何 なる問いが意図的行為に適用 さるべきか とい う合 理化 ・正当化を論ずる。

意図的行為 と然 らざる行為 とを区別す る基準に は二つある。第一の基準は,人間に起 こる出来事 を 「 観察に基づいて知 られ る」 もの と 「 観察に基 づかないで知 られ る」 もの とに分け,意図的行為 を後者に配する。

わた くLはビールを呑んでいる とい う身体的な 振舞いを,鏡 に写 して見る,他人に教 えて もらう, 血 中のアル コール濃度を測る といった仕方に拠 っ てではな く,直接に知 っている。 ところが ビール ジ ョッキを握 った手の小指を立てているとい う無 意識裡 にや っている癖は,鏡 に写 して見た り,他 人に指摘 された りして初めて知るのだか ら,それ は意図的行為ではない。

行為者に とって 「 原因」は観察に基づいて知 ら れ るが 「 理由」は観察に基づかないで知 られる, とアンスコムは方法的二元論の立場に拠る。但 し 観察に基づかない知識を持つ ことは,不可謬の直 観知を有することではない。 トイ レの電灯を点け たつ もりで ( スイ ッチを押 し間違えて)換気扇を 回 して しま うとい うふ うに,信 じていなが ら実は 錯覚であった とい うことは ( わた くLに とっては)

日常茶飯事である。 自分が何を しているか 「 知っ ている」のではな く 「 知 っている と思い込んでい る」に過ぎない場合があることは,観察に基づか ない知識 を持つ ことと抵触 しない。

第二の基準は,単に自分が何を為 しているかが 非観察的に知 られているだけのものではな く,そ れが 「 何故」に為 されているかを問われて答え得 るものを意図的行為 と看倣すのである。「 何故にビ ールを呑むのか」 と訊かれて 「 喉の渇きを癒そ う とお もって」 と答え得るほどの行為であって初め て意図的行為である。

但 し 「 何故」 と訊かれて返答できるだ けでは意

図的行為 と評するに十分ではない。「 何故そのよう

に振舞 うのか」 とい う問いに対 して,独立 した二

つの事態の間の因果関係を述べるだ けでは,それ

は単に振舞いを再記述 しただけに過ぎない。何故

とい う問いがその行為に向けられた時,それが原

因 ( c a us e )ではな く理 由 ( r e a s o n) を問 うている

ことが意図的行為の特徴である。右手を挙げる と

い う振舞いに関 して云えば, 「 右折の合図 として」

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「 悪戯‑の注意 として」 といった按配に状況 とい うコンテキス トの中に位置づけることに依 って振 舞いの眼 目を説明できる とい うことが肝腎である。

天気が好いせいで我知 らずハ ミング している場 合, 「 何故 にハ ミング しているの」 と訊かれれば

「 天気が好いか ら」 と答えるか もしれないが, こ れは知 らず識 らずにハ ミングしているので意図的 行為ではない。天気が好い とい う 「 原因」に依 っ てハ ミングする とい う出来事は,単なる生理的な 反応に過ぎない。だが喉の渇きを癒そ うとい う「 理 由」に依 ってビールを呑む とい う出来事の繋が り は, より能動的で社会的な関係である。意図的に 行為 している とは,膏に自らが為 しているとい う 事実を知っているとい うだ けではな く,尋ね られ れば 自らの為すに及んだ理由を状況に即 して答え

られる とい うことである。

尤 も,行為者が 自らの行為について或る記述の 下では知 っていて も別の記述の下では知 らぬ とい う場合はあ り得る。「ビールを呑んでいる」とい う 記述の下では自らの振舞いを知っていて も 「 ビー ルジ ョッキを握 った手の小指 を立てて連れを恥か しが らせている」 とい う記述の下では 自らの振舞 いを知 らない場合,彼は意図的にビールを呑んで いるが意図的に小指を立てて連れを恥か しが らせ ているのではない。

アンスコムの行為の反因果説には猶説 くべきこ ともあろ うが,その大要は以上に由って推知す る ことができよ う。

アンスコムの所論に就いて検す る うちに湧いて きた妄想を綴 りたい とい う想いを,わた くLは禁 じ得ない。筆のす さびに似 るとの誇 りにも撃肘せ られず,わた くLは妄想をア トランダムに綴 って みたい。

妄想其‑O勝を曲げている妻の機嫌を とるため に,妻の作 ったスープを飲んで美味 しそ うな顔 を

しよ うと意図す る。そ してスープを飲んだ ところ, 素晴 らしく美味 しか ったので覚えず美味 しそ うな 顔 を して しまった。わた くLが美味 しそ うな顔 を

して しまったのは意図的行為であろ うか。

わた くLがスープを飲んで美味 しそ うな顔 を し た真の理由は,妻の機嫌を とりたかったか らなの か,スープが本当に美味 しか ったか らなのか。若 し 「 何故に美味 しそ うな顔 を したのか」 と訊かれ て上手 く答え られなければ,その振舞いは非意図 的 とい うことになるのであろ うかC

妄想其二。娘 と散歩に出掛けよ うとして,わた くLは帽子を探すo帽子はテーブルの上に置いて おいたわ よと妻に聞か されていたにも拘 らず,つ い普段の置き場所である衣紋掛けを探 して しま う。

普段の置き場所である衣紋掛けを探 して しま う とい う行為には,それを合理化す る理由を見出 し 難い。わた くLには帽子は衣紋掛けに掛けてある とい う潜在的 ・習慣的な信念が染みついてお り, その信念が合理化を邪魔 したのである。縦令それ を合理化する理由を見出 し難 くとも,わた くLは 衣紋掛けを探 して しま うとい う自らの振舞いはク シャ ミや シャ ツク リとは違 うと直観 している。

妄想其三. ビールを呑 もうとお もって冷蔵庫に 向かいなが ら,娘 と遊ぶ約束を していた ことが気 にな り始め,冷蔵庫に辿 り着いた時には自分が何 を しよ うとしていたのか忘れて しまい,狐に摘ま れたよ うな面持ちで書斎に戻る (とい う間抜けな ことは自慢ではないがわた くLには毎度のことで ある) 0

小遣いを減 らされた仕返 しに妻が大事に してい る花瓶を壊 してや ろ うとお もったが,壊 した後で 妻にどんなに叱 られるであろ うか と想像する と怖 くな り,手が震えて花瓶 を床に落 として割 って し まった (とい う類の ドジもわた くLは屡 ミ仕出か す) 。或いは花瓶を壊すのは止そ うとお もった瞬間 に心筋梗塞の発作に襲われて花瓶を落 とした とし て も,わた くLには花瓶を壊すべき理由がある と 看倣すべきであろ うか。

妄想其四。強盗にピス トルで脅 されて金庫を開 けた銀行員は, 自分が何を為 したかを観察に基づ かないで承知 してお り,何故 に然 く為 したかを自 覚 しているが, さりとて彼が意図的行為を遂行 し た と看徹すのは酷であろ う。

因果説の立場に拠るな らば,一連の銀行強盗 と い う行為の因果系列の起点は,銀行員にではな く 強盗に帰属するのだ と解釈 されるであろ う。金庫 を開ける とい う振舞いの原因は,銀行員をピス ト ルで脅 して金を奪お うとい う強盗の意図の方にあ

り,金庫を開ける銀行員はそのプ ロセスの補助要 因に過ぎない と解釈することになるであろ う。従 って銀行強盗‑の協力 とい う記述に関 しては,級 行員の振舞いは意図的行為ではないことになろ う.

止め処な く湧いて くる妄想について,わた くL

は今十分に開明す ることができない。姑 く疑いを

存 してお く。

(13)

『臨済録』管窺 (三之‑‑)

行為の理由は屡 ミその未来の目的を示す もので ある。「 何故にビールを呑むのか」とい う問いに対 す る 「 喉の渇きを癒そ うとお もって」 とい う答え は,「ビールを呑む」とい う現に為 されている行為 が 「 喉の渇きが癒 され る」 とい う未来の状態を目 的 として志向 しつつ為 されているもの として説明 できる。「 何故にハ ミング しているのか」と訊かれ て 「 天気が好いか ら」 と答える場合, これは天気 が好いせいで知 らず識 らずハ ミング しているので あって,別に何の目的をも志向 していない。喉の 渇きを癒す とい う未来の 目的を理由 として遂行 さ れているとい う説明 と,天気が好い とい う現在の 条件を原因 として惹き起 こされているとい う説明

とは,明 らかに行為の説明のタイプが異なる。

家族で ドライ ヴする時,化粧に手間取 っている 妻‑の催促 としてハ ミングが為 されたな らば,「 天 気が崩れぬ うちに出発する」 といった規則 ・評価 の脈絡が織 りなす状況の下,その振舞いは新たな 意味合いを帯び始める。「 早 く支度を済ませて欲 し いか ら」 とい う理由を示 してハ ミング とい う行為 の説明をす ることは 「 天気が崩れぬ うちに出発 し たい」 とい う状況を踏 まえているが,ハ ミングす ることが単に天気が好い とい う原因による生理的 な反応であれば,そこには踏 まえるべき状況は見 当た らない。

行為の理由を示す ことに依 って意図的行為を説 明することは,行為を法則か ら導き出す ことでは ない ( そのような法則は見つか らない) 。行為を理 由づけることは,因果的な法則に拠 って筋道づけ ることではな く,状況に即 して合理化すること ( 即

ち評価)に係る。

一つの行為に対 しては幾通 りもの合理化が可能 である ( 行為者が 自らの行為について或る記述の 下では知 っていても別の記述の下では知 らぬ とい う場合があ り得るよ うに) 。わた くLが口笛を吹い たのは,愛犬のポチを呼びたか ったのか もしれず, 昨晩観た ドラマの主題歌を思い出 したか ったのか もしれず,単に愉快な気分であったのか もしれな い。寄 ってきたポチを抱き上げれば,わた くLは ポチを呼びたか ったのであろ う。領きなが らメロ ディーを口ず さみ始めれば,わた くLは ドラマの 主題歌を思い出 したかったのであろ う。ただ莞爾 として微笑んでいるよ うであれば,わた くLは単 に愉快な気分だ ったのであろ う。行為者を取 り巻 く状況の奈何に依 って,その行為を合理化する理 由は全体論的に紡ぎ出され る。

2 1

斯かる行為を合理化すべき理由関係は,僅かに 因果関係 とは別のよ うにお もえる。桜 を見たい と い う欲求を発 し,弘前公園に行けば桜が見 られる であろ うとい う信念 を抱き,弘前公園に行 く。弘 前公園に行けば桜が見 られ るであろ うとい う信念 は,弘前公園に行 くとい う行為を合理化するが, その行為を因果的に惹き起 こす必要はない。

斯 くしてアンスコムは,理由を示す ことに依る 行為の説明は行為の生起に関する因果的 ( 科学的) 説明ではない とい う直観に拠 り,行為の理解に と

って原因の詮索は不要であると看徹す。成程,理 由づけが成立するためには因果関係が成立する必 要はないよ うにお もわれ るが,デイ ヴイ ドソンは これに強硬に反論す る。或る命題的態度の故に或 る行為が遂行 され る時,そ こには膏に合理化だけ ではな く因果関係 も亦存在せねばな らぬ, と。

デイ ヴイ ドソンに拠れば,それが意図的行為で あるためには 「 ‑‑‑を しようとし,そ して‑‑・ し た」 とい うだけでは不十分であって 「 ‑‑を しよ うとし,その故に‑‑‑した」 とい う関係が成立 し ていなければな らない。何故 と云 うに,行為のた めの或る理由 aを持ちなが らも別の理由 b か らそ の行為を遂行す るか もしれないか ら。その場合, 理由 aは行為を惹き起 こした当の理由でないが故 に行為を説明できない。 「 行為のための単なる理 由」 と 「 それ故に行為を惹き起 こした理由」 とを 区別する勘所は,その理由が行為の原因であると い う事情に他な らない。理由が行為を説明できる のは,その理由が行為を惹き起 こしたか らである。

斯 くして反因果説者は,理由 と振舞い との間に

「 故に」 とい う因果関係に言及することな く意図 的行為を説明できるか とい う課題に晒 され ざるこ

とを得ない。

三 ・二 行為の因果説 ( デイヴィ ドソン)

意図的行為を説明する際に行為の原因 と理由 と を分けて考えるとい うアンスコムの行為の反因果 説に対 して,行為の原因 と理由 とは同一であ り, 人間が遂行する行為は世界内で生起する出来事に 比べて格別な ものではない,従 って理由を与える 説明 も亦因果的な説明であると考えるのがデイヴ イ ドソンの行為の因果説である。

デイ ヴイ ドソンは行為の原因 とな り且つ同時に

理由 となるような二つの心的状態を指摘する。一

つは 「 この行為は価値あるものだ」「 この行為は慣

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