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井 崎 宏 一

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Academic year: 2021

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NonstandardとAnalogy

井 崎 宏 一

表題のNonstandardという用語について一言しておきたい。言語の本質をふまえて ものをみるならば,ある言語でなにが「標準」かと問うこと自身が,すでに異常で無意味 な態度である。それから外れたものはすべて醜くて,悪いという偏見が「標準」という語 につきまとうのがふつうだからである。標準語とされているものは,社会的,地域的方言 にすぎないのであって,それはある言語圏の中での政治,経済,芸術,教育の伝達のため の共通の道具と見ることができ,標準語と,それに対する方言は,それぞれの果す言語機 能からみれば,優劣はつけ難く,いずれが正しいということもできなくて,区別はもっぱ ら社会的,政治的な考慮に支配される。必要上,その権威を認めざるを得ない学校文法は,

貴族的,保守的精神が,自己保存の必要からつくりだした規範的な規則の体系であって,

過去の因襲の残津だともいえる。記述的見地からいうと,文法書は言語の解剖学であり,

生理学を教えるものでないとは至言である(')。つまり,文法では,まとまりをもち,その まとまっていることに意味がある文を,構成要素である一語一語に分解してその語をあげ つらう。正しい文法を規定しようと自覚的に努力することは,じつは,まったく空しいも のである。T舵'Co"oq〃α/Sty/gi"A"@g歩αの著者であるRichardBridgman はstandardEnglishという用語がもつ,19世紀的な「上品さ」「権力的保守性」の nuanceを嫌い,vernacularという語をもってそれに代えている。かれはvernacu‐

larを"nation'scommonfundoflanguage"と定義している(2)。Bridgmanは とくにアメリカ文学に見られる英語について論じているのだが,作品において,現実の言 語現象をできるだけ忠実に記録したいという欲求を重視し,その欲求の発現が,過去2世 紀の英語の変化の歴史なのだといっている。19世紀初期には,権力と上品な伝統によっ て,卑俗で,無教養ときめつけられても仕方のなかった,おもに下層階級に属する作家た ちの英語は,1世紀の間に変容し,洗練され,大多数のひとびとの承認を得るにいたっ た。もちろん,それと平行して,ひとびとの精神的変化,社会情勢の変化もあった。その 結果,standardという用語があるべきものならば,それは再定義されざるを得なくな ったのである。標準とはまずdescriptiveなものでなくてはならない。あるがままの言 語の様態の認識と受容である。統計的に決定される集団的規範というものが標準の特性を

なすことになる。ふつうstandardに対する語はsubstandardであり,substandard の中にはslang,dialect,vulgarismなどが含まれる。接頭辞が示すように,これ らのものは,上位にあるstandardの下に従属することになる。そこに見られる因襲的価

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値判断の不当さを考えた上でnonstandardという用語を用いたのである。しかし,こ れとて,性質をあらわすのではなく,区別のための名称にすぎない。

少なくともアメリカにおいて,英語の変化は確実に起こってきている。しかし,それは けっして完成してはいない。おそらく変化は,止まることなく,未来に続くものと思われ る。ある時点を切って,一応のstandardを定める必要は,とくに辞書編纂者にとって 切実なものである。編纂の原理の相異から,辞書と辞書の間に,組鋸をめぐって,批判や 非難が行われることは当然のことである。1961年にWebsterの第3版が出たときの論 争は激烈をきわめ,反論がジャーナリズムをにぎわした。Descriptiveな原理に忠実 であるあまりに,大方の承認を得たとは思われず,広く批判の的となっているような slangや新語の類を大量に載録したからである。反動として,prescriptiveな方針の必 要が認められ,Websterに対する解毒剤的な効果を意図して,AmericanHeritage Dictionaryが1969年に出版された(:I)。いわゆる標準語をもたないアメリカでは,論理的

に常識に訴え,また,pedagogicな目的に仕える規範を求める旧観念が抜けていない。

その点では,日本の場合よりも一層保守的といえそうである。

辞書の他に,TheLeonardReportも,そのような態度の現れとして説明できよう。

SterlingA.Leonardは,usageに関して論議を呼びそうな230個の表現について,

数十人の各界のひとびとに判定を依頼し,受けとった解答をもとに,統計的にそれらの表 現を,1.LiteraryEnglish2.Standard,cultivated,colloquialEnglish3.Trade ortechnicalEnglish4.Naif,popular,oruncultivatedEnglish‑通常vulgar

と 呼 ば れ る も の − の 4 つ に 分 類 し た 。 判 定 を 依 頼 し た ひ と び と は , 言 語 学 専 門 家 , theNationalCouncilofTeachersofEnglishの会員,著名な作家,出版物編集 者,代表的実業家,theModernLanguageAssociationの会員,語学教師となって いる。調査結果にもとずいて,それら230個の表現は1.established,2.disputable, 3.illiterateに分類されている。英語の研究者には,この調査は少なからぬ興味の あるものである。しかし,判定者の構成も問題であると同時に,この種の調査では,判断 が主観的になりがちであり,好悪,偏見が入りこみやすい。そのhandicapに気づきな が ら , 敢 え て L e o n a r d に こ の 試 み を 行 わ せ た も の は , か れ の 同 時 代 に 行 わ れ て い る usageのhandbooksが,古めかしい,また,それ故に疑わしい権威に基づいたもので あり,それよりむしろ,同時代の教養あるひとびとの実際の判断が,旧套的なsyntax

、logicに比して,一層確実な拠り所となるべきだという考えであった。辞書にして も,handbooksにしても,それらのもつ運命的な「時」の制約をLeonardは十分承 知していた。同reportは,1932年に刊行され,後にAlbertH.Marckwardtと FredG.Walcottによって,新しい資料とともに手を加えられ,FaasAbo"C"γ、

γg〃E"g"sIIUsqgeとして刊行された(1)。ここでもまた,この調査の目的は,学校教師

に,正確で信頼できる資料を提供することであることをう一たっている(§)。Usageの拠

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るべき規準を,無理矢理にでも定めてしまわなくてはならないといった態度がそこに窺わ れるのであるが,そのような不自然な努力を強いる動因は,アメリカ人の気質,歴史,文 化のどこに求められるべきものなのであろうか。

記述的な立場から,アメリカ英語の方言は,通例,東部,南部,西部の3つに分けられ るのだが,その間の差異は,もっぱら,発音について認められるといわれる。発音の方言 的差異について教えてくれる辞書の一つに,LewisHermanとMargueriteShalett HermanのA腕gがcα〃Djaノg〃sがある(6)。これは学問的な音声学の研究の成果では なくて,舞台,映画,ラジオ,TVの演技者のための案内書と称している。特別に習得す ることを必要とする̲thelnternationalPhoneticAlphabetなどを用いる代り に,英語のalphabetを独特の方式で用いた音声表記によって実用の便を期している。

各地方独特の音調を示すために,高低の差を図示したり,音楽の譜表も用いている。この 辞書では,方言は上の3方言よりもさらに細分されて説明されているのだが,編者が,標 準語というものについて,懐疑的であることをその序文から知ることができる(1)。「各方 言の比較の基本型は,中西部で話されているいわゆる"GeneralAmerican"である。

各方言の説明を明確にするために,それとの比較がどうしても必要である。基本型一 standard‑がなくてはならず,それをもとにして音価の質的な判断をする。しかし,

このstandardは,アメリカ人の標準的発音(thestandardspeechforAmeri‑

cans)と定めるわけにはいかない。なぜなら,どの地域の発音も,他の地域の発音と比 較して,より正確だと考えることはできないからである。」いずれにせよ,方言間の差異 は,もっぱら,発音について認められるのであり,意味,さらには綴字,統語法に至って は,はっきり認め得るほどの差異は,無いか,かりにあっても,非常に局限されたもので ある。他の言語,また,イギリスの英語と比較して,方言らしいものが認められないこと は,人口の移動が頻繁であったことによるものである。アメリカ英語で重要なのは,むし ろ,階級方言といわれるslangである。Slangは,ふつう,都市生活の産物とされ るが,アメリカの場合は,それが極端な形で発生し成長した。19世紀後半に,移民人口が 急速に増加した都市には,いくつかの方言が生れたが,代表的なのは,イタリー人とユダ ヤ人によるものであった。地域的流動性,人口構成の複雑さ,社会的不安定,そして何よ りも,伝統の基盤の欠如が原因となって,言語的混乱状態が生じた。アメリカ英語では,

slangとdialect,cant,lowspeech,generalcolloquialismsなどの間に差別 が困難であるとPartridgeは指摘している(8)。

文学に現れるnonstandardを見よう。Slum街を題材に,そのslangを自由に駆

使して,StephenCrane(1871‑1900)は,Maggie、Geor99'sMot舵γなど

の作品を書いている。詩的なrhythmとhyperbolicな装飾をもつstyleを特長と

するnarrationの部分にslangは出てこない。Slangは会話の部分に限られてい

る。

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Hemetayoungmaninthehallsoneeveningwhosaidtohim:"Say, mefrien',whered d,Johnsonbirdsliveinheh?Ican'tfin,mefeet indisbloomin'joint・Ibeenbattingaroundhehferahalf‑hour."(9)

19世紀初期に見られたような,作者自身の無教養による地方誰りや,misspelling,文 法上の誤りは別にして,MarkTwain以後,colloquialismが会話の部分に本格的に 見られるようになった。ところが,それ以前のアメリカ英語は,この点でイギリス英語と 何ら区別するべきところはなかったようである。J.F.Cooper(1789‑1851)の Leatherstockingstoriesでも,登場人物は,非常に整った英語を話させられている。

"Theboyisright!canitbethattheTetonshavebeencaughtintheir ownsnares?Suchthingsdohappen;andhereisanexampletoallevil doers.Ay,lookyouhere,thisisiron;therehavebeensomewhite inventionsaboutthetrappingsofthebeast‑itmustbeso‑itmustbe so‑apartyoftheknaveshavebeenskirtinginthegrassafterus,while theirfriendshavefiredtheprairie,andlookyouatthecOnsequences;

theyhavelosttheirbeasts,andhappyhavetheybeeniftheirownsouls arenotskirtingalongthepathwhichleadstotheIndianheaven.''

"Theyhadthesameexpedientatcommandasyourself,''rejoinedMid.

dleton,asthepartyslowlyproceeded,approachingtheothercarcasewhich laydirectlyontheirroute.('0)

19世紀後半から,respectablewritersといえるひとびとが,colloquialismを採 用しだしてから,アメリカ英語の特長が育てられるようになった。19世紀初期には,粗野 で卑俗といわれても仕方がなかったようなvernacularも,洗錬されて,無意味に装飾 的でもなければ,はなはだしく粗野でもないといった,増加する中層階級のひとびとに自 然に受け入れられる言語が作り出された。19世紀には,vernacularとstandardの間 に,はっきりとした区別があったが,20世紀になると,事実上,vernacularがstan‑

dardの位置を占めたといってよい。StephenCraneと同時代の作家の例を2つ示し てみる。

"Sylviatakesafterhim,"thegrandmothercontinuedaffectionately, aminute'spause."Thereain'tafooto'groundshedon'tknowher over,andthewildcreatur'scountsheroneo'themselves.Squer'ls tametocomean'feedrightouto'herhands,andallsortso'birds.

after

w a y

she'll

Last

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wintershegotthejay‑birdstobangeinghere,andIbelieveshe'd'a' scantedherselfofherownmealstohaveplentlytothrowoutamongst 'em,ifIhadn'tkep'watch.Anythingbutcrows,Itellher,I'mwillin' tohelpsupport,̲thoughDanhewentan'tamedoneo'themthatdid seemtohavereasonsameasfolks.Itwasroundhereagoodspellafter hewentaway.Danan'hisfathertheydidn'thitch,‑butheneverheld uphisheadag'inafterDanhaddaredhiman'goneoff."('')

0Allright,ifyehfeellikeit,Jim.''Smithreplied,andtheytrudgedalong doggedlyinthesun,whichwasgettinghigherandhottereachhalfmile.

@Ain'titqueerthereain'tnoteamscomin'along,"saidSmith,afteralong

silence.

"Well,no,seein'sit'sSunday."

"Byjinks,that'safact.ItisSunday.I'llgithomeintimef'rdinner, sure!"heexulted."Shedon'thevdinnerusiallytillabouto"gonSunday."

Andhefellintoamuse,inwhichhesmiled.('2)

これらの例に見られるように,vernacularないしcolloquialismは,もっぱら会話の 部分に用いられ,dialectpronunciationの表記の工夫と,粗野な文法とともに,現実

なま

のひとびとの生の発言をとり入れようとしているのに対して,narratorの声一いわゆ る地の文一は,われわれに馴染みの,正統的な英語であることがふつうである。この意味 では,vernacularは文学作品の中にとり入れられるに,控え目であったということが できる。そうした事情を考盧してみると,〃"c"/eberγyFi"〃の全篇にわたる colloquialismは異色の存在である。dialectを用いる作家は,self‑consciousである のか,それともself‑assertiveというべきか,一つの標準的用法から外れる語を用いるとき に,quotationmarks、,italicsを用いて,その語を他と区別する習性があった。ま ったくの田舎ことばや,下層のひとびとのことばの模倣をたのしむという傾向もあった が,何よりも大きいのは,vernacularに魅力を感じながらも,作品の中で,それに完 全な認可を与えることを許さなかった社会的制約である。当時は,正統的権威を付与され たstandardliteraryEnglishに対する顧慮が,いまからみて,想像もつかないほど 大きなものだったのであろう。narratorがその正統性を守ることは,最小限の義務で あったと思われる。19世紀の文学のことばについて,Bridgmanはつぎのようにいって いる('3)。「会話においてしか,真のアメリカ人らしい声を聞くことができない。逆に,

dialectが用いられてよいとき,作家はそれを要求される。しかし,一般のアメリカ人の

話し方はどうかということは不問に付されている。その問いに答えるには,それを示す語

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6 井 崎 宏 一

いとその用法が必要である。英語の変化は直線的なものではなかったが,変化が生じたの は,会話がnarrativeの中に用いられるようになってからであり,ついには,narrative proseが,会話の慣用に支配されるようになったのである。それはHawthorneに 始まり,Hemingwayで終ったといってよい。」時代の推移とともに,gentility、

decorumへの顧慮が次第に消えたが,Hemingwayにおいて,そのための外的要因を 求めれば,何よりも第一次大戦の経験であったといってよい。Hemingwayは,

vernacularがstandardと実質的に一致した劇的な表現である。しかし,一方で,

Hemingwayを高く評価するのは,大いに美的考慮があることにも注意しなくてはなら ない。

いずれにせよ,現実のspeechを作品に記録する場合の諸種の困難は,どの作家にも共 通のものである。MarkTwainはその手紙で次のように記している。

Themoment!talk'isputintoprintyourecognizethatitisnotwhat itwaswhenyouheardit;youperceivethatanimmensesomethinghas disappearedfromit.Thatisitssoul.('I)

現実に作品に載録されるのは, 青ざめて硬直し,顔をそむけたくなるような屍体"という わけである。同じ趣旨で,A"22ricα〃D/tz/2cIsの編者もつぎのようにいっている。

Mostdialogueiswrittenmoreorless"straight''sothattheactormay finditdifficulttosuperimposedialectchangesonerroneousgrammatical forms.('3)

標準英語は,英語世界のひとびとの大多数がnormalと認めるような英語であるべき

だ が , そ の 識 別 は , と く に 外 国 人 で あ る わ れ わ れ に と っ て 容 易 で は な い 。 標 準 か ら の

aberrationの程度の微妙な差異は,nativespeakersであってさえ容易に識別し難

いものがあると想像される。諸種の辞書類や,usageの解説書もすべての言語現象につ

いて教えてくれるわけではない。phoneticspelling(=misspelling)や語法違反に応

じて,それを解読し,解釈するために要する調整の努力が非常に複雑なものであること

は,英語国民自身のものでもある('6)。その調整の作業をanalogyと呼ぶことは適当で

あろう。analogyといっても,ここでは発音について触れないことをはっきりさせて

おかなくてはならない。発音は,どの言語においても,もっとも重要な要素でありなが

ら,もっとも克服し難い壁であること,前述の通り,アメリカ英語の中でも,発音上の方

言差異が,他の文法範晴のそれより大で,顕著であること,また,ここでは,文学作品に

見られるnonstandardに関心がはらわれていることなどがその理由である。

(7)

外国人であるわれわれは−かなりの年数にわたって英語を学習して,ある水準の英語 の鑑賞力を身につけたわれわれは−諸種の辞書,文法書を通しての訓練のおかげで,あ る英語の表現を見て,「これは正しい文である」また,「これは誤った文である」と,さ らに,これは一層微妙なのだが,「この表現は許されるのではなかろうか」,「この表現 は正常から逸脱していると見るべきだ」などと判定できるようになっている。幻想ではけ っしてなくて,現実にわれわれが持っているはずの英語の標準的な規則的特性についての 理解と,おそらく無限に変化に富む英語表現への応用力というものは,外国語であるため の遠慮や自信の無さにもかかわらず,紛れもない事実と認めないわけにはいかない。それ は二つの言語の構造を対照し,その間の不一致点に注目しつつ,直観的に身につけた洞察 力といってよい。英語国民の子供が英語で聞き,話し,読み,書き,英語で思考し,さら には感ずるといった総合的,有機的な意味の習得と比べて,はるかに不純で不完全ではあ るが,われわれが獲得する理解力と応用力が開拓される過程は,子供が母国語の用いられ る環境から得る比較的わずかな資料の経験から,その言語についての無限ともいえる具体 的,現実的な表現形式への応用を可能とされる心的過程に相応するといえないであろう か。

発音,語形,統語と分けてみると,前にも触れたように,こと発音に関して外国人は決 定的なhandicapを負わされていて,たとえばどの発音がstandardかnonstandard かの議論は実りの少ないものである。それは理論的,観念的なものに止まる場合が多いで あろう。Standardとされる英語音体系の完全な習得でさえ難事なのだ。厳密にいう と,せいぜいで,発音表記法や音符を読んで,視覚的に音素的な区別,intonationの 変化を知ることができるだけである。(国際発音記号を知らない英語国民がどれほど多い

ことだろうか。)

それに対して綴字のstandardは比較的確立している。英語の場合,正字法について の根強い伝統があったし,包括的でしかも権威のあるOED以下の辞書編纂の成果が大き な働きをしている。Webster'sNewWorldDictionaryのCharltonLaird

の 論 文 は つ ぎ の よ う に 述 べ て い る 。 「 こ と ば を 書 く ひ と に と っ て 綴 り は 厄 介 な 問 題 で は ある。しかし,辞書を作るひと,また用いるひとにとってさしたる困難はない。以前,英 語の綴り方は混乱していて,ある語を綴る正しい形というものが無かった。しかし,現 在はすべて事態は変って,綴りについては非常に厳密になっている。あまりにも厳密で あ る の で 言 語 の こ の 分 野 に お い て だ け は お そ ら く 「 正 確 」 と い う 語 の 使 用 が 許 さ れ る で あ

ろう。」(!')

統語的なusageについては,正しい,あるいは,よいusageとは何かということは 種々論議を呼ぶものであり,それは辞書編纂者の泣き所でもある。たとえば,American

HeritageDictionaryの編纂に当ったCornell大学名誉教授のMorrisBishop

は,相当の識見のあるひとびとの間でさえ意見の齪館があり,goodusageとはつかみ

(8)

8 井 崎 宏 一

所の無い妖精であって,掴まえようと思っても,形も衣裳も一定せず,その正体をつきと めることが困難であるといっている('8)。議論は仮説的で,果敢ないものになりそうである。

Normalであるとの一般の諒解を得た英語を習得したひとが直観的にもっている判断力が 正常と正常からの逸脱を計るのであるが,その正常ないし標準とはまったく不安定なもの

であり,したがって,それを根拠に行われるanalogyも確定性は無いわけである。

英語の普遍的特性の習得にかなり近似したものがわれわれに可能であることは,子供が するその母国語の習得に相応するということは前にも指摘した通りである。しかし,そこ に見られる違いは量的なものであるだけではなくて,本質的なものである。われわれ外国 人のする英語の習得は少なくとも一般の学校教育では,二次的,間接的であり,多かれ少 なかれ,知的,理論的であり,論理的規則性に束縛されている。また,随意的でもあり,

学習の誘意性の有無,個人的必要度,運用の頻度によりその質量が変動する。それに対し て,母国語の習得は,一次的,従って,絶対的であり,本能的,生理的なものである。文法 的な適否の反省や考慮を伴わず,総合的,有機的である。ここに外国語の知識と理解の限 界がある。しかし,現実には,われわれの学校文法のfiction的で,解剖学的である弱点 にもかかわらず,少なくとも,教育面でのその存在価値は否定できないのが実情である。

また,文法とは教育のために設定された規範であるということの歴史的現実性から目をそ

むけることもできない。

とにかく,以上見てきたように,英語のstandardとは何かの問題や,nonstandard へのanalogyの適用の効果とその方法には,われわれの場合,外国語であること,col‑

loquial,dialectalの程度の識別の困難,そして,案内として頼るべき文献の相対的貧困 など,数多くの難問がつきまとっているといわなくてはならない。

(1)SterlingA.Leonard,C"γγg"tE"g/ish[/sagg/FactsA加"tC"γγemE"g"sノ1[/s(zgg (Appleton‑CenturyCrofts,N.Y.1938)p.137)

(2)RichardBridgman,TheCo"oq"iαノSryノg伽A"@grica(OxfordUniversityPress, 1966),p.17‑Bridgmanはvernacularに対するものとしてcolloquialという用語を用い ている。この二者は,一般に言語学で用いるlangueとparole,languageとspeechの 関係に相応するもので,アメリカで用いられ得る英語の総体をvernacular,それが現実に具体 的表現となったものをcolloquialとする。

(3)RoyH.Copperud,A"zerica"[/s(zg2:T/IgCo"se"szJs(VanNostrandReinhold Company,1970)p.v参照

(4)AlbertH.MarckwardtandFredG.Walcott,FaasA加"C"γγ2"tE"g/isノ1Usfzge (Appleton‑CenturyCrofts,N.Y.1938)TheLeonardReportも同書中に載録されてい る。

(5)同書p.1

(6)LewisHermanandMargueriteShalettHerman,A"2erica〃Diacts,AManuulfor Actors,DirectorsandWriters(TheatreArtsBooks,N、Y.,1947)

(7)同書p.xi

(9)

(8)E.Partridge,Sノα"gToday"dYestg7・day(Routledge,London,1935),p.305 (9)StephenCrane,Georgg'sMo"ler,ch.7

(10)JamesFenimoreCooper,WIgPγα〃iech.23

(11)SarahOrneJewett(1849‑1909),.4WIliteHerl"ch.1 (12)HamlinGarland(1860‑1940),TheRa"γ〃o/aP"""gch.1 (13)前掲書p、62

(14)MarkTwain'sLettersm,504.(HaroldC.Martin,Stylei"ProseFictio"(Columbia UniversityPress,1959)p.163)

(15)LewisHermanandMargueriteShalettHerman,A"22"ca"[email protected] ActorsDirectorsandWriters(TheatreArtsBokks,N.Y.,1947)p.5

(16)RichardBridgman,TheCo"09"jαノStyノg畑A腕erica(OxfordUniversityPress, 1966)p.29

(17)TheSeco"dCo"egeEdj加冗q/We6ste7・'sNe"Wo7・jdDjc"o"αγyo/"'g A77ze7・jca L(z"g泌age(TheWorldPublishingCompany,1970)中のCharlton Laird,LanguageandtheDictionary,WTheShapesofWords,p・xxi

(18)T/zgA"@gricafzHgγ〃αggDictio"αγyoft/@gE"g"sノ1La"gzjage(American

HeritagePublishingCo.,Inc.andHoughtonMifflinCompany,1969),p・xxiv

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