翻訳
天津の文化、及びその背景を知るための基礎的研究(
4)
A Study Note for Understanding the Culture and Background of Tianjin(4)
後藤 岩奈1 GOTO Iwana
1 はじめに
本稿は、国際地域研究学会編『国際地域研究 論集』第7号(2016年)所収の拙稿「天津の文 化、及びその背景を知るための基礎的研究
(3)」に引き続き、天津の文化、及びその背景 となる歴史に関する基礎的研究のために、朱其 華主編、劉永沢副主編『天津全書』(天津人民 出版社、1991年。以下『全書』と略記する)よ り、天津の歴史について記述された箇所を、研 究の資料として引用、翻訳紹介するものであ る。
この『全書』は、『天津全書』編集委員会に よって天津紹介のために刊行されたもので、
「総況」「政治」「社会生活」「城市建設」「経済」
などの23章から成り、そのうち「総況」の中の
「8、天津歴史概述」「9、天津人民的革命闘争」
「10、天津的解放」「11、天津解放後的重大事件」
に天津の歴史に関する記述がある2。本稿で は、このうち「11、天津解放後的重大事件」よ り、1949年の天津解放、人民政権の樹立から 1957年の反右派闘争までの時期に関する内容を 引用、翻訳紹介する。
ただ、この『全書』は、その記述が事件史の 形になっており、ある一つの事件と、その次の 項の事件へとつながる部分の記述が無いものも あり、歴史の因果関係が分かりにくい構成と なっている。このため、『全書』の巻末に参考 文献として挙げられている文献、すなわち《当 代中国》叢書編輯委員会編『当代中国的天津』
上巻(中国社会科学出版社、1989年。以下『当
代中国』と略記する)より、『全書』には記述 がないが、天津の歴史上重要だと思われる内 容、一つの事件から次の事件へのつながりを述 べた内容を訳出し、補うこととする。
以下、2~9章において、各章のテーマに該 当する『全書』、『当代中国』の当該箇所の翻訳 を掲載する。なお『全書』の原文には「注」は 付されておらず、『当代中国』の原文中の「注」
は、紙数の関係で省略した。訳文中の[ ]に よる訳注、および全章の文中の「注」は、いず れも筆者(後藤)が付したものである。
2 人民政権の建設に関する記述の 翻訳
『当代中国』の「第一章 人民政権的建立和 国民経済的恢復」より、人民政権の建設に関す る内容を見てゆく。「第一節 建立人民政権、
変革生産関係」では、「天津の解放後、ただち に各級人民政権の建設に着手し、政権の力量を 運用して帝国主義、封建主義と官僚資本主義の 生産関係を打ち砕き、社会主義経済の基礎を建 設することが始まった」としている。以下、『当 代中国』より、当該箇所を訳出する3。 一、各級政権の建設
1949年1月15日、中国人民解放軍平津前線司
令部、政治部は命令を発し、天津市、ならびに 東は溏沽、大沽まで、南は静海まで、西は楊柳 青まで、北は楊村の管轄区内まで、軍事管制を 行なう、とした。上述の命令に基づいて、中国
人民解放軍平津前線司令部が指導する天津区軍 事管制委員会(以下市軍管会と簡称する)は、
この区の軍事管制時期の権力機構となり、全市 の軍事、政治、経済、文化などの管制事項を統 一した。黄克誠が市軍管会主任に就任し、譚 政、黄敬が副主任に就任した。この日の午後4 時、黄克誠ら主要な幹部は市内に入り、執務に 就任した。
同日、華北人民政府は命令を発し、天津市人 民政府の成立を宣言し、黄敬を市長に、張友漁 を副市長に任命した。続いてただちに国民党政 権の各級機構と反動党団、特務、保甲組織をす べて解散し、一般行政機関は引き続き保留し た。市人民政府およびその所属の公安局、工務 局、公用局、地政処などの政府機関が相次いで 成立した。天津新華広播電台[ラジオ放送局]
は放送を開始した。天津市人民政府の建設は、
深刻な災難を受けた天津人民に曙光をもたらし た。1月16日、南開大学、北洋大学、河北工学 院などの学校の教職員と学生4000人余りは連合 して盛大なデモを行ない、各界人民も相次いで 集会デモを行ない、天津の解放を祝賀し、新生 の政権を擁護した。
市級政権が成立した後、ただちに区級政権と 下部政権の建設が行われた。2月2日、天津市 人民政府は正式に各区人民政府区長を委任し、
市内11の区すべてに区政府が建設された。続い て、徐々に下部政権が建設された。3月末まで に、市内11区の380の街および天津市に編入さ れた塘大区の2つの鎮、5つの街の人民政府も すべて建設された。
大衆を組織し、人民政権の基礎を強固なもの とするために、9月5日、天津市は各界人民代 表会議を召集した。8日、天津市各界人民代表 協商委員会が成立を宣言し、黄敬、黄火青ら19 人が委員に選出された。これは天津市人民政府 の基礎がさらにいっそう強大になったことを示 している。
1949年10月1日、中華人民共和国中央人民政 府は成立を宣言した。翌日、天津市30万人は人 民広場で盛大な集会を行ない、中国の歴史が新
たな紀元に入ったことを祝賀した。中央人民政 府の成立後、華北人民政府が10月31日に工作の 終了を宣言した。このため、天津市は中央人民 政府の直接の指導に帰することとなった。
天津市人民政府の成立後、官僚資本(官僚資 本銀行や官僚資本工業企業、官僚資本商業企 業)の没収、帝国主義の天津における経済特権 の取り消しと外国資本の適切な処理、投機資本 への打撃、農村の土地改革などの政策が実施さ れた。以下に農村の土地改革に関する記述を訳 出する4。
五、農村の土地改革
1949年から1950年まで、天津の農村で土地改 革運動が展開された。当時の隷属関係に基づい て、天津の土地改革は二つの部分に分けて行な われた。一つは天津近郊地区の土地改革運動、
二つ目は天津県の土地改革運動である。
(一) 天津近郊地区の土地改革運動
天津解放の初期、市区と近郊地区には67(36 の行政村に属する)の農村(自然村)があり、
土地は15.6万畝[中国の1畝は6.667アール]、
そのうち公地は約6,000畝であった。人口は14 万余りで、そのうち農業を生業としている者は 僅かに5万人であった。総人口に基づいて計算 すると一人平均で土地は1畝余りしかなく、農 業人口に基づいて計算すると、一人平均約3畝 余りとなる。
近郊地区の土地の占有状況は比較的集中して いた。当時の統計によると、地主が7.5万畝を 占有し、土地総数の46.15%であった。富農が
1.3万畝を占有し、8%(市区と近郊地区の総
人口のうち、地主、富農の人数は6%でしかな く、彼らの占有する土地は54%以上であった)。
工商業資本家は5000畝を占め、3.08%、公共社 会団体、教会は3.1万畝を占め、19.08%、残留 外国人は2500畝を占め、1.54%、公共地は6000 畝を占め、3.69%、市区と近郊地区の総人口の 90%以上を占める貧農、雇農、中農と貧民はわ ずかに3万畝を占めるのみで、土地総数の
18.46%であった。
天津の近郊地区の農村は一般の農村とは異な り、約三分の二の地主、富農は工商業を兼営し ており、彼らは土地から得られる収入と財を工 商業に投入していた。地主の多くは市内に住 み、富農の経済は発達していなかった。自作農 の数は極めて少なく、貧民の占める比重が比較 的大きかった。統計によると、近郊地区の総人 口のうち、貧民が約50%を占めていた。
天津の近郊地区の地主、富農は、小作料など の手段を通じて農民を搾取していただけでな く、さらに帝国主義、官僚資本家と結託して、
廉価で労働者を雇うなどの方式を通じて搾取を 行なっており、そのため不断に農民の反抗を引 き起こし、農民の強烈な要求は、半封建反植民 地の農村の生産関係を変えていった。
市区と近郊地区の土地改革運動は2年に分け て行われた。天津が解放されると、1949年3月 28日、市軍管会は『市区と近郊地区の農田土地 問題の暫定執行方法に関する規定』を発布し、
まず地主、工商業を経営する地主のすべての賃 貸の土地を没収し、旧式富農の賃貸の土地を徴 収し、二つの地主の間の搾取を廃止することを 決定した。4月10日、天津市人民政府は土地問 題解決の方法を発布し、地主と工商業を経営す る地主の賃貸の土地をすべて没収すると強調 し、ならびに関係する具体的な問題に規定を行 なった。
上述の規定と方法が下達された後、市人民政 府の直接の指導で、各近郊地区の責任で工作団 を組織して深く農村に入り土地改革を行ない、
各村でも相次いで農民土地改革委員会が成立 し、土地を没収、徴収、分けて賃貸する工作が 執行された。初歩的な土地改革を経て、6月末 には一段落を告げた。今回の土地改革は、没収 した土地は合わせて62767畝で、近郊地区の土 地総数の40%を占めた。
今回の土地改革は、春の耕作を配慮したた め、および状況に対する不習熟のために、その 執行が充分徹底されておらず、そのため、いく つかの問題が残った。主なものは、大きな、明
らかな地主の問題を解決しただけで、漏れた地 主の問題も多かった。一部の土地占有者の出身 階級がいまだはっきりとしていない。初歩的な 土地改革の後、工商業を経営する地主は依然と して比較的多くの土地を占有していた。残留外 国人、教会、旗田など特殊な土地占有の問題は いまだ解決されていなかった。
上述の残された問題を解決するために、1949 年12月7日、天津市軍管会は『市区と近郊地区 の農田土地の残された問題の解決に関する決 定』を公布した。『決定』は以下を指摘する。
“民政局が責任を持って工作団を組織し、順番 に村を検査し、おおよそ残された未解決の問題 はすべて各村が土地委員会を組織して処理す る。来年の生産の実行に利するように、今年の 冬をもって本市の農村土地問題処理の一区切り とする。” この規定に基づいて、市の関係部門 は1950年1月5日に土地改革工作団を派遣し て、手分けをして近郊地区の農村で土地改革工 作を行ない、各村の土地改革委員会と協同で 残った問題を解決した。一ヶ月余りを経て、2 月20日になりすべての没収、徴収した土地の大 部分は、土地を持たない、あるいは土地の少な い農民が耕作、植え付けをするために分け与え られ、空地に対する処理も工商業の発展を適切 に考慮して、地主の余った家屋はできるだけ残 して学校の公用とし、住む住居を持たない烈士 の遺族、退役軍人、貧苦の農民に分け与えられ た。3月、多数の農村では出身階級を確定する 工作が完成した。5月下旬、土地改革の終了が 宣言された。
天津近郊地区は2回の土地改革を経て、没 収、徴収した土地は合わせて107157畝で、その うち地主は397戸で71015畝、富農は92戸で3221 畝。工商業を経営する地主は73戸で3999畝、公 共社会団体は24家で28922畝であった。2年の 土地改革で没収、徴収された土地は、元々あっ た公共地を加えると、合せて112127畝で、土地 総数の71.1%を占めていた。
(二)天津県の土地改革運動
1949年3月15日、中国共産党天津県委員会は
冀中八地委前委の指示に基づいて、『40日農村 工作に関する決定』を発し、40日以内に、当時 の生産救災工作[生産事業を興して被災者を救 済する工作]と結びついて、充分に大衆を立ち 上がらせ、権力をもった地主を打倒し、その土 地を没収して農民に分配することを決定した。
偽りの組織を徹底して打ち砕き、人民の村政権 を建設し、全面的な土地改革のために条件を揃 えた。3月末に闘争が全面的に展開され、合計 で1071戸の大地主の土地と一部の財産が没収さ れ、そのうち土地は203727畝、家屋は1349間で あった。全県で合計17254戸、69684人が土地と その他の生産、生活手段を分け与えられた。
“40日運動”の後、地主はなおも比較的多くの 土地を占有し、さらにその多数は良田、野菜畑 であった。一部の中農は元の畑が動かず、加え て自ら土地をもち、その抱え持つ土地は当地の 一人平均の土地の3~4倍を越えていた。1951 年10月、天津県各界人民代表会議は当年の冬季 に土地改革を行なうことを決定し、ならびに中 国共産党天津地方委員会の『天津、寧河稲田区 土地改革に関する方法』を公布した。11月には 多くの幹部を派遣し、農民協会の成立に協力 し、年末には土地改革を終了した。
天津近郊地区と天津県は土地改革を通じて地 主階級の経済基礎を打ち砕き、農村の生産関係 を変え、農民の積極性を引き出した。近郊と県 の農民は続々と開墾して肥料を作り、農具や家 畜を増やし、生産意欲は極めて高まった。加え て人民政府の積極的な協力と助成で、農業生産 の発展はとても速く、統計によると、1950年と 1949年を比べると、農業生産総額が30.6%増加 し、食糧生産量は23.3万トンから55.9万トンに 増加し、野菜の生産量は21.5万トンから21.8万 トンに増加し、農業生産は豊作となった。要す るに、土地改革の成果は顕著なものであった。
総体的に見ると、運動は健全なものであり、特 に天津の近郊地区は運動の中で実験的に行なう ことに注意し、得た経験をさらに徐々に広く推 し進め、貴重な経験を失うことはなかった。工 商業資本家兼地主に関する問題を解決する時、
民族資本主義工商業の保護に注意し、対応も比 較的良かった。しかし運動の中では政策の執行 において適切さに欠けるところもあり、ある村 では打撃を与える面が広く、特にその後、“土 地改革のやり直し”の中で拡大化した問題がさ らに深刻で、この教訓は汲み取るに値する。
その後、生産の恢復と発展、財政経済状況の 好転のための政策が実施される。工業生産の恢 復として、国営企業での民主改革の推進、私営 工商業での“生産を発展させ、経済を繁栄させ、
公私を兼顧し、労資両方利を得る”方針の貫徹 が行われる。財政統一として、財政収支、現金 管理、物資管理の統一が実施される。さらに工 商業の調整、都市と農村の物資交流が展開され る。これらの政策により、経済の復興と好転が 見られることとなる5。
3 反革命分子の鎮圧に関する記述 の翻訳
中華人民共和国建国後も、中国国内では秘密 結社や国民党系テロ組織、資本家、地主などの 国民党系匪賊が潜伏しており、特に朝鮮戦争の 時期にその活動が活発化した。これら勢力の逮 捕、処刑が行われた。『全書』より当該箇所を 訳出する6。
反革命分子の鎮圧
天津解放の初期、市内の国民党残存勢力、潜 伏している特務[スパイ]、台湾が派遣した敵 スパイとその他の反革命分子らは、帝国主義勢 力と結びつき、様々な破壊活動を行ない、新生 の人民政権を転覆させようと企てていた。彼ら のある者は進歩的であることを装って、革命隊 列の内部に入り込み、情報を探った。ある者は デマを流し、反革命のビラをばら撒いて人心を 撹乱した。ある者は強奪や詐欺を行なって社会 治安を撹乱した。ある者は偽札を製造して市場 を撹乱した。ある者は、その他の様々な破壊活 動を行なった。当時、天津では絶えず様々な事
件が発生した。たとえば、特務分子が糾察隊員 の馬剛、供電部倉庫管理員の王栄利を殺害し、
社会に大きな衝撃を与えた。天津国綿一廠など の企業の機器設備が破壊された。特務王介三は 市民および工商界に対して威嚇を加え、金銭財 物を騙し取った。国民党内政部が指導する“冀 熱綏青年反共救国軍”の武装特務張相文らは武 装暴動を起こそうと図った。特務の僑振東、王 明五らが国慶節に爆破事件を起こそうと企て た。馬廷蘭、関作周らが京唐高圧電線を破壊し た。反革命組織は百貨大楼さえも爆破しようと 図った。
天津市軍管会と天津市人民政府は、天津解放 の日より、反革命破壊活動に打撃を加えること を重要な工作として、一群の反革命分子とその 他の犯罪分子を次々と逮捕した。1949年3月8 日、1946年3月9日にハルピン市で、我が東北 抗日聯軍将軍で、共産党員の李兆麟を殺害した 犯人閻慰軍を逮捕した。6月26日、国民党憲兵 特高科の天津における潜伏組織を見破り、汪傑 ら特務9名を逮捕した。12月20日、ハルピンの
“八・二八”一貫道[民間の宗教結社]暴動事件 の主犯盛孝斌を逮捕した。1951年2月21日、天 津市の安青帮の頭目で、大漢奸袁文会を逮捕 し、その年の12月25日、袁文会が銃殺刑に処せ られた。6月22日、天津の運送業の大ボスで、
国民党天津市運輸業同業公会理事長の巴延慶を 逮捕した。1951年3月31日、吉鴻昌将軍を暗殺 した犯人呂一民らを鎮圧した。これらの断固と した力強い措置は、敵の気炎に厳しく打撃を与 えた。
1951年2月21日、中央人民政府は『中華人民
共和国懲治反革命条例』を発布し、全国範囲で、
鳴り物入りで“鎮反”運動を展開した。2月21 日、天津市は第三回第二次各界人民代表会議を 開催し、『反革命鎮圧報告の擁護に関する決議』
を討論し、通過させた。鎮反運動が天津で正式 に展開された。
鎮反運動中、天津市は広範に各階層各界の大 衆を動員した。3月24日、天津市総工会は第2 回第二次会員代表大会を開催し、総工会主席黄
火青が動員報告を行なった。3月29日、天津市 人民政府は市区各界人民代表拡大会議を開催 し、会に出席した各界の代表は1.5万人で、同 時に50万人が大会の実況放送を聞いた。会上、
被害者およびその家族が次々に台上にあがって 反革命分子の罪行を告発し、広範な大衆の義憤 を引き起こし、政府の反革命鎮圧を断固として 支持することを表明した。3月31日、天津市軍 管会軍法処は『中華人民共和国懲治反革命条 例』に基づいて一群の極悪非道の特務、悪質な ボス、常習的な強盗および漢奸合わせて193名 に判決を下した。その後、各界人民の中で事情 に詳しい者が次々と特務、悪質分子の罪行を検 挙し、同時に積極的に反革命分子と闘争を行な い、姚大娘が特務を捕まえるなどの感動的な事 跡も多く現れた。
安定して、正確に、断固として反革命分子に 打撃を与えるために、1951年7月6日、天津市 各界人民代表会議協商委員会は第三回第七次会 議を開催し、反革命案件審査委員会を組織する ことを決定した。いくつかの案件は反革命案件 審査委員会の審査を経て、市人民政府委員会、
市各界協商委員会連席会議で討論、可決し、天 津市軍管会は7月10日に反革命犯罪死刑者277 名、執行猶予二年の死刑者56名、有期懲役者 178名という判決を下した。
“鎮反”を通じて、反革命分子の破壊活動に厳 しく打撃を与え、革命隊列を浄化し、社会治安 を強化し、天津市には比較的安定した情勢が出 現し、国民経済の回復に比較的良好な環境をも たらした。
4 朝鮮戦争に関する記述の翻訳
中華人民共和国建国の翌年、朝鮮戦争が勃発 する。1948年、朝鮮半島北部ではソビエト連邦 の支援を受ける「朝鮮民主主義人民共和国」が、
南部ではアメリカの支援を受ける「大韓民国」
が成立する。50年6月25日、38度線で軍事衝突 が起こる。半島を南下して優勢を占める北朝鮮 軍に対し、9月15日、アメリカを中心とする国
連軍が戦争に介入し、仁川に上陸、鴨緑江まで 迫る。中国は、韓国軍だけなら戦争に介入しな いが、国連軍が北上するなら介入する、との立 場を表明する。『全書』より、当該箇所を訳出 する7。
抗米援朝
1950年6月25日、アメリカ帝国主義は朝鮮侵
略の戦争を発動し、戦火は鴨緑江付近にまで及 んだ。全国の人民は積極的に抗米援朝、国家防 衛の呼びかけに応え、すさまじい抗米援朝運動 を展開した。
1950年11月1日、天津市市長黄敬は全市各界 の代表に対して政務院総理周恩来の行なった時 事報告を伝達し、全市の人民に積極的に抗米援 朝闘争に投じるよう呼びかけた。11月4日、我 が国の各民主党派は抗米援朝の聯合宣言を発表 した。11月5日、天津市民盟、民建および市総 工会、市青聯、市婦聯および工商聯などの組織 も宣言を発表した。12月になり、この運動は ピークを迎えた。天津の兵役適齢青年は次々に 参軍の申し込みをした。南開大学、北洋大学、
河北省立師範学院、津沽大学などの学生は積極 的に軍事幹部学校への参加申し込みをした。労 働者は全面的に愛国労働競争を展開した。紡績 労働者は“一台の紡績機で一台の大砲、一本の 釘で一丁の銃”というスローガンを提起した。
交通運輸関係の職員労働者は“多く引いて速く 走る”を提起した。鉄道関係の職員労働者は人 員を派遣して中国鉄動労働者志願援朝大隊の朝 鮮での奉仕に参加した。医療衛生界は戦地に赴 き志願軍の傷病兵のために奉仕する志願医療隊 を組織した。天津工商界、宗教界は気勢すさま じい抗米援朝大デモ行進を行なった。天津の各 界人民は抗米援朝総会の呼びかけに応え、飛行 機や大砲の寄贈運動を巻き起こした。
偉大な抗米援朝運動の中で、天津人民は全国 人民とともに、各工作の中で自己の貢献を行 なった。天津工商界の抗米援朝の大デモ、医務 界の志願医療救護隊と宗教界の反米愛国闘争 は、その態度が極めて突出しており、積極的な
作用を発揮した。
1950年11月30日、天津工商界の143の業種と 3000人余りの露天商、計42900人は、全国に轟 かせる抗米援朝、国家防衛の集会とデモ行進を 行なった。黄敬市長、周叔弢副市長らが主席台 でデモ行進を観閲した。市工商聯主委李燭塵は 会上、天津市工商聯が毛主席に送った上書を読 み上げた。天津工商界は全国で率先して抗米援 朝のデモ行進を行ない、すぐに毛沢東主席の賞 賛を得た。12月2日、毛主席は天津工商聯に返 電し、彼らのデモ行進に歓迎の意を表し、全国 のすべての愛国的工商業者と人民大衆が一つに なって、以前よりさらに強固な反帝統一戦線を 結成し、抗米援朝運動を高みに押し上げるよう 呼びかけた。ただちに、全国の工商界で毛主席 の呼びかけに応え、天津工商界に学ぶブームが 巻き起こった。
11月19日、中共天津市委書記で市長の黄敬、
市委統戦部部長の呉硯農は、天津の40名以上の 高級医師と専門家を招聘して時事座談会を行な い、彼らに医療技術を祖国に捧げ、中国人民の 抗米援朝闘争に捧げることを呼びかけた。会で は、華北紡績管理局第一医院院長万福恩が天津 医務界抗米援朝戦地服務隊を組織する提案が提 起された。この提案はただちに参加した人たち の熱烈な賛同と黄敬市長の積極的な支持を得 た。11月22日、77人で組織された第一医療大隊 が成立を宣言し、26日にはただちに天津から戦 地へ向かって出発した。11月23日天津市医務工 作者抗米援朝救護委員会が成立し、朱憲彝が主 任となり、救護委員会が医務界の抗米援朝工作 を統一して指導した。1951年、救護委員会成立 一周年のとき、天津全市で医療救護工作への参 加を申し込んだ医務工作者は4000人余りにも達 し、前後して4つの志願医療大隊、1つの国際 医療大隊、2つの志願救護隊、2つの志願医療 工作隊が組織された。天津医務工作者はまず医 療救護隊を組織し、戦地に赴いて志願軍の傷病 兵のために奉仕し、全国でその模範を示すこと となった。
天津の解放後、帝国主義分子は宗教を隠れ蓑
として、中国人民に危害を加える凶暴な罪悪活 動を行なった。広範な愛国教徒は政治的覚醒が 高まった後、はっきりと見極めた。帝国主義分 子の罪悪陰謀をしっかりと見分け、愛国主義の 立場に立って、積極的に反帝愛国闘争に身を投 じた。1950年11月28日、アメリカ代表オースチ ンは国連安全理事会において中国人民を中傷す る演説を発表した。この演説は中国人民の強烈 な抗議を引き起こした。12月26日、天津宗教団 体、学校、医院など48の職場の合計7000人余り がオースチンの中傷に抗議し、アメリカ帝国主 義の侵略に反対するデモを行なった。1951年1 月12日、天津市天主教[カトリック]自立革新 運動促進委員会準備委員会が成立し、13日に
『天津市天主教自立革新宣言』を発表した。宗 教界の自立革新運動は、宗教が帝国主義との繋 がりを徹底して断ち切り、自ら行ない、自ら育 て、自ら伝える道を歩む道標であり、天津宗教 界の歴史上、極めて重要な1ページを記した。
1951年6月3日、天津市各界の人士は次々と 談話を発表し、中国人民抗米援朝総会の呼びか けに応えて、飛行機大砲の寄贈運動を積極的に 展開した。6月5日、天津総工会は“天津工人 号”を寄贈することを決定し、郊区の農民は“天 津農民号”寄贈を決定、市婦聯は“天津婦女号”
の寄贈を提起し、市医務界は“ベチューン号”飛 行機を寄贈した。仁立実業股份[株式]有限公 司、久大精塩公司、啓新洋灰公司、開灤鉱務総 局、耀華玻璃[ガラス]公司、永利化学公司な どの六大企業は飛行機5機の寄贈を決めた。6 日、東亜公司、金融業公会は飛行機7機、戦車
1輛を寄贈した。その年の12月31日に至って、
全市で合計2001億元を募金し、これは戦闘機 133機を購入できるものであった。
抗米援朝運動の深まりと展開は、天津人民の 愛国主義と国際主義の精神を振い立たせた。同 時に、国家が抗米援朝の時期に天津に対する投 資を増加させ、天津の工業は抗米援朝支援の闘 争の中でも、重要な作用を発揮した。
5 三反、五反に関する記述の翻訳
朝鮮戦争のさなか、中国国内では抗米援朝運 動、愛国増産節約運動が展開される。また51~
52年には、官僚の汚職と資本家の不法行為を摘 発する三反、五反運動が展開される。『全書』
より、当該箇所を訳出する8。 三反、五反運動
新生の人民政権が樹立して間もなく、少数の 幹部の中で汚職、浪費、官僚主義の悪癖が生じ た。ある者はブルジョア階級の糖衣の砲弾が命 中し、人民の罪人に堕落した。1951年末の統計 によると、公安、税務、銀行、合作社などの部 門で4000人余 りに汚職行為があった。天津私 営華陽煙草廠[タバコ工場]の女工楊月輝とこ の工場の団支部書紀の孫樹青は反革命分子を検 挙したが、なんと迫害に遭い、楊は工場の籍を 除籍され、孫は解雇された。彼らは前後して天 津の14の機関を訪問して、往復59回申し立てを して、1年3か月を経て、とうとう解決をみた。
幹部隊列の中の汚職、浪費、官僚主義の行為 を取り除くために、1951年12月1日、中共中央 は『人員削減と機構簡素化、増産節約、汚職反 対、浪費反対、官僚主義反対の実行に関する決 定』を発布した。
1951年12月14日、天津市人民政府委員会、天 津市各界協商業委員会は連席会議を行ない、
『反汚職、反浪費、反官僚主義運動に関する決 議』を通過させ、“三反”運動の指導機構―天津 市節約検査委員会を成立させた。天津市はただ ちに全市の範囲で大規模な“三反”運動を展開し た。
12月17日、天津市総工会、団市工委、市婦聯、
市青聯、市学聯などの人民団体は通知を発し、
全市の職員労働者、青年、婦女、学生に積極的 に“三反”運動に投じるよう呼びかけた。21日、
天津の各民主党派は聯合声明を発表し、黄敬市 長の“三反”運動に関する動員報告を擁護し、各 自の組織の構成員を動員して汚職、浪費、官僚 主義と闘争することを決定した。続いて1951年
1月4日、市工商聯は動員大会を開催し、贈 賄・脱税などの非法行為を勇敢に告白するよう 呼びかけた。1月5日、中共天津市委は党員幹 部大会を開催し、全党を“三反”運動の展開に立 ち上がらせ、党員に戦闘の最前線に立つよう呼 びかけ、勇気をもって告白し、勇気をもって検 挙し、一切の誤った傾向と容赦のない闘争を行 なうことを呼びかけた。さらに深く大衆を立ち 上がらせるために、1月10日、天津市長黄敬と 天津市節約検査委員会は“黄敬市長手紙箱”と
“市節約検査委員会手紙箱”を設立し、各界の人 民の検挙、民主の抑圧、報復や庇護行為の発生 を防止するのに便宜を図った。1月16日、天津 の各界3万人余りが民園体育場で“三反”告白検 挙大会を行なった。
“三反”運動がより深く展開されるにつれて、
国家機関の汚職、浪費が往々にしてブルジョア 階級が放つ“五毒”(すなわち贈賄、脱税、国家 資材の横領、手抜き工事と材料ごまかし、国家 経済情報の盗み取り)と密接な関係があること が分かった。不法資本家は“引き抜く[原文「拉 出来」]”、“人を潜り込ませる[原文「打進去」]”
の方法を利用して、腐敗幹部を丸め込み、労働 者階級と共産党を攻撃した。統計によると、天 津市の9024の工商業で贈賄行為があり、工商総 数の14%を占めている。天津で贈賄され、腐敗 した幹部と職員は2万人余りに達した。このよ うな情勢の下、“三反”運動はただ国家機関内部 のみに制限しているのではなく、必ずや“三反”
と“五反”の運動を結合して行わなければならな い。天津市は中共中央の『有期限で展開する大 規模な断固とした徹底した都市の“五反”闘争に 関する指示』に基づき、1952年2月から全市工 商業者の中で、贈賄に反対し、脱税に反対し、
国家資材の横領に反対し、手抜き工事と材料ご まかしに反対し、国家経済情報の盗み取りに反 対する“五反”運動を展開した。
さらに広範に大衆を立ち上がらせるために、
天津市長黄敬と節約検査委員会が1300名の幹部 を派遣して“市長訪問団”を組織し、訪問団は11 の区隊に分かれ、245のグループからなり、市
長を代表して全市の民衆の中に深く入って調査 訪問を行ない、7日間の訪問を通して、各種の 暴露検挙の材料合計40,706件を収集した。2月 11日、中国店員工会天津市分会は、全市の天津 の“五反”動員大会を召集した。2月22日、天津 市は放送大会を召集し、志願軍に危害を加える 等の姦商の罪行を告発し、8万人余りが放送を 聞いた。
天津市第十一区は“一点を突破し全体を抑え る方法で姦商に進攻して勝利を収める経験”を 総括し、毛沢東主席の称賛を得た。彼は、これ は天津の同志の有益な創造である、と示した。
中共中央が確定した、過去に寛大にして今後 に厳格にする、多数に寛大にして少数に厳格に する、白状すれば寛大にして逆らえば厳格にす る、工業に寛大にして商業に厳格にする、商業 の中でも普通の商業には寛大にして投機商業に は厳格にする政策方針に基づき、全市の“五反”
の中で審査を受けた68,046戸の私営工商業に対 して、以下のような結論を下した。法律を守っ ているもの9625戸で14%、基本的に法律を守っ ているもの48,974戸で72%、半分法律を守り、
半分違法のもの7491戸で11%、違法が深刻なも の1772戸で、2.6%、完全に違法のもの284戸で、
0.4%を占めた。
1952年6月5日、天津市人民政府委員会と各 界協商委員会は連席会議を行ない、天津市の
“三反”、“五反”運動は勝利的に終了したことを 宣言した。“三反”、“五反”運動を通じて、一部 の幹部を教育して救済し、ブルジョア階級の凶 暴な進攻を撃退し、以後の資本主義工商業の社 会主義的改造と国家の計画的な経済建設を迎え るために有利な条件を創り出した。
6 資本主義工商業の社会主義的 改造に関する記述の翻訳
1950年代、土地改革、三反五反運動の成功、
朝鮮戦争の休戦協定締結により、毛沢東は産業 の公有化、計画経済を内容とする「社会主義的 改造」の実施を決定し、53年6月、「社会主義
へ移行する過渡期の党の総路線」を提起する。
53年から三つの五カ年計画を通じて、農業、手 工業を集団所有制とし、資本主義工業、商業を 全人民所有制(国有、国営)に改造して、独立 した工業体系、国防を備えた社会主義中国を建 設するというもので、53年、「第一次五カ年計 画」が開始される。『全書』より、当該箇所を 訳出する9。
資本主義工商業の社会主義的改造
天津は中国北方で最大の工商業都市であり、
工商企業と民族資本階級が比較的集中してい た。解放前夜、天津には合計34,237戸の工商企 業があった。解放後、天津市軍管会と市人民政 府は官僚資本企業を没収し、国営経済を打ち立 て、同時に党の都市政策に基づいて、私営工商 業に対して利用、制限、改造を行ない、徐々に それらを社会主義企業に改造していった。天津 市の資本主義工商業に対する社会主義的改造 は、大まかにいって三つの発展段階を経てい た。
第一に、加工、商品発注、統一買付、一括販 売、取次販売、代理販売の形式を通して、私営 工商業を初歩的な国家計画の軌道に乗せた。
天津解放の初期、私営工商業が遭遇した最大 の困難は、原料と資金が不足し、製品の販売が 滞って山積みとなり、労働者は失業し、企業は 停滞状態にあった。このような状況に直面し て、中共天津市委と市政府は、一方で党の都市 工作路線と“公の利益と個人の利益の双方を顧 み、労使双方に利益があり、都市と農村が助け 合い、内外で交流する”という“四面八方”政策 を大いに宣伝し、他方、私営企業の実際の困難 を解決する方法を積極的に追求した。加工、商 品発注、統一買付、一括販売、取次販売、代理 販売などの形式は、つまりこのような状況の下 で工作実践の中から総括されたものである。
“加工”は1949年3月に、まず製粉業と染物業 から始まった。国営会社とこれらの業種の工場 が合同を取り決め、国営会社が原料を供給し、
一定の規格、品種、品質に基づいて委託し、期
限を切って加工を行ない、国営会社が一定の加 工費を支払う。“商品発注[原文「訂貨」]”は 国営会社が必要とする製品を、要求に基づいて 私営工場に発注し、25%の代金を前払いする。
“統一買付[原文「統購」]”は政府が法令で規 定された一部の製品に対して統一買付を行な い、その後に国家が計画に基づいて分配し販売 する。天津での明令による統一買付の製品は綿 糸と食糧の2種しかなかった。“一括販売[原 文「包銷」]”は国営会社が私営企業の一定数量 の製品を一括販売する。“取次販売[原文「経 銷」]”“代理販売[原文「代銷」]”は私営の小 売商に対して採った改造の形式である。これら の形式を通して、国家は原料、資金、製品など のいくつかの方面から私営の工商業に対して制 限を行ない、それらの生産経営における困難を 解決し、またそれを初歩的な国家計画の軌道に 乗せた。1952年の末までに、私営工業の生産額 が工業総生産額中に占める比重は、1951年の 54.96%から41.75%まで下降した。私営商業が 商業営業の総額に占める比重は、1951年の 54.37%から35.94%まで下降した。国家資本主 義の加工、商品注文などの生産額はさらに私営 工業の総生産額の60%を占めた。ここに至り、
国営と国家資本主義経済は優勢を占め、支配的 地位についた。
第二に、過渡期の総路線を貫徹し、公私合営 を拡大し、生産資料所有制の内部から資本主義 工商業に対して改造を行なった。
1953年、我が国は第一次5カ年計画の実行を
開始し、中共中央は過渡期の総路線を公布し、
さらにいっそう私営工商業に対する改造の過程 を加速させた。1953年の下半年から始まり、国 家は資本主義商業に対して“卸売を排除し、小 売を改造し、取次販売、代理販売を発展させる”
措置を取った。1953年、全市で合計4285戸の卸 売商があり、資金は6000万元であった。1954年 末までに3280戸、資金4569万元減少し、卸売総 戸数の76.5%、資金総額の76.15%を占め、国営 商業は基本的に卸売の陣地を占めた。小売商に 対しては、取次販売、代理販売の拡大を通して
改造を行なった。1953年、まず食糧業から取次 販売、代理販売を開始した。その後、次第に拡 大し、1955年10月には、綿布、石炭、油、茶、
百貨、新薬、電気機器、肉類など国家の経済、
人民の生活と密接な関係のある十数個の業種 は,合計3037戸であった。取次販売、代理販売 の商戸は全市の小売商の11138戸の27.59%を占 めている。取次販売、代理販売の営業額は 16167万元となり、私営小売総額の53.3%を占 めていた。
私営の卸売商の減少と統一買付政策の実行に よって私営工業の原料と販路はいずれも、いっ そう国営会社の加工、商品発注、統一買付、統 一販売に頼らざるをえなくなった。1953年、加 工、商品発注の私営工業総生産額に占める比重 は65.93%となり、1954年には80.84%にまで増 加し、資本主義工業は基本的に国家資本主義の 軌道を歩み始めた。計画的に公私合営を拡張す るために、中共天津市委は1954年3月、公私合 営工作会議を召集した。会議は中央が指示する
“重点的に拡張し、模範を打ち立て、陣地を強 固なものにし、準備を強化する”精神にもとづ いて、1954年に公私合営拡張計画を制定した。
政策の正確さ、方法の適切さ、措置の穏当さに よって、工作は順調に進展した。1953年、全市 の公私合営工業は15戸しかなかったが、1954年 には65戸にまで発展し、1955年の第三四半期に はさらに294戸にまで増加した。ここに至り、
全市500人以上の大工場はすべて公私合営と なった。公私合営工業の生産額が全市工業の総 生産額に占める比重は、1953年の6.99%から、
1955年の23.21%に発展した。
第三に、全業種の公私合営を行ない、資本主 義工商業の社会主義的改造は決定的な勝利を勝 ち取った。
1955年の下半年、天津の私営の大工場はすべ て公私合営となった。まだ合営を行なっていな い中小企業に対しては、国家は一つ一つに対し て投資や改築をすることは不可能であり、数 個、十数個、ないしは数十個の小工場を合わせ てはじめて、組織を調整し、合理的に配置をし、
社会主義の新型企業に発展させるのに便がよく なる、このため、必ずや全業種の公私合営を行 なわなければならない。このような情勢に基づ き、天津市政府は1955年11月、車の道具、ゴム など8つの工業業種1359戸が全業種合営を行な うことを認可した。12月、中共天津市委は拡大 会議を召集して、全市の資本主義工商業に対し て全業種の合営を行なう計画を提起した。会議 のあと、各級の党組織、各人民団体は個別に伝 達動員を行なった。天津工商界に社会主義改造 工作隊が成立し、全国工商聯副主席、天津市工 商聯主任委員李燭塵が隊長の任につき、全市の 工商界で広範な宣伝教育工作を行なった。一ヶ 月余りの時間で、多くの業種の工商業者が合営 を申請した。1956年1月14日までに、天津全市 の101の工商業、26000戸余りが合営を認められ た。
1月15日、天津市解放七周年記念大会におい て、市委員、市政府は正式にこのニュースを公 布した。5万人あまりの職工と工商業者は祝賀 のデモを行ない、天津資本主義工商業の社会主 義的改造が勝ち取った決定的な勝利を祝った。
全業種の公私合営の後、工商業者に対しては、
各人の実際の状況に基づいて、個別に合理的な 人員の配置が行なわれた。
7 整風運動と反右派闘争に関する 記述の翻訳
1953年、ソビエト連邦の指導者スターリンが 死去する。3年後の56年2月、ソ連のフルシ チョフ第一書記はスターリンの独裁政治を批判 する。いわゆるスターリン批判である。その 後、ソ連では「ゆきどけ」の潮流が現れ、東欧 のハンガリーやポーランドでは反ソビエト暴動 が起こるが、ソ連軍によって鎮圧される。中国 では1955年の「胡風批判」で共産党批判を抑え た後、56年4月には陸定一によって「百花斉放 百家争鳴」が提唱され、思想の自由化がうたわ れる。57年2月には、毛沢東の論文「人民内部 の矛盾を正しく処理する問題について」が発表
される。『全書』より、当該箇所を訳出する10。 整風運動と反右派闘争
1956年、我が国の生産手段私有制の社会主義 的改造は基本的に完成し、第一次五カ年計画の 各プロジェクトの主要な指標は予定よりも早く 実現した。党は新たな情勢と新たな任務に直面 するという状況下で、1956年9月15日から27日 まで、第八次代表大会を開催した。大会は我が 国の社会主義の矛盾の変化を正確に分析して指 摘した。我が国の数千年来の階級搾取制度はす でに基本的に終結し、社会主義制度は我が国で はすでに基本的に成立している。国内の主要な 矛盾はすでにプロレタリアートとブルジョア ジーの矛盾ではなく、人民の経済文化の迅速な 発展に対する需要と、現在の経済文化が人民の 需要を満足させることができない状況との間の 矛盾である。全国人民の主要な任務は、力を集 中して社会生産力を発展させ、国家の工業化を 実現して、人民の日増しに増大する物質的、文 化的需要を徐々に満足させることである。
中共第八回代表大会の正確な方針を真摯に貫 徹し、社会主義革命と社会主義建設をより深く 実施するために、中共中央は1957年4月27日、
『整風運動に関する指示』を発し、人民内部の 矛盾を正しく処理することをテーマとして、官 僚主義、セクト主義、主観主義に反対すること を内容とする整風運動を全党で行なうことを決 定し、ならびに党への批判的意見を提起するよ う大衆に呼びかけた。5月3日から11日まで、
中共天津市委は全体会議を召集して、天津の情 勢を分析して、整風計画を制定し、全市の党員 の中で整風運動を展開することを決定した。5 月12日から6月上旬まで、中共天津市委は各民 主党派、無党派人士、各界の著名人士と専門家 学者を招聘して座談会を行ない、彼らの共産党 に対する批判的意見を聴取した。この期間に、
多くの愛国人士と知識人が多くの心からの意見 を提起した。整風がピークに達した後、ごく少 数の右派分子がこの機に乗じて共産党に対して 進攻し、共産党の指導を取って変わろうと企ん
だ。6月8日、中共中央はブルジョア階級右派 分子に反撃する指示を発した。続いて『人民日 報』に『これはどういうことか?』、『労働者は 語った』、『農民は語った』などの社説が相次い で発表され、ブルジョア階級右派分子の党への 進攻を名指しで非難した。天津市はたちどころ に整風から右派分子に反対する闘争に方向を転 換した。
7月30日、天津市人民委員会は全体拡大会議 を召集し、国務院の『国家機関で働く者が整風 運動とブルジョア階級右派に反対する闘争に参 加することに関する決定』を断固として執行す ることが可決された。その後、反右派闘争は国 家機関で働く者の中でも展開された。8月16日 から17日まで、中共天津市委は拡大会議を開催 し、時期を分けいくつかのグループに分けて、
全市の各業種、指導機関から末端の組織まで、
整風と全民的な社会主義大弁論を行なうことを 決定した。30万名余りの幹部、職員労働者が
“大鳴、大放、大字報、大弁論”運動に参加し、
一年の時間を経て、全市で“ブルジョア右派”と された者は5410人に達し、それぞれ程度は異な るが、厳しい処分を受けた。1959年から続々と
“右派分子”とされた人のレッテルが降ろされ た。1978年、党中央の指示に基づき、いまだ レッテルが降ろされていなかった“右派分子”の すべてがレッテルを降ろされ、誤って“右派分 子”とされた多くの人を改め、徹底して名誉回 復した。1979年に至り、9名の“右派”が改めら れていなかった。
天津市の反右派闘争は深刻に拡大化された。
一部の著名人士、学者、専門家、インテリ、機 関の幹部と多年党の後ろをついて来た党内外の 人士は、誤って右派分子とされ、家族親友まで もが連座し、その教訓は深刻なものであった。
8 まとめ
以 上、『 全 書 』 お よ び『 当 代 中 国 』 よ り、
1949年の人民政権の建設から1957年の反右派闘 争までの時期に関する記述を見てきた。
中国は建国後、文学芸術の面でも批判運動が 繰り返し展開され、1955年の胡風批判に至り、
知識人の共産党批判を抑える雛形が形成される が、『全書』、『当代中国』のいずれも、この間 の経過については触れられていない。また「百 花斉放 百家争鳴」時期の知識人の発言の具体 的な内容にもまったく触れられていないし、
「反右派闘争」における知識人批判の具体的な 内容も見られない。1966年に始まる文化大革命 に至る流れのうち、文芸面の動向も重要な要素 であるが、両書とも、工業、商業、農業の面で の状況は詳しく述べられているが、文芸面での 批判運動には触れられていないことで、文革に つながる流れの理解が難しくなっている。
今後、引き続き『全書』および『当代中国』
より、「大躍進」政策、人民公社化運動、経済 調整政策、文化大革命についての記述を訳出 し、その含む意味を整理、検討してまとめたい と思う。
注
1 新潟県立大学国際地域学部([email protected]) 2 「8、天津歴史簡述」『全書』15~25頁。「9、天津
人民的革命闘争」『全書』25~34頁。「10、天津的 解放」『全書』34~35頁。「11、天津解放後的重要 事件」『全書』35~42頁。
3 『当代中国』29~31頁。
4 同上、37~41頁。
5 同上、41~49頁。
6 『全書』35~36頁。
7 同上、36~37頁。
8 同上、37~38頁。
9 同上、38~39頁。
10 同上、39頁。