• 検索結果がありません。

上代・中古語推量助動詞の疑問用法

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "上代・中古語推量助動詞の疑問用法"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

上代・中古語推量助動詞の疑問用法

井  島  正  博

はじめに

 上代・中古の推量助動詞の文法的な位置付けに関しては、井島(二〇〇八・四)(口頭発表資料)で全体的な布置を考察した。しかるに、それらの疑問用法に関しては、第1節で見るように、他の構文的な振舞いに比して、変則性が著しい。本稿では、そのような推量助動詞の変則性を、疑問表現に特殊な条件から解明することを試みる。

1 推量助動詞の疑問用法の変則性

 まず現代語における推量助動詞の振舞いを確認しておく。森山(一九八九・八、九二・三)、仁田(一九九一・三)、益岡(一九九一・五)などに示された構文的テストを参考にして、井島(一九九四・三)で整理した一連のテストをもとに概観する。  階層的モダリティ論に立つ立場では、モダリティとは話し手の発話時における主観的行為を表わす部分である。そのため、純粋にモダリティレベルで機能する推量助動詞を区別するテストとして、①伝聞化([終止形]ソウダの下接)ができない〈話し手の行為〉、②過去形(タの下接)にならない〈発話時〉、③否定形(ナイの下接)にならない〈命題内にない〉、④名詞句中に現われない〈命題内にない〉、⑤ノダ文が下接しない〈命題内にない〉、⑥「思うに」が付加できる〈話し手の発話時における判断〉、⑦陳述副詞と呼応する〈話し手の発話時における判断〉といったものが挙げられてきた。そして、常にモダリティとして働くものを「真正モダリティ」ないし「一次的モダリティ」、モダリティとして働くことはあっても常にではないものを「擬似モダリティ」ないし「二次的モダリティ」と区別することが行われたが、このテストの結果、「真正モダリティ」ないし「一次的モダリティ」に

(2)

認定されるものは、ダロウ(ウ・ヨウ・マイ、以下ダロウで代表する)一つであることになる。 しかるに、疑問形になることができるかどうか、というテストを試みると、むしろダロウは疑問形となりうるのに、他のほとんどの推量助動詞(類)は疑問形にできないという結果を得る(一部命題側の用法を持つと思われる連用形ソウダと、周辺的な推量助動詞類であるハズダは疑問形になることができるが)。常識的には、命題内ものもは疑問化できるが、モダリティ側のものは疑問化できないということになりそうに思われるが、結果はちょうどその逆になるわけである(図表一)。

一表図 ダロウ×××

??

×ニチガイナイ××カモシレナイ××連用形ソウダ○/×××

??

終止形ソウダ××××××ヨウダ(ミタイダ)×

??

××××ラシイ×

??

××××ハズダ

 中古語に目を移すと、高山善行『日本語モダリティの史的研 究』(二〇〇二・二)がまさにこれと同じように中古語における推量助動詞(およびその周辺の形式)のテストを行っている。この表では、助動詞(及びある種の終助詞)が、多くのテストに合格するものからそうでないものへと並べられ、あたかも助動詞が、命題

モダリティ、あるいは客観的

主観的という連続的なスケール上に並ぶものであるかのような印象を受ける。さてこのうち、疑問表現(及び反語)は⑨の「ヤ、カの結び」の欄を見ることになる。この表の排列のしかたからすると、メリ・終止ナリおよびジの箇所に記された△は○に準じて了解されることが求められているのであろうが、これらの△は用例が数例しかないことを表わしているだけではなく、反語となるものが多く、話し手が疑問に思ったり質問したりするものでなく、むしろ話し手の強い主張を表わすものであって、むしろ断定表現と考えるべきものである(ただし⑴cなどは疑問用法と考えるべきかもしれない)。⑴a なのめにかたほなるをだに、人の親はい かが思ふめる。まして(葵の上の死の嘆きは)ことわりなり。葵 二・

43  b 左中弁   「…限りあるただ人どもにて、院(源氏)の御ありさまに並ぶべきおぼえ具したるや おはすめる。…」

若菜上 四・

25  c 内大臣   「さてい 定めらるなる。親王(蛍兵部卿宮)こそ

(3)

(雲居雁を)まつはし得たまはむ。もとより(源氏と)とりわきて御仲よし、人柄も警 きやうさくなる御あはひどもならむかし」などのたまひては、なほ姫君(雲居雁)の御こと、飽かず口惜し。常夏 三・

229

 したがって、疑問表現となりうるかどうかという観点からは、ここはむしろ×に準じて考えるべきものであり、そうするとこの表には不規則な虫食いが生ずることになってしまう。付け加えるならば、上代語のラシも疑問表現とはならない(図表二)。

【テスト一覧】①否定下接②テンス下接③モダリティ下接④仮定節内生起⑤理由節内生起⑥逆接節内生起二⑦準体句内生起表⑧ナムの結び図⑨ヤ、カの結び⑩ゾ、コソの結び 二表図 ベシマジ×ケリ××××メリ××××終止ナリ××××××××××ラム×××××××ケム×××××××マシ×××××××××××××××××ゾ/カ××××××××××  このように、現代語においても、上代・中古語においても、推量助動詞の疑問用法は、他の文法的現象に比して、特に不規則的に見える。このことは、疑問表現という文法的現象の背後には、他の文法的現象とは異なった原理が働いていることを意味しているのであろう。

2 推量助動詞の疑問用法に関する従来の見解

 推量助動詞の疑問用法の不規則性を説明しようという試みは、これまでも仁田(一九八九・八)、森山(一九八九・八、九二・三)、牧原(一九九四・一二)など様々に行われてきた。しかし、井島(一九九四・三)でも検討したように、結論としては、階層的モダリティ論を下敷きとする議論は、この問題に必ずしも充分に切り込めないように思われる。ここでは、階層的モダリティ論に立たない大鹿、野村両氏の議論を略述したい。 大鹿(一九九二・一一、九三・一一、九三・一二、九五・一一、九七・二、九九・二、九九・三)は、一連の論考で現代語と上代語との推量表現について考察しており、疑問用法に関しても深い分析を行っている。通して見ると、若干議論に揺れがあるようにも見受けられるが、ここでは現代語を中心にしてその主たる主張をまとめてみたい。

(4)

 推量表現は、まず「対象的側面」(いわゆる命題)と「作用的側面」(いわゆるモダリティ)とに分けられ、作用的側面に関しては、まず、現代語のダロウや上代語のム・ラム・ケムは、断定文と同じく「事実言明をする」表現であり、「叙実法」と呼ぶことができるのに対して、現代語のカモシレナイ・ニチガイナイ、あるいはラシイ、上代語のベシ、ラシなどは「事実言明をしない」表現であり、「叙想法」と呼ぶことができるとする。 まず、ダロウについて、「前稿(引用者注

られた事実として対立するのである。」と述べる(図表三)。 量の結果間接的に認識された事実として、一方は直接意識に与え 事実を述べるという点で共通しながら、しかし「…だろう」は推 定の文と対立する。即ち、「…だろう」の文も断定の文もともに このように考えることによって、はじめて「…だろう」は所謂断 ある」というのは、事実として述べるということである。そして いうことであるし、「『…』の部分は事実として想定された事態で う』という文は事実を推量」するとは、その文が事実を述べると の部分は事実として想定された事態である」と述べた。「『…だろ では「『…だろう』という文は事実を推量しており、従って『…』 ‥大鹿(一九九二・一一))       推量  間接的…ダロウ    事 実              直接的…断定  

 次に、カモシレナイ・ニチガイナイについて、「「かもしれない/にちがいない」はよく「事態が成り立つ蓋然性(確からしさの度合い)」を表す形式だといわれる。そのように考えるだけでは必ずしも十分ではないと思われるが、確かさの度合いが測られるためには、想定された事態と事実が必要であり、想定された事態と事実との距離が測られるということになる。」と論じる。すなわち、想定された事態は事実そのものではないという点がポイントである(図表四)。

   事  実      確実的…ニチガイナイ       距離=蓋然性       想定された事態         可能的…カモシレナイ   また、カモシレナイ・ニチガイナイの文をダロウに置き代えると不自然になる二通りの場合があるという。第一は、「話し手自身の体験なり行為なりの記憶内容について述べようとする文」の ⎫⎬⎭ ⎫⎬⎭

⎫ ⎬ ⎭

⎫ ⎬ ⎭

(5)

場合であるが、それは「話し手自身にとっては、自身のはっきりした記憶内容は、すでに直接知られている(直接意識に与えられている)事実そのものだからである。そのような記憶を間接的に認識することなどできないからである。」という。たとえば、「話し手自身は「部屋を出るとき鍵をかけた」ことをはっきりと言い切ることができる(非常に鮮明に記憶している)が、それを断言することが憚られる情況」では、⑵aと言うことはできるが、ダロウを用いて⑵bのように言うことはできない。また、カモシレナイ・ニチガイナイも「記憶内容に関して事実言明せず、単なる想定にとどまるゆえに」⑵cのように自然な文となる。⑵a ぼくは部屋を出るとき鍵をかけたと思います。 b

語を使えば、ある直接与えられた事実を理由、原因として、帰結 生み出さない」、すなわち「理由

帰結、原因

結果という用 話し手に直接与えられている事実が想定される事態を事実として する場合の文」であるという。この場合、「事実の系列としては、 態が知られていて、その事態の起こった理由なり原因なりを推量  「第二のタイプの「…だろう」が不可の文というのは、ある事 ない。  c ぼくは部屋を出るとき鍵をかけたかもしれない/にちがい ??ぼくは部屋を出るとき鍵をかけただろう。 ⑶a いる」という理由・原因を推論することになるからである。 いる」という帰結・結果がわかっていて、「この先で工事をして ウを用いた⑶b・cは自然である。これは、この場合「渋滞して は不自然であるが、カモシレナイ・ニチガイナイあるいはノダロ してはっきりと断言する自信がないとき、」ダロウを用いた⑶a 先で工事をしている」ということが想定される。しかしそれに関 転していて、急に渋滞に巻き込まれたというような場合、「この ない」ためにダロウは不自然になるという。たとえば、「車を運 や結果はそこから事実として生み出されうるが、その逆は有り得

が用いられ、⑷bのようにノダロウは不自然となる。 が混んでいる」ことが未知である場合には、⑷aのようにダロウ すなわち、「この先で工事をしている」ことを知っていて、「道路 由となっている。逆の関係では「…だろう」が自然な文になる。」 しようとしている事態が現実に把握されている事態の原因や理 ている、ということだが、その時この二つの事態の関係は、推量 事態があって、そこから話し手には未知の事態を推量しようとし  また、ノダロウが用いられてダロウが不自然な場合は、「ある  c この先で工事をしているのだろう。  b この先で工事をしているかもしれない/にちがいない。 ??この先で工事をしているだろう。

(6)

⑷a 道路は混んでいるだろう。 b しながら、出てきた。 ⑸ 会議が終わったらしい。資料を抱えた数人のメンバーが談笑 と論じている(図表五)。 述べた関係は⑸を例にして、次のようにまとめられるであろう。」 結や結果として把握されている。したがって、一定の関係と前に 情況のことであり、これは所与の事態以外のなんらかの事態の帰 きよう。さらに、この情況は「…らしい」と判断する根拠になる される内容の帰結や結果になっていると、まずは考えることがで 「「らしい」が使われる情況とは、その情況が「…らしい」と判断  さらに、ラシイとダロウとの違いに関して、まずラシイは、 ??道路は混んでいるのだろう。

判断の根拠判断の内容五表図 帰結・結果理由・原因・資料を抱えた数人のメンバーが 談笑しながら出てきた ・会議が終わった

 他方、ダロウは、「判断の根拠となる事態と、内容として想定される事態との関係が、「…らしい」の文とは逆になる。右の例(引用者注:例文⑹)で言えば、「兄が妹のジュースを飲んだ」か ら「(この子は)母親に叱られる」という関係、あるいは「兄が妹のジュースを飲」めば「母親に叱られる」という関係を見ることができる。つまり、判断の根拠になる事態が理由・原因であり、そこから導かれた「母親に叱られる」という内容はその帰結・結果なのである。」と論じられる(図表六、論文中では他の例文が用いられている)。⑹ (幼い兄妹がいて、兄がおやつに出された自分のジュースを飲んだ後、たまたまそこにいなかった妹の分まで飲んでしまった)  (この子は)母親に叱られるだろう。

判断の根拠判断の内容六表図 理由・原因帰結・結果・兄が妹の分のジュースを飲んだ・兄は母親に叱られる

 ただし、「例えば〈引っ越しの後、友人には最寄りの駅から新しい家までの簡単な地図をわたしている。しかし、約束の時間になっても来ない〉という情況を想定してみる」と、その場合の発話として⑺aは自然だが、⑺bは不自然である。⑺a 迷っているのだろう。 b

??迷っているらしい。

(7)

 ノダロウとラシイとは、理由・原因が判断の根拠となり、帰結・結果が判断の内容であるという点では共通であるが、ラシイの理由・原因はいわば「全体」、帰結・結果は「部分、側面、特徴」といったものである。すなわち「「全体」に対して「部分、側面、特徴」といったものが持っている論理的な方向は、帰結・結果であり、「全体」ははそれを生み出す本体即ち、理由・原因という配置になっている。つまり、「…らしい」という文は、帰結・結果の側から理由・原因へという方向を土台にして、しかしその二つの事態が論理的にたどれるといった距離のあるものではなく、全体と部分・側面・特徴、あるいは本体とその現れといった非常に密接な、あるいはその二つが表裏するような関係を前提にしていると考えられるのである。」としてラシイを「本体把握」の助動詞と見なしている。 現代語の議論のみを要約したが、以上のような考察から、最終的に、現代語・上代語に共通する叙法の枠組を以下のような表にまとめる(図表七)。 直接的 間接的

七表図 事実言明する 断定 ―― 推量 だろう む/らむ/けむ

事実言明しない  かもしれない にちがいない べし らしい らし

 非常に示唆に富む研究であることは間違いないのであるが、叙実法の助動詞(ダロウ、ム・ラム・ケム)を用いた推量文が断定文と同じく「事実言明をする」という点で、叙想法の助動詞(カモシレナイ・ニチガイナイ・ラシイ、ベシ・ラシなど)を用いた推量文が「事実言明をしない」ことと異なっている、という議論は、少なくとも筆者にはすっきりと了解することができない。しかるに、このことが、叙実法の助動詞は疑問文に用いられるのに対して、叙想法の助動詞は用いられない、というように疑問文になることができるかどうかと密接に関わっているのであるから、この議論を軽々に見過ごすわけにはいかない。 また、野村(二〇〇三・一)では、モダリティを「文内容に対する把握の仕方・心的態度」とする立場を排して、「文内容と現実との関わり」であると論じる。ここでも、いわゆるモダリティ

(8)

と命題、あるいは主観性と客観性との区別を認めるのであるが、前者は「視認者の位置に応じて、千差万別とも言える様々な形をもって私たちの前に現れる」姿のことであるとして、「射映像」、後者は「具体的な射映像を捨象して思念され」る対象のことであるとして、「超越的対象」と呼ばれている。  そして、推量助動詞の疑問表現に関して、まずダロウについて「「行くだろうか」の場合はどうか。私たちは「行くだろう、行かないだろう」と答えるだろう。「行ったか」の場合は、「行った、行かなかった」と答えるだろう。ということは「行くだろうか」のように問われた場合、私たちはダロウの推量性については、これに答えることはしない。或いはできない。「ダロウであるか、ダロウでないか」ということは問題にならないわけである。」として、「このように、射影形式自体はカによる疑問の直接の対象とはならない。疑問は射影形式を通りすぎてしまうのである。だから、射影形式は疑問に対して透明である、と述べることができるかと思う。」と結論付ける。 一方、ラシイについては、「次に疑問の「らしいか」を考えてみると、これも形成可能だが、これはとにもかくにもダロウと同様である。だが、「引っ越すらしいか」という表現の内実を考慮すると、どうも「引っ越すような様子があるか」に近いように思 われ、すなわちラシイそのものを疑問の対象にしているようである。現に「引っ越すらしいか」という表現の問題性は文法論的考察の対象になってきたわけであるが、その際、考察者は必ずラシイまでを疑問の対象として考察しているようである。とすれば、ダロウは疑問化に対して透明であるのに対してラシイは透明ではない、ということになる。これがラシイとダロウとの大きな異なりである。」と論じる。 さらにカモシレナイ・ニチガイナイについては、「「ないかも知れない」などの言い方が可能なので、カモシレナイなどは射影的のようでもある。しかし、「かも知れない」は、「知れない」が所詮は自立語起源であるために(また可能性のような意味であるために)、やはりカモシレナイそのものを疑問の対象にしてしまう。そして、カモシレナイが可能性を示すとすれば、可能性の有無を問うことは、ラシイなどとは異なり無意味とは言えないように思われる。この点がラシイとカモシレナイの大きな異なりである。現に似たような意味で「可能性がある」という表現では、「可能性が無い」という否定的な述べ方が十分可能である。けれども、カモシレナイなどは蓋然性の量に密接に関わる形式である。とすれば、その否定の「かも知れなく(は)ない」などは、一体何をどのように否定しているのであろうか。可能性が無いのか、それ

(9)

とも可能性どころか必然的に命題が成立するのか、はなはだ分かりにくい形式とな」り、そのために不自然になると論じる。 すなわち、超越的対象(命題)の真偽を問うダロウは疑問化できるが、射映像(モダリティ)そのものを問題にするラシイやカモシレナイ・ニチガイナイは疑問化が困難であるということになる(図表八)。

超越的対象(命題)射映像(モダリティ)

  ダロウ  ラシイ・カモシレナイ・ニチガイナイ

 ダロウがモダリティを素通りして命題の真偽そのものを問題にしているのに対して、ラシイ・カモシレナイ・ニチガイナイがモダリティのありかたそのものを問題にするために疑問化が困難である、という議論は興味深いものである。ただ、どうしてそうなるのか、必ずしも充分に説明されているようには思われないし、「射影像」などの根本概念の理解は必ずしも容易ではない(むしろ、視点と関わる「行く/来る」「やる/くれる/もらう」の違いや人称代名詞の用法などの方が、〝射影〟の定義にあてはまりそうである)。 次節では、これらの議論に触発されつつ、推量助動詞の疑問用 法の解明に必要であると思われる理論的な道具立てについて検討を加えてみたい。

3 推量助動詞の疑問用法に関する理論的検討

  3・1 推量の二類型

 すでに井島(二〇〇八・四)で検討したように、現代語ではそのような観点からの推量助動詞の使い分けがないためにあまり目立たないが、上代・中古語では次の二種類に、推量助動詞が分けられることを論じた。すなわち、現実世界の事態を推量する「現実推量」と、現実世界とは切り離された仮想世界で何らかの事態を思い描く「非現実推量」とであるが、この二類型は、すでに山田孝雄(一九〇八・九)において、「推量をあらはす複語尾」「非現実の思想をあらはす複語尾」と呼ばれて区別されていた。 すなわち、推量助動詞によって描かれる世界には、「仮想世界」と「現実世界」とがあるということになる。さてここで、現実世界の事態であれば、話し手は断定表現を用いればよさそうに思われるが、ここに推量表現が用いられるのはどうしたわけだろうか。ここには、話し手が当該の事態を知っているか知らないかという契機が関わっているように思われる。とりあえず、現実世界の中で話し手が知っている領域を「既知領域」、知らない領域

図表八

(10)

を「未知領域」と呼ぶことにしたい。そしてさらに既知領域の中に、話し手が直接経験した「経験領域」が組み込まれていると考えたい。そうすれば、断定表現が用いられるのは既知領域の事態であって、未知領域の事態は推量する他はないだろう。しかし何の根拠もなく推量することはできないので、既知領域にある当該事態と因果関係等で結ばれた事態を根拠に推量するということになる(図表九)。 仮 想 世 界

未 知 領 域 既 知 領 域

経 験 領 域 図表九

現実世界

 ちなみに、A・シュッツ(一九三二)では、現象学的社会学の立場から、世界を我々が直接経験する「直接世界」、直接は経験しなくても我々の生の期間に我々の周りで生起している「同時世界」、我々の生の以前に生起した「前世界」、我々の生の以後に発生するであろう「後世界」を設け、それぞれの世界に対する我々 の認識の仕方が異なっていることを論じている。また、R・ラネカー(一九九一)では、認知言語学の立場から、現実の中でも我々が知っている「既知現実knownreality」、知らない「未知現実unknownreality」、そしてそもそも現実ではない「非現実

non-reality」を区別し、さらに第3・3節で論じる時間的な関係の中で位置付け、それが言語表現としてどのように実現されるかを論じている。

  3・2 推量の方向性

 現実世界には、雨が降って地面が濡れる、火が燃えて煙が上がる、などに見られるような因果関係が存在する(と認識されている)。そしてその因果関係には原因が先にあり、結果がそれに続くといった方向性が見出される。すなわち、雨が降る、火が燃える、といった原因があってはじめて、地面が濡れる、煙が上がる、といった結果がそれに伴うのである。それに対して、人間が心内で行う推論にも、理由ないし根拠をもとに、何らかの結論を導くという方向性が見出される。そして外在的な現実世界での、原因

結果関係と、内在的な心的世界での、理由

結論関係とは、方向が一致する場合と、逆になる場合とがありうる。すなわち、雨が降る、火が燃えるのを見て、地面が濡れる、煙が上が

(11)

ることを推論する場合と、地面が濡れている、煙が上がっているのを見て、雨が降った、火が燃えていることを推論する場合とが考えられる。両者が一致する前者を「順行推論」、両者が逆になる後者を「逆行推論」と呼ぶことにしたい。ラムが順行推論であるのに対して上代語のラシが逆行推論であることは、早く中西(一九六四・一〇)などで指摘されていたが、それらに対応する現代語のダロウは順行推論であり、ラシイは逆行推論であることは、大鹿(一九九五・一一)などで中心的に論じられている。 すなわち、順行推論である⑻aは、ダロウは自然であるがラシイは不自然となり、逆行推論である⑻bは、ラシイは自然であるがダロウは不自然である(ただし、⑻bでもノダロウを用いることはできるが、その点に関しては後述)。⑻a (雨が降っているのを見て)  我が家の庭もしっとりと濡れるだろう/*らしい。 b (庭がしっとりと濡れているのを見て)  昨夜雨が降った*だろう/らしい(/のだろう)。・順行推論 因果関係   原因    結果 推論     理由    結論       雨が降る  庭が濡れる ・逆行推論 因果関係  原因    結果

推論    結論    理由      雨が降る  庭が濡れる

 大鹿氏の一連の議論から、逆行推論を表わす助動詞には疑問用法がない傾向があることが伺える。しかし、このままではどうして逆行推論は疑問用法と相性が悪いのかは説明できない。

  3・3 推量の時間性

 第3・1節で論じた、推論の二類型から導かれる、仮想世界/現実世界という世界構造を、過去/現在/未来という時間の流れの中に位置付けてみたい。そうすると、現実世界は過去から続いてきたものが現在までで断ち切られて、それから先の未来は仮想世界が続くことになる。また、現実世界の中の経験領域は、少なくとも個人の出生以後からしか始まらない(図表十)。

 このような世界構造に、第3・2節で論じた因果関係を組み合わせてみる。そうすると、現実推量に関しては、順行推論は、既知領域に原因があり、未知領域あるいは仮想世界(多くは未来)に結

(12)

果があることになるが、推論も時間の流れに沿って、時間的に以前の原因となる事態を理由に、以後の結果となる事態を結論として行われる。それに対して逆行推論は、未知領域に原因があり、既知領域に結果があることになるが、推論は時間の流れに逆らって、時間的に以後の結果となる事態を理由に、以前の原因となる事態を結論として行われる。 他方で、非現実推量では、原因も結果も仮想世界にあることになり、順行推論も逆行推論もその点に関しては違いがないことになる(図表十一)。   3・4 疑問の選択性

 ここまでは、推量表現のさまざまな条件に関して検討を加えてきた。しかし本稿で問題にしている推量助動詞の疑問用法の変則性については、他の構文的振舞いに比して、疑問用法が特殊なのであるから、疑問表現の性質の方に変則性を生ずる原因を求めるべきだろう。ここでは特に疑問表現の選択性という性質に注目したい。

過     去

図表十一

未 来

▲現在

現実世界

仮 想 世 界

未知領域既知領域

結 果

結 果 原 因

原 因 結 果

結 果 原 因

逆行推論

順行推論

⎧︱

︱︱

⎨︱

︱︱

︱⎩

仮 想 世 界 未 知 領 域 既 知 領 域 経 験 領 域 過 去 図表十

未 来

▲出生 ▲現在

現実世界 ⎧

︱⎨

︱⎩

(13)

 さてここで、ある命題が質問されるないし疑問に思われるのは、どういう場合だろうか。少なくともそうである可能性とそうでない可能性との二つ、場合によってはそれ以上の可能性を認識している場合であろう。このような特徴を選択性と呼ぶことにしたい。 まず一般的に、肯否疑問文では、⑼aのように肯定否定という形で選択が行われる。選択疑問文では、文字通り⑼b・

  か…)。  b 田中が犯人ですか、佐藤が犯人ですか(、山田が犯人です ⑼a 田中が犯人ですか。 とはできるだろう。 い意味で、疑問詞疑問文の場合も選択性が背後にあると考えるこ わりのある人物に範囲を限定していることになる。そのような広 は、人間、さらに殺人事件であれば、犯人を被害者と何らかの関 頭にあるわけではないとしても、⑼cのような質問をするときに 疑問詞疑問文の場合は、発話者には必ずしも答が選択肢として念 うに複数の選択肢のうちから一つを選択することになる。さらに b'のよ

 c 誰が犯人ですか。 か。 b' 田中と佐藤(と山田…)のうち、どちら(誰)が犯人です   3・5 推量の疑問表現

 次に、推量表現に関して、疑問の選択性がどのように結び付いて、特に逆行推論について疑問用法が不自然になるのか、検討を加えたい。 多くの場合、因果関係を認識している二つの事態の間であっても、前件(P)が成立したからといって、必ず後件(Q)が生起するとは考えていない。それは、前件は後件が成立するための必要条件ではあっても、十分条件ではない場合がほとんどであるからである。後件が成立するためには、前件以外にもさまざまな条件を必要とするのである。逆に言えば、前件が成立したからといって、潜在的にはQ以外の後件(Q、Q、Q……)が成立する可能性もあるのである。ところが一方、Qが生起したのであれば、ある特定の前件(P)が成立したはずである、と日常的には認識されているのではないだろうか(図表十二)。

図表十二

P Q

Q1 Q2 Q3

(14)

[原因]春になる[結果]a 鶯が鳴く b 木々が芽を吹く c 暖かい風が吹く d 水が温む   …… このように、一つの原因からさまざまな結果が生じると考えるのが日常的な発想であろう。少なくとも、肯否二者択一の選択が可能であるような場合でなければ、疑問表現にすることはできない(図表十三)。

 すなわち、順行推論の場合には、原因を知ってそこから生ずる結果を複数の選択肢の中から選ぶという形の推論を行っているのに対し、逆行推論の場合には、結果を知ってそれと結び付く唯一の原因を導くという形の推論を行っているということになる。これが、順行推論を表わす推量助動詞が疑問文中に用いられやすい 傾向にあり、逆行推論を表わす推量助動詞が疑問文中に用いられにくい傾向にある理由なのではないだろうか しかし、常にそうでなければならないわけではなく、実際には、ある結果に対して、複数の原因が考えられる場合もありうる(図表十四)。

[結果]花子は元気がない[原因]a 体の具合が悪い b 失恋した c 親に叱られた d お金がない   …… 現代語のノダロウが、逆行推論ではあるが疑問文を作ることができるのは、このような形の推論を行っているからだろう。 以上のような理論的な検討を踏まえて、次に現代語と上代・中

図表十三

P Q

Q

P P1 P2 P3

図表十四 Q

(15)

古語との推量助動詞それぞれについて、疑問用法の可否に関する理論的な説明を行っていきたい。

4 推量助動詞の疑問用法の解釈

  4・1 現代語の推量助動詞

 前節で論じたことをもとに、まず現代語の推量助動詞の疑問用法の可否について確認しておきたい。 ・疑問用法がある…ダロウ・ウ・ヨウ・マイ(・ハズダ) ・疑問用法がないまたは僅少…カモシレナイ・ニチガイナイ・ヨウダ・連用形ソウダ・ラシイ(若干存在) ダロウ(以下、ウ・ヨウ・マイを含める)を用いた推量文は、ある理由をもとに導かれる結論が複数ありうることを念頭に置きつつ、その選択肢のうち一つが成り立つことを推量するために用いられるものと考えられる。このような推量のありかたを「選択推論」と呼ぶことにしたい。そうすると、ダロウに疑問用法があることについては、複数の選択肢があれば、そのうち一つが成り立つかどうかを尋ねることは自然であるからであると説明できることになる(図表十五)。  それに対して、カモシレナイ・ニチガイナイは蓋然性を表わすと考えて大過はないだろうが、このような推量のありかたを、仁田(一九九一・三)などを参考に「蓋然性推論」と呼べば、蓋然性推論とは、たとえ他に可能な結論があったとしても、その中から特定の理由と結論の組を取り出して、その組み合わされた理由と結論との組に関して蓋然性を判定するものとなる。この推量のありかたは、話し手が算出した蓋然性を提示するものであり、複数の選択肢の中から一つを選ぶようなものではない。そのために原則として疑問用法はない(図表十六)。 ちなみに、蓋然性推論はそのように特定の原因と結果との組を取り出して、その蓋然性を算出するものであるから、順行推論にも逆行推論にも適用可能である。

結 論 理 由

結 果 結 果1

結 果2

結 果3

原 因

図表十五 選択推論

推論現実 ……

(16)

⑽a (道が渋滞しているのを見て)  この先で工事をしているかもしれない/にちがいない。(=⑶b) b (道を工事しているのを見て)  道が渋滞しているかもしれない/にちがいない。 ただ、疑問用法が皆無かというと、僅かながらのような例を見出すことができる。これは相手の主張を受けて、その蓋然性の高さを確認するものであり、そのような場合ならば、肯定、否定という二つの選択肢から一つを選ぶ疑問表現が可能となる(ただ、この場合ニチガイナイは用いられているが、「それで間違いないか」と言質を取っているだけで、蓋然性は問題となっていないと考えるべきかもしれない)。 ⑾ 「すると、おまえと、ここに倒れている子と、ふたりでかけ 00

をやったわけなんだね。」「ええ。

」「ふたりだけなんだね。」「

ええ。」草っぱらに寝ていた吾一は、「おやっ。」と思った。「それで、おまえがどうしてもやらなければ承知しないと言ったので、この子がつるさがったのかい、それにちがいないかい。」山本有三『路傍の石』

190

 用例は見出しがたいが、ノダを介したカモシレナイノカ・ニチガイナイノカは若干許容度が上がるかもしれない。これも発話者自身の蓋然性推論ではなく、聞き手ないし第三者の蓋然性推論の確認のために用いられるものであり、このような場合であれば、肯定、否定の選択が可能となる。 さらに、ヨウダ・連用形ソウダ・ラシイについては、何らかの兆候をもとにしてその大本である事実を推量するために用いられる、と考える説もそれなりの妥当性を持っているのではないだろうか。このようなありかたを、これも仁田(一九九一・三)などを参考に「兆候性推論」と呼ぶことにしたい。この大本と兆候という関係は、不即不離の関係であり、そのような意味では兆候性推論は「本体把握」(大鹿(一九九五・一一))と呼ぶこともできるのであるが、他方では、この関係は原因と結果との関係の一種と考えられる。そうすると、兆候性推論は、事実として眼前にあるの

⎧︱

⎨︱

結 論 理 由

結 果 結 果1

結 果2

結 果3

原 因

図表十六 蓋然性推論

推論現実 ……

理 由 結 論

蓋 然 性

(17)

は兆候、すなわち結果の方であって、それをもとにして大本、すなわち原因を推量する、逆行推論となることになる。しかるに、大本(原因)からさまざまな兆候(結果)が生ずることはあっても、ある兆候(結果)を生み出す大本(原因)が複数存在するとは、日常的には考えない。そのため、原則として、兆候性推論としてのヨウダ・連用形ソウダ・ラシイには疑問用法はない(図表十七)。

 ただ、連用形ソウダについては、モダリティだけではなく、命題の側にもその領域が広がっており、命題側のものには疑問用法も若干見られる。⑿a 「…僕はね、宇野理一という社会人を尊敬しているのです。その人の名 めいのためにも、あれはあれで終らせたいのです。 それからもうひとつ、美しい母のためにも。どうです、それより、病院の二人は和解しそうですか」

立原正秋『冬の旅』

703  b 「町会議員も最 見えそうなものだ」と郡視学は懐中時計を取 とりして眺 ながめながら言った。「時に、瀬川君のこともいよいよ物に成りそうですかね」島崎藤村『破戒』

642  c 授業中に食う弁当というものは、教師の話を注意して聞いていないと、食べられないものなのである。つまり、教師が、生徒に背を向けて黒板に何かを書いている間に口に入れるのだから、前後のつながりから判断して、どれくらいの時間後ろ向いていそうか、わかっていないと、そのタイミングが掴 つかめない。曾野綾子『太郎物語』

135  d 建設業とはいえ、仕事の内容は一種のトビで、数十メートルもの高さがあるハイウェイに、命綱をつけて防音壁を取りつけるといったようなことをするらしい。私が彼の選んだ仕事の意外さに、うまくやっていけそうなのかと訊ねると、社会保険が完備しているのでなんとか頑張るつもりだと言っていた。沢木耕太郎『一瞬の夏』

1308  e その日野々宮常務は、ぼくの座っている席のうしろ側にきて、「仕事、きりがつきそうかい?」と、言った。

(兆候)結 果

結 果1

結 果2

結 果3

原 因

(大本)

図表十七 兆候性推論

推論現実 ……

結 論 理 由

(18)

椎名誠『新橋烏森口青春編』

321  f 「俺 おれの嫁さん、どうかね。」姉は、水滴のたれこむ目をしょぼしょぼさせて、わらった。「いい、ひと。」「あんたの妹だぜ。うまくやっていけそうかい。」三浦哲郎『忍ぶ川』

80  g 「今夜は、勝てそうですか?」「それは……わからない」内藤は口ごもった。沢木耕太郎『一瞬の夏』

606  h 「みんなすぐに揃いそうか」「揃えるって云ってた」そしてさぶ 00はおずおずと栄二を見た、「その──この仕事はいそぐのかい」山本周五郎『さぶ』

700  ここで、ノダロウについて考えたい。ノダロウは逆行推論であるにも拘わらず、疑問用法が存在する。ノダによって逆行推論が可能となっているが、ダロウはあくまで選択推論である。そのため、ノダロウはある特定の結果をもたらした原因を、複数の可能な原因のうちから一つ選択するという働きを担うことになる。このようにして、ノダロウには疑問用法が可能になるものと思われる(図表十八)。  以上のように、現代語の推量助動詞に関する疑問用法の可否は説明できることになる。  4・2 上代・中古語の推量助動詞

 最初に、上代・中古語の推量助動詞の疑問用法の可否について確認しておく。 ・疑問用法がある……ム・ラム・ケム・マシ(・ベシ・マジ(マシジ)) ・疑問用法がない……ラシ・終止ナリ・メリ(・ジ) ここで、ベシ・マジについては、上代では当為を表わすものにしか疑問用法はなかったが、中古には推論を表わすものにも疑問用法が拡大している。また、言うまでもないが、ラシは上代、メ

結 果 原 因1

原 因2

原 因3

原 因

図表十八

推論現実 ……

理 由 結 論

(19)

リは中古にしか用いられない。ジに関しては、ムの打ち消しと言われながら、疑問用法が見られないのは、用例が少ないためなのか、詳らかではなく、今回の考察からは除いておく。 まずムは、井島(二〇〇八・四)によれば、非現実推量を表わし、仮定条件節をとる主節にも用いられるが、疑問文はその主節に現われる。⒀a 源氏  「…(源氏は)いはけなくより宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせずところせく、いささかの事のあやあまりもあらば、軽軽しき譏りをや 負はむとつつみしだに、なほすきずきしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。…」

『源氏物語』梅枝 三・

416  b (内大臣が)頭中将(柏木)して(夕霧に)御消息あり。「一日の花の蔭の対面の、飽かずおぼえはべりしを、御暇あらば立ち寄りたまひなんや 」とあり。藤裏葉 三・

426  c 夕霧 「かの見つるさきざき(紫の上と玉鬘)の、桜山吹といはば、これ(明石の姫君)は、藤の花とや いふべからむ。木高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひは、かくぞあるかし」と思ひよそへらる。野分 三・

276

 d 明石の君    「かの明石の岩屋より、忍びてはべし御祈 祷の巻 くわんじゆ、また、まだしき願などのはべりけるを、御心にも知らせたて まつるべきをりあらば、御覧じおくべくや とてはべるを、ただ今はついでなくて、何 開けさせたまはん」と聞こえたまふに、若菜上 四・

118  e 弁、「…それに、同じくは、げにさもおはしまさば(朱雀院の意向を踏まえて女三の宮が源氏に降嫁すれば)、い

たぐひたる御あはひならむ」と語らふを、若菜上 四・

25  f (源氏は朧月夜とのことが)ものの聞こえもあらばい

むと思しながら、例の御癖なれば、今しも御心ざしまさるべかめり。賢木 二・

94  g 明石の入道    「…(明石の入道は)次々さのみ劣りまからば、何

なりはべらんと、悲しく思ひはべるを、これは生まれし時より頼むところなんはべる。明石 二・

235

 このことからすると、ムは選択推論を行っていると了解できる(図表十九)。

結 論 理 由

結 果 結 果1

結 果2

結 果3

原 因

図表十九 選択推論

推論現実 ……

(20)

 マシもムと同じく、非現実推量を表わすだけでなく、選択推論を行っているために、仮定条件節をとる主節が疑問用法となることができる。⒁a (空蝉は)心の中には、いとかく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれる古里ながら、たまさかにも(源氏を)待ちつけたてまつらば、をかしうもや あらまし。帚木 一・

187  b 夜ひと夜風吹き荒るるに、女房  「げにかう(源氏が)おはせざらましかば、い 心細からまし。(源氏と紫の上が)同じくはよろしきほどにおはしまさましかば」とささめきあへり。若紫 一・

320  c 二ところ(大君と中の君)、いとど心細くもの思ひつづけられて、起き臥しうち語らひつつ、「一人一人なからましかば、い 明かし暮らさまし。今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」など、泣きみ笑ひみ、戯れ事もまめ事も、同じ心に慰めかはして過ぐしたまふ。

椎本 五・

179

 d 中の君   「…中納言の君(薫)の、(故大君を)今に忘るべき世なく嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、またかやうに思すことはありもや せまし。…」 宿木 五・

374  ラム・ケムは、井島(二〇〇八・四)で論じたように、現実推量を表わすものであり、原則として仮定条件節はとらないという点では、ムとは異なっていた。しかるに、選択推論という点では、ムと共通する。そのために疑問用法も見られる。ラムの用例は次の通り。⒂a  源氏→朝顔の姫       「人知れず神のゆるしを待ちし間にここらつれな き世を過ぐすかな  今は、何 、(源氏を)かこたせたまはんとすらむ。なべて世にわづらはしき事さへはべりし後、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片はしをだに」と、あながちに聞こえたまふ。朝顔 二・

464  b 大人びたる人や 、さるべき隙 ひまをも作り出づらむ、男君(夕霧)も、いますこしものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。少女 三・

44  c  「宇治へは、常にや このありけむ男(時方の随身)はやるらむ。かすかにてゐたる人(浮舟)なれば、道定も思ひかくらむかし」と、うちうめきたまひて、浮舟 六・

168  d 妹尼  「かかる身にては、(浮舟に出家を)すすめきこえんこそは、と思ひなしはべれど、残り多かる御身を、い で経た

(21)

まはむとすらむ。…」手習 六・

331  また、ケムにも次のように疑問用法が存在する。⒃a 薫→八の宮     「…さかしう聖だつ迦葉も、さればや 、起ちて舞ひはべりけむ」など聞こえて、飽かず一声聞きし(八の宮の姫君たちの)御琴の音を切にゆかしがりたまへば、(八の宮は)うとうとしからぬはじめにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。

椎本 五・

173  b (夕霧は)かかるついでにとや 思ひ寄りけむ、蘭の花のいとおもしろきを持たまへりけるを、御簾のつまよりさし入れて、夕霧→玉鬘     「これも御覧ずべきゆゑありけり」とて、とみにもゆるさで持たまへれば、うつたへに、(玉鬘が)思ひもよらで取りたまふ御袖をひき動かしたり。藤袴 三・

324  c  「あいなしや、わが心よ。何 (中の君を匂宮に)譲りきこえけん。…」宿木 五・

376  d  「宮(母、女三の宮)もかくさかりの御容貌をやつしたまひて、何 、にはかにおもむきたまひけん。…」と思ふ。匂宮 五・

18

 e 薫→中の君     「…かくは聞こえさせながらも、かのいにしへ(源氏の死)の悲しさは、まだいはけなくもはべりけるほどに て、いとさしもしまぬにや はべりけん。…」

宿木 五・

386  f 右近  「聖の名をさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。私の罪も、それにて滅ぼしたまふらむ。まことに、いとあやしき御心の、げにい ならはせたまひけむ。…」

浮舟 六・

126  次に、ベシであるが、ベシは上代と中古とで、用法に違いが見られる。上代にも疑問用法は見られるが、ム・ラム・ケムなどに対して、使用される割合が小さく、およそ当為の意味のものに限られ、推量を表わすものには疑問用法は見られない(大鹿(一九九九・三))。⒄a 士 をのこ空しくあるべき(士也母空応有)万代に語り継ぐべき名は立てずして  (男子たるものが空しく終わってよいものか)

『万葉集』巻六・九七八 b 波高しい 梶取水鳥の浮き寝やすべき(浮寝也応為)なほや 漕ぐべき(猶哉可榜)  (水鳥のように浮き寝をしようかもっと漕ごうか)

巻七・一二三五 c 紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばか 人の知るべき

(22)

(著丹穂哉人可知)  (着て目立ったら人が知りそうだ)巻七・一二九七 d 山近く家や 居るべき(家哉可居)さ雄鹿の声を聞きつつ寝ねかてぬかも  (山近く住むものでない)巻十・二一四六 e 里近く家や 居るべき(家哉応居)この我が目の人目をしつつ恋の繁けく  (里近く住むものでない)巻十二・二八七六 f ちちの実の父の命ははそ葉の母の命凡 おほろかに心尽くして思ふらむその子なれやもますらをや 空しくあるべき(大夫夜无奈之久可在)  (ますらおはむなしくあってよいものか)巻十九・四一六四 このことは、上代には、ベシが推量で用いられる場合には、専ら蓋然性推論を表わしていたからであると思われる。ベシには、現代語のカモシレナイ・ニチガイナイのように、蓋然性の高低による使い分けはなく、単に蓋然性がある、というだけに留まるものではあるが、それでも特定の原因と結果との組を取り上げて、その蓋然性があると判定する表現であったと思われる。そのために、上代には推量を表わすベシには疑問用法がなかったのであろう。それに対して、当為を表わすベシは、「した方がよい」かど うか、「すべき」かどうかを二者択一的に判定することは、問題なく可能であり、疑問用法が存在することになる(図表二十)。

 しかるに、中古になると、推量を表わすベシにも疑問用法が拡大する。これは、蓋然性推論から選択推論へと用法が拡張したためであると考えられる。⒅a  源氏  「ませのうちに根深くうゑし竹の子のおのが世々にや 生 ひわかるべき  思へば恨めしかべいことぞかし」と、御簾をひき上げて聞こえたまへば、   (邸の中で根を深く植えた竹の子─あの大事に育てた娘も、それぞれに縁を得て、ここから別れてゆくのだろうか)

結 果 結 果1

結 果2

結 果3

原 因

図表二十 蓋然性推論 蓋然性

推論現実 ……

結 論 理 由

(23)

『源氏物語』胡蝶 三・

174  b 源氏  「(女三の宮が朱雀院のもとに)ついでなくすさまじきさまにてや 、はひ渡りたまふべき。何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき」と思しめぐらす。   (きっかけもなく何の趣向もないままに、気軽にお出かけになるわけにはいかない。)同 若菜下 四・

171  c 夕霧  「い とはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言    ひしひとこと  上より落つる」とや書いたまへらむ、   (長夜の夢がさめたときにとかおっしゃいました一言を、いつのことと思ってお訪ねしたらよいのでしょうか)

同 夕霧 四・

439  d 誰も、さばかりに(薫ほど立派に)なりぬる御ありさまの、いとやつればみただありなるや あるべき、さまざまに、我、人にまさらんとつくろひ用意すべかめるを、かくかたはなるまでうち忍び立ち寄らむ物の隈もしるきほのめきの隠れあるまじきにうるさがりて、をさをさ取りもつけたまはねど、   (まったく身なりを落として平凡ななりふりでいるような人があるだろうか)同 匂宮 五・

20

 e 中の君   「かからんとすること(匂宮が通ってこないこと)とは思ひしかど、さしあたりては、いとかくや なごりなかるべき。げに、心あらむ人は、数ならぬ身を知らでまじらふべき世にもあらざりけり」と、かへすがへすも、山路分け出でけんほど、現ともおぼえず悔しく悲しければ、   (いざとなっては、匂宮が私を本当にこうまで捨てておしまいになるということがあろうか)同 宿木 五・

409  f 中の君→浮舟      「ここは、(浮舟が)何 うしろめたくおぼえたまふべき。とてもかくても、うとうとしく思ひ放ちきこえばこそあらめ、けしからずだちてよからぬ人(匂宮)の時時ものしたまふめれど、その心をみな人見知りためれば、心づかひして、便なうはもてなしきこえじ、と思ふを、いかに推しはかりたまふにか」とのたまふ。   (この邸では何をお気づかいなさることがありましょう)

同 東屋 六・

69

 マジはおよそベシと同じ振舞いをするので、用例を挙げて議論することを割愛する。 これまでは、上代・中古の推量助動詞の中で、疑問用法が存在するものについて検討を加えてきた。次は、疑問用法が存在しないものについて考えてみたい。

(24)

 ラシは、特別な場合を除き、上代までしかなく、中古には見られないものであるが、その上代のラシには疑問用法は存在しない。ただここで注目したいのは、小松(一九八三・一二)、大鹿(一九九七・二)の整理によると、「~用言已然形+バ、~ラシ」(第一種)、「~用言終止形。~ラシ」(第二種)に分けられるが、第一種の推量の根拠を表わす条件節に用いられ用言は「見る」「思ふ」が多く、第二種の推量の根拠を表わす文に用いられるのは「見ゆ」「聞こゆ」終止ナリが多いということである。第一種の用例には次のようなものがある。⒆a 家人の使ひにあらし(家人使在之)春雨の避くれど我を濡らさく思 『万葉集』巻九 一六九七 b 家の妹ろ我を偲ふらし(和乎之乃布良之)真結ひに結ひし紐の解くらく思 巻二十 四四二七 c うちなびく春来たるらし(春来良之)山のまの遠き木 末の咲き行く見 巻八 一四二二 d 黄葉する時になるらし(黄葉為時尓成良之)月人の楓 かつらの枝の色付く見 巻十 二二〇三 第二種の用例は以下のようなものである。⒇a 藻刈り舟沖漕ぎ来らし(奥榜来良之)妹が島形見の浦に鶴翔る見 巻七 一一九九  b あゆの風いたく吹くらし(東風伊多久布久良之)奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見 巻十七 四〇一七 c 海人娘子棚なし小舟漕ぎ出らし(棚無小舟榜出良之)旅の宿りに梶の音聞 巻六 九三〇 d さ雄鹿の妻問ふ時に月を良み雁が音聞 今し来らしも(今時来等霜)巻十 二一三一 e やすみしし我が大君の朝には取り撫でたまひ夕にはい寄り立たししみとらしの梓の弓の中弭の音すな 朝狩に今立たすらし(朝獦尓今立須良思)夕狩に今立たすらし(暮獦尓今他田渚良之)みとらしの梓の弓の中弭の音すな 巻一 三 f 天の川浮津の波音騒くな 我が待つ君し船出すらしも(舟出為良之母)巻八 一五二九 g 木の暗 くれの繁き峰 の上 をほととぎす鳴きて越ゆな 今し来らしも(伊麻之久良之母)巻二十 四三〇五 ここで、原因

結果という観点から見てみると、たとえば⒇aでは「藻刈り舟が沖を漕いで来る」ことが原因となって「鶴が飛ぶ」という結果をもたらすのであって、「鶴が飛ぶのが見える 000」ということが結果なのではない。むしろここには、理由

結論という構造が表立っていて、「鶴が飛ぶのが見える 000」という理由から「藻刈り舟が沖を漕いで来る」という結論を推論しているわ

(25)

けである。 一見このような事情は、上代語のラシに特殊なもののように思われるかもしれない。しかしこのような事情は、近現代語の兆候性推論の助動詞にも共通する。ヨウダ・連用形ソウダ・ラシイの用例を見てみると、そのように推量する理由を文中に含む例は決して多くはない。それは、夕方友人の部屋に電灯がともったのを見て、「帰ってきたようだ」、どんよりと曇った黒い雲を見て、「雨が降りそうだ」、友人の赤い顔を見て、「熱があるらしい」などと言うように、そのように判断する理由となる事態は多く眼前の事実であり、あえて言語化する必要はない。そのような中にあって、若干理由と思われる事態を文中に取り込んでいる例も見出されるのであるが、そのような例も直接ノデ・カラで理由を表わしている例は僅少で(それについてはすぐ後で見当するが)、多くは「見ると」「考えると」「~からすると」などのような形(あるいはそのヴァリエーション)で判断の理由が示されている(中には「見る」「考える」が使われていても、内容は現場に任せて表現されていないものもある)。このことも、兆候性推論が、事実の因果関係についての判断ではなく、推論の理由

結論関係を表わすものであることを支持している。まずヨウダには次のような例がある。 a 葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。川端康成『雪国』

195  b 「だめですな。こんなに大きくなってしまったら、産むより仕方がありませんよ。なぜもっと早く来なかったんですか。前から解っていたでしょう。……お見かけしたところあなたがたは学生さんのようだし、結婚もしておいでにならんのでしょう。石川達三『青春の蹉跌』

371  c 僕はチェロと太鼓にはさまれたところに転がっている手 ふう

きんに目をとめて、それを拾いあげてみた。昔風に鍵 けんばんのかわりにボタンがついている。蛇 じやばらの部分は固くこわばってところどころに細いひびが入っていたが、見たところ空気は洩 れていないようだった。

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

1055  d 小型のオートマティック・タイプのピストルだった。その古びかたからすると明らかにモデル・ガンではなく、本物の弾丸のでる拳銃のようだった。

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

665  e 私はそれを片手でつかんで、用心深く少しずつ力をいれてひっぱってみた。それは手ごたえからするとしっかりと何かに結びつけてあるようだった。

参照

関連したドキュメント

〜は音調語気詞 の位置 を示す ○は言い切 りを示 す 内 は句 の中のポイ ント〈 〉内は場面... 表6

 問題の中心は、いわゆるインド = ヨーロッパ語族 のインド = アーリヤ、あるいはインド = イラン、さ らにインド =

 トルコ石がいつの頃から人々の装飾品とし て利用され始めたのかはよく分かっていない が、考古資料をみると、古代中国では

語基の種類、標準語語幹 a語幹 o語幹 u語幹 si語幹 独立語基(基本形,推量形1) ex ・1 ▼▲ ・1 ▽△

[r]

Superiority Effect and its disappearance in multiple wh-fronting languages: Increase in Entropy from the erasure of data Yamamoto Shouji Part time lecturer, Fukuoka Women's

The author is going to discuss on morphological and phonological properties of, in traditional Japanese study KOKUGOGAKU, so-called auxiliary verb RAMU and related some

B63H-021 船上の推進動力設備または装置の使用 (Use of propulsion power plant or units on vessels) B63H-001 水に直接作用する推進器 (Propulsive elements directly