はじめに
グローバル化時代の今日、異文化社会間におけ る人間関係を考察することは重要である。その前 提として「異文化間コミュニケーション」を踏ま えることは言うまでもない。
例えば、鍋倉悦治氏は『異文化間コミュニケー ションへの招待』〈新版〉(北樹出版、1998年)に おいて、 「世界の歴史は『異文化に住む人間同士の コミュニケーションの歴史でもあった』としても、
決して過言ではなさそうである」 (21ページ)、 「人 間は、無意識のうちに、文化の定めた前提を背負っ
て行動するため、文化的概念や意味を正確に理解 できれば、異なる人間とのコミュニケーションに、
より好ましい結果を得ることができる」と述べて いる。また、氏は「常識」について「そもそも、普 遍的なものなどはない。それは、文化によって異 なるものなのである」と述べ、世間で言うところ の「常識」なるものの曖昧さを指摘していること も重要である。
私は、ソニー勤務時代に、三ヵ国、約20年間に わたる海外赴任生活を体験し、異文化に交わるこ とで自分自身が成長したという実感を味わった。
私が海外赴任した1973年から1990年代当時は日 本の多くの企業が海外展開を試みた時代であり、
未経験の若者がどんどん外国へ投入され、苦労し ながらもかけがえのない体験をしてきたのであっ
― 英国ウェールズ地方、仏国アルザス地方、洪
ハン牙
ガ利
リーゲデレーに滞在して ―
松岡 良樹
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湘北短期大学法人本部
【抄録】
グローバル時代の今日、異文化社会間における人間関係を考察することは重要である。その前提として「異 文化間コミュニケーション」を踏まえることは言うまでもない。
著者はソニー勤務時代に、三ヵ国、約 20 年間にわたる海外赴任生活を体験し、異文化に交わることで著者自 身が成長したという実感を味わっている。1973 年から 1990 年代までは日本の多くの企業が海外展開を試みた 時代であり、未経験の若者がどんどん外国へ投入され、苦労しながらもかけがえのない体験をしてきた。
本稿は個人的な体験ではあるが、その後の自らの人生に大きく役立ったことを自負し、これから更に成長す る湘北短期大学の学生たちにいくつかの事例を伝えたい。
【キーワード】
異文化交流 異文化間コミュニケーション 海外赴任体験
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<連絡先>
松岡 良樹 [email protected]
た。ことにソニーは、 「海外でその国に貢献せよ」
1)という異文化交流を意識した方針のもとで海外進 出が行われた。
本稿は私のささやかな個人的体験ではあるが、
その後の自らの人生に大きく役立ったことを自負 し、湘北短期大学の学生たちにいくつかの事例を 伝えたい。
1.英国ウェールズ地方滞在(1973 ~ 1983 年)
ウェールズ地方と言えば、その南部をジョン・
フォード監督が描いた『わが谷は緑なりき』 (1941 年)という映画で余りに有名である。私が赴任し た地方は、まさしくその谷に位置した地域であっ た。ここ南ウェールズは豊富な石炭を産出するこ とでも有名であり
2)、英国式兵制を導入した日本 海軍にとって日清戦争・日露戦争の経験は英国無 煙炭(カーヂフ炭)の膨大な輸入を必要とした
3)。 しかし、時代の推移とともに石炭産業も没落し、
その後の失業率改善の一環として私が関係してい たエレクトロニクス産業が誘致されたのであっ た。
私は、20歳代後半で南ウェールズ地方の小都 市であるブリッジエンド市に赴任し、異文化との 交流を余儀なくされた。その時、ともに赴任した 上司が視野の広い人で、まず異文化交流を意識し た指導から行われた。ホテルからは僅か2日で追 い出され、現地の個人宅に下宿生活をすることを 命じられた。英会話の集中訓練であると同時に、
現地の方々との人間関係の構築が目的であった。
未熟な英会話も生きるために必死で話せば身につ くものであり、食事・睡眠・入浴・洗濯などの生活 体験から、英国人とも必然的な関係が生まれ、何 でも相談できる「現地母」を得ることができた。
語学をマスターするためには基礎やルール(文法)
を重視することは必要ではあるが、現地での会話
は生活そのものであり、ルールの正誤をとやかく 言うゆとりなどあろうはずもなかった。正しい英 語と言うものはなく、伝わる英語か伝わらない英 語かしかないとの先輩の教えには勇気付けられ た。お風呂に入るとお湯が冷たくて入れない。必 死の思いで現地母にそれを訴えると、「娘が入っ たから・・・」。英国の一般家庭では温水を天井裏 のタンクで一定量を貯めて使っている。多量に使 用すると再度温度が上がるまでしばらく待たねば ならないことが分かったのは数日してからのこと であった。下宿先でのそんな生活がコミュニケー ション力を少しずつ養ってくれた。40年を経て、
その下宿先を訪ねたときには、思わず目頭が熱く なったものである。
またソニーでは、海外会社運営の基本であ る“グローバル・ローカリゼイション及びGood Business Citizenshipの方針”
4)が設定されており、
その土地の良き市民になりなさいとの指導もあっ た。学校に通う子どもを持つ社員はPTAにも積 極的に参加することが業務命令でもあった。子ど もたちの学校を訪問することで、その国の教育方 針から家庭教育の一端まで触れることができる。
幼い頃からの「YesかNoか、なぜなのか?」と自 分の意見を述べる指導が、職場における英国人の 明確な意思表示の背景であることに気づいたので あった。
さらに、職場を離れてからも異文化交流には多 くの機会があった。いわゆるアフターファイブの お付き合いである。英国自慢の「パブ」(Pub)は 絶好の異文化体験の場であった。パブとはパブ リック・ハウスの略称であり、原則として誰にで も開かれた場所であり、年齢・性別・国籍を問わず、
誰もが利用できるのであった
5)。そして、「現在の
パブの訳語として、日本語の居酒屋、酒場、一杯
飲み屋は、赤提灯などを当てはめてみても、どれ
もしっくりしない。要するに、パブはパブなので
ある」と言われている
6)。そこで、私は酒の飲み方・
会話の仕方・お金の払い方まで学び、それぞれの お国自慢までが毎晩繰り返され、私たちは交友を 深めていったのであった。恥ずかしがりやであり 英会話の未熟な私にとって、積極的に会話に参加 することは苦痛であった。仲間とは一歩離れたカ ウンターに逃げ、パブのざわめきを静観している と、必ず仲間が寄ってくる。 「楽しんでいるかい?」
と繰り返し聞いてくる。本人は自分流で楽しんで いるつもりでも、自分の顔つきは何か不満そうで あり、寂しそうであったに違いない。つまり場の 雰囲気を台無しにしていたのである。それに気が ついてからは、笑顔だけでもつくっておこうと、
カウンターの角で、ただにっこりしていたものだ。
やがて徐々に会話が聞き取れるようになり、お酒 の勢いも借りて話すことができるようになった。
パブでの会話が大好きになり、数ヶ月後には毎日 通うようになったのである。こうした繋がりから 家族付き合いのできる生涯の友人ともめぐりあ い、40数年経った今でも連絡を取り合うほどの 財産となった。
現地での娘の出産は家内にとってはもちろん のこと、私にとっても強烈な思い出であり、言葉 を超えたお付き合いの大切さを身をもって体験 した。赴任1年目の我々にとって病院での英会話 は不安ばかりであった。出産の立会では、かかり つけの看護師が「奥様はPushの意味は分かりま すか? 分かる、ならば大丈夫ですよ」と安心さ せてくれた。我々夫婦の会話を聞いていて「意味 は分からないけれど、心地よい言葉ですね~」と リラックスさせてくれた気配りは本当にありが たかった。その娘が成長して最初に発した言葉が
“No!”であった。
当時の海外赴任は、日本の誇る生産技術や品質 管理の手法を現地で指導することがミッション であったが、プライベートでは私自身は全て教わ
る立場をとった。若さ・未熟さに助けられ、教わ る姿勢を取ることに抵抗感は無かった。学ぶこと が異文化を知ることとなり、理解することが溶け 込むことに繋がっていった。いや、学ぶというよ りもすべての体験が私の好奇心を刺激し、興味を もって近づくことが出来たのかもしれない。逃げ ていてはなにも得られなかったに違いない。
この姿勢はその後の各国での海外赴任でも貫い たが、現地生活に溶け込む余り日本人との間で意 見の相違が生じ、妙な摩擦を起こすこともあった。
私のマネジメントが現地の文化を積極的に取り入 れたものであったため、各分野で指導に当たる日 本人赴任者が私を現地人の代表として見る時期も あり、日本人同士で異文化の壁を感じたものだ。
2.仏国アルザス地方滞在(1986 ~ 1991 年)
40歳代ではフランスへの赴任を命ぜられ、5年 間の新たな異文化生活を体験することになった。
着任したアルザス地方はフランス東北部、ライン 川沿いにあり、ドイツとスイスと国境を接したワ インの名産地である
7)。ストラスブルグからコル マールにつながる150kmの街道はワイン街道と 呼ばれ、多くの美しい村とブドウ畑が連なってい る。今でもコウノトリが巣を作る静けさと美しさ の一方で、歴史的には何度も統治国が変わり、地 元のアルザス語に加えて、フランス語・ドイツ語 を日常的に話さざるを得ない、多大な歴史的苦難 を背負った地域である。その国境の変化を題材に したアルフォンス・ドーテの「最後の授業」は日 本の小学6年生の国語の教材であったことで知ら れている
8)。また、ノーベル平和賞受賞のシュバ イツァー博士(1875~ 1965年)の出身地としても 知られている。
あの個人主義で評判の高いフランス人との交
流は、私自身の「仕事が命」主義をもろくも崩し
てしまうこととなった。ある日、自分のバカンス を優先して日本への業務出張を拒否する部下が いた。バカンスとは、 「三週間から四週間、仕事も 何もかも放り出して、家族一緒に、日光浴なり、
健全なリクリエーションなり、休養なりをするこ となのだ。二日や三日の連休は、週休二日制で祝 祭日の多いヨーロッパでは、日常茶飯事に過ぎな い」、「バカンスは、仕事と全く同じ程度に重要で あり、人によっては、仕事より重視しているとい うことである。バカンスがくれば、仕事はやりか けでもさっさとやめて、休養に出かけるのだ」と 説明されている
9)。
件の部下は、その理由を家族との約束が大切で あるからだ、と言う。バカンスで楽しむために仕 事をしているのであって、仕事のためにバカンス のキャンセルは出来ないと。私は「なるほど!」と 目から鱗がとれ、私も家族と地中海に行く予約を とった。フランス人が大切にしているバカンスは、
何とフランス革命の時に民衆が勝ち取ったもの で、自由の象徴なのである。それは年間5週間の 有給休暇という成果に結実している。すなわち、
フランス人の自由・平等・友愛は多くの苦難の歴 史から育まれた生きる知恵であるといえる
10)。 また、工場内食堂でも文化の違いが浮かび上 がった。工場の昼食時間は僅か50分間であるにも かかわらず、10分も20分も待たせて配膳のサー ビスを行っている。日本のように一人5秒間で配 膳するよう指示すると猛反対を受ける。社員の楽 しみである昼食を台無しにしないでくれとの理由 だった。食堂の係員は従業員の一人一人と好みの 量や食材について会話をした上で配膳を行う、こ の会話が大切なのだそうだ。生産性や効率も食事 中は一休みだ。その後の「ゆっくりサービス」を 是としたマネージメント方針は評判を呼び、欧州 10箇所の工場でもっとも楽しい食堂だとの評価 を得ることとなった。
そのフランスの工場を設立するにあたって、ま ず工場建設のための大きな畑を買収した。そもそ もその地域はドイツとスイスとの国境周辺であ り、昔から白ワインの美味しい土地柄である。そ の工場建設用地の一角にも葡萄畑があり、地主が ワインを作っていた。当時の本社社長はそれを知 るなり、 「葡萄畑をつぶすな、守れ!」との指示を出 した。私は工場建設図面を書き換えることによっ て葡萄畑を保存し、工場建設を行った。この決断 は地元の方々から大変に評判が良かった。土地の 方々が大切にしているものを理解した行動だと評 価されたわけである。工場
建設以来、毎年秋には従業 員で葡萄の収穫を行い、面 倒を見てくれている農家で ワインパーティを行うこと が恒例となった。工場の庭 の葡萄で造られたワインボ トルは「ソニーワイン」 (写 真参照)として格好の土産 物となった。友達を作るう えで、相手の価値観を理解 することがとても大切であ ることを知った体験であ る。
私の趣味である電波で世界の友人と語るアマ チュア無線を行うにはその国の免許が必要であっ た。趣味の仲間との交流のお陰で、フランス政府 の担当官との面識を得て、工場の中での特別試験 が準備された。小さな会議室の中で、フランス人 担当官2名と私との個別試験が行われたが、その 内容はフェアではあるが詳細は語れない。仲間の 協力で日本人としては極めて稀な試験による現地 免許を取得することが出来、フランス国内外で多 くの仲間と無線交信を行った。フランスから日本 語で電波を発射することで、日本の友人達から大
(ソニーワイン)
いに重宝がられた。趣味が異文化交流を助けてく れた実体験である。
後述するハンガリーの赴任時代には欧州各国へ の出張が頻繁にあった。ある日フランスのストラ スブルグで会議を終えた後、友人と街中のレスト ランで夕食をとっていたところスタッフの女性が
「お父さん!」と日本語で私に呼びかけてきた。な んと長女の同級生のSylvianである。家族付き合 いをし、私の家にもよく遊びにきていた近所の娘 さんが偶然にそのレストランで働いていたのであ る。友人からは、なぜフランスの娘さんから「お 父さん」と呼ばれるのか説明を求められた。
また、家族付き合いをしていた次女の同級生
(Mireille DAMBRON)は高校生時代に来日し、
愛知県犬山の「野外民族博物館リトルワールド」
でアルザスの代表として民族文化の紹介を行なっ た。フランスの大学を卒業した後も再来日し、
NHKのフランス語講座を担当しながら各方面で 異文化交流に貢献を果たしている。アルザス語・
フランス語・ドイツ語・英語そして日本語を理解 する彼女こそ異文化交流の担い手であり、日本と
欧州の架け橋になった人材である。湘北短期大学 でも特別講義を担当し(2011年5月27日)、海外事 情(欧州編)の授業も行なった。20数年前の小さ な人間関係が国境を超えて永く広く継続している ことが嬉しい。
3.洪
ハン牙
ガ利
リーゲデレー滞在(1995 ~ 1999 年)
50歳代になって、更に新しい異文化交流をハ ンガリーで体験することとなった。ハンガリーは オーストリアの東隣にあり、ウクライナやルーマ ニアなど7つの国と境を接した、東欧で最も西寄 りの国である。ハンガリー大平原は国土中央部の ブタペストを横切って南流するドナウ川の東に広 がっている。西にはヨーロッパ最大の自然の淡水 湖であるバラトン湖があり、冬でも水泳のできる 温泉湖はユニークな存在である
11)。
私が選んだ工場用地ゲデレーは首都ブタペスト から東30kmに位置する小さな街であり、ハプス ブルグ家最後の皇帝フランツ・ヨーゼフの美貌の お妃、愛称は“シシー”、エリーザベド
12)の夏の邸 宅「ゲデレー宮殿」があることでも有名である。
その宮殿も第二次世界大戦で破壊されてしまった が、ソニーが復旧工事に協力したことで、地元の 方々の大きな理解を得ることができたのであっ た。
私は赴任した直後から、何時ものように、土地
の方々とは祭り・料理・鴨撃・キャンプファイア
と仕事以外のお付き合いを開始した。その交流の
なかで、ある農家の庭で飼っている豚を引き出し、
解体し、ソーセージにするまでの全工程を手伝う ことを体験した。長老が仕事を仕切り、老若男女 がそれぞれの持ち場で働く仕組みから最高の品質 管理と高い生産性を見届けた。それを好例とし、
工場の中での製品組み立てでは村を一単位とした グループ活動を試みた。つまり、必然的に村のプ ライドをかけた製品つくりとなったのである。高 品質が保証されたのは言うまでも無い。製品の品 質を保つには適切な仕組みが必要であるが、その 根源は従業員の意欲と誠意が基本なのである。
新設したハンガリー工場の技術者を指導するた めに、茨城県の工場からベテランの大工さんに参 加してもらった。工場内で必要なテーブル・台・棚・
治具(生産補助機器)を短時間に木工で作り上げ る作戦である。その大工さんは語学はもちろんの こと、海外経験も全く無い典型的な地方の職人さ んであった。しかし、この日本人大工さんとハン ガリーの大工さんは図面と工具で見事に会話を成 立させ、意気投合して仕事に取り組んでくれた。
言葉による会話を必要としないお二人のお酒の席 は見ていて微笑ましいものだった。
そのハンガリーの工場が閉鎖された時、従業員 が思い出のビデオアルバムを作って私に送ってく れた。そのアルバムの最後のページは従業員一人 一人の顔であり、全員の顔を合わせると巨大なモ ザイク写真となり働いていた工場の全景が浮かび 上がってきた。人の繋がりを中心にした工場経営 が15年後の閉鎖時点まで生きていたことに、私は 感動した。
おわりに
本報告は、異文化社会間における人間関係の構 築に向けて、私のささやかな体験を述べたもので ある。
その地を知り、違いを学ぶことが、その地の人々 を理解することになり、国境や習慣の違いを越え て、利害関係のない人間関係が育くまれる。この 体験から、私は自分自身が大きく成長できたと実 感している。
私にとって、海外勤務の20年余りは、多くの価 値ある体験に恵まれた歳月であったが、定年退職 後はその地を再び訪れることを夢としている。先 日は英国を訪問し友人宅に泊まり、家族との交流 を楽しんだ。まだ学生である友人の孫達が全員集 まってくれ、我々が体験した人と人との繋がりを 次の若い世代へとバトンタッチすることができた ことを記して筆をおくことにする。
【付記】 本稿は、日本比較文化学会/第5回東北・
関東両支部合同研究発表会(兼第29回関東支部研 究発表会)における講演「異文化圏の方々との友 達作り」(2011年7月9日、於東京未来大学)の発 表要旨に加筆したものである。
注
1) 「 経 営 者 語 録〈 盛 田 昭 夫 〉」Sony Product Philosophy ソニー創立 50 周年記念出版 8 ページ コーポレートデザインセンター、1994 年。
2) 繁澤和夫「ウェールズの地形と地質」『ヨーロッ
パ』〈世界地誌ゼミナール〉第Ⅳ巻、大明堂、
1973 年、192-194 ページ。
3) 金光男「『大日本帝国』における燃料消費需要に 関する政治的一考察」『茨城大学人文学部紀要』
〈社会科学論集〉第 42 号、2005 年、参照。
4) 「盛田昭夫語録」ソニー・マガジンズビジネスブッ ク 1996 年 131-133 ページ。
5) 小林章夫「パブ・大英帝国の社交場」講談社、
1992 年、11 ページ。
6) 丸山孝男「書を捨ててパブに詣でる」『誘惑する イギリス』、大修館書店、1999 年、6 ページ。
7) 佐々木博「ドイツを中心とするヨーロッパの葡 萄栽培」前掲『ヨーロッパ』、164 ページ。
8) 『もう一度読みたい国語教科書』ぶんか社、2002 年、参照。
9) NHK 特別報道班『ヨーロッパ新時代』日本放送 出版協会、1964 年、146-148 ページ。
10) フランス文化の特色 久松健一「地域研究入門」
開文社出版、1997 年、143-145 ページ。
11) 田辺裕監修「世界の地理 13 東ヨーロッパ」朝 倉書店、2000 年、1750 ページ。
12) 江村洋「ハプスブルグ家」講談社、1990 年、参照。
A personal cross-cultural experience
MATSUOKA Yoshiki
【abstract】
It is important to recognize the necessity of human relationships under globalized cross cultural society. It must be based upon the good comminication to understand each other in many cultures.
The author has experienced life in three different countries as an expatriate for about twenty years and feels that this experience has made him grow.
This is my experience but I am sure it is useful for students in our college as a real story.
【key words】
Cross cultural communication, expatriate