静 岡大学教育学部研究報告
(人文・ 社会科学篇 )第 59号
(2009.3)41〜52
スポーツ運動学 における運動観察 の方法 に関する モル フ ォロギー的一考察
A Morphological Study of Methods of Movement Observation
in Movement Theory of Sport
岡
端
隆
Takashi OKAHANA
(平
成20年 10月 6日
受理)は じめ に
スポーツ運動 の学習指導 の場面 で は、人間の動 きの生 の感 じ (動 感 =Kinasthese)に 関心 が 向 け られ る。現場で は、「 この感 じはよ くない」 とか「 そん な感 じでや ってみ よ う」等 々、生 き生 きと した動感世界 のなかで運動 の習得や修正が試 み られている。今 日のよ うに科学技術が 発展 し、高性能 な運動分析機器が活用 され る時代 にな って も、最終的 には主観的な感 じの世界 のなかで学習者 の動 きが どうな って いるのか、 あるいはどうすべ きかが問われ ることにな る。
た とえ、 自然科学 的な運動研究で有益 と考え られ る客観 的動作情報が得 られた と して も、 それ が学習者個人 の主観的動感情報 に置 き換 え られない と、結局 の ところ、 それ は現場か ら宙 に浮 いた情報 とな って しま うのは否 めない。
今 日、 スポー ツ運動学 (Bewegungslehre des Sports)の 分野 で は、人 間の 目によ る直接 的な運動観察 をベースに研究が進 め られているが、 それ はひ とえに現場 の指導者 や学習者 にお ける運動観察 と軌 を一 に している。 つ ま り、 そ こで は人間の主観 的動感構造 に迫 りなが ら動 き を見 るのであ って、感 じの世界が捨象 された物理的運動 を観察す るので はない。本論 で は、人 間の動感 は物理学 的時空間で はな く、現象学 的時空間のなかで生起す ると考 え る。 た とえば、
体操競技 の選手 は鉄棒 の手放 し技 を行 う際のた った約 1秒 のあいだに、考 え られないほど多 く の ことを体感す るであろ う。選手 は <そ の時 >に 感 じた ことを言葉で説 明 しよ うと して も、 と て も 1秒 では語 りきれない。 あ るいは、 あ と l cmほ ど手 が伸 びれば鉄棒 をキ ャッチで きたのに 惜 しくも落下 して しまった場合 の <そ の長 さ >と い うものは、 日常生活で何気 な く手 を伸 ば し
たときの
l cmとは明 らかに意味が異 なるものである。以上 の ことか ら、本論で取 り上 げるスポー
ツ運動学 で は、 人 間 の動 く感 じを感 じた ま ま厳密 に志 向分析 しよ うとす るモル フォロギ ー (Morphologie)の 観点 か ら運動分析 が行 われ る。 したが って、 スポー ツバ イオ メカニ クス (Biomechanik)な どで取 り上 げ られ る自然科学 的な運動分析 とは方法論 的立場 を異 にす る も のであ る。
スポーツ運動学 は、人間の運動 を分析す るとい う点 でスポーツバ イオメカニクス と誤認 され た り、 また、 た とえそ うではないに して も、人間の 目による単純 な直接観察 の仕方 が牧歌 的な 前科学的研究方法だ と して、 そ もそ も科学的な存在価値 が問われた りす ることが少 な くない。
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それ は人間の感 じとい うきわめて主観的 な内容 を研究 の対象 と して扱 うため、客観的 自然科学 を標榜す る運動研究者 か らは、 その ことに対 し、 いつ も科学 的信頼性 に疑間が投 げか け られて きた。 しか しなが ら、 スポーツ運動学 の鼻祖、 マイネル (Meinel Kurt)が モル フォロギー的 考察法 の実践的意義 を唱えてか ら
1)、すでに半世紀近 くが経 った。その間、 マイネルのモルフォ ロギーは、 と くにわが国の体操競技関係者 を中心 に発展的 にとらえ直 され、 その後多 くの研究 成果 を産 出す るにいた っている。 た とえば代表的な例 と して、 「 日本 スポーツ運動学会」
(1988年設立 )や 「 日本体操競技・ 器械運動学会」 (1993年 設立 )等 にお ける研究実績 が挙 げ られ よ
う。
また、 スポーツ運動学 の研究 は、やや もすれば体操競技 や器械運動 の領域 に集 中 してい ると い う批判 を受 けることがあるが、 日本 スポー ツ運動学会 には「体操競技以外 のスポーッ関係者 も数多 く参画 し、一般理論 と しての運動学、個別理論 としての運動学 だ けでな く方法学 も取 り 込んで、研究発表会 やデ ィスカ ッション等が活発 に行われて きた。 それ以外 の学会、研究会、
あ るいは私的な勉強会 において も、体操競技関係者 は一般理論 と しての運動学 (分 析 )が 多 く の人 に理解 され るよ うに活動 して きた」
2)とぃゎれ る。 もちろん その陰 には、 モル フォロギー 運動学 の本質 を、厳密学 (strenge Wissenschaft)と しての学 問的視座 か らけ っ して見誤 る ことな く、 その理論 の実践的意義 を伝 えよ うと精力的な研究活動 を続 けている金子明友 による 功績 を忘れ るわ けにはいかない。
以上 の点 を踏 まえ、本研究 で はスポー ツ運動学 における運動観察 の方法 につ いてモル フォロ ギ ー の 視 点 か ら検 討 す る こ と を 目 的 と して い る 。 具 体 的 に は 、 運 動 の 自 己 観 察 (SelbstbeObachtung)と 他者観察 (Fremdbeobachtung)の 概念 お よび指導者 と学 習者 の関 係系 にお ける運動観察 のあ り方 について考察 を行 うが、 それ によ って学習指導現場 に活かせ る 運動観察 の方法論的基礎 が提供 で きると考 えている。
2.モ ルフ ォロギー的考察法 につ いて
旧東 ドイ ツのマイネル は、1960年 に「 スポーツ運動学」 を上梓 した。 とりわ けセ ンセー シ ョ ナルだ ったのは、運動 の自然科学的な研究が主流 にな りつつある時代 に、あえてモル フォロギー とい う、 ともすれば客観 的でない と科学論 的批判 を浴 びる学問を基底 に した考察法 を提唱 した ことで あ る。 ちなみ に、 モル フ ォ ロギ ー は ドイ ツの文 豪 ゲ ーテ
(」ohann W01fgang von Goethe)が 創始 した と言 われ るが
3)、その学問 スタイル はつね に自然へ 自 らの鋭 いまなざ しを 投 げか けるところにあ った。つ ま り、 ゲーテは直観 (Anschauung)と い う方法 を通 して、一 時足 らず も同 じでな く変 わ りゆ く自然 のかたち (MetamOrphose)を 、 その本質的 なかたちで あ る原形象 (Urbild)に お いて、 ス タテ ィ ックで はな くダイナ ミックに と らえ よ うと したの であ る。 この ことは、高橋義人 が、「 形態学 とは形態 の学 (Gestaltlehre)と い うよ りも、形 成 の学 (Gestaltungslehre)で あ るとい った方 が、 ゲーテの真意 によ り近 い」
4)とぃ ぅことか
らも首肯 され よ う。
ところで、 このよ うな学問的ス タイル は、全体 は部分 に還元 で きるとい う立場か ら、 自然 を モザイク化 し、数値化、定量化す る自然科学 (Naturwissenschaft)と は明 らか に異 な るもの であ る。すなわち、物的分析装置で測定 や計量 を行 う以前 の段階 と して、否、正確 に言 うと、
それ とはま った く立場 を異 と して、 なによ りも生身 の 自分 の 目でそ こにある生 き生 きとした 自
スポーツ運動学 にお ける運動観察 の方法 に関す るモル フォロギー的―考察 43
然のかたちを しっか り見て、見抜 こうとす るとい うのが、ゲーテの意味におけるモル フォロギー の出発点 である。
その点 に関 し、 マイネルは「運動 モル フォロギーは運動 を研究 してい くに際 して、 まず取 り かか らなければな らない第一 の段階であ る」
5)とぃ ぅ。 また、実際 に、学習者 の運動 を 目で直 接 と らえ る機会が多 いのは、現場 の指導者 であ るのは間違 いない。つ ま り、 マイネル は、「 ス ポーツ指導者が 自 ら研究活動 で きる状態 にあ る場合 には、 その職業的見地 と活動 か らい って、
モル フォロギー的考察法が きわめて身近 な ものであ り、
S、さわ しい ものであ ることは蝶 々を要 さない」
6)と述べて い る。 ま ぎれ もな く、 マイネル はきわめて現場 に理解 を示 そ うと した一人 の学者であ った。 その ことは、 ゲーナー (Gё hner Urlich)が 「一貫 して体育教 師 と体育 の授 業 にね らいを定 めた この運動学 は指導現場 に大 きな反響 をひ き起 こ しました」
7)とぃ ぅことか
らも、 うかがい矢回ることがで きる。
ただ し、 ここで 日で見 るとい う場合、誤解 を招 いて はいけないが、 それ は解剖学的、生理学 的 な感覚受容器 と しての眼 に限 られ ることはない。 マイネル もい うよ うに、「人 間の 目は解剖 学的 にみ ると、多 くの動物 の 目と同 じよ うに、運動観察 にはとて も適 しているもので はないよ
うであ る」
8)。空間的 な視野 は限 られてい る し、 ス ピー ドの速 い動 きに人間 の眼 はつ いてい け ない ことがある。 また、集団 ボールゲームのよ うに、複数 の人が入 り混 じってプ レーを してい た ら、素人 の人 は何 を どう見 て よいかわか らな くな って しま うだろ う。 けれ ども、一方 で、視 野外 の敵味方 の動 きを敏感 に察知 した り、体操競技 のすばやいひね り回数 を瞬時 に数 えた り、
ボールゲームで選手 たちが置かれている情況 を的確 に読 める名 プ レーヤー、審判員、監督・ コー チは存在す る。 その際、彼 らはまぎれ もな く眼だ けで運動 を見ていない。視覚だ けでな く、 あ らゆる感覚 も巻 き込んで見 よ うと しているのであ り、 そ こで は もはや見 るとい うよ りは感 じる とい ったほ うが よい。 だか ら、 マイネル は、「 モル フォロギー的考察法 は、 スポー ツ運動 を 目 を通 して外か ら知覚 して い くだ けでな く、体験 し、 中か ら "知 覚 す ることによ って大 き く補 充 され、拡大 され る」
9)と述べ たのである。
さ らに、 マイネルは、 モル フォロギーにおける運動 の観察 を方法論 的に二つの仕方で区別 し、
他人の運動 だ けでな く、 自分 自身 の運動 も観察対象 になることを指摘 した。 いわゆ る、他者観 察 と自己観察である 。 。 ところが、 自己観察 の主観的報告 はど うして もあいまいさが拭 いきれ ないので、他者観察以上 に客観 的な信憑性 に疑問符が打 たれ ることが多 い。 また、 そ もそ も感 じた ことが言葉 にな らない とい うこともあろ う。 しか し、 それに もかかわ らず、 マイネルは毛 沢東 の「梨 の味を知 ろ うとす るな ら、 日に入れ噛み くだいてみなければわか らない」 とい う一 文 を引用 しなが ら、「 スポー ツ運動 を本質 的 に完全 に把握 しよ うとす る者 はそれを 自 ら行 って みなければな るまい」の と して、 自己観察 の研究方法 の意義 を主張 したのである。
3.自 己観察 の意義
「 この感 じは…」 とか「 そんな感 じで…」 などと、運動者 自身が 自 らの動感 を と らえよ うと
す ることは、 スポーツ運動学 で 自己観察 と呼ばれている。 スポーツの運動学習 にお いて、 自己
観察 の果 たす役割 は大 きい。 た しか に、練習で何 も考 えず に、 ただ黙 々 と機械 的に反復練習す
ることで も運動 は獲得 され、安定化 され、熟練す ることもあ りうるが、他方、失敗が多 くてな
かなか うま く上達 しないケースなどでは、 自分 の動感世界 を振 り返 ってよ く吟味 しなが ら反復
練習す ることの大切 さを噛み しめ る学習者 は少 な くないだ ろ う。「 自分 の運動 を意識的 に と ら え ることは、人間の運動系 の発達 にとって、 きわめて重要 な意義 を もつ。 自分 自身 の運動 を意 識 で きない と した ら、運動 を意識的 に発達 させ ることも、改良 してい くこともで きないであろ
ぅ」
12)とマイネルが言 うの も、 ここで は正鵠 を得ている。
(1)即 座習得 と自己観察
金子 によれば、新 しい動 きを習得 して い くプ ロセスには即座習得 と反復習得 の二 つがあると い う
0。即座 の習得 は、 マイネル も指摘 して い るよ うに、少年少女 時代 の最適学習期 (9〜 12 歳 )に 特徴 的 に現 れやす いが い 、 この年齢期 にお ける子 どもは、往 々に して十分 な 自己観察 を 行 わず とも、新 しい運動 をち ょっと見 ただ けでその動 きが曲が りな りに もで きるよ うにな って しま うことが少 な くない。 しか し、即座 の習得 には、課題 と して呈示 された運動 に関連 した動 感経験知 が豊富 であることと身体 の適切 な発達が重要 な前提 にな ってい る。 それゆえ、 わが国 の小学校体育授業 において、低学年期 で特定 のスポー ツ種 目に こだわ ることな く、基本 の運動 やゲームを通 して さまざまな動 きの感覚 的基礎 を身 につ けさせ ることは重要 な意味を もって い る。
また、即座習得 は、上述 の年齢期 にか ぎ られ ることな く、 さまざまな年齢層 で も見 られ るこ とがで きる。 た とえば、天才肌 と呼ばれ る選手 の中 には、相手 が新 しい動 きを習得す るため必 死 に反復練習 を行 っているに もかかわ らず、 その動 きを苦 もな くすんな りとマスター して しま う人がいる。 た とえ、 その天才肌 の人 に とって は新 しい動 きで あ って も、 自分が学 ぼ うと した ときは動感発生的 にすで に身近 なのであ る。すなわち、新 しい動 きの動感構造 に類似 した動 き かた (ana10gisierende Bewegungsweise)を すで に経験知 と して もってお り、 それが新 しい 動感構造 に共鳴 しやすい状態 にな っている。 自分 のなれ親 しんだ動 きはその動感構造 にとりわ け意識的 にな らず とも楽 に遂行 で きるの と同様 に、新 しいけれ どもすで に身近 な動 きも、 その 動感発生 に自 らの注意 を深 く傾 けず とも楽 に覚 えて しま う。 しか も、本人 は単 にその動 きがで きればそれで よ しと思 うだ けな ら、 そ こで 自分が どのよ うにその動 きを発生 させたのかにつ い て微 に入 り細 にわた る省察 は必要 ない。 ヽヽうなれば、「 天才肌 の人 ほど、 わ ざを成功 に導 いて
くれた コツが『原意識』 のまま充実 されないで放置 されていることが少 な くない」
D。しか しなが ら、 この ことは、競技選手がつね に新 しい動 きを身 につ けていかなければな らな い宿命 を帯 びているがゆえに、否定的 に解釈 され るべ きで もないだ ろ う。最新 の運動技術や戦 術開発へのたゆまぬ進化 の流れに身 を置 く選手 は、 その競技人生 の有限性 を考え るに、考 えな くて もで きて しま う動 きに逐一詳細 な自己観察 を加 えて トレーニ ングを行 うことは、時間的な ロスにつなが って しまう。む しろ、考えな くて もで きる動 きよ りも、考 えて もで きない動 きの ほうに練習 の比重が置かれ るのはやむを得 ない。 そのか ぎりで、選手 の自己観察活動 は、やろ うと して もす ぐにはで きない動 きを練習 の対象 に してい る場合 に顕著 に認 め られ る。
ところが、練習場面で は無意識 的に何気 な くで きる動 きであ って も、現実 の試合場面 に出 く
わす と、 いつなん どき予期せぬ情況 に巻 き込 まれ るか はわか らない。 た とえば、 自分 にとって
非常 に大事 で緊迫 した試合を迎え る場合、選手 は本番で実力 を最大限発揮 す るために、練習 の
時点か ら試合で起 こりうるであろ うあ りとあ らゆ る事態 を想定 しなが ら、来 るべ き未来 の試合
情況 に対応で きるかたちで 自分 の動 きを極 めていかなければな らない。 い うなれば、 どんな情
況 下 に 置 か れ て も い つ も ど お り に で き る と い う究 極 の 目 標 で あ る 運 動 の 自動 化
スポーツ運動学 における運動観察 の方法 に関す るモル フォロギー的一考察 45
(Automatisierung der Bewegung)に 向 けて、 た とえ どんなに簡単 な動 きであろ うとも、練 習で は動感形態 の絶 え間 ない洗練化 が要求 され る。 マイネルが、運動 の学習 には終 わ りが な い。とい うの も、 まさに この意 味で こそ理解 されなければな らない。「練習 は試合 のよ うに、
試合 は練習のよ うに」 と言 われた りす るが、 その過程 において は、 どうして も自身 の動 きを さ まざまな情況 との関わ りにおいて見つ め直す 自己観察 を無視す るわ けにはいかないのであ る。
(2)反 復習得 と自己観察
他方、反復習得 では、 で きない動 きをで きるまで繰 り返 し行 うのであ るか ら、 自己観察 は頻 繁 に行 われていると考 え られやす い。 しか し、 その点 に関 し、金子 は機械的反復 による習得 と 内観的反復 による習得 を区別 して、注意 を喚起 して いる
0。機械 的反復習得 の典型 的 な例 と し て、 た とえば ジュニア選手 の指導 において、指導者 が一方的な指示 を出 し、 ただひたす ら機械、
的 に反復練習 させ ることで、結果 的 にその選手 の 自己観察能力が育 たないとい うことが挙 げ ら れよ う。 た とえその指示内容 が、す ぐに選手 の動感世界 に響かな くて も、 自分 の言 うことは絶 対的に正 しい と信 じて いる指導者 は、選手 に有無 を言 わせず、 ただ黙 々 と反復練習 を強 いて、
いつか はかな らず成功す ると考え る。 けれ ども、指導者 に言われ るが ままロボ ッ ト化 した選手 は、 自分 の動 きに反省的な態度 を と らないか ら、匿名的身体知 と して動感形成が行 われてい く のである。 もし、仮 に動 きがで きるよ うにな って も、 それは自分でわか ってで きたのではな く、
ま ぐれでで きた とい う しかない。 そ して、「 ま ぐれで <動 ける >と い う動感運動 は、 たいてい は このまま匿名性 を保 ったまま、 いつの まにか ま ぐれ当た りの成功が増 えて、習慣化 され、ハ ビ トゥス化」 してい くのである
1°。
指導者 に頼 りっぱな しの選手 は、 ま ぐれの匿名的動感構造 をそのまま安定化 させて、 いちお うは うま くで きるよ うになるか もしれない。 しか し、 「 選手が どんなに精確 に動 いて も、 ロボ ッ
ト自体がプ ログラムな しにはま った く動 けないの と同様 に、 その選手 の運動感覚身体 とい うソ フ トが空虚 だか ら、 臨機 の即応 はで きない し、 そのプ ログ ラムを 自 ら修正 で きは しない」
D。換言すれば、 ロボ ッ ト化 した選手 は、 自分 で動 きを修正、洗練 す る能力 に欠 けているか ら、 い つ までた って も指導者 か ら自立す ることが で きないのであ る。 さ らにダメ押 し的 に言 えば、
「最初 か らコーチの指示通 りに操 り人形 のよ うに育 て られた選手 はいわば温室育 ちの花 に も似 て、試合 などの孤独 な場面 に追 い込 まれ ると、 ち ょっと した技 の乱 れ に も対応 で きず、 もろ く
も大失敗 にな って しま うことが少 な くない」
2の。要 す るに、 自分 で 自分 の動 きをわか ろ うと し ないか ら、 いざ とい うときには誰か 自分 の動 きをわか って くれている人 (指 導者 )に 頼 る しか な く、 自分一人で戦えないのであ る。
反対 に、 内観的反復練習 を行 う学習者 は、 た とえ優秀 な指導者 に恵 まれていよ うとも、 その
指導者 の言 うことをすべて鵜呑 み には しないで、指示 された内容 を自分 の動感世界 のなかで よ
く吟味 して練習 を行 う。「 その習練 プ ロセスで は、 そのつ どに、私 の運動感覚意識 の分化 が充
実 されて くるか ら、 コツやカ ンと出会 う情況が予描 的 に読 めるよ うにな って くる。 つ ま り、 そ
のよ うな動 きかたが『 で きそ うな気がす る』 とい う偶発位相 にさ しかか っていることになるの
だ」
"。とりわ け、指導者 の促発能力 が未熟 であ った り、 はて は指導者 その人 が いな くて 自分
のみを頼 りに練習 を しなければな らない環境 に置かれている学習者 は、 自己観察 を中心 と した
練習方法 を必然的 に要求 され るであろ う。「 自分で考 えて練習 をす る」 とい うときは、 自分 自
身が学習者 であるの と同時 に指導者 に もな らなければな らない。 まさに指導者 と しての 自分 が
学習者 と しての 自分 を見 る =教 え るとい う関係 において、 そ こで は自己観察能力のよ り高 い レ ベルが求 め られている。
さ らに、 自己観察 の必要性 は、動 きの修正活動 において顕著 に認 め られ る。他人である指導 者 が学習者 に運動 の修正指示 を出す とき、当の学習者 がその修正 ポイ ン トをた とえ理屈 と して 頭でわか った と して も、最終的 に自身 の動感 と して了解 で きなければ、 その効果 は期待 で きな い。 た とえば、 ビデオで撮影 された映像 を眺 め るとき、学習者本人 は膝 を曲げたつ もりがない のに、映像 で は膝 が曲が ってい る シー ンが あ った とす る。指導者 は、「 ここで膝 が曲が ってい るか らダメなんだ。膝 を ピンと伸 ば してや って ごらん」 と指示 した とす る。 もちろん、学習者 は映像 を見て、物理的 に膝が曲が っているのを確認す るであろ う。 しか し、動 いている最 中 に は、本人 として感覚的 に膝 を曲 げてはいない し、曲が ってい るとも感 じていなか ったのである。
あるいは、本人 な りに しっか り伸 ば していたのか もしれない。 そ うい った場合、学習者 は、映 像 に現 れた膝が曲が るとい う現象 が信 じられない ことにな って しま う。
ただ し、 ここで確認 してお きたいのは、 ビデオで撮影 した自分 の動 きの映像 を、 まるで第三 者 が見 るの と同 じよ うに距離 を置 いて観察す るのは、本論 でい う自己観察で はない とい うこと である。 それ は客体化 された他者 と しての 自己を見 るとい う意 味 において、他者観察 の部類 に 属す る。 さ らに言 えば、観察対象 は物理 的な位置移動 と しての客観的運動経過で もない。膝 が 曲が ってい るのを物理時空間 において客体化 し、バ イオメカニクスのよ うに外部視点か ら観察 す るので はな く、 その現象が現 れ る自己の意識 内部構造 に入 り込んで、 その動感 内実を 自 ら観 察す るのが 自己観察 なのである。 すなわち、観察対象 は本来的 に自己の動感世界 のなか になけ ればな らない。 た とえ、 自分が実際 に動 いて いるときに感 じた内容 とそ こに映 し出された客観 的運動 が示す内容 にズ レがあ った と して も、 自分が運動 中 にその よ うに感 じた こと自体 はけっ
して間違 いで はない し、 また、それはまぎれ もな く私固有 の動感世界 における事実 なのである。
む しろ、指導者 はそのよ うな学習者固有 の動感事実 に目を向 けて修正指示 を発す るべ きであ り、 それを無視 して、運動経過 の客観的事実 のみに こだわ って一方的な修正指示 を出 してい る よ うで は、学習 と指導 の協 同作業 は実 を結 ばない。「 自分 の運動 が どのよ うに経過 したのか、
どこで どんな姿勢変化が起 こり、 どこで どんな力 を入 れたかなどの感覚印象 をまった くもって いない生徒 に、 どんなによい修正指示 を与 えて も、反応す るはずがな く、 まさに馬 に耳 に念仏 で あ る」場。 ゆえ に、運動 の修正活動 にお いて指導者 が学習者 に自己観察 を求 め るとい うこと は、重要 な前提 にな って いるのである。
4.他 者観察の二様性
マイネルは、 自己観察だけでな く、他者観察 もモルフォロギー研究の手法 として取 り上 げた。
他者観察 で は、「体育教 師が 日常 そ う して い るよ うに、 スポー ツの運動経過 をその現実 に行 わ
れている姿 のまま、 しか も目だ けで観察 し、分析す るときには、 印象分析 とい うものが前景 に
立 て られて いる」
D。印象 (Eindruck)と い う言葉 が示唆す るよ うに、 ここで は観察者 の心 に
強 く感 じて残 った もの、すなわち意識的内容が分析対象 にな っている。通常、人 は眼前 に展開
された運動経過 にさまざまな印象 を もつで あろ う。 けれ ど も、単 に「すば らしい」 とか「 下手
だなあ」 な ど漠然 とした、素人 じみた感想程度 の印象 しか もてない ことは、 ここで は論外 と し
たい。優 れた指導者 は、「 どこが どうす ば らしいのか」、「 なぜ下手 だ といえ るのか」 とい う、
スポーツ運動学 にお ける運動観察 の方法 に関す るモル フォロギー的一考察 47
そのよ うな漠然 と した印象 を裏付 けるさ らに細かいところまで印象を もちつつ、観察対象の運 動 を と らえよ うと している。俗 に、「 あの人 は目の付 け所 が違 う」 と言われ るの も、運動経過 のなかに紛 れた核心的で きごと (動 感 テクス ト )が 、 まさにその人 な らで はの眼力で クローズ ア ップされ るか らにほかな らない。
一般 に、 ある競技 に優れた能力 を発揮す る選手 は、 その競技 に関連 した運動経験 を もたない 素人 に比べ ると、当該 の観察 され る運動経過 のなか によ り多 くの ことを見抜 くものであ る。 だ か ら、で きる人 のほうがで きない人 よ りも観察能力 に優 れていると速断 されやす い。 さ らにそ こか ら、「 自分がで きない動 きは見て もよ くわか らない」 とか、「 自分がや ったことがないのに 人 に教 え られ るわ けがない」 とい う技能尊重、運動経験重視 の指導者観 も言 われた りす る。 た しか に、 スポーッ運動 の指導者養成機関では実技実習が必要不可欠であ り、指導者 を志す
(とりわ けまだ身体が十分 に動 く若 い世代 の )人 は自分が将来教 え る可能性 のある運動 に関連 した 動感知 の経験 レベルを高 めなければな らないだろ う。 しか しなが ら、「名選手必 ず しも名 コー チな らず」 とも言 われ るよ うに、高 い競技力を もつだけでは、他人の運動 を見抜 く名 コーチに なるには不十分であることも、 ここで見逃すわ けにはいかない。
もちろん、誤解 のないよ うに述べてお くが、対人競技 や集団競技 の選手 と して、 いつ如何 な るときで も最高 のパ フォーマ ンスを発揮 で きる者 は、間違 いな く選手 の立場 において、他人 の 動 きを見抜 くプロと呼べ るであろ う。バ スケ ッ トボール競技 において、選手同士が 1対 1で ボー ルを奪 い合お うとす るとき、選手 はお互 いに相手 の出方 を探 りつつ駆 け引 きをす る。 そこでは、
自身 の コツ
(自己中心化身体知 )に 支え られた <先 読 み >と い うカ ン (情 況投射化身体知 )が
働 いてお り、情況 の意味 に応 じた動 きがそのつ どそ こで発生 されよ うとす る。すでに何度か戦 い、相手 の弱点 や クセな どを知悉 している場合 であれば、 その経験知 を生か して、相手 の動 き を読 み切 り、攻撃を仕掛 けることも可能 であろう。 しか し、 自分 にとって未知の相手であれば、
むやみやた らに動 くことは危険であ る。 まず は相手 の動感身体知 と自分 の動感身体知 を比較考 量 す ることか らは じめなければな らない。
ただ し、 ここで は論点 を整理す るために、他者観察 の行 われ るケースを二つ に区別 してお き たい。一つ は、指導者 が学習者 の運動 を他者観察す る場合であ り、 もう一つ は、学習者 が指導 者 の運動 を他者観察す る場合である。両者 の場合 とも、他者 の運動を観察す るとい う点 では同 じであるが、前者 は「相手 をで きさせ たい・ 勝 たせたい」 とい う動機で観察が行 われ るのに対 し、後者 で は「 自分がで きたい・ 勝 ちたい」 とい う動機が働 いている。金子 の提唱 した動感身 体知理論
20に即 して言 えば、前者 は促発身体知 にお ける他者観察であ り、後者 は創発身体知 に おける他者観察である。
なお、本論 では、選手 がプ レー中 に敵 または味方 の動 きを他者観察す るとい うケースを考察
の対象か ら外 してお きたい。 このケース も創発身体知 にお ける他者観察で はあるが、別稿 に値
す る十分 な内容 を もっている。 さ らに、他者観察 は現場 での指導 や競技 に直接関わ らない第二
者的 な立場 の人
(たとえば、観察対象 となる運動者 とはなん ら関係 を もたない実験的 に選 ばれ
た被験者等 )に よ って行 われ ることもあ るが、 そのよ うなケース もここで は考察対象外 に して
お く。 もちろん、 そのよ うな観察方法 を用 いた研究 を否定す るもので はけっ してないが、本論
では、他者 の動 きを見 るとい う行為が、現場 の指導者 と学習者 の関係系 において築かれ なけれ
ばな らないとい う前提 で、他者観察 の専門語 を使用 したいと考 えている。
5.運
動観察の相互補完的関係
促発 とい うことに関 して言 えば、指導者 の他者観察 はつ まるところ学習者 の動 きを見抜 くと い うだ けで は終わ らず、最終的には学習者 がその動 きをで きる、上達す るとい うところまでた どり着かなければな らない。 そのために も、指導者 には、 まず もって学習者 が学 ぼ うと してい る動 きの始原論的、体系論的、地平論的構造分析わを厳密 に行 い、学習者 にとって最適 な指導 目標像 を確認 してお くことが要求 され る。 とい うの も、 その像がなければ、指導者 は学習者 の 動 きを見て も実施 の良否 に関す る評価が下 せないか らであ る。 また、 そのよ うな評価基準 とな る像 は、指導者 のみが もつので はな く、学習者 に も共通 に もて るよ うに仕向 けなければな らな い。 そのための方法 として は、実際 にや ってみせ ること (Vormachen)や 映像等 で媒体 的 に 示す こと (Vorzeigen)な どが有効 で あろ う。 ただ し、 これ は学習者 の模倣 とも関わ って くる ため、後 で述べ る学習者 にお ける他者観察 の問題圏 と重 な り合 って くる。
ともあれ、 お互 いの目標像 にズ レがあるところで は、当然 の ことなが ら、効果的 な学習指導 の関係 は築 けない。運動経験が豊富で、高 い技能 を もっているに もかかわ らず促発能力 に必ず しも長 けていない人がいるとい う原因の一 つ は、適切 な指導 目標像 を確認 しないままに、一方 的な運動像 を学習者 の目標 と して与 えているところにあ るだろ う。促発指導 に入 るには、指導 者が どのよ うな 目標 に動機づ け られた相手 を対象 に しているのか、 た とえばその学習者 は学校 体育や健康 スポーツ領域 における最適化 の 目標 を もつのか、 それ とも競技 スポーツにおける最 高化 の目標 を もつのかをまず もって確認 してお く必要が ある
20。さ らに、指導 目標像設定 は、 そのつ どの学習者 の動感形成位相 や創発身体知 の能力 に大 き く 左右 され るものである。将来、 オ リンピックに出たいか らと言 って、指導者 も体操競技 を始 め たばか りの初心者 も、 いきな リオ リンピック選手 が行 うよ うな <高 度 な前転 >を 目標像 にす る のは無謀 な ことである。最終的な目標像 を設定す るのはもちろん必要 な ことであるが、現実の 練習場面 で は、 そ こに至 るまで に何 を、 どんな順序で行 うのか とい う系統的・ 段階的なプ ロセ スの思考 が大切であ るのはい うまで もない。 そ こにおいて、学習者 の現状 の技能 レベルを顧慮
した <分 相応 な前転 >が 当面 の 目標像 と して設定 され ることにな る。
以上 の ことか ら、観察対象 と しての学習者 の運動 は、指導者 自身 の動感経験知だ けを もとに 一方向的 に見 られ るだけではな く、学習者 自身 はどの よ うな動感世界 を構成 しているのか とい う、学習者 の視点 に立 った観察が どうして も必要 にな って くる。 その点 に関連 して、 マイネル は、運動観察力 (Bewegungssehen)に お け る運動共感 (Mitvollzichen der Bewegung)の 能力 に言及 している。「 この運動共感 のなかで は、以前 の 自分 の運動経験 の全財産 が再 び働 き
出す。 その全財産 は、運動 をかつて視覚 だ けで と らえ、 あるいは 客観的 "に 記録 していた と
きに可能 であ ったよ り、運動 とい うものを観察者 にはるか に深 く把握 させ るよ うにな る」
2つ。 すなわち、動 きをただ単 に見 るだけでな く見抜 くための前提 にな るのは運動共感能力 なのであ り、 その能力 を支 えているのが観察運動 に関連 した観察者 自身 の動感経験知であると理解 され る。
ただ し、金子が注意 して い るよ うに、「 ほん とうに実践 的意義 を もつ運動共感 は、運動像 を
対象 (Gegen stand)と して、 向 こう側 に見て共感す るので はない。運動想像力 によ って、 自
らその運動 を実施す るところに、初 めて全的な意味での運動共感が成立す る。つま り、観察対
スポー ツ運動学 における運動観察 の方法 に関す るモル フォロギー的一考察 49
象 にな ってい る運動経過 を改 めて観察者 自身 の 自己運動 と して、潜勢 的 (virtuell)に や って みて、 それを観察す るのでなければな らない。 いわば、観察者 による潜勢 自己運動 (virtuelle Selbstbewegung)と して、観察 す る運動 をイマー ジュの中で遂行 しなが ら、 それを 自己観察 す るのであ る」
D。ここにお いて、運動共感 は「 他者観察 の結果 の自己観察化」
20として把握 さ れなければな らない。
潜勢 自己運動 の世界 では、指導者 の動感経験知 に基づ いて観察対象 に関わ る動感 アナ ロゴン が探索 され、指導者 自身 の動感世界 において学習者 の動感構造が構成 されよ うと している。 し か し、指導者 と学習者 で はお互 いの運動生活史がそ もそ も異 な るので、指導者 による学習者 の 動感構成 には大 な り小 な り誤解 が生 じて しま うのはど うして も避 け られない。 したが って、指 導者 は学習者が どのよ うに動感世界 を構成 しているのか について、動感交信 を行 う必要がある。
そのために も、学習者 に自己観察 を促 す ことは不可欠 な ことになるだろ う。結局 の ところ、指 導者 は、 「『潜勢 自己運動』 をや ろ うとして何度 も失敗 し、選手 とのや りとりを しなが ら相手 の キネステーゼを確認 し、本 当 に成功 した らその ときは相手 の運動 が同時 に発生 している」 とこ ろまでいかなければな らない
3の。
さ らに、運動共感的観察 と動感交信 に基づ く指導者 の潜勢 自己運動 の創作 (構 成 )活 動 は、
学習者 に とって 目指すべ き動感 目標像 を導 き、両者 のあいだで間動感的 に共鳴 させ よ うとい う 処方 の前段階、 す なわち代行形態 の構成 にまで発展 してゆ くべ きものであ る。「 キネゲーネ シ スに関わ る指導者 は、相手 の動 きかたの潜勢 自己運動 に成功 し、 そ こで『今度 はこんな感 じで や ってみた ら』などの指示を出す。単 に相手 の動 き方 を潜勢 自己運動 によ って 自らのキネステー ゼ システムの中で知覚 したときは、すでに『 どのよ うに』 とい う修正へ と向か う知覚 も存在す ることに注意 しなければな らない。 それ は、 これか ら行 うべ き動 きかた、つ ま り修正 され るべ き動 きかた も指導者 はその とき知覚 しているか らであ る。 もしその予持が知覚 で きない と、指 導者 はほん ものの潜勢 自己運動 に成功 して いないので あ る」
3D。ここにおいて、促発身体知 に お ける他者観察 は代行能力 にお ける潜勢 自己運動 との関連 で とらえ られ よ う。
一方、学習者 は指導者 の運動 を どのよ うに見 るのだろ うか。先 に述べ た通 り、指導者 は学習 者 の技能 レベルに見合 った目標像 を指導 内容 と して提供 していかなければな らない。 その場合 の示範 の仕方 は、指導者 自 らが (場 合 によ り身振 り手振 りも含めて )実 際に行 うこともある し、
師範代 と して第二者 に示範 を させ る場合 もあ るだ ろ う (Vormachen)。 あるいは、映像 や静止 画 の連続 図 な どを示 しなが ら説 明 を行 う場合 もあ る
(Vorzeigen)。どのよ うな方法 を採 るに して も、有能 な指導者 による示範 は学習者 の動感世界 に共鳴を与 え る ものでなければな らない。
ひるがえ って、学習者 のほ うも観察対象 の動 きを向 こう側 に対象化 して眺 め るので はな く、
自身 の運動共感能力 を発揮 し、臨場感 を ともな った潜勢 自己運動 と して成功 させていかなけれ ばな らない。呈示 された示範 に関連 した動感経験知 をすで に学習者が豊富 に もって いれば、即 座 の習得 も期待 で きよ う。 しか し、 「 見て もよ くわか らない、伝 わ らない」 とい うのであれば、
その経験知 を高 め るよ うな動感 アナ ロゴ ンを収集す るための練習が課 され ることになる。当然 なが ら、指導者 はその練習 のための示範 とい うもの もあわせて考 えていかなければな らない。
ここにおいて、指導者 による学習者 う
の動感観察 と学習者 による指導者 の呈示 した示範観察 は、
相互補完的 な関係 で と らえ られ ることにな る。 いわば、両者 の協 同作業 の結実 と して、解釈 に
解釈 が重ね られた間動感 的習練 目標像がそ こにおいて設定 され ることになると考 え られ る。
6.結
語
見 るとい う行為 は、観察者 と観察対象 を物理 的 に分離 して と らえ られやす いが、 スポーツ運 動 の学習指導 の現場 で は、学習者 と指導者 の協 同作業 によ って運動発生が 目指 され るか ぎり、
お互 いが示す運動 に無関心 でいるわけにはいかない。指導者 は、 もち合 わせの動感 アナ ロゴン を頼 りに観察対象 である学習者 の動感世界 に潜入 し、運動共感 を通 して、間動感世界 で展開 さ れ る潜勢 自己運動 を構成 しなければな らない。 そ こで は、学習者 の動感世界が指導者 の動感創 発身体知 によ って構成 され、 もはや他者観察 の域 に とどまることな く自己観察が行 われ ること
にな る。
しか し、指導者 の潜勢 自己運動 は共感 レベルで終 わ ることな く、すでに指導 目標像へ向か っ ての動感形成 も始 ま っていなければな らない。す なわち、学習者 に先立 って、獲得すべ き動感 目標像 を潜勢運動 の世界で代行す ることが引 き続 き目指 されなければな らない。 その代行形態 は、実際の処方 の段階で指導者 による示範 として実的 もしくは媒体的 に呈示 され るであろ うが、
今度 はその動 きを学習者が他者観察す ることになる。 もちろん、指導者 の代行形態 (潜 勢 自己 運動 )は 、最初か ら完璧 なかたちで形成 され るとい うわ けで はな く、多 くの場合、学習者 との 動感交信 に基づ く解釈学的循環 のなかで形成 と解消が繰 り返 され る。 そのために も、学習者 に
自己観察 の能力 を高 めて もらうことは重要 な意味 を もって くる。
本論考で は、 モル フォロギーの視点 か ら、運動観察 を概念的 に自己観察 と他者観察 に分 けて 検討 を行 って きたが、学習指導 の関係系 において は、結局、他者観察 は潜勢 自己運動 を通 して 自己観察化 され るとい うことか ら、学習者 の運動 と指導者 の示範 は単 な る他者観察 の対象 にと どま らない ことを指摘 した。つ ま り、 自己観察 も踏 まえた上 での両者 の相互補完的な運動観察 によ って、 お互 いに共通 な問動感的習練 目標像 の形成が 目指 されなければな らない とい うこと を、結論 として述べてお きたい。
今後 の課題 と して は、創発身体知 にお けるもう一つの他者観察、 すなわち選手が選手 を観察 す るとい う場合 の動感分析 も進 めていきたい と思 う。 これ は、単 に敵 や味方 とい う他者 だ けで な く、広 い意味で 自分 のプ レーに関与す る情況観察 も含 まれ ることになるが、選手が どのよ う な情況観察力 を身 につ けているのかにつ いて は、指導者 の促発観察能力 において分析 しなけれ ばな らない重要 なテーマである。
引用文献
1)Meinel K。 (金 子明友訳 ):『 スポーツ運動学』、大修館書店、
1981、 122頁以下
2)三
上 肇 :「 異 な る運動分析 のあいだを問 う」、 『 伝承』第 5号 、運動伝承研究会、
2005、16頁
3)高
橋義人 :『 形態 と象徴』 、岩波書店、
1988、163頁
4)高