オイゲン⑳ジーバ・叩の経営経済学
…ドイツ経営経済学紅おぃノる
技術論学派の−・考察−・岬一
笠 原 俊 彦
Ⅰ序
Vェーソプルーク(Fritz Sch6npflug,1900−・1936)の「個別経済学における
」tiは問題」(DasAkthodc)Z♪/ObI())Lil/dcr Ei)Eヱe[tLliJtSChaftslehre,Stuttgart
(1) (2)
,1933)が刊行される2年前,ジーバー(Eugen Sieber,1901−)は,経営経 済学の方法に閲す・る書物『経営経済学の対象と考察方法』(0み.メβ如α乃dββわ・・〃Cゐ・
(3)(4)
加増ぶ紺ダ去ざβdβ㌢ββg7査■β∂5ぴまァ■ねCゐα./才5Jβゐグ ♂,Leipzig,1931)を著わした。ジ−
バーがこの二古物を著わしたころまでにほ,商科大学の設立を契機として始めら れたドイツの経営学的研究は,すでに多くの体系的著作を世に送り出し,その 内容において豊富なものがあった。このような事情のもとで,ジーバ−ほ,ド イツの経営学的研究に.おいてその当初から論争されてきた経営経済学の学問的
(1)本書は,その後,ゲインヤップ(HansSeischab,1898−1965)によって増補され,
再版されている。
FいScilOnpf1ug,ββわ′一存沌・S紺∠7ねCゐαノねJ♂乃γ−β,〝♂f如dβ抑〝乃d肋〟〆Sf㌢・勧肌用甘抑,
2.erWeiterte Auil.vonパDalSMethodenPYOblemin der Einzelwirisehaftslehreけ herausgegebenvon H.Seischab,StuttgaIt,1954(古林啓楽監修,大橋,奥田訳『V
ェ「ンプルー・ク経営経済学』有斐閣,昭和45年)本稿に.おけるシ宣−ンプルークの所 論は,この増補版常よっている。
(2)ジーバ−の経歴については,例えば次を参照のこと。藻利恵隆責任編集『経営学辞 典』東洋経済新報社,昭和42年。JL8ffelhoIz, Eugen H SieberJ70Jahre ,Zeit一 sCカγ′ゴノ才ノ滋7ノノβ♂わ■緑涛・ざ弥彦7′・ざC滋αノ才,41一丁a加g,1971
(3)レェーンプルークは,汐L−バ−のこの書を,方法論的基本問題に関する最初の包括 的著作であるとしている。なお,レェ−ンブルークによれば,ジ−バ−のこの召物が 刊行されたのは,シ宣−ンプルークの上掲書の研究の完成後であり,したがって,シ ェ−ンプル−クの上掲沓は,ジ㌦パーのこの書物から影響を受けていない。Vgユ,
Scb伽pflug,α,α0.,S28,n.24.(邦訳,26ぺ−ジ注2J4)
(4)以下,本稿紅おいては,本文中における汐−バーのこの古物の引用ぺ−汐および参 照ぺ−ジは.,本文中にべ一汐数のみを示す。
箆45巻 室汚2号
叫・92 =【 238
性格に.関する問題を再び取りあげたのである。そして,そこにおいて汐−・バー・
が主張したこと軋。経営経済学が技術論(Ku;1StlehI−e)でなければならないと いうことであった。それでは,ジ・−ノミー一によ って主張された技術論としての経 営経済学とはどのようなものだったのであろうか。経営経済学に潤する汐−バ
−・の見解を検討し,そのことによってドイツ経営経済学における技術論学派の 解明に1つの寄与なな・す ̄こと,これが本稿の課題である。
王王 実践科学としての経営経済学の規定
経常経済学ほ,その成立の当初から,それが1個の科学であるか否かに関す る論争を経験してきた。ジ−)ミ一によれば,この問題ほ,とりわけ国民経済
(5)
学の文献において激しく論じられたのであってその際,山部の国民経済学者 ほ.,経常経済学を「邪悪な金儲け論」(Ode PIOfitleh工 e)または「技術論」
(6)
(Tecbnologie)として非難し,経営経済学がこのように金儲け論またほ∴技術論で
(7)
あるという理由をもっ■て,その科学性を否定するに至ったのである。(ⅤれS.4)
(5)経営経蘭学の学問的性格が,国民経済学者によってとくに論じられることとなった 理由を,汐−バ・一札,し経営経済学と国民経済学とが密接に関連すること,2…当時国 民経済学において支配的であった方法問題に対する関心,の2つ紅求めてこいる。Vgl,
SiebeI,a..ahO,SS.卜2.
(6)ここにいうTec如0logieほ,後述す芦,KunstldhteからL云別される Technologie
\ではなく,むしろ広く一般に実践的志向をもつ学問を意味すると解すべきであろう。
(7)このような国民経済学者として有名なものほ,新歴史学派経済学の代表者の1人で あるプレンクーノ(L11ioB工entanO,1弘か・1931)であろう。
商科大学の設立を契機として始められた経営経済学の研究が,ようやく,その体系 的著作を他に送り出し始めた頃プレンタ−ノは,「私経済学と国民経済学」ぐPri閥t・
wirtschaftslehre und Volkswi工tSChaftslehre ,Ba死k−Archiv,ⅩⅠⅠ.Jahrg ,1.OktoqI ber1912,Berlin,SS一1−6)と超する論文を発表しとのような経営経済学の研究を批
判した。
この論文において,プレンタ−ノは,まず,国民経済的考察(VOlkswiI・tSCbaftlicbe Betrachtung)を国家経済的考察(StaatSwirtschaftliche Betrachtung)から区別す
る。後者は,国王の官房が直ちに国家朗政をなす時代にみられるものであり,国王の
経済に屈する経眉の生産性増大および国王に租税収入をもたらす私経済の促進をなそ うとする考察である。プレンクーノによれば,これは,ドイツの官房学(KameIaト
Ⅵ・issenscモ1aft)および非ドイツの垂璃主義の文献においてなされている考察に他なら ない。かれによれば,これらの学問は㌧匡家収入(Staatseinna王1me)の増大の観長から する私経済学ないし国家利益の観点からする私経済学(Privatwirtschaftslehrevom
オイゲン・汐一バーの経営経蘭学 ▲ −93−
Gesまchtspunkt des Staatsinteresses)または私経済の考察に基づく同家経済学(eine auf Bet‡aChtung der PIivatwirtschaften basierte StaatswiItSCha∈tslehre)をな す。
これに対して,国民経済的考察は,国民の福祉(Woblstand des Volkes)の観点か らする考察をなす。そして,これは,国民経済学(Volkswir乞SC‡1aftslebIe)においてな されている考察をなすのである。
このように特質づけられる国民経済学をプレンターノほ,さらに2つに区小別する。
籍一・のものは,フランスの遷農主義者およびアダム・スミスの流れをくむ国民経済学
であり,これを,プレンクーノほ,抽象的国民経済学(eine abst‡akte Volkswirt−
SChaftslehre)とよぶ。なぜなら,この国民経済学把.おいては,生産要素として,自然,
贅凍および労働の3、つのみが認められ,国家,法秩序,行政,ある国民の文化段階に 応じた文化的形成物といったものの経済生活に与える影響が考慮されず,また,とり わけ,さまざまな時代,国民,階級に執する,経済するひとびとが,同一・の抽象的個 人として扱われるからである。プレソクー・ノ紅よれば,このような国民経済学は,実 際の隼活の現象と−・致しない学説の形成に導くこととなる。
第二のものは,まさ紅プレソクー・ノ白身が主張する国民経済学であり,歴史一現実
的学派(diehistorisch−realistif;Che Schule)の国民経済学である。この学派の特徴 は,それが経済生偏のできるかぎり精密な像(ein m鞄Iic‡1St eXaktes】∋ild vom Wi工tsCba餌sleben)の麓得ないし実際の生活を反映する国民経済学の追求を意図する
ところ紅求められる。その際,このような国民韓済学においてほ,私経済生活紅おいて 意義あるすべての事実の認識が意図される。プレンタ・−ノによれば,私経済紅関する 知識は国民経済学に.とって不可欠の前提をなすのであり,このような知識ほ,とりわ け,国民寝済学各論において獲得されるべきものなのである。
だが,プレンタ−ノによれば,当時において1つの特別の私経済学(eine besondere Pわva七WiItSCba董t∋Wissenscba㍑)を認めようとするひとは,以上のような,国民篠 済学における私経済研究に満足しないのである。
このような1つの特別の私経済学の主張に対するプレソターノの批判は,次の3点 にまとめられうるであろう。
1。このような私経済学は,私人の営利(翫werbdesPrivater))を考察の対象とす る。しかし,上述したことから明らかなように,私人の営利は国民経済学の研究の 対象をなしているのであり,私人の営利を対優とする学問として,こと新しく私経 済学を提唱する必要はない。
2一.このような私経済学ほ,自然,資本および労働しか生産要素として認めず,国家 も文化的形成物もこれを常庶することがない。
3。このような私経済学は,私企業ないし企業者およびその成果(EI血1g)を経済的 考察の出発点および中心点に膚き,その他の国民経済構成員を考慮しないのである
が,このことほ,企業者の特殊利益(dieSonderir!tereSSen der UnteInehmer)
を全体の利益(dieIn知・eSSen dcsGanzen)ないし全体の福祉(dasWohlder Gesamtheit)の上位に蘭くことを意味する。しかし,全体の利益の.立場に・立つも ののみが科学といわれうるのであって,企業者の特殊利益の立場紅立つ私経済学ほ,
科学ではない。
このようなプレソタ一−ノの批判が,当時の経営経済学的研究の正当な理解に蓋づく ものでなかったこと,および,全体利益の立場に立つものの衣が科学たりうるとする かれの見解が,まさに,当時の国民怪済学界における価値判断論争において問題視さ
239
寛45巻 第2号 240
・− 94 −
このような非難の正当性を明白にまたほ暗黙のうちに承認し,このような非 難から経営経済学を解放しようとした経営経済学者の努力は,2つに大別され
うる。1つほ,経営経済学の対象を拡張し,総合経済的考察方法(gesamtwirt−
SChaftliche Betracht11ngSWeise)を採用しようとす∴るものであり,他の1つ ぼ.,「単碇存在するものの認識のみを意図する私経済学」(nur aufErkenntnis desSeienden abgestellte Privatwirtschaftslehre)を碇立しようとするもので
ある。換言すれば,前者は,利潤追求を行う企業のみならず,利潤追求を行わ ない諸個別経済をも経営経済学の対象に含め,このような対象を利潤追求から 区別される何らかの総合経済的観点から考察することによって,金儲け論とい う非難を免れようとする努力であり,後者は,企業を対象とし,それを,その 利潤追求という側面に関して考察しながらも,しかも利潤追求という企業の実 践的目的に.役立つことを意図せず,ただ存在するものの認癒それ自体を意図す
ることによって,金得け論と無関係な,科学としての私経済学ないし経営経済 学を建設しようとする努力をなすのである。(Vgl.,SS。76−77)
これに対して,ジ−バーほ,経営経済学が企業を対象とし,利潤追求という企 業の目的に役立つことを意図して研究される学問であり,したがって金儲け論 であることを積極的に承認する。そして−,それと同時に,経営経済学が金儲け 論であるからといって−,何故にそれが科学でありえないこととなるのかと反論
(8) する。
れていたものであったことほ,すでに指摘されているところである。中村常次郎稿
「私経済学時代の独逸経嘗学」『独逸経営学』(上),経営学全集寛六巻,東洋経済,昭 和32年,132〜136ぺ−汐,および田島壮事稿「ドイツ経営学成立期の二つの科学的私 経済学」『ト商学研究』9,一・橋大学,197〜198ぺ−ジを参照せよ。また,次をも参照の
こと。大河内−・男箸『独逸社会政策思想史』上,下巻,大河内一男著作集,青林書院新 社,1968年。とくに,上巻第二編舞二茸第二瀞,および下巻。
また,汐−ノミ−・によれば,レフイ−(H.Levy)ほ,「いわゆる経営経済学」を経 営に.おける計算制度の技術の研究(ein Stadium der Technologie des Rechmngs−
WeSenSim Betriebe)と解し,これをかれの考える「経済学」から区別する。レフイ 一紅とっては,経済学とは精神(Geist)の学であり,技術の研究よりも価値高きも のと思われたのである。Vglh,Sieber,Objekt undBetrachiungsweiSe derBetri ebs・
甜∠γgSCゐ〃ノねJβカ7♂,Leipzまg,1931,S.4.
(8)「金儲け論」ないし「非科学」という非難に対する以上3..つの態度は,レェ−ソプ
オイゲソ・ジーバ−の経営経済学 ー 95 − 241
ジーノミー 紅.よれば,1科学の定義ほ定まったものでほないが,しかし,これ 紅関する支配的見解は存在する。いま,支配的見解に.したがって,1科学概念 の要素を,1.対象の同−・性(Identitat desGegenstandes),2・諸問題の統一∴的 一計画的整序(einheitlich−planvolle OrdnungderProbleme),3.論証および証 拠づけに.基づく諸問題の論理的結合(logische Verbindung der Fragendurch Beweise und Begrtindungen)の3つ紅求めれば,経営経済学が1つの科学で
あることは否定されえない,と汐L−バー・は考える。
こ.のことの説明ほ.あとですることとして,ここで,われわれ隠,ジーバーが 科学を2穆の分類基準を用いて分類することを通じて,科学としての経常経済 学の−・般的性格を明らか紅しようとすることに注意して−おかなければならな
(9)
い。
ルークの学派分類における規範論学派(dier]OrmativeRichtung),理論学派(die theoretische Richtung),技術論学派(dietechnologischeRichtung)にそれぞれ対応 するものと考え.ることができる。汐−バーとシェーンプル−クとほ,それぞれ別個に
方法論的研究を行った(本稿注3参照)にもかかわらず,この2人の学派分類の仕方 は,期せずして−一・致しているのである。レェ−ンプルークの学派分類における3つの 学派のそれぞれの性格規定については,次を参照のこと。F,Scb6npflug,αりα・0・・,
SS・72−84,226−238・邦訳,67−76,202−212ぺ−ジ。
なお,レェ−ソプル−クほ.,シ.ユマ−レンバッハ(Eugen Scbmaleめach,1873−
1955)を技術論学派に,シュミット(FfitzScbmidt,1882−1950)を理論学派紅分類
するのであるが,ジーバーの学派分類においてほ,この2人はともに,経営経済学の 対象を拡張し,総合経済的考察方法を採用する方向(シェーングルークの規範論学派
に相当する)に分類されるよう紅思われる。Vgl,Sieber,a.a.Oh,SS・101−103,121
−126.
ただ,レェーソブルーク虹おいても,シュマ−レンバッハおよびレユ・ミットの学説 が,ともに一面において,規範論的性格を有することが認められていることは注意さ
れるぺきであろう。Vgl,Sch8npflug,a.a.0,SS.234−236,undSS.239−283,ins−
besondere S.274,280,ur)d SS.32ト364,insbesondere S.329,und S・408 シュミット紅関しては,シェーンブルークのいう理論学派の基本的性格とシェ−ソ ブルークの理解するシュミット学説の理論的性格とが異なるものであること,したが ってシ㌧1ミットを理論学派に分頬するシェーンブルーク甲考え方には,この点で問題 のあることが注意されるペきであろう。
(9)ここ紅問題とされる科学とほ,経験科学を意味するものと解される。すなわち,そ れは,第一・紅,経験的事物を対象としない論理学から区別されるとともに,第二に,
形而上学から区別される。寛この意味紅おいて,それは,レェーーンプルークのいう規 範論学派を含まず,これから区別される経験・実在的諸科学(empirisch−realis−
tische Wissenschaften)の2つの方向,すなわち理論学派および技術論学派のみを合
第45巻 第2号
−9β − 242
かれによれは,第−・に,科学ほ,存在するものの認識のみをその日的とする か,それとも実践に役立つ手続き規則(Verfahrensregeln)の定立をその目 的とするかによって区別される。前者の目的をとるものほ,理論科学(theot retische Wissenschaften)であり,これほまた純粋科学(reine Wissenschaft・
en■)ともよばれる。これほ,ただ存在するものの認識それ自体を目的とするの であ?て,こ・のような認識が実践に役立つか否かほ,これを問うところがない0 後者の目的をとるものほ,実践科学ないし規範科学(praktische od.normative Wissenschaften)であり,応用科学(angeWandteWissenschaften)ともよほ れる。こ.れは,実践に.役立つことを意図する科学をなすのであり,ここに∴おい
て−は,研究者によって所与のものとして受け取られたある実践的目的に対する 関連において,研究されるぺき諸現象が選択され.,また,この諸現象が,受け 取られた目的の達成にいかに適しているかが研究されるのである。このように.
区分された2種の科学のうち,ジーバーほ,前者を「存在の学」(工ノebIe VOm
(10)
Sein),後者をr当為の学」(Lehre vom Sollen)と称する。
第二に,科学は,普遍的なもの(das Allgemeine)ないし−・般的なもの
(dasGenerelle)の認識に向うか,それとも特殊なもの,1一個的なもの,異質 的なもの(das Besondere,Einmalig−e,Verschiedenartige)またほ,個別的 なもの(dasIndividuelle)の認識に・向うかに・よって2つに分けられる。前者 は,再び,理論科学(theoretischeWissenschaften)とよばれ,後者吼 歴史
(11)
科学(historischeWissenschaften)とよばれる。ジ′pパーによれば,このよう な,・一・般的なものの認識へ向う方法ないし−・般化的方法と個別的なものの認識 へ向う方法ないし個別化的方法とほ,とも紅,1つの特定の科学に・おいて−用いら
れうる。そして,この場合には,1つの特定の科学の内部紅,・−・般的なものの
む。このようなジーバ−の考えが,結局は規範論的立場に立つレェ−ンブルータにと って,一面的(einseitig)とみえたのは,不思議でほない。Vglh,Sch6npflug,a..a.
0,Sり28.n.24,und SS..404−416.
(10)ここにいう「当為の学」がレェ−ンプル−クのいう規範論を意味しないことはいう までもない。
(11)このようにして,同じ「理論科学」の名紅おいて,相異なる2つのものが意味され ることに.なる。この2つは厳しく区別されなければならない。
カ■イグン・ジーバーの経営経済学 −.97−
243
認識に向う部分と個別的なものの認識に向う部分との2つの部分科学(Teil・
disziplinen)が区別されることとなる。その際,iy−バ−・によれば,このような 部分科学の区別は,通常,一・般化的方法と個別化的方法とのいずれがより支配 的であるかという基準に.よってなされるのであり,したがって,それほ,相対 的区別であるに過ぎないのである。
以上2種の分類を結合して,ジーパ、−・ほ,次のような科学の分類表を示す。
(Vg1.,SS.5−7)
存在の学:広義の理論科学(theoretische Wissenschaftenim weiteren
Sinn)
d・般的なものの認識:,狭義の理論科学(theoretische Wissenschaften im engeren Sinn)
個別的なものの認識:歴史科学
‡
当為の学:実践科学
−L般化的部分(generalisierender Teil)
個別化的部分(individualisierender Teil)
さて1われわれに.とっては.,以上のような科学の分類そ・れ自体ほ,問題では
(12)
ない。われわれに.とって問題なのは,このような科学分類を通じて経常経済学 がいかに説明されるか, である。
ジL−バ一軋よれば,ある科学が実践科学であるかそれともこれから区別され
(12)ただ,われわれほ,次のこと紅注意しておかなければならない。この科学分類表紅 おいて,ジーリベーは,実践科学から区別される意味紅おける理論科学の全体を「広義 の理論科学」とよび,この広義の理論科学紅属するもののなかで歴史科学から区別さ れる意味における理論科学,したがって2壷の意味紅おいて理論科学としての性格を
もつもの,を「狭義の理論科学」とよんでいる。
この場合,この科学分類表において実践科学を構成する一般化的部分および個別化 的部分は
論科学および歴史科学を意味するものと解されるのであるが,このように実践科学の
なかに理論科学を認める場合には,実践科学から区別される意味における理論科学の グル−プに.関してのみ,理論科学の広義,狭義の区別をなすことは,適切でないよう に思われる。だが,われわれは,論述の便宜上,本稿においては,ジーバ−のこのよ
うな用語法に.そのまましたがうこととしよう。
第45巻 第2号
−・9β − 244
る意味における理論科学であるかほ,その科学の扱う諸問題からのみ決定され うる。なぜなら,ある科学の内容をなすものほ,そ・の科学の扱う諸問題であ り,このような諸問題の合計が1つの科学を形成するからである。このこと ほ,経営経済学の科学的性格を考えるときに箇要である。経営経済学において は,研究者がその著作の冒頭において述べる綱領的言明(progTammatische Erklarungen)とそ・の実際に取り扱う諸問題とがしばしば食い違うからであ
る。ジーバーによれば,経営経済学において取り扱われている諸問題をみると
′き 経常経済学ほ,その母胎である商業学や官房学と同じく,その最終日標を
「実践的経済管理の案内者(Wegweiser fiir die praktische Wirtschaftsfiih−
Ⅰung)たること」に届いている。そこ.で,かれによれば,経営経済学ほ,実践 科学としての性格をもつのである。(Vgl.,SS,8−14)
実践科学として−の経常経済学ほ,上述の科学分類に対応して−・般化的部分と 個別化的部分とに分けられる。ジ′−バーは.,前者を経営経済学の理論(Theo工 ie derBetriebswirtschaftslehre),理論的経営経済学(theoretischeBetriebswirt−
schaftslehre)またほ−・般経営経済学(dieal1gemeine Betriebswirtschafts−
leh工e)とよぶ。これは,諸現象を−・般化的方法をもって取り扱い,諸原則
(Grundsatze)を展開することをその任務とする。
これに.対して,実践科学としての経営経済学の個別化的部分ほ,特殊経営経 済学(die spezielle Betriebswirtschaftslehre)とよばれる。これは,・−・般経営 経済学に.おいて展開される諸原則の,特殊諸情況に対する調整を行うものであ る。後に詳述するように,甘−・バーに.よれば,経営経済学は企光をその対象と する。そして−,ここにいう特殊諸情況とほ,企業の具体的現象形態(konkrete ErscheinungsformenderUnternehmung)としての業種別特殊諸情況を意味 するのである。特殊経営経済学は,ヱ.のような業種別特殊諸情況紅応じて−,エ 業経営論(Industriebetriebslehre),商業経営論(Handelsbetdebslehre),銀行 経営論(Bankbetriebslehre)などに.細分類される。
この場合,特殊経営経済学といえども諸原則の展開をなすものであること
●●●●●●●●
ほ.,注意されなければならない。特殊経営経済学ほ,各業種のそれぞれに妥当
オイゲソ・ジ−バー・の経営経済学 ー 99・−
245
する諸原則の展開をなすことをその任務とする。これ紅対して,−・般経営経済
●●●●●
●●● 学ほ,あらゆる業種−・般に妥当する諸原則の展開をなすのである。特殊経営経
済学の行う,−・般経営経済学の諸原則の特殊諸情況に.対する調整とは,各業種 の特殊諸情況を考慮することによっで一般経営経済学の展開する諸原則を具体 化し,各業種のそれぞれに妥当する諸原則を展開することを意味するものには かならない。
特殊経営経済学の与えるこのような諸原則は,・−・般経営経済学の与える諸原 則に.比べて,その妥当する領域ほ狭いが,それだけに,より㌻具体的である。一−・般 経営経済学と特殊経営経済学とは,ただ,このような,それぞれの諸原則の妥
(13)
当領域の広さ,または抽象の程度によってのみ区別されるに過ぎない。
ジ−バー・ によれば,実践科学の与える諸原則は,その抽象の程度が低くなれ ほなるはど,その実践的性質を増大する傾向をもつ。ただ実践科学としての経 常経済学紅よって\匿関される諸原則ないし手続き規則は,たとえそれがいかに 具体的であっても,処方箋(Rezepte)と明確に区別されなければならない。
なぜなら,経営経済学において展開される手続き規則ほ,いかに具体的なもの であっても,実践のための−・般的原則を呈示しうるに過ぎないのであって,個 別具体的な事例に対する対処の仕方を示すものでほないからである。かれによ
(14)
れば処方箋の形成は,そもそも,科学の任務ではない。(Vgl.,SS.16−17,155)
ⅠⅠⅠ経営経済学の対象としての企業
1つの科学の惜格を明らかにするためにほ,その科学が何をその研究の対象 とするかが問われなければならない。経営経済学の対象を問題とするに.あたっ
(13)以上のことから考えて,一・般経営経済学とは経営経済学総論を,特殊経営経済学と は経常経済学各論を意味すると考えることができよう。
なお,ジ−バ−は,経営経済史ないし企業史紅ついては一切触れていない。
(14)ここに処方箋の形成とは,実践(Pr■aXis)のことである。ジーバーは,リ−ガ−
(W.Rieger,1878−1971)が実践と実践科学の与える諸原理とを区別せず,これを−L 托して非科学としているとして,リ・−ガ−を批判している。Vgl‖,Sieber,a.′a.0.,
S.20.
寛45巻 寛2弓 246 ーJOO−
て,ジーバーほ,アモソ(AlfredAmonn,1883−1962)にしたがって次のよう に.考える。すなわち,方法論的研究が実りないものとならないために・ほ,それ
と実際の科学との関連が放棄されてほならない,と。その際,かれは,ある科 学の扱う諸問題ないしその科学の内容が,その科学の方法論に・対して有する蚤 要性を強調して次のようにいう。
「『方法論ほ,ある科学に先行し,これに対して,いわば1つの規則,これ紅 したがって−ほじめてその科学が形成されうる規則として−前提されるものでほな く,その科学の諸部分すなわちその科学において取りあげられている個別諸問 題の本質が認識されてほじめて可能となる,1科学全体の論理的に可能かつ必 然的な構造の組立虹関する1つの認識である。』」(S.30)
「…1つの綱領紅よってでほなく,その実質的諸問題の合計紅よって1つの 科学が形成されるのであり,したがって.,まさに何らかの方法論的序言に・おい
て規定されたものではなくて,実質的諸問題の対象としているものが決定的で ある。」(S.45)
このような考えから,ジーバー ほ.,かれの時代に.おいて経営経済学とよばれ ているものの扱っている実質的諸問題の根底にどのような対象が存在するかを
考察することに.よって,経営経済学の対象を明らかしようとする。この意味に おいて,かれは,「今日の経営経済学の諸問題に.とって適切な対象規定」をなそ
うとするのである。(Vg1.,SS.30−31)
さて,経営経済学においては,多くの学者が経営経済学の綱領を示し,・その なかで,経営経済学の対象として,企業でほなく,これよりも広い意味におけ る経営(Betrieb)ないし経常経済(Betriebswirtschaft)を措定している。そ の際,経営ないし経営経済なるものの概念規定は,学者に.よってさまざまであ ったとはいえ,とにかく経営経済学の対象を経常ないし経営経済に・求める見解
(1り ほ.,当時の経営経済学における支配的見解だったのである。しかし,それにも
(15)このように多くの学者が経営ないし経営経済を経営経済学の対象とする原因を,ジ ーバーほ,金儲け論という非難に対する恐れ,および「経営経済」学という言葉に引 きづられることの2つに求め,前者に・関して次のように述べている。
オイゲン・ジ−バ−の経営経済学 −JOJ−−
247
かかわらず,経営経済学において取り扱われてし、る諸問題をみるとき,そこで 実際に対象とされているのは,経営でほなく企業である。その方法論的序言に.
おいて経営経済学の対象を経営ないし経営経済に求める学者でさえ,ひとたび 経営経済学の具体的問題を扱う場合には,暗黙のう.ちに企業を対象として.い る。このような理解から,ジー・バーほ,経営経済学の対象を企業に求めること をこなる。(Vgl.,SS.46−49)
・そ・れでは,経営経済学の対象としての企業とは何を意味するのであろうかd 企業の概念ほ定まったものではない。それほ,経営の概念はどでほないにせ よ,さまざまな意味に用いられている。そごで,考えられうるかぎりすべての 限界的な場合(Grenzfalle)をおおい,したがってすべての状態に妥当する企 米概念を構成しても,これほ.あまりにも抽象的となり,具体的諸問題の解決に ははとんど役に立たない。そこで,ジー㌧パーは,企業とよばれているものにお いで理解されて:いる個別諸現象のすべてをおおう企業概念ではなく,今日の企
業の型(Typ der heutigen Unternehmung)としての企業概念ないし今日に おける典型的企業(die typische Unternehmung)を特徴づける企業概念,また は,今日の企業の像に.とって本質的なもの(was fiir das Bild der heutigen Unte工nehmung WeSentlichist)すなbち今日の企業にとって…最も大き 意味をもつ重要な特徴(wichtige Ztige,die ・ ftir die heutige Untern9hmung von gr6i3ter Bedeutung sind)を示す企業概念を問題にしようとする。(Vgl.,
S.35)
ジL−パ一によれば,このような企業概念は,1つの特徴ないし標識によって ではなく,いくつかの,おそらく同等の蚕要性をもつ標識匿よって形奴されう る。このような標識として,ジーバ−は,4つのものをあげる。1・・利潤追求(das
Streben nach Gewinn),2.組織的独立性(organisatorischeSelbst為ndigKeit),
「非科学性の非難,金儲け論の非難はまったく支持されえないものであったが,し かし,それは,−・定の作用を,とくに経営経済学の綱領的な対象規定および考察方法 の規定に及ばしたのである。もっともその内容には,まったくといってよいはど,作
用を及はさなかったが。」(Sieber,a.a.つ.,S 77)Vgl.,Sieber,aりa.0‖,S.52,
59.
努45巻 第2号 248 ーー102一
3.危険(Risiko)の負/担,4.大規模性,がそれである。
1。利潤追求。これほ,営利経済(Erwerbswirtschaft)としての企業の特性であ り,企業概念の核心をなすものにほかならない。利潤追求は,そ・の現われる様 式および程度においてさまざまであるが,汐−バーほ,「その利益において経済 が営まれる一億領域のひとびとのために貨幣的収益を追求しようとする努力」
(das Streben,fiir den Kreisvon Personen,Zu deren Gunsten gewirt・
schaftet wird,geldwerte Ertr鞄e zu erzielen)が存在する場合にほ利潤追 求の事実が存在すると考え.る。この意味においては,できるだ桝飢、価格での 商品購入を目的とする協同組合も企業に含まれる。
利潤追求は,もちろん,とくに私的経営(private Betriebe)において顕著で あるが,公的経営(6ffentliche Betriebe)および混合経済的経営(gemischt−
(16)
wirtschaftlicheBetriebe)にもみられうる事実である。
「 公的またほ混合経済的な『経営』も,まったく,企米,すなわら営利を目 的とするもの,として運営されうる。そこ.で,これらは,その個別経済的課題 に関してほ,本質的に私的経営と異ならない。そして,このような公的およぴ
とくに.混合経済的企業は,実際,多数存在するのである。」(S.83)
そこで,経営が私的所有者の所有にあるかそれとも公共団体の所有濫.あるか ほ,この場合,本質的役割を演じない。
「…公的経営が営利経営(Erwerbsbetriebe)として営まれているかぎり,
そこにおいて・ほ,私的営利経済の場合と同じ問題が生じる。」(岳.49)
ただし,公的経営またほ混合経済的経営が何らかの共同経済的目的(gemein−
wirtschaftliche Ziele)を顧慮することによってその利潤追求を弱める場合に ほ,その企業としての性格は,部分的に失われる。
「…このような『非企米的』目的( unternehmungsf工emde Ziele)が,
この『経営』の経済に対して大きな影響をもて−ばもつはど,これほ,…企業の 型から遠ざかるのである。」(S.38)
(16)ここにいう経営(BetIiel))は,後述するような技術的単位としての意味においでで はなく,技術的単位をそのうちに含む事業体の意味に・おいて使われている。
カーイゲソ・ジーバ−の経営経済学
249 −JO3−
2.組織的独立性。ジ′−バーによれば,これほ,経済主体の消費経済からの企 業の分離(Trennungder Unternehmung von der Konsumwirtschaft der Wirtschaftssubjekte)を意味する。
3.危険の負担。流通経済における給付(Leistung)すなわち広義の生産の引
き受けほ,営利経済的生産様式という今日の経済体制(heutige Wirtschafts−
ordnugder erwerbswirtschaftlichen Produktionsweise)においては,通常,
さまざまな種類の危険を伴ってくる。ジ −バ一によれば,このような諸危険 ほ.,結局,資本危険(Kapitalrisiko)に還元されうる。ことに}t、う資本危険と ほ.,資本が失われる可能性な意味すると解される。
4.大規模性。技術の発展によって,今日の典型的企業は,多額の資本および 多数の労働力を必要とするようになっている。今日の典型的企発は,大規模で あることをそ・の特質とするのである。汐−パ一によれば,まさにこのような大 規模営利経済( GroBerwerbswirtschaft)においてこそ,科学的解明を必要と するような問題が生じる。
l ̄例えば手工業者の営利経済のような小規模営利経済に.おいてほ,科学的研 究を必要とするような問題ははとんど生じない。」(S.93)
この場合,大規規営利経済卑小規模営利経済すなわち非企業(Nichtunter・−
nehmung)との境界ほ,流動的(flt瓜g)であることが注意されねばならな い。ジ′−バ−によれば,この境界ほ,管理的労働(1eitende Arbeit)と執行 的労働(ausft血・endeArbeit)との分離,組織の「物的化」(die Versach−
(17)
1ichung derOrganisation)および,ことに資本計算(Ⅹapまtalrechnung)の必 要性によって暗示されうるに過ぎない。(Vgl.,SS.36−38,62,93−鋸)
汐−バ−が企業概念軋関して述べる以上4つの標識のうち,組織的独立性 は,一・般に大規模性の内容の1つをなすものとしてこれに含めて考えることが 可能であろう。また,資本危険の負担濾,不確実な経済社会における利潤追求
(17)組織の「物的化」が何を意味するかについては,ジーーバーーは何ら説明するところが ないが,これは.,おそらく,事業体がいわゆる継続事業体(going conceI・n)となるこ とを意味するものと考えられる。
貸45巻 寛2号 250 一ヱ04−
(18)
と不可分のものであり,それを利潤追求に含めて考えること.が可能である。こ のように考え.るとき,われわれは,ジ−パーにおける企業の標識を,大きく,
利潤追求および大規模牲の2つに求めることができる。この場合紅は,ジーパ ー・の企業は,大規模営利経済として特質づけられうる。
さて,ジーバーは,企業を以上のように規定したあと,さらにすすんで経営 概念を規定し,これと.企業概念との関係を明らかにすることによって,企業概 念のより一層の説明をなそうとする。
ジーリベー一によれは,、経営概念に関して−は,はとんどすべて−の学者がそれぞれ 独自の規定を行い,しかも,しぼしば,それを論述の途中で勝手に変更する。
そ・のため,経営概念にほ極度の混乱がみられるのである。そこで,ジーバ−・−
ほ.,科学的研究をはじめるにあたっては,それぞれの研究者が,経営という概
●●●
念において何を理解しようと欲するかを厳密に記述するはかに・方法がないと考 え,かれ自身の理解する経営概念を明らかにしようとする。かれはその経営概 念を規定して次のようにいう。
「…企業は,流通のための給付の引き受けによって収益を追求する。そのた めには,企業ほ,外面的.技術的な多数の諸施設(eine Anzahlvon atiL3eren,
technischen Einrichtungen)を必要とするのであり,このような諸施設の全 体(Inbeg工・iff)を..われわれは経営とよぷ。」(S.39)
i7−バ一によれば..経営は技術的単位(eine technische Einheit)であり,
企業がその目的の達成のため紅使う用具(We工kzeug)である。経営ほ,独立の 目的をもたない。何をどれだけ生産するか翠どは,常に企業によって−経営に与 えられる。経営は,企業の指導下に.あって1つの重要な技術的課題を委任され るに.過ぎないのである。企業は経営に対して,.企其の要求する−・走の質および 数愚の商品を,企業ができるだけ高い管幣余剰(GeldtiberschuL3)を得ることが できるよう咋,安く生産することを要求する0′企業に・よってこのように要求さ
(18)企業の利潤追求と危険負担との関係については,次を参照せよ。笠原俊彦稿「技術 論的経営経済学の一考察一一−ホフマンの所論を中心として−−」『−・橋研究』算16号,
1969年
オイゲン。ジ′−バー・の経営経済学
251 M・J♂5−・
れたもの, これが経営の仕事をなす。これに対して,企其の仕事は,経営に.,
種類および数量において正しい,すなわち儲かる,商品の生産を命じ,できる だけ合理的に売買し,必要な資本を調達することなど,短かくいえば,市場に おいて経営を正しく指導サーること(denBetriebIichtigimMarkt zu steuern)
に求められる。
以上においては,企業は経営とあたかも別個独立の存在であるかのような説 明がなされている。しかし,それにもかかわらず,企業を経営と別個のものと
して−把握することほ,ジーバーーの意図するところではない。ジ−バ、一によれ ば,経常ほ企業の不可欠の部分(integrierender Bestandteilder Unte王neh−
mung)をなす。このことほ,以下に述べるところであるが,ここであらかじ め注意されるぺきであろう。(Vgl.,SS.86−87)
さて,以上のよ.うな企業概念および経常概念が,リーガー・のそれとかなり似 ていること.ほ,汐一−バーー・が自ら認めるところである。
ジーバ一によれば,リ−ガ一における企業ほ,自発的に危険を引き受け,貨 幣計算を必要とする営利経済である。ただ,これは,私企業のみを含み,公企 業および公私混合企業を含まない。なぜなら,後の2つほ,リーガ一において は,総合経済と深い結びつきをもつとともにr,営利目的(Erwerbszweck)を 欠くと解されているからである。
この場合,リ−ガ−は,企業を財務的車位として把捉し,技術的単位として の経営からこれを区別する。そして,財務的単位としての企業払おいて,財務 的ないし貨幣的問題(finanzielle,geldiiche Probleme)を理解する。こ.こ紅 財務的ないし貨幣的問題とは,企業の経済性(Wirtschaftlichkeit der・Unter−
nehmung)の尺度,しかも最終的かつ唯一Lの尺度(derendgiiltige und einzige MaL3stab)としての利潤性(Rentabilitat)の問題を意味する。
ところで,技術的単位としての経営においても,経営給付のための原価の引 き下げ(HerabdriickungderKostenfiirdie Betriebsleistung)のような経 済性の問題が存在する。しかし,ここにいう経済性は,技術的合理性(tech−
nischeRationalitat)であるに過ぎない。t,れ浸.対して,「何をどれはど生産す
飽45巻 幾2号
ー・J∂6− 252
るか」の問題ほっ 経営によってほ規制されえない。この問題に.関しては,経営
,はもつばら企其の指示(Weisungen)にしたがわなけれはならない。この間輿 は,技術的合理性によっでではなく,利潤性によってのみ規制されうるからで ある。
リ、−ガr・においてほ,経済(Wirtschaft)とほ,財務的ないし貨幣的問題の 特性(die Besonderheit)からのみ生じる。そこで,リーガーによれぼ,企業 ほ経済する(Wirtschaften)が,経営は経済しないのである。
●● こ.のような考えから,リーガーは,その私経済学(Privatwirtschaftslehre)
において,技術的単位としての経営を排除した,財務単位としての企業ゐみを 取りあげようとするのである。
ジL−バーほ.,一リーガー・の企業概念および経営概念を以上のように解するとと もに,企業が財務単位であること,経営が技術的単位であること,および利潤 性が企菜の経済性の最終的尺度であることを承認するのであるが,次の点にお いて自分がリーガーと見解を異にすることを明らかにする。
第一・ほノ,汐−バ−の見解においては,企業の中に,公企業および公私混合企 業が含まれることである。
第二ほ,ジ−パーにおいては,企業はそ・のうちに・経営を含むものとして理解 されることである。ジ′」−バーが企業と経営との関係をこのように解する理由 は,経営の経済性が,企業の利潤性の1・要因をなすことに求められる。かれほ いう。
「1・・l『経常』の経済性は,企業の利潤性の最も重要な諸要因の1つであるか ら,経営経済学は,またこれをも取り扱わなければならない。ただ,それほ,経 営経済学にとって企業の最高目的として現われるわけではなく,企業の利潤性
の要因として意義をもつに・過ぎない。り‥したがって,あれわれは,経営経済学 から経営問題(Betriebsfragen)を排除しようとする点紅関しては,…リL−ガ
(Ⅰ9)
rに,したがうことができない。」(SS.85−86)(Vgl.,SS.83−86)
(19)中村鷲次郎教授は,ホフマン(AlexanderHoffmann,1879−1946)が,経営経済学 の対象として,技術的単位としての経営を排除した企業を措定すると主張し,その
オイゲン・ジ−バーの経営経済学 −J〃7−
253
さて,i7−バー・ほ,資本主義経済体制(kapitalistische Wirtschaftsordnung)
における個別経済としての企業の目的を利潤ないし利潤性に求めるのであるが ここに利潤ないし利潤性とほ,具体的にほ,資本所有者(Kapitalbesitzer)ない し資本家(Kapitalist)および,通常,企業名(Unternehmer)ないし経営者
(Verwaltung)虹帰属する最適純利潤(einoptimalerReingewinn)ないし最適利 潤性(optimale Rentabilitat)を意味する。また,ここに資本所有者とほ,自己資 本(Eigenkapital)の所有者をいう。ty−バーによれば,企業ほ,自己資本所 有者としての資本家,および企業者の利益(Interesse)において経済するので
ある。この場合,現実には,大ていの企業者は資本家でもある。そ こで,資本家 ほ,企業者である資本家とし、わば単なる資本家とに区別されうることとなる。
ジ−ノべ−・は,企業者が同時に資本家である場合はもちろん,また「企業者と 資本家とが異なる経済主体である場合においても,かれらが企共に対して設定 する目由は同仙・,すなわち最適利潤性である」(S.96)と解する。
「企某省は,利潤牲を目的とする経済管理を行う軋際して,たと.えそれが当
○●●
然ながらかれ把おいて1つの大きな役割を演じうるものであれ,個人的貨幣獲 得を第一・に考えるものではしばしばない。かれの行為は,非合理的諸要因
(irrationale Momente),すなわち権力追求(Machtstreben),働かんとする 衝動,ゾムバルトが定式化したような事業自体に対する『関心』(das Intere・
sse〃am Geschaftiiberhaupt)などによって規制されうる。しかしながら,企 業者としてのかれがいかなる動機によって動かされようとも,かれほ.,その動 機を,企業が利潤性をもって働く場合妃のみ満足させるこ.とができる。純利潤 の高さは,企英者としてのかれの成果の唯一・の尺度である。」(S.96,傍点一原文
グレュぺルト)
際,ジーー′く−の経営経済学の対象をこれと同一・祝されている。中村常次郎稿「独逸経 営経済学における『技術論』の地位」『経済学論集』八巻十号,東京帝国大学経済学会,
昭和13年,とく紅,35,37,50〜51ぺ一−ジを参照せよ。
だが,ジ−バ−の考え る経営経済学の対象が,技術的単位としての経営を排除した 企業でないことは,もほや明らかであろう。
また,ホフマンも技術的単位としての経営を排除した企業を経営経済学の対象とす るわけでは決してない。次を参照せよ。笠廉俊彦,前掲稿
策45巻 弟2号 254 ーJOβ一
また,ジーバーによれば,単なる資本家の動機は,−儀的である。すなわ ち,それは,かれが企業に投下した資本つまり自己資本の増殖(Ve工■meh工ung)
にあるのである。
この場合,企業者と単なる資本家とほ.,次の点においては対立しうる。すな わち,企英名は,その事業関心の基礎濫非合理的動機をもてばもつはど,企業 内部における利潤の蓄積(Akkumulie川ng)自体をより強く考慮する。
「■これに.対して,資本家は,純利潤からのできるかぎり多額の分配(Aus・
sch肌tung)により関心を有するのが常である。株式会社において,しばしば,
経営者と株主との間に,利潤分配についての意見の相違がみられることは,よ
く知られている。」(SS.96−97)(傍点一笠原)
「しかし,企業名と資本家との利害の−・致(die SolidalitatderInteressen von unternehmer und Kapitalist)は,企業に設定されるべき目的が問題と なるかぎり,このような,いわば内部的な摩擦(sozusageninterne Reibung・・
en)によっては,乱されない。」(S.97,傍点一億文ゲVユぺルト)(Vg1・,SS.96−
97)
ⅠⅤ 経常経済学の選択原理としての利潤性
ジ−バ−・における経営経済学の対象が,大規模営利経済としての企業である ことは,以上に.より明らかである。次に・,経営経済学が,その対象である企業 をいかなる観点から考察するかが問われなければならない。このような観点
ほ,経営経済学の選択原理(dasAuswahlprinzip)または同一・佐原理(das Identitatsprinzip)とよばれる。この選択原理に基づいて企業に関する諸問題
のなかから経営経済学にとって重要なものの選択がなされることに.よって,経
(20)
営経済学ほ.,その諸問題紅おいて統一催を獲得しうることとなる。
(20)ジ−バーは,アモンにしたがって,経験対象(Erfahrungsobjekt)と認識対象(Er−
kenntnisobiekt)とを区別する。われわれが,以上に∴給いて述べてきた経営経済学 の対象とは,正確紅は,経営経済学の経験対象を意味する。そして,経営経済学の認 識対象とは,経験対象としての企業に対して選択麻理を適用することによって選び出 される請聞趨を恵映する。なお,ジ−バ−ほ,認識対象を研究対象(UnteISuCilungS−
objekt)ともよぶのであるが,これから区別される経験対象はもともと研究の対象を
オイゲソ・ジーバ一・の経営経蘭学 一丁Oクー 255
ジL−バ−・は,経営経済学の選択原理に関して3つの見解をあげる。その1 は,経常経済学の選択原理を,総合経済的利益ないし共同経済的生産性(die gemeinwirtschaftliche Produktivitat)に求める見解,その2は,企業に・おけ
るすべての協働老の利益(dieInteressen al1erin der Unternehmung Mit・
Wirkenden)に/求める見解,その3ほ,利潤性(Rentabilitat)に求める見解 である。(Vgl.,SS.95−−98)
このうち,第二の見解にいう「企業におけるすべての協働者」とほ,企業 者,資本家,職鼠,労務者のみならず,企業の仕入先,顧客までをも含みう
る。この見解においては,企英は,企業者および資本家の利益の立場からでは なく,いわば企業の利害関係者−・般の利益の立場から考察されることになるの である。このように.企業の仕入先,あるいぼ顧客までをも含む企業の利害関係 者全体の利益の立場なるものほ,これを総合経済の利益の立場の意味内容の1
(…1)
つをなすものと解することができるであろう。そして,このように考え.る場合 に.は,経営経済学の選択原理に関する見解ほ,結局,経営経済学の選択原理を 共同経済的生産性に.求める見解と利潤性に求める見解との2つに・大別されうる
こととなる。以下でほ.,われわれは,このように大別された2つの見解につい て,ジーバL−の所論を尋ねることとしよう。
経営経済学の選択原理を共同経済的生産性紅求める見解ないし共同経済的見
解(gemeinwirtschaftliche Auffassung)は,たとえばVェ,ア(J.F.Schar,
1846−1924),ニッタリッレユ(H.Nicklisch,1876−1946),シュマ−レンバッノ、な なすと考えられうるのであり,したがって,認識対象を研究対象とよぶジーバ・−の用 語法は,誤解を招くおそれがあるとJt,、わざるをえない。Vgl.,Sieber,a.a.O
SS.29−30,95,98.
経験対象と認識対象の意味については次をも参照せよ。馬場敬治箸『経営学研究』森 山書店,昭和7年,33ぺ一汐以下。
(21)汐−バ一−・によれば,この第二の見解は,ニックリッレユ(軋Nicklisc王l,1876−1946)
の見解をなす。このことについては,次を参照のこと。Vgl。,Sieber,ana。0一,SS・
104,130−137..
その麒,ジ−バ−が参照するニックリッレコの著書は,主としてl椚γf.ゞ(加げ蛸cゐβ Beiriebslehre,5.Aufl,Stuttgart,1922であり,}ェ−ンプ)L/・−クのいう「ニッ クリッシュ学説の鱒二期」に.属する著作をなす。この頃から,ニックリッレユの学説
は,その規確論的性格を明確にする。Vgl.,Sch馳pf1ug,a.a 0。,SS.154−226
第45巻 策2号 256
−ヱヱ0−
どにみられる見解である。ことに.シュマーレンバッハの見解は,多くの賛同者 を得て,その流れは,私経済学派(eine privatwirtschaftliche Richtung)と 対立せしめられる共同経済学派(eineg・emeinwirtschaftliche Schule)を形成
している。
このような共同経済的見解を,汐−バーほ,次のように説明する。
「『共同経済的』見解の本質を簡単紅述べれば次のように.なる。一企業は,た しかに.,できるかぎり高い貨幣収益(Gelde工tI・ag)の追求に努めている。しか し,この事実は,経営経済学にとっては,経済の核心(der KerndesWirtschaft−
ens)をなすものではない。経営経済学は,企業者の立場に立って−はならない のであり,企業が総合経済の内部に.おいて最もよくその職能を果すためには企 業がいかに経済すべきかを示さなければならないのである。したがって,経営 経済学にとって導きの屋(Leitstern)は,企業者の利益でほなく,−・般の利 益(dieInteressen der Allgemeinheit)でなければならない。」(SS.104−
105)
ここに・一・般の利益は,また,全体の利益(dieInteressender Ge$amtheit)
とも共同経済の利益(dieInteressen der Gemeinwirtschaft)ともよばれ る。それは,企業の利潤性に.対して,共同経済的経済性ないし共同経済的生産 性をなすのである。(Vgl.,SS.98−105)
ジーバーほ,共同経済的見解の本質を以上のように解し,これに対して次の ような批判を加える。すなわち,共同経済的見解をとるものは,「その見解を感 情の領域(die Sphare des Geftihls)から論理の領域へ移行させ,感情およ び倫理的意識を諸定義に.よって援助する努力」(S.105)をしなかった,とく に,一腰の利益を明確に規定する努力をしなかった,と。かれほ選べる。
「われわれほ,とくに,共同経済の利益において何を理解すべきかについて 何らの暗示をもみいだきない…」。」(S.105)
ジ−パ一によれば,共同経済の利益の問題は,国民経済の目的の問題として 国民経済学の文献において論じられてきた問題をなすのであって,その際,さ まざまのひとが,この目的として多種多様のものをあげてきたのである。
オイゲン・ジーバ− の経営経済学
257 ・→Jヱヱ−
この問題に対する,国民経済学の支配的学派の見解の説明という形を借り て,ジ−パL−せまこの問題についで以下のようにいう。
「ll…・ 総合経済の生産性という概念は,経験に由来するものではなく,また
推論(logische Argumenten)によって㌧演繹されうるものでもない。をれは形 而上学に属する。」(S.109)
(総合q・笠原)経済に内在的な1つの目的(ein der Wirtschaftimma・
nenter Zweck)ほ.存在しないのであり,総合経済に1つの最終的目的を設定す ることほ,価値判断によってのみ可能である。そして,名人の価値判断によっ て設定される場合には,総合経済の目的は各人の世界観(Weltanschauung)
によってさまざまに異なる内容を与えられるであろう。しかしながら,「…‥り・科 学ほ,価値判断すなわち最終的な目的設定を志向する判断をなしうるものでは.
ない。」(S.108)
「 ・‥‥・科学は,存在すべきもの(Seinsollen)に関して発言しうるものでほ ない。経済に対して1つの目的を設定する国民経済学老ほ,このことを経済政 策者(Wirtschaftspolitiker)すなわち私人(Privatmann)としてのみなしう るのであって,経済学老としてなしうるわけでほない。」(S.109)
このように総合経済の−・義的目的が存在しないにもかかわらず,したがって
−・義的な共同経済的生産性が与えられないにもかかわらず,共同経済学派のよ うに.「企業がその共同経済的生産性をいかに示すかを提示すること」を経営経 済学の課題とする場合に・は,経営経済学は,世界観遊戯の対象(Spielballder Weltanschauungen)になってしまうであろう。
経常経済学における共同経済学派ほ,その見解の認識論的保障(erkenntnis−
kritische Sicherung)に努力することなく,倫理に訴えようとする。このよう な態度常.対して,ジ・−バ−は,次のように述べる。
「経営経済学に1つの倫理的基承姿勢を与えようとする試みは,金儲け論と いう非難のもたらした1つの結果である。経常経済学の多くの代弁者達にとっ ては,このような非難は,かれらをして,経営経済学の対象を経営そのものに 拡張せしめたばかりか,倫理的考察方法をもちだすことに.よって明白にこの金
第45巻 第2号 258
−Jヱ2−
儲け論(という非難一笠原)から逃れなければならないと信じさせたはど,
おそるぺきものと感ぜられた。非難の論理的根拠を検討するかわりに,ひと ほ,私経済学に対してほこの非難の正当性ほ明らかであると考え,そして,1 つの『中立的』立場,批判の意味に.おいて.ほまさに積極的立場を求めたのであ
(22) る。」(S.130)(Vg1.,SS.105−137)
経常経済学の選択原理を利潤性に求める見解は,ジーバー・の支持する見解で ある。この見解においては,企業ほ,企業の立場,より明確にいえば,企業者 および資本家が−・致して企業に設定する目的の立場から考察される。また,こ
こにいう利潤性とほ,自己資本の利潤性(die Rentabilitat des Eigenkapi−
tals)すなわら白己資本利潤率を意味する。ジーバーによれば,これは,企業
の実践的目的(praktischer Zweck)として経験的に与えられている。そし
で,これを選択原理とする場合にほ,問題の選択が実践的目的を志向してなさ れることとなるだけでなく,同時に,選択された諸問題に関して諸現象の合目 的性が,この実践的目的を評価尺度(BewertungsmaBstab)とすることに蔓 って測定されることとなるのである。このように・して,ジーバ一によれば,経 営経済学ほ,実践科学としての性格をもつ。
しかし,同じく利潤性を選択原理としながらも,経営経済学を実践科学とし てではなく,これから区別される理論科学として把握する見解が存在する。こ のような見解ほ,ジー・バーによれば,国民経済学に.おける価値判断論争を経営 経済学にもち込んだワイヤー・マン=V.=,−ニッツ(Weyermann,M.R・,1876−
(23)
1935,Scb6nitz,H。,1886−1915)に.よって主張され,リ一升一に・よって受け
(22)このこと匪ンついては,次をも参照せよ。藻利壷隆著『経営学の基礎】−改訂版』13 刷,森山書店,昭和42年,儲二章ニ,とくに35ぺ」一汐,および第三葦ニ,とくに・66−71
ぺ−汐。
(23)ここでは,M‖Weyermannu。H.Sch伽itz,Grundlegung und Sysiematik
抑よ.ざ.Sβ兜.SCゐαノ才J∠cカβガ タ7・わ昭わ最7・fS(ゐαノ才・SJβゐγβ 〝乃d よゐγβ タメ7βgβα〝 び形之ぴβ7扇需軌猶
〟乃dダαCカ如cゐゞCゐ〝Jβ〃,ⅩaI・1sIube,1912,が念頭紅置かれている。
ワイヤーマン=レ畢−ニッソがこの書物を著した噴は,ドイツの国民経済学界で は,いわゆる価値判断論争において,歴史学派王流に対して,マックス・クェ−バー を中心とする反対派が優位を占めた(「社会政策学会」ウイ−ン大会,1909年)ばかり であった。大河内一男,前掲苔,下巻,第三編,第二章を参照のこと。