長崎大学留学生セ ンター紀要 第
13号
2005年
ア系指示詞 と聞 き手の知識
49
前田 昭彦
キー ワー ド :指示詞、現場指示、文脈指示、回想、内言、
1
.は じめ に
日本語教育 において、指示詞
1)の指導 は通常、現場指示 の用法 か らなされ る。
ア系指示詞 も対 象が話 し手 ・聞 き手の共通の視界 にある状況で教 えられ る。 こ れ は、現場指示 においてア系指示詞が話 し手、聞 き手の対象 に対 す る共通知識 の もとに使 用 され ることを教 えていることにな る。 しか し、その意図が察知 で きる学習者が どれほ どいるであろうか。あるいはまた、その ような教授法 を とっ てい る教師のほ うに も、ア系の現場指示 に対象 に対 す る共通知識が必要である
ことを自覚 して教 えている人が どれほ どいるであろうか。
この ような疑 いを抱 くの も、指示対象が両者 の視界 にない場合 についてほ と ん ど指導が なされていないか らである 。 学習者 はその とき母語 を基準 に類推す る以外 に方法が ない。 日本語母語話者であれば、対象が遠 くにあって視界 にな い場合 に、 ア系指示詞 を使用す る人 はいない と考 えられ るが、中級、上級 の 日 本語学習者 の中には、 その ような場合 にアが使用で きると考 えている人が意外
に多 い。 その根拠 を尋ねてみ ると、 ほ とん ど母語 の指示詞がそ うだか らと答 え る。
現場指示 のア系指示詞 は、指示対象が話 し手、聞 き手 の視界 に存在 す る とい う条件下で使用 され ることに異 を唱 える母語話者 はいないであろう。 では、言 語 による情報、すなわ ち、文脈指示用法 の場合 はどうであろうか。筆者 は現場 指示 と文脈指示の用法 に矛盾 はない とい う立場 であ るが
2)、最近 の指示詞 に関 す る文献 を読 む と、文脈指示 にお けるア系指示詞の使用 には聞 き手 の知識 を必 要 としない とい う見解が支持 され、定説化 され そうな勢いである。
本稿 はア系指示詞 の文脈指示 における用法、 とりわ け聞 き手 の指示対象 に対
す る知識 について再検討す る ものである。 その際、情報 の発信者 には書 き手 を
含 めて 「 話 し手」、受信者 には読 み手 を含 めて 「 聞 き手」 とい う用語 を使用 す
る。例文 の文頭、文 中の記号 *は不適格、?は不適格 とは言 えない まで も自然 さ
に疑問が ある とい う意味で使用す る。
2.現場指示、内言、独 り言 におけるア系指示詞
2. 1。現場指示 における特殊 なア系指示詞
指示対象が話 し手、聞 き手、両者 の視界 にある とき、 それが両者 か ら違 い と い う意識 があれ ば指示詞 はアが使用 され る。 アを使用す るか否 か を決定す るの は、い うまで もな く話 し手であ る。 この時、指示対象 に対 して聞 き手の認識が 必要 な こと、遠 い、近 いの距離が物理 的な実測距離で はな く、心理 的な距離で あることは少 な くとも日本語教育 の分野で は常識 である。ただ し、 ア系指示詞 とコ系指示詞 の物理的距離の逆転 が起 こりうることはさほ ど知 られていない。
加藤 (2001)を引用 した前 田 (2003)で これ に言及 した ところ、お読 みいただ いた何人 かの人 か ら、間違 いで はないか とい うご指摘が あった。 ほ とん どが 日 本語教育関係、英語教育関係 の方々であった。重複す る ことになるが、 さ らに 同種 の例 をあげてみ ることにす る。
(1)三階にある部屋の住人 と訪問客が、その部屋の窓際にいる。そこから100
メー
ルほど離れたところに20階建ての大 きな建物が見える。その手前の広場に何本 かのさほど大 きくない樹木がある。客が尋ねる。「コノ建物は何ですか。」
「コレは最近できたマンションです。」
「アノ木は何 という木ですか。」
「アレですか。アレはナンキンハゼです。秋には紅葉がきれいですよ。」
上記(1)の ような会話が実際 に行 われ るのである。 ここでは物理的な距離 にお いて遠いほ うにコが、近い方にアが使用 されていて、通常の指示詞 の用法 とは 距離が運転 している
。
しか し、大 きい物が近 くに見 え、小 さい ものが遠 くに見えるとい う人 の心理的 主観的な距離感 においては何 ら逆転 はない。
また、山頂か ら眼下 に広が る長崎の市街 を見 て、「コレが長崎の町です
。 」
と いい、そ こに含 まれ る一画 を指 して、「アノ辺 りに県庁が あ ります。」 とも言 う。
コの中にアが含 まれ るわ けである。 この ように遠近 はあ くまで も心理的、主観 的な ものであ り、 そ こでは物理的な距離 は問題 にな らない。
上の遠近 を問題 に した
2
例 において も指示対象 は話 し手、聞 き手 の視界 内に長崎大学留学生セ ンター紀要 第
13号
2005年
51ある。 この ように指示対象が両者 に認知 され ることがア系指示詞 の直示 (/現 場指示)用法 における前提である。 ところが、例外的 に指示対象が聞 き手の視 界 内に存在 しな くて もアが使用 され る場合が ある
。
(2)夫が縁側に立って、外を見ている。庭には植木鉢がある。かな り遠 くには木々 が見える。妻は障子を隔てた室内にいる。夫が妻に話 し掛 ける。
「コレは何だい。」
「コレって?」
「植木鉢から芽を出しかけているやつだよ。」
「ああ、それね。それは先 日買ってきたチューリップよ。」
「そうかい。それにしても、今 日は風が強いな。アソコの木がアンナに揺れてる よ。」
「そう。そんなに風が強いんだったら、春一番か もしれないわね。」
(2)の指示対象 は聞 き手であ る妻 の視界 にはない。話 し手 であ る夫 は単 に自己 か らの距離 と風 の強 さの程度 を示すためにコやアを使 っているにす ぎない。夫 は妻が距離や程度 を推測す ることを期待 しているのである。 これ はアにお ける 特殊 な現場指示用法で、後述 す る内言、独 り言 にお けるア、 さらに文脈指示 に
おける回想 のア と繋が りを もつ もの と考 えられ る。
2. 2.独 り言、内言 におけるア系指示詞
2. 2. 1.独 り言、内言の現場指示 とソ
独 り言 とい うのは聞 き手 を想定 しない状況で、言語化 された思いや考 えを咳 きな どの形で音声化 した ものであ る。内言 は思 いや考 えが言語化 されて・はい る が、音声化 な どによる表出を伴わない。 自問 自答の ように、当人 の中 に尋ね る 自己 と答 える自己 といった、聞 き手 と話 し手 を設定す ることがで きるが、 その ような場面 はここで は除外 して考 える。
独 り言、内言の現場指示で はコ とアは出現す るが、 ソは出現 しない。ただ し、
「どこか ソノ辺 り」な どの ソの ように、「不定 な近 く」に意味が変容 した ソは こ の限 りではない。 この ように、独 り言、内言の現場手畠示 において基本 的 にソ系 が使用 され ない ことは、現場指示 において、聞 き手 の登場 をまって初 めて ソと い う概念が構成 され ることの傍証 ともなる。
ところが、黒 田成幸 (1979)には独 り言 に もソが出現す るとして、概略以下 の ような例が あげ られてい る
。
遠隔の地 に住 む知人が不慮の死 を とげた。 その後、聞 くところによるとその 知人 は方程式論 に密かな思 いをめ ぐらし、新奇 な着想 を得 ていた と言 う。今や 誰一人 その内容 を知 る人 はいない。た また まその知人 の ことが偲 ばれ、「もしせ めて旦些望郷 要が発表 されていた ら学会 の情況 は一変 していたので はないだ ろ
うか」 と知人 の死 を悼 む。
以上が概要で あるが、黒 田で は下線部が現場指示用法 の ソとされている。 は た してそ うであ ろうか。「聞 くところによる と」 とい う前置 きが暗示す るよう に、 ここで使用 された ソは五感 によって感知 され る対象 を指示 しているのでは な く、む しろ言語 に基盤 を持 つ文脈指示の ソ と考 えるべ きで はあるまいか。 ソ レの指示対象 は 「新奇 な着想 を得 ていた とい う方程式諭」 と捉 えるのが 自然で はないだ ろうか。
金水 敏 (
1999)は直示、すなわち現場指示 を 「談話 に先立 って、言語外世 界 にあ らか じめ存在す ると話 し手が認 める対象 を直接指 し示 し、言語的文脈 に 取 り込 む ことである。」と定義 している。 この ような捉 え方で見 る と、黒 田におけるソは 「言語外世界 にあ らか じめ存在す る と話 し手が認 める対象」ではな く、
「聞 くところによって」言語的 に構築 された 「密か に思 いをめ ぐらし、新奇 な着 想 を得ていた とい う知人 の方程式論」である。外部 の世界 に実体 として存在 し
ている 「方程式論」 その ものを指 しているわ けで はない。
黒 田 (前掲)ではさらに、 自分 の心 の中にあることを自分で 「それ」と思 う
ことも、情況 によっては不可能 で はない と述べ、次の例 をあげてい る0
何かを執筆することを頼 まれて、それに応 じようか応 じまいか と迷っていた と する。その時あることが心に浮かんで、「うん、まあ、そのことでも書いてみるか」
と考える。 (中略)先ず、ある事柄が心の中にあるが、末だそれが果たしてどのよ うな事であるかよくは分 らない。 しかし、その題 目がどのように発展するかは確 かでないにしても、そのことについて書いてみることにして少 し考えてみれば、
考えも纏 まって来るであろうといった場合には、「そのことで も書いてみようか」
ということになり (後略)
この場合 の ソもや は り言葉 によって構築 されか けた概念であ り、言語外 にあ
長崎大学留学生 セ ンター紀要 第
13号
2005年
53らか じめ存在す る対象ではない。 「 心 に浮かんだ」ものが、例 えば 「 指示詞がお もしろそ うだ」とい うのであれば、「その こと」が指すのは言語 によって構築 さ れた 「 指示詞がお もしろそ うだ とい うこと」 あるいは 「お もしろそ うな指示詞 の問題」である。 これ は概念であ り、実体 で はない。現場指示 とい うよ りは、
文脈指示 とい うべ きであろう 。 もし、書 きたい と思 う対象が言語 を伴 わないイ メージだ けであれば、おそ らく 「これ について書いてみよう」 とコが使われ る
と思われ る。
この ように独 り言、内言 における現場指示 には 「 近 く」 とい う意味 に変容 し た 「ソノ辺 り、 ソノ辺、 ソコラ」 な どを除 きソ系指示詞 の使用 は控 え られ る。
2. 2. 2.
独 り言、内言 における文脈指示 とア
独 り言、内言 における文脈指示 においてコ、 ソ、 ア総 てが使用 され ることは 説明の要 はない と思われ るが、い くつかの問題があるので、 そのなかの主 とし てアについて考察す る 。 なお、例文 は断 りがない限 り、独 り言 または内言の も のである
。(1)
来週はテス トが
12もあるのか。コレ/*ソレ/*アレは大変だ。
(1)
で指示詞が担 っているのは、言語 によって もた らされた事態、すなわち「 来 週 テス トが
12あること」であ り、 あ らか じめ言語外 に存在 す る実体 で はない。
換言す ると、現場指示ではな く、文脈指示である
。ここでアが使 えないのは、
未経験 の将来 に関す る事態であるか らと考 え られ る。 ソで は客観的な他人事 と な り、ただ今、現在 の切迫感が表わせ ない。 自己に差 し迫 った非常事態 をコが 表現 しているわ けである。
(2)
先々週はテス トが
12もあったなあ。*コレ/*ソレ/アレは大変だったなあ。
(2)
の先々週 のテス トはもはや身近 な事態で もな く、差 し迫 った事柄 で もない。
コは不適格 である 。 ソではや は り客観的 に過 ぎ、他人事 である 。 もっ ともソレ
ハ ソレハ と、程度 を表わす語句の片割であるソレハであれ ば
(2)で使用可能 とな
るが、それ はここでの考察の対象外である 。 自己の大変 な経験 の回想 としては
ア しか使 えない。独 り言、内言のアはた とえそれが言語 によって構築 された も
ので あって も、過去 の直接体験 の回想 に最 も相応 しい といえよう
。
(3) 山田は来週テス トが12あるそうだが、*コレ/ ソレ/*アレは大変だろうな あ。
(4) 山田は先週テス トが12あったそうだが、*コレ/ソレ/*アレは大変だったろ うなあ。
(3)にお ける事 態 は私 に関わ る もので はない。大 いに同情 はす るが私 に身近 な 事態 に使 用す るコは使 えない。 また、指示対 象 は未来 の事態 で あ り、私 の直接 体験 の回想で はないので、 ア も使 えない。言語 に よって構築 された他者 の事態
を指示す るの はソで ある
。
(4)において コが不適格 な理 由は(3)と同様 で ある。(4)は過去 の事態 で はあ るが、
私 の体験 の回想 で もないので、 ア は使 用で きず、客観的 な ソが適格 となる。 言 うまで もないが、 ここで は指示詞 が山田 を指 している場合 は問題 としていない。
この ように、独 り言、内言 のアは、話 し手 の過去 にお ける直接体験 を回想 的 に 述 べ る ときに最 も相応 しい と考 え られ る
。
(5)政府は消費税率をまた上げると言っているようだが、コンナ/ ソンナ/*ア ンナことを繰 り返 していたら、社会的弱者の生活は苦 しくなる一方だ。
(6) アメリカ政府 は自国の産物輸入を妨げる他国の保護貿易的関税 を総て撤廃さ せ ると言っているが、コンナ/ ソンナ/*アンナことをするのなら、自国の産業
を保護する貿易施策 も総て撤廃すべ きだ。
(5)も(6)もコの使用 は自己 に身近 で、 自己 に引 き付 けて考 えてい る印象 を与 え る。 ソで はやや突 き放 した、客観 的な印象が ある。 アが使 えないの は、内容 が まだ実現 されていない未来 の ことだか らと考 え られ る。(5)を 「政府 は昨年消費 税率 をまた上 げた」とし、(6)を 「保護貿易的関税 を 3年前 に総 て撤廃 させた」
と過去 の事実 を表 わす文 に変 える と、 コンナ、 ソンナに加 えて、 ア ンナが使 え るようにな る。 ア ンナ は直接体験 の回想 だ けでな く、過去 の良 く知 ってい る事 実 の指示 に も使用 され る。
長崎大学留学生センター紀要 第
1 3号 2 0 05年
55(7) ほっべたが落ちそうだ。コンナ/*ソンナ/*アンナ美味 しいものは今 まで食 べたことがない。
(8)友達にもらった果物 を食べた とき、ほっべたが落ちそうだった。*コンナ/
*ソンナ/アンナ美味 しいものは初めてだった。
(7)で ソが使 えないの は、言葉 で構築 された概念 で はな く、実際の感覚 を指 し てい るか らであ ろう。 また、現時点 の発話 なのでア も使 えない。(8)で コで はな くアが使用 され るのは過去 の実体験 の回想 だか らと考 え られ、 ソの不使用 の理 由は(7)の場合 と同 じで ある
。
実体験 の回想 で ない次 の よ うな例 で はアの使用が で きな くなる。
(9)非常に美味 しいものに頼落 という言葉を使 うらしい。私は*コンナ/ソンナ/
*アンナ美味 しいものを食べたことがない。
(9)で ソを使 うの は指示対 象が実体 で はな く、言葉 によって構築 された概念 だ か らであ る。 したが ってアは不適格 とな る。 アは概念 の指示 には使 いづ らい と 言 える
。
これ まで未来 にお ける文脈 指示 にア系指示詞が使用 され ない ことを述べ て き たが、 それが妥 当であ るか どうか、 い ま少 し検証 してみ よ う。
(10)来年イタリアへ旅行する予定だが、*コノ/ソノ/*アノときはワインを友人 への土産に買おう。
( 川
来年イタリアへ旅行する予定だが、*ココ/ ?ソコ/アソコではワインを友 人への土産 に買おう。(10)で見 るように確 か に未来 とア は共起 で きない とい える
。
これ を過去 に変 え て、「去年 イタ リアへ旅行 した。アノ ときはワイ ンを友人 へのみや げに買 ったの だ った」 とすれ ばアが使用可能 にな る. ( l
l)u未来 の文 にアが使 用 され てい るが、アの指示対 象 はイタ リア とい う実体 であ り、 これ は文脈指示 とい うべ きもので はな く、む しろ現場指示用法 であ る
。
これ まで指示対象が指示詞 の前方 にある前方照応 について見 て きたが、対象 が後 に来 る後方照応 については どうであろうか。
n2)先週山田に会ったとき、コウ/*ソウ/アア言えばよかった。もうおまえと会 うことはないだろうと。
(13)先週山田に会ったとき、あいつが本当に言いたかったのはコウ/*ソウ/ア アだったんだな。 もう俺には会いた くない ということだったんだな。
上 の2例 ではいずれ もコウは適格 であるが、アア も不適格 とはい えない。ア アが使 えるのは、まず過去 に関す ることだか らであろう
。 ( 1
2)では先週 山田 と会 っ てい る場面が想像 され、想像 された過去 の場面 の中で、その とき言 うべ きであっ た言葉 「もうお まえ と会 うことはない」がアアによって先行 されていると考 え られ る。 あの とき言 うべ きであった言葉、「もうお まえ と会 うことはない」は現 時点で考 えられてい るので あるが、 アの作用 によって、時 を隔てた先週 とい う 過去 の中へ と送 り込 まれたのである。 コウであれば、山田 と会 った場面 は過去 であって も、 コウの内容である言 うべ き言葉 は、今、現在考 え られているのだ とい うことを表 わす ことになる.
(13)の コとアは、先週会 った時の山田の気持 ち を付度 して、 そ うな るはずの山田の発話 を表わすのであるが、 それ ぞれの機能 はu2)の場合 と同 じで ある.ここで留意すべ きことはコウであれ、アアであれ、それ を使 った時点で 「も うお まえ と会 うことはないだ ろう」 といった指示対象で ある言葉 は脳 の中 には 既 に存在 してい る、 あるいは存在 しか けてい ることである。 コを使用すれ ばそ れが今、現在考 えていることにな り、 アを使用すれ ばあたか も過去 の場面 で言 われて しか るべ きだ った言葉が思考 している当人 には疾 うに分 っていて、 その 言葉 を含 めた全体が時間の隔た りをもった過去の世界 の出来事 であるかの よう な印象 を与 える作用 をも
つ 。
この ような現在 と過去 を結 び付 けるアの機能 は、「アア、今分 った
」
「アア、 そ うか (/ そ うだ った)」な どにおける感嘆詞 (/感 動詞)のアア とも繋が りを もつ と考 え られ るが、 ここで はそ こまで は踏 み込 まない3)
0
上 の
㈹( 1 3 )
で は実際 には発話 されなか った言葉 の後方照応 について検討 した。で は、実際 に発話 された場合 は どうで あろうか。
長崎大学留学生セ ンター紀要 第 1 3号 20 05 年
57( 1 4 ) 先週山田に会った とき、俺 はあいつにコウ/*ソウ/アア言ったんだった。
「もうおまえには会いた くない」 と。
(12)(1
3
)のアに多少 とも違和感 を覚 える人 も
、(14 ) のアの目顔 さに異存 はないであ ろう。後方照応 において も過去の直接体験 の回想 にはアが最適 なのである 。 コ
を使 うと、過去 を現在 に引 き寄せて述べている印象 を与 えることにな る
。で は、未来 における後方照応 にア系指示詞が使用で きるだろ うか。
(15)
来週山田に会ったらコウ/*ソウ/*アア言おう。「 おまえにはもう二度 と会 う気はない」 と。
(16)
今度京都へ行ったら、*ココ/*ソコ/アソコへ行 こう。一休和尚ゆか りの大 徳寺へ。
ともに未来 の文であるのに
、(15)で はテが不適格 で、
(16)で は適格 になるのはな ぜだ ろうか。 それは金水 ( 前掲)流 に言 えば、( 1 6 ) におけるアの指示対 象 「 大徳 寺」が言語 による情報以前 に外界 に既 に存在 してい る実体 だか らである。 ( l l ) の
「イタ リア」同様 、 「 大徳寺」 もまた現場指示 と言 えるものである 。 このように 未来 の文で は一見文脈指示の ようであって も、実 は現場指示のアであることが 多 い。 この ような ことを勘案 す る と、文脈指示 にお けるア系指示詞 はかな り' 現 場指示の用法 に近 い とも考 え られ、事実、文脈指示 のア系指示詞 を現場指示用 法の拡張 と捉 える研究者 もい る4 ) 。
これ まで検討 して きた ところか ら、ア系指示詞の独 り言、内言 にお ける用法 をまとめる と次の ようになる。
( ∋ 過去 の場合、文脈指示 では直接経験、 よ く知 ってい る出来事 の ように、
概念で はな く実体 的な事柄 を指 して、回想的 に述べ る場合 に使用 され る。現 場 ( /現物)指示、文脈指示 ともに前方照応 も後方照応 も可能である 。
(参
未来 では、現場 ( /現物)指示用法では前方照応、後方照応 ともに可能 であるが、言語 によって構築 された概念 を指す用法、す なわち文脈指示用法
としては使用で きない。
3
.文脈指示 におけるア系指示詞
3。 1。ア系文脈指示の先行研究
本稿 の主題 は、文脈指示 におけるア系指示詞の使用 に、聞 き手 との間 に指示 対象 に対 する知識の共有 を必要 とす るか否か とい う問題 である。話 し手 は聞 き 手 との間 に対象 に対 する知識の共有 を想定 した上でア系指示詞 を使用す る と筆 者 は考 えてきた。 これ まで 日本語 を教 えてきて、 その捉 え方 に敵酷 を来す例 に 出会 った ことはなかった。 ところが、近年の文献 を検討す る と、 どうや らその ような立場 は少数派で、ア系指示詞の使用には聞 き手の知識 は不要であるとい う見解が大勢 を占める気配があ り、定説化 しそうな勢 いである。 はた してそれ でいいのだろうか。
ア系指示詞の使用 に聞 き手の知識の必要性 を説 いたのは、堀 口和書
(1977)で も指摘 されているように、早 くは松下大三郎
(1924)である。松下 はアレ、
アテラ、アスコな どを 「 位地代名詞」のなかの遠称 に分類 し、「 遠称 は遠い もの を指すのであるが、其れは自他共 に知って居 る事物 に限 るのである
。自他 の一 方が知 らない事物 は遠方に在って も遠称 を用 ゐない。」と述べ、アレが使 えない 例 として、「 私 は先年倫敦で或 る動物 を見たが 「 其れ」は実 に奇々怪々の姿 をし て居た。」など
3例 をあげている 。 また、「 遠称 を使ふ以上 は彼我共 に知って居 る事物で其の概念が元来双方の頭 に存 した ものでなければな らない」 として、
弟が兄 に向か って、「 兄 さん、国の庭 に小 さい松が有ったでせ う。「あれ」 はま う大分大 き くなったでせ うね え
。」とい う例文 をあげている5 ) 0
このように、ア系指示詞の使用 に聞 き手 との知識の共有が必要な ことは松下 により明確 に指摘 されているが、一般 に久野嘩
(1973)がその説の代表 と見なされていて、批判 も専 らこの久野説 に対 して行われている
。久野ではア系指示 詞 および ソ系指示詞 の用法が次のように記 されている
。ア一系列 :その代名詞の実世界における指示対象を、話 し手、聞き手 ともによく 知っている場合にのみ用いられる。
ソー系列 :話し手自身は指示対象をよく知っているが、聞き手が指示対象をよく 知っていないだろうと想定 した場合、あるいは、話し手自身が指示対象
をよく知 らない場合に用いられる。
ア系指示詞の使用 において、聞 き手の知識 は不要 と考 える研究者 の論考、例
長崎大学留学生セ ンター紀要 第 1 3 号 2 0 0 5年
59えば金水 (前掲)や堤 良一 (2002)で は久野 の この見解 は黒 田 (前掲) に よっ て修正 を受 けた とされ てい る。 だが、実際 は黒 田 よ りわずか に早 く、堀 口 (前 掲) によって前述 の松下説、久野説 に対 す る批判が行 われ、 ア系指示詞 に聞 き 手 の知識 は必要 で はない ことが主張 され てい る。以下、三人 の主張 を検討 す る
ことに しよう。
3. 2.黒 田説
黒 田は聞 き手 が知 らない こともアで示す ことが出来 る として次の例 をあげて 説 明 してい る。
( 1 )
今 日神田で火事があったよ。あの火事のことだから人が何人 も死んだ と思 う よ。 (黒田)黒 田 自身、少 し座 りが悪 い文 と言 いなが ら、 「あの火事」の適格性 は 「その火 事」 で置 き換 え られない こ と.が保 障 してい る といった趣 旨の ことを述 べてい る。
比較検討 してい る一方が不適格 だか ら、対立 す る他方が正 しい とい う論理展 開 の不 自然 は ここで扱わ ない ことに しよう。
(1)の文 は聞 き手 に正確 な情報 を伝 えようとい う文 で はな く、火事 の情況 を話 し手一人 だ けが呑 み込 んだ、 いわ ば独 り言 としてか ろうじて成立 す る ものであ る。聞 き手 は独 り言 を聞か されてい るわ けで あ る。聞 き手 は勝手 な想像 の枠 を 出て、火事 の正確 な様態 を知 るた めには、「どんな火事 ?」と聞 き返 さなけれ ば な らない。 そ こに(1)にお けるアの座 りの悪 さの一因が ある。
他 の一因 は金水 (前掲)で指摘 されてい るように、語用論 の問題 であ る。 「名 詞 + ことだか ら」で因果関係 を述 べ る ときは、結果 に至 る ことが納得 で きるだ けの名詞 の属性 が聞 き手 に理解 されていなけれ ばな らない。「あの火事」で はそ の ような属性 の理解 はで きない。(1)のアノは次 の ようにすれ ば、不 自然 の語 り は免 れ得 ないに して も、多少 は座 りが よ くな る
。
(1')今 日神田で火事があったよ。折か らの強風に煽 られて、火の粉があちこちに 飛び、またた くまに火が広がったんだよ。?アノ/アンナ/ソンナ/*ソノ火事 のことだか ら人が何人 も死んだ と思 うよ。
(1')
はアンナ、ソンナが適格である。アンナ、ソンナで初 めて火事 の様子が伝 達 され るわけである。 ソンナは火事の様子 を言葉 によって概念化 し、聞 き手の 領域 に伝達 したわけで、 ここにおいて独 り言的回想調か ら、聞 き手の立場 を考 慮 した対話へ と変化す る。 アノ、 ソノは程度、情況、属性 な どを伝達す るため には用いない。 ここで も、 アノ、 ソノが受 けているのは 「 今 日の神 田の火事」
であ り、火事の様子ではない。( 1 ) に比べて
(1')のアノの不 自然 さが多少薄 らぐの は、火事 の様子の説明が入 ったか らであ り、決 して この文中における 「アノ」
の功績ではない。 ( 1 ' )のアノは( 1) のアノと何 も変 っていないのである。
(1)
にせ よ
(1')にせ よ不 自然 なのは語用論的な もので、 ここで 「ことだか ら」を 使 わなければ、なに も問題 はない。い くつかの表現がで きようが、簡単 に次の
ようにしてみよう 。
(2)
今日神田で火事があったよ。大 きい火事でね、アノ火事では人が何人 も死ん だと思うよ。
これは不 自然 な例文ではない。例文
(1)の検討のために遠回 りをしたが、論点 は、聞 き手 に 「 今 日の神田の火事
」についての知識がないのになぜ アが使 える のか とい うことである
。確かに
(2)の話 し手 は聞 き手の火事 に対する知識 を想定 も期待 もしていない。
今 日の神 田の火事 に対す る知識 の共有 もな く、聞 き手の知識 を想定 もしていな いのに、対話 においてなぜアが用い られているのだろうか。独 り言、内言 にお ける指示詞の検証で、過去の実体験、 よ く知 っている事柄 の叙述 にはアが使用 され ることを見た。 また、視界、視野 を共有 で きない現場指示用法で、聞 き手 に対象が認識で きな くとも、指示対象が話 し手、聞 き手か ら離れているとい う お よその距離感 を示すためにアが用い られ ることも検証 した
。(2)のアはそのよ
うなア と根底 において繋が りをもつ といえる。
(2)
は経験の回想であ り、体験談である。対話 には違いないが、話 し手 は独 白 的 に過去の見聞 を語 っているだ けである。回顧談 に聞 き手の知識 を期待す る必 要 はない。 したがって、聞 き手 の知識 を想定 していない この発話 にアが使用 さ れて も何の不思議 もない。む しろ、当然である 。 このような回想調、独 白調 に おけるアの用法 をもって、ア使用には聞 き手 の知識が不要であると一般化する
ことはで きないであろう。
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
13号
2005年
黒 田は聞 き手 の知識が不要 なアの例 としてさらに次 をあげている
。
61
( 3)
僕 は大阪では山田太郎 という先生に教わったんだけど、君 もあの先生につ く と、きっと何 とも言えないユーモラスな人柄に魅せ られるよ。 (黒田)黒 田の指摘 の ように、「あの先生」は話 し手 の意識 内で 「山田先生」・を言語 に よって概念化 した ものではない。話 し手 はいろいろな属性 を持 った山田先生 の 実体 を回想 しているのである
。
話 し手が、山田先生 を 「自分が大阪で教わった 先生」とい う概念 として捉 えて話 そ うとい う意識が あれば、「その先生」が使 えるとい う黒 田の指摘 は正 しい。
ここで、文 の後半 に注 目してみ よう。 そ こで は、「つ くと」の 「と」 によ り、
条件 と結果 とい う因果関係が構成 されている。 その場合、「その先生 につ くと」
で は後件 を導 く正 当な理 由が示 されない ことになる。「その先生」では、「きっ と何 とも言 えないユーモラスな人柄 に魅 せ られ る」ための根拠が何 も示 され な いのである。「あの先生」が使用 された時、聞 き手 は話 し手 が山田先生 を全体像 として、実体 として捉 えてい ることを知 る。したが って、「ユーモ ラスな人柄 に 魅せ られ るだ ろう」とい う後件 を導 くに足 る根拠、すなわち山田先生 の属性が、
話 し手の頭 の中には存在 していることを聞 き手が理解で きるのである0
ところが、言語 による概念 の担 い手であ り、客観指 向で もあるソを使 った「そ の先生」にはその ような機能がない。 ソが伝達す るの は「話 し手が大阪で教わ っ た山田太郎 とい う先生」とい う情報 だけである。「と」の後件 の前提 をなす山田 先生 の属性 をソは伝達 で きないのである。アであれ ば、先生 の属性が話 し手 に は理解 されてい るのだ と、聞 き手 には少 な くともその程度 の諒解がで きる
。
聞 き手 は話 し手の独 り言 を想像力で補 いなが ら理解す るので ある。ここで、「その先生 につ く」 を前件 とし、「ユーモ ラスな人柄 に魅せ られ るだ ろう」を後件 とした、「つ くと」の 「と」 による結合 を断ち切 ってみる といい。
次が その例文である。 これ も黒 田で使われた ものであるが、不 自然 さはみ ご と なまでに消 えて しまう。
( 4)
僕は大阪では山田太郎 という先生に教わったんだけど、君 もその先生につ く とよいよ。 きっと何 とも言えないユーモラスな人柄に魅せ られるよ。 (黒田)(4)
の 「つ くとよい。 よ」 に も依然 として接続助詞 「と」が使われてはいる
。だ が 、「 〜 とよい/〜 といい」は助言、推奨の慣用表現である
。ここでは、なぜそ れ を勧 めるか、その理由が、「きっ と何 とも言 えないユーモラスな人柄 に魅せ ら れ るよ」 によって示 され、全体 の自然 な流れが醸 し出される 。
黒 田は
(3)と
(4)の比較か ら、ア使用時の 「 聞 き手 の知識」の必要性 を斥 けて、
対話 にお ける照応的用法すなわち文脈指示用法 において も、指示詞 ソ 。アの選 択 に真 に本質的な要因 は、話 し手が指示詞使用の場面 において、対象 を概念的 知識の対象 として指向す るか直接的知識の対象 として指向す るかであると説 く。
指示詞 ソ 。アの選択 に関す るこの指摘 は独 り言や内言ではまさにその とお りで ある。だが、 これを根拠 に意志疎通 を目的 とした対話の ような場で、ア使用に 聞 き手の知識 は考慮の必要がない と敷延で きるのであろうか。
(3)
で 「あの先生」 とアが使用 されたのはなぜだ ろう
。もう一度検討 してみよ う
。(2)の解説で見た ように、聞 き手 は話 し手が 「あの先生」 とアを使用 した こ とにより、 この発話が回想調で始 め られ、帯 し手 の意識 の中に 「あの先生
」が
総 ての属性 をそなえた実体 として存在することを理解す る。話 し手 は聞 き手の その理解 を想定 した上で、それ を条件 として 「 先生 につ くと、何 とも言 えない ユーモラスな人柄 に魅せ られるよ
」と述べて矛盾がないのである。
3. 3.堀 口説
論文発表の順 でいえば黒 田 ( 前掲) より堀 口 ( 前掲)が早いのであるが、黒 田がア系指示詞 の使用 に聞 き手 の知識 は不要であることに重点 をおいて述べ ら れているのに対 し、堀 口では指示詞全般の研究の一部 として この点が述べ られ ていることもあ り、引用の頻度 において黒田にやや劣 るようである。時間の順 序 は逆 になるが、 ここで堀 口説 の検討 に入 りたい。
堀 口は文脈指示 を扱 った論の中で、前述の松下
(1924)、久野
(1973)によっ て述べ られた指示詞 ア使用の前提、「 指示対象 に対 する話 し手、聞 き手の共通の 知識」 を否定す る。ア使用時の共通知識否定の根拠 として、倉 田百三 『 出家 と
その弟子』か ら次の実例 を挙 げている。 ( 引用中の下線 は堀 口による)
唯円 「 今日はよく晴れて比叡山があの様にはっきりと見えます」
親驚 ( 坐る)「 旦9 2 . 山には今日も沢山な修業者がゐるのだがな」
唯円 「 あなたも昔塵旦 山に永 くいらしたのですね」
長崎大学留学生セ ンター紀要 第 1 3 号 2 0 05 年
63親驚 「 九つの時に初めて登山して、二十九の時に法然様に遇ふまでは大てい 塵 旦
山で修業 したのです」
唯円 「 皇 旦 頃の事が思はれませ うね」
親驚 「 塵 旦頃の事は忘れられないね.若々しい精進 と憧憶 との間にまじめに‑す ぢに煩悶したのだからな」
堀 口は 「この素材 の対話が続 いた場合、唯円はいつ まで も 「ソノ頃」 と言 い 親鷲 は 「アノ頃」 と言 い続 けて もおか し くない」 と述べ、文脈指示 におけるア 系指示詞 は 「 話 し手の一方的 な認定 によって用 い られ る」 と主張す る
。上例最 後 の親鷲の発話 における 「アノ頃」 は、「 相手が実態 をよ く知 らない対象で も、
話 し手 は自分 の一方的認定でアを用いることが可能」 な実例 である とされ る。
た しかに ここの用例 「あの頃
」において、聞 き手 の知識 は想定 されていない。
だか らといって この ことでア系指示詞の使用 に聞 き手の知識 を必要 としない と 普遍化で きるのであろうか。
堀 口 ( 前掲)ではこれに先立 ち、内言、独 白の指示詞が扱われてい る 。 そ こ での指示詞 は 「 観念指示の用法」 と名付 けられ、時間空間の距離 と、関心、関 与 の強弱の点か らコソアの用法が考察 されてい る。「 観念指示」の用法 は 「 多 く
内言 ・ 独 白に とどまるのであるが、時 として、聞 き手 の存在す る対話 ・ 文章 な ど の場面 に用 い られ るのである。 あるいは無意識 に、 あるいは故意 に」 と述べ ら れ、独 白の形 の作 品において、必ず しも聞 き手 に実態が理解 され るとい う期待 な しに、話 し手が随意 にアの領域 を設定す る とされている。 その例 として、次 の ような ものが あげ られてい る 。
夏中垂友をに飛んでいたつばくらめの姿が ( 中野重治 ・菊の花) 恋の丸 ビル旦旦窓辺 り、‑せめて旦里子の思い出に、( 東京行進曲)
堀 口は 「これ らの表現 において も、聞 き手 は指示対象の実態 を理解 す ること は不可能だ けれ ども、話 し手が遥 かな対象 を親 しい気持 ちで強烈 に指示 してい ることは伝 わ るのである」 と述べている。 まさにその とお りである。
ア系指示詞が聞 き手 との共通知識 を想定す ることな く使用で きるの は
、2.1
.「 特殊 なア系指示詞」で検討 した ように、現場指示 において、聞 き手 と視界 を共
有 していない状況で対象 との遠近、程度 を伝 える機能 として使われ る場合 と、
現場指示、文脈指示 に関わ らず、 そ もそ も聞 き手 その ものが存在 しない2.
2.の 内言 。独 り言での使用の場合である 。 内言、独 り言 に聞 き手や読者が存在 すれ ば、 それ は独 自調 となる。過去の内容 を語れ ば、回想調 となる
。これ らの状況 におけるアの使用 は、現場指示 においては聞 き手 と視界 を共有 しない、独 自調、
回想調で は経験 を共有 しない とい う点で共通 してお り、 ともにア使用 は聞 き手 の想像力 に依存 しているのである 。 堀 口であげ られた親驚、唯 円の対話 におけ る親鷲 の 「あの頃」 も回想 とい う特殊 な状況があっては じめて許 され るア とい うべ きものである。
3。 4.堤説
黒 田 ( 前掲)、金水 ( 前掲) と同 じ見解 を持 つ堤 ( 前掲) に、「 話者 の直接的 な経験 な しに、かつ聞 き手 の知識 に も左右 されず にア系指示詞 を使 用す ること がで きる」 として、次の
2例が あげ られてい る 。 下線 は筆者 による 。
(1) A :
ハムナプ トラ
2見た ?
B:
いや、あの/ ?その映画はまだ見ていない。
(2)
( ワンルームマンションに住んでいる友人を訪ねた学生) となりのやつうるさいな。あいつ何時まで起 きてるんだ ?
(1)
か ら検討 しよう
。まず、ア系指示詞が話者 の直接的な経験 に基 づかな けれ ば使 えない とい う前提 の不備 は これ までの考察か ら明 らかであることを再確認 してお きたい。 アは話 し手が よ く知 ってい る事柄 に も使 えるのであ る O どの桂 度 をよ く知 ってい る とい うかに関す る基準 はない。話 し手 の主観で ある。 よ く 知 ってい る と当人が思 えばよ く知 っているのである。
(1)
において この対話 の読者 は、
Aの薮か ら棒 とで もいった聞 き方か ら推 して、
Aが 「
ハ ムナプ トラ
2」とい う映画 に対 して、映画名以上 の何 が しかの知識 を
持 ってい るだろうと推測す る。 また、読者 は、
Aはこの映画 に対す る知識 が
Bにあることも知 っているだ ろうとも考 える
。なぜ な ら、 Bに知識がない と思 え
ば、
Aは、例 えば、「 ハムナプ トラ 2主吏i 映画見た
?」といった聞 き方 をす る
のが普通 だか らである。 また、
Bに もこの映画 に対 す る知識がある と考 えるべ
きである
。知識 がなければ、
Bは 「それ どんな映画
?」な どと聞 き返 すであろ
長崎大学留学生 セ ンター紀要 第
13号
2005年
65う
。Bが映画のタイ トル程度 しか知 らないのであれば 「その」 を使 って答 える であろう。「あの」を使 った とい うことは、堤 の想定 と異な り、 この映画 に対 す るかな り豊富な知識が Bにあるか らこそ と考 えるのが普通 である
。Bはその映 画のポスターや予告編 を見たか もしれない。 あるいは映画雑誌 な どで その映画
について批評 な どを読 んだか もしれない。 この程度 でアは十分使 えるのである。
しか も、 その映画 は眼前 にない。質問の仕方か ら
Aはその映画 を見 ている とも 考 え られ る。見 ていないに して も、何 らかの知識 を持 っていることは前述 の よ うに明 らかである。知識 を有す る
Bが聞 き手
Aの知識 を想定 してアを使用 した と考 えて何 ら不都合 はない。
(1)
のアについて検討 してみたが、 この会話 を読 んで もっ とも普通 に感 じられ ることは、
Aや
Bが属す る社会で この映画がかな り話題 になっているにちがい ない とい うことである 。 あるいは、以前二人 の間で この映画 を話題 に会話が交 されたであろうとい うことである。一読 して、二人 に この映画 に対す る知識 の 共有がある と察せ られ るわ けで、その意味でアの使用 に違和感 はない0「 聞 き手 の知識 に左右 されないア」使用の例 としてあげ られた この会話 は堤の意図に反
してその ような ことを我々読者 に推測 させ るのである。
(2)
は文脈指示ではな く、現場指示である
。隣室 にいることが聴覚 によって確 認で きる人物 をアで指す ことは極 めて自然である。独 り言 として もよ く、 その 場 にいる友人 に言 って もいい。 その場 の友人 も当然隣室の様子が分 っている 。
ここのア使用 について これ以上言 を費やす必要 はない と思われ る。
堤 では九州の一部 の方言 ( 少 な くとも佐賀、長崎、福 岡の話者) において は、
話者が実際の経験 か ら知 った人や場所 でない ものについて、ア系指示詞 を用 い ることがで きるようだ と述べ られ、福 岡方言 らしい言い回 しで例文が
2つ示 さ れている。佐賀、長崎、福 岡の方言 は肥筑方言 といわれ、共通項が多 い。筆者 は長崎方言 の母語話者 であるが、堤 の この指摘 は初耳である。少な くとも筆者 の知 る長崎方言では、相 当に有名 な人や場所以外 にその ような使 い方 はしない。
.九州の特異 な方言の 1例 として、堤で は、東京が話題 になった場面 で、「 私 も 重き̲ 主に行 ってみたいっちゃ」 とい う発話が あげてある. だが、 この状況で東 京 を 「あそ こ」で指す ことは、東京以外 の どこに住 んでい ようと、 日本人 であ れ ば普通 に行 うことで はあるまいか。
繰 り返すが、 アの使用 は必ず しも直接 の経験 だけを前提 に しているので はな
い。久野 ( 前掲)で も指摘 されているように、世間 によ く知 られたいわゆる有
名人 を指す場合、面識がな くて もアが使用 されて もよい。 また、行 った ことの ない場所 にして も、皆が知 っていて当然 と思われ るような場所 の場合 もア使用 は可能である。 まして、 ここでは 「 東京
」が言語 による概念 として提 出 されて い るわ けで もない.子供た ちの間でデ ィズニーラ ン ドが話題 にな り、子供 の一 人 が 「ぼ くも一度 ア ソコへ行 ってみたい
」と言 うの となん ら変わ らない。共通 知識 のアである 。
これ まで見た ように、近年、文脈指示用法のア系指示詞 に聞 き手 の知識 は必 要ではない とい う説が半 ば定説化 しようとしてい るが、定説 として納得で きる
ような研究 はまだない と言 うべ きであろう 。 独 白調、回想調 における特殊 とも い うべ きア使用 を普遍化 しようとす る説 ばか りの ようで ある
。4
.文脈指示用法 におけるア系指示詞の実際
ア系指示詞の使用 に聞 き手 との知識 の共有 を想定 した り、期待 した りしな く て もいい となれ ば、前 田
(1993)であげた、主 に天候 に関す る挨拶語 と化 した かの ような 「 今 日はアレですね。」や、前 田 ( 2 0 03)で類似 の例 をあげたが、隠 語 の趣 を帯 びた 「あの人、 ち ょっ とア レね
」な ど、 日常的に使用 され るアは意 味 をなさな くな る。 ア系指示詞 は実際 に どの ような使 い方 をされているのであ
ろうか。以下、例文 の下線 は総 て筆者 による。
(1)
陽一 とアンさんか ら結婚式の招待状が きた. ( 中略)招待状 をもらってす ぐ に、陽一の勤めている広告会社に電話をかけて 「 おめでとう。良かったな」 と 言った.陽一に 「いい招待状だな」というと、「 地 はアンが書いたのを、僕が 少 し直 したんだよ。( 後略)
」 (「 ったえる 」 『 中級か ら学ぶ日本語』研究社)
(1)
で はソレで はな く、なぜア レが使 われているのだ ろうか。 もし状況か ら電 話 をか けた 「 私」が招待状 を見 なが ら話 している と陽一 が思 えば、陽一 は現場 指示の ソレを使用す ると考 えられ る 。 ここは招待状が二人 の手許 にな く、 しか も両者 に知識が共有 されている とい う意識 と、陽一 に とっては過去 の回想 とい う気分の下 にア レが用い られている と言 える。
(2)
「 全 くあいつらときた ら、 どういうつもりなんだろう」
「あいつらって
?」長崎大学留学生 セ ンター紀要 第
13号
2005年
67「地球人にきまってるよ。 このあいだなんか、 もうちょっとでぶつか りそうに なってさあ。何 しろ交通ルール も守 らないで走 り回るんだか ら、危な くてしょ うがないよ。」 (「宇宙 との出会い
」
『上級で学ぶ日本語』研究社)(2)の 「あいつ ら」 も一見 す る と聞 き手 の知識 と関係 な く用 い られたか にみ え る。 しか し、聞 き手 に 「あいつ らって?」と聞 き返 されて、「地球人 に きまって るよ」 と聞 き手 との知識 の共有 を期待 していた ことが分 る。 この ようにア系指 示詞 は知識 の共有 に対 す る想定や期待 だ けで も使用可能 で ある。
(3)旦里ユー ミンの逆の ミンユー (民 ・由)が、政局のカギを握 りそうな気配に なってきた。 (岩見隆夫 「近間遠見」毎 日新聞、2003・8・9)
上 は新聞 コラムの書 き出 しで、民主党 と自由党 の合流 に関す るものであ る
。
これ を読 みは じめた時、筆者 は一瞬 とま どった。芸能界 な どに興味が あれ ば理 解 にため らいはなか ったのだ ろうが、筆者 には冒頭 のユー ミンが松任谷 由美 と
い う歌手 の愛称 である ことを理解 す るの に僅 かで はあるが時間がかか った。岩 見氏 はこの歌手 の愛称 を周知 として、読者 との共有知識 を想定 しなが ら、 冒頭 か ら 「あのユー ミン」と書 き出 したわ けであ る。指示対 象 に対 す る聞 き手 の知 識 を前提 としな けれ ば意味 をなさない書 き方であ る。
(4)「親爽」 という語は、杜甫が作った.ハイ垂里、唐の詩人杜甫です.
(高島俊男 「お言葉ですが・‑
」
『週刊文春』2003・8・14,21)(4)の 「あの」 も言 うまで もな く例文(3)と同 じで、「ご存知 の」 とか 「周知 の」
とい う意識 で用 い られてい る。
(5)昭和十年代には 「親爽」 とあいならんで大いに活躍 した 「薄利」は、 この畳 韻の語である。 (中略)
「現爽」 と 「潜刺」、 こういうことばが大いにはやった というのは、やはり̲あ 旦時代が、 こういう元気のいいことばを要求 していたか らであ りましょう。
(高島俊男 「お言葉ですが‑」同上)
(5)のアノは確 か に聞 き手 と知識 を共有 してい るわ けで な く、 また、聞 き手 の 知識 を想定 してい るわ けで もないO‑見す る と前 出の 「昭和十年代」 を指 す、
前方照応 に も見 える。 しか し、 これ は独 り言、 内言、独 自、 回想等 に用 い られ るア と捉 えた ほ うが いい 。 この種 のア使 用 には、聞 き手 の存在 が前提 とされて いる以上、 どこか にアの内容 を特定 で きる仕掛 けが施 してある。 その仕掛 けが ここで は 「昭和十年代 」で ある。 ただ し、話 し手が アノによって単 に時 を特定 しただ けでな く、話 し手が よ く知 ってい る当時の時代 的雰囲気、時代 の気分 ま で回想 してい る ことが読 み取れ る。
(6)いま、 この本のなかでぼ くが書いたことは、読み返 してみると、基本的に、
あの ときに書いた 「ものばなれ」論 と大同小異であると思 う。
(梶 祐輔 『広告の迷走』宣伝会議、p.249)
(6)の 「あの とき」 も回想調であ る。 アの内容が分 るよ うな引用 は長 す ぎてで きないが、4段落 前 に 「一九七〇年代 の、 いつか」とあ り、具体 的 な時が分 か る仕組 み になってい る。 ただ し、 この場合 も話 し手 の当時の事情 まで含 めたア ノ トキで ある
。
( 7)
長岡か らの帰路、「白鳥」の車中で (杉本鉱子 『武士の娘』を‑筆者注)読 み、京都 についた ころ読みおえたが、ひさしぶ りでいい小説 を読んだあとの文 学的感動 を覚えた。同時におもわぬ書物 を発見 したよろこびをも覚えた。 しか しそれはつかのま だった.その年の講演旅行で河盛好蔵氏 とご一緒だったが、私が 「発見者」 と
してそれを語 ると、
「ああ、あれ」
と、河盛氏はうなづかれた。旦旦書物への十分な知識 と高い評価 をもってお られ、塵並 はす ぐれています、しか しなが ら知 られざる書物ではな く、戦前旦 並が刊行 された ときは非常に評判で した、 とつけ加 えられた。
(司馬遼太郎 『司馬遼太郎が考 えたこと』 3、新潮社、p.256)
(7)はソ とアが繰 り返 し用 い られて興味深 い。最初 の下線 ソレは、司馬氏 との 関わ り、 い きさつ を ともなった杉本鉱子著 『武士 の娘』 である.河盛氏が用い
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
13号
2005年
69た最初 のアレは、司馬氏がい きさつ とともに言語 によって導入 した『 武士の娘』
ではな く、司馬氏 と知識 を共有 してい る実体 としての 『 武士の娘
』その もので
ある。次の 「ソノ書物」 は 「い きさつ を ともなって語 られた書物
」とい う言語 によって構築 された概念 としての 『 武士 の娘 』 である
。二番 目のア レも最初 の アレ と同 じ く実体 としての 『 武士の娘』 その ものである 。 最後 の ソレは 「司馬 氏がいろりろお話 なさった本」 とい う概念 としての 『 武士の娘
』を指 している。
この ように対 象 は同 じであ りなが ら、言語世界 の もの として ソを使用 し、実 体 としてアを使用す る例 は珍 しくない。
以上 い くつかの実例 を見 て きたが、確 かにア系指示詞が聞 き手 の知識 を想定 す ることな く使用 され ることがある。 しか し、 それ は回想、独 り言、独 白の中 か、 その ような調子 を帯 びた語 り口のなかでの ことである。 その他で はア系指 示詞使用 には指示対象 に対 す る聞 き手 との知識 の共有が想定 され るか、期待 さ れていなけれ ばな らない。 その想定や期待 を間違 えると意味不明 とな る
。次 は
『 悪 について』 とい う本 に対 す る書評
6)の書 き出 しの一節である。. 下線 は筆者 に よる。
(8)
この本が扱 うのは、今流行の 塵 旦 「 極悪人たち」のことではない。著者はは じめから、彼の立場を鮮明にする。悪人正機説の変種である。極悪人より、自 分の中の悪を見ようとしない 「 善良な市民」のほうが悪いといいたいのだ。
書評 の執筆者 は 「あの」 の後 に括弧 まで使 って 「 極悪人 たち」 としてい る。
ところが、最近 「 極悪人」が多す ぎるせ いか、 また、筆者が時勢 に疎 いせ いか、
どの極悪人 たち を指 してい るのか皆 目検討がつかないのである 。 この ように、
回想調、独 白調やはない文章 のなかで期待、想定が無理 な聞 き手の知識 を前提 にアを使用す る と独 りよが りにな り、意味不明 となる 。 ここか らもア系指示詞 が基本的に聞 き手 との知識 の共有 を前提 としていることが分か る。
5