Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
駒澤大學 佛教 學部 研 究紀 要 第
41
號 昭和58
年3
月 (1
)M
α乃
砂
魏
α
s耐
痂
1
α解
緬
7
の
7
緬
最 終 章
和 訳
袴
谷
憲
昭
〔略号〕
AKBh
=Abhidhar
” :ahoSabha −s.ya
(『阿毘達磨倶舎論 』);AS
=Abhidhar
−masamteccaya (『(大 乗 )阿 毘達 磨集論』);
ASBh
= ・Abhidharmasamteccayabhd5ya
(漢訳 と断っ た 場 合に は
, 玄奘 訳 『大 乗阿毘達磨 雑集論』を 指 す);
BBh
=Bodhisattva
−bhami
(『菩 薩地 』);MS
=Mahdya
’nasopg ・raha (『摂 大乗 論』);
Msu
= Mahaydna −sampgrahoPanibanthana (無性造『摂 大 乗論釈』);ル
fS
劭 = ルfaha
−ydntzsaptgアahabhasya
(世 親造 『摂大乗 論 釈』);
MSA
(Bh
)=M
励 δyδπσ3魏ア観σ那々δ砌 (兢 y の (『大 乗 荘厳 経 論』, こ の 略 号に よ り頌と散 文 註との 両箇所を含んだ もの を 指 し, 特に 前者のみ
を 指 示 す る場 合 は ル
fSA
, 後者の みを 指 示する場合はMSABh
とす る);MSAT =、
M
畝 の6
耀 5魏 短 ぬ 解 贓 74 ‘読 δ (『大 乗経 荘 厳 広註 』チ ベ ッ ト訳の み);SAV
.劭 =Sfitra
−1
一 α臓 δアσ曜 齷 肋 齒ッσ (『経 荘 厳註 疏』チ ベ ッ ト訳の み);アBh
= }「08’δCみ 必 雁 甥f
(『瑜 伽 師地 論 』) は じ め に本 学 の 百 周年を祝 う記念 号 とて, 遠 く日本 を離れ た身で あり な が ら, 幸い 筆 者 に も
寄稿
の機会
が与
え られた。 こ の機会
を利 用し, 筆 者のMadison
マ ジ ソ ソ に お け る成果 のい さ さか で も記し止 め る こ とがで きれ ば と思い , こ こ に, 甚 だ杜
撰 なが ら, そ の 一端を 上梓
す るこ とに し た い 。Madison
で は ,John
Keenan
ジ ョ ン= キ ーナ ソ氏1)の 熱心 な勧め で ,
The
University
ofWisconsin
ウ イ ス コ ン シ ン 大 学 の 院 生 有 志 と共 に ,MS
を, そ の 関連
全資
料 と共に読
み 始め , 目下 継 続 中で ある。 こ の講
読は,筆
者の 意 向で , その最後
を なす 第10
章か ら開 始 され たが , 本 稿で 取上げるMSAT
最 終章
も, こ のMS
第
10
章
の 一部
と 関連す
る文献
であ
る ため ,関連 全資 料
を 取扱
うこ とを 立 前 とし た筆 者は, これ を も英訳 して講読
の場 に提
供 し た よ う なわ け であっ た。1
)AStndy
(ゾ伽BuddhabhfimyUPadeSa
tThe
Dt
)ctrinal、DeveloPment
Of
the
Nation
of
Wisdom
in
yogacdra
Thought (1980
年,12
月20
日)に よ り,The
University
of
Wisconsin
,The
Department
of Buddhist Studies }こ てPh
.D
.取得。Madison
に来る以 前か らの 筆者の友人で ある。
一 452 一
(2)
MS
47
▼ 最終章和訳 (袴谷)周知 の よ うに ,
MS
第
10
章
第9
−27
節 中に は ,MSA
(
Bh
) 第
20
−21
章
の第
43
−61
頌 と全 く一 致する計19
の 頌 が 示 さ れて い る2)が ,こ の
19
頌は , い ずれ の テ キ ス トに おい て も, ほ とん ど 同 一 の 主題.ド に纒
め られ て 登 場 す る。MSA
(Bh
)に お い て は , そ の第
43
−59
頌 が 仏陀
の功
徳 (buddha
・gurpa),第
60
−61
頌が仏
陀の特質
(buddha −laksana
)を扱 う頌 と され てい るの に 反し,MS
で は, 全て の 頌が 法身
の功 徳 (
dharma
・kayasya
gurpah)を 顕 わす 頌 と見 做 され てい る とい う違い は あるが,そ れ ら個々 の頌 の 取 扱い 方は 全 く一致す るの で ある。 こ の よ うな 状 況
F
にあ
る19
頌が, 後 代い か に 読み嗣が れ て い たか を知る に は, まず もっ て両 テ キ ス ト に 対す る諸 註釈 文 献の 検討
が 必要な こ と言 を俟た ない 。 し か し, 周知 の ご とく, こ の両 テ キス ト に 関 す る註 釈 文 献は か な り多
い 方に属
し3), そ れ を完璧
に な そ う とす れ ば,事
は意外
と煩 雑を窮め るの である。そ れ は 講 読の 場 で も同 様で あっ た 。 あ ま り周 辺 に こ だ わ っ て 当の
MS
が お 留 守に な っ て は困 る とい う意 見 もあっ て,MSAT
は 一 時的に 見送 る こ と に し た 。 従っ て , 筆 者の 英 訳 も第49
頌に 対 す る註 釈 まで で終 る こ とに な っ たが, そ の 英訳 すら充 分な もの で は な く, 術 語の 列 挙に 類 す る よ うな 箇所 で は, た だ チ ベ ッ ト訳 か らの還元 サ ソ ス ク リッ ト文を与えたに 止 まっ た の で ある。 その 箇所の 英訳 を快
く引受け て くれ た の が , 院 生 の一人Paul
Griffiths
ポール = グ リ ッ フ ィ ス 4)氏 で あっ た た が , 同氏はそ の 後もMSAT
に個
人的
関心 を寄せ, 講 読とは別途 に,第
50
頌以 下 に 対 する註 釈 も全 て英
訳し, その 草 稿 プ リ ソ トを筆 者に も提 出し た。 筆者は , 同 氏の 求め に 応 じて, 正 すべ き点は 正 し , 不 明 な点に も答えた の で ある が, そ の際 明確に解
答で きない箇
所 もわず
か ばか りは残 っ た。 そ れは と もあれ, 現 在はPaul
Griffiths
氏の 手 元に修正 を経た英
訳草稿
が 用意
さ れ て い るはずで , 一 時は , これ に 更に手を加 えて共 訳の 形で 寄 稿し よ うか とも考 えた が, 筆 者 自身 2)宇井 伯 寿 『摂 大 乗論 研 究』,
96
−100頁 参照。MS
チ ベ ッ ト訳につ い て は,山 口 本,148
−151頁 ,Lamotte
, ed . pp .87 −90 参 照。3
)こ こ で そ れ ら全て を列 挙 する こ と は しない。 本稿略号 中
AKBh
,YBh
を除 く文 献が ほぼ そ れ らに 該当 す る。 た だ し, そ れ らの うち,
MSBh
, SAVBh の チベ ッ ト訳は ,ち ょ う ど その 欠 損 箇所に 当る た め参照で きない。
AS
,ASBh
,BBh
は 直 接関連する文献ではない が, 当該箇所の 主題上密接な関 係を有す。 こ の 種の 文献とし て は,
Abhi
・samaya ’
laarphara
系の文 献を始め として, 参 照 すべ きもの は頗る多い が,その か な りの もの は ,
Lamotte
(tr.),La
Somme
du
Grand
Vtihicule
d
’
Asaftga
,
Tome
II
の巻末 (pp 。
51
*−61
*)中に指摘されてい る。
4
) 現 在 ,Ph
.D
. candidate として 研究 中で あるが, 既にThe
University
ofOxfQrd
で 神学 とイ ソ ド古 典 宗教 (
Classical
Indian
Religion
) の学 位 を 取得, 将来の欧 米にKomazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty
MSAT
最 終章和訳 (袴谷) (3
) あま り労 して もい ない もの を共 訳 とす るの は 虫が よす ぎる とも思 っ た し,得 意
で もない 英 語を介
し て更に 手 を加え た とこ ろで余
計時
間 を食
うだ けと思
い ,今
回 は 全 く別 途に和 訳 を用 意 す る こ とに し た 5) 。 以上,貴
重 な紙 幅を私 事
にわ た っ て 恐縮
であ
るが, 常に刺激
を与
えて くれ たPaul
Griffiths
氏
に 感謝
を表 す る と共に ,Madison
でMSAT
の 最終章
を和 訳 す るに 至 っ た 経 緯を述べ させ て もらっ た次 第で ある。さて ,
MSAT
がMSA
(Bh
) の複
註で ある 以 上,MSA
(
Bh
)
当該箇
所
の和 訳も同時に掲 載 す る こ とが望ま しい と
考
え,MSA
(
Bh
)
に 関して は既に 宇 井 伯 寿 博士に よ る和 訳が あるに も拘わ らず,敢
えてそ の拙
訳 も合せ て世 に問 うこ とに し た 。 因に,MSA
(Bh
)
の少
な くとも当該箇
所に 関 してい え ぽ ,宇
井博
士 の和 訳 に は か な り重 大な誤 読が散 見
す るの で ,拙
訳に もそ れ なりの 意味
があ
り う る と信 ずる6) 。 しか し , 翻 訳 その もの のあ り方
と して の拙
訳に関し てい えば ,MSA
(Bh
)
,MSAT
の 双方は も と よ り仏典
一般 の 翻 訳に つ い て も, 筆 者に は い まだ なん ら確
固 とした信念
もない こ とを告
白 し て お か ね ば な らない 。 以 下の 和 訳に み られ る よ うに, 仏陀
の 功徳
や特質
に関す
る永い 伝統
を背
負 っ た言葉
に関 し て は , そ の ほ と ん どの 場合
に つ い て 基 本 的に は漢訳 語を 踏 襲 し, い ちい ち の 言 葉に 関 す る筆 者
な りの翻
訳 上 の 工夫 は なん ら試 み られ て は い ない 。 当 初は, その 欠 落を 埋合 すべ く 個 々 の 術語に 関 し て詳
細 な註記 を施 すつ もりで あっ たが, い ざ 一応 の 和 訳を終っ てみ る と, それ だけで ほぼ 規 定の枚
数に 近 い こ とが判明 し, 註 記 も最 小 限に押 え ね ば な らぬ 状 況 となっ た。 特に, 本稿
で取 上 げた よ うな文献
は,箇
々 の 言葉
の み な らず, そ の 教義
上 の 背景
に 関して も種々 の 文 献 を トレ ース す る必要が あるの だ が, や む を得
ない 状 況 と はい え, 大略
を和 訳で お茶を濁
す よ うな結 果 とな っ た こ とは慚 愧 に堪 えぬ次 第で ある。 また, 本 来な らば,MSA
(Bh
) 及びMSAT
の 文 献 史 的な意 義につ い て も, 和訳に先立 っ て 若 干の解
説を試み るつ もりで あっ た が, これ も充分 な形で 論 じ る こ とは不 可 能 となっ た 。 こ こで は , 当初 意 図し てい た解 説の ほ ん の概
略の み を述べ させ て も ら うこ とに し たい 。5
)い ろ い ろ な 問題 もあ り,い つ の こ とになる か 分 らない が, 我々
MS
を講読 して い る有 志は, い ずれ その第 10 章の英 訳を, 関連資料と共に 公 けに し たい と思 っ て い る。 そ の 際に は, 同氏の英訳 も そ こ に 付せ られ る はずで ある。
6
)宇 井 伯 寿 『大乗 荘 厳 経論 研 究』 (以 下, 本稿で は宇 井和 訳 と略 称す),
56
餅582
頁。 以 下の拙 訳に お い て は, その 全てを指摘す るこ と は しない が, 重 要 と思われる誤 りにつ い て は 言 及 した い。 なお, こ の地で は,
L6vi
の仏 訳を参照で きな か っ た こ とを退憾とする。 ま た, 英訳に 関 し て は, 近 く,
Robert
Thurman
教 授 等に よっ て その 出 版が予定 さ れて い る と聞ぎ, その 草 稿を見る機 会に も恵ま れた が, 英語 とし て役立て る こ と以上の 恩恵に は浴 す こ とがで きなか っ た 。 一 450 一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(
4
)MSAT
最 終章 和 訳 (袴 谷 )MSA
(
Bh
)
は , 周 知 の ご と く,BBh
とそ の 綱 格を等
し く して い る の で, 本稿 和訳 当該箇
所 につ い て もBBh
との比 較が 望ま れ る。 近年
, こ の 両論の比較
に 関 して は,MSA
(
Bh
)
に対
す る二 つ の複
註, 即 ちAsvabhava
(無性) のMS
・4T
とSthiramati
(安慧 ) のSAVBh
とを媒 介 とす る極め て 綿 密な考 証の 成果 が 公 けに されるに 至 り, そ の結
果
, 両複註
とも,MSA
(Bh
)を註 釈 す る に際
し て, そ の か な りの 部分 をBBh
の 説 明に 依拠 して い る こ とが 明 らか とな っ た 7)。 本稿
和
訳 当 該箇
所に限
っ て は ,SAVBh
末 尾 欠 損の ため に 8) , 不幸
に し てそ れ を参照す
る こ とは で きない が ,MSAT
の みに関 して見
て も, や は り同 様な状 況が看 取 され るの で ある。 本稿
で は, こ れ を充
分 詳 細に 論 じ る こ とはで きな くな っ たが, 肝 腎な事
実の み は 和訳 註記 に て 指摘 し た の で, 詳 細 は箇々 に 検 討し て頂 きたい 9) 。 また ,MSAT
は,BBh
に そ の関
連 す る説 明を見出 しえ ない 場 合に は ,ASBh
もし くはそ れに 類似す
る文 献 中に, そ の 説 明を求
めた形 跡 が 認め られ る 10)が , こ の点に も充 分注
意を払
わ ね ば な らぬ と思われ る。更
に ,M
&4T
が,Asvabhava
の著作
とし て伝 え られて い る以上, 前 述 し た状 況 下に あ る同 一 の19
頌 に 対 す る同 一 著 者のMSU
とも比較
さ れ る こ とが望 ま しい が , その 比 較は別な機
会に譲
りた い と思 う11〕oさて, 多
少
問 題は 逸れ るが ,本稿当
該関
連 文 献は ,そ れ を チ ベ ッ ト訳 経 史 の 観 点 か らみ て も, か な り興 味 深い 資 料を提供 して い る とい え る。 特に ,MS
とMSA
とに共 通す
る19
頌の サ ソ ス ク リッ ト原文
に対
するチ ベ ッ ト訳の相違
は , ある意味
で は, チ ベ ッ ト の仏教
前期 伝 播 期 (1nga
dar
)に重 要な役 割を果 し た二 人 の 大校 閲翻
訳官
(zhu
chengyi
lo
tsa ba ),Ye
shes sde とdPal
brtsegs
との 訳 風の 違い を
物
語る こ とに もな る か らで ある。 二 人は, ほぼ同時 代の 先 輩 と後輩
で あ り,「最 終
決
定訳 語
」 (skad gsarbcad
) に も深 く関与
してい た12)に もか かわ らず, そ
7
)小 谷信千代 「瑜伽師地論 と大乗 荘厳 経 論」 『仏 教 学セ ミ ナ ー』, 第
32
号,32
−54
頁 参 照。 8)東京 大学 文 学 部印度 哲学 印度 文学 研究 室編
r
デル ゲ版チ ベ ッ ト大 蔵 経 論疏 部』唯 識 部 4, 解題,2
頁参照。9
)以 下の 本稿和 訳註 , 73, 74,
81
,82
,83
,101
, 108, 112,118
参照。10
) こ の 点に 関 し て は, 以 下の 本 稿 和訳 註, 特に ,108
,123
,128
,129
を参 照された い 。 なお,同註 ,60
, 64,90
, 105 も合わせ参 照の こ と。11
) 前註5
で 指摘 した英 訳が公けに なる機 会があれ ば, これ も自ず と実 現 する と思 う。一般的に言 えぽ, 両 者 間に 大 きな差異は認め られ ない。 ただ し, 後註
71
で指摘し た よ うな一致 しない事例 もある。12
)以上 を巡 ぐる詳細につ い ては , 凵」 口瑞鳳 「吐蕃王 国仏教 史 年代 考」『成 田 山仏 教 研 究
所 紀要 』, 第
3
号,1
−52
頁 , 及び同 「『二 巻 本訳語釈』研 究」同上紀要 ,第4
号,1
−24
頁Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
MSAT
最終章和 訳 (袴谷) (5
)の 訳 語に は 少なか らず一致し ない もの が 見 ら れ る。 こ こ で, 筆 者の 知る典 型的 な
例を挙げ れ ば, 所謂
d
;Sta
・§ruta ・mata −vijfiata (見聞覚知) の mata を,Ye
shessde は
bye
brag
Phyed
pa
と訳 す13)の に 対 し,dPal
brtsegs
は rtogspa
と訳 し14)
, し か も
MahdvyutPatti
(r
翻訳名 義大 集 』) で は, その 両 訳 語 とも許容
され て い る15)
。 全 く同 じよ うな事例 は , 如上 の
19
頌 中の sva・
parartha
の sva の訳
語
の 場 合に も認
め られ る16)が,Ye
shes sde に は,dPal
brtsegs
よ りも同一 語に
対
す る 訳語 の バ ラつき
が多
い 17)こ とか ら考 えて, 恐 ら くは,Ye
shes sde に 代表 され る よ うな訳
例が,MahavyutPatti
で は,あ
る語
に限
り, 両訳許
容 とい う形 で 残 され た が , そ れ が,dPal
brtsegs
な どの 手 を 経 て , 事 実上 は 一方
に 収 斂 し て い っ た よ うな事 情が あ っ た の か も し れ ない 。 し か し, 事は こ こ で 単純
に 推 測 す る ほ ど容易で は な く, 判断に は か な り微 妙な もの が ある 18) 。 わ ずかばか りの事
実か ら憶測 め い た こ とを言うの は 差 控 えた方が よい の か も しれ ない が , 今後の チ ベ ッ ト訳経 史 上 の 聞 題 として は 重 要な視 点 と思わ れ るの で , 敢え て 大 方の 注 意参照。 なお,
MS
チベ ッ ト訳は Ye shes sde に よ り,MSA
及びMSABh
の チ ベ ット訳は
dPal
brtsegs
に よる もの で あ る。 た だ し,現 行のMSA
チベ ッ ト訳は, 後にrNgog
Blo
ldan shes rab 等セこ よっ て 改訂さ れ た との コ ロ ホ ン を有 する こ とに 注 意。現に ,
MSABh
中の第59
頌 ’dzin
pa med cing nyes pa med が
MSA
中で は ’dzin
pa mi mnga ’ nyes mi mnga ’ と な っ てい る な どの 相違が見 ら れ る。
13
) 例 え ば,Ye
shes 訳MS
(Lamotte
ed ., P.87
,11
.1− 2 :D
. ed.,No
.4048
,Ri
,38b5
),
YBh
(D
. ed .,No
.4035
,
Tshi
,164b7
)を参照 された い。14
) 例 え ば,dPal
brtsegs
訳 AKBh につ き, 平 川 彰 等 『倶 舎論 索 引』 第1
部,d
減 a−(p .189 ), 及 び mata −(p .
284
)の項参 照。15)
Mv
ンut.,No
.2882
参照。16
)M
∫A
第52 頌, sva −parartha に対 し,dPal
brtsegs
訳のMSA
(Bh
)は rang gzhandon (
D
. ed .,No
.4020 ,Phi
,38bl
−2 :D . ed ., No .4026, Phi, 258a5),Ye
shes sde 訳の
MS
はbdag
gzhandon
(Lamotte
ed ., p .89
,1
.13
:D
. ed り op . cit.,39b3
) なる訳 語を与え る。
Ye
shes sde が sva に 対 し てbdag
を用い た こ とは,Nagao
ed .,
Madhydntavibha
−bhdsya
巻 末のIndex
}こよっ て も確 認で きる。MVPtut
.につ い て は,
No
.1086 を参照 さ れた い 。17
) 例え ば,Ye
shes sde は,MSA
(Bh
)第49
頌の sat・pauru $ya (= sat−puru
§a)に
対 して skyes
bu
mchog ,dehin
に対して sems can なる訳語を与え る が, 他の テキス トで は, それぞれ を
Mvyat
. とも一致 する (Nos
.1605
,7358
,6521
)skyesbu
dam
pa (BBh , D . ed ., No 。4037, Wi , 108b7 ), 1us can (Nagao , op . cit.,
Index
を 見よ) と訳 し て い る。
dPal
brtsegs
の訳は い ずれもM
η鋼 ’.と一致 する。18
) 筆 老の恣意的 判断を避ける た め , 当初は 厳密な比較対 照を提示するつ もりで あっ た が, 本稿で は略す。 後 日, 他の類 似の事 例 (例え ば,MS
, ルtSA
(Bh
) 問で 一致 する 他の 頌 や, 前註9
で 指摘 したよ う な 状 況で 原 文 の 回 収 しえる場 合 ) を 加 えて,別 稿を 期 したい 。 一 448 一 N工 工一Eleotronio Library(
6
)MSAT
最 終章和訳 (袴谷 ) を喚
起 して, 数 少 ない チ ベ ッ トの 同 文 異 訳の 例 が多 く
の人に よ っ て報告
され る機縁
と も な れ ば と願っ た ま で に過 ぎない 。 因 に , こ の よ うな観
点か ら, 当該 頸の 両 チ ベ ッ ト訳 が 検 討 され た こ と は , 従 来 全 くなか っ た の で ある le) 。以上, 極め て 乱 雑な
前
書 き とな っ て し ま っ たが, 最後
に , 本和訳に 直 接 関 連 す る問 題を一 つ だ け取上 げ て , い さ さか 説 明を加え て お きたい 。 これ まで , 表題
に 掲 げた 「最 終 章」 とい う言い 方 に は全 く触
れ ず じ まい だ っ たが, これ を放 置 し た ま まに してお くわ けに は い か ない 。 なぜ こ の よ うな瞹
昧な言い方
をしたか とい う と,MSA
(
Bh
)の章
の切
り方
及び数
え方 自
体 に , 諸 本 間に 一 致し ない 伝 承 が 伝 え られ て お り, それ が 自ず とMSAT
tL
も波及 して い るか らで あ る 20) 。 しか し, こ こで 問 題 を 最終 章の 取 扱 い 方の み に 焦 る と, 最 終章
(第20
−21
章 , 第1
−61
頌) を 「行 と 究竟の章」 (carya −ni§th21
)adhikara
, spyod padang
mthar thug pa’i
skabs ) と一括 し て呼 ぶ 系 統 と, 「究
竟
の 章」 (ni $thadhikara
, mthar thug Pa ’i
skabS , 同上 , 第43
−61
頌に相 当の箇所)の み を 最終章
とし, これ を 「行の 章」(caryadhikara , spyod pa’i
skabs , 同上 ,第1
−42
頌に相 当の箇 所 )よ り独立 し た もの とし て扱 う系統
とが存 し てい る こ とに な る22)。MSAT
は後 者
の 系統
に属
す とみ な し うるが, 同上 第42
19 ) MS の チベ ッ ト訳 校 訂本 (山 口 本, 148 頁, 最 終行 :Lamotte
ed ., p . 88 .1.9)で ,bde
dang
1堅
型 になに も 言及の ない こ と が, 従来の経 過を如実に示 す。 こ の箇所は , P .及び D . ed .ともそ の とお りで ある か ら, 校 訂 者の ミス で は ないが, サ ン ス ク リット原文及 び
dPal
brtsegs
の 訳 と比較 して いれ ぽ,bde
dang
phan の誤 写 で ある ことに はす ぐ気づ い た はずで ある。
20
)前註
8
指摘の デル ゲ版 ,唯 識部1
−4
の 解題 及び小 谷信 千代 「チベッ ト に於ける荘
厳 経論の 研 究」『日本 西蔵学 会々 報』 第28 号,
9
頁 参照。21
)MSA
(Bh
)の コ ロ ホ ソ に は prat 球ha
とあるが,B
、劭 に おける ni$tha
(Wogihara
ed ., p .
375
,1
.1
)と mthar thug pa (D
. ed .,No
.4037
,Wi
,192b6
)の 対 応に より, ni瓠ha
と改め る。 た だ し,BBh
の記述 (op. cit., p .375
,11
.1
−2
, p .408
,11
.21
−22 ) よ り, tathagato vihara 単 = tathagati ni等
th
且・garnana ・bhttmib
= tath五gatibhUmi
阜 = prati
§
tha
な る図式 も導けるか ら, prati$tha
も捨て難い。MSA
(Bh
)がBBh
に基づ く際に 互
dhara
− niSth 互一の ni§th
互 を取る か , prati講h
且一patala のprati
$th
互を取る か で 異っ た 伝承が あっ たか , 或は その 両 者を 混 同 し た か, とい っ た状 況 を 予測
さ せ る。 いずれ に せ よ, その 逆は あ りえ ない こ と を証 し うれ ば, ・
BBh
先 行説の 論 拠 ともな り うる。22
)MSA
チ ペ ッ ト訳,D
. ed ., 及びMSABh
の チ ベ ッ ト訳が 前者,MSA
チ ベ ッ ト訳,P .ed., 及び MSA (
Bh
) の 漢訳 (た だ し, 章 名は 「行 住 品」 と 「敬仏 品 」 とて , 文 字通 りには 一致 し な い)が後 者で ある。 因に,
jfiana
§ri の 科 段 (D
. ed ., No .4031 ,Bi
,189ai
−e)に よれ ば, 前者に 一致 する よ うに全体を yongs su grub pa mthar thug
pa
’i
skabs と呼び, か つ 後 者に も
一致 する よ うに,それを rgyu ’
i
khyad
par
と ngobo’
i
sgo nas とに 二 分する。 なお , 野 沢静 証 「智 吉 祥造 「荘厳 経総 義』に就て」 『仏
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
MSAT
最 終章和訳 (袴谷) (7
) 頌を, あた か も「究竟
の章
」の 中に含ま せ る よ うな取
扱い 方を し てい る点が 一見奇
妙
であ
る。 こ の第
42
頌は,BBh
と対
比 させ る と, 「持
究竟瑜
伽 処」(adara
・ni$tha
・yoga
・sthana ・)中
の 「行
品」 (carya ・patala ) に相
当し,一
応 最終
章か らは 独 立 し た もの と考
えた方が よい が,MSAT
は, こ の 頌 を, 「究 竟」 に 至 る直 前の 菩 薩 行を 扱 うもの とし て, 「究竟
の 章」 に 到 る接 点の よ うに 見 做 した の だ と思われる。 な お, そ の 判 断に は微
妙な もの が残る 23)が , 以 下に そ の 一 段24)を和 訳 し て 示し て お くこ とに し たい 。 本稿 本 来 の和
訳箇
所 は, こ の 未 尾を直 接 受 けて展 開 し てい く も の で ある。 こ れ 以降は (’di
man chad ni)25) 「究竟の 章 」で ある。 以上の ごと く, 自己 の相続の状 態 (rang gi rgyud
kyi
gnas skabs , sva ・sarptanavastha )が,あ ら ゆるあ り方に お い て (rnam pa thams cad
du
, sarvatha ) 浄 化され, マ ニ 宝 (norbu
rin poche , mapi ) の ごと く, すべ て の有 情の 利益 を教 示 する もの となっ た,こ の 菩薩は,
あ らゆるあ り方に お い て, 世 間 と出世 間の 清
浄
に よ る出離 (’jig
rten pa dang ’jig
rten
las
’das
pa’i
rnam pardag
pas nges par ’byung
ba
,1aukikya
lokottaraya
caviguddhya nibsara4am ) を教 誠 するに堪 える もの (’
doms
parbzod
pa )で あるか ら,その後に , すぺ ての 乗 (theg pa thams cad , sarva −yana )に よ る出離の 行 (spyod pa,
carya ), 即ち 四つ の 清浄行 (spyod pa rnam par
dag
pabzhi
, catur −vi§uddha −carya )が,
Arya
−Ratnacp4a
−stitra26 )(,
PhagS
Pa
gTsug
na rin chengyi
祕 0 , 『聖23
) skabs (adhikara )なる語が用い られた と して も, 必 ず しも章 (chapter )を意味するわ けで は ない こ と が, MSAT の他の 箇所か ら知 り うる。 例 え ば, 「菩提の 章」 中の
chos
kyi
dbyings
rnam pardag
pa’i
skabs (D
. ed .,Bi
,72bi
), 厂菩提分の 章」中
の ngo tsha
ba
’i
skabS (140a2, 142b1 ) な ど参照。 とすれ ぽ,MSAT
は, 前 註22
の
jfianaSri
と同様な意図に あっ た と も考え られる。24
)D
。ed .,No
。4029
,Bi
, 169a5−bfi
:P
. ed., No .5530
,Bi
, 189b5− 190a6。 引用 さ れる
MSA
(Bh
)にっ い て は,L6vi
ed ., p.183
,1
.24
−p .184
,1
.1
参 照。25)
P
.ed .は ’di
thams cad ni なる も意味を な さ ない。26
) 本 経典につ い て は, 高 崎 直道r
如 来 蔵思 想の形 成』,691
−695
頁に,か な り詳細な紹介が な されてい るの で参照 された い 。 なお , 四つ の清 浄 行 (paramita −caryfi ,
bodhi
・pakSao , abhijfia ° , sattva ・paripaka °)は ,
BBh
の 「行品」 (carya ・patala )で も説か れ る (実 際上は paramitaO が そ の 大 半な占め る) が, こ の 点に 関する言 及は ない 。恐 らく
MSAT
は,MSA
(Bh
)第42 頌 中の yatha −stttranusaratall (経 卿 こあ る とお りに 従 う か ら ) とい う句を 意識 し て 註釈を施 し た のだ と思わ れる。 また,
MSABh
も,頌 中 の vinaya に関連 して, paripacanam
hy
atra vinayanam とい い, 本 経典の両漢訳 も (sattva )paripakaO と あ るべ き箇所を 「調(衆生)」 (大 正 ,巻
13
,174a ), 「開 化 (衆生)」(大 正, 巻 11,658a
) とす る か ら,これ らの背後に は 同 じ よ うな伝 承があっ た の か もしれ ない。 更に ,
MSAT
は, 第59
頌に対する註釈 (本稿 和訳 参照)中でも,
paramita
に 関連 して 本経 典に言及 するが, MSAT を介 し て こ の 状 況 を推測 す ると,BBh
の 「行品」 が, 本経 典 などを基 盤に,MSA
(Bh
)の第42
頌 と第59
頌 とに 分 け て述べ られ た の で は ないか とい う気 もする 。 とすれば, これ がMSAT
の 章 分 け に も影 響 して い るの で は なか ろ うか。 一446
一 N工 工一Eleotronio Library(
8
)MSAT
最 終章 和訳 (袴谷)宝髻 経 』)に 説か れてい るよ うに 〔示 され るの〕であ る。「菩 提 分の行は , 声 聞 〔乗〕と 独覚
乗を信解す る ものた ち のため で あ る 」 (
bodhipak
$a−caryagravaka
−pratyekabuddha − yanadhimuktanAm 〔arthe 〕)とい うの は ,主要なもの に 言 及し て 述べ た もの で あ っ て,菩薩た ちに 菩提 分の行が ない わ けで は ないが, 菩提分の 修 習 (
bsgoms
pa,bhavana
)に よ っ て は , 主と して声聞た ち が解脱す るの である。 ま た菩 薩
i
た ち に とっ て は ,波 羅蜜の 行27)が 主要な もの と な
っ て お り, そ れ ゆ え,「波 羅 蜜の 行は , 大乗を信解する も
の た ちの た めに 説か れ る 」 (paramit 且一caryA mahAyEn 自
dhimuktanam
arthede
§it
五)と言わ れるの で ある。 有情を成熟する行は , 実に その 両方28 )を成 熟す る た めで あ る」
(sattva ・paripaka −carya
dvayor
evaparipacanartham
)とい うの は , 主とし て菩薩た ち が有 情を成熟 する こ とである〔が〕, 声 聞た ちに 対 し て も29)
, 布施 (sby 三n pa,
d
巨na ) や愛語 (snyan par smraba
, priya ・vadita )な どの 〔四〕摂喜 (bsdu
ba
’i
dngos po, 〔catvari 〕sarpgraha ・vastani )が あ るか ら, その両方につ い て も (gnyi
ga’
i
yang ,dvayor
api )説か れるの で ある。 その よ う な妙なる意楽 (bsam pabzang
po )を備 えた もの は , 正 し い加行 (yang
dag
pa’i
sbyorba
, samyak −prayoga )を 備えた 道 (lam , marga )に よっ て ,あら ゆるあ り方に おい て ,サ マ ソ タ パ ドラ菩 薩30)(
byang
chub semsdpa
’Kun
tubzang
po,Samantabhadra
−bodhisattva
・)の 行を究竟する こ と を得た後に , 如来た ちの 究竟せ る清浄を, それに倣 っ て得よ う と望む
か ら (rjes su thob par ’
dod
pas3i)),その 後に , 無上 正等 菩 提 (bla
na med pa yangdag
par rdzogs pa’i
byang
chub , anuttara −samyak −sambodhi )の あ らゆる不 共な る功 徳 (yon tan thun mong ma yin pa , asadharapa ・gurPa −)に よっ て, 〔如 来たちの 究竟せ る清浄を〕讃 嘆 する (
bstodS2
))の で ある。
27 ) P .ed .,
D
. ed .ともに pha rol tu phyin pa kun tu spyod pa と あ り, 下線 部 分は samudacara な どに 対 応 して いた 可能性 も あるが, 他の例に慣い pha rol tu phin
pa’
i
spyod pa (paramita −caryfi ) と読む。28 ) チ ベ
ッ ト訳は,
MSABh
の場 合を含め て,全 て gnyis po nyidkyis
とするが,サソ ス ク リッ ト の dvayor eva に従っ て 訳す。 mahayana −hinayanSdhimuktayoll (大
乗 を信解す る もの と 小乗を 信解す る もの との 両 者 ) を 指 す。
2g
) こ の 箇所 読み方に 自信な し。 素直に 読め ば, 声聞 た ちに も四摂 事がある こ とに な る が , 教 義 的に そ れ が 妥 当 とは思 え ない 。 ため に , 菩薩が 声 聞た ち に 対 し て 四摂事 を行 う とい うふ うに 解 した わ けで ある が, 間違っ て い る か もしれない 。 な お ,MSA (劭 ) 第16
章72
− 79 頌, 特に 第 76 頌 参照。 30)なにゆ え, こ こ で サ マ ン タバ ドラ(普賢 )菩 薩が 登場 する か につ い て の 典拠筆 者 未 詳。 あるい は 『普賢 菩 薩行 願讃』な どと関 連 あ りし か 。
31
)P
.ed .に従っ た が,D
. ed . rjes su thob par ’ os pas (そ れひこ倣っ て 得る こ と がで きるか ら)に従 うも可か 。32
)P
.ed.に従 っ たが,D
. ed .は ston (示 す) と読む。 こ の 読み も無 下には避 け難いが, これ以 下が仏陀の讃歎 (stotra )を 主題 と する こ とを考えれ ぽ,
P
. ed .を取るぺ きで あろ う。Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
MSAT
最終 章 和 訳 (袴 谷) (9
)和 訳33)
〔
MSABh
〕仏 陀 (
buddha
)の 功 徳 (gu4a )の 分 別 (vibhaga )に 関 して ,多
くの頌が ある。
〔
MSA
(Bh
) 第
43
頌 〕仏
陀
の 讃歎
(stotra )に関連 して , ま ず最 初に (tavat)34), (i
)〔四〕
無量 (apramapa ) に 関す る一〔頌 〕。(
i)
有 情た ち を哀
愍 す る もの (anukampaka ) よ。 結 合 (sa【pyoga
) と 分離
(vigama )35)を願 うもの (
aSaya
) よo
不
離
(aviy 。ga ) を願 うもの よ。 安 楽 (saukhya =sukha ) と利 益 (hita
)を願うもの よ。 あ なたに 帰 命せ ん 。
一
第
43
頌 一こ こ で36) ,
〔
仏 陀が〕有情
た ちを哀
愍する もの で あ る とい うこ とは, 〔彼が有情
の 〕利 益 と安楽
を願 う もの で あ る とい うこ とに よっ て 示 され て い る。 更に ま た37 ) , 安 楽 (sukha ) を願 う もの で ある こ とは,(
1)慈
(maitri )を もっ て, 〔有情が〕 安 楽 と結 合 す る よ うに 願 うもの で ある こ とに よ り, また(
2)
悲
(karuoa
)を もっ て, 〔有33
)以 下の和訳に 用い たテ キ ス トは 次の とお りで ある。
MSA
(Bh
)サ ン ス ク リッ トテ キ ス ト,L6vi
ed ., p .184
,1
.1
−p.189 ,1
.5
(な お, 本 テキ ス ト の 訂 正に関 し て は,Nagao
,lndex
中に ま とめ られた もの を, 長尾訂正 と略 し て指 示す), 同チ ベ ッ ト訳テ キ ス ト,D
.ed .,No
.4026
,Phi
,256a7
−260a7
;MS
4T
チベ ッ ト訳テキ ス ト,D
. ed .,No
.4029
,Bi
,169b5
−174a7
,P
. ed .,No
.5530
,Bi
, 190a6−196a7
(両 ed .の相違 中, 当然 一方を採 用 すべ き と思わ れ る もの に つ い て は, い ちい ち指 摘 し な い)。 な お , 和 訳 中, ロ ーマ数字は, 仏陀の 功 徳 と し て列 挙され る もの に 通 し番 号 を付 し た もの (
i
−xxi ),ア ラ ビ ア数字は, そ の各々 の 細 分を 明 示 す るため に挿入 し た もの, 頌番 号はL6vi
ed .の そ れに 従っ た もので ある。34
) 原文に は tad とあるが, チ ベ ッ ト訳 re zhig に よ り tavad と改め る。35) sarpyoga −vigama を 宇井和訳eX tatpuruSa として 読む が,
dvarpdva
と 解 さ ね ば なら ない 。 関連 諸 文 献 中,
MSBh
真諦 訳 (大 正, 巻31
, 255 頁下 ) の み が, 宇 井和 訳を 支 持 するが, む しろ こ の 真諦訳 が特 異な解 釈を与えて い る に す ぎない。36
)チ ベ ッ ト訳 に ’
dir
とあ り, 長 尾訂正もこ れ に従い 既に atra を補う ぺ く指示 。 以 下 の例か らみ て も atra の ある方 が適切。 言 う まで もな く, atra は頌を指 す。37
)これ以 前 が総 説, これ以下が別 説 とい う意 味で, こ こ に
punab
が置かれ る。 宇非 和訳は これを明確にせ ず , 従っ て これ以下の 意味もあま り よ く通 じ な い 。 以 下 のMSABh
の 説明は, 次 の よ うなBBh
の説 明と全 く軌を 一に する もの で ある 。 “ tatrabodhisattvasya tripy apramapani sukh 含
dhy
互§aya ・sa甲 grhitさni veditavyani .maitri −
karu4a
’mudita . ekatamad aprarnapa 単hit
査dhya §aya ・saqlgrhita 卑 vedi −tavyalp yad uta upekSa . sarvapi cAitany aprarnaqfini
bodhisattvasyanukarpp6ty
ucyate . tasmat tais samanuvagata
bodhisattv
盃 anuka 中pakaity
ucya 甲 te.”(
BBh
,
Wogihara
ed ., p. 242,1
.21−p.243, 1.2 :玄 奘 訳, 大 正, 巻30
,535
頁 下28
行一536
頁上
2
行)一
444
一(
10
)MS
4T
最終章和訳 (袴 谷 )情
が 〕苦か ら分離す る よ うに 願 うもの で あ るこ とに よ り, また喜 (mudit の を もっ て, 〔
有
情が〕安
楽 と 不離
で ある よ うに 願 うもの で ある こ とに よっ て〔
示 さ れ てい る〕。 利 益 (hita
) を願 うもの である こ とは ,(
4)
捨
(upeksa ) に よっ て 〔示 され〕, ま た そ の 〔捨 〕は, 汚れ の ない 願 い (nillsarpklega §aya )を特質
と し て い る と知 るべ きで ある。〔
MSAT
第43
頌 〕「こ こで,
〔
仏陀
が〕有
情た ち を哀 愍 す るもの であ
る とい う こ とは ,〔彼
が有情
の 〕 利 益 と安楽
を願 うもの で ある とい うこ とに よ っ て示 さ れ て い る」 とい うの は , 〔慈 と悲 と喜 との 〕三 無 量に よっ て,〔彼
が〕安
楽を願 うも の で あ るこ と (bde
ba
’i
bsam
pa nyid , sukhAgayatva ) が 示 され, 第四 〔の 無量, 即 ち捨 〕に よっ て , 〔彼が〕 利 益を願 う もの で ある こ と (phan pa ’
i
bsam
pa nyid ,hita
§ayatva )が 〔示 され て い る とい うこ と〕で あ る。 「ま た その 〔捨 〕は ,汚
れ の ない 願い を特質
と してい る と知
るべ きで ある」 とい うの は , 有情た ちの 汚 れ (kun
nas nyon mongs pa, samkle §a, 雑 染) は二 種, 即 ち愛 着 (rjes su chags pa
, anunaya )
と
嫌
悪 (khong
khro
ba
, pratigha ) 〔とで あ るが〕, こ の よ うに ,有情
た ちが楽 受(
bde
ba
,i
tshorba
, sukha ・vedanti ) に愛 着
し た り, 苦〔
受
〕(sdugbsnga1
,dubkha
[・vedana 〕) を嫌 悪し た りす る こ とがない よ うに,
〔
仏 陀が〕捨
に よっ て , 〔有情
たち に〕 貪 欲な く
執
着 も な く (chags pa med cing zhenpa
med pa ), 更に
憎
悪 もなか れ (sdang
ba
med pa )か し と望む こ と (mos parbyed
)で ある。
〔
MS
4
(Bh
) 第
44
頌 〕 (ii
)〔八〕解脱
(vimokSa )と(
iii
)〔
八 〕勝 処(abhibhv ・ayatana )と(
iv
)〔十〕遍 処 (krtsnayatana
) とに関 す る頌。(
ii
>
すべ て の障 害 (avaraoa ) よ り解
脱せ し もの よ 。 (iii
)すべ て の世 間を制圧 せ し聖 者 よ38) 。(
量V)
あ なた の智
に よ りて所 知
(jfieya
)は充
され り。 心 (こ こ ろ)解脱
せ し もの よ。 あなた に帰 命せ ん 。
一
第
44
頌 一こ こ で , (
ii
)世 尊 (Bhagavat
) の 39) 〔八〕解 脱 の勝 れ た 点 (vim ・k
$a・viSeSa ) が ,すべ て の 煩 悩 と所 知 の 障
害
(sarva −kle
§a−jfieyavarapa
) よ り解
脱し たも
の であ
る とい うこ とに よっ て示 され てい る。
(
iii
)
〔八〕遍 処の 勝れ た点は , すべ て の 世 間を制圧 した もの で ある とい うこ とに よっ て 〔示 されてい る〕。 とい うの も, 自 己の
心を完 全に
支
配 する こ と(sva ・citta・vagavartin )に よ り, 望むがま まに(yatheStam ),38
) 原文 は sarvalokabhibhif mune な るも comp .とし て読む。39
) 宇 井和 訳は 「世 尊に よっ て 」 とするが, これ は gen .である。 世尊の所有 する解脱等が 声 聞の そ れよ り も 勝 れてい る とい うこ と が, こ の gen .には含 まれて お り, 以 下
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
MSAT
最終章和訳 (袴谷) (11
)把 握 対
象
(alambana ) の 化 現 (nirm 的 a) や 変 質 (paripamana ) を超
自然 的に制御
す
る (adhisth2na ) か らで あ る4°)。 (iv
)〔十 〕遍 処 の 勝れ た点は, すべ て の所 知が 智に よっ て充され て い る 41) とい うこ とに よっ て〔
示 され て い る〕。 以 上 の ゆ えに ,〔
仏
陀は, 八 〕解
脱な どの 所 治 (vipak $a) よ り解
脱 して い る か ら,〔彼
は 〕心 (こ こ ろ)解脱
せ し もの で ある。〔
MS
.4
丁 第
44
頌〕 (
ii
)
八解
脱42)と は〔
以 下 の ご とくであ
る〕。(
1)
色を有す
る もの 43)(
gzugs
can , rifpin )が諸色 を見 る こ と, これ が第一 の解 脱で ある
。
(
2)
内的に(nang , adhyatmam )
無
色で ある との想
を もつ もの (gzugs med par ’du
shes pa,
arifpa −sarpjfiin) が, 外 的に (phyi r。
1
gyi,bahirdha
)諸色 を見 るこ と, これが 第二の 解
脱
で ある。(
3)
浄
な る解
脱を身
を もっ て体 得
し (lus kyis mngon sumdu
byaste,
kayena
sakSatkrtvfi ),〔
そ れ を〕 完 備 して (rdzogs parbyas
nas , upasarppadya )住
する こ と, これが第三 の解
脱で ある。 (4)彼は44)
, すべ て の あ り
方
に お い て, 色想を超 越 し,礙 対 (thogs pa
, pratigha ) の 想を 没却 し,種々 の 想 (sna tshogs
kyi
’du
shes, 磁 natva ・salpj 飆 ) を
作 意
しない (yidla
mibyed
pa, amanasikara )か ら,虚 空は無 限で あ る と思っ て , 空 無辺 処 (nam mkha ’
mtha ’
yas skye mched , akaS 一
40
) 原 文は alambana ・nirmarpa ・parirpamanatadhi6thanatah とある。 宇 井 和訳は 「所縁 を変 現 し,廻 向に よ っ て 摂受す るが 故に 」 と す るが, 意味不 明。 チ ベ ッ ト訳は,始
め の三語を
dvarpdva
と解 する が, 例 え ば,MSA
(Bh
) 第50
頌 に おい て, alambanaに 関 し て, nirm 砌 a と pari 頃 mana が説か れ る よ うに,
alambana
と次 後の 二 語との 関係 は, tatpuru $a と み る べ ぎで あろ う。 拙訳はそ のつ もりで ある が, ある い は
「把 握 対 象を化 現や変 質に よ っ て 超 自然 的に 制御 する か ら」 と読ん だ方が よい かもし
れない。 なお,
MSU
(D
. ed .,N
。.4051 ,Ri
, 283b5 : 玄奘訳, 大正, 巻31
,441
頁 中)に よれば nirm 互孕a とは 「以前無か っ た もの を化 現す るこ と」, parip 議mana とは 「以
前か らあっ た もの を 金 な どに変 質 する こ と 」で ある。
41
) 原文jfianavyaghatatab
なる も, チベ
ッ ト訳は ye shes
kyis
khyab
pas とある。長尾訂正 どお り, 」茄 na −vyaptat ぬ と読む。
42
) チベッ ト訳に は従え ば, 「解 脱 とは 八つ で ある」 と読む べ きで あるが, 回収さ れ る
サ ン ス ク リ ッ ト astaU vimok §訪 に よ り,訳 し変 え る。 なお ,以 下に応 ず るサ ソ ス
ク リ ッ ト原 文は,
MvyUt
.,Nos
.1511
−1518 に基づ き,AKBh
, p .454
,1
.22
− p .456,1
.21 (玄 奘 訳, 大正, 巻 29 , 151 頁上 一下) , 及 び
ASBh
, pp .124 −125
(§153
,玄奘訳 , 大 正,巻31
,758
頁 上一中) を参 照する こ とに よっ て,ほ ぼ完 全に 回収で きる。 43)ASBh
に よれ ば 「無 色定に基づ い て 自己自身 中に お い て い まだ色 想を制 圧 し て いな い か ら (校 訂 本を rapa −sarpjfianabhibhavanat と改め る), 或は 色想に執 着 するた め 見る主体 者 中 (校 訂 本をdra
§tari
と改め る)に 色想が現前 し て い るか ら」 とい う理 由に よ っ て 「色を有する もの 」(rifpin ) と呼 ばれる。 従っ て, 端的に は 「色 (も の )の 想を有す る もの」 とい う意味で, 次の 「無色であ る との想を もつ もの」(aritpa − sarpjfiin ) と対を なす。44
)P
.ed .,D
. ed .ともde
la
で あるが,de
に改め ら れる べ し 。 一442
一 N工 工一Eleotronio Library(
12
)MSAT
最 終 章 和訳 (袴 谷 )anantyayatana
) を完 備し て住 す る, これ が第四 の解 脱で ある。(
5)
彼
は, すべ て のあ り
方
に おい て,空
無 辺 処 を超
越し, 識は無 限で ある と思っ て,識 無
辺処
(rnamshes mtha ’
yas skye mched , vi輝 哺 nantyayatana )を完 備し て 住す, これ が第五 の
解
脱で ある。 (6)彼は, すべ て の あり方に おい て ,識 無辺 処 を超越 し ,い か な る ものも存 在 しな い と思 っ て, 無所 有 処 (ci yang med pa
’
童skye mched , akimcanyayatana )
を
完備
して住
す, これ が第
六 の解
脱である。彼は , すべ て の あ り方に おい て ,
無所
有
処 を超越 し, 悲 想非 非 想処 (’
du
shes med ’
du
shes 皿 ed min skye mched ,
naivasalpj 鮪 masa 卑輝 yatana )を
完備
して住 す, これ が第
七 の解
脱で ある。(
8
)彼は,すべ て の あ り
方
に おい て , 非 想非 非 想処を超 越 し, 想 受滅
( ’du
shes
dang
tshorba
’
gog
pa
, sarpjfa −vedita −nirodha )を身
を もっ て体得
し,〔
そ れ を〕完
備して住 す, これ が
第
八 の解
脱で ある。(
iii
)
八 勝 処45)とは 〔以下 の ご とくで ある〕。
(
1)内的
に 色 である との 想を もつ ものが,
外
的に 好い 色彩
(kha
dog
bzang
pa
, suvarpa )や悪
い色 彩 (kha
dog
nganpa
,durvarrpa
)の 僅 少な範 囲46)(chung ngu, paritta )の 諸 色を見て, それ ら諸 色を
制
圧す る こ とに よ っ て 知 り (zil
gyis
mnan nas shes , abhibhayajanati
), 制 圧 する こ とに よっ て見47)(zil gyis mnan nas mthong , abhibhtiya pagyati ), こ の よ うに して 想
を もつ よ うにな る こ と,これ が
第
一 の勝
処で ある。(
2)
内的
に 色で ある48)
との 想を も
つ もの が, 外
的
に好い 色彩や悪
い 色彩
の 広大 な範
囲 (chen porgyur
pa, mahadgata )の 諸 色を見て , そ れ ら諸 色を制圧する こ とに よっ て 〔知 り, 制圧す る こ とに よっ て 49)
〕
見, こ の よ うに し て 想を もつ よ うに な る こ と, これ が第二 の 勝 処 で ある。(
3
)(4)内的に無
色で ある との 想を もつ もの が, 外 的に 諸 色を, 全 く同 じや り方
で,僅
少 な範
囲の もの或
は 広 大 な範囲
のも
の と して順次
に見 る こ と, これが第三 と第
45
) 前 註42
と 同 じ状況 に よ り原 文が 回収で きる。MvyUt
.,Nos
.1520 −1525
,AKBh
, p . 457,II
.1
−12
(大 正 , 巻29,151
頁 下),ASBh
, pp ,125− 126 (§154
, 大正, 巻31
,758
頁 下一759
頁 上 ) 参 照。 た だ し,MvyUt
.が異っ た伝承下にあ るこ とに は 注意。MvyUt
.,Nos
.1526 −1527
に 相当する もの は , 他に言 及さ れて い ない 。46
)ASBh
に ょれ ば, 「僅 小な範 囲」(paritta ) とは, 生物 界 (sattva ・sarpkhyata )を指す。 自然界 (asattva −sarpkhyata )Vこ比べ て 僅少だか らで ある。 従っ て, 逆に , 第
二 勝 処の 「広大 な範囲 」 とは 自然 界を指す。
47 )
ASBh
Uこ よれ ば, 「知る」(j
巨nati )の は 「止」(9amatha )に よ り, 「見る」(pa§yati
)の は 「観」(vipa きyana )に よる とい う。
48 )
MvyUt
.,No
.1521 中の ar五pa (gzugs med par ) は rttpa (gzugs su)に 改め るべ きか。 前註
45
で指摘し たご とき伝承の相違も あ るの で一概に決め かね る が, この 場合はそ うした方が よい と思われ る。