古文書摘録︵六︶
本館所蔵の特別図書のうちに
︑
﹁竹原文右衛門家屋鋪証文﹂と題する文書がある︵請求番号 二巻の巻子よりなっており︑題策には︑かつて本館々長であった市島謙吉氏の筆で﹁古文書﹂と記されている︒本館への収蔵期
日
および伝来経過については
︑
まったく不明であるが
︑
かなり古い時期に収蔵され
︑
巻子に仕立てられたものと推定されている︒文
書の内容は︑竹原文右衛門
所持地の泊券状およびその継書を中心として
︑
ほかに若干の関連文書を含んでいる︒なお
︑江戸の本両
替であった竹原文右衛門関係の史料で
︑
本館に収蔵されているものは
︑
本文書のみであって
︑
ほかにはいっさい存在しない︒
本文書は︑ニニ通の活券状︑
それに付随する継書六二通
︑
所持家屋敷の境界をめぐる証文二通
︑
係︑
明治初年の地価に関する貼紙があわせて三通
︑
計八九点よりなっている︒このうちの八八点が享保︱二年より幕末期までのも
のであり︑
この時期は両替屋竹原文右衛門が
︑
まず脇両替として頭角をあらわし
︑
文化期以降は本両替として維新期にまで至った 時期とほぽ照応している︒なお
︑
竹原文右衛門所持の泊券状が
︑
本文書所収の二二通のほかにも存在したか否かについては不明で
あり︑
今後の検討を待たなければならない︒けれども
︑
少なくともこの二二通の活券状が︑竹原所持地の基幹部分をなしていたで
本 館
所蔵
一︑
は じ め に
古 文
書
摘 録
︵ 六 ︶
湯 I 両 替 商竹 原文右衛 門 家屋敷 証 文 I
リ立ーAK
――九)。この文書は
、乾•坤の
および家屋敷売買時の町礼関
浅
隆
表 一
~
次 本 三 番替 組 組両享 保 3 16 //'4 58
II 9 61 天明 3 6 55 533 文化 1 2 129 493
/
/ 3 2 129 492 嘉 永 7 4 128 499 安 政 4 4 127 511
(『両替年代記関鍵』巻二 49頁他)
り本両替屋;・金銀を主として取り扱う︒
③脇両替屋・'•本両替
屋以外の両替屋。
そこで︑右に述べた江戸町方の両替商の一人であった竹原文右衛門について︑
﹃両替年代記﹄および﹃両替年代記関鍵﹄︵以下﹃関鍵﹄と略す︶より︑述べていきた
い︒両替商竹原は︑近世中期以降に江戸の脇両替屋として頭角をあらわし
︑文化
おく
︒
本文書の理解・位置づけを明確にするために︑必要な範囲で江戸の両替商のあり方と︑竹原文右衛門について述べておきたい︒
江戸町方の両替商の種別は︑左のとおりである︵﹃両替年代記関鍵﹄巻二
︑︱ 二頁
︶︒
イ ︑三組両替屋:・銭の売買のほかに︑金銀の両替をも取り扱う︒
ロ︑番組両替屋⁝銭を主として取り扱う︒
つぎに︑江戸町方の両替屋
における︑種別ごとの人数変遷を
表
一に
示し
てお
く︒
なお︑松好貞夫氏は本両替屋の機能について︑﹁信用及び資力の大なるものであり︑上納金
の検査︑金銀相場立︑売買及び両替︑
其他一般両替業務を営みしものであるが︑銭の両替は行はなかった︒﹂︵﹃日本両替金融史諭﹄二頁︶とされ
︑脇両替屋については﹁中に
は金銀両替︑為替を行ふものもあっーたが︑主として銭の両替を営みしものであっ
て︑市中各町に散在し﹂︵同前︶たと︑
極めて簡潔に述べられているので引用して
二︑ 江 戸 の 両 替 商 と 竹 原 文 右 衛 門
あろうという見地より︑若干の検討をしていきたい︒
古 文 書 摘 録
︵ 六
︶
五年より明治五年の
仲間廃止にいたるまで︑本両替屋を勤めた︒史料における初出の時期は享保四年であり︵﹃両替年代記﹄一四八頁︶ヽ
当時は脇両替屋のうちで三組両替屋
の﹁
神田組﹂
に属していたことが知られる︒おそらく︑神田界隈に店を描えていたのであろ
う︒その後︑約九
0
年を経た文化初年までの竹原の動向は︑
.既刊史料よりはほとんど捉えられない︒
他方︑この一八世紀をとおして︑江戸町方の両替商は︑相当程度の変遷がみられた︒この状況を種別両替商の数的変化より︑追 ってみたい︒まず︑江戸町方の両替商の総人数は︑享保一二年の布達に基づく株仲間の設定により︑六
00
人に
限定
れさ
た︵
﹃徳
川禁
令
考﹄
一
Ki̲
︱ ︱ ‑
︶︒その後両替仲間株は︑安永九年に六一
︱︱五人となったが︑この増加分は寺社門前分であり︑町方分には変化がなかった︒天
明四年に八人増加して六四一二人となり︑この株数が天保改革時まで継承された︒要するに︑近世中期以降の江戸町方の両替商は約
六
0 0
人であり︑ここで種別の人数変化が問題となってくる︒本両替屋は︑
﹁明暦三年より天和年中に至る間の総人数︑多き時は
四十人より三十五•六人。少き時は、二十六•七人位の人数が存在していた。元禄年間に於て十人に減少し、享保三年には十六人
となり、その
後元文年中には十一人より八人に減じ、明和•安永年間には九人乃至六人となり、寛政末年には三人となり、文化元 年には二人に減じ︑廊箪には三井一人となった﹂︵﹃閑鍵﹄第二︑一四
i五頁︶とあるように︑減少傾向を示している︒ことに享保年間以
降の新規加入はほとんどみられず︑三井次郎右衛門と﹁三谷三九郎並其一家﹂に限定されていった︒
三谷 は 寛 政 末 年 に 急 激 に 衰 え︑文化三年七月一三日には三井一人となったのである︒つぎに︑三組両替屋は︑享保以前の動向は不詳であり︑享保
1
天明初年の時期には数的変化は乏しい︒けれども︑天明
1
享和年間にかけて人数を約二︑三倍に増加させている︒また︑番組両替屋は︑天明初年までは一二組両替屋と同様に大きな変化はみられないが︑天明
I
享和年間に約四0
人減少している︒
右のことより︑江戸町方の両替株仲間における種別ごとの人数変化について︑史料が比較的明確になる享保以降享和年間に限定 するならば︑次のようになる︒
享保ー天明初年の時期:・本両替では人数が減少する過程で、三井•三谷一家の寡占体制が確立したこと。三組および番組で は︑人数的変化がほとんどみられないこと︒
天明ー享和年間までの時期:•本両替では三井一人のみが存続していること。三組が急激に増加したこと、番組はそれとの関連
で数的に若干減少したこと︒
このような一八世紀における江戸両替商の変動は︑表一より推定して︑享和年間までには収拾され︑文化年問以降再び︑種別ご
との人数という事象に限るならば︑相対的に安定した状況を現出した︒いい換えるならば︑江戸における両替商の種別ごとの再編
右の状況のもとで︑文化三年七月︱四日に︑竹原文右衛門および升屋源四郎︑播磨屋新右門の三人ぱ︑三井次郎右衛門一人とな
った本両替屋の臨時補助として︑金銀相場書上を三井とともに四人立合で実施するように︑奈良屋役所より指示された︒﹃両替年
代記﹄には左のように記されている︒
七月十三日︑三谷勘四郎店故障之儀︱︱て暫相休候旨︑三井へ被届出候︒初三井ふ樽へ聞合候所︑月番ふらやたと之儀︱︱付︑同
所た届、三勘休店仕、壱人5―相成、差当り明日か書上も壱人——ては難極、引続差支え廉々、北御番所毎暮金銀包立、平日弐朱
︵ 繰 ︶ 判引替御用︑清水様包金銀︑諸御役所金見等︑其外不時御用向等︑是迄は行事差支之節も両人1一て差操相勤候へ共︑壱人ニ
ては万一差支之儀奉恐入候間︑本両替へ加入之者御差図被下度旨︑書面を以相願候︒
呼出し︑本両替屋出来候迄︑日々三井方へ立会︑書上相庭取極候様被
立会候条︑差図頼入候段︑申来卜
云々
︒
右ー—付、即日竹原・播磨屋・升屋御
仰付候由︳︳て︑三井竺一一人之者届︳︳来︑乍不存儀可
すなわち︑三井よりの﹁書上も壱人︱︱ては難極﹂という本両替屋の業務遂行に支障をきたすといった訴えにより︑竹原他二名を
﹁書上相庭取極﹂るための補助としたのであった︒つぎにあげる史料は︑この時の竹原他二名の提出した請書であり︑﹃両替年代
記﹄文化三年七月一三日の史料と︑内容的に重複しかつ長文であるが︑左に記しておきたい︵﹃関鍵﹄巻一︑四七0
ーニ
頁︶
︒
成が一応の成果をみた︑とされるであろう︒
古文書摘録︵六︶ 文化三寅年七月十四日
升屋源四郎
代 佐 兵 衛
〇
播磨屋新右門
代 弥 兵 衛
〇
竹原文右衛門
代 市 兵 衛
〇
一昨夕奈良屋御役所御配付名主か相廻候所︑唯今罷出候様竹原文右衛門・升屋源四郎・播磨屋新右門右三人同道罷出候所︑今
︵次
︶
日︑本両替屋三谷勘四郎故障有之︑暫商売相休申度申立︑
右︱
︱付
三井
治郎
右衛
門壱
人︱
︱て
t
立会無之︑相庭取極差支候故︑先当分之右三人三井次郎右衛門申合立会之上︑相庭書上無差支致候様被仰渡︑尚追而御調も可有之旨被仰付候︒則今日御請
書奈良屋御役所へ差上申候︒左ミ
︵次
︶
一本両替屋一ー一井次郎右衛門•三谷勘四郎両人之内、勘四郎義故障有之、暫商売相休度旨申立、右ー—付治郎右衛門壱人二而t
立会無之︑相庭取極等差支候故︑本両替屋加入人御沙汰有之迄︑銭両替屋仲ヶ間之内竹原文右衛門︑播磨屋新右門︑升屋
源四郎右三人之者当分右三井次郎右衛門と申合立会之上︑相庭書上等無差支様相勤可申旨被仰渡奉畏候︒為其︑御
帳︳
一印
形仕置候︒已上︒
右之通今日請書印形差上候︒尚叉別紙樽御役所へ御届申上候︒左ミ
︵次
︶
一本両替屋三井次郎右衛門・三谷勘四郎両人之内︑勘四郎義故障有之︑暫商売相休度旨申立︑右二付治郎右衛門壱人二て
t
立会無之︑相庭取極等差支候故︑本両替加入人御沙汰有之迄︑銭両替仲問之内竹原文右衛門︑播磨屋新右門︑升屋源四郎右
三人之者共当分右三井次郎右衛門と申合立会之上︑相庭書上等無差支様相勤可申旨︑昨十三日夕奈良屋御役所ふ被仰渡候
―—付、右之段御届奉申上候。已上。
前書
一︳
一井
願︱
︱付
︑十
二月
於樽
屋︑
この請書の内容は︑
﹁相 庭取 極﹂を﹁本両替屋加入人御沙汰有之迄﹂の期間に限って︑勤めるというものであった︒このように︑
竹原他二人が︑部分的ながらも本両替屋の業務を代行するに至ったこと︑ことに諸方面へ影響力の大きい金銀相場立を行なうこと になったということより︑たとえ本両替屋が︳︱‑井一人になったという事情を考慮しても︑竹原文右衛門他二人の両替商は本両替屋 に必要な規模の資カ・信用を保持していた︑と推察されよう︒そして竹原他二人は︑江戸町方︱二九人の三組両替屋の筆頭に位置
していた︑ということができよう︒
翌文化四年一月四日に︑三谷勘四郎が本両替屋を再開店したが︑竹原他二人は引き続いて︑金銀相場書上に従事していた︒三谷
は︑文化五年六月二三日に再び休店し
1 0
月一三日には両替株を返上した︒そこで三井は︑﹁壱人二而御用向無調法之程難計恐
入候
段︑
一昨寅年之通樽屋へ願出ル︒﹂︵﹃両替年代記﹄四二六頁︶ことにより︑本両替屋の新規取り立てを出願した︒この三井による本両 替屋増員要求が認められて︑竹原・播磨屋・升屋の三人に︑殿村佐五平と泉屋吉次郎の二人を加えて︑すなわち五人が新たに本両 替屋仲間に加入させられた︒この状況を﹃両替年代記﹄には︑左のように記している︒
御役所 樽
文化三寅年七月十四日
播磨屋新右衛門 竹
原 文 右 衛 門
左之五人町役人共付添出ル 升屋源四郎
代 左 兵 衛
〇
播麻屋新兵衛
代 弥 五 郎
〇
竹原文右衛門
代 市 兵 衛
〇
古文書摘録︵六︶ 竹原文右衛門
一井次郎右衛門
明治元年・・・村田七右衛門休業︑ 腹応
二年 三年⁝泉屋吉次郎休業
︑村田七右衛門新加入︑
••井筒屋善次郎新加入、
このように︑仲間は構成員がたえず変化し︑明治五年の仲間廃止のとき︑本両替仲間として存続していたのは︑
嘉永
︱二
年
︑︑
︑︑ 右五人被呼出、吉五郎殿被申渡候は、当時本両替屋一二井次郎右衛門壱人二而御用方難勤候——付、右五人之者本両替加入申付 候︒勤向之儀は次郎右衛門た申談可取計︑且叉日々相場書上之俵︑本両替屋居町之町役人ふ書上候緞︱︱付︑取扱方之儀は駿河
町町役人g
承合可取計︑其旨町役人一統相心得候様︑尤御
奉行衆へ伺之上被
この五人の新規加入の本両替屋が︑いかなる経過をたどって仰付られたのかは不明であり︑今後明らかにされなければならない 課題である︒この五人の本両替屋の地位は︑決して安定したものではなく︑明治初年に至るまでに︑つぎのような変遷をたどっ こ ︒
文政 文化八年三月:.泉屋吉次郎仲間除︑
. .
.
泉屋吉次郎再加入︑
. . . 殿村佐五平休業︑
八年⁝升屋源四郎休業︑
元年
゜
仰渡候と
云々
︒
泉屋
吉 次 郎
殿 村 佐 五 平
升 屋 源 四 郎
︵例
︶
継書a│A
.
. .
泊券状番号a
の文化元年の継匹゜
IIDー天保七年のもの
Bー文化七年のもの
II CI 文政
九年のもの八
I
継書A I
文化元年のもの
は︑今後の課題として残されている︒ の四人であった︒つまり︑文化五年に新規加入した五人のうち︑明治初年までその地位を確保しえたのは︑竹原
・中井の二人であった。近代になって、三井・中井•小野の三人は銀行を設立した。
以上のように︑江戸の本両替屋には上方商業資本の影響がつよくみられた︒このなかで︑竹原文右衛門のような江戸商業資本が いかに対応し︑独自の論理を展開しえたか否か︑さらに近代に入って新状況に対していかに対処していったのか︒このような事柄
三
︑ 本 文 抄 出 前述した泊券状ニニ通を︑左に紹介したい︒泊券状は
︑
形式的には類似したものがほとんどであるので
︑あえて内容的におもし
ろい四通に限った︒また︑活券状に付随している継書については︑重複を避けるために︑同形式のものは活巻状の年代の古い事例 一点を紹介するに止め︑それ以外はどの形式であるかを示すことにした︒その際は︑左のような略号を使用する︒
小野︵井筒屋︶善次郎 中井︵播笞屋︶新右門
古 文 害 摘 録
︵ 六
︶
享保十二年未十二月十二日
新 両 替 町 四 丁 目
家 屋 敷 売 主 善 兵 衛
⑱ 五 人 組 伊 兵 衛
@
五郎兵衛@
甚 三 郎
⑱ 主伊左衛門⑲
名 同 同 急度埓明ヶ可申候︑為後日永代売券証文
︑初
如件
︑
公儀様御請負申儀無之︑其上拝領屋鋪二而茂無御
座候︑尤余人ふ之預リ屋敷二而茂無之候︑此家屋敷ニ
付諸親類そ不及申︑横合ふ違乱申者無御座候 ︑ 若以来
違乱申者有之候ハ︑此加判之名主五人組売主罷出︑
御
永代売渡ッ申家屋鋪之事
一新両替町四町目東側南角表口京間拾間
裏 行 町 並 弐 拾
間︑我等所持之家屋鋪壱ヶ所︑代金六百五拾五両二此
度永代売渡ッ︑名主五人組売主立合︑右之金子不残槌
i
︱請取申所実正也︑此家鋪書入
活 券 状
①
病死被致候―—付、其許義名茂文右衛門与相成、家督相続 前書家屋鋪、其許兄文右衛門所持―—候処、当四月十五日
名 主 長 谷 川 伊 左 衛 門
後 見 冨 沢 徳 兵 衛
⑱
同
五
人 組 伊 兵 衛
⑱ 彦 兵 衛
⑱
平左衛門⑱
同右之通槌二承届候︑初而奥印致置候 ︑
巳 上
︑
三郎兵衛事
竹原文右衛門殿
文 化
元 子
年 =
︱ ‑
月 廿
六 日
文 右 衛 門 事
竹原四郎右衛門⑱
︵ 継
書 ①
ー
A)前書家屋敷︑我等所持之処︑此度其方儀名茂文右衛門与
相改︑家督相続為致候︱︱付︑右家屋敷之儀茂相譲リ申処
実正也︑初而継書如件︑
︵ 継
書 ①
ー B
)
被致候間︑右家屋敷之儀茂被譲請候段︑槌二承リ届ヶ 竹原文右衛門殿
候︑依而継書如件
︵ 継
書 ①
IC)
相改、家督相続為致候―—付、右家屋敷之儀茂相譲申処実
文政九戌年五月廿四日 正也︑初継書如件
︑前忠家屋敷
五 人 組 弥 兵 衛
@
右之通槌︱一承届候︑初而奥印致置候︑以上
助 九 郎 事
竹原文右衛門殿
文 右 衛 門 事
竹原四郎右衛門@ 前書家屋敷︑我等所持之処︑此度其方儀名茂文右衛門与
三郎兵衛事
竹原文右衛門殿
名 主 長 谷 川 伊 左 衛 門
後 見 冨 沢 徳 兵 衛
⑱
文化七午年八月十七日
前 轡 家 屋 鋪
五 人 組 伊 兵 衛
@ 甚 三 郎
@ 源 兵 衛
@
同 同
泊 券 状
②
前書家屋敷五 人
組
弥 兵 衛
⑱ 与 七
⑱
源 兵 衛
⑲
名主長谷川伊左衛門⑱ 同 同
文右衛門事
竹原四郎右衛門⑱
(継書①—D)前書家屋鋪︑我等所持之処︑此度其方儀名茂文右衛門与
相改、跡式相続為致候―—付、右家屋敷之儀茂相譲申処実
正也︑初継書如件︑
天保七申年十二月廿五日
貞 次 郎 事
竹原文右衛門殿
右之通槌二承届候
︑初奥印致置候
︑以上
︑助⑱ 源 兵 衛
⑱
名主長谷
川伊左衛門⑮
同 同治古 文 書 摘 録
︵ 六
︶
(継書②—A) 竹原文右衛門殿 元文弐丁巳歳三月朔日
家 屋 鋪 売 主 太 郎 次 R 五 人 組 伊 兵 衛
⑱
清 五 郎
⑱
伝 七⑱
七郎兵衛⑱
主助右衛門@
名 同 同 同附諸親類モ不及申︑横合か違乱申者無御座候︑若以来
違乱申者有之候ハ︑
此加判之名主五人組売主罷出︑
急度埓明ヶ可申候
︑為後日永代売券証文
︑初而如件︑
座候︑尤余人ふ之預リ屋敷二而茂無之候
︑此家屋鋪
御永代売渡申家屋鋪之事
一駿河町南側東木戸ふ三軒目表口京間五間裏行町並弐拾
間
︑我等所持之家屋鋪壱ヶ所︑代金八百五拾両二此度 永代売渡ッ︑名主五人組売主立合︑右之金子不残槌ニ
請取申所実正也
︑此家屋鋪書入
公儀様御請負申儀無之
︑其上拝領屋鋪二而茂無御
一江戸堀一丁目竹屋吉右衛門家屋鋪表口五間裏行弐拾
泊 券 状
③ 文政八年︱二月一八日
︵継書②ー
D)
天保七年︱二月廿三日
. 永代売渡申家屋鋪之事
間︑但壱役︑東隣ハ竹屋吉右衛門︑西隣ハ大和屋庄兵
衛、
右之家屋鋪代銀拾九貰目―—永代売渡ッ申
、則代銀
槌請取申候処実正也︑就ル上を此家屋敷之儀︱一付
︑脇
汐違乱妨ヶ申者無御座候︑若以来如何様之六ヶ敷儀出
来仕候共︑此判形之者共何方迄茂罷出急度埓明ヶ相済 可申候︑為後日売券状︑初而如件︑
延享二年
︵継書②ーC)
文化七年八月二︳日 文化元年二月
︵継書②ー
B)
︵継
書⑥
T!
Aと同一形式︶
︵継
野⑤
̲ T
B
と同一形式︶︵継
書⑥
了l
Cと同一形式︶
︵継
書⑥
丁CDと同一形式︶
座候︑尤余人汐之預リ屋敷︱︱而茂無之候︑此屋敷︱︱付
諸親類そ不及申︑横合ふ違乱申者無御座候︑若以来異
儀申者有之候そ︑此致加判候五人組名主売主罷出︑急 御公儀様御請負申儀無之︑其上拝領屋敷二而茂無御
永代
売渡申家屋敷之事
一 室
町
三
町目西側南之方角ふ六軒目表京間拾間口裏行町
並弐拾間有之︑我等所持之家屋敷︑此度代金
三千百両
ニ貴殿方に永代売渡︑則五人組名主立合︑代金不残槌
︱ ︱
請 取
申 所
実 正
也 ︑
泊 券 状
⑥
竹原屋文右衛門殿
丑正月年 家屋鋪売主
竹屋吉右衛門⑱
五人組大和屋庄兵衛⑱
堺 屋 叉 兵 衛
⑱
和泉屋仁兵衛@
寄竹屋源右衛門⑱
同 同
古 文 書 摘 録
︵ 六
︶
:
什ぷふ笠;文化元子年二月 候︑初如件︑
名 同
伝 兵 衛
⑱
主助右衛門@
右家屋敷
五 人 組 清 蔵
@
譲請候段拙者共一同承届候︑依之活券状︱一継書印形致置
寛延
一l一庚午年十一月二日 竹原文右衛門殿
室家屋 町三町目 敷 売
主
宇田川乙五郎⑱
親 類 江 原 源 右 衛 門
⑱
五人組丸井治右衛門⑱
森 平 三 郎
⑱ 本 多 宗 七
⑱ 主加藤助右衛門⑱
︵継
書
⑥ ー A)
前書之家屋敷︑是迄継書無之候得共︑代々所持被致候処
相違無之︑此度貴殿家督相続被致候︱︱付︑右家屋敷茂被
名 同 同度埓明可申候︑為後日永代売券証文︑初而如件︑
右 家 屋 鋪
文 政 八 乙 酉 年 十 二 月 十 八 日 五 人 組
利
兵 衛 R
︵ 継
書 ⑥
│c)
前書之家屋敷︑文右衛
門殿所持之処
︑今般貴殿家督被致 相続
︑右家屋敷名前共被譲受候段一同承届
申候
︑依之泊
券状
に継書致置候処
︑初如件
︑ 三郎兵 衛 殷 事
竹原文右衛門殿
名 主 助 右 衛 門
@
文化七午年八月十二日
同
家屋敷
五人組清
三 郎 兵 衛 殿 事
竹原文右衛門殿
蔵⑱
利
兵 衛
⑱
(継書⑥—B)
前書之家屋敷
︑貴殿兄文右衛門殿所持之処
︑当四月十五
日病死被致候―—付、今般貴殿儀家督相続之上右家屋敷被譲請候段致承知候
︑依之為後証泊券状
に継書致置候
︑初
如件
︑︵ 継
書 ⑥
│D)
竹原文右衛
門殿 前書之家屋敷
︑実父文右衛門改四郎右衛
門殿被致所持候
処
︑此度悴貞次郎改文右衛門殿に被
相譲候段我等承届
申候
︑依之泊券状継書致
相渡申候処
相違 無 之 候
︑
初而如
件
︑天保申七年十二月
廿三 日
名 同
和
人 五
組
利
助 九 郎 殿 事
文右衛門殿
名 同助⑱
助⑱
主助右衛門⑱ 蔵⑱
主助右衛
門
⑱ 清
古 文 書 摘 録
︵ 六
︶ 四︑歴史的意義
近世史研究における流通過程の問題︑ことに金融をめぐる研究動向は︑それを担った両替商の研究として展開されている︒この 両替商金融に関しては︑戦前の代表的な研究である松好貞夫氏の﹃日本両替金融史論﹄において︑また戦後では作道洋太郎氏の一 連の研究をはじめとする諸成果においても︑地域的には大坂の状況が主として採りあげられてきた︒これは
︑近世をとおして︑両
替商金融の中心が大坂に存在し︑江戸の両替商金融は大坂の従属的地位にあったからにほかならない︒
しかしながら︑
一八世紀後半以降
︑江戸を中心とする金融市場は︑江戸地廻り経済圏の成立・展開︑幕府による
全国市場として
の江戸の相対的な重視政策等々の要因により︑しだいにその重要
性が増加していったと考えられる︒けれども︑今日まで
の研究動
向は︑前述したとおりである︒さらに︑江戸の両替商の研究は︑両替商金融の機描
・機能の究明︑およびその変遷を追求すること
一理由として考えられる︒
に基本的視点がおかれてきた︒このために
︑個別両
替商の経営状態にまでたちいった研究はほとんど存在しない︒これには
︑
二項
で述べたように︑江戸の本両替屋の浮沈が極めて激しく
︑三
井次郎右衛門一人を除いては︑その地位を長期間にわた
って保持しえ
た者は存在しないことも︑
江戸の本両替屋経営の不安定性の諸因の︱つを︑江戸の本両替屋の経営基盤の構造に求めるならば︑個別経営のあり方そのもの が分析対象とされなければならない︒しかしながら︑全般的に現存する経営史料は乏
しく︑したがって経営分析は極めて困難であ
る︒そこで︑本項では︑泊券状を検討することにより︑竹原文右衛門が︑江戸の三組両替屋から本両替屋へと︑階層的に上昇して いく過程を追ってみたい︒もちろん︑活券状の検討による竹原の動向の究明は︑両替商の経営史料の分析とは異質のものであり︑
右の課題に答えるものではない︒けれども︑土地所持の過程は
︑
両替商経営のあり方と一定程度の相関関係をもつものと考える︒
さらに︑近世都市において町屋敷を所持することは
︑
法制上正式の町人として身分を認められることであり︑両替商という性格
表 二 竹 原 文 右 衛 門 所 持 泊 券 状 一 覧 表
│ 町 名
I
問 口 x 奥 行I
活 券 料I
所持年月日I
売 主I
継" AI
継 街 BI
継 苔 CI
継 笞D1 新両替町四丁目 京 問 10問 20問 金 655両 享保12.12.12 笞兵衛 文 化1.3.26 文 化7.8.17 文 政9.5.24 天保7.12.25 2 駿 河 町 京 問 5問 20問 金 850両 元 文2.3. 1 太郎次 文 化1.2. 文化7.8.12 文 政8.12.18天 保7.12.23 3 江戸堀一丁目 5問 20間 銀19貫 延享2.1. 竹屋吉右衛門
4 室町一丁目 京 問 5問 20問 金 1230両 延享2.6. 1 阿くり 文 化1.2. 文 化7.8.12 文 政8.12.18天 保7.12.23 5 本町三丁目 京 n:i 4問 113問 3寸
金 460両 寛 延2.3.16 権左衛門 文 化1.2. 文 化7.8.12 文 政8.12.18天保7.12.23 13問1尺
6 室町三丁目 京 問 10問 20間 金 3100両 究延3.11.2 宇田川乙五郎 文化1.2. 文 化7.8.12 文政8.12.18天保7.12.23 7 馬喰町三丁目 京 問 7問2尺5寸 22問4尺 金 1300両 宝 暦9.7. 2 九兵衛 文化1.3. 22 文 化7.8.23 文 政9.5.20 天保7.12.24 8 本町四丁目 京 問 7問 20問 金 2800両 宝 暦11.8.23 沖左衛門 文 化1.3. 21 文 化7.8.13 文 政9.5. 天保7.12.24 9 江戸堀一丁目 14問3尺 20問 銀 115箕 宝 暦14.4. 笞屋茂作
10 江戸堀一丁目 9間 20問 銀31貫700匁 明和2.2. 若松屋吉右衛門
11 本小田原町一丁目 京 問 3問 20問 金 400両 明和5.12.15 るい 文 化 1.2. 文 化7.8.12 文 政8.12.18天 保7.12.23 12 瀬戸物町 京 問 9問3尺 20問 金 1650両 明 和6.8.14 新助 文 化1.2. 文 化7.8.12 文政8.12.18天 保7.12.23 13 馬喰町三丁目 京 問 3問 23問2尺
}金 1250両 明 和6.12.3 三郎兵衛 文化1.3. 21 文化7.8.23 文 政9.5.20 天保7.12.24
京 問 3問 23間2尺5寸
14 馬喰町三丁目 京 問 6閥 22問2尺 金 800両 明和8.9. 1 利 八 文 化1.3.21 文 化7.8.23 文 政9.5.20 天保7.12.24 15 神田鍛冶町—コ丁目 京 問 4問5尺3寸 金 500両 安永5.10.26 与惣兵衛 文化1.3. 21 文 化7.8.13 文 政9.5.19 天 保7.12.24 16 柴井町 京 問 {11問 18間 金 1750両 究 政7.2. 8 窯兵衛 文 化1.3. 20 文 化7.8.17 文 政9.6. 5 天 保7.12.
13間
17 柴井町 京 r.1 3間 18問 金 350両 究政7.2. 8 嘉 兵 衛 文化1.3. 20 文 化7.8.17 文 政9.6. 5 天 保7.12. 18 深川森下町 10問3尺 6間 金 95両 究政12.2. 9 喜 三 郎 文化7.8.28 文 政9.6.11 天 保7.12.27 19 宇 田 川 町 京 問 3問
}金 1100両 文 化4.11.11 藤兵衛 文化7.8.17 文 政9.6, 5 天保7.12.15
"
京 間 3閥
20 潟島天神門前町 田 舎 問 {7問 17問4尺 金 1000両 天保10.8. 27 旦勢 4問 17間3尺
21 馬喰町三丁目 京 問 6間 23間1尺 金 850両 嘉 永2.9.24 久兵衛 {6問5尺2寸
・ ト
o o r
古文書摘録︵六︶
上︑信用を保持するうえでの必須条件であった︑とされよう︒そこで︑竹原文右衛門が︑江戸において両替商としての地位と信用 とを獲得して︑階層的に上昇していく過程を︑町屋敷の集積経過をとおして追求することは︑ある程度の経営分析的要素を充たす ものと考える︒この視点に立って︑泊券状を検討していきたい︒
本館に現蔵されているニニ通の活券状の内容およびその継書を︑まとめて表にしたものが前頁の表二である︒
上昇経過を考えていきたい︒したがって︑考察の中心は︑
この竹原の土地集積過程と︑二項で述べた若干の経営動向とをあわせて︑近世中後期における︑竹原文右衛門の両替商としての
一八世紀における集中的な土地集積期となることを︑あらかじめことわ
④
?I
享保年間⁝三組両替屋としての地位確立期
@元文
1
安永年間:・経営の拡大期
◎天明ー享和年間⁝経営の充実期
④
?I
享保年間竹原文右衛門が︑両替屋を開業した時期は不詳であるが︑史料上に初出の時期は︑前述したように︑享保四年である︒これは︑
三組両替屋仲間の﹁神田組﹂
の連印のうちに︑その名がみえることによるものであり︑この期における経営規模その他は不明であ る︒他方︑本文書中の最古の活券状は︑享保︱二年に新両替町で家屋敷を取得した時のものである︵活券状
①︶︒新両替町は商業地域
であるが︑江戸における金融の中心地よりは若干離れた場所であった︒
右のことから︑享保期は︑竹原にとって︑いまだ江戸金融市場の中心地へ進出するまでにはいたらず︑経営的にその前段階であ った︑と推定されよう︒けれども︑@の時期との関連でみれば︑︳︱‑組両替屋約六
0
人のなかでは︑上層の地位を占めていたと考え
⑤文化
I
明治初年⁝本両替屋期って
おき
たい
︒ 考察の便宜上︑左のような時期区分をしておく︒
られ
よう
︒
@元文ー安永年間
この期に取得した泊券状は一四通で、全体の六四%を占めている。さらに油券料の合計額は金一四三四0両•銀一六五貫七00
匁で︑全泊券料の七二%︵金一両
銀六〇匁で換打︶に相当する︒また︑取得した家屋敷は︑江戸における金融市場の中心地であった本I I
両替町・駿河町に︑該当するか隣接地であった︒なおこの期の特質の一っとして︑大坂への進出があげられる︒このことは︑泊券
状③⑨⑩が︑大坂において諸藩の蔵屋敷の多数存在した江戸堀の泊券状であることによる︒以下︑この期の一四通の活券状を中
として︑元文
1
安永期における竹原の経営動向について︑判明する範囲内で考察していきたい︒こ こ で 泊券状②は、元文二年――一月朔日に、駿河町で間口五間•奥行二0間の家屋敷を、太郎次より取得したものである。
鍵﹄巻二の﹁江戸の本両替仲間人名一覧表﹂をみると︑元文元年に江島屋太郎次休業の記載がある︒江島屋太郎次は駿河町に店を
構えた︵﹃両替年代記﹄ニニ五頁︶本両替屋で︑遅くとも寛文七年以前より本両替仲間に加入していたが︑元文元年に仲間除となった者で
あった︒これらのことから︑活券状②は︑江島屋太郎次の店を竹原が買収したものと判断できる︒このようにして︑竹原文右衛門
は︑多くの本両替屋か店を横える駿河町へ進出し︑金融市場の中心地に橋頭堡を築いたのであった︒そしてこの駿河町進出は︑竹
原の両替屋経営にとって︑
泊券状③は︑延享二年一月に︑大坂江戸堀一丁目に家屋敷を取得したものである︒竹原は遅くともこの年には大坂へ進出したの
であり︑同四年には肥後新田藩三万五千石の蔵元・
掛屋
を勤
めて
いる
︵﹃
大阪
府誌
﹄一
ー一0四頁︶︒なお︑同藩の蔵屋敷は堂島新地三丁
目にあり︑名代は阿波屋勘左衛門であった︒大坂のこの期における両替商の一般的な動向について宮本叉次氏は︑蔵屋敷の名代
蔵元・掛屋になるものが著しく多くなり︑大両替屋は名代よりもむしろ︑蔵元・掛屋になったものと思われる︵﹁大阪の蔵屋敷﹂﹃大阪大
学経
済学
﹄一
八
ーニ所収︶
ヽ 一画期とみなしうると考える︒
と述べている︒竹原の行動は︑この期における大坂の大両替屋の動向と合致したものであり︑それが竹原の
経営規模を推定する根拠とはなりえないけれども︑大坂への積極的進出を意図したことのみは確定しうると考えられる︒この竹原
﹃ 関
古文書摘録︵六︶
の意図は︑泊券状⑨⑩の取得という事実から明らかなように︑宝暦末年
1
明和初年にかけて︑一定程度の成果と展望とをあげたも
のと思われる︒つまり︑
同じ江戸堀一丁目に新たにニヵ所合せて四七
0
坪・注券料︱四六貫七OO
匁の家屋敷を取得したのであっ た︒しかしながら︑遅くとも安永六年までに
︑
竹原は肥後新田藩蔵屋敷の蔵元
・掛
屋を退いている︒これ以降の時期における大坂 での動向は不詳であるが︑本文書中の文化元年
・文政︱一年の︑
所持家屋敷の境界をめぐる二通の﹁一
札
﹂は
︑本書の差出人
・宛
先よりみて︑
大坂に関するものであると考えられる︒このうち︑文政︱一年の﹁一札﹂の宛先は﹁竹原屋一五郎殿﹂となってい る︒竹原屋一五郎という人物は︑文政一
0
年以降の各本両替屋の手代名を編年に連記した﹁本両替屋判形帳﹂︵﹃関鍵﹄巻一所収︶によると︑天保四
I
六年の間︑竹原の手代名の筆頭に記されている者と同一人であると推定しうる︒このことより
︑
代では最上格の者で︑天保三年以前に関しては江戸を離れていたため︑判形帳には記されていなかったのであろう︑と考えるのが 適切と思われる︒すなわち
︑
一五
郎は
︑文政︱一年当時は︑
竹原の大坂における責任者としての地位にあったのであり︑このため
﹁一札﹂の宛先になっているのであろう︒このようなことから
︑化政
期に︑竹原の所持地は大坂にも存在し
︑さらに手代としての
一五郎の格より推定して︑ある程度の営業行為を実施していたと思われる︒しかし
︑
具体的なことはまったく不明である︒
以上のように︑この元文
1
安永年間は︑駿河町へ進出したこと︑江戸の一等地を多く所持したこと︑大坂へ進出し一時的ではあ
るが蔵元・
掛屋を勤めたこと︑等々が指摘できる︒この期に竹原文右衛門は︑両替商として飛躍的に経営を拡大し︑後年のための 基礎を築きあげたようである︒
◎天明
1
享和期この期に︑
竹原文右衛門が直接取得した家屋敷祐券状は⑯⑰︶の二通であった︒泊券状⑱は
︑
宛先が竹原一族の﹁七郎助﹂となっ
ており︑
文右衛門所持地へ編入されたのは文化七年以降︵継柑
B)
であ
った
︒ この一八世紀末における竹原の土地集積への動向は
︑
◎の時期と比較して激減している︒また新たに取得された泊券状⑯⑰
︶の柴井町は︑
文化四年取得の泊券状⑳の宇田川町と同一地域であり
︑従来の取得地よりみれば︑地
域的には直接の関連性をもたない︒
一五郎は竹原の手
り︑同一観点より取得されたものと推察できる︒ この時期は︑二項で述べたように︑
竹原文右衛門が江戸の本両替屋を勤めた期
間である︒したがって︑この時期区分は取得泊券
状の様相によって設定したものではない︒けれども
︑この時期に取得された四通の泊券状を一応検討しておこう︒泊券状⑲は︑◎
の時期に相当する活券状⑯⑰の延長線上に位置するものである︒活券状⑳は
︑
天保
一
0
年の湯島天神門前町のものであるが︑これ
は他の活券状との関連性をみることはできない︒活券状⑪⑫は
︑いずれも尊末期のもので︑◎の時期の土地取得状況と類似し
てお
この時期における竹原の経営のあり方は︑それ以前の三組両替屋時代とは基本的に異なり
︑本両替屋としてのあり方であった︒
竹原の経営は︑本店の置かれていた室町三丁目︵活券状⑥︶を始めとして︑
すでに取得されていた家屋敷を中
心に展開されたものと考 @文化ー明治初年
せて
︑他の分析方法よりの究明が必要であろう︒ つまり︑
安永年間までの土地取得状況よりみれば
︑この期は質・星ともに後退している︒それは︑竹原のこの期の経営のあり方に
規定されたものと考えられる。この観点に立つならば
、寛政元年九月末日に川村伝左衛門•森川五郎右衛門とともに勘定所御用達
に追加任命されて︑幕府の寛政改革において活躍したこと︵竹内誠氏﹁寛政改革と﹃勘定所御用達﹄の成立﹂︑
﹃ 日
本歴史﹄
︱二
八
•九号)、および文化期以降の経営のあり方、すなわち本両替屋として明治初年までその地位を保持しえた経営の強靱性よりみて
この天明
1
享和期は経営の充実期とみなすことができる︒つまり
︑この期の土地取得状況の後退は︑江戸金融市場中心地域におけ
る所持地拡大の不必要性の結果であり︑
竹原の従来よりの所持地の利用状況が明らかにされないかぎり明言
しえないけれども︑竹
原の両替店経営に必要な諸施設が︑この時期以前までに取得された結果であると思われる︒
そして︑このような推論に基づくならば︑この時期は
︑活券状⑯⑰︶の取得意図を除外すれば︑@の時期に拡大された経営規模に
合致するような︑
経営内容の充実を経営の基本的方針としていたのではないかと推定される︒竹原のこの時期の経営のあり方の究
明に関しては︑
右のような推論しかなしえない︒二項で述べたように
︑
この時期が江戸両替商の再編成期に相当したことをもあわ
古 文 書 摘 録
︵ 六
︶
度の実現過程をみとめることはできると思われる︒ え
られ
る︒
さら
に︑
この時期に新たに取得された家屋敷は︑活券料より判断して︑
おわりにあたって︑本稿でみてぎたことを︑簡単にまとめておきたい︒ 物件としての規模は中以下であることより︑
竹原の土地集積という観点よりみれば︑
◎の
時期と同様︑主要な時期ではない︒その経営に占める新たな土地取得のもっ意味は低
く︑両替商経営の動向に拠らなければ︑竹原の経営状態は解明できない︑と考えられる︑
従来の研究史では︑竹原文右衛門という両替商を営んだ江戸商業資本の存在について︑それが江戸の本両替屋を勤めた文化期以
降に限っては︑ある程度明らかにされてきた︒しかしながら︑竹原が商業資本として成長を遂げた過程に関しては︑なんら明らか
にはされていなかった︒
本稿では︑この不明であった竹原の成長過程を︑ニニ通の活券状をとおして︑追究してきた︒ここで特徴的なことは︑元文
1
安永年間の四
0
余年のうちに︑取得泊券状の過半が集中し︑両替商竹原文右衛門の所持家屋敷の基本的な体裁が整えられたことであった︒このことより︑元文
1
安永年間に︑両替商経営発展の直接的な段階設定はできないにしても︑経営拡大の意図および一定程油券状の利用による個別経営の分析は︑右のような状況には︑それなりの有効性をもつと考える︒しかし︑竹原の場合にして
も︑天明期以降の経営分析には︑ほとんど有効性をもたない︒なぜならば︑両替商としての経営はさらに拡大されていったと想定
されるにもかかわらず︑新たな土地取得に関しては減退傾向を示しているからである︒このように︑油券状の利用による経営動向
の究明は︑その限界性も大きいものと思われる︒
最後に︑本稿の主題より若干はずれる問題であるが︑文化五年に竹原以下四名が新しく本両替屋仲間に加入した状況について︑
問題提起をしておきたい︒二項で述べたように︑江戸の本両替屋人数は︑近世を通して漸減傾向にあり︑文化初年には三井一人と
なった︒これにより︑竹原以下五人が新たに加入したのであるが︑このおりの加入のしかたが︑今後明らかにされなければならな
い︒つまり︑竹原・播磨屋︵中井︶のように︑本両替を勤めうる能力をもった三組両替屋か︑なぜそれ以前の時期より加入せずに︑
このおりに加入した︑もしくはさせられたのか︒つまりこの新規加入は︑形式的には幕府権力の代行者たる江戸町年寄より﹁仰付﹂
られたのであるが︑実態はいかなるものであったのか︒さらに︑このおりの五人は︑﹁仰付﹂にいかなる対応を示したのか︒こ れらの究明は︑近世中後期における︒江戸両替金融史研究の一論点たりうると思われる︒それと同時に︑本稿に関しても︑天明期 以降の状況がより明確になると考えている︒