長 崎 の 唐 人 屋 敷
安 野 虞 幸
一 自己紹介
ただ今 ご紹介 に預か りま した安野虞幸 と云 い ます。弘 前大学 に も う十五年 以上二十年近 くもお ります。学 生たちには 「弘前 にいて長崎の ことをや る」 と何か駄 じゃれ の よ うな ことを云 って授 業 をや って来 てお ります。 なか なか旅行 に行け ない ことな どか ら,私 に とって長崎が段 々と遠 く な って参 りま して ,逆 に地元 の歴史の方 に段 々 と関心が 向か って きてお りますO東北 ,中で も北 東北 には ,中世 には安藤氏 とい う豪族 が居 りま して ,あれ は一体何 だ ったのだ ろ うと云 うことに な ります。安藤氏 につ いては ,海 である とか流通 であ るとかを中心 に領主権力がで きて行 くら し い と云 うお話 を聞いて参 ります と,北東北 の世界 は沖縄 である とか東南 アジアの世界 と近 いので はないか とい うことにな り,さらに海 であ る とか流通 である とかを考 えて参 ります と,それ では イス ラムの世界 は ど うであ ったのだ ろ うか ,な どとい うことに まで関心 を広げ てい る もので ござ い ます。
は じめに
今 日これか らお話す る ことですが ,実 は 「ど うしよ う, ど うしよ う」 とおろおろ迷 ってお りま して ,ど うお話すれば良いのか分か らないでい るのです。 実 は最 初 頂 いた テ ー マは 「長 崎 の 出 島」 に付 いて述べ よ,とい うことであ った のです が ,いろいろ考 え ま して 「長崎 の唐人屋敷」 と い うことに変 更 させ て頂 きま した。 このテーマの問題 につ いて ,お話 の最後 で一 言云わせ て頂 き ますQ それが今 日お話す る ことの第一点 です。
次 に 「都市 長崎 の プ ラン」 につ いて。 これが今 日お話す る第二点 目の問題 ですO実 は この問題 は最近私が上梓 しま した 『港市論
』 1 )
の中で既 に大部述 べてい ることなのです が ,時間のつ ぶ しょ うもないので ,時間を大分割かせ て もらい ,ス ライ ドの説 明を交 えなが ら,ここで述べ させて 頂 きます。最後 に本 日のテ ーマ 「長崎 の唐人屋敷」 の問題 につ いてチ ョコッと述 べ て行 きたい と 思 い ます。 それ では早速 ,ス ライ ドをお願 い しますO
ス ライ ド1の地 図を見 ます と, ここに本 日のテーマであ ります 「唐人屋敷」 があ ります。今回
‑1 6 9‑
の シンポジ ウムのテーマが 「港 の成立 と形態」 とい うことで
,
「形」につ いて述 べ る とい うことで あ ります。 とす る と,
「ここに唐 人屋敷が あ ります。ここが新地 の唐人 の荷物 の蔵 であ ります」 と 申 し上げ る と, これ で話 は全部終 りであ りま して , これ以上何 も付け加 え る ことはないのではな いか とな ります。「形態」 の話 は これ で全部 お しまい とな ると,「さあ ,ど うし よ う」 と云 うこ とに な ります。
‑‑それ では とい うことで ,第二点 目の問題 に入 って行 くことに致 します。
スライ ドの説明
1
長崎全体 の地形ス ライ ド1の地 図を見 る と,左上隅 にオ ランダの黒船 が あ り,小 さな船 が この黒船 を曳 いて き てい る。その下にはいかに も中国船 ら しい ものが見 え
,
「唐船」 と書 いてある。今長崎 の町 の真申 を流れ てい る中島川が地 図上 では右か ら左 に流れ てい るの で ,河 口の方 の海 は段 々 と土 砂 で埋 まって くる。現在 では 「出島」 も島ではな く,御存 じの とお り, この辺 り総 てが埋 め 立て られ て 陸地 にな ってい る。逆 に図の上方 の海 は深 い海 にな っていて ,埋 め立 てがで きず ,現在 で もこの 図 とほぼ 同 じ形 が残 ってい る。つ ま り,深 い ところに喫水 の深 いオ ラ ンダの黒船 が入 って きて ,‑ 1
7 0 ‑ス ライ ド
1
浅 い ところに唐船が入 って くるわけである。
長崎全体 の地形 についてだが ,出島の右手にある 「波止場」は現在 も変わ らず波止場 とな って い るが ,ここか ら遊覧船 に乗 って湾 内に出て行 き,後 ろを振 り返 ると,町の後 ろに大 きな山がそ びえているのが見える。 この地 図には載 っていないが ,きれいな三角形 の山で
,
「金比羅 山上 中 世では 「崇岳」 と云 う。それで今度 は逆 に ,外洋か ら湾 内に船 で入 って くるときには ,この高い 山を 目指 して湾 口か らズ ー ッと入 って くれは よい ことにな る。一方 ,湾 の奥には海 に突 き出た小高い岬があ り,長崎開港 当時であれば ,中島川に沿 った 「今 魚の町」の辺 りが漁師町であ った と云われている。そ こまでは浅瀬 の干潟 の ようにな っていて , 浅 い海 に続 いて ,海 とも陸 ともつかない世界が広が っていた と思われ る。つ ま り,この地 図の描 かれた江戸時代 の段階では ,海 は ここまでであ ったのだが ,長崎開港 当時は もっとず っと奥 まで 入 り込 んでいたに違 いない。
図の上方には 「船津町」が見 えるが ,ここには立 山か らの小川が流れ込 んでお り,小川 の河 口 として,昔か ら船 の着 く 「津」 であ ったのではないか。それゆ え 「船津町」 と云 う地名は古 くま で遡 ることがで きるのではないか と思われ る。 また奉行所 「西屋敷」 の地 は海 と陸 との接点 とし て風光明娠 な場所 で ,昔は 「森崎」 と云 って 「恵比寿様」や 「森崎権現」 の社があ った。 またそ こには 「榎」 の樹が あ り,市場にな っていて ,海幸 ・山幸を交換す る場所 であ った との記録があ る。
今見ている地 図は江戸時代にで きた ものだが ,中島川 の河 口に 「榎津町」 と云 う町がある。岬 の先端 の森崎の地が もともと榎 の樹 のある 「津」だ ったのに ,その 「榎津」が後 にな って森崎の 地か らこち らに移 った ものか ど うか。 あるいは また 「榎津」 とい う 「津」が もともとここにあ っ たのか ,等 々が考 え られ る。
2 貿易船 とハ シケ
ス ライ ド
2
の絵 は中国の方か ら来 る船 ,ス ライ ド3
は東南 アジアの方か ら来 る船で ,どち らも 中国船 ・唐船 である。 またス ライ ド4
ほ 「長崎湾 内唐船入津丸荷役之図」 と説 明があ り,唐船か ら‑ シケに荷物 を積換 えている図で ,当時荷物 の積換 えを 「丸荷役」 と云 った。 この図では ,ど うい う荷物 が来たか ,禁制 品はないかな どを役人が検査 して荷物 をいちいちチ ェックして 「荷改 帳」 に ノー トしているところが描かれている。ス ライ ド
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はオ ランダの黒船 と出島の絵 であるが ,ここで も全 く同 じで,船か ら‑ シケに積換 えてか ら陸揚げを している。 南蛮尿風に よ く描かれている南蛮船 の場合 もやは り同 じである。つ ま り,外洋を航行 して長崎にや って きた船 は ,直接岸壁 に着かないで ,必ず一 旦小船に荷物を積 換 えてか ら陸揚げを したわけである。それゆ え,長崎が港 として存在す るためには ,小船 ・‑
シー1 71‑
ス ライ ド2
ス ライ ド
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ス ライ ド
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ス ライ
ド5ケとか ,丸荷役 とい う仕事が最初か ら基本的にあ った ことになる。 この仕事を港 の中の誰が行 う かが ,港 のあ り方を考 える上で大切 なポイ ン トとな って くると思われ る。
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唐人屋敷の外観次のスライ ド
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は円山応挙 の絵であるが ,左上 の方には黒船が小 さい船に曳かれて湾 内に段 々 と入 って くる様子が描かれている。左下 の唐人屋敷には,「大門」 と 「二の門」 と門が 二つあ り,二重に区切 られ ,柵や塀 で囲 まれ ている様子が良 く描かれ て い る。 図 の下 ,オ ラ ンダの 国旗 が 立 っている 「出島」 もオランダ人を人 々か ら隔離 して収容す る施設だが ,こち らの方 も同様 に中 国人たちを隔離 して収容 しているのである。 オ ランダ貿易の方は ,人 も荷物 も共に出島に収め る のだが ,唐人貿易 の方は ,人は唐 人屋敷‑ ・荷物 は新地蔵所へ と分かれている。
ス ライ ド
7
は,幕末 の様子を描いた ものだが,
「唐人屋敷」の ところが もの もの しく囲まれてい る様子が示 され ている。 「出島」が収容所だ と云われ ているが ,こち らの方 も隔離 して収 容 す る「収容所」だ と思われ る。 この 「唐人屋敷」 は長崎の町の外側 ,十善 寺郷 とい う所 に も とも と あ った幕府 の薬園をつぶ して ,そ こに元禄二年 に建 て られた もので,唐船 五十隻分 ,釆舶唐人五 千人を一度に収容す ることがで きる施設であ った。
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1 7 4 ‑スライ ド
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スライ ド
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4
波止場 ・広場 ・岬の教会 ・遊廓町 の問題 を考 え る点 ではス ライ ド
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の絵 は よ くで きた ものだ と思 う。波止場 か ら西屋敷 に至 る ところが広場 にな ってい る。 よ く南蛮尿風 な どに クジ ャクだ とか オオ ムだ とかそ の他 いろいろな 珍 しい品物 を広場 にパ ー ッと並べてい る絵 があ り,あの広場 は市場 だ った のではないか と思われ るが ,それ では この長崎 の中で , どこが市場 だ ったのか とな ると, この波止場 の広場 が市場 と し て も使われ ていたのではないか と思われ るのだが , よ くわか らない。実 は 日本 では御承知 の とお り,町 のス トリー トが市場 の代 りを してい る とい うのが通説 なのだか ら,実際は ど うだ った のだ ろ うか とい うことにな る。ス ライ ド
7
の中央部分 にあ るのが西屋敷 の奉行所 で ,奉行所だか らその石垣 は大層厳 しい。現 在 で もこの石垣 は残 っていて ,石段 の部分は 自動車道路 にな ってい る。奉行所 の場所 は現在 は県 庁 にな ってい る。昨 日の高橋 均先生 のポル トガル の商館 につ いてのお話 で ,ポル トガルは まず最 初 ,砦 を築 いてい くとあ ったが ,この場所 が ポル トガルの商館 ・砦 に当た る。私 と してほ 「岬 の 教会」 と名付けて いるのだが ,イエズス会 の支配す る 「岬 の教会」が ポル トガルの商館 を兼ね て いた と考 えている。次 のス ライ ド
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は江戸時代 の初め ,まだ唐 人屋 敷がで きていない ときの もので ある。 で きてい ない ときで も唐船 は来 てい る。 ここで紹介 してい る長崎 の町 の南の外れ の辺 りが 「丸 山町」 とか‑1 7 5‑
スライ ド 8
「寄合町
」
とい う遊廓 であ る。 ス ライ ド9
はス ライ ド7
とほぼ同 じ絵 だが ,高台の‑香西 の端 の ところが 「平戸 町」 であるが ,こち らは片側 だけの町にな ってい ることがは っき りとわか る。 平 戸町 の ところの石垣 は今 で も残 ってい る。5
唐人屋敷の内部 とその周辺ス ライ ド
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と1
1だが ,この二つ は共に唐人屋敷 の内部を描 いた ものであ るO唐 人屋敷 の第一番 目の門 「大 門」 と第二番 目の門 「二の門」 との間で ,見れ ばわ か る よ うに ,屋 敷 を 出た 「二 の 門」 の ところで 「探番」 と呼ばれ るお役人が ボデ ィチ ェックを してい る。唐 人が外 に出てい く際 に一 々 ここで改め られ る。それ を見 てい る役 人 もい る。 「大門」 と 「二 の門」 との間の ところに 日 本人が入 って きて ,魚だ とか野菜 だ とか薪 だ とか色んな ものを商 ってい る図である。つ ま り日本人は最初 の 「大門」 か らここの広場 までほ入れ る し,唐 人 の生活 に必要 な ものは こ
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‑スライ ド
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こで売買 され る。「二 の門」 よ り中に入れ るのは遊 女だけである。この よ うにな っていて ,遊女以 外 は入れない。 この よ うに厳 しく管理 されてい る。 も う少 し正確 に言 うと, 日本人な ら誰で もが
.
「大門」 のなかに入れたのか とい うと,必ず しもそ うではな く,唐人屋敷乙名の発行 した入門札 を持 った特定 の商人だけ しか入れなか ったのである。 また この広場 には唐通事な どの役人 も詰め ていた。
唐船 は一年 に春 ・夏 ・秋 の三 シーズ ンにわた って 日本 にや って きた ので ,唐 人屋 敷 の住 人 は 次 々に変わ ってい った。そ こで ,個 々の唐人に とってみれば , 日本に滞在す る期間はそんなに長 くはない とい うことにな る。 しか しその期間中 ,「御寺」にお参 りにゆ くとか ,御祭 りであ るとか 何か特別 な ことがない限 り,唐人はなかなか唐人屋敷 の外 に出 られなか ったわけで ,だか らこそ 逆 に御祭 りであるとか ,何か特別な行事を唐人の方がむ しろ積極的にや ろ うとす る気持 もでて き た ように思 う。
山脇貞 二先生の資料
2)
で ,年 号が違 ってい るので比較 の点 で多少問題 は残 るが,1 7 3 8
年 (元文 三年) と1 6 89
年 (元禄二年)の ものであるが ,入館 した唐人の数が4, 888
人なのに対 して ,唐人屋 敷 に入 った遊 女の数 が延べ人数 と して1 6, 91 3
人 とい うことで,唐人の数 の三倍強の遊女が唐 人屋 敷 に入 った ことにな り,唐人たちに とってそんな ことしかや りよ うがなか ったのではないか と忠 われ る。次 はス ライ ド
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であるが ,唐船 の入港す る岸壁 には本駕寵町 ・船大工町がある。烏龍は今のダ ンボ‑ルに当た り,荷物 を梱包す るための駕寵 を作 っていた町である。船大工町は船 を作 る大工 さんのいた町で ,船 の修理が行われていた と思 う。 また 「鋼吹屋」があるが ,ここで鋼 を洗練 し て輸 出 していた。‑
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普
ス ライ ド
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四 都市長崎のプラン
ス ライ ド
1 2
の江戸時代 の長崎の地 図を見 なが ら,長崎 の町が どの よ うにで きて行 ったのかを考 えてみたい と思 う。岬 の先端か ら岬 の高台の町‑ ,と順 々に辿 ってい き,最後 に 「岬の町か ら山 懐 に抱かれた町へ」 の話 につ なげたい と思 う。1
岬の先端岬 の先端 に 「砦」 を築 くとい う発想 は ,海 に突 き出 した高台 の岬 の先端 に拠点 を設けてい くと い う意味 で ,いかに もポル トガル ら しい ものであ る。 ポル トガルは アフ リカか らイ ン ド洋 にかけ て ,ず っと 「要塞」 と 「商館」 をセ ッ トとして築 いて きてい る。 日本 ではそれだけの人材 がいな い代わ りに ,イェズス会 が い る。 イエズス会 の教会 の建物 が 「要塞」 とか 「ポル トガルの商館」
の代 りを してい くとい うプ ランで ,最初か ら長崎 の町が開港 された と,私 はそ う考 えてい る。
例 えば秀 吉が 「バテ レン追放 令」 を出 した ときに ,イェズ ス会 の側 は布教 の拠 点であ る長崎 に 弾薬 とか武器 を蓄 えて ,秀吉 と一戦構 え よ うとす るのだが ,その際 「岬 の教会」 が軍事的な反抗 の中心 にな って くる。先 は どス ライ ドで奉行所 の 「西屋敷」 が石垣 で囲 まれ ,砦 の よ うにな って
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いた ことを見て きたが ,その よ うな景観は ,ヴ ァリニア‑ ノ も 『日本巡 察 記』 の 中 で述 べ て お り,長崎開港 の当初 「岬 の教会」 の時代か ら既にあ った と思 う。
岬 の先端にはポル トガル人たちの活動 の根拠地 の中心があ って ,そ こが貿易の拠点にな ってい た。江戸時代 にな って 「出島」 ができる際には ,その位置を一つ 「づ らす」 とい うことがあ った。
長崎の町の中で一番大事な場所である岬の先端に 「五 カ所糸割符宿老会所」 を作 り,貿易の拠点 を幕府 の息 のかか った五 カ所宿老たちが乗 っ取 って しまい,一方 ポル トガル人たちは ここか ら追 放 され る。追放す るに際 して ,岬の先端 の さらに先にわ ざわ ざ 「出島」 を築 いて ,そ こに彼 らを 閉 じ込めたのである。
2
内町 ・外町「森崎権現」 と 「神宮寺」 さらには 「崇岳」「金比羅 山」の山頂 を結ぶ道 は ,高い岬 の尾根道 に 当た るものだが ,最初 は山伏 な どの歩 いていた 《信仰 の道》だ った と思 う。 これに対 して 古 くか ら 「船津町」 と 「榎津町」 を結ぶ道 は,「磨屋町 ・酒屋町 ・豊後町」 の ライ ンにあ り,「小川町」
の ところの小川を渡 り,西坂 さらには浦 上の方に通 じてお り, これ が長 崎 の町 が で きる前か ら 人 々が通 っていた 《社会経済 の道≫ で ,もともと 《信仰 の道≫ とは クロスす る形になっていた と 想像 され る。
最初にで きる六丁 の町は岬 の先端 に引 き続 く高台の上にあ り,六丁町 と 「本博多町
」
の間には「‑ の堀」 と云われ る堀があ って
,
「桜町」 と 「勝 山町」の間に 「三 の堀」があ り‑‑地図にはそ の脇 に r牢屋」が見 えるO 「豊後町」 の ところに も 「二の掘」があ ったC さらに も うーっ 「小堀」と云 う堀が あって,その堀を埋めたので 「堀町」 と云 う名前になった とある。 こんな風に して何 本か堀があ って ,六丁 の町は全体 として外 の世界 と隔離 され ,砦 の よ うにな っていた と思 う。
通説 では ,最初六丁の町がで きて,それが段 々大 き くな って きて 「内町」 とな り,さらに 「外 町」がで きた とあるが
,
「外町」の部分を よく見 ると,町並みは 《社会経済 の道≫に沿 って横に並 んでいる。一方 「内町」,中で も最初にで きた六 丁の町の方は 《信仰の道≫に沿 った縦並びの町で ある。 さらに 「内町」 の内部を詳細 に眺め ると,ここに も 「博多町 ・豊後町」 と横並びの町が見 つか る。 しか もこれ らの町は ,町割 の初めか らあ った とい う記録 もある。そ こで 「六丁の町」 がで きた ときに ,最初 っか ら,そ の外側に 「博多町 ・豊後町」等 々の町が あ ったのではないか ,私はそ う思 うOそれが最初にで きた小 さい 「内町 ・外町」 である。 ところ で,秀吉が来た ときに町を作 り直 して
,
「博多町」 の辺 りを根拠地 に して ここに 「奉行 所」 を お き,その周 りを堀で困むな どの ことがあるC この とき,「六丁の町」 とその外 側 の町 を一緒 に し て ,それを全体 として 「内町」 とす る。そ うす るとそ の外側 に さらに 「外町」がで きて行 く。 こ れが長崎の町の発展 の仕方であ った と思 う。‑1 8 0‑
内町の中には 「金屋町」 があ り,いかに も金属を取 り扱 う人 々が住 んでいた と思われ る。 これ は私 の勝手な想像だが ,イェズス会士たちの書 いた ものの中に ,堺 の金細工師がいて ,熱 しなキ リシタンで ,多 くの困 った人を助けているとい う記録があるが ,キ リシタン時代 に 「十字架」 な どをい っぱい作 らなけれ ばいけない とい うことがあ って ,そ うした職人が この辺 りに住んでいた のではないか と想像 され る。証拠は何 もないが ,ただ名前か らそんな ことが考え られ るのである。
「博多町」 には博多の人が
,
「豊後町」 には豊後 の人が住 んでいた と考え られ る。 「興善町」 と い うのは末次興善 とい う人が非常 に広 い地域 を屋敷地 として持 っていた ことか ら,その名 前が付 いた と云われてい る。それが後 にい くつに も分かれ て,
「本興善町」
「新興善町」
「後興善町」等 々 にな った とある。 この末次興善 とい う人は末次平蔵 の父親で ,博多の人 と云われているので ,博 多の人たちは 「博多町」か ら 「興善町」 と広 い範 囲にわた って住 んでいたのではないか と思 う。そ こで外 国の船 ,つ ま りポル トガルの人たちは岬の先端 の 「波止場」 に荷を揚げ ることにな る のだが ,博多の商人な ど日本側 の商人たちは船津町 の津を拠点 としてお り,六丁町 とその外側 の 町 との間には 「堀」があ って ,両者は区別 されていた ことにな る。昨 日家 島彦‑先生 ・川床睦夫 先生 の話で ,貿易港 としての 「島」 の場合 ,外来商人の居留地 としての 「島」 と,その対岸 にお け る現地商人側 の貿易拠点 と云 うことがあ ったが ,同 じような関係が長崎において もあ ったので はないか と考 える。
3
長崎の寺社キ リシタン時代 になると,現在 「諏訪神社」 のある辺 りにあった 「神宮寺」 とい う大 きなお寺 を焼 いて しま う。立山の辺 りにはい くつ ものお寺があ った 可能性があるが ,これを どん どん と焼 き払 い ,代 りにキ リシタンの 「教会」 を建ててい く。その後 ,江戸時代 に入 り 「邪宗 門 ・邪教」
とい うことで ,それが否定 され る ようにな ると,次は 「正法」 とい うことで仏教が復活 して くる。
そ うす ると,昔 「教会」 のあ った ところが また 「お寺」 にな って くる とい う歴史がある ように思 われ る。
今 で も長崎の諏訪神社 ,その祭礼 としてのオ クンチは有名だが ,地 図の右上 ,中島川が二俣 に 分かれ る近 くに 「諏訪町」が見 える。 それゆえ諏訪神社 は もともとは この辺 りにあ り
,
「諏訪町」がそ の門前町ではなか ったか と思 う。 しか し,キ リシタン時代には この神社 も焼かれて しま う。
それで江戸 の初期 に
,
「丸 山」とい う所 に復活 した ともの と本 には書 いてある。丸 山にあ った もの が ,次に現在 の立山の ところに移 って行 くわけである。なぜ東国の諏訪社が ここにあるのか ,とい うと,二俣 に分かれた中島川を さらに遡 った扇状地 の長崎村 には長崎の地頭 ・長崎甚左衛門がいるのだが ,彼 の先祖 は鎌倉武士で東国か らや って き た と云われてい る。それが事実か ど うかはは っき りしないのだが ,少な くともそ う信 じられてい
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るので ,正 しいか ど うか とは別 に ,そ の伝承 との関係で 「諏訪神社」 が この地 に勧請 され たのだ と思 う。
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高麗町 と中国人の雑居次に中国人た ちは どこに住 んでいたのか とい うことだが ,中国人た ちの住 んだ 「唐 人町」が見 つか るといいな と思 って 「どこだ ろ うか」 と 目を凝 ら してい るのだが , ど うも見つか らない。 と ころで ,自分 の云 った仮説 に 自分が縛 られ て しま うことは とて も恐 くて ,も しかす る ととんで も ない出鱈 目とい うことにな るか も しれ ないが , 自分 の立 てた仮説 に従 うと,や は り 「内町」 の部 分に外か らや って きた唐 人たちは住 んでいた と思 う。
とな る と,最初 の頃は ,最初 の内町 であ る六丁町 の中に中国人た ちは 「雑居」 していた ことに な る。 ところで六丁町 のなかに もともと 「分知町」 とい うものが あ って ,中国人の 「分知」 とい うものが ここに住 んでいたので 「分知町」 と名付けた との記録が あ る。 この伝東 を信 じない人 も いるのだが ,私は信 じよ うと思 っている。 これ は町がで きる以前に既 に この地 に中国人が住 んで いた とい うことで ,岬の地域 が アジ‑ル の場所 であ った ことを示 している と思 う。
一般 に中国人はチ ャイナ タウンを作 りたが る民族 だ といわれ ているが , ど うも初期 の長崎には チ ャイナ タ ウンはなか った よ うであ る。一方 ,長崎 には 「福済寺」「崇福寺」「興福寺」 とい う三 福寺が あ る。 これ は中国人 の地縁 的な結合体 である 「常」 の 「会館」 に当た っていて ,興福寺は 南京常 ,崇福寺は泉州常 ,福済寺 は福州常 なのだそ うであ る。 日本 の場合 は 「お寺」 とい う形 で しか会館を許可 しなか ったので仏教 の 「お寺」 にな った と云われ てい る。
中国人 の住 んでいた 「唐 人町」 は見つか らないのだが ,一方 ,古川町 の辺 りに昔は 「高麗 町」
が あ った とい う伝 承があ り,伊勢町 の も う一つ古 い名前が 「新高麗 町」 であ ると云 う. 「高麗町」
と云 う名前か ら, ここには高麗 か ら来た朝鮮 の人たち ,秀吉が捕虜 と して奴隷 的な形 で連れ て こ られ た人たちが ,ど う云 う理 由でかわか らないが ここに住 んでいた と思われ る。伊勢町にかか っ ている三つ の橋 の うちの‑つが 「高麗橋」 と云 うとあ る。 どれ であろ うかO
つ ま り,高麗 の人はひ と所 に集 まって住 んでいた と思 うのだが ,中国人 は一 ヶ所 に集 まっては 住 んではいなか った , 日本人に混 じって 「雑居」 していた とい うことにな る。そ こで最初唐 人が 船 で海外か ら長崎 にや って きた とき,内町 の 「船宿」 に入 る。 この 「船宿」 は中国人 の経営す る 場合 も多か った と思 う。一方 「船宿」 では ,例 えば 自分 の家 の娘 であ る とか ,唐 人相手の女性 が いて ,自分 の ところに また来 て欲 しい とい う気持 で ,娘 ぐらいや って もいい とい うことにな って いた と思 う。
例 えば鎖 国の とき 「来舶唐人」 と 「在宅唐 人」 と,船 で 日本 にや って くる方 と 日本に留 まる方 とに唐 人をは っき りと分け て くるのだが , 日本人にな って しま う在宅唐人 の方は ,奥 さんの名 前
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で 日本名を名乗 ってい くことがあ った とある。 この ことは 「雑居」 とはい うものの , 日本人 との 間で結婚 を どん どん してい くことがあ って ,またその ことが周 りの人たちの間で ,別におか しい ことではない とい う世界 ,荒野秦典先生や村井章介先生が 「倭冠的状況」 と云 ってお られ る世界 があ ったのだ と思 う。
お二人の先生は ,中世においては 日本人 と中国人 ・朝鮮人 との間に ,中間項 としてのマージナ ルな部分が沢 山あ って ,互いに区別 が付かない よ うな世界があ ったのだ と云 ってお られ るが ,こ の ような世界が江戸 の初め ごろまでは まだ続 いていた と思 う。網野善彦先生 もまた 『日本中世 の 民衆像』 の中で 「職人 としての唐人」 を取 り上げ ,中世 とい う社会 は開放的な 「開かれた社会」
であ った と論 じてお られ るが ,こうした こととも関連 していると思われ る。
また中国の人 とい うと,当時一般 の 日本人は尊敬 していたのではないか と思 う。そ こで ,立派 な人で尊敬すべ き人であれば ,娘 をや って 自分 もその一族 に加わ ってい こ う,また商売 も うま く や ってい こ うとい うことで ,中国人たちを 「船宿」 に よび寄せていたのではないか と思 う。 こ う した ことと本 日のテーマである,唐人屋敷 のあ り方を比べ ると,中国人に対す る態度が非常に大 き く変わ ってお り,驚 くべ きことではないか と思われ る。
5
岬の町か ら 「山懐」 に抱かれた町へ元亀二年 に長崎が開港 とな り,長崎の町割が行われた当初 ,港市長崎が最初の六丁の町を中心 としている際は ,ポル トガル人たちの占拠 した岬の先端に貿易の中心があったので ,先端 の方が
「頭」 で ,勝 山の方が 「尻」 とい う関係にな っていた。 こ うした関係は しば ら く続 き,キ リシタ ン時代に 「桜町」 の ところが墓地にな っていて ,後 には牢屋 にな るな どの ことは ここか ら説明で きると思 う。
長崎の人 口が増 えて 「外町」 の方 もどん どん と発展 して くると,当然遊廓 なんか もで きてい っ た と思 うのだが ,ものの本 に よると 「今博多町 ・古町」 の辺 りには昔は遊廓があ り,その他町全 体に も遊廓があ った とあるが ,寛永十九年 には これ らのすべてが丸山町 ・寄合町の一 ヶ所 に集め られて くる。 また中島川 に平行 して ,地 図上 の東か ら南にかけての山に沿 って 「鹿解
川
」 とい う 名の小川がある。 いかに もここで獣 を解体 した とす る名前の川なのだが ,諏訪町に並ぶ新橋町のところに昔 「かわた町
3)
」「毛皮屋町4) 」
があ った といわれ ている。ところで 「山懐 に抱かれた町」 とい うことだが,「山懐」に抱かれているとい うことは ,子供 が お父 さんや御爺 さんに抱かれて ,膝の上に乗 っていると仮定す ると,子供 の身体 の大事な頭や胴 体は山付 きのお父 さんな り御爺 さんな りの懐 の方にあ り,手であるとか足 であるとかは先 っぽの 方 に来 ることにな る。手や足 の先 っぽの ところに丸 山町 ・寄合 町 の遊 廓 とか 「唐 人屋 敷」 が で き,江戸 の終 りの開国の ときには 「唐人屋敷」 の さらに先 の グラバ ー邸の辺 り東 山手 ・南山手 に
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外 国の 「居留地」がい っぱいで きるとい うことにな る。
「頭」 のある辺 りは ど うか とい うと,やや鎌倉 の 「若宮大路」 と 「鶴 岡八幡」 の関係に似 て く る。 「諏訪神社」 のある辺 りに 「立 山屋敷」 とい う奉行所 もで きて くる。八 百屋 町 に は 「長崎会 所」 もで きる。先ほ ど述べた よ うに 「新高麗町」 とい う高麗 人 の町 が あ った が ,それ が な くな り,代 りに伊勢神社 との関係で 「伊勢町」 に町名が変わ った りで ,北 の方がやや 「尊 い」 とい う か価値 の高い場所 にな り,価値 の低 い ものが南の方 に押 しや られて くるとい う都市計画にな って い くのではないか と思 う。
五 唐人屋敷の成立
唐人屋敷が どの ように して成立 したのか ,その理 由や根拠 は何か とい うことであ るが ,今回の シソポジ ュウムのテーマが 「港 の成立 と形態」 とい うことで ,貿易の制度 な どの問題 は次回送 り とい うことなので ,ここではあま り制度 の問題 に立ち入 らず に ,簡単に触れ るだけで行 きたい と 思 う。
とはい って も,制度 の問題 を全 く触れないわけには行か な い。 慶 長 か ら元禄 まで の凡 そ百年 間 ,長崎の唐人貿易制度 ,中で も糸割符制度 とは無関係な反物 ・荒物 の貿易制度 に関 しては ,吹 の よ うな変化が辿れ ると私 は考 えている。
差宿制 ‑・‑‑‑‑寛永
14
年〜寛文5
年 総振船制 ‑‑‑・‑寛文6
年〜寛文11
年 市法貨物商法 ‑‑寛文12
年〜貞享元年 定高制 ‑‑‑‑‑‑貞享2
年〜特 に大事 なのは寛永六年 の 「差宿制」か ら 「総振船制 ‑宿町制」‑の変化 である。 この ときの 貿易の仕観 の変化 は図
1
・図2
の よ うにな ると思われ る。この変化 に よ り来舶唐人の世話や取引斡旋 な どの仕事は差宿 の 「私的船宿」か ら宿町 ・附町制 の 「公的宿町」‑ と替わ る。 これ までず っと船宿 として繁 栄 して きた在宅 唐 人 の特 権 は一 部分
「小宿」 として復活す ることはあるのだが ,大事な ことは ,制度的 として ,船宿 の特権が否定 さ れた ことである。一方 「船宿 口銭」 とい って ,船宿や小宿 は仕事 に応 じて 「口銭」 を取 っていた が ,次の (口銭蓑)か ら明 らかな よ うに ,船宿 ・小宿 の取分が段 々と減 り,町全体 で分配す る方 向に段 々と進 んで行 く。
一方 ,図
3
は 「唐通事」 が 日本 におけ る住宅唐人 ・来舶唐人全体 の頂点に立 っていることを示 しているものである。先ほ どの丸荷役 の ところで唐通事が荷物をチ ェックし,ノー トしている絵 があ ったが ,唐通事は荷改帳や さらには売立帳 (図1
参照)を作 るな ど して ,唐人貿易全体を管I1 8 4 ‑
辛
商
商
人
捻 正治別
(口銭表)
文
耳 6
一文文1 1
理 していた。 この よ うな唐通事のあ り方は ,東南 アジアにおけ るシ ャバ ンダール と同 じよ うな も のである。 中国人 の現地 の長老が唐通事に任命 され ,その人が中国人たちの貿易を一切管理す る 体制が ,もともとの長崎の唐人貿易にはあ った。
しか し,図
2
にある よ うに長崎の 自治組織 の方 の町年寄や町 の乙名 ・組頭が貿易を管理す る体‑1 8 5‑
制 に次第 に入 って行 き,貿易の利益をいかに して町全体 に均等に配分す るか とい う方 向にな って 行 くのである。 中国人が長崎 に住 んでいて ,海外か らや って来た人たち ともともと現地 にいる人 との間で ,貿易を うま くや って行 こ うとい う仕組か ら,長崎の一つ一つの町が順 ぐ りに 「宿町」
とな って,貿易か ら上が る利益 は町全体で均等 に配分す る体制 に変わ ってい くのである。
先ほ ど中国人は 「内町」に雑居 していた と述べたが ,も う少 し正確 に云えば,「内町」には在宅 唐人の 「船宿」や 「小宿」の存在があ ったわけであるが ,その ことは 「外町」 の方には雑居 で き ない とい うことだ った と思 う。そ こで 「外町」の方 には金 は落ちて こない し,「内町」の方は特権 を持 った豊かな人がいるとい う対比がず っと長 く続 いてい くことになる。秀吉 に よる長崎の再編 の際に,「外町」は貧 しい職人たちの町 として成立 した とい うことが ,これ らの背景 にあるのか も
しれない。
しか し元禄期 にな ると,これ らの ことが総て否定 されて ,来舶唐人は長崎の町の どこにおいて も雑居 で きな くな り,人は 「唐人屋敷」 に ,荷物 は 「新地蔵所」 に と,総て一括 して隔離 して収 容す る体制が築かれ る。 こ うして来舶唐人が総て囲い込 まれて しま うと,逆 に長崎の町全体が貿
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易の利益を得 る,全 くの平等主義 の社会 ,均質 な社会にな ってゆ く。 こ うな ると,「内町」は 「自 治都市」 で町年寄が治め,「外町」 は長崎代官が治め るとい う行政上 の区別 も必要 な くな り,「外 町 ・内町」 の区別 も意味のない ものにな ってゆ くと,こんな風に考 えているわけである。
言い換 えると,本来貿易港 とい うものは ,外国人を泊め る 「船宿」 のある所 は 「堀」 とか何か で囲 まれていて ,外 と区別 されていて ,め ったに外 の人が入 って これない ようにな っている。市 の立つ 日は入 って これ るけれ ども,普段 は閉鎖的にな っているのではないか と思われ る。 長崎の 場合 ,そ うした ことは町割 の最初か らで きていて ,秀吉が入 って きて町 を作 り替 え るの で あ る が ,拡大 した 「内町」 の ときに も,やは り 「内町」 は外 とは っき りと区別 されていた と思 うので ある。
しか し元禄期にな って ,長崎の町が総 て順 ぐ りに 「宿町」 とな り,町全体が貿易の利益 に与 る ようになる と,外町 と内町を区別す る必要がな くな って くる。 そ うす る と逆 に 「唐 人屋 敷」 を 作 って ,唐人を囲 って くるのだ と思 う。江戸時代 もその初期においては ,海外 と自由に貿易がで きる自由な時代があ ったわけだが ,その 自由が元禄期 ごろになる と全 くな くな って しまい,代 り に平等主義 の主張が強 まって くる。そ こで ,一方には 「収容所」 があ り,他方では平等主義 を原 則 とす る社会にな ってい くとい う意味で,振 り返れば江戸時代 ,中で も長崎は 「社会主義」 の社 会 ではなか ったか と思 う。
六
むすびにかえて ‑ テーマ ・唐人屋敷について私 は 『港市論』 の中で ,マ ックス ・ウェーバ ー
( M. Weber )
の云 うフ ォンダー コ( Fondaco)
の議 論を引 き,中人強制 の制度 を問題 とした。外国商人がや って きた場合 ,彼 ら外国商人には直接販 売を させないで ,中人 ・仲介者( Makl er )
が介在 し,彼 らを通 じて販売す る よう強制す るとい うも のである。 これがベ ニスにある ドイ ツ商館 な どのフ ォンダー コとい う形態である。私 は このフ ォ ンダー コが 「出島」や 「唐人屋敷」 に も当た るとして きたのであるが ,今 ここで述べてお きたい ことは ,これは ど うも間違 っていたのではなか ろ うか とい うことである。昨 日陣 内秀信先生か らお話 のあ ったベ ニスや中近東 のフ ン ドゥク
( Funduq)
とい うものは ,メ ザ ールの近 くにあ り,中庭 のある二階建 ての建物 で ,一階は卸売商人の事務所 と倉庫 とか らで き ていて ,二階は宿泊施設にな っているものである。 この ような もの と 「出島」や 「唐人屋敷」「新 地蔵所」 を比較す ると,形態の上か らも全 く別物だ と思 う。 日本側 で この フン ドゥクに対応 し, 倉庫業や宿泊業を行 うものは ,む しろ 「船宿」 とい うことになる。日本 の 「船宿」 の場合は ,先 ほ ど問題 と した 「丸荷役」 とい う荷物 の陸揚げか ら倉庫業 さらに は宿泊業 を営んでいるものであるが ,町の中にある小 さい一つ一つの家が個別的に倉庫業や宿泊
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業 さらには委託販売業 を行 うとい う形態 であ る。私 がかつ て 「出島」 を ウェーバ ーの云 うフ ォン ダー コに対応す る と考 え て きた こ とは 間違 って いた と思 うのだ が ,そ もそ も ドイ ツ人 で あ る ウ ェーバ ー 自身 の物 の見方 に も反省すべ き点があ るのではないか と思 う。
ウ ェーバ ーの物 の見方 の基礎 とな った ドイ ツ ・‑ ンザ の場合 ,海外 の ドイ ツ商館(Factory)では 現地 にい る ドイ ツ商人が直接販売 も し,買 い付け も行 っていた と思 う。 これ に対 しイス ラムの世 界では ,現地 の卸売業者 が介在す る ことにな ってお り,外来商人たちはキ ャラバ ンサ ライであ る とか フ ン ドゥクを通 じて ,現地 の卸売商人 に売買を委託 し,現地商人 の手か ら現地 の人 々の手‑
と物資 が流通す る仕鼠 にな ってお り,イス ラムの世界 の貿易 の仕鼠 は平和的な ものだ った と思 う のであ る。
これに対 して , ヨー ロッパにおけ る商館 ・フ ァク トリー とい うものは ,‑ ンザ 同盟 の場合 もそ うだが ,昨 日の高橋均先生 のお話 にあ った とお り,「要塞」 と一体 とな ってお り,もともと現地 を 支配す る とい う面を持 っていた と思 うのであ るO平和 的な貿 易 の仕 鼠 を持 って い た とい う点 で は , 日本 はむ しろイス ラムの世界 と近 く,軍事的な色彩 の強 い ヨー ロッパ の商館 ・フ ァク トリー は ,世界史 的に見 て特異 な存在だ と思われ る。
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[ス ライ ドお よび図の出典]
略 号
「出島図」長崎市 出島史跡整備審議会編 中央公論美術 出版 ・‑‑
‑D
「南方渡海古文献 図録」大阪府 立図書館 臨川書店 ‑‑‑‑‑‑‑ ‑
‑N
ス ライ ド 番 号 名称
1 「長崎之 図」
2
「唐船絵巻」虞南船3
「唐船絵巻」遅羅船4
「長崎名勝 図絵」5
川原慶賀 「蘭館絵巻」蘭船碇泊 の図6
円山応挙 「長崎港之図」7
「幕府 長崎海軍伝 習所 の図」8
「長崎鳥撤廃風」 部分9
「長崎港僻取 囲」1 0
伝渡辺秀石筆 「唐蘭館絵巻」所蔵 神戸市立博物館蔵 長崎県立 図書館蔵 長崎県立 図書館蔵 長崎市 立博物館蔵
/ /
長崎県立美術博物館蔵 同和病院歳
神戸市 立博物館蔵 長 崎市立博物館蔵 神戸市立 南蛮美術館歳
出典
D5 6 p. 4 6 N24 N2 3 N4 8 D2 22p. 2 2 2 DI O p. 1 3 D9 3 p. 82 D 2 p. 6 D1 9 p. 21
小学館 「探訪大航海時代 の 日本
5
日本か ら見 た異国」p. 1 8 11
「崎陽唐 人屋敷 図形」 京都大学付属 図書館蔵N4 6 1 2
『幕府時代 の長崎』付録図
1
拙稿 「鎖 国後長崎唐 人貿易制度 につ いて」 『法政史学』第1 9
号1 967
年 図2
同上図
3
任鴻章 『近世 日本 と 日中貿易 東 アジアの中の 日本歴史4』
六興 出版1 9 88
年1 94
頁[ 註]
1) 安野虞幸 『港市論 一 平戸 ・長崎 ・横瀬浦 ‑』 日本 エデ ィタース クール出版部
1 9 9 2
年2 )
平凡社 『大 百科事典』
「唐 人屋敷」 の項 目3)
藤原有和 「長崎 におけ るキ リシタ ン弾圧 と被差別部落」 『法制史研究4 0 』1 9 9 0
年4)
ア ビラ .ヒロン 『日本王 国記』大航海時代叢書 刃岩波書店1 9 65
年p. 41 8
5)唐 人た ちは 「内町」 に住 んでいた と しま したが , これは まちが いで ,近世初期 において唐 人 た ちは ,西中町や古川町 を中心 に 内町 ・外町 の区別 な く雑居 してい ま した [中村質 「近世 の