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〈講演録〉「中井源左衛門家文書」と「近江商人」研究

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﹁中井源左衛門家文書﹂と

はじめに

﹁近江商人﹂研究

    宇佐美 英機

 ﹁近江商人﹂を研究対象とする者にとって、﹁中井源左衛門家﹂ という商家の名前は、特別な重みがあります。それは何よりも、数 多の﹁近江商人﹂の中でも、最も研究蓄積があり、歴代の当主によ るさまざまな営為が最も明らかにされている商家だからです。三井 家・住友家といった、後に財閥化していった商家や、鴻池家のよう に財閥化はしないものの、近世期を代表する都市の問屋商人は例外 として、地方︵在方︶の︸商家で中井源左衛門家ほどさまざまな側面 を明らかにされた商家は、ほとんどありません。  周知の通り、中井家がこれほどに知られるようになったのは、本 学の教官でもあった江頭恒治氏の著書﹃近江商人中井家の研答申と       ︵2︶ 小倉榮一郎氏の﹃江州中井家知合の法﹄の両著の成果です。江頭氏 がそれにより学士院恩賜賞、小倉氏が日本会計研究学会賞を受賞さ れたのは、当時においてお二人の研究成果がいかに経済・経営史、 会計学界に寄与したものであったかを如実に示しているとともに、 けだしそれは当然といえるものでありました。 一つの商家文書を利 用して複数の研究者によって論文が書かれている例は、いくつかあ ります。たとえば身近なところでは、愛知郡小田野村︵湖東町大字小 田苅︶の商家である小林理右衛門家については、﹁丁吟史研究会﹂の        達 名の下に五名の研究者が集い、遺された史料を分析して﹃変革期の 商人資本−近江商人丁吟の研究1﹄と題する論文集が刊行されてい ます。しかし、複数の研究者が乾蓄の形で地方の一商家を取り上げ た例は、すぐに思いつきません。それほどに﹁中井源左衛門家﹂は、 研究者を魅了したとともに、関心の異なる研究者に単語を書かせる ほどに内容が曲豆富な史料が含まれていることが明らかです。  しかし、江頭・小倉両氏のみならず、これまで﹁中井源左衛門家 文書﹂を利用されてきた多くの人々は、決してすべての﹁中井源左 衛門家文書﹂に目を通したわけではありません。もちろん、研究論 文を執筆するさいには、自らが関心のある史料を中心にして解読・ 分析するのであって、商家に遺されたすべての史料を閲覧していな いような論文は評価できないといっているのではありません。先学 がその当時において目にすることができた史料は、実は限られたも のであったことが、今回新たに明らかになったと申し上げたいだけ なのです。それゆえ、このたび新たに購入し、史料館に所蔵するこ とができた史料を分析することにより、これまでの研究で解明され た多くの事実を修正すること、あるいは新しい知見を加えることが 可能となり、そのことは﹁中井源左衛門家﹂のみならず﹁近江商人﹂ 研究にとって、極めて喜ばしい状況が到来したといえるのです。 中井源左衛門家文書所蔵の沿革  それでは﹁中井源左衛門家文書﹂が本史料館に所蔵された現在に 至るまでにどのような歴史があったのでしょうか。少しその経緯を ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究 一

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 二 お話しさせていただくことに致します。もっとも、ここで申し上げ ることは、かつて本史料館におられた岩崎奈緒子さんが、今回も展 示していますが、科研の報告書であります﹃近世・近代商家文書に 関する総合的研究﹄のなかで、詳しい調査報告を書かれていますの で、詳しくはそちらの方をご一読いただければ幸いです。私のお話 しは、岩峙さんのお仕事の受け売りに過ぎません。  さて、﹁中井源左衛門家文書﹂の一部は、昭和二十六年︵一九五一︶ に滋賀大学に借用・搬入されたのですが、それ以前に少なくとも三 回の調査が行われています。その最初は、﹃近江日野町志﹄の編纂 過程でありました。それは大正五年︵一九一六︶以降のことで、九年 には本書は脱稿していましたが刊行はされませんでした。そこで、 中井家のある蒲生郡日野町にかかる﹃近江蒲生郡志﹄︵大正十一年 刊︶の編纂にも従事した中川泉三氏という、滋賀県の自治体史を考え る上では無視できない人物に原稿の補訂を依頼し、昭和五年に刊行 されています。この町志では、﹁第九篇商業志﹂において多数の中 井古文書が引用されるとともに、﹁日野町入立志伝﹂の章では九十 頁近くを中井源左衛門と分家の中井源三郎の叙述にさかれていま す。  ﹃近江蒲生郡志﹄や﹃近江日野町志﹄は、﹁近江商人﹂研究をす る者にとっては、必読の文献であり、商人の人名や概略、あるいは 出店の地域などを調べるための基本文献となっています。現在では 散逸してしまって所在が確認できなくなった史料なども引用されて おり、とても有益な自治体史だといえます。  第二回目の調査は、中川泉三歳による﹃中井影面﹄の編纂過程で 実施されました。中川氏は、中井家当主の光忠氏から﹁家蔵の文献 を整理し、其の要を摘みて家史を為せらるべし﹂と依頼を受け、昭 和六年三月から日野に滞在し、同年八月には執筆を終えています。 また、その当時の中井家文書の保管状況を写した写真は、展示図録 の中にも掲げてありますのでご塗下さい。部屋の中に天井にまで届 きそうな位うずたかく積み上げられた、史料を納めた箱類を確認で きます。﹃中井家史﹄は、本館にもその筆写本を備えておりますの で、機会がございましたらご覧ください。  続いて第三回目は、昭和二十五年頃に近世庶民史料調査の一環と して、本学が実施した二度の調査です。このさいには、当時保管さ れていた二十追撃のうち﹁仙台史料﹂と書かれた二箱だけが整理・ 分類の作業対象となったに過ぎなかったようです。昭和二十五年八 月置経済学部史料館が創設されますが、滋賀大学に中井家文書が借 用・搬入されたのは昭和二十六年十月以降です。これらの史料群は、 二次にわたって搬入され、後に寄託の手続きがとられました。そし て、昭和四十四年三月には七五六〇点を第一次購入し、残りの九一 九四点は翌年二月に第二次購入されています。同年三月には二〇二 〇点の第一次寄贈を受け、同四十八年三月に第四次搬入による書状 綴を借用し、これも昨年に第二次寄贈されました。  史料の搬入を受けて史料館では、それらの整理にとりかかったの ですが、ラベル貼付とナンバリングが進められ、分類作業は二次的 作業とされてきました。  これらの作業は、現在の史料整理論・文書管理論の水準からみれ ば、批判されるべき多くの問題を含むものでした。しかし、そのよ

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うな﹁学﹂が成立していない段階における作業としては、史料館に 配置されていた人員や知識を勘案すれば、致し方なかったと思いま す。少なくとも、これらの整理作業に専門知識を有する教官が関わ ったのは、史料館専任教官が配置されて以降であり、そのさいも学 部・大学院で講義を担当しながらの作業であったようです。  すなわち、これらのことからいえるのは、約半世紀にわたって、 中井家文書を全面的に活用された江頭・小倉両氏を始め、多くの先 学は史料を利用したものの目録作成、ないし史料調書の作成を継続 してされたわけではないということです。それは、史料を保管・公 開し研究に供するという役割を有する史料館のあるべき姿ではあり ませんでした。すでに昭和二十七年十二月に史料館は、博物館法に 基づき博物館相当施設として指定を受けていましたが、その指定に あたっても寄託されていた中井家文書の保管が評価されたのだと思 われます。しかるに、研究はともあれ史料の整理・公開という点で は、とても褒められた体制ではなかったといえます。そのような問 題を解消するためもあって、後に専任教官が配置されることとなっ たのでしょう。  史料館では、平成十二年∼十四年度に科学研究費補助金給付を申 請し、これが認められました。それは、 一つには商業資本の見直 し・検討が学界での一つの潮流となっていたこと、とりわけ平成バ ブル経済の破綻にともなう不況下にあって﹁近江商人﹂の経営に関 する再評価がなされていたこと、史料整理論・史料管理論の研究が 進み、それに呼応する史料保管施設への補助が考慮されたことが、 当史料館にとって追い風になったものと推測しています。研究代表 者であった私は、補助金を申請する段階から中井家文書の目録作成 を企図していましたので、給付決定は当館にとって長年の懸案事項 であった目録作成作業を集中的にできるということに希望を与える ものでした。研究史的にも新しい商家史料の分類方法を提示できる ものと考えていました。  しかし、事は容易ではありませんでした。多くの協力者の努力に より、今回の整理対象とした本学所蔵分︵第一・二次購入分と第一次 寄贈分︶の一点つつの史料調書を作成し、これをパソコン入力するだ けでも至難な事業でした。それゆえ、商家史料の整理・分類方法に 新しい問題を提起するという試みを実現するには至りませんでし た。しかし、なによりも、平成十五年三月の時点において、本学に 所蔵されている﹁中井源左衛門家文書﹂は一万九千点に上ることを 確認できたことを自画自賛しておきたいと思います。作成しました 目録は報告書として刊行しましたが、八百頁を費やすものとなって います。その後の追加点検では、 一部の採録漏れがあることが明ら かになっていますが、修正された点は加筆を施しています。  さて、この目録完成により、中井家文書の全容を確かめるには随 分便利になったため、本格的に研究を見直すことが可能となりまし た。そのための研究会も立ち上げて、中井家だけでなく他の﹁近江 商人﹂も視野に納め、たんに商業活動だけでなく、幅広く文化・芸 術なども取り上げて商家の総合的な営為を解明しようと歩みを進め ました。ところが、中井家文書については、この度の目録に収めた ものがすべてではありませんでした。少なくとも、目録作成後に頂 戴した第二次寄贈分の書状綴は、当初から除外して作業にあたりま ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究 三

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 四 した。もちろん、仮整理は行いましたが、詳細な調書を取るには時 間がなかったために断念したものです。ただ、目録から除外しても 当面の研究分析に大きな影響を与えるものではない、という判断も ありました。それゆえ、江頭氏の著書では引用されているものの、 現在では所在不明な一部の史料を除けば、ほぼ現存する中井家文書 は、本史料館に所蔵できたものと考えていました。  しかし、念には念を入れるために、中井家の什器類を購入したと いう古美術商があるとの情報を得たため、どのような物を購入され たのか調査に伺い、話しを進める内に、思いがけずも古文書も持っ ているという話しになり、吃驚仰天して見せていただくと、これま で私どもの掌握していなかった史料群や遺物が、意想外に大量に出 て参りました。古美術商によれば、それらの中に﹁永久保存﹂すべ き記述のある史料があり、それが気になって売払う決心が付かなか ったようで、二年ほど寝かせ続けているとのことでした。また、古 美術商にとっても、書画・骨董ならばともあれ、古文書となると販 売先に苦労するし価値判断も困難であるという事情を抱えていまし た。そこで、史料館としては、中井家伝来のものであれば一括して 収蔵することが、大学にとっても地域社会にとっても、学界にとっ ても最も良い事であると判断し、これらをすべて購入したいと希望 し、大学当局の協力を得て今春に購入・搬入することができました。 今年の秋期企画展は、それらの新収蔵史資料の一部を供覧に呈した ものです。  これだけの質・量ともに兼ね備えた商家史料を所蔵する大学機関 は、本学をおいて他にはありませんから、全学的に、また、全国的 に利用されることを期待しているところです。  それでは、﹁中井源左衛門家﹂について触れている史料からご紹介 させていただきます。 二 同時代史のなかの中井源左衛門家  近世期に中井源左衛門家が近江国外の人々によって記録されたの は、さほど多くはないと思います。ただ、中井家出店表にあるよう に、多くの出店・枝店が全国に存在しましたから、それらが所在し た地域で何かに書き留められている可能性があるのですが、現在の ところでは調査も十分ではありませんので拙速に判断を下すのは危 険です。そこで、今回は比較的良く知られている司馬江漢︵寛延元年 ︿一七四八﹀∼文政元年︿一八一八﹀︶が書き残したものをご紹介し ます。司馬江漢は天明八年︵一七八八︶八月に長崎へ旅する途上に中 井家に立寄り、初代光武の肖像画を描いたことは、これまでに知ら れています。その記事は、史料︸の十四日の記事にあります。肖像 が翌年三月にも描かれたことは、史料二の十八日の記事にあります。 司馬江漢は、さらに二十三年後の文化八年︵一八一一︶にも﹃春波楼 筆記﹄という日記に中井家のことを書き残しています。それが史料 三です。

史生

九日 上天気。夜の引明に坂の下を出立して、山中にて明る。 往来皆山路にして土山にいたる。宿のはつれより右に入、日野 へ行路なり。山路にか︾り、小川二瀬越へ、亦大河を二つ渡る。

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夫より山に登る・二里を経て墾掛と云処人家あり憂にて昼 食をする。未だ四ツ由比なり。夫より田の間合を行く。さて日 野岡本町と云処に至るに、震は家並てあれとも、前はマサ木の 生垣にして、少し引込みて見世の様子あり、薬種屋多し。震に 中井源左衛門とて、 一代に三十万両の金持になりたる人心。源 左衛門隠居して、其比七十六七になる老人にて、其子息は四十 位にて、奥州仙台に見世ありて、未だ日野へかえらず。五二老 人出て、あなはどちらからお出と問ふ故に、私は江戸の者にて、 兼て子息可七様とは御懇意にて、此度長崎の方へ参候か、是よ り京へ参候序に、此日野へお尋可申とお約束いたしましたが、 未だお返りはなきやと申けれは、左様なら先お上りなされまし と云ふ。然し此ぢン様、一向に物好きもなさふに見へる人にて、 家内を見れば人もすくなく、然し家は能ふしんにて、金持とは 見へれと、是は困りたる所へ参たると思ひ、先前の坐しきへ案 内して通しけるに、此問出来たる坐しきと見へて至てきれみな り。先能茶を出し、菓子を出し、夫より茶づけを出訴す。笈に 於て申には、我等所持したる珍物をご覧ンに入れんと云けれは、 ハイ只今直話七弟かえります、其時拝見可仕と申、程なく弟孫 三郎返りて我等にあみさっす。二十五六歳の人にて、之は画も 好きな人故、夫より色々所持の物を取出し、のぞき目かねを 皆々見物して感心す。ぢ墨様も甚だよろこび、はン様も出て話 す。夫より膳を出す。茶碗もり、坪、ひら、皆料理手きはなる 踏継。震は湖水へも遠く、魚一向に得かたし。夜に入休みける に、夜具はどんす也。蚊屋はモエギの紗なり、へりは︵彫りめ んなりき。 十日 朝曇る、後天気。此日野は山中故か、伊州よりは寒し。 朝夕は節小袖を用ゆ。銅板のぞき目かねは、此様なる物初めて 見る故甚たはやり、二人嫁出て、壱人は孫三郎妻と見へ、歳十 六七、紫色のちりめん振袖を着て吾に逢ふ。老人夫婦も不離し てはなしする。家に蔵する画、色々出し見せる。中には怪き画 もあり。 十一日 朝曇、ムシ暑し。二枚ふすま山水、赤ツイ立花鳥を認 める。茶、菓子等出してもてなす︵下略︶。 十二日 上天気。愛の親類に助右衛門と云ふ人、其比五十位に て、存日案内して、先つ六七鮮血て門徒宗の寺に至る。︵中略︶ 畏は蒲毛う郡と云、水口佐渡守加藤侯の領地なり。人家千軒余 と云ふ。夫より山路に入り、一里余を行きて小野村と云ふに至 る。井田助右衛門、此所に少々の知る人ありて、それへよる。 震にてベントウを開きけるに、小童四五人来りて、ベントウを 喰ふのを見物す︵下略︶。 十三日 曇りて後天気。画色々認める。 十四日 天気。夕方大きなる雷二つなる。愛のち\様の像出来 上る。︵中略︶亦三年漬たる酢しを出す。至て珍物なるよし。明 日は出立せんとて仕度する。セン別とて金宝を贈る。  ︵5︶ 史料二  十七日 天気。日野中井の婦人来る。中井老人の像を被頼、  人伏見に居るよし。伏見へ行き老人を写す︵下略︶。 老 ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究 五

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 一一

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十八日 天気。中井老人の像出来る︵下略︶。 廿三日 曇。富士の画、老人の像出来る。伏見へ持行く。 老人に渡す︵下略︶。 良祐  ︵6︶ 史料三  近江国水口より三里入りて、日野と云ふ所、岡本町と云ふ所に、  中井源左衛門と云ふ者商家にてありけるが、日野は一向往来の  あらざれば、人の通行なし、故に商ひの手立なし。総じて近江  の国の人物は、心肝大きく思慮あり。日野はみせを開き商人の  体見えず。然るに、富商多し、二野近きに八幡と云ふにも富家  あり。其丈貧にして渡世なりがたき辺土は、必、富める者あり。  吾近郷に産する物を買ひ取り、他国へ行き、之を売り、些些国  の物を求め、他所に行き、是をひさぎ、吾国に帰るに及んで、  吾国になき物を求め来るを交易と云ふ。見世を開き商をするを、  費人と云ふなり。往来の路傍に一善飯を駕ぐ者は、生れし其処  を離れずして渡世のなる故に、生涯一膳めしを以て終はる、彼  源左衛門と云ふ人は、僅の元金を持ち、奥州仙台に行き、山地  に綿を生ぜざる事を考へ、大坂より綿木綿古着の類を買ひ取り、  仙台へ船まはし︾て、売りけるに、初は少々宛の商ひして、後  年を追ひて大商となり、今に至りては、人五十人を遣ふ程の見  世を張り、中井源三郎と家名して、今三代目なり。其外下総の  相馬太田原辺へも見世を出だし、今において三十万金の富商と  はなりぬ。予二十五年以前長崎へ行くとき、此日野により、老  人にも逢ひしに、悌六十位に見えしが、実は七十に余れる老人 なりき。この三年以前に、九十余にて病死しぬ。二代目は.酒な どを好みて、五十余にして病死しぬ。今は孫の代なり。珍らし き商人なり。文化八辛未年しるす。  初代源左衛門光武︵良祐︶は享保元年︵一七一六︶生まれですから、 司馬江漢と光武が出会ったのは、江漢が四〇歳、光武は七二歳だと いうことになります。光武は歳より若く見えたと史料三ではいって いますが、初対面の時点では﹁七十六七になる老入﹂︵史料一︶と思 っているのですから、江漢の記憶も頼りになりません。それはとも あれ、史料一の九日の記事に﹁子息可七﹂とあるのは二代目光昌で すが、中井家の史料では﹁可﹂は﹁嘉﹂です。名前としては﹁嘉七﹂ が正しいと思います。また、その﹁弟孫三郎﹂というのは、京都分 家正治右衛門家初代の武成だと思われます。この人物の幼名は﹁正 作﹂であることは明らかになっていたのですが、﹁孫三郎﹂と称し たことは、現存する中井家文書ではまだ確認していません。﹁孫三 郎妻偏は﹁つや﹂さんです。十二日の記事にある親類井田助右衛門 は、光武の母が井田家出身ですから、この家の人物だと推測されま す。  史料には色々と面白いことが記されていますが、信仰心・好奇心 の固まりのような人々が集っていることを窺い知ることができます。       ︵7︶ また、たとえ司馬巨漢が二代目の知り合いだとしても初対面で随分 歓待していることも分かります。そして、提供している夜具が﹁ど んす﹂で蚊帳が﹁モエギの紗﹂、﹁へり﹂は緋縮緬であったと記して います。何と豪華なものでしょうか。﹁近江商人﹂が持ち下った蚊

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帳は、麻で作られたものだったことを思いますと、質素・倹約を旨 とした筈の﹁近江商人﹂でも、客用は違うのだと分かります。それ に、孫三郎の妻と思しき人も﹁紫色のちりめん振袖﹂で応接してい ます。これは多分、着替えて出てきたのでしょう。普段着だとすれ ば、ある意味でとんでもない話しです。この時に描いた肖像画は図 録一頁にも収載しております。史料二でも光武の肖像画が描かれた ことを知ることができます。日野で描かれた光武像は、痩せぎすで 精力の感じられない像となっていますが、伏見で描かれた方は精気 のあるものです。また、日野の方では刀が左手の側にある形ですが、 伏見の方は右手側に刀がある描き方です。  次に史料三をご覧ください。ここで司馬が最後に﹁珍しき商人﹂ だと記していますが、どこが彼にとって珍しかったのか、よく分か りません。もう少し詳しく書き残しておいてくれると助かったので すが。それはそれとして、この中で﹁其地貧にして渡世なりがたき 辺土は、必、富める者あり﹂としています。また、﹁総じて近江の 国の人物は、心肝大きく思慮あり﹂とも述べています。かなり口の 悪い司馬江漢にしては、珍しく褒めています。しかし、近江国を貧 しい辺土と理解しているのは、いささか認識不足だろうと思います。 そのことと﹁近江商人﹂発祥を結びつけることは、必ずしも正鵠を 射た観察ではありません。しかし、全体としてよく中井家の状況を 知っていることには驚きます。よほど関心があったのでしょう。  次に史料四もご紹介しておきます。これは著者も作成年次も分か りませんが、幕末期のものだと思われます史料に記されていたもの です。たまたま、今年の六月に国立公文書館にある滋賀県産業関係 の資料を見に参ったさい、所期の資料を閲覧したので時間があまっ てしまいました。このような時には、通例、私は随筆や日記などの 史料を無作為に見ることにしておりまして、目録から適当に﹃雑事 記﹄とあるものを請求して通覧しました。その時にこの史料を発見 した訳です。当然のことながら、これまでの中井家研究ではどなた も取り上げた痕跡は見られませんので、本邦初公開ということにな ります。一寸自慢めいた話しはこれまでにしまして、史料をご三下 さい。   ︵8︶  史料四   江州日野二而富貴の何某京都出店中井庄次右衛門とて、初め店   を出す時、水油問屋の株を買ひ、次第に仕出し、文政の頃、町   奉行所江金弐千両上納いたし、御貸附の上、年壱割之利分を下   け賜まる様、又自然衰微に及ひ身上立行かたき時は、五百両さ   け賜るへき事願ひ叶ひたる由、又知恩院へ祠堂金弐千両納む、   又近頃京都町人と町代と公事出来し事あり、一篇町代といふ者   ハ町所給金出し抱の者にて、往古より上ミの事地屋敷売買の事、          ︵ママ︶   皆町代へ任セ置、聖霊様こいたしきたる事なり、夫故自然と町   代の方ハ諸事を弁へ旧記等もあり、町人の方士都響疎く、其所   より事起り出入となりし事は、町奉行佐野肥州碁聖の瑚裁許あ   り、品の内其所をいへは地屋敷売買銀高一貫目以て金壱分ツ\   町内へ遣す仕来、勿論証文の奥印ハ町代の調候事を改而奉行所   の奥印となり、壱分取る事もならぬやうになりぬ、然るを庄次   左衛門承り、壱貫目にて拾匁ツ\を得て冥加として、三条五条   の藤橋修復いたすへき由を願ふ、江戸へ上貫になれは両橋の事 ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究 七

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 八 口軽からぬ橋、町人共の携るへきにあらさる由の事となり、志 して淀大小の評言修復の事を願ふ、是ハ町方屈伏におみてハ叶 ふよし、依て奉行所にて町方を糺せハ一人として請致すものも なし、空しく過ぬ 愚考、冥加ハ其所の町人の為になる事か、又ハ積金に致し、利 分を門々へ助成ともなさハ承伏もいたさん、左もなくて世知か しこき世に搾るものン有へきや  この中に登場する﹁中井庄次右衛門﹂は、﹁中井正治右衛門﹂の 宛字です。正治右衛門は初代光武の三男で、京都出店を任されてい ました。しかし、寛政九年︵一七九七Vに光武は遺産の生前分配を行 い、この出店を正治右衛門に譲り、分家させました。したがって、 史料の内容が文政初年︵一八↓八︶頃のことを記していますので、正 しくは出店ではありません。光武が生きている間は出店的な役割を 果たしていたことは推測できますが。それはともあれ、右の史料で 京都町奉行所に二千両上納し、その運用について願い出たこと、知 恩院へ祠堂金を納めたこと、﹁町代改儀一件﹂と呼ばれている、文 化末年から文政初年にかけて京都において町中と町代との間に生じ た大事件にさいして、家屋敷売買にともなう奥印料の徴収を請負う 代わりに三条・五条橋の修復を願ったことなどは、これまでの中井 家研究でも、また、﹁町代改丁一件﹂研究においても全く知られて      ︵9︶ いないことです。これが本当であったのかどうかについて、今後調 べる必要があります。  ただ、中井家が京都に進出するにあたって﹁水油問屋﹂株を購入 し、次第に産を蓄えたとしている点については、﹁中井源左衛門家        ︵10︶ 文書﹂の中に次のような史料が残されています。 史料五     手附銀請取申候事    一金拾両也  右者我等所持之漆問屋株、此度勝手呼付御相対之上、株料として  則銀弐拾五貫目二其元江永代譲り渡申処実正二御座候、依之名前  替取渡之儀者其元御勝手次第二取渡可致候、右為手附書面之金子  嶺二請取拝読、自然我等方故障之儀茂有之、破談等二相及候ハ、、  右手付金無相違急度返弁可申立、其節異儀申間敷候、為後証依而  如件 寛政七年卯八月十五日 中井屋正治殿 西洞院通二条上ル町   譲り主 筆同所 親類惣代証人   口入証人 吉野屋六兵衛 吉野屋茂三郎 白銀屋宗治郎 ︵印︶  印 )  印 )  これによれば、中井家が京都に進出したのは、寛政七年︵一七九 五︶八月十五日に吉野屋六兵衛から﹁漆問屋株﹂を﹁銀弐拾五貫目﹂ で購入して始まったことが分かります。史料四で記されているよう な京都における中井家の動向については、京都にどの程度関連史料 が残されているかどうか全く調査されていませんので、これもまた、

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今後の課題だといえます。ただ、今回は史料を掲げておりませんが、 近世期に洛中に発布された町触を採録している﹃京都町触集成﹄第  ︵11︶ 十三巻を見ますと、慶応二年︵一八六六︶に洛中で困窮人が一万人を 超え、その救価のために多数の町人が金銀米穀などを施行していま す。七月の町触︵二四六号︶に﹁御池高倉西入丁日野屋源右衛門﹂名 が見えます。この店名前は、嘉永二年︵一八四九︶に創設された京店、 通称﹁日野源店﹂だと思われます。この時は金三十両出しています。 また、九月三日目町触では、﹁柳馬場押小路下町 中井正次右衛門﹂ が金百両提供したことが記されています︵二六七号︶。このおりに、 最も多額の拠出金をしたのは三井家で、﹁銀百貫目﹂とありますか ら、当時の金銀相場は正確には分かりませんが、大体千五百両を超 える位だと思います。これは全く別格の商家ですが、中井家京都店 の三十両はいうに及ばず、正治右衛門家の百両も上位の拠出金でし た。この拠出金額だけで判断しても、中井両家は幕末期において洛 中で営業している商家の中でも、上位にある資産家であったと推測 できます。  現在のところ知られる限りでは、以上にご紹介した史料以外に他 国人による中井家に関する記述は見つかっていません。しかし、中 井家は全国に多くの出店・枝店を持っていましたから、それらの出 先地域で何らかの記録が残っている可能性があります。とりわけ、 本店機能をおいた仙台を中心とする東北地域は、その可能性が高い ものと予想しています。さらに、近江国内においても取引関係にあ った者や、個人的な交遊があった人々が何か書き残しているのでは ないかと期待しています。今後は、注意深く史料を点検していきた いと念じている次第です。 三 研究史上の中井源左衛門家文書  さて、中井家が近江を代表する商家の一つであると紹介されたの は、明治二十三年︵一八九〇︶八月に刊行された、岩手県士族の井上 長囲編述﹃近江商人﹄︵松桂堂︶です。この書物は、蒲生郡八幡の書 騨松桂堂の主人であった西川勝助が、明治十七年より日野町から始 めて順次﹁名望家﹂を訪ねて収集した史資料をもとに井上が執筆し たものです。当初は、神崎郡川並村淡海義塾主田中荘吉が編纂にあ たっていましたが、田中が大阪商船会社に就職したため、井上を時 の知事中井弘の紹介で招聰し編纂をゆだねたのです。井上は、本書 の執筆動機として、近代資本主義化を進める明治社会にあって、 ﹁国家経済の地盤たる、商業に従事する者は、分けても既往及び現 在の商業家が、焦心苦慮、忍耐勤勉の末、労力の報酬として、遂に 立身出世したる、事跡を参考となすの必要あり﹂と考え、﹁商法に 必要欠くべからざる、資本、真実、迅速の三名刺を活用せし、近江 商人の事跡を綴﹂つたのです。このさい、﹁近江商人﹂と題したの は、﹁近江国の商人にして、既に黄泉の客となりし商人を始め、現 社会に生存競争して、活溌に商機を進むる商人の事跡を著ハし﹂、 また、﹁縦令豪商の名あるにもせよ、事跡の不確実なる分ハ、敢て 掲載せず﹂と記しています。つまり、この書では﹁地軸﹂の者も含 まれているとともに、資料的な裏付けを取れない者は除外されたと ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究 九

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 一〇 思われます。また、井上は、﹁世人多くは近江商人を呼で、日野、 八幡、中郡の商人と云ふ﹂とも記していますから、明治二十三年こ ろには、﹁日野、八幡、中郡﹂という地域観念で近江商人をとらえ るのが一般的であったと思われます。天保・弘化期︵一八三〇1四 七︶に版行されたと推測される﹁湖東中郡日野八幡在々持書家見立角 力﹂では﹁中郡﹂は﹁神崎郡﹂を指していますが、中郡は愛知・神 崎・犬上の三郡だと井上はとらえています。蒲生郡日野と八幡が特 定の町場であるのに対し、他は﹁中郡﹂や他方の商人だと区分して とらえるのが幕末・明治期の考えであったと思われます。  それはともあれ、右の書物では、﹁古人の伝﹂の部に四一名、﹁今 人の伝﹂の部に九百、計五〇名の商人が採録されています。詳細に ついては省略しますが、中井家については、初代源左衛門良祐を三 代目源左衛門として錯誤し、また、寛政年間の人として商業活動に 触れられています。ここにおいては、ほとんど具体的な商法につい て述べていませんので、恐らくは一次史料を閲覧して活用したとは 考えられません。綿向神社の拝殿の寄進や京男間の車石の敷設とい う貢献が取り上げられているところがら、収集された情報は、ごく 限られていたものと思われます。  その後、この﹃近江商人﹄は、明治四十三年五月に県立八幡商業 学校二十五周年記念として、新たに同校教諭の平瀬光慶が編纂・著 作にあたり、﹃近江商人﹄第二編の出版を企図して資料収集してい た西川の協力を得て、﹃近江商人 全﹄が刊行されています。そこ では、初代良祐は七代目と改められるなど、 一部の史料の追加や書 き改めがあるものの、やはり第一次史料を見たようには思えません。  中井家が本格的に取り上げられ、﹁近江商人﹂研究に欠くべから ざる対象の商家だということが明らかになるのは、先述のように昭 和五年に刊行された﹃近江日野町志﹄だといえます。大正十一年に 刊行された﹃近江蒲生郡志﹄では、叙述はされていますが、創業期 の状況を記されているに過ぎません。ただ、これらの書物は、いわ ば﹁郷土自慢﹂とも読まれかねない内容となっており、必ずしも客 観的な分析であるとはいい難いものがあります。しかし、当時の郷 土史は全国的にそのように叙述されるものであって、特に右の二冊 が例外だというわけではあ、りません。郷土史をきちんと記録してお こうとする地域住民の意識を評価すべきであって、叙述方法を批判 するのは、学問的ではありません。学問的には、﹁郷土自慢﹂の客 観性を問いながら、一国史次元にまでくみ取っていったのが歴史学 の流れであることは理解しておく必要があります。そして、そのよ うな流れのなかで﹁郷土史﹂は﹁地方史﹂、あるいは近年では﹁地 域史﹂と名前を変えながら、常に再三の検討がなされていることも、 申し述べておきたいと思います。 四 学術文献中の中井源左衛門家  中井家が学術研究の対象として取り上げられる過程は、江頭・小 倉両氏の著書に掲げられた研究文献一覧、あるいは成稿一覧に詳し いのですが、それらによれば、中井家の第一次史料を用いた研究は、 昭和三十年越以降に本格化しています。とりわけ三十年代に集中し ていることが分かります。この年代に書かれた原稿が、それぞれの

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二号としてまとめられたといえます。もちろん、三十年代以前にも、 中井家についてふれた研究論文もいくつか存在しますが、それらは 先にふれた書物に採録されている活字史料をもちいながら議論され ており、積極的に中井家文書の採訪を行っているとは考えられませ ん。  先にも述べましたが、中井家文書が史料館に借用され搬入された のは、昭和二十六年のことでした。借用できた理由は、前年に﹁滋 賀県庶民史料調査﹂が実施され、史料調書を作成したことで、その 学術的価値を見いだしたことにもよるのではないかと推測していま す。そして、ご当主の子息︵正治氏︶が大学一期生として本学部に入 学され、江頭氏のゼミ生となられた由縁で、後に購入することがで きたのだと考えています。このさい、中井家文書は、別の機関から も購入する意思を示されたようで、しかも本学部よりも高額を提示 されていたと伝えられています。しかし、結果的には師弟の絆が強 かったのか、史料館が所蔵できることになりました。結果論かもし れませんが、もし、この文書が史料館ではなく、競合した某機関に 所蔵されたとすれば、恐らく史料はほとんど利用されることもなく 永い年月を収蔵庫の中で打ち過ぎているだろうと確信できます。そ のことは、日本における﹁近江商人﹂研究のみならず、日本商業史 研究の進展を遅らせたものと断言できます。  さて、史料館において中井家文書が本格的に整理されていくのは、 昭和二十九年夏ころからでした。どのようなペースで進んだのかは 定かではありませんが、昭和三十一年に江頭氏は二本の論文を執筆 し、また、同年に本学に在籍されていた原田敏丸氏も、 一本の論文 を公表されています。昭和三十年代だけで、江頭氏は十三本、小倉 氏は九本、原田氏は二本の論文を発表されているのです。そしてこ の間、昭和三十四年五月に刊行された﹃日本人物史大系﹄第三巻︵朝 倉書房︶に﹁中井源左衛門﹂の項目を原田氏は執筆されてもいます。 これらの研究の公表の様子は、お配りしてあります﹁中井家研究文 献一覧﹂をご参照願いたいと思います。小倉氏のこ著書と江頭氏の こ著書に採録されていますものをご紹介しています。これらの精力 的な取組に比すれば、﹁その後の研究文献﹂として掲げた成果はわ ずかなものです。ご参考までに、私が気付いた限りでの昭和四十年 代以降の中井源左衛門家に関して論及している文献を掲示します と、次のようなものがあります。 ① ② ③ ④ ﹁中井家と三井家の関係について一特に経営資本に関連して﹂   江頭恒治   ﹃同志社商学﹄二〇巻一・二号、   昭和四十三年 ﹁幕末蔵元資本の↓類型−仙台藩中井家の場合1﹂   難波信雄   ﹃東北学院大学東北文化研究所紀要﹄八号、   昭和五十二年 ﹁中井源左衛門一近江商人の多店舗経営﹂   水原正亨   ﹃江戸期商人の革新的行動﹄所収         ︵作道洋太郎準率、有斐閣、昭和五十三年︶ ﹁近江中井家支店天童日野屋の経営について﹂   伊豆田忠悦  ﹃日本社会史研究﹄所収      ︵芳賀幸四郎先生古希記念会論文集編集委員会編、 ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 二        笠間書店、昭和五十五年︶ ⑤﹁近江商人の近世的経営遺産と近代への対応−中井源左衛門   家・丁吟・伊藤忠の場合﹂     石川健次郎  ﹃近江商人の経営遺産1その再評価﹄所収        ︵安岡重明ほか編、同文舘、平成四年︶ ⑥﹁複式簿記の構造について1江血中井家帳合法を基点として﹂     大場敏男   ﹃東海大学短期大学紀要﹄二七号、       平成五年 ⑦﹁近江商人中井家の家訓・店則にみる﹁立身﹂と﹁出世﹂﹂     宇佐美英機  ﹃彦根論叢﹄三一七号、平成十一年 ⑧﹁近世後期における頼母子講の展開︵1・2︶一江州日野・中井   源左衛門家を中心に一﹂     加藤慶一郎  ﹃流通科学大学論集一流通・経営編﹄     =二巻 二号、平成一二年 ⑨﹃近世・近代商家文書に関する総合的研究﹄     平成十二年∼十四年度科学研究費補助金︵基盤研究B・     2︶研究成果報告書        ︵研究代表者・宇佐美英機、平成十五年︶  このようにして、主要には江頭・小倉両氏が中井家文書を利用し て成果を上げられ、いずれもが乱言としてまとめられました。この ご研究の成果は多大なものがあり、従来の商家研究の水準を飛躍的 に高めるとともに、商家に残された史料をどのように利用したらよ いかについて指針を与えるものとなりました。そこで示された分析 視角は、その後の商家分析の研究に引き継がれているといっても決 して過言ではありません。  しかし、先にも述べましたように、両氏が多大な業績を上げられ る反面で、史料整理は一向に進みませんでした。論文執筆を行う一 方で、利用した史料の名称は上げるものの、解釈を追検証するため に当該史料を見ようとしても、多分ご本人以外に史料を出納できる 人は、ほとんどいなかったと推測されます。そのため、両氏が中井 家文書を用いた研究に一区切りを付けられて以降は、本学に在籍さ れた教員の方が、その時々ごとに仮分類されまとめられていた史料 配架箱から史料を繰って論文を書く以外に手がなかったようです。 中井家が江湖に知られるようになり、他機関の研究者からの閲覧希 望があっても全面的に応えることは困難な状態にあったわけです。 それは、非公開と取られてもしようがなく、民主的ではないと批判 されても反論できない状態だったと認めざるを得ません。ただ、史 料館および先学の人々の名誉のために申し上げるならば、膨大な史 料を保管する施設であるにも拘わらず、それらを整理するための予 算・人員を含めた充分な体制は整備されていなかったのであり、そ のような中で中井家文書を取りあえず未整理状態にしたままで他の 多くの文書群の整理を進めざるを得なかったのは余儀ないことであ ったと思います。幸い、二万点近い史料については、一応の目録を 作成できましたので、これから新たに研究を進めることができます。 加えて、この度新規に]万点を優に超えると推測される史資料を所 蔵することができました。その全容は、まだ本格的な整理作業に着 手出来ていませんので軽々しくは申し上げられないのですが、これ

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までの研究では明治・大正・昭和の時期の中井家の経営状態につい ては論究されていませんでしたが、新規に搬入した史料のなかには その時期の勘定帳簿も含まれており、それらを分析すれば、新しい 知見を付け加えることができるものと、大いに期待しております。 五 今後の﹁近江商人﹂研究の方向  ところで、先学によって中井源左衛門家の分析を通じて、﹁近江 商人﹂とは、①行商から始め、商圏の拡大とともに、②全国各地︵得 意場︶に出店を設け、③経営の危険分散を勘案して、営業、取扱い商 品の種類が多岐にわたり、また、④共同企業形態や複式簿記などの 合理的経営を行ったが、それは、⑤勤勉.倹約.正直.堅実、陰徳 善事などの経営者精神に支えられていたことが明らかになりまし た。さらには、地域社会へ利益を還元するなどの﹁作善﹂行為を所 与の前提としている商人像も描き出されています。このような実態 は、中井家の研究以後に着手された多くの﹁近江商人﹂研究で取り 上げられた商家の解明を通じて共通性が確認されています。もちろ ん、中井家とは濃淡の差があり、すべてが一致しているわけではあ りません。そして、それらの研究史が多くは経営学・経済学・会計 学などの概念を用いて歴史的考察を加えて成果を上げてきたことは いうまでもないのですが、近年の研究関心を考慮に入れるならば、 たんに商業経営体としての機能だけではなく、一市井人としての私 生活も含めて商人の営為をとらえなければ、本当の意味で商人・商 家をとらえたことにはならない、という認識に現在は到達していま す。もちろん、江頭氏は﹁商家の衣・食・住﹂という論文を書かれ ており、そのような関心を持たれていたことは推測できますが、如 何せん、それ以上の分析を加えられることはありませんでした。  私が執筆した論文は、今述べたような問題関心の一環として試み たものです。従来の研究で利用された家訓・店則類は、主にその商 家の経営管理や組織・理念、あるいは奉公人制度の実態を明らかに するという関心で取り上げられ、多くの成果を上げてきました。し かし、多数の条文を持つ家訓・店則をそのような観点かちのみとら えたさい、少なからずの条文は捨象されてしまうことも多かったと いえます。また、観点を変えれば、従来の理解とは異なった読み方 ︵解釈︶が可能だと考えたわけです。同時に、経営史・経済史的な関 心からは取り上げられることがなかった史料を用いることにより、 研究の深化を図ることができると考え、中井家の家訓・店則類を点 検してみたものです。ここで発見できた事実は、他の近江商人の家 訓・店則の分析にも応用できること、そして、それは従来の﹁近江 商人﹂研究では顧みられることがなかった側面であることも、次第 に明らかになっています。この意味で、中井源左衛門家文書の分析 は、まだまだ汲み尽くせない豊富な内容をもつ史料であると確信し ています。  それにしても、一商家について、これほど多くの論文が書かれて いる事例は、三井家・住友家・鴻池家といった、近世期の三都居住 の特権的な商人を除けば、他にありません。三井家や住友家は、明 治期以降に財閥化を遂げていったため、多くの研究者の関心を呼び ました。それは、日本における資本主義発達史の中で大きな意味を ﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究 =二

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号 一四 持ちました。しかし、近代化する過程で全体として商人・商家・商 業がどのような歴史的推移を遂げているのかを解明しなければ、資 本主義社会の成立を解いたことにはならないことは自明の理だとい えます。その意味では、本学に在籍されて﹁近江商人﹂研究に携わ って来られた先学の姿勢は、大いに評価されるものだと考えていま す。  戦後の経済史は産業資本の成立を説明することに傾注してきまし た。そこではステレオタイプな視角・理論が援用されました。しか し、近世期に最も富を集中させていたのは商人であるという事は自 明のことです。にもかかわらず、学界はそのような自明のことに無 関心であったといえます。経済史学界の主流が資本主義化・産業化 過程の解明に努力を注ぎ、大きな成果を上げてきたことを否定する ものではありませんが、商人・商家・商業に関わる実態を解明する ことが、今改めて求められていると思います。ただ、経済史・経営 史の観点から商業が分析される一方で、それらの成果をほとんど参 照することもなく皮相な商人・商業の歴史が論じられている昨今の 日本史の潮流には、いささか警鐘を鳴らしておく・必要があろうかと 思います。多様な視座から商人・商家・商業の歴史を分析すること によって、現在共有している通説を書き改めることができるのでし ょう。中井源左衛門家文書は、それらに応えられるだけの内容を持 つ史料であると確信しています。  今般新たに所蔵することになった史料群を整理し目録を作成する には、多くの人材の協力が必要であり、いつ完成させることができ るかどうか予想も立てられませんが、史料館では鋭意努力する所存 です。どうぞ皆様方のご協力もお願い申し上げて、私の拙いお話し を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。  注         

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  )  )  ) ) ︵5︶ ︵6︶        

987

)  ) ) 11 10 雄山閣、昭和四十年一月 ミネルヴァ書房、昭和三十七年十一月 吉川弘文館、昭和五十九年十一月 司馬江漢﹃江漢西遊日記﹄二・三、天明八年八月の条︵﹃日本庶民 生活史料集成﹄第二巻所収、三一書房、 一九六九年︶。なお、引用 にあたっては句読点の一部を改め、ふりがななどを省略している。  ﹃同右﹄六、寛政元年三月の条 司馬葦子﹃春波楼筆記﹄︵﹃日本随筆大成﹄第一期第2巻所収、吉 川弘文館、 一九九三年︶ このことは、本稿では︵下略︶としている十一日の記事による。 国立公文書館所蔵﹃雑事記 廿九﹄︵内閣文庫213函t32号︶ 辻ミチ子﹁京都町組の回生﹂︵同氏﹃転生の都市・京都﹄第一章、 阿咋社、 一九九九年︶参照。 ﹁中井源左衛門家文書﹂14599。 京都町触研究会編、岩波書店。 ︻付記︼  本稿は、滋賀大学経済学部附属史料館平成十六年度企画展﹁近江商人 中井源左衛門⋮新収史資料を中心に一﹂の展示説明会︵十月二十三日︶に おいて発表したものを一部補訂して原稿化したものである。また、平成 十六年度科学研究費補助金︵基盤研究︵B︶・︵2︶ 研究代表者・宇佐美英

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る機

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﹁近世・近代商家活動に関する総合的研究﹂の研究成果の一部であ

﹁中井源左衛門家文書﹂と﹁近江商人﹂研究

参照

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