早稲田大学大学院社会科学研究科
博士学位申請論文審査要旨
申 請 学 位 名 称 博士(学術)
申 請 者 氏 名 小林 竜一
専攻・研究指導 地球社会論専攻 比較文化・比較基層文化論研究指導
論文題目
新渡戸稲造と明治時代 Inazo Nitobe and Meiji Era
審査委員会設置期間 自 2011年10月13日 至 2012年 2月 9日 受理年月日 2011年10月13日 審査終了年月日 2012年 2月 9日
審査結果 合 格
審査委員
所 属 資 格 氏 名 主任審査員 社会科学総合学術院 教授 池田 雅之
審査員 社会科学総合学術院 教授 古賀 勝次郎 審査員 社会科学総合学術院 教授 島 善高
審査員 早稲田大学 名誉教授 照屋 佳男
審査員 東京大学 名誉教授 亀井 俊介
博士(学術)論文 学位論文審査要旨 小林竜一『新渡戸稲造と明治時代』
1、本論文全体の主題 2、本論文の構成 3、本論文の章別概要 4、評価
1、本論文全体の主題
新渡戸稲造という学者の全体像を捉えるのが本論文の目的である。全体像を捉えるため にはクエーカー派のキリスト教徒という側面に囚われることなく、「カメラリスト(国家官 僚型学者)」であったという側面に目を向けなければならず、そして「カメラリスト」とし ての新渡戸を把握するためには、従来の新渡戸研究において軽視されていたドイツ留学時 代を綿密な考察の対象にしなければならないという認識に基づいて、新渡戸の全体像把捉 の試みがなされている。
この全体像を通じて、「カメラリスト」であったがゆえに、つまり学際性と実践性を重ん ずる学者であったがゆえに、明治という時代そのものの要請にみごとに応えていた新渡戸 の姿を浮き彫りにする試みがなされている。「カメラリスト」としての新渡戸の研究姿勢の 特徴たる学際性と実践性との結合が、多岐にわたる学問的、社会的活動の源泉であったこ とが明らかにされ、台湾総督府の技師として、札幌農学校の教授として、第一高等学校校 長として、様々な領域において学際性と実践性を結合させて活躍した新渡戸の姿が、厖大 な資料を駆使して、活写されるに至っている。
新渡戸の場合、学際性と実践性との結合は明治という時代そのものの要請に忠実に応え る上では、必要条件ではあるが、十分条件ではない。内発性と外発性との両立が必須の条 件として求められねばならず、この条件は日本の道徳体系たる武士道や先祖の「血」の課 する「使命感」という内発的なものを捨象せず、これらを外発的なクエーカー派のキリス ト教や人格主義や教養主義に接続させることによって充たされるという見方が提示されて いる。
2、本論文の構成
本論文の章構成は、以下のとおりである。
序 論
第一章 新渡戸稲造の<源泉>
第二章 1870 年代前半の新渡戸稲造―「英語教育」の意義と「使命」の発見 第三章 札幌農学校生としての新渡戸稲造―前期札幌時代
第四章 新渡戸稲造におけるアカデミックキャリアの形成過程(Ⅰ)
第五章 新渡戸稲造におけるキリスト教信仰の形成過程
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第六章 新渡戸稲造におけるアカデミックキャリアの形成過程(Ⅱ)
第七章 永遠の否定―札幌農学校教授としての新渡戸稲造‐後期札幌時代 第八章 無頓着の中心:「シーパワー理論」と<太平洋の橋>
第九章 永遠の肯定―新渡戸稲造と明治日本の膨張 第十章 第一高等学校校長と日米交換教授
結 語
3、本論文の章別概要
序論
本論文で目指されているのは新渡戸稲造の全体像であり、その全体像を捉えるためには、
第一に「武士道」や「太平洋の橋」から連想されるものを「白紙に還元」すること、第二 に従来の新渡戸研究において軽視されがちであったドイツ留学時代を綿密に辿ること、第 三に新渡戸を学際的研究の先駆者と位置づけ、さらに新渡戸の学際性は実践性と結びつい ていたということを認識しなければならない。
第一章 「新渡戸稲造の<源泉>」
新渡戸の行動原理と学際性の根源を成すものとして先ず次の三つの事実が挙げられてい る。
①15代桓武天皇に連なる家系に生まれたこと。
②東北行幸をした明治天皇は、祖父新渡戸傳の住居を行在所としたこと。
③三本木という不毛の地の開拓に尽力した新渡戸家に明治天皇が金一封を下賜されたこと。
開拓事業に献身した祖父傳、祖父の死後開拓事業を受け継いだ長兄七郎、水利事業、開 発計画、産業基盤の整備、雇用の安定、服役囚の生業確保の面などで活躍した父十次郎に 対して「自己意識を共鳴させることによって得られた確信」の持つ意味は大きいと論じら れている。茶道家や歌人としての一面を有し、新渡戸と「詩魂」を共有する文武両道の武 士であった父十次郎の48歳での非業の死は「新渡戸の精神に深刻な影響を与えた」最初 の「喪失体験」であるが、先行研究はこの体験を軽視していると論述される。
長兄七郎による開拓事業の継承は「新渡戸家の人間に流れる『血』」の否定し難い力を示 すものであり、この力は新渡戸自身の北海道における開拓事業の推進、台湾における製糖 事業の推進となって現われる。
第二章 「1870 年代前半の新渡戸稲造―「英語教育」の意義と「使命」の発見」
先ず「三大英文家」の一人である新渡戸(他の二人は内村鑑三と岡倉天心)の英文著作
『幼き日の思い出』に基づいて、若き日の新渡戸像が描かれる。次に「近世」が「近代」
へと移行する歴史の転換期に生まれた新渡戸が「伝統的価値観」と「近代的価値観」との 両立、あるいは「日本の伝統」と「西洋文明」との両立を図るのを余儀なくされた存在で あることへの言及がなされ、新渡戸の英学への邁進は、外発的要因によってだけでなく、
内発的要因によってもなされたことを、新渡戸自身の発言を引用して示し、新渡戸の「強 固な主体性」を抽出している。
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東京における英学修行は①築地外人英学校入学、②南部藩主が経営する共慣義塾への転 校、③官学の東京英語学校への入学、④M.N.スコットの英語教育との出会いによって特徴 づけられている。スコットから思想・感情表現を重視する英作文の指導を受けたが、ダー ウィンの進化論を支持するスコットの英文学の授業はいわば反面教師的な働きをし、英文 学との接触は新渡戸をキリスト教受容の方向へ押しやったと論述される。
しかし新渡戸に起こった「使命の発見」「新渡戸家の伝統の自覚」という側面を見逃して はならないのであり、この発見・自覚には2つの事件が大きな作用を及ぼしている。1つ は文部省視学係西村貞という人物が寄宿舎で行った演説、すなわち「「祖国が実際如何なる 点で皆の貢献を要求しているかを熟考すべきである」という趣旨の演説で、もう1つは「1 876年夏、明治天皇が東北に巡幸した際、行在所として祖父傳邸が選定され、そこで明 治天皇が一夜を過ごしたという出来事」、明治天皇が新渡戸家の人々の開拓事業の功績を称 え、下賜金・下賜品に加えて「良き事業を続けんことを望む」という言葉を賜ったという 出来事である。これによって、新渡戸の胸に生ぜしめられた新渡戸家の伝統の強い自覚、
使命の発見は、キリスト教の受容との関係において一般化すれば、「外発性的要因と内発性 的要因の相克 ―― そして両立」という形を取って現われるのであり、このような相克・
両立こそは「近代日本の精神にダイナミズムをもたらした」ところのものであるという見 方が示される。
第三章 「札幌農学校生としての新渡戸稲造―前期札幌時代」
札幌農学校の「建学の趣旨が先祖の開拓事業の継承という自らの使命と一致することを 発見」したことが、新渡戸の札幌農学校志願の動機の1つである。他の動機は佐藤昌介が 同農学校に入学したことである。一方ウィリアム・エス・クラークが帰国した翌年に札幌 農学校に入学した新渡戸がクラークから受けた影響は小さくはなかった。クラークに由来 する「イエスを信ずる者の誓約」に半強制的に署名させられ、それによって新渡戸の信仰 心は一層の高まりを見せるようになった。
札幌農学校ではジョン・クラレンス・カッターとの意義深い出会いがあった。東京英学 校のスコットと並んで、カッターも新渡戸の英語力の源泉を成しているが、カッターの使 用した英文学の教科書が学際性に富んでいた点が特筆に値することとして取り上げられて いる。英文学の教科書でありながらシェクスピアの作品をはじめとする純文学に偏重せず、
ベーコン、ヒューム、カーライル、トマス・ヒューズに多くの頁が割かれていたのである。
新渡戸の人格形成にとりわけ大きな影響を与えたカーライル、後に新渡戸の教育活動の範 型となるものを提供してくれたトマス・ヒューズの登場するこの教科書で学んだおかげで、
「歴史、政治、そして社会の動向」が新渡戸の新たな関心領域になった。「当時、札幌農学 校では『英文学』という言葉が『人文・社会総合イギリス研究』のような意味合いで認識 されていた可能性がある」と論述されている。
札幌農学校時代、宗教的高揚感のなかで、新渡戸の信仰は神秘経験をするほどに神秘主 義的傾向を強め、それによって、学問と信仰との間の幸福なバランスが崩れ、知的活動は 停滞し、その結果「宗教上の難問に苛まれ」、鬱状態に陥った期間がある。そういう折、救 助作用あるカーライルの言葉との出会いが起こり、そこから「新渡戸の精神はクエーカー 派開祖であるジョン・フォックスに接続したと考えられる」と叙述される。
卒業時には、「開拓」を第一志望とし、「作物(甜菜)」を第二志望としたが、第一志望は
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新渡戸家の伝統に呼応するものであり、それは北海道庁技師、ならびに台湾総督府技師と しての活動を通じて実現され、第二志望は製糖業振興への意欲につながり、実際に台湾で 製糖業振興に大いに貢献するという形で実現される。
第四章 「新渡戸稲造におけるアカデミックキャリアの形成過程(Ⅰ)」
札幌農学校卒業後、新渡戸は北海道開拓使御用係の職に就くが、開拓使が明治15年に 廃止されると、農商務省の役人となる。サトウモロコシから砂糖を採取する方法の研究は、
台湾総督府における活動の基盤、さらには農業経済学者としての基盤を成すこととなる。
農商務省を退官して1883年9月東京帝国大学の入試面接において面接官の外山正一教 授に農政学、経済学、統計学、英文学を研究したいと言ったところに新渡戸の学際的研究 姿勢が示されていると論じられている。
新渡戸は、後に日本美術の研究で卓越した業績を挙げることになるアーネスト・フェノ ロサを通じて東京帝国大学に広がっていたハーバート・スペンサーの社会進化論に共鳴す るものを感じてはいたが、他方カール・ラートゲン、すなわち東大で8年間、国法学、行 政学、統計学を講じたラートゲンに「キャリア形成の方向性」において一致するものを見 出していた。一致する方向性とは「カメラリスト(国家官僚型学者)」を目指す方向性のこ とである。新渡戸はまた、田尻稲次郎、すなわち大蔵省勤務と並行して東大で財政学、貨 幣論、銀行論、公債論、経済史、応用経済学を講じていた田尻稲次郎のなかに「カメラリ スト」の理想像を見出していた可能性があると論じられている。
「日本の学界の遅れ」を痛感させられ、米国留学を決意するに至った新渡戸は、佐藤昌 介のすすめでジョン・ホプキンス大学に入学し、「ジョン・ホプキンス大学の『歴史・政治 ゼミナール』を全米屈指の研究機関へと発展させた」ハーバート・バクスター・アダムズ の「歴史・政治ゼミナール」に属していた。アダムズを指導教授としていたことの意味は 大きい、と述べられている。ジョン・ホプキンス大学において新渡戸の研究・教育環境に 大きな影響を与えたもう一人の人物として、リチャード・イリ―が挙げられている。
「キリスト教社会主義」に収斂する「社会的連帯」、すなわち倫理性の極めて高い「相互 依存性」を基調とする「社会的連帯」を研究の中心に据えていたイリ―は1881年ジョ ンズ・ホプキンス大学のスタッフに加わり、アダムズが運営する「歴史・政治ゼミナール」
の補佐的役割を果たす。新渡戸への影響という点で注目すべきイリ―の論文として「政治 経済学の過去と現在」が挙げられている。この論文を通じてベルギー人教授エミール・ド・
ラヴレー(『武士道』の「序文」に登場する人物)の存在を強く意識するようになったと推 定できると論述され、さらに「社会的連帯」を提唱し、これを1880年代の札幌におい て、また第一高等学校時代において実践した新渡戸は、イリ―の立場を踏襲していたよう に見えると論述されている。
ジョンズ・ホプキンス大学において新渡戸が、「日本人としての自己意識」に立脚して「太 平洋の橋」としての役割を果たすべく「日米関係」の研究に目を向け、『日米関係史』を執 筆するに至った過程が綿密に辿られている。
第五章 「新渡戸稲造におけるキリスト教信仰の形成過程」
新渡戸稲造のキリスト信仰の基盤形成の過程が、ラルフ・ウォルドー・エマソンやカー ライルとの比較において考察されている。エマソンがユニテリアン派の牧師としての職責
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を放棄したことは、「神の一位」を肯定し、「キリストの神性」を否定し、キリストの「人 間化」を図るユニテリアン派から離れたということ、クエーカー派の「反立法主義的立場」
を肯定するに至ったということを意味している。そして教会という「可視的」なものの桎 梏からの人間の解放、宗教の実質の重視というエマソンの立場、すなわち「内なる光」を 第一義とし、聖書の言葉をこれに従属させる立場、エマソンが日常生活で実践していた立 場、ジョン・フォックスの創設したクエーカー派の精神に通じる立場は、新渡戸の立場に 一致するという見方が打ち出されている。「内なる光」を第一義とする神秘主義的傾向がフ ォックス、エマソン、新渡戸に認められると叙述されているのである。ただしエマソンは クエーカーリズムと袂を分かったという点で、またキリスト教自体の超克を志向したとい う点では、フォックスや新渡戸とは異なると論述される。さらに新渡戸は「激烈な信仰態 度」を受け容れず、キリスト教(クエーカー派)のコミュニティ(共同体)を志向してい た点でフォックスやエマソンとは異なると付言されている。
クエーカー派への傾斜が深まるにつれて内村鑑三と新渡戸との関係は冷却の度を加え、
一方新渡戸の政治・社会問題への関心は高まっていく。政治・社会問題への関心は日本に おいてクエーカー派の人々に日本国家の未来を形成する上で活躍の場が与えられて欲しい という願望に発するもので、この願望は、新渡戸においては、不平等条約改正への情熱と 一体化している。主としてクエーカー派の人々の集会で、新渡戸は不平等条約改正の必要 を熱っぽく説いたのだが、新渡戸の熱弁を聴いた聴衆のなかに、新渡戸の生涯の伴侶とな るメアリー・エルキントンがいた。不平等条約改正のための新渡戸の奮闘とクエーカー派 への傾斜が無理なく溶け合っていたという事実から浮かび上がってくるのは、当時、フィ ラデルフィアにはクエーカー派によって心地よい共同体が形成されていたということであ る。
第六章 「新渡戸稲造におけるアカデミックキャリアの形成過程(Ⅱ)」
ドイツ留学時代は新渡戸が研究テーマとして『農業経済』を取り上げた時期、「後年のキ ャリア形成の根幹を成す時期」、「『日本の道徳観念』に強い問題意識を抱いた」時期である と規定されている。
札幌農学校助教授としてドイツに留学したことの意義は、ドイツでは農業経済学が独立 した学問分野として確立されていたところに見出される。最初に入学したボン大学では農 業経済学を主として研究し、そのかたわら日米関係史にも時間を割いていた。つねに単一 の課題ではなく、複数の課題に同時に取り組むところに新渡戸の学際性、そしてそれと結 合した実践性が表出されている。またクエーカー教徒としての自らの立場を忘れたことの ない新渡戸だが、クエーカー教徒であることは日本人であることと両立しなければならな いという意識を保持していたのであり、その意識を「キリストを信じる日本人」という句 で表わしたりした。そして日本人であるとは、新渡戸にとっては、「道徳観念」をしっかり 保つことに他ならない。
『武士道』の序文に「日本の道徳観念に関する問題意識を惹起した」人物として登場す るベルギーのエミール・ド・ラヴレ―との面会は格別に貴重な経験であった。いくつもの 課題に「感情、憧憬、同情、情感」を排除せずに取り組むラヴレ―の研究姿勢に新渡戸が 大いなる共感を覚えたということが明白に感じ取られる叙述となっている。「感情、憧憬、
同情、情感」を研究に参与させる非マルクス主義的、非実証主義的な研究姿勢は新渡戸が
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カーライルやラヴレ―と共有するところのものであり、そういう研究姿勢はつねに実践と 結びついている。「「ラヴレ―との面会は、学際性と社会的実践の高度な次元での両立を目 的とする新渡戸の研究姿勢、ひいては新渡戸の世界観を肯定する契機であったと考えられ る」という叙述も行われている。
1888年11月ベルリン大学へ転校した新渡戸は、G.シュモラ―の「農業史」すなわ ち「風習的(sittlich)」的観点を肯定し、「経済法則を絶対的真理とする立場に対して疑問を 呈し、」国民経済が「空間・時間・国民性」という諸条件とは不可分であること、その根拠 は歴史に求められるべきだということ」を提唱している「農業史」に惹きつけられていた。
新渡戸はドイツ随一の農学部を誇るハレ大学に『日本の土地制度論』と題する学位申請論 文を提出し、博士号を授与されたが、この論文の基調を成している「風習的」なものの重 視は、「シュモラーの手法に忠実な研究姿勢」を窺わせると論述され、「新渡戸の学統の源 泉にシュモラーが位置している」という見方が提示されている。
一方ドイツ留学時代に、ジョンズ・ホプキンス大学のアダムズ博士の厚意で出版された
『日米関係史』における日本の封建制度の肯定的評価は、過去との連続性、日本人の主体 性を重視する観点からなされているとし、過去との連続性を保障する「大和魂」を抜きに して日本のまっとうな発展は図れないとする見方が根底に据えられている『日米関係史』
は、新渡戸が「時局の推移」にしっかり対応し得ていたこと、「日米関係」のダイナミズム を適切に捉えていたことを示していると論述されている。
第七章 「永遠の否定―札幌農学校教授としての新渡戸稲造‐後期札幌時代」
本章では1891年2月妻と事実上2本の博士論文を携えて、6年4カ月振りに帰国し てから始まった後期札幌農学校時代が取り上げられ、「多方面」に及ぶ精力的な活動を特徴 とするこの期間は、「深刻な『喪失体験』」を代償にしていたと語られる。
明治政府が北海道開拓のために設けた札幌農学校の伝統、すなわちクラーク以来のキリ スト教的伝統と時代の風潮、すなわち1889年の帝国憲法制定、1890年の教育勅語 の発布などを通じて高まっていた国家主義的風潮とのあいだには、大きな懸隔が生じてい たので、新渡戸は先ずカリキュラムの改正に着手し、札幌農学校の存在理由を説くために 英文の著作『札幌農学校』(The Imperial College of Sapporo)を出版し、そのなかで札幌農 学校は時代の要請に応えるのを旨として創設されたということを語っている、と叙述され、
さらに新渡戸の真意は札幌農学校をカメラリィスティク・サイエンスを学ぶ学校として位 置づけるところにあったと叙述されている。
論者の見方によれば、新渡戸がドイツ留学時代に「官房学(Kameralwissenshaften)」を 知るに至ったことは特筆大書すべきで、「官房学」は社会科学から自然科学、人文科学にま たがる「学際横断的な学問領域」であったのであり、「官房学」を修得した者が農林水産業、
牧畜猟業、鉱業、工業、商業、金融業、国防、教育、医療の諸分野で活躍していたことに 鑑みると、「官房学」の内包する実践性と学際性には高く評価さるべきものがあった。
広範囲にわたる基礎教育の上に専門教育が築かれるという教育の構造を重視する新渡戸 は、倫理教育を重んじ、倫理教育の手段として英文学を活用したりしたが、一方学生の身 体の強健を図るべく課外活動にも熱を入れ、学生たちに大きな感化を与えたことが丁寧に 叙述されている。「学生の運命を左右する」ほどの新渡戸の感化への論及は、有島武郎を例 に挙げて行われてもいる。
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アカデミズムと社会との接続という問題意識に基づいて札幌農学校教授でありながら北 海道庁の官吏として学内外で活躍したのみならず、「20もの外部組織に関与し」、「学術の 一般社会への普及に貢献した。」一方新渡戸が社会活動を通じて編み出した「農村社会的手 法は柳田國男の民俗学へと発展する」と論じられている。
中等教育機関への新渡戸の関心は、「北鳴学校」校長就任への道を開き、「遠友夜学校」
という私設夜学校の設立につながり、この学校で精神修養に関する講話を盛んに行うこと につながった。
新渡戸の精力的活動の根底にあるのは「喪失体験」、父、祖父、母、次兄、長兄の死、生 後1週間での愛児の死という形で起こった「喪失体験」、そこから行われた「悲哀の使命」
の発見、そしてそこから生じた認識、すなわちキリスト教には「悲哀」を積極的意義へと 変革させる効用があるという認識であった。「『悲哀』の意義の発見こそ、新渡戸の自己犠 牲的な行動や遠友夜学校設立の根本要因となっていたと思われる。」
第八章 「無頓着の中心:「シーパワー理論」と<太平洋の橋>」
本章では新渡戸についてまわる「太平洋の橋」という枠組みを白紙に還元し、「環太平洋 的視野」から新渡戸像を捉え直すことの必要が語られている。
1897年から1900年までの療養生活の期間、すなわち「逆境の善用」に特徴づけ られる期間において、新渡戸は「療養3部作」たる『農業発達史』、『農業本論』、『武士道』
を上梓したと述べられるが、本章のテーマは新渡戸に欠けていた環太平洋的視野を有する 人物として、「制海権の掌握」を「通商貿易」と結びつけ、これを「包括的な国家戦略の理 論的支柱」にしたA. T. マハンを取り上げるところにある。太平洋重視の立場に立って「東 西文明の根本的異質性を強調」し、「東西文明の衝突」を予言したマハンは、エゴイズムか ら目をそらすことをしないリアリストとしての観点に立って「西洋の利益範囲に脅威を与 える」端的な例として日本の動きを挙げ、日本の西洋文明への侵入に警戒感を募らせ、ア メリカの重視すべきは、モンロー主義に象徴される大陸中心主義ではなくて、「太平洋にお ける制海権の掌握」であると信じて、「『環太平洋地域』の趨勢を左右する鍵」になるシー パワー理論を生みだした。アメリカの長期的対外政策に決定的な影響を与えたマハンの見 方の傍らにおかれると、新渡戸の「太平洋の橋」は「対岸なき橋」としか見えないと論述 されている。
第九章 「永遠の肯定―新渡戸稲造と明治日本の膨張」
1901年、新渡戸は官吏として台湾総督府に赴任し、以後1914年まで台湾統治に 関与したが、これは新渡戸が「カメラリスト」として真面目を発揮した期間であると述べ られる。
統治の方針が治安の確保から基幹産業の確立・発展へと移行していた当時の台湾におい て製糖問題が一挙に顕在化し、システムの近代化の必要性が高まりつつあった。
台湾における基幹産業としての製糖業の近代化、すなわち明代以来の未発達の状態にあ った甘蔗栽培法と製造業の近代化は、急務であった。上司である後藤新平や児玉源太郎の
「われわれの望むところは君の理想論である」という言葉に励まされ、着任後わずか半年 で「糖業改良意見書」を提出したとき、新渡戸は「カメラリスト(国家官僚型学者)」とし て、すぐれて現実主義的な認識を示していたのである。この認識にクエ―カリズムとかヒ
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ューマニズムに耽溺する甘さは微塵も感じられない。新渡戸の「意見書」に従って台湾製 糖局が設置され、台湾製糖奨励規則が作成されたと叙述されている。
新渡戸の行動の原動力となっていた学理と実践との間の不可分の関係が、多岐にわたる 活動を可能ならしめ、やがて台湾協会学校((拓殖大学の前身)との間に強固な関係を築か せるに至ったところに不思議はないという意味のことが論述されている。「日本の領土拡大 の動きに呼応して、拡大改組を繰り返して発展した台湾協会学校の形成過程は、新渡戸の ライフコースに一致していた。」このような一致を見届け得るためには「クエーカー派の人 道主義者」といったふうなイメージから新渡戸を解放しなければならないという意味の論 述が行われる。
1905年4月12日明治天皇に参内を求められた新渡戸が『武士道』を明治天皇に献 上した瞬間は「近代国家として発展する『明治日本』の趨勢と新渡戸の行為が一体化した 瞬間である」と論じられる。
第十章 「第一高等学校校長と日米交換教授」
日露戦争で非戦論を唱えた内村鑑三とは異なって政府の立場を積極的に擁護した新渡戸 は、第一高等学校校長として、前校長狩野亨吉、すなわち精神的貴族主義を根幹とする籠 城主義を唱えた狩野亨吉と異なって「社会的連帯」を唱道したと叙述される。新渡戸を単 に狩野と対照的に捉えるのではなく、新渡戸が狩野の存在を教育目標を達成するために必 要な「肥沃な精神的土壌」とみなしていたということは見逃されてはならないという意味 のことが述べられている。
新渡戸は「人格主義」、「教養主義」に立脚する「社会的連帯」の涵養を高等教育の究極 目標とし、この目標の達成は偉大な日本の建設にとって不可欠であるとみなしていた新渡 戸の教育の主眼は「才能」や「才知」や「精神的貴族主義」にはなかったと論じられる。
社会的連帯を唱えはしても、コンフォーミティ(付和雷同)は峻拒する新渡戸は「社会 的連帯」という横のつながり(水平的関係)のみならず縦のつながり、天上的、心霊的関 係(垂直的関係)をも重視する。そこにクエーカー教徒としての新渡戸の姿が窺われるが、
新渡戸が教壇でキリスト教の話をすることはなかったということは新渡戸の薫陶を受けた 者の共通の述懐であると叙述されている。
「学理の追究と社会的実践の両立」は「学者の使命」と受け止めていた新渡戸の姿勢を
「八方美人的」であるとして新渡戸を執拗に非難する人物の存在や新渡戸に不信任を突き つける第一高等学校の生徒の動きがあったということ、「大逆事件」後、処刑された幸徳秋 水の擁護を旨とする徳富蘆花の講演が第一高等学校で行われ、新渡戸は文部省から懲戒さ れたということ、初代韓国総監となった伊藤博文に向かって内地人(日本人)の朝鮮への 移住の必要を説いたということ、第一高等学校の倫理の時間において「侵略主義」を説い たとして物議を醸したということ、こういう新渡戸の側面に目を遣る時、新渡戸に関して
「国際理解のために挺身した平和主義者」と相容れない情報を排除することの不適切は明 白であるという意味の論述がなされる。
一方新渡戸が第一高等学校で武士道ではなくて「社会的連帯」を提唱したこと自体、明 治ナショナリズムの後退を促進しようとする行為であったということ、またそれは「大正 デモクラシー」が胎動する条件を整える働きをしたということ、新渡戸は「近代日本にお ける思想史的分水嶺に屹立していた」ということの認識は「近代日本の知的伝統における
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新渡戸の存在意義の再評価を促進する働きをするのであり」、この再評価には、勿論、「カ メラリスト」としての新渡戸の姿勢も視野に入れられねばならないと述べられている。
日本の社会的、軍事的、文化的膨張への反応としてアメリカに起こった対日政策見直し の動きや互いに敵対意識を抱き合う風潮の発生を憂慮した日米の財界人の間で、「日米関係 改善を目的とする民間経済外交」を推進しようとする運動が高まり、そういう運動のなか から「日米交換教授の計画がもちあがり、新渡戸が交換教授として抜擢される」と述べら れている。
交換教授は新渡戸にとっては、「太平洋の橋になりたい」という夢に沿う機会が与えられ たということを意味するのであり、この場合も、新渡戸のライフコースが「日本の帰趨と 見事に一致」しているといえると論述される。新渡戸が引っ提げていったテーマは、「日米 の平和的関係の構築」に役立てるべく日本の真の姿、とりわけ日本の長所を伝えるのを旨 としていた。スタンフォード大学、ロードアイランドのブラウン大学、シカゴ大学、コロ ンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、ヴァージニア大学、イリノイ大学で高名な 哲学者や外交官を含む聴衆を前に、心にとどくような講演や講義を行った様が克明に辿ら れている。タフト大統領との会見、オハイオ州選出の上院議員バートンとの親密感あふれ る会談などにおいて、新渡戸は日米関係を好転させるべく懸命の努力を払ったと述べられ る。交換教授として166回講演や講義を行い、延べ4万人の聴衆を集めた新渡戸は、翌 年、その成果を『日本国民』(The Japanese Nation: Its Land, Its People, Its Life 1912)
と題して出版した。新渡戸の目覚ましい活動は、移民問題の解決には役立たなかったとし ても、少なくとも「文化交流史的文脈では一定の評価に値する」と論述されている。
「学際性、ならびに現実と理想との間の平衡感覚」を発揮する「カメラリスト」として
「新渡戸が体現した明治精神が頂点に達した瞬間は、明治の時代の終焉でもあった」とい う論述で本章は終わっている。
結語
先ずペリー来航から約半世紀を数えた20世紀初頭、大隈重信が主導的な役割を演じて 刊行された上下2巻の浩瀚な『開国五十年史』が取り上げられ、この書に「泰西思想の影 響」と題する論考を寄せたことが新渡戸と早稲田大学との関係の始まりだとされている。
日本人の内発性をテーマとするこの論考において、新渡戸が、西洋の模倣とみなされてい るところにも日本人の内発性は表われているとして、模倣を積極的に肯定し、皮相的模倣 と見えるものを支えているのは、日本人の内発性に他ならないという見方を提示する時、
エマソンの『アメリカの思想家』(The American Scholar)の影響が認められるが、新渡戸 はエマソンとは異なって外発的なものにも目配りをするのを忘れなかったという意味のこ とが述べられる。
日本の国威発揚と軍事力の増強に共鳴する新渡戸の戦争観は、日露戦争擁護によく表出 されているのであり、クエーカー派の提唱する絶対平和主義の観点から新渡戸を捉えよう とすると、新渡戸の全体像は見失われてしまうことになると論述される。
明治日本が西洋の模倣を上手に行い得たのは日本人に内発性が具わっていたからである という意味の新渡戸の発言はそのまま新渡戸にあてはまるといえる。新渡戸という「カメ ラリスト」が、明治時代の行き方、すなわち模倣(「英語」を媒介として外来思想を同化す るという形での)の底に強烈な内発性を秘めていた明治時代の行き方を肯定し、エマソン、
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すなわち「新たに発明するだけの能力あるものにして、始めて借り得るのである」と発言 したエマソンに共感・共鳴した新渡戸の側面は、「従来の新渡戸研究では見落とされた側面 であった」と論述されている。
4、評価
新渡戸稲造の全体像を提示しようとする問題意識は深く豊かであり、それは内外の厖大 な資料の駆使となって現出している。ときに情報量の多さに圧倒されているような気味が 感じられはするものの、自らの観点にしっかり立脚して、錯綜する多量の情報を整理する 能力は高く評価されるべきである。
本論文の新しさは、第一に、新渡戸のドイツ留学時代の綿密・詳細な研究に見出される。
ボン大学では農業経済学を主として研究し、ベルリン大学では G.シュモラーの「風習的」
なものの重視に学び、歴史や感情や同情などを排除しない非マルクス主義的、非実証主義 的なシュモラーの研究姿勢は新渡戸が模範とするに至った研究姿勢であったと論述され、
さらに新渡戸はドイツの「官房学」から大いなる刺激を受け、自らのキャリア形成の芯と なるものをその「官房学」から導出したと論じられている。第二に、従来の新渡戸研究に 欠けていたラルフ・ウォルドー・エマソン及びトマス・カーライルと新渡戸との比較研究 が行われ、3者のキリスト教受容・信仰の同一点と相違点が明らかにされているところに 新しさがあるといえる。第三の新しさは、環太平洋の視野から、新渡戸の「太平洋の橋」
の限界が、A.T.マハンの「シーパワー理論」との比較で指摘されているところに見出される。
第四に、新渡戸の多岐にわたる精力的な活動の源泉に「学理と社会的実践の両立」が一貫 して見据えられている点に新しさがある。第五に新渡戸と早稲田大学との関係に論が及ぼ されているところに新しさがある。
われわれ審査委員会は、以上のような評価をもって、本論文を早稲田大学社会科学研究 科の博士(学術)論文に値するものとして認め、ここに推薦する次第である。
審査委員
主任審査員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 池田 雅之 審査員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 経済学博士 早稲田大学 古賀勝次郎 審査員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 博士(法学) 京都大学 島 善高 審査員 早稲田大学名誉教授 照屋 佳男 審査員 東京大学名誉教授 文学博士 東京大学 亀井 俊介