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幕末明石藩の政治動向の基礎的考察
前田
結城
論考
はじめに
文久~慶応期
(一八六一~六八)
の最幕末期において、京都
・
大坂が政局の中心地となったことは周知の事実である。たとえ
ば、
宮
地
正
人
氏
は
一
八
六
三
(
文
久
三
)
年
に
成
立
し
た
禁
裏
守
衛
惣
督摂海防禦指揮
(一橋)
・
京都守護職
(会津)
・
京都所司代
(桑名)
三
者
の
結
合
を、
「
一
会
桑
京
都
政
権
」
と
呼
称
し、
さ
ら
に
徳
川
慶
喜
の将軍在任期には、幕府は「京坂政権」としての性格を強めて
いくとし
た (1)
。こうした、国家機構の一部が京都・大坂へと移転
していった時期の政治史を、当該地域の実態にそくしていかに
描くのか。これについては、近年の幕末維新史研究の重要な課
題のひとつとなっている。
ただし、対象地域を京都
・
大坂ないしその周辺
(畿内
・
近国)
に絞るといっても、具体的にどの社会階層ないし政治集団を分
析するかについては、ここで明確に定めておく必要がある。先
行
研
究
の
例
で
い
え
ば、
久
住
真
也
氏
は「
幕
末
期
畿
内
の
政
治
空
間
」
について論じ、元治
・
慶応期の朝幕政権を「将軍畿内滞在態勢」
と概念化し
た (2)
。久住氏の研究は、徳川将軍が畿内に長期滞在し
た期間の一会桑と江戸幕閣との角逐、あるいは将軍の畿内滞在
を希求した有力諸藩の動きを明確に析出したが、その視角はあ
くまで政権論、中央政局史である。したがって近年は、岩城卓
二
氏
の、
「
幕
末
政
治
の
中
心
舞
台
と
な
り
得
る
こ
と
を
可
能
に
し
た
社
会構造と、急ごしらえであったがゆえに引き起こされたであろ
う混乱の様相が問われねばなるまい」という問題意識を有する
研究があいついで発表されてい
る (3)
。たとえば、岩城氏は戦時労
48
働力・物資の確保をめぐって発生する畿内地域の社会的矛盾を
明らかにし、当該地域が本来有すべき「兵営国家」の拠点とし
て
の
能
力
を
幕
末
段
階
に
は
す
で
に
喪
失
し
て
い
た
こ
と
を
指
摘
し
た。
このように、幕末期の政治の中心地=畿内地域を中央政治史と
社会史の両面からとらえていく研究が進展しつつある。
しかし、そうしたなかにあっても、畿内・近国地域の個別藩
の基本動向にかんする事例分析は、いまだ豊富とはいえず、今
後いっそう蓄積されてしかるべきと考える。
ではなぜ藩なのか。岩城氏が主張するように、畿内・近国地
域における譜代大名領・幕府領などの所領配置は、幕府権力に
よるそれらの軍事的な編成と密接にかかわってい
る (4)
。だとすれ
ば、幕末期における海防や攘夷政策、あるいは幕長戦争などの
内
乱
に
畿
内
個
別
藩
が
い
か
に
対
応
し
た
か
を
み
る
こ
と
は、
「
兵
営
国
家」としての幕藩権力の解体過程そのものを歴史具体的にとら
えるうえで、有益な検討材料を得ることになりえよう。幕藩権
力解体の問題を明確に視角に組みこんだ政治史としては、従来
にも小野正雄
氏 (5)
や岸本覚
氏 (6)
などの研究がある。両氏は幕末期幕
府の政策にたいして諸藩がとった態度について、その諸事例を
総体的にあつかっている。そこでは、諸藩における割拠志向や
政治的自立性の高まりなどが実証されており、たいへん示唆に
富
む。
し
か
し、
幕
藩
権
力
(
体
制
)
を
維
持
す
る
に
お
い
て
地
政
学
的
な重要性をもつはずの畿内・近国藩の具体例については、詳し
く
ふ
れ
ら
れ
て
い
な
い。
一
次
史
料
に
そ
く
し
た
事
例
研
究
と
し
て
は、
尼
崎
藩
(
松
平
家・
摂
津
四
万
石
)
を
あ
つ
か
っ
た
岩
城
氏
や
辻
野
恵
美
氏
の
研
究 (7)
、
彦
根
藩
(
井
伊
家・
近
江
三
五
万
石
)
に
お
け
る
政
争
を
中
心に論じた宮地正人氏の研
究 (8)
、幕末期に大坂定番をつとめた山
崎
藩
(
本
多
家・
播
磨
一
万
石
)
に
つ
い
て
の
菅
良
樹
氏
の
研
究 (9)
、
こ
れ
らが主要なものとして挙げられよう。なお事例となっている諸
藩はいずれも譜代藩である。
以上にのべてきたことをふまえて、
本稿では明石藩を事例に、
畿内近国藩が幕末政治過程ないし幕藩権力解体過程においてし
めた歴史的位置について、基礎的な考察を試みたい。明石藩を
とりあげる理由は、第一に同藩がこれまで研究事例の少ない親
藩
(
越
前
松
平
家
の
分
枝
)
で
あ
る
こ
と。
ま
た
第
二
に、
明
石
藩
は
所
領の位置からして国防上重要であったこと。このことは、海岸
防禦御用掛の川路聖謨が台場設置箇所につき上申したさい、
「急
度
御
取
締
有
之
候
節
は、
決
而
〔
異
国
船
の
〕
出
入
は
出
来
不
申
」
箇
所
のひとつとして明石を含めたこ
と
)((
(
からもうかがえる。右の二点
をふまえると、
幕府がしだいに権力機能を京坂地域に移動させ、
そのなかで海防政策や攘夷政策を実行していく場合、畿内親藩
明石藩は当然その政策実行過程において重要な位置をしめるで
あろうことが予想されるのである。
な
お、
幕
末
明
石
藩
に
つ
い
て
は
こ
れ
ま
で
に
も『
明
石
名
勝
古
事
談
)((
(
』などの郷土史的著作があるが、典拠不明な点が多い。ゆえ
49
に現在、
一次史料にもとづいた基礎的研究が必要となっている。
本稿では史料的制約により海防や内乱への対応など軍事面での
動
向
を
分
析
の
中
心
に
据
え、
一
八
五
三
(
嘉
永
六
)
年
前
後
か
ら
六
八
(
慶
応
四・
明
治
元
)
年
ま
で
を
対
象
期
間
と
し
て、
同
藩
の
基
本
的
動
向
を明らかにしていきたい。
史料引用にあたっては、旧字体を新字体にあらため、適宜句
点をほどこした。傍線・傍点・カッコ内の注記はとくに断らな
い限り筆者による。
一
嘉永・安政期の対外緊張と明石藩
(一)幕府による江戸湾・摂海防禦強化策への対応
ペ
リ
ー
再
来
航
の
あ
っ
た
一
八
五
四
(
嘉
永
七
)
年
一
月、
明
石
藩
は
幕府より江戸近海の警衛を命ぜられた。持ち場は神奈川であっ
た。前年のペリー来航以降、幕府をはじめとして、西洋流砲術
の導入・訓練が急速にすすめられたが、明石藩も例にはもれな
か
っ
た。
神
奈
川
警
衛
の
命
が
下
さ
れ
た
直
後
の
二
月
四
日、
前
藩
主
斉
韶
(「
大
殿
様
」)
は
明
石
藩
の
中
島
流
砲
術
家
で
あ
り
御
用
人
の
潮
田
范
三
(
高
二
〇
〇
石
)((
(
)
に
た
い
し、
神
奈
川
駅
に
出
張
中
の
家
臣
三
名
を
ふ
く
む
全
四
名
を
高
島
流
(
西
洋
式
)
砲
術
家
の
下
曽
根
金
三
郎
(
信
敦
)
のもとへ「入門専修」させるよう沙汰を下し
た
)((
(
。
同年八月になると、明石藩の海防対応は自藩領でも本格化し
た。
同
月、
「
紀
州・
長
崎
表
江
英
吉
利
船
渡
来
之
趣、
従
公
義
御
達
」
が下された。明石藩では「支配末々迄并子弟之面々」へ「諸武
芸専ら出精、諸稽古場江罷出」るよう達しがだされ
た
)((
(
。この家
中達からまもなくして、
プチャーチン率いるロシア船が兵庫津
・
明石海峡へ出現した。九月一七日に明石藩領分の播州明石郡東
垂水村・塩屋村沖合に同藩家来の者が露艦の存在をみとめ、す
ぐ
に
同
所
へ「
固
人
数
」
が
差
し
出
さ
れ
た
)((
(
。
さ
ら
に
翌
一
八
日
に
は、
代
官
川
上
金
吾
助
支
配
所
摂
州
八
部
郡
神
戸
村・
二
茶
屋
村
よ
り、
「
異
国
船
」
(
露
艦
)
一
艘
が
兵
庫
津
辺
へ「
追
々
乗
込
候
旨
」
に
つ
き
明
石
藩へ注進があり、さっそく同所へ明石藩の「固人数」が派遣さ
れるはこびとなっ
た
)((
(
。
川
路
聖
謨
が
上
書
で
の
べ
た
と
お
り
(「
は
じ
め
に
」
参
照
)
、
明
石
は
外海より摂海への進入を試みる場合、三つの入口のうちのひと
つとなりうる。明石海峡の防禦強化はいよいよ、幕府の政策と
して進めなければならない段階に入っていく。同年一一月一八
日、
幕
府
老
中
は
明
石
藩
主
松
平
慶
憲
に
た
い
し、
「
其
方
領
分
播
州
明
石浦辺ハ大坂湊之要所ニ付、右最寄要害之場所江台場等新築被
申付、防禦筋之儀厚く手当可被致候」との達書を下し
た
)((
(
。この
幕命に明石藩はいかに応じたか。年はこえて一八五五
(安政二)
年の一二月一八日、老中首座阿部正弘は明石藩江戸留守居藤澤
一
郎
を
呼
び
出
し、
隠
居
の
斉
韶
(
嵩
翁
)
宛
に、
つ
ぎ
の
よ
う
な
沙
汰
50
を下した。
政事向厚く世話致し、海岸防禦筋之儀追々被仰出候趣、深
相心得、隠居料之内を以大炮等数挺鋳立、去年中領分近海
江異船渡来之節、
早速人数差出、
大炮配方等行届之趣
(平出)
御
聴
一
段
之
事
ニ
(
平
出
)
思
召
候、
猶
此
上
相
励
候
様
ニ
と
の
御
沙汰ニ候
事
)((
(
つまり、斉韶がみずからの隠居料を割いて大砲を鋳造したこ
とにより、沿岸への大砲の配備がゆきとどいたとされる。具体
的な大砲の数量や、かかる阿部の明石藩への評価が絶対的なも
のか、相対的なものかなど、にわかに判断しかねる。ただ、こ
の沙汰を読むかぎりでは、少なくとも無策や過怠があったとは
考えがたいであろう。くわえて、安政期において明石藩による
海
峡
防
禦
強
化
へ
の
志
向
が
表
現
さ
れ
た
史
料
と
し
て、
一
八
五
八
(
安
政
五
)
年
七
月
の
家
中
達
)((
(
も
あ
げ
て
お
き
た
い。
こ
れ
に
は、
「
異
国
船
渡
来
之
節
海
岸
防
禦
ハ
砲
術
専
要
之
業
ニ
付、
専
ら
可
致
修
行
子
弟
之
面々は篤与可申聞、且又御人数等被差出候節は此表御人少之事
故、
末々迄平常之勤向ニ不拘、
臨時御人数可被差出候義可有之」
とあった。砲術のよりいっそうの向上にくわえ、藩地における
防禦人数の不足は、平常時の職務内容を問わず臨時増員するむ
ねが記されている。
だが他方で、
この安政五年七月家中達の「此表御人少之事故」
と
い
う
文
言
か
ら
は、
明
石
藩
が
相
当
の
人
員
を
江
戸
湾
や
摂
海
(
明
石
海
峡
)
に
も
相
当
の
人
員
を
海
防
の
た
め
に
割
か
ね
ば
な
ら
な
か
っ
た
こ
とを示している。そして、このことは財政面でも家中一統に難
渋
を
強
い
る
こ
と
と
な
っ
た。
そ
の
一
端
は、
一
八
五
六
(
安
政
三
)
年
一二月、御目見以上の面々へ達せられた「被仰出之
覚
)((
(
」からも
う
か
が
え
る。
こ
れ
に
よ
れ
ば、
「
明
年
ゟ
者
御
家
中
之
面
々
知
行
等
令
可被下置儀候得共、兼而御勝手向御不如意之上、近年異国船御
警衛向并此表昨今年之天災ニ付而も無御拠御物入夥敷差湊」っ
て
い
る
た
め、
「
明
年
よ
り
も
来
ル
酉
年
迄
五
ヶ
年
ニ
百
石
以
上
半
知、
其以下夫々給金取迄并江戸・大坂定詰之面々は歩掛々以上」に
「上米」を仰せつける、との厳しい内容がもりこまれていた。
海峡防禦への手当が藩財政を窮乏させていたことは、明石藩
にかぎらないだろう。ただ、親藩という政治的立場、あるいは
摂海防禦の要地を藩領に擁するという地理的環境が、明石藩の
海防手当と財政難との相克をより厳しくしたことは想像にかた
くない。
(二)明石藩主松平慶憲の対外政策にたいする無定見
では、実際的な海防対策という以前に、明石藩は対外政策に
ついてなんらかの持論を有していたのであろうか。これについ
ては、幕府の諸大名への諮問にたいする藩主松平慶憲の諸答申
を分析し、考えてみたい。
ペリー来航以降の嘉永・安政期、慶憲が提出した対外政策意
51
見は全部で四点を数える。一つめは一八五三
(嘉永六)
年七月、
ペリー来航時に幕府が将来の対策を諸侯へ諮問したさいの答
申
)((
(
である。その内容とは、かいつまんでいえば「通商御許容之可
否ハ不容易事と奉存候、利害得失之儀不能愚案候」
、すなわち、
答申不
能
)((
(
というにひとしきものであった。独自の将来対策はの
べなかったけれど、それでも慶憲は「只々随御下知、猶忠節を
相励可申奉存候」と書き、答申書をしめくくった。
二
つ
め
は
一
八
五
七
(
安
政
四
)
年
一
一
月
二
七
日、
老
中
宛
に
差
し
出された上
書
)((
(
である。幕府は同年一一月一二日に、老中堀田正
睦とアメリカ総領事ハリスとの通商条約交渉にかんする一〇月
二六日の対話書および一一月六日の海防掛対話書を、大廊下下
之部屋と大広間の大名へ示し、彼らに外交意見についての諮問
をおこなっ
た
)((
(
。それにたいする明石藩の回答がくだんの上書で
あ
る。
慶
憲
は
つ
ぎ
の
よ
う
に
書
く。
「
使
節
申
立
候
都
下
江
ミ
ニ
ス
ト
ル差置、并貿易勝手次第ニ相成候様ニとの義、已ニ嘉永度永く
御和親を被結候御条約之訳茂有之候江は、今更御断茂難被遊可
有御座」
、ゆえに「御許容之外有御座間敷」
。けれども、これを
許容すれば「猶以非常之変事茂難計候間、武備之儀、弥以御厳
重ニ御世話被為仕、神国之御威光、幾久敷全世界被輝候様仕度
義
歟
と
奉
存
候
」。
つ
ま
り、
お
お
む
ね
ハ
リ
ス
の
要
求
を
飲
む
べ
き
と
し
な
が
ら
も、
今
後
の
武
備
充
実
の
い
っ
そ
う
の
励
行
を
説
く
内
容
と
なっている。ただし、
それ以上に意見することについては、
「不
敬之過言」となりかねないので、
「幾重ニも御仁免可被成下候」
と書き、上書をしめている。
同件の諮問は、さらに一二月二九
・
二八日にもおこなわれ
た
)((
(
。
これへの慶憲の上書が三つめのそれとなる。ハリスが幕府に差
し
出
し
た「
書
付
」
の「
和
解
」
を
み
せ
ら
れ
て、
慶
憲
は、
「
今
般
御
処置之当否は、如何様ニ茂御大切至極之御儀と奉存候、乍併別
段心付候愚案は無御座候」
、「御指図次第、猶以忠節を相励可申
と
奉
存
候
)((
(
」、
と
の
み
こ
た
え
た。
最
後
に
四
つ
め、
こ
れ
も
通
商
条
約
交
渉
と
関
連
し
た
諮
問
で
あ
る
が、
こ
れ
に
た
い
し
て
も「
御
双
方
(
朝
廷
と
幕
府
)
御
安
心
之
御
見
詰
相
立
候
様
奉
祈
願
候
外
別
段
申
上
候
存
意
無御座、旧臘申上候通、只々御下知ニ随ひ忠節を相励可申奉存
候
)((
(
」、とこたえるのみであった。
以上要するに、松平慶憲の対外政策意見は、ペリー来航段階
から通商条約交渉段階へと移行するにしたがって、アメリカの
要
求
へ
の
無
理
な
拒
絶
は
避
け
る
べ
き
と
の
意
見
に
傾
斜
し
て
い
っ
た。
これらは、たとえば「有志大名」の対外意見と比べたとき、さ
して注目すべき内容を有しているとはいえない。
しかしながら、
慶憲が意見書のなかで繰りかえしのべた、武備強化策の励行と
それへの自藩の随従、ということについては、前節でみた藩の
動向と照らしあわせたとき、いくばくかの連動性をもっている
ようにみえる。
本章の最後に、嘉永・安政期の幕藩政治史における明石藩の
52
基本的なありかたについてまとめておく。第一に対外政策につ
いて。明石藩ないし藩主慶憲はとくにめだった定見は有してい
なかった。第二に海防強化策について。明石藩は財政難にみま
われながらも、西洋砲術や大砲導入などの面において、幕府老
中より褒詞をうける程度の対応はとっていた。このことは、慶
憲
の
対
外
政
策
の
上
書
に
あ
っ
た
よ
う
な、
「
只
々
御
下
知
ニ
随
ひ
忠
節
を相励」む、という意向のあらわれと考えてよいのではなかろ
うか。明石藩は政治的な能動性には欠けていたが、幕府の政策
実行過程への協調性は有していたといえよう。
二
奉勅攘夷政策への随従と逡巡
(一)文久期摂海防禦策への明石藩の積極的対応
くりかえすように、明石藩は摂海防禦の要地中の要地であっ
た。
し
た
が
っ
て、
一
八
六
三
(
文
久
三
)
年
三
月、
将
軍
が
二
五
〇
年
ぶりに上洛・参内したのをきっかけに、朝廷の勅命を奉じて幕
府・
諸
藩
が
攘
夷
を
実
行
す
る
と
い
う
政
治
体
制
(
い
わ
ゆ
る
奉
勅
攘
夷
体
制
)((
(
)
が
成
立
す
る
と、
明
石
藩
は
否
応
な
し
に
こ
の「
奉
勅
攘
夷
」
へ
の対応をせまられることになった。以下その事実経過を確認し
ていく。
摂
海
防
禦
政
策
の
一
環
と
し
て
の
明
石
海
峡
防
備
再
強
化
の
き
ざ
し
は、
す
で
に
一
八
六
二
(
文
久
二
)
年
中
に
あ
っ
た。
同
年
閏
八
月
八
日
以来軍艦奉行並の職にあった勝海舟の日記には、一二月二六日
から二八日にかけて、三日連続で明石藩に関連する事項が記さ
れ
て
い
る
)((
(
。
な
か
で
も、
二
六
日
の
記
事
に
は、
「
明
石
の
老
侯
嵩
翁
君
より鴨二羽を賜わ」ったとあり、二七日には「明石藩の潮田子
来訪、時勢を談」じた、と記されている。潮田とは前述の中島
流砲術指導者潮田范三のことである。翌年の明石藩舞子台場改
築にまつわる人間関係が、ここに形成されつつあった。
ところで、同年一〇月、三条実美・姉小路公知両勅使が江戸
に下向、一二月には将軍家茂は「攘夷奉承」の意向表明を余儀
なくされた。将軍上洛が政治日程にのぼり、六三年正月には老
中小笠原長行、勘定奉行津田正路、外国奉行菊池隆吉、目付松
平信敏の四名が大坂表ほか海岸を見分することとなった。この
と
き、
幕
府
(
厳
密
に
は
大
坂
町
奉
行
カ
)
は
明
石
藩
に
た
い
し、
領
分
海岸の砲台絵図
・
備え付けの大小砲員数
・
玉目につき「巨細ニ」
したため、
「且御領分之内御警衛ニ付、
見込主意も有之候ハヽ」
、
こ
れ
も「
無
腹
蔵
書
面
ニ
認
」
め
て
上
記
四
名
へ
提
出
す
る
よ
う
達
書
を
下
し
た
)((
(
。
さ
ら
に
二
月
一
九
日、
明
石
藩
京
都
留
守
居
奥
平
又
内
(
高
二
〇
〇
石
)
は、
武
家
伝
奏
衆
の
雑
掌
よ
り、
近
日
機
嫌
伺
の
た
め
入
京
する藩主にたいして、
朝廷より「御在所海岸御固場防禦御備向」
に
つ
き
尋
問
す
る
可
能
性
が
あ
る
こ
と
を「
極
内
々」
に
伝
え
ら
れ
た。
こ
の
情
報
は
奥
平
に
よ
り
飛
脚
で
国
元
へ
伝
え
ら
れ、
「
海
岸
御
備
向
絵
53
図面、御銃配等之袋入壱通リ取調、心得迄ニ急速御廻置」くよ
う連絡がなされ
た
)((
(
。この飛脚は翌二〇日に明石へ到来、翌二一
日
に
は
潮
田
范
三・
家
老
織
田
安
芸
(
高
六
七
〇
石
)
よ
り
要
求
の
品
が
大坂表へ発送され
た
)((
(
。
しかしながら、このとき明石藩は全一二ヵ所の台場の「御銃
配」に不十分さを残していたようである。三月一〇日、隠居の
松
平
斉
韶
は
家
老
の
黒
田
半
平
(
高
六
五
〇
石
)
・
丹
羽
安
房
(
高
七
〇
〇
石
)
・
織
田
安
芸
を
召
し
出
し、
つ
ぎ
の
よ
う
に
台
場
の
機
能
強
化
の
指
示を出したという。
今
日
出
刻
前
(
平
出
)
大
殿
様
(
斉
韶
)
被
為
召
候
段
御
近
習
頭
ゟ
申
来、
五
半
時
ゟ
罷
出
候
処、
則
被
為
召
先
達
而
安
房
殿
(
勝
安
房〈
麟
太
郎・
海
舟
〉
の
こ
と
ヵ)
江
被
仰
出
候
海
岸
御
台
場
へ
御
大
砲
差
出
候
義、
熟
々
(
平
出
)
御
考
被
遊
候
処、
此
度
早
御
暇
之御趣意も有之、且
此節隠密抔も相廻候程も難斗、紀淡之
向ニ者夫々台場へ大砲居有之趣ニ
御聴被遊候ニ付
(平出)
此方様ニも台場ニ一挺も御筒之無之旨申義如何ニ付被
思
召候間、何卒人気ニ障リ不申様、台場毎ニ壱挺ツヽ差出候
之様取斗いたし候様被
(平出)
仰出候
間、
則半平殿
・
安房殿
・
安芸殿御一統江申断候
そして、つぎのような措置がとられるはこびとなった。
御尤至極之被
仰出候ニ付、御差出ニ相成候様可致、人気
合之処も持運、才領付添之者相心得居、
若疑惑之者も有之 0
0
0
0
0
0
0
0
候
ハ
ヽ
0
0
0
、
此
度
早
御
暇
之
御
趣
意
も
有
之
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
(
平
出
)
公
辺
江
被
対
被
0
0
0
0
0
0
差出候義ニ而 0
0
0
0
0
0
、
彼是騒立候訳ニ而者無之旨申諭し候様いた 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
し
可
然
0
0
0
〔
と
の「
御
評
議
」
が
黒
田・
丹
羽・
織
田
の
あ
い
だ
で
あ
り
〕
(
中
略
)
其
段
を
以
(
平
出
)
両
殿
様
江
相
達
御
聴
候、
則
今
日
昼
後於講武所、郡代并御目付且砲術師範家へ安芸殿ゟ御達ニ
相
成、
右
〔
砲
術
の
〕
四
流
一
時
与
申
候
而
者
人
足
も
夥
敷、
入
用
ニ相成候間、一流一日ツヽ与申様ニ申合候様相達、且又雨
天ニ而者不便理ニ付、天気次第与申
達
)((
(
端的にいえば、この史料は既存の領内砲台に大砲を配備する
措置がとられる過程を示している。右の史料につき注意したい
のは、明石藩の海防政策の形成・実行にかかわる重要なポイン
トをここから見出せることである。第一に、
大砲配備計画は
「大
殿様」斉韶の発案によっていた。その背景として、和歌山藩で
は台場への大砲配備がすでに整っているが、明石藩は不備であ
り、それを幕府の「隠密」が察知するかもしれない、などとい
う
斉
韶
自
身
の
憂
慮
が
あ
っ
た
(
傍
線
部
)
。
そ
し
て、
「
台
場
毎
ニ
壱
挺
ツヽ」大砲を配備するという斉韶の意思は、家老から郡代・目
付・砲術師範家へと達せられていった。
第
二
の
ポ
イ
ン
ト
は、
今
回
の
海
防
強
化
策
は、
あ
く
ま
で「
公
辺
」
の
政
策
の
一
環
と
し
て
す
す
め
ら
れ
る
と
い
う
了
解
が
藩
の
上
層
部
に
よってもたれていること、
ならんで、
政策実行による無用の「騒
立」の可能性が予測され、またそれへの懸念が示されているこ
54
と
で
あ
る
(
傍
点
部
)
。「
早
御
暇
」
と
は、
藩
主
慶
憲
が
二
月
二
一
日
に
機嫌伺のため入京
し
)((
(
、同月二九日にさっそく出京し
た
)((
(
ことをさ
し
て
い
る。
こ
の「
御
暇
」
が
短
期
間
で
あ
っ
た
理
由
は、
お
そ
ら
く、
明石藩には藩領沿岸部の防禦強化に専念させようと幕府側が配
慮したことによると思われる。すなわちそれが
「早御暇之趣意」
の意味するところであろう。
右の第二のポイントについて敷衍すると、明石藩上層部の政
策指向は、幕府を中心とした海防強化策の実行には協力を惜し
まないが、されど拙速なかたちで攘夷実行に着手することは避
けたい、
というものだったのではなかろうか。一例をあげよう。
一八六二年八月の生麦事件以後、英日間の軍事的緊張が高まる
な
か、
六
三
年
二
月
二
九
日、
在
京
中
の
明
石
藩
家
来
天
野
清
之
助
(
高
七
〇
石、
格
席
は
独
礼、
役
職
は
不
明
)
は
京
都
所
司
代
に
た
い
し
て「
英
国弥御手切ニ相成打払之義者、又々御差図候哉、併時宜ニ寄英
船与見留次第、御差図不相待打払候心得ニ而宜御座候哉」との
伺を立てた。たいして所司代は付札にて「書面打払之義者、猶
相達候通有之候、其節委細ハ可申達候」と回答、これをうけて
京
都
留
守
居
の
友
部
権
六
(
高
七
〇
石
)
は「
先
ゟ
兵
端
を
相
開
候
時
者
申迄も無之於此方も打払可申候得共、仮令数艘乗込候共先ゟ争
端を不開時者、矢張是迄之通直様御届仕候之事ニ奉存候、右辺
之心得ニ而可然哉」と国元の家老等へ書き送っ
た
)((
(
。この所司代
の付札回答は、のち六三年七月に四条隆謌監察使明石下向問題
(
後
述
)
が
発
生
し
た
と
き、
明
石
藩
の
行
動
を
規
定
す
る
効
果
を
も
つ
こととなる。
さて、六三年四月二七日には、京都において老中水野忠精よ
り留守居呼びだしのうえ、
「其方領分播州瀬戸
(明石浦のことか)
者
摂
海
之
関
門
ニ
有
之、
御
固
専
要
之
場
所
ニ
候
間、
〔
既
存
の
明
石
沿
岸
の
〕
四
ヶ
所
台
場
之
内、
淡
州
与
距
離
不
遠
地
位
ニ
今
一
層
堅
牢
之
改
築
可
致
候
」
と
の
達
が
下
さ
れ
た
)((
(
。
く
わ
え
て
こ
の
達
に
よ
る
と、
「
別
段
之
訳
」
を
も
っ
て「
此
度
限
金
壱
万
両
」
の「
拝
借
」
が
認
め
ら
れ
た。
さらに同日、家老の丹羽安房と尾﨑六兵衛
(高五八〇石)
より、
さっそく潮田范三を「御砲台御改築御用」に任命する旨、達が
下され
た
)((
(
。こうして舞子台場の改築が本格化しはじめた。
明石藩では、台場改築にかんする指示については、勝海舟よ
り仰ぐことが、早くから決定事項となっていたようである。五
月三日、勝は「明石より賜物」を受けとっており、潮田范三と
も接
触
)((
(
、翌四日には「明石舞子の浜へ出帆」し、上陸後その地
で「砲発」を見学してい
る
)((
(
。しかる動きが先行していたのにく
わ
え、
五
月
七
日、
家
来
の
大
畠
治
左
衛
門
(
高
二
〇
〇
石
)
を
介
し
て
老
中
板
倉
勝
静
へ「
早
々
〔
舞
子
砲
台
を
〕
改
築
仕
度
候
ニ
付
而
者、
万
端御差図之儀、勝麟太郎様も御頼被申度、就而者御用透之節在
所表江御越、場所御見分万事御差図被下候様被致度」との願書
が提出された。これにたいしては、付札によって許可の旨、回
答がなされ
た
)((
(
。
55
同月一〇日には、神戸海軍操練所の「塾頭」こと御軍艦二等
出役佐藤與之助
(庄内藩士)
らが舞子を皮切りに、
大蔵谷台場、
西波戸台場へと来訪し、測量作業を実施し
た
)((
(
。ちなみにこの五
月
一
〇
日
は
将
軍
が
天
皇
に
約
束
し
た
攘
夷
決
行
期
日
と
同
日
で
あ
る。
舞
子
台
場
改
築
に
関
連
し
た
勝
の
明
石
初
来
訪
は、
五
月
晦
日
の
こ
と
)((
(
。
「御軍艦支配」
、すなわち勝が支配下においている坂本龍馬ら七
名を御供の者として同伴しての来訪であっ
た
)((
(
。その後、勝は舞
子台場の「図面雛形」を早急に作製し、これを明石藩に手交す
るという役割をおわされた。作製過程において、藩側は大畠治
部左衛門を介し、完成期日を佐藤與之助に問いただすという一
幕もあったが
(六月一八
日
)((
(
)
、
六月二三日ごろ無事完成、
二五日
に佐藤は土佐藩出身坂本龍馬
・
高松五郎同伴のうえ舞子を訪れ、
「絵図面雛形」を提出、挨拶金として五百疋をうけとっ
た
)((
(
。
このように、明石藩の海峡防禦強化策は勝らとのパートナー
関係を基礎として進められた。その後も同年九月三日には、勝
のもとへ「潮田生来訪、従太守様
・
老侯以思召御反物料
・
御肴
・
御
袴
料
」
が
贈
与
さ
れ
る
と
と
も
に、
「
貴
兄
方
(
潮
田
)
拙
門
江
御
入
御座候而、
砲術御世話等御座候段、
殊ニ潮田生より」依頼があっ
た。これにたいし勝は「承知仕候」との返事を、翌四日、明石
藩家老・組頭へあててい
る
)((
(
。
砲台改築とならんで、同時期に始動したのが、藩内における
西
洋
流
砲
術
稽
古
の
本
格
的
実
施
で
あ
る。
関
連
す
る
史
料
の
初
出
は、
文久三年七月四日付の藩の日記にみえる。ここには「左之面々
此
度
御
領
分
在
中
様
師
共
西
洋
流
へ
入
門
被
仰
付、
二
・
七
之
日
松
井
軍三江罷越候」とあり、稽古をうけるべき「様
師
)((
(
」の面々とし
て
粕
谷
英
之
助
(
独
礼・
高
一
三
〇
石
)
ほ
か
七
名
の
氏
名
が
列
記
さ
れ
てい
る
)((
(
。また、同じく藩の日記の七月八日条にはつぎのような
記事がある。
一此度松井軍三江入門被
仰付候在中様師共江、焼印木札
百四枚相渡候而、此札持参ニ而徘徊いたし候者共者、向
後六ヶ所御門も無滞相通可申、下目付共も其心得ニ可罷
在、御持筒組之者も見咎鉄炮等預り候ニハ不及候段相達
候
様、
組
頭
月
番
へ
相
達、
尤
印
鑑
札
夫
々
一
枚
ツ
ヽ
相
渡
置、
且様師共へ之札者相認、郡代林新三郎へ相達
一右何レ茂御受申出
ル
)((
(
西
洋
流
砲
術
師
範
松
井
軍
三
(
高
七
〇
石
)
へ
入
門
し
た「
様
師
」
一
統
へ、
城
下
へ
の
通
行
手
形
(
焼
印
木
札
)
が
手
渡
さ
れ
た
と
あ
る。
そ
れにしても焼印木札一〇四枚とは、先ほどみた「様師」七名分
ではすまない枚数である。また、ほぼ同時期に「新撰組」と称
す
る
明
石
藩
の
農
兵
組
織
)((
(
が
結
成
さ
れ
た。
「
新
撰
組
御
用
日
記
」
と
い
う史料によれば、
新撰組之義者、元ハ文久三亥六月ニ御上様より思召ヲ以被
為
仰出候ニ者、西洋流松井軍三様江入門いたし、稽古ニ
罷出候様被為仰付、奉畏、月ニ弐度宛炮術之稽古ニ罷出
候
)((
(
56
とある。この新撰組も松井軍三に西洋流砲術の訓練をうけるこ
ととされた。
以
上
の
よ
う
に、
文
久
二
年
暮
れ
か
ら
文
久
三
年
前
半
期
に
か
け
て、
明石藩は幕府主導の摂海防禦政策、ないし「奉勅攘夷」政策に
たいして、砲台の改築や、一〇〇名超規模での西洋流銃隊訓練
の実施によってこたえようとした。くわえてここでは、如上の
改革的軍事政策の決定過程において、隠居斉韶の意思が重要な
位置を占めていたこと、またその実行過程において、老中や軍
艦奉行並勝海舟など、幕府の軍事改革の中枢的人物とのやりと
りが頻繁に交わされていたことにも、注意しておきたい。
(二)即今攘夷論勢力への消極的対応
ただし、奉勅攘夷体制下における明石藩のスタンスは、あく
までその政策の行政的下請けに徹するという限りのものだった
のであり、その政策形成
・
決定過程自体に主体的に参画したり、
あるいは急進的な攘夷運動に没入していったりするようなもの
ではなかった。かかるスタンスをとる明石藩にとって、つぎの
のべる出来事は、まさに難題というべきものであったと考えら
れる。
第一に、
一八六三
(文久三)
年八月、
明石海峡を通航中であっ
た長州藩船丙辰丸を異国船と勘違いして誤射するという事件が
発
生
し
た。
こ
と
の
詳
細
に
つ
い
て
は『
明
石
名
勝
古
事
談
』
に
譲
る
が
)((
(
、京都留守居友部権六
(高七〇石)
の届
書
)((
(
(厳密な宛先は不明)
によれば、この長州船が「異国形」であったこと、また明石藩
に先んじて淡州より「数十発砲撃」があったことが誤射の原因
とされている。二貫目玉七百目三発が放たれ、一発が丙辰丸に
命
中
し
た
と
い
う
が、
じ
つ
は
こ
れ
が
舞
子
台
場
の
初
仕
事
で
あ
っ
た。
ちなみに本事件をめぐって明石藩にたいする問責や報復等はお
こなわれていない。
第二の困難としては、先ほどすこしふれた、四條隆謌による
攘
夷
の
実
行
を
視
察
す
る
監
察
使
(
以
下
監
察
使、
あ
る
い
は
四
條
監
察
使
な
ど
と
略
記
)
の
明
石
下
向
が
あ
げ
ら
れ
る。
京
都
留
守
居
の
友
部
よ
り
監察使下向の報せが国元に届いたのは文久三年七月一三
日
)((
(
、そ
の三日後には監察使下向につき織田安芸・間宮能登・尾﨑六郎
ら家老と講武所砲術家兼中老の潮田范三が「御用懸」に任じら
れ
た
)((
(
。
そ
の
他
下
向
途
中
の
警
備
や
旅
館
の
手
配
な
ど
も
お
こ
な
っ
た
)((
(
。
そして七月二二日、四條監察使よりつぎのような「勅書」が藩
主慶憲に下された。
播磨国明石浦者南海緊要之地ニ有之候間、
猶更厳重ニ致候、
夷艦致来候ハヽ無猶予可掃攘被
(平出)
仰出候事
これをうけて慶憲は、
勅答之趣奉謹承難有御請申上、尚攘夷尽力可仕候、此段
奏聞被為成下候様奉願候、恐惶謹言
慶憲
57
との請書を差し出し
た
)((
(
。これにつづいて家老七名、中老五名か
らも「猶更兵備厳重ニ
社 (仕ヵ)
、家中一同決心掃攘尽身力可申候」と
記した請書が提出され
た
)((
(
。
ところが、明石藩は八月三日付、老中板倉勝静へ左のごとき
伺書を差し出した。
去
月
廿
一
日、
為
監
察
使
四
條
侍
従
様、
兵
部
大
輔
在
所
江
御
下
向
有
之、
翌
廿
二
日
別
紙
写
之
通
(
平
出
)
勅
書
(
右
に
引
用
済
み
)
御渡ニ付、無是非先御請仕候、併攘夷之儀ニ付而者、兼而
追
々
御
達
有
之、
奉
畏
罷
在
候
義
ニ
候
江
共、
(
平
出
)
勅
詔
之
義
難止次第ニ付、時宜ニ寄打払候様相成候程も難計、左候而
者
兼
而
之
被
仰
出
(
五
四
頁
で
言
及
し
た
所
司
代
の
付
札
回
答
を
指
す
)
ニ
相
背
候
儀
当
惑
心
痛
仕
候
間、
心
得
可
申
哉、
急
速
御
差
図
被
成
下
度、
(
平
出
)
御
内
慮
奉
伺
候
様
兵
部
大
輔
申
付
越
候、
此
段申上候、以上
松平兵部大輔家来
伊藤雄右衛
門
)((
(
重ねて八月一七日には、老中井上正直にたいし、右の引用と
ほ
と
ん
ど
同
じ
文
言
に
つ
づ
け
て「
〔
攘
夷
実
行
に
つ
い
て
は
幕
府
な
ど
よ
り
し
か
る
べ
き
〕
御
沙
汰
御
座
候
迄
者、
是
迄
之
通
相
心
得、
麁
忽
之
儀
無之様、内々家来之者江厳重申付置」いた、との申告がなされ
た
)((
(
。つまり明石藩は、幕府にたいしては、攘夷即行路線にはあ
くまで慎重な立場であることを内々に伝えていたのである。ち
なみにこの四條監察使からの「勅書」は、八月一八日の政変を
経たのちの一〇月一一日、武家伝奏野宮定功より返却が求めら
れ、同一六日京都留守居友部より返上、さらに同月一八日には
慶憲の請書も返上され
た
)((
(
。
こうした経緯をみても、明石藩は、天皇─将軍─諸侯の直線
的な指揮系統から外れた攘夷即行の動きにたいして、それと対
抗関係に陥らないよう注意を払いつつも、藩としてそれに没入
してしまわぬよう、慎重な態度を保っていたのであった。
三
長州再征に積極的に応えられない明石藩
一
八
六
三
(
文
久
三
)
年
八
月
一
八
日
の
政
変
後、
明
石
藩
に
課
せ
ら
れた兵員の出動は、京地の守衛と兵庫の警衛であった。京地の
守
衛
に
つ
い
て
は、
一
八
六
四
(
元
治
元
)
年
五
月
九
日
に
御
所
九
門
外
警衛を拝
命
)((
(
、兵庫の警衛は同年七月二三日、第一次長州征討の
朝
命
が
禁
裏
守
衛
総
督
徳
川
慶
喜
に
下
っ
た
こ
と
に
と
も
な
い
拝
命
し
た。
明
石
藩
は
こ
の
兵
庫
警
衛
を
薩
摩
藩
と
と
も
に
担
当
し
た
)((
(
。
さ
ら
に
一
八
六
五
(
慶
応
元
)
年
六
月
に
も
大
坂
近
在
の
警
戒
の
た
め「
湊
川
両 (西ヵ)
角
ゟ
兵
庫
続
キ
摂
播
泥
川
迄
」
の
警
固
を
あ
ら
た
め
て
命
じ
ら
れ
て
い
る
)((
(
。ところが、このすぐのちの七月二六日、大坂にて老中松
前崇広より兵庫出張中の明石藩へ「人数引上ヶ、関門并勤番所
等
式
部
大
輔
(
越
後
高
田
藩
榊
原
家
)
江
引
渡
可
申
」、
と
の
下
命
が
あ
っ
58
た
)((
(
。「
尤
」、
松
前
が
い
う
に
は、
「
海
岸
御
警
衛
向
之
義
者
是
迄
之
通
相
心
得、
領
内
別
而
厳
重
可
被
取
計
候
」
と
の
注
意
も
添
え
ら
れ
て
い
た。
当該期の在坂幕閣の権力状況は相当に複雑であったが、慶応元
年七月下旬段階における大坂の幕議は松前と阿部正外の両老中
が掌握していた模様であ
る
)((
(
。この見解にしたがうと、在坂老中
の意図は、明石藩を藩領沿岸部を中心とした明石海峡の警備に
専念させようとするものであったと考えられる。
だが、
異国船対策としての 0
0
0
0
0
0
0
0
0
海峡防禦は、同年一〇月に通商条
約が勅許されたことにより、急速にその重要性が減ぜられるこ
とになる。なぜならこれは、朝廷・幕府ともに一切の攘夷政策
を放擲することを意味するからである。そうなると、明石藩が
幕府権力によって期待される軍事的な意義は、長州再征におけ
るそれにしぼられることになる。
長
州
再
征
の
戦
闘
開
始
は
一
八
六
六
(
慶
応
二
)
年
六
月
の
こ
と
で
あ
るが、明石藩にたいしては、その前月の五月二四日、大坂表に
て、
老中稲葉正邦より、
来る六月五日から出撃するよう達があっ
た。
こ
れ
を
う
け
て
明
石
藩
で
は、
家
中
一
統
へ、
行
軍
時
の
諸
規
則
(「
当
家
下
知
状
)((
(
」)
が
五
月
付
で
発
せ
ら
れ、
同
月
二
八
日
に
は
藩
主
慶
憲
率いる藩兵が順次芸州表へむけて出馬を開始し
た
)((
(
。しかしなが
ら、
続
け
て
慶
憲
自
身
も
出
馬
す
べ
き
と
こ
ろ、
「
兼
而
持
病
之
痔
疾
相
発」したため、
「家老尾﨑六郎江陣代申付置」くこととなっ
た
)((
(
。
だが七月に入っても慶憲は回復をみない。この間の経緯につい
て、
『明石名勝古事談』によれば、
「明石藩にて長州征伐に出兵
を
願
ふ
者
家
老
中
一
人
も
無
」
か
っ
た
が、
「
此
時
家
老
尾
﨑
六
郎
一
人
意を決し幕府へ向けて従軍出兵を出願」した、
とされ
る
)((
(
。ただ、
この件については、関連する一次史料がほかにないので、これ
以上は検討しかねる。
慶憲の出馬が遅延する間に、幕府方は石州・小倉表の戦闘で
劣勢に立たされた。そして八月一四日、在坂中の征長先鋒総督
徳川茂承より善後策を諮問されたさい、明石藩は松平兵部大輔
名義で、つぎのような回答を提出した。
御討長之儀、当今不容易形勢ニ切迫仕、猶又厚被為在御配
慮候ニ付、
御進退二道之儀御懇切御尋訊被仰下、
奉恐入候、
何分御指揮ニ随ひ、乍微勢尽力仕候心得ニ罷在候処、已ニ
石州并小倉表之次第を粗伝承仕候ニ就而者、実ニ御一大事
之場合与奉存候ニ付、乍恐過日御家老衆迄奉申上候通、何
分
是
迄
之
御
振
合
ニ
而
も
御
条
理
相
立
兼、
無
謀
如
何
与
奉
存
候、
長防二州御討滅之御良策被為立候迄、暫御当藩江御委任ニ
相成、兼而御討手被
仰付居候四道之諸侯御一同、上坂被
仰出、
篤御軍議之上四境一時御討入
相成候様之御下知可
然哉与奉存候間、此段不忌憚言上仕候、以上
八月
松平兵部大
輔
)((
(
なおこのときの諮問は、彦根・越後高田・龍野の各藩主にた
いしてもおこなわれており、いずれも無謀の攻勢をかけるのは
59
否、との回答を出した。具体的な経過は不明であるが、回答提
出以前に四藩で意見調整がなされたとみられる。明石藩主の意
向は、四境攻撃に参加する諸藩の大名でいったん上坂し、皆で
軍議をしたうえ再度四境へ討ち入りする、
というものであった。
ともかくも、いったん軍勢を退くという意見であり、九月一日
には芸州表出張の明石藩兵は「御人減」として順次国元への帰
路につき、同月八日最初の一陣が帰
着
)((
(
、翌九日には若菜善右衛
門
(
高
一
三
〇
石
)
ら
者
頭
の
引
き
連
れ
た
手
組
の
面
々
も
続
々
と
帰
着
し
た
)((
(
。
では、この藩兵の「御人減」=引き上げは、今後の「四境一
時討入」
に備えた積極的な意味をもつものだったのであろうか。
否、藩内の状況に鑑みたとき、それは消極的動機によるものと
思われる。
その徴証として、つぎの史料をあげることができる。
兵部大輔領分去ル十五日・六日、稀成洪水ニ而、則不取敢
御届申上候通、家中在町共家蔵田畑流失破損夥敷、兼々不
如意之勝手向、是迄迚も当所永々屯在罷在候而者、仕送方
行届申間敷、彼是心配仕候処、前条存外之水害、郭外数ヶ
所之用米蔵悉浸入致、海防用意之品之増送方礑与差支、且
難
捨
置
窮
民
之
指
向
仮
成
ニ
手
当
仕
候
得
共、
自
然
夫
役
難
申
付、
令収納之時ニ至、凡損耗之義皆無ニも可及歟、将時節柄故
融通等も更ニ行届不申、実ニ内外及切迫如何共致し方無御
座、何れも失方角、此姿ニ而者領内之民多餓死可申哉与通
哀刻苦罷在候、
当今不顧御時勢奉申上候段、
奉恐入候得共、
当出張之人数暫時引揚、器械・弾薬・粮米等仕送方仮成相
整
候
者、
猶
出
張
可
仕
候、
御
憐
評
之
上
急
速
引
揚
被
(
平
出
)
仰
付被下候様、前条禍害之事情深
御慈察被成下、願之通被
仰
付
被
下
置
候
得
者、
難
有
仕
合
奉
存
候、
此
段
奉
歎
願
候
様、
兵部大輔申付越候、以上
八月廿七日
松平兵部大輔家来
杉
村
勇
蔵
)((
(
この明石藩の伺書にたいして、幕府は人数引き上げを許可し
た。許可理由は、明石藩の願の内容が「無余義」ことであった
こともしかりだが、それ以上に、すでに将軍家茂の大坂城での
死
去
に
と
も
な
い、
「
従
御
所
兵
事
暫
時
見
合
之
御
沙
汰
)((
(
」
が
発
せ
ら
れ
ていたことにもよる。
ところで、一八六五年から六六年にかけて領内で発生した水
害は、かねての海防と征長への兵力動員とならんで、藩財政を
窮迫させることとなった。六六年一二月には、
翌六七
(慶応三)
年からむこう五ヶ年間、二〇〇石以上の家臣は半知、二〇〇石
以下給金取までの家臣ならびに江戸
・
京都
・
大坂定詰の面々は、
歩掛をもって上米が仰せ付けられることになっ
た
)((
(
。また六七年
三月一六日には、幕命によって明石藩領内に備蓄された囲米の
うち、
寛政元年分一五〇〇石、
および天保一二年分二〇〇〇石、
60
合計三五〇〇石の「拝借」が幕府へ願い出され
た
)((
(
。その理由は
第一に、
「長防
(平出)
御征伐ニ付、
去五月中俄兵部大輔討手被
(平
出
)
仰
付、
急
速
人
数
出
張
為
致
候
処、
長
々
在
陣
戦
争
度
々
之
失
費
も
不
容
易
」
も
の
で
あ
っ
た
こ
と、
第
二
に、
「
殊
近
年
京
地
并
兵
庫
等
御
警
衛
御
急
務
多
分
之
入
用
而
巳
打
続
」
い
た
こ
と、
第
三
に、
「
去
々
丑
年閏五月中領分大雨ニ而出水」によって「破損之場所早々普請
等申付」
られ、
「夫々修補手当申付、
彼是入費も不少」
ものであっ
たこと、以上とされた。ちなみにこの願書によれば、水害によ
る領内全体での損毛はおおよそ
「三万弐千九百三拾石余」
であっ
たとい
う
)((
(
。
以上のように、慢性的な財政難と大災害は、慶応期の国家的
軍役に、畿内親藩ですら対応困難にならしめていた。その意味
で、明石藩による征長人数帰還の願出、および「御人減」の実
行は、
征長をめぐる
〈戦時体制〉
からの離脱といえるものであっ
た。
四
王政復古・戊辰戦争への対応
(一)慶応三年の明石藩
この年の幕府政策との関連で注目すべきことは、
一八六七
(慶
応
三
)
年
六
月
に
お
け
る
西
洋
式
銃
隊
軍
制
の
導
入
で
あ
る。
保
谷
徹
氏
によれば、幕府による西洋式軍制の全国諸藩への拡大策は結果
として挫折におわってお
り
)((
(
、六七年八月以降は幕府が採用して
いたフランス式軍制を金沢藩や和歌山藩などに広めようとして
い
た
)((
(
とされる。これらの動きと、明石藩の西洋式銃隊軍制への
改編は、時期的にほとんど重なっており、兵制もまたフランス
式
)((
(
であった。
改編当初の動向を少しだけみておくと、まず六月二七日、講
武所において織田安芸より「此度西洋銃隊御取建」のため金井
要人を歩兵奉行兼帯に、加太盛之進・加藤正平を歩兵頭取に任
命することなどが達せられた。ちなみに、西洋式砲術の被訓練
者
か
ら
な
る
新
撰
組
は、
こ
の
と
き
の
西
洋
銃
隊
全
藩
化
に
と
も
な
い、
一挙に廃止されるはこびとなった。
松井軍三ら新撰組頭取は
「頭
取」に、柏木武平治ら新撰組小頭は「小頭」と職名をあらため
られ
た
)((
(
。この改編以後初の銃隊稽古は九月二日、御門固御供守
の「い」組、御番并須磨詰、御留守、夜廻り、詰御用捨御番日
見廻り、その他歩兵組とおもわれる一番右・左~三番右・左の
面々に命じられ
た
)((
(
。さらに同日には、橋本七郎平以下者頭一一
名にたいし、銃隊稽古のため講武所へまかり出るよう命が下っ
てい
る
)((
(
。稽古の様子やその成果については詳らかにしえないが、
藩として、仏式軍制の定着へむけた動きが開始したことがうか
がい知れる。
ところで、一〇月一四日に将軍慶喜より大政奉還が上表され
61
たが、それから鳥羽伏見戦争開戦までの明石藩の動向はいかな
るものであっただろうか。
第
一
に、
大
政
奉
還
後
の
諸
大
名
に
た
い
す
る「
朝
召
」
で
あ
る
が、
藩
主
慶
憲
は「
脳
痛
」
と
の
理
由
で
猶
予
を
願
い
出
た
)((
(
。
そ
の
後
も
再
三、大目付などから速やかに出京するよう催促の沙汰が下され
た
が、
い
ず
れ
も
身
体
の
不
調
を
理
由
に
延
期
が
願
い
出
さ
れ
た
)((
(
。
結
局、家老間宮能登を名代として出京させることが決まり、一〇
月二六~二八日にかけて間宮以下、御用人小泉益人、組頭嶋衛
守らの間宮組一行が順次明石を出立し
た
)((
(
。
第二に、王政復古クーデターの直前、武力討幕派の軍勢の上
方上陸をめぐる対応について。くりかえすように、明石藩は西
国大名の監視や明石海峡の警備を本来的な任務としていた。だ
が結果的に、明石藩には、薩長芸が海路上方に接近していると
いう情報を老中板倉勝静、所司代松平定敬に届け出ることしか
できなかった。つぎの史料をみられたい。
一老中板倉伊賀守・所司代松平越中守江差之通及届之
卯十一月廿九日午刻過、蒸気船十艘兵部大輔領分明石浦
西沖ニ相見候内、壱艘者淡州クサカ明神之岬沖辺ゟ西江
向乗戻し候、九艘者東江追々致通船候、尤見留候船印左
之通相達候
日ノ丸御印
二艘
薩州之印
同
芸州之印
同
長州之印
三艘
但此三艘者蒸気船ニ而者無之、異国形帆船ニ而、右
薩芸之蒸気ニ而漕登候
右九艘上筋江通船之内、日ノ丸御印之分壱艘明石浦舞子
沖江致繫船、無程亜米利加之印建替小舟ニ乗致上陸、掛
リ役人之者ゟ相尋候所、長崎より初而相登、磯遣不案内
ニ付、水先キ相頼候趣申聞候間、則水先案内之者両三人
差出、夫々水先相済引取申候、其余相替義も無御坐、同
晦日左ノ刻東江向致退帆候趣申越候間、
此段御届申上候、
以上
松平兵部大輔家来
友
部
権
六
十二月三日
文面をみる限り、薩長芸全九艘の動きが不穏なことには気づ
いていた様子である。ところが、明石藩からはむしろ水先案内
人
を
派
遣
す
る
な
ど
し
て、
そ
れ
ら
を
上
筋
へ
通
し
て
し
ま
っ
た
の
で
あった。
そして第三として、
鳥羽伏見戦争勃発後の一八六八
(慶応四)
年正月五日、明石藩は組頭桒原龍左衛門以下の藩兵を大坂へ派
兵し
た
)((
(
。幕府軍の援軍としての派遣と考えられる。しかしなが
ら同月九日「大坂表引払」が決
定
)((
(
、一〇日には須磨の陣屋詰の
62
藩兵も引き払うこととなっ
た
)((
(
。
(二)戊辰戦争と明石藩の「旧親藩」からの脱却
では最後に、旧親藩明石藩が新政府との親和的関係を構築し
ていくさいの基礎的な事実経過についてみておきたい。
第
一
に、
新
政
府
(
軍
)
へ
の
服
属
は
い
か
に
お
こ
な
わ
れ
た
か。
ま
ず、慶応四年正月一三日、大坂征討大将軍本陣より松平家家来
へ
の
呼
び
出
し
が
あ
り、
そ
こ
で
今
般
中
国・
四
国
へ
の
征
討
の
た
め、
四條隆謌が進発するので、明石城を本陣とする旨、達が下され
た。これには翌日さっそく、松平兵部大輔名義で請書が提出さ
れ
た
)((
(
。中国四国追討総督四條隆謌の一軍が明石に入城したのは
同月二〇日。翌二一日に家老・中老一同より新政府への服従を
しめす上書が提出さ
れ
)((
(
、二五日には姫路城に進発する四條総督
にたいし、守衛人数を差出す旨の請書が提出され
た
)((
(
。以上のよ
う
に、
明
石
藩
に
よ
る
新
政
府
(
軍
)
へ
の
服
属
は、
正
月
下
旬
段
階
に
確定していた。
しかるうえで、旧幕時代より担当してきた警衛業務への復帰
も果たされていく。二月一四日、家臣友部権六は、新政府弁事
役所にたいし、
「摂州須磨為御警衛同所陣屋江近来差出置候処、
当早春引揚申候得共、是迄之通人数差出置可申哉」との伺を立
て
た
)((
(
。これをうけて、三月二一日の親征行幸決行にむけて、明
石藩は京都丹波口および「国元台場之義者摂海咽喉」ゆえ、同
所の守衛が命じられることになっ
た
)((
(
。これへの
「明石中将」
(慶
憲)
名義の請書は二月二三日に提出され
た
)((
(
。
第
二
に、
松
平
家
と
天
皇
と
の
直
接
的
な
結
合
関
係
の
構
築
が
あ
る。
ただ、六八年二月一二日段階で、松平慶憲は「累年之病脳」に
より上京困難な状態にあった。そこで名代として江戸に在った
松平薫次郎を急きょ呼び寄せ、彼をもって「朝敵御追討御用之
端を茂為相勤」る旨が、新政府参与役所に提出され
た
)((
(
。薫次郎
は
三
月
二
五
日
に
入
京、
そ
こ
で
さ
っ
そ
く
天
機
参
内
が
計
画
さ
れ
た。
このとき慶憲が気がかりであったのは、薫次郎が「未叙爵も不
仕」
、はたして「参内之義如何」なのか、ということであった。
こ
の
こ
と
を
友
部
権
六
よ
り
弁
事
伝
達
所
へ
伺
っ
た
と
こ
ろ、
「
薫
次
郎
天機窺として参朝不苦事」という回答がえられ
た
)((
(
。結果、薫次
郎のはじめての参内は四月三日におこなわれ、これにより馬廻
以
上
の
家
臣
は
慶
憲・
薫
次
郎
(「
両
殿
様
」)
へ、
ま
た
独
礼
以
上
は
右
の
二
人
に
く
わ
え
て
斉
韶
(「
大
殿
様
」)
へ「
御
歓
可
申
上
」
こ
と
が
達
せられ
た
)(((
(
。またさらに、同月二三日、薫次郎は孝明天皇の山陵
への参拝を希望する旨弁事役所へ伺を立てており、これについ
ても「参拝之儀勝手次第不苦候事」との回答をえている。そし
て閏四月一〇日、薫次郎はふたたび参内、ここではじめて天皇
との直接対面が叶ったのである。このとき、薫次郎は来る二〇
日に京都太政官代において従四位上侍従兼左兵衛督に宣下され
る
こ
と
が
決
ま
っ
た
(
以
下
薫
次
郎
の
こ
と
は
直
致
と
呼
称
す
る
)(((
(
)
。
宣
下
63
が
済
む
と
)(((
(
、
ま
も
な
く
し
て
直
致
は、
「
今
般
被
仰
出
候
厚
御
仁
恵
之
御
趣
意、
難
有
奉
高
載、
一
ト
先
在
所
之
御
暇
奉
願
度
此
段
奉
伺
願
候
」
と弁事役所に願い出た。これにたいしては、願のとおりとする
が「
御
定
之
兵
隊
可
残
置
事
」、
と
い
う
回
答
が
あ
っ
た
)(((
(
。
こ
の
弁
事
役
所の指示にしたがって、明石藩では、京都丹波口の警衛人数と
し
て、
銃
隊
一
一
〇
人
(
う
ち
役
付
一
五
人
)
を「
差
残
置
」
く
こ
と
が、
軍務官へ届け出され
た
)(((
(
。
このように、明石藩松平家では、直致の上京以降、急速に天
皇権力との直接結合が実現していった。そのプロセスには、自
発的に孝明天皇山陵への参拝を願い出るなど、パフォーマンス
的なふるまいもふくまれていた。くわえて注意しておきたいの
だが、
六八年前半期の段階で斉韶の体調は大幅に悪化しており、
最悪の事態は十分に想定しえるところまで来ていたと考えられ
る。それゆえ、斉韶・慶憲の「両殿様」体制の穴を埋めるあら
たな「若殿様」直致に、参内と叙爵を急きょ完了させ、その権
威づけがはかられたのではなかろうか。実際、直致の叙爵から
約三か月あまりのちの九月八日に斉韶は死去した。同日、目付
より家中一統へ、あらたな「両殿様へ為伺御機嫌」登城するよ
う触が出され
た
)(((
(
。
最後に第三として、越後口への藩兵出兵の件について触れて
おきたい。仁和寺宮嘉彰親王の越後出兵につき、軍務官より明
石
藩
兵
の
随
従
が
命
じ
ら
れ
た
の
は、
六
月
一
七
日
の
こ
と
で
あ
っ
た
)(((
(
。
この越後派兵には、これまで丹波口の守衛を担当してきた藩兵
が
転
用
さ
れ
る
こ
と
と
な
り
)(((
(
、
六
月
二
〇
日
に
は
そ
の
人
数
(
兵
隊
五
三
人、
兵
夫
二
六
人
)
が
軍
務
官
に
申
告
さ
れ
た
)(((
(
。
だ
が
同
時
に、
藩
兵
の
派兵は越後口を限界とし、
さらに先、
会津への派兵については、
以前より新政府から
「兼而少人数之処、
海岸防禦厳重可仕旨精々
御
達
」
が
あ
っ
た
こ
と
を
口
実
と
し
て、
「
出
立
之
義
御
宥
免
被
下
置
候
様」願い出された。ただし、その代わりに、軍資金二万両を献
上することになっ
た
)(((
(
。つまり、明石藩は海峡防禦という本来の
役割を盾に、遠路・長期の派兵の免除を願い出たのである。た
だ、それにしても派兵免除の代償は二万両であるから、財政難
の藩には身に堪える出費であったに相違ない。けだし、明石藩
には、幕末以来自藩がはたしてきた役割に専念しつつ、国家レ
ベルでの貢献をなしたいという指向性が存在していたのではな
かろうか。
ちなみに、潮田范三の嗣子覚衛を隊長とした越後表への出兵
人数は、
一八六八
(明治元)
年一一月一一日、
明石に
「凱陣」
した。
同日「若殿様」より潮田らへ酒肴がふるまわれてい
る
)(((
(
。
おわりに
明石藩は摂海防禦の要地であり、ペリー来航以降はその国家
的軍事的役割の貫徹が幕府権力より直接的に期待される立場に
64
あった。とりわけ、文久
・
元治期の奉勅攘夷体制下においては、
幕閣や勝海舟ら幕府の軍備強化政策の担い手と主体的に交流を
もち、
同体制確立の基底的部分を占める役割を果たそうとした。
他
方、
藩
主
に
は
外
交・
軍
事
政
策
に
つ
い
て
独
自
の
政
策
論
は
な
く、
また攘夷政策についても、即時決行的な潮流を相対視し、可能
な限り距離をとるようつとめていた。いまのところ藩内で「尊
攘派」的な有志集団が形成された形跡は見当たらず、当該期諸
藩で起こったとされる保守
(佐幕、
上士中心)
対革新
(尊王攘夷、
下
士
中
心
)
と
い
っ
た
藩
論
の
分
裂
も、
明
石
藩
に
お
い
て
は
史
料
的
に
確認できない。このあたりは、同じ畿内近国の「徳川方」の藩
である姫路や彦根などとは異なっている。明石藩は奉勅攘夷政
策、摂海防禦政策の要地であり、それらの政策の
行政的な 0
0
0
0
実行
過程には協力的に動いたが、政治的能動性には乏しかったので
ある。
こうした明石藩も、第二次征長時は、かねてからの幕府軍役
と海岸防禦、これらに水害が重なったことにより、畿内近国の
親藩としてなすべき征長への貢献が十全に果たしきれなくなっ
て
い
た。
そ
の
た
め、
軍
勢
の
引
揚
げ
(
軍
事
的
負
担
の
軽
減
)
が
藩
主
の名においておこなわれることとなった。京坂の朝幕権力が課
する征長をめぐる〈戦時体制〉から、明石藩は自ら離脱したの
である。
鳥羽伏見戦争後は、となりの姫路藩においてみられたような
激しい藩論分裂はなく、一月下旬段階で早々に新政府への服属
が
決
せ
ら
れ
た。
松
平
直
致
の
叙
爵
も
閏
四
月
段
階
で
実
現
し
て
お
り、
徳川将軍家との臣従関係からの離脱、および天皇権力との君臣
関係の再構築は総じて波乱なく済まされた。他方、新政府にた
いしては幕末以来の摂海防禦に専念するという意向をしめしつ
つも、
戊辰戦争への派兵の長期化は拒む、
という側面もあった。
以上のように、明石藩ないしその藩内の人物は、幕末維新期
の幕藩政治史のなかで、割拠志向や権力志向をあらわにするこ
とはなかった。個別領主として担いうる最小限度の国家的役割
を
藩
と
し
て、
幕
府・
新
政
府
の
政
策
的
諸
段
階
に
応
じ
て、
果
た
し
て
き
た
の
で
あ
っ
た
(
そ
う
し
た
意
味
で
第
二
次
征
長
は、
や
は
り「
限
度
」
を超えるものであった)
。
同じ畿内
・
近国藩、
また譜代
・
親藩であっ
てもなぜこのような違いが生じるのか。このことを明らかにす
るには、
「両殿様」
、家老、御用人クラスにおける意思決定構造
や、藩内の学問的文化的特性などをさらに分析していく必要が
あるだろう。今後の課題としたい。
註
(1)
宮地正人
「明治維新の論じ方」
(駒澤大学大学院史学会
『史学論集』
三
〇、
二
〇
〇
〇
年
)、
同「
歴
史
学
を
ど
う
学
ぶ
か
─
幕
末
維
新
期
研
究
を
手
が
か
り
に
─
」(
『
歴
史
科
学
』
一
六
五、
二
〇
〇
一
年
)、
同『
幕
末
維
新
変
革
史
』
上(
岩
波
書
店、
二
〇
一
二
年
)、
三
七
七
~
三
七
八
頁、
同『
幕
末維新変革史』下、三八~三九頁。
65
(2)
久住真也『長州戦争と徳川将軍』
(岩田書院、二〇〇五年)
。
(
3)
岩
城
卓
二「
畿
内
の
幕
末
社
会
」(
明
治
維
新
史
学
会
編『
講
座
明
治
維
新
2
幕
末
政
治
と
社
会
変
動
』
有
志
舎、
二
〇
一
一
年
)、
同「
幕
末
期
畿
内
社
会
論
の
視
点
」(
『
日
本
史
研
究
』
六
〇
三、
二
〇
一
二
年
)。
二
〇
一
二
年
一
一
月
に
は、
岩
城
氏
と
同
様
の
問
題
意
識
を
有
す
る
論
者
に
よ
っ
て、
畿
内
直
轄
都
市
か
ら
幕
末
維
新
期
の
社
会
を
明
ら
か
に
し
よ
う
と
す
る
特
集
が『
日
本
史
研
究
』
誌
上
で
組
ま
れ
る
こ
と
と
な
っ
た。
な
か
で
も、
荒
武
賢
一
朗「
幕
末
期
に
お
け
る
大
坂
の
特
質
」、
高
久
智
広「
幕
末
期
の
幕
府
の
艦
船
運
用
と
兵
庫津」
、樋爪修
「幕末期京津間の物資流通」
(すべて前掲
『日本史研究』
六
〇
三
に
収
載
)
の
諸
論
考
は
い
ず
れ
も
幕
末
政
治
史
の
社
会
的
基
礎
構
造
と
いいうる部分を析出しており、興味ぶかい。
(4)
岩城卓二『近世畿内・近国支配の構造』
(柏書房、二〇〇六年)
。
(5)
小野正雄『幕藩権力解体過程の研究』
(校倉書房、一九九三年)
。
(
6)
岸
本
覚「
安
政・
文
久
期
の
政
治
改
革
と
諸
藩
」(
前
掲『
講
座
明
治
維
新
2
幕末政治と社会変動』に所収)
。
(
7)
岩
城
前
掲
書、
第
二
章・
第
六
章、
辻
野
恵
美「
幕
末
維
新
期
に
お
け
る
畿
内
近
国
藩
の
動
向
─
慶
応
期
の
尼
崎
藩
を
中
心
に
─
」(
尼
崎
市
立
地
域
研究史料館『地域史研究』九五、
二〇〇三年)
。
(
8)
宮
地
正
人「
幕
末
彦
根
藩
の
政
治
過
程
」(
佐
々
木
克
編『
幕
末
維
新
の
彦
根
藩』彦根市教育委員会、二〇〇〇年)
。
(
9)
菅
良
樹「
幕
末・
維
新
期
に
お
け
る
畿
内
近
国
譜
代
小
藩
の
権
力
構
造
─
播磨国山崎藩本多家の事例」
(姫路市立城郭研究室
『城郭研究室年報』
二三、
二〇一四年)
。
(
10)『兵庫県史』
史料編幕末維新一
(兵庫県、
一九九八年)
、三七~四〇頁。
(
11)
橋
本
海
関『
明
石
名
勝
古
事
談
』(
中
央
印
刷
出
版、
一
九
七
四
年
複
製、
初
版一九二〇~三五年)
。
(
12)
以
下
禄
高
は、
神
戸
大
学
人
文
学
研
究
科
所
蔵
黒
田
家
文
書「
万
延
元
年
庚
申
年
座
並
帳
」
に
よ
る。
ち
な
み
に
潮
田
の
一
八
六
〇(
万
延
元
)
年
当
時
の
禄高二〇〇石のうち一〇〇石は役料である。
(
13)
「
明
石
藩
記
録
」
安
政
元
年
二
月
四
日(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
A
N
四
─
三
六
九
~
三
七
一、
東
京
大
学
史
料
編
纂
所
維
新
史
料
綱
要
デ
ー
タ
ベ
ー
ス
より閲覧、以下同様)
。
(
14)
「
明
石
藩
記
録
」
安
政
元
年
九
月
一
四
日(
同
右、
A
N
一
七
─
六
九
八
~
七〇一)
。
(
15)
「
旧
明
石
藩
文
書
類
」・
「
蛮
夷
貿
易
濫
觴
」(
『
幕
末
外
国
関
係
文
書
之
七
』
東
京大学出版会、一九七二年復刻、五七三頁)
。
(
16)
同右、五七五頁。
(
17)
「
老
中
達
書
所
司
代
宛
」(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
A
N
二
二
─
四四〇)
。
(
18)
「明石藩十二月日記」
安政二年一二月一八日
(『大日本維新史料稿本』
AN四六─九八七~九八九)
。
(
19)
「
明
石
藩
記
録
」
安
政
五
年
七
月
三
日(
同
右、
A
N
一
一
〇
─
八
八
五
~
八八七)
。
(
20)
「
明
石
藩(
間
宮
)
日
記
」
安
政
三
年
一
二
月
二
五
日(
同
右、
A
N
六
五
─
九〇一~九〇四)
。
(
21)
「
明
石
藩
主
松
平
慶
憲
上
書
」(
同
右、
A
N
四
五
─
九
二
二
~
九
二
四
)。
な
お、
こ
の
と
き
の
全
答
申
の
意
見
分
布
に
つ
い
て
は、
井
上
勲「
開
国
と
幕
末
の動乱」
(同編
『日本の時代史二〇
開国と幕末の動乱』
吉川弘文館、
二〇〇四年)
、一二~五頁を参照のこと。
(
22)
前
注
21井
上
論
文
の
表
1「
嘉
永
六
年
七
月
幕
府
諮
問
に
対
す
る
諸
大
名
の
意
見
分
布
」(
一
四
頁
)
に
は「
対
外
方
針
」
に
つ
き「
答
申
不
能
」
と
答
え
た大名のうち
「家門/一〇万石以上」
の欄に
「1」
が勘定されている。
こ
の「
1」
(
名
)
は
お
そ
ら
く
明
石
藩
主
松
平
慶
憲
の
答
申
を
指
し
て
い
る
と思われる。
66
(
23)
「
松
平
慶
憲
上
書
老
中
宛
」(
『
幕
末
外
国
関
係
文
書
之
十
八
』
東
京
大
学
出
版会、一九七二年復刻、四六四~四六五頁)
。
(
24)
この諮問の事実経過と諸大名の答申の分布については、
三谷博『明
治
維
新
と
ナ
シ
ョ
ナ
リ
ズ
ム
』(
山
川
出
版
社、
一
九
九
七
年
)、
第
五
章
第
三
節を参照のこと。
(
25)
同右。
(
26)
「
松
平
慶
憲
上
書
老
中
宛
」(
『
幕
末
外
国
関
係
文
書
之
十
八
』、
七
七
八
~
七七九頁)
。
(
27)
「
松
平
慶
憲
上
書
」
安
政
五
年
五
月
一
八
日(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
A
N一〇五─二九~三一)
。
(
28)
宮
地
正
人「
幕
末
過
渡
期
国
家
論
」(
同『
天
皇
制
の
政
治
史
的
研
究
』
校
倉
書
房、
一
九
八
一
年、
第
三
章
)、
奈
良
勝
司「
奉
勅
攘
夷
体
制
と
性
格
規
定
の
流
動
化
」(
同『
明
治
維
新
と
世
界
認
識
体
系
』
有
志
舎、
二
〇
一
〇
年、
第五章、初出二〇〇四年)
。
(
29)
勝
部
真
長・
松
本
三
之
介・
大
口
勇
次
郎
編『
勝
海
舟
全
集
一
八
海
舟
日
記Ⅰ』
(勁草書房、一九七二年)
、二三頁。
(
30)
「
明
石
藩
庁
日
記
」
文
久
三
年
正
月
二
四
日(
『
兵
庫
県
史
史
料
編
幕
末
維
新一』
、五三頁)
。
(
31)
同
右、
文
久
三
年
二
月
二
〇
日(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
B
U
八
一
─
三二二~三二五)
。
(
32)
同右、文久三年二月二一日(同右、BU八一─三一五~三一八)
。
(
33)
「
明
石
藩
日
記
」
文
久
三
年
三
月
一
〇
日(
同
右、
B
U
九
四
─
三
八
~
四一)
。
(
34)
「
明
石
藩
江
戸
日
記
」
文
久
三
年
三
月
四
日(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
B
U八一─二七六~二七七)
。
(
35)
同右、文久三年三月七日(同右、BU〇八一─二七八~二七九)
。
(
36)
「
明
石
藩
庁
日
記
」
文
久
三
年
三
月
四
日(
同
右、
B
U
八
〇
三
─
二
〇
〇
~
二〇一)
。
(
37)
「
明
石
藩
日
記
」
文
久
三
年
四
月
二
七
日(
同
右、
B
U
九
四
─
四
二
~
四三)
。
(
38)
同右。
(
39)
前注
29『海舟日記Ⅰ』
、文久三年五月三日。
(
40)
同右、文久三年五月四日。
(
41)
「
明
石
藩
日
記
」
文
久
三
年
五
月
一
一
日(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
B
U
九四─五二~五四)
。
(
42)
同右、文久三年五月一〇日(同右、BU九四─五〇~五一)
。
(
43)
同右、文久三年五月晦日(同右、BU九四─五七~六〇)
。
(
44)
同右、文久三年六月一日(同右、BU一〇八─九三~九四)
。
(
45)
同右、文久三年六月一八日(同右、BU一〇八─九八~一〇〇)
。
(
46)
同
右、
文
久
三
年
六
月
二
五
日(
同
右、
B
U
一
〇
八
─
一
〇
九
~
一一一)
。
(
47)
(
文
久
三
年
)
九
月
三
日
付
織
田
安
芸・
丹
羽
隼
人・
奥
平
又
内・
小
泉
益
人
宛
勝
安
房
守
書
簡(
織
田
家
文
書、
『
明
石
市
史
資
料(
近
世
編
)
第
六
集
』
明石市教育委員会、一九八五年、一三〇頁)
。
(
48)
「
様
師
」
と
い
う
と、
現
在
の
意
味
で
は
詐
欺
師、
い
か
さ
ま
師
と
い
う
こ
と
になるが、ここでの意味はにわかに判断しかねる。
(
49)
「
明
石
藩
日
記
」
文
久
三
年
七
月
四
日(
『
大
日
本
維
新
史
料
稿
本
』
B
U
一一三─一五九~六〇)
。
(
50)
同右、文久三年七月八日(同右、BU一一三─一六五~六)
。
(
51)
明
石
藩
の「
新
撰
組
」
に
つ
い
て
は、
さ
し
あ
た
り
拙
稿「
幕
末
の
動
乱
と
明
石
藩
」(
明
石
市
他
編『
明
石
藩
の
世
界
Ⅰ
』〈
展
示
図
録
〉、
明
石
市
立
文
化博物館、二〇一三年)を参照されたい。
(
52)
神戸市北区辻井家文書「新撰組御用日記」
。
(
53)
前注
11『明石名勝古事談』
、七六~七頁。