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Title

幕末明石藩の政治動向の基礎的考察

Author(s)

前田, 結城

Citation

Link : 地域・大学・文化 : 神戸大学大学院人文学研究科

地域連携センター年報, 7: 47-68

Issue date

2015-12

Resource Type

Departmental Bulletin Paper / 紀要論文

Resource Version

publisher

URL

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009169

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幕末明石藩の政治動向の基礎的考察

前田

 

結城

論考

はじめに

  文久~慶応期 (一八六一~六八) の最幕末期において、京都 ・ 大坂が政局の中心地となったことは周知の事実である。たとえ ば、 宮 地 正 人 氏 は 一 八 六 三 ( 文 久 三 ) 年 に 成 立 し た 禁 裏 守 衛 惣 督摂海防禦指揮 (一橋) ・ 京都守護職 (会津) ・ 京都所司代 (桑名) 三 者 の 結 合 を、 「 一 会 桑 京 都 政 権 」 と 呼 称 し、 さ ら に 徳 川 慶 喜 の将軍在任期には、幕府は「京坂政権」としての性格を強めて いくとし た (1) 。こうした、国家機構の一部が京都・大坂へと移転 していった時期の政治史を、当該地域の実態にそくしていかに 描くのか。これについては、近年の幕末維新史研究の重要な課 題のひとつとなっている。   ただし、対象地域を京都 ・ 大坂ないしその周辺 (畿内 ・ 近国) に絞るといっても、具体的にどの社会階層ないし政治集団を分 析するかについては、ここで明確に定めておく必要がある。先 行 研 究 の 例 で い え ば、 久 住 真 也 氏 は「 幕 末 期 畿 内 の 政 治 空 間 」 について論じ、元治 ・ 慶応期の朝幕政権を「将軍畿内滞在態勢」 と概念化し た (2) 。久住氏の研究は、徳川将軍が畿内に長期滞在し た期間の一会桑と江戸幕閣との角逐、あるいは将軍の畿内滞在 を希求した有力諸藩の動きを明確に析出したが、その視角はあ くまで政権論、中央政局史である。したがって近年は、岩城卓 二 氏 の、 「 幕 末 政 治 の 中 心 舞 台 と な り 得 る こ と を 可 能 に し た 社 会構造と、急ごしらえであったがゆえに引き起こされたであろ う混乱の様相が問われねばなるまい」という問題意識を有する 研究があいついで発表されてい る (3) 。たとえば、岩城氏は戦時労

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働力・物資の確保をめぐって発生する畿内地域の社会的矛盾を 明らかにし、当該地域が本来有すべき「兵営国家」の拠点とし て の 能 力 を 幕 末 段 階 に は す で に 喪 失 し て い た こ と を 指 摘 し た。 このように、幕末期の政治の中心地=畿内地域を中央政治史と 社会史の両面からとらえていく研究が進展しつつある。   しかし、そうしたなかにあっても、畿内・近国地域の個別藩 の基本動向にかんする事例分析は、いまだ豊富とはいえず、今 後いっそう蓄積されてしかるべきと考える。   ではなぜ藩なのか。岩城氏が主張するように、畿内・近国地 域における譜代大名領・幕府領などの所領配置は、幕府権力に よるそれらの軍事的な編成と密接にかかわってい る (4) 。だとすれ ば、幕末期における海防や攘夷政策、あるいは幕長戦争などの 内 乱 に 畿 内 個 別 藩 が い か に 対 応 し た か を み る こ と は、 「 兵 営 国 家」としての幕藩権力の解体過程そのものを歴史具体的にとら えるうえで、有益な検討材料を得ることになりえよう。幕藩権 力解体の問題を明確に視角に組みこんだ政治史としては、従来 にも小野正雄 氏 (5) や岸本覚 氏 (6) などの研究がある。両氏は幕末期幕 府の政策にたいして諸藩がとった態度について、その諸事例を 総体的にあつかっている。そこでは、諸藩における割拠志向や 政治的自立性の高まりなどが実証されており、たいへん示唆に 富 む。 し か し、 幕 藩 権 力 ( 体 制 ) を 維 持 す る に お い て 地 政 学 的 な重要性をもつはずの畿内・近国藩の具体例については、詳し く ふ れ ら れ て い な い。 一 次 史 料 に そ く し た 事 例 研 究 と し て は、 尼 崎 藩 ( 松 平 家・ 摂 津 四 万 石 ) を あ つ か っ た 岩 城 氏 や 辻 野 恵 美 氏 の 研 究 (7) 、 彦 根 藩 ( 井 伊 家・ 近 江 三 五 万 石 ) に お け る 政 争 を 中 心に論じた宮地正人氏の研 究 (8) 、幕末期に大坂定番をつとめた山 崎 藩 ( 本 多 家・ 播 磨 一 万 石 ) に つ い て の 菅 良 樹 氏 の 研 究 (9) 、 こ れ らが主要なものとして挙げられよう。なお事例となっている諸 藩はいずれも譜代藩である。   以上にのべてきたことをふまえて、 本稿では明石藩を事例に、 畿内近国藩が幕末政治過程ないし幕藩権力解体過程においてし めた歴史的位置について、基礎的な考察を試みたい。明石藩を とりあげる理由は、第一に同藩がこれまで研究事例の少ない親 藩 ( 越 前 松 平 家 の 分 枝 ) で あ る こ と。 ま た 第 二 に、 明 石 藩 は 所 領の位置からして国防上重要であったこと。このことは、海岸 防禦御用掛の川路聖謨が台場設置箇所につき上申したさい、 「急 度 御 取 締 有 之 候 節 は、 決 而 〔 異 国 船 の 〕 出 入 は 出 来 不 申 」 箇 所 のひとつとして明石を含めたこ と )(( ( からもうかがえる。右の二点 をふまえると、 幕府がしだいに権力機能を京坂地域に移動させ、 そのなかで海防政策や攘夷政策を実行していく場合、畿内親藩 明石藩は当然その政策実行過程において重要な位置をしめるで あろうことが予想されるのである。   な お、 幕 末 明 石 藩 に つ い て は こ れ ま で に も『 明 石 名 勝 古 事 談 )(( ( 』などの郷土史的著作があるが、典拠不明な点が多い。ゆえ

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に現在、 一次史料にもとづいた基礎的研究が必要となっている。 本稿では史料的制約により海防や内乱への対応など軍事面での 動 向 を 分 析 の 中 心 に 据 え、 一 八 五 三 ( 嘉 永 六 ) 年 前 後 か ら 六 八 ( 慶 応 四・ 明 治 元 ) 年 ま で を 対 象 期 間 と し て、 同 藩 の 基 本 的 動 向 を明らかにしていきたい。   史料引用にあたっては、旧字体を新字体にあらため、適宜句 点をほどこした。傍線・傍点・カッコ内の注記はとくに断らな い限り筆者による。

 

嘉永・安政期の対外緊張と明石藩

(一)幕府による江戸湾・摂海防禦強化策への対応   ペ リ ー 再 来 航 の あ っ た 一 八 五 四 ( 嘉 永 七 ) 年 一 月、 明 石 藩 は 幕府より江戸近海の警衛を命ぜられた。持ち場は神奈川であっ た。前年のペリー来航以降、幕府をはじめとして、西洋流砲術 の導入・訓練が急速にすすめられたが、明石藩も例にはもれな か っ た。 神 奈 川 警 衛 の 命 が 下 さ れ た 直 後 の 二 月 四 日、 前 藩 主 斉 韶 (「 大 殿 様 」) は 明 石 藩 の 中 島 流 砲 術 家 で あ り 御 用 人 の 潮 田 范 三 ( 高 二 〇 〇 石 )(( ( ) に た い し、 神 奈 川 駅 に 出 張 中 の 家 臣 三 名 を ふ く む 全 四 名 を 高 島 流 ( 西 洋 式 ) 砲 術 家 の 下 曽 根 金 三 郎 ( 信 敦 ) のもとへ「入門専修」させるよう沙汰を下し た )(( ( 。   同年八月になると、明石藩の海防対応は自藩領でも本格化し た。 同 月、 「 紀 州・ 長 崎 表 江 英 吉 利 船 渡 来 之 趣、 従 公 義 御 達 」 が下された。明石藩では「支配末々迄并子弟之面々」へ「諸武 芸専ら出精、諸稽古場江罷出」るよう達しがだされ た )(( ( 。この家 中達からまもなくして、 プチャーチン率いるロシア船が兵庫津 ・ 明石海峡へ出現した。九月一七日に明石藩領分の播州明石郡東 垂水村・塩屋村沖合に同藩家来の者が露艦の存在をみとめ、す ぐ に 同 所 へ「 固 人 数 」 が 差 し 出 さ れ た )(( ( 。 さ ら に 翌 一 八 日 に は、 代 官 川 上 金 吾 助 支 配 所 摂 州 八 部 郡 神 戸 村・ 二 茶 屋 村 よ り、 「 異 国 船 」 ( 露 艦 ) 一 艘 が 兵 庫 津 辺 へ「 追 々 乗 込 候 旨 」 に つ き 明 石 藩へ注進があり、さっそく同所へ明石藩の「固人数」が派遣さ れるはこびとなっ た )(( ( 。   川 路 聖 謨 が 上 書 で の べ た と お り (「 は じ め に 」 参 照 ) 、 明 石 は 外海より摂海への進入を試みる場合、三つの入口のうちのひと つとなりうる。明石海峡の防禦強化はいよいよ、幕府の政策と して進めなければならない段階に入っていく。同年一一月一八 日、 幕 府 老 中 は 明 石 藩 主 松 平 慶 憲 に た い し、 「 其 方 領 分 播 州 明 石浦辺ハ大坂湊之要所ニ付、右最寄要害之場所江台場等新築被 申付、防禦筋之儀厚く手当可被致候」との達書を下し た )(( ( 。この 幕命に明石藩はいかに応じたか。年はこえて一八五五 (安政二) 年の一二月一八日、老中首座阿部正弘は明石藩江戸留守居藤澤 一 郎 を 呼 び 出 し、 隠 居 の 斉 韶 ( 嵩 翁 ) 宛 に、 つ ぎ の よ う な 沙 汰

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を下した。 政事向厚く世話致し、海岸防禦筋之儀追々被仰出候趣、深 相心得、隠居料之内を以大炮等数挺鋳立、去年中領分近海 江異船渡来之節、 早速人数差出、 大炮配方等行届之趣 (平出) 御 聴 一 段 之 事 ニ ( 平 出 ) 思 召 候、 猶 此 上 相 励 候 様 ニ と の 御 沙汰ニ候 事 )(( (   つまり、斉韶がみずからの隠居料を割いて大砲を鋳造したこ とにより、沿岸への大砲の配備がゆきとどいたとされる。具体 的な大砲の数量や、かかる阿部の明石藩への評価が絶対的なも のか、相対的なものかなど、にわかに判断しかねる。ただ、こ の沙汰を読むかぎりでは、少なくとも無策や過怠があったとは 考えがたいであろう。くわえて、安政期において明石藩による 海 峡 防 禦 強 化 へ の 志 向 が 表 現 さ れ た 史 料 と し て、 一 八 五 八 ( 安 政 五 ) 年 七 月 の 家 中 達 )(( ( も あ げ て お き た い。 こ れ に は、 「 異 国 船 渡 来 之 節 海 岸 防 禦 ハ 砲 術 専 要 之 業 ニ 付、 専 ら 可 致 修 行 子 弟 之 面々は篤与可申聞、且又御人数等被差出候節は此表御人少之事 故、 末々迄平常之勤向ニ不拘、 臨時御人数可被差出候義可有之」 とあった。砲術のよりいっそうの向上にくわえ、藩地における 防禦人数の不足は、平常時の職務内容を問わず臨時増員するむ ねが記されている。   だが他方で、 この安政五年七月家中達の「此表御人少之事故」 と い う 文 言 か ら は、 明 石 藩 が 相 当 の 人 員 を 江 戸 湾 や 摂 海 ( 明 石 海 峡 ) に も 相 当 の 人 員 を 海 防 の た め に 割 か ね ば な ら な か っ た こ とを示している。そして、このことは財政面でも家中一統に難 渋 を 強 い る こ と と な っ た。 そ の 一 端 は、 一 八 五 六 ( 安 政 三 ) 年 一二月、御目見以上の面々へ達せられた「被仰出之 覚 )(( ( 」からも う か が え る。 こ れ に よ れ ば、 「 明 年 ゟ 者 御 家 中 之 面 々 知 行 等 令 可被下置儀候得共、兼而御勝手向御不如意之上、近年異国船御 警衛向并此表昨今年之天災ニ付而も無御拠御物入夥敷差湊」っ て い る た め、 「 明 年 よ り も 来 ル 酉 年 迄 五 ヶ 年 ニ 百 石 以 上 半 知、 其以下夫々給金取迄并江戸・大坂定詰之面々は歩掛々以上」に 「上米」を仰せつける、との厳しい内容がもりこまれていた。   海峡防禦への手当が藩財政を窮乏させていたことは、明石藩 にかぎらないだろう。ただ、親藩という政治的立場、あるいは 摂海防禦の要地を藩領に擁するという地理的環境が、明石藩の 海防手当と財政難との相克をより厳しくしたことは想像にかた くない。 (二)明石藩主松平慶憲の対外政策にたいする無定見   では、実際的な海防対策という以前に、明石藩は対外政策に ついてなんらかの持論を有していたのであろうか。これについ ては、幕府の諸大名への諮問にたいする藩主松平慶憲の諸答申 を分析し、考えてみたい。   ペリー来航以降の嘉永・安政期、慶憲が提出した対外政策意

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見は全部で四点を数える。一つめは一八五三 (嘉永六) 年七月、 ペリー来航時に幕府が将来の対策を諸侯へ諮問したさいの答 申 )(( ( である。その内容とは、かいつまんでいえば「通商御許容之可 否ハ不容易事と奉存候、利害得失之儀不能愚案候」 、すなわち、 答申不 能 )(( ( というにひとしきものであった。独自の将来対策はの べなかったけれど、それでも慶憲は「只々随御下知、猶忠節を 相励可申奉存候」と書き、答申書をしめくくった。   二 つ め は 一 八 五 七 ( 安 政 四 ) 年 一 一 月 二 七 日、 老 中 宛 に 差 し 出された上 書 )(( ( である。幕府は同年一一月一二日に、老中堀田正 睦とアメリカ総領事ハリスとの通商条約交渉にかんする一〇月 二六日の対話書および一一月六日の海防掛対話書を、大廊下下 之部屋と大広間の大名へ示し、彼らに外交意見についての諮問 をおこなっ た )(( ( 。それにたいする明石藩の回答がくだんの上書で あ る。 慶 憲 は つ ぎ の よ う に 書 く。 「 使 節 申 立 候 都 下 江 ミ ニ ス ト ル差置、并貿易勝手次第ニ相成候様ニとの義、已ニ嘉永度永く 御和親を被結候御条約之訳茂有之候江は、今更御断茂難被遊可 有御座」 、ゆえに「御許容之外有御座間敷」 。けれども、これを 許容すれば「猶以非常之変事茂難計候間、武備之儀、弥以御厳 重ニ御世話被為仕、神国之御威光、幾久敷全世界被輝候様仕度 義 歟 と 奉 存 候 」。 つ ま り、 お お む ね ハ リ ス の 要 求 を 飲 む べ き と し な が ら も、 今 後 の 武 備 充 実 の い っ そ う の 励 行 を 説 く 内 容 と なっている。ただし、 それ以上に意見することについては、 「不 敬之過言」となりかねないので、 「幾重ニも御仁免可被成下候」 と書き、上書をしめている。   同件の諮問は、さらに一二月二九 ・ 二八日にもおこなわれ た )(( ( 。 これへの慶憲の上書が三つめのそれとなる。ハリスが幕府に差 し 出 し た「 書 付 」 の「 和 解 」 を み せ ら れ て、 慶 憲 は、 「 今 般 御 処置之当否は、如何様ニ茂御大切至極之御儀と奉存候、乍併別 段心付候愚案は無御座候」 、「御指図次第、猶以忠節を相励可申 と 奉 存 候 )(( ( 」、 と の み こ た え た。 最 後 に 四 つ め、 こ れ も 通 商 条 約 交 渉 と 関 連 し た 諮 問 で あ る が、 こ れ に た い し て も「 御 双 方 ( 朝 廷 と 幕 府 ) 御 安 心 之 御 見 詰 相 立 候 様 奉 祈 願 候 外 別 段 申 上 候 存 意 無御座、旧臘申上候通、只々御下知ニ随ひ忠節を相励可申奉存 候 )(( ( 」、とこたえるのみであった。   以上要するに、松平慶憲の対外政策意見は、ペリー来航段階 から通商条約交渉段階へと移行するにしたがって、アメリカの 要 求 へ の 無 理 な 拒 絶 は 避 け る べ き と の 意 見 に 傾 斜 し て い っ た。 これらは、たとえば「有志大名」の対外意見と比べたとき、さ して注目すべき内容を有しているとはいえない。 しかしながら、 慶憲が意見書のなかで繰りかえしのべた、武備強化策の励行と それへの自藩の随従、ということについては、前節でみた藩の 動向と照らしあわせたとき、いくばくかの連動性をもっている ようにみえる。   本章の最後に、嘉永・安政期の幕藩政治史における明石藩の

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基本的なありかたについてまとめておく。第一に対外政策につ いて。明石藩ないし藩主慶憲はとくにめだった定見は有してい なかった。第二に海防強化策について。明石藩は財政難にみま われながらも、西洋砲術や大砲導入などの面において、幕府老 中より褒詞をうける程度の対応はとっていた。このことは、慶 憲 の 対 外 政 策 の 上 書 に あ っ た よ う な、 「 只 々 御 下 知 ニ 随 ひ 忠 節 を相励」む、という意向のあらわれと考えてよいのではなかろ うか。明石藩は政治的な能動性には欠けていたが、幕府の政策 実行過程への協調性は有していたといえよう。

 

奉勅攘夷政策への随従と逡巡

(一)文久期摂海防禦策への明石藩の積極的対応   くりかえすように、明石藩は摂海防禦の要地中の要地であっ た。 し た が っ て、 一 八 六 三 ( 文 久 三 ) 年 三 月、 将 軍 が 二 五 〇 年 ぶりに上洛・参内したのをきっかけに、朝廷の勅命を奉じて幕 府・ 諸 藩 が 攘 夷 を 実 行 す る と い う 政 治 体 制 ( い わ ゆ る 奉 勅 攘 夷 体 制 )(( ( ) が 成 立 す る と、 明 石 藩 は 否 応 な し に こ の「 奉 勅 攘 夷 」 へ の対応をせまられることになった。以下その事実経過を確認し ていく。   摂 海 防 禦 政 策 の 一 環 と し て の 明 石 海 峡 防 備 再 強 化 の き ざ し は、 す で に 一 八 六 二 ( 文 久 二 ) 年 中 に あ っ た。 同 年 閏 八 月 八 日 以来軍艦奉行並の職にあった勝海舟の日記には、一二月二六日 から二八日にかけて、三日連続で明石藩に関連する事項が記さ れ て い る )(( ( 。 な か で も、 二 六 日 の 記 事 に は、 「 明 石 の 老 侯 嵩 翁 君 より鴨二羽を賜わ」ったとあり、二七日には「明石藩の潮田子 来訪、時勢を談」じた、と記されている。潮田とは前述の中島 流砲術指導者潮田范三のことである。翌年の明石藩舞子台場改 築にまつわる人間関係が、ここに形成されつつあった。   ところで、同年一〇月、三条実美・姉小路公知両勅使が江戸 に下向、一二月には将軍家茂は「攘夷奉承」の意向表明を余儀 なくされた。将軍上洛が政治日程にのぼり、六三年正月には老 中小笠原長行、勘定奉行津田正路、外国奉行菊池隆吉、目付松 平信敏の四名が大坂表ほか海岸を見分することとなった。この と き、 幕 府 ( 厳 密 に は 大 坂 町 奉 行 カ ) は 明 石 藩 に た い し、 領 分 海岸の砲台絵図 ・ 備え付けの大小砲員数 ・ 玉目につき「巨細ニ」 したため、 「且御領分之内御警衛ニ付、 見込主意も有之候ハヽ」 、 こ れ も「 無 腹 蔵 書 面 ニ 認 」 め て 上 記 四 名 へ 提 出 す る よ う 達 書 を 下 し た )(( ( 。 さ ら に 二 月 一 九 日、 明 石 藩 京 都 留 守 居 奥 平 又 内 ( 高 二 〇 〇 石 ) は、 武 家 伝 奏 衆 の 雑 掌 よ り、 近 日 機 嫌 伺 の た め 入 京 する藩主にたいして、 朝廷より「御在所海岸御固場防禦御備向」 に つ き 尋 問 す る 可 能 性 が あ る こ と を「 極 内 々」 に 伝 え ら れ た。 こ の 情 報 は 奥 平 に よ り 飛 脚 で 国 元 へ 伝 え ら れ、 「 海 岸 御 備 向 絵

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図面、御銃配等之袋入壱通リ取調、心得迄ニ急速御廻置」くよ う連絡がなされ た )(( ( 。この飛脚は翌二〇日に明石へ到来、翌二一 日 に は 潮 田 范 三・ 家 老 織 田 安 芸 ( 高 六 七 〇 石 ) よ り 要 求 の 品 が 大坂表へ発送され た )(( ( 。   しかしながら、このとき明石藩は全一二ヵ所の台場の「御銃 配」に不十分さを残していたようである。三月一〇日、隠居の 松 平 斉 韶 は 家 老 の 黒 田 半 平 ( 高 六 五 〇 石 ) ・ 丹 羽 安 房 ( 高 七 〇 〇 石 ) ・ 織 田 安 芸 を 召 し 出 し、 つ ぎ の よ う に 台 場 の 機 能 強 化 の 指 示を出したという。 今 日 出 刻 前 ( 平 出 ) 大 殿 様 ( 斉 韶 ) 被 為   召 候 段 御 近 習 頭 ゟ 申 来、 五 半 時 ゟ 罷 出 候 処、 則 被 為   召 先 達 而 安 房 殿 ( 勝 安 房〈 麟 太 郎・ 海 舟 〉 の こ と ヵ) 江 被   仰 出 候 海 岸 御 台 場 へ 御 大 砲 差 出 候 義、 熟 々 ( 平 出 ) 御 考 被 遊 候 処、 此 度 早 御 暇 之御趣意も有之、且 此節隠密抔も相廻候程も難斗、紀淡之 向ニ者夫々台場へ大砲居有之趣ニ   御聴被遊候ニ付 (平出) 此方様ニも台場ニ一挺も御筒之無之旨申義如何ニ付被   思 召候間、何卒人気ニ障リ不申様、台場毎ニ壱挺ツヽ差出候 之様取斗いたし候様被 (平出) 仰出候 間、 則半平殿 ・ 安房殿 ・ 安芸殿御一統江申断候   そして、つぎのような措置がとられるはこびとなった。 御尤至極之被   仰出候ニ付、御差出ニ相成候様可致、人気 合之処も持運、才領付添之者相心得居、 若疑惑之者も有之 0 0 0 0 0 0 0 0 候 ハ ヽ 0 0 0 、 此 度 早 御 暇 之 御 趣 意 も 有 之 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ( 平 出 ) 公 辺 江 被 対 被 0 0 0 0 0 0 差出候義ニ而 0 0 0 0 0 0 、 彼是騒立候訳ニ而者無之旨申諭し候様いた 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 し 可 然 0 0 0 〔 と の「 御 評 議 」 が 黒 田・ 丹 羽・ 織 田 の あ い だ で あ り 〕 ( 中 略 ) 其 段 を 以 ( 平 出 ) 両 殿 様 江 相 達   御 聴 候、 則 今 日 昼 後於講武所、郡代并御目付且砲術師範家へ安芸殿ゟ御達ニ 相 成、 右 〔 砲 術 の 〕 四 流 一 時 与 申 候 而 者 人 足 も 夥 敷、 入 用 ニ相成候間、一流一日ツヽ与申様ニ申合候様相達、且又雨 天ニ而者不便理ニ付、天気次第与申 達 )(( (   端的にいえば、この史料は既存の領内砲台に大砲を配備する 措置がとられる過程を示している。右の史料につき注意したい のは、明石藩の海防政策の形成・実行にかかわる重要なポイン トをここから見出せることである。第一に、 大砲配備計画は 「大 殿様」斉韶の発案によっていた。その背景として、和歌山藩で は台場への大砲配備がすでに整っているが、明石藩は不備であ り、それを幕府の「隠密」が察知するかもしれない、などとい う 斉 韶 自 身 の 憂 慮 が あ っ た ( 傍 線 部 ) 。 そ し て、 「 台 場 毎 ニ 壱 挺 ツヽ」大砲を配備するという斉韶の意思は、家老から郡代・目 付・砲術師範家へと達せられていった。   第 二 の ポ イ ン ト は、 今 回 の 海 防 強 化 策 は、 あ く ま で「 公 辺 」 の 政 策 の 一 環 と し て す す め ら れ る と い う 了 解 が 藩 の 上 層 部 に よってもたれていること、 ならんで、 政策実行による無用の「騒 立」の可能性が予測され、またそれへの懸念が示されているこ

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と で あ る ( 傍 点 部 ) 。「 早 御 暇 」 と は、 藩 主 慶 憲 が 二 月 二 一 日 に 機嫌伺のため入京 し )(( ( 、同月二九日にさっそく出京し た )(( ( ことをさ し て い る。 こ の「 御 暇 」 が 短 期 間 で あ っ た 理 由 は、 お そ ら く、 明石藩には藩領沿岸部の防禦強化に専念させようと幕府側が配 慮したことによると思われる。すなわちそれが 「早御暇之趣意」 の意味するところであろう。   右の第二のポイントについて敷衍すると、明石藩上層部の政 策指向は、幕府を中心とした海防強化策の実行には協力を惜し まないが、されど拙速なかたちで攘夷実行に着手することは避 けたい、 というものだったのではなかろうか。一例をあげよう。 一八六二年八月の生麦事件以後、英日間の軍事的緊張が高まる な か、 六 三 年 二 月 二 九 日、 在 京 中 の 明 石 藩 家 来 天 野 清 之 助 ( 高 七 〇 石、 格 席 は 独 礼、 役 職 は 不 明 ) は 京 都 所 司 代 に た い し て「 英 国弥御手切ニ相成打払之義者、又々御差図候哉、併時宜ニ寄英 船与見留次第、御差図不相待打払候心得ニ而宜御座候哉」との 伺を立てた。たいして所司代は付札にて「書面打払之義者、猶 相達候通有之候、其節委細ハ可申達候」と回答、これをうけて 京 都 留 守 居 の 友 部 権 六 ( 高 七 〇 石 ) は「 先 ゟ 兵 端 を 相 開 候 時 者 申迄も無之於此方も打払可申候得共、仮令数艘乗込候共先ゟ争 端を不開時者、矢張是迄之通直様御届仕候之事ニ奉存候、右辺 之心得ニ而可然哉」と国元の家老等へ書き送っ た )(( ( 。この所司代 の付札回答は、のち六三年七月に四条隆謌監察使明石下向問題 ( 後 述 ) が 発 生 し た と き、 明 石 藩 の 行 動 を 規 定 す る 効 果 を も つ こととなる。   さて、六三年四月二七日には、京都において老中水野忠精よ り留守居呼びだしのうえ、 「其方領分播州瀬戸 (明石浦のことか) 者 摂 海 之 関 門 ニ 有 之、 御 固 専 要 之 場 所 ニ 候 間、 〔 既 存 の 明 石 沿 岸 の 〕 四 ヶ 所 台 場 之 内、 淡 州 与 距 離 不 遠 地 位 ニ 今 一 層 堅 牢 之 改 築 可 致 候 」 と の 達 が 下 さ れ た )(( ( 。 く わ え て こ の 達 に よ る と、 「 別 段 之 訳 」 を も っ て「 此 度 限 金 壱 万 両 」 の「 拝 借 」 が 認 め ら れ た。 さらに同日、家老の丹羽安房と尾﨑六兵衛 (高五八〇石) より、 さっそく潮田范三を「御砲台御改築御用」に任命する旨、達が 下され た )(( ( 。こうして舞子台場の改築が本格化しはじめた。   明石藩では、台場改築にかんする指示については、勝海舟よ り仰ぐことが、早くから決定事項となっていたようである。五 月三日、勝は「明石より賜物」を受けとっており、潮田范三と も接 触 )(( ( 、翌四日には「明石舞子の浜へ出帆」し、上陸後その地 で「砲発」を見学してい る )(( ( 。しかる動きが先行していたのにく わ え、 五 月 七 日、 家 来 の 大 畠 治 左 衛 門 ( 高 二 〇 〇 石 ) を 介 し て 老 中 板 倉 勝 静 へ「 早 々 〔 舞 子 砲 台 を 〕 改 築 仕 度 候 ニ 付 而 者、 万 端御差図之儀、勝麟太郎様も御頼被申度、就而者御用透之節在 所表江御越、場所御見分万事御差図被下候様被致度」との願書 が提出された。これにたいしては、付札によって許可の旨、回 答がなされ た )(( ( 。

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  同月一〇日には、神戸海軍操練所の「塾頭」こと御軍艦二等 出役佐藤與之助 (庄内藩士) らが舞子を皮切りに、 大蔵谷台場、 西波戸台場へと来訪し、測量作業を実施し た )(( ( 。ちなみにこの五 月 一 〇 日 は 将 軍 が 天 皇 に 約 束 し た 攘 夷 決 行 期 日 と 同 日 で あ る。 舞 子 台 場 改 築 に 関 連 し た 勝 の 明 石 初 来 訪 は、 五 月 晦 日 の こ と )(( ( 。 「御軍艦支配」 、すなわち勝が支配下においている坂本龍馬ら七 名を御供の者として同伴しての来訪であっ た )(( ( 。その後、勝は舞 子台場の「図面雛形」を早急に作製し、これを明石藩に手交す るという役割をおわされた。作製過程において、藩側は大畠治 部左衛門を介し、完成期日を佐藤與之助に問いただすという一 幕もあったが (六月一八 日 )(( ( ) 、 六月二三日ごろ無事完成、 二五日 に佐藤は土佐藩出身坂本龍馬 ・ 高松五郎同伴のうえ舞子を訪れ、 「絵図面雛形」を提出、挨拶金として五百疋をうけとっ た )(( ( 。   このように、明石藩の海峡防禦強化策は勝らとのパートナー 関係を基礎として進められた。その後も同年九月三日には、勝 のもとへ「潮田生来訪、従太守様 ・ 老侯以思召御反物料 ・ 御肴 ・ 御 袴 料 」 が 贈 与 さ れ る と と も に、 「 貴 兄 方 ( 潮 田 ) 拙 門 江 御 入 御座候而、 砲術御世話等御座候段、 殊ニ潮田生より」依頼があっ た。これにたいし勝は「承知仕候」との返事を、翌四日、明石 藩家老・組頭へあててい る )(( ( 。   砲台改築とならんで、同時期に始動したのが、藩内における 西 洋 流 砲 術 稽 古 の 本 格 的 実 施 で あ る。 関 連 す る 史 料 の 初 出 は、 文久三年七月四日付の藩の日記にみえる。ここには「左之面々 此 度 御 領 分 在 中 様 師 共 西 洋 流 へ 入 門 被   仰 付、 二 ・ 七 之 日 松 井 軍三江罷越候」とあり、稽古をうけるべき「様 師 )(( ( 」の面々とし て 粕 谷 英 之 助 ( 独 礼・ 高 一 三 〇 石 ) ほ か 七 名 の 氏 名 が 列 記 さ れ てい る )(( ( 。また、同じく藩の日記の七月八日条にはつぎのような 記事がある。 一此度松井軍三江入門被   仰付候在中様師共江、焼印木札 百四枚相渡候而、此札持参ニ而徘徊いたし候者共者、向 後六ヶ所御門も無滞相通可申、下目付共も其心得ニ可罷 在、御持筒組之者も見咎鉄炮等預り候ニハ不及候段相達 候 様、 組 頭 月 番 へ 相 達、 尤 印 鑑 札 夫 々 一 枚 ツ ヽ 相 渡 置、 且様師共へ之札者相認、郡代林新三郎へ相達 一右何レ茂御受申出 ル )(( (   西 洋 流 砲 術 師 範 松 井 軍 三 ( 高 七 〇 石 ) へ 入 門 し た「 様 師 」 一 統 へ、 城 下 へ の 通 行 手 形 ( 焼 印 木 札 ) が 手 渡 さ れ た と あ る。 そ れにしても焼印木札一〇四枚とは、先ほどみた「様師」七名分 ではすまない枚数である。また、ほぼ同時期に「新撰組」と称 す る 明 石 藩 の 農 兵 組 織 )(( ( が 結 成 さ れ た。 「 新 撰 組 御 用 日 記 」 と い う史料によれば、 新撰組之義者、元ハ文久三亥六月ニ御上様より思召ヲ以被 為   仰出候ニ者、西洋流松井軍三様江入門いたし、稽古ニ 罷出候様被為仰付、奉畏、月ニ弐度宛炮術之稽古ニ罷出 候 )(( (

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とある。この新撰組も松井軍三に西洋流砲術の訓練をうけるこ ととされた。   以 上 の よ う に、 文 久 二 年 暮 れ か ら 文 久 三 年 前 半 期 に か け て、 明石藩は幕府主導の摂海防禦政策、ないし「奉勅攘夷」政策に たいして、砲台の改築や、一〇〇名超規模での西洋流銃隊訓練 の実施によってこたえようとした。くわえてここでは、如上の 改革的軍事政策の決定過程において、隠居斉韶の意思が重要な 位置を占めていたこと、またその実行過程において、老中や軍 艦奉行並勝海舟など、幕府の軍事改革の中枢的人物とのやりと りが頻繁に交わされていたことにも、注意しておきたい。 (二)即今攘夷論勢力への消極的対応   ただし、奉勅攘夷体制下における明石藩のスタンスは、あく までその政策の行政的下請けに徹するという限りのものだった のであり、その政策形成 ・ 決定過程自体に主体的に参画したり、 あるいは急進的な攘夷運動に没入していったりするようなもの ではなかった。かかるスタンスをとる明石藩にとって、つぎの のべる出来事は、まさに難題というべきものであったと考えら れる。   第一に、 一八六三 (文久三) 年八月、 明石海峡を通航中であっ た長州藩船丙辰丸を異国船と勘違いして誤射するという事件が 発 生 し た。 こ と の 詳 細 に つ い て は『 明 石 名 勝 古 事 談 』 に 譲 る が )(( ( 、京都留守居友部権六 (高七〇石) の届 書 )(( ( (厳密な宛先は不明) によれば、この長州船が「異国形」であったこと、また明石藩 に先んじて淡州より「数十発砲撃」があったことが誤射の原因 とされている。二貫目玉七百目三発が放たれ、一発が丙辰丸に 命 中 し た と い う が、 じ つ は こ れ が 舞 子 台 場 の 初 仕 事 で あ っ た。 ちなみに本事件をめぐって明石藩にたいする問責や報復等はお こなわれていない。   第二の困難としては、先ほどすこしふれた、四條隆謌による 攘 夷 の 実 行 を 視 察 す る 監 察 使 ( 以 下 監 察 使、 あ る い は 四 條 監 察 使 な ど と 略 記 ) の 明 石 下 向 が あ げ ら れ る。 京 都 留 守 居 の 友 部 よ り 監察使下向の報せが国元に届いたのは文久三年七月一三 日 )(( ( 、そ の三日後には監察使下向につき織田安芸・間宮能登・尾﨑六郎 ら家老と講武所砲術家兼中老の潮田范三が「御用懸」に任じら れ た )(( ( 。 そ の 他 下 向 途 中 の 警 備 や 旅 館 の 手 配 な ど も お こ な っ た )(( ( 。 そして七月二二日、四條監察使よりつぎのような「勅書」が藩 主慶憲に下された。 播磨国明石浦者南海緊要之地ニ有之候間、 猶更厳重ニ致候、 夷艦致来候ハヽ無猶予可掃攘被 (平出) 仰出候事   これをうけて慶憲は、 勅答之趣奉謹承難有御請申上、尚攘夷尽力可仕候、此段   奏聞被為成下候様奉願候、恐惶謹言        慶憲

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との請書を差し出し た )(( ( 。これにつづいて家老七名、中老五名か らも「猶更兵備厳重ニ 社 (仕ヵ) 、家中一同決心掃攘尽身力可申候」と 記した請書が提出され た )(( ( 。   ところが、明石藩は八月三日付、老中板倉勝静へ左のごとき 伺書を差し出した。 去 月 廿 一 日、 為 監 察 使 四 條 侍 従 様、 兵 部 大 輔 在 所 江 御 下 向 有 之、 翌 廿 二 日 別 紙 写 之 通 ( 平 出 ) 勅 書 ( 右 に 引 用 済 み ) 御渡ニ付、無是非先御請仕候、併攘夷之儀ニ付而者、兼而 追 々 御 達 有 之、 奉 畏 罷 在 候 義 ニ 候 江 共、 ( 平 出 ) 勅 詔 之 義 難止次第ニ付、時宜ニ寄打払候様相成候程も難計、左候而 者 兼 而 之 被   仰 出 ( 五 四 頁 で 言 及 し た 所 司 代 の 付 札 回 答 を 指 す ) ニ 相 背 候 儀 当 惑 心 痛 仕 候 間、 心 得 可 申 哉、 急 速 御 差 図 被 成 下 度、 ( 平 出 ) 御 内 慮 奉 伺 候 様 兵 部 大 輔 申 付 越 候、 此 段申上候、以上         松平兵部大輔家来            伊藤雄右衛 門 )(( (      重ねて八月一七日には、老中井上正直にたいし、右の引用と ほ と ん ど 同 じ 文 言 に つ づ け て「 〔 攘 夷 実 行 に つ い て は 幕 府 な ど よ り し か る べ き 〕 御 沙 汰 御 座 候 迄 者、 是 迄 之 通 相 心 得、 麁 忽 之 儀 無之様、内々家来之者江厳重申付置」いた、との申告がなされ た )(( ( 。つまり明石藩は、幕府にたいしては、攘夷即行路線にはあ くまで慎重な立場であることを内々に伝えていたのである。ち なみにこの四條監察使からの「勅書」は、八月一八日の政変を 経たのちの一〇月一一日、武家伝奏野宮定功より返却が求めら れ、同一六日京都留守居友部より返上、さらに同月一八日には 慶憲の請書も返上され た )(( ( 。   こうした経緯をみても、明石藩は、天皇─将軍─諸侯の直線 的な指揮系統から外れた攘夷即行の動きにたいして、それと対 抗関係に陥らないよう注意を払いつつも、藩としてそれに没入 してしまわぬよう、慎重な態度を保っていたのであった。

 

長州再征に積極的に応えられない明石藩

  一 八 六 三 ( 文 久 三 ) 年 八 月 一 八 日 の 政 変 後、 明 石 藩 に 課 せ ら れた兵員の出動は、京地の守衛と兵庫の警衛であった。京地の 守 衛 に つ い て は、 一 八 六 四 ( 元 治 元 ) 年 五 月 九 日 に 御 所 九 門 外 警衛を拝 命 )(( ( 、兵庫の警衛は同年七月二三日、第一次長州征討の 朝 命 が 禁 裏 守 衛 総 督 徳 川 慶 喜 に 下 っ た こ と に と も な い 拝 命 し た。 明 石 藩 は こ の 兵 庫 警 衛 を 薩 摩 藩 と と も に 担 当 し た )(( ( 。 さ ら に 一 八 六 五 ( 慶 応 元 ) 年 六 月 に も 大 坂 近 在 の 警 戒 の た め「 湊 川 両 (西ヵ) 角 ゟ 兵 庫 続 キ 摂 播 泥 川 迄 」 の 警 固 を あ ら た め て 命 じ ら れ て い る )(( ( 。ところが、このすぐのちの七月二六日、大坂にて老中松 前崇広より兵庫出張中の明石藩へ「人数引上ヶ、関門并勤番所 等 式 部 大 輔 ( 越 後 高 田 藩 榊 原 家 ) 江 引 渡 可 申 」、 と の 下 命 が あ っ

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た )(( ( 。「 尤 」、 松 前 が い う に は、 「 海 岸 御 警 衛 向 之 義 者 是 迄 之 通 相 心 得、 領 内 別 而 厳 重 可 被 取 計 候 」 と の 注 意 も 添 え ら れ て い た。 当該期の在坂幕閣の権力状況は相当に複雑であったが、慶応元 年七月下旬段階における大坂の幕議は松前と阿部正外の両老中 が掌握していた模様であ る )(( ( 。この見解にしたがうと、在坂老中 の意図は、明石藩を藩領沿岸部を中心とした明石海峡の警備に 専念させようとするものであったと考えられる。   だが、 異国船対策としての 0 0 0 0 0 0 0 0 0 海峡防禦は、同年一〇月に通商条 約が勅許されたことにより、急速にその重要性が減ぜられるこ とになる。なぜならこれは、朝廷・幕府ともに一切の攘夷政策 を放擲することを意味するからである。そうなると、明石藩が 幕府権力によって期待される軍事的な意義は、長州再征におけ るそれにしぼられることになる。   長 州 再 征 の 戦 闘 開 始 は 一 八 六 六 ( 慶 応 二 ) 年 六 月 の こ と で あ るが、明石藩にたいしては、その前月の五月二四日、大坂表に て、 老中稲葉正邦より、 来る六月五日から出撃するよう達があっ た。 こ れ を う け て 明 石 藩 で は、 家 中 一 統 へ、 行 軍 時 の 諸 規 則 (「 当 家 下 知 状 )(( ( 」) が 五 月 付 で 発 せ ら れ、 同 月 二 八 日 に は 藩 主 慶 憲 率いる藩兵が順次芸州表へむけて出馬を開始し た )(( ( 。しかしなが ら、 続 け て 慶 憲 自 身 も 出 馬 す べ き と こ ろ、 「 兼 而 持 病 之 痔 疾 相 発」したため、 「家老尾﨑六郎江陣代申付置」くこととなっ た )(( ( 。 だが七月に入っても慶憲は回復をみない。この間の経緯につい て、 『明石名勝古事談』によれば、 「明石藩にて長州征伐に出兵 を 願 ふ 者 家 老 中 一 人 も 無 」 か っ た が、 「 此 時 家 老 尾 﨑 六 郎 一 人 意を決し幕府へ向けて従軍出兵を出願」した、 とされ る )(( ( 。ただ、 この件については、関連する一次史料がほかにないので、これ 以上は検討しかねる。   慶憲の出馬が遅延する間に、幕府方は石州・小倉表の戦闘で 劣勢に立たされた。そして八月一四日、在坂中の征長先鋒総督 徳川茂承より善後策を諮問されたさい、明石藩は松平兵部大輔 名義で、つぎのような回答を提出した。 御討長之儀、当今不容易形勢ニ切迫仕、猶又厚被為在御配 慮候ニ付、 御進退二道之儀御懇切御尋訊被仰下、 奉恐入候、 何分御指揮ニ随ひ、乍微勢尽力仕候心得ニ罷在候処、已ニ 石州并小倉表之次第を粗伝承仕候ニ就而者、実ニ御一大事 之場合与奉存候ニ付、乍恐過日御家老衆迄奉申上候通、何 分 是 迄 之 御 振 合 ニ 而 も 御 条 理 相 立 兼、 無 謀 如 何 与 奉 存 候、 長防二州御討滅之御良策被為立候迄、暫御当藩江御委任ニ 相成、兼而御討手被   仰付居候四道之諸侯御一同、上坂被   仰出、 篤御軍議之上四境一時御討入 相成候様之御下知可 然哉与奉存候間、此段不忌憚言上仕候、以上     八月         松平兵部大 輔 )(( (   なおこのときの諮問は、彦根・越後高田・龍野の各藩主にた いしてもおこなわれており、いずれも無謀の攻勢をかけるのは

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否、との回答を出した。具体的な経過は不明であるが、回答提 出以前に四藩で意見調整がなされたとみられる。明石藩主の意 向は、四境攻撃に参加する諸藩の大名でいったん上坂し、皆で 軍議をしたうえ再度四境へ討ち入りする、 というものであった。 ともかくも、いったん軍勢を退くという意見であり、九月一日 には芸州表出張の明石藩兵は「御人減」として順次国元への帰 路につき、同月八日最初の一陣が帰 着 )(( ( 、翌九日には若菜善右衛 門 ( 高 一 三 〇 石 ) ら 者 頭 の 引 き 連 れ た 手 組 の 面 々 も 続 々 と 帰 着 し た )(( ( 。   では、この藩兵の「御人減」=引き上げは、今後の「四境一 時討入」 に備えた積極的な意味をもつものだったのであろうか。 否、藩内の状況に鑑みたとき、それは消極的動機によるものと 思われる。   その徴証として、つぎの史料をあげることができる。 兵部大輔領分去ル十五日・六日、稀成洪水ニ而、則不取敢 御届申上候通、家中在町共家蔵田畑流失破損夥敷、兼々不 如意之勝手向、是迄迚も当所永々屯在罷在候而者、仕送方 行届申間敷、彼是心配仕候処、前条存外之水害、郭外数ヶ 所之用米蔵悉浸入致、海防用意之品之増送方礑与差支、且 難 捨 置 窮 民 之 指 向 仮 成 ニ 手 当 仕 候 得 共、 自 然 夫 役 難 申 付、 令収納之時ニ至、凡損耗之義皆無ニも可及歟、将時節柄故 融通等も更ニ行届不申、実ニ内外及切迫如何共致し方無御 座、何れも失方角、此姿ニ而者領内之民多餓死可申哉与通 哀刻苦罷在候、 当今不顧御時勢奉申上候段、 奉恐入候得共、 当出張之人数暫時引揚、器械・弾薬・粮米等仕送方仮成相 整 候 者、 猶 出 張 可 仕 候、 御 憐 評 之 上 急 速 引 揚 被 ( 平 出 ) 仰 付被下候様、前条禍害之事情深   御慈察被成下、願之通被   仰 付 被 下 置 候 得 者、 難 有 仕 合 奉 存 候、 此 段 奉 歎 願 候 様、 兵部大輔申付越候、以上    八月廿七日        松平兵部大輔家来        杉   村   勇   蔵 )(( (   この明石藩の伺書にたいして、幕府は人数引き上げを許可し た。許可理由は、明石藩の願の内容が「無余義」ことであった こともしかりだが、それ以上に、すでに将軍家茂の大坂城での 死 去 に と も な い、 「 従 御 所 兵 事 暫 時 見 合 之 御 沙 汰 )(( ( 」 が 発 せ ら れ ていたことにもよる。   ところで、一八六五年から六六年にかけて領内で発生した水 害は、かねての海防と征長への兵力動員とならんで、藩財政を 窮迫させることとなった。六六年一二月には、 翌六七 (慶応三) 年からむこう五ヶ年間、二〇〇石以上の家臣は半知、二〇〇石 以下給金取までの家臣ならびに江戸 ・ 京都 ・ 大坂定詰の面々は、 歩掛をもって上米が仰せ付けられることになっ た )(( ( 。また六七年 三月一六日には、幕命によって明石藩領内に備蓄された囲米の うち、 寛政元年分一五〇〇石、 および天保一二年分二〇〇〇石、

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合計三五〇〇石の「拝借」が幕府へ願い出され た )(( ( 。その理由は 第一に、 「長防 (平出) 御征伐ニ付、 去五月中俄兵部大輔討手被 (平 出 ) 仰 付、 急 速 人 数 出 張 為 致 候 処、 長 々 在 陣 戦 争 度 々 之 失 費 も 不 容 易 」 も の で あ っ た こ と、 第 二 に、 「 殊 近 年 京 地 并 兵 庫 等 御 警 衛 御 急 務 多 分 之 入 用 而 巳 打 続 」 い た こ と、 第 三 に、 「 去 々 丑 年閏五月中領分大雨ニ而出水」によって「破損之場所早々普請 等申付」 られ、 「夫々修補手当申付、 彼是入費も不少」 ものであっ たこと、以上とされた。ちなみにこの願書によれば、水害によ る領内全体での損毛はおおよそ 「三万弐千九百三拾石余」 であっ たとい う )(( ( 。   以上のように、慢性的な財政難と大災害は、慶応期の国家的 軍役に、畿内親藩ですら対応困難にならしめていた。その意味 で、明石藩による征長人数帰還の願出、および「御人減」の実 行は、 征長をめぐる 〈戦時体制〉 からの離脱といえるものであっ た。

 

王政復古・戊辰戦争への対応

(一)慶応三年の明石藩   この年の幕府政策との関連で注目すべきことは、 一八六七 (慶 応 三 ) 年 六 月 に お け る 西 洋 式 銃 隊 軍 制 の 導 入 で あ る。 保 谷 徹 氏 によれば、幕府による西洋式軍制の全国諸藩への拡大策は結果 として挫折におわってお り )(( ( 、六七年八月以降は幕府が採用して いたフランス式軍制を金沢藩や和歌山藩などに広めようとして い た )(( ( とされる。これらの動きと、明石藩の西洋式銃隊軍制への 改編は、時期的にほとんど重なっており、兵制もまたフランス 式 )(( ( であった。   改編当初の動向を少しだけみておくと、まず六月二七日、講 武所において織田安芸より「此度西洋銃隊御取建」のため金井 要人を歩兵奉行兼帯に、加太盛之進・加藤正平を歩兵頭取に任 命することなどが達せられた。ちなみに、西洋式砲術の被訓練 者 か ら な る 新 撰 組 は、 こ の と き の 西 洋 銃 隊 全 藩 化 に と も な い、 一挙に廃止されるはこびとなった。 松井軍三ら新撰組頭取は 「頭 取」に、柏木武平治ら新撰組小頭は「小頭」と職名をあらため られ た )(( ( 。この改編以後初の銃隊稽古は九月二日、御門固御供守 の「い」組、御番并須磨詰、御留守、夜廻り、詰御用捨御番日 見廻り、その他歩兵組とおもわれる一番右・左~三番右・左の 面々に命じられ た )(( ( 。さらに同日には、橋本七郎平以下者頭一一 名にたいし、銃隊稽古のため講武所へまかり出るよう命が下っ てい る )(( ( 。稽古の様子やその成果については詳らかにしえないが、 藩として、仏式軍制の定着へむけた動きが開始したことがうか がい知れる。   ところで、一〇月一四日に将軍慶喜より大政奉還が上表され

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たが、それから鳥羽伏見戦争開戦までの明石藩の動向はいかな るものであっただろうか。   第 一 に、 大 政 奉 還 後 の 諸 大 名 に た い す る「 朝 召 」 で あ る が、 藩 主 慶 憲 は「 脳 痛 」 と の 理 由 で 猶 予 を 願 い 出 た )(( ( 。 そ の 後 も 再 三、大目付などから速やかに出京するよう催促の沙汰が下され た が、 い ず れ も 身 体 の 不 調 を 理 由 に 延 期 が 願 い 出 さ れ た )(( ( 。 結 局、家老間宮能登を名代として出京させることが決まり、一〇 月二六~二八日にかけて間宮以下、御用人小泉益人、組頭嶋衛 守らの間宮組一行が順次明石を出立し た )(( ( 。   第二に、王政復古クーデターの直前、武力討幕派の軍勢の上 方上陸をめぐる対応について。くりかえすように、明石藩は西 国大名の監視や明石海峡の警備を本来的な任務としていた。だ が結果的に、明石藩には、薩長芸が海路上方に接近していると いう情報を老中板倉勝静、所司代松平定敬に届け出ることしか できなかった。つぎの史料をみられたい。 一老中板倉伊賀守・所司代松平越中守江差之通及届之 卯十一月廿九日午刻過、蒸気船十艘兵部大輔領分明石浦 西沖ニ相見候内、壱艘者淡州クサカ明神之岬沖辺ゟ西江 向乗戻し候、九艘者東江追々致通船候、尤見留候船印左 之通相達候 日ノ丸御印    二艘 薩州之印     同 芸州之印     同 長州之印     三艘 但此三艘者蒸気船ニ而者無之、異国形帆船ニ而、右 薩芸之蒸気ニ而漕登候 右九艘上筋江通船之内、日ノ丸御印之分壱艘明石浦舞子 沖江致繫船、無程亜米利加之印建替小舟ニ乗致上陸、掛 リ役人之者ゟ相尋候所、長崎より初而相登、磯遣不案内 ニ付、水先キ相頼候趣申聞候間、則水先案内之者両三人 差出、夫々水先相済引取申候、其余相替義も無御坐、同 晦日左ノ刻東江向致退帆候趣申越候間、 此段御届申上候、 以上         松平兵部大輔家来        友   部   権   六    十二月三日   文面をみる限り、薩長芸全九艘の動きが不穏なことには気づ いていた様子である。ところが、明石藩からはむしろ水先案内 人 を 派 遣 す る な ど し て、 そ れ ら を 上 筋 へ 通 し て し ま っ た の で あった。   そして第三として、 鳥羽伏見戦争勃発後の一八六八 (慶応四) 年正月五日、明石藩は組頭桒原龍左衛門以下の藩兵を大坂へ派 兵し た )(( ( 。幕府軍の援軍としての派遣と考えられる。しかしなが ら同月九日「大坂表引払」が決 定 )(( ( 、一〇日には須磨の陣屋詰の

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藩兵も引き払うこととなっ た )(( ( 。 (二)戊辰戦争と明石藩の「旧親藩」からの脱却   では最後に、旧親藩明石藩が新政府との親和的関係を構築し ていくさいの基礎的な事実経過についてみておきたい。   第 一 に、 新 政 府 ( 軍 ) へ の 服 属 は い か に お こ な わ れ た か。 ま ず、慶応四年正月一三日、大坂征討大将軍本陣より松平家家来 へ の 呼 び 出 し が あ り、 そ こ で 今 般 中 国・ 四 国 へ の 征 討 の た め、 四條隆謌が進発するので、明石城を本陣とする旨、達が下され た。これには翌日さっそく、松平兵部大輔名義で請書が提出さ れ た )(( ( 。中国四国追討総督四條隆謌の一軍が明石に入城したのは 同月二〇日。翌二一日に家老・中老一同より新政府への服従を しめす上書が提出さ れ )(( ( 、二五日には姫路城に進発する四條総督 にたいし、守衛人数を差出す旨の請書が提出され た )(( ( 。以上のよ う に、 明 石 藩 に よ る 新 政 府 ( 軍 ) へ の 服 属 は、 正 月 下 旬 段 階 に 確定していた。   しかるうえで、旧幕時代より担当してきた警衛業務への復帰 も果たされていく。二月一四日、家臣友部権六は、新政府弁事 役所にたいし、 「摂州須磨為御警衛同所陣屋江近来差出置候処、 当早春引揚申候得共、是迄之通人数差出置可申哉」との伺を立 て た )(( ( 。これをうけて、三月二一日の親征行幸決行にむけて、明 石藩は京都丹波口および「国元台場之義者摂海咽喉」ゆえ、同 所の守衛が命じられることになっ た )(( ( 。これへの 「明石中将」 (慶 憲) 名義の請書は二月二三日に提出され た )(( ( 。   第 二 に、 松 平 家 と 天 皇 と の 直 接 的 な 結 合 関 係 の 構 築 が あ る。 ただ、六八年二月一二日段階で、松平慶憲は「累年之病脳」に より上京困難な状態にあった。そこで名代として江戸に在った 松平薫次郎を急きょ呼び寄せ、彼をもって「朝敵御追討御用之 端を茂為相勤」る旨が、新政府参与役所に提出され た )(( ( 。薫次郎 は 三 月 二 五 日 に 入 京、 そ こ で さ っ そ く 天 機 参 内 が 計 画 さ れ た。 このとき慶憲が気がかりであったのは、薫次郎が「未叙爵も不 仕」 、はたして「参内之義如何」なのか、ということであった。 こ の こ と を 友 部 権 六 よ り 弁 事 伝 達 所 へ 伺 っ た と こ ろ、 「 薫 次 郎 天機窺として参朝不苦事」という回答がえられ た )(( ( 。結果、薫次 郎のはじめての参内は四月三日におこなわれ、これにより馬廻 以 上 の 家 臣 は 慶 憲・ 薫 次 郎 (「 両 殿 様 」) へ、 ま た 独 礼 以 上 は 右 の 二 人 に く わ え て 斉 韶 (「 大 殿 様 」) へ「 御 歓 可 申 上 」 こ と が 達 せられ た )((( ( 。またさらに、同月二三日、薫次郎は孝明天皇の山陵 への参拝を希望する旨弁事役所へ伺を立てており、これについ ても「参拝之儀勝手次第不苦候事」との回答をえている。そし て閏四月一〇日、薫次郎はふたたび参内、ここではじめて天皇 との直接対面が叶ったのである。このとき、薫次郎は来る二〇 日に京都太政官代において従四位上侍従兼左兵衛督に宣下され る こ と が 決 ま っ た ( 以 下 薫 次 郎 の こ と は 直 致 と 呼 称 す る )((( ( ) 。 宣 下

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が 済 む と )((( ( 、 ま も な く し て 直 致 は、 「 今 般 被   仰 出 候 厚 御 仁 恵 之 御 趣 意、 難 有 奉 高 載、 一 ト 先 在 所 之 御 暇 奉 願 度 此 段 奉 伺 願 候 」 と弁事役所に願い出た。これにたいしては、願のとおりとする が「 御 定 之 兵 隊 可 残 置 事 」、 と い う 回 答 が あ っ た )((( ( 。 こ の 弁 事 役 所の指示にしたがって、明石藩では、京都丹波口の警衛人数と し て、 銃 隊 一 一 〇 人 ( う ち 役 付 一 五 人 ) を「 差 残 置 」 く こ と が、 軍務官へ届け出され た )((( ( 。   このように、明石藩松平家では、直致の上京以降、急速に天 皇権力との直接結合が実現していった。そのプロセスには、自 発的に孝明天皇山陵への参拝を願い出るなど、パフォーマンス 的なふるまいもふくまれていた。くわえて注意しておきたいの だが、 六八年前半期の段階で斉韶の体調は大幅に悪化しており、 最悪の事態は十分に想定しえるところまで来ていたと考えられ る。それゆえ、斉韶・慶憲の「両殿様」体制の穴を埋めるあら たな「若殿様」直致に、参内と叙爵を急きょ完了させ、その権 威づけがはかられたのではなかろうか。実際、直致の叙爵から 約三か月あまりのちの九月八日に斉韶は死去した。同日、目付 より家中一統へ、あらたな「両殿様へ為伺御機嫌」登城するよ う触が出され た )((( ( 。   最後に第三として、越後口への藩兵出兵の件について触れて おきたい。仁和寺宮嘉彰親王の越後出兵につき、軍務官より明 石 藩 兵 の 随 従 が 命 じ ら れ た の は、 六 月 一 七 日 の こ と で あ っ た )((( ( 。 この越後派兵には、これまで丹波口の守衛を担当してきた藩兵 が 転 用 さ れ る こ と と な り )((( ( 、 六 月 二 〇 日 に は そ の 人 数 ( 兵 隊 五 三 人、 兵 夫 二 六 人 ) が 軍 務 官 に 申 告 さ れ た )((( ( 。 だ が 同 時 に、 藩 兵 の 派兵は越後口を限界とし、 さらに先、 会津への派兵については、 以前より新政府から 「兼而少人数之処、 海岸防禦厳重可仕旨精々 御 達 」 が あ っ た こ と を 口 実 と し て、 「 出 立 之 義 御 宥 免 被 下 置 候 様」願い出された。ただし、その代わりに、軍資金二万両を献 上することになっ た )((( ( 。つまり、明石藩は海峡防禦という本来の 役割を盾に、遠路・長期の派兵の免除を願い出たのである。た だ、それにしても派兵免除の代償は二万両であるから、財政難 の藩には身に堪える出費であったに相違ない。けだし、明石藩 には、幕末以来自藩がはたしてきた役割に専念しつつ、国家レ ベルでの貢献をなしたいという指向性が存在していたのではな かろうか。   ちなみに、潮田范三の嗣子覚衛を隊長とした越後表への出兵 人数は、 一八六八 (明治元) 年一一月一一日、 明石に 「凱陣」 した。 同日「若殿様」より潮田らへ酒肴がふるまわれてい る )((( ( 。

おわりに

  明石藩は摂海防禦の要地であり、ペリー来航以降はその国家 的軍事的役割の貫徹が幕府権力より直接的に期待される立場に

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あった。とりわけ、文久 ・ 元治期の奉勅攘夷体制下においては、 幕閣や勝海舟ら幕府の軍備強化政策の担い手と主体的に交流を もち、 同体制確立の基底的部分を占める役割を果たそうとした。 他 方、 藩 主 に は 外 交・ 軍 事 政 策 に つ い て 独 自 の 政 策 論 は な く、 また攘夷政策についても、即時決行的な潮流を相対視し、可能 な限り距離をとるようつとめていた。いまのところ藩内で「尊 攘派」的な有志集団が形成された形跡は見当たらず、当該期諸 藩で起こったとされる保守 (佐幕、 上士中心) 対革新 (尊王攘夷、 下 士 中 心 ) と い っ た 藩 論 の 分 裂 も、 明 石 藩 に お い て は 史 料 的 に 確認できない。このあたりは、同じ畿内近国の「徳川方」の藩 である姫路や彦根などとは異なっている。明石藩は奉勅攘夷政 策、摂海防禦政策の要地であり、それらの政策の 行政的な 0 0 0 0 実行 過程には協力的に動いたが、政治的能動性には乏しかったので ある。   こうした明石藩も、第二次征長時は、かねてからの幕府軍役 と海岸防禦、これらに水害が重なったことにより、畿内近国の 親藩としてなすべき征長への貢献が十全に果たしきれなくなっ て い た。 そ の た め、 軍 勢 の 引 揚 げ ( 軍 事 的 負 担 の 軽 減 ) が 藩 主 の名においておこなわれることとなった。京坂の朝幕権力が課 する征長をめぐる〈戦時体制〉から、明石藩は自ら離脱したの である。   鳥羽伏見戦争後は、となりの姫路藩においてみられたような 激しい藩論分裂はなく、一月下旬段階で早々に新政府への服属 が 決 せ ら れ た。 松 平 直 致 の 叙 爵 も 閏 四 月 段 階 で 実 現 し て お り、 徳川将軍家との臣従関係からの離脱、および天皇権力との君臣 関係の再構築は総じて波乱なく済まされた。他方、新政府にた いしては幕末以来の摂海防禦に専念するという意向をしめしつ つも、 戊辰戦争への派兵の長期化は拒む、 という側面もあった。   以上のように、明石藩ないしその藩内の人物は、幕末維新期 の幕藩政治史のなかで、割拠志向や権力志向をあらわにするこ とはなかった。個別領主として担いうる最小限度の国家的役割 を 藩 と し て、 幕 府・ 新 政 府 の 政 策 的 諸 段 階 に 応 じ て、 果 た し て き た の で あ っ た ( そ う し た 意 味 で 第 二 次 征 長 は、 や は り「 限 度 」 を超えるものであった) 。 同じ畿内 ・ 近国藩、 また譜代 ・ 親藩であっ てもなぜこのような違いが生じるのか。このことを明らかにす るには、 「両殿様」 、家老、御用人クラスにおける意思決定構造 や、藩内の学問的文化的特性などをさらに分析していく必要が あるだろう。今後の課題としたい。 註 (1)   宮地正人 「明治維新の論じ方」 (駒澤大学大学院史学会 『史学論集』 三 〇、 二 〇 〇 〇 年 )、 同「 歴 史 学 を ど う 学 ぶ か

幕 末 維 新 期 研 究 を 手 が か り に

」( 『 歴 史 科 学 』 一 六 五、 二 〇 〇 一 年 )、 同『 幕 末 維 新 変 革 史 』 上( 岩 波 書 店、 二 〇 一 二 年 )、 三 七 七 ~ 三 七 八 頁、 同『 幕 末維新変革史』下、三八~三九頁。

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(2)   久住真也『長州戦争と徳川将軍』 (岩田書院、二〇〇五年) 。 ( 3)   岩 城 卓 二「 畿 内 の 幕 末 社 会 」( 明 治 維 新 史 学 会 編『 講 座 明 治 維 新 2   幕 末 政 治 と 社 会 変 動 』 有 志 舎、 二 〇 一 一 年 )、 同「 幕 末 期 畿 内 社 会 論 の 視 点 」( 『 日 本 史 研 究 』 六 〇 三、 二 〇 一 二 年 )。 二 〇 一 二 年 一 一 月 に は、 岩 城 氏 と 同 様 の 問 題 意 識 を 有 す る 論 者 に よ っ て、 畿 内 直 轄 都 市 か ら 幕 末 維 新 期 の 社 会 を 明 ら か に し よ う と す る 特 集 が『 日 本 史 研 究 』 誌 上 で 組 ま れ る こ と と な っ た。 な か で も、 荒 武 賢 一 朗「 幕 末 期 に お け る 大 坂 の 特 質 」、 高 久 智 広「 幕 末 期 の 幕 府 の 艦 船 運 用 と 兵 庫津」 、樋爪修 「幕末期京津間の物資流通」 (すべて前掲 『日本史研究』 六 〇 三 に 収 載 ) の 諸 論 考 は い ず れ も 幕 末 政 治 史 の 社 会 的 基 礎 構 造 と いいうる部分を析出しており、興味ぶかい。 (4)   岩城卓二『近世畿内・近国支配の構造』 (柏書房、二〇〇六年) 。 (5)   小野正雄『幕藩権力解体過程の研究』 (校倉書房、一九九三年) 。 ( 6)   岸 本 覚「 安 政・ 文 久 期 の 政 治 改 革 と 諸 藩 」( 前 掲『 講 座 明 治 維 新 2   幕末政治と社会変動』に所収) 。 ( 7)   岩 城 前 掲 書、 第 二 章・ 第 六 章、 辻 野 恵 美「 幕 末 維 新 期 に お け る 畿 内 近 国 藩 の 動 向

慶 応 期 の 尼 崎 藩 を 中 心 に

」( 尼 崎 市 立 地 域 研究史料館『地域史研究』九五、 二〇〇三年) 。 ( 8)   宮 地 正 人「 幕 末 彦 根 藩 の 政 治 過 程 」( 佐 々 木 克 編『 幕 末 維 新 の 彦 根 藩』彦根市教育委員会、二〇〇〇年) 。 ( 9)   菅 良 樹「 幕 末・ 維 新 期 に お け る 畿 内 近 国 譜 代 小 藩 の 権 力 構 造

播磨国山崎藩本多家の事例」 (姫路市立城郭研究室 『城郭研究室年報』 二三、 二〇一四年) 。 ( 10)『兵庫県史』 史料編幕末維新一 (兵庫県、 一九九八年) 、三七~四〇頁。 ( 11)  橋 本 海 関『 明 石 名 勝 古 事 談 』( 中 央 印 刷 出 版、 一 九 七 四 年 複 製、 初 版一九二〇~三五年) 。 ( 12)  以 下 禄 高 は、 神 戸 大 学 人 文 学 研 究 科 所 蔵 黒 田 家 文 書「 万 延 元 年 庚 申 年 座 並 帳 」 に よ る。 ち な み に 潮 田 の 一 八 六 〇( 万 延 元 ) 年 当 時 の 禄高二〇〇石のうち一〇〇石は役料である。 ( 13)   「 明 石 藩 記 録 」 安 政 元 年 二 月 四 日( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 A N 四 ─ 三 六 九 ~ 三 七 一、 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 維 新 史 料 綱 要 デ ー タ ベ ー ス より閲覧、以下同様) 。 ( 14)   「 明 石 藩 記 録 」 安 政 元 年 九 月 一 四 日( 同 右、 A N 一 七 ─ 六 九 八 ~ 七〇一) 。 ( 15)   「 旧 明 石 藩 文 書 類 」・ 「 蛮 夷 貿 易 濫 觴 」( 『 幕 末 外 国 関 係 文 書 之 七 』 東 京大学出版会、一九七二年復刻、五七三頁) 。 ( 16)  同右、五七五頁。 ( 17)   「 老 中 達 書   所 司 代 宛 」( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 A N 二 二 ─ 四四〇) 。 ( 18)   「明石藩十二月日記」 安政二年一二月一八日 (『大日本維新史料稿本』 AN四六─九八七~九八九) 。 ( 19)   「 明 石 藩 記 録 」 安 政 五 年 七 月 三 日( 同 右、 A N 一 一 〇 ─ 八 八 五 ~ 八八七) 。 ( 20)   「 明 石 藩( 間 宮 ) 日 記 」 安 政 三 年 一 二 月 二 五 日( 同 右、 A N 六 五 ─ 九〇一~九〇四) 。 ( 21)   「 明 石 藩 主 松 平 慶 憲 上 書 」( 同 右、 A N 四 五 ─ 九 二 二 ~ 九 二 四 )。 な お、 こ の と き の 全 答 申 の 意 見 分 布 に つ い て は、 井 上 勲「 開 国 と 幕 末 の動乱」 (同編 『日本の時代史二〇   開国と幕末の動乱』 吉川弘文館、 二〇〇四年) 、一二~五頁を参照のこと。 ( 22)  前 注 21井 上 論 文 の 表 1「 嘉 永 六 年 七 月 幕 府 諮 問 に 対 す る 諸 大 名 の 意 見 分 布 」( 一 四 頁 ) に は「 対 外 方 針 」 に つ き「 答 申 不 能 」 と 答 え た大名のうち 「家門/一〇万石以上」 の欄に 「1」 が勘定されている。 こ の「 1」 ( 名 ) は お そ ら く 明 石 藩 主 松 平 慶 憲 の 答 申 を 指 し て い る と思われる。

(21)

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( 23)   「 松 平 慶 憲 上 書   老 中 宛 」( 『 幕 末 外 国 関 係 文 書 之 十 八 』 東 京 大 学 出 版会、一九七二年復刻、四六四~四六五頁) 。 ( 24)  この諮問の事実経過と諸大名の答申の分布については、 三谷博『明 治 維 新 と ナ シ ョ ナ リ ズ ム 』( 山 川 出 版 社、 一 九 九 七 年 )、 第 五 章 第 三 節を参照のこと。 ( 25)  同右。 ( 26)   「 松 平 慶 憲 上 書   老 中 宛 」( 『 幕 末 外 国 関 係 文 書 之 十 八 』、 七 七 八 ~ 七七九頁) 。 ( 27)   「 松 平 慶 憲 上 書 」 安 政 五 年 五 月 一 八 日( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 A N一〇五─二九~三一) 。 ( 28)  宮 地 正 人「 幕 末 過 渡 期 国 家 論 」( 同『 天 皇 制 の 政 治 史 的 研 究 』 校 倉 書 房、 一 九 八 一 年、 第 三 章 )、 奈 良 勝 司「 奉 勅 攘 夷 体 制 と 性 格 規 定 の 流 動 化 」( 同『 明 治 維 新 と 世 界 認 識 体 系 』 有 志 舎、 二 〇 一 〇 年、 第五章、初出二〇〇四年) 。 ( 29)  勝 部 真 長・ 松 本 三 之 介・ 大 口 勇 次 郎 編『 勝 海 舟 全 集 一 八   海 舟 日 記Ⅰ』 (勁草書房、一九七二年) 、二三頁。 ( 30)   「 明 石 藩 庁 日 記 」 文 久 三 年 正 月 二 四 日( 『 兵 庫 県 史   史 料 編 幕 末 維 新一』 、五三頁) 。 ( 31)  同 右、 文 久 三 年 二 月 二 〇 日( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 B U 八 一 ─ 三二二~三二五) 。 ( 32)  同右、文久三年二月二一日(同右、BU八一─三一五~三一八) 。 ( 33)  「 明 石 藩 日 記 」 文 久 三 年 三 月 一 〇 日( 同 右、 B U 九 四 ─ 三 八 ~ 四一) 。 ( 34)   「 明 石 藩 江 戸 日 記 」 文 久 三 年 三 月 四 日( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 B U八一─二七六~二七七) 。 ( 35)  同右、文久三年三月七日(同右、BU〇八一─二七八~二七九) 。 ( 36)   「 明 石 藩 庁 日 記 」 文 久 三 年 三 月 四 日( 同 右、 B U 八 〇 三 ─ 二 〇 〇 ~ 二〇一) 。 ( 37)   「 明 石 藩 日 記 」 文 久 三 年 四 月 二 七 日( 同 右、 B U 九 四 ─ 四 二 ~ 四三) 。 ( 38)  同右。 ( 39)  前注 29『海舟日記Ⅰ』 、文久三年五月三日。 ( 40)  同右、文久三年五月四日。 ( 41)   「 明 石 藩 日 記 」 文 久 三 年 五 月 一 一 日( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 B U 九四─五二~五四) 。 ( 42)  同右、文久三年五月一〇日(同右、BU九四─五〇~五一) 。 ( 43)  同右、文久三年五月晦日(同右、BU九四─五七~六〇) 。 ( 44)  同右、文久三年六月一日(同右、BU一〇八─九三~九四) 。 ( 45)  同右、文久三年六月一八日(同右、BU一〇八─九八~一〇〇) 。 ( 46)  同 右、 文 久 三 年 六 月 二 五 日( 同 右、 B U 一 〇 八 ─ 一 〇 九 ~ 一一一) 。 ( 47)   ( 文 久 三 年 ) 九 月 三 日 付 織 田 安 芸・ 丹 羽 隼 人・ 奥 平 又 内・ 小 泉 益 人 宛 勝 安 房 守 書 簡( 織 田 家 文 書、 『 明 石 市 史 資 料( 近 世 編 ) 第 六 集 』 明石市教育委員会、一九八五年、一三〇頁) 。 ( 48)   「 様 師 」 と い う と、 現 在 の 意 味 で は 詐 欺 師、 い か さ ま 師 と い う こ と になるが、ここでの意味はにわかに判断しかねる。 ( 49)   「 明 石 藩 日 記 」 文 久 三 年 七 月 四 日( 『 大 日 本 維 新 史 料 稿 本 』 B U 一一三─一五九~六〇) 。 ( 50)  同右、文久三年七月八日(同右、BU一一三─一六五~六) 。 ( 51)  明 石 藩 の「 新 撰 組 」 に つ い て は、 さ し あ た り 拙 稿「 幕 末 の 動 乱 と 明 石 藩 」( 明 石 市 他 編『 明 石 藩 の 世 界 Ⅰ 』〈 展 示 図 録 〉、 明 石 市 立 文 化博物館、二〇一三年)を参照されたい。 ( 52)  神戸市北区辻井家文書「新撰組御用日記」 。 ( 53)  前注 11『明石名勝古事談』 、七六~七頁。

参照

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