歴の統計観察
著者 植村 正治
雑誌名 社会科学
巻 45
号 4
ページ 127‑157
発行年 2016‑02‑29
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014377
逓信省・大蔵省・植民地統治機関における 工学士経歴の統計観察
植 村 正 治
幕末維新期以降,日本は工業化を推し進めるために,欧米先進国の様々な分野から,
様々な経路を通して近代工業技術の移転を図った。経路の 1 つが工学系高等教育機関 である。本稿では,最高学府である各地帝国大学工科大学もしくは工学部において,科 学技術の基礎教育を受け,各専門学科では専門知識や技術ばかりでなく技能までも身 につけた工学士たちを技術移転の媒介手段として位置づけた。本稿で依拠した資料は 1893 年,1901 年,1910 年,1920 年,1930 年の『学士会会員氏名録』で,これら資料 に現れた工学士は延べ人数で 18,138 人,同一人物を除くと 9,986 人に達する。彼らの 進出先を省庁,地方庁,陸海軍,教育機関,民間企業の 5 分野に区分し,本稿では,省 庁のうち逓信省,大蔵省,植民地統治機関に勤務した工学士たちの経歴動向を明らか にすることによりそれぞれの分野やそれらの下位部局に移転された工業技術がどのよ うなものであったかを検証した。また進出先に関して東京帝国大学卒業生と他の帝国 大学卒業生との間に差異があったことを付随的に指摘した。
は じ め に
前近代社会から近代社会への歴史変化を 200 年以上の長期にわたって展望すると,近 代社会における生産技術の質的変化に基づく生産性の数桁違いの飛躍に注目せざるを得 ない。日本の場合を念頭において具体事例を羅列すると,動力は人力・畜力・水力から 石炭利用の蒸気機関へ,紡績業では糸車からミュール機やリング機へ,陸上輸送では駄 馬などから鉄道へ,海上輸送では木製和船から鉄製蒸気船へ,製鉄業においてはたたら 炉から高炉へ,通信では飛脚・旗振から電信・電話・無線へ,筆者の取り扱った製糖業1)
の搾汁工程では牛馬動力を利用した木製圧搾機(のちにローラー部分のみが石製に改良)
から蒸気機関利用の鉄製圧搾機へ,さらに濃縮工程では平鍋から金属製真空多重効用缶 へ,それぞれ転換することにより生産性はそれまでとは異なる水準に達した。作業機や 動力機の金属素材となる鉱石や,熱エネルギーを生み出す石炭などの鉱物資源もしくは
地下資源がなければ,またはこれら資源を効率的に利用することができなければ工業化 は起こりえなかった。
前近代社会における生産の社会循環の中で鉱物資源への依存は限られていたが,鉱物 資源利用を解き放ったのが近代工業技術であった。近代史の立場からすると,この観点 は当然のこととされているためなのか,留意されることは少ないが,前近代社会から近 代社会への移行期を取り扱う場合2),この点を強調しなければならない。
幕末維新期以降,日本は工業化を推し進めるために,欧米先進国の様々な分野から,
様々な経路を通して近代工業技術の移転を図った。経路の 1 つが工学系高等教育機関で ある。本稿では,最高学府である帝国大学工科大学もしくは工学部において科学技術の 基礎教育を受け3),各専門学科では最新の専門知識や技術ばかりでなく技能までも身につ けた工学士たちを技術移転の媒介手段として捉え,1893 年,1901 年,1910 年,1920 年,
1930 年の『学士会会員氏名録』(以下,氏名録とする)に依拠して4),彼らがどのような 分野に進出し活躍したかを検討する。
これらの氏名録に現れた大学は,東京帝国大学(その前身の東京大学,工部大学校,帝 国大学を含む),京都帝国大学,東北帝国大学,九州帝国大学,北海道帝国大学である5)。 学科名称は大学や年代により異なるので,次のように統一した。機械工学,応用化学,採 鉱冶金学,造船学,電気工学,土木工学,建築学,造兵学,火薬学である6)。その多くは 鉱物資源利用技術を学ぶことのできる学科であった。
5 か年の氏名録に現れた工学士人数は延べ 18,138 人,同一人物を除くと 9,986 人であっ たが,彼らの就職先に関しては,省庁,地方庁,陸海軍,教育機関,民間企業の 5 分野 に分類し,前稿では省庁のうち,鉄道省庁(鉄道部門に関与した省庁),農商工省庁(農 商務省および,後に 2 分割された商工省と農林省),内務省を取り上げ,工学士たちの経 歴動向に関する検討を行った7)。本稿では,紙幅の関係で省庁のうち逓信省と大蔵省を取 り上げ,さらに省庁の分類から植民地統治機関を取り出し,別に節立てを行って検討を 加えた。
1 省 庁
1.1 逓信省
逓信省は一時期,鉄道部門を管轄していたが,ここでは鉄道部門を除く逓信省の内局,
外局もしくは出先機関における工学士の活躍を取りあげる。表 1 は 1893(明治 26)年と
1901(明治 34)年における逓信省の部局別勤務人数を掲げたものである。1893 年の『職 員録』に掲載の逓信省官制によると8),逓信大臣は「郵便,電信,鉄道,船舶,海員,航 路標識及郵便為替,郵便貯金ニ関スル事務ヲ管理シ電気事業ヲ監督」する業務を担って いた。1901 年ではより包括的となり,鉄道部門を除くと,「小包郵便」,「電話」,「造船」,
「水陸運輸」の項目が加えられていた。灯台局の業務を引き継いだ航路標識管理所には 1893 年に土木工学科卒業生の 1 人が勤務していた。1901 年には機械工学科卒業生 1 人と 土木工学科卒業生 2 人が見いだせる。土木工学科の 1 人は工部大学校 1879 年第 1 期卒業 生の石橋絢彦であった。1893 年段階で所長に就任し,台湾総督府設立直後の 1895 年 8 月 に設置された臨時台湾灯標建設部技師として派遣された9)。また船舶司検所は,上記の
「船舶,海員」に関する部局で「海員水先人ノ試験,審問,船舶ノ検査,測度,新造船ノ 工事監督」を担っていた。東京,大阪,長崎に設置されたが,表 1 には東京船舶司検所 に 2 人が勤務していたことが確認できる。1 人は機械工学科,1 人は造船学科卒業生であっ た。司検所は 1899 年 6 月に廃止され10),新たに設置された海事局がその業務を引き継い だが,氏名録では,表 1 のように造船学科卒業生 1 人が長崎司検所に在任したままとなっ ていた。海事局の下に海務署が置かれていた。表のように東京海事局に属する横浜海務 署に機械工学科卒業生 1 人,大阪海事局に属する神戸海務署に機械工学科卒業生 1 人と 造船学科卒業生 1 人が勤務していた。
電信建築署は表 1 の 5 個所に加えて広島,札幌に置かれ,電線建設,電機の設置や保 存を業務としていたが,1893 年 11 月には廃止され,下記の東京郵便電信局のような一等 郵便電信局がその業務を引き継いだ。電信建築署の 5 人はいずれも電気工学科卒業生で あった。電務局は 1893 年 10 月に郵務局と合併して通信局となる部局であるが,そこに 電気試験所が配置された。職員録から,工部大学校時代,イギリス人お雇い教師のエア トンから電気工学の教えを受けた浅野応輔が所長に在任していたことが確認できる11)。 1901 年段階では電気試験所は通信局に属し,浅野が所長を続けていたが,彼は東京帝国 大学工科大学教授の地位にもあった。電務局,通信局勤務の工学士は電気工学科卒業生 であった。
電話交換局は 1891 年に設立され,当初,表 1 のように横浜と東京だけに設置されたが,
徐々に増加し 1901 年には 17 個所に配置された。13 人すべては電気工学科卒業生であっ た。青森,東京郵便電信局の 2 人は建築課に勤務し,前述の電信建築署の業務を引き継 いだことがわかる。東京帝大電気工学科 1890 年卒業の大岩弘平の場合,1893 年に名古屋 電信建築署に勤務し,1901 年には東京郵便電信局に配属されていた。
1910(明治 43)年の逓信省官制は,鉄道部門が鉄道院に移管されたことを除いて管轄 分野に大きな変化はない。表 2 に掲げた管船局は,1885(明治 18)年の逓信省設立と同 時に農商務省から受け継いだ部局で,1893 年段階では「船舶,海員,航路標識ニ関スル 事務ヲ掌」ったが,1901 年では,「航路」と「水運及保護海事会社ノ監督」が加わった。
灯台局の廃止にともなってその業務を一時引き継いで分離したのが,先の航路標識管理 所である。司検所も元々は管船局の監督下にあったが,1891 年に管船局から分離された。
表 2 逓信省の部局別勤務人数(1910 〜 1930)
部局 1910 年 1920 年 1930 年
管船局 3 8 11
船舶課 4 5
船舶試験所 3
船用品検査所 1
造船課 1
不明 3 3 2
経理局 1 3 9
営繕課 1 3 8
不明 1
工務局 34
電信課 2
電話課 14
不明 18
臨時電信電話建設局 1
航空局 5
技術課 1
大阪出張所 1
福岡飛行場 1
不明 2
航路標識管理所 2 3
灯台局 3
上海領事館付逓信局 2
総務部 1
大臣官房 5 2
監察課 1 2
経理局 3
財務課
臨時水力電気課 1
通信局 1 9
工務課 4
不明 1 5
逓信管理局 36
横浜逓信管理局 2 金沢逓信管理局 1 熊本逓信管理局 2 広島逓信管理局 4 札幌逓信管理局 2 神戸逓信管理局 3 仙台逓信管理局 1 大阪逓信管理局 5 長崎逓信管理局 4 東京逓信管理局 8 名古屋逓信管理局 1
不明 3
部局 1910 年 1920 年 1930 年
逓信局 71 86
熊本逓信局 9 13
広島逓信局 4 7
札幌逓信局 5 5
仙台逓信局 1 7
大阪逓信局 9 23
東京逓信局 10 20
名古屋逓信局 4 8
九州逓信局(熊本) 4
北海道逓信局(札幌) 2
東部逓信局(東京) 7
北部逓信局(仙台) 2
西部逓信局(大阪) 7
高等海員審判所 1
不明 6 3
電気局 11 13 18
技術課 7 8
水力課 1
電気試験所 3
不明 8 6 9
電気試験所 13 25
第一部 2
第三部 6
第四部 1
第五部 2
大阪出張所 1
福岡出張所 2
平磯出張所 1
不明 12 11
臨時発電水力調査局 12
電務局 1
戦時船舶管理局 1
部局不明 22 9 7
合計 89 138 201 出所:表 1 に同じ。
注: 管船局船用品検査所は,船舶試験 所とならなければならないが,氏 名録のままとした。
表 1 逓信省の部局別勤務人数
(1893・1901)
部局 1893 年 1901 年
海事局 3
横浜海務署 1
神戸海務署 2
航路標識管理所 1 3
横浜市航路標識管理所 1 1
不明 2
船舶司検所 2 1
長崎船舶司検所 1
東京船舶司検所 2 大臣官房・財務課 1
通信局 3
電気試験所 2
不明 1
電信建築署 5
熊本電信建築署 1 仙台電信建築署 1 大阪電信建築署 1 東京電信建築署 1 名古屋電信建築署 1
電務局 2
電気試験所 1
不明 1
電話交換局 2 11
京都電話交換局 1
広島電話交換局 1
札幌電話交換局 1
神戸電話交換局 1
仙台電話交換局 1
大阪電話交換局 2
長崎電話交換局 1
横浜電話交換局 1 東京電話交換局 1
函館電話交換局 1
福岡電話交換局 1
不明 1
郵便電信局 2
青森郵便電信局 1
東京郵便電信局 1
部局不明 16
合計 13 39
出所: 各年の『学士会会員氏名
録』。各年の『職員録』。
管船局は,年代経過にともなって船舶管理に集約していったようである。1910 年段階で 管船局には監理課,船舶課,海員課の 3 課が置かれ,監理課は「内外航路」や「航海ノ 補助及奨励」など,船舶課は「造船事業ノ監督」,「造船奨励」などを担当していた12)。船 用品検査所は 1916(大正 5)年に船用品の検査・試験を行うために船舶課から独立し,
1927(昭和 2)年,船型試験用の船舶試験渠の設立にともなって船舶試験所となった13)。 表 3 は 1910 〜 1930 年の部局別・卒業学科別勤務人数を見たものであるが,管船局では 機械工学科と造船学科卒業生しか勤務していない。
表 3 1910 〜 1930 年の逓信省部局別・卒業学科別勤務人数
1910 年
部局 機械工学 応用化学 採鉱冶金学 造船学 電気工学 土木工学 建築学
管船局 1 2
経理局営繕課 1
航路標識管理所 1 1
総務部 1
通信局 1
逓信管理局 9 9 18
電気局 1 10
臨時発電水力調査局 12
部局不明 1 2 16 2 1
合計 12 1 13 45 16 2
比率 13.5 1.1 14.6 50.6 18.0 2.2
1920 年
管船局 3 5
経理局 3
航路標識管理所 2 1
上海領事館付逓信局 1 1
大臣官房 1 1 3
通信局 9
逓信局 11 21 33 6
電気局 1 8 3
電気試験所 2 11
臨時船舶管理局 1
臨時電信電話建設局 1
部局不明 9
合計 19 2 27 72 11 6
比率 13.9 1.5 19.7 52.6 8.0 4.4
1930 年
管船局 4 7
経理局 9
工務局 34
航空局 3 2
大臣官房・監察課 2
逓信局 14 1 24 44 2 1
電気局 1 14 3
電気試験所 3 22
電務局 1
灯台局 1 1 1
部局不明 2 3 2
合計 23 3 1 35 121 8 10
比率 11.4 1.5 0.5 17.4 60.2 4.0 5.0 出所:表 1 に同じ。
注:1920 年の電気局所属の 1 人は出身学科不明。
いずれの年代においても経理局勤務の工学士は建築学科卒業生であった。官制には「本 省所管ノ官有財産及物品」とあり,またいずれも営繕課勤務であるので,彼らは各地の 電信・電話・郵便局の建築や修築などに従事したはずである。1920 年 10 月に第 3 次電話 拡張計画を実施するために臨時電信電話建設局が設置された。表 2 には 1 人しか記載さ れていないが,氏名録が同年 11 月調べのものであったことによる。この年以降の職員録 には多くの工学士が記載されていることが確認できる。行政整理のため,1925 年,同建 設局の業務は,通信局が 3 つに分割されてできた部局のうちの 1 つである工務局に引き 継がれた14)。表 3 のように,1930 年段階に現れた 34 人すべては電気工学科卒業生であっ た。
1910 年に陸軍省の下にあった航空局は,1924 年に逓信省の管轄下に入り,航空の取締・
保護・奨励・監督,航空施設に関する諸事項を所掌した。勤務工学士は造船学科,機械 工学科卒業生からなる。航路標識管理所は 1925 年に再び灯台局に名称変更された。いず れの年代においても機械工学科と土木工学科卒業生がいたが,1930 年には電気工学科卒 業生が 1 人見いだせる。1920 年,その前後の年に比し大臣官房と通信局に工学士が特に 多く見いだせるが,上記の第 3 次電話拡張計画との関連が推測される。
1910 年に,逓信省において組織改革が行われた。電信,電話,郵便,郵便為替・貯金 などの業務を行う現業部門と,これらを管理する部門とに区分された。全国を 13 管区に 区分しそれぞれの管区ごとに管理部門として逓信管理局が設置され,その監督下に郵便 局,電信局,電話局が置かれたが,1910 年段階で電話局が設置されていない管区もあっ た。上記の電信建築署や電話交換局の業務は各管区の各局に吸収された。また,各地の 逓信管理局には総務部,経理部,工務部,海事部が置かれたが,このうち海事部におい て海事局の業務が引き継がれた。逓信管理局勤務の 36 人のうち 26 人の下位部局がわかっ ており,15 人までが海事部もしくは前部局名の海事局であった。このうち 7 人が造船学 科卒業生で 8 人が機械工学科卒業生である。このほか工務部に 6 人(電気工学科卒業生)
が勤務していたことが確認できる。これら以外は現業に属する大阪郵便局,東京郵便局,
東京中央郵便局,福岡郵便局,京都郵便局であった。いずれも電気工学科卒業生である。
1913(大正 2)年に逓信局に名称変更され,5 管区に区分されることになったが,業務 的には逓信管理局と大きな変化は見られない。表 2 の九州逓信局から西部逓信局がこの 時の 5 管区である。さらに 1919 年に熊本から名古屋までの 7 管区に区分された。この時,
逓信局直属の部として残ったのは海事部だけで,他は工務課のように課に変更されると ともに,水力課,電気課などの課が増設された。表 2 を見ると,1918 年以前の 5 管区に
勤務する工学士たちが掲載されており,1920 年氏名録に修正されないまま登録されたと 考えられるが,表 2 のかっこ内に記した 5 管区それぞれの所在地から判断すると,1920 年段階で 7 管区のそれぞれの逓信局に属していたとみられる。71 人のうち 52 人の下位部 局が判明している。27 人が各管区逓信局の海事部に属し,このうち 17 人までもが造船学 科卒業生で,9 人が機械工学科,1 人が電気工学科卒業生であった。海事部に属した工学 士の 1 人,東京帝大造船学科 1915 年卒業の下村香苗は,札幌逓信局海事部・函館地方海 員審判所審判官とあった。また 1920 年の氏名録に見いだせる高等海員審判所は地方海員 審判所の裁決に対する抗告を処理する機関で,その審判官には東京帝大機械工学科 1899 年卒業の越智誠二が就任していた。
「電信電話線路,無線電信柱,無線電話柱ノ建設及保守15)」や「電信,電話,無線電信,
無線電話機械及付属品ノ装置保守及修繕」などを業務とした工務課に属した 11 人はすべ て電気工学科卒業生であった。たとえば,東京帝大 1898 年卒業の西脇吉久は九州逓信局 工務課に属していた。「発電水力地点ノ選定」や「雨量調査,流量測定及地形測量」を行 う水力課の 5 人は土木工学科卒業生であった。大阪中央電話局,東京中央電話局,福岡 郵便局などへの勤務も見いだせる。
1930 年では逓信局に属する 86 人のうち 72 人の下位部局が判明する。34 人が海事部に 属し,いずれも造船学科(21 人)もしくは機械工学科卒業生(13 人)であった。工務課 には 28 人見いだせ,2 人が土木工学科で残りは電気工学科卒業生であった。電気事業に 関する許認可など行う電気課には 4 人が勤務している。逓信局にはもっとも多くの電気 工学科卒業生が勤務していた。
電気事業に関する監督業務は電務局,のちに通信局において行われていたが,1909 年 に設置された電気局がこれを担当することになった。この時電気試験所が通信局から移 管された。1910 年段階で,表 2 のように 11 人の勤務が確認できるが,うち 3 人は電気試 験所に勤務していた。1910 年に水力発電に関する調査を行うための臨時発電水力調査局 が設置され,表 2 のように 12 人の工学士が見いだせる。東京など 7 個所に支局が設けら れ,彼らはそれぞれの支局に派遣されていた。表 3 のように彼らすべては土木工学科卒 業生であった。1913 年には同調査局は廃止されることとなり,その業務は電気局と,各 地の逓信局に引き継がれた。東京帝大 1910 年卒業の菊池英彦は 1920 年に北部逓信局水 力課へ,同大学 1908 年卒業の倉橋忠志は 1920 年に札幌逓信局水力課へ移動している。
電気試験所は 1918(大正 7)年に電気局から独立し「逓信大臣ノ管理ニ属シ電気試験 ニ関スル事項ヲ掌」った。当初,第 1 部から第 4 部までと,大阪出張所,平磯出張所,お
よび庶務課が設けられたが,後に第 5 部と福岡出張所,福島出張所,試作課が追加され た16)。表 3 から明らかなように,その多くは電気工学科卒業生であったが,応用化学科 卒業生も見いだせる。設立当初の第 3 部の業務として「電気化学其ノ他電気ニ関スル化 学上ノ学術的研究及応用」があげられている。後に設置された第 5 部がこの業務を引き 継いだ。表 2 に掲げた第 5 部に属する 2 人は,東京帝大と東北帝大の応用化学科卒業生 であった。
図 1-1・2 は,鉄道部門を除く逓信省勤務の卒業学科別工学士数と同比率の推移を見た ものである。電気工学科卒業生が急激な伸びを示し,いずれの年代においても 50%以上 を占めている。また 1910 年に向けてその比率は低下傾向を示すが,電信電話や電気事業 の急速な発展にともなう関係部局の拡大に応じて,この比率は上昇していった。
1.2 大 蔵 省
表 4,表 5 によると,1893 年段階では 6 人の工学士しか見いだすことができない。彼 らは印刷局,造幣局,日本銀行に勤務していた。日本銀行もしくは特殊銀行については,
監督官庁が大蔵省であったため,便宜的にこの分類の中に加えた。「兌換銀行券,印紙,
郵便切手,諸証券類ノ製造竝ニ諸印刷及抄紙」に関する業務を行った印刷局には工部大 学校応用化学科 1880 年卒業(第 2 期)の築山鏘太郎が見いだせた。彼は農商務省に勤務 して製糖技術の近代化に尽力した人物で,印刷局退職後に日本精糖株式会社の技師とし て採用された17)。1898(明治 31)年,印刷局は内閣に移管された18)。
1893 年の造幣局には 4 人の工学士が勤務していた。試金部に東京大学理学部化学科 1880 年卒業19)の甲賀宜政と工部大学校採鉱冶金学科 1884 年卒業の川浪虎太郎の 2 人が 所属し,前者は試金部長,後者は精製場長を勤めていた。鋳造部極印場に勤務する山縣 修20)も東京大学理学部卒業生で,採鉱冶金学科出身であった。造幣支局は東京に設置さ
図 1-1 逓信省勤務の卒業学科別工学士数 図 1-2 逓信省勤務の卒業学科別工学士数比率
出所: 各年の『学士会会員氏名録』。 出所:図 1-1 に同じ。
0 20 40 60 80 100 120 140
1893 1901 1910 1920 1930
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0 20 40 60 80
1893 1901 1910 1920 1930
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れ,1907 年 5 月まで輸納地金の受取業務を行っ ていた21)。工部大学校応用化学科 1885 年卒業の 緒方三郎が担当していた。1901 年段階の 2 人も 1893 年に現れた川浪と緒方で,同一ポストに あったが,川浪は精煉場長も兼務していた。
1910 年には 4 人が勤務していた。川浪は 1901 年段階と同一ポストにあり,京都帝大機械工学 科 1903 年卒業の広瀬亜夫は鋳造部彫刻場長で あった。また京都帝大と東京帝大の電気工学科 を 1910 年に卒業した 2 人の工学士がいたが,卒 業年度と氏名録作成年度が同一であったため か,職員録には彼らの氏名を見いだすことがで きなかった。1920 年,広瀬は鋳造部長の任にあっ た。鋳造部には同年に採鉱冶金学科を卒業した 工学士が 1 人勤務していた。他の 2 人について は所属不明であったが,それぞれ採鉱冶金学科,
応用化学科を卒業していた。
1930 年には 8 人の工学士が見いだせる。2 人 については所属部局が不明だが,6 人のうち 5 人 が作業部に属し,前述の広瀬が部長に就任し,他 の 4 人はそれぞれ鎔解場長(採鉱冶金学科),計 画課長(同),精製場長(応用化学科),工作課 長(機械工学科)に就任していた。計画課は 1930 年 7 月まで存続した課で,事務係,工務係,研 究係からなっていたが22),同月に作業部に属す る作業部長室に改組されたもののようである。
作業部長室の業務規程の中に「各場ニ於ケル作 業ノ方法及計画ノ調査」,「作業成績」に関する ことを業務とすることが記されている23)。工作 課の業務は「機械,器具類ノ製作及修理」やそ れらの「据付及其ノ基礎工事」,「電気,瓦斯,蒸
表 4 大蔵省の部局別勤務人数 1893 年 1901 年 1910 年 1920 年 1930 年
印刷局 1
造幣局 4 2 4 4 8
作業部 5
試金部 2 1 1
造幣支局 1 1
鋳造部 1 1 2
東京出張所 1
不明 2 2 2
臨時税関工事部 2
税関 1 5
横浜税関 1
神戸税関 1 2
大阪税関 2
臨時建築部 15
横浜支部 5
神戸支部 5
不明 5
官房臨時建築課 9
臨時議院建築局 5
営繕管財局 34
工務部 19
横浜出張所 4
神戸出張所 1
門司出張所 1
第二製図室 1
顧問 2
不明 6
専売局 3 5 12
京都専売支局 1
熊本地方専売局 1
広島地方専売局 1
製造部 3 3 2
大阪地方専売局 2
中央研究所 1
長官官房 1
東京地方専売局 2
徳島地方専売局 1
板橋製作所 1
不明 1
日本銀行 1 2 3 1 2
計算局 1
不明 1 2 2 1 2
横浜正金銀行 1 1
朝鮮銀行 1 2
建築部 1
不明 2
日本勧業銀行 1 2 1
鑑定課 1 1
不明 1 1
日本興業銀行 1 1
部局不明 1
合計 6 8 30 28 63
出所:表 1 に同じ。
注: 勤務部局不明の工学士については各年の『職 員録』を参考にした。
気及用水ノ取扱」に関することであった。東京出張所は一旦廃止された造幣支局を復活 させた部局である。
銀行に関しては,煩雑になるので日本銀行だけを取りあげる。1893 年に日本銀行勤務 の工学士は帝国大学土木工学科 1890 年卒業の葛西万司で,東京駅などの設計で著名な辰 野金吾の教え子である。1903 年,辰野とともに辰野葛西建築事務所を立ち上げ,辰野が 死去した後,葛西建築事務所とした24)。1901 年には 2 人の工学士が勤務していた。1 人 は東京帝大建築学科 1893 年卒業の長野宇平治で,下位部局は不明であるが,技術員とあっ た。1910 年にも在勤していたが,1920 年段階では建築事務所を自営している。日本銀行 支店や,日本銀行退職後は三井銀行神戸支店,横浜正金銀行東京支店を設計した25)。も う 1 人は東京帝大機械工学科 1899 年卒業の渡辺断雄で,1910 年にも日本銀行計算局に局 長として勤務していた。1910 年の 3 人のうち 2 人は長野と渡辺で,1 人は前述の造幣支
表 5 1893 〜 1930 年の大蔵省部局別・卒業学科別勤務人数
1893 年
部局 機械工学 応用化学 採鉱冶金学 電気工学 土木工学 建築学
印刷局 1
造幣局 3 1
日本銀行等 1
合計 4 1 1
比率 66.7 16.7 16.7
1901 年
造幣局 2
臨時税関工事部 2
税関 1
日本銀行等 1 2
合計 1 2 3 2
比率 12.5 25.0 37.5 25.0
1910 年
造幣局 1 2 1
専売局 2 1
臨時建築部 10 5
日本銀行等 1 1 1 1 3
部局不明 1
合計 5 4 1 1 11 8
比率 16.7 13.3 3.3 3.3 36.7 26.7
1920 年
造幣局 1 1 2
専売局 3 1 1
官房臨時建築課 4 5
臨時議院建築局 1 4
日本銀行等 1 1 1 2
合計 4 3 3 1 6 11
比率 14.3 10.7 10.7 3.6 21.4 39.3
1930 年
造幣局 3 1 4
営繕管財局 2 2 4 26
税関 2 1 2
専売局 11 1
日本銀行等 2 2
合計 20 2 6 3 4 28
比率 31.7 3.2 9.5 4.8 6.3 44.4
出所:表 1 に同じ。
局に勤務していた緒方である。1920 年の 1 人も緒方であった。1930 年の 1 人は東京帝大 建築学科 1920 年卒業の板東義三で,1920 年段階では日本セメントに勤務していた。もう 1 人も同学科 1928 年卒業の工学士であった。日本銀行を含めて銀行勤務の工学士は合計 20 人,うち 10 人が建築学科卒業生であった。
臨時税関工事部は横浜税関の埋め立て工事を行うために設立された大蔵省の外局にあ たる部局で,1901 年に東京帝大土木工学科卒業生 2 人が勤務していた。そのうちの 1 人 は土木課長の任にあった丹羽鋤彦で,1893 年段階では内務省第四土木監督署に勤務して いた。
1901 年において神戸税関に勤務していた工学士は工部大学校土木工学科 1884 年卒業の 吉本亀三郎で,1910 年には臨時工事部神戸支部に勤務していた。税関には技師を置いて いないが,職員録には技師として登録されていた。税関業務を行ったのではなく,神戸 港波止めの臨時工事を監督していた26)。1930 年にはじめて工学士 5 人が税関業務を行っ た。横浜税関には採鉱冶金学科,神戸税関では機械工学科と採鉱冶金学科,大阪税関で は応用化学科と機械工学科の卒業生がそれぞれ 1 人ずつ勤務していた。いずれも検査課 に属し「貨物ノ検査鑑定」を業務とする鑑査官もしくは鑑査官補の任にあった。輸出入 品の鑑定のために高度の知識が必要とされるようになったことによろう。
臨時建築部は,臨時税関工事部と煙草製造専売準備局の建築関係の業務を受け継いで 1905(明治 38)年に設立された。官制には「煙草専売及塩専売ニ要スル臨時建築事務竝 税関設備ニ関スル一切ノ事務ヲ掌ル」とある。1910 年段階で 15 人が勤務しており,第一 課長と横浜支部長を上記の丹羽が兼務していた。建築学科卒業生は 5 人で,彼らの多く は専売局庁舎などの建設を行っていたものとみられる27)。土木工学科卒業生 10 人はいず れも横浜もしくは神戸の支部に属しており,両税関建築物建設やその基礎工事に従事し ていた。この中には吉本も見いだせる。
大臣官房臨時建築課は 1913 年に臨時建築部を縮小継承した部局で,1920 年段階で建築 学科卒業生が 5 人,土木工学科卒業生が 4 人着任していた。いずれも東京帝大卒業生で あった。当初,同課には横浜出張所,神戸出張所が置かれていたが,のちに門司出張所 が増設され,横浜税関建築物の竣工にともなって横浜出張所が廃された。神戸には土木 工学科卒業生 2 人と建築学科卒業生 1 人,門司には建築学科卒業生 1 人が配置されてい た。
1918 年,国会議事堂建設のために臨時議院建築局が設置され,1920 年段階には建築学 科卒業生 4 人と土木工学科卒業生 1 人が勤務していた。いずれも東京帝大卒業生であっ
た。1894 年卒業の矢橋堅吉は 1920 年の氏名録にしか現れていないが,臨時税関工事部,
臨時建築部に勤務した経歴を持つ28)。1903 年卒業の大熊喜邦は 1910 年段階には臨時建築 部に属していた。土木工学科卒業生 1 人は丹羽で,常務顧問の任にあった。ちなみに矢 橋,大熊,丹羽ともに工学博士号をすでに取得していた。
関東大震災の被害を受けた各種建造物の復旧工事を行うために,1925 年に大臣官房臨 時建築課,臨時議院建築局,国有財産整理局を統合して営繕管理局が設置された。「議院 ノ建築」を含む「大蔵省所管ノ建造物及東京府又ハ神奈川県ニ於テ営繕ヲ施行スル各省 庁所管ノ建造物」の営繕や「国有財産ニ関スル総括事務」などを所掌した。管財局には 総務部,工務部(工務課と監督課)が置かれ,工学士の多くは「営繕ニ関スル工事ノ設 計,実施及監督其ノ他ノ技術ニ関スル事務ヲ掌ル29)」工務部に配されたとみていいであ ろう。
工務部長は上記の大熊が就任し,工務課長には 1910 年に臨時建築部,1920 年に臨時建 築課神戸出張所に勤務した経歴を持つ池田譲次が就任している。臨時建築課と同様に神 戸と門司,そして一旦廃された横浜出張所が設置された。震災により壊滅的打撃を受け た横浜税関建築物や周辺構築物の復旧工事を行った。神戸と門司には 1 人ずつ,建築学 科卒業生が勤務していたが,横浜出張所には土木工学科卒業生,建築学科卒業生がそれ ぞれ 2 人ずつ配置されていた。顧問には前述の丹羽と,工部大学校建築学科(造家学科)
1882 年卒業の中村達太郎が就任していた。中村は 1901 年,1910 年,1920 年の氏名録に 東京帝大工科大学もしくは工学部教授として現れ,1930 年には名誉教授となっていた。卒 業学科内訳を見ると,建築学科が 26 人,土木工学科が 4 人,電気工学科と機械工学科が 2 人ずつであった。工務課の業務規程の中には「機械,電気又ハ土木工事ノ計画,製図,
仕様及工費計算」などに関することが含まれていた。この規程から第二製図室とあった 建築学科卒業生は工務課に属していたとみられる。また,少なくとも技手として勤務し ていた 5 人が見いだせた。いずれも 1927 年以降の卒業生であった。
煙草,塩,樟脳の専売事業が統合され,1907(明治 40)年に専売局が設置された。表 4 に掲げた 20 人すべては煙草製造にかかわる工学士であった。1910 年の 3 人のうち 2 人
(後掲表 6 の野並と北浦)は東京帝大機械工学科卒業生で,専売局に直属する製造部作業 課に属し,1 人は京都帝大応用化学科卒業生で,製造部に属する技手であった。製造部作 業課の業務はすべて煙草製造に関連するものであった30)。野並は 1908 年,煙草製造機械 の調査のため欧米に派遣されている31)。1920 年段階では,作業課には上記の 2 人に加え,
京都帝大電気工学科 1904 年卒業の福島操が加わっている。さらに所属下位部局不明の東
京帝大応用化学科卒業生 1 人と京都専売支局の伏見分工場に属する岩本龍三(表 6)が見 いだせる。
伏見分工場は煙草包装紙へのデザイン印刷や各種煙草用小箱製造を行う工場で,東洋 印刷会社を買収して 1907 年に設立された32)。一時京都煙草製造所に属したが,伏見分工 場として専売局に直属した。1909 年に既存の収納所と販売所を合併して各地に専売支局 が設置されたが,1913 年,各地の煙草製造所と支局とを合併させて支局の改編が行われ た。この時,京都専売支局が設立され,伏見分工場がその下位部局となった。
1930 年には 12 人の工学士が勤務していた。表 6 は,彼らの 1930 年の勤務先・所属部 局・役職,さらに 1920 年と 1910 年の勤務先を卒業年度順に一覧したものである。1 人だ けが電気工学科卒業生で,他の 11 人はすべて機械工学科卒業生であったが,卒業大学は 多様である。東京帝大卒業生は 4 人にすぎず,京都帝大卒業生が 5 人,東北帝大 2 人,九 州帝大 1 人であった。
1910 年から連続して勤務しているのは製造部長の野並と中央研究所長の北浦のみであ る。中央研究所は煙草と樟脳の研究開発を行うために 1920 年に設立された部局である33)。 1920 年段階で上記の伏見分工場に勤務していた岩本は,煙草製造用機械器具の製作・修 理を行うために 1922 年に設立された板橋製作所長の任にあった34)。地方専売局は,1921 年に専売支局を改編して設立されたものである。京都専売支局は京都工場として大阪地 方専売局,東京府の淀橋専売支局と芝専売支局はそれぞれ淀橋工場,芝工場として東京 地方専売局に属することになった。それぞれの工場には勝田,山脇,後藤が配されてい た。また前歴がわかる 7 人のうち 4 人までが,民間会社から移動してきた工学士であっ
表 6 1930 年における専売局勤務部局と 1910 年,1920 年の勤務先
氏名 大学 学科 卒業年 1930 年勤務先 1920 年
勤務先
1910 年 部局 下位部局 役職 勤務先
野並亀治 東大 機械 1902 製造部 部長 製造部 製造部
北浦重之 東大 機械 1903 中央研究所 製造部兼務 所長 製造部 製造部
岩本龍三 京大 機械 1906 板橋製作所 所長 京都専売支局伏見分工場
太田緑郎 東大 電気 1912 製造部 作業課 富士瓦斯紡績会社
安垣藤三郎 九大 機械 1916 熊本地方専売局 製造課 課長 日本電気鉄板会社 瀬渡光雄 東大 機械 1918 広島地方専売局 製造課 横浜船渠会社 中村精吾 京大 機械 1918 徳島地方専売局 製造課 課長 大阪電気分銅会社 木島秀男 京大 機械 1922 大阪地方専売局 製造課
勝田雄次郎 京大 機械 1923 大阪地方専売局 京都工場 山脇俊之 東北大 機械 1924 東京地方専売局 淀橋工場 後藤一雄 東北大 機械 1926 東京地方専売局 芝工場 技手
中島孝 京大 機械 1929 長官官房 技手
出所:表 1 に同じ。
た。紡績会社,金属会社,造船会社と多様 である。
図 2-1・2 は,大蔵省勤務の卒業学科別工 学士数と同比率の推移を見たものである。
建築学科卒業生数・比率と機械工学科卒業 生数・比率が年代経過にともなって上昇趨 勢を示している。機械工学科の 1930 年にお
ける急増は専売局勤務人数の増加の影響である。最初の年の応用化学科比率の高比率は 別として,同学科の低下趨勢が顕著である。土木工学科卒業生に関しては税関建築物建 設にともなう港湾関連工事の必要性が高かったため一時期高い比率を示した。大蔵省に おいては造幣,政府関連建設工事,専売の分野で工学士を必要とした。
図 3 は,逓信省・大蔵省勤務の東京帝大卒業生比率と,全帝国大学卒業生に占める東 京帝大卒業生の比率を見たものである。後者は氏名録に現れる卒業大学が判明する工学 士 18,138 人から得られたものである35)。東京帝大しか工学士を輩出していなかった 1893 年を除いて,逓信省,大蔵省勤務の東京帝大卒業生比率が高いことがわかる。1930 年の 大蔵省におけるこの比率の低下は,東京帝大卒業生が専売局における煙草製造業務を敬 遠したためと推測する。
2 植民地統治機関
2.1 朝鮮総督府
植民地統治機関として朝鮮総督府,台湾総督府,関東庁(関東都督府),樺太庁,南洋 庁があるが,本稿ではある程度人数的まとまりのある朝鮮総督府と台湾総督府について
図 2-1 大蔵省勤務の卒業学科別工学士数 図 2-2 大蔵省勤務の卒業学科別工学士数比率
図 3 逓信省・大蔵省勤務の東京帝大卒業生比率 0
5 10 15 20 25 30
1893 1901 1910 1920 1930
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ே
ே
ᘓ⠏Ꮫ 0 10 20 30 40 50 60 70
1893 1901 1910 1920 1930
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50 60 70 80 90 100
1893 1901 1910 1920 1930
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出所:図 1-1 に同じ。 出所:図 1-1 に同じ。
出所:図 1-1 に同じ。
検討する。
1910(明治 43)年 10 月に韓国統監府を改編して朝鮮総督府が設置された。朝鮮におけ る鉄道は統監府鉄道庁が管理していたが,1909 年 12 月,鉄道院の管轄下に置かれ,龍山 に韓国鉄道管理局が設置された。1910 年 9 月,朝鮮鉄道管理局に改称されたが,朝鮮総 督府の設立にともなって総督府の外局にあたる鉄道局となった。表 7 は朝鮮総督府の各 部局に勤務する工学士数を見たものである。1910 年,鉄道局には 33 人が勤務していた。
1910 年の職員録は 1910 年 5 月現在の韓国統監府の職員録であったので,1911 年 5 月現 在の職員録に依拠すると,彼らのうち 29 人の下位部局が明らかになる。図 4 は 1910 年
表 7 朝鮮総督府の部局別勤務人数 部局 1910 年 1920 年 1930 年
官房 18 3
会計課 3
鉄道部 4
土木部 14
鉄道局 33 29
運転課 1
機械課 4
建設課 3
工作課 1
工務課 10 5
龍山工場 2
兼二浦工場 1
草梁工場 1
元山建設事務所 1 大田建設事務所 3 木浦建設事務所 1 龍山建設事務所 3 鴨緑江建設事務所 2
京城工場 5
佂山工務事務所 2
京城工務事務所 1
草梁工務事務所 1
大田工務事務所 1
平壌工務事務所 3
清津出張所 1
南原建設事務係 1
平壌運輸事務所 1
不明 5 3
通信局 5
工務課 3
航路標識管理所 2
逓信局 6 13
海事課 1
佂山郵便局 1
京城無線電信局 1
京城郵便局 1 1
工務課 2 3
電気課 5
臨時水力調査課 1
不明 2 1
部局 1910 年 1920 年 1930 年
内務局(部) 3 23
土木課 3 7
土木出張所 15
不明 1
度支部 4
建築所出張所 2
税関工事課 1
不明 1
特許局 1
農商工部 1
平壌鉱業所 1 1
仁川税関・海務課 1
営林廠 1
臨時土地調査局 1
中央試験所 4 2
殖産局 2 9
鉱務課 2 3
商工課 2
燃料選鉱研究所 4
土地改良部 1
咸鏡北道・城津郡庁 1
全羅北道 1
道技師 1
平安北道・産業課 1
咸鏡南道・土木課 1
朝鮮殖産銀行 1
部局不明 3
合計 54 34 83
出所:表 1 に同じ。
注: 勤務部局不明の工学士については 各年の『職員録』,および『朝鮮総 督府及所属官署職員録』(昭和 5 年 7 月現在,朝鮮総督府)を参考に した。1910 年の鉄道局 33 人の中 に,「鉄道院技師」とある 2 人,鉄 道管理局とある 6 人を含めた。6 人のうち 3 人は「総督府鉄道管理 局」とあったので,6 人ともに総 督府鉄道局に属していたと見てい いであろう。通信局には,統監府 通信管理局とある 2 人を含む。
出所: 『朝鮮鉄道史』第 1 巻,朝 鮮総督府鉄道局,1929 年,
684 ページ。
図 4 1910 年朝鮮総督府鉄道局 組織図
庶務課︑監理課︑営業課―駅所︑運転課―機関庫︑工務課︑工作課︑計画課︑建設課 長官建設事務所―大田・龍山・平壌・鴨緑江
保線事務所―龍山・平壌―保線区 工場―草梁・龍山・兼二浦
10 月の鉄道局組織図である36)。鉄道局直属の 8 課と,建設事務所,保線事務所,工場が 設置されていた。
表 8 は 33 人の卒業学科などや,彼らのうち 29 人の 1911 年段階の下位部局,および 1920 年・1930 年段階の勤務先を見たものである。工作課は「車輌及機械ノ設計37)」とそ れらの「製作,修理」を,工場は「車輌及機械其他ノ製作修理」を業務としたので,機 械工学科卒業生の横井実郎,黒沢明九郎,小倉亨らは適任であった。工務課は「線路及 建造物ノ修理,保存竝改良」などを,建設課は「鉄道ノ建設」,「線路調査」を業務とし た。工務課と建設課には合計 13 人が勤務していたが,12 人が土木工学科卒業生で,1 人 は両課を兼務していた建築学科卒業生の堀内であった。「所管ノ建設工事」を業務とする
表 8 1910 年朝鮮総督府鉄道局勤務工学士の 1920・1930 年勤務先
氏名 大学 学科 卒業年 1911 年所属部局 1920 年勤務先 1930 年勤務先
大屋権平 東大 土木 1883 局長 不明(東京在住) ―
小城斎 東大 土木 1892 建設課長 ― ―
稲垣甚 東大 土木 1893 工務課 不明(東京在住) ―
横井実郎 東大 機械 1896 工作課長 満鉄 不明(東京在住)
新田留次郎 東大 土木 1897 建設課 総督府官房 朝鮮鉄道会社
久門雄二 東大 土木 1899 大田建設事務所 中国・四鄭鉄路局 会社員(朝鮮)
黒沢明九郎 東大 機械 1901 龍山工場長 満鉄 不明(東京在住)
福井薫 京大 土木 1901 建設課 満鉄 不明(鹿児島県在住)
伊藤三郎 東大 土木 1901 木浦建設事務所長 満鉄 満鉄
加賀種二 京大 土木 1901 龍山建設事務所 満鉄 営口水道電気会社
小倉亨 東大 機械 1902 草梁工場長 満鉄 不明(東京在住)
山崎忠直 東大 機械 1902 兼二浦工場長 満鉄 無煙燃焼研究所(東京在住)
横井加之吉 京大 機械 1902 大西鉄工所 ―
山田亀治 京大 土木 1902 鴨緑江建設事務所長 鉄道省 不明(東京在住)
岡俊雄 東大 土木 1902 工務課 満鉄 不明(朝鮮在住)
堀内智三郎 東大 建築 1903 工務課 建築技師 ―
水木常信 京大 土木 1903 朝鮮軽便鉄道会社 不明(東京在住)
松田一雄 京大 土木 1903 大田建設事務所 満鉄 不明(仙台在住)
石川真三 東大 土木 1903 工務課 総督府官房 不明(東京在住)
岩崎真雄 東大 機械 1904 龍山工場 総督府官房 不明(朝鮮在住)
中野深 東大 土木 1904 鴨緑江建設事務所 満鉄 ―
堀口勉一郎 京大 土木 1904 大田建設事務所 台湾総督府鉄道部 台湾総督府交通部
永屋昌雄 京大 土木 1904 工務課 満鉄 不明(熊本在住)
今泉茂松 東大 土木 1904 工務課 満鉄 不明(東京在住)
深井庄吉 京大 土木 1904 工務課 不明(高知県在住) 土木請負業(朝鮮)
福地周次郎 京大 土木 1904 工務課 ― ―
上山武熊 京大 土木 1904 工務課 満鉄 朝鮮総督府鉄道局
富田哲造 京大 土木 1905 元山建設事務所 満鉄 朝鮮総督府鉄道局
竹内健 東大 土木 1905 工務課 満鉄 朝鮮京南鉄道会社
岡村正雄 東大 土木 1905 龍山建設事務所 満鉄 不明(朝鮮在住)
小池駸一 東大 土木 1906 龍山建設事務所 鉄道省 池上電気鉄道会社
山川重晴 京大 機械 1907 不明(東京在住) 不明(東京在住)
小野義雄 東大 電気 1907 満鉄 不明(大分県在住)
出所:表 1 に同じ。
注: 「―」は氏名録に無掲載。カッコ内は工学士もしくは勤務先の所在地。2 つの課を兼務している人物もいるが,ど ちらか一つだけを掲げた。