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高度経済成長期後の池貝鉄工

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富山大学経済学部富大経済論集 第57巻第3号抜刷(2012年3月)

青 地 正 史

高度経済成長期後の池貝鉄工

(2)

高度経済成長期後の池貝鉄工

青 地 正 史

目次:はじめに

1.二度にわたる試練 2.高度成長期の真相

3.上海電気集団によるM&A おわりに

ࠠ࡯ࡢ࡯࠼:Wショック,三つの過剰,日本興業銀行,大山梅雄,ツガミ,民

事再生法,傘型会社,走出去,コーポレート・ガバナンス    

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 2004 年 8 月,池貝鉄工(現・株式会社 池貝)が中国・国有企業の上海電気 集団に買収されたとのニュースは,当時大きな衝撃をもって報じられた。それ まで同社は,戦前日本の重工業の発展に尽くしたわが国を代表する工作機械 メーカーとして,順調に経営されているものと一般に信じられていたのである。

 その濫觴は,1889 年池貝庄太郎によって東京は芝に設立された町工場・池 貝鉄工所であった。同年早くも国産初の旋盤を製造して注目を浴び,これは現 在国立科学博物館に展示されている。そして 1905 年には,その普及機の量産 体制に入った。その後も続々と新機種を発表し,斯界に栄誉ある地位を築いて きた。「明治いらいの機械工業の発達史は,池貝鉄工によって築かれたともい えるのである」。企業形態も,1906 年に合資会社に,1913 年には株式会社に 改組している。終戦直後には戦後補償の打ち切りのため,多くの軍需会社と

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同じく企業再建の辛酸をなめたが,戦時期(1937 〜 45 年)と高度経済成長期

(1955 〜 73 年)には大躍進を遂げたとされている。

 以上の高度成長期を含むそれ以前の同社の足跡は,その社史・ダイヤモンド 社(1969 年)『池貝鉄工』によって知ることができる。しかし高度成長期後 の消息は,一般的には知られておらず,それに関する学術論文なども一切見当 たらない。冒頭の中国企業に買収された驚きは,そうしたことにも一因がある であろう。そこで本稿の課題は,新聞・雑誌類および池貝現幹部へのインタ ビューなどにより,高度成長期後の池貝の足跡を明らかにすることである。す なわちその間,池貝に何があったのか,また経営状況はどうであったのか,さ らに上海電気集団から

M&A

を受けた経緯はいかなるものであったのかを検討 する。

 本稿の構成は次の通りである。まず次節で,ドル・ショック(1971 年)と オイル・ショック(1973 年)後の経営状況,およびバブル経済崩壊(1991 年)

後のそれについて見る。第2節では,前節で明らかとなった論点から,さかの ぼって高度経済成長期の池貝の実態に迫る。社史とは異なる事実が浮上するこ とになろう。第3節では,上海電気集団による

M&A

に至る経緯を述べる。「お わりに」では,コーポレート・ガバナンスの視点から以上を総括する。

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 高度経済成長期後,実は池貝鉄工は 2 度にわたる試練に見舞われていた。一 般に工作機械メーカーの盛衰は,納入先企業の設備投資の状況に大きく規定さ れる。①ドル・ショック(1971 年)とオイル・ショック(1973 年)によって 高度成長が終焉を迎えると,企業は設備投資を控え「減量経営」でこれに立 ち向かうことになったし,②またバブル経済が崩壊(1991 年)し負債・雇用・

設備の「三つの過剰」が発生すると,企業は「設備の過剰」に大ナタを振るっ た。この①と②による事業会社の投資収縮の影響から,池貝ははしなくも苦境 に立たされることになり,ややタイムラグはあるものの経営不振に陥り,つい

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で 2001 年には倒産の憂き目に会ったのである。以下に詳しく論じていくこと にしよう。

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 ࿑㧝㧙㧝から池貝は,ドル・ショックとオイル・ショック後のいわゆる「安 定成長期」の 1974 〜 84 年に,赤字ベースの経営が続いていたことがわかる。

同図にはJMD平均なるものが表掲されているが,JMDというのは 1965 年 に池貝の音頭により結成された浜井産業・日立精機・樫藤鉄工・豊田工機の5 社からなる「日本工作機械第一グループ」のことである。池貝の売上高利益 率は 1978 年を除いてそれよりも低い。しかも特徴的なのは,たとえば 1981 年,

売上高は 297 億 7 千百万円であるのに対し純利益が 2 億 3 百万円と乏しいことで ある㧔࿑㧝㧙㧞㧕。これは需要側から買い叩かれたことが窺われる。⴫㧝も同 期間は無配であったことを示している。

 そこから脱出するために池貝が選んだ道は,1984 年「再建王」として名を 馳せた大山梅雄に経営を託すことであった。大山は,同じ工作機械メーカーで

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あるツガミの再建に成功していたことや,ツガミの主力は小型機,池貝は中大 型機で競合せず,かえって業務提携が期待されたことによる。また,この時 期の池貝に支援を惜しまなかった存在として第4節(1)で詳述するメインバ ンク・日本興業銀行の存在も看過されてはならない。すなわち興銀は社長を派 遣,その舟橋邦夫は,①溝ノ口工場の売却,②人員削減,③赤字受注の廃止と いう方針を打ち出していた

 しかしこれら舟橋社長の救済策は概して机上のプランに終わり,結局大山に より実現されることになる。すなわち,① 1984 年溝ノ口工場は飛島建設に売

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却され,あらたにツクバ工場(茨城県玉造町)を建設,②また屈強な労組 との対決の末,従業員を 300 名削減し,③さらに値戻しに全力を挙げ,適正 価格での受注増加に奮闘した。このための販売会社・池貝機販も設立された。

したがって大山の功績は,自身の発想というよりも舟橋路線をバイタリティを もって果敢に実行に移した面が強いといえる。

 このうち③については,池貝にとって死活問題といってよく,さらに詳しく 述べておこう。池貝機販は「池貝鉄工の子会社だが,池貝鉄工製品の総代理店 とせず,既存有力代理店と競いながら受注活動を展開させる」存在とする。「独 立採算制にすることによって販売担当者の 甘え が消え,適正価格での受注 増加を期待し」たためである。「新会社の販売担当者のモラール(士気)を向 上させるため,受注実績に応じた弾力的な賃金体系を導入する考え」とされて いた。

 ࿑㧝㧙㧞により,1984 〜 87 年に売上高の低下と 85 年の純利益の急増が見て とれるが,これは「利益重視の選別受注の徹底」を図った結果であろう。ま た純利益の急増については先述の従業員のリストラも与かっている。株価は 1986 年にそれまでの最高値 664 円をつけており10,「来年には 500 円程度まで上 がるのではないか」という大山の予想は的中,こうして「13 年ぶりに復配す る計画」も達成された11。日本が活況に沸いたバブル期の 1989 〜 91 年,売上 高も純利益も伸びており,バブルに助けられ弱含みながら12大山は再建を果た したといえるであろう13

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 1990 年大山はバブルの渦中で逝去し,その後はツガミ出身で専務の稲川昭 司が事実上のトップとして采配を振るうことになった(1993 年に副社長,94 年には社長)。バブル崩壊後の「失われた 10 年」の過程で赤字が累積する中,

稲川のとった戦略は意外にも拡大路線に打って出ることであった。①まず,中 国進出があげられる。1994 年には池貝北京事務所を開設14,②つぎに 90 年代

M&A

流行の風潮を受けて,1994 年に太陽工機,難波鉄工所(後の池貝精機),

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清和鉄工,日本精機研究所,そして 1996 年には住友ワドー(後の池貝ワドー)

と長岡技研などに買収を仕掛け,いずれも傘下に収めた。

 以上を詳述すれば,① 1993 年 2 月,稲川は中国における工作機械の需要動向 を見きわめるため,北京へ視察に訪れている。現地では機械電子工業部や業界 幹部と会ったが,「日本の機械,技術に対する興味は大変なもの」,「日本の工 作機械メーカーの進出を歓迎する雰囲気だった」という。そして 5 月には北京 で開かれた中国国際工作機械見本市に出品もしている15。②の結果,池貝本社 は࿑㧞のような多数の傘下企業を擁する企業グループとなった16。このうち太 陽工機の編入についていえば,4500 万円の資本金を半分に減資した上で,池 貝が 4000 万円の貸金を相殺する形で,池貝は第 3 者割当で増資に応じて 64%

の筆頭株主となった17

 以上から注目すべきことは,稲川は中国企業に親近感を覚えることになった のみならず,それまで日本人に馴染めなかったM&Aへの抵抗感を緩和した点 であろう。そしてこの点こそ,後の上海電気集団による企業買収を受容する伏 線になったと考えられる。  

 とはいえ稲川の経営は,࿑㧟㧙㧝や࿑㧟㧙㧞に見るように池貝本体が赤字 体質を抱える中での拡大路線であり,基本的に無謀なものであったといえよ

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う。バブル期以降の 90 年代,当初はバブルの余韻から純利益を維持したもの の後半は低調そのものであり,売上高と純利益の乖離も放置された。

⴫㧞

から,

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1993 年は赤字で配当しており,また 92 年や 96 年の配当性向はきわめて高く,

これは乏しい利益の中配当を強行したものであり,財務に疎い営業畑出身社長 の限界が感じられる。

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 くり返しになるが,一般に工作機械メーカーは景気の動向に大きく左右され る。いいかえれば工作機械産業は不況期の構造不況業種であるといえよう。池 貝もバブルの崩壊過程で,先に見たように経営不振に陥った。

 しかし毎日新聞社(2004 年)『エコノミスト』は,池貝の苦境には独自の要 因もあったと分析する18。①まず,池貝が大型機を得意としていたところ,産 業界の需要が小型機に移ったこと,②つぎに,採算を度外視した安値受注体質 から結局抜け出せなかったこと,③さらに,リストラに怠慢で稲川時代は 504 名をわずか 4 名減らした19にすぎなかったこと,④決定的だったのは,稲川が 金融に行き詰まり不良の融資話に手を染めたことである。

 とくに④は,興銀に池貝を見放す口実を与えた。メインバンクは必ずしも救 済保険を提供する存在でない20ことが事実となった。こうして池貝は行き詰っ てしまった。2001 年 2 月東京地裁に民事再生法の適用を申請,負債総額は 271 億円にのぼった。この中には,メインバンク興銀に対する 61 億円やさくら銀 行に対する 24 億円なども含まれるが,今後の手形決済の目途が立たなくなっ たことが大きい。稲川に代わって事実上のトップに就くことになった副社長・

中條進(2001 年に社長)は,「これから決済を迎える 4

,

5 億円分の資金が不足 しそうだった。銀行団 12 行のうち,一部の銀行に支援に応じていただけなかっ た」と述べている。ここから不良債権問題に苦しむ銀行側の問題も絡んでいた ことがわかる21。はたして同年 6 月,池貝は上場廃止となった22

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 この中條のもとで再建策が断行された。①まず,本社・川崎工場と川口工場 を売却しツクバ工場に集約23,②つぎに,500 名24の従業員全員を一旦解雇し 退職金を 50%カットした上で,120 名を再雇用し25,③さらに,傘下にあった 池貝機販や池貝興産を含む26グループ会社 15 社をすべて処分した27。こうして,

ようやく再生手続きが完了したのは,2004 年も 6 月のことであった。4 年以上 も要したわけであるが,自力再建を果たした意義は大きい。しかしこの結果,

現出した新会社は,資本金が当時の最低資本金である 1000 万円のローカルな 中小企業であり,かつての池貝の面影はもはやそこには見出せなかった。

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 前節で明らかとなったのは,池貝鉄工に染みついた赤字受注の体質である。

この点,高度成長期はどうだったのだろうか。さかのぼって考察を加えよう。

 ࿑㧠㧙㧝は,高度成長期の池貝の売上高利益率の推移を示したものである。

最初の落込みは「54 年不況」の影響を受けたものであろうが,一般に不況に

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弱いといわれながらも「なべ底不況」(1957・58 年)や「62 年不況」をやり過 ごした点は高く評価できる。しかし戦後最大の不況,「証券不況(オリンピッ ク不況)」(1965 年)の波はもろに被ってしまい,それ以降 7 期連続の無配に陥っ ている(⴫㧠)。見られるようにJMD平均の売上高利益率よりも相当低い。

 その後 1960 年代後半から 70 年代前半にやや業績の回復が見られるが,これ はNC工作機械が牽引したものであると考えられる。同機は当時の花形製品で,

この時期以降数期にわたり日本経済新聞社『会社年鑑』には「NC機比率」が 掲載されるようになる(⴫㧟)。同社社史(1969 年)は「NC工作機械につい ては,わが国におけるパイオニアとして,つねに業界をリードし,その後ます ます機種の多彩化と量産化につとめた。また,四十二年四月,ユーザーへの指 導とPRに資するため,(中略)『NCセンター』」を開設,「その後各社もぞく ぞく製作を開始したが,主力機種の旋盤では,四十三年度全国NC旋盤生産高 の約四〇パーセントを占め,業界の優位をいよいよ不動のものとした」28と豪

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(12)

語する。しかし,このNC工作機増産の過程で安値受注が目立ち始めた。࿑㧠

㧙㧞から 1971 年の純利益 1 兆 300 億円に対し,売上高 16 兆 80 億円という開き

が象徴的である。

 こうした状況にもかかわらず同社社史(1969 年)は,1965 年不況に基づく 経営不振に若干ふれてはいるものの29,おおむね当時の好調を強調している。

1969 年当時を描いた第二章「たくましい開発力と生産」は,次のような構成 となっている。「第1節:光る高級機械への伝統,第2節:優れた技術力と開 発力,第3節:最新設備,最高技術を駆使する生産部門,第4節:ユニーク な商法を展開する営業部門」。そしてその第4節は,①営業網の整備30,②製 品計画,③技術サービス,④販売金融制度について述べられているにとどま 31。また 1962 〜 66 年事業部制が設けられていたが,それは工作機械第一事 業部,同第二事業部,エンジン事業部,産業機械事業部そして鋳物事業部から なるもので32,とくに販売に特化した部署が存在したわけではなかった。適正 受注・販売という池貝にとって最重要課題への問題関心や取組みには,やや物

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(13)

足りなさを感じさせる記述である。

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 さてもう一度第 1 節(3)の文末,すなわち池貝が民事再生手続きを終え,

自主再建を果たした時点に話しを戻そう。ここから池貝のスポンサー探しが始 まる。その対象として中国の国営企業・上海電気集団が浮上した。同社は,直 接には民事再生申請の際の弁護士の紹介によるものである33が,中国企業とい う選択にはかつての稲川の中国戦略が与かっていよう。

 上海電気集団すなわち上海電気集団股份有限公司は,発送電設備,工業機材 や環境機器などの製造・販売を行う総合電機メーカーである。とくに火力発電 設備の分野では,ドイツのシーメンスやフランスのアレバなどと提携する中国 最大手である。本社は,日本でいう持株会社に当る「傘型会社」で,昇降機メー カーの上海機電,ディーゼルエンジンの上海紫油機や送配電設備の上海輸配電 などの上場子会社を傘下に有している。最近では,昇降機事業で三菱電機と合 弁会社を設立,また原子力発電や風力発電も手がけるなど躍進著しい企業であ 34

 中條社長には「池貝」ブランドを残したいという気持ちが強く,国内企業 から出資を仰げばそれは達成されない可能性が高いと危惧していた。また市 場拡大が見込めるという思惑もあった。一方,上海電気の日本法人SECジャ パンの張春華CEOも「日本でトップレベルの技術を持つ会社がこのまま沈 んでいくのは惜しい。上海電気集団として,先進国でも途上国でも需要が見 込める製品をそろえることができ,世界展開する重電メーカーとしてメリッ トは大きい」35と,池貝のM&Aに積極的であった。この背景には実は中国政 府の「走出去」政策が存在した。走出去とは,政府が中国企業の対外投資を 支援する方策で,たとえば投資に必要な外貨の保有制限や企業買収の条件を 緩和するもので,同時に人民元切り上げ圧力も回避しようというしたたかな 戦略である36

(14)

 そこで池貝は,資本金を 1000 万円から 5 億円に引き上げ,増資分につき上海 電気集団に第 3 者割当を行う。この結果上海電気の出資比率は 75%になった。

現幹部は「弊社は合弁会社」と割り切った認識を示す37。こうして池貝は量産 体制に入ることができ,中国で開かれた工作機械見本市でその量産機種をア

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(15)

ピール,池貝にとっては一気に販路を広げるチャンスが巡ってきた。その最近 の業績は࿑㧡㧙㧝と࿑㧡㧙㧞に見られる通り回復基調にある。

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 本節では,以上を企業統治の視点から検討しむすびに替えることにしたい。

すなわち一つの企業が,好業績に結びつく「効率性」と倒産という事態を回避 する「健全性」を保って,継続企業として存在していくためには,ステークホ ルダーによるコーポレート・ガバナンスが欠かせないものとなる。࿑㧢は池貝 鉄工の 1955 〜 99 年の自己資本比率を見たものであるが,大きな欠損を出した 1984 年を境に,その前はつねに 40%未満で間接金融,その後は 50%を超える 年もあり直接金融に近いことが見て取れる。ここから,一般的には前半はメイ ンバンクによるモニタリングが,後半は株主ないし資本市場によるガバナンス が想定される。以下では池貝の場合を,それぞれのステークホルダーの視点か ら見ていくことにしよう。 

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(16)

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(1994)は,高度経済成長期の日本企業のコーポレート・ガバナンス は,一般にメインバンクをモニターとする状態依存型ガバナンス(

contingent

governance

)であったと主張する38。ここに状態依存型ガバナンスとは,企業

の経営状態に応じてコーポレート・ガバナンスの態様が変化する場合をいう39 池貝の場合高度成長期・安定成長期においては,日本興業銀行がつねに最大の 融資銀行であり,同時に 1959 〜 61 年は

No.

1 それ以降はつねに

No.

2 の大株主 でもあったから,興銀がモニターたるべきメインバンクであったと見てよかろ う。以下ではその興銀の状態依存型ガバナンスについて検討する。

 まず興銀は,比較的早い時期すなわち 1960 年から役員を派遣しており,池 貝に対する監視の必要性を感じていたことがわかる。そのメンバーは⴫㧡の通 り緒方茂夫・山本和三郎・舟橋邦夫・西野辰男の4名であった。ではその派遣 役員は十分にモニターとしての任に当たったのだろうか。高度成長期はともか く,⴫㧝が示すように安定成長期の池貝は完全に無配で過ごされた。つまり第 1節(1)の舟橋社長の例に見るように,有効な経営方針を打ち出すにやぶさ かではなかったが,その改善策をバイタリティをもって実行に移す能力は不足 したと考えられる。おそらく工作機械に対する専門知識も欠いていたろう。

 ついで興銀は 1984 年の経営悪化に際し,池貝に対して金利を半減(4%へ)

し返済を猶予する40など,最後の拠り所(

last resort

)としての機能を発揮 することになった。一般にWショック後の減量経営下の銀行離れがいわれる 中で41,池貝の場合࿑㧣からその救済に大量の資金が注入されていたことがわ

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(17)

かる。この結果 1978 年にやや回復が見られたものの,純利益は次第に低迷し 1984 年には 63 億 3 千百万円の欠損を発生。この点は池貝がソフトな予算制約

soft budget constraint

)に陥っていたのではないかが疑われよう。同業者で

それを指摘するのが,大隈鉄工所社長・大隈武雄(1985)である。「池貝鉄工は,

ずっと銀行出身の社長が続きましたね。(中略)銀行から経営者が来ると,金 もついてくるので,従業員が『おい銀行から来たぞ』っていうんで安心しちゃ うんだね。これが大きいんですよ。労使双方に,本当の意味での危機感が浸透 しない」42という。このような放埓な融資によるメインバンク・システムの機 能不全は,1980 年代の金融自由化の流れとも無関係ではなかろう。

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 以上からメインバンクによる状態依存型ガバナンスは,池貝のケースにおい ては,決して成功したとはいい難いものであった。この興銀のソフトな予算制 約が修正される契機となるのは,ツガミや東洋製鋼の社長を兼任していた大山 梅雄による 1984 年の社長就任であった。すなわち翌年,興銀など銀行はいっ

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(18)

せいに資金を引き揚げている(࿑㧣)。こうして池貝に一大変化が訪れる,す なわち株式金融への転換である。一般に多くの日本企業はバブル崩壊後直接金 融への方向性を進めるが,池貝はその先鞭を着けたともいえよう。

 この結果池貝の株主構成は,⴫㧢が示すように大山の関連企業と生命保険や 信託銀行などが占めるようになった。これら機関投資家は基本的にサイレント な安定株主であったと推測される。ちなみに興銀が大株主としてほとんどN

o.

2 の地位を維持していることは興味深い。この「所有と経営の一致」に近い大山 体制の下で,池貝は純利益の黒字転換を達成し,5%とはいえ復配を行い何と か持ち直すことができた。また࿑㧝㧙㧝から 1985 〜 91 年の売上高利益率は 89 年を除きJMDより優っていることもわかる。

 所有と経営の一致は両義的であって,プリンシパル=エージェントという 構造により,経営者のワンマン性から意思決定も迅速かつ機動的となり業績 を向上させることもあるが,一方逆に外部株主のモニターから経営者を隔離

entrenchment

)させることとなって,経営者のモラルハザードを招くことに

もなりかねない43。大山のケースが前者であれば,稲川昭二の場合の中国進出 や度重なるM&Aなどのリスクテイキングな拡大策は,まさに後者であったと 評価できよう。

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(19)

 では資本市場のガバナンスは機能していたのであろうか。それをラフに観察 しようとしたものが࿑㧤である44。同図は池貝の各年の株価の最高値と最安値 を示す灰色のゾーンにその売上高利益率を重ね合わせたものである。同図によ ると 1984 年以降は,株価形成を通して企業評価を行う場としての株式市場の ガバナンスは機能しなかったといえよう。たとえば売上高利益率が1%台を低 迷した 1986 〜 89 年の 4 ヶ年の平均株価(中間値45)は 532

.

5 円であり,純利益 が赤字転落した 1993 〜 1995 年の 3 ヶ年の平均株価でも 368

.

3 円をキープして いた46。これらの株価は 1984 年以前の推移と比較して理不尽なものである。バ ブル経済の影響に加えて,大山や稲川の派手な企業家活動が投資家の判断を攪 乱させたのかもしれない。

 結局,池貝は上海電気集団からM&Aを受けることになるが,見方によっ て は そ の 事 実 は コ ー ポ レ ー ト・ コ ン ト ロ ー ル 市 場(

market for corporate

control

)における淘汰とも解釈できる。

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(20)

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 池貝鉄工は,今日ではMCのヤマザキマックや森精機製作所,小型旋盤のシ チズンマシナリーやツガミ,NC装置の三菱電機に大きく水を空けられてい 47。したがって高度経済成長期後,中国国有企業によって買収を受けるまで の池貝の経営不振は,工作機械という業種の難しさにあるだけではなく,本節 で述べたようにメインバンクの機能不全と安定株主の下での経営者のモラルハ ザードにあったと筆者は考える者である。 

⻢ㄉ インタビューを快諾して頂いた株式会社池貝・本社の長谷川一夫氏,お

よび上海池貝・現地法人の加地勇氏には,この場を借りて深謝申し上げたい。

1 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,122 頁。

2 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,3 〜 32 頁。

3 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年。

4 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,102 頁。但し,樫藤鉄工は非上場で財務データが 不明でありJMD平均の計算に加えていない。

5 『日本経済新聞』1984 年 4 月 19 日号。

6 『日経産業新聞』1984 年 6 月 30 日号。

7 『日本経済新聞』1984 年 12 月 19 日号。

8 『日経産業新聞』1985 年 4 月 22 日号。

9 『日本経済新聞』1984 年 4 月 19 日号。

10 この数値は『会社年鑑』からは確認できない。

11 『日経産業新聞』198 年 4 月 22 日号。

12 1987・88 年の配当性向は高くやや安定性を欠く。

13 しかし現幹部からは大山に対する否定的な意見が聞かれる。

14 『日経産業新聞』1994 年 1 月 27 日号。

15 『日経産業新聞』1993 年 2 月 22 日号。

16 図2には資料的制約から長岡技研が含まれていない。

17 『日経産業新聞』1994 年 3 月 7 日号。

18 『エコノミスト』2004 年 10 月 11 日号。

19 『日経金融新聞』1996 年 5 月 14 日号。

(21)

20 池尾和人『現代の金融入門』筑摩書房,2010 年,173 頁。

21 『日経金融新聞』2001 年 3 月 1 日号。

22 『日本経済新聞』2001 年 3 月 1 日号。

23 『日経産業新聞』2001 年 5 月 17 日号。

24 人数については,390 名(『日経産業新聞』2001 年 3 月 1 日号)というものや 600 名(『日経 産業新聞』2006 年 2 月 20 日号)という資料もあり判然としない。

25 全員解雇後一部再雇用というのは矛盾した処置であるが,労働組合対策と考えられる。

26 『日経産業新聞』2001 年 3 月 21 日号。

27 『日経産業新聞』2001 年 5 月 16 日号。ここでは 15 社となっているが,࿑ に見るように 10 社しか把握できなかった。

28 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,105 〜 106 頁。

29 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,99 〜 104 頁。

30 国内 3 営業所,海外 2 駐在員事務所などに,約 150 名の営業マンを配置し,代理店網も整 備したとされるが,販売戦略に関する記述はない。ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,

138・139 頁。

31 ダイヤモンド社編『池貝鉄工』1969 年,114 〜 142 頁。

32 これら「事業部」は,開発・製造・販売を行う自律的な事業単位と考えられる。

33 インタビュー 2010 年 8 月 5 日。

34 

http://www.shanghai-electric.com/en/

35 『日経産業新聞』2004 年 8 月 5 日号。

36 『日経産業新聞』2004 年 8 月 5 日号。

37 インタビュー 2010 年 8 月 5 日。

38 A

oki,

M(1994)

, The Contingent Governance of Teams : Analysis of Institutional Com- plementarity, International Economic Review

35

:

657

-

676

.

39 青木昌彦・奥野正寛編著『経済システムの比較制度分析』東京大学出版会,1996 年,203 頁。

40 『日本経済新聞』1984 年 4 月 22 日号。

41 橋本寿朗『戦後の日本経済』岩波書店,1995 年,200 頁。

42 日本経済新聞社編『日経ビジネス』1985 年 4 月 29 日号,78

~

80 頁。

43 宮島英昭『産業政策と企業統治の経済史』有斐閣,2004 年,472 頁を参照。

44 一企業のケースではサンプル数の関係上回帰分析はなじまない。

45 

(

最高値

+

最安値

)

/ 2

46 ここではタイムラグを考慮せず,ある期のパフォーマンスが同期の株価に影響を与えると いう前提に立っている。

47 日本経済新聞社編『日経業界地図 2011 年版』2010 年,38 頁。

提出年月日:2011 年 12 月1日

参照

関連したドキュメント

八幡製鐵㈱ (注 1) 等の鉄鋼業、急増する電力需要を背景に成長した電力業 (注 2)

※短期:平成 31 年度~平成 32 年度 中期:平成 33 年度~平成 37 年度 長期:平成 38 年度以降. ②

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経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

※短期:平成 30 年度~平成 32 年度 中期:平成 33 年度~平成 37 年度 長期:平成 38 年度以降. ②

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