球大学学生新聞』を中心に
著者 我部 聖
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 38
ページ 509‑554
発行年 2012‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00007971
アメリカ占領期(一九四五~七二年)の沖縄の社会、文化状況を考察するうえで琉球大学の存在は
重要である。また琉球大学の学生が沖縄の社会・文化運動に積極的にかかわっていた事実も見逃すこ
とはできない。これまで琉球大学の学生の文化運動については、一九五三年に創刊された文芸雑誌
(1) 『琉大文学』が広く知られている。しかしながら、琉球大学の学生たちが一一一口葉を通じて表現を試みていたのは、「琉大文学」だけではなかった。琉球大学が創立された一九五○年に創刊された『琉球大学学生新聞』も、アメリカ占領下の沖縄に生きる人びとの置かれた状況を発信する重要なメディアで
(ワニあった。だが、これまで『琉球大学学生新聞』に関する研究はほとんどない。本稿では、一九五○年 はじめに
琉球大学における表現と検閲
一九五○年代『琉球大学学生新聞』を中心に
我部聖
「琉球大学学生新聞」は、琉球大学創立と同じ年の一九五○年八月に琉球大学学生新聞会によって
(3) 創刊された。琉球大学編『十周年記念誌』によれば、「新聞会」は、一九五一一一年に「新聞クラブ」と名称を変更し、五六年には「全学生を代表するような性格」に発展していく。そして、「予算の拡大
と新聞発行の活発化を図ろ」ために「クラブから新聞部への昇格が認められてクラブ組織とは別に独立」し、「予算も学生会予算と一般学生からの購読料、広告料」でまかなっていたという。五六年には「土地問題」などに関連して「発行停止」にあい、五八年には「伏字新聞の発行」が問題となる。同じ五八年には「人事面で一」たつき一時衰退した」後、活動を再開し、六○年には名称も「新聞会」
と改まり、「質も大きく変化」していった。「最近では社会問題を主体に殆ど全面が学生の論調」で占められ、「会員の行動を主体とする社会活動も目立ってきている」と記されていた。以上は、琉球大学が創立して十年の段階でまとめられた記述だが、「琉球大学学生新聞』の創刊号から第二四号まで 代に琉球大学の規則に定められていた「事前検閲」に表現が拘束されていくなかで、「琉球大学学生新聞」に集う学生たちが、どのように検閲の網目をくぐり抜けて言葉を紡ぎ出そうとしたのかについて考察していきたい。
学生準則と発行停止
(6| 現在公的な機関に所蔵されているのは、一九五五年に発行された第一七号だけである。こう1」たことからも、「十周年記念誌』の記述は、一九五○年代半ばまでの『琉球大学学生新聞」の動向を把握するうえでも貴重な記録といえる。本稿で特に注目したいのは、五六年の「発行停止」と五八年の「伏
字新聞」の発行である。この二つの出来事を考えるうえで、当時の琉球大学の「学生準則」と「学生心得」に注目したい。
「琉球大学学生準則」は、一九五二年一一月一一日に施行されたものだが、この「学生準則」の成り立ちには問題があった。一九五二年一○月に琉球大学政経クラブの学生たちは、機関誌『自由」を発行した後、琉大当局によって機関誌の回収と謹慎処分を一一一一口い渡された。謹慎処分を受けた学生たち
は、謹慎期間中に朝鮮戦争に関わる「燈火管制」に従わず、また春休みに「原爆展」を開催するといった動きを見せていき、さらに一九五三年五月のメーデーでは、処分の撤回と当時の琉球大学副学長安里源秀の退任を要求したのである。この学生たちの一連の動きに対して、琉大当局は、「学生準
則」に違反しているとして、四名の学生に退学処分を命じた。だが、その「学生準則」は開学時からあったものではなく、機関誌「自由』が発刊された後に設けられたという事実を見逃すべきではな
(7) い。また学生四名を退学処分にした背景には、一九五○年に開戦した朝鮮戦争のざなかであること
や、「共産主義」弾圧をもくろむ米軍の動きが活発化してきたという歴史的な文脈もあった。むろんそのことだけから、この「第一次琉大事件」を米軍による介入とはいえないが、米軍占領下の琉球大
(8) 学の位置●を考えるうえで注ロ□すべき事件といえよう。
「琉球大学学生準則第一二条(出版)」には、「学校の内外を間はず学生が新聞、雑誌、パンフレットその他を出版せんとするときは事前に学生課に原稿を提出し副学長の承認を受けなければいけな
(9) い」と記父これていた。この「学生準則」に定められた「事前検閲」については、’九五一一一年に創刊さ
れた「琉大文学」でも問題視されていた。たとえば、川瀬信(川満信一)は、「沖縄文学の課題」(『琉大文学」第七号、一九五四年二月)のなかで、沖縄で文学作品を発表することが困難な状況に
ついて、次のように指摘している。
だ○ から結極文学は日の目を見ずに終らねばならぬ。 な歪みを強いられたり、消滅を余儀なくさせられる。発表前に之らの諸制度が拘束を、もつのだ 制度や規則、条文等々の文学の外の力が文学そのものに強力な支配権を示す場合、文学は大き
文学が発表を前提とする限り、こうした制度の存在は致命的な関所である。|応は成功した作品でも、それが真実であるために風あたりの強い内容をもつものには、新聞の編集部や、学校の
ママ準則、更にその上の種々の機関でひか、ってしまうということになる。それで終ればまだ良い方
例へどんな事にもせよ、私達が話したり、書いたりする場合一一一一一口一句、それが真面目な言辞で
ここで川瀬が言及している「学校の準則」というのが、「琉球大学学生準則」のことである。川瀬の文章が発表された当時は、新崎盛暉が指摘するように、一九五二年から一九五六年五月までは、米軍が弾圧を行なう「沖縄の暗黒時代」であった。一九五一一一年二月に沖縄を訪問したニクソン副大統領が「共産主義の脅威ある限り、米国は沖縄を保有する」という声明を発表したように、沖縄の基地
の固定化とともに、反米的な行為(復帰運動を含む)は「共産主義」として狙われていった。米軍は、沖縄の政党のなかでも特に人民党を「共産主義政党」と名指しして弾圧に乗り出し、一九五四年
{Ⅲ) には人民党員一一八名が逮捕される「人民党事件」が起きた。こうした思想・一一一一口論弾圧が強化されるなかで、琉球大学の学生たちが表現を試みていたということは、看過すべきことではないだろう。
『琉大文学』についても、先の川獺の文章が掲載されたロ万の次号である第八号(’九五五年二月)殿 が、「学生準則」に定められた「事前検閲」に従っていたにもかかわらず、発行後に琉大当局によっ厳
て回収される事件が起きている。その後も『琉大文学』はロ万を重ねていくが、「学生準則」が表現者ぉの、心を縛る柳となっていたのは間違いない。
この「学生準則」について、「琉球大學新聞』第一七号(’九五五年一○月二五日発行)では、「学嚇
一吃)生準則の大幅改正は不可能/相互理解による協力を/正副学長と一問一答」という記事を一面でとり皿 {、)あればある程自分の周囲●を不安なロロで見回さなくてはならない現状であるからだ。
あげていた。このときの学長は安里源秀、副学長は仲宗根政善であった。この記事のなかでは「学生準則」について、次のようなやりとりが掲載されている。
学長
問学長
副学長 問学長問副学長
問
現在の学生準則についてどう考えるか?
現在厚生委員会で検討中である。特に現準則十二条については?日本の大学と全く同じようにすることは出来ないのではないか、現在は特殊な立場におかれており、充分な自由が与えられているとは云えないから。新聞の様に時間的に拘束されているものは、学生課を通らずにすぐ副学長の処へ来る様
にしてもらい度い。
編集を顧問教官と一緒にやってはどうか?顧問教師にそれだけの時間はないものか?十二条の承認という規定の副学長を学長に代えるというようなことも聞いているが。今のままで良いと思う。今までの何か、もやもやとしたものを取り除き、相互に理解し合いつつやっていかねば
一脳)ならぬ。
のちにこの「表現の自由を拘束」する「学生準則」に定められた「事前検閲」によって、『琉球大學新聞』は、発行停止に追い込まれていく。一九五六年に「琉球大學新聞』が発行を一時停止させられたことについて、大田昌秀・辻村明『沖縄の言論」には、「「学生処分」に対する反響を扱った『琉 他にも「琉大新聞部で、マルクス経済学の記事を取り扱っていたら、本学の理事が、あれはマルクスの宣伝であるといったそうだが」という問いに「そんなことは聞いていない。しかし民主党の議員
(M〉の話しているのは聞いた」と安里学長が答えるような興味深い記事もあるが、『琉球大學新聞」第一七号には他の記事でも「学生準則」を問題視している。たとえば、社説にあたる「論説」欄では、「学生準則は学生の自主性を奪うものであることは今更
此処でチョウチョウを要すまい」と述べた後、にもかかわらず、法律が専門の教員ではなく体育の教
員が委員長である補導委員会で検討中であることに怒りの矛先を向ける。
何故、此の委員会で学生準則を検討するかが我々には理解出来ないのである。[中略]昨年以来あれ程学生の人間としての自由、特に表現の自由を拘束して来た此の準則が、単に事務的な検
討だけに止まっては学生は承知しないだろう。/表現の自由を拘束するという事は、人間から恩
一遍)考を奪い、一一一一口葉を奪うという事と同義語である。
球大学学生新聞』第二四号二○月一日発行予定)が大学当局の検閲に引っかかり発行停止になつ
く旧)た」と述べられていた。しかしながら、『琉球大學新聞」第一一五号(一九五一ハ年一一一月一一五日発行)の「編集後記」には次のような記述が見られる。
この記述から、第一一三号(一○月一日発行予定)と第一一四号(’一月一○日発行予定)が検閲に(旧}引っかかったと指摘することができるだろう。「編集後記」は以下のように続く。 我が新聞部では十月一日を発行目標に四面新聞の準備を進めてきたのでありますが検閲をパスすることができず、没になり、更に十一月十日発行予定の二十四号も一部原稿のパスを見ず、休刊声明を発表しようと田心いましたが、緊急部会により、自然休刊を続けました。
このまま年を越すにはどうしても忍びえず、我々としては、この重大なる使命を全うすくく、忍耐強く努力を続け、十二月一一十一一日予定で四面を準備したが、年末を控え、新聞社では印刷に支障をきたすとのことで、やむなく二面に削減した。しかし本号も我々の意図した記事が全部パスしたのではなく、三日徹夜で書いてもらった「学内その後の動き」の解説を没にしなければなら
〈旧)なくなり全く失望致しました。
このようなかたちで発行された第二五号には、当山昌信の「農民」、宮城美智子の「スクラップ」という表題の短歌が掲載されていた。当時、宮城の「路傍に出し盲目の人の蛇皮線を奏でる様子を撮
る米人達」という歌は、「二のシ日の昌目庁禺のロOご[のm・ヰヶの三己ロ]昌旨、Sのの四目の①ロ・ロ弓の(加)烏○四』の己の」と翻訳されていたことが、米軍の検閲資料から明らかになっている。宮城の短歌が翻訳されているのは、琉球大学の学生が除籍処分を受けたうちの四人が名を連ねた『琉大文学』のメンバー
であったからであろう。
’九五六年の沖縄では、米軍基地建設のための土地接収を認めたプライス勧告に抗議する「島ぐるみ土地闘争」が起きていた。その抗議デモに参加した琉球大学の学生が「ヤンキーゴーホーム」と
いった「反米的な言辞」を弄したという理由で、学生六名が除籍、一名が停学となった。この処分を受けた七名の学生のうち、『琉大文学』のメンバーは四名であった。こうした一連の弾圧は「第二次
〈皿〉琉大事件」と呼ばれているが、すでにこの年の一二月に発行された「琉大文学』第二巻第一号(通巻一一号)は、「学生準則」に定められた「事前検閲」に従わなかったために、雑誌は発刊停止となり、文芸部も半年間の活動停止処分を受けていた。この「第二次琉大事件」における学生処分問題を紙面にとりあげようとする新聞部の書き手たちは、『琉大文学』と同じように検閲のまなざしにさらされていることを認識していたと思われる。し
かしながら、それは一一一一口葉による表現を試みている学生だけに起こりうる問題ではなく、琉球大学の学生が「反米的」というレッテルを貼られて処分される可能性があるからこそ、二度にわたる発行停止を受け、さらに作成した四面が削られようとも、「第二次琉大事件」の起きた一九五六年のうちに新聞を発行しようとしたのではないだろうか。削られた「学内その後の動き」を読むことはできないが、タイトルという痕跡が残されることによって、読者は、表現されなかった衝動を読み取ることが
できるのである。
そもそも『琉球大學新聞」の号数は「第二五号」になっているが、たとえ校正まで行っていたにしても前号に続けて第一一三号として発行することもできたはずである。発行できなかった号数をカウントし、紙面のなかで経緯を書き記し、また四面が二面に削減されるなかで「学内その後の動き」が没になった事実を叙述することで、「第二次琉大事件」について書くことの困難さを浮き彫りにしたとはいえまいか。一見すると検閲によって紙面が傷だらけになって一一一一口葉を取り繕っているように見えるけれども、そのほころびの糸/意図や空白の穴を見せることで、逆に傷を受けた背景を読者に想像させることができるようになっていた。新聞をそのような満身創瘻のかたちで発行すること自体が、学
生たちによる抵抗の表現となっていた。
つまり処分撤回を要求することは処分学生たちに不利になるという論理を、「転学」を画策する琉大当局の「誠意」と結びつけて説明しているのである。また、「座談会思い出を語る」のなかで、「処分学生問題」も話題となるが、参加者の発言からは
「学生間にも対立的なものがあった」とか「学生会長と委員長(土地特別委員長)が権限争いをした」 当時の『琉球大學新聞」には、「第二次琉大事件」後の状況が色濃く彦み出ていた。続く第二六号(一九五七年三月一日発行)は卒業式にあわせて発行したためか、「学生処分問題」を報じる紙面はトーンダウンした印象を受ける。たとえば、事件後に初めて行われた「第三回定例総会」(一九五七年一月二四日)を伝える記事のなかで、処分撤回要求に関する学生会長のコメントが紹介されている。 二学生心得と伏字新聞
当局がこの問題解決に当たる対策をたてている時、撤回要求などが出ると問題をこじれさせ、良くない結果が予想される。当局の具体的方針とは処分学生の転学か復学かの見通しがついている事である。当局の態度は私も最初納得がいかなかったが、昨日の話合によりその意図を(つま一・脚一一り転学か復学か)総会で伝えて良いと一云っているので当局の誠意と明るい見通しを信じている。
などと問題を倭小化して語る傾向も見られる。それに対して「土地委員の一人」で、『琉大文学』同
人でもあった平山良明が「両方が相反した一一一一口動」をとっていなかったことを指摘したあとで、「処分学生に対して一方的な見方はあまり正しくない」という意見を述べていた。卒業生でもある平山は、
「処分学生の明るい見通しも出ずに卒業するのは淋しくてならない。これからこの様なことが又とお
こらぬ様に祈っている」という言葉を残していた。また、平山は、「途切れ途切れに平和の歌うたい(泌一ながら除籍されし学友と校門下る」という短歌を残している。
年度が変わり、一九五七年度になると、「学生準則」は「学生心得」と改められた。それに対する琉大当局の見解が『琉球大學新聞」第二七号(一九五七年五月十日)に掲載されている。
I学生準則を学生心得に変えた理由は当局これは学生の要望により心得にしたのであり別にどうしても心得にしなければならないと
いう理由はない。
l学生の要望とは逆に強化きれた点もあるが、例えば九条の学生会の顧問に教務部長をつけ
たことや十八条の集会など当局今までは手ぱなしの状態だったが学生会の要望を取り入れて顧問をつけて学生会をスムースに運営させるようにした。原則的立場からして顧問を置くのに対しては疑問はない。大学
この記事によれば、そもそも二学生準則』を『学生心得」に改めてもらいたい」という要望は一九五五年五月の学生会総会で内容の一部改正とともに学生側から求められていたという。だが、実際には名称が「学生心得」に改められただけで内容は学生の要望に沿うものではなかった。たとえば、
問題とされた「学生心得」の第九条は以下のとおりである。
さらに「学生準則」がどのように変更されたのかについて、「学生準則」と「学生心得」を比較してみることにしよう(傍線は引用者による強調)。
学生の集会は、原則として二日前までに顧問教官の承認を経て所定の集会願を学生課に提出し、副学長の承認を受けねばならない。/副学長は、必要と認めたる場合補導厚生委員会の意見 学生が全学生を会員とする学生自治体を設立しようとするときは、教務部長を顧問教官とし、その助言を受け、責任者三名以上の連署の上規約を添え副学長の承認を受けなければならない。一躯)(学生、心得第六章団体及び集〈五第九条) (釧一入学ヱコ時は大学の規則に従うとの約束で入って来たのだからきみらはそれに従う義務がある。
この「集会」に関する「学生準則第九条」と「学生心得第十八条」は、一見するとほとんど違いがないように見えるが、「補導教官又は顧問教官の助言を受け」るというのは、教官の権限が強化され学生には無一一一一口の圧力がかかることになる。また大学施設の使用について許可制を明文化することで学生の動向をより管理しようとする意志が明確に現れている。このように「学生心得」が学生の行動をいっそう規制していく状況について、『琉大文学』の中里友豪は、同人たちと「ある場所に集まって相談」した翌日には副学長の仲宗根政善の下に情報が流れることがあり、学生のなかにスパイ 学生又は学生の団体が本学の建物、施設、又は物品を使用しようとする場合には、予め所定の手続きにより学長の許可を受けなければならない。使用の許可を受けたものは、使用について責一蝿)任を負うものとする。(学生心得第六章団体及び集へ云第十九条) 学生又は学生の諸団体が集会をしようとするときは、補導教官又は顧問教官の助一一一一口を受けその期日二日前までに副学長の承認を受けなければならない。(学生心得第六章団体及び集会一幻)第十八条) (恥)●を徴するjbのとする。(学生準則第九条集会)
「学生準則」において「事前に学生課に原稿を提出し副学長の承認」を受けることから、「学生心得」においては「事前に補導教官又は顧問教官に原稿を提出し、その助言を受け副学長の承認」を受
けることになった。つまり「補導教官又は顧問教官」の「助一一一一巳による指導を明文化することで、表現活動を規制しようとしていたのである。このように検閲/監視が強化されていくなかで、「琉球大学学生新聞』第三○号(一九五八年七月 がいて、「あちこち、小さな集会があった」が「全部筒抜けになっていた」というように、集会の白一羽)由が奪われていたことを証一一一一口していた。次に「出版」に関する項目を対照させてみよう。
補導教官又は顧問教官に原稿を提出し、その助言を受け副学長の承認を受けなければならない。
|釦〉(学生、心得第八章出版第一一一条) 生課に原稿を提出し副学長の承認を受けなければいけない。(学生準則第一
学生又は学生の諸団体が新聞、雑誌、パンフレットその他を出版しようとするときは、 学校の内外を問はず学生が新聞、雑誌、パンフレットその他を出版せんとするときは事前に学一加}一一条出版)
事前に
|四日)は、二千三百字余りが「△△△△△△」という伏せ字で埋められた状態で発行された。この伏せ字の部分は大田昌秀によれば、「第一一一回定例学生総会での決議全文、すなわち百用国ご持込み及び原水爆基地化絶対反対』と「勤評は教育の反動化』と題する学生の主張、ならびに原水協設立の〈犯}ニュースがふくまれていた」という。それは、一号前の第一一九号(一九五七年一一一月七日)における、「第一回定例会/原水協設立への協力/声明文を決議」という記事と符合している。そもそもこの伏字の記事じたいは、第三回定例学生総会の報告で、予算審議を経て総会の最後に提案された緊急動議の決議文全文を紹介しようとしたものである。そして、「ここの決議文全文(I.R・B・M持込み及び原水爆基地化絶対反対、勤務評定絶対反対)は学校当局の検閲により削除二六三行T編集部こ主た「『原水協設立の動き」の記事及び大城学生会長の談話は当局の検閲により削除」、三学生活動一般方針』は学校当局の検閲により削除」と書き記されていた。
新里盆弘の「勤評は教育の反動化」の冒頭にも△の伏せ字が並んだ後に、「此の部分は教育布令一六五号の公布と実施及び、教育四法の認可による、その撤廃更に琉球政府首脳部の最近の動きについての考察がなされているが大学当局の検閲により削除(二十四行)」という言葉が続いていた。この伏せ字のまま新聞を発行した意義について、のちに同紙は第四○号(’九六○年四月二五且の「編集後記」のなかで「琉大学生新聞史上歴史的な大きな成果と反響をまきおこした」と位置づけている。すでに第三○号の「編集後記」には次のような記述が見られる。
このような伏せ字による発行を試みたのはなぜだろうか。そのひとつの手がかりとして、学芸欄に
注目してみたい。第三○号の学芸欄には、岡本定勝の詩「六月のうた」、知念友男の「出口のない戦
ママ争Iアルジェリア問題とフランス」「人間と実存(上)」、矛盾グループの「いじらしき抵抗えの一批判」が掲載されている。なかでも執筆者が明記されていない矛盾グループの文章は、概念を消化で
きないままの硬直した言葉で書きなぐられているが、それは学生運動の停滞を嘆く心情から出てきて
いる。その心情は、「姫百合の乙女等が岩に刻んだ爪の跡、鉄血勤皇にすべてをかけた健児等の歌、これらは二度と歌いそして経験してはならない」「彼等の無一一一一口の教えを吾々は再考すべき段階に時代は来ているのである」「吾々が原水爆基地化に反対するのは単なる掛け声でもなければ理論でもない。
(釧一五口々の経験が云うのだ」という考えから導き出されたものである。沖縄戦によって命を奪われた人た
ちの無言の歌に耳をすませながら「原水爆基地化に反対する」姿勢が「伏字」による抵抗の表現を選
んだとはいえまいか。そしてまた死者と向き合う姿勢は、別の表現者の言葉の響きをたぐり寄せてく 今回我々の新聞が伏字で発行しなければならなかったことを残念に思う。この件で当局と再三折衝を重ねて来たが拒否された。再びこのような新聞が我々の前にあらわれない為に全学生に訴(鋼}えたい1・「検閲制」を廃して「届出制」にする運動を強力に展開してもらいたことを。
フ(》。
一人のささやきが百人の叫びになるまで
一人のききやきは消えはしない
冷静という口実で沈黙を守る者たちよ君たちは聞くであろう。夜、寝床にはいるとき、
あるいはねむりについたとき
遠くに聞こえる潮騒の中にかすかに聞こえる枯木の梢の風の音に耳をつんざく爆音の中に
海に消えた息子の
山にたおれた父の
空に散った兄の血に染まった叫び声を
その声はけっして沈黙せよとはいっていないはずだその声は無批判に信ぜよとはいってないはずだ
またここで「第一次琉大事件」で処分された学生たちが、朝鮮戦争に関わる「燈火管制」に従わず、また春休みに「原爆展」を開催した背景には、沖縄戦で亡くなった学生たちの存在があったこと これは、中里友豪が『琉球大学学生新聞』第二九号(一九五七年一二月七日)に発表した詩「たとへば長い灰色のこ」の抜粋である。詩の末尾に「(’九五六・’一・一三)」という日付が刻印されることで、「第二次琉大事件」によって学生たちが除籍処分を受け、それに対して学内が「沈黙」に覆われていた状況を表しているといえるだろう。そしてその沈黙を破ることを呼びかけるのは死者たちの声である。 珊瑚礁の上に諦観の思想が芽を出した珊瑚礁の上に大きな腫物が出来た人々はカマを握るのを忘れた人々はメスを持つのを恐れたしかもそれらは
(箔》誰にでも手のとどく所にあるのだI. しかし、君達は黙っている
これら三者の表現に共通するのは、戦死者の呼びかけに耳をすませて応答しようとする姿勢であ
る。そして彼らが沖縄戦の戦場とアメリカ占領下の現状を結びつけながら戦争につながるものを批判している点を見逃してはならない。米軍は発行停止や回収によって、何もなかったかのように検閲の実態を隠蔽しようとした。それに対し、「琉球大学学生新聞』があえて伏せ字を用いたことは、伏せられた文字と検閲の存在を絶えず読者に喚起させる。それは、沖縄が「太平洋の要石」として軍事植民地化されていくことによって、戦争に巻き込まれる現状に対して思考を停止しないように呼びかける表現であった。そして、その表現に向かう背景には、同時期に執筆活動をしていた「琉大文学」の存在があったのではないだろうか。 を思い出しておきたい。
かって我々の先輩達は帝国主義を吹きこまれ、銃をかつがされて戦場に追いやられました。またこの沖縄では姫百合、健児の悲劇で若い学生達が虐殺されました。そして現在、琉球の学生たちは植民地教育によって再び戦争への道を歩まされております。もしわれわれが今沈黙をうち破って、平和と祖国復帰を高らかに訴え一日でも早くそれを実現しないならば、この琉球が嘗て
(鍋}歴史になかった程の悲惨と滅亡の深淵におちこむことはあきらかです。
『琉球大学学生新聞』の主だった執筆者が新聞部の部員であったことは紙面からうかがえるが、学芸欄に関しては少々様相が異なる。学芸欄を見ていくと、喜舎場順、宮城妙子、宮城美智子、いれいたかし(伊礼孝)、ぎますすむ(儀間進)、清田政信、中里友豪、岡本定勝、東風平恵典、松原伸彦、城原啓司、新城貞男(新城貞夫)、宮平昭、新城兵一といった名前が並んでいるが、みな『琉大文学』の同人である。彼ら彼女らは学芸欄において、詩や短歌や批評を発表するだけでなく、『琉大文学』
を批評することもあった。『琉大文学」同人がどういった経緯で『琉球大学学生新聞」に執筆するようになったのかについて閲
は、紙面から判断することは難しい。だが、「琉大週報」第一八号二九五八年五月五日)では、学殿 生新聞の学芸欄の充実を呼びかけている。「〈主張〉大学新聞を再刊しよう」は、「現在、学内で最も厳
必要なもの、一つは、大学新聞の再刊である」という訴えから始まる。そして、「学生教授事務職員ぉそれぞれの要望を伝這える媒体として、新聞は大学生活に不可欠なもの」であり、「さらに、文芸欄を牌 充実し、青春に溢れる学園生活を詩によみ、激しい社会の変動を歌に、文に托すとき、われわれの情鰍
(幻)操は、よりゆたかになる」と述べていた。 三『琉球大学学生新聞」の学芸欄と『琉大文学』この『琉大週報』が出るまでの学生新聞を見てみると、第一七号(’九五五年一○月二五日)の学芸欄には、服部四郎の「沖縄と琉球大学の印象」や「ダニ熱の診断」「シノグを見る」「蛋白質とアミノ酸の栄養」といった研究レポートが並ぶなかで、喜舎場順の詩「シダの葉11ひめゆりの塔にて」が掲載されている。
二両向【□少呂のシカゴの若者たちが
笑ってポーズしている 太陽はあ碑の前では 七月の海の藻草がおしよせる波の悲しみを知らなかったのか?そてつの葉の下のふくれあがった屍の黒い蝿のつばきの音が消えてしまったのか?[中略]
あだんの葉影からも見えた
また、第二六号(一九五七年一一一月一日)では、教員に混じって、ぎま・す、むの「沖縄文学批判覚え書きl民族文学の新たな脱皮と発展」とミャギタエコ(宮城妙子一の詩「だるま」が並んでいた。続く第二七号(’九五七年五月一○日)の学芸欄には、清田政信が詩「ひからびた風景」を、いれいたかしが沖縄芝居を評した「沖縄に於ける大衆と大衆劇の問題」を発表している。また第二九号(一九五七年一二月七日)には中里友豪の「たとへば長い灰色のこ」、宮城妙子の「朝に」などの詩が紙面に登場していた。もちろん、「文芸欄の充実」とは、必ずしも学生による表現を指していたわけではないだろうが、『琉大文学』同人が参加することで紙面に個性が表れてきたのも確かである。一九五八年に限っても、岡本定勝の詩「六月のうた」(第三○号、一九五八年七月一四日)、東風平恵典「映画評『武器よさらぱ』」、清田政信「本土旅行から」(第三一号、’九五八年一一月一九日)、森山繁の俳句「冬の川」、岡本定勝の詩「煙」(第三一一号、一九五八年一一一月五日)など、『琉大文学』 うごめいている暗い穴のぬれたシダの植物の葉は一葉の記念写真でしかなかった 隠蔽された怒りが
同人の作品が掲載されていた。’九五八年に『琉大文学』は第二巻第五号(通巻第一五号、一九五八年五月八日発行)と第六号
(通巻第一六号、一九五八年一二月六日)を発行しているが、両号ともに編集責任をつとめたのは、中里友豪、岡本定勝、清田政信であった。中里は部長を引き受けた頃に学生課に出向き、「今後絶対検閲を受けない、問題が起こったら僕が責任を取るからと言って、そのまま出し続けた」が、「何と一羽)もなかった」と検閲を拒否した経緯をのちに証一一一一口している。このように検閲を拒否して表現活動を続けていた「琉大文学』同人たちの批判精神が「琉球大学学生新聞』第一一一○号(’九五八年七月)の「伏字」という表現に流れこんでいたのではないだろうか。『琉球大学学生新聞」と「琉大文学』とのかかわりについて、もうひとつ別の角度から注目したい点がある。同紙上において『琉大文学』の同人たちが『琉大文学』を評する試みである。「琉球大学学生新聞」の第三七号(一九五九年一二月四日)では、東風平恵典が「モチーフの乏しきl「琉大文学」二巻七号の作品から」を書いている。東風平は、『琉大文学』第二巻第七号(通巻第一七号、’九五九年七月八日発行)の「発刊からすでに四ヵ月が過ぎようとしている」時点から文章を書き始め
る。
その間ぼくたちにあったのは正直な所、自己満足から自己嫌悪への反復回帰のみだという自覚
東風平は、なれあいのような状態からの脱却を求める問題意識から「二巻七号」を読み返し、雑誌
全体を多う「モチーフの乏しさ」を指摘していった。また第四二号(一九六○年五月一一五日)では、
松原伸彦と城原啓司が「沖縄の危機的現実とはl『琉大文学」第八号の感想批評」と題して『琉大文学』第二巻第八号(通巻第一八号、’九五九年一二月)の批評・小説・詩を評していた。
ざらに、第四三号〈’九六○年六月一七日)では、清田政信が「愛されるということはl琉大文
学(二巻九号)批判」を書いている。詩人の清田は、主に詩や詩に関する批評を書いていた。だが、この文章では珍しく『琉大文学』第二巻第九号(一九六○年五月二一一一日)に掲載された小説を評していた。詩を評するときと同じく作品の論理性や必然性を厳しく問いかけていく。福地恒夫の「証言の成立」において主人公が「自分の予感がこんなに見事に的中したことが、あっけなく思うほどだっ
た」とつぶやいたことに対し、「作者自身『証言の成立」が意外にも早かったのにあっけなく思わなかったろうか」と述べて、小説内の不用意な表現と物語の展開の問題点を指摘する。また、城原啓司 だけのようである。それに、ぼくたちが雑誌発行の度に感じて来たのは、お互いの作品がわかり過ぎる位わかるという事でもあった。ために、自然合評会は軽視され、作品は粗雑な処理を受ける事になる。この事は、今後ぼくたちが意欲的な創作態度を持ち続けて行くのに一つの障壁にな{抑}る事は明かな事だろう。障壁は破壊しなければならないことも又明らかだが。
の「坊僅」について、「消化されてない一一一一口葉の濫用も目につく」と指摘したように、言葉の問題を手放さずに小説と向き合っていたといえるだろう。このように『琉球大学学生新聞」の学芸欄を使っ
て、『琉大文学』同人たちは『琉大文学』の相互批評をおこなっていたのである。〈㈹)また、この相互批評的な展開に対して、安里史英は「ナルシストの演技」(第四四号、一九六○年七月一五日)で「琉大文学』を批判し、それに対して第四五号(’九一ハ○年一○月一一○日)で平逸郎(翅〉が、第四六号(’九六○年一一一月一日)で松原伸彦がそれぞれ反論したように、「琉大文学』をめぐって論争が繰り広げられていった。本稿では十分に論じられなかったが、『琉大文学』同人の多くが『琉球大学学生新聞』に作品を書いていたことは、『琉大文学」とは異なる表現の場において一一一一口葉による表現を通じて思考することの
可能性を提起しようとしていたからだと考えたい。新聞の表現は多くの読者を想定して明確さが求められるが、その一方で、わかりやすい言葉によって複雑な状況を単純化してしまい、その記事を読む読者の思考の幅を狭める恐れがある。それに対して、「伏字」は読者を立ち止まらせて空白の部分を想像させるとともに検閲のまなざしにさらされている現状を思考するきっかけとなるのである。その意味では、『琉大文学』が駆使する批判的想像力が、『琉球大学学生新聞』の「伏字」という表現にも
流れ込んでいるのではないだろうか。
記事はさらに、「伏字新聞」を渡された安井郁原水協理事長の「ひどい、軍国主義時代の新聞以上だ」という声を紹介していた。しかし、「伏字新聞」の評判はあまり良くなかったようである。たとえば、
大田昌秀は、「伏字新聞」の発行について「学校当局とじっくり話合う誠意に欠け、意識的な反抗だ
(Ⅱ| けが浮んで残念だった」と述べていた。 前述のように、『琉球大学学生新聞』第三○号(’九五八年七月)が「伏字」で発行された後の動向はどうだったのだろうか。紙面は、「学生運動の停滞」をそのまま反映したような内容になり、論調の雄々しさと学生会活動を伝える紙面の言葉とのあいだに開きが見られるようになっていた。「伏字新聞」の反響として、第四回原水爆禁止世界大会二九五八年八月九日)に参加した代表の発言を以下のように掲載する。 四「伏字新聞」以後の検閲をめぐる言説
沖縄においては、言論、出版の自由もさまたげられております。たとえば琉球大学では学生自治会が核武装反対及び本大会への参加を決議したのでありますが、琉球大学学生新聞がふせ字の
(旧}ま、発行して無一一一一口の抵抗を示している。
ところで、「伏字新聞」が発行された後の第一一一一号(一九五八年一一月一九日)から第三五号(’九五九年六月一三日)にかけて紙面で多くとりあげられていたのは、琉球大学のグラウンドエ事のために円覚寺の放生池を埋め立てる問題であった。だが、『琉球大学学生新聞」第三四号(一九五九年四月二八日)の「放生池問題」を扱った記事のそばには、見逃せない痕跡が紙面に刻印されていた。「大学管理法の構想とその問題点」は、あいまいな琉球大学の性格を「大学管理法」によって明確化し、大学自治を確立することを主張しているが、その末尾において「機構整備に当って本学が解決しなければならぬ問題は、他にも多い。琉大機構の中での琉大財団や」のあと、五行ほど墨でぬりつぶされていたのである。その五行は、「また現在の学生に対する不当な規制は当然とり去るべきであり、その為にも学生教授は強く出なければならない」という一文へと続いているが、この墨でぬりつぶさ
れた五行には何が書かれていたのだろうか。『琉大タイムズ』第一一号(一九六○年一○月一五日)に掲載された記事には、「本学とミシガン大(帽}学との関係を解説した記事が一二行程墨で消された」と述べられていた。琉球大学は創立問もない頃よりミシガン州立大学から教員が派遣されてくるなど両者の関係は極めて密接であった。おそらくその
関係を批判的に「解説した記事」が掲載されたのだろう。これまでも大学当局によって雑誌が回収され(「琉大文学』第八号、一九五五年二月)、事前検閲の手続きを経なかった雑誌が停刊処分となり(「琉大文学』第二巻第一号、一九五六年三月)、また事前
検閲によって新聞も発行停止(『琉球大學新聞』第一一一一一・二四号、一九五六年一○・’一月)となったが、その後「伏字」のままで新聞を発行する(『琉球大学学生新聞」第三○号、一九五八年七月一四日)など、大学当局が学内の表現活動に介入してくることが多く見られた。では、当の大学当局はどのように検閲を考えていたのか。これについてふれた貴重な記録がある。『琉大タイムズ』第四号は、「自治活動を阻む検閲制」という特集記事のなかで、『琉大文学』と『琉球大学学生新聞』をとりあげている。『琉球大学学生新聞』は「創刊当時は細部にわたって検閲が 行なわれたが、その後、いくらかかん和され、一九五四年学生新聞の編集長をつとめたことのある古我知勇さんは『われわれのころは特別に検閲により削除されるようなことはあまりなかった。『天井のラクガキ」欄のところの記事に一寸文句をいわれたことがあったが』と語っているように『琉大文
当局の声がとりあげられていた。一辺
学』の回収事件のような大きな事件はおこらなかった」という。それから第三○号の「伏字」について説明したあと、「最近は学生新聞に対する検閲もいくぶんよくなったという声」を聞くことに対し、「最近はだいぶ緩和されたと思う。顧問には注意されたり、一一一一口い争ったりする時もあるが、記事が削{肥)除されることはない」という学生新聞スタッフの声を紹介していた。そして、関係者の一戸として琉大
新垣学生部長学生は出版の規定が沖縄の特殊事情からくるものだと誤解しているのではない
Hosei University Repository
両者の発言では、学生への「指導」は当然の前提となっている。それは学生を教え導く側の姿勢が反
映したものだろう。だが、「本土の大学」や「商業新聞」と比較し、問題を一般化することによって、
アメリカ占領を「特殊事情」とみなさず、占領を正当化することにならないだろうか。「客観的」に書く訓練が必要だとしても、「できるだけ公正に」書かれた個性のない記事に学生は満足するのだろ 中村補導課長布令により学長名で政府に提出しなければならないので、学校出版物に対してどのような内容であるか、申請内容は相反していないかを検討して注意し指導しているだけで言論、出版の自由の弾圧と解されては困る。最近は出版物の規定は緩和されていると度々きくがそ
一⑩〉んなことはない、以前同様当局では検討し、指導、助一一一口を与えている。 か。本土の大学にもこのような規定はあることだし、学生諸君は神経質になりすぎるのではないだろうか。学生新聞は商業新聞に比べるとより自由が与えられている。それがややもすると、何でも書きたい放題にして、一人の人間がいかにも大学を代表しているかのどとく新聞をつくる危険性がある。できれば新聞にくわしい先生方が編集員となって、わりきって客観的な記事を書くようになれば理想的だと思う。できるだけ、公正に単なる主観、一人よがりをしないで新聞をつくれば問題にならないと思う。
この発一一一一口を「新春放談」だからといって見過ごすことはできない。「放談」だからこそ、かえって物事を的確にとらえているとはいえまいか。『琉球大学学生新聞』にみられる硬直した言葉とは対極的だが、学生たちの息づかいを伝えているといえるだろう。だが、たとえ「放談」であっても、内容 うか。また大学当局からの「指導」や「助言」は、それまでの一一度にわたる「琉大事件」の記憶を持つ学生たちにとって「除籍」を連想させるような「恐れ」を導いてしまう。いずれにせよ、「学生心得」の「事前検閲」が学生たちの心を縛る伽になっていることには想像が及んでいない。少なくとも、権力を前に思考を停止して無批判に従う学生をつくることは「教育」とはいえないからだ。この大学当局の声をとりあげた「琉大タイムズ』第四号の第一面には「新春放談」が掲載されているが、その内容は「琉大生の無気力」をめぐるものである。「琉大生の無気力」の原因として、五六年に「六名の学生が退学処分をくらった」ことをあげている。
すなわち沖縄じゃ、何か行動をおこせば即時的に身にせまるような制裁が加えられる。恐さというものを実感としてうけとめているわけなんです。何しろ一たびクアカ〃のレッテルをはられた
ら沖縄においてはおしまいです。それが恐い。恐いから行動しない。それがだんだん度をこして(帥)無気力になってしまった。
「アチラさん」という言い方やひらがなの多用によって「放談」の雰囲気をかもしだそうとしつつも、この「新春放談」を掲載した紙面を大学当局が日にすることが頭にあるからなのか、「自己検閲」という一一一一口葉がかえってうきあがっているように見える。また、切実な問題を切実な思いとかけ離れた
一言葉に置き換えてしまう思考のあり方が「琉大生のほとんどにあるんじゃないか」とまとめたところは、「事前検閲」に備えて「自己検閲」をくりかえすことで自分の考えを偽り、言葉をねじまげることによって自分自身を失う事態に追い込ませる大学当局への強い批判となっている。そしてそれはまた「無関心」にふるまうことで心身が蝕まれていくことを琉球大学の学生たちに伝えようとする呼び
かけでもあるだろう。 が内容であるだけに、「検閲」を語る言葉にはどこか強ばりが見られる。
私たちがいいたいこと、かきたいことを新聞に発表したとしますね。それがたまたまアチラさ
んの気にさわるようなものと思われる場合はですね、当局はその部分をカットするわけです。そういうことがたびたびになりますと私達は学生部に出す前にこういうことを書けばけずられるからこうなおしてというように自己検閲してしまう。[中略]その考え方が琉大生のほとんどにあ
一別)るんじゃないかと田心うんです。
『琉球大学学生新聞』第一一一六号(一九五九年二月六日)には、「新学生会長に幸喜君(国一一一)/異例の無投票当選」が一面に掲載された。これは国文科の幸喜良秀が一九六○年度の学生会長に無投票で当選した記事だが、「張りの無かった選挙気運/気がかりな学生の無関心」という別の見出しが目立つように、この無投票当選には「第二次琉大事件」以後の学生運動の停滞があらわになっていた。だが、演劇部に属していた幸喜の学生会長就任によって、学生会は活気を持ち始め、紙面もその勢い
に引っ張られていくようになる。
第三八号(’九六○年一月八日)には第二面全体を使って「基地と損害賠償I石川Z機事件を中心として」が掲載される。これは、一九五九年六月一一一○日に、石川市立宮森小学校に米軍のジェット機が墜落・炎上し、死者十七人、負傷者二百人余、校舎と民家二十五棟が全半焼した「宮森小学校ジェット機墜落事件」から半年が経って問題となった「損害賠償」をとりあげた記事である。この記事の末尾には次のような言葉が書き連ねられていた。 五状況に向き合う
未来の沖縄を予見するだけで、われわれの胸は苦しい。予見せずにいることはなおさらのこと
ここで「県民」という言葉を用いているのは、沖縄がアメリカの占領下にあることで日本から切り
離され、日本国内の行政単位としての地位を喪失していることへの抵抗のあらわれである。’九六○年四月二八日に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成される際、名称にあえて「県」を押し出した歴史的文脈を考えるとき、この一一一一口葉は切実に響いてくる。しかも、学生会は復帰協に加盟することを決め、「学外団体加盟の許可願い」を出したにもかかわらず、「不許可」とされたのだった。これは「学生心得第六章団体及び集会第一二条」の「学生又は学生の団体が学外団体の組織に加入し、或は活動に参加しようとするときは、補導教官又は顧問教官の助言を受け学生部長の承認を受けなけ
(認}ればならない」という規定に沿って申毫萌したにもかかわらず、それが受理されなかったという意味である。こうした動きは第四○号(’九六○年四月二五日)および第四一号(’九六○年五月一○日) だ。[中略]石川Z機事件によって、我々県民もある部分が殺され、焼失してしまった。感情が殺され、理性が焼失している様にだ。暗い過去を現在の時点で凝視することは今日与えられた全県民の任務である。原爆の被災者を思いうかばせた石川Z機事件は基地悪が圧縮されたものであった。黒い影を残すばかりで他に何も残しはしない。/何も満足に与えられないこの現実をどう未来への変革たらしめるか。我々県民は勇気と団結とをもって未来への変革たらしめる地点に〈砲一立たされている。
{誠一その後、「第一二次ともいえる学生処分の発端となった」琉球大学の学生一一一人が起訴、有罪確定を経て一年の停学処分を受ける事件が起きた。一九六○年一○月一二日、社会党委員長浅沼稲次郎の刺殺事件が起きたことに対して、琉球大学学生会は一○月二○日の抗議県民大会終了後に抗議デモを予定していた。しかし、布令一三一一号「禁止される又は許可を必要とする示威行進及び集団行列並びに罰則」に定められていた「四八時間前に届け出がなかった」ことを理由に那覇署が不許可にしたため、
琉球大学学生会は布令を無視して抗議デモを行なった。これに対して那覇署は「布令違反」としたが、学生会側はデモ行進不許可は「基本的人権の侵害」であると対抗した。その後、学生会指導者九 で大きくとりあげられていた。その後、五月に開催された第二回臨時総会で復帰協加盟を決めるが、このときあわせて学内の出版や集会を規制する「学生心得」の改正を要求するとともに、米国民政府広報誌『今日の琉球』(一九五七~七○年)と第七心理作戦部隊発行の「守礼の光』(一九五九~七三
(別一年)の琉球大学学内配布をボイコットすることを決議した。また、一九六○年六月一九日にアメリカ大統領アイゼンハワーが沖縄を訪れた際、復帰協を中心に復帰請願デモを行ったが、琉大学生会を中心とするデモ隊が琉球政府庁舎近くでデモを展開したため
に、アイゼンハワーは予定より早めにコースを変更して沖縄を去った。このアイクデモの後、学生会
に対するスパイ活動がさかんとなり、学生運動は常に誰かに見られている不安のなかでの活動であっ(弱}たという。
その後、
一九六二年四月一日に「学生心得」は「学生通則」に改められ、「出版」に関する第一六条では「学生または、学生の諸団体が新聞、雑誌、パンフレット、その他を出版しようとするときは補導教
(釣}官、顧問教官の指導助一一一一口を受け、学生部長に届出なければならない」と書かれていた。この「学生通則」に改定されたあと、琉球大学の学生たちの表現はどのように変わっていったのだろうか。ひとつの視点として、『琉球大学学生新聞」の編集の中心を担った中屋幸吉の言葉を通じて検討することが(㈹一できるだろう。一九六○年代以降の『琉球大学学生新聞』に集う表現者たちは、「復帰/施政権返還」 人に対して一○月に那覇署、一一月に琉球巡回検事局が出頭を求め一二人が起訴された。このようなアメリカ占領下の沖縄に生きる人々の心身を縛りつける法の問題について、本稿では十(詔)分に論じフ○ことができない。だが、一点だけ強調しておきたいのは、「琉球大学学生新聞」に集う人々が、一一一一口葉による抵抗表現を通じて、布令や学則も含めた法の網目をかいくぐろうとしていた点である。それは、「事前検閲」やCICという学内のスパイの監視のまなざしにさらされながら、『琉大文学』同人たちが文学の言葉を通じて表現を試みたふるまいと重なりあっていく。『琉球大学学生新聞』と「琉大文学」とのかかわりについては、今後さらに検討していきたい。
おわりに
とどのように向き合っていたのか、「復帰四○年」を迎える現在改めて検証する必要がある。本稿は当初、「琉球大学学生新聞」の学芸欄に掲載された文学作品に焦点を当てて論じることを考えていた。しかし、学芸欄だけを新聞紙面からひきはがそうとすればするほど、他の紙面に散在する硬直した言葉のほころびに引っかかってしまった。文学作品だけを切りとって、文学という枠組みに当てはめることに違和を感じたからである。紙面をめくるうちに、執筆者の依拠する理論や語彙も移り変わっていくけれども、新聞というメディアにおいて言葉で表現することを通じて、彼ら彼女らが
何をしようとしたのか、そのふるまいに目を凝らすことで見えてくる問題を多角的にとらえることが
いま求められている。
本稿では、アメリカ占領下の一九五○年代に琉球大学の学生たちが「検閲」と向き合いながらどの
ように表現を試みようとしていたのかについて、「学生準則」や「学生心得」をめぐる言説とのかか
わりから検討したが、そうすることによって表現されずにこぼれおちていったものをすくいとることができるのではないかと考えたからである。その視点から、沖縄の戦後を生きた人たちの文学と思想
を学びなおしていきたいと思う。
【註】(1) (1)「琉大文学』については、鹿野政直「否の文学11『琉大文学」の航跡」(同『戦後沖縄の思想像』朝日新聞
社、’九八七年。のちに『鹿野政直思想史論集第三巻占領下を生きる』岩波書店、二○○八年)、新城
郁夫「戦後沖縄文学覚え書l「琉大文学」という試み」(同「沖縄文学という企て」インパクト出版会、
二○○三年)が詳しい。
(2)新崎盛暉は『戦後沖縄史』(日本評論社、一九七六年)のなかで、琉球大学の学生運動を説明する件で{琉
球大学学生新聞」に言及している。また新崎盛暉編『ドキュメント沖縄闘争』(亜紀書房、一九六九年)の
資料のなかで「琉球大学学生新聞』第三○号の「伏字新聞」の写真や他の号の新聞記事が掲載されている。
(3)創刊号は公的機関で所蔵していないため未見。創刊の時期は、三九五○年六月」(保坂広志「琉球大学学
生新聞」『沖縄大百科事典」下巻、沖縄タィムス社、一九八三年、九○○頁)という指摘もあるが、本稿では琉球大学編発行『十周年記念誌」(一九六一年)及び「琉大学新百五十号Iあゆみ」(『琉球大学学生
新聞』第一五○号、琉球大学学生新聞会、一九七九年六月二一日)で言及された「一九五○年八月」を採
用した。なお二○一一年一○月の段階で『琉球大学学生新聞』は二四五号まで発刊されている。
(4)『十周年記念誌』では改称を「五九年」とするが、『琉球大学学生新聞』第四三号(琉球大学学生新聞会、
’九六○年六月一七日)に「琉球大学学生新聞部は、六月二日の学生総会において、名称を『琉球大学学
生新聞会』に改称されました」と書かれた「一九六○年六月三日」付の「会告」が掲載されており、本稿
では「六○年」とした。
(5)「学生の課外活動/新聞会」(琉球大学編前掲『十周年記念誌乞一八八頁。
(6)琉球大学附属図書館の新聞室には、第一一五号(一九五六年一二月二五日)から第八二号(一九六六年一二
月三日)まで、一部欠号はあるが、原紙が所蔵されている。沖縄県公文書館には、第二七号(一九五七年
五月一○日)の原紙が所蔵されている。また沖縄県立図書館郷土資料室所蔵の「比嘉春潮文庫」では、第
一七、三○、一一一一一、四一一、四四の各号の複製版が閲覧できる。
(7)『一九五三学年度大学便覧』(琉球大学、発行年不詳、’一頁)の「附則」には、「この準則は一九五二年
二月一一日よりこれを施行する」と記されている。
(8)「第一次琉大事件」については、沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』(日月社、一九五四年)、新崎盛暉編前掲
『ドキュメント沖縄闘争』、琉球大学教授職員会編・発行『琉大事件とは何だったのか』(二○’○年)を参閲
照。大学の通史に関しては、琉球大学編前掲『十周年記念誌』、『琉球大学二十周年記念誌』(琉球大学二十趾 周年記念誌編集委員会、一九七○年)、「沖縄の戦後教育史」(沖縄県教育委員会、一九七七年)、山里勝己破
「琉大物語』(琉球新報社、二○一○年)を参照。(9)「琉球大学学生準則第一二条(出版)」(『琉球大学学生便覧一九五四学年度』琉球大学、発行年不詳、一博 四頁)。なお新崎盛暉編前掲『ドキュメント沖縄闘争」にも資料として「琉大学生準則」が掲載されている職
が、その出典は「「琉球大学新聞』’六号、一九五五年六月十一ハ日」となっている。
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(皿)川瀬信「沖縄文学の課題」(『琉大文学」第七号、’九五四年二月)四二頁。
(u)中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題二十年』(岩波書店、一九六五年)、新崎盛暉前掲『戦後沖縄史』を参照。
(、)公的な機関に第二八号が所蔵されていないため確認できないが、第二七号(’九五七年五月一○日発行)
までの紙名は『琉球大學新聞』で、第二九号(一九五七年一二月七日発行)から『琉球大学学生新聞」と
改まっている。
(E)「学生準則の大幅改正は不可能/相互理解による協力を/正副学長と一問一答」S琉球大學新聞」第一七
号、琉球大学新聞部、一九五五年一○月二五日)。
○円くHFHzBpいい閂の回三○ロー○【閂ヱンミン(の①ロ①国一幻の8吋□の。【Sの□の已貰(日の目〔。【の国斤①○の日日一国一の.』cの、‐mC
m○Hz○・$⑭◎句○一』円三・・四[沖縄県公文書館所蔵米国国務省文書(複写)SCS①」」&]所収)。この資料に 「〈論説〉学園の自主性確立の一端l新学生会長選挙を終えて」(「琉球大學新聞」第一七号、琉球大学新聞部、’九五五年一○月二五日)。大田昌秀辻村明「沖縄の言論I新聞と放送」(南方同胞援護会二九六六年一七八頁.「編集後記」(『琉球大學新聞」第一一五号、’九五六年一二月二五日)。同前「編集後記」後半の記述によれば、発刊停止となった二号とも「校正ずり」まで終わっていたという。
同号前、○〒チー
同前。
関しては.拙稿「占領者のまなざしをくぐりぬける言葉l「琉大文学」と検閲」(田仲康博編「占領者の
まなざし(仮)』せりか書房、近刊)でより詳しく論じた。なおアメリカ占領下の沖縄における検閲の問題
については、門奈直樹『沖縄言論統制史』(現代ジャーナリズム出版会、一九七○年)が詳しい。
(Ⅲ)「第二次琉大事件」に関しては、沖縄タイムス社編発行「琉大風土記l開学仙年の足跡二九九○
年『豊川善一「氷焔l仲宗根政善私記」(「追悼仲宗根政善」沖縄言語研究センタし一九九八年)、
嶺丼政和「琉大が燃えた日」(自費出版、一一○○○年・言ロヘヘミ巨冨目の」ロへ二目【・へ益弓の呂目一)を参照。
(皿)『琉球大學新聞』第二六号(琉球大学新聞部、’九五七年三月一日)。
(館)「『琉大文学』短歌同人抄(一二月六日)」(『沖縄タィムス』一九五六年一二月一一日)掲載。また平山は
「途切れ途切れに平和の歌うたひつつ退学ざれし学友と校門を下る」と書き改めて『合同歌集暁雲』(九
年母短歌会、一九五六年一二月二五日)に発表した。またこの短歌も前出の宮城美智子の詩と同様に「閂
、・・巨〔。【BののS○○一m閂の三s目の愚の一}&のSoo}日日①曰(の【曰三の昌一旨の曰四口、四のopmombの四、の」と翻訳の
うえで報告されている。前掲拙稿「占領者のまなざしをくぐりぬける言葉」も参照されたい。
(皿)「防共法についての研究は必要/だが反対運動は許されん」s琉球大學新聞』第二七号、琉球大学新聞部、
’九五七年五月一○日)。
(妬)『琉球大学学生便覧一九五七学年度」(琉球大学、一九五七年七月)二四頁。
(肥)「琉球大学学生便覧一九五六学年度』(琉球大学、一九五六年三月)一一一九頁。
(空新川明・豊川善一・中里友豪・岡本恵徳・屋嘉比収・新城郁夫「座談会『琉大文学」五○年」(「け-し風』第四○号、新沖縄フォーラム刊行会議、二○○三年九月)五○頁。
(別)前掲『琉球大学学生便覧一九五六学年度」三九頁。
(Ⅲ)前掲『琉球大学学生便覧一九五七学年度」二五頁。
(釦)大田昌秀・辻村明前掲書、七九頁
(路)「編集後記」(『琉球大学学生新聞』第三○号、琉球大学学生新聞部、一九五八年七月一四日)。(鈍)矛盾グループ「いじらしき抵抗えの一批判」(『琉球大学学生新聞』第三○号、琉球大学学生新聞部、一九
五八年七月一四且。
(妬)中里友豪「たとへぱ長い灰色のこ」(『琉球大学学生新聞』第二九号、琉球大学新聞部、一九五七年一二月 〆 ̄、グー、 ̄へ
292827
、-〆、-〆、-〆
(鉛)「学園を去るにあたって’四学生」(「沖縄朝日新聞』’九五三年五月二七且.(師)「〈主張〉大學新聞を再刊しよう」(『琉大週報』第一八号、一九五八年五月五且。「琉大週報』は、琉球大
学事務局が発行したもので、理事会や教授会の事務連絡が主な記事である。琉球大学附属図書館には、前身の『週報』第一~七八号(一九五一一一年八月一○日~一九五七年一月三○日)、『琉大週報』第一~五九号 前掲同前。七日)。 『琉球大学学生便覧一九五七学年度』二五頁。