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『大學新聞』の研究にむけて―終戦前後を語る史料の可能性―

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『大學新聞』の研究にむけて

―終戦前後を語る史料の可能性―

The University Press:

A Historical Source for Understanding Japanese Society Before and After the End of World War II

小関孝子

 OZEKI Takako(1)

The publication of university newspapers was suspended at universities in Japan in 1944. Newspapers were aggregated into the University Press, which was published by the University Press Corporation. At the time, the course of World War II had worsened for Japan, and students had to leave their institutions and mobilize for war. The University Press was published three times a month until the 58th, and final, issue on April 21, 1946. University

teachers and graduates who were active participants in various fields wrote articles in the University Press. They were identified by their names and social positions, which were included in the issues. The University Press is a valuable historical source for understanding changes in the world of criticism, before and after the end of World War II, and for insights into the daily life of university students at that time.

キーワード:『大學新聞』、学徒動員、終戦前後

University Press, Student mobilization, Before and after the end of World War II

1.

 『大學新聞』に着目した経緯

1-1 はじめに かつて『大學新聞』1)という名前の新聞が発行されてい た。『大學新聞』が創刊されたのは、昭和19(1944)年7月 1日である2)。この時期は戦局がますます厳しくなり、学 徒動員により学生が学問の府から戦地へ赴いていた時期で あった。それまで全国の各大学で発行されていた大学新聞 が休刊となり、財団法人大學新聞社が発行する『大學新 聞』に集約されたのだった3)。財団法人大學新聞社の所在 地は東京帝国大学構内4)、監督官庁は文部省であった。『大 學新聞』は昭和20(1945)年8月15日の終戦をはさみ、昭 和21(1946)年4月21日発行の第58号まで、ほぼ毎月 1日、11日、21日のペースで発行され続けた。 本研究ノートは、この『大學新聞』という太平洋戦争末 期と終戦直後に継続的に刊行されていた希少なメディアに ついて、今までその存在が注目されてこなかった事由を明 らかにしたうえで、『大學新聞』が終戦前後の論壇および 学生生活を知るうえで、貴重な史料となりうるということ を報告するものである。今後はこの史料を用いて具体的な テーマで研究を進める予定であるが、その前に、昭和20 (1945)年という極めて特殊な時期に発行されていた『大 學新聞』という史料の存在とその重要性を述べることが、 各分野の研究の深化に寄与できるのではないかと考え、現 段階で「研究ノート」という形式でテキスト化を試みた。 筆者が『大學新聞』と出会ったのは、昭和20(1945)年 発行の新聞雑誌に関する調査を通じてであった。筆者は 2013年提出の博士学位申請論文「「全国友の会」研究―『婦 人之友』読者たちによる生活合理化とその実践」」のなか で、婦人之友社発行の『婦人之友』とその読者組織「全国 友の会」の関係を研究した。しかし、この論文には昭和 20(1945)年のメディアの状況を追いきれなかったという

研究ノート

(1)一般社団法人社会デザイン研究所 特別研究員/麗澤大学 外国語学部 非常勤講師

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大きな積み残しがあった。そこで、博論提出の翌年に昭和 20(1945)年に発行されていた新聞雑誌の調査を始め、『大 學新聞』というメディアにたどり着いたのである。 昭和20(1945)年という紙の配給が厳しく制限されてい た時期に、月3回発行されていた機関紙が存在していた という事実は大きな驚きであった。さっそく『大學新聞』 に関する先行研究を調べたが、今現在、『大學新聞』をテー マにした研究を見つけることはできていない。『大學新聞』 について言及した論文としては殿木圭一による「『帝国大 学新聞』の歴史」が挙げられるが、『大學新聞』に言及し ている箇所は「この帝国大学新聞の休刊と次の「大学新聞」 との関連はどうもはっきりしない。」〔殿木1985: 12〕とい う文章から始まる10行程度である。したがって『大學新 聞』がどのような性質のメディアであるのか、その概要や 特性を知るためには、『大學新聞』に書かれている記事を 読み解く必要に迫られた。 実際に記事を読んでみると『大學新聞』で記事を執筆し ていたのは、当時の大学教員をはじめとした各界で活躍す る知識人であることがわかった。なかには学生による記事 も散見される。論考や随想のほとんどが記名記事であり、 執筆者の氏名と当時の社会的地位が明示されている。『大 學新聞』は終戦前後の論壇の変化と当時の学生生活を知る うえで、貴重な史料となりうるのである。 1-2 昭和 20 年における「検閲のない約 1 ヶ月」の存在 終戦前後を語る史料として『大學新聞』が特筆すべき存 在であるのは、昭和20(1945)年8月15日の終戦日をまた いで継続的に発刊されていること、多くの論考を掲載して いること、という2つの点による。筆者が2つの点に着 目したきっかけは、昭和20(1945)年の新聞雑誌を調査す るなかで、昭和20(1945)年に発行されているメディアの 言説が3つの段階を経て変化しているということに気が 付いたことによる。その3つの段階とは、①日本政府に よって言論が統制されていた8月14日まで、②日本政府 による言論統制が機能しなくなった8月15日からGHQ による検閲が始まる前の9月下旬頃まで、③GHQによる 検閲が開始される9月下旬頃以降の3区分である。つま り、日本政府の検閲もGHQの検閲も免れ、自由に発言で きた可能性がある期間は、8月15日から9月下旬頃の約 1ヶ月に限られるのである。『大學新聞』の史料的価値は、 この「検閲のない約1ヶ月」の時期にも継続的に論考や随 筆が掲載されているという希少性にある。 では、『大學新聞』について述べる前に、「検閲のない約 1ヶ月」の発言が掲載されているメディアの希少性につい て、婦人雑誌を事例に示したい。朝日新聞や読売新聞など の日刊紙ではなく、婦人雑誌を事例とする理由は、当時の 日刊紙は継続的に発行されているものの、内容が報道記事 に限られているため「検閲のない約1ヶ月」の人々の心情 を確認することはできないからである。昭和20(1945)年 に発行が許可されていた婦人雑誌は限られており、調査対 象は必然的に次の5誌に限定される。 ・『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社) ・『主婦之友』(主婦之友社) ・『新女苑』(実業之日本社) ・『戦時女性/婦人画報』5)(婦人画報社) ・『婦人之友』(婦人之友社) 昭和20(1945)年発行のメディアを調査することの困難 さは、用紙不足により発行部数そのものが少ないこと、当 時の紙やインクの質が悪いため保存が難しいこと、さらに は焼失や廃棄などもあり、現在確認できる数そのものが少 ないという問題である。昭和20(1945)年発行の婦人雑誌 の所蔵について、雑誌の蔵書が豊富な図書館等の2017年 現在の所蔵状況をまとめると表1の通りである。調査し た施設は、女性雑誌専門図書館である石川武美記念図書 館6)、日本近代文学館7)、国立国会図書館、大宅壮一文 庫8)、憲政資料室9)である。所蔵ありを「〇」、所蔵なしを 「×」で表した。憲政資料室で閲覧できる婦人雑誌は戦後 GHQが検閲のために収集した雑誌に限られるため戦前部 分には斜線をいれた。表1からわかるように、昭和20 (1945)年のなかでも、特に終戦前後の号については所蔵 状況が不安定で、専門図書館の石川武美記念図書館にも欠 号がみられる。『戦時女性』の493号については、号数か ら逆算して発刊されていたことは推測できるものの、雑誌 本体の所在を確認することはできていない。 婦人雑誌の所蔵一覧(表1)を作成するにあたって、終 戦前の発行と終戦後の発行を分けたが、この作業は予想以 上に時間を要した。終戦直後に出版された号は、終戦前の 原稿と終戦後の原稿が混在しているため、記事ごとに日付 を確認する必要があったからである。例えば、『婦人之友』 昭和20(1945)年6月7月合併号は、表紙に掲載されてい る「一億農兵隊」という文章の日付は7月11日である。 ところが、この号の羽仁もと子による巻頭言は、「「敗戦」 この筆で書くに忍びないこの文字を、私は今力をこめては つきりと書いた。」10)という文章から始まっている。した がって、『婦人之友』昭和20(1945)年6月7月合併号は、 ほとんどの原稿は終戦前に書かれているが、発行されたの

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は終戦後だということがわかる。『婦人之友』の事例が示 すように、各誌の終戦前後の号を読み解くうえで留意しな ければならないのは、昭和20(1945)年のメディアでの言 説は大きく3つに区分されるものの、8月前後の号には執 筆された時期が異なる記事が混在しているという点であ る。 戦後GHQによる雑誌の検閲が行われていた事実は、憲 政資料室に収蔵されている『婦人画報』昭和20(1945)年 10月号の記録に「DISAPPROVED」の文字が残されてい ることからも明らかである(図1の点線は筆者による)。 検閲によって「DISAPPROVED」と報告された記事は、 当該号を確認したところ、小出満二が書いた「『幸福を築 く國』へ」11)という論考と、吉屋信子の小説「紅梅の 門」12)である。内容の分析はまた別の機会に改めて行う が、昭和20(1945)年の雑誌の言説が3つに分かれている ということは、これらの史料が示す通りである。 以上の経緯から、筆者は言論統制も検閲もない終戦直後 約1ヶ月の言説の中に当時の人々の本音を探すことができ ないかと考えるに至り、終戦前後をはさんで継続的に論考 を掲載している新聞や雑誌を探し始めた。この調査でたど りついたのが『大學新聞』であった。

2.

 『大學新聞』創刊の背景

2-1 『大學新聞』がどこに所収されているか 『大學新聞』が所収されている雑誌は、1969年に京都大 学新聞社が発行した『京都大学新聞縮刷版 第2巻』『京都 大学新聞縮刷版 第3巻』と、1985年に不二出版が発行し た『復刻版 帝國大學新聞 第17巻』である。どちらの 雑誌でも1号から58号までを欠号なく読むことができ る13)。このように『大學新聞』は誰でも手にとることがで きる場所に所収されているのだが、それにもかかわらず今 まで研究対象となっていなかった理由のひとつに、『大學 新聞』が『帝國大學新聞』の改題だという誤解が生じたこ とが挙げられる14)。改題という誤解が生じた原因のひとつ 表 1  昭和 20(1945)年発行の婦人雑誌の所蔵一覧 (2017 年現在) 図 1 『婦人画報』昭和 20(1945)年 10 月号の検閲記録 (憲政資料室蔵)

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は、1985年刊行の『復刻版 帝國大學新聞 第17巻』の 目次の記述によると思われる。東京帝国大学発行の『帝國 大學新聞』は昭和19(1944)年5月1日の983号で休刊と なったが、縮刷版の目次では「これ以降〝大学新聞〟と改 題」と記され、『帝國大學新聞』に続けて『大學新聞』の 1号から58号までが掲載されている。さらに『大學新聞』 の最終号の後には「これ以降〝帝國大學新聞〟に復活」と 記され、『帝國大學新聞』の984号(昭和21(1946)年5月 1日発行)が掲載されているのである。目次だけを見れ ば、『帝國大學新聞』が一時期『大學新聞』に改題してい たと考えるのは当然のことだろう。ところが、『帝國大學 新聞』の終戦前最後の号である昭和19(1944)年5月1日 発行983号では、「社告」のなかで休刊が告げられており、 昭和19(1944)年7月1日発行の『大學新聞』第1号の紙 面には「創刊の辞」が掲載されているのである。 2-2 『大學新聞』の創刊について ではここで『大學新聞』が『帝國大學新聞』の改題では なく、別のメディアであるということを実証するために、 いくつかの資料を示したい。 まずは『大學新聞』第1号に掲載されている「創刊の辞」 の全文を次に引用する。なお、読みやすさを重視するため に、旧字体は新字体およびひらがなに改め、また、一部の 句読点等を改めた。 創刊の辞  今や決戦を決勝へと転移せしむべき未曽有の重大局面に 際会し国民総決起が切実に要請されている秋、本紙はここ に真に〝決戦〟を担当する全国一本建の学徒新聞として文 部省、情報局等関係官庁、全国官公立大学の御支援を得て 全く新なる構想の下に発足せんとする。学園も既に総動員 態勢全く成り学徒また前線にこれを決して立ち、あるいは 研究に、工場、農村に熱汗を流して戦力増強に挺身してい るのである。我等はこの厳しき国家的現実を直視し現下喫 緊の要請に応えるべく皇国教学の本義に則り、一)文教政 策の徹底、二)大学に於ける学生訓育指導の強化、三)全 国学徒動員の徹底、四)科学技術知識の普及並びにその研 究動員の強化、五)前線出陣学徒と銃後大学との緊密一体 化、六)全国大学教職員並びに学徒間の知識交流、の六大 目標に本紙編集全力を集約し、危局に立つ祖国の運命を荷 うべき若き学徒に送らんとする。諸賢の御支援、御鞭撻を 御願いする次第である。なお創刊に際し寄せられた文部省 をはじめ関係官庁、各大学当局、帝國大學新聞、京都大学 新聞、官公立大学新聞の御協力に対してあらためて深甚の 謝意を表すると共に今後の御指導を御願いするものである。 昭和十九年七月一日 財団法人大學新聞社 「創刊の辞」に記されている通り、『大學新聞』の発行者 である財団法人大學新聞社は、帝國大學新聞編集部とは別 組織である。『大學新聞』は当時の官公立大学の共通の新 聞として創刊されたもので、記事には東京帝国大学のみな らず、全国の官公立大学の動向が記されている。当時学生 たちは学徒動員により大学を離れ、大学では事実上授業は 行われていなかった。『大學新聞』は、大学を離れた学生 たちに教員からのメッセージを伝えると同時に、授業の代 わりに学問的な知識を伝える役割も担っていたようであ る。 『大學新聞』が官公立大学共通の新聞として創刊された という経緯については、1969年に刊行された『京都大学 新聞縮刷版 第二巻』巻頭の「京都大学新聞の沿革」15) なかで説明されている。少し長い文章だが当時の状況が詳 しく書かれているため、次に引用する。(下線は筆者によ る。)  昭和十六年以降になると、学徒召集によって京都大学新 聞編集員も召集を受けるようになり、次第に編集員も少な くなった。時には二・三人の編集員になったこともあった が、それでも新聞発行は続けられた。しかし、用紙の欠乏 の為に、昭和十九年(一九四四年)三月・第三七八号をもっ て、「京都大学新聞」は終刊した。  同年四月には、最後の学生新聞になった東京帝大新聞も 終刊した。しかし、東京帝国大学新聞部長の戸田貞三教授 らの働きかけで、当時の内閣情報局次長久富達夫氏によっ て多少の用紙が配給され、東大新聞を本社に、京大新聞を 関西支社にする全国唯一の学生新聞「大学新聞」が発行さ れることになり、星野輝男氏(現・関西学院大教授)ら数 人を新編集員に、関西の大学関係のニュースを送るなどの 活動を行った。  しかし、昭和十九年七月に創刊され、二十一年(一九四六 年)三月まで発行された、この「大学新聞」は用紙配給の 名目が「戦意を鼓舞する」為であったことに示されるよう に、僅かに学術論文にアカデミズムをとどめつつも、戦時 下の新聞としての性格はありありと表れていた。  なお、この「大学新聞」は前述のように東大新聞部が編 集の実務の大部分に当たっていたため厳密な意味では、京

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都大学新聞の流れとは別個のものではあるが、京大新聞も 編集に参加した、貴重な史料として収載したものである。 (R)〔京都大学新聞社 1969:1‒2〕 この文章の執筆者はRというアルファベットでしか表 記されていない。1969年という学生闘争が激しかった時 期を鑑みると、「戦意を鼓舞する」目的で発行されていた 『大學新聞』を『京都大学新聞』の縮刷版に掲載するとい う行動について、匿名で解説せざるをえない事情があった ことと推察できる。戦時中の『大學新聞』に「戦意を鼓舞 する」記事を書いていた教員たちの中には、1969年当時、 現役で活躍している者や社会的に高い地位に就いていた者 が大勢含まれている。文章中に登場する戸田貞三は財団法 人大學新聞社の理事長を務めた人物である。 1985年発行の『復刻版 帝國大學新聞別冊』に寄せられ ている「『帝国大学新聞』の歴史」によると、『大學新聞』 は「各大学共通とはいうものの実際には従来の帝国大学新 聞社が編集、制作して、各大学ごとに割当部数を定めて一 括配布した。」〔殿木 1985:12〕とある。編集部機能を帝國 大學新聞編集部が引き継いだことが、「改題」という認識 につながった可能性が考えられる。伊東光晴が『一橋新聞 復刻版』(一橋大学一橋新聞部編 1988)の巻頭に寄せた 「復刻の辞」には、「昭和一九年、戦争の激化は、『一橋新 聞』の上にも、廃刊命令となってふりかかった。東京帝国 大学の『帝国大学新聞』を『大学新聞』に改め、全国の学 生新聞を廃刊させるというものであり、新聞紙の割当がな くなり、それがすべて東京帝国大学の新聞『大学新聞』に 集中されたのである。」〔伊東 1988:1〕とある。伊東が 指摘しているように、昭和19(1944)年の時点で、それぞ れの大学の新聞が廃刊されることに対して抵抗があったこ とは想像に難くない。しかし、その後刊行された『大學新 聞』は、たとえ編集機能を帝國大學新聞編集部が引き継い だとしても、『大學新聞』の役割や記事の内容を考えると、 「単独のメディア」16)として扱うべきだろう。

3.

 『大學新聞』に何が書かれているのか

では、『大學新聞』には何が書かれているのだろうか。 記事の内容を大きく分けると、①大学や学界の動向を報じ る記事(記名なし)、②時局に応じた特集(専門家による 論考や座談会など)、③学術関連の連載記事(誌上講義や 書評など)、④随想・投稿その他、となる。今後『大學新 聞』の記事を活用するために、まずは『大學新聞』に掲載 されている記事のタイトルと執筆者のデータベース化を 行った。キーワードや執筆者での記事検索を可能にするた めである。『大學新聞』の「記事・執筆者索引」は、不二 出版が1985年に発行した『復刻版 帝國大學新聞別冊〈記 事・執筆者索引〉』、同じく1986年に発行した『復刻版京 都大学新聞別冊〈記事・執筆者索引〉』に掲載されている が、『復刻版帝國大學新聞』では、「帝國大學新聞」とあわ せて年ごと(1∼12月)に分類されており、『復刻版京都 大学新聞』では、終戦前に発行されていた「京都大学新聞」 ならびに戦後に発行されていた「学園新聞」とあわせて年 度ごと(4∼3月)に分類されており、『大學新聞』の記事 だけを抜き出すためには、改めて分析作業が必要である。 『大學新聞』を単独のメディアとして扱うことの重要性か ら、『大學新聞』掲載記事のデータベースは、今後『大學 新聞』を活用するための基礎資料となるだろう。表2、表 3はそのデータベースの一部を用いて作成したものであ る。 『大學新聞』の論調は終戦の前と後では大きく変化して いるが、この新聞がGHQの検閲の対象となったのかどう かについては現時点では判明していない。しかし、京都大 学新聞社によると、戦後に京都大学で発行されていた「学 園新聞」がGHQによるプレス・コードに抵触したとして 複数回呼び出しを受けており17)、『大學新聞』も戦後には GHQの検閲の対象となっていた可能性は否定できない。 『大學新聞』の終戦前後の論調の変化は、表2の「『大學新 聞』の巻頭記事と社説一覧」で確認することができる。巻 頭記事は、ほとんどが大学や学界の動向を伝える報道記事 であり、執筆者名は記載されていない。社説については 1号から11号まで執筆者の名前が明記されている。これ らの社説から財団法人大學新聞社の理事長が戸田貞三(当 時の東京帝国大学文学部長)であり、肥後和男(当時の東 京文理科大学教授)と末弘厳太郎(当時の東京帝国大学法 学部長)が理事であり、大室貞一郎(当時の東京帝国大学 学生課長)が評議員であったことがわかった。そのほか に、当時文部省教学局長であった近藤壽治が理事に名を連 ねているということが、昭和20(1945)年1月1日発行第 17号掲載の「捷春随筆 決戦下に想ふ〝現代を擔ふ者  靑年〟」より判明した。 『大學新聞』の大きな特徴は、当時の大学教員や各界で 活躍する人々が名前入りで論考を寄せている点である。第 1号から第58号の総記事数約1,600のうち、938本の記名 記事が確認できた。誌面の関係上、昭和20(1945)年に発 行された第17号から第47号に限定し、執筆者名が確認

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できた記事を一覧にした(表3)。学生の座談会や学生に よる手記が掲載されている点も『大學新聞』の特徴である が、本稿では学生の氏名については伏せた。表3で記名 記事を掲載している執筆者の所属は全国各地の主要な大学 を網羅しており、このことは『大學新聞』が、編集は帝國 大學新聞編集部が引き継いだものの、当時の唯一の大学関 連機関紙として編集されていたことを示している。 また、表3からわかるように、『大學新聞』は終戦直後 の「検閲のない約1ヶ月」の期間にも継続的に発行され、 多くの記名記事が掲載されている。昭和20(1945)年8月 21日発行の第36号、昭和20(1945)年9月1日発行の第 37号、昭和20(1945)年9月11日発行の第38号、昭和 20(1945)年9月21日発行の第39号が、「検閲のない約 1ヶ月」の期間に執筆された原稿が掲載されている可能性 が高い。『大學新聞』の記事の内容を丹念に調査分析する ことによって、終戦前後のメディアにおける言説の3区 分の内容が明らかになるだろう。

4.

 終戦前後を語る『大學新聞』の可能性

4-1 世論を牽引した知識人たちの発言集として 学生たちが帰還し、各大学が大学としての機能を回復し 始める頃、『大學新聞』は役割を終え、昭和21(1946)年 4月21日で終刊となる。最終号の第58号は2面構成で、 表 2 『大學新聞』巻頭記事と社説一覧(筆者作成)

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※表3は、『復刻版 帝国大學新聞 第17巻』(不二出版、1985年)にもとづいて作成した。タイトル、執筆者、役職名 は資料の記載のまま転記した。資料の記載が明らかに誤っていると思われる場合は、正しい表記を[ ]内に記し た。転記に伴う誤りについては筆者が責任を負う。

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社説はなく、教員等による記名記事が7本と学生による 記名記事が2本掲載されているだけである。静かな終刊 という印象はぬぐえない。「終刊の辞」は、その前の号の 第57号に掲載されているのだが、第57号にも第58号に も、『大學新聞』全体を振り返るような編集後記を見つけ ることはできなかった。そこで、『大學新聞』の編集後記 に代わる一冊の書籍について言及しておきたい。その書籍 とは、昭和21(1946)年12月に発行された帝國大學新聞社 編集部編『大學と學問』である。13人の執筆者の中には 財団法人大學新聞社の理事長であった戸田貞三と評議員 だった大室貞一郎の名前がある。その他にも『大學新聞』 に記事を書いていた面々が名を連ねており、13人中10人 が『大學新聞』に記名記事を書いている人物である18) 各々が戦争を振り返りつつ戦後の大学の在り方や学問の役 割について述べているが、『大學新聞』に関わったメンバー たちによる共著であるにもかかわらず『大學新聞』という 文言が一切出てこないことには、違和感を覚えざるを得な い。 『大學新聞』を史料として扱う場合は、特に戦時中の記 名記事の扱いが難しい。戦時中の記事は厳しい言論統制下 で書かれたものであり、内容を執筆者の真意としてそのま ま受け取ることはできない。戦時中の発言をつかまえて単 純に個人の人格や業績を否定することも慎むべきだろう。 ここで『大學新聞』の記事を読み解くことの難しさを示す ために、財団法人大學新聞社の理事のひとりであった末弘 厳太郎(当時の東京帝国大学法学部長)の記事を紹介した い。昭和20(1945)年3月11日付『大學新聞』第23号の 1面には、末弘が法学部の学生を学徒兵として送り出す際 に「特攻隊たらしめるな」という発言をしたという報道記 事がある。執筆者名は記載されていない。記事の内容は、 末弘が学徒兵として動員される法学部生を送り出す挨拶の なかで、学生は貴重な人材なので、政府は計画的にこの人 材を活用するべきで、特攻隊にしてはいけないという趣旨 の発言をしたというのである。「戦意を鼓舞する」目的で 発行されていた『大學新聞』の理事である末弘は、どのよ うな意図で「特攻隊たらしめるな」という発言をしたので あろうか。この記事は、戦時中の記事を解釈することの難 しさを示している。 しかし『大學新聞』のひとつひとつの記事を分析するこ ととは別に、『大學新聞』を終戦前後の世論を牽引した知 識人たちの発言集として捉えることもできるだろう。『大 學新聞』には当時の知識人たちの記事がまとまった数で存 在しているため、論壇の変化を大きくマクロ的に捉えるこ とも可能である。論壇の変化は、後の世論を牽引していく こととなる。『大學新聞』から論壇の変化を捉えることは、 その時代を生きた人々が、終戦前後の激動にどのように適 応していったのかを読み解く手がかりとなるだろう。 4-2 終戦前後の学生の声を記録する史料として 『大學新聞』を研究する意義として、特筆すべき事項が あるならば、それは『大學新聞』には当時の学生たちの声 が多く寄せられているということである。終戦前後という 特殊な時期に、社会的に発言権を持たない学生たちの発言 や手記が、まとまった分量で掲載されている『大學新聞』 は、学徒動員当事者の声が集積された重要な歴史的資料で ある。学生の手記の中には戦地からの便りもあり、そのほ とんどに名前が記されている。その中には戦争で命を失っ た学生も含まれている。各大学で発行されていた大学新聞 が休刊となり、学生の動向を伝える唯一のメディアが『大 學新聞』であったことを考えると、『大學新聞』は当時の 学生の声を収載している唯一のメディアなのである。この ことからも、『大學新聞』を研究することの学術的ならび に社会的意義を指摘しておきたい。 知識人の発言は終戦前と終戦後で様変わりした。発言者 の顔ぶれが入れ替わっているという現象も起きているが、 発言内容を変えた者もいる。知識人たちの発言から見える のは、終戦前と終戦後の不連続性である。しかし、学生の 生活からは終戦前と終戦後の連続性が浮かび上がる。学徒 動員で戦地に駆り出された学生たちは、帰還するも、暮ら しが貧しく大学に通うどころではなく、戦後には戦後の混 乱ぶりが手記として寄せられている。学生の声を丹念に拾 い集めることで、日本における戦時中の生活と戦後の生活 の中に、ある種の連続性が見えてくるのではないだろうか。 4-3 今後の研究の 2 つのアプローチ 『大學新聞』がどのようなメディアなのか、その概要に ついては本稿で輪郭を示すことができたと考えている。今 後『大學新聞』の研究を進めるためには、2つのアプロー チが存在する。ひとつは、『大學新聞』というメディアそ のもの研究することである。特殊な時期に特殊な状況で発 刊されていた『大學新聞』については、まだ不明な点が多 く残されている。既述の通り、終戦前後のメディアでの言 説は3つに区分されている。戦時中の言論統制と、戦後 のGHQによる検閲の影響がどこまで『大學新聞』に及ん でいたのかを注意深く調査したうえで、自由に発言できた 可能性のある「検閲のない約1ヶ月」の言論を抽出する作

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業を進めていきたい。 そして、もうひとつのアプローチは、『大學新聞』の記 事そのものを分析していくという視点である。しかし、こ の『大學新聞』の記事内容の分析をひとりで抱えることは 不可能である。各分野で活躍をしていた研究者たちの論考 を読み解くためには、あらゆる分野の専門知識を持ち寄る 必要があるからだ。大学史、政治史、思想史はもちろんの こと、『大學新聞』には機械工学や法律に関連する記事も 多い。今後『大學新聞』の研究を進めるためには、学際的 な研究チームをつくる必要があるだろう。 〈注〉 1)新聞の名称である『大學新聞』および発行者名大學新聞社つ いては、一般名詞の大学新聞と区別するために旧字体を用い た。以降、新聞雑誌の名称、発行者名については本文中でも 当時の名称を表すために旧字体を用いる。 2)新聞・雑誌の出版年については本誌に和暦が用いられている ため、和暦と西暦を併記する。 3)『帝國大學新聞』は昭和19(1944)年5月983号で休刊、『京 都帝國大學新聞』は昭和19(1944)年3月378号で終刊、『三 田新聞』は昭和19(1944)年5月546号で休刊となっている。 『一橋新聞』は昭和19(1944)年に休刊となっているが、終戦前 の号が欠号となっており、確認することができない。各紙と も復刊されるのは昭和21(1946)年である。 4)『大學新聞』第三十号(昭和二十年六月十一日)(四)「昭和 一九年度 本紙合冊版頒布」の欄に住所の記載がある。 5)婦人画報社発行の『婦人画報』は、483∼493号のみ『戦時 女性』にタイトルを変更している。(国立国会図書館サーチ http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000020711-00) (2017/10/30閲覧) 6)石川武美(1887‒1961)は『主婦之友』の創刊者であり、主 婦之友社の社長(男性)。石川武美記念図書館(旧お茶の水図 書館、東京都千代田区神田駿河台2‒9)は女性雑誌と古典籍・ 古文書を扱う専門図書館である。 7)日本近代文学館(東京都目黒区駒場4‒355)は、文学資料の 収集・保存・公開を行っており、小説が連載されていた女性 雑誌の所蔵が豊富である。雑誌の蔵書はWEBで検索が可能。 http://www.bungakukan.or.jp/(2017/10/30閲覧) 8)大宅壮一文庫(東京都世田谷区八幡山3‒1020)は、雑誌専 門の図書館である。蔵書はWEBで公開されている『大宅壮一 文庫索引目録・新訂第2集』1983で確認することができる。 http://www.oya-bunko.or.jp/possess/tabid/464/Default.aspx (2017/10/30閲覧) 9)憲政資料室は国立国会図書館東京本館内にある専門室である。 アメリカのメリーランド大学所蔵の日本占領期にGHQによ る検閲のために集められた日本国内の雑誌や新聞を、マイク ロフィッシュとマイクロフィルムで閲覧することができる。 http://www.ndl.go.jp/jp/service/tokyo/constitutional/index. html (2017/10/30閲覧) 10)『婦人之友』昭和20(1945)年6月7月合併号、2頁。タイト ルは「世界史上に新日本を創造(つく)れ」。 11)『婦人画報』昭和20(1945)年10月号、8‒9頁。「『幸福を築 く國』へ」では、8頁の「自衛のため決然起たざるを得なかつ た」という箇所が「DISAPPROVED」と報告されている。 12)『婦人画報』昭和20(1945)年10月号、34‒38頁。「紅梅の門」 は銃後を守る看護婦の物語であるが、文末の日付をみると「昭 和二十年二月二十五日記」となっており、終戦前に書かれた ことがわかる。この小説の掲載については、編集後記に「吉 屋信子先生が終戦前に執筆せられたものであるが、いみじく も大和撫子の美しい心情を描かれ盡した快心の御作なので特 に乞ふて本號を飾らせていたゞいた。」と補足されているが、 この編集後記の効力はなかったようで、この小説は「 DISAP-PROVED」と報告されている。 13)『復刻版 帝國大學新聞 第17巻』の凡例(6頁)によると、 同書刊行のために使用した『大學新聞』の原本所在は、1号が 東京大学新聞研究所新聞資料センター蔵、20号が東京大学経 済学部図書館蔵、21号・29号・55号が静岡大学附属図書館 蔵、26号・27号・33号が一橋大学図書館蔵、その他すべての 号が東京大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵となっている。 14)評論家の加藤周一(1919‒2008)は、自身が初めて書いた天 皇制に関する論考について、「敗戦直後、天皇制をどうすべき かについて議論が盛んであった頃、『東大新聞』に意見を述べ たのが、これである(一九四六年三月)。」〔加藤2009:69〕と 解説しているが、この論考が掲載されたのは『東大新聞』で はなく、『大學新聞』第55号(昭和21(1946)年3月21日発行) である。ちなみに、この論考は『大學新聞』の選考で選ばれ た応募論文として掲載されており、加藤周一名義ではなく「荒 井作之助」という筆名で掲載されている〔加藤2009:485〕。 15)「京都大学新聞の沿革」『京都大学新聞縮刷版 第二巻』京都 大学新聞社、1‒2頁。 16)「単独のメディア」と表記した理由は、『大學新聞』が終戦 までは日本政府による検閲を受け、9月下旬からはGHQの検 閲対象となっている可能性が否定できないという状況を鑑み、 「独立のメディア」という表記が適当でないと判断したためで ある。 17)京都大学新聞社によると「二十七年(一九五二年)四月の 講和条約発効まで、G・H・Qによるプレス・コードがひかれ、 「学園新聞」も「危機に立つドルと原子力外交」の論文その他 でC・I・Eに呼び出しを受けるなどしている。」〔京都大学新聞 社1969:2〕とある。 18)『大學と學問』に論考を寄せているのは、今井登志喜、戸田 貞三、向坂逸郎、山口吉郎、風早八十二、武谷三男、丸山眞 男、瀧川幸辰、大室貞一郎、壽岳文章、高松棟一郎、福井健 介、鄭振鐸の13名である。そのうち、丸山、福井、鄭を除く 10名が『大學新聞』に記名記事を寄せている。 〈引用文献〉 伊東光晴1988「復刻の辞」一橋大学一橋新聞部編1988『一橋新 聞 復刻版 第1巻』不二出版,pp. 1‒2 加藤周一2009『加藤周一自選集1 1937‒1954』岩波書店 京都大学新聞社1969a『京都大学新聞縮刷版 第二巻』(非売品) 京都大学新聞社1969b『京都大学新聞縮刷版 第三巻』(非売品) 京都大学新聞社1969c『復刻版 京都大学新聞 第2巻』不二出版 京都大学新聞社1969d『復刻版 京都大学新聞 第3巻』不二出版 帝國大學新聞社編集部編1946『大學と學問』帝國大學新聞社出 版部 殿木圭一1985「『帝国大学新聞』の歴史」『復刻版 帝國大學新 聞 別冊〈記事・執筆者索引〉』不二出版,pp. 1‒14 一橋大学一橋新聞部編1988『一橋新聞 復刻版 第5巻』不二出 版 不二出版1985『復刻版 帝國大學新聞 第17巻』 不二出版1985『復刻版 帝國大學新聞 別冊〈記事・執筆者索引〉』 不二出版1986『復刻版 京都大学新聞 別冊〈記事・執筆者索引〉』 福島鋳郎1978「占領初期における新聞検閲」思想の科学研究会 編『共同研究日本占領軍の光と影<上巻>』徳間書店,pp. 115‒136 婦人画報社1945『婦人画報』昭和20年10月号 婦人之友社1945『婦人之友』昭和20年6月7月合併号 三田新聞学会編1987『復刻版 三田新聞 第7巻』不二出版

表 3  『大學新聞』昭和 20 年発行第 17 号〜第 47 号掲載の記名記事一覧(筆者作成)
表 3  つづき
表 3  つづき
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参照

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