平城宮跡資料館秋期特別展
地下の正倉院展式部省木簡の世界
役人の勤務評価と昇進
。
ノ、
第 I 期展示木筒
一 一10 月 月 l月 内五一1:五
示 日 日
l
日‑,,‑.... ̲..........
ほ 火 火
l
士'‑'"
‑ . ‑
扇 1 1 11
" ・ぽ~ .
b 一 一10
H ‑ 旦 月
1
Jl., 一 . 一
品 七 三l一
芸 日 日
l
日し...‑.. ‑..........
長 日 日'‑"
̲ . ̲ l
月す。
I
勤務評価に使われた木簡
考課(毎年の勤務評価)に使われた木簡1
年五十四 (表)去よ従八位下村令氷守公麻呂
L
﹁ 上 回 二 百 十 拡 稲
﹂ 河内国志紀郡
( 裏
)
ほぼ完形で廃棄された勤務評価抑味簡ロ律令制に基づく役人の勤務評価には︑毎年の評価である考課(単に﹁考﹂ともか日)とその一定年数分の積み重ねによる位階昇進の評価である選叙(単に
L
漣﹁ 民品 公ヰ の三 種調 印か ちあ 川︑ 九﹂ れは 考課 木簡 の例
︒
村合氷守公麻呂という︑河内国志紀郡時初大阪府藤井寺市︑及び八尾市西南部・柏原市西部の一部)に本貫(戸籍の所在地)のある五十四歳の役人の勤務評価用の個人カlドゆ林摘︒村合氷守というウジ名は他に類例がないが︑何内国には氷連という氏
L i
しよ う? 族が おり (﹃ 新撰 姓氏 録﹄ )︑ これ と関 係が ある とみ られ る︒
﹁去上﹂は去年の評価が三段階評価(上・中・下)の上等だったことを示す︒余白に今年の評価を書き込むようになっているが︑ ※本解説シl
トで は︑ 今回 の展 示に あた り再 検討 した
結果
︑既
報告
の釈
文を
改め
てい
る場
合が
あり
ます
︒
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒﹃
平城
宮木
簡四
﹄二
一七
九五
号︒
以下︑官四三七九五のように略す)
長さ
二九
二皿
・幅
三
O
皿・
厚さ
一
O皿O
一五
型式
この木簡の場合は︑今年の上日(出勤日数)が二百十日だったことが追記されただけで︑評価が書き込まれないまま捨てられてしまっている︒その辺の事情は定かではない︒上日数と同筆の﹁船稲﹂や︑通常書かれる官職が見えない点も不詳︒勤務評価の木簡は側面に孔があけられているのが特徴である︒これは順序を固定して紙の文書を作成したり保管したりする際に︑紐を通してつなげて使うための工夫である︒ーの孔は木簡の上端から約一五皿の位置にあり︑上端の残る考選木簡の中では位置がやや高い︒径は約四時裏面の塁線は︑木簡がバラバラになっても順序がわかるように︑木簡の裏面に通して引いたものであ
ろ う
︒
2
考課(毎年の勤務評価)に使われた木簡の断片1
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四三一七九九)
会 不 従八位上若円
長さ
(七
九)
皿・
幅一
一二
皿・
厚さ
九皿
O
一五
型式
従八位上の若某の考課木簡の断片︒214は︑側面にあけられた孔が表面に出かけてきて︑削って再利用するには薄くなり過ぎたため︑廃棄したものであろう︒焼け火箸状の物で孔をあけた痕
跡が
残る
︒
2
の孔 は上 端か ら約
=一 七阻 の位 置に あり
︑径 は約 四回
︒
側面に孔をもっ
O
一五型式の木簡の断片は︑ほとんどが孔より上部の断片である︒これは恐らく︑下部はまだ他の用途の木簡に再利用できたからであろう︒つまり逆にいえば︑こうした廃棄が行われたのは︑折れやすい孔の部分を除去して︑使える部分を別の用途の木簡に再利用するためだったとみることができよう︒﹁去不﹂は︑出仕しなかったか︑出勤日数が不足したかして︑去年は評価の対象外だったことを示す︒今年の評価は書き込まれていないので︑今年も評価の対象とならなかったのかも知れない︒3 考
課(毎年の勤務評価)に使われた木簡の断片2
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士
︒宮
四ー
一二
八
O
八)
去 上
︹従
方︺
口円
﹁ 企 ﹂
( 今 上 方 )
長さ
(五
O )
皿・
幅三
O
凹・
厚さ
七皿
O
一五
型式
従某位の役人の考課木簡の断片︒2や4と同様に孔の部分で折って廃棄したもので︑焼け火箸状の物で孔をあけた痕跡が残る︒ 孔は上端から約四七皿の位置にあり︑径は約五皿ロ﹁去上﹂は︑去年の評価が三段階評価(上・中・下)の上等だったことを示す︒今年も﹁上等﹂の評価を受けたことが追記されている︒﹁今上﹂は︑﹁今﹂と﹁上﹂を組み合わせた記号状の書き方
をし てい る︒ 4 考
課(毎年の勤務評価)に使われた木簡の断片3
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮
四│
=一
八
O
四)
去 不
長さ
竺二
一)
皿・
幅一
二皿
・厚
さ八
皿
O
一 一
止 型
式 考課 木簡 の断 片︒
3や4と同様に孔の部分で折って廃棄したもので︑焼け火箸状の物で孔をあけた痕跡が残る︒孔は上端から約二
O
皿の位置にあり︑径は約五円﹁去不﹂は︑去年は出仕しなかったか出勤日数不足かで︑評価の対象外とされたことを示す︒1・2と同様に今年の評価の記載がなく︑今年も評価の対象とならなかったのかも知れない︒5
考遺木簡を再利用した習書木簡1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒官六八五一九)
︹養 カ︺
﹁ 口 口 口
﹂
﹁ 神 亀 五 年 麻 口
﹂
U 考別口﹁諸国郡口口等﹂神亀口年
︹ 記 力
︺
︹ 五 カ
︺
︹鳴
力︺
﹁ 口
口 ﹂
( 表
) 諸
円
( 裏
)
諾 口 [
カ楽 L 1
と二万暫撃
呂口 τ
カ」
〕董
書
O
一五
型式
長さ
三三
=一
凹・
幅二
一一
皿・
厚さ
一七
皿
上端から約五五皿の位置の側面に︑径約五皿の孔が穿たれてい る ︒
こ う も ん せ ん も ん
﹁考別記﹂は︑式部省に集められた諸司の考文・選文に基づいて︑考目録・選目録・選別記とともに作成される紙の文書(延喜式部省式下考問条)︒丁寧な糖書の書体で書かれていることや︑裏面にコ二番﹂とあることからみて︑式部省で十番に分けて行われた考課の事務処理過程において︑木簡による考別記が
O
一五
型
式の木簡を用いて番ごとに作成され︑その見出しとして利用されたのがこの木簡と考えられる︒つまり︑個人カードの木簡ではないが︑その冒頭に連綴された木簡であろう︒側面に穿孔のある木簡を用いているのはそのためだろう︒五カ所の異筆部分はそれぞれ別筆の習書で︑﹁神亀五年﹂(七二人)など考別記の本来の記載に基づくものが見られることから︑習書部分に見える﹁諸国郡口口等﹂が︑上部の腐蝕して読めない部分に元々書かれていた可能性が考えられよう︒すなわち︑習書も木簡の内容復元の材料になるという貴重な事例である︒
6
考遅木簡を再利用した習書木簡2
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四四六九四)
省式部省牒
︹ 政
カ ︺
( 裏 ) 氏 部 省 移 口
﹁ 口 口 ﹂
︹ 兵
部 ヵ
︺
長さ
(一
七七
)皿
・幅
二九
皿・
厚さ
一七
皿
( 表
) 省
考 口
O
一五
型式
複数の役所名と文書の書式が書かれた習書木簡︒上端から約五四皿の位置の側面に穿孔があり︑元々は考選木簡だったものを︑何らかの理由で使わなくなったあとに︑文字の練習に用いたものである︒孔の径は約六
1
七回︒下端は折損しているが︑木簡の側面が残っているのに中央部が腐蝕して陥没しており︑形状として やや不自然な印象を受けるロ牒は本来は役人個人の上申文書や︑寺院関係とのやりとりに用いる書式で︑統属関係にない役所相互でも広く用いられた︒また︑移は平行の対等関係にある役所相互に用いる書式︒いずれも書式名に続けて宛先を記すのが普通だが︑それに当たる記載は読み取れない
ロ
E
考選木簡の削屑の世界
1 7
考遺木簡の長太な剛屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒官五六三八六)
去 よ
年サ五
O九
一型
式
長大な考選木簡の削屑だが︑木簡の右寄りの部分しか残っていないため︑位階・官職・姓名の部分を読み取るのは困難である︒﹁去上﹂は去年の評価が三段階評価(上・中・下)のうちの上ほんがんち
等だったことを示すもの︒﹁年廿五﹂の左側には︑割書左行の本頁地 (本 籍地 )の 記載 があ った はず であ る︒
1 8
考温木簡の長大な削屠2
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮玉│七
O
七八)
口留 者カ 従 〕
i¥.. 位下 牟
牟 キ L
公
〔 鼠 童
周口口
力
O九
一型
式
りゅラし孟ラ﹁留省﹂は︑主人(本主)の高戸や解官によって職を失うなど比吋
γ
試部省付きになっている資人(従者)︒
牟牟礼公は周防国の地方豪族で︑割書左行の本貫地とみられる記載が﹁周﹂で始まることと整合する︒周防国佐波郡に牟々礼君大町がいたことが︑天平十年(七三人)度の周防国正税帳にみえ
(﹃ 大日 本古 文書
﹄( 編年 )二
︑一 三
O頁
)︑ また 三条 大路 木簡 に︑
同郡武礼郷の人として牟々礼直国依の名が見える(﹃平城宮発掘調査出土木簡概報﹄二三︑三人頁下段(四一二︒以下︑平城木簡
概報 二一 一│ 三人 下︿ 四一 一﹀ のよ うに 略す )︒
1 9
考遺木簡の官職部分の削屑1
(三
三次
補︑
S
D四 一
O O出 士︒ 宮四
│四
=一 五二
︹ 費
入 力
︺
口口留省口
O
九一型
式
2 0
考還木簡の官職部分の削屠2
( 一
一 三
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五│七
O
一三
) 内
匠
O九
一型
式
2 1
考遺木簡の官職部分の削屠3
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士
︒宮 五│ 七
O
三九)
口司参よエ尤
O九
一型
式
2 2
考渥木簡の位階・人名部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五│七四一二
︹八位上勲十一方︺ 円 U
口口口口口口等下村主浄道
O九
一型
式 23
考週木簡の位階部分の削屠1
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五│七三三三)
尤 位
O九
一型
式
2 4
考週木簡の位階・人名部分の削屠Z
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│四四八
O )
︹ 臣
カ ︺
位藤原朝日
O九一
型式
2 5
考温木簡の人名・年齢・本貫地部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四コ一九四二
え 人
一 一
O九
一型
式
2 6
考渥木簡の年齢部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四四
O
七一 一
)
︹年
カ︺
口五十五 O
九一
型式
2 7
考遇木簡の年齢・本貫地・上回数部分の削暦
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出士︒宮四一二九四六)
口 ロ ニ
京
よ 口
O
九一型
式 28
考遅木簡の本貫地部分の削屠1
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒官五六六五
O )
内国志妃 O
九一
型式
﹁志紀﹂は河内国志紀郡︒今の大阪府藤井寺市︑南部・柏原市西部の一部︒ 及び八尾市西
2 9
考遺木簡の人名・本貫地部分の削屠1
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒宮五六六三七)
口河内国交野郡
O九
一型
式
河内国交野郡は今の大阪府交野市︑及び枚方市の大部分と寝屋
川市 東部 の一 部︒
3 0
考渥木簡の上回数部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮 四│
=一 九一 二
上回三百
O九
一型
式
3 1
考課木簡の前年評価部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四コ一八五二
去不
l
︹大
方︺
O九
一型
式 32
考課木簡の前年評価部分の削屑2
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四=一八二八)
会 中
O九
一型
式
3 3
考県木簡の今年の評価部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四コ一八二四)
A
、
よ
マO九
一型
式
3 4
遺叙木簡の考の年数部分の削屠1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮
四=
一七
七一
一一
)
十 考
O九
一型
式
叙位の結果 官職位階
年齢 姓名 考の年数 本貫地
通算出勤日数 考の内訳
官職 位階
年齢 姓名 本貫地+ ﹁人﹂
叙位の結果
3435
36
37 38
今 授 外 少
初39 40
今 正
八上
四十九41 今従 六
42
従
七下
正八43
︵略式︶
前年の評価 今年の評価 官職
姓名 位階 年齢
出勤日数 本貫地
19
留 省 従 八 位 下 牟 牟 礼 公 豊 成
周18
17
内 匠
2021
22
无 位
232425
26
27 28 29
30 313233
考課木簡 選叙木簡1 選叙木簡2
Ⅱ章の削屑が考選木簡のどの部分にあたるか、模式的に示した。なお、官職・位階・姓名・年齢・本貫地の五項目は、個人カードとしての勤務評価の木簡に共通する記載事項であるため、この部分のみでは考課・選叙いずれの木簡の削屑かは判断できないが、便宜上、考課木簡として示した。
3 5
還叙木簡の考の年数・上回数部分の削屠1
合=
一次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮
四│
一二
七七
七)
六 考 日 口
O
九一型
式 36
選叙木簡の上回数部分の削屠1
合=
一次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒宮五│六五一三)
日一千三百
O九一
型式
3 7
遺叙木簡の考の肉訳部分の削屠1
会=
一次
補︑
S
D四 一
OO
出士
︒宮
四│
一二
七七
九)
口
中上口 等等
O
九一型
式
3 8
遇叙木簡の年齢・本貫地・昇進位階部分の削暦
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士
︒宮
四一
二七
九一
一)
口 口
国宇治郡人
A
、
口
マO九
一型
式
う じ や ま し ろ
宇治郡は山背国宇治郡(今の京都市東南部と宇治市東部)︒
39
遺叙木簡の叙位の昇進位階部分の削屑
( 一
一 一
二 次
補 ︑
S
D四 一
O O出土︒宮五│六二六六)
︹初
カ︺
口今投外少口
O九
一型
式
4 0
遺叙木簡の本貫地部分の削屠1
( 一
一 一
二 次
補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│四
O
一七
)
口園水内郡人
O九一
型式
み ず う ち し な の
水内郡は信濃園水内郡(今の長野県上水内郡・下水内郡付近)︒
4 1
遺 叙 木
簡の
昇 進 位 階 二 略 表 式補 )
、と S 年 D 盛会
四面
分。 (の
国削
土 屠 宮 五
ノ、
七
今正八よ 円
I 1 1 1 u
口四十九
O九
一型
式
4 2
遺叙木簡の昇進位階(略式)部分の削屑1
( 一
一 一
二 次
補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五六二九一一)
A7
従六
O九一
型式
上端と左辺は原形を留める︒
4 3
還叙木簡の昇進位階(略式)と位階部分の削屑
( 一
二 二
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五│六三
O
四)
︹正八カ︺
口 口
従 七 下 4 4
O
九一型
式
﹃省符﹄と年紀の書かれた削屑1
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出士︒宮四四一一四)
省 府
4 5
年紀の削暦
雲三年九月 4 6
﹁ 景
品 芸
三 年
﹂
九月サニ
O九一
型式
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出士︒宮四四一四
O )
O九
一型
式
特別の叙位に関わる削屠1
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒宮四│四
O
九一 一
)
勅 投
O九
一型
式
4 7
式部省で使われた横材の削屠1
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒官四│四二四三)
〔 令口 益 弘 J :
存〉何日
戸 主 体
手盆口
O九
一型
式
4 8
式部省で使われた横材の削屠2
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│四九
O O
)
口 ]
口 篠 弘 伊 [
O九
一型
式
E
式部省木簡の広がり
1 1 3
大学寮から宿直担当者を報告する木簡1
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│三七五二
大学寮解
中 宿
直片,悟
j
き 人
i 三
信 神 従
買 護 六
i 五 景 位
長 雲 よ
言 四 紀一年暫
i¥. 匡空 月 直
二 叶 人
主日
大学寮が上級官司の式部省に対し︑宿直担当者を報告した木簡︒大学寮は︑役人の養成機関である大学を管轄する役所︒京内の左京コ一条一坊(または右京三条一坊)にあったと考えられている︒しようじよう宿直は︑披鋤
L
H宿)と日勤
(H 直)の総称︒少允は寮の第
三等官︒紀直人は他の史料に見えない︒一人で宿直したとは考えにくいから︑担当責任者ということだろうか︒しようと︿神嘩堤雲四年は七七
O
年γ
肌月四日に称徳天皇が亡くな初︑の即日白壁王が立太子(後の光仁天皇)︑一七日に称徳天皇を高野山陵に埋葬︑二一日に道鏡を左遷︑といった政治的緊張が続く時期である︒八月三O
日は称徳の四七日の忌日に当たり︑大按時で法会が行仲机ている︒なお︑当時の大学寮の長官(頭)は山部親王(
後の
桓武
天皇
)︒
1 1 4
散位寮から宿直担当者を報告する木簡
1
(二
三次
補︑
SD
四一
OO
出土︒宮四│三七五四)
少属従六位下桧前令人達安麻呂 (表)散位察解中宿直官人事
宥 亀 元 年 十
﹁ 鳴 鳴 鳴
﹂
﹁ 鳴
﹂
﹁ 鳴
﹂
( 裏
)
﹁ 品 伺 晶
何 ﹂
﹁ 安 位 朝 口 口 鳴 鳴
﹂
﹁ 為
口 ﹂
﹁ 鳴
﹂
長さ
つ一
五七
)皿
・幅
三
O
皿・
厚さ
一皿
﹁ 品 伺 ﹂
﹁ 従 六 位 下 桧 前 前 令 人 達 ﹂
﹁ 為
為 為
﹂
さ ん に り ょ う し き ぷ し よ う
散位寮が上級官司の式部省に対して宿直担当者を報告した
木簡︒散位寮は︑散位(位階をもちながら︑特定の官職に就いて
いない役人)しょ法糟官し︑本寮に詰める六位以下の散位の勤務差問
を行った︒少属は寮の第四等官︒宝亀元年は七七
O
年で︑山の神護景雲四年と同じ年︒十月一日の光仁天皇即位にあわせた改元で
ある
︒
余白には文字を練習したあとが多数残る︒書き手あるいは書いた時が異なるとみVゆ拠品挿嚇切四種類認められるが︑裏面に表面の署名者と同じ﹁櫓前舎人連﹂の文字があるから︑自分が書き損じた木簡を習書に使ったのかも知れない︒上端は焼損している︒
1 1 5
宿直担当者を報告する木簡の断片
1
(三
三次
補︑
SD
四一
OO
出士
︒宮
四│
一二
七五
八)
解 中 官 人 宿 直 事
長さ
(九
一二
)皿
・幅
(八
)皿
・厚
さ一
一皿
O八
一型
式
差し出し部分が残らないが︑大学寮(川︑四︿E
期展
示﹀
︑同
︿E期展示﹀に類例がある)または散位寮(川︑四︿E
期展
示﹀
︑
O一
九型
式
宿144
担直 〈E
当 期 者 展 報こ二を 示
れ 柔 調
簡が
の の断 Q
Z ふ
あら
? 長
官 司 の 式 部 省 宛 て
1 1 6
続労銭の付札
1
(一
一一
二次
補︑
SD
四一
OO
出土︒宮六│九
O
六六
)
︹調方︺
(表)尤位田辺史庚口進続労銭伍何文 摂 津 国
﹁ 勘 錦 織 ( 裏 ) 神 亀 五 年 九 月 五 日 住 吉 郡 秋 庭
﹂
長さ
一七
二皿
・幅
三一
二皿
・厚
さ一
二皿
O三
二型
式
た な べ の ふ ひ と ひ ろ っ き し よ
︿ ろ う せ ん し せ ん
田辺史広調の続労銭の付札︒続労銭は資銭とも引い︑定員 オーバーで官補位就けなかった六位以下の官人や位子(六位か ら八位までの嫡子)などが納める銭のこと︒位階昇進判定の対
象と
舟る
資格
(﹁
考﹂
H毎年の勤務評価)をつなぐ︑文字通り﹁労﹂を﹁続﹂ぐための﹁銭﹂である︒額は五百文が定額だっ光ロ
にし ごり
m&
きに お
裏面の﹁勘﹂はこの続労銭を検査し収納するの意で︑錦織秋庭はその責任者︒﹁勘錦織秋庭﹂の部分は収納の際に秋庭自身が追
せ っ つ す み よ し
記したもので︑筆跡が異なるロ裏面上端の﹁摂津国住吉郡﹂(今
の大阪市住吉区・東住吉区・加堀野区・西成区・住之江区︑及び平野区西部)は田辺広調の本貰地(本籍地)︒続労銭の付札で納銭者の本頁地を記すのは川のみである︒神亀五年は七三八年︒
上端に施された深く鋭い切り込みはよく残るが︑全体にやや傷みが目立ち︑材がやせて木目が浮き上がっている︒
117
続労銭の付札2
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出士︒宮六九
O
六一 一
)
( 表 ) 守 部 首 庚 え 銭 五 百 文
﹁ 勘
泰
( 裏
) 神
亀 五
年 九
月 サ
二 日
等干﹂長
さ一
二六
皿・
幅三
O
皿・
厚さ
二皿
o=
一二
型式
も り ペ の お び と ひ ろ た り は た の ふ み て
守部首贋足の続労銭の付札︒身分は書かれていない︒秦筆 は︑ 続労 銭を 収納 した 式部 省の 側の 責任 者︒
﹁筆
﹂は 異体 字の
﹁筈
﹂
で書かれている︒秦筆は︑同
(E 期展 示) にも 見え る︒ 118
続労銭の付札S
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒官六九
O
五人)
( 表 ) 大 伴 王 奇 人 井 上 伊 美 口 円 ハ ]
銭五百文
( 裏
) 神
亀 円
︺ 月
門 U
口 口 瓶 原 京 人
︹ 検
校 ヵ
︺
長さ
一一
一二
ニ皿
・幅
一一
=一
皿・
厚さ
王皿
o=
一二
型式
お お
︾ も お う し じ ん い の う え の い み 舎
大伴王の資人(従者)の井上伊美(吉)某の続労銭の付札ロ字配りからみて︑収納責任者(一般に﹁勘﹂として記されることが多いが︑ここでは﹁検校﹂と表記されている)の名の部分まで含めて一筆で記されている可能性があり︑収納した側で付したも
の か
大伴王は系譜不詳︒通算(七一四)正月に無位から従五位 ︒
下に叙されている(﹃続日本紀﹄同月甲子条)︒井上伊美(吉)某は︑続労銭を進上していることからみていわゆる留省資人(叩の解説も参照)で︑大伴王の死去などによって解官し︑式部省に
留め置かれてい社初代掛拐サ︒3
裏面の検校者瓶原東人は凶
(E 期展 示) にも 見え る︒
﹁瓶
﹂ は﹁ 義﹂ の異 体字
﹁菰
﹂を 用い てい るが
︑﹁ 義原
﹂姓 の事 例は なく
︑
﹁瓶
﹂と
判断
して
いる
︒ 119
式部省で使われた題鏡軸1
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五│六一六四)
( 表
) 因
解 よ
日
( 裏
) 因
解 よ
日
長さ
(五
一)
皿・
幅一
一四
回・
厚さ
七回
O六
一型
式
だいせんじく以下三点は︑題畿軸(見出し付きの文書の軸)︒題畿(見出し)部分の表裏両面に︑軸に巻かれた文書の内容を端的に記す︒題畿
部分
﹄ゆ 間宮 さは 三九 回︒ 軸陥 掘比 四で 下部 は折 損︒
﹁国解﹂は︑諸国から太政官をはじめとする中央の役所に送
られ民問書ロここでの宛先は式部省ロやや小さく右寄せで書かれる﹁上日﹂(勤務日数)は︑文書の具体的な内容を示す︒諸国から国ごとに国司の勤務日数を式部省に報告した文書で︑彼らの勤務評価の基礎資料として用いられたのであろう︒諸国から園ご
とに報告してきた文書を貼り継いで一巻として保管したものとみられる︒その写しゃ整理したものの可能性も否定できないが︑前者ならば﹁案﹂と記されるだろうし︑後者ならば﹁園解﹂とは書 かな いだ ろう
︒
なお題畿軸は︑本木簡のように軸部が折れた状態で見つかるこ
とが
多い
︒
1 2 0
式部省で使われた題鏡軸2
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒官四三一七六四)
( 表
) 諸
司 解
( 裏
) 諸
司 移
長さ
(四
八)
皿・
幅三
九四
・厚
さ三
皿
O六
一型
式
さまざまな役所から式部省に送られてきた文書を貼り継いで巻物としたものの題畿軸︒ちょうど軸部と題畿部の境目で折れ︑題畿部のみが残る︒厚さは二皿で︑題集としてはかなり薄い︒右上
端が欠損し町いるのも︑薄さの所以であろう︒表面の﹁解﹂は︑統属関係に必る下級の役所から上級の役所に差し出す文書の様式︒裏面の﹁移﹂は︑統属関係にない役所の潤
2 L
一でのやりと一りに用いる文書の様式︒式部省について言えば︑大
が
︿ り 主 う さ
λhh
りょ う
学寮と散位寮から送られてくる文書は﹁解﹂︑その他の役所(太政官を除く)から送られてくる文書は﹁移﹂である︒表裏両面で記載が異なっているが︑解と移の両方が貼り継がれていたのだろう︒文書の内容は明記されていない︒なお︑同じ東西溝
S
D四 一
O
E期展示﹀)も見つかっているが︑こちらは裏面に題畿軸(間︿
O
からは︑﹁諸司移﹂と書かれた年紀 を書 いて いる
︒
1 2 1
式部省で使われた題範軸3
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮
四│
=一
七六
三)
( 表
) 五
位 上
( 裏
) 故
え
長さ
(六
四)
皿・
幅一
一九
皿・
厚さ
六皿
O六
一型
式
上端を丁寧に丸く削り出すが︑軸は中心からややずれた位置にある︒題畿部分の長さは四八円軸は幅九四で下部は折損︒﹁五位上﹂は五位以上の意味︒式部省は︑五位以上に関しては勤務日数と特記事項を整理するだけで︑評価を行なわない︒したがって︑﹁故文﹂は勤務評価に関わるものではなく︑正倉院文書
に用例があるよ町市︑げ欠勤理由を報告す以京高を指す可能性が高い︒すな肋ち︑請暇解(休暇の申請)や不参解(欠勤の届出)など欠勤の故H理由を述べた文書のことであろう︒
h識せ﹂の用例はE倉院文措件仁捌確認できる︒一つは︑﹁故文
を進ること﹂と題して︑丸部豊成が兄の死去に伴う休暇を申
請した神護景雲四年(七七
O )
の文 書で ある (﹃ 大日 本古 文書
﹄( 編
年)六︑八三頁︒木簡とほぼ同時期である)︒もう一つは﹁故文を進上すること﹂というタイトルのみが残り︑具体的な文書の中
身は 不明 であ る( 同三 五︑ 三六 五頁 )︒
H期展示の題畿軸閣の﹁申故﹂も︑あるいは﹁故文﹂と同じ内容の文書を指すか︒
1 2 2
肥後固の兵士歴名暢の軸
(一
五五
次︑
S
D一
一六
四
O
出土︒宮六九八八四)(木口)肥後圏第三益城軍団養老七年兵士歴名帳 (木口)肥後国第三益城軍団養七年兵士歴名帳
長さ
三三
o m
・径
二二
皿
O六
一型
式
断脂円形に精巧に加ヨ詰れた完形の棒軸︒中央部がやや細く心持ち按型を呈する︒両木口の外周に沿って︑この軸に巻かれていた文書名を時計廻りに記す︒文字はきわめて小さく︑丁寧な構書の書体である︒本来は両端とも同文を書くつもりだったのだろう
が︑一端は﹁養老七年﹂の﹁老﹂を書き落としている︒養老七年
は七
二三
年︒
ど ま し き
﹁肥後圏第三益城軍団﹂は︑肥後国の第三番目の軍団である益城
軍団の意か︒肥後固には益城捕事あり︑おおよそ現在の上益城郡・下益城郡に相当する︒﹁歴名帳﹂は︑人名を列記した帳簿︒つまりこの軸に巻かれていたのは︑養老七年時点で益城軍団に所属していた兵士の名簿である︒養老
A m v
品提市よれば︑諸国はこ
のような兵士の名簿を毎年作成し︑兵部省に提出する決まり
であ
った
︒
なお︑式部省関連の考課木簡を主体とする南北溝
S
D一
一六
四
O
から︑兵部省の管轄下にあった兵士歴名帳の軸が出土したことをいかに意義づけるべきかは︑さらに検討が必要である︒というのは︑紙背の再利用のために︑反故文書が全く無関係の役所に払い下げられることはあり得たが︑由と同じ場所からは式部省の業務に関わる文書の棒軸も見つかっており(叩︿E期展
示﹀
)︑
世に
巻かれていた文書が元々どこの役所の業務に関わるものだったかは︑一概には決められないという難しさがある︒また︑常識的にみて叫と最も関係が深いとみられる兵部省の奈良時代前半の位置
が明らかになっていないことも︑問題を複雑にする要因となって
い る
︒ 123
棒軸を再利用した木簡1
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒宮四三一七六三)
諸司叙位案
長さ
二六
五皿
・幅
一四
皿・
厚さ
さ一
皿
O王一型式
し よ う も ん あ ん も ん
﹁案﹂は︑正式の文書(正文)に対する︑控えの文書(案文)
の意味︒式噛課程に関わって作成する紙の文書には︑選目録
・選別記・擬階簿の三種がある︒﹁諸司叙位案﹂は︑これらのうちいずれかの文書の控えであろう︒﹁叙位﹂の文言を重視すれば︑叙すべき位階が記された擬階簿の可能性が高いか︒裏面には円弧状のカ
l
ブが残り︑棒軸としての加工の痕跡とみられるロ不要になった棒軸を縦方向に割いて︑平滑面に文字を書いたのであろう︒棒軸を木簡に再利用したことが明瞭な珍しい例の一つ(他に叩︿E期展示﹀がある)︒下端をとがらせであるのは︑紙の文書の包みに見出しとして突き刺して用いるためか︒124
遠江固からの雑魚脂の荷札1
( 一
一 三
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五│七八九九)
( 表
) 遠
江 国
進 上
雑 魚
勝 三 斤
( 裏
)
長さ
九一
皿・
幅一
七四
・厚
さ二
皿
O三二型式
と お と う み き た い
遠江国(現在の静岡県西部)から進上された雑魚の謄(干
にえ
物)の荷札︒国が進上する書式をとっていることから︑賛として
揃初訪料品北ものか︒曜市骨生計寮式上遠江国条によれば︑遠在国は
中男作物として﹁与理等﹂(サヨリ)の脂を貢納することになっており︑﹁雑魚﹂(いろいろな魚)の中には︑サヨリが含まれていたかもしれない︒裏面は︑表面とは別筆の可能性もある︒﹁三斤﹂は︑約三回︒間
(E
期展示)も同内容だが︑数量を含めて片
面に 収め てい る︒
か つ お
なお︑遠江国の輔曜物の荷札は︑他に﹁堅魚﹂(宮一│三五人
‑一
一一
五九
)︑
﹁煮
塩年
魚﹂
(奈
良市
教育
委員
会﹃
平城
京左
京三
条一
一
坊十二坪奈良市水道局庁舎建設地発掘調査概要報告﹄︿一九八
四年
﹀一 一一 号) が見 つか って いる
︒
125
但属国からの脂の荷札
っ=
一次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五│七九
O
一 二)
︹ 三
カ ︺
但烏困城埼郡那佐郷官府勝雲龍神護景品審口年口口月二方部童鳴
︹ 十
一 ヵ
︺
上端左隅をわずかに欠失するが︑ほぽ完形の荷札木簡︒切り込みと下端を尖らせる加工をあわせもつ
O
三=
一型
式の
木簡
であ
る︒
加工はやや粗く︑下端の尖りもそれほど鋭くはない︒板目材の木簡で︑側面をのぞき込むと左右とも最大厚四皿ほどの中に︑四‑五層分の年輪が認められる︒年輪一層が一皿以下となる許算で︑
比轍剥目持諦ま♂よ材と言吐括提何時υ
い う
但馬国城埼郡那佐郷(﹃和名類衆抄﹄では奈佐郷)は今の
兵庫県豊岡市の奈佐川流域︑神護景雲三汗併叱六九年︒二方部氏は未詳だが︑但馬固には城埼郡の西側に二方郡(今の兵庫県新温泉町)があり︑ともに日本海に面する︒由の記載には難解な箇所がいくつかある︒﹁勝﹂は干物のことなので︑その上は魚の種類など謄の材料名が書かれるはずであり︑﹁官府﹂では意味が通じない︒﹁官﹂は﹁宮﹂である可能性が考えられるものの︑﹁府﹂の読みは動かしがたそうであり︑現状で
は何 とも 解釈 でき ない
︒
その下の﹁雲龍﹂も難問である︒﹁雲龍﹂は長屋王家木簡の削屑に一例認められる(平城木簡概報二八│三九下(一五九四))︒人名とみて︑踏を納めた人物が雲龍と考えられなくはないが︑その場合︑二方部豊嶋は検収の担当者などとなり︑やや不自然な書
式との印象も拭えない︒
ある いは
﹁雲
﹂は
﹁童
﹂か もし れな い︒ だと する と﹁ 龍﹂ は﹁ 飽﹂ の意 味で
︑謄 の量 が﹁ 書且 (H
二簡﹂であったことを示す表記と解釈できる(その場合︑豊嶋は脂の貢納者となる)︒﹁鰭﹂の竹冠が明確に省略された事例を見出しがたいのが課題となるものの︑
﹁ム ハ佐 川﹂
長さ二四五皿・幅二七四・厚さ四皿O
三 三
一 型
式
下端に﹁六斤﹂と追記されている点は︑この解釈を後押しするものかもしれない︒さらに検討が必要な木簡である︒
126
丹波固に宛てた移の控え
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│四一八二
表
口前ト
7別 手 f r l l l ' ¥¥ ¥ ¥
口附す口 口 〉 国 ト . . . ( ' l
〔池通〕
脊〉惨事詩〉
? 主 主 1 . : > ヤ 円 怜
〉前F 々、
>-~~々、
〔 当 ¥ ‑ t ヤ J > ‑ 口
口容器国?主体存亡
口 AS2 叶m‑口仁
〔込ゆ〕
固持半お裳亡
裏
口口口撃口口 口口制もい 〔柳時〕
~
, ¥
t立総口 口申妥 結州単
口 口
口口
口口
田
町鴨
ぽ ﹃ ・ u p
無
同 席
品
口
長さ (二 七二 )皿
・幅 (五 九) 皿・ 厚さ 六皿
相範
飾品
O八
一型
式
木目と直交する方向に文字が記されるやや珍しい木簡で︑一般にこのタイプの木簡を﹁横材木簡﹂と呼んでいる︒木は木目に沿った方向に割りやすいため︑多くは木目方向に長い材が切り出される︒そこに縦書きで文字(文章)を記してゆくので︑一般的には木田の方向と文字の方向が揃うことになる︒ただし︑閣のよう
にたくさんの事柄を箇条書きのように記すのに行数が必要な場合は︑長大な材を横向きに用いて書き連ねる方が便利である︒こういった使い方をするものを︑横材木簡と呼ぶ訳である︒そのため︑横材木簡には帳簿様の内容を有するものが多い︒また︑木簡の釈文や写真は木目方向が縦になるよう掲載するという原則があるため︑横材木簡の釈文は横向きに組まれることになる︒凶は左右両辺とも割れており︑各行の記述の上・下双方を欠失している(上下左右は木目方向を縦とみるのに従う)︒ただし︑下端は原形を保っているとみられるから︑現状で表面一行固とされる行が︑本来の書き出しの行であったとみて誤りないであろう︒一文字目の﹁部﹂は下半分が残るのみだが︑東西溝
S
D四 一
O O
からの出土であることを考慮すれば︑元はその上に﹁式﹂とあり式部省からの移(直接の上下関係にない役所間代咽いられる文書の書式)であった可能性が高い︒すると宛先は丹波国(今の京都府中部から兵庫県東北部にかけての地域)となるが︑表裏両面
ともその袖切国郡名と見られる記載が散見する弘津面の﹁口︹登
カ ︺ ﹂
H能登国︿今の石川県能登半島地域﹀︑﹁近江国﹂︿今の滋
; う
賀県
﹀︑
p
﹁h
周 辺 LH周防国︿今の山口県東半部﹀?︑裏面の
﹁ 嶋 ﹂
H出雲国嶋根一郡︿今の島根県松江市東北部﹀ワ︑﹁口︹雲
担 う
カ︺
意字
﹂
H出雲国意宇郡︿今の松江市南半部と出雲市の一部﹀︑
う わ さ ぬ き
﹁ 宇
和 ﹂
H伊予国宇和郡︿今の愛媛県西南部﹀︑﹁讃岐﹂︿今の香川
県﹀
など
)︒
︿ て い し ゅ ち ょ う
また︑表面の﹁白丁﹂んは無位・無官の男性︑裏面の﹁主帳﹂は郡司の第四等官︑﹁位子﹂は八位から六位までの位階を持つ者
の嫡子のことで︑いずれも下級段以や地方官人を指す語句である︒詳細不明ながら︑出身地に本貫(本籍)を残したまま平城京に上り︑下級役人として働く人びとの管理に関わる帳簿の類︑と
解することができよう︒
1 2 7
中蔵に納めた舗と施の付札
( 一 一 一
二 次 補 ︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四四六七七)
( 表
) 中
蔵 銭
井 絶
( 裏
) 銭
井 紘
中蔵
長さ
四四
国・
幅二
二四
・厚
さ一
二四
O三二型式
非常に小さな付札︒左辺の切り込みより上の部分が欠失するがほぼ完形で︑長さは四四阻しかない︒当資料館で﹁小さな木簡﹂としてレプリカを常設展示している﹁矯脂﹂(平城木簡概報
一一四│二一二上︿三四九﹀)の長さは四七回だから︑それよりもさ らに 小さ い︒
あし膏血そのサイズにかかめらず︑﹁銭﹂﹁紐﹂と三つの物品名が記されている︒絡は﹁悪し(き)絹﹂の意味で︑やや目が粗い絹とされる︒ただし︑正倉院に伝来した実物を参照すると︑それほど品質が異なる様子は認められないという︒﹁中蔵﹂は銭と絡が収納された蔵を指すと見られるが︑詳細は不明︒表裏ともほぼ同内容が記されるのは︑物品に括りつけた際︑どちらの面が上を向いても読めるようにとの配慮であろうか︒それにしても︑こんなに小さくて本当に付札として機能し得たのか︑少し不安を覚えてしまう︒
百
木簡にみる式部省の移転と跡地利用
1 5 8
多概鴫の役人の考課関係書類の付札
(一
五五
次︑
S
D一
一六
出土︒宮六│九八八六)四
O
' H
S 考六巻
( 表
) 多
働 島
者占状六巻
( 裏
) 三
番
長さ
一一
五皿
・幅
一一
四回
・厚
さ七
皿
一
o =
二 型
式
役人の勤務評価に関する文書に付けられた付札︒﹁酔酔嶋﹂は︑
国に準じる古代の行政単位ロ今の鹿児島県種子島・量以晶を主体とする地域にあたり︑あわせて多働(繭)嶋としてカ密和の管轄
下に置き︑中央から﹁嶋司﹂(他国の﹁国司﹂に準じる役人)を派遣していたJ
モヲ もん
﹁考﹂は考文(役所ご之に摘属役人の一年分の勤務評価を取りまとめた文書)︑﹁状﹂は考状(考文に記された審査理由の詳細などを記載した文書)を指す︒難しいのは︑この木簡がはたしてどこで作られたか︑である︒現地
(H
多働嶋)で作成され︑文書ととともに都までやって来た可能性がないわけではないが︑大宰府管内諸国の考文類は調庸
物と同じく大宰府で一括して管理・搬送されたと恩われ︑大宰府で付けられたものとも考え得るロただ︑聞には年紀などの記載がなく︑考文・考状もそれぞれ﹁考﹂﹁状﹂と略記されている︒必要最小限の情報を︑丁寧ではあるが大きくざつくりとした文字で書きつける趣きからは︑他者に向けた荷札や貢進状というより︑自分たちの事務処理作業の中で文書を管理するための付札との印象を強く受ける︒聞については平城宮︑特に式部省内で作成・使
用された付札と見なすのが穏当であろう︒裏面の﹁番﹂の記載も式部省内での事務作業のグルーピングに例があり
( 5
と闘の解説
も参 照)
︑こ の推 測を 裏付 ける
︒
なお
︑裏 面の
﹁番
﹂の 字は
︑よ く見 ると 一画 目が なく 上半 が﹁ 米﹂
になっている︒現代の小学生が漢字テストでこんな字を書いたらパツとされてしまうだろうが︑奈良時代の﹁番﹂は今と異なり︑この﹁米+回﹂の字体が一般的だった︒
1 5 9
考課の事務作業に関する木簡
( 二
三 一
一 次
︑ S
E一
四六
九
O
出士︒
宮六
│一
O
四六七 )
( 表
) 別
記 司
︹嗣
カ︺
﹁ 口 ﹂
Z 口 中 中 太
大 口 宮 務 政 令 巳 職 省 官
カII
( 裏
)
参 考 目 録
以前 川口
長さ
(一
四四
)皿
・幅
(七
O )
皿・
厚さ
四皿
O八
一型
式
白 ﹂
﹁ 目式部省での考課に関わる木簡︒表面の﹁別記﹂はおそらく考別記を指し︑裏面の﹁考目録﹂とともに考課の過程で作成・使用された紙の文書である︒考目録は諸司から進上された考文(閣の解説も参照)の目録部分を集許したもので︑考の対象となる役人の数が官司ごとにまとめられる︒十二月三十日までに作成され︑翌年三月十日に太政官に送られた(延喜式部省式下考問条・考選条︑同太政官式庶務申官条などて考別記は考文の歴名(人名リスト)部分を集計した文書か
( 5
の解説も参照)︒閣により︑複雑な考課の事務作業において紙の文書だけでなく木簡が活用されてい
たこ とが わか るロ
釈文のうち︑カギ括弧が付された部分は他とは筆跡が異なるロ内容はなかなか解釈しがたいが︑作業の進捗にともなってなされた追記の可能性もあり︑事務作業のダイナミズムを物語って いるのかもしれない︒なお︑裏面のご番﹂は考目録や考別記
の作成過程における作業分担を示すものともみられる︒考還の事務処理は十番(グループ)に分けて行われたとされており︑5や閣には﹁三番﹂の記載も見える︒前掲延喜式文によると︑
一番は神祇官を担当することとされていた︒表裏両面に一本ずつ︑横方向に刻線がある︒羅列する項目の書き出しを揃えたりするためのあたり(ガイドライン)の役割を果たしており︑現在のノ
l
トの罫線のようなものである︒閣は木目と平行する方向に文字が記されるため︑閣とは異なり横材木簡ではないが︑帳簿様の内容である点は両者共通するともいえよう︒上端は原形を留めると見られるが︑下端は削り調整が施されているものの文字が切れており︑木簡としての役目を終えた後︑何らかの材に転用された際の加工の可能性が高い︒1 6 0
奈良時代前半の式部省の考還木簡の削屠1
(二
二一
一次
︑S
E一
四六
九
O
出士︒
宮六
│一
O
四三
O )
上回口 口 郡
O九
一型
式
小さな削屑で︑わずか数文字しか判読できない︒ただし﹁上日﹂は出勤日(数)を指すから︑役人の勤務評価に関わる木簡と推測でき︑姓名の次に書かれる本貫地︑及び出勤日数の記載部分に当たるらしいことがわかる︒﹁郡﹂の行と﹁上目﹂の行は軸がずれているし︑よく見ると﹁上﹂宇に比べて﹁郡﹂字はやや小さめに書かれており︑本来は﹁郡﹂の行の右側に年齢の記載があって割書になっていたことを物語る︒考選木簡由来の削屑と認めてよい であろう
( 6
頁模式図参照)︒なお︑出勤日数を﹁上日﹂と書くのは︑毎年の評価の考課木簡の特徴である(選叙の木簡では﹁日﹂
と書
く)
︒
閣のように木目(年輪)に直交して材を切り出した柾目材の削
屑の場合︑板目材に比べて木目がたくさん残る分︑断片接続に関する手がかりが多い︒あるいは︑今後の調査の進展にともない同一木簡の削屑が見つかって接続し︑より多くの記載・内容が読み取れるようになるかもしれない︒
1 6 1
奈良時代前半の式部省の考遺木簡の削屠Z
(二
一二
一次
︑S
E一
四六
九
O
出士︒
宮六
│一
O
三四二考 播
磨 国 〔口按
侠カ 口察
〔 従 〕
四口
カ
O九
一型
式
選叙に使用された木簡の削暦︒通常︑考数の後には上日数(出勤日数)を合計した数が続いて書かれるが
( 6 頁模式図圃側同
問凶を参照)︑複数の官職を歴任して成選した場合には聞のよう
な註記がなされたのだろう︒あぜち播磨国は今の兵庫県南部︒按察使は養老三年(七一九)七月に新たに設置された広域行政官で︑特定の固守と兼任した(﹃続日本紀﹄同月庚子条)︒播磨(国)按察伎は︑播磨のほかに︑備前・美作・備中・淡路を管轄︒同五年八月に備中は備後按察使に所管替えになり︑播磨按察使の管轄範囲は備前・美作・淡路
とな
った
︒
︿だらのこにきしなんてん播磨按察使としては︑養老五年六月に任じられた百済玉南典が知られる(﹃続日本紀﹄同月辛丑条)︒百済王南典はこのとき従四位上︒井戸SE一四六九
O
からは﹁王南典﹂と書かれた削屑が見つかっている(宮六一
O
七五三)︒聞と直接には接続しないが︑木目や材質がよく似ており︑
たも のか も知 れな い︒
同じ木簡から削り取られ
1 6 2
神社名を肥す木簡1
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士
︒官
四│
四六
八一
一)
水主社
長さ
(七
三)
皿・
幅三
六四
・厚
さ四
皿
O
三二型
式
もとは付札の形をしていたが︑切り込み部分で折れて上部を失
ぃ︑み行部の長方形部分だけが残る︒下端は元の形を保っている︒水主社は延撞紳祇唱吠一一神祇四時祭下臨時祭条︑同九神名上な
どにみえる︑山背国久世郡(今の京都府城陽+巾計一世)の榊紐(岡
市水注惜馬場に所在)︒﹃延喜式﹄によると︑月次祭︑新首論同
購拡 鴇綿 耕輔 併時 れ誤 用鮮 のや
↑し
P
庁池お
hk
fh
問主 十座 の P U 持味主 坐 天 照 御 魂 神 と 水 主 坐 山 背 大 国 魂 命 神 の 二 座 は 相 嘗 祭 に も預 かっ てい る︒
神社名しか書かれていないが︑水主社に分配する幣自に付けら
れた 付札 であ った か︒
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神社名を肥す木簡2
(三
三次
補︑
S
D四 一
OO
出士︒官四│四七五六)
( 表 ) 鏡 作 社 寵
( 裏
) 口
門
U
︹鏡
カ︺
長さ
一七
二皿
・幅
一一
四皿
・厚
さ四
皿
O三
二型
式
下端右辺は失っているものの︑左辺は元の形を留めている︒保 存処理後の赤外線による再釈読により︑表面に四文字︑裏面に一文字+数文字分の文字があることがわかった︒裏面は不明瞭だが墨痕を追うと表面と同じ文言が喜かれていた可能性が高い︒一文字目の始まりが表面よりは若干上から書かれている︒しきのしも
鏡作社は︑延喜神祇官式九神名止た三極山酬な詰いみ武明国城下郡(今の奈良県磯城郡の一部)の鏡昨み迎り項目叩御魂神社(奈良県磯城郡田原本町八尾に所在)︑同郡津幹細場哨社(所在地は同町保津と同町宮古川二説あり)︑同郡鏡作麻気神社(胴澗小阪)の三社であるが︑閣の水主社が月次祭︑新嘗祭において班幣に預かる神社だったことを考えると︑同じように両祭に預かる鏡作坐天照御魂神社に比定し得るかもしれない︒﹁纏﹂に付けた付札で︑その中身は鏡作社への幣吊だったのだ
ろ う
︒
1 6 4
神債の品目を記したとみられる木簡
(二
七三
次︑
S
E一
七五
O
五出士︒宮六一一二六四)︹勝 力︺
口 壱 寵
O九
一型
式
( O
三九
型式
)
下拙湖沼右辺は原形を留めており︑切り込みの部分が明瞭に残る
γ
抽の荷札︑もしくは付札の下端の削屑︒﹃延喜式﹄にみえる神僕の品目でもあり︑この削層︑も神僕用に分けられた脂に付けていたものかも知れない︒謄とは干物のことで︑木簡には魚貝類︑小型初加︑か調︑猪などの時がみえる︒﹃延喜式﹄の神僕の品目では﹁鰻︑墜魚︑勝︑海藻﹂の順に登場するので︑神僕とすれば魚介の膳であろう︒﹁鰭﹂は文字通り物品を入れた縫を数えるのに用いる助数詞︒物品は魚介や海藻︑栗︑塩︑炭などの例がある︒﹁繕﹂と音が同じで画数がずっと少ない﹁古﹂と表記する場合もあった︒