ドイツ連邦共和国成立に対する英外交の史的考察 : 1948年〜1954年
著者 西本 功
著者別名 NISHIMOTO Isao
その他のタイトル The Historical Analysis of the British Foreign Policy to the Establishment of West German Republic Government
ページ 1‑219
発行年 2019‑03‑24
学位授与番号 32675甲第450号
学位授与年月日 2019‑03‑24
学位名 博士(政治学)
学位授与機関 法政大学 (Hosei University)
URL http://doi.org/10.15002/00021755
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法政大学審査学位論文
論文題名
ドイツ連邦共和国成立に対する英外交 の史的考察
- 1948 年~ 1954 年-
西本 功
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ドイツ連邦共和国成立に対する英外交の史的考察
-1948 年~1954 年- 目 次
序章 p.4 第1章 1947 年 12 月末から 1949 年 9 月の西ドイツ政府樹立への英外交 p.15
第1節 西ドイツ政府樹立 1947 年末のロンドン外相理事会決裂後のべヴィン外交 p.15 第1期ロンドン6か国協議 p.20 第2期ロンドン6か国協議 p.23 第 2 節 第1次ベルリン封鎖
1948年始めから6月中旬に至るまでのベルリンの状況 p.27 ベルリン封鎖への英米の対応 p.31 ベルリン封鎖についての英米仏とソ連との会談 p.36 国連安保理へのベルリン問題提訴 p.44 ベルリン封鎖解除へのスターリンの提案 p.50 第 3 節 ブリュッセル条約
ブリュッセル条約締結に至る背景 p.58 第 3 勢力としての西欧同盟構想 p.59 チェコスロバキア政変 p.70 チェコスロバキア政変の欧米への影響 p.74 ブリュッセル条約締結 p.76 第 4 節 北大西洋条約への英外交
1948 年 3 月のトルーマン演説とペンタゴン交渉 p.80 北大西洋条約の第 2 段階(1948年7月6日から10月末まで) p.90 北大西洋条約締結への最終局面 p.97 第2章 西ドイツ再軍備への英外交戦略(1950-1953 年) p.112
第1節 朝鮮戦争の欧州への影響
アトリー政権の西ドイツ再軍備に対する戦略 p.113 ロンドンでの英米仏外相会議(1950 年 5 月) p.119 朝鮮戦争勃発と欧州への影響 p.123
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9 月のニューヨーク英米仏外相会議 p.127 第 2 節 アトリー政権の欧州防衛共同計画(EDC 条約)構想への対応
プレヴァン・プランの登場 p.137 スポフォード・プランの登場 p.143 ソ連の動向 p.149 1950年12月18日のブリュッセルNATO理事会 p.151 1951年9月14日の英米仏ワシントン宣言 p.154 第3節 EDC条約に対する第2次チャーチル政権の対応
1951年10月から12月のパリ英仏首脳会議 p.162 1952年2月のロンドン会議から同年5月の EDC 条約調印までの英外交 p.167 西ドイツの西欧防衛への経済的貢献 p.169 第4節「スターリン・ノート」に対する英国の対応 p.171 第 5 節 1953 年までの EDC 条約の批准状況
EDC 条約調印以後の国際情勢 p.179 1953 年 7 月のワシントン英米仏外相会談から 12 月のバミューダ
英米仏首脳会議 p.184 第3章 ドイツ分割の固定化 p.193 第 1 節 1954 年 8 月末までの英外交 1954 年 1 月のベルリン 4 か国外相会議から 4 月末の英国軍隊と EDC 条約との
連合承認 p.193 1954 年 8 月の EDC 条約否決までの英外交 p.197 第 2 節 1954 年 9 月以降のイーデン外交
1954 年 9 月の欧州安全保障の再検討 p.200 1954 年 9 月のロンドン9か国会議と 10 月のパリ協定 p.202 結章 p.206 参考文献目録 p.214
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序 章
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本論は、第2次大戦後の1948年から1954年までの欧州において最も重要で議論のあ るドイツ連邦共和国(以下西ドイツと略)の成立に対するグレートブリテン及び北アイル ランド連合国(以下英国と略)の外交を、主として西ドイツ再軍備問題に焦点を当てて論 じるものである。西ドイツは法的には1949年9月に成立したが、実際には外交など、本 来国の主権となる政策を英米仏の高等弁務官が行うことになっていた。結局、西ドイツは 再軍備により西欧安全保障への貢献が認められ、1954年10月のパリ協定1により主権を 回復し、名実ともに国家として承認されたからである。
このように、西ドイツの再軍備問題は、西ドイツが国家として西欧諸国に承認される かどうか、欧州の東西分裂が確立されるかどうか、さらに欧州統合が設立されるかどうか、
等々に大きな影響を与えるものであった。それ故、大戦後の欧州ではこの西ドイツ再軍備 問題は、最も重要な問題の1つであった。
また、かつて大英帝国として繁栄した英国は、過去の歴史において欧州大陸を直接支配 しようとしたことがなく、「欧州での大国」であった。これは、英国が欧州において常にオ フショア・バランサーとして行動したことを意味し、欧州大陸で勢力均衡が無くなるよう な大国が出現し大陸を支配しようとする場合にのみ、欧州大陸に直接軍事介入を行った2。 このような「欧州での大国」としての英国の動向は、第2次大戦後の欧州を巡る国際政治 でも依然として重要であった。
さらに、1980年代になり史料公開と緊張緩和に伴い新たな事実が明らかになると、
1945年から1950年代前半までの冷戦初期の国際政治における英国の役割を強調するも のである3ことが判明した。従って、欧州での第2次大戦後の1950年代前半までの国際 政治については、英国の外交政策の分析が必要となる。
1 1955年5月に発効。
2 John J. Mearsheimer, The Tragedy of Great Power Politics (W W Norton & Co Inc, 2014).pp237-238.(ジョン・J・ミアシャイマー著、奥山真司訳 完全版『大国政治の悲 劇』五月書房、2017年、298~299頁。)
3 木畑洋一『帝国のたそがれ』(東京大学出版会、1996 年)2-4 頁。Anne. Deighton, The Impossible Peace, (Oxford University Press, 1993)pp.1-4. これらの研究において同じよ うな分析が行われている。なお、細谷雄一氏は、ヨーロッパ戦後国際政治史では上記の3 つの見解とは異なり、米ソ冷戦史観(上記の①と②に近い見解)と欧州統合史観(上記の
③の見解に近い)に分類している。細谷雄一『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社刊、
2001 年)7~13 頁。
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以上の 2 つの理由により、本論において英国の役割を論じるものである。
論点としては、西欧の大国である英国が、ソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連と略)
からの脅威に対応するためにアメリカ合衆国(以下米国と略)を西欧の安全保障体制に関 与させる事4、過去の歴史から警戒感のある再軍備した西ドイツを西欧の体制に組み込む 事5、などの諸問題に対してどの様な対応をしたのかである。
従来西ドイツ再軍備の研究では、1950 年から 1955 年までの期間を対象にしていた6。 しかし筆者は、第2次大戦後の英外交の特徴の1つに「力に基づく交渉」があり、それは 欧州での安全保障の確立であった。従って、1950年以降重要な要因となる西ドイツ政府 や北大西洋条約機構(NATO)などの成立過程を検証することは重要であると考えて、研究 の対象期間を1948年から1954年末までとした。
そもそもドイツ問題とは、過去の歴史(2度の世界大戦の原因)やその地政学的な位置 と、1989年の冷戦終結の際にベルリンの壁の崩壊がその象徴になったことが示すように、
欧州国際政治史では極めて重要な位置を占めていた。第2次大戦後のドイツ問題とは、連 合国との講和問題であり、ドイツはポツダム協定7に基づいて英国、米国、フランス共和 国(以下仏に略)、ソ連により分割され、いずれは統一ドイツ中央政府をめざすことにな っていた8。これは、大戦中の英米ソによる大国間協調で、平和裏にこの問題を解決でき
4 ゲイル・ルンデシュタットは「招待された帝国」と表現している。 Geir Lundestad, The United States and Western Europe since1945, (Oxford University Press, 2003).pp27-62.
5 岩間陽子氏は、ソ連の脅威に対抗しつつドイツの脅威を防ぐという「2重の封じ込め」と表 現している。岩間陽子『ドイツ再軍備』(中央公論社、1993年)85頁。
6 例えば、Saki Dockrill, Britain’s Policy for West German Rearmament 1950-1955, (Cambridge University Press, 1991), Spencer Mawby, Containing Germany – Britain and the Arming of the Federal Republic , (PALGRAVE, 1999)
7 ポツダム協定でドイツに関する主な内容は以下の事柄であった。ドイツの民主化、非ナ チ化、武装解除、非軍事化、ドイツ政府の再建は当分延期され連合国管理委員会(英米 仏ソにより構成)がドイツを統治、ドイツの国の中央行政省の設立、占領期間中はドイ ツは単一の経済単位として扱われる事、ソ連の賠償はソ連の占領地区から、及びドイツ の適当な外国資産の撤去物で支払われ、英米の賠償は西側占領地区から支払われる事、
等であった。ゲルト・レッシンク著、佐瀬昌盛訳『ヤルタからポツダムへー戦後世界の 出発点』(南窓社、1971年)187-191頁。
8 ラック(R. C. Raack)は、冷戦崩壊後の旧ソ連の資料を用いて戦後のドイツに対するスタ ーリンの政策を研究した。ラックによれば、ヤルタ会談後の1945年5月にスターリン自 身が主張したドイツ解体政策を変更し、対ドイツ戦に勝利したその日にスターリンは公 にドイツの解体計画を否定した。そして、スターリンはドイツの解体を望んだのは、ソ連 ではなく西側であるとモロトフやジダーノフの前でこの主張を述べて、ソ連の影響下に ある統一ドイツの再建を望むようになった。そのためには、2つのドイツ国家を樹立し て、ドイツ共産党単独あるいは、ドイツ社会民主党と共同してソ連の影響下にある統一を 達成するとした。さらに、同年 6 月 4 日に詳細なドイツ分割への指示を出し、ソ連軍が既
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るという極めて楽観的な見解に基づいていた。さらにこの新しいドイツ中央政府の設立 については、ポツダム協定により、欧州での戦後処理を決める外相理事会において決めら れることになっていた。
しかし他の議題は大国間協調で解決できたが、ドイツ問題については難航し、1947年 12 月のロンドンでの外相理事会で英米仏とソ連が対立して、ついに決裂に至ったのであ る。
このドイツ問題については、すでに戦時中から英国はその対応を考慮していた。1944年 英財務大臣は、安全保障の観点からドイツを解体して、その経済的潜在能力を破壊するの ではなく、ドイツを出来るだけ早く自給自足が出来るようにするために、その経済的潜在 能力を使う事を提案した。これは、占領費の削減になり、ドイツ経済を欧州復興のために 使う事もでき、貧困や経済的苦境を減らす唯一の方法であり、欧州の安全保障にも役立つ と考えた。この提案は事実上のドイツの分割を意味していた。
一方1944年9月までに英参謀本部は、別の理由でドイツの分割を考えていた。それは、
ドイツを分割すれば2重の利点、つまりドイツの再軍備と新たな攻撃への防御となる事、
次に恐らく敵となるソ連に対する安全保障となると主張した。これはドイツを分割すれば、
英国に対してソ連と同盟する統一ドイツの可能性をなくし、敵となるソ連への安全保障に もなるという長期的な戦略的利点となると考えたからであった。
しかし、英外務省の見解は異なっていた。当時のアンソニー・イーデン(Anthony Eden) 外相はこれらの考えは危険であり、ドイツの処理では連合国の団結を最優先に考えていた。
従って、当面はソ連との協力を継続することを優先し、1945 年 3 月にはドイツの分割案 をやめたのである9。
しかし、1946年になると2月のヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)演説、3月のウイン ストン・チャーチル(Winston Churchill)によるフルトンでの「鉄のカーテン演説」、そして フランク・ロバーツ(Frank Roberts)からのソ連に関する報告、等々を英政府は考慮してド
に占領したドイツ地域を確保するとしたと主張している。R. C. Raack, “Stalin Plans His Post-War Germany”, Journal ofContemporary History, vol.28 (1993), pp.53-74.
9 Josef Foschepoth, “British Interest in the Division of Germany after the Second World War”, Journal of Contemporary History, vol.21 (1986), pp.293-295. フォシェポスによれ ば、英が3月にドイツ分割の考えをやめたのはソ連からの働きかけであった。1945年3月 26日にソ連大使よりイーデンに対してドイツ解体は3カ国への義務ではなく、将来のドイ ツからの攻撃を防ぐことを十分に保障しない場合の他の対策への可能性を示しているもの であるというヤルタ協定の解釈をイーデンに伝えた。
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イツに対する政策決定をしなければならなくなったが、様々な議論が英外務省の関係者の 間で行われ、ドイツ分割も公然と議論されるようになった。
このような情勢を考慮して、アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)英外相は1946年5月 3 日に閣議に「ドイツに対する政策」という題名の覚書を提案した。これは、戦後に長期 的なドイツへの政策の見通しを書いた最初のものであり、また欧州でソ連を封じ込める政 策でもあった10。この提案でベヴィンは、4カ国の協力による単一の経済としてドイツを統 治するポツダム方式を放棄し、安全保障の観点からドイツが共産主義の西側への拡大をと めるために永久に分割されなければならない可能性を提案した。しかし、世論を考慮して ポツダム方式を正式に放棄することはできなかったが、この提案がソ連を欧州で封じ込め る政策の源となったのである。このベヴィン提案の西欧選択は、1946 年 7 月のパリでの 外相理事会で米国務長官ジェームス・バーンズ(James Byrnes)によるドイツの英米経済統 合地区設立の提案で示された。これは、ジョージ・マーシャル米国務長官(George Marshall) とベヴィンとのパリでの会談で、ベヴィンによる英地区を独自に組織するという主張に対 する対応であった。これがドイツ分割への具体的な最初のステップとなったのである。
その後、ドイツ問題について外相理事会は迷走し、ベヴィンは、1947年2月27日に「ベ ヴィン・プラン」と言われるドイツに関する政策についての覚書11を英閣議に提出した。
その内容の概略は以下のようなものであった。
まず、政治的戦略としては、ドイツの強力な中央集権化された政府の再生を防ぐことで あった。英国の将来の安全保障と健全なドイツでの民主主義の発展のために、英国は連邦 制の育成を支援し,その下で実質的な権力を州政府に移譲することを望んだ。
次に、経済的戦略として、合意されたドイツの産業の生産水準を高く設定するように修 正することを求めた。ただし、世界平和への脅威となるドイツの再生を防ぐ必要性があり、
10 CAB129/ 8 , C. P. (46) 186, 3 May 1946. ここでベヴィンは、ポツダム方式が中心となる 4カ国間での協調がうまくいかず、占領地区を管理する国の責任がほぼ独立化している各地 区で増加しているので、成功していないと述べた。そして西欧政策(友好的な西欧諸国に よる西ドイツ国家の設立を目指す政策)の選択は、永久的なドイツ分割が予想され、ドイ ツはもちろん欧州でも大きな影響を受ける事を意味した。ソ連地区やベルリン、東欧は、
ソ連の勢力圏内になり、鉄のカーテンが永久に降ろされ、異なった通貨や国籍、多分最終 的には西ドイツの軍隊の設立も意味した。この政策に対するソ連の対応は、国連では上手 くいかない。フランスの支持を得る事が重要になる。一方西欧政策は、西側にとってより 重要な固い決意を示すものであり、共産主義を封じ込めソ連の影響と膨張主義という2重 の脅威を防ぐ意図を示すことになる。ドイツ人の大多数は、もし産業水準と倍賞の廃棄と を一緒に行えば歓迎すると分析したのであった。
11 CAB129/17 , C. P. (47) 68, 27 February 1947.
8
ドイツの自給自足できる程度に経済を回復させる必要性と釣り合いを取る必要があった。
このベヴィン・プランは、ドイツの将来の経済的、政治的統合に厳しい条件を付けたも のであり、ソ連がこの案で示されたドイツの連邦制と産業生産水準の引き上げを受け入れ ることは考えらなかった。従って、この時に英国はドイツ分割に向けて外交政策の舵を明 確に切ったのである12。
以上1948年に至るまでの経過を簡潔に述べた。これ以降このドイツ問題には、欧州統 合、冷戦、過去の歴史から生じたドイツに対する警戒感、等々の重要な要因が複雑に絡み 合う国際政治の展開となった。
1948 年から1955 年までの英外交の目標は、当初米ソと対等な「第3勢力」構想を目 指したが、1948年のチェコスロバキア政変や第1次ベルリン封鎖などでソ連からの軍事 的な脅威を感じて変更を余儀なくされ、西欧の安全保障体制に米国の支援を得て、ソ連の 脅威に対抗することを目指した。そして、1949年以降は、方針転換をして、米国と協調 した大西洋同盟を英外交の目標にした。
さらに、冷戦の激化と共に、西欧体制へ西ドイツを組み入れて、仏など隣国への西ドイ ツの軍事的脅威を防いで、ソ連の脅威に対応しようとしたのである。換言すれば、英国は、
どのようにして西ドイツを復興させ再軍備を可能にするのか?どのようにして再び西ド イツが覇権国家となることを防ぐのか?どのようにしてソ連の影響力を排除するのか?
どのようにして、米国を欧州に関与させ続けるのか?だれが西ドイツを守るのか?など の問題に答えることであった。これらの諸問題への英国の解答は、西ドイツを西欧のシス テムに組み込んで、そのシステムを米国が支援することであり、そのために英国が主導権 を発揮することであった。このために、英国にとっては、米国との関係(大西洋同盟)が 最優先事項となったのである。
本論において、この西ドイツ再軍備をめぐる国際政治の展開の中で、英外交が前述した 目標達成のためにどのような行動をしたのかを解明するものとする。
2
筆者の対象とする期間より少し前の冷戦初期(1945-1947)における英国の役割を研究し たものにアン・デイトン(Anne Deighton)の研究がある。デイトンの研究は、冷戦をポスト
12 アン・デイトンによれば、このベヴィン・プランの効果は明らかにドイツを西欧の利益 のために分割し、その責任をソ連に負わせることであったと指摘している。Anne.
Deighton, op. cit., p.124.
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修正主義の観点からおこなったものであり、ドイツ問題を英米仏ソの協調で解決するのは 不可能な平和の夢であると論じ、実際には英国がドイツ分割と欧州でのソ連の膨張主義を 封じ込める西欧戦略を主導したと主張している13。
筆者とほぼ同じテーマを扱った先行研究としては、サキ・ドクリル(Saki Dockrill)の研 究がある14。彼女は 1950 年から 55 年までの英国政策の矛盾やジレンマを検証して、従来 の説とは逆に英国は常に西ドイツの再軍備に対しては消極的だったと論じている。さらに 西欧に対する英国の態度は、伝統的な大陸への関与に反対することから脱却したのではな くむしろ英国が同盟国を説得して英国のイーデン(Anthony Eden)外相が提案した NATO に より管理された西ドイツ軍という考えを受け入れさせたとドクリル氏は主張している。
スペンサー・モ-ビー(Spencer Mawby)の研究15も筆者とほぼ同じテーマである。 彼 は西ドイツが NATO に組み込まれるまでの西独の再軍備への英政策の根本的な再評価を行 った。また、欧州統合、英ソ関係、英米の特別な関係,などへ態度について検証し、英政策 を英独関係、米国による西ドイツ貢献の要求、ソ連の反感を買うことへの英の懸念、等々 の文脈の中で解明している。さらに独統一についてソ連との妥協を図りたい英の意思、大 陸への関与を減らしたい英軍部の願望、欧州軍へのイーデンの熱意、などを明らかにして いる。結論として英国の政策はこの再軍備問題に対しては長期的戦略に基づくものではな く、暫定的な対応であったと主張している。
13 Anne. Deighton, The Impossible Peace, (Oxford University Press, 1993), 別の冷戦初期 における英国主導の研究としてAnne Deighton (ed), Britain and the First Cold War
(London : Macmillan, 1990). この研究以外に冷戦初期における英国の役割を検証したもの として以下の研究がある。Victor Rothwell, Britain and the Cold War 1941-1947
(London : Jonathan Cape, 1982).この研究では、1941-47年までのソ連との対決以前の欧州 国際政治における英国の役割を分析し戦時中には対ドイツ戦への英政府内の悲観論からソ 連との同盟を求めたと指摘し、戦後のベヴィン外相の英ソ関係の関係に務めた点を評価し ている。David Reynolds (ed), The origins of the cold war in Europe (London : New
Haven, 1994). この研究では、英国が仏と戦後の欧州の将来構想を決定し戦後直後の英国の
重要な役割を主張してる。Ritchie Ovendale (ed), The Foreign policy of the British Labour Governments 1945-1951 (Leicester University Press, 1984)この研究では、英国が 戦後復興した欧州で指導的役割を果たし、膨張主義を続けるソ連と対決するために米国と 協調したと主張している。一方、Carolyn W. Eisenberg, Drawing the line (Cambridge
University Press, 1996). の研究ではドイツ分割での米国主導の役割を主張している。この
研究と同じくドイツ分割での米国の主導を主張した研究には、安野正明氏の研究がある。
石井修編『1940年代ヨーロッパの政治と冷戦』第7章ドイツ分断の決定(ミネルヴァ書 房、1992年)287-315頁。
14 Saki Dockrill, Britain’s Policy for West German Rearmament 1950-1955, (Cambridge University Press, 1991)
15 Spencer Mawby, Containing Germany – Britain and the Arming of the Federal Republic , (PALGRAVE, 1999)
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ゲイル・ルンデンシュタット(Geir Lundestad)の研究は米国が 1945 年以降英仏など の西欧諸国によってヨーロッパに招待された帝国であると主張している16。その理由と して、まず西欧は経済援助を必要としそれが出来るのは米国だけであったこと、次に西 欧諸国の大半の政府は米国の援助を得て自国の力を強化することを願ったこと、最後 にソ連の共産主義の膨張から自国を守るために出来るだけ多くの軍事的支援と強力な 軍事的保障を望んだこと、等々を指摘している。
国内では、この西ドイツ再軍備での英国の役割に関する研究では、筆者と同じ研究テ ーマを扱ったものはない。しかしほぼ同じ研究をしたものがいくつかある。第2次大戦 後の国際秩序を英国が、どのように構想して構築したのか、そして誰がどのような過程で それらを形成したのか,などを検証した細谷氏の研究がある17。 同氏は、とりわけ外交交 渉の現場やその背後での国際秩序形成のための過程を重視して検証している。さらに、
別の研究18で英外相イーデンの視点から 1930 年代から 1950 年代のほぼ半ばまでを考察し、
筆者に多くの示唆を与えた。
1940 年代の国際政治史を冷戦との関係で検証したものに石井修氏の編集した研究論集 がある19。この研究では、第2次大戦後のヨーロッパ諸国の国際秩序形成と、その過程にお いて冷戦が各諸国の国内体制にどのような影響を与えたのかを研究している。ただし,章 によっては1次史料をあまり使用しておらず、客観性に欠ける点を指摘できる。
以上、先行研究から明らかになったように、どの研究も各国における 1 次史料公開後の 研究であり、豊富な1次史料を駆使して政策過程における国内要因を分析している特徴を 指摘できる。従って、本論においてもこのような研究動向をふまえ、英国の外交政策決定 過程における英政府内の動向の解明を、主に英国内閣議事録、英外交文書等の1次史料を 使用して、実証的アプローチで検証していく。検証の対象は主に英政府の政策決定者集団 に限定し、彼らがどのように当時の国際関係を認識して政策を形成し遂行したのかを解明 するものとする。
16 Geir Lundestad, The United States and Western Europe since 1945, (Oxford University Press, 2003)
17 細谷雄一『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、2001年)
18 細谷雄一『外交による平和』(有斐閣、2005年)
19 石井修編『1940年代ヨーロッパの政治と冷戦』(ミネルヴァ書房、1992年)
11 3
本論の構成として、第 1 章では 1947 年 12 月のロンドン外相理事会が決裂後から 1949 年 9 月の西ドイツ政府の樹立に至るまでの過程における英国の役割を論じる。
1947 年 12 月のロンドン外相理事会が決裂した結果、大戦後曲がりなりにも継続して いた英米仏ソによる大国間協調体制が終わり、ソ連と西側陣営との対立が明確になった。
欧州では、ドイツの分割が明確になり、欧州が分断され、冷戦の開始が明確になった。
この国際情勢下で、英国は 1948 年の始めに米ソから自立した「第 3 勢力」となる西欧同 盟構想を閣議で承認し、この実現を目指した。これが 3 月に英、仏、ネーデルラント王 国(以下オランダと略)、ベルギー王国(以下ベルギーと略)、ルクセンブルク大公国(以 下ルクセンブルグと略)、などの国々と締結したブリュッセル条約という形で実現した。
また、1948 年 2 月英米仏がロンドンでベネルックス3カ国と外相会議を開催し、事実 上の西ドイツ政府設立を認めるロンドン計画を決定し、1949 年 9 月に西ドイツ政府が樹 立された。
一方同時並行的に英国は、1947 年末のロンドンでの外相理事会決裂でソ連との対決が 表面化することをすでに想定し、欧州での集団安全保障システムを考慮していた。1948 年 2 月のチェコスロバキア共和国(以下チェコスロバキアと略)での政変やノルウェー 王国(以下ノルウエーへと略)へのソ連の圧力などを深刻に受け止め、3月にまず英米 とカナダの駐米大使がワシントンの国防総省で極秘に会談し、ソ連に対する集団的自衛 権を協議した。この結果、北大西洋地域における地域的安全保障機構20の設立を提案し た。その後関係諸国と協議を重ね、1949 年 4 月の西側 12 か国が参加する北大西洋条約 (NATO)が締結された。
また 1948 年 4 月から、ソ連は西ベルリンへの陸路を、そして 6 月からは海路をも封 鎖したが、西側諸国による空路での大規模な補給で効果がなく、1949 年 5 月で解除され た。
さらに 1949 年 8 月ソ連が核実験に成功した。これらの出来事は、西側諸国に一層ソ連 に対する脅威を実感させることになった。本章では、この間の過程を詳細に検証して、英 国の外交を解明する。
第2章では、西ドイツ再軍備に対する英外交戦略(1950-1954 年)を考察する。この期間
20 猪口孝、田中明彦、恒川恵市、薬師寺泰蔵、山内昌之(編)、『国際政治学辞典』(2005 年、弘文堂)718頁。
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は安全保障をめぐってさまざまな論争があった時期であった。そもそも英国にとって、ド イツの再軍備問題に対して、仏とは程度こそ異なるが再武装したドイツへの懸念が以前 から存在していた。すでに1944年に英軍部は戦後に英国の脅威となる国として復興した ドイツとソ連を挙げていた21。また、1946 年には英参謀本部は、ソ連が復興したドイツ よりも危険であり、最悪のシナリオはソ連に支配されている復興したドイツであるとし た22。1948年以降、冷戦の激化と共に、仏を除いた英国を中心とする西欧諸国は、西ドイ ツを西欧防衛に引き入れることを考え始めたが、ベヴィンは 1948 年12月22 日の閣議 で、西ドイツと西欧諸国との間で将来の防衛貢献について決定することは、時期尚早と結 論を出していた23。
しかし、1949年8月のソ連の原爆実験の成功による米の核抑止力の低下、同年9月の 西ドイツ政府の成立、同年10月のドイツ民主共和国(以下東ドイツと略)政府と中華人 民共和国(以下中国と略)の成立、などの国際情勢の変化により、1950年春に英参謀本 部は西欧防衛の戦略の見直しをして、英国の防衛優先順位を中東から西欧にシフトする ことを提案した24。このように英国は西ドイツ再軍備について、国際情勢の変化に対応し た戦略を再構築した。
また、他の西側諸国も西ドイツ再軍備には関心があった。朝鮮戦争勃発前の1950年5 月にロンドンで英米仏の外相が集まって、初めて公式に西ドイツの再軍備を議論した。英 米は議論を進めることには賛成であったが、仏は復活する西ドイツを極端に懸念し反対 であった。
ところが1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、事態は急変することになった。というの も、米国はその影響が欧州に波及することを懸念し、1950年9月のニューヨークでの NATO理事会で西独の再軍備を提案した。この提案は、シングル・パッケージと言わ れ、米国の提案が承認されれば、欧州での駐留米軍の増強することを意味し、逆に西欧が 拒否すれば米国は欧州から撤退することを意味していた25。米国の最大の懸念は、西ドイ ツが「力の空白」状態となっていることであった。この提案に対する英仏の対応は、強い
21 Victor Rothwell, Britain and the Cold War 1941-1947, (London, 1982) p.119.
22 CAB129/9, C. P. (46)186. 3rd May 1946.
23 CAB128/13, C. M. (4), 22nd December 1948.
24 DEFE 6/12, JP (50)22.
25 詳細はForeign Relations of the United States, 1950, Vol.Ⅲ, (Washington, D,C,:
USGPO,1977) pp.273-278. 以下、FRUS 1950, Vol.Ⅲと略
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反独感情のため消極的であった。英国は、西ドイツの10万人規模の武装警察をこの9月 のニューヨークでのNATO理事会で提案したのであった。
一方、英国よりも強い反独感情を持つ仏は、同年10月ルネ・プレヴァン(René Pleven)仏首相が超国家的な「欧州軍」の枠内でドイツ再軍備を遂行するヨーロッパ防衛 共同計画(EDC条約)を提案した。この構想に対して、米国も当初は反対であったが、そ の後スポフオード・プランを支持した。英国も当初はこの構想の超国家的性格を嫌い懐疑 的であり、代案としてベヴィンは大西洋連合軍を考えたが閣僚に支持されず、スポフオー ド・プランを支持するようになった26。このような国際情勢の展開で1950年12月仏も スポフオード・プランに同意した。
1952 年 5 月に渋る仏を英米で説得して、EDC 条約が6か国(仏、西独、伊、ベルギ ー、オランダ、ルクセンブルグ)により調印された。前日には西ドイツの主権回復を実現 するボン条約(ドイツ条約)も調印されていた。これは、EDC条約が発効した時に同時 にボン条約が発効することを意味していた。従って、西ドイツの主権回復と再軍備の管理 が一体となっていることが明らかであった27。しかし、この EDC 条約は、結局1954年 8月に仏の議会で批准を拒否されてしまった。これは、米国と西ドイツの西欧の安全保障 体制からの離脱となる可能性を意味した。というのも、すでにジョン・フォスター・ダレ ス(John Foster Dulles)国務長官から、仏がEDC条約を拒否するならば、米は欧州大 陸から駐留米軍の撤退を暗に示唆することを伝えられていたので、何としてでも仏が受 けいれるような対応を考えなければならない事態となった。
一方、このような西側諸国の動向は、ソ連にとって安全保障の観点から決して望ましい ものではなかった。それ故、1952年3月 10日ソ連から突然ドイツ統一中立化構想であ る「スターリン・ノート」が提案され、西欧諸国とりわけドイツ国民は、EDC条約によ り西ドイツの西欧への統合か、それとも「スターリン・ノート」構想のドイツ中立化によ る統一か、一時的に選択することを迫られたのである28。結局この提案は、西側諸国によ り拒否された。以上本章では、朝鮮戦争が欧州に与えた影響、EDC条約、「スターリン・
ノート」、などの問題を中心にして、その間の経過と英国の態度を考察する。
第3章では、ドイツ分割の固定化に至る過程を論じる。1954 年から 1954 年末までの期
26 益田実著、『戦後イギリス外交と対ヨーロッパ政策』、(ミネルバ書房、2008年)80-81頁 と 90-92頁を参照。
27 細谷雄一著、『外交による平和』、(有斐閣、2005年)119頁を参考にした。
28 清水聡著、『東ドイツと「冷戦の起源」1949~1955年』、(法律文化社、2015年)6頁。
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間は、EDC条約の批准をイーデン外相が中心になって強力に推進したが、仏議会により 否決された。この推進から破綻し、その後の問題をめぐる外交上の駆け引きの時期でもあ った。ここで問題を解決するために手腕を発揮したのは、英国のイーデン外相であった。
彼はあらかじめEDC条約が承認されない場合の方策を考えており、対応策を1954 年9 月のロンドンでの9か国会談で提案をし、仏を納得させてこの会議を成功させた。
仏にとって大切なのは、西欧同盟(WEFこれはパリ協定によりブリュッセル条約から 変わった)に西ドイツ軍隊を組み入れて監視でき、さらに仏の要請に応じて西ドイツ駐留 の英軍を増強できることであった。続いて同年10月のパリ協定で、西独と伊のNATO加 盟が承認された。仏政府もこのイーデンの提案に賛成し、1954 年 12 月の仏の国民議会 でこの提案は承認され、ようやく西ドイツの再軍備が実現した29。このようにして、イー デンは西独を西側の統合体制に組み込む戦略を成功させた。以上、本章ではイーデンを中 心として英国がどのような構想からこの戦略を考案し遂行したのかを考察する。
結章では、以上の検証を踏めて、本論をまとめるものとする。
29 渡邊啓貴(編, 『前掲書』、(有斐閣アルマ、2007 年)109-111頁。
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第1章 1947 年 12 月末から 1949 年 9 月の西ドイツ政府樹立への英外交
この章では1947年12月のロンドン外相理事会が決裂後から1949年9月の西ドイツ 政府の樹立に至るまでの過程における英国の役割を論じる。
1947年12月のロンドン外相理事会が決裂した結果、大戦後曲がりなりにも継続して いた英米仏ソによる大国間協調体制が終わり、ソ連と西側陣営との対立が明確になった。
欧州では、ドイツの分割が明確になり、欧州が分断され、冷戦の開始が明確になった。
この国際情勢の中で、英国は1948年の始めに米ソから自立した「第3勢力」となる西 欧同盟構想を閣議で承認し、この構想の実現を目指した。これが3月に英、仏、オラン ダ、ベルギー、ルクセンブルグの国々と締結したブリュッセル条約という形で実現した。
また、1948年2月に英米仏が、ロンドンでベネルックス3カ国と外相会議を開催し、事 実上の西ドイツ政府設立を認めるロンドン計画を決定し、1949 年 9 月に西ドイツ政府 が樹立された。
一方、同時並行的に英国は、1947年末のロンドンでの外相理事会決裂の結果、ソ連と の対決が表面化することをすでに想定し、欧州での集団安全保障システムを考慮してい た。1948 年 2 月のチェコスロバキアでの政変やノルウエーへのソ連の圧力などを深刻 に受け止め、同年3月、まず英米加の駐米大使がワシントンの国防総省で極秘に会談し、
ソ連に対する集団安全保障を協議した。この結果、北大西洋地域における地域的安全保 障機構1の設立を提案するようになった。その後関係諸国と協議を重ね、1949年4月に 西側 12 か国が参加する北大西洋条約(NATO)が締結されたのである。また 1948 年 4 月か ら、ソ連は西ベルリンへの陸路を、そして 6 月からは海路をも封鎖したが、西側諸国に よる空路での大規模な補給で効果がなく、1949 年 5 月で解除した。さらに 1949 年 8 月 には、ソ連が核実験に成功した。これらの出来事は、西側諸国に一層ソ連への脅威を実 感させることとなったのである。本章では、この間の過程を詳細に検証して、英外交の 目的を解明する。
第1節 西ドイツ政府樹立
1947年末のロンドン外相理事会決裂後のべヴィン外交
英外務省では、1947年11月5日にドイツの暫定的政治組織の形態と範囲に関しての
1 猪口孝、田中明彦、恒川恵市、薬師寺泰蔵、山内昌之(編)、「国際政治学辞典」(2005 年、弘文堂)718頁。
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研究をおこなっており、全ドイツの統一と同様にドイツの西側地区での英米仏3カ国の統 合も研究対象とする考えがあった2。さらに外相理事会の決裂を予想し、12月10日に覚 書でその際の対策を示していた。すなわち決裂後の具体的なシナリオとして、ドイツの英 米仏占領地区を合併して西ドイツを形成する事であった。
しかし、仏外務省はこのような計画により西側同盟諸国とソ連との関係悪化を懸念 し、対ドイツだけでなく西欧が関与する紛争の際の安全保障の必要性を主張した。この問 題に対して、英外務省はドイツの西側地区で非武装、非軍事化のためバーンズ前米国務長 官の草案3を適用することを解決策とした。この政策の利点として、仏の主張したソ連か らの脅威への懸念の払しょくだけでなく、米国を欧州に関与させ西側ドイツ占領地区の非 武装化を保障する事、現在ドイツについてはソ連を含む4か国での占領なので、世論を考 慮するとソ連がいつでも加盟出来るような形式の草案を作成して、ソ連を対象にした3か 国条約を避けられる事、などであった4。
ベヴィン英外相は、決裂後の対策を述べたこの覚書を12月15日の閣議に提出した。こ こで、ベヴィンは、現在の会議(ロンドン外相理事会)で占領国間での基本的相違、すな わちソ連との対立が続き解決する可能性がない事を明らかにした。そして、決裂した場合 のことを想定しなければならないとして、前述した12月10日の覚書を提案した5。これ を受けて閣議で検討し、外相の要求通りにその権限を与える事を承認した。6この15日の 閣議決定で、英国は西ドイツ政府の形成を決断し、それに向けてのプロセスを具体的に模 索することになった。換言すれば、ドイツ分割、欧州分断の決定であった。
閣議で賛成を得たベヴィンは、12月16日から3日間英外務省内でドイツ政策について
2 FO371/70572, 5th November 1947, Future Political Organisation of Germany.
13th January, 1948.
3 このバーンズ国務長官のドイツ非軍事化の提案は、1946年4月29日バーンズが事前に 英国と相談なしに外相理事会で行われ、否決された。バーンズは、すでに1945年9月に英 米仏ソにドイツの25年間の非武装化を保障する条約の草案を提案した。Foreign Relations of the United States 1946, Vol.Ⅱ, (Washington, D.C: USGPO, 1970) pp.83. 以下FRUS
1946 ,vol.Ⅱと略。この非武装化に関して1945年2月にバーンズがスターリンと会談し
た際に草案を示し、歓迎する印象を得ていた。具体的には①英米仏ソはドイツの完全非武 装の措置をとる。②ドイツの4か国管理委員会は、再軍備が秘密裏に行われていないこと を確かめるために、常に査察する権限をもち、将来のドイツ政府が条約の本条項に違反し た場合には、4か国は直ちに武力で干渉する。③この条約の有効期間は25年として、これ を更新することができる。以上の内容であった。John Lewis Gaddis, The United States and the Origins of the Cold War, 1941-1947, (New York, 1972) pp.328-329.
4 CAB129/22, C.P. (47) 326, 10th December, 1947.
5 CAB129/19, C.P.(47)326, 10 December 1947.
6CAB128/10, C.M. (47) 95. 15 December 1947.
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再検討を行った。ベヴィンは、西側地区の経済成長への必要性を強調し、即時の改善策を 求めた。これに対して、ドイツの連合軍管理委員会経済顧問のセシル・ワイアー卿(Sir C.
Weir)は、べヴィンの意見を支持し、マーシャル・プランのおかげでバランスの取れた経済 が5年で達成できると述べた。
その後の議論で、現在取り組んで解決されなければならないドイツに関連する3つの問 題点が指摘された。それは①ドイツの西側地区で産業生産を即時に向上させる方法、②ド イツの西側地区での暫定政府の樹立に関してどのような制度が米国と早期の取り決めには 可能か?③仏がドイツの経済統合地区への参加の場合には、仏の安全保障の必要性を満た す方策を模索する事、などであった。7 このように英外務省はドイツ分断が今や明確とな り、もはや西ドイツ政府の樹立は避けて通れないと認識し、それへの対応を検討し始めた。
さらに、17 日にマーシャル米国務長官とベヴィンは、ドイツへの今後の対応を協議し、
ドイツ占領4か国地区での通貨改革をマーシャルが提案して、ベヴィンは賛成した。ただ し、ソ連が参加することには、ベヴィンは懐疑的であった。
翌日ドイツ米占領地区軍政長官のクレイ将軍(General Clay)とドイツ英占領地区軍政長 官のブライアン・ロバートソン (Brian Robertson)将軍との会談で、ドイツ占領地区の西 側3か国(英米仏)で経済的だけでなく政治的な統合(西ドイツ政府の樹立)を目指すこ とで合意した8。つまりこの時点で英米両国が西ドイツ政府樹立へと向かう事になったこと を意味した。
もう1つの問題は、仏の扱いであった。具体的にはルール地域と安全保障の問題であっ た。仏はドイツの英米占領地区の共同統治に参加する前に、安全保障の問題だけでなくル ール地域の国際管理で自国に有利な協定を締結することを望んだ。これに対してベヴィン は、安全保障の問題については考慮する必要があると考えたが、ルール地域での仏の経済 的な権益に関しては妥協するつもりはなかった9。そして12 月18 日の会談で、ベルリン に英米仏の代表が集まってこれらの問題について検討することで合意した10。
ところでロンドン外相理事会の決裂は、1947 年12月18日の閣議でベヴィンより報告
7FO371/64250, 16 December, 1947, Record of Meeting held in Secretary of State’s room on Tuesday, December 16th.
8FO371/64250, 17-18 December, 1947, conversations concerning future policy towards Germany between Mr. Bevin and Mr. Marshall on December 17th and 18th 1947.
9Anne. Deighton, The Impossible Peace, (Oxford University Press, 1993)p.217.
10 Foreign Relations of the United States 1947, Vol.Ⅱ, (Washington, D.C:
USGPO,1972) pp.822-827. 以下、FRUS 1947 ,vol.Ⅱと略。
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された。ドイツに関して、ドイツ英米占領地区の経済的統合への新しい取り組みに関する 協定が結ばれ、その地区での英国の実質的な義務的役割が削減された。従ってその地区に は若干のドル負債が残っているが、締結した協定により、米国議会が仏やイタリアに与え ている暫定的支援と同じ額を英国に支援する事となった、とベヴィンより報告され、閣議 は承認した11。これは、占領地区での財政負担に苦しむ英国には良い知らせであった。
次にベヴィンは1948年1月の最初の閣議に、従来から英外務省内で構想されていた新 たな外交政策についての4つの方針を1948年1月8日の閣議に提出した。その中に、「ド イツに対する政策」があった。その内容は、以下のごとくであった。
『ドイツへの政策の指針となる原則は、本当に民主的なドイツの設立を促進する政策で ある。そのために、ドイツ人に、西側地区での自分たちの日常的な事への責任をもたせる べきである。』と述べ、西ドイツの経済については、『生産水準の向上とドイツ人の生活水 準の改善のためあらゆる方策が行われなければならない。これを実現するためには、ドイ ツの西側地区と東側地区及びソ連の衛星国家との間での貿易を増加させる対策が必要とな る。』と主張した。また賠償に関しては、『外相理事会で鉄鋼の生産水準の向上が受け入れ られたので、その計画を実行すべきであり,ソ連に対しても支払うべきである。』と述べた
12。ソ連圏との貿易や賠償については、まだこの時期には世論を考慮して、表面上はソ連 と完全に決裂していない姿勢を示す必要があったから、このような表現になったと思われ る。
この外務省の提案を閣議で議論し、次のような提案が加えられた。すなわち、ドイツ西 側占領地区の当局に対して、ソ連地区との貿易交渉をさらに強力に推進することを要請す るという事であった。これは、西側地区から送られているかなりの量の鉄鋼への見返りと して多くの食料品を東ドイツから獲得出来るからであった13。つまりソ連とはいつでも取 引に応じる姿勢を示すものであった。
1948 年 1 月初めからベルリンに英米仏の代表者が集まり、ロンドンでの英米仏3ヵ国 協議に向けて予備会談を始めた。検討すべき問題は、ドイツの英米占領地区とそこへの仏 の参加問題であった14。
このロンドンでの3か国協議を前に、英米両政府は仏政府への詳細な提案を行う前の意
11 CAB128/10, C.M. (47) 95. 18 December 1947.
12 CAB129/23, C.P. (48) 5, 5 January 1948.
13 CAB128/12, C.M. (48) 2. 8 January 1948.
14 FRUS 1947 ,vol.Ⅱ,pp-827-829.
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見交換を行った。1月26日にべヴィンは、米国務省宛に具体的な会議の議題などの提案を した。彼はこの会議の目的は主要な議題で原則的に合意に達することであり、細かな未解 決の問題は、別の会議をベルリンかロンドンで行なってそこで取り組むことなどと述べた。
主な議題としては、ドイツの英米仏の占領地区の合同(西ドイツの政治的、制度的な構 造を含む)、ドイツへの安全保障、ルールの管理、西ドイツでの政策へのベネルックス諸国 の連携、などであった。これに対して、米国務省は30日の返答で、米政府は、概ねべヴィ ンの提案に賛成であるとした。ただ、ベネルックス諸国を出来るだけ早くロンドンでの会 議に招待して、特に彼らに関心のある事について見解を聞くべきであると述べて、会議の 最初の議題とするべきと主張した。また、技術的な問題は、ベルリンでの別の会議で行う 方が良いと述べた15。
しかしながら、ソ連はこのような西側諸国の動向には不快感を示し、2月13日に英米仏 政府に対して、英米仏政府による3カ国協議はポツダム協定に違反し、ドイツ問題はドイ ツを占領している全ての国の共通の合意によってのみ決められるものであり、ソ連政府は その会議での決定に対して法的に拘束されるとは考えないと抗議した16。
このようなソ連の抗議を受けて、米政府は 2月14日英外務省に連絡をして、最近提案 されている協議が、今回だけで西ドイツの形成を決める正式な会議として考える傾向が増 大していることに多少懸念していると述べた。さらに2 月18日の記者会見でマーシャル 国務長官から3カ国協議は非公式で暫定的なものであり、大使館レベルでの予備的な意見 交換に過ぎず、2 週間以上は行わないし最終的な決定に達する意図もない、などを述べて もらうと述べた。要するに、米政府はこの協議を予備的な性質であり、ドイツの将来の政 策についてベネルックス諸国の見解を検証し、英米仏の見解と調整する貴重な機会を提供 するものと位置づけて、確固とした決定は避けると考えていたのである17。
1948年2月20日マーシャルは、ドイツ問題に関する英米仏によるロンドン協議への指 示を、ルイス・ダグラス(Lewis Douglas)駐英米大使に伝えた。その指示は、ドイツは他の 国と同盟しない限り、近い将来過去のような脅威とはならない事、ドイツのソ連占領地区
(東ドイツ)は政治的にも経済的にも東欧の衛星国と同じ様にソ連の保護下で東欧の経済 システムに適合するように指導されているので、西側諸国は政治的にも経済的にも西ドイ
15 FO371/70576 , Aid Memoire, 26th January 1948 and 30th January 1948.
16 FO371/70577 , Soviet protest at the Tripartite talks, 13th February 1948.
17 Ibid., Three-Power talks on Germany、14th February 1948.
20
ツを西欧に統合する以外に方策はない事、ドイツの統一は望ましいがそのために西側ドイ ツ地区で何もしないことは全体として欧州の経済復興を妨げる事、などであった18。
このようにマーシャルは、ドイツのソ連占領地区の状態を考慮して、ドイツ統一よりも ドイツ分割の方が西側には有利であり、西側占領地区が合同して西ドイツ政府を樹立し、
西欧社会に統合することが重要であると考え、それに向けて主導権を発揮したのである。
第1期ロンドン6カ国協議
1947末のロンドン外相理事会の決裂の結果、ドイツ問題は未解決のままとなった。英米 仏は、ドイツでこの結果生じる緊急の経済的、政治的問題を解決すべき事が必要だと考え て、1948 年2月23日より英米仏は、ドイツ問題についての協議をロンドンで開催した。
この3カ国の共通の見解は、ドイツを含む西欧の経済再建を保障し、民主的なドイツの参 加の基礎を確立する必要性を痛感していた事であった19。
ただし、この協議は、前述したように外相の不参加という非公式な形で行われ、全ての 議題に関して最終的な合意に達しようとはせずに、合意された議題はその関係する政府に 報告され、全体としてドイツ問題に関する最終的な提案は、休会後に会議が再開されるま でそのままにされるという会議の性格であった20。このロンドン6か国会議の第1期は、
1948年2月23日から3月6日までであり、その後休会し、残された懸案事項はベルリン で検討された。
ここで問題となったのは仏の態度であった。本来、仏は英米の要求する西ドイツ政府の 樹立にも、英米占領地区の経済統合に参加することにも反対であった。しかし、1948年に なって英米占領地区の統合が強化され、西ドイツ政府樹立への英米の意向が強くなると仏 は徐々に軟化し条件闘争へと切り替えた。英米統合地区への参加条件として仏は以下の4 点を挙げた。①ザール地方に対する仏の要求が完全に満たされること。②ルール地方は国 際管理の下に置かれ、ドイツ人の関与は形式的なものとされること。また、ルール地方は 無期限に西側連合軍によって占領されること。③19世紀前半のドイツ連邦を範とした国家 連合をドイツの国家形態とし、西側占領地区の諸州を出来るだけ緩やかな連合体として西 ドイツを樹立すること。④安全保障問題として西ドイツを完全に非武装化すること、など
18 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, pp71-73.
19 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, p.142.
20 CAB129/25, C.P. (48) 78, 7 March 1948.
21
であった。このなかで、1947年末までにザール地方をドイツから切り離し、その経済を仏 に併合することは、すでに了解されていた21。従ってそれ以外の問題を検討することがロ ンドンでの6か国協議の議題となったのである。
最初の日直ぐに決定された議題は、①ベネルックス3カ国とドイツに関する政策につい てと連携する事。②占領国下での欧州再建計画と西ドイツとの関係。③欧州経済でのドイ ツ経済の役割とルール地域の管理。④ドイツに対する安全保障。⑤賠償。⑥ドイツの政治 的、経済的組織の進展。⑦暫定的な領土の取り決め。などであった。この決定を受けて、
ベネルックス3カ国がこの会議に 2月26 日から参加する事となった22。ここで注目すべ きは、ソ連の不参加だけでなく、ベネルックス諸国の参加であった。これは、前述したよ うに西ドイツ政府の樹立に対して、ベネルックス諸国の見解を反映するためのものであり、
当時交渉中の「西欧同盟」構想(ブリュッセル条約)と結びついていたことを意味した。
この議題の中で、ドイツに対する安全保障と暫定的な領土の取り決めは、予備会談をや り4月に開催される同じ会議で検討されることになった。他の全ての議題は、この期間で 意見の一致があった。ドイツ各地区での政策と関係しているドイツからの賠償については、
英米仏で議論し、ある程度額を減らし賠償に当てることになっている設備の撤去について も削減することになった。23
占領国下での欧州再建計画と西ドイツとの関係については英米仏で議論し、西欧と民主 的なドイツの政治的、経済的な降伏のためには彼らの密接な連携がなければならないとい う事、3 カ国は西ドイツとの関係で欧州再建計画から生じる全ての問題に西ドイツの各地 区の当局と英米仏との間で緊密な協力が確立される事、英米の経済統合地区と仏地区が欧 州再建計画に十分に連携をする事、などで合意された。
またドイツの英米占領地区と仏占領地区において、政治的、経済的組織の設立の可能性 のある進展についても議論された。各州の権限を十分に尊重し同時に十分な中央の権威を 与える連邦政府の形態が、ドイツ統合の再設立に最善であるという事が合意された。その 上、欧州再建計画と西ドイツの連携を促進するために関係している3カ国(英米仏)間で、
ドイツの 3 つの西側占領地区の経済政策、例えば外国や国内占領地区間での貿易、関税、
人や物の移動の自由、などの問題で出来るだけ多く統合する点でも合意されたのである。
21 石井修編『1940年代ヨーロッパの政治と冷戦』(ミネルヴァ書房、1992年)301 頁。
22 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, p.82. CAB129/25, C.P. (48) 78, 7 March 1948.
23 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, pp.86-87.
22
ベネルックス3カ国とドイツに関する政策についての連携に関しては、ドイツとの講和 条約の準備で連携するこれら諸国の主張が尊重される事で合意された。重要な点は、ベネ ルックス3カ国とドイツ占領国との会談をどのように保障するかという事であった。これ は、占領国(英米仏)が行動する前にベネルックス3カ国と打ち合わせをすることで合意 された。
次に議題にはなかったが、懸案となっているルール地域の管理について議論された。ル ール地域の国際管理は出来るだけ早く、少なくとも暫定的なドイツ政府の設立前に行われ る事で合意され、その目的はこの地域の経済的資源が再び戦争目的のために使われず、ド イツを含む広大な地域である欧州共同体の利益のためにこの地域の石炭、コーク、鉄鋼に 対する十分な取り決めをする事、この合意された提案はこの管理の範囲や形式に関して関 係する政府に提示される事、などが決められた。24
これは「ロンドン計画」と言われ、将来のドイツについて合意されたものであり、実際 には1948年6月4日に正式に公表されるものであった。この計画で重要な事は、ドイツ の西側占領地区で統合した経済政策を実施する事、西ドイツをマーシャル計画に参加させ る事、西ドイツ政府の形態は連邦政府とする事、などであった。なお、将来のドイツ政府 の形態に関する細部の問題、ルール地域の管理、安全保障の問題、などが残っており、ベ ルリンで英米仏の軍政長官が作業グループを設立し、さらに検討することになった25。こ の西ドイツを含めた西欧の経済再建という考え方の背景には、「西ドイツの経済再建は、西 欧の再建に不可欠である」26という見解が英国や米国にあったことを指摘できる。ベヴィ ンは、3月11日の閣議にこのロンドン6か国会議の覚え書27を提出し、承認を得た。28
ところでこのような西側諸国の動きを、ソ連は批判的に見ていた。1948年2月13日 駐米ソ連大使パニュシキン(Panyushkin)は、米国務副長官ロヴァート・ロベット(Robert Lovett)に対して、英米仏による2月19日からロンドンでドイツ問題についての会議の コミュニケが公表されているが、その会議はポツダム協定違反でありドイツ分断となると 非難した29。さらに同月26日にもパニュシキンは、チェコスロバキア、ポーランド、ユ ーゴスラビアなどのナチスにより侵略された国々がプラハの会議で声明を出して、最近の
24 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, p.143.
25 CAB129/25, C.P. (48) 78, 7 March 1948
26 石井修(編)、前掲書、34頁。
27 CAB129/25, C.P. (48) 78, 7 March 1948.
28 CAB128/12, C.M. (48) 21. 11 March 1948.
29 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, pp.338-339. ソ連は同じ内容の文書を英仏各政府にも送付した。
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ドイツに関する出来事(ロンドン6か国会議)は、ヤルタ協定やポツダム協定に違反して いるとの批判を米国に通知した30。そして3月20日に、このロンドン6か国会議とそれ に関するプラハ声明を連合国管理理事会(Allied Control Council)で議論することをソ連は 要求したが、英米仏に拒否され、ソ連の軍政長官ヴァシリー・ロコソフスキー(Vasily
Sokolovsky)が、この連合国管理理事会を脱退する事態となった31。これは、ドイツ占領
の基本方針であった4か国体制の破綻を意味した。
この脱退の影響は早速現れた。翌日3月31日に英軍政長官から英外務省宛ての電報 で、べルリンと西側占領地区との通信や鉄道での往来に厳しい制限が課せられた、との報 告があった32。いわゆるミニ封鎖の開始であった。
このミニ封鎖は、2,3年以内にソ連との戦争が勃発するのではないかという西側の 不安を引き起こし33、第1期ロンドン6か国協議の休会後、ベルリンで英米仏の軍政長官 が中心となっている作業グループにも影響を与えた。この作業グループは、懸案事項に取 り組んでいたが、作業は難航した34。重要な問題(英米統合地区と仏地区との経済協力や 将来の西ドイツ政府の形態)になると、ピエール・ケニッグ (Pierre Koenig)仏軍政長官 は本国政府の指示なくしては決められず、権限外として逃げたのであった35。
しかしこのミニ封鎖後、仏もソ連との戦争を懸念し、仏外務省高官のクーヴ・ド・ミ ュルヴィル(Couve de Murville)が突然クレイ米国軍政長官に会談を申し込み、4月6日か ら3日間会談を行なった。この結果、西ドイツの政治構造に関する議論は好転し36、ロン ドン6か国協議は4月20日に再開された。
第2期ロンドン6カ国協議
しかし、ルール地域問題と安全保障の問題(米軍の駐留問題)は、英米と仏との間で 交渉が難航した。5月21日、業を煮やした米国は、場合によっては英国を説得し英米統 合地区だけで西ドイツ暫定政府の樹立に向けて行動することを本国に報告したほどであっ
30 Ibid., pp.343-344. ソ連は同じ内容の文書を英仏各政府にも送付した。
31 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, pp.883-884.
32 Ibid, No. 6.
33 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, p.169.
34 石井修(編)、前掲書、302頁。
35 FRUS 1948, Vol.Ⅱ, p.158.
36 Ibid, pp.169-170.
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た37。だが、まず安全保障の問題については、やっと5月26日に以下のように合意され た。西ドイツ占領地区に駐留している英米仏の軍隊は長期間継続して駐留する事、特に米 軍は欧州での平和が確保されるまで駐留する事、ドイツ国軍と軍の参謀は禁止、などの内 容であった38。そして翌日にルール地域の問題が、次のように合意された。この地域の石 炭、コーク、鉄鋼などは、英米仏とベネルックス諸国の国際管理下に置かれ、その管理機 関は西ドイツ政府の樹立の前に設立されることで合意された39。あとは、西ドイツの政治 形態の細部の問題であった。
このロンドン6か国協議について、同年5月31日に英閣議に3つの問題点が以下のよ うに報告された。①西ドイツの政治形態(国家形態・憲法)、②ルール地域の国際管理、③ 将来的なドイツからの脅威に対する安全保障の維持、などであった。この問題点の中、② と③は解決されたが、①の件について仏と他の国々と意見が異なり、まだ合意されていな い、とのことであった。
ドイツの3つの西側占領地区で暫定的なドイツ政府の樹立の計画では、合意がすでに なされていた。この計画では、3か国(英米仏)の軍政長官はそれぞれの地区で首席大臣
(the Ministers President)に憲法制定会議の取り組みをさせ、同年年9月1日までにその
会議を招集し、ドイツ国内の現在の州の境界(the present inter-Land boundaries)の再編 を提案することになっていた。そして、この憲法制定会議の設立と州の境界の再編の提案 は関係する地区で投票により決められた。どの政府形態にするのかはドイツ人にゆだねら れるが、事前に占領諸国により承認された最低限必要なものは憲法で保障されることが必 要である、としていた。さらに、最終的には憲法草案はドイツ人の国民投票により決めら れる事になっていた。
ここまでのプロセスには、仏も同意していた。問題は、この提案の時期と憲法制定会 議の設立の方法であった。仏はこれらの提案を秋に行い、憲法制定会議の構成員は州議会 で選出されるべきであり、その選出方法は直接選挙ではない、と主張した。その理由とし て、早期の憲法制定会議の設立はソ連を挑発し、直接選挙で選ばれた団体の設立はドイツ のナショナリズムを刺激する、と考えたからであった。
一方英米は、西ドイツの政治と経済の再編成が早期に行われるべきであると主張した
37 Ibid, pp.268-269.
38 Ibid, pp.291-292.
39 Ibid, pp.285-286.